小雪をたくさんあつめましょう
たくさんたくさんあつめましょう
あつめおわったそのときは
まとめてお空に返しましょう
日がやや西に傾き、店内を淡く彩っていた。
ニスの剥げた机、青色のガラス、その他奇っ怪な形状をした外の道具の数々が物音一つ立てずに転がっている。
長く伸びた影はその中途で暗がりと混じりあい、店内の儚さを強調する。時折、風が通りすぎる幽かな音が耳に届いた。
黴の臭いですら心を落ち着けるのはなぜだろう。春のあたたかさを十分に取り込んだ店内は常にぽかぽかとあたたかい。
自然と気が弛み、ついつい長居したくなってくる。店の主は自らの両腕を枕にして静かに寝息を立てている。
それを見ていると、段々と自分の瞼まで重くなってくるのを感じ――
「要するにお昼寝気分になってしまったということだろう?」
「ばっさり言われてしまいましたねえ」
夕暮れ時の暗い店内を見渡し、射命丸文は右手で頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
香霖堂があまりにも居心地が良いものだからつい羽を休めて休憩しようなどと思ったのが運の尽きで、
瞬く間に襲いかかってきた睡魔に打ち勝つことが出来ず、彼女は二刻もの間眠り続けていたのだった。
ずっと座った姿勢だったためか、尻がとても痛い。文は立ち上がると、んん、と軽く声を出して背伸びをする。
「ふふっ……香霖堂はなかなかどうして、豪邸ですねえ」
「ようやく気がついてくれたようで感謝感激雨霰だよ。ささ、何を買っていくんだい?」
「何も買いませんけどね。はい、新聞ですよ」
新しく珍しいことを常に追い続けてはいるけれど、いつも通りのやりとりもまた悪くはないと文は思う。
霖之助も新聞を受け取って大きくのびを一つ。彼もまた先程眠りから覚めたばかりなのだ。
むしろ眠っている時間は文よりも長い。額に赤い跡ができてしまっている。眼鏡を外し、ぐしぐしと右手の甲で乱暴に両目を擦り、彼は新聞をぺらぺらと軽く捲った。
「むっ……もう少しじっくり読んで下さいませんかね」
「どこから読もうか考えていたところだよ。後でコーヒーでも用意してその時にじっくり楽しむさ」
カウンターにそっと新聞を置いて、彼はそんなことよりと溜息を一つ。
「相変わらずどうでも良いネタばかり拾ってくるな君は」
「幻想郷は平和ですからねえ。どうです、店主さん。一つ異変を起こしてみては」
ずい、と顔を近づけて文が笑う。相変わらず狡猾極まりない表情だ。寝ている顔はかわいらしいのに残念極まりないことだと霖之助は思う。
文は人当たりは良いが、良い子ではないのである。
「僕は争い事は嫌いなんだ。第一女の子の遊びに大人の男が乱入するなんて恥ずかしいじゃないか」
ふうむ、と文は人差し指を顎に当てて考え込むようなポーズを取った。
「どうでしょう? 店主さんは割と顔が広いですし、案外皆さん面白がってくれると思いますよ」
「面白がるのは君だろう」
「いえいえそんな滅相もない」
くすくす笑う文を無視して、どっこいしょ、という爺臭いかけ声と共に霖之助は立ち上がり、軽く体を動かした。
「お茶でも注いでくるよ。喉、からからだろう」
「おおっ! 気が利きますねえ」
珍しく気を遣った霖之助に文はぱちぱちと拍手を送る。送られた方は面倒くさそうに左手をぶんぶんと振って店の奥へと消えていった。
彼の姿が完全に見えなくなってから、文は大きなあくびをして目をぐしぐしと擦った。
仮眠は短時間の方が良いというのは本当らしい。眠りすぎると覚醒までに少々時間がかかってしまうようだ。
気を抜くとまた睡魔に負けてしまいそうだ。寝るのは構わないが他人の前でというのはちょっと勘弁願いたいと文は思う。
なのでこっくりこっくり舟をこぎながらも彼女はなんとか耐え続けた。
歩き回って目を覚ましてしまえば良かったのだが、この心地よい眠気を手放すのもまた惜しかったのである。
結局文が完全に目を覚ましたのは霖之助が湯気を立てる茶を乗せた盆を持ってきたときだった。
彼女はちらりと漆の剥げたそれを見やり、大げさに溜息をついて首を左右に振って見せた。
「やれやれ、せんべい一つ無いとは……」
「出口はあっちだよ」
文に湯飲みを渡し、自分の物も手にとってから、霖之助は盆の裏で文の側頭部を軽く叩いた。ぽおん、という音が響く。
さりげない主導権争いはいつものことである。店主も天狗も自尊心ばかりが膨れているようだ。
「じゃ、いただきます」
文は先程の言葉など無かったかのようにけろりとした表情で茶を啜る。霖之助はその様子にやや呆れながらも湯気立つそれに口付けた。
ずず、ずずずと音がするばかりで会話は無い。時折、ほう、という爺臭い、または婆臭い溜息が零れるばかりだ。
しかしよくよく耳を澄ますとどこからか時計の針が動く音も聞こえる。かちこちかちこちと。
昼寝にも読書にも最良の空間だと文は思った。お世辞にも美しい店ではないというのに、そこにある種の贅沢を感じた。
茶葉も高いものではないだろうし、部屋に置いてある珍品の大半が無価値のくずだ。
しかしそれらが相補し、不思議な店内を作り上げている。日は間もなく沈もうとしていた。
グラスを通り抜けることで作られていた青い影もまた失われつつあった。
夕暮れ時の黄金色に染め上げられた店内もそれはそれで美しいものがあったのだが、それが失われていく瞬間も悪くはない。
視界がほぼ奪われた夜の闇の中ですら、そこには清閑とした心落ち着く空気が漂い続けている。
茶の最後の一滴を啜り、文は大きく息を吐いた。霖之助もそれからしばらくして湯飲みを盆に置いた。
「そういえば」
霖之助が思い出したように文に視線を遣った。
「君はまだ新聞を配り終えて無いんじゃないか?」
その問いに、文はいえいえと首を横に振った。
「今日は店主さんが最後だったんですよ。それもあって気が抜けちゃいました」
「へえ、珍しい……珍しい珍しい」
そう言いつつ霖之助はいそいそと棚の上に鎮座しているデジタルカメラに手をのばす。
「買いませんよ!」
「……やれやれ」
抜け目のない男だ。少しでも気を抜くと何か売りつけようとしてくる。
そしてこれは文の経験だが、霖之助が売りつけようとするものは大抵くずである。
彼は本当に価値のあると信じているものを決して売ろうとしない。
だからあのデジタルカメラとかいう写真機にも価値はない。
好奇心から一度手に取ったことがあるけれど、うんともすんとも言わないのだ。全く動かないのだ。
「とはいえこのデジタルカメラは他のカメラには無い素晴らしい――」
「買いません。蘊蓄も要りません」
それでも霖之助が商品に手を伸ばそうとしたので文は腕を軽く振った。ばしっ、と音がして霖之助の手が弾かれる。
少々強めの風でも送ったのだろう。彼はやれやれと手の甲をさすり、とりあえずカメラの売却は諦めたようだった。
「では他の品を買いに来たのかな? それとも商品についての取材かい? どちらも暇な時なら大歓迎だが」
「あなたが良い品を手に入れてくれたのなら私も喜んで取材しましょう」
霖之助はそうかい、と言って軽く肩を落とした。その仕草からめぼしい物は何も拾っていないだろうなと文は推察する。
「というか、暇な時ならって……毎回問うている気もしますけど、商売する気ありますか?」
「満々さ」
そう言って大きく霖之助は頷いた。これで生活が成り立っているのだから不思議なものだ。
案外本気で店を切り盛りしているのかもしれないと一瞬だけそう思い、いやそれはないかと文は首を横に振った。
以前同じ事を問うた時には霖之助はそれは難しい質問だ、と答えていた。つまり彼はこの質問に対する答えを真面目に考えてはいないのだろう。
「まあそれはそれとして……私が店主さんに用事があるのは事実でして」
そう言って文はポケットを漁る。こういう時は大抵が単なる質問である。
霖之助は度々文に頼まれ「文々。新聞」にて発言を行っている。今回も恐らくはその類の依頼なのだろうと彼は思った。
文はその例に漏れず、何やら古く、傷の多く付いた小瓶をことりとカウンターの上に置いた。
「これについて尋ねたいのです」
霖之助がなるほどと頷くのを確認して文もまた自身が取り出したその瓶に視線をやった。
小瓶は暗い店内において仄かに白い光を放っている。無論瓶自身が輝いているのではなく、光源はその中に封じてある。
彼はそれに手を触れて、そして少々慌てた様子でぱっと手を離した。
「冷たいね」
彼はそう呟いてからもう一度小瓶に手を伸ばした。結露は生じていなかった。
触れるとそれはやはり明らかに冷たい。中に封じられているものは白い粉末のようで、ふわふわと浮いていた。
「開封しても構いませんよ」
文は好奇心に満ちた表情でそれを弄くり回す霖之助を見て苦笑し、そう言った。
彼は言葉を聞いて嬉々としてコルクを引き抜いた。
蓋が外れたことでその白い粉はぱっと舞った。しかし上昇することはなく、霖之助の目の高さの位置でふわふわと揺れている。
その軌跡には白光の帯が出来た。完全に日が落ちてしまったのか店内はその光が通過するカウンター周辺を除いて真っ暗であった。
しかしそれがかえって粉の一粒一粒を強調することになった。霖之助は首を傾げて文に質問した。
「こんなものを、一体どこで手に入れたんだい? あいにくと僕は目にしたことが無いのだが」
文は小さく首を傾げて答えた。
「沢近くの洞穴です。妖精の起こした珍妙な事件を追っている最中に発見しました」
「沢の……ふうん」
沢、そして洞穴という単語から文の指している場所は容易に推すことができる。しかし霖之助はその場所でこのような粉が手にはいるという話を聞いたことがない。
「悪いが力になれそうにないな。雪に近いものだということは分かるんだけどね」
文は目をまん丸にして言った。
「雪、ですか。私は溶けない氷の類かと思ったんですけど」
彼女の言葉に、霖之助は首を横に振った。
「雪と氷は全くの別物だよ。ただ、誰がどんな目的でこんなものを作ったのか分からないが……雪の粒なんて何の役にも立ちはしないんだけどな」
文は軽く肩をすくめて苦く笑った。
「つまらないネタに惑わされてしまった、ということですか。妖精はそういう馬鹿な事を平気でやらかしますからね。
たぶん何か罠でも仕掛けてたんでしょう。雪の煌めきに魅せられて洞穴に入った者に対する、罠」
「で、不発だったと」
「可能性は大いにあると思いませんか?」
「たぶん、君の言う通りだろうね。あそこには珍しい苔も生えているとの話だし、そっちを探した方がまだ記事になったかもしれないな」
霖之助の言葉を聞き、文は脱力してトランクケースに腰を下ろした。どすん、という音がして小さく埃が舞う。文はそれを吸い込んでしまったのか、けほけほと何度か咳き込んだ。
「う……掃除くらいちゃんとしましょうよ」
「少々埃や黴がある方が古道具屋って感じがするだろ?」
「そういうじめじめした雰囲気のせいで一度こっぴどい目にあったと巫女から聞きましたけど?」
「何かの間違いじゃないかな」
「何日も何日も雨が続いたと聞きましたが」
「何かの間違いだね」
「しかも何だかちょっとご機嫌だったと聞きましたよ。異変が解決する頃には逆にがっかりしていたとのことでしたが」
「誰がそんな事言ったのかな。是非聞きたいね」
「プライバシーは守ります」
「ともかくそんな話は根も葉もない噂だよ。忘れてくれ」
「圧力には屈しません」
霖之助はがっくりと肩を落とし、文はぱたぱたと手で埃を払った。当然その埃は霖之助に向かうのだが彼は気にする様子も無い。
住み慣れている者はやはり違うのだなと文は思った。しかしその埃っぽさもある一定の水準を超えることはない。
彼の言うところの「客以外」が掃除してくれるからなのか、はたまた案外きちんと掃除をしているのか。恐らく前者なのだろうなと文は推測した。
太股や肩にどっと疲れが押し寄せてくるのを感じる。全てが無駄足だったからだろう。先程までうきうきとしていた自分が馬鹿のようだと文は思った。それは霖之助にしても同じようで、露骨に残念そうな顔をしている。
「例えばこれが、大異変の前兆だったりしませんかねえ」
「小さな洞穴から始まる大異変かい? それはびっくりだ」
「……一々皮肉らないでくださいよ。空気の読めない人ですねえ」
文は半眼で霖之助を睨め付け苦情を呈すが彼はやはり堪えた様子もない。この店主の性格さえなければ本当に良い店なのだがと文は思う。
能力や才能は道具屋として申し分ないだけに勿体ない。熱意だけはある駆け出し達が見ればどれほど恨めしく思うだろうか。
「あーあ。何だかやる気がしぼんでしまいました」
「それならのんびりすれば良いじゃないか。どうせ君の新聞が人気を得ることなんてないよ」
「あなたの店が大きくならないのと同じことですね」
「僕の店はこのくらいの大きさで良いんだ。一人で切り盛りするのに丁度良い」
「ああ言えばこう言う人ですね」
「それは君だろう」
「まったく」
「やれやれ」
霖之助と文は互いに溜息を吐いて、それから視線を輝く粒に戻した。淡く光るそれを見ているとしゃらしゃらという音すら聞こえてきそうだ。
しかし実際にはこの店は沈黙に支配されている。文は床を軽く蹴った。こつ、という音が小さく響き、すぐに溶けて消えていく。
こつ、こつ、こつりと二度三度。文はその音を響かせた。
「何をしているんだい?」
座ったまま足をぶらぶらさせる文を不審に思ったのか霖之助が問う。文はしばらくその問いには答えずに視線を落としていた。
このまま帰ってしまおうかそうすまいか考えているのだろう。どうせここに残っても霖之助と話すことなど何もない。文は結局帰ることにした。
疲れを取って英気を養い、明日に備えなければならない。いつまでもこんなところで惚けている場合ではないのだ。
今年こそ新聞記者として名を馳せる。そのためには幻想郷中を駆け回らねばならない。文は立ち上がった。
「ん……そろそろ帰ります。新聞、ちゃんと読んで下さいね」
霖之助は彼女の言葉に何度か瞬きした後に、返答する。
「それはまあ当然だけど、この粉はどうするんだい?」
文はカウンターの上で舞っている白いものをしばらく見つめた後、肩を竦めた。
「要りませんよ、そんなもの。差し上げます」
彼女がそう言うや否や白い粉はすぐさま小瓶に吸い込まれていった。彼女の持つ能力の応用なのだろう。霖之助はその様子をぼんやりと見つめていた。
文は最後にコルクで蓋をすると、たたんっ、と足音を響かせる。
「それでは、また何か用があったら来ますので」
その言葉を残し、勢いよく扉を開けて天狗の少女は走り去っていった。ちらりと夜空が視界に入ったがそれも戸が再び閉まるまでの短い間のことだった。
明かりの消えた店内はひどく暗い。その中でぼんやりと小瓶の光が揺れていた。肌寒い空気に一度身震いした後、霖之助は未だ夕飯の用意すら済んでいないことに気がついて、重い腰を上げたのだった。
文が次に彼の姿を見たのは月を薄い雲が覆う晩のことだった。大きな袋をいくつも束ねて、ぶくぶくに着ぶくれした彼が玄武の沢の近くに腰を下ろしているのを偶然見かけたのだ。
当然、目にもとまらぬ豪速で空を駆ける文は普段ならちっぽけな商人など目に留めることはないだろう。
しかしながら今日の彼はひと味違った。霖之助の周りには、きらきらと輝く雪が舞っていたのだ。
こんな真夜中に、しかもたった一人で、わざわざ厚着までして彼がこのような事をしていることに文は興味を抱いた。
霖之助の方も文の存在に気がついたのか、顔をやや上方に向けている。さらりと彼の髪が揺れた。
「やあやあ。奇遇だねえ」
あぐらを掻いて座る霖之助の頬はほんのりと朱がさしていた。見るとそこら中に一升瓶が転がっている。
足音を小さく響かせて地面に降り立った文はうっとうしい雪を払いながら問う。
「この春の陽気の中、あなた一人で雪見酒ですか? たいそうな御身分ですね」
普段ならやぼったく見えるもっさりした髪型も、この寒さならばなんだかあたたかそうに見えてしまう。霖之助は大きく息を吐いて、そして言う。
「そんなんじゃないさ。僕だって苦労したんだ」
そう言う割に霖之助はとても楽しそうだ。少なくとも自棄酒ではこんな上機嫌な表情を見ることは出来ない。誰かに何かを語りたくて仕方がないという顔をしている。
「やっぱりこの前の雪と関係が?」
文もまた腰を下ろしながら問う。地面はしっとりと湿り、また冷たかった。時折頬を撫でる雪の粒が体をぶるりと震わせる。霖之助は彼女に顔を向けることなく言う。
「まあね。悪戯の原因を霊夢が叩いてくれるとのことだったから、序でにこの偽物の雪を片っ端から集めて貰ったのさ」
水がさらさらと流れ流れる音に乗せてとくとくとくと酒が注がれる。時折それは雪の光を反射して煌めいた。文の喉がごくりと鳴った。
「豪雪の夜なんかはそそくさと部屋にこもってしまうあなたが、どういう風の吹き回しですか?」
霖之助が呑んでいる酒は何故だろう、とても美味そうに見えた。だか彼は酒のことなどどうでも良いらしく、やや酔いの回った赤ら顔で続ける。
「昔、冥界のお嬢様は春を集めようとして失敗したという」
「信憑性のない噂ですけどね」
聞き手が現れてくれたことで霖之助は満足げに何度も頷いた。
「だがそんな噂が流れてしまう程、季節を操るというのは難しい」
「はあ」
仕事柄か、文は霖之助の欲しい場所に相づちを打ってやる。そうしながらも折角の酒が、そしてせっかくの空気が台無しだなあ、と彼女は思っていた。
しかし霖之助は気にした風もない。それどころかそんな文の様子を見てニヤニヤと笑んでいる。その表情を文が訝しんだとき、彼は酒をくくっ、と呷り、吐く息と共に告げた。
「件の亡霊お嬢様なら既に気がついていると思うのだけど、まだ分からないかな?」
彼がこれほどまでにご機嫌なのも珍しい。どうやら本当に凄いことをこの男は成し遂げてしまったらしい。文はさあ、と視線を走らせる。
腰掛ける彼の周囲にはきらきらと白い軌跡を残す雪が舞うばかりだ。幻想的ではあるがやはり寒いだけだし、やろうと思えばこれくらい誰にでも出来る。
ふうむ、と腕を組む文を尻目に霖之助は枡に口付け、にやりと笑った。
「僕は冬を手に入れることができたということだよ」
彼の言葉に、なんだそれだけか、と文は肩を落とす。しかし霖之助の話はそこで終わりではなかった。
「折角冬の雪を手に入れたんだ。僕はこの雪を使ってどうにかして何かを生み出すことが出来ぬものかと考えた。
はてさてどうしようかと考えあぐねて外に出た時に閃いたのさ」
もう分かったろう、と彼は人差し指で霞む月を指さした。
ふわふわ尾を引いて揺らめく偽物の雪、雲隠れする月、そして彼の持つ枡の縁には塩。ご丁寧に桜の花びらまで浮かせてある。
「残念ながら、桜の花びらは殆ど散ってしまっていてね。このひとひらは知り合いに頼み込んで手に入れた希有なものだよ」
ようやく答えに行き当たり、文は呆れて良いのか感心して良いのか判然とせぬまま、なるほどと頷いた。
道理で彼の呷る酒がやたらと美味そうに見えるわけだ。彼女はにやりと笑んで、上目遣いに霖之助を見やる。
「雪が偽物なのも、月が霞んでいるのも、花弁がたった一枚なのも、理由あっての事、という訳ですね?」
「感覚で答えに行き着くとは流石は天狗だ。やはり君は酒豪だよ」
そう言って、霖之助は塩を一舐めした。文は正座したまま膝をむずむずと動かす。先程から露骨にその酒を呑みたいと態度で訴えているのだが、しかし霖之助は気がつかない。
最高の肴を楽しみつつ、彼はちろりと酒を口に含むとさも美味そうに喉を鳴らした。
ふわりと舞う雪、霞む月、薄桃色の花弁。それをあてにして流し込まれる適度に熱い酒。文はごくりとつばを飲み込んだ。
膝の上に置かれた両手も開閉を繰り返している。しかし彼は一向に気がつく様子がない。
彼は酒には殆ど口を付けずにぼんやりと月を眺めては満足そうに笑むばかりだ。
彼の中ではこの空間で酒を呑むことが出来るということよりも、この空間を完成させたという充実感の方が勝っているのかも知れない。
誰かにこの偉業を見せたくて仕方がなかったのだろう。
そうでなければ幽雅な花見だなどと一人で喜んで
店の中に籠もり、にやにやと手酌でもしているはずである。
古来より日本で愛好されてきたその三種の贅沢。全てが形を損なうことなく揃っているのであれば単なる華美とあざ笑うことも出来よう。
しかし霖之助が愛でている今の景色は、薄雲に覆われた月、偽物の雪、そしてたった一枚の花弁なのだ。その儚さがまたこの一時を格別なものに変える。
それを肴に呑む酒は、一体どんな味がすることだろう。どんなに切なく、どんなに美味しいことだろう。
我慢しかねて、ついに文は自分にも寄こせと口に出す。
霖之助は暫し呆気にとられた様子だったが、やがて小さくにやりと笑むと何も言わずに底の浅い杯を渡し、そして酒をとくとくと注いだ。
驚いたことに、彼は惜しむことなく花弁をそっと彼女の杯に浮かべて言った。
「欲しいならそう言ってくれ。これだけの景色、酒好きか風流人に楽しんで貰わなければ損だよ」
文は二、三度瞬きをして、それからやれやれと息を吐いた。おぼろ月を時折白い軌跡が彩る。桜の薄い花びらが百重の波紋を生み出した。
彼女はそっと杯に口づけ、ちろりと酒を含んだ。そうして幸福そうに目を閉じた後、そのまま霖之助に向かって言葉を放つ。
「あなたの台詞は、まるでご自分が風流人でないかのようですが?」
らしくもない謙遜ですねと付け加えると、すぐに反論が返ってきた。まさか、と彼は肩を竦めて失笑した。
「心あらん友もがな、と先人は語ったそうだ」
「素直に呑み仲間が欲しかった、と仰ったらどうです?」
「僕はそんなことが言いたかったんじゃあないよ」
そう言って彼はまた空に視線を戻す。きらりと何かが空を横切ったように見えたが、それは流れ星だったのか雪のきらめきだったのか、文には判然としなかった。
霖之助は「そんなことが言いたかったんじゃあない」と語ったが、それは照れ隠しなのか、それとも深い意味があったのか。
訊ねてみたいと思いながらも、淡い好奇心は口腔に広がる酒の香りにかき消されていった。
やや甘口で芳香があるがこれは彼の趣味なのだろうか。それともその場にある酒をただ持ってきただけなのだろうか。やはり文には分からなかった。
ただ単純に美味かった。文は天狗だ。霖之助のような半人半妖と違って酒の楽しみ方を極めているという自負がある。
神社での宴会も確かに楽しい。ああいう時に酒を呑むと、ずっと笑っていられる気がする。
だけれど、こういう静かな酒もまた、たまらない。耳にはいるのはせせらぎの音ばかりだ。酔った頬に冷たい風が心地よい。
玩ばれる髪を左手でそっとおさえ、右手の杯に唇を寄せる。とろりと流れ込む液体を口の中で転がし、転がし、嚥下する。
お腹の底からかあ、と熱が奔り、それが溜息となって外に零れた。ふと空を見上げると月はまだそこにある。息の白さがその輝きを霞ませる。
霖之助は枡を右手に目を閉じていた。眠っているのかと思ったがそうでもないようだ。文は彼の脇に置いてある塩の入った小さな袋にそっと指を突っ込んで、少しばかり掬って舐めた。
静かな夜だった。月はゆるりゆるりとその位置を移し、雲に隠れたり、また現れたりを繰り返していた。
春になってから随分経った。そのため虫の鳴く声が彼女の耳に幽かに届く。
それが、この場ではかえって良い。ほんの少しばかりの酒であるはずなのに、舐めているだけで酔いが回るのを文は感じていた。
不思議だ。皆で呑めばざるであるのに、こうして静かに杯を傾けているとすぐに体が火照ってしまうのは何故だろうか。
しかし、それもまた心地よい。杯の酒は一向に減らず、全てを飲み干す頃には月は大きく傾いていた。霖之助も丁度最後の一滴を味わったところだったらしい。
彼はふう、と大きく息を吐いた後で文を見下ろして言った。
「なんだ。天下の天狗様がたったこれっぽっちの酒で酔っ払うとは情けないね」
言われた文は左手をひらひらとさせ、ふにゃりと笑んで応えてみせた。
「こんなに素敵な酒宴だったんです。酔いだって回ってしまいますよ。あなたの万倍、私はお酒を愛していますから」
「やれやれ。それが感謝すべき人への態度なのかい?」
「ふふ、冗談ですよ」
文は濡れた目をすう、と細めて小さく笑って見せた。霖之助は敵わないなと両手を上げて枡を地面に転がした。
それとほぼ時を同じくして、東の空が白みはじめる。きらきらと舞っていた雪もまた、僅かに稜線を超えた太陽の光に焼かれて消える。
次々と、次々と、偽物の雪は煙となって空へ、高い空へと上っていった。先程までの光の帯と違って、その軌跡は残ることなく風に吹かれて千切れて消えた。
空を見上げると、月もまた光を失い始めていた。文は杯に張り付いた花弁をつまむと、それをひらりと空へ放った。それで儚い雪月花は終わりを告げた。
残ったものはいつも通りの朝の光ばかりだ。夜露にしっとりと濡れた自身の袖を摘み、文は思ったより長く自分がここに居たことを自覚する。
霖之助は瓶と枡、そして文の杯をもてきぱきと紙袋に詰め込んでしまう。大きな袋は二つあったが、一つは空っぽのままだ。きっと片方に雪を詰め込んできたのだろう。
今その袋には何もない。ぽっかりと空のままだ。霖之助は一度すっかり輝きを失った月を見上げ、満足そうに頷いてから歩き始めた。不思議なことに、文が放った花弁は、既に茶色く縮れてしまっていた。
霖之助は五、六歩歩き、角まで来て振り返った。
「良い夜だったね」
文が返答するのを待たずして、彼は踵を返して歩き出した。気がついた頃には、何も残ってはいなかった。
晩酌の名残が何一つとして残っていなかった。心地よく体を支配していたはずの酔いですら、もう。
まるで全てが淡い夢のようだった。本当に、自分は酒なんて呑んだのだろうか。本当に、酒宴の夜なんてあったのだろうか。
全ての名残を霖之助が持って帰ってしまった。今あの角を曲がれば、彼はそこに居るだろうか。
全ては現で、彼はやはり居るのかもしれない。全ては幻で、彼はやはり居ないのかもしれない。
しかし何れにせよ、それを探ることはこの出会いの全てを台無しにすることと同義だった。終わったものは、終わったものだ。
文は曲がり角には背を向けて、大きく背伸びを一つした。それと同時にあくびがもれた。今日は少しだけ眠い。帰ったらぐっすりと眠るとしよう。
太陽は稜線を越えて、ついにその光を幻想郷に注ぎ始めていた。夜の名残を惜しみながら、文はそっと地面を蹴った。
ふわりと流れた一陣の風は、氷のように冷たくて、文は思わず小さく笑む。
ほのかな花の香りをはらんだその風の流れに体を任せ、彼女は春霞の空に舞った。
こういう話を読むと、早く酒が飲めるようになりたいと心から思う。
偶には騒がず静かに杯を傾けたいものです。
すてきでした。酒が飲みたくなりました。
まるでオペラのように目の前へ情景が去来する・・・感服の至りです。
相変わらずの素晴らしさ。
故郷でちびちび飲んでみたいなぁ。
酒、日本酒いいですよね。かくいう私も手酌で一人酒w
自分はこれ位のが好きだな
風流ですねえ
待ってました!!
本編もいいですが、あとがきも最高です。
霖之助がちょっと丸くなってるのは機嫌がいいからかな?
今回は文でしたが、幽々子さまやゆかりん、ゆうかりんもこういう呑み方が楽しめそう。
自分は下戸なので酒は飲めませんが、良い物ですね!
最初、雪の残滓は春夏秋眠中のレティーかと思ってましたw
自分はこんなふうにはきっと呑めないだろうから、ことさら
霖之助は案外メルヘンチックですねぇ。
雪月花
虫の音
虹
自分では作れない肴で飲む酒は旨いよね。
日本酒をチビチビやることにします、無性に飲みたくなる、そんな作品ですね。
豊かな描写や、文章力に文字通り『酔わされ』ましたねw
天晴れです。
素朴だけど細かい描写が素敵です。
二人の登場人物も知的に描かれていて感動しました。
大人になった時こんなお酒が飲めたらいいなぁ。
仕事上がりのビールとはまた違った酒
時間があればこの作品のような優雅な呑み方をしてみたいもんです
文が鳥と風で
酒の飲めない自分ですら、旨そうだと文章だけで感じさせてくれる。
華美ではないですが、これも名作と言われるに相応しいものだと思います。