きまぐれのように吹いた一陣の風がさらさらと通り過ぎていった。軌跡に目をこらそうにも見えないものは見えないので、私は仕方なく視線を戻す。
左手にお茶碗、右手にお箸。隣には博麗霊夢が腰掛けている。空を見上げればひたすら赤く、鳥居には烏がちょこんと乗っているのが目に入る。
昼間はやや汗ばむほどの陽気だったが今はひんやりとしてじつに過ごしやすい。一日の疲れがどっと体を包み込む。
一度澄んだ空気を吸い込んで、私は彼女にこう問うた。
「なんであんたの神社でご飯をご馳走になっているんだ私は? 飯じゃなくて博麗をもらいにきたんだが」
「はいはい。相変わらず元気ねえ、明羅さんは。
ご飯ならいくらでもあげるからさっさと食べなさい。あと分かりづらいから私の事は名前で呼ぶように」
「……人の話を聞かん女だな、相変わらず」
霊夢は、たうぜん、たうぜん、と笑い、自分のそれに手を伸ばす。ご飯粒がきらきらと光って美味しそうだった。
そんな様子を見ていると、こいつは昔から全然変わっていないように思われた。背丈は伸びたけれど本質は変わらぬままだ。
きっと私も自分が思っている程には成長していないのだろう。泥だらけになった服を見てそんなことを思い、溜息をついた。
「言っとくけど、その服のことなら私は悪かないわよ」
弁解する霊夢が可笑しかったので、そうだな、とだけ返した。仰々しい出で立ちをしてはいるが、実際のところ私はあんまり強くない。
スペルカードルールには向いていないとかそういうことじゃなくて、残念ながら実際に弱いのだ。自慢の刀も伝説の一振りでもなんでもないものだ。
容姿のせいで強そうに思われることが多く(実際初対面で何度男と間違えられたことか……)、そのおかげで今まで大した被害も受けず生きてきている。
もともと強くなりたいという意志だけは強かったので博麗の力を求めて目の前にいる間抜け面に勝負を挑んだこともあった。
ぼーっとしている上に、亀に乗らねば空も飛べんような女に負けるはずがないと思っていたのだ。
しかし。私は過去のことを思い出して失笑する。こいつは私を軽く一捻りにしてくれた。あまつさえ、私の話なんて全く聞いていなかった。
私のことなど、眼中になかったのだ。物凄く悔しかった。やつの弛んだノリに合わせてはいたが、本当は歯噛みするほど悔しかった。
だから必死になって剣を振るい続けた。いつかこいつの前に強敵として返り咲くことを目指して、私は今も特訓中である。
こうしてたまに稽古に付き合わせておきながら、返り咲きも何もあったもんじゃないが、とにかくそれが私の目標なのだ。
まあ案の定今回もぼろぼろに負けて、お気に入りの服はずたぼろにされてしまった。霊夢のやつは放っておいてもどんどん強くなっていくのだ。
こいつに際限なんてもんは無い。私がこうして必死で修行を続けていても、実力差を付けられないようにするのが精一杯だ。
挙げ句の果てに霊夢から、あんたちゃんと修行してんのか、と呆れられる始末。
今日も憤慨と共に帰路につこうかと思っていたのだが、そこを何故かこの女に引き留められたのだ。まあ飯でも食っていけ、と。
「そういやあんた、あの亀はどうしたんだあの亀は。なんか数年前から見なくなった気がするぞ」
「さあ? その辺の池で余生を楽しんでるんじゃないかしら」
霊夢はにべもなく言い捨てて茶を一啜りした。ずずず、という心を落ち着ける音が黄昏れの空に溶けていった。
仕方がないので私も湯飲みに口を付けた。疲れた体に熱が伝播していくのを感じる。長い長い溜息をついてから一度だけ頷いた。
「うまいな」
言うと、霊夢は我が事のように喜んで、そうでしょ、と笑った。
「この味出すのに苦労したのよー。してないけど」
「どっちだ、ばかもん」
突っ込むと、霊夢はまたくつくつと笑ってみせた。こんな腑抜けが数多の異変を解決してきたというのだからぞっとしない。
私が黙々と剣を振るっている間、こいつは吸血鬼を倒し亡霊を倒し……なんだか努力が馬鹿馬鹿しくなってきてしまう。
いやなに、だからといって自分に自信がないわけではない。努力は勝つ。いつかはこのお天気娘を倒して、埋めてやろうじゃあないか。
ざわざわとまた風が吹く。髪がそれにあわせて揺れ、少々鬱陶しい。そんなことを考えながら、もう一度お茶碗の中を見やる。
実に美味しそうだ。いますぐにでも箸を突っ込んで、あつあつのご飯を口に含みたい。
しかし私はそれをしない。いや、できなかった。
これに手をつけないのには大きな理由があるのだ。ほかほかのご飯の上に乗っているそれは――
「からし明太子なんて高級品をいきなり出してくるなんて……ばかかあんたは」
霊夢は、だってぇ、と少しむっとした様子で返す。
「紫の馬鹿がたくさん送りつけてきて、腐る前に全部消費したらまたくれてやるって言うんだもん」
それはまあ確かに嫌がらせだと思えなくもない。最近じめじめした日が続いているし、いつ貰ったものか知らんがあっという前に悪くなってしまうことだろう。
「というか、これは腐ってないんだろうな!」
問うと霊夢は当たり前じゃない、と自身の明太子をつつき、口の中に放り込んだ。思わずごくりと喉が鳴る。こいつめ、美味そうに食いやがって……。
海産物はなかなか口にすることができない。何故か塩はたくさん出回っているが、その理由までは私の考えの及ぶ所じゃあない。
問題は、だ。今私がすごくおいしい明太子を食べることができるということだ。
「いや、運が良かったわよ明羅さんは。あとちょっと来るのが遅かったら適当に配って回ろうかなって思ってたし」
「そういう面倒は平気なんだな」
「美味しい物が食べられるんなら、良いじゃない?」
「ま、気持ちは分かる」
正直酒の一つでも呑みたい気分だったがこいつの前で酔っ払うなんてまっぴらごめんだ。
もし私の方が先に酔い潰れでもしたらそれこそ侍の沽券に関わる。巫女にあらゆる面で負ける侍なんて嫌過ぎる。
それに、熱い茶とほかほかのご飯という組み合わせだってなかなかどうして素敵だ。酒に劣るとは思えない。
朱塗りの箸を延ばし、明太子の上部を割く。その時の僅かな抵抗がまた期待をそそる。これは絶対に美味い。
もう何度唾を呑んだか知れない。そのまま白いご飯と一緒に口に運んで、ぱくりと含む。
「……」
ぴりりとした辛さと共に塩辛さに似たものが広がる。咀嚼する度にぷちぷちという感覚が心地よく、またその味はあつあつのご飯に調和し、次の一口を誘引する。
飲み込んだものが胃に収まったときに、私はようやく空腹を意識した。そこから先は早いものである。がつがつむしゃむしゃと飯をかき食らう。
霊夢は気にした様子もなくぼーっと鳥居のあたりを見つめていた。こいつは時々何を考えているのかさっぱり判らん。たぶん何も考えていないんだろう。
とりあえず、私のことを全く意識していないことだけは確かだ。飯は一人静かに食べたい性格なので、これは助かった。
ご馳走になる者の態度ではないが、私は一切霊夢のことを考えることなく、ただただがむしゃらに目の前のご馳走にむしゃぶりついていた。
おかわりは六杯に及んだ。あたりはすっかり真っ暗闇だ。霊夢は良く食べるわねえ、とあきれ返っていたが、食べ物だけは山ほどあるらしく特に苦情らしい苦情を呈すことはなかった。
私もやや腹の具合が落ち着いたので今はこいつと語らいながらのんびりと箸を運んでいる。
「そういえば、このからし明太子ってどうやって作られるか知ってる?」
霊夢がにやりと笑ってそう問うた。表情から推すにこいつは多分知っているのだろう。
私は明太子については珍しく高価な海の幸だという認識しかなかったため、とても興味をそそられた。
「是非聞かせて欲しいな」
正直にそう言うと霊夢は、よかろう、と偉そうにほざいて、仰々しく茶を啜った。まるでじじいみたいだ。
「そうねえ……まずこのからし明太子ってのは見ての通りの卵なのよ。だから当然その卵を産む魚が居るわけ」
霊夢はまずは当たり障りのないことから語り出した。
「名前はすけとうだらって言うそうなんだけど、これがまたなかなか大きい魚なのよ。何せ三尺!」
霊夢は手を大きく広げて三尺をアピールした。
「でもまあ鯉だってたまにそれくらいでかいやつがたまに出るじゃないか」
「鯉なんて大抵二尺じゃない! すけとうだらはみんな三尺なのよ!」
三尺の何がそんなに凄いんだ。少々あきれ返って霊夢を見ると、ほんのり頬が赤い。どうやらこの間抜け、酔っ払っているらしい。
何時の間に用意したのか判らんが、杯が転がっているのが目に入った。
私ががつがつ飯を運んでいる間に、こいつは暮れゆく空でも肴にしてぐびぐび呑んでいたのだろう。
空きっ腹には酔いが回りやすい。呑むにしても一通り腹を膨らませれば良かろうに、ばかなやつだ。それでもまあ嘘は語っていないようなので続きを待つ。
「でもすけとうだらって名前なんだろ? なんでそいつからとれる卵が明太子なんだよ」
質問すると、よくぞ聞いてくれましたっ、と霊夢はばんざいして見せた。すっかり出来上がってしまっているらしい。まあいいか。楽しいし。
それに、やってることは馬鹿っぽいが、色々なことを知っているのは尊敬できる。
「すけとうだらってあっちこっちで名前が変わるのよ。きじだらとかすけそとかね。で、そういう異名の一つにめんたいってのがあるわけ」
なるほどと相づちを打つ。
「めんたいの子だから明太子か」
「ご名答!」
喜怒哀楽の激しいのは昔からだが、見ていて少し羨ましい。
「なんでも明太って表記は異国のものらしいわ。幻想郷に住んでる私たちにはなんか遠い話だけどね」
「確かに遠いなあ。百里くらいかな」
「そんくらいかしらねえ」
うんうんと頷きあった後で、霊夢は説明を再開した。
「明太子のことたらことも言うじゃない? それはすけとうだらがたらだから、たらの子でたらこ、な訳」
「そいつは判るさ」
「……つまんないわね」
ぱくりとまた一つからし明太子を口に放り込んでから霊夢が半眼でこちらを睨む。
ここは演技でも驚いてやった方が良かったらしい。
「でね、やっぱりこのからし明太子、作るのが大変なのよ」
ついに本題に入ったようだ。霊夢は目を閉じて人差し指をぴん、と立ててすらすらと語り出す。
「塩をふりかけて寝かせて、それからまずお酒で洗うの。でもってそのお酒に塩加えて火を加えて、昆布にでも染みこませてその上に明太子を並べるの」
「へえ……驚いたな。酒の味は全然しないんだが。奈良漬けなんかは物凄く酒って感じがするじゃないか?」
聞いて、霊夢は今度は嬉しそうに笑んでみせた。
「明羅さん、明太子と奈良漬けを結びつけるなんて、通ねえ」
「通なのか?」
「ええ。あとでご褒美あげる」
そう言って彼女はにこにこ笑った。やはり基本的にはご機嫌の様子である。いくら押しつけられたとはいえ、高級品の明太子がいくらでも食べられるとなれば私も笑いが止まらない。
「さて、明太子の話に戻るんだけどね。大体二日置いたら今度はついにからしの出番。ぱっぱとまぶして昆布で巻いて……それでまた一日二日置いたらできあがりらしいわ」
私は頷きはしたが、どうにも納得がいかなかった。今食べた明太子はそんな単純で素朴な味ではなかった気がする。表情を見て、霊夢はしょうがないわねえ、と肩をすくめた。
「やっぱり明羅さんには負けるわ。お手上げ。さっきまであなたが食べてたのは、なんでもカガクチョウミリョウとかいう薬に漬けて作った明太子らしいわ。
そっちは漬け込んで作るらしいんだけど、詳しいことは判らないわね。ただ、昆布は使わないんだって。
一段階目で明太子を洗ったお酒に塩を加えて漬けて、二段階目で好みの味の調味液を作って本漬けするらしいわ。
その調味液ってのにカガクチョウミリョウとかいう薬が使われてるって紫が言ってた」
「ふうん。じゃあ色んなところで食べれば味が全然違うんだろうな」
「らしいわ。食べてみたいわねえ」
「そうだなあ」
霊夢の話が終わったところで丁度私と霊夢の茶碗は空になった。腹七分、後少しだけ食べたい気分だ。いや、明太子だらけっていうのもどうかと思うが。
そんなことを考えていると、霊夢のやつはにんまりと笑って立ち上がった。なんだなんだと見上げると、そいつはやはり楽しそうな酔っ払いの顔でこう言った。
「ご褒美あげるって言ったじゃない。ちょっと待っててね」
茶碗を奪い、すたたた、と走り去っていった巫女を私は呆然として見送ることしかできなかった。なんだか振り回されっぱなしの一日であった。
いよいよ月も高くのぼり風も少々肌寒く感じられてきた。なので、ごめんごめんという声が後ろからかかったときは心底安心した。
どうやらお礼というものは食い物らしい。どれどれと覗き込んでみると――
「茶漬けか」
「そう、お茶漬けよ!」
霊夢はふふん、と自慢げに胸を反らした。
「明羅さんは偶然言い当てたのかも知れないけど、お茶漬けって言ったら明太子も奈良漬けも最高に合うじゃない! これはもう最高のお茶漬け間違いなしね!」
そんなどうでも良いことで褒められたらしい。なにか歴史的ルーツがあるものと思っていただけに、肩すかしを食らった気分だ。
「ということで、はいどうぞ!」
また明太子を食えということらしい。まあ飽きんから良いか。私は先程よりもずっと重い茶碗を受け取って溜息をついた。
「なによ、お腹一杯?」
「いいや、まだ食えるさ」
縁側に腰掛け、足をぶらぶらさせる霊夢を見て、やっぱりこいつは変わらんなあ、と思いながら返事をする。
満天の星空だ。月に負けじと輝いている小さな星がなんともいじらしい。
風が吹いた。私はぶるりと体を震わせて、霊夢の言うところの「最高のお茶漬け」をずずずと流し込む。
鳥居にとまっていた烏が飛び去ってしまったのはいったいいつのことだったのだろう。
すべてが静かに停滞しているようなこの不思議な神社にも時は流れていく。
口の中に広がる「最高」の味を楽しみながら、私はそんなことを考えていた。
くいてぇぇぇぇ!!!
ほんわかムードで、いい感じでした。
このヘベレケ霊夢、未だに明羅さんのこと男だと思ってやがるに違いないww
それにしてもこの霊夢、酒を飲み交わしたい
いろんな意味で、おいしゅうございました。
先日妖夢ものを初投稿したばかりの自分にとっては、ある意味でタイムリーでした。
辛い物が大好きなので、勿論からし明太子も大好きです。お茶漬け最高!
昼食いましたとも、めんたい。うめぇ、焼きたらこうめぇ。いいほのぼのでした。
与吉さんのコーリンが出ない作品をもっと見たいです!
今日の昼はこれにしよう
お茶漬けたべた~い。
ほのぼの、大好きです。
化学調味料を使った明太子も、「単純で素朴なものとはまた一味違った明太子」に
なるんですね。
おなかすいたので夕飯の支度してきますね。
ところで、「博麗をもらいにきた」で明霊かと思ったのは私だけだろうか。
生唾を何度飲み込んだ事やら。