Coolier - 新生・東方創想話

少女ワルツ

2009/05/17 20:00:29
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 ―もしあたしのものになりたいなら、
  あたしはあなたを
  楽園にいる神様自身よりも
  幸福にしてあげましょう。

                    Theophile Gautier 『La Morte amoureuse』



 その娘は嫌われていた。
 ずっと嫌われていた。
 薄汚れた布団、じりと行灯の火は幽かにしか揺れず、蝋が自らの命の儚い事を嘆いても、垂らされる油
もなく。風の行く度に、小さな炎は泣いているばかり。指先が震える。まるで踊る様に。脳の奥が死んで
いく。瞳が震える。まるで躍る様に。唇が発狂して言葉なんか何もない。天井がくるらと回る。自分が回
っているのか、世界が廻っているか、境などなく、回転の静止点に寝そべっているばかり。眠れない。眠
らせてくれない。吐き気、喉を塞ぐ唾液は鉄錆の味を舌中に這い回す。喘いでも、誰にも聞かれないその
声は、泣いている様な、笑っている様な音色だった。
 「何が悲しいの?」
 ずっとそんな風だったのに。ずっとずっと。
 甘い声が振ってきた。
 回転する静止点。覗き込んだのは黒。白鼠色の束がさわりと振れていた。
 寝そべったその娘の傍らで、正座を崩した態で両膝を畳につけながら、一人の少女が彼女の顔を覗き込
んでいた。無言で、筋の知らない紙芝居を捲った様に、何の兆候もなく、何の音もなく、少女がその娘へ
と柔く笑い掛けていた。あんまりにも柔いからか、能面とさえ思える程に屈託なく、少女は娘に。
 「何がそんなに悲しいの?」
 声など出ない。喉が渇き過ぎて、舌が涸れてしまっていた。
 ただ喘いで、痙攣し続ける自分の刻みだけを布団の中で繰り返した。
 「私ね、心は分からないの。要らないから。でもね、最近は少しだけ欲しいの。だから、教えて? 何
が悲しいの? 何が楽しいの? 何が怖いの? 何が可笑しいの? ねぇ、教えて? お姉さんなら教え
てくれそうだから、教えて欲しいの。ねぇねぇ」
 世界が廻る。ぐらぐらと廻り続けて、少女と娘だけを取り残して、輪郭を捨てていく。
 「何でそんなに、嫌われているの?」
 その娘は嫌われていた。
 ずっと嫌われていた。
 
 境目を亡くして、だらしなく空に広がり続ける雲の色は灰。幾重にも重なった竹の合間から見えるその
色は、竹の青に裂かれて酷く陰気に見えた。煙管の吸い口から僅かに昇る紫煙の香りを聞きながら、藤原
妹紅は一本の竹に背を凭れ掛け、情景を眺めていた。里の人間に、礼にと貰った笹の包み。山の近くに畑
があるのだと笑いながらくれたのは綿埃の様に縮まるほど細く切った葉だった。火皿に燻る黒い灰は、燃
えて滓になった葉の一摘み。指先で火を点し、竹の木を割いて作った手製の羅宇を行き過ぎる、青白く苦
い香りを肺に入れず、噛み締めていた。ゆるらと時間だけが行き過ぎていく。
 「火の元には気をつけておくれよ」
 すいと吐いた煙の向こうに見知った顔が、苦く笑っていた。
 「善処するよ」
 羅宇を膝頭へと軽く打ちつけて、火皿から燃え尽きた葉を地面へと落とし、足の裏で踏み躙る。包みを
開けて、また一摘み、枯れた葉を指先で丸めた。ちりと青白い煙が昇り、彼女の指先で煙草の葉は燻り始
めていた。燃え尽きるその前に、火皿の中に押し込むと、吸い口をすいと吸う。肺に入れぬよう、口先だ
けで煙を弄び、細く唇の隙間から逃がしていった。真っ直ぐに昇って、竹の合間をぬいながら灰色の空に
溶けて、散り散りに消えていくのを、一人と一匹は眺めるばかり。
 「余り、感心しない嗜好品だな」
 「戴き物を粗末には出来ないよ。所で、慧音」
 妹紅は友人の名を呼んだ。
 「どうしてこんな所に? 迷い人でも居るの?」
 「ああ、まぁ、似た様な物だ……なあ、妹紅。この辺で、女性を見かけなかったか?」
 「目の前に居る堅物以外には」
 「そうか……もし、見かけたら里まで連れて帰ってくれないか?」
 「構わないけど」
 気安く頷くと、複雑な顔をして慧音は頭を下げた。
 「ありがとう。私ももう少しこの辺りを探してみたいんだが、どうにも一人では私が迷いそうだ」
 「一緒に探すかい?」
 「そうしてくれるとありがたいんだが……否、そうだな。お願いできるか?」
 「良いよ、生憎と時間だけは無限にあるからね」
 くたらと笑い、足だけで立ち上がった。もんぺに付いた泥を空いた手だけで叩き、笹の包みをもんぺへ
と丁寧に突っ込むと、一つ煙をまた噛み締める。行きを急かされるでもない様子の友人を、吐いた煙越し
に見つめた。
 「で、どんな人なの?」
 「あ、ああ」
 曖昧に頷きながら、歩みを進める彼女の後を、慧音はそぼそぼとついて歩いた。青竹の香りと湿った土
の匂いとが入り混じり、秋の終わりに行き過ぎていく無風の中で、幽かに頬を撫でた。質問は返らず、紫
煙だけが二人の間には流れていた。ついと一つ煙を喫んで、妹紅は空を仰ぐ。灰色の空、竹の青、塞がれ
た陽の光は、重苦しい雲を白く染めるのを何とはなしに眺めながら、同じ言葉を繰り返す。
 「慧音、どんな人なの?」
 けれど今度は声さえせず。
  ふと、足を止めて振り返ると、慧音は気づかずに歩き続け、とんと立ち止まった友人の胸に軽くぶつ
かってしまった。驚いて見開いた瞳の中に自分が写る。それ程に、大きく、けれど拭えぬ憂鬱に自身の姿
が丸く歪む。
 「ああ、すまない。つい」
 気まずそうに、顔を背けるのを、苦く笑いながら、煙管の背を指先で軽く小突く。落ちた葉の灰が地面
の上に落ち、含んだ水気にしうと末期の煙を立てた。
 「どうかしたの? 随分と、あれだ、うん」
 言葉が巧く紡げないのは、真意を図りかねて、距離が取れないからか。指で煙管をくるくらと廻し弄び
ながら、長く伸びた白銀の髪の合間から首筋を掻くばかり。細く深く息を吐き、慧音は濁りなく友人を見
据えた。
 「少し、変わった娘なんだ」
 「娘? 子供なのか?」
 「ああ、中身はな」
 「うん?」
 「そう、子供なんだ。子供なんだよ、あの子は」
 苦く奥歯を噛み、そう呟いた。
 
 猫が一匹前を行く。
 夜よりもずっとずっと、真っ黒い尾が目の前で揺れている。
 誘いながら、乞いながら、そうと思わせながら、そうと思いながら、背筋を伸ばした猫が、彼女の前を
歩いていた。思考は虚ろ、視界が混ざる。
 道は千代紙を水に漬けた色をしていた。
 薄色、黄蘗、宍色、樺色、女郎花。
 廻る風車の羽根の色よりも深く、浅く、濃く、乱れて回っていた。
 万華鏡を水鏡越しに見つめる様に、景色が崩れていた。
 梔子、竜胆、鶸色、桃花褐、木賊色。
 鍋の中で煮崩れる。煮立って煮立って、けれど未だ煮立てて。何の意味もなく、何の価値もなく、煮詰
めて煮詰めて、皆ぼろぼろに崩れていく。赤も青も黄も緑も、皆煮込んで一緒くた。
 その中で、一点だけに染みた黒。
 綯い交ぜに壊れていく色彩の中で、真水に垂らした墨の一滴よりも濃く、其処だけに居た。足元が厭に
ぬかるんで、上手に前へ進ませてくれない。あんなに巧くは歩けない。猫だけは淡々と、何の苦も無さそ
うに、涼しげにぐちゃぐちゃな色彩を歩く。廻る。ああ、世界が廻る。呟きさえ喉は許してくれないから、
ただその一言が口に出せない。喉が涸れて、唇が石に変わって、舌が凍ってしまったから、ひゅるひゅる
と空気だけが僅かに開いた隙間から外に零すばかり。目が回る。ああ、目が回る。言葉が出せない。出す
のを誰も許してくれない。足元がおぼつかない。道の色、場景の色、何もかも。皆混ざっていく。真っ直
ぐに進んでいるのか、真っ直ぐに立っているのか、真っ直ぐで居られているのか、それも知れない。
 けれど、如何してか、猫にだけはついて行けた。
 だから、その娘は、黒猫の尾を追いかけながら、ぬかるんでいく世界を歩いていた。
 それしか出来ないのだから、それしかしない。
 時間の別もなく、感覚の差異もなく、歩いて歩いて歩き続けて、ふと猫が立ち止まり、にゃあとか細く
鳴いた。振り返り、腰を落ち着けるとはたはたと尻尾を揺らせている。だから、彼女も立ち止まるしかな
かった。足元に静止した黒い点。それ以外は皆、汚泥の底。ぐるぐる巡る視界の中で、猫は彼女を見上げ
て、もう一度鳴いた。ゆらりと混ざり合う色彩に、猫の輪郭は曖昧にぼやけて、道の色に入り混じってい
く。指標が消えていく。毀れた色へと唯一の黒が混ざって、いく。か細く鳴くのを、両手を伸ばして捕ま
えようと、娘は転ぶ様に屈んだ。けれど指先が遅く、砂利を掴んだ様な感触だけを取り残して。猫は消え
て行った。ああ、と、呟く事も嘆く事も出来ずに、彼女は色の中に取り残された。膝を突き、だらりと腕
を揺らす。頭の奥で目眩が回る。酩酊にも似た吐き気、輪郭を喪った世界の隅。泣く事も出来ず、ぼんや
りと空を仰ぐだけ。けれど、色は。
 娘は、薄ぼんやりと、如何してなのだろうと思うしかなかった。
 此れは何だろう。此れはどう云う事なんだろう。自分は、どうしたのだろう。
 指先一つ動かせず、唇一つ動かさず、じっと色彩ばかりを見つめていた。球面上に張り巡らされた鏡の
裏側。空へと落下していく錯覚。水底から見上げた赤い陽、青い緋。身体の行方が覚束ない。心さえも砂
山の様に、風に舞ってそれっきりになってしまいそうで。
 「お姉さん、そんな顔しないしない」
 見上げた先で、赤紅が揺れた。
 三つ編みに束ねた長い髪が二つ、振り子の様に目の前で揺れる。覗き込んだ顔、笑いながら一人の少女
が娘の頬をそっと撫でる。冷たい質感と、柔い触感と。
 「あたいは此処に居るよ。大丈夫。お姉さんを置いて何処かになんか行かないさ」
 頬から額へと掌が這い、優しく撫でられながら、娘は何故か泣きたくなっていた。余りに指が冷たくて、
けれど微笑が余りに。くすくすと笑いながら顔を撫でながら、少女は笑っていた。人差し指の腹が唇の容
を撫でて、上唇の裏を抓みながら撫で上げる。それを拒みながらも乞う様に彼女は少女に手を伸ばした。
顔を撫でたくて、同じく頬に触れたくて、けれど其処までの距離が遠く、宙を掻きながら指が躍る
 「ねぇ、お姉さん。それより、あたいと躍ろうよ。きっと楽しいよ?」
 伸ばされた手を握り返し、指に指を絡ませて、すいと彼女の腕を引いた。
 つれられて、立ち上がる。
 ぐらぐろと回る視界。
 手に手を取って、彼女は踊らされていた。円を描く様に、少女に振り回されながら、廻る世界で踊らさ
れる。ついと取った右手を上げて、くるりと手前で一回り。両手を取って、今度は二人で一回り。巡り続
ける色の螺旋に合わせて、彼女は彼女と踊り続けた。けれど泥濘が足を絡めて、巧く足が運べない。
 「お姉さん、慣れないのかな?」
 くつらくつと楽しげに、少女は笑うのに、じくりと胸に棘の刺さるを。
 気づいたのか、知れぬのか、知ってて尚笑うのか。
 少女は、足を運ぶ。彼女は、つられて廻るだけ。
 ぎゅるりらと巡っていく。とんと爪先で、崩れていく地面を軽く蹴り、また一つ少女はくるらと廻る。
千歳茶色の裾が華の様に色彩の中に咲く。粘つきながら、崩れていく色の中で鮮やかに染みた一点が、場
景の中で色濃く残る。誘われるままに、足を運び、たどたどしく歩みに合わせ、二人は踊る。
 くるらと少女が踊り、ついと手を離した。
 勢いに負けて、よろめくと目の前で少女はまた色彩の中に埋もれてしまった。
 とすと、膝が付き、手の行方がまるで縋る様な容で凍った。
 その手をそっと、握り締めたのは、また別の冷たい手。
 くつらと柔く笑った、白鼠色の髪をした女の子。
 「ねぇ、お姉さん。楽しかった? 寂しかった? 嬉しかった? 悲しかった? ねぇ、教えて? お
姉さん、私に教えて?」
 雑音。紛れて、掻き消えながら、霧の様に崩れながら、少女は淡く笑い続けて。
 終いには世界に飲まれて消えて行った。
 「おやおや、迷ったの?」
 代わりに聞こえたのは、同じく世界が綯い交ぜになったままの姿。輪郭が曖昧に、芯を亡くして廻り続
ける色が縋るままの娘に話し掛けた。白練、ぬばたま、黒鳶が、ぐらぐる巡った知らぬ塊が彼女の瞳を覗
き込む。けらけろと笑う甘たるい声が癇に障る。頭が廻る。廻って回って、それっきり。
 「でも、大丈夫。貴方、幸運よ。私が里まで連れて行ってあげるよ?」
 溶けて霧になった砂糖の様な声が纏わり付く。
 「大丈夫よ、*****」
 
 「いきなり、何すんの!?」
 竹林の向こうで、悲鳴にも似た叫び声が聞こえた。
 足早に妹紅と慧音が駆け寄ると、其処には一人の老婆。もう一人は小柄な兎。圧し掛かり、意図のつか
めない呻き声を上げながら、化け兎―因幡てゐの肩口を掴んで離さないでいた。
 「はなし、離せよ、この!」
 されど、人の力では捉えられず、てゐは手を振り払うと大きく後ろに飛んだ。勢いで尻餅をつきながら、
老婆は何かを叫び続ける。赤子の様に両腕を振って、虚空だけを見つめながら、意味を失した声だけを上
げ続けていた。
 「な、何なのよもう……あったま来た!」
 奥歯を噛みながら、てゐは低く腰を落とす。
 「頭来た、からどうするんだ?」
 刹那。兎と老婆の間で、煙管が青紫の煙が細く吐いていた。意識の外、気が付けば庇う様に慧音は老婆
の肩を抱きとめて、そして妹紅はてゐの目の前で紫煙を吐いた。
 「藤原妹紅……」
 「輝夜のとこの化け兎じゃないか。この人に何か用だったのか?」
 「ちっ……何でもないわよ、じゃあね!」
 竹林の翳に逃げる様に逃げていく兎を横目に、妹紅は友人へと向き返った。
 「その人が、探し人?」
 「ああ、そうだ」
 興奮した態の老婆を宥めながら、振り返らずにそう答えた。
 「せんせ! けいねせんせ!」
 暴れながらも、乞い縋り、半妖の肩にしがみつく。
 「大丈夫だ、もう大丈夫だよ」
 背中をさすり、慧音は優しく諭し続ける。
 「ちがうよね、ちが、ちがうよね?」
 焦点の合わない瞳。口角から濁った唾液が顎へと伝う。
 「わたし、わたし、おばあちゃんじゃないよね!?」
 
  *
 
 くらりくるりと華の舞う。
 女郎花と錆御納戸、似せ紫とびろうどの華の舞う。
 幾重にも入り混じった硝子の色と粘ついたぬばたまの舞台で二輪の花が舞い続けた。
 「随分と、楽しそうね」
 紅茶の香りを聴きながら、楽しそうに嬉しそうに踊る二人を、古明地さとりは無愛想に呟いた。
 「そう? これが楽しそうなの、お姉ちゃん?」
 「ええ、そうよ。それが、楽しそう」
 花の一輪、古明地こいしが柔く笑うのに、頬を少しだけ緩ませた。
 「ええ、そうですよ。こいし様。これが、楽しい」
 花のもう一輪、火焔猫燐は、こいしの手を取って躍り続けた。
 「そう、そうなのね。ねえ、お燐。お姉さんは? お姉さんは如何かしら? 楽しいのかな? 寂しい
のかな? 嬉しいのかな? 悲しいのかな? 愉快なのかな? 気持ち悪いのかな? 好きなのかな? 
嫌いなのかな? ねぇ、お燐? 如何なのかしら?」
 「もう直ぐですよ、もう直ぐ知れますよ」
 二人はそう笑い合いながら、地獄の底ので踊り続けていた。館の主は只一人、表情を殺したまま、紅茶
の音を聴いていた。一口だけ唇を湿らせて、それっきり。頬杖を突きながら、一人と一匹を遠巻きに眺め
るままで、一つ小さく息を吐いた。一人の声は聞こえない。一匹の声は。
 「別に、望むのなら構わないけれども」
 そう呟いたきりで、黙ったきり。
 
 ささくれた畳、知らぬ染みがこびりついた柱、薄汚れた布団で、老婆は静かに寝息を立てていた。傍ら
には、半妖と人間が囲う様に座り、その寝顔を無言で見つめていた。
 「彼女は、本当に子供なんだ」
 最初に口火を切ったのは慧音だった。空の煙管を指先で持て余しながら、妹紅は無表情のまま、老婆の
顔を覗き込む。罅割れた様、顔中に広がった皺、艶を失くした肌、水気を喪い、解れて絡まる白い髪。ひ
くと息を吸い込む度に、渇き切った泥の様な唇が僅かに痙攣を繰り返す。その姿は、乞いても叶わぬ歳月
の重みだけを映し出しているのに。胡坐を崩し、右膝に頬杖を突きながら、友人の次を待っていた。
 「正確には、中身だけは子供なんだ」
 「なんだい、そりゃ。呪術の類かい?」
 「そうだな……ある意味、呪いなのかもしれない」
 眠る度、眠り続ける度、心を取り残して、身体だけを置いていく。大体そうだ。大概そうだ。それが歳
月を歩く事を許された、人間の正常さだ。一日眠り続ければ、一日分の記憶を知らぬまま、身体だけが一
日分老いていく。二日間眠り続ければ、二日分の記憶を知らぬまま、身体だけが二日分老いていく。三日
も眠れば、何もかもが遠のいていく。心だけを置き去りに、三日の歳月を皆が先に行く。一人は死んで、
一人は生まれ、そうしてぐらぐる廻り続ける。眠る間に、眠ってしまうが為に、知れないだけで。心だけ
をそのままに、時間に侵された場景は行き過ぎていく。慧音は、その言葉を喉の奥に仕舞い込んだ。その
言葉は、余りにも、今言うべきではない、友人に言う必要はない、言っても詮の無い事だ、と。けれど、
妹紅は、何も言わず、何も語らずに、煙管を弄ぶのを止めた。
 「心だけそのままで、身体だけ老いたって事?」
 「平たく言えば、そう、なるな」
 ふぅん、とだけ呟いて、妹紅はまた言葉を飲んだ。
 「不慮の事故だった、と言えば済むような事だ」
 眠る老婆の枯れた額をそっと撫でながら、慧音は下唇を噛む。
 「もうずっと前の事だ。彼女が未だ、子供でいられた頃の話だ―

 ―その娘が未だ娘のままでいられた頃の事。
 水面に浮かぶ月を眺める様に、娘は自分を見つめていた。色彩が揺らぐ中で、波紋に壊されながら、笑
う自分の昔をずっと眺めていた。娘は、酷く醜かった。何が起因で、何の因果かは知れないが、とかく娘
の顔は酷く醜かった。形容する言葉はなく、世界中の美しい物、例えば沈んでいく夕陽が見せる緋色、例
えば曇りない夜空に浮かんだ望月の白、例えば抜ける様に晴れた空の青、そんな物を全て取り除いたかの
様に醜かった。故に、娘は嫌われ続けていた。産声を上げた時に、取り出した産婆はその醜さに顔を顰め、
父親は忌避し、母親は無かった事と思い込んだ。
 だから、娘は一人だった。ずっと一人きりだった。
 満足に食うも出来ず、聞こえる言葉は罵声だけ。
 だから、娘は一人だった。名も呼ばれずに、一人ぼっちだった。
 生まれてからずっと海を見た事のない人は、海の青も潮の香りも想像もつかず、知りもせず、さりとて
それは苦にもならないけれど。海を見ながらも、決して海に近づけない人は、遠くにある海を眺めながら、
何を思うのだろうか。誰もそんな事は知らないから、娘の心は誰も知れない。知りもしないし、知りたく
もない。誰も彼女に話し掛けないから、伝える術もなし。
 もう味もしない梅干の種を口の中で転がしながら、娘は部屋の隅でじっと蹲っていた。
 娘はかつての娘を眺め続ける。そうであった過去だけを、何もせずに見つめるしかなかった。揺れ続け
る輪郭は、泥の上に溜まった雨水よりも小さい輪の中で、風の中に震える花よりもか細く映る。見てはい
たくないと、心が悲鳴を上げてはいても、他に見えるものは皆同じ黒。何もないのと同じ黒。だから、見
えているものしか、見るしか出来ない。どんなにか。どんなにも。
 「ねぇ、お姉さん。何が見えるの?」
 か細い猫の鳴き声。傍らで黒猫が彼女の腕に擦り寄って、そう語り掛けた。娘は答えず、喉の奥に詰ま
った何かを飲み込みもせず、俯くばかり。猫も、小さな体躯を屈めて、同じ水面を見つめる。
 映るのは、いつかの自分。
 その娘は醜かった。だから、誰も話し掛けはしなかった。誰もその名を呼ばないから、誰もその名を知
らなかった。自分自身でさえも、覚えてはいなかった。
 水影が揺らいで、画面がうつろう。
 そこは、林の中。青い青い竹の中で、娘は一人歩いていた―

 「―この娘は、崖から落ちたんだ。あるだろう、一箇所だけ、土が剥き出しになった、あの場所が。そ
こから、足を踏み外して、下に落ちたんだ」
 慧音は老婆の額を柔く撫でる。罅割れた唇が時折震え、細く粘ついた唾液を口角から顎へと垂らしてい
く寝顔は、酷く醜かった。
 「話を聞きつけた時には、既に虫の息だったよ。何日も、誰も気が付かなかった。見つけたのが妖怪で
はなかったのが幸いと言えば、幸いだ」
 「誰が見つけたのさ」
 「私だ」
 皆が嫌った。皆が疎ましく、皆が。そんな娘は居なくなっても、知る気もない。例え気付いても、手な
ど差し伸べない。妖の餌に変わるか、朽ちて竹の花に変わるか。
 「酷く衰弱していたが、死ぬ程ではなかった」
 それが、幸か不幸かは知れないがなと、苦く友人が笑う。
 「元に住んでいた家は知っていたから、連れては来たが、御覧の有様だ」
 人の流れが絶えて、家が死んでいく。畳が枯れて、柱が腐り、障子は虫に食まれ、空気が落ちていく。
要らないと言われた物は皆、醜く朽ちていく。その真ん中で、老婆は薄汚れた布団の中で、喘ぎながらも
眠り続けていた。
 「この娘は、その日以来目を覚まさなかった。かつての親も此処を去り、囃し立てた者は皆、老いるか
果てるかのいずれかだ。もう、彼女を知っている人間は、何処にも居ない。彼女の名前も、私には分から
ない」
 「慧音でさえも?」
 「抜けているんだ。歴史の何処を見ても、そこだけが。だから、彼女の名前を知っているのは、彼女し
か居ない。教えては、くれないがな」
 軽く一つ、前髪越しに老いた額を撫でると、慧音はそれっきり何も話さなかった。弄んだ煙管の火皿に
燻された葉を詰めて、細い筒を通る紫煙を食むばかりで、妹紅もまた何も話せずにいた。じりと葉の焼け
ていく音、甘苦い香り、死んでいく家屋に満ちていたのは、それより他には何もなかった。

 人の迷う竹の林では、兎だけが戯れた。
 僅かに盛り上がった土の上で、兎は顔を顰めたまま、つまらなそうに両の足をゆらくらと遊ばせながら、
頬杖を突く。眼の間には緑。一面の緑。冬が来ようと夏が去ろうと、あるのは只一色。青い香りが鼻を行
き過ぎるのを疎ましく思いながら、兎は不機嫌さを隠さずに、黙りこくっていた。
 「何なのよ、あいつは」
 追憶の墨に浮かぶのは、一点の濁りだけ。喚き散らされた残滓がじとりと脳裏にへばりついて離れてく
れない。短い黒髪が竹の香りに乗せて、さわりと小さく踊った。
 「また迷い込んで来たら、どうしてくれよう」
 あるのは只、泥団子を掴まされた苛立ちだけ。
 「どうするの、兎さん」
 「ひゃあ!?」
 ひくと白く大きい耳が物音を嗅ぎ付けるより前に、声だけが落ちてきていた。
 驚いて、半ば転がる様に後ろを振り返ると、其処には黒い帽子、白鼠色の髪が揺れていた。気配などな
く、映画のフィルムが途切れた様に場景の中で、少女が笑って立っていた。足元には一匹の黒い猫が擦り
寄りながら、にゃあと一つ鳴いた。
 「どうするの、兎さん。あの娘をどうするの?」
 「あ、あんたには関係ないでしょ!?」
 驚きを隠す様に声を張り上げると、笑いながら小首を傾げる。
 「ねぇ、お燐。何で兎さんは怒っているのかな? 分かる?」
 返事を返す様に、猫はか細く鳴くばかり。
 「うーん。お姉ちゃんじゃないから、にゃあじゃ分からないよ」
 「それもそうですね」
 響いた返事は兎の後ろ。いつの間にか、そこに紅い髪を三つに編んだ少女が兎を覗き込んでいた。
 「ひゃあ!?」
 「兎のお姉さん、それしか言えないの?」
 くたらと笑ったその顔は、自身の翳に紛れて見えずに居た。ただ、笑うその唇が三日月に歪むのが、酷
く。兎は、喉元までこみ上げる何かを飲み下して、紛らわす様に声を上げるばかり。
 「あ、あんたら、何なのよ!?」
 「あたい達? 別に何でもないよ。ただの妖怪。遊んでいるだけ。遊び相手を探しているだけ。ずっと
ずっと遊んでくれる子を探しているだけだよ。ねぇ、兎のお姉さん。お姉さんも一緒に遊ぶ? お姉さん
ならきっと、一緒に居られると思うけど。ねぇ、こいし様?」
 こいしと呼ばれた少女は笑うだけ。それしか知らない様に、顔を歪めるだけ。石で彫られた彫像の方が
未だ人らしく、心の見えるのに。少女は笑っていた。能面の様に。水に濡れた写真の様に、顔を歪めてそ
れっきりの微笑を。
 「な、何を言ってるか、さっぱりよ」
 兎は脅えていた。その得体の知れない一対の笑顔に囲まれて。
 「難しい事じゃないよ。一緒に遊ぼうって、それだけ。きっと楽しいよ、皆で躍るのは」
 「お、躍る?」
 「そう、躍るの。地の底で、ずーっとずーっと。輪廻の輪からも外れて、転生の夢も見ず、躍り続ける
の。足がもげても大丈夫、手が千切れても全然平気、だって」
 にたりと歪んだ唇が、眉月に変わる。
 ―********
 兎は、気が付けば逃げ出していた。言の葉の最後までも聞かずに走り出していた。背筋がざわと粟立っ
て、喉の奥には一滴の水もない。竹林の奥の奥まで逃げ帰った。けらけたと、未だ声が大きな耳に纏わり
ついている気がする。追っては来ない。けれど、未だ来ないだけと胸の奥が喚き立てる。迷いの林の奥の
奥。そこで、兎は一本の竹に寄り掛かり、大きく一つ息を吐いた。林の見せる暗がりに、影の二つがない
のを見て、また一つ息を吐く。
 「なんなのよ、全く……」
 ―あいつの所為だ。
 不意にそんな言葉が頭を過ぎった。
 ―あいつに逢ったから、あんなモノに遭う。
 長く、本当に長く、此処に居たから良く分かる。あれは、随分前に去ったモノ。嫌われて、疎まれて、
蔑まれ、故に侮蔑し、諦観して、去って行ったモノの色。長く居るから良く分かった。見たくもない。も
う見る事もないと、そう思っていたのに。
 「畜生……あいつが悪いんだ……」
 ―今度、迷い込んだら、どうしてくれようか。
 兎は呟きを喉で殺して、家路に急いだ。
 
  *
 
 既に夜が更けて、障子の向こうにはぬばたまだけが彷徨っていた。
 久方ぶりに土より他の地面に背を預けて、妹紅はうつろうつろと眠りに惑う。ささくれても畳は畳、薄
汚れても天井は天井。月の見えない寝床は本当に、久方振りと壁に背を凭れ掛けて、船を漕いでいた。老
婆の隣で、友人は小さく寝息を立てていた。もうずっと、もうずっとこうなのだろうか。老婆が娘であれ
た頃からなのか、目の覚めた最近なのか。慣れた風に眠る友人の寝顔は、何処か幼く、故に苦痛の蔦が巻
きついている様で。眠気は覚めぬが、さりとて落ちる程でもなく、ゆらりと一つ煙管の紫煙を嗅ぎながら、
現と惑の境に身を委ねていた。永い事、家屋で寝た覚えがない。だからなのか、眠らずに済ます癖がつい
ていた。疎ましくも思いながら、また一つ吸い口を唇で挟み、すいと中の煙を口に含んだ。
 不意に、かたりと一つ、小さな物音が家の何処かで鳴った気がした。
 眠気を殺しながら、気配のした方へと視線を向けると、そこには一匹の黒い猫。尾の先が二つに分かれ
た、小さい猫が居た。妖の類と、妹紅は軽く腰を上げると、向こうも気付いたのか、銀朱の瞳を見開いて、
にゃあと小さく鳴いた。その声は、砂糖蜜を塗した氷の様に響く。ちょこんと座り、また鳴いた。何を恋
うて居るのかは知れず、妹紅も膝を上げてから動けずにいた。
 「ああ……ああああああああああ」
 ふと、渇き切った呻き声が傍らから聞こえた。
 振り向くと、老婆が芋虫の様に布団から抜け出し、猫へと這い寄る。猫も知ってか、微塵も動かず、な
ぁと鳴き続け、彼女が近づくのを待っていた。誘っている。何をか。
 そう気付いた時には既に、妹紅は畳を蹴っていた。
 一足で、猫へと近づくと首根を抑えようと左手を伸ばしたが、掴んだのは解れた井草だけ。猫はするり
と抜け出して、老婆へと近寄っていた。腕を伸ばせば届く距離で、猫と彼女は対峙していた。見下げて、
猫はなあと言う。見上げて老婆は、愛しそうに、縋る様に、呻きながらも手を伸ばす。
 「ちっ、慧音! 起きろ、慧音!」
 罵声を張り上げると、友人は目蓋を手の甲で擦りながら、身を起こした。霞む視界の中で見えたのは。
 「な、なんだ?」
 「その猫を捕まえて!」
 妹紅の声とは裏腹に、友人の動きは遅く、猫も知ってか知らずか、馬鹿にした様に小さく鳴いた。
 刹那。
 過程を喪い、結果だけが一人と一匹に残された。
 そこに猫はおらず、老婆もまた、何処かへ消えてしまっていた。何の気配さえもなく。
 「な、何が……」
 寝起きだからか、今一つ状況を噛み砕けない慧音の肩を掴み、妹紅は強く言い放つ。
 「説明は後! あの猫を追っかけるよ!」
 
 目の前が、また壊れていた。
 足取りが覚束ない。色彩の境がなくなった泥濘を、娘は一人歩き続けていた。
 目の前には黒い猫。誘う様に、乞いながら、尾が揺れるのを追い掛けて、娘は歩くしかなかった。いつ
からか、いつまでか。目が覚めて、甕の面に映った自分の顔は。幾つもの罅が入った肌、ばらばらに解れ
た白い髪、落ち窪んだ瞳は黄色く濁り、歯の白さだけが厭に浮き立った、あの顔は。
 猫の後を追う。
 螺旋を描きながら崩れていく目の前は、沼の底に浸っている様な、そんな気分にさせた。
 蔑んだ父は無く、冷蔑した母もおらず、罵った子等もまた。そんな中で、景色だけが壊れていた。自分
の知らない顔、自分を知らない顔、老いていた自身の顔。両の手で足りる程の娘が最後に手にした物は、
ただの忘却。けれど、心は娘のままで、時間の中に取り残された。
 猫を追う。猫しか追わない。猫だけは、ずっとずっと彼女の傍に居てくれた。
 ぐずぐずに壊れていく視界の中で、猫だけが。だから、その娘は、追うしかなかった。初めて遊んでく
れた。初めて笑いかけてくれた。初めて、居ても良いと告げてくれた。だから。
 道は千代紙を水に漬けた色をしていた。
 薄色、黄蘗、宍色、樺色、女郎花。
 廻る風車の羽根の色よりも深く、浅く、濃く、乱れて回っていた。
 万華鏡を水鏡越しに見つめる様に、景色が崩れていた。
 梔子、竜胆、鶸色、桃花褐、木賊色。
 鍋の中で煮崩れる。煮立って煮立って、けれど未だ煮立てて。何の意味もなく、何の価値もなく、煮詰
めて煮詰めて、皆ぼろぼろに崩れていく。赤も青も黄も緑も、皆煮込んで一緒くた。
 皆、皆、壊れてしまった。
 皆、皆、忘れてくれた。
 だから。
 なぁと一つ優しい鳴き声が、待ってくれていた。娘は、右手を伸ばし、離れない様に、逸れない様に、
覚束ない足を懸命に前へと進めて、猫を追い続けた。
 「ねぇ、お姉さん。今、楽しい? それとも、寂しい?」
 耳の奥で声が聞こえる。
 「ねぇ、お姉さん。今、嬉しい? それとも、悲しい?」
 姿は見えず、毎夜毎夜、夢毎に問い掛ける声がする。
 「ねぇ、お姉さん。教えて? 私達と一緒に居られて、どう思ったの?」
 柔く問う声、けれど。
 「ねぇ、お姉さん。嫌われて、嫌われて、嫌われて、どう思ったの?」
 答えはなく、喘ぎながら、泣きながら、娘は猫だけを追い続けた。
 不意に、猫の色が視界の色彩に埋もれて消えていくのを見た。
 ああと小さく呟く。あの猫も、消えてしまう。またなのか、まだなのか。娘の手の中から、皆、皆、砂
となって消えていく。薄色、黄蘗、宍色、樺色、女郎花。廻る風車の羽根の色よりも深く、浅く、濃く、
乱れて。梔子、竜胆、鶸色、桃花褐、木賊色。万華鏡を水鏡越しに見つめる様に。声も、もう聞こえない。
 「やぁ、お姉さん、また迷ったの?」
 ぐらぐらと渦を巻いた色が娘の手を取った。
 「案内してあげるよ、出口まで。一緒に行こうよ」
 甘い声が、娘の手を引いた。猫を。猫を見つけないと。けれど、飲み込まれるがままに、見えない視界
の中を彼女は引き摺り回される。右の別もなし、左の分もなし、上も下も裏返って、足元だけが揺らぎ続
ける中を、娘は無理からに歩かされていた。猫を。猫を。猫を。けれど、それを伝える事は出来なかった。
誰も教えてくれないから。誰も教えてくれなかったから、娘は言葉を知らなかった。
 一瞬なのか、永劫なのか。知れぬ時間ばかりが行き過ぎる。
 ふと、娘の手を引く力が止まった。
 「さぁ、此処が出口だよ。良かったね、お姉さん」
 くつらくつと声が笑う。その声は、昔に聞いた、眠る前に聞いた、良く聞いた、ずっとずっと聞き続け
た色にそっくりで。娘は、何の力も喪って、呆然と立ち尽くすだけ。立てもせず、座り込むばかり。猫を、
猫を、猫を、猫を猫を猫を猫を猫を猫を猫を。
 見下げた場景、ぐらぐらと廻り続ける色の中、遠くに小さく燈った黒い灯を見つけた。
 娘は、ああと呻きながら手を伸ばす。あの猫は。目が覚めて、自分が壊れて、世界が壊れて、何もかも
が壊れ続ける中で、自分を、自分だけを。笑ってくれた。遊んでくれた。待っていてくれた。だから。
 手を伸ばせども、届かない。余りにも遠くに。
 「ちょ、あ、あんた!」
 先の声がしても、意味など知れない。もうずっと、目が覚めてからずっと、猫より他に、意味など全部
喪ってしまっているのだから。
 からと、何かが落ちる音。
 そして、娘は空に落下していく錯覚を覚えた。
 上下の別もなく、左右の分もなく、目の前でぬばたまが螺旋を描く。薄色、黄蘗、宍色、樺色、女郎花。
鍋の中で煮崩れる。煮立って煮立って、けれど未だ煮立てて。梔子、竜胆、鶸色、桃花褐、木賊色。千代
紙を水に漬けた色をしながら、何もかもが混ざって、お終い。青い匂い、青い風の匂い、ああ、廻る、廻
ってしまう。皆、皆。
 強い痛みが不意に全身を縛り付けて、そのまま、何もかもが黒に。
 
 「ちょ……なん、でよ?」
 因幡てゐは、崖の下を覗き込む。遥か下では、あらぬ方向に体の関節が捻じ曲がった老婆の体が、霞ん
で見えるだけだった。青竹の匂いだけが風の中に惑うばかりで、後は静寂より他には何もなかった。
 「じ、自分で、飛び降りるなんて……」
 どうにかしてくれようと思いはしたが。迷って迷って、崖の縁に追い込んで。困っているのを見て笑っ
てやろうと、ただそれだけだった筈なのに。
 「し、知らないわよ……私は……」
 「何をだ?」
 びくりと背筋が震えた。恐る恐る振り返るとそこに、鬼にも似た顔をした銀髪の少女が一人。
 「ふ、藤原妹紅」
 「何を知らないって?」
 「な、何よ。何、怒ってるのよ?」
 「別に怒っちゃいないさ。大体、質問を質問で返さないでくれる?」
 横にやった視線の先、そこには、赤黒い血溜りと豆粒程の小さい染みが一つ。
 「お前……!」
 「違うわよ! あいつが勝手に落ちただけで、私は関係ないわよ!」
 「ちっ……お前と言い合っててもしょうがない! おい、永琳呼んで来い!」
 「なんで、私が!」
 「燃やされたいか!?」
 ひぃと小さく悲鳴を喉で絞り、てゐは竹林の奥へと消えていく。妹紅はその後ろを見ずに、崖の下へと
飛び降りた。土の上を伝い、下へと駆け降りる。半ばで速さの足りぬを気づいて、剥き出しの斜面を蹴り、
空へと躍る。勢いのついた体躯が真下へと降りた時には、足首に強い衝撃が走ったが、奥歯で痛みを噛み
殺した。足元には、老婆の捻じ曲がった身体。屈み、首筋に指先を当てれども、血の流れる気配は、もう
なかった。
 「駄目、か……」
 苦く呟く。
 が。
 ひくりと老婆の腕が震えた気がした。疑念を隠せずに、見つめると、確かに老婆の四肢は癲癇でも起し
たかの様に痙攣していた。その動きは、凡そ人の見せるそれとは違い、意図に手繰られた人形が如く。気
配に振り向くと、そこには一人の少女。赤児の立つよりも大きい岩に片膝を立てて、赤紅の髪をした娘が、
にたりと笑っていた。
 「やぁ、お姉さん。こんばんは」
 頭に躍る獣耳、錆御納戸の洋装から覗く二本の尾、共に色は黒く。
 「お前が、あの猫か」
 「そうだよ。いやぁ、いきなり襲い掛かるから、つい逃げちゃったよ」
 くつらと笑う声の色も、夜色をしていた。両の手を岩に付け、伸ばした片方の足をふらくらと遊ばせな
がら、猫は笑い続ける。
 「何が、目的だ?」
 「何が?」
 「この娘をどうしようって言うんだ?」
 「遊びたいだけだよ、その娘と。ずっと、ずーっと」
 ひくりと、老婆の腕が震える。既に砕けた骨を基に、這いながら、体がむくりと起き上がる。支える柱
を喪って、不安定に老婆の体は左右に揺れ続けていた。
 「あたい達と踊るんだよ。足がもげても大丈夫、手が千切れても全然平気。ずっと躍るの。地の底の、
光も届かない底の底で。皆と一緒に躍るんだよ。楽しいから、きっと楽しいから」
 「……どういう意味だ?」
 「あたいはね、連れて行くのさ。輪廻の輪から外れて、転生の夢も見ず、一人もがきながら、朽ちてい
く。そんな人間を。だって、それが罰なんだもの。閻魔様に御目溢しして貰っているのさ、それだけは」
 随分前まではね、と、くたらと笑う。
 「罰?」
 「そう、罰。咎人の死体を連れて行くのさ。大丈夫、きっと楽しいよ、その娘も」
 「この娘さんが、罪人だって言うのか?」
 「そうだよ? だから、誰にも愛されない。誰も愛してくれない。名前も呼ばない。居ても居なくても、
誰も気にしない。それは罪があるから。しょうがないよね?」
 「どんな、罪があるっていうんだ?」
 「醜い事さ」
 猫の唇が眉月に歪む。
 「醜いからいけないの。だから、皆忌まわしい。だから、ずっと、一人ぼっちのまんま」
 「それの何処が罪だってんだ! 大体、お前は、何者なんだ?!」
 「火車。咎人の死体を引いて、連れて行くんだよ、あたい達の住まいに」
 三つ編みにした髪先を指で弄びながら、猫は笑い続ける。
 妹紅は、躍らされ続ける老婆を庇う様に左の腕を掲げて、ぎりと睨み続ける。
 「何をそんなにいきり立ってるの、お姉さん? その娘は咎人なんだから、しょうがないじゃない」
 「だから、何が罪だと訊いている!?」
 「なら、何で、愛してやらなかった?」
 くつり。
 「なら、何で、名前を呼んでやらない? 何で、遊んであげない? 醜い事が罪でないなら、如何して、
皆が皆、忌み嫌う? 如何して、そんなになるまで放っておいた?」
 くたら。
 「……私は、殆ど初対面だ。でもな、私の友人は、ずっと、この娘の事をだな!」
 「ふぅん?」
 くるりと猫は、岩から舞い降りる。そして、くるりと廻った。まるで、一輪の昏い華が咲いたかの様に、
洋装の先が弧を描く。
 「なら、そのお友達は如何して愛してやらなかった? 構ってやらなかった? 名前を呼んでやらなか
った? 一緒さ、幾ら取り繕うとも、足掻こうとも、その娘の咎は消えないよ。だって、望んだのは、そ
の娘だもの。あたいについて来たのも、一緒に躍ったのも。だから、一緒さ」
 「お前が、誘ったんだろうが」
 「違うよ。水際まで連れて行ったのはあたい、でも落ちたのはその娘の意思。だから、その娘は踊るの
さ。あたい達と一緒に、地の底の底の底で。どんなに悔やもうと、どんなに足掻こうと、どんなに悔いよ
うと、ずっとずーっと躍るのさ。輪廻の輪から外れ、転生の夢も見れず、そんなワルツを踊るの」
 
 竹林に行く娘の後ろ姿を最後に、慧音は妹紅と別れた。
 固まって探すよりはと、分かれた結果、目の前には同じ様な青だけが軒並ぶ。只でさえ。不慣れな場所、
その上、空にはもう昼の名残さえもなく一面の夜が広がっているからか、自分が何処に居るのかも覚束な
い。けれど、僅かな疲労が土くれと一緒に足の裏に纏わりつくのを振り払いながら、彼女は歩き回る娘の
後姿を追っていた。汗が一粒、喉元を行き過ぎる。風の声、青い匂い、いつまでも枯れぬ竹の若さばかり
が目の前にちらついた。
 「ねぇ、お姉さん。誰を探しているの?」
 唐突に声がした。
 振り返るとそこに、白鼠色の僅かに癖のついた髪先を指で遊びながら、一人の少女が立っていた。気配
などなく、本当に、唐突に。
 「その、娘を探しているんだ」
 「ふぅん? どんな子?」
 「それは……」
 言葉に詰まる。少女は笑って、無言で次の言葉を促した。
 「普通の……子供だ」
 「あんなに老いているのに?」
 「な……!」
 くたらと柔く微笑んだ顔。良く見れば、女郎花に染まった服の上に奇異な塊が纏わりついていた。瑠璃
色の球体からは、細い肉の管が伸び、少女の体に纏わりつき、別の生き物の様にひくりと顫動し続けてい
た。瞳。澄んだ水底を覗き込むのに似た深さが、彼女の双眸には埋まっていた。何も返さないから、故に、
何もかもを見据えられている様な、そんな錯覚さえ。
 「ねぇ、お姉さん。教えて欲しいんだけれど」
 「何を、だ?」
 「お姉さん、今、どんな気分?」
 くたら。
 「ねぇ、お姉さん。私ね、聴いてたよ。気付かなかったかも知れないけれど、あの娘が眠った時の呟き
も。私ね、見てたよ。どんな顔で、あの娘の寝顔を見ていたのかも。ねぇ、お姉さん。今、どんな気分な
のかな? 嬉しい? 寂しい? 楽しい? 悲しい? ねぇ、お姉さん」
 くつり。
 「嫌われて、嫌われて、嫌われて。そんな娘の最期を看取るなんて、ババを引かされてどんな気分?」
 ぞわりと、慧音は自分の胸の底がざわついたのに気付いた。嫌悪、忌避、不快感。丸く歪んだ鏡を見て
いる様な、そんな。
 「ババ、だと?」
 ぎりと奥歯を噛みながら、少女へと向き直した。
 「だって、そう言ってたじゃない。いつだかに、確かに、そう。ねぇ、お姉さん。今、どんな気分? 教
えて欲しいの、私はもう分からないから。嬉しい? 寂しい? 楽しい? 悲しい? それ以外? 要ら
ない子供を拾って、添いて眠るのは、どんな気分?」
 「……訂正しろ」
 「うん?」
 「訂正しろと言っている!」
 目の前に対峙したモノは、恐らくヒトではあらず。握り込んだ札が青く燃え、一振りの剣に変わる。幼
子の背丈ほどもある刃を両手で構え、じりと泥濘を踏んだ。
 「怒っているの? 何に怒っているの?」
 少女は笑うだけ。それ以外に出来ないから、それ以外にしないよう。
 「あの娘は……決して、要らない子などではない!」
 「ふぅん? ねぇ、お姉さん。なら、如何して、名前を知らないの?」
 胸がまた、一つ締め付けられた。無言のままの、半獣に、覚の妖は笑い掛けた。
 「嫌われて、嫌われて、嫌われて。そのまま、死ねる筈なのに、わざわざ助けたのは如何して? あん
なに老いるまで生かしたのは如何して? 毎夜毎晩、彷徨うあの娘を追い掛けるのに、たった一人なのは
如何して? ねぇ、お姉さん。どんな気分なの? 誇らしい? 疎ましい? 気持ち良い? 憎らしい? 
それとも、それ以外? ねぇ、どんな気分?」
 「何が……言いたい?」
 「答えが聞きたいの」
 音もなく、能面だけの笑顔。凍り付いて、それっきりの。
 「そんなに寝苦しく眠る迄、あの娘を置いておいたのは如何して?」
 刹那。
 遠くで火柱の上がる赤と、空気の爆ぜる音が聞こえた。
 
 「物騒だね、お姉さん」
 妹紅の掌からは灰色の煙、嘗て猫の居た場所からは黒い煙、二色の煙が混ざり合いながら、夜の空を焦
がしていた。猫は笑う。
 「けれど、如何してそんなにムキになるの? 他人なのに。皆に嫌われた赤の他人なのに」
 「まぁ、私には他人だね。でも、友人が悲しむんでね、地獄に連れて行かれちゃ」
 「ああ、あのハクタクか。あれも可笑しいよね? 今の今まで忘れていた癖に。名前も知らない癖に。
どうしてあんなに必死になるのだが」
 「さてね、それは今度本人から聞くさ。この娘を連れ帰ってからな!」
 こうと、妹紅の背には一対の翼。炎が螺旋を描いて、蔦の様に林の夜に絡みつき、燃え焦がす。緋色に
膨れ上がった炎が彼女の周りを躍り続けた。
 「おや、お姉さん、強そうだね。強そうな人は大好きだよ。お姉さんも、一緒にあたい達の家に行こう
よ。死体になってね!」
 ざわと生温い風の鳴る。猫の周りには、青白い炎。中に躍るのは黒紅の軌跡。廻って、千切れ、また繋
がって。ぐるぐらと廻り続ける染みの軌跡。何処か、人の顔に見えるのは。
 「そうかい、あたしを死体にしてくれるのかい! 願ってもないな!」
 銀色の髪が燃える夜の中で躍る。一枚、紙に結び付けられていた札を抜き去ると、くしゃりと掌の中に
握り込む。猫は対して、懐から一枚の札を取り出し、顔を覆う様にかざした。
 「『パゼストバイフェニックス』!」
 「贖罪『旧地獄の針山』!」
 握り込んだ札が手の中が緋色の炎を上げて、指の隙間から紅蓮の吐息を噴出した。蛇の尾が如く、腕を
体を舐め尽し、妹紅の体は夜の竹林に紅く赤く沈んでいく。対した猫―火焔猫燐は楽しげに、忌まわしげ
に笑うと、くるらと廻りながら、札を空へと投げる。風の腕に囚われて、ひらくらと舞い落ちた一枚の札。
目の前で時が凍りついた様に留まると、ぱんと一つ、燐は拍手を打った。その音に合わせ、札がいびつに
捻じ曲がり、一本の細い針に変わった。ぼうと巡る青白い火と火。音に合わせて、皆々、同じ針に変わる。
彼女の周りには無数の針が、栗の毬の様に弧を描いた。
 「ばいばい、お姉さん! また地獄でね!」
 躍る燐の、洋装が描く旋律に合わせて、ざわと針が震え、一斉に燃え上がった妹紅へと向けて、その身
を投げた。風の唸りだけが取り残されて、そこには針はもうない。身は既に。無数の針が妹紅の体を貫く
のが見える。とすとすとか細い音を置き去りに。けれど。
 「え…?」
 針の行き過ぎた後には、何もなかった。
 蝋に燈る灯が消えた後の様な煙を残しただけ、泥濘に針は全て刺さっていた。
 「何処を狙っている?」
 不意に声だけが背後から聞こえた。
 振り向けば、そこには無尽の紅蓮が視界一杯に広がるばかり。
 「燃え尽きろ、化け猫!」
 「ちっ!」
 振り下ろされ続ける炎の腕を身軽に避け続けながらも、纏わりついた青白い火を針へと変えていく。も
う一度と、くるらと踊れば、針も答えて、また躍る。一本は炎を砕き、一本は風に落ちて、一本はまた体
を貫かんと向かい続けた。幾本も幾本も、妹紅の体をすり抜けて、残ったのはまた同じ煙。
 「そうら、あたしはこっちだ!」
 今度は、左から。
 また針で撃ち抜けども、また煙。
 今度は、上から。今度は右から。一週巡って、また後ろ。
 躍らされる様に、妹紅の影を追えど、何度追っても、何度屠っても、煙ばかりが残る。
 ぎりと奥歯を噛みながら、燐は躍るを止めた。さわと竹の香り、夜の焦げた匂いが鼻をつく。後は只の
静寂ばかりが、彼女の周りを巡っていた。
 「どうした、もう躍るのは止めか?」
 何処からともなく、声だけ響く。
 ―埒が明かない。
 喉の奥でそう呟く。何処に居るのか知れない、何処に行くかも知れない、けれど。
 「全く、嬉しいね…お姉さんみたいな強い人の死体、持って帰れるんだからさ!」
 見える夜にそう叫ぶと、もう一枚の札を取り出した。
 声はしない。静寂の中、もう一度空へと投げる。
 同じ様に、彼女の目の前で留まり、拍手を打つと、今度はざわと青白い炎が震え始めた。
 「恨霊『スプリーンイーター』」
 夜よりも昏い声が凛と静寂に響く。時を同じに、目の前で漂っていた札が水色に激しく燃え盛り、それ
に合わせて周りを漂っていた炎が輪を描きながら、辺りに散っていく。
 「何処に居るだか分からないなら、皆燃やしてしまえば、それっきり」
 くつりと笑う。片手を上げて、ぱちんと指を鳴らす。
 刹那。
 全ての炎が、轟音と共に砕け、爆ぜた。
 竹林全てを壊し、焼き尽くす爆発を伴って。
 目の前が白く濁る。煙の一筋さえも灰に換える程の音と光と熱。その真ん中に、燐は立っていた。
 一瞬の起爆、残ったのは燃え尽きた後の生臭い煙の匂い。
 その片隅で、一つの影が横たわっていた。銀の髪、その先は黒く焦げて、衝撃で避けた服からは黒ずん
だ肌が見える。一人分の炭、それが再び訪れた静寂に取り残されていた。
 「さてさて、あのお姉さんは平気かな? ちょっと派手にやっちゃったけど」
 視界が晴れて、踊りを忘れた屍骸が一つ、遠くでぐたりと倒れていた。
 「うん、大丈夫大丈夫。さて、と。あたいは、さっきのお姉さんの死体を、と」
 満面の笑みで灰へと近寄る。黒く焦げた一塊を覗き込み、更に笑みを濃くした。
 「では、さっそく」
 崩れない様に、砕けない様に、妹紅の死骸を背中へと背負う。
 「…**」
 不意に耳へと何かを呟く声がした。
 怪訝そうに振り返ろうと。
 「フジヤマ……ボルケイノォォォォ!」
 叫びに気付いた時には、もう遅く。紅緋の炎が背中で爆音を立てて。自身が叫ぶよりも先に、爆砕の唸
りが声を殺し、大きく前のめりに体を吹き飛ばす。熱、体を引き裂く衝撃、声など出ない。無様に地面に
転がり、息を吸えど、熱気と圧迫で握った砂の様に空気が逃げていく。激痛に苛まれながら、残った白煙
にぼんやりと映る人影へと、目をやる。
 「なんだい、殺してくれるんじゃなかったのか? 化け猫」
 煙が晴れれば、そこには、先程と変わらぬ顔が、無傷で立っていた。衣服は確かに、燃え焦げて、所々
が裂けてはいたが、身に包んだ姿は無傷同然。
 「な……んで?」
 「ちょっとばかり訳有りでね」
 「ち……くしょ……」
 燐は姿を、元の黒猫の姿に変えて、飛ぶ様に竹林の夜に紛れて消えた。
 「あ、てめ! 逃がしたか……」
 懐を弄ると、そこにはあった筈の布はなく、振り返れば視界の隅に焼け焦げた煙管の吸い口と火皿だけ
が取り残されていた。後は消し炭ばかりがさらさらと、風に消えた。
 「久々に、良い葉っぱだったんだけどなぁ」
 名残惜しげに拾い、もんぺの中に残り滓を突っ込むと、倒れたきりの死体を抱えて、崖へと足を掛けた。
 
 慧音は気が付けば走り出していた。音と光が撒き散らされた方へと。あの場所は、あの位置は、見知っ
た箇所だと、同じ色ばかり映る景色の中に記憶を見出していた。先まで話していた少女は、爆音と共に、
また気配もなく、消え失せていた。彼女が何なのか、それは今は二の次と、夜の中を走り続けた。
 「あら、珍しい」
 不意に声がする。急いで立ち止まり、声の鳴る方へと振り返るとそこには見覚えのある臙脂と濃紺が黒
に揺らいでいた。傍らには白装束の、兎が一匹。
 「八意、永琳」
 「てゐに呼ばれて来てはみたけど、肝心の患者さんは何処なの?」
 「患、者?」
 「此処だよ」
 慧音の呟きに、永琳の問い掛けに、答えたのは林の夜。ぼんやりとした輪郭が顕になった。
 全員が向きかえると、衣服が襤褸になりかけた少女が一人、老婆を背負いながら詰まらなそうに立って
いた。
 「永琳、この娘さんを見てやってくれ」
 「娘さんって風には見えないけど?」
 「お前から見たら、皆『娘さん』だろ。軽口より先に、頼む」
 すいと背負った老婆の首筋に、指先を宛がうと、永琳は苦く首を振った。
 「処方する薬はないわね」
 「おい!」
 「死人につける薬は、生憎と持ち合わせてはいないわよ」
 その言葉に、とさりと土が鳴った。
 三対の視線の中で、慧音は膝を付き、額を抱えていた。呆然と、視線の当所を失った顔で、地面に座り
込んでいた。
 「申し訳ないけど、私には手が施せないわ」
 「どうにかならないのか?!」
 「貴女、自分を二人も作りたいの?」
 妹紅は、それ以上は何も言えず、下唇を噛んだまま、黙ったきりの兎を睨み付ける。
 「わ、私は関係ないって!」
 「でもな……!」
 踏み出す妹紅の、ぼろぼろになった裾を幽かに引く力。見下ろせば、友人が淡く首を振って、俯いたま
ま、弱く彼女を引き留めていた。
 「でも、慧音」
 「良いんだ。良いんだ、妹紅。私が、悪いんだから」
 「そうじゃなくてだな!」
 「良いんだ!」
 喉を引き絞った叫びに、何も言う事など。
 医者は苦く溜息を噛み砕き、兎は尚もうろたえながら、竹林へと足を向けていく。もう、幕は降りたの
だから、演者のいる場所など。
 「申し訳ないわね、力になれなくて」
 「いや、こっちこそ悪かったな」
 相手の目を見ずに、妹紅は答える。
 「所で、貴女」
 去り際に、ぽつりと永琳は呟いた。
 「如何して、そんなに嬉しそうなのかしら?」
 
 *
 
 「私は、嫌な奴だな」
 道の端には黒が壁となって、足元の土の道さえも覆うばかりに立ち並んでいた。遠く鈴虫が鳴き続けて
いた。風が少し冷たい。背負った荷の軽さが少し耐え難いと風通りの良くなった服を纏いながら、ぼんや
りと、本当にぼんやりと思う妹紅に聞こえたのは、冷え切った言葉が一つだけ。視線だけで、振り向けば、
友人は俯いたまま、薄く笑っていた。視線は見えず、あるのは夜の色ばかり。
 「その娘が、死んで、少しだけ嬉しかったんだ」
 「永琳の言った事?」
 問い掛けても答えはなく、松虫だけが静かな歌声だけを返していた。そぼそぼと土を踏む感覚ばかりが、
骨を行き過ぎて、頭の横を柔く叩き続けていた。空には半月が霞みの中に身を浸して、おぼろげに自身の
白い光を地面までは落とせずに佇む。秋の風、夏の終わった香りだけが、土と枯れた葉の匂いに入り混じ
りながら、螺旋を描いて、一人と一匹の間を通り抜けていく。俯いて、俯いたままで、黙り続ける友人と
黙り続けるしかない老婆と、その静寂に挟まれて、妹紅は何度目かの溜息を吐いた。鈴虫、松虫、轡虫。
恙なく、鳴き続ける玉の音が、余りにもか細過ぎて。
 「最期まで、その娘の名前が分からない。どうしてだと思う?」
 「歴史に残ってないんだろ?」
 「それもそうだ……でも」
 「うん?」
 「彼女自身は知っている筈なんだ、自分の名前を」
 他の口に上らないから、残らない。けれど、ない訳でもない。在る筈なのに。必ず、在る筈だから。
 「私は、訊いていないんだ、妹紅。訊かなかったんだ、一度だって」
 毎夜毎晩彷徨い、自分に脅え、崩れた世界に惑い、終いに頼った娘の名を。毎夜毎晩添って寝て、名を
呼んで慕ってくれた、娘の名を。鈴虫、松虫、轡虫。鳴いて、啼いて。
 「守らないと、この娘を守ってやらないとと、それしか思わなかった。それだけしか思わなかった」
 本当に、私は嫌な奴だなと、そぼりと呟いた言葉は、虫の合唱に掻き消される程に小さく、遠かった。
 「葬式」
 ぽつりと、妹紅は呟いた。
 「うん?」
 「葬式ぐらいはしてやろうさ。例え、私らだけだったとしても」
 湊鼠に染まった髪が、さわと僅かに揺れた。
 「そう、だな」
 一人と一匹は歩き続く。先は見えず、里の灯も落ちて、あるのは薄暗い月明かり。松虫、鈴虫、轡虫。
それだけが鳴き続く。ただそれだけ。音もなく、色も失って、自分の爪先さえも、良く見えない。見上げ
て、背中に軽い荷を背負い。俯いて、言葉を捨てて。一人と一匹は歩き続けた。
 「責めない、んだな」
 友人の言葉に、苦く妹紅は笑った。
 「仕方ないじゃないか、そんなの」
 「そう、かな」
 「そうさ。もう、仕方のない事なんだ。だから、しょうがない」
 「そう、なのかな」
 「そうさ」
 だから、この話は、それでお終いと、不死の娘は声に出さずにそう告げた。
 
 その葬儀に掛かる鯨幕は、森の黒と空の灰で事足りた。
 老婆の身体を収める棺は、二抱え程の小さな桶一つ。装束などなく、ただ比較的傷みの少ない和装に整
えて、深く掘った穴の底に埋めただけ。その上に、一つだけ、石を載せた。墓石の代わりに、彼女がいて、
確かにいた証の代わりに。墓の前には一人と一匹、名も知らぬ花を摘んで、互いに俯いていた。
 「どうしよう、妹紅」
 「何が?」
 「墓に刻む、名前を知らない」
 くつらと苦く笑いながら、慧音は花を石に手向け、静かに手を合わせた。遠く聞こえた川の音、ざわと
鳴いた森の声、置かれた花の隣に妹紅も手向けると花弁同士が凭れ掛かっていた。手を合わせ、静かに瞳
を閉じる。
 「あの娘は、毎晩、あの猫に連れて行かれていたのだろうか?」
 「そうみたいだね」
 慧音の問いに、ほんの少しだけ事実を知っている妹紅は答える。
 「何の為に?」
 「連れて行くんだと、自分の家に」
 「そうか……その方が、この娘は幸せだったのだろうか」
 「どうかな? 私はその娘さんじゃないから」
 それも、そうだなと合わせた手を解くと慧音は踵を返して、墓に背を向けた。
 「でも、な。慧音」
 視線だけで、振り返った。
 「頼られてたのは、『けいねせんせい』だったんじゃないのか?」
 「どう……だろうな」
 でも、もう、それも。互いの間には語る必要のない結論だけが川の流れに紛れて、消えていった。手を
解き、妹紅は友人の背を負って、墓を後にした。
 一人と一匹の去った後、川の流れが立てる音に紛れて、かさと葉がかすれる音のする。暗がりの中、木々
の合間、辺りを伺いながら、一つの影が墓に近づく。白い裾が葉に引かれて、僅かに躍る。白い耳、黒い
髪、一匹の兎がおずおずと墓の前に近づいた。手には、鈴蘭が一輪握られていた。
 何も言わず、見下ろしたまま、放り投げる様に花を墓の前に置くと、目を閉じないまま、手を合わせる。
 その時だった。
 がさと、不可解な音。ひくと厚い耳が音に反射して、震えた。がさりがさ。何処からするのか、兎は周
りを見回せど、あるのは森の黒、遠い川の匂い、空に掛かる灰色ばかり。がさりがさ、がりがさり。音は
次第に数を増して、兎と墓の周りで躍り続ける。見回す視界の隅、一つだけ染みの様に鮮明な色彩が映っ
た。視線を止めて、見つめれば、そこには輪郭の合間な影が一つ。退紅いた唇が、眉月に歪む。その仕草、
兎は知っていた、知りたくもないが、覚えていた。がさりが、がりごりがさがきり。音のする。まるで、
土を掻く様な、そんな。
 がばり。土くれが足に当たる。見下げれば、墓の下から一本のしわがれた腕が生えていた。
 「ひっ!」
 思わず声を上げて、尻餅をつく。目の前で、墓の底から、桶を蹴破り、老婆の体が這い出していた。首
はあらぬ方向に曲がり、指も皆折れて、手の甲だけを軸に地面を這いずり回る。骨の一本抜けた様な、そ
んな動きだった。その後ろ、墓の向こうで、影が躍る。周りには、黒鳶を埋めた青白い炎が一つ、二つと
瞬いては千切れ、入り混じり、分かれて、また光る。兎の目には、その軌跡に、人の骨が喘いでいる色を
見てしまっていた。
 「さぁ、今度こそ、連れて行くよ、この娘を。邪魔は、しないでね、兎のお姉さん」
 くたらと猫の容をした影が笑った。
 声も出せず、兎は、その場から駆け出した。
 
 「藤原! 藤原妹紅!」
 若い竹を切り取って、削りながら容を整えていく。燃えてしまった羅宇の代わりを、竹林の地に胡坐を
掻いて、作っている時だった。遠くから、泣いている様な、怒っている様な、そんな声で名前を呼ばれて
いるのに気付く。首だけで視線をくれるとそこには、荒く息を吐きながら駆けてくる姿が一つ。息が、間
近に聞こえるまでになった時、漸く妹紅は手を止めた。
 「どうしたんだ?」
 竹に手を開けて、息を整える因幡てゐに向けて、素っ気なく尋ねる。
 「あの…躍って…猫が…あの娘に…」
 「おう、ちょっと落ち着け。意味が分からんよ」
 削り出した筒の中に、息を強く吹きかけて、中に溜まった削り滓を飛ばした。
 「呑気に、煙管作って、る場合、じゃ、ないって! あの、また死体を連れ出してるんだよ!」
 それだけで、意味は事足りた。
 筒をもんぺに突っ込むや否や、妹紅は地面を蹴った。それに追う様に、てゐもまた駆け出す。
 「何処だ!」
 「わかんないよ。でも、墓から抜け出したのは見た!」
 何故見たのかは問わなかった。それは、今はどうでも良い事だから。
 「慧音は!?」
 「未だ伝えてない」
 「なら、先に里に行ってくれ! 私は探してみる!」
 「当ては?!」
 ざりと駆け出していた足を止めた。つられて足を止めども、慣性に負けて、てゐを躓き、転んでしまっ
た。ずさりと顔についた土を払いながら、ぶつくさと悪態を吐けど、小さ過ぎて妹紅には聞こえない。
 「そういや、なかった」
 「何が!?」
 「当て」
 「……あれは火車でしょ?」
 「うん? 何で知ってるんだ?」
 「あんたより長いのよ、此処は」
 ぺっと口の中に入り込んだ砂を指で拭い、唾を吐く。
 「忌み嫌われた妖怪、逃げてったのは昔の地獄でしょ?」
 「ああ、なんか、そんな事聞い…そうか、昔の地獄か」
 「そうだよ。最近空いたでしょ、道が」
 間欠泉に怨霊が沸いて、昔の地獄へと向かった話。噂話程度に聞き覚えた事。その場所は。
 「私は神社に行く。お前は、慧音に伝えてくれ」
 「へいへい」
 妹紅は踵を返し、博麗神社へ。てゐは、そのまま里へと向かった。
 
 くるりらくるり。くるくらり。鯨幕が空を彩る。里の道、森から抜けて、穴へと続く真っ直ぐな道。そ
の途中には、里がある。人が住み、人が暮らし、彼女が産まれ、彼女を嫌い、彼女を殺した里があった。
里の真ん中を通る、大きな道。行き交う人は、皆足を止めていた。日常の中に紛れた異常の香りに誘われ
て、皆がその踊りを見ていた。道の中、足は捻じ曲がり、腕はかくらかくりと震えるばかり。指はみなへ
し折れて、首の根も据わらない。がくりかくりと吊られた糸繰り人形、肝要な糸が欠けて、巧く動けない。
そんな風に、躍る。くるりらくるり。くるくらり。そんな風に、老婆が躍るのを。
 てゐが里に辿り着いた時、見えた景色はそうだった。
 まるで葬列の様に凍りついた人々の姿、不可視の壁に遮られ、誰も道へと踏み出せない。空は灰、黒の
欠片もない場景。けれど、陽の境を失った色彩は、酷く。誰もが遠巻きに、檻の中に閉じ込めた奇異な獣
を眺める様に、踊る老婆を見ていた。舞台は真っ直ぐに続く道、行く宛ては道の途切れた先の先。託も忘
れて、兎は人ごみの中で、人ごみ越しに老婆を。
 「待つんだ! 待て!」
 ふと大きな耳に聞き覚えのある声が聞こえる。
 人と人の頭、その隙間。
 疎らに割けた道の状景、ぐらりぐらと関節を軸に醜く躍る老婆の後を、追い掛ける姿があった。舞台に
は二人。銀が混ざった水浅葱色の髪を振り乱して、追う姿。
 「上白沢様も…」
 人の誰かが呟いた。
 老婆の動きはそう早くなく、子供の足でも追付く程なのに、乞いながら手を伸ばし、駆ける慧音はいつ
までも追いつけないでいた。まるで、粘ついた水の中を歩いている様に。何処か時間の流れがおかしいと、
思わざるを得ない程に。不自然に、不可思議に、慧音は走っていた。
 「あんなのに構わずともよかろうに「なぁに、お優しいのさ、上白沢様は「けれど、身よりも何もない、
あんなのをわざわざ
 声のする。
 「ところで、あれは何で、あんな変に歩いているんだ?「元からじゃないのか。大体、あれがまともに
歩いている所など「確かにそうか。元からそうか
 一塊の群れが口々に。
 「なら、上白沢様は「不憫に思われたのさ。お優しいから「そうか、そうさな。お優しいのだな「そう
とも、我々には思いもつかないさ」
 話をする。
 「あんな醜い、化け物の世話など」
 冷え切った岩よりも冷めた声で。
 てゐの耳には痛い程に、響く。
 何の繋がりもない。何の恩も仇もない。だから、ただ痛かった。人の、人に向ける、その言葉だけが。
 首を大きく振って、人ごみを掻き分け、舞台へと向かいたかった。けれど、人は動かず、逆に流れに飲
まれるばかり。何一つ動きもしない、何一つ手を伸ばしもしない、そんな群れの中に取り残されてそれっ
きり。誰の耳にも届かない。てゐのか細い声は、何も。
 「ねぇ、どんな気分?」
 不意に耳の底に、甘たるい声がする。
 「ねぇ、兎さん。今どんな気分? 嬉しい? 楽しい? 悲しい? 寂しい? 悔しい? ねぇ、兎さ
ん。教えて。今更、どんな気分?」
 声はする。けれど、姿は何処にも。
 「どんなって……そんな事!」
 「どんな事? ねぇ、兎さん。私にはなかったから。兎さんみたいな事。だから、教えて欲しいの。ね
ぇ、今どんな気分?」
 振り向けど、何もなく。
 先を見れば、人と人の隙間で白練の髪がさわと瞬いた。
 幼い少女の顔をして、只柔かく笑う顔をして、それは、紛れ込んでいた。
 「あの娘、連れて行くよ。一緒に、遊ぶの。そうすれば、きっと知れるから。お姉ちゃんに教えてもら
えるわ、きっと」
 「何の、話よ?」
 「私の話。皆から嫌われて、地獄に行って、一緒にお燐達と踊り続けて。それが、どんな気分なのか。
それが分かれば、きっと私も変われるから。だから、連れて行くよ、私達のお家に。良いよね? だって、
あのハクタクも、嬉しかったみたいだから」
 ―あのお姉さんが居なくなって。
 解けた氷の雫が一つ胸に落ちる様に。
 最後に聞こえた言葉。
 その瞬間に、輪が壊れた気がした。
 人ごみは、不意に崩れ、皆、それぞれに動き始める。縺れていた糸が解けた様に、また各々の日常へと
溶けていく。その隅で、てゐは漸く開放された。人と人の合間に見えたのは、座り込んで、呆然と道の先
を見つめる半妖が一匹。急いで駆け寄ると、慧音の視線の先には、もう老婆の姿はなく、あるのは雑然と
した日常だけだった。
 「ちょっと、ハクタク!」
 がくがくと肩を震わせても、呆然としたままで。
 「あ、ああ。因幡か……」
 「ああ、じゃないでしょうが! 追っかけるんじゃないの!?」
 「いや、しかし……」
 「藤原妹紅は追ってるよ」
 「妹紅が?」
 「そう。きっとあいつらは昔の地獄に行く筈だから、神社に向かってるよ」
 「はは、得意の嘘か? 意外につまらない嘘を」
 「吐いたってしょうがないじゃないさ!」
 「行く訳がない。妹紅には、関係が、ないんだからな」
 完全に視線が宙を泳いだままで、諦観だけが唇に宿るばかりで。
 「そんなの知らないよ。妹紅は行ったよ」
 「何の為に……私は」
 「あのばあさん死んで、本当は嬉しかったから?」
 びくりと肩が震える。
 「そうだ…そうさ! 私は、私は只、自分の為だけに! 可愛そうなあの娘を、世話をしている自分に
酔っていただけだ! 分かっていた! そんな事は!」
 「それの何処が悪いの?」
 「え?」
 「それの何処が悪いの? 自分の為にならない事する奴なんか居る訳?」
 「しかし、私は、あの娘を…」
 「じゃあ、何で未だ追い掛けたの?」
 そっと肩から兎の手が外れる。見上げた先にある顔は、暗がりに紛れて色の知れない。
 「それは、私は」
 「別に、良いけどね。私は藤原妹紅に頼まれて、伝えろって言われただけだし。もう、私もこれ以上関
わる気もないし。好きにしたら?」
 ふいと座り込む慧音に背を向け、兎は里を後にした。
 
 博麗神社の参道へと続く階段は細く続いていた。人影一つなく、朝と夕の区別のつかない空の下、妹紅
は階段に腰をかけていた。もんぺに突っ込んだままにしてあった、竹の筒を取り出して、そっとその腹を
撫でる。燃え焦げた火皿と吸い口を端に捻じ込み、羅宇となった竹筒を階段に軽く叩きつける。その後、
水平に翳し、また叩き、幾度か繰り返して、もんぺに返した。
 膝に肘を付き、頬杖を突きながら、里へと続く道を見る。
 「何を待っているの?」
 後ろから聞こえる声に、視線さえもくれずに笑う。
 「お前を待ってたよ、化け猫」
 そうなのそうなのと、くたらと燐が笑った。
 「今度は連れて行くよ、お姉さん」
 「そうはさせるか」
 「でも、もう、時間切れ」
 「なんだと?」
 振り返れば、そこに居たのは赤い髪を三つに編んだ怪が一匹、唇を眉月に歪めて笑っていた。
 「もう、あの娘はあたい達の家にいるのさ。ほうら、見てみて?」
 差し出した、腕の先に青白い炎が燈る。中に映るは陰影を濃くした骸が一つ、ぼうと浮かんで、ぐるり
ら廻り続けていた。まるで、もがきながらも燃えながら、悶えて苦しむ人の様な。
 「あの娘はもう、輪廻の輪から外れたのさ。苦しんでも、喘いでも、あたいと一緒に躍るしかないの。
きっと楽しいさ、きっと嬉しいさ、少なくとも、あたいはそれが楽しくて仕方がないの」
 「お前…!」
 立ち上がり、腕を振るうとこうと赤黒い炎が周りを巡った。
 「何が楽しいって、咎人が、一縷の望みを持って落ちて、けれどずっとずーっとあたいと一緒に躍るし
かないと気付いた時の色が楽しいんだよ。お姉さんには、分からないだろうけどね」
 くつらくつと笑い続く。
 「結局…」
 「うん?」
 「結局、お前の楽しみだけで、あの娘さんを地獄に引き摺り落としたのか?」
 「あたいだけじゃないよ。こいし様の為でもあるし」
 「…じゃないのか」
 ごうと火の輪が大きく広がる。紅く熱く、深く燃え広がって、妹紅の体に絡みつく。
 「なんだい、お姉さん?」
 「あの娘さんの為じゃないのか?」
 きょとんとした顔の後、けらけらと明るく笑った。
 「どうして? 何の繋がりもないのに」
 「お前は言った筈だ、お前らと一緒に居た方が、その娘さんは幸せになれるって」
 「楽しい筈とは言ったけれど、幸せになるとは言ってないよ。誰にも愛されないまま死んだ娘が、幸せ
になんかなれると思うのかい?」
 ぎりと奥歯を噛み締め、ただ黙って、妹紅は燐を睨み続けた。口先よりも雄弁に、廻る炎が燃え盛る。
 「何をそんなに怒ってるんだい? あのハクタクだってそうじゃないか」
 くたらと笑いながら、幾つもの青白い炎を廻りに躍らせる。
 「あのハクタクだって、あの娘を愛してた訳じゃない。あの娘を愛している自分が好きだっただけ。皆
そうじゃないか。人間なぞ、皆そんなもんじゃないか」
 「訂正しろ…」
 「いやだよ」
 「訂正を、しろ!」
 燃え盛る炎が翼を描き、握り締めた拳も紅に染め上げた。階段を踏み、大きく駆け上がる。にたりと笑
い続ける猫に向けて、紅蓮に染まった腕を振り下ろせど、猫は躍る様に、くるらと巡り、避けた。
 「おっと、あたいはお姉さんとはやり合いたくないよ。どんなに頑張っても、お姉さん、死体になって
くれないんだもの」
 とんとんと、後ろ向きに階段を駆け上がっていくのを、妹紅は何度も何度も拳で追った。右に振るえば
左に回り、左を追えば、後ろへ抜ける。のらりくらりと避けながら、猫はけらくた笑い続けた。廻る度、
花が咲いた様に色彩が躍る。追いかけても、追いかけても、縮まらないその距離に、ぎりと焦りが奥歯を
震わせた。
 幾度目かのやり取りの後に、気が付けば一人と一匹は神社の境内にいた。
 閑散とした舞台の真ん中で、紅く染まった舞いが続く。右に行けば左に回り、左に行けば上を飛び、後
ろを辿れば、右に行き。くるりと廻ってまた最初。
 「お燐。もう、終わりにして良いよ」
 気配なく、言葉が聞こえた。
 鳥居の下、階段の終わりに、一人の少女が笑っていた。
 「こいし様!」
 「もうそろそろ帰ろう、お燐。私、飽きてきちゃったわ」
 古明地こいしは帽子のつばに指を掛けながら、柔く笑っていた。
 「待てよ、勝負はついていない」
 「妹紅の言う通りだ」
 こいしの後ろ、階段の途中でまた声がする。
 「あら、ハクタクのお姉さん」
 「あの娘を返してもらうぞ、覚の妖」
 こいしを見つめるその瞳には、確かな心の色が映る。
 「ねぇ、お姉さん。今、どんな気分? 大好きだったけど、煩わしかった玩具を取り上げられて」
 「私は、あの娘を確かに愛してはいなかったかもしれない」
 一歩一歩踏みしめながら、慧音は階段を上り続けた。
 「私は、あの娘の名前を知らない。聞いてもやらなかった。でもな」
 こいしの目の前まで、歩き続き、一段下で足を止めた。
 「だからこそ、せめて、ちゃんと人として死なせてやりたい。そういう気分だ」
 「ふぅん…そう」
 初めて、こいしの顔から笑顔が消えた。
 「そうなんだね。お姉さんも、そうなんだね」
 帽子のツバが陰になって、瞳の色を隠してしまう。
 「誰かの為、誰かの為だからって、皆心で嘘を吐く。好きでもないのに、好きだと言う。挙句の果てに、
知った様な事を言って、勝手に結論づけて、それっきり。分かったよ。お姉さんの心は、もう、沢山聞い
てきたから。分かったよ、お姉さん。あの娘は渡さないよ。絶対に、渡さないよ」
 そろりと一枚、こいしは懐から札を引き抜いた。
 スペルカード、慧音がそう気付いた時には。
 「『嫌われ者のフィロソフィ』」
 甘い声が耳に届く頃には、既に彼女の姿はなく。代わりにあったのは、一輪の白い薔薇。そして、格子
状に同じ色をした球状の光が空一面に広がっていた。その存在に気付いた時には、格子状に並んだ球が一
斉に地面へと降り注ぐ。僅かに疲れの残る体に鞭打ちながら、降り注ぐ球を避けていく。
 「ち、何処だ?」
 「見えないでしょ? 皆、そう。心を知りもしようとしないから、私の姿は見えない」
 くつと聞こえた言葉は、蜜に浸した氷の様に、慧音の耳へと響いていた。
 幾重も幾重も降り注いだ球が、地面に当たる度に薔薇の色彩を残して、咲いていく。避ければ避けただ
け、地面に咲いた薔薇が逃げ場を食らっていく。右に避ければ、左に咲いて。上に逃げれば、下に咲いて。
左に避ければ、右に咲いて。下に避ければ、上に咲いて。気付けば毒の薔薇に取り囲まれて、もう何処へ
も行けなくなっていた。
 「さようなら、ハクタクのお姉さん」
 最後の一つ。見上げた先に広がった朱色の球が、真っ直ぐに慧音へと向けて落ちて。
 腕を交差させ、直撃を避ける様に、慧音は目蓋を閉じて構えた。
 当たる、そう思えども、いつまで経っても、衝撃は訪れない。
 恐る恐る、瞳を開ければ、そこには見慣れた色が揺れていた。
 「どうでも良いけど、ひとん家で暴れないでくれる?」
 指と指の合間に札を挟んで、博麗霊夢が飽きれ気味に苦く溜息を吐いていた。
 
 「なるほどね」
 縁側に腰掛けて、霊夢は静かに茶を啜っていた。
 慧音と妹紅が再び顔を合わせた時には、既に地底の民の姿はなく、あるのは時間を失った灰色の空に照
らされた神社の境内だけ。掻い摘んで、経緯を説明し終えた時には、もう夜と夕の狭間が風に入り混じっ
ていた。
 「で、どうするの?」
 「地底に行く」
 慧音は、博麗の巫女が告げた投げやりな問いに、強くそう答えた。
 「行ってどうするの?」
 「あの娘を取り戻す」
 「ふぅん」
 まぁ好きにしたら良いけどと、ぱりとしけった煎餅を一口食んだ。
 「随分と気のない返事だな」
 妹紅は咎める様に問いかけど、巫女はそ知らぬ振り。
 「個人的には無駄だと思うけど」
 「どうしてだ?!」
 巫女に掴みかからんばかりに、顔を寄せ、慧音は強く問い掛けた。
 「どうしてもこうしても、一度輪廻の輪から外れたら、もう二度と戻れないわよ」
 ―時間切れだよ。そう呟いた火車の言葉が妹紅の脳裏に過ぎった。
 「どういう、事だ?」
 「そのままの意味よ、慧音。こないだ、あのサボタージュの泰斗が来た時に言ってたのよ。一度、輪廻
の輪から外れた霊は怨霊になるより他にないって。あの地霊殿の猫がたまに来てるって言ったら、『連れて
行かれないようにしなよ』って。珍しく真面目な顔で言ってたから、本当なんでしょうね」
 「そう、か…」
 慧音は振り下ろした拳の行き場所を亡くして、右腕で体を軽く抱いた。
 「まぁ、もう終わった話よ」
 さて、夕飯の支度するから、早く帰ってねと霊夢は神社の奥へと消えた。
 「慧音」
 「なぁ、妹紅……私は、やはり地底に行こうと思う」
 「そう」
 「ああ、だって。私は、彼女の名前も知らないんだ」
 「今日は、もう遅いよ。慧音、夜雀の店で一杯引っ掛けようじゃないか。今日は、付き合うよ」
 ああと、小さく告げて、一人と一匹は、神社の階段を降りて行った。
 
 
 くらりくるりと華の舞う。
 女郎花と錆御納戸の華の舞う。
 幾重にも入り混じった硝子の色と粘ついたぬばたまの舞台で一輪の花が舞い続けた。
 「ねぇお姉ちゃん」
 紅茶の香りを聴きながら、楽しそうに嬉しそうに踊る猫の姿を、古明地こいしは無愛想に佇む姉へと問
い掛けた。視線だけで答えるのを、こいしは笑いながら見つめていた。誰にも見せない程に、柔く笑うそ
の顔は、心の底からの物であった。
 「あの娘は楽しいのかな? 悲しいのかな?」
 燐の躍る中、周りにくるりら炎が巡る。青白い、怨霊の燃える灯。その一個には。
 「さぁ、どうかしら」
 ふと目を向けた、その先。
 テーブルの向こう、調度品の並んだ壁際に鴇色のビロードが敷き詰められた、一脚の椅子が置かれてい
た。そこには、蘇比と沈香茶で染められた煌びやかな振袖に包まれた、老婆の遺骸が座らされていた。
 「どう、思うのかしら?」
 ―***さん?
 そぼりと、さとりが、一つの名を告げた。
 その時、燐の周りを躍る怨霊の一つが、びくりと震えた気がしたが、踊りの中に紛れて見えない。
 「うん? お姉ちゃん、それ誰の名前?」
 薄くさとりは笑う。
 「誰にも愛されなかった、可愛そうな子供の名前よ」
はじめまして。
海綿です。

初投稿なので、どのぐらいの長さにしたら良いのか分からず、書いたままにあげてみた次第です。
海綿
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コメント



0.1860簡易評価
1.100GUNモドキ削除
初投稿でこのクオリティですか。
いやはや、その才能に脱帽です。
本文中に擬音をわざと並び替えて表現を行うなど、私は結構好きだったりします。

良い文章だったので、話の長さは苦になりませんでした。
むしろ読み応えがあって満足だったりします。

ごちそうさまでした
3.90名前が無い程度の能力削除
私には、他人の心を簡単に解ったと嘯き、好き勝手を言っているのは、
古明地こいしであり、火焔猫燐の方だとしか思えません。

‥それでも、精緻な表現に溢れたこの作品を嫌いにはなれないのです。
よい作品をありがとうございます。

一つだけ誤字ではないかと‥、
> 眠る度、眠り続ける度、心を取り残して、身体だけが置いていく。
は、
眠る度、眠り続ける度、心を取り残して、身体だけが老いていく。
では? 間違っていたらごめんなさい。
4.80名前が無い程度の能力削除
不思議な感じでした。
文章はすばらしかったと思います。
6.100朋夜削除
『恐怖が四方より迫る』
そんな印象を貴方の文から感じとりました。
黒く、暗く、それでいて何処か優しい恐怖劇…
指摘したい事と言えば改行くらいで、それは初めてなら納得行きます。
良いと思います。
次作にも期待。
7.100名前が無い程度の能力削除
たとえお燐に連れて行かれるのを阻止したとしても
***さんはお金が足りなくて川を渡れないわけで、
やるせない話ですよね。
閻魔様なら「周囲は貴方を嫌いましたが、あなた自身は
いったい何をしましたか?何もしなかった事が罪なのです」
とでも言うんでしょうか。
そんなこといわれてもなあ(´・ω・`)
8.100名前が無い程度の能力削除
インデントや改行の所為で少し読みにくかったけれども、中身の良さに比べたら些細なものでした。
ごちそうさま。


終始「ねえねえ、今どんな気持ち?」のAAが頭に浮かんで離れなかった。
9.100名前が無い程度の能力削除
読んでてゾクゾクしました。
妖怪はこうでなくちゃ。
10.90名前が無い程度の能力削除
欺瞞、ダメ、絶対。ってこいしちゃんが言ってた。
面白かったです。
12.100名前が無い程度の能力削除
良い意味で歪。

慧音だって完全正義じゃないってことですよね。
あと永琳の一言は大きいですねぇ・・・
17.90名前が無い程度の能力削除
うかうか読んでいると心に牙をたてられるようなSSですね。
ただその猛々しさが、妙に切ない。
名を呼んださとりは、優しい妖怪だなと思います。
18.80名前が無い程度の能力削除
嗚呼 これはとてもとても気分の悪い話ですね。
だが同時にひどく納得いきました、これなら確かに嫌われ者として追われるのも無理は無いです。

心を知ろうとしてないのはこいしですよね、そしてそれを理解しながらも自分の詭弁のダシに利用するお燐、よい組み合わせでした。
21.100名前が無い程度の能力削除
物語がハッピーエンドであるとは限らないと思い知らされた気がします。
いや、それとも名前を呼んでくれただけで十分なのでしょうか。
29.90名前が無い程度の能力削除
不思議で素敵で幻想的な良い物語であると感じました。素晴らしいです。
32.90名前が無い程度の能力削除
これぞ嫌われ者ですな。
面白かったので次にも期待。
34.100名前が無い程度の能力削除
重厚な文章と吸い込まれるような世界観に脱帽しました。
素晴らしかったです。
35.100名前が無い程度の能力削除
みんな素晴らしかったが、特にてゐの役回りが秀逸だった。
いたずら好きだけど、一生懸命に人と関わって走り回る、感情豊かなてゐが。
慧音への説得は心に響いた。
あなたの書く物語をもっともっと読んでみたいです。
36.80名前が無い程度の能力削除
これは正しく、忌み嫌われた妖怪たちだなあと感じました。
41.100名前が無い程度の能力削除
こいしの矛盾がいい味
47.90リペヤー削除
酷過ぎる……なんて同情するのは偽善なんでしょう。
お燐とこいしが妖怪らしくて良かったです。
さすがは地底に追われた妖怪。忌み嫌われるにはワケがあるってところですね。
48.100名前が無い程度の能力削除
言う事なし。
ただ、その文章と感情に心を引っ掻き回されたばかり。
51.80野田削除
慧音も妹紅も、芯から自分の正義を信じて娘を守っていたわけではない。
こんなことをしても何にもならない、ただの自己満足なんだ、と。
でも、「それでも」、というのがこの物語のキモなのでしょう。

娘が愛されないことを何度も強調され、しかもそれも仕方ないと思わせる執拗な描写。
このくどさは印象に残りますね。
それにしても、地上と地底の連中の関係というのは、やはりおおむねこのようなものだと私も思います。