魔法の森の外れに向かって、一匹の黒猫が歩いてゆく。昼間から薄暗いこの森は、日が傾くにつれてさらに暗さを増してゆき、そろそろ日も落ちようとするころになると、陽光が差し込んでいるあたり以外では、黒猫の姿が判別しにくくなる。ただし、黒猫は、特に迷う風でもなくどこかを目指して進んでいるようであった。時折立ち止まって周囲を見渡しては、また歩き出す。そんなことを幾度か繰り返していると、やがて森の外れの、少し開けたところに出た。
そこには、できるだけ目立たぬように、周囲の自然との間に違和感を覚えさせないように造られた家が一軒。黒猫は窓から漏れ出る灯りに誘われるように近づいてゆく。中には、青年と思しき人の姿があった。椅子に腰掛け、本を読んでいる。時折、ページを捲る仕草がなければ、その家の中は時間が止まっているのではないかと思われるくらい、微動だにしない。黒猫の背丈では中の様子までは確認できないようで、窓の周囲をぐるぐると探っていたが、やがて窓の一点に目を留めた。鍵が、開いている。
黒猫は、窓枠を品定めして、自分が体勢を保っていられるだけのスペースがあると考えたのか、体のばねを利かせて、音もなく窓際に飛び乗った。しばらく、安全を確かめるようにじっとしている。どうやら大丈夫らしいと判断したところで、尻尾を器用に使って窓をしずしずと開けると、そこには猫一匹が通れるほどの空間ができていた。家の中に入るのは、さしずめ人間であれば階段を降りる程度の難しさであっただろうが、黒猫はじっと青年を見つめている。ところが、相も変わらず青年はページを捲り続けており、窓が開いていることも、彼を見つめる視線があることにも気づかない。そのうち、黒猫が地面に降り立った。少し音を立てたのは、どうであろう、完全に無視されたことへの抗議だったのかもしれない。
家の中も、まるで時間が止まっているかのようである。空気が積もっていて、動かないのだ。とはいえ、澱んでいるわけではなく、息がつまりそうになることはない。奇妙な懐かしさと温かさを埃っぽさでくるんだような感じで、黒猫にとっては、むしろ旧知の雰囲気ではなかっただろうか。どこか安心したのか、欠伸を一つ入れて、丸くなって寝そべる。顔は青年に向けたままであり、黒猫が諦めるのが早いか、青年が気づくのが早いか、我慢比べを始めたようであった。
しばらく、ぱらりぱらりとページを捲る音にのみ支配される。
青年が本を読み終わるまで続くと思われたこの時間は、しかし、存外早くに終わることとなった。窓が開いた隙間から、風が迷い込んできたのである。青年が空気の流れに違和感を覚えて顔を上げると、そこには黒猫が鎮座していた。一瞬、眉を顰めたが、窓を見て察するところがあったらしく、本を閉じると黒猫に向き直る。
「いらっしゃい。小さなお客さん」
黒猫は青年の応対に満足したのか、にゃーん、と一声返す。
「鍵を掛けるのを忘れていたのは僕の責任だから、勝手に入ったことは不問にしよう。ただし、次に来る時は入口からだ。いいね」
にゃあ。
「良い子だ。しかし、黒猫とは。幸か不幸か、どちらの使者だろうね」
黒猫は、今度は無言であった。小首を傾げるような仕草をしていたので、意味を掴みかねたのだろうか。青年は、これは伝聞にすぎないのだが、と前置きして続ける。
「魔女が人間にとって畏怖の対象であり、排除しなければならないとされていた時代においては、黒猫は魔女の使い魔だと考えられていたんだ。だから、黒猫が目の前を横切ったりすると、人々は自分が魔女に目をつけられて、呪われるのではないかと思った。それ故、黒猫は不吉だと言われるようになったのさ」
にゃん。
幾分、語調が強かったのは、否定の意を表したものか。青年は、微笑を浮かべて、言葉を継ぐ。
「ただ、僕はこう見えても商売人でね。黒猫は一方では商売繁盛をもたらすという言い伝えもある。黒地の猫は、商家にとっては黒字に通ずるからだろうが、僕としては、その説に従ってみようと思っている」
青年はゆっくりと立ち上がると、黒猫に近づいて行った。もっとも、黒猫は警戒心を解いていないのか、跳び退って距離を保つ。その様子に、青年の微笑が苦笑に変わる。
「やれやれ、警戒されるほどの力は持ち合わせていないのだが」
そう言うと、少し待っていてくれ、という言葉を残して家の奥へと消えた。黒猫は、独りになったが、出て行く素振りはない。家の中を見渡している。ただし、家といったが、先ほどの青年の言葉が正しければ、ここは店である。確かに、青年の生活とは関係なさそうな品が置いてはあるのだが、雑然としており、商品としての体をなしているかといえば、疑問がある。
黒猫はというと、何か獲物を見つけたようで、するすると棚の近くに寄って行く。そこにあるのは、赤いリボンのついたヘアゴムで、黒猫が器用に前足を差し入れると綺麗に納まった。黒地に赤が映えて、とても良く似合っている。そこへ、後ろから声がかかる。
「それは一応売り物なんだが、仕方のない子だ。まるで誰かのようだね」
青年は特に残念がった様子でもなく、淡々とした口ぶりで、足もとに皿を置いた。皿の中には、牛乳と思われる液体。黒猫は器用に白い液体を舌で舐めとってゆく。どうやらご満悦のようで、喉を鳴らした。
「自分で言っておいて何だが、確かに魔理沙は黒猫だ。とても人間だとは思えないようなことをする」
青年の手が黒猫の背を撫でる。
「魔理沙というのは、何と言ったらいいか判らないが、まあ親戚の子供のようなものだ」
一定のリズムで背を撫でる。
「彼女が本当に小さな頃から見知っているが、人間は変化が早くてね。たかだか十数年でかなり大きくなった」
黒猫は気持ちよさそうに目を細めている。
「もう十数年もすると、僕よりも大人びた姿になるだろう。その頃には、精神的にも成長してくれていると有り難いのだが」
そのうち、眠気を誘われたのか、欠伸をして、全身をぶるんと震わせる。
「大人しい魔理沙を想像するのは難しいな。僕はそこまで想像力が豊かなほうではない」
黒猫は、今度は青年の手で遊び始めた。
「しかし、魔理沙から見た僕というのはどういう感じなんだろうか」
青年の指を捕まえては甘噛みを試みている。
「何しろ彼女にとってみれば、小さいときからほとんど見た目の変わらない存在だからね。普通の人間の中では、やはり奇異に映ったかもしれない」
青年は黒猫のしたいようにさせているようであった。眼差しは、優しい。
「これはいま思いついたことだが、僕は彼女にとって物差しのようなものなんじゃないか」
黒猫は、青年の指を解放すると、顔をじっと見つめた。
「彼女はまだ子供だから、自分の中に尺度を持っていない。長さや重さであれば、道具を使って測ることができるが、そういったものでは量ることのできないものも多い」
青年の目は、もはや黒猫を捉えていないかのようである。
「ただ、魔理沙は年齢の割に、自分の考えというものをしっかりと持っている。そして、彼女に一貫性を与えられるのは、僕ぐらいしかいない。あれはあれで、変化の多い人生だから」
一つ、青年はため息をついた。
「僕が物差しだったとして、彼女が自分の内に尺度を持つようになったら、どうなるだろうね。不要になった道具は、やはり捨てられるか」
少し、寂しげな声であった。黒猫が、にゃあと声をあげる。
「心配しなくてもいい。もともと僕は中途半端な存在で、魔理沙が人間のままだったら、彼女は先にいなくなる。もし、彼女が人間であることを捨てたら、今度は僕が先にいなくなることになるだろうね。半人半妖というのは、望んでなることはできないんだ。そういう存在である僕は、結局のところは、誰とも合わない。そう思っている」
青年は黒猫の頭に手を置く。
「少々、独り言が過ぎたか。この辺りは別に危険というほどでもないが、今日ぐらいは泊まっていくといい。好きなときに帰れるように、窓はそのままにしておくから」
そう言って、青年は黒猫に背を向けた。黒猫は、しばし窓の外を見ていたが、やがて青年の後を追って行く。床には、皿が一枚、取り残されていた。
黒猫と一夜を共にした青年は、しかし、黒猫を見送ることはできなかった。起きた時には、既に出て行った後だったからである。何事もなかったかのように、青年は自分の生活を営んでゆく。ただ、皿を洗うときだけは、微笑んでいた。
数日後、魔法の森の外れにある家には、青年が一人。今日もまた、誰もいない店内で、本を読んでいた。そして、窓の鍵は掛かっていない。この静かな空間が、突然の乱入者によって破られることになる。金髪白面で、黒ずくめの服を身に纏った少女が入ってきたのである。しかも、窓からであった。
「香霖、窓が開いているぜ。不用心だな」
勢いよく窓が開いたかと思うと、少女が壁を乗り越えてくる。
「開けたのは君じゃないか」
「鍵の掛かっていない窓があれば開けるだろ、常識的に考えて」
「猫でもあるまいし、そんな常識があるか」
青年は流石に呆れたような声を出した。
「おいおい、猫はないぜ。いくら香霖が私に猫耳付けさせて『ご奉仕するニャン♪』と言わせたい願望を持っているからって」
「僕がそんな願望を持っていたなんて初耳だな」
「当然だ。いま作った」
少女はどこ吹く風といった様子で、店内を物色し始める。
「猫は猫でも、泥棒猫だよ、君は」
もっとも、青年は少女のほうを見てもいない。既に驚きは収まったようであった。
「そのことだけどな、香霖」
「何だい」
「まず、私は猫じゃない。まあ、それは別にいいんだが」
「じゃあ、何が良くないんだ」
「一つ、言っておいてやる。お前は物差しなんかじゃない。自惚れるな」
「ふむ」
「判っとけよ」
そう言うと、少女は、青年の目の前まで移動する。
「それとだ。香霖、何か言うことはないか」
少女は挑むような顔つきである。青年はしばし黙考したが、やがて何かに思い当ったのか、口を開いた。
「魔理沙。そのリボン、似合ってるよ」
少女は片側だけにおさげを作っていて、それを留めているのは赤いリボンのついたヘアゴムである。黒地の服に赤が映えて、良く似合っていた。
「これは驚いた、何と正解だ」
「僕を何だと思っている」
「聞きたいのか?」
「いや、止めておこう」
「賢明だ。しかし、珍しいこともあるもんだな。せっかくだから、さっきの言葉、借りてくぜ」
「おや、返してくれるのかい」
「残念だが、死ぬまで借りるからな」
その言葉を残して、少女は帰って行った。もっとも、今度はドアを開けてであったが。
青年は、肩をすくめると窓を閉めた。席に戻りかけたが、思い直して、鍵を掛ける。
「死ぬまで、か……」
その声は、窓に遮られて、外に出ることはなかった。青年はまた、何事もなかったかのように本を読み始める。
ぱらりぱらりと、ページを捲る音だけが響いていた。
なにも奇をてらうばかりが二次創作ではないということを教えてもらいました。
書いてみたかっただけ。
フシャー!!