「柔らか~い! 気持ちいい! 最高の素質ね~」
体を弄られている感覚に、紫は目を覚まさざる負えなかった。
紫は目覚めが酷く悪い。この長い長い人生、今までパッチリのお目覚めを味わったことがないくらいだ。たったの一度も。
しかし好き放題に体をまさぐられてそれでもぐっすり寝てられるほど鈍感でもない。
重たい瞼を無理やりに抉じ開けると目の前には可愛らしい顔を少し赤く染めている少女が見えた。
「れ……霊夢?」
紫は現状の把握が間に合わず頭に浮かんだ名前を呼んだ。
霊夢と呼ばれた少女はぎくぅ!? ととび跳ねて、赤い顔を青く染めながら紫を見た。
「お、おはよう。紫」
だらだらと汗の流れ始めた霊夢をぼんやりと見つめてから、紫は自分の体に目を落とした。
ぷるんと、胸骨の上で二つの塊がのたうっていた。それを押さえ、形を整えるために嵌めているブラは隣の畳に放られてある。紫は上半身裸だった。昨日は暑かったから薄い羽織に腕を通して寝ていたのだった。それが体の真ん前で止められていたボタンを外され、肋骨の浮いた白い胴を晒していた。
「いやこれはね、何か……そう何かの間違いなのよ」
そののたうってる塊を、霊夢は両手で引っ掴んで顔をうずめていた。ぎゅうぎゅうと形が変わるくらい握りしめて捏ね回している。
「うん、間違い。間違いなのよ」
言い訳を続けながら乱暴に胸を弄り続ける。
紫はまどろみの中から無遠慮に意識を引きずりあげられた。
はぁ……っと目を見開き、続いて怒りと羞恥心で耳までを赤に染めてひくひくと頬を震わせた。
「わ……わかってくれる? 紫」
「何してんのよぉ! この馬鹿ぁ!!」
「あべしっ」
ボゴムッ。
そんな鈍い音がした。
妖怪の力は推して知るべし。細腕の紫でさえ岩を握り砕く力があるのだ。
その凶悪な衝撃をモロに左頬に受けた霊夢はぐりんと回転しながら中に浮いて壁に叩きつけられた。
あまりにも強烈な一撃。人間なら即死の勢いだった。例えどんなに苦難に身を浸らせ鍛え上げた大男であろうと。
霊夢が幸運にも命を取り留められたのは、天性の勘と反射神経で首を捻ってダメージを軽減させたからに他ならない。もし須臾の時間分も捻るのが遅れていたのなら、幻想郷大結界の媒体となっている巫女の首はくるくると皿回しの皿のように体を離れて中を舞い、結界は崩壊し、幻想郷は赤裸々にその姿を世界に晒していたに違いない。
―――――――
「あなたねえ! どこから、どうして、どうやって入ったの!? 簡潔に説明しなさい!」
紫はいつものドレスと道士服の境界を曖昧にしたような服を身に付けて、結界に縛り付けた霊夢を睨んだ。霊夢は手足をそれぞれ独立した結界で縛られて身動きも出来ない。頬に紅葉を咲かせていた。
紫からの質問を受け取った霊夢は快活に叫んだ。
「サー! 神社から、乳を揉む為に、幻想空想穴で侵入しました! サー!」
簡潔であった。
「この馬鹿っ! 真昼間から人の乳を揉み倒すために不法侵入なんて呆れて物も言えないわよぉ!」
「だってぇ、揉みたかったんだもん! 我慢できなかったんだもん!」
「我慢しなさいよ! 外の世界じゃあ臭い飯食う羽目になってるわよ!?」
「我慢するくらいなら臭い飯食った方がマシよ!」
やはり人間と妖怪。根本的な部分で価値観が違うようだった。
「そして私は縛られないっ。どんな縄だろうが鎖だろうが私を縛ることなど出来ないっ。私は幻想郷の巫女! 博麗の名に選ばれし者! 例えそれが法律だろうが私は従わない断じて!」
「……もしもし警察ですか? ちょっと危険思考の犯罪者がいるので……えぇそうです。あの、今そっちまで連れて行くので、はい、はい。ああそれなら大丈夫です。脇丸だしなのですぐ分かると……」
霊夢が「まって~」と哀れを誘う声で紫に呼びかけた。外の豚箱に強制送還なんて冗談じゃない。
「大体ねえ、私とあんたの付き合いでしょ!? 乳の一つや二つ喜んで差し出しなさいよ!」
「何開き直ってるのよバカチン!」
ばきぃ!
紫は持っていた携帯電話を霊夢の頭に叩きつけた。不幸にして携帯電話は真っ二つにへし折れ、ネジやら何やら細かい部品を吐き散らせながら畳の上に転がった。
「いいこと!? 幻想空想穴はとってもありがたい術なのよ!? 初代でさえ開発に数年かかって、それからあなたまで十数代の巫女でも完全に身につけた者は極少数。そんな業を己の欲に使っていいと思ってるの!?」
「秘術だかなんだか知らないけどぺらぺらページ捲っただけで身につけれる術なんだから大したことないわよ!」
「それはあなたがおかしいのよ!」
紫は取り出した扇子でパシパシと立て続けに霊夢の頭を叩いた。
「そもそも私の邸は境界の狭間にあって……空間移動でも来れるはずないじゃない! 一体どうやったの!?」
「普通じゃ無理だって何となくわかってたから、分離法とか微分積分とか結界術とか相対性理論とかややこしい書物を流し読みしてアレンジしたのよ。この私が二十分も本を読むなんて前代未聞よ!」
「謝りなさい! 全世界の研究家達に謝りなさい!」
何という才能の塊だ。しかし使いどころが著しく間違っている。
紫は霊夢の手足の束縛を解除して隙間を開いた。霊夢の体が重力によって隙間の中に落下を始めた。
「え……? ちょっとちょっとおぉぉぉぉぉ!?」
「少し反省してなさい!」
霊夢の悲鳴が、隙間の中に消えていく。紫は隙間を閉じて溜息をついた。
「全く、どうしてこんなにデレカシーがないのかしら」
紫の掌の上にぽうっと赤い灯がともった。それを別の隙間から出した蝋燭に移して、灯していく。
計五本の蝋燭の灯を円をベースにした模様の陣に丁寧に乗せる。
即席の四重結界よりもよっぽど脱出が困難な結界だ。
「いくら霊夢でもこの結界からは出られないでしょう」
これだけ厳重に封印されれば自分でも参ってしまうかもしれない。そう紫は苦笑した。
時計を見てみると昼を少し過ぎたばかり。
早くに起きてしまったな~と欠伸をした。もう今日は眠れそうにない。藍は橙の修行に付き合っているのだろう。家の中に気配はなかった。
紫は欠伸を噛み殺してシャワーを浴びに部屋を出た。真新しいタイルの床を踏みしめてバスルームに向かう。紫の力が強く作用しているこの家には老朽化という現象は起こり得ない。よって百年経とうが千年経とうがそのままだ。埃くらいは溜まるが優秀な式がくまなく掃除してくれているので綿ゴミ一つ落ちていない。ガラス窓は磨きあげられてピカピカだった。
バスルームについた紫は服を脱いでドレッサーの前に立った。かなりのプロポーションを誇っている美女が映し出されている。出ているところは出ているのに、細く括れているウエストははっとするほど美しかった。白い肌もキメが細かく光によって上等なシルクのような光沢を放っていた。
「霊夢が欲しがっちゃうのも無理はないわね」
普段は相手を威嚇するように笑みを作っている紫が外見年齢と同じように、屈託のない微笑みを浮かべた。
紫は霊夢を嫌ってはいない。嫌ってないと言うよりむしろ明確な好意を持ってさえいた。彼女の見せる喜びが、彼女の見せる怒りが、悲しみが、楽しげな表情がどうしようもなく紫を惹き付けた。紫はなるべく彼女と一緒に居たかった。紫の性格から言いだすことは恥ずかしいけれども、出来るものなら同棲したいと思ったことさえある。理由がなくてもいい。一生一緒にいたい。それだけ霊夢を愛していた。
だからこの珍事は紫にとって喜ばしいことのはずであった。目を覚ましたら大好きな彼女が目の前にいるのだ。喜ぶべきことじゃあないのか? いや喜ぶべきことである。
しかしどうしても紫は霊夢の珍妙な行動(というよりはもはや変態の所業)を喜ぶことは出来なかった。
いや確かに嬉しい。嬉しいわよそりゃ。好きな人が自分の体に欲情してくれてるんだから嬉しいわよ。悪いか。
紫はシャワーを頭から被ってぶつぶつと呟いた。
いくら嬉しくても、それが喜ばしいと結びつけるのは少々早急である。慌てん坊さんめ。乙女心は複雑なものなのだ。
ここで首を傾げる方は想像して欲しい。誰にでもちょっとはいいなと思う男性でも女性でもいると思う。その人が朝起きたら自分に被さっていてはぁはぁしていたらどうだろうか?
そうだ。
普通はヒく。問答無用でヒく。いや、ヒくだけならまだ優しい人だ。警察を呼ばれてもおかしくはない。
「警察はこっちにはいないけどねぇ」
紫は呟いてリンスーが兼用になっているシャンプーを髪に馴染ませて泡だて始めた。ジャスミンの芳しい匂いが浴槽に染み込んで行く。髪の長い紫には洗うのに大分時間がかかった。
髪についた泡を手で揉みながら丁寧に落として浴槽から出た。ふわぁ、と白濁色の湯気が脱衣所に広がる。
バスタオルで丁寧に体を拭いて、髪を乾かした。あと一時間もしたら出してやろう。そんなことを考えながら。
部屋に戻ると紫は驚愕した。
赤いリボンが揺れていた。洋服をしまっている箪笥の前で。
「あなたどうやって……!?」
「甘く見たわね紫! くんくん……私は神に愛された巫女よ!? すーはー……あの程度の障害で私のビートを止められるなんて片腹痛いわ! ふんふん……」
「何よそれ!? というか嗅ぐな!」
机の上に置いていた蝋燭は五本とも折れていた。
これは単純に言えば五桁のパスワードを勘で解除した様なものである。ちなみに確率は1/100000。宝くじの三等(百万円)を当てるのと同じ難易度である。つまり紫の寝巻きをくんくんしている腋巫女は百万円と同等の価値があるといってよい。需要は皆無だろうが。
「それより私に言わせればねぇ、下着はどこに行ったのよ!? この前までこの箪笥の上から二段目に入ってたじゃないの! 早く出しなさい!」
「ああもう何がなんだか解らないし解りたくもない! 確率論なんて物ともしない豪運も人の物を弄り倒してあろうことか堂々と『下着出せ!』とか言う神経も信じられない! そもそも何であんたが私の下着の在りかを知ってるのよこの馬鹿ぁ!」
「げふぁ!?」
ごしゃあ!
紫のローキックが霊夢を直撃した。それはもう『撥ねた』としか形容できない勢いだった。
しゃがんで紫のフェロモンを存分に堪能していた霊夢は大型のダンプが子猫を……そんな考えたくもない想像を駆り立てる音を立てて撥ね飛ばされ壁をぶち抜いて隣の部屋――藍の私室に転がった。
例外なく凶悪な一撃。人間なら問題無く即死の威力である。例え体重二百キロを超える筋肉ダルマの大男だったとしても。
この時霊夢が一命を取り留めることが出来たのはやはり天性の勘と反射神経により紫の脛が腹と接触する瞬間にしゃがんだまま後ろに跳び下がり衝撃と勢いを殺したからに他ならない。もし刹那ほどの時間もタイミングを外してしまったのなら、巫女の胴体は腹から真っ二つに分かれて断面からピンク色のホースを畳の床に吐き散らしたに違いない。
――――――
殺す勢いで蹴ったのは紫だ。しかし事の初めは霊夢に非がある。この場合悪いのはどちらだろうか。
「……」
紫はぼんやりとベットサイドに座って、眠り扱ける霊夢を見つめた。
ここは永遠亭。月の姫を筆頭に実力者たちが集まる幻想郷でも大きな勢力の一つである。中でも八意永琳は紫も一目置くほどの存在だった。
霊夢がぐったりしたまま動かないので流石に心配した紫は永遠亭を訪れたのだ。襤褸雑巾のようになっている霊夢を担いで。
「ねぇ、霊夢は大丈夫かしら?」
「ん~、大丈夫ではないんだけどね……」
永琳はカルテを紫に渡し詳しい説明をした。
首の骨にひびが入り内臓が二か所破裂しているらしかった。
紫は青ざめる。暢気にしてられる傷でないのは明らかだった。
「は、早く何とかしてよ」
「解ってるわ。今うどんげが準備してる。手術するわ」
「ああ……私ったら何て事を……」
罪悪感に苛まれる紫を励まして、永琳が言った。
「危ないのは危ないんだけど……こっちが危機感にかけてしまうと言うか」
「どういうこと?」
くいと顎で指し示す永琳。
紫は、たった今手術台に運ばれていく霊夢を見つけた。思わず飛びついて台車のベットに横たわる霊夢に声をかけた。
「霊夢! 霊夢!」
「ゆ……か……り……」
霊夢は青白い顔で震える唇を動かした。
紫は溢れる涙を押さえられずに、霊夢の両手を握りしめた。
「ごめんなさい霊夢! 私がやり過ぎたから……!」」
焦点が合っていない。紫を見つめる霊夢の目はガラス玉のようだった。
うわ言のように、小さな唇を動かして霊夢は続けた。
「……の……おっ……ぱ……い」
紫はたっぷり三秒呆けて、徐々に顔を赤く染め、びきぃと青筋を立てた。
霊夢の虚ろな目は間違いなく目の前の膨らみを捉えていた。
「結局あなたはそれだけかあああああ!!」
「いぎゃあああああああああああああ!?」
ぐしゃあ!
そんな重たい音を立てて霊夢の両手は砕け散った。
岩をも砕く妖怪の握力については前述した通りである。
手術は何事もなく無事に終えたが、問題なのは霊夢の砕けた両手だった。
まごうことなき破裂骨折。ひしゃげたゴム手袋の様になった霊夢の両手をまじまじと観察して永琳は「……すげぇ」と感嘆の呟きを漏らしたらしい。
内臓の破裂や首のヒビは思いの他簡単に直せるようだったが、両手の怪我はあまりにひどく時間がかかると言われた。しかし普通破裂骨折とは完全には治せないほどの重症なのである。直せるだけでも永琳は名医といってよかった。本人は実験マニアの薬屋だとしか言わないが。
そんなこんなで、両手をミノ虫のようにした霊夢が簡素な白いベットの上に寝かされることとなった。
寝息を立てている霊夢は誰もが目を見張るほどの美少女である。
紫は霊夢の寝顔を見て赤面して視線を外し、また霊夢に目を向けて赤面して逸らすという不毛な行動を何度も繰り返していた。
きめ細かい肌はもちろんのこと、端整な顔立ちも整った眉もほっそりしている体も少し小さめの胸も堪らなかった。
黙っていると天使、または女神のようだ。これは紫のフィルターがかかっているせいではない。証拠に窓の外から何匹もの兎が霊夢のことを眺めている。口々に「綺麗ー」とか「可愛いー」とか。
性格さえどうにかすれば取り合いに発展するんじゃなかろうかと紫は少し心配になった。
「紫……」
名前を呼ばれて、紫は飛び上がった。
霊夢は目を閉じたままだ。寝言のようだった。
赤い唇が小さく動いていた。
「紫……」
可愛いとか愛くるしいとかそんなちゃちなもんじゃねえとでも言いたげな表情で紫は氷付いた。
もはや犯罪的だった。というか犯罪者になりたかった。強姦罪って禁錮何年だろうと考え始めたところで、霊夢が目を開けた。
「目、覚めた?」
霊夢は短く「ん」と言った。紫と同じように霊夢もまた寝起きはあまりよろしくないのだ。
光の籠らない眼でぼうっと天井を眺めている。
「いい天気ね」
「そうね……ってあなたの視角からじゃ空、見えないじゃない」
紫は空を見上げた。澄み渡った青が広がる空に太陽が浮かんでいた。確かにいい天気ではあるが。
「私どのくらい眠ってた?」
「丸二日ほどね」
「そんなに」
霊夢は少し驚いた様子で眉を上げた。
「永琳を呼んでくるわ。目が覚めたら教えてくれって言ってたから」
「わかった」
ぼそっと呟く霊夢は何だか人形みたいだと紫は思った。
紫は何となく気分で、歩いて永琳を呼びに行った。長い長い廊下を歩いて、『実験室』と札が下げられている部屋(札の隅っこに『ノックしないと命の保証は出来かねません』と小さく書かれてある)の前で止まった。
ノックをすると中から声が聞こえた。よく聞こえないが、くぐもった声で「ぢょっと待っでー、げぼげぼ」と言っているようだった。扉に耳をつけるとブシュウ、とかジュワワッとか何かが溶解する音が聞こえてきていた。何だかぞっとしたので大人しく待つことにした。
しばし待つこと約五分。中から「どうぞ」と聞こえた。
部屋に入るとしゅうっと革靴から煙が上がった。ぎょっとした紫は体を浮かせて、永琳を探した。
実験室は簡単な作りであまり広くはなかった。所々に割れた試験管やガラスの破片、何かの汁が溜まっている。
永琳は落ち着いた様子で机に座っていた。右腕が小さな虫に喰われた様にぼつぼつと穴だらけになっていた(それもすぐに跡形もなく治ってしまったが)。
「どうしたの? 境界の妖怪さん」
「霊夢が目を覚ましたわ」
「やっとね。わかったすぐに行くわ。『これ』のレポート纏めてから」
永琳のさす『これ』とは何のことだか分からないし知りたくもなかった紫は「早く来てね」とだけ言って、霊夢の病室に戻った。
病室に戻ると霊夢は窓の外を見ていた。そこから見えるもの何て兎と竹しかないので紫は退屈だったのだが。
「何見てるの?」
「ああ、紫。あれ見てよ」
紫は窓の外を見た。人型に変化出来るまで成長している兎が何匹か追いかけっこをしていた。
「元気ねぇ、子供なのかしら」
「さあ? もしかしたらあなたより長生きしてるかも知れないわよ?」
動物が妖怪になるには結構な時間と天賦の才がいる。紫の一番身近にいる藍は九尾という特殊な生まれで誕生した瞬間からすでに妖怪でありそこらの妖怪より強かった。が、その式の橙はまた違う。
橙は十年程度猫を続けて化猫に昇華した妖怪である。そこらの兎はもっと長い間兎を続けていた可能性だってあった。
「羨ましいの?」
「いや私は……あ……!」
霊夢は短く声を上げた。外を見ると元気の良い男の子が転んでいた。すぐに起き上がって「てへへ」と笑う。
「見たでしょ?」
「うん、転んだわね」
紫が言うと霊夢は唇を尖がらせて言った。
「違うわよ、もう一度よく見てなさい」
起き上がった男の子はまた元気よく走り出し、また石に躓いて転んだ。よく転ぶ子だと紫は思った。
「見たでしょ?」
「転んでるだけじゃない」
「転んでるとかそこらはどうでもいいのよ。肝心なのはハーフパンツよ」
「はぁ?」
紫と霊夢が見ている前でまたもや男の子が転んだ。するとハーフパンツから白いものが見えた。
霊夢はおお、と沸いた。
「また見えたわ。ふふ。たまには幼い男の子のパンツもオツね」
「ってそういうこと? このロクでなし」
「しかもあの子、女の子の前でしか転んでないわ。転びながらスカートを覗いてるのよ。将来有望ね」
紫は呆れて病室に目を戻した。
すると永琳と鈴仙が入ってきた。鈴仙は書類と医療道具を抱えていた。
「どうかしら、調子は」
「本調子の十分の一かしら」
「どこか悪いんですか?」
鈴仙は心配そうに聞いてくる。
霊夢はミノ虫になっている両手を上げて見せた。
「これだしね。やっぱりつまらないのよ。見てるだけじゃ」
紫と手術の前に被害に遭ったのだろう永琳はこの言葉の意味を理解できた。
鈴仙の「どういうことですか?」という質問を遮って永琳は言った。
「今日の診察はうどんげにやって貰うことにしたの。やっぱり経験は積んでおかないとね」
「よろしくお願いします」
鈴仙はぎこちなく頭を下げた。
「見習いってわけ? ナース服似合ってるわよ。可愛い」
「ありがとうございます」
鈴仙は顔を赤くした。
「昨日大怪我した子が運ばれてね。実験途中だったからうどんげが対応したんだけど、やっぱり経験が浅いといざって時にね」
「エリーさんって言ってましたよね。メディの友達の」
「正確にはメディの友達は幽香で――まあどうでもいいわね。友達の家族」
「赤の他人じゃないですか」
紫はあの幽香にも友達がいたのかと驚いた。エリーは幽香の屋敷の門番で面識はあった。それよりメディという名前が気になった。
霊夢の方を見ると、霊夢は幾分鋭い視線を鈴仙に向けていた。
「……エリーが?」
「ああ、エリーさんと面識あったんですか。彼女、全身を強く圧迫されたようで両上腕骨が砕けて、肋骨がヒビだらけでした。酷いもんでしたよ」
「どこにいるの?」
「別の病室です。妖怪用の薬は作るのに時間がかかるので自然治癒の方がいいんですよ」
霊夢もエリーという妖怪が気になるのだろうかと紫は場違いな嫉妬に駆られ、己を恥じた。
「……巻き込まれちゃったのか? もう遅い……いや――でも。何にせよ急いだ方が……」
霊夢は静かに――――眉をひそめていた。
「霊夢?」
深刻そうな表情でぶつぶつと呟く霊夢に紫は怪訝な表情を向けた。鈴仙と永琳も不思議そうな顔をしていた。
それに気が付いたのか霊夢はっとして我に帰った。
「ん? いや何でもないわよ。紫のと永琳のとどっちが大きいのかなって……あだっ」
永琳からチョップを落とされ霊夢は額を押さえた。
「はい馬鹿な事は言わない。うどんげ。まずは体温、脈と血圧を測りなさい。点滴の量がおかしくないか確認して血液検査。顔色や調子も見ること」
「はい!」
初々しく返事をして、鈴仙はカルテに何かを書き始めた。
そしてベットサイドにある小さなテーブルに器具を置いて霊夢の腕を遠慮がちに取った。
「し失礼します」
鈴仙は顔を赤くして、ちらちらと霊夢の方を見ていた。両の長い耳がピンと張っている。
紫でなくとも霊夢に気があると言うことがわかるだろう。それは表情を変えない永琳もだと思うが。
もう一度記述しておくが黙っていさえすれば霊夢は『幻想郷美少女ランキング(文々。新聞)』で常に三指に入っている程の女の子である(同著の『幻想郷変態ランキング』『幻想郷犯罪者ランキング』『幻想郷恋人にしたくない女の子ランキング』では断トツ一位の三冠王)。顔立ちが整っているとかそういうことを省いて、もっと根本的であり本質的な部分で誰とも構わず惹き付ける。それはもう不思議な魅力としか言いようがない。何かに例えるとするなら歩く惚れ薬である。
鈴仙は霊夢の脇に体温計をさして、血圧を測る。霊夢も何だかもどかしそうにしている。時計を見て時間を確認すると、体温計を引き抜いた。そしてデータをカルテに書いていく。
続いて点滴の量を微調整した。
「霊夢さん、御調子はどうですか?」
「あんたって敬語だったっけ?」
「いえ、仕事ですし。敬語の方がいいかなと」
「片っ苦しいのは止めた方がいいわよ」
「そ……そう?」
「いつかみたいに自信過剰なくらいがちょうどいいと思うわ」
「わ……わかった」
表情は硬いが鈴仙は嬉しそうな顔をしている。
「あ、うどんげ。霊夢の服」
永琳は霊夢の袖を指さした。
見ると黒いシミが付着していた。墨のような光沢を放っていた。
「洗濯くらいきちんとやらせなさい」
「あれぇ? 一番綺麗で新しい物のはずなんですけど。取り替える?」
「いいわ、気にしなくて。それより調子なんだけど」
霊夢は話を切ろうとしたのか、話題を変えた。
「両手が使えない以外は問題無いわ。絶好調よ」
永琳は怪訝な表情をしていたが、それは紫もだった。
自分の勘は霊夢とは比べられない。しかし霊夢から僅かな焦燥を感じているのは事実だった。
「絶好調と……」
鈴仙はカルテの項目『A』に丸をつけた。
「……『C』ってとこね、月の兎さん」
「はい?」
「何でもないわ」
鈴仙は首を傾げたが気を取り直して注射器とゴム管を取り出した。
霊夢の様子を見て紫はまた首を傾げる。
先ほどのは気のせいだろうか。焦ってる割には落ち着き過ぎている。
「じゃあ採血するから」
鈴仙は慣れた手つきで霊夢の腕をとり、アルコールを滲ませた綿で念入りに腕を拭いゴム管を巻いた。
しかしいくら強く縛っても血管が見えない。
「……師匠、手を握らせることができなくて……血管が」
「気合いでやりなさい」
「ちょっと大丈夫なの?」
紫は心配になったが、当の霊夢は鈴仙とのリアルお医者さんプレイでにへにへ笑っていたので始末に負えない。
不安になって損した。やはり気のせいだったようだと紫は思いなおした。
「紫、私とっても幸せよ」
「もうそのまま死になさいよ」
鈴仙はじいっと血管を見極めて慎重に針を刺した。
霊夢は刺されたことには何も感じていないようだった。まあ普段から死の危険を帯びて犯罪行為を実行しているので痛みには慣れているのかもしれないが。
「お、成功しましたよ師匠!」
「あなたの腕も中々のものね、うどんげ」
「ああ! 吸われる! 吸われるぅ!」
「死ねばいいのに」
採血を終えて鈴仙はまたカルテ何かを書き足した。
「これを検査して後は様子を見ましょう。少なくても三日間は入院ね。その後はまた相談して決めるとして……うどんげ」
「はい」
鈴仙は返事を返して鉛筆をしまった。そして器具を一式畳んだ。
「首の怪我と腹部の怪我は手術と薬で跡形もないけど、細胞が一時的に脆くなっている状態なので安静にしててね。すぐに傷口開いちゃうから」
「激しい運動はダメ? じゃあ入亭(入院の意)した意味がないじゃない」
「あなたは何を期待していたのよ」永琳がため息を吐いた。
「もちろんご奉仕に次ぐご奉仕を……ぶっ」
聞きかねた紫からチョップを落とされる。
いつもよりかなり弱めだ。流石に医者の目の前でこのピンクに腐っている脳漿をぶちまける事態は避けたかったのである。
「とにかく、激しい運動とかは腹の傷が開くから絶対にしちゃダメよ? いい?」
「は~い」
「それじゃ、お大事に」
そう言って鈴仙と永琳は病室を出て行った。
残された紫と霊夢は互いに顔を見合った。
「前から思ってたけどここも美人美少女ばかりよね。住んじゃおうかしら」
「馬鹿言わないの」
紫はちらっと霊夢の両手を見た。改めてじくじくと心が痛む。同情する余地なんかないのに罪悪感で心が潰れそうになる。
「大丈夫よ。私頑丈なのと諦め悪いのだけが取り柄だから」
「誰も心配なんかしてないわよ」
「どうだか」
霊夢は笑った。紫は顔を背ける。
「ねぇ紫、暇だから散歩にでも行かない?」
「ダメよ。安静にしてろって言われたじゃない」
「だからこそ抜け出す価値があるのよ。『いつでも抜け出してくださいね』なんて言われたら逆に意地でも動きたくなくなるじゃない」
「反骨精神の塊ねぇ」
霊夢は立ち上がってニヒルに笑った。永遠亭で支給された病人用の服が痛々しかったが何だか懐かしい思い出を振り返ったような心地がした。
それは時々見る夢。大妖怪と恐れられている自分がたった一人の変わり者に振り回される夢。
(ねぇ×××、今度はここに入ってみよう)
(ダメよ××。流石にまずいって。今度見つかったら退学になっちゃうってば!)
(大丈夫大丈夫、そうなったらちゃんと養ってあげるから)
(そう言う問題じゃない!)
(ほら、置いて行くわよ×××?)
ブレードを被った彼女は不法侵入する際にいつもこんな表情をしていた。止めたところで聞きもせず一人でずんずんと歩いて行ってしまうため、結局私は彼女について行ってしまう。しかしそれが何とも楽しいのだ。
そんな妙な夢と重なる。
「……いいわ。ただし隙間からね」
「あれ? ずいぶん簡単に折れるわね」
「止めたところで聞きやしないでしょう」
「分かってるじゃない」
紫も霊夢に合わせて笑った。なるべく無邪気な悪ガキのように。
霊夢はその表情を見て少し驚いていたがすぐに笑みを戻した。
「いい表情で笑えるじゃない。それじゃあ行きましょうか、女風呂に」
「誰かー、ここにいる病人が抜け出そうとしてますー」
「待って待って、冗談だってば」
霊夢が慌てて取り繕う。
「行ったところで触れないんじゃ意味ないしね。もしハッスルしちゃって傷が開いたら目も当てられないわ」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「じゃあ太陽の畑にでも行ってみましょうか。あとお茶飲みたい」
「え? 太陽の畑?」
「何よ嫌そうな顔しちゃって」
「だってあいつがいるじゃない」
「『F』よ?」
「大きさの問題か」
むう、私だって『F』なのに。
紫は不満そうな顔を霊夢に向けた。霊夢はそんな紫の乙女心に気づきもせず、理性が耐えられるかどうかという不毛な心配をしていた。
慎重に霊夢の点滴の針を取った後、紫は隙間を開いた。境界の向こうには高い青空と黄色い絨毯が広がっていた。
太陽の畑。向日葵を筆頭に一年中何かしらの花が咲き誇って混沌としている地域の名称である。
綺麗な花もたくさんあるし珍しい植物もあるので、それを見るだけでも訪れる価値は十分にあるが一般人にはお勧めできない。
「わあ凄い! 見て見て紫。あのハエトリグサ私よりも大きいわ。あっちのラフレシアなんて周りの触手がうねってる!」
「そうね」
お勧めできない。
はしゃぐ霊夢を差し置いて紫は結界を張った。こちらの気配を断つための結界を。
これならいくらあいつでも気付くまい。事前にこちらの存在を探知していれば話は別だが。
続いてシートを敷いて霊夢を座らせ、隙間を使って家にあるティーポット(霊夢の為に常に玉露を精製している)からお茶をついだ。
「はい霊夢、お茶」
「ありがと。……あ」
霊夢はそれを取ろうとして両手が使えないことを思い出したようだった。紫も今の今すっかり忘れていた。
「紫ー飲ませてよー」
紫は目をぱちくりと瞬かせて、初めて霊夢の両手を砕いた自分を褒めた。
「仕方ないわね」
霊夢がうーと唇を突き出してくる。ドキッと紫の胸が高鳴った。
この時霊夢の口を塞いでしまおうかと考えてしまう自分は毒されてきているのではないか心配になる。
それにしてもである。
霊夢は元来からイケイケタイプの攻め型である。そんな霊夢を逆に攻めてみたらどんな顔をするのか見てみたい気もしなくはない。
セクハラを働いてる霊夢を見るのは珍しくないが、逆に誰かからしつこく言い寄られているのは見たことがないのだ。
そうだ。してしまえ。
今まで散々ヤられてきただろう。
幽々子が起こした異変では罰ゲームで体を求められたし(逃げたが)月の異変では報酬として体を要求されたし(逃げたが)温泉の時は対価として体を強要されたのだ(逃げたが)。
ほらやれ。やるんだ紫。大妖怪の力を見せてやれ。
そう紫は自分を奮い立たせる。意を決し、顔を近づけようとしたときだった。
「あれ、キスしてくれないの?」
「何馬鹿なことを言ってるのよ」
先に言うなよ。
がっくりと紫は崩れ落ちた。心の中で。
霊夢にお茶を飲ませて一息つくと、自然と花々に目がいく。
何だかんだ言ってここの眺めは馬鹿に出来なかった。グロテスクな植物を見ない様にすれば絶景である。
紫は霊夢の横に腰をおろしてしばらく花畑を眺めた。風を感じられないのは残念だがこの二人きりの時間を邪魔されたくはない。
すると霊夢が枝垂れかかってきた。細い息使いがわかる距離。
紫はピンと背筋を伸ばして――弛緩した。
願うことはただ一つ。
この時よ、永遠なれ。
「ねえ紫」
「なに?」
霊夢は遠くを見つめていた。紫は首を傾げる。
「……続いてほしいって時ほど、長くは続かないものよね」
ぽつりと霊夢が言った。その声を聞いて紫は我を取り戻した。
花畑の向こうに碧色の髪が揺れていた。
「あらら、何でばれたのかしら。結界だって張ったのに」
「わかんないわ。あいつだけの第六感みたいなのがあるのかも」
「逃げた方がいいんじゃない?」
「ん、待って。花より胸を鑑賞したかったの」
「あなた両手使えないじゃない。アレが私みたいに手加減してくれるとは思えないけど」
「あんただって手加減してくれなかったじゃない」
「それは……カッとなっていたと言いますか」
人影がゆらりと揺れる。
「紫、結界を解いて頂戴。急いで」
「だから死ぬって」
「大丈夫。妖怪とのいざこざは巫女の仕事よ。ほら早く」
「いざこざって何? 喧嘩でもしてるの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「はぁ? なにそれ」
「三日前幽香の下着を被ったのがばれたのかもしれないし、そのまま里に突撃してパンツ仮面と呼ばれたのが原因かもしれない」
「……同情の余地はないわね」
紫はため息を吐いて隙間を開いた。そこに自身を投げ込み結界を解く。
これが霊夢のやり方なのだ。文句は言うまい。そう思った。
例えいくばか命の危険があるとしても。
パキンッとガラスが割れるような音を立てて結界が崩れる。と思った時には熱の塊が鼻先まで来ていた。
火傷じゃ済まされない熱気。弾幕勝負で使う様な玩具ではない。完全に殺す気で放ったものだった。
鉛色に輝く熱の塊は空を焼き割きながら猛烈な速さで霊夢の前まで迫っていたのだ。
霊夢はここに来る前――――目覚めた時にはもう嫌な予感がしていた。
こればかりは勘だとしか説明しようがない。幽香はとてつもなく機嫌が悪く、ともすると戒律を破って人間を殺して喰らってしまいそうだと判断した。そこで霊夢はこの花畑を訪れた。
もし幽香が人間を殺してしまったら、霊夢は幽香を殺さなくてはいけない。
外の人間なら好きに食い散らかすなり何なりしても別に良いが里絡みの人間は不味かった。幽香の理不尽な怒りで殺された人間の家族または友人が必ず恨みを持つ。そうすると霊夢に討伐の依頼をしてくる手はずだった。別に霊夢は依頼を断ってもよかったが頼みどころが増えた今の幻想郷ではそれも不味い。必ずもう一人の巫女(風祝)に依頼が回る。きっと彼女はこれを承諾するだろう。アレは少々妖怪を舐めているのだ。魔理沙や山の妖怪は絶対に断るだろうがアレを甘やかしている神の二人はその依頼を受ける様に勧めるだろう。よく考えればあの二柱も妖怪を舐めていた。どちらも戦闘に自信があるせいだろう。そのため、信仰を手に入れるために絶対に依頼を受け入れる。霊夢が断った依頼だと言うことで尚更箔が付くのだ。
あの二柱も昔は強かったのだろうが今では話にもなるまい。例え三対一でも幽香が勝つ。一羽の鶏を守らせた二匹の犬を熊と戦わせるようなものだ。それほどまでに差がある。
山の神が死ねば均衡が崩れる。行きどころのなくなった信仰は想いとなって溢れ返る。異変が起きることは明らかだ。
しかしそれは幽香が死んでもだ。幽香は季節の力を集めるのに加担していたから幻想郷のバランスが崩れる。これだけは防がなくてはいけない。
以上から霊夢はどちらかを選ばなければいけなかった。
幽香を殺して代わりを用意するか、未然に防ぐかのどちらかを。
そう考えれば誰もが後者を選ぶだろう。
霊夢も平和的に幽香のいらいらを取り除く方法を考えて待っていた。
紫が永琳を呼びに行ったとき霊夢は『今からお花畑に遊びに行く』という内容を書いた札を隙間から幽香の屋敷に送り届けていたのだ。邪気祓い、つまり感情のコントロールを容易にさせる効果を持っている札だった。
口で文字を書くのは辛かったが隙間から筆も墨も取りだせたし札も用意出来た。紫も中々戻ってこなかったので十分な時間もあった。
紫と一緒に来たのは、幽香に殺されないようにするためだった。両手が使えない霊夢はともすると殺されてしまうと思ったのでいざとなったら紫に守って貰おうと思ったのだ。
しかし始めっから幽香を止めるためにここを訪れることがばれるのは不味い。紫は割かし過保護なので自分のせいで傷を負った霊夢が更に傷つくのを見てはいられない。絶対にしゃしゃり出る。紫と幽香がぶつかれば幻想郷が危ない。どっちが使い物にならなくなっても面倒なことになるからだ。
つまり紫との繋がりを保ったまま霊夢が幽香と相対するためには土壇場で、なるべく霊夢の冗談が高じて幽香が怒っているということに錯覚させなければいけない。聡明な紫のことだ。もしかしたらばれているかもしれないが、結果としてその試みは成功した。とりあえず言うことなし。
しかし何故幽香はここまで怒っているのだろうと霊夢は疑問に思う。
感情の変化なんて移ろいやすく人事なのだが一時の心持で戒律なんて関係あるかコラァ! なんて言うほど幽香は子供じゃない。
そしてエリーに危害を加えたのも信じられなかった。幽香は家族ともいえるエリーを大事にしていた。可愛がっていたのだ。例え口で何と言おうとも。
そんなエリーに重症を負わせたのだ。ただ事ではなかった。
なぜそこまで怒っているのだろう。私が眠っている間に何があったのだろう。
そこまで考えて、霊夢は改めて前を見た。アンバランスで、グロテスクで、どことなく芸術的なものを醸し出している鉛色の塊がだいたい鼻先五十センチの向こうに揺れていた。
直撃すれば――いや、余波に当たっても助からないだろう。人間は元よりいくら妖怪でも、全身をウエルダンにされて粉々に砕かれれば再生のしようもあるまい。不老不死はどうだかわからないが。
そんな殺意の塊が、熱を感じられる距離に迫る。
死が、迫る。
理不尽で強力な力の及ぶ範囲に霊夢はいた。
じりじりと、本来なら向けられるはずもない殺意と敵意の塊とこれ以上近づくことは出来ないだろうと言う距離まで、霊夢は近づいた。
そんな死と生が隣り合うギリギリのボーダーラインで、霊夢はふと思った。
「……幽香の服って、あんな色だったかしら?」
次の瞬間周りの空気や、土や花や、紫が出した虹色のシートを焼き切って鈍色の炎が炸裂した。
地面に少しだけ潜った炎弾はぐにゃりと潰れる様に広がって、弾けた。
そこから一丈の半円で、地面を抉って空気が膨張し乱暴な熱を吐き散らしながらさらに発火した。
音がとどろき鳴り響いて目を焼く様な光が辺りを包み込んだ。
――――発光が止み、風の音しかしなくなった花畑は放射状のクレーターのせいで台無しになっていた。
焼け焦げて原形をとどめていない花々が傷一つ付くことなくことを終えた花々に撒き散らされて焦げ臭い死臭を放っていた。
―――――――
二日前に遡る。
霊夢が紫の黄金の右足の錆びになっている時、幽香は博麗神社を訪れていた。
恥ずかしげに辺りを見回しながら一枚の紙切れを縁側に置いた。
そしてダッシュ。一気に走って森を超え丘を越え、花畑についてどこが屋敷への入口か分からなくなって走り回り疲れてしょんぼり。エリーが迎えに来るまで大きな樫の木の根元に体育座りしていた。
そこまで動転していたのだ。大妖怪もある意味初心なものだった。
手紙の内容は『美味しいお茶でも用意してるから来たかったら来なさいよ!』というものだった。
霊夢はよく幽香の下を訪れていたのだ。そしてその度にセクシュアルハラスメントを繰り返しては幽香に叩きだされていた。
幽香は霊夢の存在が迷惑とまではいかなかったがほどほどに鬱陶しかったので、来なくなって最初はほっとしていた。
しかし日が経つにつれ何故か段々と寂しくなる。初めて体験する心持だった。しかもそれは段々と真綿で首を絞めて行くように辛くなっていった。
霊夢が来なくなって一週間目のその日、幽香は動いた。プライドの高い幽香が誰かを家に招くのは初めてだった。
恥ずかしがりながらも手紙を書き、それを博麗神社に置いてきた。
あの霊夢のことだからきっと来るはずだと思っていた。事実、普段の霊夢なら狂喜していただろう。『F』が『揉みに来てくれ』と言っているのだから。
だが不幸にして、幽香の生まれて初めての試みは失敗に終わった。
メディスンの伝手でアリスから買った特別な服を着て、ティールームに二人分のお茶を準備して、幽香は一日中そわそわしながら霊夢を待った。
時折門まで覗きに行くこともあった。
まだかまだかと時計を頻りに気にして、もしかして来てくれないんじゃないだろうかとも考えた。
いやいやあいつが来ないわけないじゃないと思い直して、逆に落ち込んだ。
冷めた紅茶を取り換えて、またじっと待った。
コチコチという時計の音が、やけに耳に届いた。
そしてボーンと古時計が午前零時を知らせた時に、幽香は泣いた。
エリーは初めて見る幽香の涙に戸惑っていた。
次の日、幽香は泣き腫らした目で麓の神社に飛んだ。捕まえて死ぬまで殴ってやるつもりだった。この自分を泣かしたのだからそれでも足りないと思っていた。
神社に付くと縁側に回った。
手紙はまだそこに残されていた。
幽香は一瞬呆然として、神社に押し入った。古い造りの障子をこじ開けてちゃぶ台をひっくり返し、腹いせに襖をいくつか突き破り、ぶんぶん傘を振り回して畳を抉りとって、ついでに衣類を物色し、意味もなく風呂を張り、居間にあった座布団に座った。
霊夢はいなかった。
昨日から帰っている様子はない。台所を見ればそれがわかった。
取りあえずふら付きながらも立ちあがり、屋敷に戻った。
「あの……幽香様?」
「黙りなさい殺すわよ」
幽香が睨むとエリーは「ひいっ」と縮みあがった。ここまで機嫌の悪い幽香も珍しかった。
「朝食の方は……」
「いらないわ殺すわよ」
「ひいっ。では……昼食とのブランチで――」
「それでいいわ殺すわよ」
「ひいっ。……あの、何を持って――」
「何でもいいじゃない殺すわよ」
「ぴいっ」
幽香は早足で歩きだして自室に戻った。そしてベットに身を投げる。
枕を抱きしめて持ってきた霊夢の寝巻きに顔を埋めた。不思議に、安心する匂いがした。
「霊夢……」
思い起こすことは何故か楽しい時間ばかりだった。散々鬱陶しい思いをしたはずのなのに巫女は眩しい顔で幽香に微笑みかけていた。
「……私が来いって言ってるんだから来なさいよ。命に代えても」
急に眠くなった。幽香はそれに逆らわずに目を閉じた。
何せ昨日は全く寝られなかったのだから無理もない。
彼女の匂いに包まれて、幽香は安心して眠りに付くことが出来た。
起きた時にはもう夕方だった。
屋敷は常に薄暗い空間に存在しているが、向こうの結界の歪からだいだい色の光が差し込んでいた。
エリーは昼に起こしてはくれなかったようだ。
しかしその気遣いが今の幽香にはありがたかった。
「……でも、お腹すいたな」
幽香は首を鳴らして、起きあがった。
「エリー、エリー? ご飯はー?」
そう呼ぶといつもすぐにエリーは駆けつけてくれた。どんなに疲れていても、どんなに具合が悪くても。
幽香は何だかんだでそんな献身的なエリーを可愛いと思っていた。
「エリー?」
もう一度そう呼ぶと部屋の扉が開いた。
入ってきたのはメディスン・メランコリーだった。
「あれ? メディ」
「幽香、大変よ! エリーが……エリーが……」
メディスンの表情から幽香はただ事ではない事を悟った。
「エリーに……なにかあったの?」
「大怪我して……それで、てゐに手伝ってもらって永遠亭に……」
「なっだ誰が!」
不発弾のような精神構造の幽香だ。
すぐに怒りが湧き上がった。
大切なエリーをそんな目に合わせた奴を許すわけにはいかなかった。
ぼろぼろになるまで殴り飛ばして肥溜で溺死してもらおうと思った。
「いや!? 幽香だよ! エリーに怪我させたの!」
「え!? わ私!?」
幽香は戸惑った。
メディは半分呆れながらも説明してくれた。
「幽香が寝てたときに私は遊びに来たの。凄く気持ちよさそうだったから起こすのも悪いと思ってエリーと遊んでたのよ。お昼ころかな。エリーがお昼ご飯幽香と一緒に食べよって言って、起こしに行ったの」
「……それで?」
幽香は身の回りを確認した。少しじゃない量の血が撒き散らされていた。
「そしたら『ぎゃー』ってエリーの悲鳴が聞こえてきて、私も慌てて幽香の部屋に来たの。そしたら幽香がぎゅーってエリーのこと抱きしめて『もう放さないからね』とかわけのわからないことを言ってたのよ」
「私が」
「寝ぼけてたんじゃない?」
幽香は多少赤面した。
そして間を置いてから訪ねた。
「……エリーは?」
「さっきも言ったでしょ。大怪我よ。永遠亭で手術中。妖怪だから死ぬことはないと思うけどトラウマになっちゃうかもよ?」
幽香はしばし考えて、言った。
「……ご飯は?」
「台所に残してある」
「食べたらお見舞いに行きましょう」
幽香はメディスンの呆れ顔から目を背けて立ち上がった。
時針は午後四時を過ぎていた。
永遠亭に行くと、エリーの手術はもう終わっていた。
エリーはうわ言の様に「幽香様ごめんなさい幽香様ごめんなさい」と繰り返していた。
「ごめんなさいエリー。でも大丈夫そうでよかったわ」
「これが大丈夫に見えるなら目、診てもらった方が良いわよ」
エリーの体は包帯でぐるぐる巻きにされていた。
メディスンはため息をついた。
「まあ大事でもなさそうだし、私は帰るわ。幽香はどうする?」
「……ちょっと待って。あなたに帰られたら私明日の朝ご飯とかお昼御飯がなくなるわ」
「ご飯なんて私も作れないわよ? 出されたら食べるけど毒があれば私は死なないんだし」
「そんな……」
「幽香だって植物操れるんだから木の実とかで飢えを凌げばいいじゃない」
「それはそうだけど……」
メディは「それじゃあね」と行ってしまった。
幽香はまあ仕方ないかと思い、少しエリーの様子を見てから帰路についた。
途中、長い廊下を歩いていると兎の話声が聞こえてきた。
何て事無い話のようだったので、幽香は無視して出て行こうとした。
(――霊夢っていう人でしょ?)
ピタリと幽香は足を止めた。
霊夢? 何故ここで霊夢の話題がでる?
気になった幽香は、扉越しに会話を聞いた。
「すっごく綺麗だったなー。憧れちゃうよ」
「私知ってる! このあいだ新聞で幻想郷で一番可愛いって書いてたもん!」
「へぇ、どおりて鈴仙様が憧れるわけだ。てゐ様はどうなのかしら?」
「てゐ様はどうかわかんないけど、永琳様は『あの巫女の魅力について徹底的に解析してやりたいわぐへへっぐへへっぐへへっ』って叫んでたよ。実験室で一人きり」
「怖っ。ドンびきだよそりゃ」
「顔がよくても性格はどうだかわかんないよね。私もあの新聞見たけど犯罪者ってところも一位だったじゃない」
「変態っておかしい人のことでしょ? あそこでも一位だった」
「というかあの新聞読んでる人初めて見たよ。こんなに身近にいたんだね」
「優しそうな妖怪も付いているしー。あの人も綺麗だったな」
「金髪の人でしょ? 永琳様もあの人のことイチモク置いてるって言ってた」
「でも何たって巫女ってんだからさ。私らのことなんてゴミ屑と同じ程度にしか考えてないでしょ」
「そんなことないよ!」
「優しそうな顔だったわね」
「和やかそうな人だと思う」
「意外とロリコンだったりするかもしれないわ。まあ可愛ければ正義よ」
霊夢はどこでも人気者のようであった。
自然と顔を綻ばせてしまう。
――――綻ばせてしまう?
何故自分が霊夢のことで喜ぶのだ。馬鹿らしい。
幽香は立ち去ろうと踵を返した。
「でもなんであんなひどい怪我をしたのかな」
「妖怪退治でだよ! 悪い妖怪を懲らしめるために!」
「そうかなぁ、そうだよね。まさか転んでああなるってもんじゃないし」
「両手がぐちゃぐちゃだったもんね」
――――ぐちゃぐちゃ?
幽香が再び足を止める。
「まあ治るんだからいいじゃん。なんだかんだ言って永琳様は流石だよ」
どういうことだ?
霊夢の両手がぐちゃぐちゃ?
どうして?
「私、その人見てないんだけどさ。どこにいるか教えてくれない?」
「確か003の部屋だったと思う。退院しちゃう前に行った方がいいよ」
「ありがと、では早速」
その兎が扉を開けて部屋を出た時にはもう、幽香の姿はなかった。
幽香は長い廊下を走りに走って003の部屋を探し当てた。
息が切れていた。それほどまで急いでいた。
霊夢が大怪我をするなんて考えたことすらなかった。
「霊夢!」
幽香は部屋に飛び込んで――――それを、見た。
見てしまった。
ベットで寝ている霊夢と――――傍の椅子に座って居眠りをしている紫を。
ショックだった。
頭の中を変な虫がぐるぐる回っているような感覚を覚えた。
幽香は少し呆然としてから、歯を食い縛って走り出した。
悔しかった。
ただ悔しかった。
自分が求めたものに裏切られるのは初めてだった。
屋敷に返り、食事もとらずに一晩を過ごした。
多種の激情で頭がどうにかなりそうだった。
ベットの上に蹲ってそれに耐えていると、ある物を見つけた。
霊夢の寝巻きだった。それはとても美味しそうな匂いを放っていた。
幽香はそれを引き千切って霧散させた。
頭がおかしくなり始めていると自身で理解できた。
幽香は己の腕に噛み付いた。
「がっぐがっ……」
ずぶずぶと牙が皮膚を捌いて肉を割り、骨を砕いた。
誰のせいでこんな目に遭っているのだろうかと狂った思考で取りまとめると一人の人間の顔が思い浮かんだ。
「ぐぐぐ……」
しかしその人間を食おうとは思わなかった。唯一幽香の怒りの捌け口になれる人間に、幽香は手出ししたくなかった。
ならばもう人里しかない。
幽香は腕の肉を食いちぎって起きあがった。部屋に血の匂いが充満していく。千切れた皮膚がだらりと垂れさがった筋繊維剥きだしの腕を睨んから、歩きだした。
人里だ。
人里だ。
食い物もたくさんある。
食べれば落ち着く。たくさん食べれば落ち着く。
たくさん食べる。
何を?
決まっている。
「だ……だめ。落ち着け落ちつけ……」
膝が震えて、幽香はへたり込んでしまった。強烈な吐き気が込み上げて来て何度もえずいた。
自分がこんなにも苦しんでいるのに彼女は来てくれないのか。自分を見てはくれないのか。
幽香は咒詛と哀願を何度も繰り返して、霊夢の名前を呼んだ。
太陽の光が目に入った。
幽香は震える体を押さえつけ、目を開いた。いつのまにか寝てしまったのか、いや気絶したというのが正しいのだろう。交互に襲ってくる酷い憂鬱と強烈な昂揚感に苛まれながら再び立ち上がった。
視界の隅にある時計が九時を数分過ぎたところだと教えてくれた。
幽香は洗面台に行き、水を頭から被った。
頭に上った血は降りてくれる様子はなかった。
幽香はまともに働かない思考で当惑した。
「どうして……こんな……」
腕はもう再生していたが不安定になった精神を押さえる作業は今なお続行中だった。
しかしそれももう限界だ。
もう、理性を保てない。
食物を摂らなかったのもいけないかった。余計に食欲が湧いて、異様な乾きまであった。
「く……くそっ」
口汚い言葉は使わないでくださいとエリーによく注意されていたことを、場違いながら思い出して笑った。
何を考えてるのだろう。思考が纏らない。
あアモうダめダ。私ハ人間を食いコロしてれー夢に殺サれルンだ。
そう、半ば諦めた。
そのときだった。
頭の上に何かがふわりと落ちてきた。
幽香はそれが何かを理解する前に、潮が引く様に激情がなくなって行くのを感じた。
「……あ」
呆けてから、頭の上から紙を取った。それを介してあり余った感情が冷却されていくのが分かる。
それは御札だった。博麗神社の御札だった。霊夢がよく使っていた御札にお経のようなものが書き足されていた。
幽香は手が震えて、情けないが涙が溢れて来るのを止められなかった。ただ、ただ嬉しかった。
自分の状態を何故知ることが出来たのかなんて問題じゃなかった。
霊夢はちゃんと自分のことも見てくれていた。それが重大だった。
幽香はひっくり返して裏を見た。
『今からおぱんちゅちゅぱちゅぱしに行くから花(←ここまでがバッテンで消されている)この御札で落ち着いたら花畑まで来なさい』
ミミズがのたくった様な字でそんなことが書いてあった。
幽香は破り捨ててしまいそうになったが、堪えた。
今落ち着いているのはこの札のおかげなのだ。現に御札の四隅は焦げてきている。
だが今押さえてもどうせ時間の問題だろう。
幽香はまた血が騒ぎ出すのを感じた。瞬間札の右上が燃えて千切れた。
「どうすればいいのよ……」
落ち着いて来いか。
幽香は目を閉じて、心を静めた。
温かな空気が胸を満たして行く。
拍子抜けするほど簡単に冷静な心が戻ってきた。
「……霊夢」
幽香はまどろんだような安心しきった表情で、御札を抱きしめた。
さっきまでの暴走はどこか遠くに吹き飛んでいた。
目を開くと、御札はくしゃくしゃの上にすっかり焦げ臭くなっていた。
外は気持ちの良い青空だった。
澄みきった空気は肺の奥まで行き渡り、清々しい気分にしてくれた。
幽香はボロボロになった服を着替えて外に出たのだ。一用御札は片手に持っているけどもう必要ないだろう。
霊夢にちゃんと事情を説明して礼を言って――――それから今後の約束を取り交わせばよい。
ずっと私の傍にいなさいと。
幽香は晴れやかな気持ちでぴょんぴょんと花畑をとび跳ねながら、霊夢を探した。
花畑は広い。見つけにくいのもあるが、捕捉しずらい。
しかし幽香は植物を介せず自分で見つけたかった。ぱたぱたと軽い足音を当てながら、幽香は走った。
そして、見つけた。
昨日の喪失感と嫉妬、憎悪がぐわっと湧きたった。
霊夢はあろうことか紫と寄り添いながらお茶を楽しんでいた。両手はぐるぐる巻きにされていて、紫に飲ませてもらっていた。
「……そう。そういうこと。見せつけようってことね。ふ~ん」
ぼぼっ! と握りしめた札が炭になった。
幽香は怒りと悲しみを合わせて炭になった札を巻き込むように一つの弾を作りだした。何て事はない弾幕勝負で使う弾であった。
確かな重みを右手に感じながらそれに力を注いでいく。この二晩で受けた屈辱を詰め込んで押し込んでこれ以上は入らないと言うくらいにため込んで固めた。
そしてふら付く体を支えながら一切の躊躇もなく、本能が叫ぶ破壊衝動に流されて――――それを放った。
それは驚くべきスピードで霊夢と紫がいた位置に着弾し、大爆発を引き起こした。
幽香は大分離れていたが、光に目を焼かれそうになった。
光が治まると大きなクレーターが出来上がっていた。まだぷすぷすと煙を放っている。
幽香は大きく力を使ったおかげで冷静になり――――ゆっくりと――――血の気が引いていった。
やり過ぎた。
しまった。やり過ぎた。
もし直撃だったら――いやあの威力では直撃でなくても――。
「れ、霊夢!」
幽香は叫んだ。
疲労と立ちくらみで走り出すことができず、まるで夢遊病者のような足取りで歩きだそうとした。
「幽香」
聞き覚えのある声に、幽香は足を止めた。
「どこに行くのよ。我がまま娘」
そして振り返る。
可愛げのある、まるで妖精のような笑顔の少女がそこに立っていた。
紅白の巫女服ではなかったが、妙に安心感を与えるその笑顔は幽香が知る限りたった一人の人間にしかできない笑顔だった。
―――――――
霊夢は弾が当たる瞬間に幻想空想穴で脱出し、幽香の後ろに回り込んだ。
紫の結界は強すぎて人間の力を粗方封じてしまう。例えそれが霊夢だったとしてもだ。そして自分の結界にも改良の余地があるなと霊夢は考えた。
さっきは危なかった。死ぬかと思った。脱出の際出遅れた右腕が酷い状態になっている。焼けた病人服が皮膚に癒着して爛れていた。何故か痛くはないが。
腕を幽香に見せない様に体を斜に構えて、霊夢は言った。
「どうしたのよ幽香。あんたほどの奴が何子どもみたいなこと考えてるのよ」
「私の考えてること……解るの?」
霊夢は今さらになって自分でもそれが不思議になった。勘だけで大方の事情を理解できる自分は幻想郷の白血球のようなものなのか、人間の範囲から大きく外れてしまっただけの化け物なのか。まあどちらでもよい。
「解らない。分かる」
「そう」
幽香が寂しそうな顔でそう呟いた。目尻に涙を浮かばせて瞳を伏せる。
それを見た霊夢は反射的に膝を折ってしゃがんだ。
一秒も間をおくことなく、霊夢の頭があった位置の空間が吹っ飛んだ。そこにあった気体や水分や温度が消し飛んで一瞬真空と化した。
ぶわっと周りを巻き込む風が生まれて霊夢は目を覆った。カマイタチが出来て霊夢の左肩を病人服ごと抉り取った。
「よく避けたわね」
「幽香……」
幽香の左手から微かな煙が上がっていた。まともに受けたら首から上がなくなっていただろう。お情けで髪が付いた頭皮くらいはどこかに付着出来たかもしれないけれども。
幽香の目は真っ赤になっていた。妖怪らしいといえばそれまでだが、霊夢は幽香のお姉さん的な表情が好きだったので残念だった。
「あなたのせいよ。私が苦しんでいるのは」
「私……最近はあんたに何もしてないわよ?」
肩から生まれる熱が鬱陶しい。肉までだと思っていたが骨までイっているらしかった。大きな動脈に傷が付かなかったのは幸いだが、それでも出血は酷い。淡い青色の病人服は赤く染まりだしている。
肘を軽く曲げて腕が動くのを確認した。神経にも傷は付いていないようだ。筋肉を削られて吐き気がするほどの痛みがあるが。
「三日前あんたの下着を盗んで被っては元の場所に戻すのを繰り返した挙句に、被ったまま里に突撃してPTAからレッドカードを貰ったけど、それはあんたにというよりはあんたの下着に謝らなければいけないわけで……」
「そんなことをしてたのかこの馬鹿巫女!」
霊夢は上に飛び上がって弾丸を避けた。霊夢がしゃがんでいた地面が掘られて爆散した。飛び散った火花が腕を掠めたせいで痺れるような痛みが走ったが一番初めに受けた炎弾が強烈だったせいであまり気にはならなかった。
このまま幽香の怒りが収まるまで回避し続ければ問題無いのだろうが、それでは絶対に体が持たない。傷が開いたのか腹部が酷く痛む。今でも限界だった。
よく分からないけど、自分が悪いなら謝っておこう。
「ご、ごめん幽香。謝るから許してくれない?」
「そんなふざけた謝り方じゃ許してあげない」
両腕が使えないのは酷いハンデだと霊夢は今更に思った。印が結べない以上術は使えない。
ああ、そう言えば今日は巫女服じゃないんだ。札はないしスペルカードなんて持ってないし、お祓い棒はおろか封魔針すら持ってない。丸腰じゃない。しかも両腕は機能していない。蹴りと飛行と空間移動のみで幽香に挑めと? そんな硫酸のプールでバタ足の練習をするようなこと出来るか。
ぱぱっ、ぱららららっ。
軽い音を立てて、幽香の腕から多量の散弾が発射された。
威力は弾幕勝負の時に使用するのと変わりないが、くらって動きを止めたら不味い。
霊夢は回避しようとして――激痛が走った。反射的に動きを止めてしまう。左肩と腹が悲鳴を上げていた。
しまったと思うより先に下から弾幕の嵐が吹き荒れる。頭部を何とか動かせる腕で守るが腹に衝撃。にゅるにゅると何かが漏れて飛び出す感覚があった。
更に頭部を覆っている腕に衝撃。肩から血が噴きでる。
霊夢が顔をしかめると、更にぱららららららっと音がした。
空間移動は激痛で集中力を欠いているせいか発動しない。
霊夢は丸まってなるべく表面積を小さくした。肩、足、肩、腕、頭、次々に衝撃と痛みを感じる。
耐えられるものではない――しかしどうしようも――。
「霊夢」
声をかけられて霊夢は瞑っていた目を開く。視界が霞み始めていた。
舌打ちをして、いつの間にか目の前に迫った幽香を見据る。
「大分限界だから……許してほしいんだけど」
額から流れた血が頬を伝った。
幽香はそれを冷めた目で見つめた。
「分かってるけど、一様聞いていい?」
「な、何?」
「私と紫、どっちがいい?」
「紫」
霊夢は即答した。
幽香の瞳は今一度燃えるような赤になった。
「どうして?」
「紫のことはよく知ってるからね。それだけ」
「――そう」
幽香が悲しげな――寂しげな表情で、笑った。
あっ死ぬかもと霊夢は思った。
爆発が起こった。
鼓膜が破れるような音が脳をかき回す。
霊夢は体の力を抜こうとして――――誰かに体を支えられているのに気が付いた。
「……ギリギリまで待ってくれたの」
「あなたの方針でしょうが」
後ろの空間から紫が上半身を出して霊夢を受け止め、目の前に開いた隙間から手だけを出して幽香の弾丸を防いでいた。器用なことをするなと霊夢は思った。
紫ほどの妖怪でも、受けた右手は焼け爛れている。
ゆっくりと晴れてくる煙の向こうで幽香が歯軋りをしていた。
「またそうやって見せつけるのね。仲が良いことで」
「何を言っているのよ」
紫の手が物凄い速さで再生した。じゅうっという音の後は、手には傷一つ残っていなかった。お洒落な手袋が無くなってしまっていたけれども。
「幽香、巫女を――大結界の媒体を殺す気? とんでもないことになるわよ」
「いいのよそれで」
幽香はおもむろに右手を上げた。掌を紫と霊夢に向けて固定し、一気に力をためる。
「こんな世界なんて無くなってしまえばいい」
「あなたはガキか!」
「子供でいいもん。滅べばいいもん」
「開き直るな!」
「どうしてそこまで……」
霊夢が苦しげに言葉を紡ぐ。
紫はおいおい気づいてないのかという顔をしていた。妖怪の思考が分かって堪るか。
「悪いのは私なんでしょ?」
「当たり前じゃない」
「お尻を触っても胸を揉んでも突然ちゅうしてもそこまで怒らなかったのに……私が何をしたって言うのよ……、い痛っ! 痛いって紫! 肩が潰れちゃう!」
紫は至って笑顔だ。額は青筋で大変なことになっているが。
自分の服が血で濡れるのにも気にせず霊夢の肩を握りしめる。
「たたた……。幽香、ちゃんと謝るから。どうしたら許してくれるの?」
「どうしたら? それって何でもするってこと?」
「うん、出来る限りなら」
幽香の右手に集まった光が飛散した。
どうやら考える気になってくれたようだ。真っ赤になっていた目がすうっと薄まった。
「じゃ、じゃあ……靴、舐めて」
一瞬の間。
霊夢は「えー」と言いそうになったが、紫のリアクションが先だった。
「なんですとぉ!? あなた何考えているのよ!」
「何でもしてくれるんでしょ? だったらほら。靴、舐めてよ」
幽香はもじもじと足を差し出した。
「あなたいい加減に……」
「待ちなさい紫」
霊夢は紫を止めた。
「やらなきゃ人里がなくなるでしょうが」
「私が止めて見せるわ」
「あんたとあいつが本気でぶつかったら幻想郷がなくなるわい! 私に任せておきなさい」
霊夢は軋む体を無理やり引き起こして、地面へと降り立った。幽香も後に続いて降りてくる。紫はおろおろしているが気にしない。
「んじゃ舐めてあげるわよ。ぬらぬらテカテカになるまで舐めつくしてやるわよ」
「あ~! いや~! 霊夢~!」
「あんたがもう止めてっていっても止めないわ。その靴が摩擦で燃え尽きるまで舐めるけどいいわね? 燃え尽きてもいいわね? よっしゃ見てやがれ」
霊夢が幽香の足元に跪く。紫絶叫。
霊夢は幽香を上目使いに見上げながら、革靴に舌を伸ばした。
触れるか触れないかのところ、幽香はそんな霊夢をじいっと眺めて足を引いた。
「とっと、幽香?」
「……やっぱ止め」
「やんなくていいの?」
「うん」
紫安堵。
幽香は続ける。
「あなたさっき言ってたわよね。紫の方がよく知ってるからって。だから私より紫を選ぶって」
「間違いなく」
「じゃあもし、私の方をよく知ってるって思ったら私を選んでくれるの?」
「もちろん」
即答だった。
紫大ショック。
幽香はぱぁっとここ数日の中で――いや長い人生の中で、一番良い笑顔になった。
「なら、ずっと一緒にいてくれない?」
「ごめん無理」
「なんで?」
「私は自由な巫女だから誰かには縛られないの」
「勝手じゃない?」
「うん。だから今回は私が悪いみたいだし――そうね、三日間だけならあんたの身の回りの世話でもなんでもしてあげるわ。それで許してくれない?」
「――仕方ないわね」
幽香がそっぽを向き、霊夢は安堵した。紫は物凄い不安に駆られていたが。
霊夢はよっしゃあと改めて大きく伸びをした。
「さて、幽香異変解決ね。紫ー永遠亭まで隙間開いてー」
「自分ので行きなさいよ! もう霊夢なんて知らない!」
紫が隙間に引っ込もうとするのを霊夢は引っ掴んで止めた。
ぴちちっ、と霊夢の口から血が漏れ出ていた。
「幽香、さっきの件なんだけど三週間は待ってくれないかしら」
「何で?」
「んー、いつ言おうかなって思ってたんだけど。私……」
刹那、霊夢は大量の血液を口と鼻から噴き出した。噴水のように、新鮮な血液を止めどなく吹きだす。
焼けた右手ががくがくと痙攣してまるで操り人形のように踊った。病人服はすでに赤黒く染まり切っていた。
「げ……げっゴゥ、ヤバいみタぃ」
舌が絡んで、巧く喋れないのか血をごぽごぽと吐き出しながらそこまで言うと、霊夢は崩れ落ちた。
紫は反射的に霊夢を抱きとめ、たっぷりと漏れ出て服の内側に溜まっているぷよぷよとした感触に気を失いそうになった。
――――
「びっくりさせないでよ。本当にもうダメかと思ったわ」
「ごめんごめん」
「私との約束も守らずに死ねると思ってるの? 地獄まで押しかけて連れ帰るからね」
「怖っ。そういうときは死なせて置いてあげてよ」
「まあ、大事がなくてよかったわ」
霊夢はベットの上で苦笑いをした。
あの日から一週間が経っていた。
腹部の傷が開いてしまった霊夢は大量の血液を吐き出して失神し、永遠亭へと運ばれた。永琳は顔を真っ青にしてわたわたと慌てて手術を行い(鈴仙は卒倒して使い物にならなかった)、事なきを得たのである。
それでなくても右腕の火傷は深度III度の重症であり永琳でなければ跡が残った。更に肩の傷は骨まで見えていたし、1200ccもの血液を失っていたのでほとんど重体だった。
「永琳に凄い怒られたんだから。もう無茶しないでよね」
「あなたのせいでしょうが」
「霊夢が悪いもーん」
「幽香、後三日後にはあんたの家に行くから。片づけでもした方がいいんじゃないの」
「後三日で治るわけないでしょう。無茶したらまた永琳に怒鳴られるわよ?」
「紫怖がってるの? このチキン隙間」
「何ですと? 泣き虫フラワーマスター」
「喧嘩しないの。私だってあれを怒らせるのはもうごめんだわ」
睨みあっていた二人は脱力した。
「とにかく、私は幽香の家で三日間召し使い生活なんて許可しないからね」
「何であなたに許可をもらわないといけないのよ」
また睨みあう二人。霊夢は治った両手で握って開いてを繰り返した。
両手は薬のおかげか昏睡している間にすっかり良くなっていた。少し億劫だが単純な動作に問題はないようだ。
「約束したんだから私は行くわ。三日間神社はお願いね」
「巫女が神社を抜け出してほっつき歩いてもいいと思ってるの?」
「どうせお客さん何て来ないだろうし」
「でも……」
「紫っ」
霊夢がぴしゃりと言った。
「私はあんたのいいとこはたくさん知ってるの。ぶっきら棒なのに優しいところとか、意外と一途なところとか。言えばキリがないわ。でもね、幽香の良いところはまだ全然知らないの。だから幽香のことももっと知りたい。三日も過ごせばたくさん見つけられると思うから、それまで待ってて。お願い」
紫はきょとんとして逡巡し、ふー……と長く息を吐きだした。
そしてそっぽを向いた。
「――――仕方ないわね」
霊夢は強い奴は皆こういうリアクションなのかと不思議だった。単純に紅潮した顔を見られたくないだけかもしれないが。
「……紫」
「なによ」
幽香は手の平を合わせた。ぽんっと一輪の花が生まれる。不思議な形をした花だった。
「あげる」
「……あなたが私に?」
「受け取りなさいよ。一様あなたは霊夢の命の恩人だからね。モルセラって言うんだけど花言葉は……分かるわよね?」
「うん、知ってるわ。貰っておきましょう」
「それから霊夢」
幽香はもう一度、手のひらをかざした。ぽんっという音。今度は大きな花が生まれた。
「……向日葵ね」
「これは霊夢にあげる。花瓶にでも突っ込んでおくから」
幽香はそれを持って立ち上がった。そして花瓶を取りに廊下に出て行く。
紫は眉をひそめていた。
「ねえ紫、向日葵の花言葉って何?」
「……知らない」
霊夢は外を駆け回るウサギ達を眺め始めた紫に頬を膨らませつつも、空を見た。
高く高く上がった太陽が、世界を照らしていた。
幽香が帰ってきたら聞いてみよう。
確か向日葵は幽香が一番好きな花だ。きっと素敵な花言葉に違いない。
霊夢はそう頷き、取りあえずはせっかく治った両手を活用しようと油断している紫の胸へ手を伸ばした。
了
でも間違いなく幻想郷でないと成立しない素敵なお話でした。
ひまわりの花言葉‥幽香さん、愛で目が曇ってませんか?(苦笑)
これは面白い
ギャグ一本かと思ったら変にシリアスぽくなってるのに動機が乙女 そして微グロ
なんぞこれw
だけどすらすら読めたな
直接的描写が多すぎるけど
だがそこがいい
むしろもっとやれ!
乙女ながらの葛藤を交えたお話にただ驚愕
そしてやはりなオチが最高でした
さすがです霊夢さん
しかし霊夢、ぶっこわれいむww
ゆかりんとゆうかりん……私は断然ゆうかりん派だ!異論はあるかね?
是非シリーズ化を希望!
おかわりを要求する!!11!
あれー?
ずっと、ずうっとあなたを見ているよ
この狂いっぷりが良い…
なんだこれ?
変態的でカッコいい霊夢だな…そう紳士な霊夢でした!
秘術だかなんだか知らないけどぺらぺらページ捲っただけで
421+B とか書かれてるんですねわかりま(ry
変態なのに真面目というギャップがいい
続編を希望します
変態だけど男前すぎるぞ霊夢
ゆうかりんも小者っぽい
お話も面白いしで文句なしのこの点数です!
しかし、どう発想したらこんな霊夢を書けるのだろうか。
作者の頭はおかしい(←褒めてます)。
かっこいい