晴天の空高く、温い陽光は昼下がりの気だるさを運ぶ。
そんな倦怠に包まれる、紅い、紅い外観の不気味な洋館。
なんともだだっ広い湖を眼前に抱き、背後を森、館の周りを立派な門壁で囲み、狭くはない敷地を我が物顔で占有している。
そんな壁で囲まれた敷地には、美しく整備された庭園が広がっている。
その美しさを保つために、多くの、羽が生えていたり、頭に獣の耳が生えていたりする少女達が、館の外観と同じ、深く、黒に近い深紅のメイド服に身を包み。
ゆったりと、あるいは一生懸命、思い思いに働いている。
その仕事場を、そんな中では類をみない必死な顔が一人。
背の低い妖精メイドが、全速力で正門へ駆けていく。
「門番長ー!!」
目的地が見えるや、手を振り回して走りながら叫んだ。
「門・番・長ー!!」
二度叫ぶ。
向かう先、その門壁の上で、呼ばれた本人はいつもごろんと横になっているはず。
「どうしたの、騒々しい」
その門壁の真下で、小さな、片手サイズの画板に紙をのせて、立ったまま簡単な書類仕事をしている、これまたメイド服の人物が、走り終えて息を切らす妖精メイドをたしなめた。
長い濃緑の髪を後ろで束ね、眼鏡をかけたその人物の顔を見上げると、妖精メイドは必死で呼吸を落ち着けながらも喋ろうとする。
「ふ、副長!大変です!門番長は……」
「起きてるよ」
門壁の上で声がすると、何かがのそりと起きあがった。
緑色の、大陸風の衣装を纏ったその姿。紅い長髪が、さらと風に揺れる。
「あら、おはようございます」
眼鏡の副長は体半分だけ背後に向けると、その姿を見上げて、淡々とそう言った。
「も、門番長!大変ですよぅ!」
妖精メイドも見上げながら、慌てた様子を継続したまま叫ぶ。
「魔理沙だろ」
門の内側には背を向けたまま、胡座をかいて欠伸をしながら、紅い髪は門外側の空を見上げる。
手には、所在なさげに、アイマスク代わりにしていた緑の帽子。
「そうなんです!……って、知ってたんですか!?」
「あいつの気が高速で近づいてるし……大体最近じゃ、あれくらいしかこの館に、こんな日には来ないだろうよ」
紅髪は、依然空を見上げたまま頭をかいた。
呆気にとられている妖精メイドに、ため息をつきながら、副長がさらに問い質す。
「それで?それだけかしら?」
その言葉に、ハッと我を取り戻すと、また慌てた様子で妖精メイドは続ける。
「そ、それで!望遠鏡で私達はあの白黒を見つけたんですけど……」
「私、達?」
副長は訝しげに。報告に来たメイドはこの一人だけだが。
「は、はい……その、他の子達と一緒に見つけて、その中の血の気の多い子達が、『今日こそ復讐の機会よ!』って……」
ばつの悪そうに、段々声を細めながら言う妖精メイド。
「まったく……」
副長は、またの溜息と共に自分の額に手をやる。
「どうしますか?」
そう問いかけられた門壁の上の紅髪も、溜息は一緒である。
「どうもこうもねぇ……」
そして、やおら立ち上がると、初めて半身だけ門の内を向いて、副長と妖精を見る。
「私が行ってくるしかないだろうな」
立ち上がってわかる、すらっとしていながら肉付きのいい体に、かなりの長身のこの紅髪。
名を、紅 美鈴という。
職は、先ほどから呼ばれる通りの門の番人、その長。庭の手入れや警備担当の外勤メイド達の、一応のトップである。
あるのだが。
「後は頼むよ」
「さっきからずっと頼まれていますがね……了解です」
美鈴の言葉に、副長は苦笑しながら応える。
このトップは、ここ最近、昼寝にかまけるわ、たまに遊びにくる妖精、妖怪達の相手に変な楽しみを見出すわで、どうにも仕事を人に任せがちなのだ。
「あなたもご苦労、後は通常業務に戻ってよし」
妖精メイドにむかって、美鈴は微笑みながら。
「他の子も、無事とはいかないまでも、酷いことになる前に助けてあげるさ……多分」
「はっ、はい!」
慌てて直立不動で敬礼しながら妖精メイド。
「お気をつけて」
そう微笑みながら副長。
サボりがちな上司でも、どうやら下には信頼されてるらしい。
二人の見送りに、背を向け、片手をあげて応えると、帽子をひっかぶる。
服と同じ色のその帽子には、「龍」の字のつくバッジが真ん中に一つ。
久しぶりに真面目な仕事をしにいこうか。
紅魔の門番は軽やかに壁を蹴ると、一直線に飛んでいった。
「来るよ!来るよー!」
目視で観測できるようになった、その白黒高速飛行物体。
距離およそ、四十、三十……。
その場の誰からも見えるほどに、真っ直ぐにかっ飛んで来ている。
「今日こそあの白黒を撃墜するわよ!」
藍色の、肩までかかる髪をした妖精メイドが、後続に控えるこれまた妖精メイド達に拳を振り上げる。
「おー!!」
と、応えて拳を振り上げ返す妖精メイド達。
「先行部隊接敵ー!」
藍髪の横で、望遠鏡を覗きこんでいる妖精メイドが声を張る。
「かく乱弾幕を張ったら、すぐ離脱してこっちに戻って来なさいよー!」
どうやら今この時の妖精メイドのまとめ役であるらしい藍髪は、前方に向けて木を彫って作った拡声器もどきを使って呼びかけた。
応えるように前方で、花火のような色とりどりの弾幕が咲き始める。
その弾幕開花のど真ん中に、そいつはいた。
特徴的なとんがり黒帽子に、陰気な白と黒の魔女服。箒にまたがり、常軌を逸した速度で、飛んでくる発光球体弾群を避けながら突っ込んでいく。
「まったく懲りないなお前らは!だから妖精なんてやっていられるんだろうなぁ!」
眼前に迫った弾に、箒の先で軽くキスするようなタイミングで体を振って軌道を変え、避けながらそいつは叫ぶ。
ばらばらと、勢いで振り乱される、燃えるような金色の髪。
「黙れ白黒ー!お前は今日こそここで撃ち落とされるのよ!自分の家から出直してこい!!」
「そうだそうだ、懲りないのはお前だって同じだろー!」
「妖精ナメるなよー!」
接敵を待つ後続メイド部隊にまで届く白黒の馬鹿でかい声に、負けじと妖精メイド達も叫び返す。
「おうおう言うじゃないか!お前ら、私に向かって撃つということは、わかってるんだろうな!?」
そうこうしてる間に目前にまで迫ってくる白黒と、必死な顔で弾幕を張りながら下がってくる先行部隊。
藍髪は片手をさっと上げて、一の合図を出す。緊張の汗が一筋、頬を流れた。
「いつものでいくわよ!クナイ弾、白弾、発射用意!!」
声と共に、後続部隊もその顔を緊張と決意で固め、身構える。
「私に向って撃つ奴には、絶対に撃ち返すということだ!!」
高速で迫る白黒。こちらは肉食獣が大口を開けるが如き笑みで迎え撃つ構えである。
「白弾、てぇーっ!!」
藍髪の号令、同時に数体の妖精メイドが飛び出し、突き出した両手から白い雪の塊のような球をこれでもかとばかりに前方に発射する。
「覚悟ありとみた!!」
白球の群れに突っ込みながら、白黒が片手を離して指を鳴らすと同時に、空間に音が響く。
Shot spell awakening !!
Option ready, set !!
箒に前傾でまたがる白黒の両側に、薄く発光する緑の球体が現れ。
Magic misile !!
浮かんだまま、そこからぴたりと離れず箒の動きに追随する。
「発射ぁ!!」
叫び、緑の球体から、細長く尖った緑の筒のような物体が各々一本ずつ、合計二本飛び出すと、火が付いた様に加速して白黒より先行し。
「うわぁぁ!!」
眼前に迫りくるそれに対する、かわいそうな妖精メイドの悲鳴。
二本はみるみる速度をあげ、白弾をばらまき続ける内の二体に同時に着弾、爆発した。
「やーられたー!!」
少々衣服に焦げがついて、所々煙を出しながら、被弾した妖精メイドは捨て台詞を吐いて落下してゆく。
「さぁ、どんどん行くぜ!!」
もはや白弾の雨霰に突っ込みつつ、適当にロールをうってそれらを回避しながら白黒が筒光弾をこれでもかと発射し続ける。
白弾の弾幕を張りながらも、被弾の恐怖にざわめき、叫び出す妖精メイド達。
というより、現に間をおかず、次々被弾して落下していく白弾妖精メイドであるが。
「怯むなぁ!ここが踏ん張り所よ!!クナイ弾、てぇーっ!!」
しかし、奮起をかけるような再度の号令に、今まで手をこまねいていた残りの第二陣が手をかざし。
無数の、小さなクナイ型の青い弾を、まっすぐ白黒に対して直線状に発射。
その狙いは白黒に集中砲火を浴びせることではなく、回避進路の妨害にある。
だが、白黒は直撃コースのクナイ線をかすりながら避けると、そのまま幾重にも寸断された、クナイで出来た道の一つを真っ直ぐ。
「変わり映えがなくて欠伸が出るぞ!!」
中空に残った白弾が進路に重ならない一瞬の隙間を、猛然とクナイ線の道に沿って走り抜けた。
「チームワークに磨きをかけたのに!?」
藍髪は自身もクナイ弾を出しながら、しかし弾雨を突き抜けてきた白黒を見て、悲鳴じみた叫び声をあげた。
「さらに十倍は特訓してこい」
冷やかにそう言いつつ、白黒は妖精メイド達に目鼻の距離まで近づき。
両側の緑球オプションが、弾けるようにぐるぐると回転。
「パーティータイムだ!!」
そのまま妖精メイド達の陣形ど真ん中を突っ切りながら、やたらめったらに筒弾を吐き出し始めた。
「いいやぁぁぁ!!」
次々と墜とされていく妖精メイド達。阿鼻叫喚の図の中で、藍髪はまだも白黒狙いに切り替えたクナイ弾を出しながら、背後に数人の妖精メイドを庇う。
「さ、さっさと逃げて!門番長に報告してきてちょうだ……がはっ!!」
が、言葉の途中で筒弾の直撃を受け、続きの代わりに「無念……」と呟きながらゆっくり落下していった。
「言ったよな、私に向って撃つ奴には」
声が響き、庇われていた妖精メイド達が藍髪が落ちていったのを泣きそうに見つめていた顔を上げる。
いつの間にか、それ以外の妖精メイドを全て叩き落とした白黒が、箒をその場でホバリングさせながら残りの獲物を見つめていた。
「撃たれる覚悟があるから、撃ったんだろう?」
微笑みながらのその言葉に、身を寄せ合い涙目で、ふるふると首を振る二、三体生き残った妖精メイド達。
「ま、この機会に覚えておけよ、私の流儀を」
そんな様子に慈悲もくれずに、白黒は筒弾を発射。
妖精メイドは互いに固まって、目を思いっきりつぶり、衝撃に備える。
そして、ようやっと、それと同時に射線の間に飛び込む影一つ。
「私のかわいい部下を!」
叫びながら筒弾の一発を蹴りで弾き、残りの一発に拳を叩きこむ緑の服の乱入者。
「やらせはしないってね」
拳と相殺した筒弾が爆ぜ、爆風で紅い長髪が揺れて。
待っていた衝撃がいつまでもやってこないのを不思議に思い、恐る恐る目を開けた妖精メイド達の目にも、その姿が映る。
「も、門番ちょ……」
「うん、助けに来たから、大丈夫」
後ろに庇う形で割って入った美鈴、自分を呼ぶ声の方を向くと、微笑んでそう言い。
「だから、やられた子達回収して、正門まで下がってな」
すぐに白黒に向き直り、構える。
「随分と間のいいお着きだ」
インターバルとばかりに、身だしなみを確認し、帽子をかぶり直しながら白黒。
「気を使ってね、おいしい所で出てきてあげたのよ」
「酷い上司だ、あいつらも浮かばれないな」
「勝手に突っ走ったお仕置き代わりさ」
会話しながらも帽子を二、三回頭の上で回しつつ、ようやくよさげな位置が定まると手を離した。
「さて、お前は撃つか、私を」
言葉に、美鈴は構えを左手を突き出し右手を腹のあたりに引き、足と半身を開いて腰を落とした形に変えながら。
「撃つわよ、魔理沙。なんせ仕事だ」
左手と同じく突き出した左足を軽く上げ、高速で振り下ろす。
足が打つはずのない地面が、あたかもそこにあるように、何かが弾けるような打撃音と光が散った。
「なら、仕方ない」
白黒、魔理沙も、前傾で箒にまたがり直しながら。
「撃てば動く、だ」
視線が一瞬かち合い、そして同時に全てが動き出す。
白黒の魔理沙は、緩やかな角度で高度を下げながら、館の庭園を突っ切る。
館の目の前まで来ると、蹴破るように玄関大扉を、飛んだまま足で開き、館内玄関ホールでようやく着地した。
「また来た」
白いエプロンに所々付いた焦げ跡を、はたいて目立たなくしている所に声がかかった。
「邪魔するぜ、咲夜」
上げた視線の先、そこには肩まででそろえられた透くような銀髪と、白い肌。
腕を組んで睨んでいる、メイド服に身を包んだ、青い瞳の、線が細くて、魔理沙より頭半分ほど背の高い少女。
「門番は?」
「のした。手こずったぞ」
銀髪の咲夜はため息をつく。
「どうして普通にやってこれないの」
「先に撃ったのはあいつらだ。正当防衛ってやつさ」
悪びれる様子もない魔理沙を、ぎっと睨みながら。
「あんたが不法侵入するからでしょ!招かれざるお客様!」
手品のように一瞬で目の前まで距離を詰めると、驚く魔理沙の両頬をつまみ、外に引っ張る。
「ひひゃひひゃひゃひは」
「正門でちゃんと来訪の旨を告げれば、悠々と歩いて入って来れるわ、よ!」
最大限に引っ張ったところで、つまんだ指をなお引っ張って、こするように離す。
「無理だな。私には招いてくれる奴もこの館にいなければ、無傷で通されるほど健全な理由で来てもいない」
おお痛い痛い、と、痛みを和らげるように両頬を揉みながら魔理沙。
「私が招いてあげるわよ、友人として……悪さもしないなら」
咲夜は少し悲しそうな顔をしながら、そう告げる。
「それこそ無理な話だ。私を誰だと思ってるんだ?」
そんな言葉に、笑いながら、もう歩き出した魔理沙は、咲夜の横を抜ける。
「気持ちだけはもらっておくさ」
咲夜を見ないでそう告げる。スピードを段々とあげ、走り出し、飛び上がって勢いよく箒にまたがると、猛スピードで長い廊下の先に消えていった。
咲夜は魔理沙の行った方を振り返らずに、ため息をついた。
正門から庭園を通って館へ、整備された煉瓦の道がある。
そこな途中に、仰向けに大の字で倒れる姿が一つ。
「いい天気だわ、まったく」
そうやって空を見ながら、美鈴は呟いた。
緑の服が所々焦げたり煙を吹いている。
「あんなにかっこよく出て行ったのに……」
と、視界を遮るように、眼鏡の副長がのぞき込んできた。
「うるさいよ」
美鈴はため息をついた。
「門番長ー……大丈夫ですか?」
もう一人、控えめに視界の中に入ってくる。助けを呼びに来た妖精メイドだった。
「ああ、まあね……他の子は?」
「手の空いてた子全員で回収して、介抱中です」
副長の言葉に、安心した顔をする。
「ならよし」
「あの白黒はどうするんですか?」
苦笑いの副長の問いに。
「ま、パチュリー様辺りがよろしくやってくれるでしょ……」
そう言って、欠伸を一つ打とうとした。
「外勤兼門番隊!!」
瞬間、館の方から鋭い声が飛んできた。
美鈴の顔をのぞき込んでいた妖精メイドは、一瞬で気をつけの姿勢になり。
副長はゆっくりと顔を上げると、姿勢を正して声の方に向き直る。
二人の視線の先、カツカツと、リズムよく煉瓦を鳴らしながら、こちらに近づいてくる銀髪。
「メ、メ、メ、メイド長……!」
震える声で、その接近を確認する妖精メイド。
館の外を担当する外勤、館内を担当する内勤。
更にその全てを統括する、トップ・オブ・メイドがいる。
それが、紅き館の悪魔の狗。
泣く妖精メイドも黙るメイド長、十六夜 咲夜のお出ましであった。
「また侵入者を通した」
近づいてくる先に、凛とした声が届く。
「すみません、こちらの不手際です」
詰問に、固まったまま、うぐぐと呻いて声を出せない妖精メイドと、寝そべったまま動かない美鈴の代わりに、副長が応える。
「いい加減、そんな言葉ですむなら……」
返答に、さらに眼光鋭く、歩みを止めない咲夜。
同時に、一人動じていない美鈴が、仕方なさそうに、寝そべっていた上半身を起こす。
咲夜が三人の目の前まで来て、止まった。
視線の先には、竦む妖精メイドが一人と、澄ました顔で外勤副長。そして、背を向けて座っている紅い髪。
「通すなら通す!撃退するなら撃退する!何で――」
「す、すみま――」
声を張る咲夜の視界で、固まっていた妖精メイドが慌てて頭を下げようとするのと同時に、のそりと背中が立ち上がる。
そして、こちらに体を向けながら、下がる途中の妖精メイドのおでこを、大きな手の平で優しく止めた。
「すいません、全ては私の責任です」
外勤の隊長であっても、メイド長にとっては部下である。
背の高い、見下ろす顔は、困ったように笑いながらそう告げた。
だから咲夜は、その少し見上げた顔を、表からでは判別のつかないような感情に歪ませる。
「そっ!」
動きを止められて、一瞬唖然としていた妖精メイドが、慌てて声を張り上げようとするも。
「そん、な……」
おでこに当てられた手に頭をポンポンと優しく触れられると、口を噤んでしまった。
「全部あなたの責任であると、門番長?」
咲夜は表情を怒りに戻すと、睨みつけながら尋ねる。
「ええ、負けたのも、通したのも」
それを受ける美鈴は、緩やかな態度を崩さない。その怒りに慌てもせず、竦みもせず、張り合いもせず、ただ、咲夜の言葉を真っ直ぐ受け止めるように。
「なら、どうしていつも止めないの!どうして、いつも勝たないの!?」
「それは、あなたが一番よくわかっているでしょう?」
そう言って、微笑みながら。
「私じゃもう、魔理沙には滅多に勝てませんよ。あの子は本当に強い」
言われて、咲夜の体が、感情が、言葉が、一瞬止まり。
「――それ、でも」
さらに強引に言葉を続けようとするのを、遮って。
「私が止めなくたって、中にはもっと強い人もいっぱいいますし……それに、もう私よりもあなたの方が随分と強いんですから」
美鈴は頭を掻きながら、止めのように。
「ねえ、咲夜さん?」
咲夜は、そう呼ばれて、また一瞬、顔を歪めると。
「――!!」
俯いて、黙り込んだ。
降りる、気まずい沈黙。
「あ、あれ?どうし――」
そんな咲夜の様子に、美鈴が慌てて声をかけようとすると。
「次からは!」
それを遮るように声を張り上げて、踵を返し。
「もっと、ちゃんとしてください……門番長」
館の方に歩きながら、そう言い残した。
後に残されるは、呆然と立ち尽くす妖精メイドと美鈴。
そんな美鈴を横目でじとりと睨みつける副長。
「反抗期かな?」
美鈴が困ったように、副長にそう問うと、問われた方は盛大にため息をついて呟く。
「咲夜もかわいそうに……」
もやもやする。もやもやする。
咲夜は俯き、大股で館へ歩きながら、形にならない感情を持て余していた。
最近特に、こんな気持ちになることが多い。
あの人が、魔理沙にやられるのを見る度に。
にこにこと、妖精メイド達や、たまにやってくる小さな妖精や妖怪達と、遊んでいるのを見る度に。
門を守ってるようにみせかけて、実は居眠りしてたりする度に。
「……これは昔から時々やってた気がする」
そう呟いて、立ち止まり、気難しい表情をする。
それでも。
また歩き出しながら考える。
そうだ、もやもやするのだ。
あの人に何度注意しても、仕方なさそうに笑う度に。
あの人より、もう私の方が上なんだとわからされる度に。
あの人が、私をそう呼ぶ度に。
怒りたいような、泣きたいような、寂しいような。
何かを諦めさせられるような。
色んな感情がない交ぜになった、どうしようもない。
「……」
また立ち止まる。
俯いていた顔をあげれば、館の大扉があった。
巨大な焼き菓子のような、立派な材木で出来たそれを、ゆっくり押し開けて中に入る。
目の前に広がるのは、紅の色彩目立つ広大な玄関。先ほど魔理沙と会話をしていたそこに、今は誰もいない。
気が抜けたように、背後の、閉めた扉にもたれ掛かると、そのまま背中を擦るように、ずるずると座り込んだ。
膝を抱えて、視線を床に向け、世界を止める。
「何で……」
自分以外動くもののない世界で、咲夜はまた思う。
何で、あの人はああなったんだろう。
何で、館内の仕事をしなくなった。
何で、門番なんかをする。
何で、あっさり誰かに負ける。
何で、弱くなった。
「何で……」
何で、私をそんな風に呼ぶの。
「お母さん……」
自身にしか聞こえないくらい、か細い声で呟くと。
咲夜は目を閉じて、昔を思い返す。
何せ睨まれたって、最近の咲夜が時々変な理由なんて、美鈴には想像もつかないことであるのだから。
「目を背けてるだけですよ」
正門に向かって戻る二人。美鈴の隣を行く副長は、平坦な声でそう言った。
「……背けているのなら、他にどうしようもないってことじゃないの?」
「さあ、どうなんでしょうね?でも、咲……メイド長の気持ちは、私にはわかります」
意地悪そうに笑う眼鏡の奥の目。
じゃあ、教えてくれ、と。
苛立ちと共に言いかけた言葉を、一瞬目を閉じて飲み込んで。
「……寝る」
ため息と共に、そう告げた。
「形だけでも、番に戻ると言ってくださいな」
副長はまたも横目だけでこちらを見ながら。
「負傷した子達は交代、説教は任す。庭仕事の子達も休憩入らせて、その後はいつも通りに。何か問題が起こったら起こして頂戴」
その視線を流しながら、美鈴は欠伸混じりにそう言うと、到着した正門の上へ一足で、軽く飛ぶ。
「起こさなきゃいけない時には起きているでしょうに、まったく……」
そんな背後の副長の言葉に、追い払うように、振り返らずに手を振りながら、素早く居眠りの体勢になる。
腕で枕を作り、帽子を脱いで顔に被すと、目を閉じて、意識を緩ませ。
美鈴はまどろみの中で思う。
どうしてあの子にあんな顔をさせてしまうのか。
あの子を怒らせてしまう、その理由はわかるし、仕方のないことだ。
それとは違う、悲しそうな、それでいて怒っていそうな、泣きそうな。
何かを訴えるような、変な顔。
そんな顔を、させたくないのだけど。
「咲夜……」
美鈴は小さくそう呟くと、緩慢な眠りの海に沈み。
その海の中で、懐かしき時を――。
薄く開けた瞼に差し込むのは、柔らかな、早朝の、青の混じった日の光。
正確に今日を始まらせる体内時計に従って、ベッドから上半身を起こす。
「ふ、ぁ……」
軽く欠伸をしながら、隣に寝る小さな銀色の頭を見てそっと微笑み。
もう一人の住人を起こさぬように気をつけて、ベッドから静かに降りる。
シンプルな白の寝間着を脱ぐと、衣装棚から、今日も明日も変わらぬ普段を取り出す。
長い、腰まで届く紅い髪が揺れ、均整の取れた、綺麗な女性のラインを露わにし。
白い、ピッと折り目の入ったカッターシャツに袖を通す。
次は、一見して黒に見えるような濃い深紅の、下半身にフィットし、長い脚線美を包み隠すズボン。
脚を通して、革ベルトをしめ。
最後に、ズボンと同色の、袖のないベストを羽織る。
それは完全に古きよき英国様式、どこから見ても女性用には見えない、男性家令の衣装。
が、女性でありながら、この紅髪は、それを持ち前の長身と体型で見事に着こなしている。
ベッドの横の姿見で身だしなみを確認し、満足げな顔をすると、隣をちょいと一瞥。
静かな寝息をたてながら、もぞと動く銀の頭を一度優しく撫でて。
最低限の家具と調度品が置かれたシンプルな部屋の出口に向かう。
今日を始めるために。
紅髪が廊下へ出れば、今しがたこちらも部屋から出てきた様子の一人のメイドと出くわした。
深い緑色の長髪を束ね、鋭く輝く眼鏡が堅物そうな印象を与える。
「おはようございます」
印象通りの低く、鋭い声。
「おはよう。他の子は?」
「そろそろかと」
その言葉の後に、廊下に点々と続いている使用人部屋のそこかしこから。
「うわ、寝坊!?」
「起きろ!起きろー!」
慌てたような声と、焦るような物音が響けば。
「あれ?ねえ、私のヘッドドレスどこか知らない!?」
「ふふふ、今日も決まってるわね!」
のんびりとした声や、満足気な笑い声も響き。
「身支度完了!今朝こそ一番乗……あれ!?」
「おはようございまーす!」
勢いよく扉を開いて、次々飛び出す紅いメイド服達。
「ま、こんな感じですが」
眼鏡の堅物メイドはその光景に、苦笑しながら。その声と笑いは見た目通りでありながらも、とても優しい。
「いつも通りってことね」
紅髪も軽く笑いながら、ベストの襟を掴むと、ビッと引っ張って正し。
「整列!!」
紅い廊下の端まで届くような声で叫ぶ。
声が通れば後は無言で、物音だけはどたんばたんとしばらくしつつも。
次々と、並ぶ扉からメイド達が出てきてドアの前で直立の姿勢になる。
息を切らしている者、半分眠りそうになりながらも首を座らせようとさせている者、笑顔満面で元気が滲み出ていそうな者。
様々なそのメイド達、約三十人ほどが全員並ぶと、緑髪の眼鏡も、紅髪の横からその列に加わり。
「おはようございます!!家令長!!」
全員声をそろえて、先ほどの声に対抗するような朝の挨拶。
挨拶の対象は、自らも直立でその返事を一身で受け止めると。
「はい、おはよう」
その紅髪、紅き館の家令長、紅 美鈴。
館の全てを取り仕切る、従者のトップのその身は。
満足そうに笑いながら、音量は先ほどではないながらも、よく通る声でそう返した。
「とりあえず、今日もいつも通りでいいわよ」
整列したメイド達に指示を出す美鈴。
「ま、いつも通りでも、向上心だけは持つように……仕事が楽になるから」
軽く笑いながら、廊下の端まで居並ぶ顔を見渡す。
んまあ、角が生えてたり、獣耳が生えてたり、尻尾が生えてたり、羽が生えてたり、はたまた普通の人間っぽかったり。
そんな個性的すぎる面々が、頑張って真面目な顔を作りながら、これまた美鈴の服と同じ色のメイド服に身を包んでいる。
数は多くないが、外見通りの広さの屋敷を回していくには丁度いい、素敵な妖怪メイド達である。
「家令長の、ですか?」
先ほどの眼鏡のメイドが、相変わらずの声で訊ね返す。
「そ、私の」
言いながら、一筋縄ではいかない妖怪達に、必死にメイドの仕事を教えていた頃を思い返す。比べれば。
「ってもね、大分良くなってきたかな」
メイド達の間に、わっと喜びが伝播する。
眼鏡のメイド……美鈴の次の位置で皆をまとめている彼女も、満足げに顔をほころばせる。
「まあ、でも過剰には自惚れないように……?」
言葉の途中で美鈴が何かを感じ取ったように上を向く。
「そろそろお仕事の時間だわね。じゃあ、後はまあ普段通りに」
美鈴は視線を戻し、居並んだメイド達の顔をもう一度見回しながら。
「任す!以上、わかれ!!」
「はいっ!」
美鈴の締めの大声に、全員が直立不動に姿勢を正し、声を揃える。
美鈴はその様子に二、三度頷くと、姿勢を解いて走り出したメイド達に混ざり、自分も次の仕事へ向かった。
紅一色でしつらえられた、広く豪奢な早朝の部屋に、控えめとは言い難いノックの音が響く。
「入れ」
天蓋付きの、一人用にはあまりに大きい寝床から、起きたばかりのような、かすれた少女の声が飛ぶ。
シーツから上半身を起こす、不健康な真っ白い肌、両肩を越し、背筋に少しだけ触れる、蒼白い鬼火のようなクセ髪。
「では失礼」
その声に従い、ドアから、紅い髪の紅黒い男装女が、するりと部屋に入り込んできた。
その手には、手拭いとトレー、その上に紅茶のセットが一式。
「おはようございます、お嬢様」
トレーを、寝床横の小さな丸机に置くと、紅髪は、不機嫌に眠そうな主に笑いながら挨拶。
「ああ、おはよう、美鈴」
寝間着のネグリジェと同じ、真っ白なナイトキャップを引き剥がすように脱ぎながら、早起きの主、レミリア・スカーレットは寝起きの棘を含んだ声で返した。
「随分と、早起き……いや、遅起き?ですね」
美鈴は、適温に温かく蒸された手拭いを主に渡しながら尋ねる。
「絵が描きたいのよ」
手拭いを受け取り、顔を拭きながらレミリアは答える。
「出来るなら、太陽の出ている景色がいい。だから、しばらくは」
顔を拭き終わると、口の端を少し上げる程度の笑顔で。
「早起き?遅起き?そんな感じかもしれないね」
美鈴は、そんなレミリアから用済みの手拭いを受け取りながら、こちらも笑顔。
「まあ、いつ起きられても構いませんけどね。ご随意に」
「わかるんだったな、お前には」
レミリアは途端に面白くなさそうな顔。
「ええ、気の流れで大体は。だからこそ、こうやって気持ちのいい目覚めを演出できるんじゃないですか」
そうして、ティーポットを手に取ると、カップに注ぎながら。
「お茶はどうされます?砂糖とミルクは」
「いらん、ストレートで寄越せ」
では、と、カップに注いだままのそれを、寝床で胡座をかく主に手渡す。
そうして次に、もう一つのカップに茶を注ぎ、砂糖を一さじ入れてかき混ぜ。
何とはなしに茶を飲みながら美鈴の行動を見ていたレミリアが、呆れたようなため息と声をもらす。
「毎度ね、思うのだけど」
美鈴はカップを持ち上げ、口を付けながら不思議そうな顔をする。
「どこの世界に主と一緒に自分も茶を飲む従者がいるのよ」
そう溢すレミリアの視線を、特に気にせずに美鈴は紅茶を一口飲むと。
「ここに?いえ、私も起きてからまだ何も飲んでいないものでして」
「あっそう」
微笑む美鈴に、レミリアは盛大にどうでもいいという声を出しながら。
「まあ、いいけどねぇ」
小さく、皮肉めいていて、それでも嬉しそうな笑顔を。
「朝食は?」
お茶を飲み終わり、カップを置くと美鈴は尋ねた。
「調理班でいいわよ、最近本当に腕が上がった」
レミリアもカップを置きながら。
「――ありがたいお言葉です、そう伝えておきます」
いきなりの、珍しい褒め言葉に、美鈴は純粋に驚いた顔をすると、さっと頭を下げた。
「まあ、人も……妖怪も、変わるには十分すぎるくらいの時間が過ぎたしね」
レミリアは軽く笑いながら言葉を続ける。
「ズブの素人達をここまで鍛え上げたお前の功績もあるだろう、まともに機能するまでは素晴らしく長かったが」
美鈴も、はにかむように笑い。
「いえ、結局はあの子達の努力ですよ。私の苦労なんて、それに比べたら……」
思い返す、初めて調理班を組織した時に、調理の途中謎の爆発で吹っ飛んだ台所を。
「多分にあったと思いますね。ええ、まったく」
「ああ、まったく」
二人は目をつぶって頷く。
「……着替えるか」
「……着替えましょうか」
二人そう言うと、レミリアは絹のネグリジェを、豪快に脱ぎながら。
「もしかしたら、お前の引退も近いかもしれないね」
「はは、どうでしょうね――」
美鈴も主の普段着であるドレスを取り出しながら振り返ると、言葉を詰まらせた。
視線の先には、主の上裸。
雪のように白い肌と、線の細い体型、やや膨らんだ胸。
それは十四、五歳くらいの少女のそれである。主の見た目には、何もおかしいところはないはずで。
「――ッ」
それでも、美鈴の顔は少しだけ歪む。そう思わないと、意識したはずでも。
そんな美鈴に気づくと、レミリアは笑う。
「さっきも言ったじゃない。誰もが変わるくらい、時間は過ぎていった」
「そんな風に笑わないでも……」
美鈴の声は震える。
「そんな顔をさせるために、こうなったわけでもないよ。なに?今日に限って」
レミリアは、服を催促するように美鈴に手を伸ばしながら。
「毎日見るものだろ、いい加減春先とはいえ寒いんだ」
美鈴は一度うつむくと、努力で顔を笑みに作り替えて。
「まあ、そうですね。いやいや、お嬢様が昔を思い返すような発言ばかりするから、なんとなく感傷的な気分になってしまったんですよ」
そして、服を手渡す。美鈴は上手く笑えているのだろうか、主は優しい笑顔になると。
「感傷なら、なおさら笑い飛ばすべきね」
どんな風になっても、美鈴にとって、その笑顔だけは変わらない。
主の起床を迎え終わると、美鈴は自分専用の食卓へ向かう主と別れ、台所へ向かった。
途中出会ったメイドに、定期購読の天狗の新聞を主に持ってくように言いつけ。
メイド達用の大食堂兼、何とも大きな台所であるそこ。
すでに調理担当メイドが仕込みを始めているのを、入り口からのぞき込むように身を出す。
「首尾はどう?」
「あ、家令長!」
気づいた五人ほどの調理班がこちらを向くと、手を止めずに答える。
「順調ですよ!」
「どうかしましたかー?」
エプロンは、特別に汚れてもいいものに身を包む、料理大好きなメイドで構成されている調理班。
「なら、いい知らせ。今日のお嬢様のお食事、全部任せるとのお達し」
「ほ、本当ですか!?」
卵をどでかいボウルでかき混ぜていた一人が、驚きながら聞き返す。
「もう一つ、『最近腕が上がったな』ってね」
片目を一度、ばちんとまばたいて美鈴。
「う、うわあああ!!」
歓声が台所に響く。
「じゃ、任せるわよ」
「はい!!満漢全席作って持って行きます!!」
「朝から何食わす気!?」
作業が一気にスピードアップした調理班に、呆れたようなため息をつく。
と、またしても新たに、微かな気の変調を美鈴は感じ取り、上を向いた。
「おりょ、起きましたか?」
調理班の一人が尋ねる。
「ああ、そうみたい」
美鈴は軽く、優しい笑い。
「じゃ、任せる。気合いは入れすぎない程度に入れて、完璧な朝食を。みんなのも忘れないように」
「はい!!」
調理班の小気味好い返事を聞くと、美鈴はまたしても移動を再開する。
出ていく時は青混じりだった光も、今はカーテンを突き抜けるほどの目映さで。
美鈴は部屋に入ると、一度起きてまた眠ったような痕跡を見て苦笑。
ベッド横のカーテンを勢いよく開くと、暴力的な朝の光が小さな部屋を埋め尽くす。
二度寝の主犯は、幸せそうな顔を途端に眩しそうに歪め。
次にそろそろと、その瞼をゆっくりと開く。
目の採光量を調節しながら、同時に上半身も起こし。
銀色の、肩に触れる程度の長さの髪が揺れ。
欠伸をしながら、瞼を完全に開く。
深い青の瞳に映る世界は、見慣れた部屋と、優しい。
「はい、お寝坊さん」
美鈴が、ようやっと起きた銀髪の額を軽く指で弾く。
「いたっ!?」
うう、と、小さな痛みの走ったおでこを押さえ。
それでも、目の前の優しく微笑む、長い紅の髪と青い瞳を見て、銀の少女は朝の光に負けないくらいの笑顔になると。
「おはよう、お母さん!」
満面の笑顔でのその挨拶に、美鈴も笑顔を同じくらいにしながら。
その銀の前髪をかきあげて、さっき弾いた額に優しく口づける。
「おはよう、咲夜」
口を離して見つめ合うと、二人はまた笑った。
美鈴が主の給仕から食堂へ戻ってくると、少女は食卓に並べた料理の前で、手持ちぶたさに懐中時計をいじっていた。
年の頃八、九歳といったところか、美しい銀の髪も艶やかさを持つのはまだまだ先のようで。
白く活動的な半袖のシャツに、青く短いスカートが年相応らしい。
「先に食べててもよかったのに、お腹空いたでしょ」
きっちり閉じていた胸元を緩めながら、こちらに近づいてくる美鈴を見ると、銀髪の少女、咲夜の顔は退屈から嬉しさへ。
「一緒に食べないとおいしくないもん」
膨らむ咲夜の頬に呆れながら、美鈴は椅子を引き。
「私じゃなくても他のメイドがいるじゃないの」
「うん、いるよ。みんな」
「うん?」
咲夜が横に振りむいた先、美鈴も見れば、大食堂にはずらっと館中のメイドが朝食を前に待機していた。
「お母さんと食べないとおいしくないんだよ!」
「はは……そりゃ、お嬢様が久々に朝起きされたから、時間がズレるとは思ったけれど」
まさか全員時間をズラすとは。食堂に入った時点で特に疑問を抱かなかった自分を、まだまだだなぁと思いながら。
「まあ、みんなで食べた方がおいしいのは事実よね」
苦笑しながら席につき、手を合わせる。目の前の咲夜も笑顔で合わせる。食堂中の全員が合わせ。
「いただきます!!」
きれいに揃った声が響く。
食堂には笑い声が絶えない、美鈴は近くに座ったメイドと会話を楽しみつつ。
また、おかずの取り合いで喧嘩になりそうなメイドもたしなめつつ。
妖しい笑顔で自分に口うつしを要求するメイドにお仕置きしつつ。
「その玉子焼きね、さっき私が作ったの!おいし?」
美鈴がたった今フォークですくったスクランブルエッグを見つめて、咲夜は目を輝かせる。
最近料理を頑張っているらしい、その玉子焼きを吟味。
「五十点」
「うぇー……頑張ったのに……」
すぐに落ち込む。
「でも、ちゃんとおいしいわよ」
そんな咲夜の頭を撫でながら美鈴。
「本当!?」
明るくなれば。
「出来は五十点は変わらないけどね」
ショックな顔。見ている美鈴は笑いが止まらない。
紅と銀、何とも正反対なこの二人。お互いにそう呼び合ってはいるが、本当の母子ではない。
美鈴は妖怪、咲夜は人間。まあ、色々あって、今の関係に落ち着いたというわけだが。
美鈴はそれをふと思い返す、泣きじゃくる銀髪の、今よりも幼い少女を胸に抱いた時の。
主と魔女と、三人で頭を捻って考えた名前を与えた際の、花の咲いたような笑顔を見た時の――。
「……?」
ふっと、遠くを見つめるように自分を見る母親に、首を傾げる少女。
朝から昔を思い出してばかりだなぁ。
美鈴は微笑みながら、また咲夜の頭を撫でた。
嬉しそうに目を細める娘を見ながら。
この子に求められる間は、全力で母親でいよう。
そんな決意もまた、思い出して。
また声を合わせて「ごちそうさま」を言えば、楽しい仕事の時間の始まりである。
「まあ、起きてからも言ったけど、きっちり、気合いを入れて、頑張りすぎない程度に、まあ適当に、楽しく、ばっちり」
「家令長、どうすればいいのか全くわかりませんが」
自分の座ってた席の前にて、空いた食器を持って直立不動のメイド達を見ながら、檄を飛ばす美鈴と、ツッコミを飛ばす眼鏡の緑髪である。
「要は……まあ、色々考える前に仕事やろうかってことで」
「はーい!!」
美鈴の締めに、メイド達が一斉に気合が入っているのか抜けているのかわからない返事を返し、咲夜も手をあげてその中にちゃっかり混ざっていた。
「以上、わかれ!」
ぞろぞろと食器を返却して出ていくメイド達に、いまだ混ざって出て行こうとした咲夜の首根っこを美鈴がぐいと掴む。
「咲夜はそっちじゃないでしょー。さ、私と一緒に行きましょうねー」
「き、今日は……私もそろそろメイドのお仕事覚えたいなぁーって……」
ニコニコと語りかける美鈴に、もじもじとしながら言い訳をする咲夜。
「咲夜にはまだ十年早い」
ばっさり切って捨てられた願いに、がっくりと肩を落とす。
「まだまだ色んな事を覚えてから、じっくり、何がしたいか考えられるようになってからね」
咲夜の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、美鈴は食器の後片付けに入っていた調理班の一人を呼び止める。
「サンドイッチ用意しといて。あと、私が紅茶入れるから」
了解です、と、敬礼しながら立ち去るのを見送り、隣の咲夜がため息をつく。
「勉強やだなぁ……」
「そりゃ、私もあんま好きじゃないけれどね……」
美鈴が困った顔をするのを見て、咲夜は慌てて訂正。
「ち、違うの!嫌いなわけじゃなくて……」
そして、目をそらして、聞こえないくらいの声で呟く。
「……先生がなぁ……」
紅魔館には、目立たないが地下にも相当な部屋がある。
一部の住人を除いて出入り厳禁の最奥と、ある一つを除いて、ほとんどが倉庫や物置であるのだが。
その例外の一つが、今、美鈴と咲夜、二人の目の前にあるデカくて立派な木の扉である。
美鈴はそこを気楽に、咲夜はうんざりした顔で、両開きのそれを片一方ずつ動かした。
瞬間、むわぁっと、カビ臭さと、埃と、紙と、油と、その他色んな負の臭いが混ざった空気が、気圧の変化で溢れだす。
幾つもの宙に浮いた燭台の上に、蝋燭ではない、何か鬼火のような火球がゆらゆらと、部屋全体を薄暗く、不気味な光で染め上げている光景が目に飛び込み。
明度の違いに慣れた目に飛び込んでくるのは、とにかく本、本、本。
壁は全て、上から下から右から左から、およそ物理法則で不可能な場所以外全て隙間なく本棚と、そこにぴっちり詰まった本で埋め尽くされ。
それでも足りないと見るや、今度は床に満遍なく、崩れない程度の本の塔を築き。
そこまでしても極めつけに、数少ない本棚以外の家具の一つと見える、立派な造りの物書き机の上にまで本の塔。
そして、不意に机の本の塔の間から、調子っぱずれな口笛が響いてくるのに気づいた。
続いて不気味な、低いガラガラ声の呟きが。
あまりの様相に、しばらく中に入るのを躊躇して立ち尽くしていた美鈴と咲夜は、顔を見合わせると頷き。
本の塔を崩さないように気をつけながら、そろそろと机に近づく。
またも崩さないように注意しながら、机上真ん中あたりの本の塔を左右にどかすと。
「おはようございまーす、パチュリー様」
美鈴の言葉に、視線の先、長く艶のない暗い紫の、床に届くほど長い髪に、薄い紫のゆったりとした寝間着のような服に身を包んだ全身紫の少女。
十七、八歳くらいの外見でありながら、まるでその花の季節を感じさせない、年季の入った不気味さを溢れ出させながら、ブツブツと呟きつつ一心不乱に。
机の空いたスペースに本を数冊広げながら、鬼気迫る勢いで羊皮紙に羽ペンを滑らせている。
「パチュリー様ー」
一度目の呼びかけで気づかれなかったので、再度の交信を試みる。
「ん?」
ようやく気づいたのか、紫女は顔を上げた。表情まで年齢の華もなく、端正な顔立ちなのに、生来の癖か、普通のつもりなのに細めて睨むような目つき。
本人の感情は計り知れないが、傍目にはいつも不機嫌そうに見えるその顔を向けながら、掠れた声、やや早めのテンポで答える。
「あ、ああ。美鈴じゃないの……え、朝?」
紅魔館の知識人、紫の魔女。パチュリー・ノーレッジ。
「夢中になると、何もかも目に入らないわ。こればかりは何年生きても変わらないわね」
魔女は、美鈴の持ってきたサンドイッチにかぶりつきながら、喋る。行儀が悪い。
「私が忘れないからいいですけど、忘れられたら本を読む姿勢のままミイラになってそうですね」
美鈴が本の海から、もう一つの簡易机と椅子を発掘しながら。
「何も食べないくらいでは死なないはずよ……どうだったかしら?そういう体に作り替えるのもありかもしれないわね」
「食べるものが変わるだけですよ、きっと」
咲夜に椅子を渡し、パチュリーの机の前にもう一つの机をどっかと置く。
咲夜が机の前に椅子を置き、ちょこんと腰掛けると、ため息をついた。
「ちょっと、どういうため息だわよそれ」
目ざとく、それに気づいたパチュリーが尋ねると。
「い、いえ、ここ暗くて重苦しいから……何だか気持ちが……」
慌てて訳を話す咲夜に、美鈴も同調し。
「そうですよ、いい加減大掃除させてくださいな。こんな……広い図書館」
汚いと言いかけて言葉を濁す。
見渡せば、この魔女要塞の内部は、外見と、地下の天井の高さを考えると、矛盾している広さと高さだった。
その広さにおいても、殆ど埋め尽くしてまだ本棚行きの順番待ちを見ながらパチュリーは言う。
「まだまだ、まだまだなのよ……この程度じゃ」
そうして、溜息をつき。
「っても、現状、私の空間拡張の腕じゃここらが限界でね」
「へー、弱音なんて珍しい」
美鈴が、空いたカップに紅茶のおかわりを注いで、パチュリーに手渡す。
「空間とね、時間の操作は、完全に才能頼りの分野なのよ」
渡された紅茶をぐびぐび飲み。
「センスがない奴には、努力したって一生出来ない。私が稀代の天才だからこそ、畑違いの魔術でここまでやれてるのよ」
咲夜も美鈴も、呆れた目で魔女を見た。
「何よその目……そうそう、掃除の方だけどね、目処はあるわよ」
パチュリーは半分くらいまで飲むとカップを置く。
「現在開発中の術式だけどね、魔界に空間を接続して、哀れな悪魔をひっ捕まえてこっちに引っ張り出すのよ」
「悪魔との契約ですか?普通じゃあ……」
「契約?何生温いこと言ってるのよ」
美鈴をぎろりと睨むと、パチュリーは机の脇からブランデーの酒瓶をひっ掴み。
「呼び出した悪魔を、私の奴隷にするのよ。対価?魂?馬鹿馬鹿しい」
半分になった紅茶にどくどくと注いでかき回す。
「そんなもん踏み倒してやるわ。私が欲しいのは、私の手足となる忠実な……」
そうしてそのブランデーだか紅茶だかわからんものをぐいっと飲むと。
「この図書館の司書よ」
じとりとした眼差しを、さらに歪めて笑った。
「ああ、またそんな飲み方して……」
美鈴がため息をつく。
「そんな感じで、その哀れな司書が来るまで待っててちょうだい」
パチュリーは美鈴の言葉を無視して。
「はーい、それって悪魔じゃないとダメなんですかー?動物を使い魔にするとかはー?」
手を上げて質問する咲夜に、パチュリーは向き直り。
「いい質問ね、生徒咲夜。使い魔はね、教育も大変だし、ありふれてるのよ。動物なんざここに入れたくないしね」
残りのサンドイッチを手に取ってかじる。
「その点、悪魔は最初から優秀よ。教養ばっちり品行方正、さらには有名なのなら実力は折り紙付きときてる」
美鈴も咲夜も、ふむふむとパチュリーの講義に聞き入っていた。
「だからこそ、悪魔と契約するのは全学者の憧れなのよ。私も魔女である前に学者の端くれだった以上、その気持ちはあるわ」
そして、ふと、どこか遠くを睨む。
「まあちょっとした因縁もあることだしね……」
呟いて、不思議そうな顔をする美鈴と咲夜に視線を戻す。
「そう、司書と、もう一つ。それさえ揃えばこの図書館は完成する」
最後のサンドイッチを口に含み、カップの残りで流し込むと。
「お前よ、咲夜。お前の能力さえ完全になれば、ここだけじゃない、館中を拡張するのが可能になるはず」
「う、うう……」
妖しく笑う魔女に、咲夜は椅子から立ち上がって少し後ずさる。
「さあ、楽しいお勉強といきましょうか。光栄に思いなさい、私が人にモノを教えるなんて、一生ないかもしれないのだから」
そう、これこそが咲夜が勉強を嫌がる理由。変態家庭教師パチュリーである。
「なにふざけてんですか」
「むぎゅ」
怪しく手を動かすパチュリーの頭上に、美鈴のチョップが炸裂。
「咲夜も、能力の訓練なんてもん、嫌だったらやらなくてもいいのよ。自分のやりたいようにしなさい」
笑いかける美鈴に、咲夜はほっと息をつくと。
「じゃあ、メイドの仕事……」
「それはまだダメ。普通のお勉強が終わってからね」
咲夜のふくれっ面に苦笑しながら、美鈴はパチュリーを見る。
「パチュリー様も、普通の勉強でお願いします。学校で習う程度のね」
「まあ、本人が嫌々やって能力が発展するわけもないしね。わかってるわよ」
パチュリーは、よっこらせと椅子から立ち上がり、教科書どこやったかしらねぇと机を探し始める。
咲夜も、しぶしぶ椅子に座ると、鉛筆と紙を用意。
そんな二人を満足げに見つめる美鈴に。
凄まじい敵意の気の反応が届いた。
体を通り抜ける、刺すような荒々しい気。
感知しただけで、背筋が張るような。
「――ッ!?」
「ん?どうしたの、美鈴――」
急に黙り込んで天井を睨む美鈴に、パチュリーが何気なく問いかけようとして止まる。
「……すいません、咲夜のこと、お願いしますね」
「――ええ、わかったわ。さ、お勉強よ咲夜。今日は数学から……」
視線と視線で、言葉に出来ない意思を交わしながら二人。
「お母さん……?」
それでも、そんな様子に何かを感じ取った咲夜が不安そうな顔になるのを。
「――大丈夫」
ふわりと、優しく頭に手を置いて。
「大丈夫だよ、咲夜。お母さんは大丈夫。だから、安心してお勉強してなさい」
そこから不安を吸い上げるように、滑らかな銀の髪を撫でる。
「ん……」
咲夜がようやく納得したような顔になると、髪から頬に撫でる手を移し、咲夜と目線を合わせるようにしゃがんで。
「じゃ、お仕事いってきます」
出来るだけ、安心を与えられるようないい笑顔で。
それからパチュリーの方を向き、魔女が微笑んで一度頷くのを見て、美鈴は立ち上がる。
図書館から出て、ゆっくり扉を閉めると。
全速で外へと向かうため、階上へ駆け出した。
地下を飛び出る、勢いのまま正面出入り口へ廊下を全速で。
すれ違うメイド達が、何事かという顔をしている。
窓をぶち破りたいが、後始末を考えられる程度の余裕はある。やめとこう。
真っ紅な廊下を走る走る、曲がる、走る、曲がる、走る。
ホール到着。蹴破らんばかりに玄関大扉を開き、目の前に広がる庭。
傍目には結構控え目な館の大きさより、豪勢な敷地を有している。
二、三人が庭整備に働いているのを監督している緑髪の眼鏡を見つけ、走りながら美鈴は尋ねる。
「外に出たメイドは!?」
その勢いに、緑髪は一瞬気圧されたように顔を驚愕に歪めると、元来の真面目さに戻して。
「夕食用の青紫蘇を摘みにいくと行って先ほど一人」
「ああもう間の悪い!」
横を通り過ぎながら叫ぶ美鈴。
ハーブなら育ててるってのに、何故和風を入れたがる。
「さっき出たばかりですからまだ正門近くにいるかと思いますがー!」
緑髪が遠ざかる背中に叫ぶように。
「さらに間悪いな……」
ガシガシと頭を掻き。
「今度紫蘇育てよう、育てるわよ!外に摘みにいかなくてもいいように!いい!?」
なおも走り、半身だけ後ろを振り返りながら、緑髪に叫ぶ。
返ってきた微妙な表情を一瞬だけ見るとまた前を向き、正門が見える。メイドと、あの気。近いか。
「間に合えよ……」
溢すように呟く。
午前中の日差しが気持ちいいなぁ、と、その妖怪メイドはのんきに思っていた。
調理班に頼まれて、紫蘇摘みへ行く途中である。
面倒くさいが、館の掃除よりはいい仕事かもしれない。うむ、昔を思い出す。
気ままな妖怪生活――。
「今の暮らしも大好きだけどねぇ」
呟き、目の前から何者かが近づいて来ているのにようやく気づいた。
この館は目の前が湖であるので、岸沿いに歩いて行くため、森の方に行くのに外壁を左側にする形だ。
さて近づいてくるその者。女だ。髪は長く、濃い墨のような色を、後ろで高く括っている。
シンプルな黒の洋服。動きやすいようにか、スカートだけが短い。
ここでメイドは目の前の黒女の目的を思った。
通りすがりならいい、何も問題はない。爽やかに挨拶を交わしたっていい。
ただここは、一応近隣では一目おかれている悪魔の館である。
普通の人間は寄り付こうともしないだろうし、出来ないだろう、道も険しい。
それにわざわざここを通ってから行く場所もそんなにないと思う。
ならば、目の前の女は、普通でない人物で、この館に用がある可能性が大きい。
「おーい、あんた何者?ここに何か用?」
が、そんな怪しい人物に、さほど警戒することなく近づきながらメイドは尋ねた。
こちとら妖怪の端くれでもあるので、怯えることもないだろう。
向こうも妖怪だろうが、負ける気はしない。腕に覚えがないとメイドなんてやってられん。
だからその無警戒さは、直接的な攻撃が届く範囲まで近づいたことに気づいても。
無言から高速で自分に振られた拳は見えなかった。
撃音が響く。
当たる、黒女はそう確信していたし、メイドは気づきもしていなかった。
が、結果に至る瞬間、邪魔が入った。
「あぶっ!」
進む右拳が、横から空中で蹴られ、強引に進路を変更させられる。
女は拳を蹴られながら、横足の相手を見る。メイドの頭を飛び越えて、落下途中の慣性で高度を下げながら割って入る紅い髪の女。
後ろから一足で飛びあがってきたのだろうか。
「なぁ!」
叫び、左足、掬うようにローキックを入れる感じで拳を逸らした紅髪、美鈴。
蹴りの勢いと、ダメ押しに相手の伸びた腕を踏んで、後ろ回りに一回転すると、メイドを後ろに庇うように着地。
逸らされ、腕を足場にされた黒女は体勢を崩すも、一歩踏んで持ち直し、少し後ろに飛んで距離を取る。
「ちょっと、メイド生活長すぎて腕鈍ったんじゃない?」
顔半分だけ振り返る美鈴に話しかけられて、ようやくメイドは動けた。見えたのは、美鈴が目の前に飛んできた辺りから。そこから秒単位のことである。
「そ、そうかもしれません、うわ、びっくりした!ええ!?家令長!?え、何!?」
「今さら驚いてんじゃないの、さっさと正門まで戻る!走れ!」
「は、はい!」
妖怪メイドは、多少ぎくしゃくしながらも走り出した。背後、正門前には作業を中断して美鈴を追いかけてきた緑髪とメイド達がいる。
「さて……一応目的を聞きたいんだけどね」
美鈴はその様子を見送ると、正面に向き直った。
やや遠い間合い、黒女は蹴られた右腕を確かめるように振っている。
「吸血鬼の館、その住人。腕が落ちたかと思いましたが、よかった、あなたは鈍ってなさそうだ」
初めて口を開いた。低い、感情を見せない声。顔も同じく、無表情から一度も崩れない。
「妖怪――だろうね、気がそうだわ」
「ええ」
美鈴は説得のために警戒を少々緩めながら、黒女は右側の館を見ながら答える。
「友の仇討です、一応は」
その言葉に、美鈴の顔は曇る。
「あの異変の時の……」
「覚えてはおられないでしょうが」
黒女は顔の向きを変えず、横眼で美鈴を睨む。
「まあ、あの時吸血鬼に挑んで返り討ちにあった一人ですよ。帰っては来ませんでした。馬鹿な奴でしたが、友には違いありません」
美鈴の表情は変わらず、苦々しげな、それでいて、少しの悲しみを含んだ。
「あの時のことは、謝って……それで、あんたの気が済むならいくらでも謝る所存よ。ほとんどは、お嬢様――吸血鬼じゃない、私のせいだ」
「ええ、ええ、あなたのことはわかっていますし。そんなもので済むなら、まあこんなこと忘れて暮らせるでしょう。メイドとしてでも」
声は正門まで届く。メイド達は無言で、反応を返さない。
「あの子達が悪いわけじゃないでしょう」
「ええ、選択は自由ですもの。私はそれを選ばなかっただけです」
曇りを晴らせずも、睨む美鈴に、ようやく黒女は向き直る。
「どうしても、やる?私の命はやれないし、謝罪くらいしかあげられない」
「そのために馬鹿馬鹿しくも修行までしてきたんです、挑める程度になるために。今更謝罪なんてどうすればいい?貰うものは一つしかない」
黒女、構え。
「仇の命だ。あなたと、あなたの主。――よろしくお願い申し上げます」
「私も、主も、命はやれない。すまないね、謝罪だけで、満足してもらうしかないんだ」
一瞬、目を伏せ。
美鈴、構え。
視線が合うと、同時に、全てが動く。
「とまあ、こんな風に……数学とは古今東西問わず、人間も妖怪も、果ては神から悪魔まで、誰もが研究し、真理と根強く関係を持っていると考えられているわ」
パチュリーが、空間に光る文字を描きながら喋る。
「お前や、私や、果てはお嬢様が生まれるずっと前から、ヌルとアインスの狭間で狂った者達がいる。斯様に罪深い学問。世界は数字で構成されているといっても過言ではないかもしれないわね」
もはやどこが学校で教えるレベルの普通なのかわからん横道を、全開で走るパチュリーの講義。
しかし、それを聞く咲夜はどうにもそわそわと上の空で。
魔女は溜息を吐く。
「お前の母親は、お前に何を望んで行ったかしら?」
問いかけに、びくと体を震わせる咲夜。
「……美鈴なら大丈夫よ。昔から、頼りになるもの。まあ、何をしてるかは知らないけど。庭でおっきいミミズでも暴れてるのかしらね」
なるたけ安心させられるような笑顔を意識しながら、妖しい微笑みでパチュリーは言葉を紡ぐ。
そろりと視線を向ける咲夜。
「そろそろ、そのミミズでも持って戻ってくるんじゃないかしら。その時サボってたら怒られちゃうわよ」
笑うパチュリーに、咲夜もくすりと笑みをこぼし。
「よし!」
気持ちを入れ替える一声を出すと、真面目な顔で光る文字と向き直る。
「そうそう。で、まあ、数学の話の続きだけれど……」
パチュリーも表情を戻し、講義を再開しようとし、そして。
さっきまでの噂の影を追うかのように、扉が慌てた様子で開け放たれた。
開かれた扉の先から聞こえてくる声は。
「パチュリー様!」
ミミズを持ってはしゃぐ声とは、全然違っていて。
「た、大変です……!」
慌てて走って来たのだろうか、息を切らしながら喋るのは、期待した人物とも違い。
「何があっ――待て、話は直接私だけに」
「家令長が……!」
パチュリーの慌てての静止に、止まることなくメイドからこぼれ出たその単語を聞いた瞬間。
世界は止まった。
「聞かせなさい!」
叫ぶパチュリーの視界に映るのは、慌てた様子のメイドの一人と、さっきまで座っていたはずの位置が空いて。
「ああもう!遅かった、今回は四秒程度か!?」
そのメイドの横を抜けて廊下を駆け出そうとする小さな銀髪。
「ちょっと、早く捕まえ」
止める。曲がる。走る。そう、時間にして四秒程度。
「なさい!また遅い!」
立ち上がりながらのパチュリーの叫びが再開され、その途中でもうさっきまでの位置に咲夜がいないことを確認して机を叩く。
「えあ!?」
メイドがその指示に慌てて横を向けば、少し離れた廊下の先を走る少女の姿。
「ああもういい!それで、何!?さっさと報告してちょうだい!」
諦めたように乱暴に椅子に戻ると、メイドを睨みつける。
「捕まえるのはいいんですか!?」
メイドの視界の先、さらにこちらに駆けつける三人のメイドを手品のようにすり抜けて小さくなる咲夜の背中。
「間に合わん!こういう時だけ使うのだもの……!それに私は走るの苦手なのよ!」
がしがしと頭をかくと、パチュリーは苛立ち混じりの息を吐いた。
蹴りがくる。
のが、見えている。型も何もない、その場で、その体勢で出せる、最速かつ最威力の攻撃だ。
「んのっ!」
黒女の、体を半分寝かせるようにしながら突き出される右足を、頭を振って避ける美鈴。
顔のすぐ左を通り過ぎる足を横目に、踏み込み。地面を砕かんばかりの震脚。
震脚の衝撃を全てのせるように、腰を少し落として拳を突き出す。
が、突き出された拳を無表情に見ながら、黒女は突き出したままの足を美鈴の肩に下ろし。
そこを支点にありったけの力をこめて、背中を上に跳ぶ。浮いた体のギリギリ下を美鈴の拳が通過。
(どういう反応よ!?)
素通りする拳を認識しながら、美鈴は高速で考える。肩には相手の体重。
半回転し、美鈴の真上にたどり着いた黒女は、そのまま右足を押すように肩から離れ。
と、同時に独楽のように体を捻って回し、遠心力をのせた左足を叩きこもうとする。
「しっ!」
美鈴は鋭く息を吐きながら、こけるように体を前に倒す。
さっきまで頭があった位置を通り抜ける足。
「やる」
避けられながらも、感嘆の息をもらす黒女。
美鈴の視界に高速で迫る地面。片手を突き出して、地面に触れると。
「憤ッ!」
ありったけの力を込めて、体を小さく丸めながら地面を触る手だけで倒立。
そして、一瞬で丸めた体を一気に伸ばし、ついた片手も伸ばし、背後に蹴りを放つ。
「おっと」
黒女は気の抜けるような声を発しながら、片足を出して美鈴の蹴り足にのせるように触れ。
勢いを殺すようにタイミングを同調させて、蹴りを踏んで跳び上がる。
「くっ!」
衝撃を全て吸収されたかのような感触に、苦い顔をする美鈴。
黒女は蹴りの威力を物語るような高さまで飛びながら、くるくると回転してずいぶん後方に着地しようとしている。
(強い……)
相手が着地するまでのわずかなインターバルに、美鈴は思う。
そうだ、相手は強い。戦闘開始から結構経つが、背後のメイド達に、相当苦戦してる姿を見せてしまっている。
着地、と、同時にしなやかなバネをふんだんに使い、こちらに迫ってくる黒女。
流石に単身この館に乗り込んでくるだけは。
(ある!)
接近と同時、突進の威力をのせるように振られた拳を何とか逸らし。
(戦い方は、型も何もあったもんじゃない、ただ妖怪天性の身体能力に任せた徒手空拳)
右手で攻撃を逸らしながら、またも震脚の踏み込み。左、肘を突き出す。
(けど、修行してきたというだけあって、その動きの諸所には)
も、黒女は空いた右手で、掴むように肘を受け止めた。
(武の片鱗のような動きも見える、か)
そして、そのまま片足を真上に上げようとする動きが見え。
(しかし、何より)
それは、上に突き上げるような蹴り。避けようと。
(何より私が……)
した、動きは間に合わず。そのまま綺麗に振り上げたつま先が美鈴の顎に当たり。
(私が弱くなっている……!?)
思いながら、美鈴は後方に蹴り飛ばされた。
ゆっくりと、後方に飛ばされる身体を感じながら、空が見える。
美鈴は思った。
顎が痛い。
いや、それよりもそうだ。私が弱くなっているのだ。
以前なら、この程度の妖怪。そうだ、確かに相手は強い。
強い、が、過去に何度もこの館に挑んできた程度の強さだ。
私は、美鈴は、そんな奴ら、お嬢様に面通りする前に、魔女の砦を侵す前に、メイド達に出会う前に。
苦もなく片づけていたはずなのに。
それなのに、今の私はどうだ。館に挑む者が来なくなって久しいとはいえ、この体たらく。
これじゃあ、守れない。館も、主も、部下も、魔女も、そして私の――。どうすれば。
そんなことを考えつつ、かつ、体が着地すると同時に受け身を取って、すぐさま起き上がる準備をしながら。
背中が地面につく瞬間。
「お母さん!!」
その声は、美鈴の耳に、何よりも先に飛び込んできた。
真っ紅な廊下を、広い庭を、咲夜は、騒ぎを聞きつけて続々正門に集まるメイド達に混ざって駆ける。
お母さんのことは、信じている。
すぐ戻ってくるって。また笑って、頭を撫でてくれるって。
でも、図書館に来たメイドの顔は――。
「ううん!」
咲夜はかぶりを振る。
大丈夫、お母さんはきっと大丈夫だ。
だから、私はお母さんが大丈夫なのを確認しに行くだけだもの。
怒られるかもしれない、でも、謝れば。
庭の終わりは近い、正門が。
お母さんが、また笑っているのを、でかいミミズと大捕り物を繰り広げているのを。
門を出て、メイド達の見ている方向を向けば。
「おかあ……」
黒い服を着た、黒い髪の女に、紅い髪の、咲夜のお母さんが、蹴り飛ばされている姿。
「お母さん!!」
咲夜は、目の前の光景を理解する前に、反射的に叫んでいた。
「美鈴なら多分大丈夫よ、大丈夫だから私を戻してちょうだい」
一方その頃、パチュリーは気だるげな声で。
「大丈夫じゃなさそうだから呼びに来てたんでしょうが!」
パチュリーの下の方から、メイドの一人の声が響く。
「はぁ、美鈴で大丈夫でない敵なら――私でどうにかできるのかしら?レミ……お嬢様に頼んだ方がいいのじゃない?」
「従者としてそんなみっともない真似ができますかい!?」
紅い廊下が後ろに流れていく。
「いっつも役立つことは何もしてないのにトラブルだけは起こすんですから、せめてこんな時くらいは活躍してください!」
「そうですよそうですよ!」
「ちょ、あんたら自分の主人の友人に向かってどういう口の聞き方よ。まあ、いいけど……いいけどもね……」
パチュリーは、自分を上にかついでひた走るメイド達を、首を捻って見下ろしながら。
「この運び方はやめてくんない」
ポジション的には、四人のメイドの内二人がパチュリーの片足ずつを、もう二人がパチュリーの尻を持ち上げて。
それはそれは見事な恥ずかし開脚であった。
「え?何でですか?一番効率がいいんですが……」
「私はまだ花も恥じらう少女なのよ」
小脇に抱えてきた本をペラペラ捲りながら、パチュリーは年季の入った老婆のような溜息をついた。
地面につく、同時に手で衝撃を殺し、勢いのまま後方に足から後方に回転しながら起き上る。
と、即座に、正門を振り返る。増えてきたメイドの観衆達の中に、いた。
銀の髪、見開かれた蒼い瞳。不安そうに美鈴を見つめる。
「お母さーん!!」
もう一度、泣きそうな声が。
「咲夜!?」
何で、とか、あの魔女やらかしやがった、とか。思考が形になる前に、二撃目が来ていた。
「くっ!」
首を刈るような蹴り。避ける間もないので、両腕でガードする。
蹴りの勢いを殺すために、後方に飛び、距離を。
また一瞬後ろを向き直してから、相手を見る。
黒女は動こうとはしていなかった。蹴り足をゆっくり戻しながら、能面のような顔をしている。
「ここまで優勢に戦えてる、私は強いんだろうか」
美鈴もゆっくり息を整えながら。
「そうだね、あんたは強いよ。誇っていい。出来ればその事実だけで満足して帰っていただきたいところだけど」
黒女の表情は変わらない。
「でもね、私にはどうもそうは思えなくて。随分昔、記憶の中で」
思い出すような仕草をしながら。
「そう、あなた達は悪夢のように強かった。ねえ、突然現れた悪魔の館。当然、その当主。その友人である魔女。そして」
美鈴を真っ直ぐに、射抜くように見つめ。
「何よりあなただ。紅い髪の、悪魔の従者。今は、今までのは、手を抜いているんでしょうか?」
言葉の後、一足飛びで近づいてきた。
「それとも」
反射的に突き出された美鈴の拳をするりと避けながら。
「弱くなった?」
「ぐっ……!?」
腹に膝をぶち込む。
顎への一撃が効いているのか、攻撃と回避の連動も間に合わない美鈴はせめてと、手を腹の前にかざして受け止めようとするが。
黒女はそれをうざったそうに、手を突き抜けて衝撃を与えるその膝を二、三発繰り返して。
「後ろの侍女たちみたいな、ぬるま湯のような生活で」
腹を抱えて悶絶する美鈴の背中に肘を落とし。
「かっ!?」
腹と背面、挟まれるような衝撃に身を沈める。
「何もかも鈍った?」
しかし駄目押しに、屈んで苦しむ美鈴に中段の蹴り。
「あぐぁ!?」
綺麗に顔で受けて、後方に吹っ飛ぶ美鈴。
しばらく地面と平行に飛び、肩が地につき、そこから身体全体、擦る様に転がってようやく止まる。
後方に集まって見つめているメイド達から、声はない。
全員、口を開けて、信じられないようなものを見ているかのような顔で動けないのだ。
「おかあ……さん……?」
その中の一人、ひと際背の小さな咲夜の口から、呆然とした呟きがこぼれた。
お母さんが、やられている。強いはずの、お母さんが、美鈴が。
また笑って、頭を撫でてくれるはずの。
下がってろと、自分をかばってくれた。
自分達を、守ってくれる。
紅い髪の、優しい家令長で、お母さんで。
それが、何で――。
それは、その光景を見ている全員の心中だった。
うつ伏せる美鈴の体は、微かに震えるような動きを見せている。
「ぐっ、う……」
起き上がろうとしているのだろうか、しかし先ほどの連撃で蓄積されたダメージのせいか、ままならない動き。
それを見ながら、蹴り飛ばしたことで開いた距離を、ゆっくりと詰めていく黒女。
「優勢、それ自体は喜ぶべきなんでしょうけども……」
首を、ほぐすように回しながら。
「今程度のあなたに勝っても、ねぇ……?本当に、それが本気ですか?」
十分に近づくと、いまだ動けない美鈴の脇腹に数発蹴りを入れて、最後にひっくり返し。
「っ……!!」
「一つ、思いついたんですけども」
仰向けになった美鈴の、苦痛に喘ぐ顔を見下ろしながら。
「あなたが弱くなった原因、あれですよね。あの侍女達と、とりわけ小さい銀髪の」
声も満足に出せない美鈴の目が、代わりに意思を発するように大きく見開かれる。
「あれ取り除いたら、少しはマシになりますかね」
その時、今までほぼ表情の変わらなかった黒女の顔が、にいいと歪んだ笑顔をかたづくった。
「……はっ……めろ……」
呼吸の乱れた肺を、喉を、それでも必死に動かして声を作ろうとする美鈴。
しかし、すでに美鈴から視線を外した黒女は、美鈴の背後、正門方向を向き。
軽く、手の平を上にして広げ、そこに妖気の塊である発光球を作り出す。
「撃てば、当たった所がボカンって術です。あんま使わないですけどね、嫌いですし」
独り言のように呟きながら、腕を振りかぶってそれを。
「や、めろ……!」
しかし、死に体だった美鈴が、気力を振り絞り、体を這いずる様に動かして黒女の足に縋りつく。
「やめて……それ、だけは……代わ、りに……」
必死に言葉を紡ぐ美鈴を、一度だけ見下ろす。
心底呆れたような目で。
それだけで、一瞬言葉が、動きが止まる美鈴。黒女は、足下に絡むその手を、蹴る様に振り解き。
その術を、正門で固まって動けないメイド達の群れに向かって放った。
冷静だと、そうであろうと、常々自負し、思っていた緑髪の眼鏡であったが。
この状況において、それに気づけたのは、それが放たれてからであった。
妖怪生来のずば抜けた動体視力が、近づくそれを実の時間より引き延ばして見せる。
己の間抜けさに歯噛みする。私も甘えすぎだ。本来なら、こうなった以上、ずっと前に自分が動くべきだった。
避難は、間に合わない。が、身構えれば、多分死なない、か?
わからない。耐久力は個人差だ。だが、確実に危ない子がいる。
瞬間的にこの思考をはじき出し、横を向く。
咲夜。彼女の存在は、美鈴が彼女を思うほどでないにしろ、メイド達の中でも大切な、未来に続く存在だと思われているし、思っている。
絶対に、守らなければならない。家令長が出来ない今は、自分が。
見れば、その咲夜の視線は、傷つき、倒れ、それでも敵に縋りつく美鈴に釘付けになりつつも。
こちらに飛来する攻撃に気づいたのだろうか、即座にスカートのポケットに片手が突っ込まれ、何かを握りしめている。
その反応の良さに少し驚き、そして微笑み、また決意を新たにする。
(咲夜は止めれば、少しは逃げられるだろうか……なら、他の皆も守れるように!)
もう、攻撃到達までにそれほどの間もない。
緑髪はメイド達の群衆から一歩飛び出し、素早く反転。
攻撃に背を向け、咲夜を体の真ん中にし、手を精いっぱいに広げ、少しでも他のメイドも庇えるように。
突如、視界を覆った体に咲夜が気づき、他のメイドも気づき、呆気にとられた顔。
が、すぐさまその意味に気づき、何かを叫ぼうとするのを、緑髪は少しだけ微笑んで制止しながら。
着弾、と、目を焼くような光が。
見つめ続けている先で、爆炎が上がる。
美鈴は、悲涙に咽ぶでもなく、自身を焦がす後悔に呻くでもなく。
ただ呆然と、本当に何も考えられないといった風で、それを見つめ続けていた。
「ふぅ……」
黒女は、一仕事終えたとでもいったような息を吐くと、未だ土煙りで視界の晴れぬ正門から視線を外し。
匍匐の姿勢で、上半身をやや起こして微動だにしない美鈴を見た。
「はぁ、まったく……」
その様子に声をかけるでもなく、地面にある石でも蹴るような動作で美鈴めがけて足を振る。
当たる、確信のタイミングで、美鈴の体が弾かれたように動いた。
ばね仕掛けのように足から浮き上がり、直倒立の姿勢になると、腕だけで飛び上がる。
先ほどまでの美鈴の位置を通過する足を意識しながら、黒女はやや驚いた表情になると。
即座に腕を顔の前にかざす、と同時に、目の前の体が強引に足を振って回転し、その勢いを乗せた美鈴の蹴りが吸い込まれるようにそこへ。
骨の芯まで痺れるほどの衝撃を、後ろに飛んで逃し、間合いも調節。
「いたたた……ようやくですか……」
痛む腕を振りながら、美鈴を見据える。
ふわりと、着地した美鈴の顔は、無表情だった。
いつも、今までもずっと、そこにあったはずの、輝く虹のように色とりどりな感情は一つもない。
どこを見ているのかわからない、光のない目。
「いい顔だ」
黒女がそう呟いて、構える前後の一瞬で。
滑る様に美鈴が近づいて、下から突き上げるように顎を蹴りあげていた。
朦々と立ち込めていた土煙が晴れていく。
爆発に、立ちはだかって庇った緑髪も、庇われた咲夜もメイド達も、後ろの方まで全員目を固くつぶり、身を強張らせていたのだ、が。
いつまで経っても来るべき衝撃が与えられないことを不思議に思い、そろそろと目を開く。
「え……無事……?」
緑髪が、珍しく間抜けな声を出して。咲夜も、他も、その言葉に同意するようにポカンとした顔をしている。
何事かと、緑髪が皆の見ている方向、ゆっくり後ろを振り向けば、薄く発光する光の壁が、正門に集まる全員を包み込むように覆っていた。
「間に合ったようね」
低いボソボソ声が響き、全員が声の方向を向けば。
「パ、パチュリー様……」
集まる視線の先、神輿よろしく変な開脚のポーズで担がれたパチュリーが、本を一方で開き、もう片手を前にかざしていた。
その下で、息を切らす四人のメイド達も。
「お、おいしいタイミングでしたね!」
と、担いだパチュリーにグッと合図を送っている。
「そのポーズは……」
あまりのことに、とりあえず的外れたところからツッコミを入れてみる緑髪。
「気にしないでちょうだい」
サッと神輿から飛び降りると、メイド達をかき分けて最前列に近づいてくる。
「それよりも。いかん、いかんことになってるじゃないのよ、まったく」
その言葉に、全員思い出したようにハッと先ほどまでの戦いの場に向き直れば。
「あ、あれ……?」
いつの間にやら起き上がり、先ほどまでのダメージを感じさせないような機敏な動きで、黒女と打ち合っている美鈴の姿があった。
しかし、その顔は、纏う気迫は、雰囲気は。
「お母さん……?」
咲夜の口から、疑問の呟きが。そうだ、その動きは、振るう拳は、攻撃の苛烈さは。
何もかも全て、先程までの、いや常の、全員の知るはずの美鈴とは、あまりにもかけ離れて。
「あああ、もう!そうか、そうだったわね!私も耄碌したもんだわ!」
何やら苛立たしげに呟きながら、その光景を睨むように見つめるパチュリー。
その睨みつける先、美鈴の矢のような飛び蹴りが黒女の顔に当たり、当てられた方がもげるのではないかというほどの勢いで吹き飛ばされる。
まったく逆転してしまった攻守関係。しかし、美鈴の表情には何の色もなく。
「――ッ!?」
ぞく、と、それを見たその場の全員が身震いする。
「戦わなさすぎた、ああ、ああもう!私だって、ブランクあるのよ、攻撃呪文だって数十年ぶり!」
パチュリーは一人、その光景に気圧されずに、ぶつくさと独り言を続けながら、構えた。
黒女は、背の凍るような速度で突き出される美鈴の拳や蹴りを、逸らし、弾き、受けながら思う。
(彼女が復活してから、今までのダメージは――)
大したことない、わけでもないが。現在は無視だ、少しでも気を抜いたら。
即座に腰を落として顔を一段下げる。瞬きほどの後にその上を通り過ぎる拳。
(持ってかれる!けど)
突き出された腕を掴みながら反転、浮き上がるような軽さで美鈴の顎に踵を入れながら掴んだその上に倒立。
足を振った勢いで後方に飛び、距離の調整。
即座に向き直り、正面、美鈴のダメージはどうか。蹴られ、上を向いた顔をゆっくりと戻してきた、その表情には如何ほどの変化もない。
ただ無表情でまた構えるだけ。
「どういう耐久力……」
呆れたような呟きが自然にこぼれた。
思う即座に美鈴が、一足、地を踏み砕く震脚で近づき。
腰を落とし、突き出す肘、からの演武のような綺麗な連撃。また必死で受け、逸らす黒女。
先刻までとは比べ物にならない動きを繰り出しながらも無表情、その美鈴を支配する思考は。
(何故……)
何故、躊躇した。どうして戸惑った。
こいつは、敵だ。
徐々に、受け切れなくなった連撃が、一発、二発と黒女に当たり始める。歪む、相手の表情。
(過去からの、あの時からの……)
敵だ。
あの時からやってきたなら、容赦するな。
相手の蹴りを、掠るように避けながら腹に拳を。
(叩き伏せ……)
一瞬動きの止まる、その肩にそっと手の側面をのせ。
(切り裂き……)
回転させ、手の平で押す。黒女は、何か巨大な質量に地面に押しつけられるかのように腰を崩した。
(完全に……)
そこから即座に、支える足と蹴り足が水平になるほどの蹴りで直上に弾き上げ。
(息の根を止めろ!)
浮き上がった腹に拳を当て、力を加える方向を斜め下に、地面に叩きつける。
「がふっ」
受け身もとらせぬその追撃に、黒女の口から血が吹き出す。
押しつけた拳を離すと、即座に黒女に馬乗りになり。
一瞬目が合う。美鈴の見るその表情は、微かに笑っていた。
しかし、今の彼女にはどうでもいい。拳を振りかぶり、完全に頭を叩き潰すつもりで。
(そうだ、あの時みたいに)
あの時みたいに。
振り下ろす。
あの時みたいに。
大事なものを、守るために。
あの時の。
あの時の、黄昏。燃えるような茜色の景色の中で――
見据える先の、傷だらけで、服もボロボロで、それでも確かに笑っている我が主。
「いやあ、完膚なきまでにやられたわね、お互い」
長い、所々クセの入った、腰まで届くような蒼白い髪が風に揺れる。
「向こうも相当酷い状態だっていうのに、こう馬乗りで、ボコボコに殴られたよ。ただの人間に」
からからと、本当に愉快そうに笑いながら。
「それでね、殴りながらこう言うんだ。『ここで暮らしたかったら、好き勝手やんちゃするんじゃないの!私に逆らうな!』って」
十七、八歳くらいの、その身体を、ほぐすように伸ばしながら。
「そして、『楽しく暮らしたかったら、誰も殺さず、優しく生きろ!』って」
笑いは、微笑みに変わる。こっちを見つめながら。
「ああ、そんなことが出来る筈はないだろうが」
文字通り、肌を焼く空の色は、もうすぐ終わる。沈んでいく太陽に重なる主の。
「そういう風に生きられたなら、素敵だろうね」
そうだ、あの時の、我が主は。
私は。
振り下ろす拳が、微かに速度を。
咲夜の表情は、何故か美鈴がやられている時よりも酷いものになっていた。
美鈴が、そいつを殴る度に、蹴る度に、その瞳は揺れる。
別に、暴力を振るう美鈴を否定するつもりではない。
それでも、怖かった。その表情が、その苛烈さが、その、表から見えない感情が。
全て、いつもの母親とは、まったく違う。
違う。美鈴が地面に押し倒した相手に、馬乗りになる。違う、そんなことしたら。
拳を振りかぶって、咲夜には見えた。殺す気が。
そんなことしたら、戻ってこれないよ。
「……め……!」
呟きは、その直前で、無意識の叫びに。
「お母さん、ダメぇ!!」
その声は、はっきりと美鈴の耳を通り、脳髄に響き。
すんでのところで、拳が止まった。
「――さく……や……?」
美鈴の目に光が戻り、表情が、目覚めたばかりのような鈍さに曇り。
拳は解け、美鈴はほとんど無意識に、何かに引っ張られるように正門を見る。
泣き出しそうな、いや、すでに泣き始めてるその、銀髪の、小さな。
そんな顔を、させたくなかったはずで。
こういう風に。
「――!?」
馬乗りのままだった美鈴の顎に、突如衝撃が来た。
危ういところでいきなり攻撃が止まったことに、しばし黒女も呆然としていたが、ようやく脱出の好機であると悟ったらしい。
片足を、重圧の緩んだ美鈴の体の下から抜き、顎に蹴りを入れたのだ。
引き剥がされるように後ろに飛んでいく美鈴。
浮きながら、地面に着く間に微かに見えた相手の表情は。
「――!!」
悲しんでいるような。
「火符!!」
低い叫びと共に、黒女と美鈴の間に火球が飛んできた。
いくつものそれが地面に着弾し、炎を吹き上げる。
「おう、どうにか上手くいったわ!今の内に美鈴を!」
「は、はい!!」
聞き覚えのある声達が、何かを叫んでいる。美鈴の体は地面につき、受け身の衝撃で最後の力が。
「ちぃ!」
短く吐き捨てて、背を向けて飛び去っていく黒女の後姿と。
こちらに走り寄ってくる緑髪が先頭のメイド達の姿をぼんやりと見ながら。
美鈴の意識は閉じた。
早速後編読んできます!