風に吹かれて乱れに乱れ、散った花弁は紅き雨。
仰いで眺め、咲き誇るは黒染桜。
ひらりひらりと花が散る、ちらりちらりと記憶が霞む。
永久に春へ別れを告げた、悲しき桜の前に立つ女。
幽かな過去の残影に、馳せる想いは果たして何処へ。
零.
暗闇の中に佇む女が一人、部屋の中心に置かれたる姿見の前に立っている。朧げな月明かりが中途半端に開かれた障子の隙間から差し込む中、元より希薄な存在感を放つ女は、殊更儚く見えた。姿見の中、桜色の髪の毛は蒼然たる月明かりに照らされて紫色の輝きを放ち、死装束と見紛う着物はぼんやりと浮かび上がる。細められた瞳が笑みを象る事はなく、寂寞の影を長き睫毛から落としながら、美しさの露を滴らせるばかりである。真一文字に結ばれた可憐な唇は、おもむろに開かれて、如何なる言葉を紡ぐ事なく再び閉じられる。悲しみの影が、畳の上に長く長く伸びていた。
やがて女は着物の帯を解く。小さな衣擦れの音がするりと鳴ったかと思うと、たちまち女の上体は瑞々しい素肌を外気に晒した。そうして新春に溶けるか弱き雪の如き柔肌も、微かに揺れる豊かな双丘も、全てが露わになった。うなじに掛かる月光が艶めかしく彼女を宵闇の中に浮かび上がらせる。何処かから舞って来た桜の花弁は、一枚の絵画に映る美しき女を彩るように流れて行った。寒々しい夜気に身を震わせる事もないままに、彼女は無表情の中に索莫とした影を忍ばせながら、緩慢な動作で姿見に映る自身の姿を見遣る。そこには上半身をことごとくはだけた女が、物憂い気な表情で立っていた。
頭に被った帽子を一思いに投げ捨てれば、乱れた髪が凄艶さを増して、全てを魅了せんと淫気が溢れ出す。この世の全てを懐柔してしまいそうな危うさを秘めた剣呑な色気が、妖艶なる彼女を明らかに浮かび上がらせて、自身の手を胸に当てた女は嘆息ですら悩ましい吐息に変えて、姿見から目を逸らした。女は全てが虚構の産物である事に気付いている。真なる月の明かりに暴かれる虚像だと理解している。
――姿見には女の姿など映ってはいなかった。そこには桜の舞う明媚な風景が、残酷なまでにありありと映っているばかりである。画集を紐解いた中にある、一枚の絵画のような光景であった。
「我が身浮世に映らざらんとすれば、我が心は何処ぞ」
遂に女の唇は言葉を紡ぎ出す。その身に収まらぬ怨嗟の叫びを解放したかのような、憎しみに、或いは悲しみに塗れた呟きが風の音に溶けては消えて行く。何もかもが静まり返る夜中の時分、一人佇む女の姿は何処までも寂しげで、哀れであった。月に喰われた太陽は光を落とさぬ。女はそれと同様の存在であった。真なる自己を喰われた悲しき太陽、決して光を放つ事の出来ぬ闇の存在、星にさえ劣る脆弱な幽光、斯くも儚き悲劇の具現。
――ところへ初老の男が現れた。頭に生やすは人間道を通貫せしめた証左である白き髪、荘厳な面持ちに光る瞳は厳しく輝き、引き締められた唇は鋭き矢を放たんとするが如く。腰に下げた刀は鞘越しで尚、人を震撼させる殺気を放っている。やがて彼は女の部屋に一歩を踏み入れると、姿見を隔てて女の前に立った。月明かりを顔面に受けながら、しかし男の表情は豪も変わらない。束ねられた白髪ばかりが月光を受けて無暗に光る。女の表情は影に隠されて、判然としなかった。
この世の四苦を自身の身体に刻み込み、厳めしい顔付きが、女を見ると僅かに悄然とした。木々の梢が夜風に靡き、さわさわと音を立て、風の波が花弁を持って来る。女の憂いが秘められたる瞳が、不意に男を貫いた。
「妖忌は教えてくれるのかしら」
「何を、で御座いましょう」
「私の不安の正体を、或いはこの空虚な感覚を」
女の慎ましやかな手が、姿見に掛けられて、畳の上に鈍い音が響き渡る。明らかに浮かび出す裸身は神々しい威光に照らされて、その美しき肢体を男の前へ戸惑う事なく現した。けれども彼には意表を突かれた様子も無ければ呆気に取られる様子もなく、また女を前にして卑俗な考えを持つ事も無かった。ただ彼の女は自然の体でそこに在る。男は全く自然の風景を見ているのと何も変わりがない。そこにある相違と云えば、女の心苦しい思いが大気の中に遍満しているかの如く感じられる事ばかりである。そうしてそれを知っているからこそ、男は淫気に溺れる事が無かった。
二人の間を活き活きとした沈黙が領している。風の音も呼吸の音も、何もかもが静けさに打ち消され、その矛盾の中に他者では介入出来ぬ強靭な錠が掛けられた空間が顕現する。やがて女は男に向けて問うた。この世界中の憂いを身に受けて、脆く崩れ去る精神の居城の中、深い深い地の底から、助けを求めて、か細い声を精一杯張り上げた。笑顔の仮面を被り、偽りの瞳の中から透き通る雫を流しながら、切実な思いで、藁にも縋る思いで、問い掛けた。
「身体は確かに此処に在る。それなのに、胸には大きな穴が空いているような気がするの」
細い五指を胸の中心に当てて、震える手先を豊かな双丘に沈めながら、女はそう云った。まるで路傍に咲いた一輪の花の如く、弱々しい姿である。男は眉根を下げた。真一文字に閉じられた唇は、言を紡ごうと開かれる。けれども声が出て来ない。空気が無くなってしまったかのように、彼の思いを伝える媒介が、二人の間には存在しなかった。ただこの場だけを取り繕う虚しい言葉が、深い闇の中に溶け込み、彼女の睫毛を濡らしたばかりである。
「貴方様は、確かに生きていらっしゃる」
春に別れを告げた桜の花弁が、音もなく遠い夜空に舞った。煌々と輝く星々の中に、青白さを忍ばせた場違いな色彩が、幾つも重なり合って浮かび上がる。やがて閉じられた襖の向こうからは、遠ざかる足音と、女の咽び泣きの声が、曙光の差し始める時分まで何時までも響き渡っていた。
肌理細やかな肌を伝う悲しみの残滓が、妖艶な月明かりを跳ね返している。……
一.
薄ぼんやりとして明瞭でない風景、聞こえているはずなのに聞こえぬ人の声、何処か現実味の無い曖昧な浮遊感、彼女はそんな事から自分が見ているものは夢なのだと気が付いた。目の前に広がる景色は桜花爛漫たる桜が、美しく乱れ咲く、まるで一枚の絵画から切り出したかのような幻想的な風景である。そうして大人数人で腕を伸ばしても囲えぬほどに太く逞しいその幹の前に、一人の少女が物静かな面持ちで立っている。彼女にはその少女の顔を判然と認める事は出来なかったが、そんな不明瞭な視界からでもその少女が悲しげな面持ちをしているという事だけは、何故だか自然と判った。
それがどうにも腑に落ちないので、実体を持たぬ幽霊のような身体で、彼女は必死に目を凝らして見た。が、一向にその努力が要領を得る事はなく。桜の木の前に佇む少女の面持ちは、漠然とした印象から悲しげであるという事だけが、頭の中に残っている。その内その夢の光景も次第に薄れて来て、遠くから自身の名を呼ぶ声が木霊して来たので、彼女は蒼穹を見上げて、輝く太陽に目を眩ませた。それが合図だったのか、途端に眼前に広がる風景は渦を巻き、自身を取り巻く桜の花弁が醸す雨のような光景が、一度に一点に集まったかと思うと、世界は暗転し、音の無い世界に自分の名を呼ぶ声だけが響き渡っていた。
「幽々子様」
眠気の覚めやらぬ目を開けるのは彼女にとって至極難儀な事であった。開けようという意思があっても、それが身体について来ない気味で、彼女は腕を瞼の上に置くと照り付く日光から逃れようとするが如く、軽く唸った。が、名を呼ぶ声が一向に止まないので、仕方なしに瞼を開けると、そこには青空を背景に銀色の糸が燦爛と輝いている様があった。そうしてまだ幼い顔立ちの中にある整った眉毛が困った風に下げられているのが一番に目に入った。
「眠ってしまったみたい」
「何時から昼寝に興じられているのかは存じ上げませんが、こんな所で眠られていては風邪をお引きになります」
「それも可笑しな話ね。幽霊が風邪を引くなんて、つまらないお伽噺のようじゃない」
そう云いながら幽々子は緩慢な動きで身を起して、大きく伸びをしたかと思うと柔らかな微笑を湛えて、縁側に伸ばしていた足を地面に下ろした。穏やかな春の風が、色鮮やかな花の香を連れて来る。寝起きで朧げな感覚しかない身体には、その匂いがとても心地好かった。が、至極呑気な彼女の表情と比べて、それを見遣る妖夢の瞳は呆れた風に細められている。その内小さな唇からははあと溜息が落ちて、「万が一の為にです」と云った。
「妖夢は心配症だものね。妖忌に好く似ているわ」
「西行寺に仕える庭師故、真に光栄なお言葉ですが、それではお爺様もきっとお呆れになられますよ」
「好いのよ、それで。その方が余程楽じゃない。堅苦しいのは苦手なの」
「それなら何も云いませんが……」
「それより、こんな天気の好い日には美しい景色を眺めながら過ごす方が有意義だと思わないかしら」
幽々子はそう云って視界の一切合財を埋め尽くす明媚な風景を見て感嘆の溜息を洩らした。とりわけ桜の花には一段と関心が向いているようで、彼女は風に乗って運ばれて来る花弁を手の平に乗せては、頬を緩めている。そんな主の姿に毒気を抜かれたのか、妖夢は観念したとでも云うように幽々子の隣に腰掛けると、同様に景色へ目を向けた。そうしてこの庭の管理を手掛けているのは自分ではあるけれども、眼を奪われるとはこの事だと驚嘆した。
「今年は一段と桜が綺麗に咲き誇っていますね」
「此処に優秀な庭師が居るからかしら。お陰で好い花見が出来そう」
「お褒めの言葉、有り難く頂戴致します。ところで、お花見の件ですが」
「ええ、前に云ったように行いましょう。この景色を私達だけで独り占めするのは忍びないもの」
幽々子はそうして眠たそうに大きな欠伸をした。白玉楼の主たるもの、仕草は常に淑やかに、と常日頃云い続けている妖夢だったが、いよいよ諦めたと見えて、特に彼女に対して注意を向ける事もしなかった。その内放っておけばすぐにでも二度寝に勤しみそうな様子だったので、時刻も丁度好いと判断したのか、妖夢は立ち上がると「お茶と茶菓子をお持ちします」と云って長い廊下を歩いて行った。それに続いて宙を漂う霊魂が、妖夢の後を辿って行く。幽々子は「有難う」と云うと、また美しい景色へと目を向けた。二百由里にも渡る広い庭の全貌を確かめる手立てはありはしないけれども、何処までも続く木々の連なりを眺める事を彼女は好んだ。まるで楽園に居るような心持ちで、落ち着くからである。
ふと、木々の連なりを目で追って行くと、異端とも云えるほどの大きさの大木が天に向かって伸びるのが見えた。季節に似合わぬ彩りに欠けた枝、枯葉のように物哀しい朽ちた色、その身に花を開かない永遠に死に続ける桜の木。幽々子はその大きな姿を目に入れる度、胸の隙間へ風が吹き抜けたような心持ちになる。何だか不安で居ても立っても居られなくなり、急に立ちたいという気さえ起る。呑気な気質が損なわれたような気がして、不愉快さえ感じる。そうしてとても懐かしい記憶が、頭の隅に引っ掛かる。幽々子はそれが一番気に入らなかった。気になるのに思い出せないというのは、一種の拷問であるような気さえした。ところへ妖夢が戻って来る。手に持つ盆には茶菓子と茶が載っていた。
「お待たせ致しました」
それなり幽々子は頭の中に蔓延っていた嫌な思考を切断した。憂慮に耽るのは今すべき事ではない。存分に季節の味を楽しまねば人生は損である。そんな事を思いながら、彼女は礼を云うと差し出された茶菓子に舌鼓を打つのであった。
二.
「空も好く晴れた、過ごし易い天気が連日私達を癒す中、白玉楼の主として一つの提案をお伝えしたく、この手紙を皆々様までお送り致します。お忙しい方々も数多く居るのでしょうが、無礼を承知して、この白玉楼へと花見の招待をさせて頂きます。桜も満開となり、辛夷も躑躅も色鮮やかに、冥界はとても賑やかな彩りを至る所へ咲かせており、その風景の明媚たる事、冥界を管理する者として充分に自負しております。ご都合が付くのであれば、是非とも招かれてくれますよう。
日時は手紙の末尾に記載した通り、一切の準備は私達の方で行う所存で御座います。何時もながら博麗神社にはお世話になっておりますので、それに対する敬意と感謝とを誠意を込めて伝えたく思い、それを行動に表したいと思っていますので、仮に遠慮が後ろめたさを与えるのであれば、そんな事は気にせずにいて下さい。尤もこの言葉自体が不要な物と思われるかも知れませんが、私共としてもご迷惑を掛けていた自覚はありますので、一応と付け加えてお伝え致します。
花見の席には、白玉楼にて管理されている古酒を振舞おうと考えております。長い間蔵の中にて、皆様に飲まれる事を待ち望んだ、絶品の名酒ですのでお酒を好む方々が多い幻想郷には打って付けでしょう。しかし何より私達がお勧めして止まないのは、何もお酒ばかりの事ではありません。先に記述した通り、花見の会場として私は色鮮やかに咲き誇る桜の木々を、何より美しいと思っております。既に目にした事もある方が多いとは存じ上げておりますが、それでも尚私はこの庭の美しさは、幻想郷随一だと考えているのです。一見の価値は語らずとも有るように思います。
それでは貴重な春の時節を、このような手紙で潰す訳にも行きませんので、要件はこれにて終わりとしたく思います。重複になりますが、是非ともこの宴会に参列される事を待ち望んでおりますので、手紙を受け取った暁にはご一考をお願い致します。それでは未だ肌寒い風も吹く季節、幾ら温暖な気候が続いていると申しましても用心に越したことはありません。お身体にお気を付けて、麗らかな春の陽気を謳歌して下さいますよう、お節介を焼きつつ、失礼致します」
幽々子は幾枚目かも判らぬ文を最後の紙へと認めて、硯の上へ筆を置いた。外を見ると未だ陽の強く差す時分である。暖かな空気が障子の隙間から、心地好い風となって吹いて来る。時折ちらちらと流れ着く桜の花に頬を綻ばせながら、座り疲れた身体を崩して、幽々子は畳の上で横になった。年季の入った天井は所々が黒ずんで、過ぎ去った日々を彷彿とさせる。この白玉楼で冥界の管理を任されてから、一体如何ほどの時間が経過したのか、幽々子にはとんと見当が付かない。逆説的に考えればそれを忘れてしまうほどの時が経ったのかとも思われたが、それをそう定めても何だか釈然としなかった。
空白のある小説を読んだ後のような、蟠りが胸にある。払拭するにしても、その空白を埋める術が見付からぬので仕様がない。近頃こういう問題に対してよく頭を悩ませているなと、幽々子は考えて甚だ自分が情けなく思われた。取るに足らぬ些事に呻吟しても得は無かろう。彼女にしても、問題の空白は単なる気分の所為に違いないと信じて疑っていない。それなのにも関わらず、判りそうで判らない問題がどうしようもなく気になってしまう。そうして頭の中には色々な事柄が錯綜して、やがて纏まりを失くしては行き場のない思いを、無理やり引き剥がす。それの繰り返しばかりであった。
「西行妖なら、何か知っているのかしら」
ふとそんな事を思い立って、幽々子は一人呟いた。雲煙縹渺として見当も付かぬこの疑問の正体を、一度だけ本当に思い出しそうになった経験が彼女にはある。今思えばよくもあのような我儘が通ったと思われるが、幻想郷にある全ての春を集めて、西行妖を満開にさせようとした時に、彼女は確かにこの疑問の正体に触れたのである。以来彼の呪われし桜に近付く度に、懐古の情が心を満たす。けれども空白だけは決して埋まる事なく、今も尚幽々子を悩ませている。だからこそ、その懐かしさが形を持たぬ疑念を暴いてくれるのだろうと、彼女は信じているのである。
が、西行妖は何度春が訪れてもその梢に花を煙らせる事は決してない。諸行無常の響きに見放された存在は、常に無変の姿のまま屹然として天空に枯れた腕を伸ばすばかりである。まるで幽々子が気にしている心の空白のように、彼の桜も真の意味で満たされる事はなかった。それだから幽々子は自身の姿をあの桜の木に重ねて見る度に、同族嫌悪染みた思いを抱きつつも郷愁の念に興味を惹かれている。いっそ投げ遣りたい鬱陶しい思いを、何時までも抱え続けているより他にない。死にたくとも死ねぬその身体のように、決して離別を許されぬ間柄なのだと、諦念しているのである。
「またそのような格好になられて……」
煩悶する幽々子に、聞き慣れた呆れ声が聞こえて来る。見上げると妖夢が例の如く眉根を下げながら、腰に手を当てて立っていた。無論弁解する気など毛頭なかったが、幽々子は自分の仕事は終わったとばかりに机の上を指差して、積み重ねられている紙の束を示し出した。
「こうして全部書き終えたばかりだから、少し呑気にしているだけよ」
「もう、ですか」
「やれば出来るのよ。余りしたがらないだけで」
「自覚がお有りなら、何時も勤勉で居て下さい」
「剣の稽古なら遠慮するわ。そんな気分でもないの」
そうして空に手をひらひらさせて、幽々子は洒然として妖夢の言葉を閑却した。最早それも通例となっているので、それ以上妖夢は何も云わなかったが、微々たる不満の意を隠すには未だ鍛錬の足らぬ身であるようで、彼女は心持ち不満げな声音で「そうですか」と云った。春の香は穏やかに、景色は色付けども、この方に色気が付くには些か陽気過ぎるようである、と思いながら労いの茶を汲みに、妖夢はその場を後にした。元来生真面目な性質であるので、主人が幾ら安穏とした様を呈していても、それに怒って仕事を放擲するほどの勇気を彼女は持ち得ていなかったのである。
花見の事実はすぐ間近に、妖夢が手紙を配り終えれば開催される事であろう。ある予感めいたものを感じ取って、幽々子は唇の端を持ち上げた。紋白蝶が粉を吹く羽をはばたかせながら、室内へ入る。他者の命を奪い取る危うさを持たぬか弱き生の存在が、どうしようもなく羨ましく思われた。つと指先を立てると、誘われるように蝶はしなやかな幽々子の指先へ止まると羽を休める。蒼穹へ散り行く桜の花を追い求める翼が有れば、この身に張り付き離れぬ煩悶に別れを告げる事が出来るのだろうかと考えて、彼女は目を瞑った。今日は時節に対する感慨が、何等も起こらなかった。
三.
麗らかな晴天の広がる天気だと云うのに、この陰湿な空間は魔天の下にあるが如く薄暗かった。埃臭さの充満する古き蔵には様々な物が置いてある。何やら高価そうに見受けられる壺があれば、何年も使われていない事を示唆するように埃を積もらせた茶器が、本来の用途として使用される事なく鎮座したりする。灯りを点けると酒がある。大仰な箱に収められたる酒瓶は、その風情だけで百年の響きを孕んでいた。手に取ると頗る重い。無色の液体が瓶の中で揺れて、頻りに動く。口の所に鼻を近付けて、一寸匂いを嗅いでみると美味そうな酒の匂いが漂って来た。――白玉楼にある蔵には、あらゆる時代を過ごして来たと思われる品々が兎角沢山置かれていた。
幽々子はこの時初めて蔵に訪れた。宴会に出そうと決めている古酒の確認の為でもあったし、単なる興味から覗いてみたい心持ちも確かにある。けれども実際に薄暗い穴倉に迷い込んでみると、最も興味を惹かれたのは蔵の最奥に陳列されている書の数々であった。埃を被って白く煙っているけれども、手に持ってみれば然したる風化の兆しは感じられない。書は書としての意義を未だ保ち続けたまま、人の手に載る事を今か今かと待ち望んでいた気色である。開いてみると、古めかしい文字が墨にて刻まれて、薄汚れている所為か判然としなかった。
「幽々子様」
幽々子が書を手に取り、今まさに読み始めんとしていた所に妖夢は現れた。彼女らしからぬ厳しい声音と、主の名を呼んだとは到底思えぬ冷然たる口調である。図らずも幽々子は驚いて、手に持っていた書を閉じた。黄色に淀んだ紙がぱたんと閉じられて、白き煙が辺りを舞う。入口より差し込む陽光がその煩わしい様を明らかに照らし出した。逆光を背負う妖夢の表情は微茫として窺い知れない。澄ました口振りで、幽々子は「どうしたの」と問い掛けた。
「その質問をするのは私の方です。一体どうしてこんな所に居られるのですか」
「無聊を慰める以外の理由は持ち合わせていないわ」
「無礼と思われるかも知れませんが、すぐにお出でになられて下さい。此処は空気が好くないでしょう」
「どうして。私の好奇心を蔑ろにする権利が、貴方にあるの?」
妖夢のただ事ならぬ様子を見て、幽々子も心持ち厳しい声音でそう問うた。けれども一向窺い知れぬ妖夢の表情は光に隠されたまま何をも語らない。彼女は無言の内に先の言葉を繰り返しながら、幽々子の為に道を開けたばかりである。それ以上幽々子の意思を聞こうという気色も無ければ、主君相手に躊躇する素振りさえ見えない。徒に輝く銀色の髪が、幽々子を刺すように射抜く。薄暗い蔵の中には長い影が天井にまで伸びていた。
「そうとは元より思っていません。――思っていませんが……」
「貴方とした事が一体どうしたのかしら。私の行動がそこまで諫められるものだとは思えないのだけれど」
「今はただ、この場からお引き取り下さい。そうして二度とこの場所に立ち寄らぬようにして下さい。私とて理由は存じ上げておりませぬ。けれどもお爺様は仰いました。決して幽々子様をこの場所に近付けてくれるなと」
幽々子は大きく目を見開いた。尋常でない妖夢の気迫に押されたのは無論の事、彼女の意志ばかりでなく妖忌がこの件に絡んでいる事が何より驚きを幽々子へと与えたのである。今は何処に居るかも知れぬ初老の男の顔が蘇っては、蔵の暗闇の中へその残影が過ぎる。幽々子の頭にはあらゆる疑問が渦巻いていた。何故自分を此処へ近付けるなと命じたのか、何故そうまでして自分を退けさせようとしているのか、彼女には思い当たる節が全く無い。が、それでも妖夢の意思は決して揺らぐ事なく、強き視線は何時の間にか一直線に幽々子を貫いていた。
「どうかご理解のほど、頂けますよう」
妖夢が深々と頭を下げる。先刻の強い姿勢は影も見えない。彼女は摯実な態度を以て幽々子に頼み込んでいるのである。ともすれば懇願にも酷似している。剣の稽古を断った時にも妖夢はそんな顔をしなかった。また如何に西行寺の主だという自覚がない素振りを見せても呆れるばかりであった。時折何も知らせる事なく、何処かを彷徨する事があっても、心配するばかりで現在のような表情を浮かべる事は無かった。それだから幽々子は引き下がるより他にない。これほどまでに誠意を込めた行動をして見せた妖夢に対して、それを嘲笑うかのような対応をする事など出来るはずもなかった。
「そうまでして云うのなら、仕方がないわね」
「有難う御座います。お花見の準備は私が行いますから、幽々子様はごゆるりとお寛ぎになられて下さい」
「そうするわ。要らない心配を掛けさせて、ごめんなさいね」
「いえ、元はと云えば私の不祥事、幽々子様が謝られる事ではありません」
そうして幽々子は手に取った書を棚の中に戻すと、何処か物寂しい笑顔を華の如く咲かせて、妖夢の横を通り過ぎて行った。げに全き辛辣の笑みである。妖夢はそれを見て甚だ自分は未熟な身だと痛感した。我が主の影に忍び込んだ寂寥の影は、時折その姿を見せては妖夢の胸中を締め付ける。何といった言葉を掛ける事も出来ず、幽々子が自身の内に抱えた悩み事を知る術もなく、また知ろうとする勇気でさえ出し得なかった。まるで罅だらけの硝子細工に手を当てるようで、一瞬の内に瓦解してしまいそうな脆さがあるようで、妖夢にはそれが恐ろしくて堪らなかったのである。
蔵を去った姫君の背中は何も語らない。歩き行く彼女は、世の果てにある懸崖に独り佇みながら、達観した面持ちでいる様と酷似している。何処までも続く深淵の闇の奥深くに、自らが取り込まれるのを潔しとした風である。妖夢はそんな主の姿を見る度に、自分の無力を恥じた。幾ら剣の鍛錬を積んでも、到底あの方の持つ闇を祓う力は持てまいと、涙に咽ぶ思いであった。けれども幽々子は平生の通り過ごしている。掴み所のない柔らかな笑顔を浮かべながら、茶菓子を求めるのである。ともすれば悲歌を口ずさみ慷慨する哀れな者の如く。……
四.
常闇の世界に一人立つのは、桜の花弁を砕き織り込めた髪色に、憂いを秘めたる瞳を徒に輝かせ、細く長い五指を中空に絡めたる、霞の如き雲の肌を持つ女である。醸す雰囲気に滲むは悲哀の影、瞳裏に見ゆるは千里の彼方を見透かさんと漲る暗黒の光、自らの全を美に自らの個を悲しみに表す女である。千の軍勢が放つ弓矢の雨に、その小さき身体を差し出して、身を貫く事を許した現世を逸した女である。彼女は笑みを絶やす事なく、小さき糸のような矢が、万本の束となりて塊と変じても決して動ずる事がない。その身は不生、紅き心の蔵は鼓動を打たず、装飾の一つとして彼女の内に在る。
知らぬ闇の内へと無防備な足を突き入れれば、底なしの沼に取って喰われよう。彼女はそれを是とする女である。自らの身体に及ばんとする危険を恐れぬ魔性の感性を有している。その望みは幽光透いて見えざりし儚き夢の終焉となりて、やがて彼女を飲み込まんとする沼には足が着く。無限の深度は矛盾して彼女の存在を否定しては身体だけを奪って行く。即ち着いてはならぬ足が底なしの沼の底に着く。そうして彼女はその存在を否定する。冠せらるるその名称を、恐れ慄かれる特性を、自己の存在のみで否定する。それは生の否定である。死の否定である。
彼女の求むるものは影も無く、今や悲しみの形さえ霞んでいる。ただ刳り抜かれたかのようにぽっかりと空いた胸の穴には空虚な風が何時も吹く。時に流星の如き弾丸が通り抜け、時にその穴を拠点に身体中が罅割れて行く心持ちがする。高き空に懸かりたる月の蒼き光が漠然と闇の中へ紛れ込み、夜半の世界に女は尚も変わらぬ姿で佇んでいる。古の日にそうしていたかのように、そこが自分の居場所なのだと云うかの如き気色である。
――西行の名を与えられし巨大なる桜の下、眼前に聳えたるは恐ろしき妖怪の桜である。けれども桜という確たる信は到底得られぬ。枯れた枝の逞しきはその太さ故に思わるる。花を、ましてや蕾すら咲かせぬ木を桜と認めるには、その梢一杯に褪紅色の花を咲かせねばならぬ。ふと女の端正に整った顔に暗き影が差す。俯きたる彼女が望むは昔日の絵画、途切れし回廊の対岸に在りし自らの姿、決して届かぬ先にある幻燈の光。――西行寺幽々子は現今に死に続けている。
「どうしたのかしら、そんなに呆けて」
白玉楼が主催する花見を間近に控えたある時、友人の紫が幽々子を訪ねて来た。用事の取り付けなしに彼女が訪れるのは今に始まった事ではなかったし、幽々子もそういう事を求める几帳面な性質でもなかったから、紫の来訪する折には暇を共に過ごす相手が来たと、喜びながら歓迎する。が、紫を隣に、湯呑を片手に持ちながら、何処にと定まらぬ瞳を彷徨わせている彼女は、誰から見ても様子がおかしかった。普段の幽々子という人格は、げに雅なる景観を肴にして会話を楽しむ者である。特に紫が来た日には茶を嗜みながらお喋りを楽しむのが通例であった。
「少し、考え事をしているの」
「へえ、何だか珍しいわね。それは私に話せる事なのかしら」
幽々子は何処となく深刻な面持ちで押し黙った。紫はそれに怒る兆しも見せなければ胡散臭い笑みを浮かべるでもなく、緩やかな弧を唇に描き、脈無きようにさえ思われる静かな両の手を膝の上に重ねて置いて、ただ幽々子の横顔を見詰めるばかりである。二人に会話は無いが、その影響で心安からぬ窮屈な思いをする事もなかった。
「敢えて云おうとすれば、とても可笑しな事を云わないと何も始まらないわ」
「あら、とても面白そうじゃない。妙であればあるほど、物事は面白くなるものよ」
「そう気楽な話でもないのだけれど。少なくとも私が思うには」
「それなら尚更面白いわ。そこまで暗い表情を浮かべる事なんて、余り無かった気がするもの」
紫は幽々子をからかう調子で扇子で口元を隠すと、不敵な笑みを漏らした。平生の調子であったのならば、幽々子も一緒になって笑う所ではあったが、今日はそんな気にもなれぬと見えて、未だ面持ちを深刻なものとしたまま変わる気色は何時までも窺えなかった。美しきは桜連なる百花繚乱の趣か、或いはそれを背景に置いて座る二人の女か。憂い秘めたる女の表情と、不敵な笑みを浮かべたる女の隣り合う美しい光景は、天地奔走してでも他には容易に見付からぬ。
「何だかからかわれているみたい」
「からかわれるのは苦手?」
「それが好きな人は余程の物好きね」
「私と友人になるなんて、それこそ物好きだと思うけど」
そう云う紫の口調に自嘲の響は寸毫も見当たらない。幽々子もそれを判っているようで、その言葉に苦笑したばかりである。すると湯呑に注がれた茶を一口喉へと流して、慎ましやかに動く咽喉が引っ込んだ後、幽々子がふと何かに気が付いた気味でぼんやりと景色を眺めていた瞳が一寸異なる輝きを湛えた。
「紫とは何時頃知り合ったのかしら」
桜の下に佇む少女の咽ぶ姿が不意に頭の中に浮かぶ。あの夢の光景だ、と気が付いた時に、幽々子は今まで解けなかった問題の正解へ限りなく近付いた心持ちがした。脈打たぬはずの心の蔵がざわついている。
「……さて、疾うに昔の事だから、記憶がどうも判然としないわね」
紫はそう云って傍らに置いてあった自身の湯呑を手に取ると、澄まし顔で茶を飲んだ。幽々子は変わらず桜を眺めている。乱れ飛ぶ桜の花弁が、近付いたはずの答えすら覆い隠してしまったように思われた。が、記憶は確かにある。桜の下に佇んでいた彼女に声を掛けて来たのが紫で、何だか不思議な雰囲気を持つ彼女に惹かれたのが幽々子である。それは余りにも明確で、信じるより他にない自らの記憶の雫であった。それだから、それ以上詰問の余地など認める事が出来ぬまま、釈然としない心地で幽々子は黙していた。
ぱちんと扇子が閉じる音がする。聞き慣れた音、昔から紫は嘘を吐く時に扇子をぱちんと閉じる癖がある。尤もそう思わせる為の行為なのだか、幽々子の推測に従った行為なのだか、紫の性格を見るに正しい所は判らない。けれども紫がそうする時に、幽々子は何時もその言葉の何処かに偽りの響きを認める。それが猜疑をもたらして、好いた友人を疑ってしまうようになるくらいなら、この音が風と共に去って行ってくれはしまいかと、幽々子は心中に呟いた。
「もうすぐお花見の時期ね。貴方も勿論参加するでしょう?」
「気紛れな私の事だから、面倒な気が起こって床に就くとも限らないわ」
――ぱちんと音がする。幽々子はきっと紫は花見へ来るだろうと思った。
五.
暑いとも寒いとも思われぬ丁度好い陽射しが晴天の頂点から降り注ぐ頃、白玉楼の庭は類稀なる賑わいを見せていた。桜散る鮮やかな光景を肴にして、人妖の隔てなく多くの者が一度に介し、僅かな時日を咲き誇ってはすぐに散ってしまう刹那の時を楽しむべく催された花見にて騒がぬのは意味がない。酒に肴に色々集め、大勢の者達がそれぞれで騒ぎ散らす事こそ花見の醍醐味だと云わんばかりに、あちらで騒ぎこちらで騒ぎ、喧騒は何処までも届きそうなほどに大きく響く。
幽々子はそんな中、幾本も連なる桜の木の内、ある一つの下にて座りながら酒を飲んでいた。妖夢が蔵より持ち出した古酒は今までに味わった事のない独特な味がする。何より深みがある。そうして飲んでいるとすぐにふわふわとして、気持ち好くなってはどうでも好い事に対してでも笑いを誘われるようになる。酒に肴と全てを提供する大判振る舞いを、自身も楽しむべく彼女は話の合間に料理を摘まんだり、絶えず酒が注がれる盃を手にしながら、頬を赤く染めていた。
魔女に吸血鬼、メイドに巫女、果ては化け猫化け狐、兎も姫も、古今東西に存在する妖怪を全て集めたかのような顔触れは、皆等しく頬を赤くしていた。或る者は熟れた林檎の如くまで赤らめている。すぐにでも倒れてしまいそうなのに、彼女らの酒の強さと云えば酒豪を名乗る者達を真青にしてしまうに違いない。既に空けられた酒瓶の数たるや、物凄いものである。陶然とした面持ちで辺りをふらふらと歩いている妖精は、時折地面に転がる酒瓶に足を取られて転んでいたりした。
そんな騒がしい渦中、幽々子に向かって歩いて来る者がある。紅白の巫女装束に身を包むは幻想郷の人間だけでなく、妖怪にまでその名を知らしめた博麗神社の主、博麗霊夢であった。彼女は酒に少しも酔って居ない風で、周りに居る者と比べると頗る顔色が好い。そうして幽々子の隣に腰掛けると、盃を片手に微笑した。
「あんたが花見を主催するなんて、珍しい事もあるじゃない」
「これだけの桜が咲いているのよ。一人占めしたら勿体ないと思って」
「まあ此処の景色に適う所なんて、そうそう無いでしょうね」
云いながら霊夢は桜を見上げた。蒼穹が広がる前に、木々の梢が重なり合い犇めき合い桜色の天井を形作っている。そこから落ちる影の涼しきは、春の香に溢れた居心地の好い涼である。二人は何処か宴会に似合わぬ落ち着いた風情で座り合っていた。近くから聞こえているはずの騒ぎ声も、遠く聞こえる心持ちがする。春を喜ぶ鳥達の賛歌は明らかに聞こえて来る。料理を一寸口へ運ぶと、部屋の中で食す物よりも数段美味い。花見という場に漂う雰囲気がもたらす影響は、斯くも明瞭である。ふと霊夢は視線を盃の上へと落とす。
「五月蠅過ぎるのも考えものだけど、こんなに桜が見事だとその方が楽しく思えるから不思議よね」
「往々にしてそういうものよ。私達は雰囲気に流されたり、乗ってみたり、そういう事が出来る生き物だもの」
「あんたが云うと、何だか不思議ね。そういう事は紫が話しそうだから」
「あら、私はそんなに不思議な存在なのかしら」
冗談として笑うには霊夢の声音は存外落ち着いている。つい幽々子もそれに合わせるように真面目に云った。
「不思議と云えば不思議だわ。幽霊なのに自分の姿を保っているなんて、他に聞いた事が無いし」
「余り気にした事はないけれど、云われてみれば他の幽霊は皆一様の姿をしているわね」
「それだけ力を持っているという事じゃないの。だからこそ此処の管理を任されたのだろうし」
「私からすると、任されたというより、何時の間にかそうなっていた、の方が正しいわ」
「あはは、何だかそれって可笑しいわね。結構重要な事じゃない」
その時、幽々子は一種の既視感に囚われた。先日紫と茶を共にした時も、同じような心境に陥った心持ちがする。重要な事を重要な事として捉えておらず、そこに浮き出る違和感が、どうにも払拭し切れぬ感じである。幽々子は冥界の管理を閻魔より任された当時の事は記憶しているけれども、何故そういう風に至ったのだかは露知らぬ所で、言葉に云い表せば、本当に何時の間にかなっていたというのが最も適切な表現であった。記憶の空洞を撫でられているかのような奇妙な心地である。不用意に自らの領域へ踏み込まれ、好き放題に物色される不愉快な心地である。幽々子はそれを振り払うように、盃に注がれた酒を一気に飲み干した。次ぐ酒は直ちに霊夢が注ぐ。
「不安で不安で仕方なくなって、その不安の理由をどうしようもなく解明したくなる。そんな気になった事はない?」
一時は軽くなった盃の、再び重くなった頃、幽々子は唐突にそんな問いを霊夢へ投げ掛けた。既にして要領を得ていない質問に、当人ですら戸惑った。もしや酒が入った所為かも知れないが、近頃の自分が悩まされ続けていた淵源はそこにあるような気がしてならない。幽々子の問いは、或いは彼女の願望の具現であったのかも知れなかった。
「どうしたのよ、いきなり」
霊夢はやはり唐突な問いに応え得る言葉を持たぬようで、いよいよ紅潮して来た頬に、白い手を当てて熱い息を吐く。気付けば彼女の盃の中にはもう何度も新たなる酒が注がれていた。その上その酒というのが、度数の高い蔵に仕舞い込まれていた古酒なので、案外にも酔いが回るのは早かったようである。酒色に溺れるは淫蕩なる生活への兆候である。そろそろ頭の働かぬほどに酔いが回って来たと見えて、霊夢は微睡んでいるようにも見受けられる酔眼を細めながら、楽しそうに笑った。それなり幽々子は「変な事を聞いてしまったわね」と云って、二度同じ話題を出す事も無かった。
眩い光が桜の天井より一筋差す。幽々子の白き肌は殊更白く、髪色はこの森の中に紛れ込んでしまうようにさえ思われた。霊夢は気楽に酒を飲んでいる。艶やかな漆黒の髪色は、他の何物とも交わらぬように見えた。ふと宴会の全体を見渡してみる。各々が色々な事をしている雑多な風景である。その中に、この美しき森と同化してしまいそうな彩りは、一つもありはしなかった。幽々子はどうしようもなく己の存在が希薄なように思われる。溶けて消えてしまいそうな、そんな剣呑さがあるように思われる。そうしてどう考えようとも、その不安の正体に近付く事は無かった。
「おいおいそこのお二方、こんな所でちびちびと飲んでいるんじゃ宴会は楽しめないぜ」
満面の笑みを湛えて、黒白の魔法使いが仁王立ちしながらそう云った。彼女は先刻無謀な酒の飲み方などをして周りから心配されつ期待されつしていたが、どうもそれが原因ですっかり酔ってしまったらしい。白き頬は真赤に染まり、とろんとして濡れている瞳は泥酔者のそれと然したる変わりはなかった。
「あんたは飲み過ぎなのよ。倒れても知らないから」
「こんなのまだまだ序の口――なあ、お前もそう思うだろ」
突如話の種は自分の元にも吹いて来た。幽々子は沢山の人妖が居る中で、自分は独座している心持ちだったから、殊更弱る。結局「ええ、そうね」と凡慮な返事より他に、呈する言葉が見付からなかった。
「ほら、亡霊の姫様もこう仰っている。飲み比べでもやりに行こうぜ」
「勘弁してよ。これから夜まで続くって云うのに、そんな事したら後先考えない馬鹿だわ」
「楽しい時は馬鹿になれって。そんな妥協をしていたんじゃ、宴会を素直に楽しんでいる事にはならない」
「それなら私より幽々子を連れて行きなさい。何だか悄然としている風だから」
霊夢の言葉を受けて、魔理沙が金色の双眸を幽々子に留める。霊夢の言葉を正しいと取る為なのか、注意深く見詰められ、片一方は微笑しながらその瞳を見返した。――幽々子は小さな驚きを感じている。普段と比較して、悄然としていると云われそうなほどの妙な素振りはしていないつもりで、また少しと云えど皆が酔っているのだから、そんな事を云われるなどと夢にも思わなかったのである。まるで碧瑠璃の空に小さな黒点を穿たれたかの如き小さな驚きだけれども、彼女にとって他人に気付かれるほどに自分が懊悩している様が露呈している事が、何だか惨めに思われた。
「霊夢、そんな判り易い嘘を吐いて逃げようとしたって、そうは行かないぜ」
一頻り幽々子の顔を舐め回すように見た後、魔理沙はにやりと笑いながら霊夢に視線を移す。そうして勢いに任せて色々と云って、霊夢を強引に立たせると引き摺るように酒の沢山残っている場所へ連れて行った。幽々子はやはり、と思うと同時に寥廓に佇んでいる心持ちになって、ふうと溜息を吐く。木の幹に体重を預けると、宴会の景色が先刻とはまるで変わって見えた。灰色の靄に包まれた曖昧模糊とした現実感、そこに真にあるのは何処までも荒廃した蕭条たる風景。そんな風に思うと、殊更に自身の中に広がる思考が、蜘蛛の糸の如く自我を絡め取るようで、その時には盃すら地の上に置いていた。
眠りが、睡魔が耳元で囁く甘言が、次第に彼女を誘惑する。眠ってしまえ、眠ってしまえば何も考えずに済む。朦朧とした意識の織り成す夢が、自身を苛めようといずれは忘却されるに違いない。宴会の喧騒が次第に遠く棚引いて行く。目を瞑れば心地好い。やがて幽々子は安らかな眠りへ就いた。自身に用意された逃げ道へと駆け込んだ。
六.
桜の前に少女が立っている。天に伸び行き天を穿つ傲然たる桜である。その前に立ち尽くしながら、何を語るでもなく何をするでもなく、自我を忘我の境に置いてきたかのような少女の顔は豪も見えぬ。幽々子は何時もの夢だと感付いた。冥々たる闇の中の眠りに就いて、安息の時を得ようと思えどもこの夢が邪魔をする。現に目を覚ませば正体不明の不安の憂いに苛まれ、眠りに堕ちれば何を示唆しているのかも知れぬ夢に苛まれ、我が逃げ道を何処にも見出せぬまま、幽々子はただ目が早く覚めて欲しいと願った。起きれば夢の事を忘れる事が出来る。でなければ自分の精神は容易く壊れてしまうに違いない。滅びぬ肉体を持つ者は、そうして永久の苦楽を知るのである。
――景色が次第に薄まり、頬に冷たい風を感じる。幽々子は直に目が覚めると思った。そうしてこの夢の光景から脱出出来ると安堵した。思い出してはならぬ記憶が思い出されるようで、またそれを思い出したいという矛盾した思いがある中、彼女は前者の思いに駆り立てられて、一刻も早く目覚めたいと思った。そうしてそれを叶えんとするかの如く、夢の世界は収縮して、飛散の前兆なのか淡い光が桜の前に佇む少女から溢れ出す。――不意にその少女が後ろを向いた。幽々子は黒き影が全てを覆い隠す不気味な顔を真正面から見詰めなければならなくなった。そうしてその少女の唇が何事かを語らんとして動くのを目にしなければならなくなった。焦らすように恫喝するように、悠然と紡がれたる言の葉が、……。
見開いた目を打つ冷たい風が、酔い潰れて地に臥す者達の死屍累々たる光景を映し出す。吐く息荒く、額に滲む汗がつと頬を流れ、存在意義を持たぬ心臓が、警鐘を打つかの如く激しく鼓動を奏でている。幽々子は視線を左右へ動かして、それが白玉楼の庭の中だと漸く知った。何処からか鼾が聞えて来る。確かに此処は現実の世である。深く溜息を吐き出すと、幽々子は得も知れぬ恐怖に解放された心持ちがして、ぐったりと桜の木に寄り掛かった。
千金を惜しまぬ春の夜空が、静かに瞬いている中で、夜風に揺れる桜の木々がさわさわと音を立てている。幽々子は乱れた呼気を整えて、ふら付く足を何とか立てると、辺りをそぞろ歩こうと桜の森を進み始めた。彼女が寝ている間に大分羽目を外したのか、地面に寝転がりながら寝息を立てる者達は、少しも起きる兆しが無い。満天の星空に浮かんだ月の傾きを見るに、時刻は日を跨ぐ頃であろう。随分と長い間寝てしまったと、幽々子は自分に呆れてしまった。
「妖夢」
従者の名を呼んでみようと応える者はいない。ことごとく森閑として静まり返っている。昼間の喧騒が嘘であるかのように、白玉楼は沈黙の中に佇んでいた。拠り所無き哀れな仔羊が、そうして歩き行く。何かに縋らねば自身が容易く砕け散ってしまうほど弱った仔羊である。彼女は滅びぬ肉体を持ちながら、それに釣り合わぬ脆弱な心を有している。まるで毛を全て抜かれた羊の如く、陰惨たる姿とさえ思われる。寒き風から身を守る為には暖かな血潮の巡る肉だけでは心許ない。
呼んでも訪れぬ従者の事は、大方酔い潰れて寝ている所だろうと当たりを付けて、幽々子は更に歩を進めた。桜の森の満開に花開く下を歩いて行くと、まるで変化のない光景が無限回廊を辿らせている如く思われた。けれども足はその先へ進み行く。自身が繰る糸の束縛を抜け出して、使命を与えられたかのように、決められた道筋を辿らせて行く。
――不意に淡い色に包まれたる風景が、一気に開けた場所に出た。彩りに欠けた寂然たる景色は、枯れた色に覆われている。一時は先刻歩いていた世界ではないのかと疑う程である。が、よく見ればこれほど見慣れた景観はそうはあるまい。幽々子は僅か数分前にそれを見た。夢幻の中に、現世の姿を垣間見た。ただ違っていたのは、桜の木の前に一人立っているのが幼き少女ではなく、男性だという事のみである。彼は幽々子に背を向けたまま、寂しき枝頭を見上げていた。
「今晩は、というのも何だか可笑しいかしら」
好奇心に惹かれるがままに声を掛けると、男は上へ向けていた顔を下げて幽々子を顧みた。銀色の髪の毛が煌々と靡く、けれども妖夢とは似ても似付かぬ怜悧さを秘めた風采である。月光に褪せぬその姿は何処か眩しく見えた。
「おや、もう皆眠っているとばかり思っていたが……」
「私も先刻起きたばかりなの。ええと、貴方は?」
「僕は森近と申します」
「ああ、貴方が前に妖夢が云っていた……」
「妖夢というと、まだまだ半人前の」
「ええ、白玉楼の庭師なの。私は此処の管理を任された、その主」
幽々子はそうして男の隣まで歩み寄った。互いに名を知っている程度の中であったが、妖夢が花見へ誘ったものらしく、あの喧噪の只中に居るとは幽々子は判っていなかったのである。
「すると冥界の姫君とは貴方の事ですね。名は好く聞きます」
「姫君なんて大仰過ぎるわ。私はこの地に住まう亡霊だから」
心持ち沈んだ声音で幽々子はそう云った。二人の前に聳える大木は、風に吹かれて揺れる気色を寸毫も見せない。屈強な枝と幹は決して倒れぬ故に、ある種の不気味さを醸し出している。幽々子はこの桜の木が「妖怪桜」と呼称される所以を知らないが、ひとえにそういう雰囲気から名付けられたのかも知れないと思った。
「――時に此処の桜は、他と比べると一段と美しいですね。前に誘われた事があるが、断って損してしまっていたようだ」
「お褒めに預かり光栄ね。これも才ある庭師のお陰だわ」
「半人前だと思って疑っていなかったんだが、どうやらその認識を改めなければいけないようです」
「あら、別に好いのよ。あの子は実際半人前なのだし、変に甘やかすよりも厳しくした方が余程好いわ」
そう云うと森近は「これは手厳しい」と云って笑った。酒を飲んでいないようでは無かったが、多少は酒気が回っているらしく、冴え冴えしい月明かりは彼の赤い頬を薄ぼんやりと照らし出していた。
「それにしても、貴方は何故こんな所に居るの?」
「たまには桜に操られるのも好いと思ったんです」
「桜に操られるって、貴方面白い事を云うのね。この桜には蕾さえ吹いていないのに」
そうして幽々子は可笑しそうに口元を押さえた。森近もそれを不愉快に思う事はないようで、苦笑いをしながら桜の満開になる季節だと云うのに、陰刻たる姿を晒している木――西行妖をもう一度見遣った。
「そう思われるかも知れませんが、一概に否定出来る事でもない」
「それじゃ、貴方は本当に桜に操られて此処に招かれたのかしら」
「まあそういう事になります。何だか妙な雰囲気のある桜だから、殊更そうかも知れない」
「西行妖って云うのよ。幾度の春が来ても決して花を咲かせない哀れな桜」
何処か遠い目で西行妖を見詰める幽々子は、眸底に燻ぶる過去の灰燼が風に吹かれて宙に舞う様を連想した。そんな彼女を嘲笑うかのように、桜の花弁が一片夜風に乗って去って行く。途端に頭の中に蘇る夢の映像が、彼女を悩乱させようと次々にその映像を流して行く。果たして幾星霜が過ぎ去り、数え切れぬほどの春を迎えた西行妖が、満開になった時が本当に無かっただろうかと、平生の彼女ならば決して考えないような疑念が、頭の隅に引っ掛かった。
「へえ、ますます妙な桜ですね。――貴方も満開になった光景を見た事が無いんですか」
ところへ投げ掛けられた、森近からすれば純然たる思いから口にした疑問の言葉は、幽々子の思考を揺さぶらんとするかの如く、強かに打ち付けられた。記憶にない映像が頭の中に錯落し、この世に恨みを残して死んだ亡者の怨嗟の雄叫びが木霊している心持ちがする。吐き気を催す醜悪な食糞餓鬼が彼女の足に縋り付いているようなおぞましい感覚がする。
幽々子は二三歩後ろへ退いた。頭に直接釘を打たれているかのような激しい頭痛が絶え間なく襲い来る中で、意識が薄れ行くのを明らかに認めた。死という概念を忘れた身体が、その強大なる闇に呑まれようとしているかのようである。彼女の意識を辛うじて繋ぐ神経の繊維が断たれようとする間際、幽々子はそんな事を思い、ならばそれでも構わないと思った。
七.
風に吹かれて乱れる桜の木が、眼前にある。見た事のないほどの大きな梢に煙る花は満開に咲き誇り、息を呑む美しさに我を忘れている。けれども酷く重苦しい心持ちである。儚げに舞う蝶々が、身体の周りを取り囲んで楽しそうにひらひらと踊っていた。青白く淡い光を放つその蝶は、浮世に在らざる死の権化である。人間の魂を喰っては喜び、狂ったように踊り続ける恐ろしきものの権化が、身体の周りを旋回しているから心持ちが優れぬのだ。春の香が明らかに漂う中が不愉快に思われる。一刻も早くこの場を走り去りたい衝動に駆られながらも、足の甲に楔を打ち付けられたが如く脚は動かない。
ふと声を掛けた者がある。振り向くと慇懃たる佇まいをした初老の男で、彼は何処か他人を憐れむような瞳で立っていた。途端近付くなと大声が響き渡った。頼むから近付いてくれるな、でないとこの死神が貴方の命を喰らってしまう、貴方を殺してしまうと、叫び散らしている。が、その声の主は何処にも見当たらない。この慟哭にも似た必死の懇願は何処から聞こえて来ているのかとんと見当が付かぬ。ただ静邃なる桜の下で、荘厳な面持ちを慈顔に変えた男が優しく微笑んでいた。伸ばされる手がふわりと頭の上に乗る。暖かな感触は、頭頂より伝わって来る。――叫び声の主は、自分だという事に彼女は漸く気が付いた。男の顔が朧になって行く間、少女の泣き声が静かに響いていた。
「幽々子様!」
重たい瞼を開くと心配に顔を歪めた妖夢が一番に視界に入った。続いてその隣に座る森近と、紫とが目に入る。身体には暖かな布団が掛けられていて、障子を越えて差す光は微かに滲んでいた。
「何時の間に眠ってしまったのかしら」
ここに寝かされるまでの過程を全く覚えていない幽々子は、若干痛む頭を抑えながら身を起こす。が、その途上で妖夢に阻まれて、仕方なしにまた布団の上に仰向けになった。
「急に倒れて、霖之助さんに連れて来られたらしいわよ」
「何だか西行妖の下で話していたら、突然苦しみ出したから勝手に運ばせて貰いました」
紫に続いて森近が説明する。幽々子はそれで花見の静まった夜、西行妖の下で森近と話していた事を明らかに思い出した。ある問いを掛けられてから、割れるように頭が痛み出し、見覚えのない光景が死への苦しみに感化されて起こった走馬灯の如く流れ出した事も思い出したけれども、その映像がどんなものであったのかはどうしても大海の先を見通そうとするが如く思い出せなかった。しかし幽々子はそれで安堵したような心持ちになる。それが何だか妙に思われて、暫時思考に耽っていた頭を切り替えた。
「きっと疲れてたのね。運んで下さって、有難う」
「いや、それは好いんですが、お身体は大丈夫でしょうか」
「ええ、もう大丈夫。少しだけ頭が痛むけど」
どうやら森近は当事者としての責任を感じたから残っていた気色である。幽々子は申し訳なさそうな顔をして礼を云ったが、然してそれを気に留める様子もなく、森近は穏やかに微笑したばかりである。紫は何故だか神妙な面持ちで座っている。まるで許されざる出来事が起こってしまったかのような深刻な表情で、幽々子には紫がそんな表情を浮かべる理由に皆目見当も付かなかった。
「幽々子様、どうかご安静になさっていて下さい。幽々子様がお倒れになられたと聞かされて、目を覚ますまでの間、私は心配で気が気でありませんでした。ですから今日は、お休みになられて下さい」
そう云う妖夢は幽々子の頭の傍で礼儀正しく座りながら、目に涙を溜めて訴える。死ぬはずのない者に涙を流すなどと、甚だ的外れだとは思ったが、彼女の心情を悟れぬほど馬鹿でも鈍感でもなかったので、幽々子は大人しく頷いた。実際一寸痛むと云った頭は、酷い痛みに苛まれている。記憶を司る部分に細菌が侵入したかのような不快感と、懐かしくさえある記憶の断片が常に頭の中に浮かび出すので、彼女自身気が狂ったのかと不安になっていたのである。
「――きっと、桜の魔力に中てられたのね。それで可笑しくなったのよ」
目を瞑りながら、幽々子はそんな事を呟いた。それに応えるように、森近は「だとしたら、やはり桜は侮れないらしい」と云って笑っている。紫は黙ったままである。その内程好い眠気がやって来る。そうして枯れている木がそれほどの魔力を持っているのなら、満開になった西行妖はさぞ恐ろしい力を放つのだろうと思いながら、幽々子は眠りに就いた。
何時しか瞑った瞼の裏に、桜の花弁が散る様が浮かぶようになった。本当にそこに映っているのだかは判らない。妄想の類が夢に入る際になって僅かに漏れ出すのかも知れぬ。が、幽々子にはそれが何かの前兆のように感じられた。猛然と向かって来る恐ろしい化け物が、この空虚な身体を喰らわんと欲し、冷たき身体に流るる血潮で喉を潤さんと迫って来る様が見えるような心持ちがした。死のない身体を持てども、決して抗えぬ強大な運命の足音を、確かに聞いた気がした。獲物を追う昂った獅子と、虎視眈眈と身構える虎が、同時に我が身を狙っているかの如き不安が過ぎった。
八.
翌日は春という季節を恨んだかのような曇天の空が広がる嫌な天気であった。窓から庭を見遣ると、低い空が木々を圧している不吉な光景が広がっている。広大な庭よりも尚広大な空は、万物の頂点に立ちながら全てを威圧している。こんな天気は殊更自分の存在が世界の一端でしかないという思いに囚われて、自然と気は重くなり、幽々子もそういう類の者であったので、今日ばかりは陽気では居られぬと見えて、布団に座ったまま物憂い気な表情を浮かべていた。
妖夢が安静にと執拗に云うものだから、その行為を無下にする気にもならず、起床してからというもの一つ所に留まっていた幽々子だが、そろそろ退屈に我慢しかねたらしく、布団を取り払って立ってしまった。妖夢が此処へ様子を見に来る前に戻れば問題はあるまい、何もするべき事を見付けられぬまま、優れぬ気分で寝た振りを続けていても仕様がない。それなら多少の逍遥も許される事であろう。――幽々子はそんな事を思いながら寝室を後にした。
屋敷の中は蕭条としていて物音の一つも聞こえて来ない。主が倒れたとて、歴然とした変化がある訳でもなく、二人しかいない住人が劇的な変貌の切欠を与えるべくもなかった。世は何が起ころうとも何事も無かったかのように進み行く。その大きな流れに翻弄されているのが、即ち生ある者で、彼らは様々な障害物を時に避けて、時に破壊し、必死に生きようと抵抗を試みる。けれども流れの最果てにあるのは、眺望する景色が霞むほどの高さに位置した絶壁で、そこから逃れる術など有りはしない。生物の最後とは想像も付かぬ高さから、滝壺に落とされる事なのである。
だからこそ、その大きな流れを達観した面持ちで眺めるどころか、他者を直接滝壺へ叩き落とす事の出来る彼女は異端の権化とされる。その手に携えられる死神の鎌は恐怖の象徴とされるのである。
「具合は好いんですか」
ところへ聞き覚えのある声が鼓膜を震わせる。自身の思考ばかりに目を遣っていた幽々子はその者の接近に気が付く事が無かった。それ故に、彼がまだこの屋敷の中に居る事は、殊更不思議に思われる。彼女の前には注視せねば判らぬほどに微かな心配の光を瞳に宿した、森近の姿があったのである。
「そうなのだけど、妖夢が心配して止まないから」
「それも無理からぬ事でしょう。慕う主が突然倒れたとなれば、従者は驚くのが必然です」
「そうかしら。私は決して死ぬ事がないのに、それって何だか的外れだわ」
「物事の表層ばかりが人を左右する訳じゃない。時には要らぬ心配だってする事はありますから」
「じゃあ、私がこうして寝室を抜け出して出歩いている事は、妖夢には内密にしておいてくれるかしら?」
ふと微笑を漏らしながら、幽々子は言葉を弄する如くそんな事を云った。森近は「お世話になっている屋敷の主がそう云うのなら」と云って頷いた。事情を聞くと先日紫が早々に帰ってしまい、冥界から地上に帰る術を失くしたので、妖夢に勧められるがまま、仕方なしにこの屋敷に泊まらせて貰ったのだと云う。そんな彼の言葉を裏付けるように、森近の服装は前に見た物とは違った飾り気の少ない和服であった。
「まあ何にしろ無理をするのは好くない。少ししたら大人しく戻った方が好いと思いますが」
「ええ、そうするわ。ご忠告をどうも有難う。先日の事も含めて、お礼を云うわ」
「不測の事態でしたから、お気になさらず」
二人はそんな事を云い合うと、お互いに黙ってしまった。元来仲の好い間柄でも無ければ、あの事件が起こって親密になった訳でもないので、気の利いた話など用意出来るはずもない。静まり返った廊下の只中には、冷たい風が吹いて行く。春が訪れて暫く経つというのに、まるで真冬の寒気である。森近は少しだけ身を震わせた。
「今日は冷え込んでいますね。貴方も早くお休みになられた方が好い」
外を吹き荒れる強い風が、がたがたと窓を揺らす音がする。幽々子は森近の言葉に従って寝室に戻ろうとした。森近は彼女を送る為に同じ方向を歩き出した。すると縁側へと出る。白玉楼の庭を見渡す事の出来る、幽々子が昼寝に興じる際に好く使う場所である。が、地獄の底を這いずる禍々しい雲が、空々漠々たる空を包み込み、今にも細き糸へ転じそうな気色を漂わせている。それを予期しているかのように桜の木々が風に揺られて泣いている。風に攫われて飛び去って行く花びらは、桜の涙に違いない。刹那の時を尊ぶ儚き命の欠片である。幽々子は知らず瞳を細めた。
「――もう、春も終わるのね」
二人は縁側の途中で立ち止まった。ぎしりと板が軋む。褪せた桜色の風景に、ぽつりぽつりと透明な雫が混じり始める。地面に黒点を穿ち、大軍を打ち倒さんと降り掛かる矢の如く、桜を散らせて行く。これが一つの終焉として数えられて然るべきものならば、何と残酷な事であろう。斯くも哀婉なるものが死に行く様は、滑稽で不様である。抗う術など持ち得ぬままに、降り掛かる雨に美を奪われて、頭髪の抜けたる美女の如く、衰えて行く。――やがて豪と唸りを上げて勢いを増した雨は、薄闇の世界を殊更寂しく塗り潰した。ざあと忙しなく激しい音が、二百由里の庭から集まって来る。
「誰しもが、この光景に詠嘆せずにはいられますまい。桜に操られるのも、今日が最後だ」
たちまち地面に出来る水溜りに、花筏が一つ揺れている。それを見詰める一組の男女は、等しく眸中に哀憐の光を湛えながら、眉根を下げていた。虚しく響く雨音が、耳に張り付いて離れない。幽々子は春が過ぎ行く様を目の当たりにして、前に感じた事のある、安堵とも恐怖とも付かぬ曖昧な感情が胸の中に燻ぶっている心持ちがした。そこに確たる境を設けようとしても、眼前にある漠たる光景に助け船など浮かぼうはずも無い。雨音ばかりが、高く高く響き渡る。
九.
空気を入れられ膨張して行く風船は、やがて破裂する。束縛に耐え兼ねて、行き場を失くした空気は、自らを縛り付けた壁を打ち破り爆発する。そうなった時、空気の容器であった風船は、無残な姿を晒す事になる。千切れ、飛び散り、やがて元の姿に戻る事なく朽ち果てる。――幽々子の中に蟠る思いは日に日にそういう勢いで膨らんでいた。正しくは以前から持っていた疑問が、堰を切ったかのように溢れ出し、自らの意思で止められぬほど熾烈な勢いを伴うようになったのである。例えそれが如何なる痛痒をもたらそうと、知りたいという強い欲求は決して衰微する事が無かった。
縁側から眺める気色は、昨日とはまるで違っていた。花を散らし、虚空に伸びる寂しき枝は、太陽の下に立っている。雲影の一つも見えぬほどの晴天に見舞われた嵐の翌日、華やかな春を惜しむかのように何匹かの蝶が舞っていた。それが殊更幻想的な趣を凝らすので、幽々子はその庭の風景を見るのが段々嫌になる。美しきものが次第に凋落して行く様を見るのは忍びない。誰であれそこに自らの行く果てを見出さずにはいられないのだから。
「おはよう御座います」
そこに遣って来た男は、挨拶をすると共に幽々子の隣へ腰掛けた。銀に輝く髪の毛が、陽光を受けて煌めいている。心の深きに隠し持つ野心を彷彿とさせる光である。妖夢のそれとは比べるべくもない。
「おはよう。昨夜は好く眠れたかしら」
「夜風は煩わしく思われましたが、まあ眠りを妨げるほどではありません」
「そう。お客様に大したお持て成しも出来なくて、ごめんなさい。今日お帰りに?」
「はい、貴方の従者のお世話になります。何でも漸く片付けが済んだとか」
「大変な散らかりようだったものね。私も手伝おうと思っていたのだけど……」
「体調が芳しくないのなら致し方ない。貴方に安静にして貰っている方が余程の労いになるでしょう」
「好く知っているのね。一日二日の付き合いじゃないようだわ」
「単純な気質ですから、読み易いだけです」
違いない、と思って幽々子は笑った。腰の帯に挟んだ扇子を取り出して、口元を隠す。視線の流れた先に男の顔があった。満開だった桜が見る影もなく散ってしまった様を見て、憂慮の笑みを浮かべている。
「……貴方は何処か妖夢に似ているわ。気質云々ではなく、存在が」
頭の中にあった思慮が、唐突に外界に漏れ出して、幽々子は一寸驚いた。口ばかりが先走って行動を慎まなかった気味で、相手にとって不愉快であるかどうかの問題も感じる暇がない。けれども男の表情は変わらない。幽冷なる眼差しを少し幽々子へ向けたばかりである。ある種無感情とも思われるその瞳から様々な感情が溢れ出しているように思われた。男のそれは幽々子と似て非なるものでありながら、何処までも近しい感じを幽々子に与えている。闇を彷徨う行燈の光が、彼女を誘うように左右へ振れている心持ちである。幾ら歩けども離れて行くばかりで要領を得ない。
「素晴らしい慧眼をお持ちのようですね。全く以てその通りです」
森近には幽々子を皮肉る様子は見えない。純粋に感服したものと見えて、自然に笑っている。そうして「しかし」と呟いて、怜悧な光が宿る瞳を幽々子に向ける。陽光が眼鏡を光らせて、表情を幾らか隠した。
「何も僕達の限りであるという訳じゃない」
的を射た矢が震える様が、咄嗟に脳裏を過ぎる。確信を突いた言葉は正に流矢の如く幽々子を貫いた。彼女の云った似ているの意味は曖昧の意である。濛々たる煙が空高くへ上がり、やがて雲に入り混じる不明瞭な存在の事である。何時からか彼女の洞察力は常人の域を逸脱していた。他者の感性をことごとく上回る超感覚知覚が備わったかのように、他者より滲み出す尋常でない雰囲気を解す事が容易になった。けれども敢えてそういう事を指摘する事は今までに余り無かった事である。だからこそ平々凡々たる者だと見縊っていた者から射返されたそれは、不測の驚嘆を幽々子に与えた。
「そうね、そうに違いないわ」
「何だか――在り難く思われるんでしょう」
「貴方もそう思っているの?」
「はい。本当に拠るべき場所が、此処ではないような心持ちになります」
「私も同じだわ。ただ違うのは、その理由が判らないという事だけね」
二人の見詰める先が一つ所に留まるという事はない。二人は漠然として景色を眺めている。色彩の少なくなった木々を眺めている。青空に、星月夜に好く映えた白は一時の風に吹かれて去った。後に残るのはその礎ばかりである。無骨な色をして、生命の瑞々しさに欠けた柱である。――全てが朦朧として見える、眠って見える、皆世の移ろいに身を任せているが如く見える。万物の終端に広がる大海の彩りが太陽の光を受けて燦然と輝いている様である。
「それが苦痛だというのなら、探すが吉やも知れません。甚だ無責任な言葉で申し訳ありませんが」
「いいえ、今まで通りに懊悩煩悶に血肉を啜られるくらいなら、とても頼りになる激励だわ」
「そうですか。けれどもお気を付けて。人の歴史は軽いものじゃない」
「――この冷たい肝に、命じておくわ」
では、と云って森近は立った。廊下を駆けて来る音が俄かに響く。やがて慌てた様子の妖夢が姿を現した。彼女は二人が一緒に居る所を見ると、妙な顔をして首を傾げたが、そう気にならないのか別段指摘を加えるような事もしなかった。そうしてもう発ちますかと森近に尋ね、肯定の意を聞くと、暫くしてから小さな声で「もしかして、お邪魔でしたか」と云う。それが怯ず怯ずとしていて戸惑っている風だったから、森近と幽々子はつい吹き出してしまった。
「僕らも彼女を見習った方が好いのかも知れませんね」
「全くその通りだわ。その方が幾ら気楽だか判らない」
「何のお話ですか。何だか馬鹿にされている気がしますけど」
「きっと気の所為よ、褒めているんだから」
「ああ、全く。僕は少し君が羨ましいよ」
困惑した妖夢の事を置いて、二人は笑い合った。この時ばかりは何もかもを忘れて笑った心持ちがする。楽しいとはこの事で、しかし幸福とは楽しい場所にあるものではない。幽々子はそれを痛感した。幸福は高く聳える壁の先にある。大理石のように滑らかな壁を登った先にある。容易に手に入れられる事ではない。けれども手に入れる必要もまた、在りはしない。全ては自己の為に、曖昧な自己を定める為にある。
――幽々子は苦心の末に己が境地と認める場所へ逢着する事が出来たら、この胸を断割った所にある蟠りを昔日の盃に盛って、きっと妖夢に注いでやろうと思った。
十.
姿見を部屋の中央に置き、その前に幽々子は一人立っていた。閉じられた障子からは、微茫たる光が差すばかりで、室内は心持ち薄暗い。浮世を映した世界に立つ自身の姿も判然としなかった。幽々子は昔同じ事をした記憶を確かに持っている。今より尚暗い部屋の中、玲瓏たる月光を頼りに、現世を映した世界を見た記憶がある。あの日を境にこの地を去った男は未だ帰って来る気色を見せぬまま、既に経った時は幾星霜、思い出す事でさえ難儀な事である。
私は、と呟く。あの時、と言葉が続く。どうして、と声が途切れる。幽々子は柳眉を下げると切なげな笑みを浮かべた。自問の答えに返って来るのは所詮自身の声である。「判らない」と何度繰り返しても意味があるべくもない。幽々子は凛と鏡を見ていた眼差しを前に向け、障子を開け放った。眩い光が一度に刺さり、視界が白む。そうして帯に挟んでいた扇子を取り、眼前に翳して立った。颯然と風が吹く。桜色の髪の毛が乱れる様は、強風に煽られて梢を揺らす桜の木のようである。故に彼女の佇まいは殊更雅であるのだろう。――例え背景に淡い色の花が舞っていなくとも。
「何処かへ行かれるのですか」
幽々子が部屋から廊下に出ようと鴨居の上に立った時、丁度妖夢がその前を通り掛かった。何時になく真剣な表情をしている幽々子を見て、只ならぬ雰囲気を感じたのか、心持ち彼女の顔は険しくなっている。けれども疑問を隠し通す事は出来ぬと見えて、その険しい顔の中にもやはり不思議の感は露呈されていた。
「少し散歩をして来るだけよ。ただ暇を潰す為に」
「はあ、そうでしたか。何だか戦地に赴く時のような顔をされていましたから」
「あら、真剣な顔は私には似合わないのかしら」
「そういう事ではありませんが……」
すると妖夢は歯切れ悪そうにしながら神妙な面持ちで俯いた。何か云いたい事があるけれども、それを云おうか云うまいか迷っている風で、頻りに指を弄っている。深刻ではなく、寧ろ羞恥心が言葉を紡ごうとしている唇を阻害しているようで、中々云い出せないようである。幽々子は何時までもそこに低回して動かない妖夢を見兼ねて、彼女の言の先を促した。それでも妖夢は云い難そうにしていたが、やがて大きく息を吸い込むと、小さな声で話し始めた。
「時々、幽々子様が遠くに行ってしまわれるような気がしてなりません。今もそうです。私の知らない所へ行って、二度と此処へは帰って来ないのではないか――などと思ってしまいます。馬鹿げているという事は重々承知しているのですが、幽々子様が淋しそうに微笑まれる度に、そのまま消えてしまうのではないかと不安になってしまうんです」
云い終わった後、妖夢は頬を赤く染め上げて「可笑しな事を云ってしまってすみません」と謝った。幽々子は目を丸くしている。まるで予想外の事態に遭遇したかのように半ば口を開いている。目の前で不安げに彼女を見上げる妖夢は、不安げな眼差しを一心に向けていた。それでなくとも妖夢が冗談を云えるような性質でない事は幽々子が一番よく知っている。妖夢が話した事の全ては、ことごとく真摯な思いで紡がれたのである。
「……可愛い子ね。貴方はしかと私の事を見てくれている」
銀色の髪の上に手を置いて、幽々子は優しく微笑んだ。その笑みが淋しいものなのかどうかは、彼女に知る由はない。が、妖夢は安堵したように頬を緩ませている。一度頭を撫でられる度、気持ち良さそうにしている。
「私は幽々子様にのみ仕える庭師ですから」
妖夢は誇らしげにそう云った。それが自らの存在意義なのだと云うように、欣然たる態度である。幽々子にはそれだけで充分であった。臆した心が勇気付けられた心持ちがした。
古くなって老朽化の目立つ扉を開くと、ぎいと軋む音が木霊した。内に籠った空気が外界へ流れ出すと、陰刻なる匂いが漏れ出して来る。幽々子は袂で口元を覆うと、薄暗い蔵の中を歩き出した。幽々子は自身が抱える悩みを解決する一番の証拠が此処にあると、半ば確信染みた考えを持っていた。尋常でない妖夢の剣幕と、それの縁由たる妖忌の命が、それをより確固たるものへとしたのである。それだから幽々子はこの古臭い蔵へと赴いた。雑多に物が並ぶ、古の匂いを感じさせたる蔵の中は、何処か過去の風景を彷彿とさせる。期待か、不安か、彼女は判然としない感じを持っている。
蔵の奥にある書棚は、前と同じにそこにある。幾数十と並ぶ古い紙の束は埃を被って白く染まり、手に取ると不思議な重みがあった。その中でも一際異様な雰囲気を放つ書は、変わらぬ姿で書と書の狭間に置いてある。しかと刻まれた手形が、前に手にした事のある物だと確信を与え、幽々子は震える指先でそれを引っ張り出すと、おもむろに書の項を捲った。「我が煩悶を刻み込んだこの書が、誰の目に触れる事なく永久の時を歩む事を願い、此処に封印する。」という文で始まるそれは、やはり古めかしい形の、けれども達筆な文字にて書かれ、幽々子の情操を刺激した。
これより彼女は書の世界へと心身を投ずる。自らの知らぬ境地へと足を踏み入れる。背表紙に記されたる名前は、彼女の行動を阻む事はなく、寧ろ強き思いを鼓舞するように、手に項を捲る力を与えたが如く見えた。――
十一.
「――我が煩悶を刻み込んだこの書が、誰の目に触れる事なく永久の時を歩む事を願い、此処に封印する。
我が生涯は三つの世界に分かたれる。一の世界は血の滲む過酷な鍛錬の世界である。これは未だ未熟なる我が身を誰よりも強くしようと尽力した、野心に溢れ固き信念を持っていた若かりし頃の世界で、孤独こそ強きに至る正道だと思い込んでいた愚かしい世界でもある。二の世界は頑なな私の心が解されたる穏やかな世界である。真の強きに至り、己を磨く真の意を知り、孤独こそ人を弱くする邪悪なものであると教えられたのもこの世界である。けれどもこれら二つの世界は所詮我が半生を判り易く二分化したものでしかなく、そこに在る昔日の我が姿を記すには身から溢れ出す愧赧の念が些か強大過ぎる故、敢えて記す事はすまい。元より人に見せるような代物ではない為、この二つの世界は割愛する。
――これより語るは第三の世界である。我が生涯の内で、最も己の無力と無知を恥じたのがこの世界で、当時の私には、そして恐らくは現在の私にですら、その時どうする事が最善の策であったのかは判るまい。ただ私は己への戒めとしてこの文書を認める。罪悪の確認、贖罪と称した逃避の具現、何とでも云い様はある。前者でも後者でも意味は問題なく通るであろう。だからこそこの書には意義がある。文字という形でならば、私の感じた事はより明瞭になって現れるに違いない。それこそが真の目的であり、今も私を捉えて離さぬ罪の意識を、克明に浮かび上がらせる唯一の手段なのだと信じている。願わくば、生涯の忠誠を誓った御方の目に、この書が映らぬ事を。
その日は、妖しげな光を放つ満月が、雲なき空に、星なき空に浮かぶ不気味な夜であった。ただ無暗に輝く月が、漆黒の中にぽつりと浮かび、ひゅうと喉を掻き切った時に漏れ出る苦悶の声のような風が吹き、烏の鳴き声が何処までも響いている。西行寺の庭園に煙る草花も、この不吉の予兆に臆したと見えて、ことごとく静まり返っていた。風は吹いているけれども、それに揺られる事はなく、全ては静寂の中に佇んでいる。それを目にした時の私の心持ちは酷く騒々しかった。警鐘が何時までも鳴りながら、執拗に逃げろという叫び声を聞いているかのようで、そんな意味深長な心境を無理に落ち着かせる為に坐禅を組んでいたりした。――その日とは、幽々子様がお生まれになる春宵の事である。
屋敷内は独特の緊張感を漂わせ、尋常でない雰囲気の元に皆が険しい面持ちをしていた。無論私もその内の一人で、全く不気味な夜だった事もあり、とても正常な状態で居られない。ともすればこの時の屋敷の住人の全員が、私と同じ事を思っていたのかも知れぬ。何かとてつもない事が起こるという予感、形のない魔に命を牛耳られているかのような、得体の知れない恐怖――少なくとも私はそういう思いで、旦那様に付き添っていた。障子を隔てた向こう側からは、産気付いた奥方様が唸っている。私の隣で頻りに腕を組んだり解いたりしている旦那様も、心配を隠せないでいた。
「お前はこの夜を如何にして捉える」
奥方様の苦しそうな声を聞きながら、旦那様は唐突にそんな事を尋ねた。元より感付いていた事なのであろう、自らの内では既に答えが出ている気味で、とにかくそれを否定して欲しいと願っているかのような表情である。幾ら慄然たる恐怖を感じさせる夜とは云え、それを馬鹿正直に話すのでは互いに不安を高めるばかりなので、無論私は旦那様を安心させる為の言葉を云うべきだと考えた。そうでなければ、旦那様の問いにまるで意味はない。蒙古の象徴に恐怖の理由を尋ねるのは甚だ馬鹿馬鹿しい。定めて私は、明るい未来を思わせる事を云わねばならぬ立場に居た。
「旦那様を負の思いに拘泥させたい訳ではありませぬが、この上なく不吉なものだと感じております。雲もなく、星もなく、蒼然たる光を放つ満月ばかりが徒に輝く夜など、一度として目にした事は御座いません」
が、先刻の通りの言葉を紡ぐ為には、この夜空はあまりにも不吉過ぎた。如何に明るい事を云おうとも、この空の前には虚構のものと成り果てるに違いない。深淵の闇を照らす希望の光だと見えぬ事はないが、それを上回る不気味さが、自己を主張する中、判り切った嘘など吐けるはずもなく、私は私の思った事を正直に告げた。けれども旦那様に怒る気色は豪も起こらず、それどころか私の言に納得したかのように、「そうか、お前もそう思うか」などと云っては、難しい顔をして頻りに廊下を歩き回った。その間も奥方様の苦しそうな声は止まらず、私達の中に募る不安感を助長するように、静かなる宵の中に、時折「痛い」と声を上げていた。
かつて戦いの局面以外の場面に於いて、これほど震えた事があっただろうかと、私は自問する。死地を乗り越えた事は何度もある。他者と比較して、自ら茨の道を選んだ自負もある。だからこそ戦いの最中、私が感じる震えは武者震い以外の何物でもなく、煮え立った血潮は敵の命を求めて激しく流れていた。が、今小刻みに震えているこの身体は、一体如何なる理由によるものかと自問した時、私は明確な答えを導き出す事が出来なかった。世の条理を逸脱した、正に不条理な存在――云わば常識を覆した圧倒的力を持った存在と対峙した時、こんな心持ちになるのだろうかと考えた。奮起する事もなく、ただ嬲られるだけの戦闘、面白さの欠片も無い一方的な虐殺。例えるならばそんな存在である。
「旦那様!」
その時、障子の向こう側から突如大声がした。焦燥に塗れ、悲観に暮れた絶望の声音である。私も旦那様も、事態が喜ばしくない方向でない事ばかりでなく、むしろその逆の方向に向かって運命が奔走しているのを明らかに理解した。
「お前は待っていろ」
旦那様はそう云い残して、障子の向こうへと消えた。薄気味悪い蝋燭の光が、白い障子に橙を色付けている。その中に動く数人の影は慌ただしく動いていて、聞こえて来る声音は耳を塞ぎたくなるほど悲惨なものであった。誰もが涙に言葉を滲ませながら、口々に「奥方様」と呟いている。中には外聞を憚らず泣く者もあった。そうしてその阿鼻叫喚の中に、元気な赤子の泣き声が混じり、一層妙な情景を想起させる。事態を把握するのに時間は要らぬ。私は障子の向こうで起こった事件が判らぬほど頭が足りていない訳ではない。
障子に映る影には一つだけ動かないものがある。項垂れて、一寸も動かぬまま、石像のように座っている。きっとその影は旦那様だと私は思った。そうしてそれ以外には有り得ないと自身の内に確信を持っていた。赤子の泣き声は尚も響く。丸まった背中を元気付けるように、或いは自己の存在をこれでもかと主張せんばかりに。――満月の光は一直線に我々を射抜く。地を這う者を睥睨するが如く、傲慢な光に思われた。今宵は不吉な空が広がっていた。そうしてそれは決して間違ってはいなかった。凪いだ風、静まる室内、人の嗚咽。――奥方様は、この日お亡くなりになったのである。
その後障子を開けて出て来た旦那様の顔は、死者の面の如く青く染まっていた。月明かりに照らされた青白い頬は、殊更生気を感じさせず、虚ろな瞳を彷徨わせて、やがて私に向き直った旦那様の表情は、平生の篤実さを失って、塵労に押し潰された者の如くやつれている。私は何という言葉も掛ける事が出来なかった。元より傷心の身である旦那様に、如何に優しい言葉を話した所で慰めにはならぬ。私は黙したまま、変わり果てた旦那様の虚ろな瞳を見詰め続けるより他に無かった。光を失い、濃紺に染まった悲しき双眸は、かつての優しき笑みを浮かべる事は、これより先にも決して有りはしないのだろうと私に思わせる。私の知る旦那様は、何処かへ姿を眩ませてしまった。
「死んで、――死んでしまった。己れよりも早く、子だけを残して逝ってしまった」
「もう戻らぬ、もう戻らぬ」と旦那様は繰り返し呟きながら、侍女の手を借りて寝室まで行った。子を気にする余裕さえ失ったのか、後ろを振り返る事もしなかった。旦那様は奥方様に惜しみない愛を捧げていた。誰が見ても生涯共に付き添う事の出来る夫婦であった。その片一方が欠け落ちた事によって、旦那様の心の均衡は突如崩れ去った。決して外れてはならぬ歯車が、いとも容易く砕け散ってしまった。ともすれば以前の旦那様は永遠に帰って来ないようにさえ思われた。
ふと奥方様の眠っている部屋を覗き見た時、そこは弔いの準備をする者と、生まれて間もない赤子を保護する者とに分かれて、皆が悲しみのあまり涙を流しながら働いている光景があった。部屋の中央に一枚だけ敷かれた布団の上には、寝息さえ立てぬまま眠っている奥方様の姿がある。淡い桜の花で織った糸のような髪の毛を枕の上に広げながら、白き肌に生気の籠らぬ青味を忍ばせて、目覚める事のない眠りに就く姿が、どうしようもなく悲しく思われた。刹那の間にさえ気を抜こうものならたちまち涙が溢れ出そうなほどに、私の胸は強く痛む。そうしてそれに耐えようと思えば思うほど、成し得ぬ願いを頭の中で反芻する私が居た。お目覚めになられる事を一心に願った所で、散った命は決して元の通りに咲き誇る事には無いのにも関わらず、無駄な希望を捨て切れぬ弱い自分が確かに居たのである。
「奥方様は、やはり……」
部屋の中に居る侍女の一人に、私はそれとなく尋ねた。最早希望を得る為の問い掛けなのだか、現実を直視する覚悟を得る為の問い掛けなのだかも判らぬ。私には何かしらの切欠が必要だった。或いは常日頃強く在ろうとする意思が働いていたのかも知れない。例え無情であろうとも、目を据えねばならぬ事もある。私は今まさに、それを必要とする局面に遭遇したのである。旦那様に仕える身であるのなら、決して心を折ってはならない。心骨を折られた従者が役に立つ道理もない。この西行寺を支える為に、私は誰よりも強く在らねばならなかった。
「臨終を、お迎えになられました」
侍女はそう云い切ってから、声を上げて泣いた。顔に手を押し当てて、話す事も出来ないほどに取り乱した。掛けるべき言葉はやはり見付からない。私とて悲しみに潰されかけている内の一人である。この場に居る全員が一思いに泣き叫びたいと思っているに違いない。だからこそ私は涙を流さなかった。
ただ奥方様が最後に遺した赤子だけが、安らかに眠っていた。周囲の者の声に感化される事もなく、小さな指を咥えながら、赤が差した白い身体を白き布に包まれて、穏やかに眠っていた。」
十二.
「それから旦那様は自室に籠る事が極端に増えた。食事でさえ侍女に持って来させ、誰かと共にするという事は決してなく、自身の娘の世話すらしないまま、その全てを私に託して、心の殻から出て来なくなってしまった。奥方様の死は、西行寺の姿をことごとく変えてしまったのである。旦那様を始めとして、奥方様を慕った使用人も、毎日憔悴し切った顔をして仕事に勤めていた。無論私とてそのような姿をしていたのだろうが、それでもこの屋敷を客観的に眺め遣った時、私はその広く大きな屋根の上に、分厚く陰刻な黒雲を見出さずには居られなかった。
そうして時は瞬く間に去って行く。奥方様が亡くなられた悲しみは払拭されぬまま、葬儀は恙無く行われて、あっという間に奥方様は西行寺の墓の下で眠りに就いた。「幽々子」と名付けられた夫婦の娘は、両親の暖かささえ知らぬまま成長して行く。一つ二つと成長して行く度に、今は亡き奥方様の御姿に似て、美しくなって行く。一時は悲しみのあまりに幻覚が見えたのかと錯覚してしまうほどに、彼女の姿には奥方様の面影が、確かにあったのである。――しかし、だからとて旦那様の憂慮は晴れる事が無かった。旦那様は既に、あの黒雲に飲み込まれてしまったのかも知れぬ。そうして一寸先も見えぬ闇の中、手探りする為の物すら見付からず、冥々たる心の中で低回を続けているのかも知れぬ。
「妖忌」
未だ幼い声音で私の名を呼んだのは、十歳に成長したお嬢様である。彼女は動きたい盛りの年頃なのにも関わらず、動くのに一々難儀しそうな着物を着せられて、私のお嬢様の二人以外に誰も居ない庭の中を、つまらなさそうに歩いていた。お嬢様が生まれた頃から、その世話を任されている私は、平生の如く遊び相手を勤めて欲しいと云われるのかと、思ったが、私の推測に反して彼女の表情は何処か物憂げで、遊びたいと言外に語っているようにはとても見えなかった。
「お父様は、お部屋から出れなくなってしまったの?」
幼心から、邪気など有りようはずもない必然的な問いかけは、不意に私の胸を強く締め付けた。彼女の言葉が、年相応の寂しさを顕現しているように思われた。そうしてそれは、私の思った通りで相違ないと確信を持っていた。が、それを判っていながら、私はすぐに答えを返す事が出来ぬまま、純朴たる疑問の光を湛えた、澄んだお嬢様の瞳を見詰めるより他に何も出来ないでいた。旦那様の現状を説明する言葉が、死という概念を理解し得ない彼女に対して向けるべき言葉が、何も思い付かなかった。空虚な閑文字ばかりが、頭の中に連なって行く。
「……旦那様は、病床に伏されているのです。治す術すら存在しない、重い病に心を侵されているのです」
「だから私と話してくれないの? だからお父様はお部屋から出て来れないの?」
「そうだと云えば、些か語弊が生じましょう。旦那様は自らのご意志で、部屋の中にいらっしゃいますから」
「難しい話は判らないわ。妖忌ったら、今日はとても難しい事を云うのね」
そう云ってお嬢様は微笑んだ。全き純粋の笑みである。私は自らを卑怯だと思わない訳には行かなかった。年端も行かない幼子に対して向けるべき言葉を話して、理解できるはずのない話を続けて、それがお嬢様の納得が行く答えになるはずもない。ともすれば、傷付いた私の心をこれ以上痛ませない為にそんな話し方をしたのかも知れない。それだから私は私を卑怯だと批判せざるを得なかった。お嬢様の笑みが、これほど痛烈に思われるのは、それ故の事であろう。
「お嬢様は、寂しいと感じられていますか」
「寂しいけど、病気なんだから仕方ないわ。それに、何時も妖忌が傍に居てくれるじゃない」
「私などは旦那様と比べたら、取るに足らない小さき人で御座いましょう」
「そんな事ない。妖忌だって私にとってとても大切な人なのよ」
隔意など寸毫も見せる事なく、お嬢様は柔らかに笑む。心底に暖かな慈雨が降った。そうして溜まった雫が溢れ出そうになる。何時までも過去の悲劇に囚われている私より、お嬢様の方が余程大人寂びている。
「お嬢様に仕える私には、最も有り難きお言葉です」
そう云うと、お嬢様は私の方に歩いて来る。春の過ぎ去った季節に、場違いな桜の風が吹く。ゆらゆらと揺れる花弁が太陽の光を浴びて燦と煌めいた。――お嬢様は私の手を取って、真摯な光を湛える双眸を向けながら、尋ねる。
「妖忌は私の事を、大切な人だと思ってる?」
返すべき言葉など、一つしか存在し得ない。外面ばかりを強く装って、その実脆い心を持つ私には、しかし返して然るべき言葉を出すのに躊躇した。静寂の時、蝉の鳴き声が高らかに響いている。
「お嬢様の為ならば、この命など惜しくはありませぬ」
ふわりと笑みの花が咲き、紡がれる言の葉が一枚、ひらりと舞った。
「それなら約束よ。妖忌はどんな時も私の傍に居て。――どんな時も」
無骨な私の手を自身の胸の前に持って行き、お嬢様はそう云った。念を押すように繰り返された言葉が、耳を伝い鼓膜を震わせ身体中に伝達されたかのように思われる。それが原因なのかどうか判然とせぬが、妙に胸がざわついた。不安の萌芽が芽生えた訳もあるまい。私は随喜の余りに起こり得る事象なのだと解釈したが、それでも自分を説き伏せるには至らず、釈然としない不安のようなものを抱えながら、私の座る縁側に身を横たわらせて、この膝を枕として眠るお嬢様の安らかな顔を見た。――安穏としている、残喘に達した者の如く安らかにしている。ふと奥方様の死に顔が、脳裏を過り、この上なく嫌な予感が、この身に蛇が這いずっているかのような感触がしたように思われた。
庭先を見ればあれほど忙しく鳴いていた蝉の声が聞こえない。太陽が傲然と浮かぶ白昼に、風の音ばかりが聞こえている。木の根元には命を失くした蝉の死骸に蟻が群がっている残酷な光景があった。あの不気味な夜が、――私はそれを思い出す前に、もう一度お嬢様の顔を見た。幸福そうな顔に翳りは見えない。全ては私の杞憂なのだと強引に思い込む事にして、私は柔らかなお嬢様の髪の毛を梳いて遣った。心地良さそうな寝息が、何故だか私の不安を煽っている心持ちがした。」
十三.
「第三の世界には常に暗黒が立ち込めている。私はお嬢様より恩賜に相当するお言葉を賜った時、それら全てをことごとく消し去る幸福がこの身を包み込んだのではないのかと錯覚した。雲の切れ間より差す一筋の白光が、希望を示すかの如く思われた。旦那様に活気が戻らなくとも、何時かお嬢様が成熟した時には、再び優しい瞳を我が娘に向ける時は来るだろうと信じて疑わなかった。それが親の本分であり、子はそれを当然として受け止めるべきだからである。
が、結局それは叶わぬ妄想だという事を、私は知る事になる。自らの死よりも痛く、耐え難い悲しみに圧殺される。この書に文字を連ねている今でもそれは変わらない。私は常に死に続けている。この身は確かに生きていようとも、拠るべき場所を失くした今、私に生きているという実感は決して湧く事は無い。未来永劫それが続くのなら、私は神より賜いしこの生を全う出来ぬ。そうしてそうなると思っている。――だからこそ、これを我が遺書とする覚悟を決めた。誰の目にも触れぬ醜穢なる男の半生を記し終えた後、私は世の最果てで命を断つ所存である。
私に孫と云うべき子が出来たのは、それから間もない時の事であった。孫と云っても、血の繋がりがある訳ではなく、正確には養子に相当するのだろうが、今まで孫として育てて来た故に、孫と称して然るべきだと思っている。それはある用事で出かけた時の道先での事である。私の前に乳呑児としか思われない小さな命が、粗末な箱の中、毛布に包まれながら泣いていた。この時私がその場に居た事は、全く偶然で、赤子からすれば思いがけぬ僥倖であった。そのまま捨て置かれれば死は免れぬ。或いは妖怪の餌となり、或いは風雨に晒される事になろう。私にはそんな残酷な運命の元に生まれたこの赤子を放っておく事が出来なかった。生まれてからすぐに母を亡くし、父を死人同然にしてしまったお嬢様と同様の存在に思われたのである。それだから、私はその子を抱きながら西行寺に戻る事にした。
そうした事で、屋敷の使用人に怪訝な表情をされたりもしたが、旦那様にこの赤子について尋ねると、「勝手にするが好い」と云われたので、私は私の後継人として赤子を育てる事に決めた。
私は赤子を「妖夢」と名付け、剣術を教え、庭師としての在り方を教え、お嬢様に向ける忠誠を教え、弱々しく天気の気紛れで殺されてしまうような存在は、強く育った。鋭い意志の光る真直ぐな瞳は、自分の進む道を何人にも曲げさせやしないという気迫を醸し、小さき体躯に叩き込まれた我が生涯の修練の成果は、未だ幼き立場であれど、大人にさえ引けを取らなかった。そうして幸運な事に、彼女は自らが親に捨てられるという不幸な境遇であった事を少しも覚えておらず、私を本当の祖父として、敬愛の眼差しを常に向けていてくれた。また修行の場以外では、その年頃の子がそうするような甘えを、私に見せる折もあった。
全ては好い方向に進んでいると、私は思い込んだ。あれから立派に成長したお嬢様は美しき女性になり、誰もが羨む才才媛と称されるに相応しい人物になった。旦那様は未だ自室の中に籠りがちであったが、以前と比べると大分外に出る事が増え、その時に偶然お嬢様と会うと、一言ばかりの挨拶を交わすようにもなっていた。旦那様にお嬢様の成長振りについて尋ねてみたところ、嬉しそうな微笑を湛えながら「やはり己れと細君の子だ」と漏らす折もあった。――今になって思えば、この時には暗然たる運命の歯車は全て噛み合っていたのかも知れぬ。重苦しい不快な音を鳴らしながら、誰も知らぬ所で、動いていたのかも知れぬ。
――それに気付かなかった事こそが、第三の世界に於ける我が不幸の最たるものであった。
妖夢は覚えの好い方ではなかった。云った事を一度やるだけで終えられるほどに才気が溢れている訳ではない。それに対してお嬢様の方は、妖夢とは全く逆で、教えている私が驚くほどに、飲み込みが速かった。が、妖夢とて決して弱くはなく、才能で埋められぬ穴は血の滲む努力で埋めていた。夜半などに竹刀を振る音が何処からか聞こえて来ると、大抵は妖夢が振っているほどで、屋敷の者達にも少し休ませた方が好いのではないのかと云われるほどである。
二三日と間を開けて剣術の指南を受けるお嬢様は、それでも中々妖夢に劣りはしなかったが、妖夢は毎日修行に明け暮れて、技の向上に余念がなかった。自然私は妖夢に対する剣の指導に熱心になった。努力で己が力を高める姿が、若き日の自分に被り、それを助けたくなったのである。そんな日々が、長らく続いていた。季節は春となり庭中に桜が咲き誇った。一つの色に染められて、その刹那を尊ぶ季節は、短くも濃い時間を我々に与えた。
「妖夢、お前は強さとは如何なるものだと考える」
稽古に一段落が付き、額に玉の汗を滲ませている妖夢にそう尋ねると、妖夢は何故そんな事を突然問われるのだか判らぬ気味で、狼狽えた。生真面目な気質であるから、問われたからには正しい答えがあると思っているのだろうが、それは甚だ見当違いの考えで、この問いに正答などあるはずもない。敢えて正答というものを挙げるのなら、自身の内で考えに考えた結論が、それぞれの正解で、確たる正解がないように、間違ったものも存在しないのである。
「未だ未熟な私の腕では、到底考えの及ばぬ領域です」
「そうか。しかしそれも正解の一つだ。今は自分にとっての真なる正解を目指して、精進を怠らぬようにするが好い」
そう云われると、妖夢は姿勢を正しく直して、声高らかに「はい」と返事をした。そうして顎に手を当てて一寸何かを考えているような仕草をすると、目を丸くさせながら「お爺様にとっての強さとはどういうものですか」と尋ねて来た。
「私は西行寺家の為なら、如何なる代償も厭わずに全てを捧げる覚悟がある。例えばこの広大な庭の木々、例えば大きな屋敷、――そうしてその何よりも、お嬢様と旦那様の命を守る力が、私にとっての強さだ。難しく考える必要はない。強さとは常に何かを守る時に必要とする。だから守るべき物を守れるようにするのが、私の強さなのだ」
妖夢は背筋を伸ばして私の話を謹聴している。やがて頬に羞恥の紅を忍ばせながら、小さな声でこんな事を尋ねて来た。
「それには、私も含まれていますか」
妖夢には珍しいその質問に、私は意外の感を受けながらも、その頭を撫でてやった。妖夢が道端に捨てられて、それを拾い育てて来た私にとって、血縁上の縁はなくとも妖夢は私の孫である。彼女の可愛らしい問いに否定などするはずがなかった。私は「当然だ」と返して笑んだ。桜の天井を抜けて差す陽光に、朗らかな笑みが花を開く。」
十四.
「目を見張る美しい女性に成長したお嬢様は、日に日にその姿に艶を醸すようになった。その御姿は奥方様の生き写しとさえ見紛うほどで、奥方様が淑やかな女性だったように、お嬢様も静けさの似合う楚々たる女性になっていた。最早人の手を借りる事なく歩き始める年頃で、私はそう判じていたからこそ、いずれ私の後を継ぐ妖夢への稽古の時間に多くの時間を割くようになった。そんな折、お嬢様が突然こんな事を云った。
「妖忌、一緒にお茶でもどうかしら」
「有り難いお誘いですが、これより妖夢に稽古を付けなければならぬ故、此度はお断り申し上げます」
幼年の頃は、そんな事を云うと判り易く頬を膨らませていたのものだが、今や大人の女性であるお嬢様にそんな仕草は影もなく、「貴方も大変ね。たまには身体を休めたらと思ったのだけど」と云って微笑した。そういう大人と子供に区切りを付けたお嬢様は立派になられたと思ったが、やはり私を慕って毎日色々な所へ私を引っ張り回していた頃も懐かしいものだと微かな離愁に感慨が湧いた。
「お茶は駄目だけど、一つだけ聞きたい事があって」
「私などで好ければ、勿論お聞きします」
肯定の意を示すと、お嬢様は一度大きく息を吸って、私の瞳を一直線に見詰めた。それが何かを覚悟したように思われて、私は心して彼女の問いに耳を傾けた。
「――私は昔と比べて何か変わったかしら」
私はお嬢様の問いが深刻でなければ、然して重要な事でも無く、単なる興味から来る平凡なものである事に、肩に積まれた荷が一気に転がり落ちて行くような感じを受けた。けれどもお嬢様の瞳は真剣の一色に染まっている。であれば私も相応の態度で、相応の言葉を返さねばならぬ。お嬢様が今日に至るまでに変化した事など、それこそ数え切れないほどあるように思われるが、その中で一番変化が顕著であった事を、私は一つ一つ挙げる事にした。
「お嬢様はお美しくなられました。男性であれば誰であれ情操を刺激されましょう。そうして大人らしい落ち着きと聡明さを兼ね揃えていらっしゃいます。今やこの老いぼれを必要とせぬのではないかというほどに、強く在られています」
そう云うと、暫しの静寂が場を支配した。お嬢様の表情は先刻と変わりない。そうして私の言葉を聞いていながら、黙している。華やかな春の香が、穏やかな陽に当てられて鼻孔を擽る。お嬢様の後方に立つ桜の木が、花弁を散らしながら揺れているのが見えた。天を染めようとするが如く、幾枚もの花びらが、宙を舞う。――すると、不意にお嬢様は笑い出した。口に手を当てて、私を見ながら笑っている。私は呆気に取られる以外になかった。
「妖忌ったら、そんなに褒めてくれて嬉しいけれど、その反面恥ずかしいわ。真面目な顔でそんな事云って」
「お嬢様が真率な態度で尋ねられましたから、私も真剣にお嬢様の問いと向き合ったのです」
「そうね、私も真剣に聞いたから。――それじゃ、有難う。妖夢に修行を付けてあげて」
そうして私はその場を立ち、妖夢の元へ向かおうとした。思いの外時間が経っていたので、今頃は竹刀を振り続けているに違いない。その光景を想像すると何だか申し訳なくなってくるので、私は足早にこの場を後にしようとした。ところへお嬢様が突然後ろから声をかけて来る。云い忘れていた事があるような、一種の焦りの混じる声音であった。
「ああ、それと、何時までもお嬢様なんて呼ばないで好いのよ。前から云っている事だけれど、妖忌は私ととても距離が近いのだから、名前で好いわ。この年になってお嬢様じゃ、示しが付かないじゃない」
「私にとってお嬢様はお嬢様なのです。姿が幾らお変りになろうと、それは変わりませぬ」
一陣の風が吹き抜けて、お嬢様の髪の毛を揺らして行く。「妖忌も相変わらずね」と漏らしたお嬢様の表情は、背に差す陽光の所為か、影が差しているように思われた。けれどもその微笑は、やはり平生のお嬢様で、それを私が見紛うはずもなく、私は然して気に留める事もしなかった。
それなり私はその場を離れて妖夢の待つ場所へと赴いた。そこにはやはり、一人修行に励む小さな姿があり、竹刀が風を切る音と同時に、やあと大きな掛け声が響いている。そうして私の存在に気付くと、表情を輝かせて「お爺様」と云いながら駆け寄って来る。小春日和に、妖夢の銀の髪の毛は燦然として輝いていた。
事件が起こったのは、私が妖夢に稽古を付けている最中に起こった。突然屋敷の方から甲高い悲鳴が聞こえたのである。そうしてそれは、聞き間違う事のないお嬢様の声であった。白昼堂々と何者かが入り込んだとは思えなかったが、お嬢様に万一の事があれば、私は旦那様に顔向けが出来ぬ。そうして何より、お嬢様を守る事が出来なかった不甲斐なさで生きる事すら出来ぬ。私は持てる力の全てを費やして、お嬢様の元へと急いだ。
――それは異様な光景であった。怯えた目をして震えるお嬢様の前に、この屋敷に古くから仕える老婆が倒れている。お嬢様にお茶を持って来たと見えて、倒れる老婆のすぐ傍には、散乱した湯飲みや、茶葉が散らかっていた。畳の上を湯が走り、湯気さえ立っている。老婆は倒れてから間もないようであったが、既に息はなく、完全に絶命した状態にあった。
「一体何があったのですか」
「判らないの、ただ、蝶が、蝶が、身体を貫いて……」
頭を抱えながら蹲るお嬢様は、見るも哀れな姿であった。何かを恐れるように、辺りを見回す瞳は血走り、先刻会った時とはまるで違っていた。振り乱した髪をそのままに、両腕で身体を掻き抱きながら小刻みに震えるお嬢様の肩に優しく手を置くと、驚いたようにびくりと身体が跳ねる。そうして私を見詰めたお嬢様の瞳は涙に濡れて、そして何処か申し訳なさそうな光を眸底の奥深くに秘めながら、表面に恐怖を映し出していた。
「蝶が……」
小さな唇がそう呟いた時、お嬢様の瞳は大きく見開かれた。そうして蒙古の象徴を私に認めたが如く、その細き腕で思い切り私の胸を押して突き飛ばすと、我に返ったように瞳から透明な雫を流しながら、「近付かないで」と消え入りそうな言葉で云った。その時、私はお嬢様の姿に筆舌に尽くし難いほどの寂寞を感じた心持ちがした。そうして彼女はその広大で荒れ果てている荒野の中で一人佇んでいるのだと思った。冷たき月下に煙る解け難き恐れをその胸に抱きながら、痛みを共有する者すら近付けず、そこに立っているのである。
私は失礼しますと一言だけ云い残すと、老婆の死体を抱き上げて、お嬢様の部屋を後にした。老婆の死体には外傷と云えるものが全くなく、何が原因で死んだのかも判らなかった。ただ死んだという事実を受け入れられないでいるかのように見開かれた黒い瞳は、生気の光を失って、虚空を見詰め続けるばかりである。――その後、老婆はかなり年を喰っていた事もあり、老衰による頓死だろうと云われ、埋葬された。真実を知る者は、誰一人として居なかった。」
十六.
「お嬢様の様子がおかしくなったのは、あの日以来の事だったと私は記憶している。一人で居る事が多くなり、私でさえ部屋の中に立ち入らせなくなったのである。そうしてその時期に、屋敷内は騒然とした。誰もが暗澹たる面持ちをしていて、目に見えぬ不安に心身を侵されているかの如く、不穏な空気が漂い始めていた。そうして思いがけない出来事が起こった。普段から皆に姿をあまり見せなかった旦那様が、久方振りに慌てた様子で部屋から出て来たのである。旦那様はまず私の元へと駆け寄ると、こんな事を云った。それは一大事と称して相違ないものであった。
「西行妖の封印が解ける。長い間己れが封じて来たが、突然その封印が破られようとしているのだ。最早己れにもう一度封印する力は残っていない。このままでは、あの妖怪桜は人々の命を喰らって花を咲かす事になる」
西行寺家にある広き庭の中央に封印された西行妖という名の桜は、人々の命を喰らい、その生命力を以て花を咲かせるという恐ろしき存在として、西行寺家の中に住む使用人達を怯えさせて来た。その力たるや、自然の領域を逸脱し、あらゆる生命を死に至らしめる脅威のものである。代々西行寺の人間がそれを封印して来たのだが、何が原因なのか突然その力を強めて、旦那様の封印を破らんとしているらしいのである。私は取り乱した旦那様をどうにか宥めると、現状を確かめに庭へ飛び出し、桜の森の中を駆け抜けて西行妖の封印されている場所へと向かった。
――そこはまるで、私が居た世とは違う世界だと思われるほどの光景が広がっていた。西行妖の太い幹が淡い光芒を放ち、そこから姿を現す光の蝶々が、結界の中で飛び回っている。西行妖の梢に未だ花は咲いていないが、封印が破られ、結界すらも破られるのは既に時間の問題となりつつある。このまま指を咥えて西行妖の封印が解けてしまえば、西行寺家に存在する命はおろか、他の場所へ危機が及ぶ危険性は十分に有り得る。私は生涯で初めて感じ得る危機に、――私の強さを証明する為に守らなければならぬ者達の危機に、焦燥を禁じ得なかった。
「煙る花、散る命、永久に枯れぬ妖怪桜」
不意に聞こえる歌の調べは女性のものであった。私は瞬時の内に、その者に危険な匂いを感じ取った。そうしてその時には腰に下げた鞘から刀を抜き出し、構えていた。鈍い光を放つ鋼鉄の白刃が辺りの風景を映す。その中に、それは居た。何処から来たのかも判らぬ、謎の女。日傘を差して不敵な笑みを浮かべる女は、この刀に、この殺気に恐れをなす事なく悠然と歩んで来る。外見から判じれば人間で間違いはないが、その雰囲気は既に常人の域を脱している。私は切先を女に向けながら、頬を流れる汗に気を留める事なく、睨み遣った。女は尚も笑んでいる。
「何者だ、返答によればお前を斬る」
「そう警戒しないで下さるかしら。貴方が仕えるお嬢様とは、友達なの」
そうして笑みを象る唇は、私を嘲るように歪められる。私の心頭に火を灯すのが目的の言葉である。乗せられてはお嬢様に仕える名が泣く。私は努めて冷静を装っていた。金の髪の毛を揺蕩わせ、徒に光る明眸にも金色が輝いている。美しい顔立ちは魔性のものである。一度魅入られてしまっては、二度と抜け出す事の叶わぬ蜘蛛の糸に雁字搦めにされて、嬲り殺されるに違いない。その女が醸す雰囲気とは、それほどまでに危険の香を漂わせるものである。
「怖いわね。今にでも斬殺されそうだわ。――けれど、私は忠告と助言をしに来ただけなのよ。西行妖の花が開けば、色々と面倒になってしまうから。貴方も知っているでしょう。この桜が喰らう命は、尋常な数じゃない」
はたして女の言葉に偽りの響は無かった。それでも到底信用に足るものではないが、手立てがなく困り果てているのは事実である。私は刀を女へ向けながら、話の続きを促した。女は少しも怯える気色を見せぬまま、あの笑みを浮かべて話し始める。西行妖を囲う結界の中には、数え切れぬほどの光の蝶が飛び回っていた。まるで腹を空かした獰猛な肉食獣の如く、獲物を探し求めているようにも思われる。封印とて最早その意味を失くしていた。
「この桜が気になって仕方がない顔ね。無理もないわ、もう直この死蝶は結界を突き破って、私達の命を喰らいに来るものね。半刻も持てば好い方だわ。決して弱い結界じゃないけれど、西行妖の動きを止めるには弱過ぎる」
「悠長にしている暇はない。方法があるのなら話せ。此処で何時までも停滞している訳には行かぬのだ」
女は私の言葉に失笑を漏らした。まるで私の言葉が甚だ見当違いだと云うかのように、腹立たしき嘲笑である。
「要は時間が稼げれば好いのね」
「そんな事が出来れば苦労はしないのだ」
「だから私が稼いであげようとしているのよ」
女は懐から四枚の札を取り出した。そうしてそれを、西行妖を囲う結界の礎となっている石に張り付けると、私では理解の行き届かぬ呪文の詠唱を始める。するとたちまち石に張り付けられた札は輝き始め、目も眩むほどの光条を立ち上らせると、西行妖を囲って天に届くほどの高さの光柱に変化した。結界に閉じ込められた蝶は突然怯んだように結界の壁から離れると、行き場を失くしたかのように、西行妖の幹の周りを旋回し始めた。
私は空いた口を閉じる事が出来なかった。西行妖を抑え付けるだけの結界をただの一人で張り、それどころか余裕を残した笑みを浮かべて、「これで好いのかしら」などと云っている。焦燥に駆られていた私と比すべくもない。私と女の持つ力には歴然たる力が見て取れた。私という人間が千の束になって彼の女に襲い掛かろうとも勝てる可能性は万分の一にも満たぬ。私は悔しさに歯噛みしながらも、女の力を認めぬ訳には行かなかった。そうしてそれだけの力を持っているのなら、彼女が云う助言とは真に迫るものなのかも知れないと考えた。
「これで一日は持つでしょう。それまでにこの化け物を封印出来るかどうか」
「方法が、有るのか」
「ええ、限りなく非人道的な方法が」
「ならば教えてくれ。このままでは、私は私の生きる意味を全う出来ぬ」
「それじゃ答えて頂戴。貴方の生きる意味とは、一体何なのかしら」
「私の仕える御方達を、お守りする事だ。引いては、大切な者達を」
私は刀を下げた。女に敵意を向けようが向けまいが、事態は何も変わらない。私は自らの矜持を捨て置いてでも西行妖を封印する方法を聞き出さねばならなかった。そうでなければ、このまま屋敷に戻っても私が出来る事など何一つとして有りはしない。西行妖の復活をただ待ち続けるばかりである。――即ち、死を。
「詭弁ね」
しかし、そんな私の覚悟をも嘲笑うかのように、女は妖艶な笑みを浮かべると、一言だけ呟いた。私の胸を貫く、劇烈な言葉である。根拠も何も無い、穴だらけの言葉であるはずなのにも関わらず、女の紡ぐ言葉には真正の重量があった。
「何が」
「全てが」
「何故」
私の話す言葉に力はなく。追い討ちをかける女の言葉ばかりが、傷付いたこの身体を打ち抜いて行く。
「貴方は盲目的で利己的だわ。物事の本質が、表層ばかりにあるものだと思っている。貴方の生きる意味は何の為にあるのかしら。――こうして西行妖の封印が解けそうになっているのは、全てあの子の所為なのに」
世界の時が止まったかのように思われた。謹厳な眼差しは先刻とは毫も似付かぬ。だからこそ、その言葉は恐ろしき衝撃を伴って私を打ちのめした。何故、と心中に呟く。それに答えるようにして、女が言葉を続けて行った。
「あの子には西行妖と同様の力がある。人を死に至らしめる忌むべき力が。幼少より始まって今に至るまで、不可解な死人が出なかった? 例えば彼女が生まれた時に、例えば彼女の心が深く傷付けられた時に。今、あの子の力は不安定な容器に入れられた水のように揺蕩っているわ。一時の感情の変化で、暴走してしまいそうなほどに。だから部屋に塞ぎ込んだまま、出て来なくなったのよ。本人は貴方を殺さない為に、と云ってたわ」
――我が生涯の中で、最も自分が愚かだと思ったのはこの日であった。最も自分が弱いと思ったのはこの日であった。最も後悔したのはこの日であった。私が安穏と暮していた時にも、お嬢様は辛い心境の中部屋に籠っていた。その意を汲み取れぬ従者に如何なる価値があろう。お嬢様の幼き頃、交わした約束はあの温かみと共に私の胸の中に残っている。それにも関わらず、私はお嬢様を一人にしていた。全てが手遅れとなっている時に、この事実を教えられたなら、私は自刃さえ躊躇しなかったに違いない。
無意識の内に私は地に膝を突いていた。全てを見透かす金色の瞳が、私の心中の最奥までを舐め回すように探っているかのように思われた。瞋恚の焔は我が身体の中に灯っている。この身を焦がし焼け尽そうと、自責の油を注がれて激しく燃えている。斟酌の余地などあるはずもない。罪の意識は全身を駆け巡る。目の奥が焼けるように熱い。ふと、西行妖の姿が目に入った。天高く聳える大木は、私を悠然と見下していた。花の咲かぬ梢をこれ見よがしに見せびらかしながら、私を嘲るように蝶々の大群が幹の周りを旋回する。或いはこの蝶達が、拠り所を失くしたお嬢様の具現なのかも知れぬ。
「自らへの呵責が耐え難いものであるのなら、充分に封印の手段を聞くに足る資格を持っているわ。好く聞きなさい。例えそれが絶望の淵に立つ者の背中を押す事の如く思われても、決してその手を止める事なく」
そうして女は話した。既に奈落の底に落ち続けているとばかり思っていた私は、私自身が未だ絶望の境地にすら立っていない事にそれで気が付いた。例えるのなら、この時私は物語の序章にさえ足を踏み入れていなかった。女の話を聞いて初めて、序章と呼ばれて然るべき地点に、私は漸く立つ事が出来たのである。いっそ聞かない方が好かったと思えるぐらいに、それは峭刻たるものであった。
――女はお嬢様の命を以てすれば、永久の封印も可能だと冷然とした口調で、読誦するが如く、云った。」
十七.
「屋敷へと戻った私の悄然とした面持ちは語るに及ばない。私は屋敷の者に声を掛けられながら、碌に返事もせずにただ廊下を幽霊のように彷徨っていた。お嬢様の部屋に行くには、勇気が少しばかり足りぬ。襖を開けて、そこに座すお嬢様が柔らかな微笑を湛えていたら尚更耐え難い。彼女の笑みは相反する感情を表している。彼の女が云った通り、私は物事の表層ばかりに目を向けて、その本質たる深層をまるで無視していたのである。が、この場に留まっても事態は着実に芳しくない方向へと進んで行く。手を拱いていては被害は軽微では済まされない。
それは果たして自身を案じたのだか、お嬢様を心配したのだか、これを書いている今の私ですら判らない。ただその時ばかりは、私は背に付き纏う悪寒を払拭しようと必死だったのである。
――丁度その時、妖夢と出会ったのは、私にとっての幸運であったのか不幸であったのか、それは未だに想像に難い。けれども、私はこの時に妖夢と出会ったのである。真直ぐな光を秘めたる瞳を、一心に私に向ける幼き孫の姿が強く在った事を、私は忘れる事の出来ぬ記憶の一つとして克明に覚えている。私のそれよりも強き瞳を。
「お爺様、お嬢様の元へ参りましょう。我ら魂魄の庭師が生涯お仕えする御方の為に、今こそ私達が動き出す時ではありませんか。でなければこの妖夢、未だ未熟な腕なれど何の為に今まで修行を受けて来たのかまるで判りませぬ」
その言葉は未だ戸惑いを隠せず躊躇していた私を強く刺激した。師より技を教わるは弟子である。弟子より修行の根源を学ぶは師である。私はこの時、真に師弟の関係を実感したのかも知れない。忘れかけていた――自白するとこの時の私は、自分が何者であるかさえ失念していた――自らの強きを証明する為に甘んじて受けねばならぬ痛みと、決して挫けてはならぬ堅い芯を持った心とを思い出したのである。
が、結果を顧みるに、私がこの時妖夢と出会ってしまったのは折もあろうにと云わねばなるまい。私はこれより先に起こった事を、此処に記す勇気を持ち得ない。そこに記されるは想像だにしなかった残酷な光景と、弱き自分を苛む我が心ばかりである。決してそこにあった我々の姿を克明に描くなどという事は、この老体には、――否それすら言訳だという事を自覚している。私はこの事実から目を逸らした。だからこそ、この書を我が生涯の末尾として纏め、遺書としたいと考えている。元より自己の満足の為に書き出したものであるので、やはり私は此処に詳細を記す事はしない。
この日起こった事件が、我が第三の世界を締め括る出来事であろう。お嬢様はお嬢様では亡くなった。我が孫は我が孫では亡くなった。全てが激変し、苛烈な罪悪感を我が心に刻み込んだ。忌々しい妖怪桜はお嬢様の命と共に永久の眠りに就き、屋敷に残ったのは我ら魂魄の名を持つ庭師と、お嬢様ばかりである。死蝶に喰らわれた家人は二度と目を開く事は無かった。旦那様とて安らかに眠っているかのような顔をされていた。――そうしてこの人生の歴史に記されるべき陰惨たる刻印を覚えている者は、私を除いて誰一人として居なかった。
この事件により命の半分を喰らわれた妖夢は人の身と霊体とに、自身を分けた。尤も望んでした事ではないのは明白である。お嬢様は完全なる霊体となり、亡霊と称される存在になったまま、全ての記憶を失って私の前に現れた。自身の骸が西行妖に埋まっている事を知っているのは私以外には居ない。妖夢とてあの日の記憶は無く、残っているのは私と過ごした修行の日々だとかの平凡な日常の事ばかりである。しかし究極的には妖夢は幸福だったのかも知れぬ。そうして同様に私もお嬢様も幸福だったのかも知れぬ。自らの意思で妖夢を殺さんとしたお嬢様はその事を忘れ、殺されかけた妖夢はその事を忘れ、そうして二人がそれを忘れている事を知っている者は私の他には居ないのだから。
そうして私は現在に至る。前と変わらぬ、――変わったと云えばお嬢様の世話をする者が二人だけになった事と、屋敷の中がとてつもなく広く思われる事ぐらいであろう。私は自らに必要不可欠な何かを喪亡したが如く、中身の無い日常を送っているような気がしてならない。全てが空虚な絵の中に収められた、虚飾の物語なのではないかと疑ってしまう。過去と現今との差異は、それほどまでに我が身心に耐え難き責め苦を与え続けているのである。
私がこのような贖罪にもなりはしない遺書を書こうなどと思いついたのはある切欠があっての事であった。或る日唐突にお嬢様から部屋に呼ばれた折、私は亡霊となったお嬢様が浮かべる切なげで悲しげな表情を初めて見た心持ちがした。まるで何もかもに見放され、拠るべき場所すら無くし、頼る人すら失くし、凡そ生きるに於いて必要な希望の全てをことごとく深淵の闇の中へ落として来たかのような心細い表情をしているお嬢様が、そこには立っていたのである。
はだけた着物は色香を溢れさせ、月光を受けて青白く光る白磁の肌には慎ましやかな紅が差し、柳眉は心持ち下げられて大人と称すに相応しい女性となったお嬢様が、鏡の前に立っていた。私の知る子供の頃のお嬢様はそこには居ない。成長したお姿に欠点などは何処にも無く、豊かに実った双丘は水気に溢れる果実を思わせて、細くしなやかな肢体は私を誘惑するかのように、時折小さく動いていた。それなのにも関わらず、お嬢様は羞恥の念を毛ほども感じさせぬまま、私に一つの問いを投げ掛ける。胸に手を当て、細い五指で自らを締め付けるように、何か得体の知れぬ痛みに苛まれる者の如き辛そうな表情で、短き問いを必死に紡ぐ。――桜のような方だ、と私は思わずには居られなかった。
「身体は確かに此処に在る。それなのに、胸には大きな穴が空いているような気がするの」
その問いに、真実を云えるはずもなく。そうして虚実が彼女を満足させるはずもなく。私は正しい選択肢など見当たらぬ分岐点で、立ち竦む余裕すらないままに、心の臓を握り潰される思いで、慈悲などあろうはずもない酷薄な言葉を吐き出した。月光に散る桜の花弁の美しきは、儚きお嬢様の姿さえ隠してしまいそうで、私はその時にこの屋敷を出ようと決意したのである。最早以前のようにお嬢様と接する事など、出来なかった。
もしかすればお嬢様は全てを知っていたのかも知れない。そうしてそれを自覚していたからこそ、自ら記憶に蓋をして思い出さぬようにしたのかも知れない。遂に私がそれを知る事は無かったが、願わくば知らないでいる事を私は望む。お嬢様は新たな生を得た。死という生、言葉では云い表せぬ矛盾の存在である。であれば、それを好きなように謳歌する方が好いのは云うまでもない。私が望むのは苦悩なき安楽の道である。例え我が身は永遠の罪悪に苛まれようとも、お嬢様には、そして妖夢には、辛い過去の一切合財を忘れて過ごして欲しいと願っている。
叶うのなら、二人に生ある死が、死のある生が、在らん事を。――魂魄妖忌」
十八.
書物を捲る乾いた音ははたと消え、麗らかな春の暖気を覆い隠す宵闇の帳は、蔵の中を暗黒に染めていた。広きこの世界の内にただ一人取り残されたかのような感覚が、茫然自失の状態で佇む彼女をじわりじわりと追い詰める。ふと格子の付いた窓の外へ目を向けると、真円を描く月が浮いている。神々しい光は彼女の白い頬を仄かに青く色付け、眼下の世界を包み込むように静かに、彼方の空で佇んでいた。
頭の中に浮かぶ既視感にも似た、けれども確かな自身の記憶の映像は、一つ一つ鮮明に流れて行く。慕った者の面影はその中で色濃く浮かび上がり、彼女を更に孤独の内へと誘い込む。悪魔の甘言が何処か遠く、しかし耳の奥の方で明らかに聞こえる心持ちがした。今見た事を全て忘れ、不完全な現今を生きろと、今の彼女にとっては悲願にも似た都合の好い囁きである。彼女が一度辿った、狡猾な道である。太陽の光に目を背ける、闇の道である。
過去の自分は、と口中に呟いた。全てを思い出した彼女には、自分が見聞きし、した事の全ての理由が判然と判る。けれどもそれが正しかったと認める事は断じて出来なかった。取り返しの付かぬ過去に思いを馳せども心に安楽がもたらされる事は無く、深き絶望の底へと転がり落ちて行く自分を、支えて遣る事も出来ず、彼女はただ空虚な心臓へ自身の手を宛がうと、偽りの肉体へ爪を喰い込ませた。鋭い痛みが確かにある。この身体はある。けれども根拠は毫も無く、真の身体の在り処が、窓の外の向こう――西行妖の根にある事を、彼女は既に自覚している。
今までの自分に救いがあったろうか、という問いかけは否という無情な答えの前に容易く打ち砕かれ、昔日の残滓が一つ一つ胸に落ち、岩を穿つかの如く、彼女に筆舌に尽くし難い痛みを与えた。四面を敵に囲まれて、背後に流れる川すら無い中で、助けの叫びが届く事も無い境地では自刃以外に取る選択肢など有りはせず、いっそこの命が断てるものならば、忌まわしき自らの力でこの物語に終止符を打てたなら、彼女はどんなに安らかになれたのだか判らない。しかしこの力は、――生物を死へと誘う優雅な蝶は、決して彼女の命を蝕もうとはしない。自分の存在が消失する事を頑なに拒んでいるかのように、自らの根城となった彼女の内からは決して出ようとはしないのである。
彼の妖怪桜は、ともすれば今の彼女と同じ悩みを抱えていたのかも知れない。他の桜と同じように咲き誇る事もままならず、封印されては永久の冬を過ごし続け、長い時の中を大きな寂寞を抱えながら、声も無くこの白玉楼の庭の中で一人佇んでいたのかも知れぬ。それを思うと、彼女はどうしようもなく悲しくなった。
蔵の中に女の慷慨悲歌の音色が静かに響く。ぽつりと落ちる寂しき雫の音である。亡き人へ捧ぐ鎮魂歌の旋律である。世を厭い憂う者の慟哭である。――桜の花は、何時の間にか散っていた。
十九.
時が輪廻を巡り、季節は流れ、青き葉が煙る頃、未だ風光明美な景色を持つ庭を損なう事無く、白玉楼は静けさの中に佇んでいた。八雲紫が此処を訪れるのは久方振りの事である。最後に来たのは確か花見の席での事であったと記憶しているし、それから敢えてこの地を踏まなかった心苦しさも明らかに覚えている。それだから春の香を何時までも燻らせているかのようなこの庭は殊更懐かしく思われるのだった。一つの色を欠いた、皮肉なまでに美しい光景。
彼女は木々の連なる小道を歩いて行く気味で、境界を操る事も無く、雅な日傘を差して自身の足で屋敷の方へと向かう。そうして何もかも変わってしまったなと心中に呟いた。全く変化の見当たらぬ庭だというのに、感じる事は斯くも違うのかと寂しくなった。景色が、景色が灰色に染まって行く。黒く染まった桜の後を追うように、視界の中が暗く淀んで行く。目を差す陽光が憚りなく輝いている空の下、雲無き空は何処までも青く青くありながら、暗澹たる雲翳を漂わせているかのようである。感傷的になったものだと、紫は少しだけ自分の事が可笑しくなった。
屋敷の前には一人の女が立っていた。銀色の髪を風に靡かせる少女と形容するに相応しい姿である。その少女は紫の来訪に気付くと、慌てた様子で駆け寄って来て、「迎えにも出ずに済みません」と頭を下げた。
「そんな事を気にするほど心が狭い訳じゃないわ。こちらこそ、いきなり押しかけて」
「いえ、決してそのような事は。――ただ、紫様が此処へ訪れる理由に足りえた人は、もう」
「判っているわ。だからこそ今日まで此処を訪れなかったの」
「では、今日はどういう料簡で参られたのですか。この広い白玉楼は、すっかり寂れてしまったのに」
「何時までも目を逸らしている訳にも行かないと思ったのよ」
そうですか、と一言だけ返した少女は、ではこちらへと紫の前を歩き出す。屋敷の門を潜り、玄関を通って、長い廊下を何も云わぬまま辿って行く。風の音ばかりが耳を突く。やがて二人は一つの部屋の前、閉ざされた襖の前で立ち止まった。確かこの部屋は直接庭に面していて、春には見事に咲き誇る桜を朝夕眺める事の出来る場所であったと記憶している。そうしてこの白玉楼の主が最も気に入っていた場所であったとも記憶している。かつての時分には好く此処で話していたものだとも記憶している。だからこそ、この襖は重々しいまでの空気を匂わせている気がしてならないのである。
「幽々子様は、此処に」
そうして少女は恭しく襖を開けた。爽やかな風が途端に髪を撫でて行く。一番に目に入る庭の光景は、緑色に色付いて、燦々と輝く太陽の恩恵を享受している。此処も変わらない、紫はそう思った。
「本当に、眠っているのね」
少女に促され、部屋の中へ踏み入るとそこには一枚の布団の上で寝息を立てている幽々子の姿があった。何も変わらぬ顔立ちが、天井を向いて眠っている。青々しい夏の匂いはその光景と合わさって紫の頬を微かに緩ませた。しかし、昼寝しているのと同様の姿だけれども、幽々子が昼寝をする時は何時でも暖かな縁側なのだという事を紫は好く知っている。僅かに緩んだ彼女の頬は、すぐに真一文字に結ばれてしまった。
「ええ、紫様にお伝えした頃から、一度も目を覚ます事無く」
颯々と風が吹く。幽々子の髪の毛が僅かに揺れた。宙に舞う花弁の様である。それ故に儚く見えるに違いない。優しく頬に手を当てると冷ややかである。とても血の通う生き物とは思われない。けれども微かな寝息を立てる幽々子は生きている。生きながらにして死んでいる。幽々子にとって生と死は区別あるものではなかったはずなのにも関わらず、今では明確な境界が引かれている。紫はそっと幽々子の頬に唇を付けた。そうして懐から桜の花が煙った様を模したものを取り出して、幽々子の胸に添えて遣った。季節外れの花弁は、眠る彼女の胸の上に置かれている。
「私の口付が目覚める切欠になればいいのだけれど」
そう一言だけ呟いて、紫は立ち上がる。傍に控える少女は二人の遣り取りを見ても何も云わなかった。人の動く衣擦れの音ばかりが聞こえる。外界から持ちだされた桜の花は、それでも春の面影を思い出させんとしているようである。――ぱちんと、扇子を閉じる音が響き渡った。
「……貴方の長い長い夢に、幸がある事を祈っているわ」
紫はそう云って少女に帰る旨を伝えた。そうして部屋から外へ出ると、境界の闇の中へと消えて行った。後に残された少女と幽々子の二人は静かな時の中に居る。眠る幽々子の頬には薔薇色の花が、胸には桜の花が咲いている。少女は幽々子に向かって深く頭を下げると、それなり部屋を後にした。襖の閉じられる音が、全ての世界を閉じたような心持がした。暗黒、暗黒、白玉楼は深き闇の中にある。彼女の魂は果たして何処へ。……
巨大なる桜の前、蒼茫たる空を見る少女が一人。
懐かしい香りを感じた心持ちがした。枯れた梢から花が開いた光景を目にした心持ちがした。
何故此処に、何故此処に、何故此処に。答えのない自問が繰り返される。
あの太陽に向かって目を開けたなら、きっとその答えが判るに違いない。
けれどもこの身に吹くは罪障の風、黒霧は視界を染めて行く。
嗚呼この胸の想いは果たして……。
――了
仰いで眺め、咲き誇るは黒染桜。
ひらりひらりと花が散る、ちらりちらりと記憶が霞む。
永久に春へ別れを告げた、悲しき桜の前に立つ女。
幽かな過去の残影に、馳せる想いは果たして何処へ。
零.
暗闇の中に佇む女が一人、部屋の中心に置かれたる姿見の前に立っている。朧げな月明かりが中途半端に開かれた障子の隙間から差し込む中、元より希薄な存在感を放つ女は、殊更儚く見えた。姿見の中、桜色の髪の毛は蒼然たる月明かりに照らされて紫色の輝きを放ち、死装束と見紛う着物はぼんやりと浮かび上がる。細められた瞳が笑みを象る事はなく、寂寞の影を長き睫毛から落としながら、美しさの露を滴らせるばかりである。真一文字に結ばれた可憐な唇は、おもむろに開かれて、如何なる言葉を紡ぐ事なく再び閉じられる。悲しみの影が、畳の上に長く長く伸びていた。
やがて女は着物の帯を解く。小さな衣擦れの音がするりと鳴ったかと思うと、たちまち女の上体は瑞々しい素肌を外気に晒した。そうして新春に溶けるか弱き雪の如き柔肌も、微かに揺れる豊かな双丘も、全てが露わになった。うなじに掛かる月光が艶めかしく彼女を宵闇の中に浮かび上がらせる。何処かから舞って来た桜の花弁は、一枚の絵画に映る美しき女を彩るように流れて行った。寒々しい夜気に身を震わせる事もないままに、彼女は無表情の中に索莫とした影を忍ばせながら、緩慢な動作で姿見に映る自身の姿を見遣る。そこには上半身をことごとくはだけた女が、物憂い気な表情で立っていた。
頭に被った帽子を一思いに投げ捨てれば、乱れた髪が凄艶さを増して、全てを魅了せんと淫気が溢れ出す。この世の全てを懐柔してしまいそうな危うさを秘めた剣呑な色気が、妖艶なる彼女を明らかに浮かび上がらせて、自身の手を胸に当てた女は嘆息ですら悩ましい吐息に変えて、姿見から目を逸らした。女は全てが虚構の産物である事に気付いている。真なる月の明かりに暴かれる虚像だと理解している。
――姿見には女の姿など映ってはいなかった。そこには桜の舞う明媚な風景が、残酷なまでにありありと映っているばかりである。画集を紐解いた中にある、一枚の絵画のような光景であった。
「我が身浮世に映らざらんとすれば、我が心は何処ぞ」
遂に女の唇は言葉を紡ぎ出す。その身に収まらぬ怨嗟の叫びを解放したかのような、憎しみに、或いは悲しみに塗れた呟きが風の音に溶けては消えて行く。何もかもが静まり返る夜中の時分、一人佇む女の姿は何処までも寂しげで、哀れであった。月に喰われた太陽は光を落とさぬ。女はそれと同様の存在であった。真なる自己を喰われた悲しき太陽、決して光を放つ事の出来ぬ闇の存在、星にさえ劣る脆弱な幽光、斯くも儚き悲劇の具現。
――ところへ初老の男が現れた。頭に生やすは人間道を通貫せしめた証左である白き髪、荘厳な面持ちに光る瞳は厳しく輝き、引き締められた唇は鋭き矢を放たんとするが如く。腰に下げた刀は鞘越しで尚、人を震撼させる殺気を放っている。やがて彼は女の部屋に一歩を踏み入れると、姿見を隔てて女の前に立った。月明かりを顔面に受けながら、しかし男の表情は豪も変わらない。束ねられた白髪ばかりが月光を受けて無暗に光る。女の表情は影に隠されて、判然としなかった。
この世の四苦を自身の身体に刻み込み、厳めしい顔付きが、女を見ると僅かに悄然とした。木々の梢が夜風に靡き、さわさわと音を立て、風の波が花弁を持って来る。女の憂いが秘められたる瞳が、不意に男を貫いた。
「妖忌は教えてくれるのかしら」
「何を、で御座いましょう」
「私の不安の正体を、或いはこの空虚な感覚を」
女の慎ましやかな手が、姿見に掛けられて、畳の上に鈍い音が響き渡る。明らかに浮かび出す裸身は神々しい威光に照らされて、その美しき肢体を男の前へ戸惑う事なく現した。けれども彼には意表を突かれた様子も無ければ呆気に取られる様子もなく、また女を前にして卑俗な考えを持つ事も無かった。ただ彼の女は自然の体でそこに在る。男は全く自然の風景を見ているのと何も変わりがない。そこにある相違と云えば、女の心苦しい思いが大気の中に遍満しているかの如く感じられる事ばかりである。そうしてそれを知っているからこそ、男は淫気に溺れる事が無かった。
二人の間を活き活きとした沈黙が領している。風の音も呼吸の音も、何もかもが静けさに打ち消され、その矛盾の中に他者では介入出来ぬ強靭な錠が掛けられた空間が顕現する。やがて女は男に向けて問うた。この世界中の憂いを身に受けて、脆く崩れ去る精神の居城の中、深い深い地の底から、助けを求めて、か細い声を精一杯張り上げた。笑顔の仮面を被り、偽りの瞳の中から透き通る雫を流しながら、切実な思いで、藁にも縋る思いで、問い掛けた。
「身体は確かに此処に在る。それなのに、胸には大きな穴が空いているような気がするの」
細い五指を胸の中心に当てて、震える手先を豊かな双丘に沈めながら、女はそう云った。まるで路傍に咲いた一輪の花の如く、弱々しい姿である。男は眉根を下げた。真一文字に閉じられた唇は、言を紡ごうと開かれる。けれども声が出て来ない。空気が無くなってしまったかのように、彼の思いを伝える媒介が、二人の間には存在しなかった。ただこの場だけを取り繕う虚しい言葉が、深い闇の中に溶け込み、彼女の睫毛を濡らしたばかりである。
「貴方様は、確かに生きていらっしゃる」
春に別れを告げた桜の花弁が、音もなく遠い夜空に舞った。煌々と輝く星々の中に、青白さを忍ばせた場違いな色彩が、幾つも重なり合って浮かび上がる。やがて閉じられた襖の向こうからは、遠ざかる足音と、女の咽び泣きの声が、曙光の差し始める時分まで何時までも響き渡っていた。
肌理細やかな肌を伝う悲しみの残滓が、妖艶な月明かりを跳ね返している。……
一.
薄ぼんやりとして明瞭でない風景、聞こえているはずなのに聞こえぬ人の声、何処か現実味の無い曖昧な浮遊感、彼女はそんな事から自分が見ているものは夢なのだと気が付いた。目の前に広がる景色は桜花爛漫たる桜が、美しく乱れ咲く、まるで一枚の絵画から切り出したかのような幻想的な風景である。そうして大人数人で腕を伸ばしても囲えぬほどに太く逞しいその幹の前に、一人の少女が物静かな面持ちで立っている。彼女にはその少女の顔を判然と認める事は出来なかったが、そんな不明瞭な視界からでもその少女が悲しげな面持ちをしているという事だけは、何故だか自然と判った。
それがどうにも腑に落ちないので、実体を持たぬ幽霊のような身体で、彼女は必死に目を凝らして見た。が、一向にその努力が要領を得る事はなく。桜の木の前に佇む少女の面持ちは、漠然とした印象から悲しげであるという事だけが、頭の中に残っている。その内その夢の光景も次第に薄れて来て、遠くから自身の名を呼ぶ声が木霊して来たので、彼女は蒼穹を見上げて、輝く太陽に目を眩ませた。それが合図だったのか、途端に眼前に広がる風景は渦を巻き、自身を取り巻く桜の花弁が醸す雨のような光景が、一度に一点に集まったかと思うと、世界は暗転し、音の無い世界に自分の名を呼ぶ声だけが響き渡っていた。
「幽々子様」
眠気の覚めやらぬ目を開けるのは彼女にとって至極難儀な事であった。開けようという意思があっても、それが身体について来ない気味で、彼女は腕を瞼の上に置くと照り付く日光から逃れようとするが如く、軽く唸った。が、名を呼ぶ声が一向に止まないので、仕方なしに瞼を開けると、そこには青空を背景に銀色の糸が燦爛と輝いている様があった。そうしてまだ幼い顔立ちの中にある整った眉毛が困った風に下げられているのが一番に目に入った。
「眠ってしまったみたい」
「何時から昼寝に興じられているのかは存じ上げませんが、こんな所で眠られていては風邪をお引きになります」
「それも可笑しな話ね。幽霊が風邪を引くなんて、つまらないお伽噺のようじゃない」
そう云いながら幽々子は緩慢な動きで身を起して、大きく伸びをしたかと思うと柔らかな微笑を湛えて、縁側に伸ばしていた足を地面に下ろした。穏やかな春の風が、色鮮やかな花の香を連れて来る。寝起きで朧げな感覚しかない身体には、その匂いがとても心地好かった。が、至極呑気な彼女の表情と比べて、それを見遣る妖夢の瞳は呆れた風に細められている。その内小さな唇からははあと溜息が落ちて、「万が一の為にです」と云った。
「妖夢は心配症だものね。妖忌に好く似ているわ」
「西行寺に仕える庭師故、真に光栄なお言葉ですが、それではお爺様もきっとお呆れになられますよ」
「好いのよ、それで。その方が余程楽じゃない。堅苦しいのは苦手なの」
「それなら何も云いませんが……」
「それより、こんな天気の好い日には美しい景色を眺めながら過ごす方が有意義だと思わないかしら」
幽々子はそう云って視界の一切合財を埋め尽くす明媚な風景を見て感嘆の溜息を洩らした。とりわけ桜の花には一段と関心が向いているようで、彼女は風に乗って運ばれて来る花弁を手の平に乗せては、頬を緩めている。そんな主の姿に毒気を抜かれたのか、妖夢は観念したとでも云うように幽々子の隣に腰掛けると、同様に景色へ目を向けた。そうしてこの庭の管理を手掛けているのは自分ではあるけれども、眼を奪われるとはこの事だと驚嘆した。
「今年は一段と桜が綺麗に咲き誇っていますね」
「此処に優秀な庭師が居るからかしら。お陰で好い花見が出来そう」
「お褒めの言葉、有り難く頂戴致します。ところで、お花見の件ですが」
「ええ、前に云ったように行いましょう。この景色を私達だけで独り占めするのは忍びないもの」
幽々子はそうして眠たそうに大きな欠伸をした。白玉楼の主たるもの、仕草は常に淑やかに、と常日頃云い続けている妖夢だったが、いよいよ諦めたと見えて、特に彼女に対して注意を向ける事もしなかった。その内放っておけばすぐにでも二度寝に勤しみそうな様子だったので、時刻も丁度好いと判断したのか、妖夢は立ち上がると「お茶と茶菓子をお持ちします」と云って長い廊下を歩いて行った。それに続いて宙を漂う霊魂が、妖夢の後を辿って行く。幽々子は「有難う」と云うと、また美しい景色へと目を向けた。二百由里にも渡る広い庭の全貌を確かめる手立てはありはしないけれども、何処までも続く木々の連なりを眺める事を彼女は好んだ。まるで楽園に居るような心持ちで、落ち着くからである。
ふと、木々の連なりを目で追って行くと、異端とも云えるほどの大きさの大木が天に向かって伸びるのが見えた。季節に似合わぬ彩りに欠けた枝、枯葉のように物哀しい朽ちた色、その身に花を開かない永遠に死に続ける桜の木。幽々子はその大きな姿を目に入れる度、胸の隙間へ風が吹き抜けたような心持ちになる。何だか不安で居ても立っても居られなくなり、急に立ちたいという気さえ起る。呑気な気質が損なわれたような気がして、不愉快さえ感じる。そうしてとても懐かしい記憶が、頭の隅に引っ掛かる。幽々子はそれが一番気に入らなかった。気になるのに思い出せないというのは、一種の拷問であるような気さえした。ところへ妖夢が戻って来る。手に持つ盆には茶菓子と茶が載っていた。
「お待たせ致しました」
それなり幽々子は頭の中に蔓延っていた嫌な思考を切断した。憂慮に耽るのは今すべき事ではない。存分に季節の味を楽しまねば人生は損である。そんな事を思いながら、彼女は礼を云うと差し出された茶菓子に舌鼓を打つのであった。
二.
「空も好く晴れた、過ごし易い天気が連日私達を癒す中、白玉楼の主として一つの提案をお伝えしたく、この手紙を皆々様までお送り致します。お忙しい方々も数多く居るのでしょうが、無礼を承知して、この白玉楼へと花見の招待をさせて頂きます。桜も満開となり、辛夷も躑躅も色鮮やかに、冥界はとても賑やかな彩りを至る所へ咲かせており、その風景の明媚たる事、冥界を管理する者として充分に自負しております。ご都合が付くのであれば、是非とも招かれてくれますよう。
日時は手紙の末尾に記載した通り、一切の準備は私達の方で行う所存で御座います。何時もながら博麗神社にはお世話になっておりますので、それに対する敬意と感謝とを誠意を込めて伝えたく思い、それを行動に表したいと思っていますので、仮に遠慮が後ろめたさを与えるのであれば、そんな事は気にせずにいて下さい。尤もこの言葉自体が不要な物と思われるかも知れませんが、私共としてもご迷惑を掛けていた自覚はありますので、一応と付け加えてお伝え致します。
花見の席には、白玉楼にて管理されている古酒を振舞おうと考えております。長い間蔵の中にて、皆様に飲まれる事を待ち望んだ、絶品の名酒ですのでお酒を好む方々が多い幻想郷には打って付けでしょう。しかし何より私達がお勧めして止まないのは、何もお酒ばかりの事ではありません。先に記述した通り、花見の会場として私は色鮮やかに咲き誇る桜の木々を、何より美しいと思っております。既に目にした事もある方が多いとは存じ上げておりますが、それでも尚私はこの庭の美しさは、幻想郷随一だと考えているのです。一見の価値は語らずとも有るように思います。
それでは貴重な春の時節を、このような手紙で潰す訳にも行きませんので、要件はこれにて終わりとしたく思います。重複になりますが、是非ともこの宴会に参列される事を待ち望んでおりますので、手紙を受け取った暁にはご一考をお願い致します。それでは未だ肌寒い風も吹く季節、幾ら温暖な気候が続いていると申しましても用心に越したことはありません。お身体にお気を付けて、麗らかな春の陽気を謳歌して下さいますよう、お節介を焼きつつ、失礼致します」
幽々子は幾枚目かも判らぬ文を最後の紙へと認めて、硯の上へ筆を置いた。外を見ると未だ陽の強く差す時分である。暖かな空気が障子の隙間から、心地好い風となって吹いて来る。時折ちらちらと流れ着く桜の花に頬を綻ばせながら、座り疲れた身体を崩して、幽々子は畳の上で横になった。年季の入った天井は所々が黒ずんで、過ぎ去った日々を彷彿とさせる。この白玉楼で冥界の管理を任されてから、一体如何ほどの時間が経過したのか、幽々子にはとんと見当が付かない。逆説的に考えればそれを忘れてしまうほどの時が経ったのかとも思われたが、それをそう定めても何だか釈然としなかった。
空白のある小説を読んだ後のような、蟠りが胸にある。払拭するにしても、その空白を埋める術が見付からぬので仕様がない。近頃こういう問題に対してよく頭を悩ませているなと、幽々子は考えて甚だ自分が情けなく思われた。取るに足らぬ些事に呻吟しても得は無かろう。彼女にしても、問題の空白は単なる気分の所為に違いないと信じて疑っていない。それなのにも関わらず、判りそうで判らない問題がどうしようもなく気になってしまう。そうして頭の中には色々な事柄が錯綜して、やがて纏まりを失くしては行き場のない思いを、無理やり引き剥がす。それの繰り返しばかりであった。
「西行妖なら、何か知っているのかしら」
ふとそんな事を思い立って、幽々子は一人呟いた。雲煙縹渺として見当も付かぬこの疑問の正体を、一度だけ本当に思い出しそうになった経験が彼女にはある。今思えばよくもあのような我儘が通ったと思われるが、幻想郷にある全ての春を集めて、西行妖を満開にさせようとした時に、彼女は確かにこの疑問の正体に触れたのである。以来彼の呪われし桜に近付く度に、懐古の情が心を満たす。けれども空白だけは決して埋まる事なく、今も尚幽々子を悩ませている。だからこそ、その懐かしさが形を持たぬ疑念を暴いてくれるのだろうと、彼女は信じているのである。
が、西行妖は何度春が訪れてもその梢に花を煙らせる事は決してない。諸行無常の響きに見放された存在は、常に無変の姿のまま屹然として天空に枯れた腕を伸ばすばかりである。まるで幽々子が気にしている心の空白のように、彼の桜も真の意味で満たされる事はなかった。それだから幽々子は自身の姿をあの桜の木に重ねて見る度に、同族嫌悪染みた思いを抱きつつも郷愁の念に興味を惹かれている。いっそ投げ遣りたい鬱陶しい思いを、何時までも抱え続けているより他にない。死にたくとも死ねぬその身体のように、決して離別を許されぬ間柄なのだと、諦念しているのである。
「またそのような格好になられて……」
煩悶する幽々子に、聞き慣れた呆れ声が聞こえて来る。見上げると妖夢が例の如く眉根を下げながら、腰に手を当てて立っていた。無論弁解する気など毛頭なかったが、幽々子は自分の仕事は終わったとばかりに机の上を指差して、積み重ねられている紙の束を示し出した。
「こうして全部書き終えたばかりだから、少し呑気にしているだけよ」
「もう、ですか」
「やれば出来るのよ。余りしたがらないだけで」
「自覚がお有りなら、何時も勤勉で居て下さい」
「剣の稽古なら遠慮するわ。そんな気分でもないの」
そうして空に手をひらひらさせて、幽々子は洒然として妖夢の言葉を閑却した。最早それも通例となっているので、それ以上妖夢は何も云わなかったが、微々たる不満の意を隠すには未だ鍛錬の足らぬ身であるようで、彼女は心持ち不満げな声音で「そうですか」と云った。春の香は穏やかに、景色は色付けども、この方に色気が付くには些か陽気過ぎるようである、と思いながら労いの茶を汲みに、妖夢はその場を後にした。元来生真面目な性質であるので、主人が幾ら安穏とした様を呈していても、それに怒って仕事を放擲するほどの勇気を彼女は持ち得ていなかったのである。
花見の事実はすぐ間近に、妖夢が手紙を配り終えれば開催される事であろう。ある予感めいたものを感じ取って、幽々子は唇の端を持ち上げた。紋白蝶が粉を吹く羽をはばたかせながら、室内へ入る。他者の命を奪い取る危うさを持たぬか弱き生の存在が、どうしようもなく羨ましく思われた。つと指先を立てると、誘われるように蝶はしなやかな幽々子の指先へ止まると羽を休める。蒼穹へ散り行く桜の花を追い求める翼が有れば、この身に張り付き離れぬ煩悶に別れを告げる事が出来るのだろうかと考えて、彼女は目を瞑った。今日は時節に対する感慨が、何等も起こらなかった。
三.
麗らかな晴天の広がる天気だと云うのに、この陰湿な空間は魔天の下にあるが如く薄暗かった。埃臭さの充満する古き蔵には様々な物が置いてある。何やら高価そうに見受けられる壺があれば、何年も使われていない事を示唆するように埃を積もらせた茶器が、本来の用途として使用される事なく鎮座したりする。灯りを点けると酒がある。大仰な箱に収められたる酒瓶は、その風情だけで百年の響きを孕んでいた。手に取ると頗る重い。無色の液体が瓶の中で揺れて、頻りに動く。口の所に鼻を近付けて、一寸匂いを嗅いでみると美味そうな酒の匂いが漂って来た。――白玉楼にある蔵には、あらゆる時代を過ごして来たと思われる品々が兎角沢山置かれていた。
幽々子はこの時初めて蔵に訪れた。宴会に出そうと決めている古酒の確認の為でもあったし、単なる興味から覗いてみたい心持ちも確かにある。けれども実際に薄暗い穴倉に迷い込んでみると、最も興味を惹かれたのは蔵の最奥に陳列されている書の数々であった。埃を被って白く煙っているけれども、手に持ってみれば然したる風化の兆しは感じられない。書は書としての意義を未だ保ち続けたまま、人の手に載る事を今か今かと待ち望んでいた気色である。開いてみると、古めかしい文字が墨にて刻まれて、薄汚れている所為か判然としなかった。
「幽々子様」
幽々子が書を手に取り、今まさに読み始めんとしていた所に妖夢は現れた。彼女らしからぬ厳しい声音と、主の名を呼んだとは到底思えぬ冷然たる口調である。図らずも幽々子は驚いて、手に持っていた書を閉じた。黄色に淀んだ紙がぱたんと閉じられて、白き煙が辺りを舞う。入口より差し込む陽光がその煩わしい様を明らかに照らし出した。逆光を背負う妖夢の表情は微茫として窺い知れない。澄ました口振りで、幽々子は「どうしたの」と問い掛けた。
「その質問をするのは私の方です。一体どうしてこんな所に居られるのですか」
「無聊を慰める以外の理由は持ち合わせていないわ」
「無礼と思われるかも知れませんが、すぐにお出でになられて下さい。此処は空気が好くないでしょう」
「どうして。私の好奇心を蔑ろにする権利が、貴方にあるの?」
妖夢のただ事ならぬ様子を見て、幽々子も心持ち厳しい声音でそう問うた。けれども一向窺い知れぬ妖夢の表情は光に隠されたまま何をも語らない。彼女は無言の内に先の言葉を繰り返しながら、幽々子の為に道を開けたばかりである。それ以上幽々子の意思を聞こうという気色も無ければ、主君相手に躊躇する素振りさえ見えない。徒に輝く銀色の髪が、幽々子を刺すように射抜く。薄暗い蔵の中には長い影が天井にまで伸びていた。
「そうとは元より思っていません。――思っていませんが……」
「貴方とした事が一体どうしたのかしら。私の行動がそこまで諫められるものだとは思えないのだけれど」
「今はただ、この場からお引き取り下さい。そうして二度とこの場所に立ち寄らぬようにして下さい。私とて理由は存じ上げておりませぬ。けれどもお爺様は仰いました。決して幽々子様をこの場所に近付けてくれるなと」
幽々子は大きく目を見開いた。尋常でない妖夢の気迫に押されたのは無論の事、彼女の意志ばかりでなく妖忌がこの件に絡んでいる事が何より驚きを幽々子へと与えたのである。今は何処に居るかも知れぬ初老の男の顔が蘇っては、蔵の暗闇の中へその残影が過ぎる。幽々子の頭にはあらゆる疑問が渦巻いていた。何故自分を此処へ近付けるなと命じたのか、何故そうまでして自分を退けさせようとしているのか、彼女には思い当たる節が全く無い。が、それでも妖夢の意思は決して揺らぐ事なく、強き視線は何時の間にか一直線に幽々子を貫いていた。
「どうかご理解のほど、頂けますよう」
妖夢が深々と頭を下げる。先刻の強い姿勢は影も見えない。彼女は摯実な態度を以て幽々子に頼み込んでいるのである。ともすれば懇願にも酷似している。剣の稽古を断った時にも妖夢はそんな顔をしなかった。また如何に西行寺の主だという自覚がない素振りを見せても呆れるばかりであった。時折何も知らせる事なく、何処かを彷徨する事があっても、心配するばかりで現在のような表情を浮かべる事は無かった。それだから幽々子は引き下がるより他にない。これほどまでに誠意を込めた行動をして見せた妖夢に対して、それを嘲笑うかのような対応をする事など出来るはずもなかった。
「そうまでして云うのなら、仕方がないわね」
「有難う御座います。お花見の準備は私が行いますから、幽々子様はごゆるりとお寛ぎになられて下さい」
「そうするわ。要らない心配を掛けさせて、ごめんなさいね」
「いえ、元はと云えば私の不祥事、幽々子様が謝られる事ではありません」
そうして幽々子は手に取った書を棚の中に戻すと、何処か物寂しい笑顔を華の如く咲かせて、妖夢の横を通り過ぎて行った。げに全き辛辣の笑みである。妖夢はそれを見て甚だ自分は未熟な身だと痛感した。我が主の影に忍び込んだ寂寥の影は、時折その姿を見せては妖夢の胸中を締め付ける。何といった言葉を掛ける事も出来ず、幽々子が自身の内に抱えた悩み事を知る術もなく、また知ろうとする勇気でさえ出し得なかった。まるで罅だらけの硝子細工に手を当てるようで、一瞬の内に瓦解してしまいそうな脆さがあるようで、妖夢にはそれが恐ろしくて堪らなかったのである。
蔵を去った姫君の背中は何も語らない。歩き行く彼女は、世の果てにある懸崖に独り佇みながら、達観した面持ちでいる様と酷似している。何処までも続く深淵の闇の奥深くに、自らが取り込まれるのを潔しとした風である。妖夢はそんな主の姿を見る度に、自分の無力を恥じた。幾ら剣の鍛錬を積んでも、到底あの方の持つ闇を祓う力は持てまいと、涙に咽ぶ思いであった。けれども幽々子は平生の通り過ごしている。掴み所のない柔らかな笑顔を浮かべながら、茶菓子を求めるのである。ともすれば悲歌を口ずさみ慷慨する哀れな者の如く。……
四.
常闇の世界に一人立つのは、桜の花弁を砕き織り込めた髪色に、憂いを秘めたる瞳を徒に輝かせ、細く長い五指を中空に絡めたる、霞の如き雲の肌を持つ女である。醸す雰囲気に滲むは悲哀の影、瞳裏に見ゆるは千里の彼方を見透かさんと漲る暗黒の光、自らの全を美に自らの個を悲しみに表す女である。千の軍勢が放つ弓矢の雨に、その小さき身体を差し出して、身を貫く事を許した現世を逸した女である。彼女は笑みを絶やす事なく、小さき糸のような矢が、万本の束となりて塊と変じても決して動ずる事がない。その身は不生、紅き心の蔵は鼓動を打たず、装飾の一つとして彼女の内に在る。
知らぬ闇の内へと無防備な足を突き入れれば、底なしの沼に取って喰われよう。彼女はそれを是とする女である。自らの身体に及ばんとする危険を恐れぬ魔性の感性を有している。その望みは幽光透いて見えざりし儚き夢の終焉となりて、やがて彼女を飲み込まんとする沼には足が着く。無限の深度は矛盾して彼女の存在を否定しては身体だけを奪って行く。即ち着いてはならぬ足が底なしの沼の底に着く。そうして彼女はその存在を否定する。冠せらるるその名称を、恐れ慄かれる特性を、自己の存在のみで否定する。それは生の否定である。死の否定である。
彼女の求むるものは影も無く、今や悲しみの形さえ霞んでいる。ただ刳り抜かれたかのようにぽっかりと空いた胸の穴には空虚な風が何時も吹く。時に流星の如き弾丸が通り抜け、時にその穴を拠点に身体中が罅割れて行く心持ちがする。高き空に懸かりたる月の蒼き光が漠然と闇の中へ紛れ込み、夜半の世界に女は尚も変わらぬ姿で佇んでいる。古の日にそうしていたかのように、そこが自分の居場所なのだと云うかの如き気色である。
――西行の名を与えられし巨大なる桜の下、眼前に聳えたるは恐ろしき妖怪の桜である。けれども桜という確たる信は到底得られぬ。枯れた枝の逞しきはその太さ故に思わるる。花を、ましてや蕾すら咲かせぬ木を桜と認めるには、その梢一杯に褪紅色の花を咲かせねばならぬ。ふと女の端正に整った顔に暗き影が差す。俯きたる彼女が望むは昔日の絵画、途切れし回廊の対岸に在りし自らの姿、決して届かぬ先にある幻燈の光。――西行寺幽々子は現今に死に続けている。
「どうしたのかしら、そんなに呆けて」
白玉楼が主催する花見を間近に控えたある時、友人の紫が幽々子を訪ねて来た。用事の取り付けなしに彼女が訪れるのは今に始まった事ではなかったし、幽々子もそういう事を求める几帳面な性質でもなかったから、紫の来訪する折には暇を共に過ごす相手が来たと、喜びながら歓迎する。が、紫を隣に、湯呑を片手に持ちながら、何処にと定まらぬ瞳を彷徨わせている彼女は、誰から見ても様子がおかしかった。普段の幽々子という人格は、げに雅なる景観を肴にして会話を楽しむ者である。特に紫が来た日には茶を嗜みながらお喋りを楽しむのが通例であった。
「少し、考え事をしているの」
「へえ、何だか珍しいわね。それは私に話せる事なのかしら」
幽々子は何処となく深刻な面持ちで押し黙った。紫はそれに怒る兆しも見せなければ胡散臭い笑みを浮かべるでもなく、緩やかな弧を唇に描き、脈無きようにさえ思われる静かな両の手を膝の上に重ねて置いて、ただ幽々子の横顔を見詰めるばかりである。二人に会話は無いが、その影響で心安からぬ窮屈な思いをする事もなかった。
「敢えて云おうとすれば、とても可笑しな事を云わないと何も始まらないわ」
「あら、とても面白そうじゃない。妙であればあるほど、物事は面白くなるものよ」
「そう気楽な話でもないのだけれど。少なくとも私が思うには」
「それなら尚更面白いわ。そこまで暗い表情を浮かべる事なんて、余り無かった気がするもの」
紫は幽々子をからかう調子で扇子で口元を隠すと、不敵な笑みを漏らした。平生の調子であったのならば、幽々子も一緒になって笑う所ではあったが、今日はそんな気にもなれぬと見えて、未だ面持ちを深刻なものとしたまま変わる気色は何時までも窺えなかった。美しきは桜連なる百花繚乱の趣か、或いはそれを背景に置いて座る二人の女か。憂い秘めたる女の表情と、不敵な笑みを浮かべたる女の隣り合う美しい光景は、天地奔走してでも他には容易に見付からぬ。
「何だかからかわれているみたい」
「からかわれるのは苦手?」
「それが好きな人は余程の物好きね」
「私と友人になるなんて、それこそ物好きだと思うけど」
そう云う紫の口調に自嘲の響は寸毫も見当たらない。幽々子もそれを判っているようで、その言葉に苦笑したばかりである。すると湯呑に注がれた茶を一口喉へと流して、慎ましやかに動く咽喉が引っ込んだ後、幽々子がふと何かに気が付いた気味でぼんやりと景色を眺めていた瞳が一寸異なる輝きを湛えた。
「紫とは何時頃知り合ったのかしら」
桜の下に佇む少女の咽ぶ姿が不意に頭の中に浮かぶ。あの夢の光景だ、と気が付いた時に、幽々子は今まで解けなかった問題の正解へ限りなく近付いた心持ちがした。脈打たぬはずの心の蔵がざわついている。
「……さて、疾うに昔の事だから、記憶がどうも判然としないわね」
紫はそう云って傍らに置いてあった自身の湯呑を手に取ると、澄まし顔で茶を飲んだ。幽々子は変わらず桜を眺めている。乱れ飛ぶ桜の花弁が、近付いたはずの答えすら覆い隠してしまったように思われた。が、記憶は確かにある。桜の下に佇んでいた彼女に声を掛けて来たのが紫で、何だか不思議な雰囲気を持つ彼女に惹かれたのが幽々子である。それは余りにも明確で、信じるより他にない自らの記憶の雫であった。それだから、それ以上詰問の余地など認める事が出来ぬまま、釈然としない心地で幽々子は黙していた。
ぱちんと扇子が閉じる音がする。聞き慣れた音、昔から紫は嘘を吐く時に扇子をぱちんと閉じる癖がある。尤もそう思わせる為の行為なのだか、幽々子の推測に従った行為なのだか、紫の性格を見るに正しい所は判らない。けれども紫がそうする時に、幽々子は何時もその言葉の何処かに偽りの響きを認める。それが猜疑をもたらして、好いた友人を疑ってしまうようになるくらいなら、この音が風と共に去って行ってくれはしまいかと、幽々子は心中に呟いた。
「もうすぐお花見の時期ね。貴方も勿論参加するでしょう?」
「気紛れな私の事だから、面倒な気が起こって床に就くとも限らないわ」
――ぱちんと音がする。幽々子はきっと紫は花見へ来るだろうと思った。
五.
暑いとも寒いとも思われぬ丁度好い陽射しが晴天の頂点から降り注ぐ頃、白玉楼の庭は類稀なる賑わいを見せていた。桜散る鮮やかな光景を肴にして、人妖の隔てなく多くの者が一度に介し、僅かな時日を咲き誇ってはすぐに散ってしまう刹那の時を楽しむべく催された花見にて騒がぬのは意味がない。酒に肴に色々集め、大勢の者達がそれぞれで騒ぎ散らす事こそ花見の醍醐味だと云わんばかりに、あちらで騒ぎこちらで騒ぎ、喧騒は何処までも届きそうなほどに大きく響く。
幽々子はそんな中、幾本も連なる桜の木の内、ある一つの下にて座りながら酒を飲んでいた。妖夢が蔵より持ち出した古酒は今までに味わった事のない独特な味がする。何より深みがある。そうして飲んでいるとすぐにふわふわとして、気持ち好くなってはどうでも好い事に対してでも笑いを誘われるようになる。酒に肴と全てを提供する大判振る舞いを、自身も楽しむべく彼女は話の合間に料理を摘まんだり、絶えず酒が注がれる盃を手にしながら、頬を赤く染めていた。
魔女に吸血鬼、メイドに巫女、果ては化け猫化け狐、兎も姫も、古今東西に存在する妖怪を全て集めたかのような顔触れは、皆等しく頬を赤くしていた。或る者は熟れた林檎の如くまで赤らめている。すぐにでも倒れてしまいそうなのに、彼女らの酒の強さと云えば酒豪を名乗る者達を真青にしてしまうに違いない。既に空けられた酒瓶の数たるや、物凄いものである。陶然とした面持ちで辺りをふらふらと歩いている妖精は、時折地面に転がる酒瓶に足を取られて転んでいたりした。
そんな騒がしい渦中、幽々子に向かって歩いて来る者がある。紅白の巫女装束に身を包むは幻想郷の人間だけでなく、妖怪にまでその名を知らしめた博麗神社の主、博麗霊夢であった。彼女は酒に少しも酔って居ない風で、周りに居る者と比べると頗る顔色が好い。そうして幽々子の隣に腰掛けると、盃を片手に微笑した。
「あんたが花見を主催するなんて、珍しい事もあるじゃない」
「これだけの桜が咲いているのよ。一人占めしたら勿体ないと思って」
「まあ此処の景色に適う所なんて、そうそう無いでしょうね」
云いながら霊夢は桜を見上げた。蒼穹が広がる前に、木々の梢が重なり合い犇めき合い桜色の天井を形作っている。そこから落ちる影の涼しきは、春の香に溢れた居心地の好い涼である。二人は何処か宴会に似合わぬ落ち着いた風情で座り合っていた。近くから聞こえているはずの騒ぎ声も、遠く聞こえる心持ちがする。春を喜ぶ鳥達の賛歌は明らかに聞こえて来る。料理を一寸口へ運ぶと、部屋の中で食す物よりも数段美味い。花見という場に漂う雰囲気がもたらす影響は、斯くも明瞭である。ふと霊夢は視線を盃の上へと落とす。
「五月蠅過ぎるのも考えものだけど、こんなに桜が見事だとその方が楽しく思えるから不思議よね」
「往々にしてそういうものよ。私達は雰囲気に流されたり、乗ってみたり、そういう事が出来る生き物だもの」
「あんたが云うと、何だか不思議ね。そういう事は紫が話しそうだから」
「あら、私はそんなに不思議な存在なのかしら」
冗談として笑うには霊夢の声音は存外落ち着いている。つい幽々子もそれに合わせるように真面目に云った。
「不思議と云えば不思議だわ。幽霊なのに自分の姿を保っているなんて、他に聞いた事が無いし」
「余り気にした事はないけれど、云われてみれば他の幽霊は皆一様の姿をしているわね」
「それだけ力を持っているという事じゃないの。だからこそ此処の管理を任されたのだろうし」
「私からすると、任されたというより、何時の間にかそうなっていた、の方が正しいわ」
「あはは、何だかそれって可笑しいわね。結構重要な事じゃない」
その時、幽々子は一種の既視感に囚われた。先日紫と茶を共にした時も、同じような心境に陥った心持ちがする。重要な事を重要な事として捉えておらず、そこに浮き出る違和感が、どうにも払拭し切れぬ感じである。幽々子は冥界の管理を閻魔より任された当時の事は記憶しているけれども、何故そういう風に至ったのだかは露知らぬ所で、言葉に云い表せば、本当に何時の間にかなっていたというのが最も適切な表現であった。記憶の空洞を撫でられているかのような奇妙な心地である。不用意に自らの領域へ踏み込まれ、好き放題に物色される不愉快な心地である。幽々子はそれを振り払うように、盃に注がれた酒を一気に飲み干した。次ぐ酒は直ちに霊夢が注ぐ。
「不安で不安で仕方なくなって、その不安の理由をどうしようもなく解明したくなる。そんな気になった事はない?」
一時は軽くなった盃の、再び重くなった頃、幽々子は唐突にそんな問いを霊夢へ投げ掛けた。既にして要領を得ていない質問に、当人ですら戸惑った。もしや酒が入った所為かも知れないが、近頃の自分が悩まされ続けていた淵源はそこにあるような気がしてならない。幽々子の問いは、或いは彼女の願望の具現であったのかも知れなかった。
「どうしたのよ、いきなり」
霊夢はやはり唐突な問いに応え得る言葉を持たぬようで、いよいよ紅潮して来た頬に、白い手を当てて熱い息を吐く。気付けば彼女の盃の中にはもう何度も新たなる酒が注がれていた。その上その酒というのが、度数の高い蔵に仕舞い込まれていた古酒なので、案外にも酔いが回るのは早かったようである。酒色に溺れるは淫蕩なる生活への兆候である。そろそろ頭の働かぬほどに酔いが回って来たと見えて、霊夢は微睡んでいるようにも見受けられる酔眼を細めながら、楽しそうに笑った。それなり幽々子は「変な事を聞いてしまったわね」と云って、二度同じ話題を出す事も無かった。
眩い光が桜の天井より一筋差す。幽々子の白き肌は殊更白く、髪色はこの森の中に紛れ込んでしまうようにさえ思われた。霊夢は気楽に酒を飲んでいる。艶やかな漆黒の髪色は、他の何物とも交わらぬように見えた。ふと宴会の全体を見渡してみる。各々が色々な事をしている雑多な風景である。その中に、この美しき森と同化してしまいそうな彩りは、一つもありはしなかった。幽々子はどうしようもなく己の存在が希薄なように思われる。溶けて消えてしまいそうな、そんな剣呑さがあるように思われる。そうしてどう考えようとも、その不安の正体に近付く事は無かった。
「おいおいそこのお二方、こんな所でちびちびと飲んでいるんじゃ宴会は楽しめないぜ」
満面の笑みを湛えて、黒白の魔法使いが仁王立ちしながらそう云った。彼女は先刻無謀な酒の飲み方などをして周りから心配されつ期待されつしていたが、どうもそれが原因ですっかり酔ってしまったらしい。白き頬は真赤に染まり、とろんとして濡れている瞳は泥酔者のそれと然したる変わりはなかった。
「あんたは飲み過ぎなのよ。倒れても知らないから」
「こんなのまだまだ序の口――なあ、お前もそう思うだろ」
突如話の種は自分の元にも吹いて来た。幽々子は沢山の人妖が居る中で、自分は独座している心持ちだったから、殊更弱る。結局「ええ、そうね」と凡慮な返事より他に、呈する言葉が見付からなかった。
「ほら、亡霊の姫様もこう仰っている。飲み比べでもやりに行こうぜ」
「勘弁してよ。これから夜まで続くって云うのに、そんな事したら後先考えない馬鹿だわ」
「楽しい時は馬鹿になれって。そんな妥協をしていたんじゃ、宴会を素直に楽しんでいる事にはならない」
「それなら私より幽々子を連れて行きなさい。何だか悄然としている風だから」
霊夢の言葉を受けて、魔理沙が金色の双眸を幽々子に留める。霊夢の言葉を正しいと取る為なのか、注意深く見詰められ、片一方は微笑しながらその瞳を見返した。――幽々子は小さな驚きを感じている。普段と比較して、悄然としていると云われそうなほどの妙な素振りはしていないつもりで、また少しと云えど皆が酔っているのだから、そんな事を云われるなどと夢にも思わなかったのである。まるで碧瑠璃の空に小さな黒点を穿たれたかの如き小さな驚きだけれども、彼女にとって他人に気付かれるほどに自分が懊悩している様が露呈している事が、何だか惨めに思われた。
「霊夢、そんな判り易い嘘を吐いて逃げようとしたって、そうは行かないぜ」
一頻り幽々子の顔を舐め回すように見た後、魔理沙はにやりと笑いながら霊夢に視線を移す。そうして勢いに任せて色々と云って、霊夢を強引に立たせると引き摺るように酒の沢山残っている場所へ連れて行った。幽々子はやはり、と思うと同時に寥廓に佇んでいる心持ちになって、ふうと溜息を吐く。木の幹に体重を預けると、宴会の景色が先刻とはまるで変わって見えた。灰色の靄に包まれた曖昧模糊とした現実感、そこに真にあるのは何処までも荒廃した蕭条たる風景。そんな風に思うと、殊更に自身の中に広がる思考が、蜘蛛の糸の如く自我を絡め取るようで、その時には盃すら地の上に置いていた。
眠りが、睡魔が耳元で囁く甘言が、次第に彼女を誘惑する。眠ってしまえ、眠ってしまえば何も考えずに済む。朦朧とした意識の織り成す夢が、自身を苛めようといずれは忘却されるに違いない。宴会の喧騒が次第に遠く棚引いて行く。目を瞑れば心地好い。やがて幽々子は安らかな眠りへ就いた。自身に用意された逃げ道へと駆け込んだ。
六.
桜の前に少女が立っている。天に伸び行き天を穿つ傲然たる桜である。その前に立ち尽くしながら、何を語るでもなく何をするでもなく、自我を忘我の境に置いてきたかのような少女の顔は豪も見えぬ。幽々子は何時もの夢だと感付いた。冥々たる闇の中の眠りに就いて、安息の時を得ようと思えどもこの夢が邪魔をする。現に目を覚ませば正体不明の不安の憂いに苛まれ、眠りに堕ちれば何を示唆しているのかも知れぬ夢に苛まれ、我が逃げ道を何処にも見出せぬまま、幽々子はただ目が早く覚めて欲しいと願った。起きれば夢の事を忘れる事が出来る。でなければ自分の精神は容易く壊れてしまうに違いない。滅びぬ肉体を持つ者は、そうして永久の苦楽を知るのである。
――景色が次第に薄まり、頬に冷たい風を感じる。幽々子は直に目が覚めると思った。そうしてこの夢の光景から脱出出来ると安堵した。思い出してはならぬ記憶が思い出されるようで、またそれを思い出したいという矛盾した思いがある中、彼女は前者の思いに駆り立てられて、一刻も早く目覚めたいと思った。そうしてそれを叶えんとするかの如く、夢の世界は収縮して、飛散の前兆なのか淡い光が桜の前に佇む少女から溢れ出す。――不意にその少女が後ろを向いた。幽々子は黒き影が全てを覆い隠す不気味な顔を真正面から見詰めなければならなくなった。そうしてその少女の唇が何事かを語らんとして動くのを目にしなければならなくなった。焦らすように恫喝するように、悠然と紡がれたる言の葉が、……。
見開いた目を打つ冷たい風が、酔い潰れて地に臥す者達の死屍累々たる光景を映し出す。吐く息荒く、額に滲む汗がつと頬を流れ、存在意義を持たぬ心臓が、警鐘を打つかの如く激しく鼓動を奏でている。幽々子は視線を左右へ動かして、それが白玉楼の庭の中だと漸く知った。何処からか鼾が聞えて来る。確かに此処は現実の世である。深く溜息を吐き出すと、幽々子は得も知れぬ恐怖に解放された心持ちがして、ぐったりと桜の木に寄り掛かった。
千金を惜しまぬ春の夜空が、静かに瞬いている中で、夜風に揺れる桜の木々がさわさわと音を立てている。幽々子は乱れた呼気を整えて、ふら付く足を何とか立てると、辺りをそぞろ歩こうと桜の森を進み始めた。彼女が寝ている間に大分羽目を外したのか、地面に寝転がりながら寝息を立てる者達は、少しも起きる兆しが無い。満天の星空に浮かんだ月の傾きを見るに、時刻は日を跨ぐ頃であろう。随分と長い間寝てしまったと、幽々子は自分に呆れてしまった。
「妖夢」
従者の名を呼んでみようと応える者はいない。ことごとく森閑として静まり返っている。昼間の喧騒が嘘であるかのように、白玉楼は沈黙の中に佇んでいた。拠り所無き哀れな仔羊が、そうして歩き行く。何かに縋らねば自身が容易く砕け散ってしまうほど弱った仔羊である。彼女は滅びぬ肉体を持ちながら、それに釣り合わぬ脆弱な心を有している。まるで毛を全て抜かれた羊の如く、陰惨たる姿とさえ思われる。寒き風から身を守る為には暖かな血潮の巡る肉だけでは心許ない。
呼んでも訪れぬ従者の事は、大方酔い潰れて寝ている所だろうと当たりを付けて、幽々子は更に歩を進めた。桜の森の満開に花開く下を歩いて行くと、まるで変化のない光景が無限回廊を辿らせている如く思われた。けれども足はその先へ進み行く。自身が繰る糸の束縛を抜け出して、使命を与えられたかのように、決められた道筋を辿らせて行く。
――不意に淡い色に包まれたる風景が、一気に開けた場所に出た。彩りに欠けた寂然たる景色は、枯れた色に覆われている。一時は先刻歩いていた世界ではないのかと疑う程である。が、よく見ればこれほど見慣れた景観はそうはあるまい。幽々子は僅か数分前にそれを見た。夢幻の中に、現世の姿を垣間見た。ただ違っていたのは、桜の木の前に一人立っているのが幼き少女ではなく、男性だという事のみである。彼は幽々子に背を向けたまま、寂しき枝頭を見上げていた。
「今晩は、というのも何だか可笑しいかしら」
好奇心に惹かれるがままに声を掛けると、男は上へ向けていた顔を下げて幽々子を顧みた。銀色の髪の毛が煌々と靡く、けれども妖夢とは似ても似付かぬ怜悧さを秘めた風采である。月光に褪せぬその姿は何処か眩しく見えた。
「おや、もう皆眠っているとばかり思っていたが……」
「私も先刻起きたばかりなの。ええと、貴方は?」
「僕は森近と申します」
「ああ、貴方が前に妖夢が云っていた……」
「妖夢というと、まだまだ半人前の」
「ええ、白玉楼の庭師なの。私は此処の管理を任された、その主」
幽々子はそうして男の隣まで歩み寄った。互いに名を知っている程度の中であったが、妖夢が花見へ誘ったものらしく、あの喧噪の只中に居るとは幽々子は判っていなかったのである。
「すると冥界の姫君とは貴方の事ですね。名は好く聞きます」
「姫君なんて大仰過ぎるわ。私はこの地に住まう亡霊だから」
心持ち沈んだ声音で幽々子はそう云った。二人の前に聳える大木は、風に吹かれて揺れる気色を寸毫も見せない。屈強な枝と幹は決して倒れぬ故に、ある種の不気味さを醸し出している。幽々子はこの桜の木が「妖怪桜」と呼称される所以を知らないが、ひとえにそういう雰囲気から名付けられたのかも知れないと思った。
「――時に此処の桜は、他と比べると一段と美しいですね。前に誘われた事があるが、断って損してしまっていたようだ」
「お褒めに預かり光栄ね。これも才ある庭師のお陰だわ」
「半人前だと思って疑っていなかったんだが、どうやらその認識を改めなければいけないようです」
「あら、別に好いのよ。あの子は実際半人前なのだし、変に甘やかすよりも厳しくした方が余程好いわ」
そう云うと森近は「これは手厳しい」と云って笑った。酒を飲んでいないようでは無かったが、多少は酒気が回っているらしく、冴え冴えしい月明かりは彼の赤い頬を薄ぼんやりと照らし出していた。
「それにしても、貴方は何故こんな所に居るの?」
「たまには桜に操られるのも好いと思ったんです」
「桜に操られるって、貴方面白い事を云うのね。この桜には蕾さえ吹いていないのに」
そうして幽々子は可笑しそうに口元を押さえた。森近もそれを不愉快に思う事はないようで、苦笑いをしながら桜の満開になる季節だと云うのに、陰刻たる姿を晒している木――西行妖をもう一度見遣った。
「そう思われるかも知れませんが、一概に否定出来る事でもない」
「それじゃ、貴方は本当に桜に操られて此処に招かれたのかしら」
「まあそういう事になります。何だか妙な雰囲気のある桜だから、殊更そうかも知れない」
「西行妖って云うのよ。幾度の春が来ても決して花を咲かせない哀れな桜」
何処か遠い目で西行妖を見詰める幽々子は、眸底に燻ぶる過去の灰燼が風に吹かれて宙に舞う様を連想した。そんな彼女を嘲笑うかのように、桜の花弁が一片夜風に乗って去って行く。途端に頭の中に蘇る夢の映像が、彼女を悩乱させようと次々にその映像を流して行く。果たして幾星霜が過ぎ去り、数え切れぬほどの春を迎えた西行妖が、満開になった時が本当に無かっただろうかと、平生の彼女ならば決して考えないような疑念が、頭の隅に引っ掛かった。
「へえ、ますます妙な桜ですね。――貴方も満開になった光景を見た事が無いんですか」
ところへ投げ掛けられた、森近からすれば純然たる思いから口にした疑問の言葉は、幽々子の思考を揺さぶらんとするかの如く、強かに打ち付けられた。記憶にない映像が頭の中に錯落し、この世に恨みを残して死んだ亡者の怨嗟の雄叫びが木霊している心持ちがする。吐き気を催す醜悪な食糞餓鬼が彼女の足に縋り付いているようなおぞましい感覚がする。
幽々子は二三歩後ろへ退いた。頭に直接釘を打たれているかのような激しい頭痛が絶え間なく襲い来る中で、意識が薄れ行くのを明らかに認めた。死という概念を忘れた身体が、その強大なる闇に呑まれようとしているかのようである。彼女の意識を辛うじて繋ぐ神経の繊維が断たれようとする間際、幽々子はそんな事を思い、ならばそれでも構わないと思った。
七.
風に吹かれて乱れる桜の木が、眼前にある。見た事のないほどの大きな梢に煙る花は満開に咲き誇り、息を呑む美しさに我を忘れている。けれども酷く重苦しい心持ちである。儚げに舞う蝶々が、身体の周りを取り囲んで楽しそうにひらひらと踊っていた。青白く淡い光を放つその蝶は、浮世に在らざる死の権化である。人間の魂を喰っては喜び、狂ったように踊り続ける恐ろしきものの権化が、身体の周りを旋回しているから心持ちが優れぬのだ。春の香が明らかに漂う中が不愉快に思われる。一刻も早くこの場を走り去りたい衝動に駆られながらも、足の甲に楔を打ち付けられたが如く脚は動かない。
ふと声を掛けた者がある。振り向くと慇懃たる佇まいをした初老の男で、彼は何処か他人を憐れむような瞳で立っていた。途端近付くなと大声が響き渡った。頼むから近付いてくれるな、でないとこの死神が貴方の命を喰らってしまう、貴方を殺してしまうと、叫び散らしている。が、その声の主は何処にも見当たらない。この慟哭にも似た必死の懇願は何処から聞こえて来ているのかとんと見当が付かぬ。ただ静邃なる桜の下で、荘厳な面持ちを慈顔に変えた男が優しく微笑んでいた。伸ばされる手がふわりと頭の上に乗る。暖かな感触は、頭頂より伝わって来る。――叫び声の主は、自分だという事に彼女は漸く気が付いた。男の顔が朧になって行く間、少女の泣き声が静かに響いていた。
「幽々子様!」
重たい瞼を開くと心配に顔を歪めた妖夢が一番に視界に入った。続いてその隣に座る森近と、紫とが目に入る。身体には暖かな布団が掛けられていて、障子を越えて差す光は微かに滲んでいた。
「何時の間に眠ってしまったのかしら」
ここに寝かされるまでの過程を全く覚えていない幽々子は、若干痛む頭を抑えながら身を起こす。が、その途上で妖夢に阻まれて、仕方なしにまた布団の上に仰向けになった。
「急に倒れて、霖之助さんに連れて来られたらしいわよ」
「何だか西行妖の下で話していたら、突然苦しみ出したから勝手に運ばせて貰いました」
紫に続いて森近が説明する。幽々子はそれで花見の静まった夜、西行妖の下で森近と話していた事を明らかに思い出した。ある問いを掛けられてから、割れるように頭が痛み出し、見覚えのない光景が死への苦しみに感化されて起こった走馬灯の如く流れ出した事も思い出したけれども、その映像がどんなものであったのかはどうしても大海の先を見通そうとするが如く思い出せなかった。しかし幽々子はそれで安堵したような心持ちになる。それが何だか妙に思われて、暫時思考に耽っていた頭を切り替えた。
「きっと疲れてたのね。運んで下さって、有難う」
「いや、それは好いんですが、お身体は大丈夫でしょうか」
「ええ、もう大丈夫。少しだけ頭が痛むけど」
どうやら森近は当事者としての責任を感じたから残っていた気色である。幽々子は申し訳なさそうな顔をして礼を云ったが、然してそれを気に留める様子もなく、森近は穏やかに微笑したばかりである。紫は何故だか神妙な面持ちで座っている。まるで許されざる出来事が起こってしまったかのような深刻な表情で、幽々子には紫がそんな表情を浮かべる理由に皆目見当も付かなかった。
「幽々子様、どうかご安静になさっていて下さい。幽々子様がお倒れになられたと聞かされて、目を覚ますまでの間、私は心配で気が気でありませんでした。ですから今日は、お休みになられて下さい」
そう云う妖夢は幽々子の頭の傍で礼儀正しく座りながら、目に涙を溜めて訴える。死ぬはずのない者に涙を流すなどと、甚だ的外れだとは思ったが、彼女の心情を悟れぬほど馬鹿でも鈍感でもなかったので、幽々子は大人しく頷いた。実際一寸痛むと云った頭は、酷い痛みに苛まれている。記憶を司る部分に細菌が侵入したかのような不快感と、懐かしくさえある記憶の断片が常に頭の中に浮かび出すので、彼女自身気が狂ったのかと不安になっていたのである。
「――きっと、桜の魔力に中てられたのね。それで可笑しくなったのよ」
目を瞑りながら、幽々子はそんな事を呟いた。それに応えるように、森近は「だとしたら、やはり桜は侮れないらしい」と云って笑っている。紫は黙ったままである。その内程好い眠気がやって来る。そうして枯れている木がそれほどの魔力を持っているのなら、満開になった西行妖はさぞ恐ろしい力を放つのだろうと思いながら、幽々子は眠りに就いた。
何時しか瞑った瞼の裏に、桜の花弁が散る様が浮かぶようになった。本当にそこに映っているのだかは判らない。妄想の類が夢に入る際になって僅かに漏れ出すのかも知れぬ。が、幽々子にはそれが何かの前兆のように感じられた。猛然と向かって来る恐ろしい化け物が、この空虚な身体を喰らわんと欲し、冷たき身体に流るる血潮で喉を潤さんと迫って来る様が見えるような心持ちがした。死のない身体を持てども、決して抗えぬ強大な運命の足音を、確かに聞いた気がした。獲物を追う昂った獅子と、虎視眈眈と身構える虎が、同時に我が身を狙っているかの如き不安が過ぎった。
八.
翌日は春という季節を恨んだかのような曇天の空が広がる嫌な天気であった。窓から庭を見遣ると、低い空が木々を圧している不吉な光景が広がっている。広大な庭よりも尚広大な空は、万物の頂点に立ちながら全てを威圧している。こんな天気は殊更自分の存在が世界の一端でしかないという思いに囚われて、自然と気は重くなり、幽々子もそういう類の者であったので、今日ばかりは陽気では居られぬと見えて、布団に座ったまま物憂い気な表情を浮かべていた。
妖夢が安静にと執拗に云うものだから、その行為を無下にする気にもならず、起床してからというもの一つ所に留まっていた幽々子だが、そろそろ退屈に我慢しかねたらしく、布団を取り払って立ってしまった。妖夢が此処へ様子を見に来る前に戻れば問題はあるまい、何もするべき事を見付けられぬまま、優れぬ気分で寝た振りを続けていても仕様がない。それなら多少の逍遥も許される事であろう。――幽々子はそんな事を思いながら寝室を後にした。
屋敷の中は蕭条としていて物音の一つも聞こえて来ない。主が倒れたとて、歴然とした変化がある訳でもなく、二人しかいない住人が劇的な変貌の切欠を与えるべくもなかった。世は何が起ころうとも何事も無かったかのように進み行く。その大きな流れに翻弄されているのが、即ち生ある者で、彼らは様々な障害物を時に避けて、時に破壊し、必死に生きようと抵抗を試みる。けれども流れの最果てにあるのは、眺望する景色が霞むほどの高さに位置した絶壁で、そこから逃れる術など有りはしない。生物の最後とは想像も付かぬ高さから、滝壺に落とされる事なのである。
だからこそ、その大きな流れを達観した面持ちで眺めるどころか、他者を直接滝壺へ叩き落とす事の出来る彼女は異端の権化とされる。その手に携えられる死神の鎌は恐怖の象徴とされるのである。
「具合は好いんですか」
ところへ聞き覚えのある声が鼓膜を震わせる。自身の思考ばかりに目を遣っていた幽々子はその者の接近に気が付く事が無かった。それ故に、彼がまだこの屋敷の中に居る事は、殊更不思議に思われる。彼女の前には注視せねば判らぬほどに微かな心配の光を瞳に宿した、森近の姿があったのである。
「そうなのだけど、妖夢が心配して止まないから」
「それも無理からぬ事でしょう。慕う主が突然倒れたとなれば、従者は驚くのが必然です」
「そうかしら。私は決して死ぬ事がないのに、それって何だか的外れだわ」
「物事の表層ばかりが人を左右する訳じゃない。時には要らぬ心配だってする事はありますから」
「じゃあ、私がこうして寝室を抜け出して出歩いている事は、妖夢には内密にしておいてくれるかしら?」
ふと微笑を漏らしながら、幽々子は言葉を弄する如くそんな事を云った。森近は「お世話になっている屋敷の主がそう云うのなら」と云って頷いた。事情を聞くと先日紫が早々に帰ってしまい、冥界から地上に帰る術を失くしたので、妖夢に勧められるがまま、仕方なしにこの屋敷に泊まらせて貰ったのだと云う。そんな彼の言葉を裏付けるように、森近の服装は前に見た物とは違った飾り気の少ない和服であった。
「まあ何にしろ無理をするのは好くない。少ししたら大人しく戻った方が好いと思いますが」
「ええ、そうするわ。ご忠告をどうも有難う。先日の事も含めて、お礼を云うわ」
「不測の事態でしたから、お気になさらず」
二人はそんな事を云い合うと、お互いに黙ってしまった。元来仲の好い間柄でも無ければ、あの事件が起こって親密になった訳でもないので、気の利いた話など用意出来るはずもない。静まり返った廊下の只中には、冷たい風が吹いて行く。春が訪れて暫く経つというのに、まるで真冬の寒気である。森近は少しだけ身を震わせた。
「今日は冷え込んでいますね。貴方も早くお休みになられた方が好い」
外を吹き荒れる強い風が、がたがたと窓を揺らす音がする。幽々子は森近の言葉に従って寝室に戻ろうとした。森近は彼女を送る為に同じ方向を歩き出した。すると縁側へと出る。白玉楼の庭を見渡す事の出来る、幽々子が昼寝に興じる際に好く使う場所である。が、地獄の底を這いずる禍々しい雲が、空々漠々たる空を包み込み、今にも細き糸へ転じそうな気色を漂わせている。それを予期しているかのように桜の木々が風に揺られて泣いている。風に攫われて飛び去って行く花びらは、桜の涙に違いない。刹那の時を尊ぶ儚き命の欠片である。幽々子は知らず瞳を細めた。
「――もう、春も終わるのね」
二人は縁側の途中で立ち止まった。ぎしりと板が軋む。褪せた桜色の風景に、ぽつりぽつりと透明な雫が混じり始める。地面に黒点を穿ち、大軍を打ち倒さんと降り掛かる矢の如く、桜を散らせて行く。これが一つの終焉として数えられて然るべきものならば、何と残酷な事であろう。斯くも哀婉なるものが死に行く様は、滑稽で不様である。抗う術など持ち得ぬままに、降り掛かる雨に美を奪われて、頭髪の抜けたる美女の如く、衰えて行く。――やがて豪と唸りを上げて勢いを増した雨は、薄闇の世界を殊更寂しく塗り潰した。ざあと忙しなく激しい音が、二百由里の庭から集まって来る。
「誰しもが、この光景に詠嘆せずにはいられますまい。桜に操られるのも、今日が最後だ」
たちまち地面に出来る水溜りに、花筏が一つ揺れている。それを見詰める一組の男女は、等しく眸中に哀憐の光を湛えながら、眉根を下げていた。虚しく響く雨音が、耳に張り付いて離れない。幽々子は春が過ぎ行く様を目の当たりにして、前に感じた事のある、安堵とも恐怖とも付かぬ曖昧な感情が胸の中に燻ぶっている心持ちがした。そこに確たる境を設けようとしても、眼前にある漠たる光景に助け船など浮かぼうはずも無い。雨音ばかりが、高く高く響き渡る。
九.
空気を入れられ膨張して行く風船は、やがて破裂する。束縛に耐え兼ねて、行き場を失くした空気は、自らを縛り付けた壁を打ち破り爆発する。そうなった時、空気の容器であった風船は、無残な姿を晒す事になる。千切れ、飛び散り、やがて元の姿に戻る事なく朽ち果てる。――幽々子の中に蟠る思いは日に日にそういう勢いで膨らんでいた。正しくは以前から持っていた疑問が、堰を切ったかのように溢れ出し、自らの意思で止められぬほど熾烈な勢いを伴うようになったのである。例えそれが如何なる痛痒をもたらそうと、知りたいという強い欲求は決して衰微する事が無かった。
縁側から眺める気色は、昨日とはまるで違っていた。花を散らし、虚空に伸びる寂しき枝は、太陽の下に立っている。雲影の一つも見えぬほどの晴天に見舞われた嵐の翌日、華やかな春を惜しむかのように何匹かの蝶が舞っていた。それが殊更幻想的な趣を凝らすので、幽々子はその庭の風景を見るのが段々嫌になる。美しきものが次第に凋落して行く様を見るのは忍びない。誰であれそこに自らの行く果てを見出さずにはいられないのだから。
「おはよう御座います」
そこに遣って来た男は、挨拶をすると共に幽々子の隣へ腰掛けた。銀に輝く髪の毛が、陽光を受けて煌めいている。心の深きに隠し持つ野心を彷彿とさせる光である。妖夢のそれとは比べるべくもない。
「おはよう。昨夜は好く眠れたかしら」
「夜風は煩わしく思われましたが、まあ眠りを妨げるほどではありません」
「そう。お客様に大したお持て成しも出来なくて、ごめんなさい。今日お帰りに?」
「はい、貴方の従者のお世話になります。何でも漸く片付けが済んだとか」
「大変な散らかりようだったものね。私も手伝おうと思っていたのだけど……」
「体調が芳しくないのなら致し方ない。貴方に安静にして貰っている方が余程の労いになるでしょう」
「好く知っているのね。一日二日の付き合いじゃないようだわ」
「単純な気質ですから、読み易いだけです」
違いない、と思って幽々子は笑った。腰の帯に挟んだ扇子を取り出して、口元を隠す。視線の流れた先に男の顔があった。満開だった桜が見る影もなく散ってしまった様を見て、憂慮の笑みを浮かべている。
「……貴方は何処か妖夢に似ているわ。気質云々ではなく、存在が」
頭の中にあった思慮が、唐突に外界に漏れ出して、幽々子は一寸驚いた。口ばかりが先走って行動を慎まなかった気味で、相手にとって不愉快であるかどうかの問題も感じる暇がない。けれども男の表情は変わらない。幽冷なる眼差しを少し幽々子へ向けたばかりである。ある種無感情とも思われるその瞳から様々な感情が溢れ出しているように思われた。男のそれは幽々子と似て非なるものでありながら、何処までも近しい感じを幽々子に与えている。闇を彷徨う行燈の光が、彼女を誘うように左右へ振れている心持ちである。幾ら歩けども離れて行くばかりで要領を得ない。
「素晴らしい慧眼をお持ちのようですね。全く以てその通りです」
森近には幽々子を皮肉る様子は見えない。純粋に感服したものと見えて、自然に笑っている。そうして「しかし」と呟いて、怜悧な光が宿る瞳を幽々子に向ける。陽光が眼鏡を光らせて、表情を幾らか隠した。
「何も僕達の限りであるという訳じゃない」
的を射た矢が震える様が、咄嗟に脳裏を過ぎる。確信を突いた言葉は正に流矢の如く幽々子を貫いた。彼女の云った似ているの意味は曖昧の意である。濛々たる煙が空高くへ上がり、やがて雲に入り混じる不明瞭な存在の事である。何時からか彼女の洞察力は常人の域を逸脱していた。他者の感性をことごとく上回る超感覚知覚が備わったかのように、他者より滲み出す尋常でない雰囲気を解す事が容易になった。けれども敢えてそういう事を指摘する事は今までに余り無かった事である。だからこそ平々凡々たる者だと見縊っていた者から射返されたそれは、不測の驚嘆を幽々子に与えた。
「そうね、そうに違いないわ」
「何だか――在り難く思われるんでしょう」
「貴方もそう思っているの?」
「はい。本当に拠るべき場所が、此処ではないような心持ちになります」
「私も同じだわ。ただ違うのは、その理由が判らないという事だけね」
二人の見詰める先が一つ所に留まるという事はない。二人は漠然として景色を眺めている。色彩の少なくなった木々を眺めている。青空に、星月夜に好く映えた白は一時の風に吹かれて去った。後に残るのはその礎ばかりである。無骨な色をして、生命の瑞々しさに欠けた柱である。――全てが朦朧として見える、眠って見える、皆世の移ろいに身を任せているが如く見える。万物の終端に広がる大海の彩りが太陽の光を受けて燦然と輝いている様である。
「それが苦痛だというのなら、探すが吉やも知れません。甚だ無責任な言葉で申し訳ありませんが」
「いいえ、今まで通りに懊悩煩悶に血肉を啜られるくらいなら、とても頼りになる激励だわ」
「そうですか。けれどもお気を付けて。人の歴史は軽いものじゃない」
「――この冷たい肝に、命じておくわ」
では、と云って森近は立った。廊下を駆けて来る音が俄かに響く。やがて慌てた様子の妖夢が姿を現した。彼女は二人が一緒に居る所を見ると、妙な顔をして首を傾げたが、そう気にならないのか別段指摘を加えるような事もしなかった。そうしてもう発ちますかと森近に尋ね、肯定の意を聞くと、暫くしてから小さな声で「もしかして、お邪魔でしたか」と云う。それが怯ず怯ずとしていて戸惑っている風だったから、森近と幽々子はつい吹き出してしまった。
「僕らも彼女を見習った方が好いのかも知れませんね」
「全くその通りだわ。その方が幾ら気楽だか判らない」
「何のお話ですか。何だか馬鹿にされている気がしますけど」
「きっと気の所為よ、褒めているんだから」
「ああ、全く。僕は少し君が羨ましいよ」
困惑した妖夢の事を置いて、二人は笑い合った。この時ばかりは何もかもを忘れて笑った心持ちがする。楽しいとはこの事で、しかし幸福とは楽しい場所にあるものではない。幽々子はそれを痛感した。幸福は高く聳える壁の先にある。大理石のように滑らかな壁を登った先にある。容易に手に入れられる事ではない。けれども手に入れる必要もまた、在りはしない。全ては自己の為に、曖昧な自己を定める為にある。
――幽々子は苦心の末に己が境地と認める場所へ逢着する事が出来たら、この胸を断割った所にある蟠りを昔日の盃に盛って、きっと妖夢に注いでやろうと思った。
十.
姿見を部屋の中央に置き、その前に幽々子は一人立っていた。閉じられた障子からは、微茫たる光が差すばかりで、室内は心持ち薄暗い。浮世を映した世界に立つ自身の姿も判然としなかった。幽々子は昔同じ事をした記憶を確かに持っている。今より尚暗い部屋の中、玲瓏たる月光を頼りに、現世を映した世界を見た記憶がある。あの日を境にこの地を去った男は未だ帰って来る気色を見せぬまま、既に経った時は幾星霜、思い出す事でさえ難儀な事である。
私は、と呟く。あの時、と言葉が続く。どうして、と声が途切れる。幽々子は柳眉を下げると切なげな笑みを浮かべた。自問の答えに返って来るのは所詮自身の声である。「判らない」と何度繰り返しても意味があるべくもない。幽々子は凛と鏡を見ていた眼差しを前に向け、障子を開け放った。眩い光が一度に刺さり、視界が白む。そうして帯に挟んでいた扇子を取り、眼前に翳して立った。颯然と風が吹く。桜色の髪の毛が乱れる様は、強風に煽られて梢を揺らす桜の木のようである。故に彼女の佇まいは殊更雅であるのだろう。――例え背景に淡い色の花が舞っていなくとも。
「何処かへ行かれるのですか」
幽々子が部屋から廊下に出ようと鴨居の上に立った時、丁度妖夢がその前を通り掛かった。何時になく真剣な表情をしている幽々子を見て、只ならぬ雰囲気を感じたのか、心持ち彼女の顔は険しくなっている。けれども疑問を隠し通す事は出来ぬと見えて、その険しい顔の中にもやはり不思議の感は露呈されていた。
「少し散歩をして来るだけよ。ただ暇を潰す為に」
「はあ、そうでしたか。何だか戦地に赴く時のような顔をされていましたから」
「あら、真剣な顔は私には似合わないのかしら」
「そういう事ではありませんが……」
すると妖夢は歯切れ悪そうにしながら神妙な面持ちで俯いた。何か云いたい事があるけれども、それを云おうか云うまいか迷っている風で、頻りに指を弄っている。深刻ではなく、寧ろ羞恥心が言葉を紡ごうとしている唇を阻害しているようで、中々云い出せないようである。幽々子は何時までもそこに低回して動かない妖夢を見兼ねて、彼女の言の先を促した。それでも妖夢は云い難そうにしていたが、やがて大きく息を吸い込むと、小さな声で話し始めた。
「時々、幽々子様が遠くに行ってしまわれるような気がしてなりません。今もそうです。私の知らない所へ行って、二度と此処へは帰って来ないのではないか――などと思ってしまいます。馬鹿げているという事は重々承知しているのですが、幽々子様が淋しそうに微笑まれる度に、そのまま消えてしまうのではないかと不安になってしまうんです」
云い終わった後、妖夢は頬を赤く染め上げて「可笑しな事を云ってしまってすみません」と謝った。幽々子は目を丸くしている。まるで予想外の事態に遭遇したかのように半ば口を開いている。目の前で不安げに彼女を見上げる妖夢は、不安げな眼差しを一心に向けていた。それでなくとも妖夢が冗談を云えるような性質でない事は幽々子が一番よく知っている。妖夢が話した事の全ては、ことごとく真摯な思いで紡がれたのである。
「……可愛い子ね。貴方はしかと私の事を見てくれている」
銀色の髪の上に手を置いて、幽々子は優しく微笑んだ。その笑みが淋しいものなのかどうかは、彼女に知る由はない。が、妖夢は安堵したように頬を緩ませている。一度頭を撫でられる度、気持ち良さそうにしている。
「私は幽々子様にのみ仕える庭師ですから」
妖夢は誇らしげにそう云った。それが自らの存在意義なのだと云うように、欣然たる態度である。幽々子にはそれだけで充分であった。臆した心が勇気付けられた心持ちがした。
古くなって老朽化の目立つ扉を開くと、ぎいと軋む音が木霊した。内に籠った空気が外界へ流れ出すと、陰刻なる匂いが漏れ出して来る。幽々子は袂で口元を覆うと、薄暗い蔵の中を歩き出した。幽々子は自身が抱える悩みを解決する一番の証拠が此処にあると、半ば確信染みた考えを持っていた。尋常でない妖夢の剣幕と、それの縁由たる妖忌の命が、それをより確固たるものへとしたのである。それだから幽々子はこの古臭い蔵へと赴いた。雑多に物が並ぶ、古の匂いを感じさせたる蔵の中は、何処か過去の風景を彷彿とさせる。期待か、不安か、彼女は判然としない感じを持っている。
蔵の奥にある書棚は、前と同じにそこにある。幾数十と並ぶ古い紙の束は埃を被って白く染まり、手に取ると不思議な重みがあった。その中でも一際異様な雰囲気を放つ書は、変わらぬ姿で書と書の狭間に置いてある。しかと刻まれた手形が、前に手にした事のある物だと確信を与え、幽々子は震える指先でそれを引っ張り出すと、おもむろに書の項を捲った。「我が煩悶を刻み込んだこの書が、誰の目に触れる事なく永久の時を歩む事を願い、此処に封印する。」という文で始まるそれは、やはり古めかしい形の、けれども達筆な文字にて書かれ、幽々子の情操を刺激した。
これより彼女は書の世界へと心身を投ずる。自らの知らぬ境地へと足を踏み入れる。背表紙に記されたる名前は、彼女の行動を阻む事はなく、寧ろ強き思いを鼓舞するように、手に項を捲る力を与えたが如く見えた。――
十一.
「――我が煩悶を刻み込んだこの書が、誰の目に触れる事なく永久の時を歩む事を願い、此処に封印する。
我が生涯は三つの世界に分かたれる。一の世界は血の滲む過酷な鍛錬の世界である。これは未だ未熟なる我が身を誰よりも強くしようと尽力した、野心に溢れ固き信念を持っていた若かりし頃の世界で、孤独こそ強きに至る正道だと思い込んでいた愚かしい世界でもある。二の世界は頑なな私の心が解されたる穏やかな世界である。真の強きに至り、己を磨く真の意を知り、孤独こそ人を弱くする邪悪なものであると教えられたのもこの世界である。けれどもこれら二つの世界は所詮我が半生を判り易く二分化したものでしかなく、そこに在る昔日の我が姿を記すには身から溢れ出す愧赧の念が些か強大過ぎる故、敢えて記す事はすまい。元より人に見せるような代物ではない為、この二つの世界は割愛する。
――これより語るは第三の世界である。我が生涯の内で、最も己の無力と無知を恥じたのがこの世界で、当時の私には、そして恐らくは現在の私にですら、その時どうする事が最善の策であったのかは判るまい。ただ私は己への戒めとしてこの文書を認める。罪悪の確認、贖罪と称した逃避の具現、何とでも云い様はある。前者でも後者でも意味は問題なく通るであろう。だからこそこの書には意義がある。文字という形でならば、私の感じた事はより明瞭になって現れるに違いない。それこそが真の目的であり、今も私を捉えて離さぬ罪の意識を、克明に浮かび上がらせる唯一の手段なのだと信じている。願わくば、生涯の忠誠を誓った御方の目に、この書が映らぬ事を。
その日は、妖しげな光を放つ満月が、雲なき空に、星なき空に浮かぶ不気味な夜であった。ただ無暗に輝く月が、漆黒の中にぽつりと浮かび、ひゅうと喉を掻き切った時に漏れ出る苦悶の声のような風が吹き、烏の鳴き声が何処までも響いている。西行寺の庭園に煙る草花も、この不吉の予兆に臆したと見えて、ことごとく静まり返っていた。風は吹いているけれども、それに揺られる事はなく、全ては静寂の中に佇んでいる。それを目にした時の私の心持ちは酷く騒々しかった。警鐘が何時までも鳴りながら、執拗に逃げろという叫び声を聞いているかのようで、そんな意味深長な心境を無理に落ち着かせる為に坐禅を組んでいたりした。――その日とは、幽々子様がお生まれになる春宵の事である。
屋敷内は独特の緊張感を漂わせ、尋常でない雰囲気の元に皆が険しい面持ちをしていた。無論私もその内の一人で、全く不気味な夜だった事もあり、とても正常な状態で居られない。ともすればこの時の屋敷の住人の全員が、私と同じ事を思っていたのかも知れぬ。何かとてつもない事が起こるという予感、形のない魔に命を牛耳られているかのような、得体の知れない恐怖――少なくとも私はそういう思いで、旦那様に付き添っていた。障子を隔てた向こう側からは、産気付いた奥方様が唸っている。私の隣で頻りに腕を組んだり解いたりしている旦那様も、心配を隠せないでいた。
「お前はこの夜を如何にして捉える」
奥方様の苦しそうな声を聞きながら、旦那様は唐突にそんな事を尋ねた。元より感付いていた事なのであろう、自らの内では既に答えが出ている気味で、とにかくそれを否定して欲しいと願っているかのような表情である。幾ら慄然たる恐怖を感じさせる夜とは云え、それを馬鹿正直に話すのでは互いに不安を高めるばかりなので、無論私は旦那様を安心させる為の言葉を云うべきだと考えた。そうでなければ、旦那様の問いにまるで意味はない。蒙古の象徴に恐怖の理由を尋ねるのは甚だ馬鹿馬鹿しい。定めて私は、明るい未来を思わせる事を云わねばならぬ立場に居た。
「旦那様を負の思いに拘泥させたい訳ではありませぬが、この上なく不吉なものだと感じております。雲もなく、星もなく、蒼然たる光を放つ満月ばかりが徒に輝く夜など、一度として目にした事は御座いません」
が、先刻の通りの言葉を紡ぐ為には、この夜空はあまりにも不吉過ぎた。如何に明るい事を云おうとも、この空の前には虚構のものと成り果てるに違いない。深淵の闇を照らす希望の光だと見えぬ事はないが、それを上回る不気味さが、自己を主張する中、判り切った嘘など吐けるはずもなく、私は私の思った事を正直に告げた。けれども旦那様に怒る気色は豪も起こらず、それどころか私の言に納得したかのように、「そうか、お前もそう思うか」などと云っては、難しい顔をして頻りに廊下を歩き回った。その間も奥方様の苦しそうな声は止まらず、私達の中に募る不安感を助長するように、静かなる宵の中に、時折「痛い」と声を上げていた。
かつて戦いの局面以外の場面に於いて、これほど震えた事があっただろうかと、私は自問する。死地を乗り越えた事は何度もある。他者と比較して、自ら茨の道を選んだ自負もある。だからこそ戦いの最中、私が感じる震えは武者震い以外の何物でもなく、煮え立った血潮は敵の命を求めて激しく流れていた。が、今小刻みに震えているこの身体は、一体如何なる理由によるものかと自問した時、私は明確な答えを導き出す事が出来なかった。世の条理を逸脱した、正に不条理な存在――云わば常識を覆した圧倒的力を持った存在と対峙した時、こんな心持ちになるのだろうかと考えた。奮起する事もなく、ただ嬲られるだけの戦闘、面白さの欠片も無い一方的な虐殺。例えるならばそんな存在である。
「旦那様!」
その時、障子の向こう側から突如大声がした。焦燥に塗れ、悲観に暮れた絶望の声音である。私も旦那様も、事態が喜ばしくない方向でない事ばかりでなく、むしろその逆の方向に向かって運命が奔走しているのを明らかに理解した。
「お前は待っていろ」
旦那様はそう云い残して、障子の向こうへと消えた。薄気味悪い蝋燭の光が、白い障子に橙を色付けている。その中に動く数人の影は慌ただしく動いていて、聞こえて来る声音は耳を塞ぎたくなるほど悲惨なものであった。誰もが涙に言葉を滲ませながら、口々に「奥方様」と呟いている。中には外聞を憚らず泣く者もあった。そうしてその阿鼻叫喚の中に、元気な赤子の泣き声が混じり、一層妙な情景を想起させる。事態を把握するのに時間は要らぬ。私は障子の向こうで起こった事件が判らぬほど頭が足りていない訳ではない。
障子に映る影には一つだけ動かないものがある。項垂れて、一寸も動かぬまま、石像のように座っている。きっとその影は旦那様だと私は思った。そうしてそれ以外には有り得ないと自身の内に確信を持っていた。赤子の泣き声は尚も響く。丸まった背中を元気付けるように、或いは自己の存在をこれでもかと主張せんばかりに。――満月の光は一直線に我々を射抜く。地を這う者を睥睨するが如く、傲慢な光に思われた。今宵は不吉な空が広がっていた。そうしてそれは決して間違ってはいなかった。凪いだ風、静まる室内、人の嗚咽。――奥方様は、この日お亡くなりになったのである。
その後障子を開けて出て来た旦那様の顔は、死者の面の如く青く染まっていた。月明かりに照らされた青白い頬は、殊更生気を感じさせず、虚ろな瞳を彷徨わせて、やがて私に向き直った旦那様の表情は、平生の篤実さを失って、塵労に押し潰された者の如くやつれている。私は何という言葉も掛ける事が出来なかった。元より傷心の身である旦那様に、如何に優しい言葉を話した所で慰めにはならぬ。私は黙したまま、変わり果てた旦那様の虚ろな瞳を見詰め続けるより他に無かった。光を失い、濃紺に染まった悲しき双眸は、かつての優しき笑みを浮かべる事は、これより先にも決して有りはしないのだろうと私に思わせる。私の知る旦那様は、何処かへ姿を眩ませてしまった。
「死んで、――死んでしまった。己れよりも早く、子だけを残して逝ってしまった」
「もう戻らぬ、もう戻らぬ」と旦那様は繰り返し呟きながら、侍女の手を借りて寝室まで行った。子を気にする余裕さえ失ったのか、後ろを振り返る事もしなかった。旦那様は奥方様に惜しみない愛を捧げていた。誰が見ても生涯共に付き添う事の出来る夫婦であった。その片一方が欠け落ちた事によって、旦那様の心の均衡は突如崩れ去った。決して外れてはならぬ歯車が、いとも容易く砕け散ってしまった。ともすれば以前の旦那様は永遠に帰って来ないようにさえ思われた。
ふと奥方様の眠っている部屋を覗き見た時、そこは弔いの準備をする者と、生まれて間もない赤子を保護する者とに分かれて、皆が悲しみのあまり涙を流しながら働いている光景があった。部屋の中央に一枚だけ敷かれた布団の上には、寝息さえ立てぬまま眠っている奥方様の姿がある。淡い桜の花で織った糸のような髪の毛を枕の上に広げながら、白き肌に生気の籠らぬ青味を忍ばせて、目覚める事のない眠りに就く姿が、どうしようもなく悲しく思われた。刹那の間にさえ気を抜こうものならたちまち涙が溢れ出そうなほどに、私の胸は強く痛む。そうしてそれに耐えようと思えば思うほど、成し得ぬ願いを頭の中で反芻する私が居た。お目覚めになられる事を一心に願った所で、散った命は決して元の通りに咲き誇る事には無いのにも関わらず、無駄な希望を捨て切れぬ弱い自分が確かに居たのである。
「奥方様は、やはり……」
部屋の中に居る侍女の一人に、私はそれとなく尋ねた。最早希望を得る為の問い掛けなのだか、現実を直視する覚悟を得る為の問い掛けなのだかも判らぬ。私には何かしらの切欠が必要だった。或いは常日頃強く在ろうとする意思が働いていたのかも知れない。例え無情であろうとも、目を据えねばならぬ事もある。私は今まさに、それを必要とする局面に遭遇したのである。旦那様に仕える身であるのなら、決して心を折ってはならない。心骨を折られた従者が役に立つ道理もない。この西行寺を支える為に、私は誰よりも強く在らねばならなかった。
「臨終を、お迎えになられました」
侍女はそう云い切ってから、声を上げて泣いた。顔に手を押し当てて、話す事も出来ないほどに取り乱した。掛けるべき言葉はやはり見付からない。私とて悲しみに潰されかけている内の一人である。この場に居る全員が一思いに泣き叫びたいと思っているに違いない。だからこそ私は涙を流さなかった。
ただ奥方様が最後に遺した赤子だけが、安らかに眠っていた。周囲の者の声に感化される事もなく、小さな指を咥えながら、赤が差した白い身体を白き布に包まれて、穏やかに眠っていた。」
十二.
「それから旦那様は自室に籠る事が極端に増えた。食事でさえ侍女に持って来させ、誰かと共にするという事は決してなく、自身の娘の世話すらしないまま、その全てを私に託して、心の殻から出て来なくなってしまった。奥方様の死は、西行寺の姿をことごとく変えてしまったのである。旦那様を始めとして、奥方様を慕った使用人も、毎日憔悴し切った顔をして仕事に勤めていた。無論私とてそのような姿をしていたのだろうが、それでもこの屋敷を客観的に眺め遣った時、私はその広く大きな屋根の上に、分厚く陰刻な黒雲を見出さずには居られなかった。
そうして時は瞬く間に去って行く。奥方様が亡くなられた悲しみは払拭されぬまま、葬儀は恙無く行われて、あっという間に奥方様は西行寺の墓の下で眠りに就いた。「幽々子」と名付けられた夫婦の娘は、両親の暖かささえ知らぬまま成長して行く。一つ二つと成長して行く度に、今は亡き奥方様の御姿に似て、美しくなって行く。一時は悲しみのあまりに幻覚が見えたのかと錯覚してしまうほどに、彼女の姿には奥方様の面影が、確かにあったのである。――しかし、だからとて旦那様の憂慮は晴れる事が無かった。旦那様は既に、あの黒雲に飲み込まれてしまったのかも知れぬ。そうして一寸先も見えぬ闇の中、手探りする為の物すら見付からず、冥々たる心の中で低回を続けているのかも知れぬ。
「妖忌」
未だ幼い声音で私の名を呼んだのは、十歳に成長したお嬢様である。彼女は動きたい盛りの年頃なのにも関わらず、動くのに一々難儀しそうな着物を着せられて、私のお嬢様の二人以外に誰も居ない庭の中を、つまらなさそうに歩いていた。お嬢様が生まれた頃から、その世話を任されている私は、平生の如く遊び相手を勤めて欲しいと云われるのかと、思ったが、私の推測に反して彼女の表情は何処か物憂げで、遊びたいと言外に語っているようにはとても見えなかった。
「お父様は、お部屋から出れなくなってしまったの?」
幼心から、邪気など有りようはずもない必然的な問いかけは、不意に私の胸を強く締め付けた。彼女の言葉が、年相応の寂しさを顕現しているように思われた。そうしてそれは、私の思った通りで相違ないと確信を持っていた。が、それを判っていながら、私はすぐに答えを返す事が出来ぬまま、純朴たる疑問の光を湛えた、澄んだお嬢様の瞳を見詰めるより他に何も出来ないでいた。旦那様の現状を説明する言葉が、死という概念を理解し得ない彼女に対して向けるべき言葉が、何も思い付かなかった。空虚な閑文字ばかりが、頭の中に連なって行く。
「……旦那様は、病床に伏されているのです。治す術すら存在しない、重い病に心を侵されているのです」
「だから私と話してくれないの? だからお父様はお部屋から出て来れないの?」
「そうだと云えば、些か語弊が生じましょう。旦那様は自らのご意志で、部屋の中にいらっしゃいますから」
「難しい話は判らないわ。妖忌ったら、今日はとても難しい事を云うのね」
そう云ってお嬢様は微笑んだ。全き純粋の笑みである。私は自らを卑怯だと思わない訳には行かなかった。年端も行かない幼子に対して向けるべき言葉を話して、理解できるはずのない話を続けて、それがお嬢様の納得が行く答えになるはずもない。ともすれば、傷付いた私の心をこれ以上痛ませない為にそんな話し方をしたのかも知れない。それだから私は私を卑怯だと批判せざるを得なかった。お嬢様の笑みが、これほど痛烈に思われるのは、それ故の事であろう。
「お嬢様は、寂しいと感じられていますか」
「寂しいけど、病気なんだから仕方ないわ。それに、何時も妖忌が傍に居てくれるじゃない」
「私などは旦那様と比べたら、取るに足らない小さき人で御座いましょう」
「そんな事ない。妖忌だって私にとってとても大切な人なのよ」
隔意など寸毫も見せる事なく、お嬢様は柔らかに笑む。心底に暖かな慈雨が降った。そうして溜まった雫が溢れ出そうになる。何時までも過去の悲劇に囚われている私より、お嬢様の方が余程大人寂びている。
「お嬢様に仕える私には、最も有り難きお言葉です」
そう云うと、お嬢様は私の方に歩いて来る。春の過ぎ去った季節に、場違いな桜の風が吹く。ゆらゆらと揺れる花弁が太陽の光を浴びて燦と煌めいた。――お嬢様は私の手を取って、真摯な光を湛える双眸を向けながら、尋ねる。
「妖忌は私の事を、大切な人だと思ってる?」
返すべき言葉など、一つしか存在し得ない。外面ばかりを強く装って、その実脆い心を持つ私には、しかし返して然るべき言葉を出すのに躊躇した。静寂の時、蝉の鳴き声が高らかに響いている。
「お嬢様の為ならば、この命など惜しくはありませぬ」
ふわりと笑みの花が咲き、紡がれる言の葉が一枚、ひらりと舞った。
「それなら約束よ。妖忌はどんな時も私の傍に居て。――どんな時も」
無骨な私の手を自身の胸の前に持って行き、お嬢様はそう云った。念を押すように繰り返された言葉が、耳を伝い鼓膜を震わせ身体中に伝達されたかのように思われる。それが原因なのかどうか判然とせぬが、妙に胸がざわついた。不安の萌芽が芽生えた訳もあるまい。私は随喜の余りに起こり得る事象なのだと解釈したが、それでも自分を説き伏せるには至らず、釈然としない不安のようなものを抱えながら、私の座る縁側に身を横たわらせて、この膝を枕として眠るお嬢様の安らかな顔を見た。――安穏としている、残喘に達した者の如く安らかにしている。ふと奥方様の死に顔が、脳裏を過り、この上なく嫌な予感が、この身に蛇が這いずっているかのような感触がしたように思われた。
庭先を見ればあれほど忙しく鳴いていた蝉の声が聞こえない。太陽が傲然と浮かぶ白昼に、風の音ばかりが聞こえている。木の根元には命を失くした蝉の死骸に蟻が群がっている残酷な光景があった。あの不気味な夜が、――私はそれを思い出す前に、もう一度お嬢様の顔を見た。幸福そうな顔に翳りは見えない。全ては私の杞憂なのだと強引に思い込む事にして、私は柔らかなお嬢様の髪の毛を梳いて遣った。心地良さそうな寝息が、何故だか私の不安を煽っている心持ちがした。」
十三.
「第三の世界には常に暗黒が立ち込めている。私はお嬢様より恩賜に相当するお言葉を賜った時、それら全てをことごとく消し去る幸福がこの身を包み込んだのではないのかと錯覚した。雲の切れ間より差す一筋の白光が、希望を示すかの如く思われた。旦那様に活気が戻らなくとも、何時かお嬢様が成熟した時には、再び優しい瞳を我が娘に向ける時は来るだろうと信じて疑わなかった。それが親の本分であり、子はそれを当然として受け止めるべきだからである。
が、結局それは叶わぬ妄想だという事を、私は知る事になる。自らの死よりも痛く、耐え難い悲しみに圧殺される。この書に文字を連ねている今でもそれは変わらない。私は常に死に続けている。この身は確かに生きていようとも、拠るべき場所を失くした今、私に生きているという実感は決して湧く事は無い。未来永劫それが続くのなら、私は神より賜いしこの生を全う出来ぬ。そうしてそうなると思っている。――だからこそ、これを我が遺書とする覚悟を決めた。誰の目にも触れぬ醜穢なる男の半生を記し終えた後、私は世の最果てで命を断つ所存である。
私に孫と云うべき子が出来たのは、それから間もない時の事であった。孫と云っても、血の繋がりがある訳ではなく、正確には養子に相当するのだろうが、今まで孫として育てて来た故に、孫と称して然るべきだと思っている。それはある用事で出かけた時の道先での事である。私の前に乳呑児としか思われない小さな命が、粗末な箱の中、毛布に包まれながら泣いていた。この時私がその場に居た事は、全く偶然で、赤子からすれば思いがけぬ僥倖であった。そのまま捨て置かれれば死は免れぬ。或いは妖怪の餌となり、或いは風雨に晒される事になろう。私にはそんな残酷な運命の元に生まれたこの赤子を放っておく事が出来なかった。生まれてからすぐに母を亡くし、父を死人同然にしてしまったお嬢様と同様の存在に思われたのである。それだから、私はその子を抱きながら西行寺に戻る事にした。
そうした事で、屋敷の使用人に怪訝な表情をされたりもしたが、旦那様にこの赤子について尋ねると、「勝手にするが好い」と云われたので、私は私の後継人として赤子を育てる事に決めた。
私は赤子を「妖夢」と名付け、剣術を教え、庭師としての在り方を教え、お嬢様に向ける忠誠を教え、弱々しく天気の気紛れで殺されてしまうような存在は、強く育った。鋭い意志の光る真直ぐな瞳は、自分の進む道を何人にも曲げさせやしないという気迫を醸し、小さき体躯に叩き込まれた我が生涯の修練の成果は、未だ幼き立場であれど、大人にさえ引けを取らなかった。そうして幸運な事に、彼女は自らが親に捨てられるという不幸な境遇であった事を少しも覚えておらず、私を本当の祖父として、敬愛の眼差しを常に向けていてくれた。また修行の場以外では、その年頃の子がそうするような甘えを、私に見せる折もあった。
全ては好い方向に進んでいると、私は思い込んだ。あれから立派に成長したお嬢様は美しき女性になり、誰もが羨む才才媛と称されるに相応しい人物になった。旦那様は未だ自室の中に籠りがちであったが、以前と比べると大分外に出る事が増え、その時に偶然お嬢様と会うと、一言ばかりの挨拶を交わすようにもなっていた。旦那様にお嬢様の成長振りについて尋ねてみたところ、嬉しそうな微笑を湛えながら「やはり己れと細君の子だ」と漏らす折もあった。――今になって思えば、この時には暗然たる運命の歯車は全て噛み合っていたのかも知れぬ。重苦しい不快な音を鳴らしながら、誰も知らぬ所で、動いていたのかも知れぬ。
――それに気付かなかった事こそが、第三の世界に於ける我が不幸の最たるものであった。
妖夢は覚えの好い方ではなかった。云った事を一度やるだけで終えられるほどに才気が溢れている訳ではない。それに対してお嬢様の方は、妖夢とは全く逆で、教えている私が驚くほどに、飲み込みが速かった。が、妖夢とて決して弱くはなく、才能で埋められぬ穴は血の滲む努力で埋めていた。夜半などに竹刀を振る音が何処からか聞こえて来ると、大抵は妖夢が振っているほどで、屋敷の者達にも少し休ませた方が好いのではないのかと云われるほどである。
二三日と間を開けて剣術の指南を受けるお嬢様は、それでも中々妖夢に劣りはしなかったが、妖夢は毎日修行に明け暮れて、技の向上に余念がなかった。自然私は妖夢に対する剣の指導に熱心になった。努力で己が力を高める姿が、若き日の自分に被り、それを助けたくなったのである。そんな日々が、長らく続いていた。季節は春となり庭中に桜が咲き誇った。一つの色に染められて、その刹那を尊ぶ季節は、短くも濃い時間を我々に与えた。
「妖夢、お前は強さとは如何なるものだと考える」
稽古に一段落が付き、額に玉の汗を滲ませている妖夢にそう尋ねると、妖夢は何故そんな事を突然問われるのだか判らぬ気味で、狼狽えた。生真面目な気質であるから、問われたからには正しい答えがあると思っているのだろうが、それは甚だ見当違いの考えで、この問いに正答などあるはずもない。敢えて正答というものを挙げるのなら、自身の内で考えに考えた結論が、それぞれの正解で、確たる正解がないように、間違ったものも存在しないのである。
「未だ未熟な私の腕では、到底考えの及ばぬ領域です」
「そうか。しかしそれも正解の一つだ。今は自分にとっての真なる正解を目指して、精進を怠らぬようにするが好い」
そう云われると、妖夢は姿勢を正しく直して、声高らかに「はい」と返事をした。そうして顎に手を当てて一寸何かを考えているような仕草をすると、目を丸くさせながら「お爺様にとっての強さとはどういうものですか」と尋ねて来た。
「私は西行寺家の為なら、如何なる代償も厭わずに全てを捧げる覚悟がある。例えばこの広大な庭の木々、例えば大きな屋敷、――そうしてその何よりも、お嬢様と旦那様の命を守る力が、私にとっての強さだ。難しく考える必要はない。強さとは常に何かを守る時に必要とする。だから守るべき物を守れるようにするのが、私の強さなのだ」
妖夢は背筋を伸ばして私の話を謹聴している。やがて頬に羞恥の紅を忍ばせながら、小さな声でこんな事を尋ねて来た。
「それには、私も含まれていますか」
妖夢には珍しいその質問に、私は意外の感を受けながらも、その頭を撫でてやった。妖夢が道端に捨てられて、それを拾い育てて来た私にとって、血縁上の縁はなくとも妖夢は私の孫である。彼女の可愛らしい問いに否定などするはずがなかった。私は「当然だ」と返して笑んだ。桜の天井を抜けて差す陽光に、朗らかな笑みが花を開く。」
十四.
「目を見張る美しい女性に成長したお嬢様は、日に日にその姿に艶を醸すようになった。その御姿は奥方様の生き写しとさえ見紛うほどで、奥方様が淑やかな女性だったように、お嬢様も静けさの似合う楚々たる女性になっていた。最早人の手を借りる事なく歩き始める年頃で、私はそう判じていたからこそ、いずれ私の後を継ぐ妖夢への稽古の時間に多くの時間を割くようになった。そんな折、お嬢様が突然こんな事を云った。
「妖忌、一緒にお茶でもどうかしら」
「有り難いお誘いですが、これより妖夢に稽古を付けなければならぬ故、此度はお断り申し上げます」
幼年の頃は、そんな事を云うと判り易く頬を膨らませていたのものだが、今や大人の女性であるお嬢様にそんな仕草は影もなく、「貴方も大変ね。たまには身体を休めたらと思ったのだけど」と云って微笑した。そういう大人と子供に区切りを付けたお嬢様は立派になられたと思ったが、やはり私を慕って毎日色々な所へ私を引っ張り回していた頃も懐かしいものだと微かな離愁に感慨が湧いた。
「お茶は駄目だけど、一つだけ聞きたい事があって」
「私などで好ければ、勿論お聞きします」
肯定の意を示すと、お嬢様は一度大きく息を吸って、私の瞳を一直線に見詰めた。それが何かを覚悟したように思われて、私は心して彼女の問いに耳を傾けた。
「――私は昔と比べて何か変わったかしら」
私はお嬢様の問いが深刻でなければ、然して重要な事でも無く、単なる興味から来る平凡なものである事に、肩に積まれた荷が一気に転がり落ちて行くような感じを受けた。けれどもお嬢様の瞳は真剣の一色に染まっている。であれば私も相応の態度で、相応の言葉を返さねばならぬ。お嬢様が今日に至るまでに変化した事など、それこそ数え切れないほどあるように思われるが、その中で一番変化が顕著であった事を、私は一つ一つ挙げる事にした。
「お嬢様はお美しくなられました。男性であれば誰であれ情操を刺激されましょう。そうして大人らしい落ち着きと聡明さを兼ね揃えていらっしゃいます。今やこの老いぼれを必要とせぬのではないかというほどに、強く在られています」
そう云うと、暫しの静寂が場を支配した。お嬢様の表情は先刻と変わりない。そうして私の言葉を聞いていながら、黙している。華やかな春の香が、穏やかな陽に当てられて鼻孔を擽る。お嬢様の後方に立つ桜の木が、花弁を散らしながら揺れているのが見えた。天を染めようとするが如く、幾枚もの花びらが、宙を舞う。――すると、不意にお嬢様は笑い出した。口に手を当てて、私を見ながら笑っている。私は呆気に取られる以外になかった。
「妖忌ったら、そんなに褒めてくれて嬉しいけれど、その反面恥ずかしいわ。真面目な顔でそんな事云って」
「お嬢様が真率な態度で尋ねられましたから、私も真剣にお嬢様の問いと向き合ったのです」
「そうね、私も真剣に聞いたから。――それじゃ、有難う。妖夢に修行を付けてあげて」
そうして私はその場を立ち、妖夢の元へ向かおうとした。思いの外時間が経っていたので、今頃は竹刀を振り続けているに違いない。その光景を想像すると何だか申し訳なくなってくるので、私は足早にこの場を後にしようとした。ところへお嬢様が突然後ろから声をかけて来る。云い忘れていた事があるような、一種の焦りの混じる声音であった。
「ああ、それと、何時までもお嬢様なんて呼ばないで好いのよ。前から云っている事だけれど、妖忌は私ととても距離が近いのだから、名前で好いわ。この年になってお嬢様じゃ、示しが付かないじゃない」
「私にとってお嬢様はお嬢様なのです。姿が幾らお変りになろうと、それは変わりませぬ」
一陣の風が吹き抜けて、お嬢様の髪の毛を揺らして行く。「妖忌も相変わらずね」と漏らしたお嬢様の表情は、背に差す陽光の所為か、影が差しているように思われた。けれどもその微笑は、やはり平生のお嬢様で、それを私が見紛うはずもなく、私は然して気に留める事もしなかった。
それなり私はその場を離れて妖夢の待つ場所へと赴いた。そこにはやはり、一人修行に励む小さな姿があり、竹刀が風を切る音と同時に、やあと大きな掛け声が響いている。そうして私の存在に気付くと、表情を輝かせて「お爺様」と云いながら駆け寄って来る。小春日和に、妖夢の銀の髪の毛は燦然として輝いていた。
事件が起こったのは、私が妖夢に稽古を付けている最中に起こった。突然屋敷の方から甲高い悲鳴が聞こえたのである。そうしてそれは、聞き間違う事のないお嬢様の声であった。白昼堂々と何者かが入り込んだとは思えなかったが、お嬢様に万一の事があれば、私は旦那様に顔向けが出来ぬ。そうして何より、お嬢様を守る事が出来なかった不甲斐なさで生きる事すら出来ぬ。私は持てる力の全てを費やして、お嬢様の元へと急いだ。
――それは異様な光景であった。怯えた目をして震えるお嬢様の前に、この屋敷に古くから仕える老婆が倒れている。お嬢様にお茶を持って来たと見えて、倒れる老婆のすぐ傍には、散乱した湯飲みや、茶葉が散らかっていた。畳の上を湯が走り、湯気さえ立っている。老婆は倒れてから間もないようであったが、既に息はなく、完全に絶命した状態にあった。
「一体何があったのですか」
「判らないの、ただ、蝶が、蝶が、身体を貫いて……」
頭を抱えながら蹲るお嬢様は、見るも哀れな姿であった。何かを恐れるように、辺りを見回す瞳は血走り、先刻会った時とはまるで違っていた。振り乱した髪をそのままに、両腕で身体を掻き抱きながら小刻みに震えるお嬢様の肩に優しく手を置くと、驚いたようにびくりと身体が跳ねる。そうして私を見詰めたお嬢様の瞳は涙に濡れて、そして何処か申し訳なさそうな光を眸底の奥深くに秘めながら、表面に恐怖を映し出していた。
「蝶が……」
小さな唇がそう呟いた時、お嬢様の瞳は大きく見開かれた。そうして蒙古の象徴を私に認めたが如く、その細き腕で思い切り私の胸を押して突き飛ばすと、我に返ったように瞳から透明な雫を流しながら、「近付かないで」と消え入りそうな言葉で云った。その時、私はお嬢様の姿に筆舌に尽くし難いほどの寂寞を感じた心持ちがした。そうして彼女はその広大で荒れ果てている荒野の中で一人佇んでいるのだと思った。冷たき月下に煙る解け難き恐れをその胸に抱きながら、痛みを共有する者すら近付けず、そこに立っているのである。
私は失礼しますと一言だけ云い残すと、老婆の死体を抱き上げて、お嬢様の部屋を後にした。老婆の死体には外傷と云えるものが全くなく、何が原因で死んだのかも判らなかった。ただ死んだという事実を受け入れられないでいるかのように見開かれた黒い瞳は、生気の光を失って、虚空を見詰め続けるばかりである。――その後、老婆はかなり年を喰っていた事もあり、老衰による頓死だろうと云われ、埋葬された。真実を知る者は、誰一人として居なかった。」
十六.
「お嬢様の様子がおかしくなったのは、あの日以来の事だったと私は記憶している。一人で居る事が多くなり、私でさえ部屋の中に立ち入らせなくなったのである。そうしてその時期に、屋敷内は騒然とした。誰もが暗澹たる面持ちをしていて、目に見えぬ不安に心身を侵されているかの如く、不穏な空気が漂い始めていた。そうして思いがけない出来事が起こった。普段から皆に姿をあまり見せなかった旦那様が、久方振りに慌てた様子で部屋から出て来たのである。旦那様はまず私の元へと駆け寄ると、こんな事を云った。それは一大事と称して相違ないものであった。
「西行妖の封印が解ける。長い間己れが封じて来たが、突然その封印が破られようとしているのだ。最早己れにもう一度封印する力は残っていない。このままでは、あの妖怪桜は人々の命を喰らって花を咲かす事になる」
西行寺家にある広き庭の中央に封印された西行妖という名の桜は、人々の命を喰らい、その生命力を以て花を咲かせるという恐ろしき存在として、西行寺家の中に住む使用人達を怯えさせて来た。その力たるや、自然の領域を逸脱し、あらゆる生命を死に至らしめる脅威のものである。代々西行寺の人間がそれを封印して来たのだが、何が原因なのか突然その力を強めて、旦那様の封印を破らんとしているらしいのである。私は取り乱した旦那様をどうにか宥めると、現状を確かめに庭へ飛び出し、桜の森の中を駆け抜けて西行妖の封印されている場所へと向かった。
――そこはまるで、私が居た世とは違う世界だと思われるほどの光景が広がっていた。西行妖の太い幹が淡い光芒を放ち、そこから姿を現す光の蝶々が、結界の中で飛び回っている。西行妖の梢に未だ花は咲いていないが、封印が破られ、結界すらも破られるのは既に時間の問題となりつつある。このまま指を咥えて西行妖の封印が解けてしまえば、西行寺家に存在する命はおろか、他の場所へ危機が及ぶ危険性は十分に有り得る。私は生涯で初めて感じ得る危機に、――私の強さを証明する為に守らなければならぬ者達の危機に、焦燥を禁じ得なかった。
「煙る花、散る命、永久に枯れぬ妖怪桜」
不意に聞こえる歌の調べは女性のものであった。私は瞬時の内に、その者に危険な匂いを感じ取った。そうしてその時には腰に下げた鞘から刀を抜き出し、構えていた。鈍い光を放つ鋼鉄の白刃が辺りの風景を映す。その中に、それは居た。何処から来たのかも判らぬ、謎の女。日傘を差して不敵な笑みを浮かべる女は、この刀に、この殺気に恐れをなす事なく悠然と歩んで来る。外見から判じれば人間で間違いはないが、その雰囲気は既に常人の域を脱している。私は切先を女に向けながら、頬を流れる汗に気を留める事なく、睨み遣った。女は尚も笑んでいる。
「何者だ、返答によればお前を斬る」
「そう警戒しないで下さるかしら。貴方が仕えるお嬢様とは、友達なの」
そうして笑みを象る唇は、私を嘲るように歪められる。私の心頭に火を灯すのが目的の言葉である。乗せられてはお嬢様に仕える名が泣く。私は努めて冷静を装っていた。金の髪の毛を揺蕩わせ、徒に光る明眸にも金色が輝いている。美しい顔立ちは魔性のものである。一度魅入られてしまっては、二度と抜け出す事の叶わぬ蜘蛛の糸に雁字搦めにされて、嬲り殺されるに違いない。その女が醸す雰囲気とは、それほどまでに危険の香を漂わせるものである。
「怖いわね。今にでも斬殺されそうだわ。――けれど、私は忠告と助言をしに来ただけなのよ。西行妖の花が開けば、色々と面倒になってしまうから。貴方も知っているでしょう。この桜が喰らう命は、尋常な数じゃない」
はたして女の言葉に偽りの響は無かった。それでも到底信用に足るものではないが、手立てがなく困り果てているのは事実である。私は刀を女へ向けながら、話の続きを促した。女は少しも怯える気色を見せぬまま、あの笑みを浮かべて話し始める。西行妖を囲う結界の中には、数え切れぬほどの光の蝶が飛び回っていた。まるで腹を空かした獰猛な肉食獣の如く、獲物を探し求めているようにも思われる。封印とて最早その意味を失くしていた。
「この桜が気になって仕方がない顔ね。無理もないわ、もう直この死蝶は結界を突き破って、私達の命を喰らいに来るものね。半刻も持てば好い方だわ。決して弱い結界じゃないけれど、西行妖の動きを止めるには弱過ぎる」
「悠長にしている暇はない。方法があるのなら話せ。此処で何時までも停滞している訳には行かぬのだ」
女は私の言葉に失笑を漏らした。まるで私の言葉が甚だ見当違いだと云うかのように、腹立たしき嘲笑である。
「要は時間が稼げれば好いのね」
「そんな事が出来れば苦労はしないのだ」
「だから私が稼いであげようとしているのよ」
女は懐から四枚の札を取り出した。そうしてそれを、西行妖を囲う結界の礎となっている石に張り付けると、私では理解の行き届かぬ呪文の詠唱を始める。するとたちまち石に張り付けられた札は輝き始め、目も眩むほどの光条を立ち上らせると、西行妖を囲って天に届くほどの高さの光柱に変化した。結界に閉じ込められた蝶は突然怯んだように結界の壁から離れると、行き場を失くしたかのように、西行妖の幹の周りを旋回し始めた。
私は空いた口を閉じる事が出来なかった。西行妖を抑え付けるだけの結界をただの一人で張り、それどころか余裕を残した笑みを浮かべて、「これで好いのかしら」などと云っている。焦燥に駆られていた私と比すべくもない。私と女の持つ力には歴然たる力が見て取れた。私という人間が千の束になって彼の女に襲い掛かろうとも勝てる可能性は万分の一にも満たぬ。私は悔しさに歯噛みしながらも、女の力を認めぬ訳には行かなかった。そうしてそれだけの力を持っているのなら、彼女が云う助言とは真に迫るものなのかも知れないと考えた。
「これで一日は持つでしょう。それまでにこの化け物を封印出来るかどうか」
「方法が、有るのか」
「ええ、限りなく非人道的な方法が」
「ならば教えてくれ。このままでは、私は私の生きる意味を全う出来ぬ」
「それじゃ答えて頂戴。貴方の生きる意味とは、一体何なのかしら」
「私の仕える御方達を、お守りする事だ。引いては、大切な者達を」
私は刀を下げた。女に敵意を向けようが向けまいが、事態は何も変わらない。私は自らの矜持を捨て置いてでも西行妖を封印する方法を聞き出さねばならなかった。そうでなければ、このまま屋敷に戻っても私が出来る事など何一つとして有りはしない。西行妖の復活をただ待ち続けるばかりである。――即ち、死を。
「詭弁ね」
しかし、そんな私の覚悟をも嘲笑うかのように、女は妖艶な笑みを浮かべると、一言だけ呟いた。私の胸を貫く、劇烈な言葉である。根拠も何も無い、穴だらけの言葉であるはずなのにも関わらず、女の紡ぐ言葉には真正の重量があった。
「何が」
「全てが」
「何故」
私の話す言葉に力はなく。追い討ちをかける女の言葉ばかりが、傷付いたこの身体を打ち抜いて行く。
「貴方は盲目的で利己的だわ。物事の本質が、表層ばかりにあるものだと思っている。貴方の生きる意味は何の為にあるのかしら。――こうして西行妖の封印が解けそうになっているのは、全てあの子の所為なのに」
世界の時が止まったかのように思われた。謹厳な眼差しは先刻とは毫も似付かぬ。だからこそ、その言葉は恐ろしき衝撃を伴って私を打ちのめした。何故、と心中に呟く。それに答えるようにして、女が言葉を続けて行った。
「あの子には西行妖と同様の力がある。人を死に至らしめる忌むべき力が。幼少より始まって今に至るまで、不可解な死人が出なかった? 例えば彼女が生まれた時に、例えば彼女の心が深く傷付けられた時に。今、あの子の力は不安定な容器に入れられた水のように揺蕩っているわ。一時の感情の変化で、暴走してしまいそうなほどに。だから部屋に塞ぎ込んだまま、出て来なくなったのよ。本人は貴方を殺さない為に、と云ってたわ」
――我が生涯の中で、最も自分が愚かだと思ったのはこの日であった。最も自分が弱いと思ったのはこの日であった。最も後悔したのはこの日であった。私が安穏と暮していた時にも、お嬢様は辛い心境の中部屋に籠っていた。その意を汲み取れぬ従者に如何なる価値があろう。お嬢様の幼き頃、交わした約束はあの温かみと共に私の胸の中に残っている。それにも関わらず、私はお嬢様を一人にしていた。全てが手遅れとなっている時に、この事実を教えられたなら、私は自刃さえ躊躇しなかったに違いない。
無意識の内に私は地に膝を突いていた。全てを見透かす金色の瞳が、私の心中の最奥までを舐め回すように探っているかのように思われた。瞋恚の焔は我が身体の中に灯っている。この身を焦がし焼け尽そうと、自責の油を注がれて激しく燃えている。斟酌の余地などあるはずもない。罪の意識は全身を駆け巡る。目の奥が焼けるように熱い。ふと、西行妖の姿が目に入った。天高く聳える大木は、私を悠然と見下していた。花の咲かぬ梢をこれ見よがしに見せびらかしながら、私を嘲るように蝶々の大群が幹の周りを旋回する。或いはこの蝶達が、拠り所を失くしたお嬢様の具現なのかも知れぬ。
「自らへの呵責が耐え難いものであるのなら、充分に封印の手段を聞くに足る資格を持っているわ。好く聞きなさい。例えそれが絶望の淵に立つ者の背中を押す事の如く思われても、決してその手を止める事なく」
そうして女は話した。既に奈落の底に落ち続けているとばかり思っていた私は、私自身が未だ絶望の境地にすら立っていない事にそれで気が付いた。例えるのなら、この時私は物語の序章にさえ足を踏み入れていなかった。女の話を聞いて初めて、序章と呼ばれて然るべき地点に、私は漸く立つ事が出来たのである。いっそ聞かない方が好かったと思えるぐらいに、それは峭刻たるものであった。
――女はお嬢様の命を以てすれば、永久の封印も可能だと冷然とした口調で、読誦するが如く、云った。」
十七.
「屋敷へと戻った私の悄然とした面持ちは語るに及ばない。私は屋敷の者に声を掛けられながら、碌に返事もせずにただ廊下を幽霊のように彷徨っていた。お嬢様の部屋に行くには、勇気が少しばかり足りぬ。襖を開けて、そこに座すお嬢様が柔らかな微笑を湛えていたら尚更耐え難い。彼女の笑みは相反する感情を表している。彼の女が云った通り、私は物事の表層ばかりに目を向けて、その本質たる深層をまるで無視していたのである。が、この場に留まっても事態は着実に芳しくない方向へと進んで行く。手を拱いていては被害は軽微では済まされない。
それは果たして自身を案じたのだか、お嬢様を心配したのだか、これを書いている今の私ですら判らない。ただその時ばかりは、私は背に付き纏う悪寒を払拭しようと必死だったのである。
――丁度その時、妖夢と出会ったのは、私にとっての幸運であったのか不幸であったのか、それは未だに想像に難い。けれども、私はこの時に妖夢と出会ったのである。真直ぐな光を秘めたる瞳を、一心に私に向ける幼き孫の姿が強く在った事を、私は忘れる事の出来ぬ記憶の一つとして克明に覚えている。私のそれよりも強き瞳を。
「お爺様、お嬢様の元へ参りましょう。我ら魂魄の庭師が生涯お仕えする御方の為に、今こそ私達が動き出す時ではありませんか。でなければこの妖夢、未だ未熟な腕なれど何の為に今まで修行を受けて来たのかまるで判りませぬ」
その言葉は未だ戸惑いを隠せず躊躇していた私を強く刺激した。師より技を教わるは弟子である。弟子より修行の根源を学ぶは師である。私はこの時、真に師弟の関係を実感したのかも知れない。忘れかけていた――自白するとこの時の私は、自分が何者であるかさえ失念していた――自らの強きを証明する為に甘んじて受けねばならぬ痛みと、決して挫けてはならぬ堅い芯を持った心とを思い出したのである。
が、結果を顧みるに、私がこの時妖夢と出会ってしまったのは折もあろうにと云わねばなるまい。私はこれより先に起こった事を、此処に記す勇気を持ち得ない。そこに記されるは想像だにしなかった残酷な光景と、弱き自分を苛む我が心ばかりである。決してそこにあった我々の姿を克明に描くなどという事は、この老体には、――否それすら言訳だという事を自覚している。私はこの事実から目を逸らした。だからこそ、この書を我が生涯の末尾として纏め、遺書としたいと考えている。元より自己の満足の為に書き出したものであるので、やはり私は此処に詳細を記す事はしない。
この日起こった事件が、我が第三の世界を締め括る出来事であろう。お嬢様はお嬢様では亡くなった。我が孫は我が孫では亡くなった。全てが激変し、苛烈な罪悪感を我が心に刻み込んだ。忌々しい妖怪桜はお嬢様の命と共に永久の眠りに就き、屋敷に残ったのは我ら魂魄の名を持つ庭師と、お嬢様ばかりである。死蝶に喰らわれた家人は二度と目を開く事は無かった。旦那様とて安らかに眠っているかのような顔をされていた。――そうしてこの人生の歴史に記されるべき陰惨たる刻印を覚えている者は、私を除いて誰一人として居なかった。
この事件により命の半分を喰らわれた妖夢は人の身と霊体とに、自身を分けた。尤も望んでした事ではないのは明白である。お嬢様は完全なる霊体となり、亡霊と称される存在になったまま、全ての記憶を失って私の前に現れた。自身の骸が西行妖に埋まっている事を知っているのは私以外には居ない。妖夢とてあの日の記憶は無く、残っているのは私と過ごした修行の日々だとかの平凡な日常の事ばかりである。しかし究極的には妖夢は幸福だったのかも知れぬ。そうして同様に私もお嬢様も幸福だったのかも知れぬ。自らの意思で妖夢を殺さんとしたお嬢様はその事を忘れ、殺されかけた妖夢はその事を忘れ、そうして二人がそれを忘れている事を知っている者は私の他には居ないのだから。
そうして私は現在に至る。前と変わらぬ、――変わったと云えばお嬢様の世話をする者が二人だけになった事と、屋敷の中がとてつもなく広く思われる事ぐらいであろう。私は自らに必要不可欠な何かを喪亡したが如く、中身の無い日常を送っているような気がしてならない。全てが空虚な絵の中に収められた、虚飾の物語なのではないかと疑ってしまう。過去と現今との差異は、それほどまでに我が身心に耐え難き責め苦を与え続けているのである。
私がこのような贖罪にもなりはしない遺書を書こうなどと思いついたのはある切欠があっての事であった。或る日唐突にお嬢様から部屋に呼ばれた折、私は亡霊となったお嬢様が浮かべる切なげで悲しげな表情を初めて見た心持ちがした。まるで何もかもに見放され、拠るべき場所すら無くし、頼る人すら失くし、凡そ生きるに於いて必要な希望の全てをことごとく深淵の闇の中へ落として来たかのような心細い表情をしているお嬢様が、そこには立っていたのである。
はだけた着物は色香を溢れさせ、月光を受けて青白く光る白磁の肌には慎ましやかな紅が差し、柳眉は心持ち下げられて大人と称すに相応しい女性となったお嬢様が、鏡の前に立っていた。私の知る子供の頃のお嬢様はそこには居ない。成長したお姿に欠点などは何処にも無く、豊かに実った双丘は水気に溢れる果実を思わせて、細くしなやかな肢体は私を誘惑するかのように、時折小さく動いていた。それなのにも関わらず、お嬢様は羞恥の念を毛ほども感じさせぬまま、私に一つの問いを投げ掛ける。胸に手を当て、細い五指で自らを締め付けるように、何か得体の知れぬ痛みに苛まれる者の如き辛そうな表情で、短き問いを必死に紡ぐ。――桜のような方だ、と私は思わずには居られなかった。
「身体は確かに此処に在る。それなのに、胸には大きな穴が空いているような気がするの」
その問いに、真実を云えるはずもなく。そうして虚実が彼女を満足させるはずもなく。私は正しい選択肢など見当たらぬ分岐点で、立ち竦む余裕すらないままに、心の臓を握り潰される思いで、慈悲などあろうはずもない酷薄な言葉を吐き出した。月光に散る桜の花弁の美しきは、儚きお嬢様の姿さえ隠してしまいそうで、私はその時にこの屋敷を出ようと決意したのである。最早以前のようにお嬢様と接する事など、出来なかった。
もしかすればお嬢様は全てを知っていたのかも知れない。そうしてそれを自覚していたからこそ、自ら記憶に蓋をして思い出さぬようにしたのかも知れない。遂に私がそれを知る事は無かったが、願わくば知らないでいる事を私は望む。お嬢様は新たな生を得た。死という生、言葉では云い表せぬ矛盾の存在である。であれば、それを好きなように謳歌する方が好いのは云うまでもない。私が望むのは苦悩なき安楽の道である。例え我が身は永遠の罪悪に苛まれようとも、お嬢様には、そして妖夢には、辛い過去の一切合財を忘れて過ごして欲しいと願っている。
叶うのなら、二人に生ある死が、死のある生が、在らん事を。――魂魄妖忌」
十八.
書物を捲る乾いた音ははたと消え、麗らかな春の暖気を覆い隠す宵闇の帳は、蔵の中を暗黒に染めていた。広きこの世界の内にただ一人取り残されたかのような感覚が、茫然自失の状態で佇む彼女をじわりじわりと追い詰める。ふと格子の付いた窓の外へ目を向けると、真円を描く月が浮いている。神々しい光は彼女の白い頬を仄かに青く色付け、眼下の世界を包み込むように静かに、彼方の空で佇んでいた。
頭の中に浮かぶ既視感にも似た、けれども確かな自身の記憶の映像は、一つ一つ鮮明に流れて行く。慕った者の面影はその中で色濃く浮かび上がり、彼女を更に孤独の内へと誘い込む。悪魔の甘言が何処か遠く、しかし耳の奥の方で明らかに聞こえる心持ちがした。今見た事を全て忘れ、不完全な現今を生きろと、今の彼女にとっては悲願にも似た都合の好い囁きである。彼女が一度辿った、狡猾な道である。太陽の光に目を背ける、闇の道である。
過去の自分は、と口中に呟いた。全てを思い出した彼女には、自分が見聞きし、した事の全ての理由が判然と判る。けれどもそれが正しかったと認める事は断じて出来なかった。取り返しの付かぬ過去に思いを馳せども心に安楽がもたらされる事は無く、深き絶望の底へと転がり落ちて行く自分を、支えて遣る事も出来ず、彼女はただ空虚な心臓へ自身の手を宛がうと、偽りの肉体へ爪を喰い込ませた。鋭い痛みが確かにある。この身体はある。けれども根拠は毫も無く、真の身体の在り処が、窓の外の向こう――西行妖の根にある事を、彼女は既に自覚している。
今までの自分に救いがあったろうか、という問いかけは否という無情な答えの前に容易く打ち砕かれ、昔日の残滓が一つ一つ胸に落ち、岩を穿つかの如く、彼女に筆舌に尽くし難い痛みを与えた。四面を敵に囲まれて、背後に流れる川すら無い中で、助けの叫びが届く事も無い境地では自刃以外に取る選択肢など有りはせず、いっそこの命が断てるものならば、忌まわしき自らの力でこの物語に終止符を打てたなら、彼女はどんなに安らかになれたのだか判らない。しかしこの力は、――生物を死へと誘う優雅な蝶は、決して彼女の命を蝕もうとはしない。自分の存在が消失する事を頑なに拒んでいるかのように、自らの根城となった彼女の内からは決して出ようとはしないのである。
彼の妖怪桜は、ともすれば今の彼女と同じ悩みを抱えていたのかも知れない。他の桜と同じように咲き誇る事もままならず、封印されては永久の冬を過ごし続け、長い時の中を大きな寂寞を抱えながら、声も無くこの白玉楼の庭の中で一人佇んでいたのかも知れぬ。それを思うと、彼女はどうしようもなく悲しくなった。
蔵の中に女の慷慨悲歌の音色が静かに響く。ぽつりと落ちる寂しき雫の音である。亡き人へ捧ぐ鎮魂歌の旋律である。世を厭い憂う者の慟哭である。――桜の花は、何時の間にか散っていた。
十九.
時が輪廻を巡り、季節は流れ、青き葉が煙る頃、未だ風光明美な景色を持つ庭を損なう事無く、白玉楼は静けさの中に佇んでいた。八雲紫が此処を訪れるのは久方振りの事である。最後に来たのは確か花見の席での事であったと記憶しているし、それから敢えてこの地を踏まなかった心苦しさも明らかに覚えている。それだから春の香を何時までも燻らせているかのようなこの庭は殊更懐かしく思われるのだった。一つの色を欠いた、皮肉なまでに美しい光景。
彼女は木々の連なる小道を歩いて行く気味で、境界を操る事も無く、雅な日傘を差して自身の足で屋敷の方へと向かう。そうして何もかも変わってしまったなと心中に呟いた。全く変化の見当たらぬ庭だというのに、感じる事は斯くも違うのかと寂しくなった。景色が、景色が灰色に染まって行く。黒く染まった桜の後を追うように、視界の中が暗く淀んで行く。目を差す陽光が憚りなく輝いている空の下、雲無き空は何処までも青く青くありながら、暗澹たる雲翳を漂わせているかのようである。感傷的になったものだと、紫は少しだけ自分の事が可笑しくなった。
屋敷の前には一人の女が立っていた。銀色の髪を風に靡かせる少女と形容するに相応しい姿である。その少女は紫の来訪に気付くと、慌てた様子で駆け寄って来て、「迎えにも出ずに済みません」と頭を下げた。
「そんな事を気にするほど心が狭い訳じゃないわ。こちらこそ、いきなり押しかけて」
「いえ、決してそのような事は。――ただ、紫様が此処へ訪れる理由に足りえた人は、もう」
「判っているわ。だからこそ今日まで此処を訪れなかったの」
「では、今日はどういう料簡で参られたのですか。この広い白玉楼は、すっかり寂れてしまったのに」
「何時までも目を逸らしている訳にも行かないと思ったのよ」
そうですか、と一言だけ返した少女は、ではこちらへと紫の前を歩き出す。屋敷の門を潜り、玄関を通って、長い廊下を何も云わぬまま辿って行く。風の音ばかりが耳を突く。やがて二人は一つの部屋の前、閉ざされた襖の前で立ち止まった。確かこの部屋は直接庭に面していて、春には見事に咲き誇る桜を朝夕眺める事の出来る場所であったと記憶している。そうしてこの白玉楼の主が最も気に入っていた場所であったとも記憶している。かつての時分には好く此処で話していたものだとも記憶している。だからこそ、この襖は重々しいまでの空気を匂わせている気がしてならないのである。
「幽々子様は、此処に」
そうして少女は恭しく襖を開けた。爽やかな風が途端に髪を撫でて行く。一番に目に入る庭の光景は、緑色に色付いて、燦々と輝く太陽の恩恵を享受している。此処も変わらない、紫はそう思った。
「本当に、眠っているのね」
少女に促され、部屋の中へ踏み入るとそこには一枚の布団の上で寝息を立てている幽々子の姿があった。何も変わらぬ顔立ちが、天井を向いて眠っている。青々しい夏の匂いはその光景と合わさって紫の頬を微かに緩ませた。しかし、昼寝しているのと同様の姿だけれども、幽々子が昼寝をする時は何時でも暖かな縁側なのだという事を紫は好く知っている。僅かに緩んだ彼女の頬は、すぐに真一文字に結ばれてしまった。
「ええ、紫様にお伝えした頃から、一度も目を覚ます事無く」
颯々と風が吹く。幽々子の髪の毛が僅かに揺れた。宙に舞う花弁の様である。それ故に儚く見えるに違いない。優しく頬に手を当てると冷ややかである。とても血の通う生き物とは思われない。けれども微かな寝息を立てる幽々子は生きている。生きながらにして死んでいる。幽々子にとって生と死は区別あるものではなかったはずなのにも関わらず、今では明確な境界が引かれている。紫はそっと幽々子の頬に唇を付けた。そうして懐から桜の花が煙った様を模したものを取り出して、幽々子の胸に添えて遣った。季節外れの花弁は、眠る彼女の胸の上に置かれている。
「私の口付が目覚める切欠になればいいのだけれど」
そう一言だけ呟いて、紫は立ち上がる。傍に控える少女は二人の遣り取りを見ても何も云わなかった。人の動く衣擦れの音ばかりが聞こえる。外界から持ちだされた桜の花は、それでも春の面影を思い出させんとしているようである。――ぱちんと、扇子を閉じる音が響き渡った。
「……貴方の長い長い夢に、幸がある事を祈っているわ」
紫はそう云って少女に帰る旨を伝えた。そうして部屋から外へ出ると、境界の闇の中へと消えて行った。後に残された少女と幽々子の二人は静かな時の中に居る。眠る幽々子の頬には薔薇色の花が、胸には桜の花が咲いている。少女は幽々子に向かって深く頭を下げると、それなり部屋を後にした。襖の閉じられる音が、全ての世界を閉じたような心持がした。暗黒、暗黒、白玉楼は深き闇の中にある。彼女の魂は果たして何処へ。……
巨大なる桜の前、蒼茫たる空を見る少女が一人。
懐かしい香りを感じた心持ちがした。枯れた梢から花が開いた光景を目にした心持ちがした。
何故此処に、何故此処に、何故此処に。答えのない自問が繰り返される。
あの太陽に向かって目を開けたなら、きっとその答えが判るに違いない。
けれどもこの身に吹くは罪障の風、黒霧は視界を染めて行く。
嗚呼この胸の想いは果たして……。
――了
自己陶酔の極致
ある一文を取り出して眺めれば相変わらず上手いな、と思うのですが……。
ただ文体は嫌いでないですし、内容も興味深かったので、そこまで苦にはなりませんでした。
話の流れ的にも読みやすかったので、俺は寧ろ高得点だな。
作品半ばから後半にかけて、展開の争いに伴う熱が燻ります。今回少し思ったのは、その熱が文の裡にて秘められすぎていたという印象です。一言『……と考えた』『……と思った』の中身は、剥き出しで明らかである筈なのに、何処か覆われていると。凄絶な熱を覆ったのは物語の展開上狙ったものだろうかとも考えましたが、この静かな始まりと終わりを見るに付けて、各々の想いの争いをもう少し見たかったというのも正直な処です……読み手として、些か私は我侭ですので、敢えて記させていただきます。
その眠り、如何なる場所へと誘うか。
あるいはもう、彼女は辿りついてしまったのでしょうか。
こうした色使いや表現は、個人として真似出来そうに無いので、憧れます。
重厚な物語、ありがとうございました!
話の構成(遺書→ラスト、も含めて)は今までで一番好きです。ええっと、そうだな、ただ慧音先生や……ええとあと居たかな、とにかく他の半分な人らも欲しかったですが。
森近の旦那は今までの作者の作品で読んできてるぶん、読み手もやっぱり愛着ってもんがありますが、時にゃあ邪魔になることもあるってもんです。
ただ今までン中で一番緩急のついてない話だとも感ぜられました。
序盤の幽々子が肌を露にする場面と、妖夢との日常や宴会の場面で、文章の綺麗さが変わらないのって欠点になりうるんじゃないかなと。
あまりこういった場では使われない文体なので尚更。
妖忌の苦しみ、幽々子の下を去るきっかけになった出来事についても、遺書の中で強くしっかりと表現されていたように感じました。
ただ一つ、設定面のツッコミで野暮っちいのですが、妖夢は生まれてからまだ六十年経ってない、少なくとも妖夢自身はそう認識してるという話だったように思います。
応援してます