薄暮の迫る山々を眺める。
少し前までその身を包んでいた紅の錦は霜枯れ、木々は寒風に裸身を晒している。どんよりとした雲の下、生気を失って立ちつくす様は灌木のようだった。
まるで荒野だ。
だが、どれだけ寒風が吹き荒ぼうとも、実体無き騒霊の身ゆえ、この肌が寒さを感じることはない。
それでも私が寒いと思ってしまうのは、この目に映る風景から、大気が寒いと感じ取ってしまう心のためなのだろう。
そしてそれは、私達の創造主がそうあるように望み、また私達自身がそうありたいと思うがゆえのことなのだ。
だが、そのことは決してマイナスではない。音楽を生業とするものにとって、四季折々の風情を感じ、それに想いを馳せることは、大切なことだと私は思っている。
まあ、聴きに来る者たちの多くはそんな繊細さとは無縁の生き物ばかりのような気はするのだが。
これもメルランあたりに言わせれば、姉さんは考えすぎ、そんなことばっかり考えているから、鬱々とした音しか出せないんだよ、ということなのだろう。
あの子はもう少し考えた方が良いと思う。なんでもただ楽しくやれば良いというものでもないはずだ。
おっといけない、また気持ちが下がってきた。確かに、私は考えすぎるきらいがある。ふっと息を吸って気を取り直すと、愛器のバイオリンを構えるのだった。
「さて、弾くか」
そもそも私が何故こうしているのか、それを忘れてしまう所だった。
プリズムリバー三姉妹。幻想郷でもまあまあ名の知れている騒霊三姉妹である。その長女である私、ルナサ・プリズムリバーがこうして一人でここにいるのには、別段理由はない。ただ気ままに空を散歩していたら、気がつくとこんな所まで飛んで来てしまっていただけだ。
幻想郷でも霧の湖と呼ばれるこの場所は、数多くの妖精、妖怪達が生息している。だが、逢魔が時を迎えるこの時分にあっても、周辺を見渡す限り、何者かの気配を感じることはなかった。
徐々に上ってくる輝く月。それだけが観客というのも悪くないと独りごちる。雑念が払われ、演奏を前にして集中力が高まってくる。この、演奏前のピンと張りつめた一瞬が私は好きだった。そして、矢が放たれた時のような開放感に包まれて、私は音楽と一体化するのだ。
たまにはこうして一人で気ままに演奏するのも悪くない。最近では、いつも一緒に三人で、と言うのが当たり前になりすぎているから、独奏というのも良いアクセントになるだろう。
心の赴くままにバイオリンをかき鳴らす。かき鳴らすと言っても実際に弾いている訳ではない。バイオリンを寄り代にして、身内から音を発しているのだ。
それでも、時には直に楽器を手に持って弾くこともある。今日はたまたまそんな気分だった。私は、赤子を抱きかかえるようにしてバイオリンを構えると、弓を使わずに、右手で弦をはじくようにして音を奏でるのだった。いわゆるピチカート奏法と呼ばれるものだ。
そして、心の赴くままに選んだ曲は、外の世界の失われた言葉による英雄譚である。それはかつて、今は亡きレイラから教わったものだった。
その中でも特に私が好きなのは、荒野を流離う詩人が、死を前にして奏でたという曲だ。故郷から遠く離れ、自らは死を迎えようとしている。そんな中で、喪失した故郷の温もりを最後に想う。そんなくだりが私の琴線に触れたのだった。
別にその詩人に同情や共感があるわけではない。だが、生まれ故郷も、生んでくれた人も失い、三人ぼっちになってしまった私たち。いつもは良いのだが、時折どうしようもない寂寥感に胸を打たれることがある。そんな時にこの曲を弾くと、なぜだかレイラの顔が浮かんでくるのだ。取り戻すことの出来ない大切な思い出、それを追いかける曲だからだろうか。それはわからない。だけど、ただ愛おしい記憶に向けて心を込めて弾きたい気持ちにさせられるのだ。
そんな風にバイオリン――この曲、この弾き方ならばフィドルと呼んだ方が良いのかもしれない――を弾き出してどれくらい経ったのだろうか、すでに時間の感覚は失われて久しい。何気なく空を見上げると、すっかり暗くなっており、そこには闇に片割れを喰われた弦月が浮かんでいた。
しまった、少しのつもりがかなり遅くなってしまった。何も言わずに出てきたから、妹たちは心配しているだろうか。それとも、普段から口うるさくしているので、清々しているだろうか。ただ、何も言わずにこれほど遅くなることはないので、少しぐらいは心配してくれているだろう。
そんなことを思いながら、締めのメロディに入ろうと視線を空から戻した時、木陰に見え隠れしている妖精の羽が目に留まった。
正直珍しいな、と思った。鬱の音色を発する私の周りに人や妖精が集まってくることはあまりない。特に一人で弾いているとその傾向は強く、人を遠ざけてしまうことがしばしばあったからだ。
別にそのことを寂しいと感じたことはないが、やはり聴いてくれる者がいるというのは嬉しいものだ。曲を強引に締めると、あまり人付き合いの良くない私にしては珍しく、その妖精に向かって声を掛けていた。
「どうだったかな? 出来れば感想を聞かせてくれるとありがたいんだが」
急に声を掛けられて吃驚したのだろう、ビクッと背中を伸ばしたかと思うと、木陰に引っ込んでしまった。ふむ、驚かせるつもりはなかったのだが。私はやれやれと肩をすくめながら、妖精が隠れている木へと近づいていった。
木の裏には、柔らかな緑色の髪をサイドテールにまとめた妖精がいた。青い服の背中からは虫のような羽が伸びており、ガラスのように透き通った繊細な色をしていた。
「ごめんなさい、お邪魔するつもりはなかったんです」
害意がないことを示すために両手を挙げて近づいたのだが、あまり上手く伝わっていなかったらしい。私の顔を見るなり妖精はもの凄い勢いで謝り出した。その勢いに多少辟易しながら、私はかつてメルランとした話を思い出していた。
姉さんは真面目すぎるから、気をつけないと会話が刺々しく聞こえたり、顔が怒っているように見えるよと言われたことがあったのだ。
真面目くさった顔で近づいたから、多分誤解されたに違いない。そんなことを考えながら妖精が落ち着くのをじっと待ち続けた。
ひとしきり謝って落ち着きはしたがのだろうが、妖精はそれでも警戒するように呼吸を整えながら、上目遣いでちらりとちらりとこちらの様子を窺っていた。私は、思い出した教訓を生かして、出来るだけ柔らかな笑顔を作ろうと努力した。
しばらくじっとこちらを見ていた妖精だったが、どうやら私に害意のないことが通じたらしい、安堵の溜め息をつくと、改めて深々とお辞儀をしたのだった。
「すいません。取り乱してしまって」
「いや、かまわないよ。あまり聴いてくれる者がいないから、嬉しくなってしまってね。急に声をかけられて、驚いたろう?」
「……はい。それにズンズン近づいてこられたので、怒られるかと思っちゃいました。何だか厳しい顔をされてましたし」
正直なのは良いことだが、少し馬鹿が付く気もする。とりあえず、私は気を取り直すと、改めて同じ質問を投げかけてみたのだった。
「で、どうだった?」
「えっ、あ、感想でしたね」
最初の質問を思い出したのだろう。目の前の妖精は百面相をしながら、ああでもないこうでもないと、首をひねっていた。その様子がかわいらしくて思わず口元が緩んでしまったのだが、それには気がつかれなかったようだ。待つこと暫く、ようやくまとまったのだろう。その妖精は私の方に向き直って、身振り手振りを交えながら答えを出すのだった。
「まずですね、とっても感動しました。ええと、それにバイオリンの音色がとってもきれいで、演奏もしっとりとしてたし、でも……」
「でも?」
「何だかさびしい曲ですね。まるで小さな子供がお母さんを探して泣きながら歩いているような、そんな光景が目の前に浮かんできて……、なんだか悲しい気持ちになりました」
妖精の指摘を聞いたときの私の驚きといったらなかった。まさに肺腑を衝かれるとはこういうことを言うのだろう。彼女の指摘はそれだけ私にとって衝撃的だったのだ。
ふと思い出す。妖精は知能が欠けていると言っていたのは誰だっただろうか。確かにそのとおり言葉はたどたどしいし、お世辞にも知識にあふれているとは思えない。だが、自然に生きる存在であるが故だろうか、感受性に優れている。決して、ただの馬鹿ではないことがよく分かる感想だった。
「私、やっぱりおかしなこと言いましたか?」
突然黙り込んでしまった私の態度を見て、妖精は再び不安に駆られたらしい。声におびえの色がありありと浮かんでいた。
いけない、すぐに思考の海に潜ってしまう。おどおどとこちらを見つめている彼女を安心させるように、先ほどよりも穏やかな笑みを浮かべ、私は首を振った。
「いや、そんなことはないよ。君の言ったことがあまりに正鵠を射ていたからびっくりしただけだよ」
「せいこくをいる?」
きょとんとした表情となった妖精の顔を見て、私は慌てて言葉を改めた。
「ああ、ごめんね。間違ってないってこと、……いや、むしろ大正解ってことだよ」
私の言葉に反応し、一転して笑顔になる妖精。考えてみれば、今日初めて見せてくれた笑顔だった。その薔薇色の笑顔が少し私には眩しく思えた。そんな純粋な賞賛に、少し気恥ずかしさを覚えながらも、私はもっとこの妖精と話をしたいと思うようになっていた。
「他に気がついたことはない?」
「そうですね……。そういえば私の友達の声によく似てますね」
「へえ、どんな子?」
「あまり見かけませんけど、よく泣いている子です。大人っぽくて、とてもきれいな妖精ですけど。あまりみんなには好まれないんです。……それはその子が出てくると、誰かが死んじゃうって言われてるから、ちょっと怖がられてるところもあるんです。でもでも、とっても良い子なんですよ!」
そんな風に友達のことを熱弁する妖精だったが、その顔は寂しげだった。
その妖精のことは私も少しだけ聞き覚えがあった。所謂、哀悼精(バンシー)のことだろう。一般的には妖精の女とも言われる哀悼精は、人の死、特に英雄の死を告げる妖精だと言われている。滅多に見かけることはないのだが、死者が出たときの人間の里付近や、強い妖怪などが息絶えるときなどに、その姿を見せることがあるらしい。かくいう私自身も、話で聞いてはいたが、その姿を見たことはなかった。
そして、その最大の特徴こそが歌声である。その歌声は人を極度の哀しみに誘うのだ。時には哀しみのあまり死に誘うほどに。
そうか、だからか。確かに私に似ている。鬱の音色を持ち、聴く者の心を沈ませる演奏。時には鬱病まで追い込んでしまう私の音楽と。
「でも、少しその子の気持ちは分かるな。私も自分の音楽が凶器だとしても、それを捨てることは出来ない。たとえ自分の演奏で世界が滅んだとしても私は演奏を続けるだろうし。……それにしても」
思わず自分語りをしてしまったことが恥ずかしくて、一拍置いて呼吸を整える。
「君は良い子だね。それに友達想いなんだ」
この妖精が馬鹿正直で良い子という直感は多分大当たりなのだろう。だから、そのままの気持ちが口をついて出ていた。
「……そんなことないです」
妖精はぶんぶんと頭を振り、顔を真っ赤にしながら私の言葉を否定したが、それは反駁と言うより、謙遜、いやむしろ卑下のような感じだった。まあ、彼女にしてみれば当たり前のことなのだろう。だから、それを改めて褒められることなどは、ほとんど無かったに違いない。
そんな様子を見ながら、あらためて可愛いと思っている自分は、頭が一足早く春になってしまったのだろう。
気恥ずかしさを隠すように私は、再びバイオリンを弾き始めていた。彼女は私の足下を定位置に決めたらしい。腰を下ろすと、私の演奏に静かに耳を傾けていた。二人の間に言葉はなかった。ただ、穏やかな空気が流れるだけだった。
月の凍てついた光が二人を照らす。白露は大地に降り、冷気を含んだ風が夜明けの近いことを告げていた。
クシュン。妖精の可愛らしいくしゃみが湖に響く。
「そろそろ私は帰るよ。妹たちも待っているだろうし」
さすがに夜明け前ともなると、寒さが一段と厳しい。流石にこれ以上付き合わせるのも酷だろう。私は話を切り上げることにした。
「そうですね。すっかり遅くなってしまいました」
そう言いながらも、妖精は心なしか少し物足りない表情をしていた。思わず私は、
「良かったら、また聴いてもらえるかな?」
と自分から誘っていた。
「はい、私なんかで良ければいつでも」
妖精の顔に大きな笑顔の花が咲く。そして、嬉しそうに返答したのだった。その期待通りの答えに満足し、私は彼女に別れを告げようとして気がついた。
妖精?
そうだ、肝心なことを忘れていたことに気がついた。何故未だに妖精と呼んでいるのだろう。私は、彼女の名前を聞いていなかったのだ。
我ながら間抜けな話だが、これだけ長い時間一緒にいて全然そのことに行き当たらなかった。初めて会ったはずなのに、そんな気持ちが全然しなかったのだ。同じように照れ笑いをしている彼女も、きっとそうだったと信じたかった。
今更自己紹介するのもおかしな話だったが、気がついてしまった以上、聞かずにこの場を立ち去るわけにはいかなかった。
「大事なことを聞き忘れていたよ」
飛び立とうとしていた私が振り返ったので、彼女は少し驚いたようだった。そして、私の言葉に不思議そうに首をひねる。
「いや、大したことじゃないんだ。ただ、君の名前を聞いてなかったと思って」
得心したように手を打つ妖精。その様子から、彼女もその事実に気がついていなかったことがよくわかった。
「私はルナサ。ルナサ・プリズムリバー」
知っているかもしれないけれど。と続けて言うと、彼女は大きく頷いた。
「私は大妖精っていいます」
「大妖精?」
違和感を感じて、思わず鸚鵡返しをしてしまう。
「はい、そうです。友達の中には大ちゃんって呼ぶ子もいますけど、ルナサさんは好きに呼んでください」
確認のための呼び直しと思ったのだろう。大妖精は嬉しそうに自己紹介を続けていた。
いや、私は種族名ではなくて、名前を聞きたかったのだが。しかし、無邪気にそのことを話す大妖精を見ていると、確かに彼女はどうやら本当にそう呼ばれているらしい。だから、敢えて気分を害するようなことを言う必要もないだろうと思った。
「じゃあ、大妖精これからよろしく」
そう言って私はすっと手を差し出すのだった。
「はい、ルナサさん」
差し出された手を見て、大妖精は一瞬きょとんとした。だが、すぐにその意味に気がつくと、はにかみながら力一杯握り返してきた。
伝わるわけがないはずなのに、何故だか握った手のひらから彼女の体温が伝わってくるような気がしていた。繋いだ手を離したくない。そんな気持ちを押さえつけて、私はすっと手を離した。その時の大妖精の表情が寂しそうだったのは、私の願望がそう見せたのだろうか。そうではないと信じたかった。
だんだんと周囲の暗さが薄らいできていた。林を抜けるように、どこからか夜明けを告げる一番鶏の鳴き声が響いた。
「じゃあ、行かないと。今日はありがとう。近々また会いましょう」
そう言って私は手を振ると、残月の残る空にその身をあずけるように飛び立った。
最後にもう一度だけ。
そう思ってふっと湖を見返すと、大妖精は湖の畔に佇んでいた。小さく手を振りながら、飛び立っていく私を見つめていた。残月の光を受けるその姿は、とても綺麗だった。
振り返った私に気がつくと、大妖精は再び力一杯手を振った。私も慌てて手を振ると、後ろ髪を引かれながら暁の空を飛んでいくのだった。
こうして私と大妖精の奇妙な交流が始まったのだった。私がバイオリンを弾き、大妖精がそれを聴く。関係としてはただそれだけだが、二人の間には目に見えない絆があった。
そうして冬が終わり、春が巡ってくる。季節が移り変わっても、私と大妖精の関係は変わることはなかった。いや、その結びつきはいっそう強固なものへとなっていったと思う。
私の弾いているときの気持ちが散りゆく桜の花にあるときには、
「優雅な旋律ですね、ルナサさん。バイオリンから奏でられた音色は、桜吹雪のようにもの悲しく、それでいて何故だか優しさを感じさせてくれます」
と大妖精はうっとりしたように言った。その返答に満足して私はなおも演奏を続ける。
しばらく弾き続けていると、そばを流れていた小川を舞い散る桜の花びらが埋め、まるで水面は桜色の絨毯を弾いたようになっていた。その美しさに心を奪われながら弾いていると、
「穏やかですね。まるで音が小川のせせらぎとともに、春の暖かな空気を運んできたようです。何だか暖かい毛布に包まれたみたいな気持ちになって、とてもホッとします」
大妖精はまたそんな風に言ってくれた。
私たちに言葉はいらなかった。ただ音楽だけがあればいい。心のままに弾くだけで、その弾く以上の気持ちをくみ取ってくれる相手がいてくれるのだ。これほど嬉しいことはないではないか。
「……ふぁあ、何だか気持ちが良くて、眠くなって来ちゃいました」
背中合わせで私の演奏を聴いていた大妖精が、可愛らしくあくびをする。ふっと肩越しに見ると、とろんとした大妖精の顔がすぐそばにあった。
「ん?」
すっと膝を差し出してみた。大妖精は少し恥ずかしそうにしながらも、頭を私の太ももへと置いた。フワッとした重みが私の足にかかった。思った以上に軽く、こっちの方がびっくりしたくらいだ。
「もっと聴かせてください」
「うん」
私を見上げる大妖精のリクエストに応えて、私はバイオリンを弾き続けた。
春が過ぎて、夏が来て、秋が降り、そして再び出会った冬が巡ってきても、こうして季節を越えていくのだろう。私はそう思っていた。
そう、あの異変の日が来るまでは。
朝、私は違和感で目を覚ました。夏が近いというのにやけに空気がおかしい。昨日まで感じていた夏の匂いが消え失せ、どことなく肌寒い感覚だけがあった。不思議に思って部屋のカーテンを開けて驚いた。窓から見える風景が一面真紅だった。思わず手を差し出してみると、紅い気体は霧散した。どうやら、紅い霧が幻想郷中を覆い、日光を遮っているようだった。
だから、夏も近いというのに肌寒いのか。肌寒い理由は分かったが、新しい疑問が湧き上がってきた。何故、この紅い霧は発生したのだろうか、ということだ。だが、起き抜けの頭で考えたところで、異常の原因が分かるはずがなかった。しょうがないので身支度を調えると、一階へ朝食のために下りていった。当然、朝食時の妹たちとの会話もそのことについてのものだった。
「ルナ姉、メル姉、これはきっと異変だよ」
「ん~、そうかもね~。確かに魔力的な匂いがするもの」
「原因は何なのかなあ」
ああだこうだと話し続ける妹たち。しかし、その会話の中身は半分も私の頭には入ってこなかった。むしろ、普段だったら食べながら話をするのはみっともない、と注意をするところだったが、今の私はそれどころではなかった。
大ちゃん大丈夫かなあ。
この異変の中、大妖精がどうしているか、それだけが私の気がかりだった。
「ルナ姉、ルナ姉ったら」
「ん、なんだリリカ?」
「『なんだリリカ?』じゃないよ、惚けちゃってさ、どうしたのさ」
「別になんでもない」
そう言って、誤魔化すように一気に牛乳を飲もうとすると、
「きっと色惚けよ~」
「!」
「そうだね、最近のルナ姉おかしいからなあ」
タイミング良くメルランが思いも寄らないことを言うものだから思いっきりむせてしまった。息を整えようとしていると、それを測ったかのように、リリカも追い打ちをしてくる。私は何とか牛乳を飲み込むと、ゲホゲホと咳き込みながら二人を睨み付けた。
「って、誰が色惚けだ。誰が」
とっさに反発はしてみたが、無言で二人からじっと見つめられる。
「……何よ」
「ん、姉さん」「ルナ姉」
二人に同時に突っ込まれ、ぐうの音も出なかった。
「……とにかくそんなことはないから」
苦々しげに返答をする私を、二人はニヤニヤと眺めていた。思わず舌打ちをして立ち上り、無言で食器を流し場に片付けに行った。
後ろで、おおこわいこわいなどと言っているのが余計に癪にさわる。私は食器を乱暴に洗い終えると、わざと二人の横を通り抜けて自室へと戻るのだった。
部屋に戻るとベッドに腰掛け、バイオリンの調律でもしようと手にとってはみたものの、どうにも落ち着かない。正直、外の様子が気になって仕方がなかったのだ。やはり今日も行くとしよう。そう思って部屋を出て廊下に出たところで、リリカに呼び止められた。
「ルーナ姉」
あからさまに間延びした声で、媚びを売りながらリリカが近づいてくる。どう見ても何かたくらんでいるような雰囲気だった。
「……何の用だ。私は忙しいのだが」
先ほどのこともあり、私の返答は不機嫌さを隠さないものだった。そして、その存在を無視するように、リリカの横を通り過ぎようとした。
「そんなに邪険に扱わなくても良いじゃない。散歩に行くなら私もついて行ってもいいかな?」
わざとそんな風に扱ったつもりだったのだが、リリカには全く通じなかったらしい。私の態度などにはお構いなしに、後ろから付いてくる。どうやら諦める気はないらしかった。前を向いているのでよく分からないが、きっとその表情はニヤニヤしているに違いない。
とりあえず階段を降り、玄関へと向かうが、その間もリリカはずっと私の後ろを、金魚の糞のように付いてきていた。階段を降りきったところで、やれやれと肩をすくめながらリリカの方に向き直った。
「何を企んでる?」
「企むなんて人聞きの悪い。たださ、ルナ姉が散歩から帰ってくるといつも楽しそうだからさ、そんなに楽しいんだったら一度くらい私も一緒に行きたいなあと思っただけだよ」
口ではそう言いながら別のことを考えているのは明らかだった。
「別にお前が期待しているようなことはない。強いて言えば、気ままにバイオリンを弾いて楽しんでいるだけだ」
「じゃ、いいじゃない。たまには私とのデュオってのもさ」
「私は一人が良いんだ」
「えー、ルナ姉つれないよ」
「つれなくて良い」
しばらくこんなやりとりを続けていると、リリカが急に黙り込んでしまった。少しきつく言い過ぎただろうか。だが、ここでこれくらい言っておかないと諦めさせるのは難しい。私はリリカの変化にこれ幸いと玄関へ踵を返した。
「でも、こんな霧の日に、しかも異常な紅い霧が出ている日に一人で行かせて、ルナ姉に何かあったら心配だからさ、やっぱり私も行くよ」
やはりリリカは全然諦めていなかった。言うに事欠いて、私が心配だと。全くよく言うものだ。
その後も、しばらく押し問答をしていたが、結局埒が明かないまま、私が折れることになった。ここで無理矢理押し通しても後が煩いので、諦めて連れて行くことにしたのだ。
「……」
「そんな嫌そうな顔しないでよ。スマイルスマイル」
悪意だらけの無邪気な笑顔で、リリカは話しかけ続けるが、私はただひたすら無視し続けていた。それはリリカが付いてきたことへの不満の現れでもあったが、何よりもこの紅い霧のことが気がかりだったからだ。
そして、霧の湖に近づくごとに紅い霧が濃くなっていく。いや、むしろ霧の湖の中央から発生しているようだった。メルランほどの魔力が無くとも、異変の中心地が霧の湖にあると言うことぐらいはわかる。あそこに一体何が。飛ぶスピードは緩めないまま、原因を逡巡する。よく考えれば分かったはずだが、冷静にものを考えられる精神状態ではなかったのだった。
何かに駆り立てられるように、紅く染まった空を飛翔する。その私の頭の中に浮かぶのは、一人の妖精の姿だけだった。
「大丈夫かな? 大ちゃん……」
「ん~。大ちゃんって誰?」
思わず口に出していたらしい。失言したことは無視して、私は始終にやついているリリカをきっと睨む。だが、全くもって意に介した様子はなかった。それどころか、よりいっそうにやついた笑いを浮かべてこちらを見ていた。
そんなやり取りを繰り返すうちに、霧の湖が見えてきた。私は何も言わずに飛ぶスピードを上げるのだった。
「ちょ、ルナ姉いきなり飛ばさないでよ」
唐突な私のスピードアップに付いてこれず、リリカが文句を言う。
「勝手に付いてきたのはお前だろ」
そう言ってなおもスピードを上げようとしたとき、湖の方から爆裂音が響き渡った。
「ルナ姉……、あれって、もしかして……」
「ああ、あれが本物の弾幕ごっこだ」
「じゃあ、あそこにいるのは悪名高き博麗神社の巫女……」
リリカに指摘されるまでもなくそれは分かっていた。遠目にも、紅白の巫女が舞い踊る様子が見える。その御手から放たれた弾幕模様が、煌びやかに紅霧の空を彩っていた。そう、今まさに霧の湖の上空では、異変調伏という名の元に、弾幕ごっこが繰り広げられていたのだった。
「美しい……」
初めて見た本物の弾幕ごっこは美しかった。まるで夢のような弾幕に、思わず呆然と見とれてしまっていた。
だが、巫女の放つ弾幕の先にいる者の姿を目に留めたとき、私は現実に引き戻された。
「大ちゃん!」
「駄目だよ、ルナ姉」
思わず弾幕の渦中に飛び込もうとしたところをリリカに手に阻まれた。がっちりと掴まれた手は、ちょっとやそっとのことでは離れそうになかった
「離せリリカ。行かないと」
「だから駄目だって、ルナ姉までやられちゃうよ!」
「そんなこと知らない。……離さないなら、お前を打ち落としてでも行く」
そう言って、私は空いている手に魔力を込める。見よう見まねの光弾が私の手中に誕生していた。私は躊躇せずにリリカへとその手を向けた。
「えっ」
まさか撃たれるとは思っていなかったのだろう。予想外の私の行動に、リリカは掴んでいた手を緩めざるをえなかった。
「ルナ姉―!」
その隙に私は全速力で飛び出した。背中に浴びせられるリリカの絶叫を無視し、私は巫女と妖精の弾幕の渦中へとその身を投げ出した。
だが、勢い込んで飛び込んだものの、いっこうに近づくことは出来なかった。そこは、勢いと情熱だけで飛び込んでいけるような甘い戦場ではなかったのだ。
自分を狙うものではないにしろ、直線に進むことは出来なかった。有象無象の流れ弾をかいくぐる。時には体にかすらせるようにしてかわしていく。焦る気持ちを強引に噛み殺して、私は弾幕の雨の中を突き進むのだった。
そして、ようやく緑色の髪がはっきりと見えるところまで来た。
あと少し。そう思った瞬間、暴虐なまでの光の弾幕が大妖精に叩き付けられたのだった。
間に合わなかった。私の全身を失意が包む。だがすぐに気を取り直して、巫女に背を向け、水面に向かって飛ぶ。力を失い落ちていく大妖精が、湖に叩きつけられることだけは阻止しなければならない。もう弾に当たることなんかに構っていられなかった。とにかく一直線、大妖精の落ちる先に向かって、私は全力を振り絞って飛んだ。
湖に落ちる寸前、私は大妖精と水面の間に体を差し込み、何とか受け止めることに成功した。
「クッ」
いくら軽いとはいえ、落下の速度が加わって落ちてくるのだ。その衝撃に思わず息が止まりそうだった。呼吸を整えながら、何とか体勢を立て直す。落ち着いたところで上空を見上げると、巫女は明後日の方向を向いて弾を撃ち続けていた。
すでに興味は失せているようだったが、急に巫女が追撃してきても拙いので、すぐにでもこの場から離れたかった。だが、私はとても高速飛行が出来るような状況ではなかった。
私は覚悟を決めると、大妖精を抱きかかえたまま湖の畔を目指すのだった。右へ左へとフラフラと飛ぶ様は、まさに的としか言いようがなかったが、幸い霊弾に当たることもなく、無事に湖岸へとたどり着くことが出来たのだった。
湖畔の草の上に、そっと大妖精を横たえると、ゾッと背中に冷たいものを感じた。恐ろしく緩慢に後ろを振り返ると、上空から巫女が無表情で見下ろしていた。
だが、その目に私たちは映っていないようだった。そして如何にも興味なさげに鼻を鳴らすと、湖の中心部の方向へと飛び去ったのだった。
巫女にしてみれば、妖精の弾幕などは、羽虫の囀りのようなもので、ただ鬱陶しいだけの異変解決の障害にもならないのだろう。
でも、そんな虫けらにだって心はあるし、大切な者だってあるのだ。沸々と沸いてきた怒りにまかせて、私は巫女に向かって突っ込もうとした。
だが、その暴挙は、優しい一本の手が防いだのだった。最後の力を振り絞るように、差し出された大妖精の手は、私の服の裾を掴んでいた。
「大妖精! 気がついたんだね、良かった」
「あれ、ルナサさん? 何でここに、……ってそうでしたね、今日も弾いてくださるんでしたね。ごめんなさい、私ばっかり横になっちゃって、……あれ、なんでだろう起きあがれないです」
無理矢理起きあがろうとする大妖精を、押しとどめ、上半身だけそっと抱きかかえる。
「ごめんなさい、ルナサさん」
血の気を失った唇から掠れた声が漏れる。
「謝らなくて良い。だからゆっくりと休んで…」
私は言葉を最後まで言うことが出来ずに、もごもごと唇を噛むばかりだった。
「心配することはないですから……、笑って下さい」
そう言って荒い息の中、私を元気づけるように大妖精は微笑んだ。だが、両腕にかかる重みはどんどん軽くなっていき、羽の先端はすでに消え始めていた。
「なんで、何で大ちゃんが消えないといけないんだよ」
私の声も消え入りそうに震えていた。
「あ、やっと大ちゃんって呼んでくれた。うれしい……です」
穏やかに笑う大妖精は、とても綺麗だった。でもその綺麗さは砕け散るガラス細工が最後に放つ煌めきのようなもので、否応なく私に終わりが近いことを告げるのだった。
「もう、話さなくて、いい、から……」
「ひいて、くだ、さい。何か……」
息も絶え絶えの大妖精が最後に願ったのは、私のバイオリンの演奏だった。
「……わかった」
とても演奏が出来る精神状態ではなかったが、私は大妖精のためにバイオリンを弾き続けた。演奏中の大妖精の表情は、穏やかではあったが、それでいて咎めるような表情でもあった。まるで、子供のいたずらを叱るような感じだった。
それだけで私は理解した。こんな状況であっても、彼女は私の演奏を的確に分かってくれているのだ。
「る、な、さ……さ、ん。あ……り…」
それでも、最後には感謝の言葉だけを遺して、彼女は消滅した。それと共に私のバイオリンの音色も途絶え、その場には静寂だけが残った。
暫くして紅い霧が消えていった。多分あの巫女が異変を解決したのだろう。だがそんなことはどうでも良かった。
私は大妖精が消えてしまった場所に項垂れて、呆然とその場所を眺め続けていた。ショックが大きすぎると何も考えられなくなると言うのは本当のことらしい。別にこうやって大妖精との思い出を反芻するでもなく、かといって巫女への恨みを膨らませるでもなく、ただひたすら私は座り続けていたのだった。
ジャリと背後から、砂を踏みしめるような音がしたが、振り返る気すら起こらなかった。何か私に呼びかけているようだった。だが、耳に音は入ってくるのだが、内容が全く理解できなかった。
ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきた。思わずふっと顔を上げる。目を透かすようにして空を見上げると、黒雲が湖を中心にわき上がっていた。
雨が次第に勢いを増して、土砂降りへと変わるのに時間はかからなかった。空から落ちてくる雨は私の涙なのだろうか。それとも、彼女の涙だろうか。どちらかなど分からなかったが、それでも私の気持ちを冷やすのには十分だった。
「……ルナ姉、帰ろう」
激しい雨の中、動くことを忘れたように座り込む私に、ようやくリリカの声が届いたのだった。どうやらずっと呼びかけていたのは妹だったらしい。だが、私はその呼びかけにも、賛同も拒否もしなかった。ただ、呆然と項垂れていただけだった。
ふっと浮遊感があった。何度呼びかけても全く無反応な私に業を煮やしたのだろう、リリカは強引に私の腕をつかむと、引っ張り上げるような形で空へ舞った。運ばれるがまま。私はリリカに半ば引きずられるような形でその場を後にした。
家に帰り着くなり、濡れた服も拭かずに真っ直ぐ自分の部屋へと向かう。すれ違ったメルランが何か言いたげな素振りを見せたが、歯牙にも掛けずに部屋へ入った。後ろ手に鍵を掛けると、ベッドが濡れることも気にせずに体を投げ出した。しばらく布団に顔を押し当て、私は黙って泣いた。
小鳥の鳴き声で目を覚ますと、体の節々が固まっているような気がした。どうやら、そのままの体勢で眠ってしまっていたらしい。ブルっと体を震わせて一つ伸びをする。全くもって気分は晴れていなかった。
そのままベッドに腰掛けて中空に視線を彷徨わせて、顔を伏せる。何も考えたくなかったが、気がつくと思い出すのは大妖精のことばかりだった。
ギシッと廊下がきしむ音がして、扉の前に誰かが立った気配がした。間髪入れずとんとんとん、とノックの音がする。
「姉さん。起きてる? 朝ご飯作ったんだけど」
メルランがどうやら様子を見に来たらしかった。
「……」
だが、私は返答する気はなかった。
私が全く反応を返さないので、どんどんと先ほどよりも扉が強く叩かれるが、やはり返答する気にはならなかった。
「姉さん。姉さん。起きてないの?」
繰り返し自分の名を呼ばれるが、何となく他人事のように感じられる。そうこうするうちに、メルランの方が先にしびれを切らしたようだった。
「冷めないうちに降りてきてね」
メルランは一つ大きな溜め息をつくと、そう言い残して部屋の前から去っていった。足音が遠ざかるにつれて、ほんの少しの寂しさと、ホッとしたような和らぎを感じていた。
後に残されたのは、静寂と窓の外から漏れる自然の音だけだった。そうして、私は思考の海に潜っていくのだった。
ずっと引っ掛かっていることがある。それは何だろうか。何か悔しいのだろうか。彼女を救えなかったことか。それとも、負けてもいいから巫女に挑まなかったことか。考えても考えても答えは出なかった。
答えが出ないなりに色々と考え、帰って来るであろう大妖精に何て言葉を掛けてやろうか、とか少しでも前向きな気持ちになろうと努力をしてみたりもした。
そうやって色々なことがぐるぐると頭の中を駆け巡り、何とかそれが落ち着いたときには、私は楽器を演奏したいという気持ちが全く起こらなくなっていた。
騒霊たる身でありながら、演奏をしないなど、全くあり得ないことだが、私はどうしても楽器を手に持つ気にならなかったのだった。
そして一つの考えに行き着いた。つまり私も消えようと願っているのかもしれない。だが、すぐ首を振る。そんなはずはない。だって私は待たねばならないのだ。妖精は自然の存在だから、いつか必ず帰ってくるのだ。だからこそ消えるわけにはいかない。そんなことぐらい私には分かっていたはずだった。
久しぶりに部屋から出たときの、二人の妹のあの安堵した顔は、ちょっと忘れられそうにもない。そして、演奏をしたくないと告げたときの絶望的な顔も。
当然、理由を問いつめられたが、自分でも分かっていないことを説明するなど出来るはずもなく、とにかく出来ないの一点張りを繰り返すほかなかった。そんな私に、二人ともしばらく時間をおくことにしたようだった。きっと、いつもの病気のようにすぐ立ち直るだろうくらいの気持ちだったに違いない。だが、二人の予想に反して、あの夏の日以来、私がバイオリンを手に取ることはなかった。
二人が演奏に行こう、ライブをしようと、誘ってくるが、決して私は首を縦に振らなかった。
かつて、鬱がひどいときに演奏をしないこともたまにはあった。だが、それでも手元から離れなかった私のバイオリンが、今ではベッドの片隅で埃を被っていた。
弾く気は起きなかったが、慣れ親しんだ愛器である。私は時折触れては語りかけていた。
そんな恨みがましそうな目でこっちを見るなよ、私だって別にお前が嫌いになった訳じゃないんだ。ただ、ちょっと疲れただけなんだよ。そのうちたくさん弾いてやるから、今はゆっくり休んでいてくれよな。そんな風に語りかける。そんな日々が続いていた。
こんな風に館にいても気が滅入るので、何をする出もなくぶらぶらと外を散歩するようにしていた。特段目的はない。本当にただぶらぶらするだけだ。そうやって、大妖精がいなくなった夏が終わり、独りぼっちの秋が深まる。そして、春が来ない冬がやってきたのだった。
そんなある日のことだ。いつものように外に出ようとすると、玄関の前にリリカが立っていた。
「さあルナ姉、今日こそはライブよ」
「ん、パス」
暑苦しくにじり寄ってくるリリカに、素っ気なく返答する。ここ最近のやりとりである。
いつもだったらリリカがしょうがないなあという感じで、私を通してくれるのだが、今日はちょっと違っていた。断固として玄関の前から動く気がないようである。
「……通れないんだけど」
「今日は通すつもりはないよ、一緒に演奏するって言うまで」
語気に怒りの色を隠さないで、リリカは私を睨み付けていた。
とうとうこんな日が来たか。覚悟を決めた目をしているリリカとは対照的に、私は人ごとのようにぼんやりと眺めるだけであった。
普段から感情の揺れを表情に出すメルランに比べて、リリカは、それが上手いか上手くないかはともかくとして、出来る限りポーカーフェイスを気取ろうとしていた。だから、こんな風に自分の感情をぶつけるような態度を取ることは稀であった。
特にリリカは、私がこうなってしまった理由を知っているだけに、自分の気持ちを押し殺して私と向き合っていたに違いない。まあ、それはメルランにしても同じだったのだろう。
だからこそ私は、妹たちの我慢に甘える形で、今の抜け殻のような生活を続けていたのだ。しかも、たちが悪いことに、私は敢えてそのことから目をそらし、気づかないふりしていたのだった。
だが、そんないびつな生活が長く続くはずはなかったのだ。そして、最初にしびれを切らしたのがリリカだったというだけの話だ。それでも私は、その現実から目をそらし、真っ直ぐにぶつかってくるリリカと向き合おうとはしなかった。
「何で弾こうとしないよ姉さん」
「別に……」
苛立ちを隠さないリリカをよそに、私には別にいつでも、前のような自分に戻れるという自信があった。でも、演奏をしたいという活力が湧いてこないだけなのだ。だが、その煮え切らない態度は、リリカは苛立ちに油を注いだだけのようだった。
「別にって、真面目に答えてよ」
決して不真面目なつもりはなかったが、確かに不誠実な返答だったと思う。だが、そもそもリリカの問いに答える気など初めから無かったし、それ以上に答えを持ち合わせていなかったのだ。
それでも今日のリリカは粘り強かった。とにかく私を翻意させようと、時には怒り、時には涙を流しながら自分の方へ私の視線を向けようとしたのだった。
しかし、私は始終飄々と柳に風な態度をとり続けた。そして、そんな私に愛想が尽きたのだろう。とうとうリリカの堪忍袋の緒が切れてしまった。
「もう知らない。ルナ姉なんて死んじゃえ」
吐き捨てるように言うと、リリカは玄関から飛び出していった。
「死んじゃえ、か。もう死んでるじゃん」
リリカの捨て台詞に、私は思わず皮肉な表情を浮かべてしまった。まあ、当たらずしも遠からずってところではあるな。そんな風に開け放たれた玄関を眺めていると、後ろから悲壮感たっぷりの声に呼びかけられた。
「姉さん」
「貴女までそんな顔をして、似合わないわよ暗いメルランなんて」
そう言ってメルランの方に近づき、なだめるようにポンッと肩を叩くと、諭すように話しかけた。
「でも、姉さんは消えるつもりなんでしょ」
しかし、納得した様子は全くなかった。それどころか、メルランはいつになく真剣な表情で私を見つめていた。
「何を言ってるんだ。そんなこと―」
私はうんざりしたように肩をすくめると、茶化した口調で否定しようとしたが、メルランの言葉に遮られてしまった。
「私も知ってるんだよ。レイラの願いによって生み出された私たちは、すでにレイラという依り代を失ってしまったから、とても不安定な存在なんだってことは。だから、私たちには音楽を奏でる騒霊という在り方しか残されてない。そうでしょ?」
溜め込んでいたものを全て吐きだしたからだろうか、メルランはとても落ち着いた表情をしていた。ただし、私に向けられている視線が炯々と輝いていることを除けばだが。
「……そこまで分かっているのか」
嘆息混じりの私の言葉にメルランが頷く。流石にこれ以上はごまかせないな、と私も覚悟を決めた。
「別に、消えるつもりなんてないよ」
「嘘よ、じゃあ何で弾かないの?」
冷然と問いつめるメルランは、すでに常日頃浮かべている笑顔の仮面を脱ぎ捨てていた。
「弾かないんじゃなくて、弾けないんだよ……」
それは嘘偽りのない私の本音だった。確かに大妖精が消えてしまったことで落ち込んでいるのは事実だ。だが、そのせいで消えたいなんてことは、これっぽちも思ってはいない。
彼女は妖精だ。だからきっといつか帰ってくる。逆に言えば、その日まで私は絶対存在していなければならない。それまで消えるわけにはいかない。それは分かっていたのだった。それでも、何故だかバイオリンを手に取る意欲が湧かないのだ。
「ごめんメルラン。でも、もう少しだけ時間を頂戴。せめて今のこの気持ちが納得できるまで」
だから、こういう返答しか出来なかった。
「……本当に消えたいわけじゃないんだよね」
先ほどまでの厳しい眼光とは打って変わって、心配そうな視線を向けるメルランに、私は無理矢理表情を作ると、柔らかく笑いかけた。
「それは大丈夫。もし本当に拙いときは無理矢理にでも楽器を持たせてくれてかまわないから」
少し冗談めかして言ったつもりだったが、あまり成功はしなかったようだ。メルランは一瞬ぞっとしたような表情を浮かべると、すぐに愛想笑いをしてそれを隠そうとする。そんな様子がとても痛々しかった。
だが、そうさせている原因は紛れもなく私だった。
「わかった。姉さんを信じるよ」
きっぱりとした言葉であったが、そこには苦渋の色がありありと浮かんでいた。実際、メルランは納得したわけではないだろう。それでも、固かった表情が緩んだので、私はメルランに背を向けた。
「じゃあ、ちょっと散歩に出てくるわね」
振り返りもせずにメルランに言葉を掛ける。そんな私の背後では、ハァと大きな溜め息をつく音がしていた。
「……もう少しリリカに優しくしてあげなよ」
メルランの最後の言葉に、私は手を挙げて応えただけだった。
そうやって私は家を出てきたものの、特に目的など無かった。とりあえず気の向くまま風の流れるままに空を舞うのだった。
「やっぱり、ここに来ちゃうのか……」
結局、特に当てもなく跳び続け、辿り着いた先は、大妖精の住み処だったところでもあり、彼女が消えた場所、つまり霧の湖だった。
ぼんやりと空に浮かんでいてもしょうがないので、湖の脇に降り立った。普通ならば妖精がちらほらいてもおかしくないのだが、一切その姿を見ることがなかった。
それも当然と言えば当然だ。春の香りが全くしていない。山を見れば、あの日、大妖精と出会った時のような荒野が続いていた。
チッと一つ舌打ちをすると、湖の外周を私は歩き始めた。知らず知らずのうちに早歩きになってしまうのは、きっと過去の傷をぬぐい去りたいという思いのせいだろう。
こうして霧の湖を当てもなく歩くのは、実は初めてではない。むしろ、このように湖の外周をぼんやりと巡ることは、大妖精が消えてからずっと続けている私の日課のようなものだった。
「そろそろ、潮時かな……」
リリカとメルランとのやりとりが頭の中に浮かんでくる。普段から笑顔で、企図することなくポーカーフェイスを装っているメルランまでもが、あからさまに感情をぶつけてくるとは思わなかった。
自分でもこんなことを続けていても何の易もないと分かってはいたし、妹たちに心配をかけているのも分かっているので、そろそろ何とかしたかったのだが、立ち直る切掛けがつかめずにいた。
結局何か足りないのだ。私がもう一度音楽を取り戻すための何かが。それが分からないから、この散歩と同じように、ただ同じところをぐるぐると回り続けているだけなのだろう。
そんなことを考えながら、とぼとぼと歩みを進めていると、背中に何かをぶつけられた。思わず立ち止まったところに、間髪入れず罵声が飛んできた。
「おいちんどん屋!」
「誰がちんどん屋だ――」
何かをぶつけられた挙げ句、悪意のある呼び方をされたので、少しむっとして振り返ると、小生意気そうな水色の氷精が、ふてぶてしくも腕組みをして立っていた。視線を下げると、私の足下には小さな氷のかけらが落ちていた。どうやら石ではなくこれをぶつけられたらしい。
確かこいつは……、そうだ、チルノとか言う氷精だった。よく大妖精にくっついて来ていたので覚えている。
そのことを思い出した瞬間、私は思わず目をそらしていた。こいつの姿を見ると、否応なしに大妖精の姿を思い出してしまう。そんな幻想を振り払うかのように、私はチルノに背を向け、逃げるように歩き出そうとした。
「そうだな、今のあんたはちんどん屋ですらないもんな」
嘲るようなチルノの声に思わず踏み出そうとした足を止める。
いつになくチルノの声が険しい。それに、そもそもこんな風に人に絡んでくるようなやつだっただろうか。確かに馬鹿だし、うざったいくらいに話しかけてくる妖精ではあったが、悪意を持って人の気持ちを逆撫でるような物言いはしなかったはずだ。
「……何?」
少し向かっ腹を立てながら振り返ると、怒りに燃えているチルノの姿がそこにはあった。まるで自分の怒りで溶けてしまうのではないか、そんな風に思わせる迫力があった。
そんな普段とは違う様子に明らかに戸惑いを見せている私をよそに、チルノは厳しい表情で私を睨み付けていた。
「何であんたは音を出さないのさ」
うるさいな、何でこんな馬鹿妖精になじられなければならないんだ。リリカやメルランとは違う、明らかな敵意を受けたことで、私の心の内に思っていた以上の反発心が起こっていた。
「おまえには関係ない」
だから、思わず反駁した声は必要以上に動揺を孕んでいた。
「ある」
動揺する私とは違い、チルノの声には一切揺らぎは存在しなかった。
「なんでだ」
声色を変え、威圧するように放った私の言葉にも、チルノは全く怯むことがない。むしろ、いっそう激しく私に向かってくるのだった。
「あんたが音を出さないから大ちゃんが帰ってこないじゃんか。普通だったらあたいらは、すぐ元通りになるんだよそれが全然帰ってこない。だから、あたいなりに色々考えたんだ」
一気に喋ったせいで息が切れたのだろう。チルノはぜいぜいと肩で息をしていた。馬鹿妖精の思いも寄らない雄弁さに、私は呆気にとられていた。結局、チルノが呼吸を整えている間も、ずっと無言を貫くほか無かった。
「大ちゃんはさ、あんたのことが大好きだったんだよ。いつもいつも、あたいがわがまま言っても許してくれてた大ちゃんが、あんたの音を聞くときだけは言うんだよ、『ごめんねチルノちゃん。どうしてもルナサさんの演奏が聴きたいから、ちょっと静かにしてもらえるかな』って」
チルノは泣いていた。
「音を出せばいいじゃんか。大ちゃんはさあ……、あんたが、あんたが呼んでくれるのを待ってるんだよ」
「……私?」
「あんた以外に誰がいるのさ。この馬鹿!」
泣きべそをかきながら、ぽかぽかと私の胸を叩くチルノを振り払うことなく、私は憑き物が落ちたような穏やかな気持ちで見守っていた。
そう言ってチルノは、駄々っ子のように手を振りまわし、ぽかぽかと私の胸を叩いてくるのだった。私は呆然とチルノに叩かれるがままだった。
別にチルノの涙が私を動かしたわけではない。そうだ、あんな馬鹿妖精の言葉になんかに動かされた訳じゃない。自分でも分かっていたのだ。このまま音楽をやめることなんか出来ないって。弾かなくちゃいけないって。でも、それでも、心から分かって聴いてくれる人がそばにいなければ、意味がないんだって。
そんな簡単なことを再確認するのにどれだけの時間、どれだけの迷惑を掛けたのだろう。まったく何が、私も自分の音楽が凶器だとしても、それを捨てることは出来ない、だ。こんな体たらくでよくあんなことを言えたものだ。自分の言葉に自分が殺されるとは、まさにそういうことを言うのだろう。
そんなことを考えていると、私を叩いていたチルノもいつの間にか落ち着いており、胸に体をあずけるようにして抱き付いて泣いていた。
チルノが少し落ち着いてきたところで、両肩を掴み、グッと体を引き起こす。涙は止まったものの、目と鼻は赤く腫れ上がっている顔を見て、思わず笑みがこぼれてしまった。
「あによ」
馬鹿にされたと思って頬を膨らませるチルノに思わず和んでしまった。
「こんな馬鹿妖精に諭されるとは、私も焼きが回ったものだな」
これまでの無様さが気恥ずかしくて、思わず憎まれ口を叩いてしまった。
「誰がばかよ、さいきょーのあたいに言われるまで何もわからなかったくせに」
本当にその通りだ。何でこんな簡単なことに気が付かなかったのだろうか。私は騒霊ヴァイオリニスト、ルナサ・プリズムリバー。死者の魂だって自分の演奏で取り戻しに行く。それぐらいの気概がなければいけなかったはずだ。
「私の演奏で大ちゃんを呼び戻してやる」
この終わらない冬ですら春に変える演奏で、きっと私は大妖精を取り戻す。燃えかす寸前だった魂の熾火に、再び火がついたことを私は感じていた。
心の中で念じる。来い、私の魂よ。お前の力が必要なんだ。
だがそんな必要はなかった。後ろを向けば、ぷかぷかと私の愛器が浮かんでいた。そうだ、いつだって私の音楽は心にあって、それを為すためにそばにいてくれたのだった。それすらも分からなくなるほどに、私の目は曇っていたのだろう。
抱きしめるようにしてバイオリンを手に取る。心なしか暖かく感じたのは気のせいではないだろう。
「それはそうと音を出すってのはやめてくれ。奏でるというのは無理にしても、せめて弾くぐらいは使ってくれないとね」
そう言うと、私は鎖骨の付け根にバイオリンを乗せ、あご当てに顎の左側を乗せる。うん、大丈夫。少し落ち着いてきた。肩と右肘で円を閉じるように弓を構えると、手首を柔らかくふくらませ弦へと乗せた。
そして、一呼吸置いて私は弾き始めた。
湖畔の静寂を縫って、囁くような旋律が空へ舞う。どこか艶めかしい感じを与える音色は、徐々にその速度と熱を増していくのだった。
この時、私が選んだのは『The Fairy Queen』という曲である。
妖精の女王という名前のこの曲も、やはり失われた民族のトラッドの一つである。妖精の姫に心を奪われた一人の騎士が、想いを成就させるために、常若の国を目指して数多くの苦難を乗り越えていく。そんな物語を曲にしたものだった。
私の横では、いつになく大人しい様子でチルノが私の演奏を聴いていた。彼女は胸の前で両手を組み合わせており、まるで天に祈りを捧げているようだった。私もまた祈りをメロディに込めて弾き続ける。曇天の下、舞い散る風花を桜吹雪に変えるように弾き続けた。
だが、空は相も変わらず暗いままで、先刻までの私の心のように固く閉ざされていた。
やはり駄目なのか、私は無力なのだろうか。そんな風に、再び心が折れそうになっていたその時だった。トランペットの音が激しく鳴り響く。その音色は、弱気の虫に取り付かれた私の心を高ぶらせ、再び立ち上がる勇気を与えてくれたのだった。
そして、私のバイオリンとトランペットの二つのハーモニーをくるむようにピアノの旋律が聞こえてきた。柔らかな幻想の音色が世界を包む。いつしか独奏は二重奏になり、それから三重奏へと姿を変えていた。
「メルラン、リリカ。……貴方達いつのまに」
私の両脇には、妹たちが当たり前のように笑ってそこにいた。
「気を抜いてる暇はないよルナ姉。でないと、どんどん置いてっちゃうよー」
「そう、コンサートは終わったの。今からは、ハッピーライブよ」
憎まれ口を叩きながらも、二人はとても楽しそうに演奏していた。そんな二人の励ましに答えるように、一段と素早い弓捌きを見せた。
「誰に言っているんだ。今日のライブの主役はこの私、ルナサ・プリズムリバー。貴女達こそ付いてこられるかしら」
私の弓捌きに合わせて、二人のメロディが変幻自在に形を変える。天を行くように軽く柔らかで、自由奔放なトランペットが歌う。かと思えば、熱狂に流されず、理性的で抑制の効いたピアノの音色が湖畔に響きわたるのだった。
そして最後に辿り着く曲は三日月の妖精。水と霧の中に浮かび上がる美しき月は、私の愛した妖精そのものだった。
曲がクライマックスに向かうにつれて、空を厚く覆っていた雲がだんだんと晴れていく。そして、雲間から一筋の光が差し込んできた。その光に導かれるようにして、空から一枚、また一枚と淡い桜色の花びらが舞い降りてきた。花びらは徐々に数を増すと、小さな竜巻のように舞い上がっていた。
私はバイオリンから手を離すと、そうすることがさも当然のように、花びらと光が舞い踊る桜色の竜巻の中に、そっと手を差し出すのだった。
そして、その手が掴まれる。
懐かしくも柔らかい彼女の手のひらの感触だった。
「ただいま、ルナサさん」
「おかえり、大妖精」
桜色に染まって大妖精がはにかんで笑う。ここだけに春が来たように花が開いた気がした。極上の笑顔だった。何でこんなにも彼女は私の心を掴んで離さないのだろうか。気がつくと、私は人前にもかかわらず大妖精を思いっきり抱きしめていた。
「え、ル、ルナサさん」
「良かった、本当に良かった」
大妖精は、私の突然の行動に戸惑ったものの、離れようとはしなかった。恥ずかしさに顔を赤く染めながら、おずおずと、それでいてしっかりと手を回し、抱きしめ返してくれた。
遠くに妹たちの冷やかす声や、チルノの不満げなうなり声が聞こえた気がするが、あえて無視することにした。
すっかり晴れ渡った星空の下、私と大妖精は抱きしめ合って、時がたつのも忘れてお互いの温もりを感じていた。
だが、幸せな時間は空気を読まないリリカの咳払いによって遮られた。思わず半眼で睨み付けたが、そんなことで怯むようなリリカではなかった。
「はいはい、そんな噛み付きそうな顔で睨まない。いちゃつくのは私たちがいなくなった後にしてちょうだい。どっちにしてもしばらく後になるけどね」
どこかもったいぶったリリカの物言いに、さっさと言えと目線で訴えかける。
「全くせっかちだなあ。……だから睨まないでって、わかったから」
私の様子を窺いながら一つ溜め息をつく。
「ええっとね、これから白玉楼でライブだよ。西行寺のお嬢様がお花見をするからって、演奏してくれってさ」
リリカの言葉に私は混乱してしまい、とっさには反応出来なかった。
「……え、まだ冬じゃないのか? 花も咲かないって言うのにお花見って、どういうことだ?」
「でも庭師の服の裾には桜の花びらが着いてたし~、冥界では咲いてるんじゃないの~?」
私の疑問にのんびりした口調でメルランが答える。それにしても地上には春が訪れていないのに、冥界では訪れるなんてことがあるのだろうか。いつもの癖で思考の海に潜ろうとした所をリリカに突かれた。
「あー、もうルナ姉ノリが悪いよ。折角の復帰ライブなんだから、ガンガン行かないと」
リリカはもう少し思慮を覚えた方が良いと思う。明らかにおかしい状況に飛び込んでいくのは、ただの馬鹿のすることだぞ。
「そんなに気になるなら一緒に連れて行ったらどうかしら~? あちらのお嬢様は一人増えても気にされるような方じゃないわよ」
ちらちらと大妖精を見ていたのに気づかれていたらしい。メルランがいらない気を回してくれた。
「えっと、ご迷惑じゃないでしょうか?」
「いいって、大ちゃんだったら大歓迎だよ。何てったって私たちのお義姉ちゃんになるかもしれないんだからね」
リリカの軽口に顔を真っ赤に染めてうつむく大妖精。うーん、可愛い。というかリリカのやついつの間に大ちゃん呼ばわりになっているんだ。
「まあ、大妖精が嫌でなければ付いてきてほしい。もっと私の演奏も聴いてくれると……、なんというか、その、嬉しい」
流石に少し照れながら告げる私に、大妖精は小さくだが、しっかりと頷く。自然と視線が合い、見つめ合うが、何だか気恥ずかしかった。さっきまで抱きしめ合ったのが嘘のようだ。それでもキュッと私の服の裾を掴む大妖精が愛おしくてたまらなかった。
そんな私たちを呆れたように二人の妹が眺めていた。
「あーあ、二人の世界だよ。どうするメル姉」
「う~ん、馬に蹴られたくないから二人は放っておいて私たちで行きましょうか?」
わざわざ聞こえるように密談するのが腹立たしくて、思わず二人の頭を一つずつ小突いた。
「おい、聞こえているぞ、二人とも」
白々しくも、ありゃ聞こえちゃったか、とか言うのは流石にどうかと思う。そんな私たちの様子を楽しそうに眺めていた大妖精だったが、何か気がかりなことがあるようで、かすかに表情が曇っていた。
「ん? 大ちゃんどうかしたのかい?」
「いえ、何でもないです」
そう口では言いながらも、大妖精は何か気になっている様子だった。
大妖精の視線の先にいたのはチルノだった。
私たちの会話にも加わらず大人しくしているかと思いきや、チルノは、私たちの話になんて興味がないとばかりに、座り込んで地面を掘り返していた。
「あたいはいいよ、レティと遊ばないといけないから」
そう言ってチルノは、手に付いた土を払いながら立ち上がった。足下には凍り漬けになった蛙が転がっていた。どうやら今の今まで地面と向き合っていたのはそのためだったらしい。
「レティ?」
聞き覚えのない名前を出されて思わず鸚鵡返しにしてしまった。横から大妖精がチルノと仲がいい冬妖怪だと教えてくれる。
「そうだよ、今年の冬は楽しいんだ。だってレティがずっといてくれるんだよ」
天真爛漫なチルノの様子を見ていると、微笑ましくはなるのだが、私の疑念はさらに大きくなっていた。おかしい、冬妖怪が五月になっても活動しているなんてあり得ない話だ。
もう私は気がついていた。これは異変だ。しかも、この間の紅霧の時と同じくらい大きな。そして、その終着点はきっと冥界の白玉楼に違いない。
ということはあの紅白の巫女にもきっと遭遇することになるだろう。
軽くつかんでいた大妖精の手を、我知らずギュッと握りしめていた。急に強く握られて少し驚いたのだろう。大妖精は私の方を、ちらりと見て、その後、薔薇色の笑顔を浮かべた。そして、私に勇気を与えるように力強く握り返してくれた。
それを横目に見ていた妹たちが御馳走様とばかりに舌を出すが気にしないでおこう。大丈夫、この暖かさがあればきっと私は負けない。もう二度と。
To be continued
~東方妖々夢~ Perfect Cherry Blossom.
そんな楽しい日々を送っている彼女たちがとても微笑ましいですね。
紅霧異変で大妖精が消えて蘇るまでのルナサにハラハラしたりもしましたが、
チルノの言葉のおかげで、再び弾く気力を取り戻した彼女にホッとしたりもしました。
大妖精と抱き合うルナサとそれを見てちょっと茶々を入れる姉妹や唸るチルノに
自然と笑みが浮かびましたねぇ。
また、二人の再会に込み上げてくるものもありました。
素晴らしいお話でしたよ。
脱字の報告です。
>それはそうと音を出すってはやめてくれ。
『出すってのは』ではないでしょうか?
ルナサも大ちゃんも好きなので、楽しく読ませていただきました。
そしてメルラン、リリカやチルノの存在も大きかった……こういった話では、励ます立場にいる者の大切さも感じます。
でもそんな匂ひが大好物です。
さぁて、二作目に突撃してきますかな……!