******
――私は、覚えている。
春から夏にかけての、植物が生き生きと緑を踊らす季節だった。川のほとりと、森の間の、ひんやりとした空気が流れる場所だった。
そう、この場所。今、人間の子供が蹲っているこの木の根っこで、私も同じように泣いていた。
人間の子供と遊ぼうとして…けれど、私は人間ではなかったから、彼らには受け入れられなくて。
だから、泣いていた。悲しくて、寂しかったから。
だけど、その時。
私は覚えている。絶対に忘れたくない思い出。泣いていた私に、声をかけてくれたあの人。差し伸べられたあの手を。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん」
しわがれた老人の声だった。一度だけ聞いた事がある天狗の長老の声にも似ているけれど、もっとずっと優しい声。
「…私は…人間じゃ…ないから…遊ばないって…」
涙交じりで、しゃっくりをなんとか抑えようとしながら、私はそう返事をした。
「そうかい。お嬢ちゃんは妖怪か」
「うん…河童」
河童か、と老人は鸚鵡返しに言って一息つき、
「まあ、妖怪でも河童でもなんでもいいから。ほら、ご覧」
そう言われて、顔を上げた私の前に、
「…何、それ?」
丁度手のひらくらいの大きさの、木で出来た馬があった。
「これをお嬢ちゃんにあげよう。こうするんだ」
芝居がかった仕草で、老人は懐からピカピカの螺旋を一つ取り出すと、木馬の背中に取り付け、キリキリと音を立てて回した。
「わぁ…」
木馬が、楽しげなオルゴールの音色と共に動き出す。キチキチと軽く木の間接が擦れる音を鳴らしながら、一歩、一歩と。
当時の私の目には、それは魔法よりも奇怪で、わくわくする光景だった。
「これ…くれるの?」
「ああ、これはもう、お嬢ちゃんの物だ」
そう言って、老人は私の頭を一撫でして、
「代わりと言ったら…少し図々しいかも知れんがな」
「うん…なに?」
私はその時、こんなに素敵な物を貰ったのだから、何か恩返しをしないといけない、とそう思っていた。
「人間を…嫌いにならないでくれないだろうか」
彼は、当時の私にはよく分からない表情でそう言った。悲しそうな、寂しそうな、けれどどこか優しい笑顔だった。
「…私、人間を嫌いになんかなってないよ」
「そう…なのかい?」
「うん。一緒に遊べないのは寂しいし、悲しいけど、嫌いになったりはしてない」
そう、私は彼が心配したような人間への嫌悪感を抱いてはいなかった。子供だったからかも知れない。きっといつか仲良くなれると、信じていたのだ。
「そうか…ありがとう」
今度の微笑みは、悲しそうでも寂しそうでもなかった。眩しいものを見つめるような、そんな笑顔だった。
老人は腰が痛むのか、ゆっくりと立ち上がると、
「それじゃあ、その子を大事にしてやってくれ」
と言って歩き出した。
「待って」
「ん?」
今思えば、他に訊ねる事があったと思う。けれど、当時の私にはこのような素敵な宝物をくれると言うその点だけが気になって、こう訊いたのだ。
「お爺さんは、何をしてる人なの?」
老人は唐突なその質問に、けれど戸惑う事なく、言った。
「子供を笑顔にする仕事だよ、お嬢ちゃん」
******
人類がそれを目指し始めて、どのくらいの時が経っただろうか。
偉大なる我らが先達は、我々に幾つかの経路を示してくれた。
《鋼鉄技師》アイザックは忌まわしくも珠玉たる《三大回路》を。《魔博士》カオスは微笑む機械《マリア》を。
そして我々は、彼らが残した道を乗り越え、更なる高みへと上る。
カオス式理論は再現され、三大回路は制御された。
遂に、終に我々は手をかけたのだ。
その先へ。その高みへ。完全な人形<ローザ・アリス>へと。
――ある玩具屋の手記。
******
村の外れの小さな玩具屋。そこが彼の住居だった。私がその玩具屋を訪ねたのは、最初に彼に出会ってから三日後の事だ。
不思議な場所だった。村はずれ、ともすれば妖気が混じるような立地であるにも関わらず、そこには子供の笑顔が満ちていた。
そして更に不思議な事に、そこには子供の笑顔を見守る妖怪の目があった。
きっと彼ら、もしくは彼女らも私と同じように、あの老人に何か恩義を感じているのだと、そう思った。
彼らは、他の妖怪からこの場所を守っているようだった。子供が襲われないように、あの人が襲われないように。
夜になり、子供の姿が消えると、彼らの気配も少なくなっていった。
だが、矢張り彼らの内の幾人かはまだ目を光らせているようで、妖怪である私がおいそれと彼の住居に近づこうものなら、攻撃される恐れがある。幼かったとは言え、その程度の危機管理能力は持ち合わせていた。
どうやって彼の所にお礼に行こうか、と私は考えた。なんとかして彼らの目を欺き、あの老人の所までたどり着く術はないだろうか、と。
そうして考え込んでいると、住居の扉が開き、あの老人が現れた。(余談であるが、最近私は彼らの目を欺く為の解決策を得た。もっとも、私は既にその方法を必要としていないけれど)
「今日は四人か。さあ、出ておいで」
そう、老人が声をかけた。気配を殺していた妖怪の影が、三つ。蠢くように、影を這いずるように、そしてもう一人は上空からゆっくりと、それぞれ現れた。
手足が何組もある彼。定型を持たない彼。ただ一人、上空から降りた鴉天狗の彼女だけは人間と似た姿をしている。
醜悪な外見をした彼。闇に属する彼。強大な力を持つ彼女。けれど老人には彼らに怯える様子はなく、彼らにも老人に対する敵意はないようだ。
「さ、大丈夫だから出ておいで、河童の子や」
そしてもう一人。
四人目は、私だった。
「この前取り付けた機械鎧<オートメイル>の調子が悪いのかい、百足百手の兄さん?待ってな、影の子の玩具はすぐ修理が済むから、先にそっちを済ませちまおう」
定型を持たない彼は、私と同じように、幼い妖怪だったのか。
差し出した玩具(一見ただのブリキのようにしか見えない鉄道模型だが、中に本物の蒸気機関が内蔵されているらしい)がすぐに修繕されると、分化しきっていないような人間の手の形を作って恭しく受け取り(恐らく、それが彼に出来る最大限の努力であり、最大限の敬意の払い方だったのだろう)、大事そうに身の内に抱え込むと、人間ならば怖気を覚えるような声で、けれど優しく、嬉しそうに礼を言って、そこから去っていった。
「よしよし。またいつでもおいで。さあ、次は百足百手の兄さんだ。どの手だい?それとも足かい?」
ぎちぎちと奇怪な音を奏でながら、手足を無数に持った妖怪が、手か足か判別出来ない一本を差し出す。
「ふうむ…お前さん用にもう少し微調整が必要かな?金属が随分と疲れておる。今日の所は予備のと換装しておこうか。一週間後までにはまた新しいのを作っておくよ」
簡単な魔法は使えるのか、家の中から義手、もしくは義足を取り寄せると、すぐに換装は終わった。
「…さぁて、それじゃあ残るは河童の子だけだな」
「私だけ酷い扱いようですね」
「取材ならお断りだと、何度も言ったはずなんだがね、天狗の姐さんや」
鴉天狗は、当時は親交こそ無い物の、よく知っていた人物だった。言わずと知れた射命丸文である。当時から有名(=迷惑)だったのだ、色々と。
食い下がる文を面倒そうに振り払うと、彼は私へと向き直る。
「河童のお嬢ちゃんはどうしたんだね?あの木馬が壊れてしまったかい?」
とんでもない、と私は首を振った。あの木馬は大事に大事に取り扱っていたし、手入れを欠かさないお陰で、今でももらった当時と変わらずに動いている。
「…お礼をしにきた?それはまあ、有難いが…」
「河童の子供と人間の老人の友情物語!これは良い話になりそうです!」
「黙らんともう二度とカメラを作ってやらんぞ。姐さんだけに都合の良い報道の自由は却下する」
「報道の自ゆ…むむむ」
天狗は黙り込んだ。どうやら手にしているカメラはこの老人が提供していた物らしい。
「それにしても困ったもんだな…お礼と言われても」
他の妖怪は、無闇に人間を襲わない事と、昼間遊びに来る子供達の警護を代償としているらしいが、私は元々人間を襲ったりする性分ではないし、警備員にしては当時は少し力不足だった。
もっとも、彼を通じて知り合った妖怪は、誰も彼もがほとんど自発的にそうしていたようで、それを代償として捉えているのはこの老人ただ一人だけだった。
「助手にすればいいじゃないですか。いつも人手が足りないって愚痴ってるんですから」
「助手…助手…?」
天狗が私を見る。老人が私を見る。
「「…うーん」」
と、二人揃って唸った。
その時私は、とりあえずこの天狗には後で仕返ししてやろう、と決意した。
私は、何が何でも助手になりたい、どんな事でもいいから役に立ちたい、と主張した。
「…なら、手伝ってもらうかね。月曜と水曜の昼間は店を閉めてるから、その時がいいだろう」
「…スクープです…!」
そして、天狗は更に軽くいじめられ、私は晴れて彼の助手になったのだった。
******
その夜の帰り道に、彼は元々練達の絡繰技師であり、錬金術の大碩学だったと天狗は話してくれた。
あちら側で近年著しい発展を遂げた自動人形<オートマタ>理論は彼の功績による所が大きいとも。また、機械人形<ロボット>の研究や、戦闘絡繰<マリオネット>の強化、機械鎧<オートメイル>技術の発展にも関係していたと、天狗は話していた。
そんな彼が、ある日突然それらの研究を捨て、生まれ故郷のこちら側の村に戻り、玩具屋を始めたのが私と出会う17年前。
天狗はその理由を知りたがっていたのだ。何故彼は突然、研究の最前線から退き、玩具屋などを始めたのか。関わった研究の全てが一足飛びに次の段階へと邁進し、いずれかの《鋼鉄技師》や《魔博士》にも…もしかしたら《蒸気王》にすら、並んで称される筈だと言われていた彼が、一体何故と。
…経歴が経歴だけに、彼の作るものはとても玩具とは思えぬほどの逸品ぞろいだった。
たとえば、私の宝物。ねじ巻き式の、オルゴール内蔵絡繰木馬。僅か15cmにも満たないその体躯に、オルゴールの円筒と、駆動用の歯車がぎっしりと詰め込まれている。
驚くべき事に、これには一切の魔術・錬金術が用いられていない。全てがバベッジ的調和の下に成り立っている傑作である。
また、彼の書庫に存在する地球儀は昼と夜が再現されており、更には指先を近づけると地域の温度まで感じ取れると言う、地理学と魔術が融合した至宝とも言うべき名品だ。
…初めて助手として彼の住居を訪れた時、余りの驚きに私は震えが止まらなかったのを覚えている。
玩具だらけの店舗、そしてその奥にある機械だらけの部屋。けれど、無機質である筈のそれらは、確かに優しさを宿していた。
純粋に、誰かを楽しませる為、誰かの傷を癒すため、誰かの役に立つ為の物だけが、そこにはあった。一応、護身用の装置もあったらしいが、それらは巧妙に隠されていて、私の、或いは他の誰かの目に止まる事はなかった。
「さて、まず最初の授業は…そう、玩具の手入れの仕方について、が良いだろうかね」
最初の授業で教わったのは、今でも三日に一度欠かさずに行う、絡繰木馬の手入れ。私は必死になってその技術を覚えた。
…必死に覚えようとは、した。けれど、中の構造は、素人であり子供であった私にはとても難解で、この最初のステップに二ヶ月もの時間を要した。
そう、彼に一つだけ落ち度があるとするならば、自分が簡単に出来る事なら他人にも出来ると思っていた所だ。
とても玩具とは思えぬほどの精密且つ複雑な構造をした物を、分解し、再構築し、理解する。絶対に壊さないよう、丁寧に。
もしかしたら、たった二ヶ月で、玩具とは言え彼の設計した構造物を理解出来たのは、指導が余程よかったお陰かも知れない。
木馬の手入れが完璧になったのが三ヶ月目、そしてその後には、初見の玩具の分解と再構築が待っていた。
何とか失敗せずにこなせるようになったのが、六ヶ月目。その後は、図面についての座学と実習。今までの物を題材として、図面と睨めっこしながらひたすら反復。
十ヶ月目にはこれも終わり…
まあ、何やかんやで無理難題とも思える課題をこなしつつ、五年が経つ頃には、玩具程度なら彼に近い物が作れるようになった。
六年が過ぎた頃、百足百手の義手義足の管理や、香霖堂との取引、天狗たちへのカメラ等の供与もこなせるようになった。その頃になってようやく、彼の負担が減りだしたと実感出来た。
そして。
八年目のその年。
私は忘れていたけれど…或いは、見ないようにしていただけかも知れないけど。
人間である彼には、訪れてしまうのだ。
その時が。
人の時が永遠に止まる、その瞬間が。
******
「完全なる人形<ローザ・アリス>。…知っておるかね?」
影の彼も、百足百手も、鴉天狗も、他の多くの妖怪たちも、成長した人間たちも、最後の別れを済ませ、帰って行った。
最期を看取りたいと言った者も大勢居たけれど、大事な話があると彼が言うと、皆静かに姿を消していった。
「…下らない話だ。もしかしたら、皆に看取られながら逝った方が良かったやも知らんがね」
――それでも、弟子であるお前さんには話しておかにゃならん気がするんだよ。
彼は苦々しい顔でそう言って…
そして、ぽつりぽつりと彼は語り始める。彼の物語を。
天狗が知りたがっていた、彼が幻想郷に来たその理由を。
******
もう天狗の姐さんから聞いただろうが…儂は元は外の世界の研究機関に所属していてな。
ローザ・アリスと言うのはその機関の至上目的だ。
完全なる人形。自立し、意思を持ち、話し、動く。成長し、理解し、そして新たな世代を生み出す。そんな人形を作ろうとしていたのさ。
まあ、それだけの機関ではなかったがね。他の部署の事はよく知らされていないが、少なくとも、【八雲紫のような存在】を作り出そうとする施設はあった。
…儂がこっちに来た後で、当の本人に叩き潰されたらしい。これは儂が酒の席で口を滑らせた所為だが…まあ、八雲紫<そんなもの>が確かに存在すると知れただけでも、一歩前進だと捉えるのがいいだろう。
そんなわけで、儂はあちら側については口を閉ざす事にしたのさ。下手に口を滑らせたらあちら側にもこちら側にも迷惑がかかる。
…あちら側にも、こちら側にも、だ。良いか、にとり。忘れるな。
出来れば誰にも話さず…或いは、弟子を取るような事があればその時にだけ。そういう話として覚えてくれ。
いや、お前さんが弟子を取る頃には、こんな話はきっと時代遅れになって居るだろうがね。
そんなら…矢張り下らない話だな。
それでも良いなら、聞いてくれ。
儂の物語を。儂の人生を。
******
…何処にでもある、寂れた農村。それが儂の生まれた場所だ。
何処にでもある、だから此処にもある。そう、すぐそこの里の事だな。
平凡に生まれ育った儂は、ある日突然、その機関から招かれた。
儂が魔術を扱えるのは知っているだろう。それくらいならここら近辺じゃ珍しい物じゃないが、儂はずば抜けていてな。彼らはそこに目をつけたらしい。
…何?ずば抜けて霊力が高いとはとても思えない?
よし、それなら今から香霖堂の店主でも倒しに行こう。こんな下らない話を続けるよりはそっちの方が…
うむ…まあ確かに、こちら側ではそれほど強いわけではないな。香霖堂の店主を倒す程度の能力がやっとじゃ。
だから倒しに行こうじゃないか。儂の人生、最期に一花咲かせようじゃないか。な?
…誤魔化そうとしている?
そういう事もあるだろうし、そうでない事もあるだろう。
話を戻そうか。その後でまだ生きていたら、香霖堂の店主を倒せる事を証明しに行こう。
儂は最初、実験体として、さっき話した【八雲紫のような存在】を作り出そうとしていた機関に招かれた。
…彼女を知ると同時に、それがどれ程愚かしい試みかを知ったがね。当時は真面目に協力していたさ。
実験体と言ってもそんなに忙しい訳ではない。非人道的と言うわけでもなし。むしろ生活自体は田舎に居た時より良い待遇だった。それでも、流石に外出は禁じられていたから、退屈だけはどうしようもない。
つまらん毎日の繰り返し、そんな時、片手間に勉学を教えてくれた人が居てな。儂は二十歳を超える頃には実験される側からする側へと変わって行った。
…丁度その頃じゃな、儂の生まれ故郷が焼かれたと聞いたのは。少なくとも、あちら側の史実ではそうなっておる。
それでも、儂は故郷へは向かわなかった。何故か、戻ろうとは思わなかった。…或いは、里がこちらへ来た所為かも知れん。
三十代後半で、儂は【完全な人形】を追求する機関へと移籍した。いいや、正確に言えば当時はまだ前身と言ったところだがね。
外では争いが激化していたから金のかかる実験は出来ない上に、手持ちの駒では当分…少なくとも、儂の生きている内には、八雲紫のような存在には届かないと判断したからだ。
そして儂は、この研究にのめり込んでいった。オートマタも、ロボットも、マリオネットも、オートメイルも、この研究の副産物に過ぎん。
ローザ・アリス。完全な人形。
当時の最新技術であった、三大回路。そして七百年もの間、誰にも再現出来なかったカオス式理論。
…儂が担当したカオス式理論は、七百年もの間、誰にも再現出来なかった技術でな。恐らく、既にあちら側では忘れ去られているだろう。
だが当時は誰もが熱中していたさ。儂も含めた、研究者のメンバー全員がね。何せ彼らは余りにも偉大すぎ、そんな彼らを我々はもうすぐ追い越すと信じていたからだ。
…思い上がり、だった。そう言って良いだろう。
彼の二人は、恐らく人を超えた者だったのだ。
七百年以上前の理論が未だに誰にも再現出来ず、二十年以上前に作られた回路は…これは儂がこちら側に来た時点の話だが…解析がほとんど出来ていなかった。
同じ人間の所業とは思えぬ物だ。…恐らく、その内にこちら側に流れてくるだろうがね。
そういう物だったんだよ、にとり。人間には彼らの技術はまだ早過ぎた、だが儂らはそれに気づかなかった。
けれど、儂はあの行いを過ちだとは思わない。愚かだったとは思うが、決して否定はしない。
彼女が生まれた事を、決して、否定しない。
******
当時、儂はカオス式理論の再現を目的として動いていた。
微笑む機械、意思を持つ機械。
いや。
『魂』を持つ、機械。『心』を持つ機械。それを作り出すのがカオス式理論の神髄だった。
だがそれだけでは足りない。ただ魂を、心を人形に植えつけるだけでは意味がない。
話し、笑い、動き、成長する。その為にはハードウェアとしての何かが必要だった。
それがアイザックの作り出した三大回路さ。我々は三大回路を利用する事にした。一から作るより、既存の物を改造した方が早かろう、とな。
…だが、彼の三大回路には、三つの制限があった。
人を傷つけず、人に歯向かえず、自殺する事もない。確かに素晴らしい制限だよ。実際に、今でもあちら側では多くの機械がその法則に則って動いている事だろうさ。
しかし我々の研究には障害でしかない。忌まわしくも珠玉たる三大回路、と我々は畏敬を込めてそう呼んだよ。
そう、設計者は三大回路が改変される事を望まなかった。決して自らの設計した回路を悪用されぬようにと、強固な障壁を張っていたのだ。
カオス式理論と三大回路。この二つを恐らく解き明かしたと、そう勘違い出来る程度に研究が進むのには十数年かかった。
込み入った話は当時の日記に記してある。倉庫には三大回路そのものもある筈じゃ。興味があるなら見てみると良い。長い寿命を持つお前さんなら、いつかあの回路を解き明かす事が出来るやも知れん。
結局、儂らは《魔博士》ドクター・カオスにも《鋼鉄技師》アイザック・アシモフにも及ばなかった。
しかしそれでも、膨大な試行錯誤を経て…
…以後、何度やっても再現する事が出来なかった、何らかの奇跡によって…
彼女は生まれたのさ。
******
実験で生まれた人形に、最初に与えられる言葉は何だと思う?
「自壊せよ」
さ。
…儂は淡々と、いつも通りにそう言ったよ。
三大回路の縛りが正常に働いているならば、この時点で人形は自身を破壊する。それまでに例外はなかった。全ての実験が、この段階で失敗していた。
…今ならば分かるさ。儂がどれほど残酷な事をしていたか。だが、当時の儂には分からなかった。
――彼女を失うまで、分かろうともしなかった。
生まれたばかりの彼女は、その命令にこう答えたんだ。
「どうして?」
とな。
******
彼女は唯一、三大回路の縛りから抜け出し、そしてまた、三大回路が与えたもうた理性や知性を超えた、感情、魂を持っていた。
我々は、遂に届いたのだと、そう思った。
彼女は最初に出会った儂を「お父様」と呼び、当時の儂は実験の役に立つならばと、喜んでその役を演じた。
…いや、演技ではなかった。次第に、儂は彼女の事を、本当の子供のように思い、そう接したよ。
儂の手作りの玩具で喜ぶ彼女を見て、儂は喜びを覚えた。花の図鑑を眺め、実物に触れられない事を悲しむ彼女を見て、儂も悲しくなった。
儂が人間らしい感情を抱いたのは、数十年ぶりだったかも知れない。
ずっと研究機関の中で生きてきたから、と言うと言い訳になるがね。彼女と出会う前は、儂はただの機械のように…もしかしたら、三大回路に搭載された感情装置よりも無感情に、生きていたのさ。
儂が居なくなった後に、当時の儂の手記を見てみるが良い。お前さんの役に立つ事が沢山書いてあるだろうが、そこにはそれしかない。それ以外がないんだよ、にとり。
だからな、儂は彼女と出会ってようやく人間となったのさ。
そして彼女は勿論、紛れも無く人間と同等だった。
…それが完全な人形かはさて置きな。
一年。彼女と過ごした時間はそれだけだったが、儂の人生の中でも最も充実した日々の一つだよ。
一年経って、どうやら彼女が三大回路の内、二つの縛りを脱している事が確からしくなった。
また、カオス式理論も…これは手がけた儂だから確かに言える事だが…偶然による所が大きかったが、それでもほとんど完全に再現され、彼女には魂が宿っている事が明らかとなった。
そうして実験は最後の段階に入った。
最後の段階。三大回路の、忌まわしくも珠玉たる制約の、最後の一つ。
…分かるだろう、にとり。儂らがどれほど狂っていたか。当時の儂は反対したがね、それでも、彼女と出会う前の儂であったならば、恐らくは…
…そうだ。
最後の実験は、
彼女に人間を殺させる事さ。
******
利用されていた、と言えるだろう。
彼らは儂を幽閉し、人質として、彼女に選択を迫った。
「父親の命が惜しければ、目の前の人間を殺せ」
とな。
殺す側も、殺される側も、哀れだった。殺される側には死刑囚を用いたと、説明を受けたがね。それでも、哀れな事には変わりはない。
…彼女は優しい子だった。どれだけ苦しんだ事だろう。どれだけ悲しみ、悩んだ事だろう。
…殺したよ、彼女は。儂の為に、その男を。
そして…それが彼女の死因となった。三大回路の、至高たる一つは、決して彼女を許さなかったのさ。
******
次第に壊れて行く彼女と、儂は最後の時間を過ごした。
――人間なんて嫌い。大嫌い。ねえお父様、何処か遠いところへ行きましょう?あの実験が終われば、もう自由だと聞いたわ。何処か、鈴蘭が咲いている場所で、二人で暮らしましょう?
歯車が零れ落ちて、オイルが噴出して、既に視力を喪失した瞳で儂の方を見ながら、彼女は夢を語った。
鈴蘭が咲いているのが見える場所で、二人で玩具屋を営んで暮らしていこう、とな。
儂はただ、相槌を打った。何か意味のある言葉を話そうとしたならば、きっと嗚咽の声が漏れただろう。彼女の目が見えていたならば、涙を流している儂の姿を見られていた筈だ。
彼女が死ぬまで、儂はそうして、彼女を抱きかかえながら、泣いていたよ。いや、彼女が死んだ後も、しばらくそうしていた。
そしてそこに現れたのが、八雲紫だ。お前さんも知っているだろう。
彼女は儂に、生まれ故郷がこちら側へと来ている、戻りたいのならば歓迎すると、そう告げた。恐らく、それだけではなく何か他の意図があったのだとは思うが、儂にはどうでもいい事だった。
もうあちらの研究に付き合う気にはなれなかったし、あちらの世界で生きようとも思わなかった儂は、悩む事なくこちら側へ来ることを決め…
そして、儂がこちら側へ踏み込んだ時、そこにあったのは一面の鈴蘭畑でな。
そう、この家からも見える、あの鈴蘭畑さ。
儂は彼女をそこに埋葬する事にしたよ。…彼女は鈴蘭が好きだった。図鑑でしか見た事がない上に、他に幾らでも綺麗な花があったろうに、何故だかな。
…あとはお前さんも知っている通り、玩具屋を始めて、誰かを笑顔にする為に生きてきた。八雲紫から、渡し賃と称して妖怪の世話もさせられたがね、儂はどうやら人間よりも妖怪との付き合いの方が得意らしい。
さて、そろそろ最期の時だ。お迎えも…気を遣わせてすまないね、もう入ってきてくれて構わんよ。あと少しで話も終わるから。
******
そして、お迎え…大きな鎌を携えた死神が乗り込んできた。
「達観してるねぇ、自分から死神を呼び入れるなんて。…本当に良いのかい?あんたの行き着く先は…」
「儂は人間だよ、死神の姐さん。死から逃げようったってそうはいかんさ。だろう?…さて、にとりや、最後の教えだ」
いいや、今までずっと教えてきた事だがね、と彼は笑った。
「玩具屋の仕事は、子供を笑顔にする事だ。お前さんも、儂の弟子ならばそう生きてくれ」
それから、と彼は最後に、
「これは教えじゃないがね。…儂の人生の中で最も充実した二つの日々。一つは彼女と過ごした時間、もう一つがお前さんと過ごした日々だよ、にとり。儂はお前さんの事も、本当の娘のように思っておる。…ありがとう」
そして、彼は目を閉じ、自力で幽体離脱し、一個の霊魂となって、死神に付き従って行った。ただすんなりと出かけるようなその死に様に、私は悲しむべきなのか少し悩んだけど。
…ついでに、その直後、香霖堂が正体不明の幽霊に襲われて、店主が昏倒させられたとかも聞いたような気がするけど。
******
それでも、私は彼の弟子だ。
だから、泣いている子供を見たら、やる事は決まっている。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん」
そう声をかける。いつかの彼のように。そして、いつかの私は、やはり泣きながら、
「…おとうさんも…おかあさんも…妖怪なんかと遊んじゃだめだって…」
本当に、いつかの私のような彼女は、そう言った。
「そっか、お嬢ちゃんには妖怪のお友達がいるのか」
けれど、私とは少し違っている。私は少しだけ彼女が羨ましくなった。
「まあ、人間でも妖怪でもいいから、ほら、ご覧」
そして、私は鞄から取り出した玩具を、彼女の前に差し出す。
オルゴール内蔵の絡繰木馬。私が彼と出会った時に差し出された玩具。もちろん、これは私が作った物であり、私が彼からもらったのと同じ物ではないけれど。
彼女は、泣き顔を笑顔に変えて、喜んでくれた。いつかの私が、そこには居た。
「これはもうお嬢ちゃんの物さ。それと…」
ああ。
たった今、分かった。彼は、彼の娘が人間を嫌いながら死んでいった事が、哀しくて仕方なかったのだ。
「…どうしたの?お姉ちゃん」
「…なんでもないよ。それと出来れば、その妖怪といつまでも仲良くしていて欲しい。誰に何を言われようとも、ね」
その子は、力強く、頷いてくれた。強い子なのだろう。きっと、どんな壁でも乗り越えていけるくらいに。
「ごめん遅れた…ってあれ?何で貴女がここに?」
「あー文ちゃん遅ーい」
………。
「…え?お嬢ちゃんの友達ってコレ?」
「コレとは何ですかコレとは…貴女、最近あの人に似てきてますよ?自覚あります?」
現れたのは、あの鴉天狗だった。経緯を尋ねてみると、
「いや、何がなんだか分からない内に懐かれてしまって…」
と、軽く困りながら言った。ずっと忘れていた復讐のチャンスだと、私は思った。
「…訂正するわね、お嬢ちゃん。何がなんでも、絶対にこの妖怪とずっとお友達で居てあげてね」
「うん、もちろんだよ。ねー文ちゃん」
「ううう…無邪気な子供を突き放す訳にもいかないし…恨みますよー…」
本気で困りだした天狗と、その天狗にまとわりつく子供を置いて、私は歩き出す。
「待って」
と、その私に後ろから声がかかった。
「ね、お姉ちゃんは何してる人なの?」
その問いかけに対する答えは、生涯変わる事がないだろう。
振り返って、私はこう答えた。
「子供を笑顔にする仕事だよ、お嬢ちゃん」
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何か色々混ざっていましたけど、綺麗に締められた良い作品だと思いました。
あと、タグに吹きましたねぇww
ということは、外宇宙から来る旧支配者や怪異相手に機械神で戦いを挑む続編が出るんですね!?
幸いなことに魔導書は紅魔館に腐るほどありますしww
あと、スズラン畑に埋められた人形は花映塚で復活ですかそ、解ります。
最後のにとりかっけぇ!!
ネクロノミコンって紅魔館にあるのかしら。にとりなら機会語写本?
それにしてもからくりサーカスは偉大だと思いました。
ゲルトオオオオオオオオオオ!
あ、話は最高面白かったです
老人の願いがにとりに受け継がれててほのぼのしました
今際の床で霖之助が執拗に狙われる辺りでは爆笑させてもらいましたwww