ほらほら、雪がふる。
はらはら、って雪がふるよ。
ちらちら、その小さな音を聴いて、やわらかさに眼を奪われて、息を吸い込んだら真っ白な匂いと味が広がる。
どれもこれも、当たり前のこと。
だから、こうしてそっと雪に手を触れてみればつめたい。
それだって、どうしようもなく、当たり前のこと。
ねえ、そう思わない?
わからないか。
まだわからないわよね、あなたには。
私はそっと、心で思い、投げかける。
無邪気に、あなたは笑っている。何物にも染められていない、無垢の瞳。
『つめたくて、心地よいですね。それに、とてもうつくしい』
『うつくしさだけでは、いのちは保てないわ?』
そんな私たちのやりとりを眺めていた彼女が、ふと声を出す。
『花は本来、生命の象徴になるほどの力強さを秘めているのよ? うつくしさだけじゃないわ』
ああ、彼女ならそう言うだろう。
その言葉を受けた彼女は、微笑みながら言う。
『やっぱり、あなたはとても正直なのですね』
* * * * *
季節そのものに浸り続けるよりは、その移り変わりに誰しもがこころを踊らせるのだと思う。変化という名前のついた兆しは、新しいものに対する期待と不安、そのどちらも孕む。
そしてその時、確かに胸は踊るに違いない。歓びに満ちているのか、息も切れ切れで必死になって踊るのかは、まちまちだろうけれども。
「冬は深まり、いずれはまた薄らぐと」
春はまだ、少し遠い。あくまで、少しだけ。それが近付いてくる頃合は、多分私は誰よりもよくわかってるつもり。冬以外の季節なんて、想像し難いこと。ただ、秋と呼ばれるものが大分深くなっているらしい頃合と、春に片足半分以上突っ込んだくらいの時分のことは少しだけ知ってる。前者はとても透き通っていて、後者はとてもやわらかい。嫌い、な訳じゃない。でも、冬以外の名前がついた季節において、私が生きる意味が無い。
何故?
……なんでだろう?
その疑問の先を、私は考えない。だからやっぱり意味が無い。
ふと上を見上げると、お天道様はまだまだ高いところにある。あれが沈み、また昇り、目覚めの朝がいつも冬であれば良いのに。私の場合は実際そうだけど、冬が終わるともなれば、ひとつの眠りは若干長くなってしまうから。
区切りよく、千という数で考えよう。連綿と、陽の昇りと沈みが繰り返されても。季節の巡りは、私がそれを見続けることを妨げる。冬の落陽だけを感じ続けてきたけれど、冬を除いて眠っている間も続いている筈の夕陽が、どんな色をしているのかを私は目の当たりにしたことが無い。それはほんの少しだけ、さみしいことか。
「それにしても」
こうやって独り言を呟くたびに、思う。今私が声を中空に投げ出したところで、それを聴き取る相手が居なければ、意味が無いことなんじゃないかって。
勿論、私が出した声だから、私が聴いているのは当然のこと。でも私は声として言葉を口から放ったとき、毎度毎度それを自分で拾ってやろうと思っているだろうか?
ほら。その疑問にまた、意味が無い。
そんな思考を繰り返すのは、嫌いではない。嫌いではないということは、詰まるところ好きでもないということだけれど。
「ああ」
こんなにも静かで、つめたくうつくしい。それだけでいい。なんてありふれた、普通の冬。ごうごうと風を唸らせて、雪の原は舞い上げられて、もう前も見えないくらいになるのも、確かに冬の景色のひとつ。でもそれよりは、今みたいな落ち着いた様子の方が良いものかも?
こうやって考えながら歩くのは、やっぱり嫌いではない。
さく、さく、さく、と。踏みしめる度に音があるのは、私にかたちだけでも両の足があるせい。振り返れば跡が残るのも、やっぱりそのせい。雪の表面に窪みを残すのは、とりあえず好きだと思う。普段何かと比べたりしないと、良し悪しを把握しない私にしては珍しく、はっきりとそう思う。
それは確かな跡でありながら、知らぬ間に消えていく。だから、好き。
さく、さく、さく。
私以外の、小さな足音を。こうやって聴き取るのだって、勿論好き。これは、どかどか踏み鳴らしてくる音に比べて、のこと。
振り返ろうか。
振り返って、誰が私に近付こうとしているのか確かめようか。
でも、もう少し聴いていたい。そんな気持ちが昂ぶって、思わず辺りの気温をぐっと下げてしまう。風は起こさぬよう、少しも雪を舞い上げぬよう、ただ空気だけをつめたくする。そうなればなるほど、音がどんどん透き通っていくのを私は知ってる。
そんな最中。聴こえる足音が、どこまでもやわらかい。
「こんにちは」
振り返るときは、眼を瞑りながら。
もう、私の真後ろから音が聴こえていたのは、わかっていたから。
この辺りだ、というところまで、くるりと身体を回して。
眼を開けば、ほら。
やわらかい足音と、やわらかい声に相応しい、少女が立っている。
「こんにちは。今日は冷えるわね?」
私がそうしてるんだけど、ね。
そう思いつつ、なるべく微笑みながら、返したつもりだったけれど。
「ただでさえ寒いというのに。そんな風にするなんて、いじわるなことですね?」
笑っているかもわからない、それでいて無表情とも遠い、とても儚げな。そんな顔で言われたものだから。ああそうか、なるほどこの娘は、と。大概の察しをつける。長く生きていて、実際出くわすのは、どれ位ぶりだろうか。前に逢ったときのやりとりは、幾分愉しかったという記憶がある。
この眼。硝子のような眼が、私の視線を捉えている。
話し方を、考える。考えながら、思い出す。こんな心の動きも、きっとわかってくれるに違いない。
空気を冷やすのを程ほどにして、私は己の裡をつめたくする。この類と会話するには、必要なこと。
そうすることで、私が返す言葉と思いが、決まる。
「ええ。でも、つめたさと意地悪さを一緒にするのは、いただけないわ?」
そう思わない? ねえ、覚りの妖怪。
*
「よくわかりません。それらを一色汰にしたおぼえは、ないです、し」
両の手で身体を抱きながら、少女は言う。こうして外を歩くことを想定していたのだろうか、それなりに暖かそうな格好をしていた。
首巻と外套。あと、毛糸っぽい手袋。サイズが大きいのか、すっぽりとその小さな身体が納まっている。上着には中綿が入っているだろうか?
「そんな上等なものでは、ありませんが」
「あら、そう」
例え上等なものであったとしても、その程度の装備でこのつめたさを防ぎきれるとも思わない。実際の処、少女が黙っている間、その歯の根がかちかちかちと鳴っている音を私は聴いている。声が無いと、辺りは本当に静かで透き通っているから、些細な音でも耳に入る。外套の上で、目玉のようなものがきょろきょろと辺りを見渡している。
「つめたさを、あやつりますか」
「ええ。私はそういう妖怪よ? 今は若干抑えてるけど。あなたならわかっていたでしょう、私に声をかける前から。でもあなたは、私に挨拶をした。そういう礼儀は、そこそこ大切なことだと思うのよね。だから」
「だから、私を凍え死にさせることもない、ですか? その感覚も、やっぱりよくわかりません」
当然。私が自分でわかっていないことを、易々と他の存在に理解されても、困る。
あと、殺されるかもしれないと理解しながら、こんなにやわらかく返されてもやっぱり困る。
ひょう、と風が雪を舞い上げる。ああ、これは私がしようとしてしたことじゃないから。ただの偶然。
「どうしてですか」
「?」
ぶるりと身体を震わせて、少女が声を投げ出す。
どうして、と問う? 私は答えを、既に想った筈だったけれど。
そも、私は寒気を操るのを主をしているのであって、それに雪が降ったり風がつめたくなったりする結果がついてくるだけ。うまくやらないと、一緒に起きてしまうけれど。
私は今、空間の温度を下げるのは幾分意識的に控えている。だから今の風は、あなたを凍えさせようとして吹かせた訳じゃないの。
「その辺、わかってくれるとありがたいわ」
「いえ、そうではなく」
「うん?」
「ただ、白いから」
「白い」
「ええ、真っ白です。あなたの心に映る色が、とても白い。あまりにも。でも、あなたから聴こえる声が、とてもつめたく、とても静か。それが不思議です」
「それは、私がそうしてるからよ?」
覚りの類と話をするときは、心をつめたくする。それがいちばんであることを、私は知ってる。余計な熱を混ぜると、彼や彼女は大抵顔を顰めるから。そういうのに慣れている輩なら、顔には出さないけれど。
ひんやり、とつとつと零れる声を聴くのは良いと、ずぅっと昔に話をした。だから私は、そうすることにする。
「白は、空白の色。空白は熱を持ちません。ただ、からっぽの色です。なにもない。だから熱くも、つめたくもない。けれど、あなたの真っ白な心がとてもつめたい。どうしてですか?」
……そんなこと、言われてもね。遠い日のやりとりで、そういう指摘されたことは、無かった。
「未知との遭遇は、限りなくあるということね。今、そしてこれからも」
あなたはただ、それに出会って、想いを言葉として投げ出しただけ。
「それを受け止めれば良いと。そういうことですね。なるほど、わかりました」
「本当に?」
「私が本当のことを言っているかどうか、あなたに確かめる術はありません。私と同じ類で無い限り」
「あらまあ。かわいくない娘」
見た目はかわいいのにねえ。
「……うん? えっと」
「褒めてるの」
「……ありがとうございます」
ふっ、と笑いを零してしまう。この娘、見た目はなるほど、確かに幼い。妖怪として生きているならば、例えば人と呼ばれる生き物と同じ基準で、容貌と年齢を重ねてしまうというやり方はうまくない。それは知ってるけれど。それでもこういう反応を見ていると、「歳相応」という表現を使いたくもなる。
「ひとつは、わかりました。でも、もうひとつ」
「なにかしら?」
「どうしてそんなにひっそりと、静かに、ささやくように想う、のですか」
ふむ?
心のつめたさは、そこから紡がれる声の大きさに比例しない。
「って、言ってる?」
「そう、かも……」
なるほど、なるほど。どんなにつめたくしても、突き抜けるように通る声もあるだろうし、肺腑を抉るような怒号を孕む声もある。かもしれない。
「でも、私はそうしないわ。静かなの、好きなのよね」
大きな音よりはね。
「際立つでしょう、こうすると」
「際立つ」
「そう。逆に聞くけど、あなた、静かな様子って、どうやって理解するの」
「音が無い、だとか。当たり前かもしれませんが」
「然り。でも本当に、音が無い、って有り得ると考える?」
「えっと……」
「耳をすませなさい。声が邪魔をしなければ、僅かに揺れる枝の音だって聴こえる。もしそれが無くたってね、あなたにはちゃんとした身体があるでしょう。血と肉が。周りになんにも音が無ければ、あなたはその、心の臓を打つ音を聴く。生きている限りは、存外大きく感じられるかも」
私はこうして身体のようなものを持つけれど、中身は多分、からっぽなのよね。
「よくわかりません」
「正直でよろしい。静けさは、他の音と比べないとわからないと言っているの。そうね、たった今、私が一際大きく響くようにものを考えれば、静かさも目立つかもしれないけれど。こんな風に」
幾度、幾度と眠り、また目覚め広がるは冬! 与り知らぬ間に繰り返される、千の落陽!
「!」
一際大きく、想いの丈を私は心の裡にて叫ぶ。意識的にこうすることなんて殆ど無いのだけれど、どうやら上手くやれたみたい。今眼の前の彼女が、両の手で耳を押さえて顔を顰めている様子からもわかる。それで防げるものだとも思わないけどね。反射的なものかしら。
とりもあえず。ごめんなさいね?
「いえ、だいじょうぶ、です」
また、想う大きさをいつもの静かな塩梅に戻す。暫くは、きんきん響いてるかもしれないけど。
「確かに大きな音があれば、それがやんだあとにでも、今私たちが居る場所がいかに静かなのかがわかる。でもそんなことしなくたって、それ以外の音は本当に小さいでしょう? 私はそれを邪魔したくない」
「わかり、まし、た。小さな音が聴こえるほど静かな様子、と。そういう風にしたいと、あなたは言うのですね」
「そういうこと」
素直で、賢い子だと考える。いずれこの子が見初めた、あるいは見初められた、そんな誰かと一緒になるならば、良いお嫁さんになりそう……実に。旦那は隠し事、出来そうに無いし。そしてこの子は、彼女に良く似たかわいい子を産む。気が早すぎるかしらね。
そんなことを想っていると、ふるふると首を振って、若干落ち着きを取り戻した彼女が口を開く。
「からかわれるときの声は、もっとこう、どぎつい感じか、あるいはやわらかくふんわりとした、そこそこ暖かい色をしているものです。そんなに真っ白な心からそういう想いが視えるのは、やっぱり変です」
「悪い気はしないでしょう?」
「それほどは。あと、私はそんなに若くはありません」
「私に比べても?」
ちなみに私の歳はねえ、
「……そうですか。それなら私が幼いと呼ばれても、仕方ありません」
でしょう?
「ああ、あと」
声を小さくしているのは、とりあえず置いといて。白色がつめたい色をしているというのが不思議、というあなたの疑問が、私にとっては不思議。
「どうしてですか?」
「私にとっては、ごくごく当たり前のことなの」
私にとっての白は、空白のそれなんかじゃあ無い。答えは既に、あなたの眼の前に在りけり。
勿論、私が寒気を操るとき。その折、深い藍色の冬空を想像してもいい。でも、もっと簡単なものがあるから。
ほらほら、
「……ああ、」
はらはら、って。
「雪」
でしょう?
私が笑うと。彼女も少しだけ、微笑む。
*
さく、さく、さく。
今響く足音は、ふたりぶん。歩幅は相手の方が小さいから、私がそれに合わせることにする。
「……余計なきづかいなど、無用ですが」
「あなた、直ぐそうやって口に出す性質? 私のは気遣いなんかじゃあなくて、そうしたいからしているだけ」
そう返すと、彼女は何か言いかけたようで、口をつむぐ。
さとり。覚りの妖怪でありながら、その名を冠された彼女。
互いに自己紹介しあったとき、少し驚いてしまった。ああ、なるほどって。
名は体を顕すというのは、それなりに本当のこと。自分で名乗るにしろ、誰かからつけられたものにしろ、名前とはその存在そのものであるから。
さとり、ね。種族そのものを顕す名を、この子は託されている。それなりにいいとこ育ちのお嬢様、よね。やっぱり。
「……たまに、怒られます」
「うん?」
「覚りの妖怪は、視えたり聴こえたりしたものをみだりに口にするなと。そうすることで、角が立つと。心なんか読めて無くても、思ったことを直ぐ口にするのは時に図々しいし、時に馬鹿正直に過ぎるというのも、あります。でも私の場合は、声に出すことが的確すぎるから」
そりゃあ、ね。
「相手がわからないようなら、そのまま黙っておくのがよいと。父も母もそう言います。おかしなこと。幾ら放浪しても、私たちが覚りの類であることなんて、すぐに知られてしまうというのに」
確かに、直ぐわかる。覚りの類の眼は、あんまりにも透き通っているから。
「嫌われ者?」
「……たぶん」
「あら、そう。じゃあ私と一緒なのね」
「どうして?」
前へと歩を進めながら、お互いの顔も見ずに、ぽつぽつと言葉を零しあっていた。今なんとなく、彼女の顔に視線をやる。それで、眼が合う。吸い込まれてしまいそうな瞳の色だった。
「冬に生きる妖怪はね、いのち在る者には好かれないわ。いのちが無くなると、身体がつめたくなってしまうことをかれらは知っているから。本能で避けるのかもしれない。こんなにも、冬はうつくしいと言うのに。でも」
でも。
うつくしさだけで、いのちは保てない。それも多分、本当のことね。
「……あなたは私を殺さないじゃないですか」
「気まぐれよ、気まぐれ。それにねえ、殺そうなんて考えたら、己が殺される可能性を想像するべきだわ。何かを奪おうとするときは、奪われたときのことを想像する必要があるのと同じ。今はあれね、奪う対象として据えられていたのが、いのちだった。それだけのお話。ああ、人間が相手だと、ちょっと違うかもしれないけど。それは置いといてね、私はあなたと、そんなやりとりしたくない。あなたこそ、それを簡単にやれることくらいは理解してるつもり」
あなたは、覚りの妖怪であるから。
「私は、しません」
「どうして?」
「そう、したくないから。厭だから、です」
厭。その直情的な思いは、私にとって好ましい。
覚りの類は、妖怪として生きる割には、他と比べれば割かし温厚な方だと感じている。自分の力を、知っているからこそ。
むき出しの心に傷がついたら、治るのには結構な時間を伴う。だからこそそうならないように、様々な方法を用いて、時に晒し、隠し、その平衡を制御しながら守る。その守る為の行為が、覚りの類には通じない。直接聴き、視て、そして触れてくる。
触れる力。
その力に自制が効かないと、簡単に相手を壊してしまう。覚りの類とは、そういう存在。それが、彼や彼女たちが嫌われる理由なんじゃないかって思う。
「それだけでは無いと思いますが」
「そうかしら?」
「そう、だと、思います。誰だって心を明け透けに読まれるのは厭でしょう。何も隠し事出来ない。私が直接鷲づかみにしなくても、相手にとっては、もうそれをされてるのと一緒なんです。幾ら私が言ったって、聞いてくれやしない」
「それは、考えてやましいところがある輩が言うものだわ。私は特に気にしないけれど」
「稀です。大方は逃げ出すし、実際そうだったから」
私は彼女の心なんて読めないけれど、今どういう感情を抱いているくらいは、わかる。気がする。
「当てられますか? 私がどう思っているか」
「ふむ」
ひょう、とまた風が吹く。ちらちらと、雪が零れ始める。陽はいつの間にやら、大分傾き始めている。もう少しで夜が来る。静かでつめたい、夜が来る。
「何も無い、きれいな夜がひとつ、ありました」
「……?」
「何も無い、きれいな夜を過ごして」
すぅ、と息を吸い込んで。静かに、静かに、私は言う。私の身体は空気を温めてはくれないから、吐き出す息だって白くならない。
「あなたはきっと、それを忘れてしまいましょう、と思う」
少し、彼女は眼をまるくした。どうして? って、その眼が言ってる気がする。「どうしてわかるの?」という言葉には届かなそうな「どうして」だった。まあ、当たってるかどうかは、わからないしね。
「驚きは顔に出さないたちなのですが」
「あら、そうなの?」
「ええ。なので、一応改めて問います」
「どうぞ」
「……どうして、忘れてしまおうとする、のですか?」
それはね、多分。
「守るために」
昔も。今も。これからも。
眼の前から、いずれ儚く消えてしまうなら。
きれいな夜の思い出を、守るために。あなたはそれを忘れようとするんじゃないかしら。
「忘れてしまえば、それはもう、誰にも触れられないものになる。例えばその夜、星なんて降らなかった。はらはらと落ちてくる雪も無かった。ただの、本当に何も無い夜だった。あなたはそんなことすら、忘れようとして」
けれど、忘れようとすればするほど、心に残る。だからあなたはきっと、色々なことを覚えている。
あなたはそうやって、忘れようとしながら、思い出を積もらせていく。そんな気がする。
ただひとつ、守るために。もし本当にこの子がそうしているなら。賢いやり方では無いけど。愚直で、とてもきれいだと。私は、思う。
「当たっているところも、あります」
「あら、まあまあねえ」
「私には、忘れたいことがそこそこあります。そこそこ、ですよ? とても多い、とは言いません。それを語るのに、私はまだ世界を知らなすぎる。でも、そうですね。忘れようとすればするほど、私は忘れられない。はっきりと刻んでしまう。近頃は、考え方も変わってきました。そうやって残った思い出も、大事にしていこうと。だから私のやり方は、これからもきっと変わりません。今までは、忘れたい厭な出来事に対してばかりそうしてきましたけど。いつか、星と雪が降らなかった夜に出くわしたなら。同じようにしてみます」
紡がれた声が、小さいながらに凛と響く。
「あなたの思いそのものが、降り来る雪に似ているわ」
「そう、ですか」
「私が雪を例えに持ち出したら、本当に心から褒めてるのよ。忘れていいわ?」
「覚えておいて、ということですか?」
「問わずとも、答えは既に想っているわ。引っ掻き潰さない程度に見てみたらどうかしら。どんな感じ?」
「……つめたいです」
本当に、他愛ないやりとり。彼女は会話の合間合間で、ふと微笑む。今だって、そう。
久しく誰かと話すということをしなかった所為もあってか、幾分心が躍るような気もしている。気分が昂ぶりすぎると、彼女は凍えてしまうから、気をつけないといけないのだけど。
「是非ともそうしていただけると、ありがたいです」
「善処するわ。ねえ、ところで」
「なんでしょうか」
「こうやってあてもなくふらふらするのは、私は構わないのだけど。あなたは何か目的が在ったんじゃないの?」
それとも、ただの散歩?
「や、確かに目的はありました。でも、あなたとお話するのも、愉しかったし」
「それはそれは」
「……そも、私の目的は達成できそうにありません」
その表情に、僅かな影が落ちる。達成出来そうにないと、今言うのならば。それでも若干の期待を胸に抱いていた、そう解釈して良い筈。望みを無くして、いのちあるものは行動をとることが出来ない。
「花を」
「花?」
「はい。花を探していたのです」
「あらまあ。なんだって、こんな冬に」
冬に咲く花もあるけれどねえ。それにしたって、私とは縁遠い。
「どうして花を探すのかしら?」
至極真っ当な疑問を投げかけたつもり、だったけど。彼女はなんだかもじもじとして、気恥ずかしそうに頬を染めるのだった。
そんな様子を見れば……ははぁ。
「贈り物、ね? でもそれにしたってねえ、女の方から花なんて。おませ? ……や、それもなんか違うか……」
「ち、ち、ちがいます」
何が違うのかしら、……って思うだけでも、彼女を余計に煩わせてしまうばかり。なので、ちょっと自重することにする。多分今らへん、流石に私の心が真っ白だったとは、この子も言うまい。
「贈り物、には違いないのですけれど」
「ほらやっぱり」
「何がやっぱりなのです。あなたが思ってるのとは確実に違います」
それは残念。
からかいもそこそこにして、私は彼女の言葉の続きを、待つことにした。さく、さく、と雪を踏みしめていた足が、なんとはなしに、止まる。
顔を少しばかり赤らめた彼女は、ほぅ、と息を吐き出して。私の眼を見ながら、言う。それが、有体に言って、とてもしあわせそうだった、と私は思う。
「妹が、うまれました」
* * *
覚りの類に、また新たな血が繋がっていく。
新しいいのちが産まれる、それは単純に喜ばしいことだと私は思った。
「それなら、あなたはお姉ちゃんになったのね? おめでとう」
「ありがとうございます。はい。私……お姉ちゃん、です」
「妹にそう呼ばれるのは、もう少し先の話になりそうかしら」
「そうですね。でも、いつかきっと」
この子が、この子の妹に「お姉ちゃん」と呼ばれたときの情景が、眼に浮かぶようだった。きっと、仲睦まじい姉妹になるに違いない。
「そうでしょうか。私は不安ですけれど」
「どうして?」
「私は、考えすぎて騒がしいと、窘められますから」
「五月蝿いと思われそうということ? 考えるだけじゃなくて、よく喋るしね」
「それも……そうですね」
この子に対して本音を隠すのはそもそも無駄な話だから、私は明け透けにものを言う。
覚りの類は、前に出逢ったことを思い出してみれば、なるほど確かに何処か透徹とした雰囲気を保っている。音を同じく、文字を変えて表現するならば、まるで悟りを開いたような。そんな感じだった。
翻って見れば。この子は若干、雰囲気がやわらかすぎる。
「覚りとしてはらしくない、と」
「単純に言うと、そうね」
「歳をとったと言っても、私がまだまだ周りに比べて子供だからだと思います」
「そういう分析が出来るなら、子供とも呼びづらいところだわ」
それでいて、あなたは。妹に花を贈ろうと思った。
「はい。喜んでくれそうとか、そういうのは勿論無いです。わからないでしょうから。でも、あの子の傍らに花があると、良いなと。そう思っただけのこと」
「妹のお名前は?」
「平仮名にて、こいし、と呼びます」
「こいし……」
初めに思ったのは、地面に転がる小石の音だった。覚りの妖怪は、地を彷徨いながらにして、ひっそりとその生を終えると言う。誰にも気付かれず、ただ穏やかに暮らせれば良いと心から願ういきもの。
本当は、彼らの周りにはいつも花が咲き乱れていれば良い。穏やかな彼ら、もちろんこの子にもよく似合う、気がする。
大輪の花が風に吹かれて踊る。そんな光景を、私は知ってる。花には本当に様々な色があって、それが鮮やかという言葉で呼んで然るべきものであるということも。
「あなたは、冬にのみ生きる類なのでしょう?」
「ええ」
「じゃあどうして」
いっぱいに広がる花の光景を、知っているか?
そう問われるならば、私の答えは既に在るけど。
「花の好きな、知り合いが居るから」
「知り合い」
「そう。彼女は花を操る程度の能力を持つ。いつも笑顔を絶やさず、花を愛で、花と共に生きるもの」
「冬の間、その方はどうしているのですか?」
「この季節に合った花を愛でながら、ふらふらしてるでしょうね。最近はもう、あんまりあっちこっちに行ったりもしないみたいだけど。でも彼女のお陰で、私はひまわりと呼ばれる花がどんな色とかたちをしているのか、知ってるの。でも今は、冬の季節に外れた花を咲かせようとはしてない。単純に、面倒なんでしょ」
「……どうやってその方と、お知り合いになったのですか?」
どうやって、か。
その問いに対しても、やっぱり私の答えは、既に在る。
「彼女は花を操るから。やっぱり知り合うきっかけも、花繋がりよね」
こころの裡に向かって、深く思考を沈ませる。とある場所へたどり着くと、そこそこな大きさの箱がある。
「記憶をしまっておく箱、ですか。思いのほか小さい……でも」
「中身はごちゃごちゃだけどね」
取り出すから、ちょっと待ってて。直ぐだから。彼女との思い出は色々あるけど、探すのに手間はかからない。いちばん初めだから、いちばん古いもの。それでいて、時の流れで色が褪せるとも限らない。
「そうなのですか? ……でも本当、もう少し整頓しても良い気がします」
鍵をかけてしまっておくよりは、良いじゃない。
ああこれは、忘れようとして残ったものではないの。
ただ、ここに在るの。本当よ?
あ、これね。見つけた。あとは、これに手をかけて読んでいけば良い。そうすればこの子は、鮮やかにそれを視てくれる。
それにしたって、整頓はやっぱり必要なのかしらね?
「散らかってると、大変じゃないですか?」
「ああ、そういう心配? それなら別に。普段、もの探しなんてしないから」
* * * * *
笑顔だった。
彼女の笑みは、見るものの心を奪うものだな、と私は思ったのだった。冬だと言うのに、日傘などさして。ああ確かに、陽射しは強かった。その光が、雪に反射してきらきらとしていたんだ。
『褒めてもあなたに花なんてあげないわ。何しに来たの』
『なんとなく』
『なんとなく、で来られてもね。あなたが纏う空気はつめたすぎる。折角咲いた花が枯れちゃうじゃないの。さっさと何処かへ行って欲しいのだけれど』
表情は変えないまま、彼女は淡々と言ってのけた。私は私で、思うままに彷徨って辿り着いたわけだから、それをいきなりどっか行けと言われても困るだけだった。
『私が居なくたって、寒いには寒いでしょ。今更変わらない。それにこの花、あなたが咲かせたんじゃないの? この黄色いの』
『向日葵。知らないのかしら』
『未知との遭遇は、限りなくあるものだわ』
『なら、その眼にしかと刻むが良いわね』
『そうさせてもらおうかしら。ああ、本当に珍しいものを見た気分。私は冬の花しか知らないから』
私がそう言うと、彼女はやっぱり微笑んだままだったけれど、少しそれにやわらかさが伴った、気がした。
『冬は淡い色合いが多いかしらね。春が近ければ、雪割りの花。椿も良いわ。今くらいなら、山茶花がまたうつくしい』
そうやって、花の話をしている時の彼女は、本当に愉しそう。
私も何だか穏やかな気分になって、思ったことを口にした。
『そうね。冬は雪が積もるけれど、花は大地に根付くもの。そのくらいは知ってるわ。土はきっと、その季節に合った色を含むのね。花はそんな色を集める。だから冬には、淡く咲くのでしょう』
土は雪を食み、白色を取り込む。
『そういう淡さは、何処か温かみを持つものだわ。つめたい雪の色を含んでいるのに。今見てる、ひまわりと言ったかしら。この花は、それらとかけ離れた力強さがあるわね。夏……夏、と呼ばれるもの。随分暑いらしい、今と真逆の季節には似合いそう。でも、きれいね。とても』
『……ありがとう。少し、見たくなったの。私の我侭で、咲かせてみたの。でも、思えば悪いことをしてしまった。花はいつだってうつくしいけれど、季節の巡りに合ってこそ、一層映える。この子たちは、私の力で時違いになってしまった。せめて私は、それを愛でることにする』
何処か、遠いところを見つめた眼。微笑みは変わらないままだというのに、なんだかさみしげな顔。
改めて、私は問うた。
『その愛でる様に、私が関わったら何か不都合でも?』
『……別に。好きなだけ見たらどうかしら。眼に刻むと良いと、私は言ったわ。だからしっかりとそうしなさいよ、冬の妖怪……や、冬の女王さま、かしら』
『そんな風に呼ばれたことなんて無いわね』
『あら、そう? 有名じゃないの、あなた。直接に聞き及ぶことが無くても、まことしやかに囁かれてる。天道を拠り所にするものは、とても大きな力を持つだから。単純な腕力の話をしてるんじゃないわ? 勿論。季節そのものは本当に大きな流れなのだから、それに拠るものは強いって思うのよね』
彼女がそう言うならそうなのだろうと、私は小さく頷いてみた。
『春は芽生え、あらたなる誕生の力。夏は、熱を伴ういのちの謳歌と繁栄を。秋は豊穣、そして樹々を彩るうつくしさを司り。冬は、そうねえ。こんなにはっきりと、死を想起させる季節は他に無い』
『そうかしら。あなただって有名よ? 私は知り合いから聞いたのだけどね。花を愛でる、とても強大な力を持った妖怪が居ると。あなたはそうね、きっと夏がよく似合う』
『夏は好きよ。向日葵が綺麗だから』
『私は冬が好きよ。とてもつめたいから』
相容れない筈の、ふたりだった。実際のところ、うまが合うとも言えたものでも無い。花の咲く有様にはいのちが満ち溢れていて、私はきっと、其処からもっとも遠いところに居たから。
『今度はもっと、冬に似合う花を咲かせようかしらね。ああ、あなたにもっとも似合う花も、ちょっと考えたんだけれどね。私には専門外だったわ』
他愛ないやりとりの中で、彼女はやっぱり笑顔のまま。
今度、という言葉を聞いたから。その季節ののち、私は彼女の姿を、探すようになる。
ひまわりと呼ぶらしい花が、つめたい風に吹かれてゆらゆらと揺れている。
その顔は、しっかとお天道様の方へ向いていた。
* * * * *
陽がもう少しで、沈もうかというところ。千の落陽を数えるためのひとつが、またやってくる。夜の深い藍色ともまた違った、不思議な色をしている空。つめたさだけは相変わらず、私のこころを冷やしてくれる。
「花を好きだと言って、悪い方は居ないとききます」
「そうね、だから逢いにいきましょう」
「あなたの知り合いに?」
「そう、私の知り合いに」
太陽の畑と呼ばれる場所があるから。今年はまだ顔を見てないし、挨拶がてらに言ってみるのも悪くない。歩きながら、そんな風に思う。
「そうすれば、あなたは花を持ち帰ることが出来るかもね?」
「……嫌われないでしょうか、私は」
うん? ……言われて、少し想像してみる。
覚りの類と出逢った彼女。彼女が心を読まれることを嫌って、逃げていく……
「ないない」
「本当ですか?」
「その程度で逃げ出すような柄じゃ無いわ、彼女」
……多分。あとあなた、ちょっと泣かされるかもしれないわ。彼女の性質を考えると。私は平気だけどね。
「不安なのですが」
あら、そう?
*
冬の香りは真っ白だから、ほんの僅かでもそれ以外のものが混ざると直ぐにわかるのだろうか。今私たちが辿りいた場所には、沢山の花が咲いている。何処か、ほのかに甘い。
「落ち着きますね」
「風に乗って届くなんてね。花の香りなんて、本当は中々分かり辛いものだって思わない? 今年はちょっとやる気出してるのかしら」
地面を覆っているのは、存分に広がる花びらだった。一面の白色。さわさわと揺れて、茎の緑が顔を覗かせる。
こんなにも咲いているなら、それに紛れて気配も隠れて良さそうなもの。
「どういうことですか」
「後ろを見てみたら?」
彼女は言われるままに振り返り、私も同じ様に視線を向ける。
花を咲かせる力を持つ彼女は、それに相応しく花の香りを纏っている。だから、不意に話しかけられる前から、私は彼女が此処に居ることを感じることが出来た。
「あなたにやる気云々言われるのは、なんか癪なのよね。いっつもやる気ないでしょ、レティ」
私は普通だったけれど、さとりはそこそこに驚いた様子だった。今日はびっくりしてばかりね?
「……花に、心を奪われていたからです」
そういうことに、しておこうかしら。まあもっとも私だって、この花の似合う彼女が普段何を考えてるのかなんて、わかる筈も無いから。案外何も考えないまま、こっそり近付いたのかもしれないわ?
「お久しぶり」
「高々一つ年を越えたくらいで。お久しぶりなんてのは、もっと時を跨いでから言うのが相応しいんじゃないかしら、私たちの場合は。劇的に姿かたちが変わったわけでもない。これからも、きっとそう。人間相手だとまた話は別なんでしょうけどね」
「私は久しぶりだって思ったからそう言っただけのこと。言葉遣いの相応しさはあまり関係ないことでしょうに。それにあなたの定義に従ったら、私はずっとお久しぶりなんて言えないでしょ」
「はいはい。あなたの気ままっぷりには負けるわ。お手上げ」
明るい色合いをしたタータンチェックの服装が、私の記憶の箱の中にあるものと一致する。それと良く似た色の瞳。緩く巻いた風な髪に、笑顔も相変わらず。
「日傘はどうしたの?」
「必要無いったら。もう直ぐ夜が来るわ。こんなに陽が傾いてるんだもの。斜めに差せって言うの? 傘を。この頃合の陽射しは、力強さとはほど遠いわ。遮るまでも無い。こんなにも紅く燃えるような色だというのに。不思議ね」
ぼんやりとした夕暮れの陽射しが、私たちを照らしている。燃えるような紅の色。なのにどうしてこんなにも儚く、そしてつめたい。
私の、からっぽである筈の身体が、照らされて透けていくような感じ。白以外の色を見つめては駄目なの。染められてしまう。私はただ、染まってしまう。
「……熱を帯びました。僅かに。本当に僅かながらに」
薄紫の巻き毛を揺らせている彼女が、何だか心配そうな顔で私の眼をじっと見つめながら言う。あら、いけない。
また少し、心を落ち着かせることにする。何処までもつめたく。静かに。
「さっきから居るけど、この子は?」
「ああ、えっとね」
「ご挨拶が遅れました。古明地、さとりと申します」
頭を下げながら、とても丁寧な振る舞いで自己紹介を。私にしたものと変わらない。根が真面目なのだろうと思う。
「こめいじ、さとり」
「……はい」
「そう。私は風見幽香」
何かを値踏みする、という程でも無かった。幽香の燃えるような瞳が、何だか縮こまってしまっているさとりの眼を、しかと捉えている。
「天の花なんてどうかしら? この冬の女王さまと一緒」
「……私に似合いそうな花を、想像したのですか? でも、天の花って」
視えたものを直ぐ口に出してしまいがちな彼女の言葉を受けて、幽香は私の方に視線を向けてくる。
私は私で、心を読むことは出来なくとも。こうして私に笑顔を向ける彼女の考えてることがやっぱりわかる、気がする。「ああ、そういうこと?」とか。そういう感じの。
「当たってます。当たってるのですが、すみません、一体」
「あなたがうろたえてどうするの。別にいいじゃない。少なくとも私は、あなたを見て逃げ出したりする訳でもないんだから。レティと一緒に居るってことは、知り合いだってことでしょ? そして私は彼女の知り合い。ならあなたも、私にとってはそうなる。たった今から」
「えと、ええと」
ああ、まあ。よくわからないわよね。
「あなたたちは、知り合いと呼ぶよりは、もう友人というものではないのですか」
「友人?」
友人?
「私とあなたが。どう思う? レティ」
「どうかしら……知り合い、よねえ。普通の」
「え、ええ……」
友人、という言葉の定義そのものが曖昧というのも、確かにある。それでも私にとっての彼女が知り合いであるという認識は、初めて逢ったあの日から、そしてこれからだって変わらないに違いない。
冬において、いのちある花を愛でる彼女。彼女との会話を愉しむ私。それが普通。普通とは言葉の通り普通を意味して、それ以上にもそれ以下にも成り得ない。
「初めて逢った日から、これからも、ですか」
「そうねえ」
「初めてってなに、まだ覚えてたの? レティ。随分昔の話じゃないの」
「あなたとの記憶は、とっ散らかってる思い出の中でも探しやすいの。鮮烈な黄、ひまわりよね、あの色を辿ればいいから」
「……もう冬の向日葵は咲かせないったら」
私が彼女にひまわりの話をすると、ちょっとむくれた感じになる。それを見るのはちょっと好きだ。他の何物と比べなくても。ああ、これくらいのからかいなら、特に心の色は変わってないでしょう?
「そう、ですね。でも不思議です。やっぱりあなたたちは、仲の良い友人に見えます」
「だからそういうんじゃ無いのよねえ」
多分、言っても伝わらないのだろうけど。
その辺りは多分これから、花のすきな彼女が説明してくれると思うわ?
「考え方の違いなのでしょうね。友人って、そもそもどんなもの? 殺されそうなら加勢するとか?」
「や、そこまではいかなくても」
「友人だからそうするとも限らない。そうね?」
「……多分。でも、困ってたら助けるくらいのことなら、するんじゃないですか」
「私たちは、困らない。レティには負けるけど、私も気ままに生きるからね。日々は花に溢れ、それらに囲まれて、私はもう殆どそれだけで満たされるの」
私の場合は、冬そのものがあればそれで良いわね。それだけでいい。満たされる。私の気ままに負けるというのは、ちょっと納得出来ないけど。私そんなにふらふらしてるかしら? ……してるか。うん。
「そも、会話出来る輩自体が少ない。とても少ないのよ。私を私と知りながら話しかけてくるのは、大概私を殺して名を挙げようかっていう無謀なやつか」
其処で一旦息を吸い込んで、それを吐き出しながら、幽香は言葉を続ける。
「知ってて尚、なんとなくふらふら近付いてくるやつか、くらいね」
あなただって、私のこと知ってたじゃないの。あと私はあの時、あなたが居るなんて知らなかった。
そういう思いを込めて、微笑み返してみる。それでも彼女の表情は、やっぱり変わらないわけだけど。
「まあ、そういう感じで。言いたいことは何かっていうとね。知り合いも友人も、そんな変わらないってこと。私たちの場合はね。出逢いを経て会話出来る相手なら、知り合いと呼んで良いなって、それだけ。でも、友人と呼ぶにはね、なんかね。しょっちゅう逢うわけでも無し。私たちはお互い困らないし、殺しに来る輩が居たらそれぞれそれなりに応えるだろうし。私たちの命を奪おうって言うなら、そこそこ頑張る程度では駄目よ? ねえ、さとり。あなたが私の心を潰す前に、私があなたの身体を潰すでしょう」
その言葉ののち、小さな彼女がぶるりと身体を震わせたのを私は見た。
それもそう。彼女は裏表が無いし。今こうして投げ出された言葉が全くの嘘で無いことを、この子は理解してしまうだろうから。
「脅してどうするのよ。この子はそんなつもりなんて無い」
「説明上仕方無かっただけだってば。だって、この子は私の知り合いなのよ? 私はあなたを知り、あなたは私を知った」
「は、はい」
「なら、私があなたを殺す道理が無い。あなたが私を殺そうと仕掛けない限り」
本当、今見たところでも彼女の姿勢は変わってないし、これからもずっとそうなんだと思わされる。「なら」とか、いちいち「もしもそうなら」を前置きに据えるのは、結局のところ本音を口にするにしろ、素直じゃない彼女らしい。ああ、これは口に出さないでね? 彼女、そういうの指摘されると怒るから。
「わかりました」
「……今の、ちょっと間があったわね。怪しい。レティ、何かよからぬことでも思ったんでしょ」
「そんなこと無いけど?」
「本当に?」
「私が本当のことを言っているかどうか、あなたに確かめる術は無いわ。この子と同じ類で無い限り」
「言うじゃない、まったくもう。いいわよ。とりあえずね、さとり。あなたはもう、私たちの知り合いだから。友人では無いの? だとか、そういうのは気にしなくて良いの。あなたはレティと違って、冬を違えても目覚めているのでしょう。花を愛でに来るのなら、歓迎するわ」
「わかりました……あなたは本当に、鮮やかにそう思うのですね。これほどまでに、裡に秘めた思いと、投げ出す言葉が重なっているのって珍しいです。思いと言葉が異なる等、往々にしてあることですから」
「自分に正直と言って欲しいところね。それにしたって、私はあれよね。花のことばかり考えてるらしいから、色も様々なのは当たり前。視ると疲れるかしら?」
「いえ。普段なら、眩しいものを視過ぎるとそうなるのも確かですが。今は、真っ白な心が直ぐ近くにあります。それらが相まって、とても心地よく……あなたがたは、お互いを知り合いと呼ぶのでしょうが。それは勝手な言い分ですね? だから私も勝手に言わせていただきます。その関係は、友人と呼んで然るべきであると」
意を決した、という感じには届かずとも。幾許かの決意をその硝子のような瞳に宿して、この子は言う。
「その辺りはご勝手に。だって、私はもう説明したもの。それを越えたのちの価値観は、個々に備わるものだわ。あなたのそれが私たちに影響しないのと同じように、私たちがあなたの思いを潰そうとするなんて、おこがましい。尊重、って言うんだったかしらね? こういうの」
「……そうかもしれません」
「そんな曖昧な感じじゃあ駄目よ、さとり。あなた、争いは好まなそうな性質ね? でもそれだと、もしあなたが襲われたときの対処に不安が残る。ずかずか己の領域に踏み込もうとする輩が居たとして。話が通じ無そうなのであれば、容赦なくやり返すべきだわ。あなたはそれが出来る。ねえ。そうでしょう?」
途端、話が生々しい方向へ向かっていく。私はその様子を、静かに見ている。
「でき、ます。確かに。でも」
「でも、じゃ無いの。その譲歩は甘さをうむ。私たちは、助けない。眼の前に居たらその限りでは無いだろうけど、そうでもなければ、私たちはあなたを助けられない。私とレティはね、良かったの。そうそう、易々といのちを奪われることが無いだろうって、お互いわかってる。死んだらその時だろうって、やっぱりそれも知ってる。でも今、こうして知り合いになったあなたが心配だわ。きっとあなたは争いを好まないから。でも、駄目よ。抵抗しなさい。潰してあげなさい。相手の心を、全力で折りにかかりなさい。覚りの妖怪は、己が奪われることに寛容すぎる。それが当然だと受け入れる。どうして。心に触れる力があるから? 潰すことが出来るから? 己の存在そのものが害であると諦める? 馬鹿馬鹿しい! そんなことで!」
幽香の語気が荒ぶる。たった今、彼女の微笑みは消えている。私はそれを見守るだけで、止めることなんて出来やしない。
「殺しに来ると言うのなら。あなたが、あなたこそが、やりかえすべきだわ。確実に潰して、殺しなさい」
「えっ……う、う……」
たとえこの子が、泣き出してしまったとしても。
何故?
なんでだろう?
それは彼女が、私の気持ちをきっかりと代弁していたから。
私はこの子のいのちが奪われるさまなど、一向に見たくない。だって私の、私たちの、知り合いだもの。この子が泣くかもしれないという私の予想は、当たってしまった。
「あなたにはどうしても、伝えておきたかった。怒ってるわけじゃあ無いのよ?」
「は、い。こちらこそ、すみません」
ずっ、と鼻をすすり。僅かに零れていた涙を袖で拭いて、彼女は受け答える。
「あくまで、あなたが襲われたらのお話だから。それにしたって、あれねえ。さとり、あなたはとても大きな力を持っている。でもその心一つで、強きものが挫かれるのは、拙いわ。いのちまでは奪われなければ良い……そういうルールがあれば良いわね、きっと。相談してみようかしら」
「……あなたの、知り合いに、です、か」
「そう。あいつ考えてることはよくわからないけど、近々、……や、わからないか。もっともっと、後になるかもしれないし。一応のこと頭の中にはあるみたいよ。でも今はそのきっかけが足りないみたい。なんかこう、ねえ。いっそのこと、妖怪を区切るような結界があれば良いんだわ。妖怪が棲むための。そんな結界。あいつもそんなこと位は考えてるかもしれないけど、あなたと違って、私は心を読めないから。確証が持てない……いちいち確かめるのも、また面倒。それにしたってあいつは胡散臭いっていうか何て言うか。ああもう、泣かないでよ湿っぽい。私が悪者みたいじゃない」
「実際そうね、幽香」
「レティが言ってなかったみたいだから言ったんでしょ! 厭なのよ、ただでさえ知り合いなんて少ないのに、更にそれが減っちゃうのは! 何よもう!」
「結果論よ。何事も、やりとりの最後に起こった出来事が印象に残る」
ぷんぷん怒る幽香と、それに飄々と受け応える私を見て、さとりは涙を残しながら笑った。本当に小さく、やわらかい笑みだった。
「ありがとうございます。気をつけることにしましょう。でもやっぱり、私が相手のいのちを奪いにかかるのは、厭なのです。闘う気持ちが失せてくれたなら、それで良い。その際には、相手の厭な思い出を、存分に見せることにする。それくらいにしておきます。もしそれで私が敗れるようなら……その程度のお話だったというだけのお話です」
「やさしすぎるわ、あなた。それがちょっと心配なんだけどねえ……これは言ってもしょうがないのかしらね」
確かに。でもその辺りが、この子の良いところなんじゃないかって思ってしまう。
ああ、こうやって話しこんでいるうちに、夜が来る。深い藍色の空を見せる、夜が来る。
眼の前に咲いている白い花も、それに染められていくことだろう。
「紅が満ちる時間も、そろそろおしまいね。一面に染められしは白の花、と。どう? レティ。あなたが咲かせる花と競ってみようと思ったんだけどね」
「私は花を咲かせてるつもりなんて無いったら」
「それは言いっこ無しよ。そうそう、さとり」
「なん、でしょうか?」
「さっきも言ったけれどね。あなたに似合いそうな花は、やっぱり天の花」
「天の花」
花の名前を聞いて、さとりはずずいと身を乗り出しながら言う。
「あなたに、お願いがあります」
「何かしら?」
「私に似合うと言うのならば、妹にもそれを見せてあげたい。私は花を探して彷徨っていました。その花をどうか、私にいただけませんか」
「ふむ、なるほど」
「駄目、でしょうか」
その問いを受けて、問われた彼女は言葉を返さない。その静寂の間に、夜と名付けられたそれが、我が物顔で闇を広げ始めようとする。
「駄目じゃないけど」
「え」
「もうあなたは、知ってる筈なの。こうして踏みしめて。そうね。今にも天から降ってくるわ?」
そこまで言うか。ああそう、そういうこと?
なら仕方無いじゃないの、ねえ。
本来のところ、普段私がそれをしてる訳じゃ無いったら。
おなかのあたりに、力を込める。
私がそうすれば。ぐっと辺りはつめたくなって。
天は動き、白の花を舞い散らせるでしょう。
「天花。冬に降り来る雪を、誰かがそう呼んだ。何度も見ているでしょう? この白い花びらを。ほら、あなたにとてもよく似合う」
ほらほら、雪がふる。
はらはら、って雪がふるよ。
ちらちら、その小さな音を聴いて、やわらかさに眼を奪われて、息を吸い込んだら真っ白な匂いと味が広がる。
どれもこれも、当たり前のこと。
だから、こうしてそっと雪に手を触れてみればつめたい。
それだって、どうしようもなく、当たり前のこと。
ねえ、そう思わない?
わかるでしょう。
ねえ。今のあなたなら。
言葉を、心の裡にて描く。届かせるように、と。特別願わなくても良い。今、私のあるがまま。それをただ視てくれれば、それで良い。全て伝わるのだから。そうでしょう?
「うつくしく……思います。私も、そう思います」
そう。なら、今聞いた言葉は、私の記憶の箱の中にしまっておくことにしましょう。
「そこまでのことですか?」
「そりゃあそうよ。私が幽香に勝った記憶だものね。散らかってる中でも、割かし良い位置に放り込むことにするわ」
私が言うと、幽香はますますぷぅっとした表情で言い返すのだ。
「本来あれよ、いのちある花と、天から降る雪を一色汰にしようってのがうまくないわ。この花びらは持ち帰れない、あなたの妹には見せられない。連れてきなさいよね、此処に」
「え、でも、うまれたばかりでして」
「だったら暫くしてからで良い。出来れば冬が良いわ? 知り合いと一緒に見たいものね」
幽香が私の方を見て、にやりと笑う。其処まで意地にならなくても。
「かたちに残るものもそこそこ大事よね、幽香。この子は、ちゃんと『今、これから』、妹に見せてあげられる花を探しに来たの。その為の花くらい、お土産に持たせて良いわよね?」
「む、……」
仕方あるまい、って。今思ってるんじゃないかしら。彼女。
「当たってます。ありがとうございます、幽香さん」
「いちいち解説しない、まったくもう。どうせあなたたちが知り合いになったのだって、私よりもちょこっとだけ前の話なんでしょ? なのにこう、随分仲良しみたいで。あなたたちが黙ってる間、どんなやりとりしてるのかってのが気になっちゃうったら。ずるいわ、なんか」
「やきもち?」
「違うっての。ああ、でもあれね。さん付けで名前呼ばれるって久しぶりだったわ。さとりには、妹が出来たのよね。良いわよねえ……私もあなたみたいな妹が居れば良いのに」
あ、それは私も思った。この子はお姉ちゃんと呼ばれる存在になったわけだから、言わなかったけど。こういう、なんだかこう、ふわふわやわらかい感じの妹が居ても、多分愉しい。
「そう、なのですか?」
「気にしなくて良いわ。ま、私たちの場合はねえ。お姉ちゃんと言うよか、もうお母さんかお婆ちゃんって呼ばれちゃうくらいには、年とってるものね」
「それこそ言いっこ無しにして欲しいんだけど……」
「昔、言ったことがあるんです。両親に」
「うん?」
「本当に、随分昔ですよ? お姉ちゃんが欲しいって言ったら、とても複雑な心の色を垣間見ました。今思い出すだけでも恥ずかしいのです、が……」
……幼さゆえ、かしらねえ。
「実際の血の繋がりを持つのは無理なので、心でひっそり思うことにします。あなたたちのようなお姉ちゃんが居れば良かったなと。愉しそうですから」
「あら」
「まあ」
流石に、ふたりして眼を丸くしてしまう。世辞にしてもねえ。うん。
ねえ今、私たち、どんな風に思ってる? よくわからないんだけど。自分でも。
「……もう一回言って、ですか? お姉ちゃん」
「レティ。この子持ち帰っていい?」
「駄目よ。家に帰すのよ」
「え、え、それほど……」
うろたえてしまう小さな彼女を見て、私たちは笑ってしまう。
冗談よ、冗談。持ち帰るってのはね。でも、なんだか嬉しかった。それは本当。また、覗き見て御覧なさい。きっと幽香も、私と同じ様に想ってる。
「とりもあえず、ねえ。花が欲しいんだったかしら。天花は持ち帰れないし、けれど地上に居るなら、いずれあなたの妹もそれを見て理解するでしょう。どんなに天の花が、あなたに似合うのかを……ああ、妹のお名前、なんだっけ?」
「こいし。古明地こいし、だそうよ」
ふむ、と。腕を組んで、幽香はひとり頷く様子を見せる。
「恋思。恋を思う、か。良い名前ね、恋は花に似た色を孕むから。それを思うと言うのなら、きっと誰からも愛されるでしょうね。恋そのものは、嫉妬や己の我侭にまみれたものかもしれないわ? でも恋を思うのは、相手の心を得たいと願う、花の蕾に似ているのね。花開くのに相応しい期を待っているような。そんな風に、私は思う」
それを聞いて、そういうのもあるかしらね、と頷く私だった。私は別な音で彼女の妹の名前を捉えたけど、そういう願いが込められていても良い。
「……どうして妹がその名を得たのかを、私は知りません。幽香さん、あなたの思った意味は、情熱的でした。レティさんが思ったのは、とても静かでひっそりとしていた。どちらの意味でも、素敵だと思います。聞いてみますね、これから帰ったら。そしていつか、それを妹に伝えてあげたいと思います」
もうすっかり涙は乾いて、彼女はいつもの調子を取り戻した様子。
「夜が深くなったら、帰るのも大変でしょう。花は、そうね。この辺りに咲いてるものを、手折って良いわ。待雪草。もうそろそろしたら、レティも眠っちゃうしね。名前とは裏腹に、春を告げる花としては相応しい。きっと妹にもよく似合うわ。ああ、ちゃんとその花は、いつか土に還すことをお忘れなく」
「……ありがとう、ございます」
屈んで、二輪ほど、やさしい手つきでさとりは花を手折る。
目的は達成出来そうに無いと思っていた彼女。今それが叶って、多分今日でいちばん、良い笑顔をしている。
「いつの日か、妹を連れて此処に来なさい」
「待ってるからね。私たちの姿は、季節と場所を限れば、割かし簡単に見つけられるから」
静かに淡々と、私たちは言う。熱を込めず。とつとつと。あなたに話すときは、きっとそういう風な塩梅が相応しいって、私たちは知ってるの。心地良いって、そう言われたから。
「そうなのですか?」
「そう。随分昔のお話ね? 幽香。こうして会話するのは」
「ああ、そうねえ。覚りの類と出逢うのは、初めてじゃないってだけのお話。ああ、それはでも、また次に逢ったときに言うわ。今はもう夜が来るから。そろそろお帰りなさい、あなたの家に。家族が心配するでしょう? そういうのはうまくない。途中まで送っても良いわ?」
「いえ、大丈夫です。もし私が襲われても、いのちを奪ってしまわない程度に抗いますから。簡単にやれると思います。存分に、相手のトラウマを見せ付けて上げます」
「そうしなさい。簡単に奪われるよりは、抗った方が良いわ。見た目がかわいらしくても、貪られるだけが花じゃないの。逆に相手を貪るくらいの、怖い花もあるものだわ」
やっぱり今も、本気で言ってるのだろう。得意気に花を例えに持ち出す彼女の顔を見て、心を読むほうはと言えば、ちょっと苦笑い。
「それじゃあ、また」
「気をつけてね」
「はい。また、いつか」
花を手に携え、さとりが太陽の畑から去っていく。何度も何度も振り返って、その度に私たちは手を振って、彼女はそれに答えるように手を振り返して。闇に馴染んで、小さな影が消えていく。
名残惜しいな、と思ってしまったのは、本当のこと。
そんな折、私と同じくしてこの場に残された彼女が、ぽつりと零す。
「大きくなったわよね。同じ妖怪だったとしても、あれくらい劇的に変わってれば。あの子にこそ言って相応しい言葉じゃないかしら。お久しぶり、なんてね。まあ、覚えてないでしょうけど」
「ああ、そうでしょうねえ」
随分、昔のお話。
あの子が、まだ生まれたてだった頃。
無垢の瞳を以て、空から降り来る雪を、じっと見つめていた。
母親と、ともに。
「あの子の妹を産んだくらいだから、きっと元気でやってるんでしょうね。久しぶりに逢ってみたいものだわ。連れてきてって言っておけば良かった」
「大変なんでしょ、色々と。覚りの類は、生きている間は地の上を彷徨い続ける。でも生きてさえいれば、またいつか逢えるかもしれないわ? それにしたってね。懐かしい、確かに。私たちは、あまりに長く生き過ぎたのかもしれない」
「生きることに飽いたところで、私たちの命は連綿と続く。そうでしょ?」
先ほど、さとりがしていたのと同じ様に膝を折って、花を撫でながら彼女は言う。
まあ、確かに。私は私で、数少ない知り合いであるあなたが笑ってるところを、こうして見続けるのかもしれないし。
今日という日に、花を探して彷徨い歩いていたあの子の微笑みを、また見られるのかもしれないし。
「またいつか、って。あの子は言ったわ。自分でしといてあれだけど、約束なんて柄じゃ無いわよねえ。私たちは」
「本当、そう。でもまあ、良いんじゃないかしら?」
「良い、って。適当ねえ」
「ここまで来たら、そういう適当さ加減を極めてみるのも悪くないわ」
何かとせわしいのに比べたら、のんびりしてた方が良い。今みたいな時間が、きっと良い。
思いながら、見上げる空は透き通る。
「夜空を見ると、明日の天気がわかるらしいわ。どう思う?」
「あなたが雪を降らせなければ、晴れ」
「あれは勝手に降って来るだけなんだってば」
「結果論よ。辺りをつめたくする原因が、眼の前に居るのだから」
「……はいはい」
気ままでいられるのも、ほんの少しは大変そう。大変正直な知り合いが、いちいち突っ込んでくるものだから。
「まあ、本当に晴れると思うわ。月がちょっと隠れてしまってるけどね。でもお陰で、見てよあの雲の隙間。なんにも、なんにも見えない。からっぽだわ」
月明かりが少ないと、本当に辺りは暗くなってしまう。視界の広がる先が、果てしなく何も無いように見える。今日という夜に、星は降らない。雪も、多分降らない。
「今日は約束のようなものが出来た。明日は晴れて、何も無い一日になりそう」
私が言うと、彼女はくるりと背を向けて、ぽつぽつと零し始める。
「待つ愉しみ、とかいうやつかしら? 本当、柄じゃ無い。私たちは良いわ。長い間待ちに待って、次第に忘れた風になってしまったとしても、きっと消えない。顔を見れば、また思い出す。だから、いつまでも待っていられる。でも、あの子がそうとは限らない」
「そうね」
「奪われてしまわなければ、いいわ。いつまでも穏やかであればいい」
「……そうね」
「柄じゃ無いついでに、願ってみようかしらね」
「あら、珍しいこともあるわね?」
本当に珍しい。彼女、そういうことも言うのか。珍しいから、これも記憶の箱の中に放り込んで置こう。
ここまで考えて。きっとこの場に、つい先ほどまで居たあの子が居たのなら、私と一緒に笑うことがあったかもしれない。そう考える。
仮定だ。今眼の前に無いことは、全て仮定を以てでしか語ることが出来ない。
今はもう必要無いというのに、私の心は今もまだ、真っ白なままにしている。
「くうはく」
言葉が、零れ落ちる。
空白。からっぽの。何も無い。もの。
星が降らない。雪が降らない。つめたい空。でも、あの空の色が、真っ白からほど遠い。夜の色に染められてしまって、地に広がる花の白も見えない。雪の原に、影が、落ちない。
「また、逢えるといいわ」
「さっきからそう言ってるったら。待ちましょう。静かに」
そうね、と。返した言葉は、彼女には届かず。そのまま、本当に僅かな風に掻き消されて、消えていく。
そうして。願いに似た、それっぽいものだけが、からっぽの中でぽつんと佇んでいる。
* * * * *
『ひとつの処に、留まることは出来ない?』
これは、花を愛でる彼女の言葉。
『難しいですね。私たちはなんと言っても、嫌われているから。怨霊ですら、忌み嫌うでしょう』
これは、母となった彼女の言葉。
『心のうつくしさだけで、穏やかに暮らせるのなら』
これは、私の。
『無駄に長生きだから、大丈夫よ。いずれまた、逢うこともあるわ』
何の確約も無い、言葉。
生まれたての赤子が、中空に手を伸ばし、雪に触れようとしている。無邪気に。
『あらあら。あんまり触っちゃ駄目よ? 触りすぎるとね、しもやけいたいいたーい、になっちゃうわ?』
いつもより三割増しくらいの笑顔で、母に抱かれた赤子をあやす幽香。それに答えるかのように、その小さな手が、幽香の指を握って掴む。そうされて、また「あらー」とか言い出している。
……大変珍しいのだろう、けれど。これくらいなら、彼女がしたっておかしくない。まあそもそも、花を愛でるものに悪い輩は居ないと思う。
『この子が大きくなったら、あなたに似るのかしらね?』
『母となって尚、私がかわいいと思われているのは複雑な気分ですが』
『からかってる訳じゃあ、無いったら。わかるでしょ? 見て御覧なさい』
『……つめたいです』
誰から逃げるというわけでもなく、親子はこの場所に辿り着く。彼女は己のことを嫌われ者と呼ぶけれど、それは私たちだって大概当てはまってると考えて。ふたりに向けて、視線を交互にやってみると。どちらも、ちょっと苦笑いの様子。
『本当に、懐かしいわ』
『ええ』
『またこうして、お話が出来ると良いわね』
『ええ、本当に』
千の落陽をひとつに束ねて、また千の……は、行き過ぎかしら? 百個の束を越えるくらいにしておこうかしらね。
『それでも、途方も無く長い時の刻みです。その頃にはもう、この子もすっかり大人』
『お嫁さんに行っちゃうかもしれないわね?』
『……想像し辛いですね、なんとも』
こんなやりとりが、続けば良かったのに。
ふと、幽香は言ってしまう。
『ねえ、あなたはもうお母さんになっちゃったわ? 結局、あなたの妹に、まだ逢えてないんだけれど』
そうか。やっぱり、そうよね。それを口にしてしまったら、駄目になってしまうとしても。それが、わかっていても。
私は彼女に、名前を呼ばせてしまうだろうから。
『ねえ、さとり』
当たり前だ。
これは、私がただ、願う。
過去から引きずり出した、当たり前の、普通の、何も無い、未来の想像なのだから。
* * * * *
「レティ?」
呼ばれて、ふと我にかえる。
「ああ、ごめんなさい。ぼーっとしてたわ」
「それ、しょっちゅうだと思うんだけど」
「そうかしら?」
「ええ」
私たちのやりとりは、変わらない。一度の冬に話をする機会だって、そんなに多くは無いけれど。それでもこうして、続いている。
冬に相応しい花が咲き、彼女はそれを笑顔で愛し、私がそれに加わる様子。
「何を考えてたのかしら」
「うん? ……何かしらね。当たり障りの無い、普通の未来のこと」
「何よそれ」
千の落陽、その束が百に届くか届かないか。それ位の時を経て、尚変わらない私たち。
それでも、本当は。ほんの一瞬、刹那の先のことだって、誰にもわからない筈なのだ。そういう力、先を見通せるような力を持った存在なら、また別のお話なのだろうけれど。
「良い天気ね。風も穏やか。雪も降らず、それでいてつめたい最中、さんさんとお天道様は輝く。素晴らしいことだわ」
「ええ。本当に何も無い一日じゃない。いつも通り」
日傘を差して、彼女は微笑む。
変わらない日々は、嫌いじゃない。意味はあんまり無いのかもしれないけれど。
ぼんやりと、視界が曖昧になっていって。思わず、眼を閉じてしまいそうになる。
『ちょ、ちょっと待ってください、早すぎます』
『お姉ちゃんが遅いのよ! ほら走って!』
さくりさくり、と。軽やかに雪を踏みしめる音と、賑やかな声。
私にしては珍しく。本当に珍しく、それも厭とは思わなかった。
これは、私の想像が続いているのかしら?
「どう思う? 幽香」
「眠いんじゃない? 春が近いから。ああ、でも。これだけは言っておこうかしら」
彼女は私の頭に手をやって、くしゃりと髪を握る。
「もう少しだけ、起きてなさいよ。出来ればまた、雪を降らせて欲しいものだわ? ……ほら、あの子には、とてもよく似合うから」
……そうね。
何をお話しようか。
元気にしてた? これまでずっと、どの辺りを彷徨っていたのかしら。
ありきたりなことしか、浮かばない。でもそれだって、当たり前のことだと思う。私はずっと想像していたから。記憶の箱の片隅にあったものに手をかけて、そこから紡ぐことが出来た未来は、何だってありきたりな、普通のものだった。
ああ、そうか。初めに、しておかなければならない。
私は私の心を、つめたくする。ひんやり、静かに、真っ白に。
あの子、ちっとも変わってない。少し、背が伸びたかしら?
初め小さく見えていた姿が、段々こちらに近付いてくる。あの子の手を引いているのは、きっと妹なのだろう。あんなにはしゃいで。随分と快活そうな。仲睦まじい姉妹になるって。やっぱり私は、間違ってなかった。
「私はもう、とりあえず話すことは決めたけど。あなたはどうする? レティ」
そう問われるならば、私の答えは、既に心の中に在る。
直ぐ此処にやってくる筈の彼女たちに向けて。はじめまして、おひさしぶり。
今、まさに。そう、声に出すのだ。私が投げ出した言葉を。彼女たちは、拾ってくれるに、違いないから。
そしていつも通り、心地よい音を感じ取れました。
じっくり読める作品、どうもありがとうございました。
彼女たちの会話も面白かったですし、ゆっくりと時が過ぎていくようで良かったです。
さとりとこいしが近づいてくるのを見ている幽香やレティ、
そんな彼女たちの関係がとても暖かく感じました。
それと少し気になったのですが、句読点がかなり多いと思いました。
「空白」というモノの考え方が変わった気がします。
疎まれ者の花談義って感じですかね・・・
対称的な存在なのに、どこか近い存在だと感じました。
表裏一体なんて言葉もありますし、対称的なようでいて、実はとても近い存在なのかもしれませんね。
良いお話をありがとうございました。
欠落した俺の感性に響くぜ
綺麗な会話に惚れそうです。
雪がはらはら降り、花々の香りも漂ってくる。そんな光景が目に浮かんできます。
何度でも読んでみたくなりますね。
素敵な感性です。味わい深かった。
小石は聞いたことがあったけれど恋思は斬新でした
ただ少し読みにくかった部分もあったので-10で
雪が恋しくなりました。
最近、幽香さんに影響されて花を育てるようになりました、まだ花にはなってませんけど。
こういう作品を読むといつも思います。四季のある国に生まれて本当によかった。
なのにどうして、とか。無粋なんでしょうね。
結末に救われました。ありがとうございます。
淡々として、それでいて暖かい
最後のタイトル回収が素晴らしかったです