これより語るはある化け猫の昔話。ある所に一匹の猫が居た。気高く高貴で上品な猫さ。しかし所詮は猫の身の上、果たしてこの話に登場する人々が同じように感じ取ったのかどうかは頓と判りゃせん。ただ、その猫だけは自分の事をそう思っていたのかも知れない。元より確認する手立てなんてないんだが、それも忘れてしまっているならまた道理。聞くも聞かぬも貴方の自由さ、決して面白い話じゃない。だってその猫も自分が何時化け猫になったのだかまるで判っちゃいないんだから。面白く思えと云う方が無理な話だ、聞かぬのなら今の内に踵を返してこの場を去る事だね。
◆
私は猫である。何故こんな辺境の地に自身の足が赴いたのかは露知らぬ所ではあるが、兎も角私は陰鬱な森を左に眺め遣りながら、行く宛ても碌に無く歩き続けている。何時妖怪が現れて、我が身を喰らわんと欲してもおかしくないこの剣呑な道は、暗緑色の葉を枝より煙らせる背の高い樹木が投じる陰影を見るに、至極自然な事象に思われたが、しかし私はこの道を辿っていながら未だ自身の存在を脅かす驚異的な存在に出会ってはいない。
元より人里よりはぐれて居場所を失った身であるから、こうして自らこういう危険な道を歩んでいるのは暇潰しと何も変わりが無い。唯一変わったとすれば、人里に起こる人々の喧騒や醜い争いの声が聞こえなくなった事であろう。人気のないこの道に響くのは、森の奥より聞こえる奇妙な鳴き声だとか、その森を吹き抜けていく風の音だとかの他に何も無い。故に私は我が身に付き纏う死の恐怖すら物ともせずに、こうして悠然と歩を進める事が出来るのである。
――ふと、気の向くままに進んでいた足が止まった。私の行く先に一軒の店らしき建造物が、ぽつりと立っていたからである。とても立地の好い場所とは評せぬこの場所に店を構えるなどと、遂に狐の類に化かされたのやも知れぬが、私は心中に芽生えた小さな好奇の灯火に誘われるように、その店に近寄った。屋根の瓦は所々剥がれ落ち、入口と思われる戸には年季が入っている。けれども何処か暖かにも思われる素朴な造りが、人里に住んでいた頃の私の情操を刺激したのかも知れなかった。自然私の足は店へと進み、身体は入口の硝子戸の前で香箱を作っていた。
「にゃあ」
一声鳴いても、店の中からは如何なる物音もしなかった。元よりこんな辺境の地であるから、既に捨て置いて新たな住居を探しに旅立った可能性も無い訳では無かったので、私は大した感想も覚える事なくその場に丸くなりながら、天空より降りる陽光に白い毛並みを暖めさせて、毛繕いなどをしていた。全く好い小春日和である。なればこの身に睡魔が襲い掛からんとするのも無理はない。次第に瞼が重くなり、私は大きな欠伸を一つ噛み殺した。
すると、不意に入口を閉ざしていた戸が開かれた。がらがらと大きな音を立てて、室内のものと思われる埃のような匂いが鼻孔を擽る。何処か親しみ深い匂いであったから、私は対して警戒もせぬままその場で頭上を見上げた。廂から落ちる影に隠された面持ちは、一見しただけでは如何なる相貌も見出せ得なかったが、暫時目を凝らして私を見下ろす人物を見詰めていると、次第にその輪郭やら目鼻立ちやらが明瞭になって、銀色に輝く美しい色彩の髪の毛が徒に揺られているのが明らかに認められた。何も云わぬその店主に、私は挨拶と云わんばかりに鳴いて見せて、その場に立ち上がった。
「こんな所へ猫が来るなんて、全く珍しい事もある」
店主はそう云いながら屈んで、私を品定めするかのように見る。多くの、人に慣れていない猫はこの時すぐに逃げ出すのであろうが、私はそういう類の猫では無かったので、向けられる男の手にも何ら警戒心を剥き出しにする事は無かった。それどころか、頭や喉を撫でて来る男の手が如何にも優しく思われたので、一時はその心地よさに浸っていた。が、やがて男は立ち上がると、再び店の中へと入って行く。私に対する興味が失せたのか振り返る気色も見せなかった。
私は誇り高い気質であると同時に、分別を弁えた礼儀正しい猫だと云う事を自負している。知らぬ者の家に何の遠慮も無しに押し入るのは失礼の極みに値する。故に私は去って行く男の背を追う事もせず、別れの言句の代わりに一声鳴いた。そうして一休みしてから再び歩き出そうと思って丸くなったのだが、そこへまた男の声が届いて来たので、私は畳み掛けた足を戻すより他に無かった。振り返って私を見る男は、「おいで」と云いながら手招きをしている。
「こんな場所じゃ妖怪に取って喰われる事も稀じゃないし、僕の店で暫く寛いだら好い。見たところ気品の漂う猫じゃないか、店の看板にも相応しい。――と、猫に何を語っているんだか」
男はそんな事を云って頭を掻くと、店の奥にある安楽椅子に腰かけて、傍らに置いてある書物を手に取った。戸は開け放たれたままで、店内の匂いを微かに感じさせる。私は暫く男の様子を窺っていたが、やがて促すように手招きをして見せた男を見ると、出来る限り遠慮した足取りで店内へと踏み入った。猫として幾数年を生きて来た私だが、見慣れぬ物ばかりが雑多な店内に置かれている。あちらこちらに視線を向けつつ、それらの品々を見て回る私を男は眺めていたが、やがて私が外に出る気配が無くなったのを確認すると、手元に置かれ書物へと視線を注いだ。
物静かな春の日に、颯と吹く風の音ばかりが際立っている。時折書物の項を捲る音がする。私の足音もする。それ以外の全ては静寂を保ったまま、薄暗い店の中で鎮座していた。私は見ず知らずの野良猫を自分の店に招き入れる物好きな男に一寸の興味を持ったので、男の言葉に甘えてこの店の看板になる事を決めた。何より男の云った気品の漂う猫だという評価が気に入ったのもあったが、それ以上に男が醸す一種異様とも取れる雰囲気が、ただ散歩を続けるばかりであった私の心を刺激したのやも知れぬ。私は男の足元に座ると、再び丸くなった。風の音と、書物を捲る音が、実に心地好い。
◆
「お邪魔するぜ」
その言葉と同時に店に入る者があった。それまで春の暖気に当てられて、つい瞼を重くしていた私は、見知らぬ女の来訪に気付き、男にして見せた時と同様に鳴いた。女は金色の輝かしい髪の毛を揺らしている。私の存在に気付くと、予期せぬ者と遭遇した気味で、好奇心に光る金色の双眸を大きくさせながら歩み寄って来た。店主と思われる男は女に対して会釈したばかりであったので、どうやらこの女は客人ではないようである。
「何だ、香霖堂に猫がいるな」
「今日から香霖堂の看板猫さ。本人が気に入ってくれさえすれば」
女はへえと男に返し、私の前に屈む。近付く黄金の眼差しは、太陽の如く燦爛と輝く様が綺麗な瞳である。が、少女と評して差し支えのない幼い顔立ちは、未だ稚気の拭えぬ子供のようでもあり、優雅な雰囲気を醸し出すには後少しばかりの時が必要と見える育ち盛りの女であった。元来私の身体に触れる者は、男が持つような異様な――これを気品と呼ぶのかも知れない――雰囲気を持っていたのもあって、私は私の身体に触れようとする者を選ぶ癖がある。この女には未だ私の身体に触れるだけの気品が備わっていないように思われたので、私は立ち上がると相手を威嚇するように毛を逆立てた。
「おっと、どうやらご機嫌斜めだな」
「おや、僕の時にはそんな事は無かったが」
そうして男は確認するように私の喉を撫でる。優しい手付きが気持ち良い。私はごろごろと喉を鳴らした。ところへ女が手を伸ばしたので、私は間髪入れずに威嚇の体勢に入った。
「どうやら私には懐いてくれそうもないぜ」
「この猫のお眼鏡に適わなかったんじゃないか?」
「失礼な。大体どうすればそのお眼鏡とやらに適うんだよ」
「大人らしい落ち着きとか、かな」
「私は充分に大人だ」
「そう云う人は大概が子供なのさ。魔理沙らしくはあるけれども」
女の名は魔理沙と云うらしい。珍しい名前である。人里に居た頃は、そんな名前は耳にした事がない。それだから風貌も一般の人間とは一線を隔しているのかも知れないと思い、注意深く魔理沙の姿を見てみると、やはり珍しい。精功な人形のように肌は白く、宝石の如く輝く瞳はやはり金色で、太陽の光を集めて織った糸のような髪の毛も、人里に居た頃には一度たりとも目にした事はない。そうしてそれは男にも云えるのだが、そもそもが「人間」らしさというのが感じられないので、もしかすればこの辺境の地に店を構える男は人間では無いのかも知れない。
「しかし落ち着き払った猫だな」
「何処かの誰かさんとは違ってね」
「また店の品物を借りられたいと見える」
魔理沙はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべたと思うと、手近な所に置いてあった商品を掴み、目の前に掲げて見せた。そうしてそれを店主に見せ付けるようにしている。店主は如何にも不服そうな面持ちで、「それは勘弁して欲しい」と云っているが、魔理沙は未だにやにやと笑ったままであった。
私は商品を盗もうという意思表示をしているようにも見える魔理沙と、呆れた風に対応している店主を交互に見定めて、二人が情熱的に懇意な仲でなくとも近しい関係であると判断した。そうして魔理沙が商品を「借りる」と評して半ば盗んで行っているも同然の行いを、店主が呆れてしまうほどに繰り返して来たのだと推断した。彼女の様子を見るにそれは疑いのない事であろう。それだから、私はこの店の看板猫として彼女を再び威嚇した。
「ほら、どうやら君が好くない事をしていると、この猫は判っているらしい」
「落ち着き払っているばかりか頭も好いとは」
「そのまま君が商品を借りて行くと飛び掛かりそうだ」
「それは御免被るぜ。服を爪で破かれるのは好くない」
そうして漸く魔理沙が商品を元の場所へ戻したので、私も彼女に対する威嚇を止めると、再び店主の足元で丸くなった。小さな窓から差し込む暖かな陽射しが丁度好く差し込むこの場所は既にして私の気に入った所である。元より普通の猫がするように至る場所へ登ったりする性分では無かったし、礼儀を重んじる身としてそんな行動は控えているから、店主の足元というのが私には最適の場所なのであった。
「それで、今日は何用で来たんだい」
「ああ、すっかり忘れてた。ええと……」
やがて二人が私の知らぬ相談を始めたので、私は暇を持て余したまま瞼を閉じた。春の陽射しに当てられながら昼寝に興じるのは春の娯楽の一つである。二人の会話も、好い具合に眠気を呼んで来る。眠りに就くのは思ったよりも早いようだった。
◆
翌日は朝から店主の動きが忙しなかった。一つ所に留まる事なく動き回っている。何やら店内でなく、主に生活に使われる部屋を片付けているので、私も邪魔にならぬよう店の方へと引っ込んでその様子を眺めていた。猫という身は存外不便な事が多い。この店の看板猫として店主と共に働ければ好いのだが、この小さく脆弱な身体では片付けの手伝いをする事とて容易ではない。古くから働かざる者食うべからず、という言葉は耳にするが、こういう時ばかりは致し方のない事を身を以て痛感するのである。猫の手を借りたいとは、私からすれば皮肉以外の何物でもなかった。
そうして店主に一段落が付いたのを認めると、私は彼の傍に寄って鳴いた。よもや私の意思が伝わるなどとは思えなかったが、物は試しと意志の疎通を図ったのである。が、彼は不思議そうな顔をして私の頭を撫でたばかりである。やはり猫の身は不便極まりなかった。言葉を話す事も出来なければ店主の手伝いも出来ぬ。出来る事と云えば狭い所を通り抜けたり、高い所へ跳躍したりと、殆どが野生に生きねば得をしない事ばかりである。私は甚だそれを不甲斐なく思った。すると、店主が何かに気付いたように、――もしかすれば悄然とした私の様子を感じ取ったかも知れないが、片付けをしている理由を語り始めたので、私はその場に座って耳を立てた。
「ああ、すっかり忘れていた。全く何時来るのだか皆目見当も付かないから実に弱る」
辟易した風に額に手を当てる店主に、労いの鳴き声を上げた。
「ストーブの燃料のお礼に、春にはお茶を飲むのさ。それが彼女にとって慰藉となるらしい」
「ストーブ」などと聞き慣れぬ単語について追及してみたくもなったが、到底叶う望みではないので、私はやはり鳴いて見せるばかりである。ただ店主の話を聞いて判然とした事と云えば、何時来るかも判らぬ来訪者が、もしかすれば今日訪れるかも知れないので、その為に片付けをしていたのと、彼の云う「彼女」が先日この店に訪れた魔理沙ではない者だという事である。そうして店主がその「彼女」に対して感謝しているという事も加えて判った。
店主は猫の私から見ても器量の好い好青年と見受けられる。そんな彼に好意を持った女性がわざわざこの地まで足を運ぶのだろうかと邪推してみたりしたが、やはり危険を冒してまで愛に忠実に生きる女性など聞いた事がないので、私はその考えを払拭した。店主はそんな私を見詰めている。やがてこんな事を云った。
「丁度好い、彼女が来たら、君の事も紹介するとしよう」
店主はそう云って私を抱え上げて、居間へと招き入れた。私が今までに足を踏み入れた事のない空間である。畳の匂いが暖められて、店の外観を損なわぬ素朴な匂いと、男の柔らかな匂いとが混じっている。店の中よりも落ち着ける空間である。私は身体をされるがままにして、男の膝の上に落ち着いた。頭頂から背中へと流れて行く手の感触が、何時も以上に気持ち好く思われる。麗らかな春の陽気を喜ぶ鳥達の歌声が高らかに響いていた。
「あらあら、珍しい光景ですわね。香霖堂の店主と猫が戯れているだなんて」
ところへ、唐突に女の声が聞こえて来る。柔らかな物腰だけれども、何処か剣呑な雰囲気を纏う口調であった。わざとらしい丁寧な言葉使い、尾を引いて流れる笑い声、妖艶という形容が適切な、女の声である。
「君は普通の来訪が出来ないのか」
店主は嘆息を吐くと、私の身体を撫でていた手を退けた。それを機に私も彼の膝から降りて、新たに目にする女の前へ歩むと、恭しく礼をして見せて、例の如く一度鳴く。女はそんな私を見て満足げな微笑を湛えると、手に持っていた畳んだ傘を店の中に立て掛けて、店主に促されるがまま、居間へと上がる。雅な佇まいは楚々たる花を思わせ、けれども美しき花に毒や棘があるように、危なげな風を内包する彼女の美は、猫である私でさえ感嘆するほどであった。
背中を流れる黄金の髪の毛は、揺蕩いながら甘い香りを辺りに撒き散らしている。桜色の唇は動かされる度に艶めかしい淫気を醸し、見る者を全て魅了してしまいそうであった。一度彼女が帽子を脱げば、万物を溶かす甘い香りが、鼻孔を擽る。妖気――とでも云えば好いのか、そういう類のものを感じた心持ちがする。私も彼女という圧倒的な存在を前にして、触れようと伸びる手を避ける事は出来なかった。むしろ、彼女に撫でられるのは光栄とさえ思われた。
「私なりの普通を心掛けたつもりなのだけど、お気に召さなかったのかしら」
「これが君なりの普通と云うのなら、普通の人にとっては尋常でないという事を知った方が好いね」
「あら随分な言い種ね。折角訪れてあげたのに」
「頼まれないでも来るだろう。今日とて僕の片付けが終わるのを待っていたんじゃないのかい」
「さあ、どうでしょうね。私のみぞ知る、ってところよ」
女はそう冗談めかして微笑んだ。対する店主は苦笑している。「お茶を出す」と云って席を立ち、台所の方へと消えて行った。居間には一間ばかりの距離を開けて、私と女が佇んでいた。
「うちにも猫がいるけれど、貴方とは対照的な黒い猫だわ」
彼女はそう云いながら私に微笑みかける。底知れぬ笑みで、細められた明眸の奥、その更に奥にどんな光が湛えられているのだか、私には全く判らない。女の存在は私の理解を超越している。私の眼では捉えられぬ霧の向こう側にことごとく姿を隠して、決して悟られる事のない表情を浮かべているに違いない。猫である私の思考ですら読み解き、何もかもを知った上でその微笑を送っているのかも知れぬ。それはさながら天使のような悪魔、矛盾した存在の不可思議な笑みである。
――ふと彼女が手を前に出した。私とは一間ばかりの距離が離れている為にその手が届く事は無かったが、しかし突然背中に違和感が走った。驚いて飛び上がると、そこには不気味な空間の裂け目より飛び出た女の美しい手がある。前を見れば同様の空間に手を入れた女の姿があり、手首より先はそこに存在しなかった。その代わりに、私の眼前に彼女の手はある。手首から先だけが宙に浮いて、私を嘲笑うかの如くひらひらと振られている。私はその時、身体が硬直するほどの恐怖を確かに感じ取った。手首の先に見える深淵の闇から覗く目が、直接的に死をもたらそうとしているかの如く、脅迫的な観念に襲われて、全身の毛が逆立った。女は尚も笑んでいる。――楽しそうに、可笑しそうに、面白そうに。
店主が戻って来るまでの間、私は心臓を鷲掴みにされたまま、微笑みかけられている心地であった。
「君と猫が戯れていても、まあ珍しい光景ではないね」
店主が居間に戻って来たのが酷く遅いように思われる。女は私から視線を外すと、卓袱台の上に置かれた湯呑を手に取って「私の所にも猫がいるものね」と先刻私に云った事を繰り返した。その途端春の陽が色を変えた心持ちがした。けれども安き心は一向に戻らない。私の命を司る心の蔵は今も尚女の手の平の上に置かれたまま、鼓動を打っている。彼女の気紛れの前に容易く潰れて紅き血潮を撒き散らす脆いものである。私が見ている二人が会話している光景は、何処か尋常でない雰囲気が漂っていた。堪らず居間を抜け出して、冷たい土間の上に座ると、私はすぐに目を瞑った。
「それにしても猫を飼うなんてどういう風の吹き回しなのかしら」
「香霖堂の看板猫に相応しいだろう。何処ぞの猫よりかは、大分大人寂びていると思ったんだ」
女の笑い声が聞こえて来る。失笑にも似た、不愉快の感を与える声であった。
「私は赤子のように可愛らしい猫だと思ったわ」
◆
桜が散るという時分に、店主は宴会に呼び出されたと云って夕焼けが広がる空の下、店を出て行った。私はこの店の看板猫であるから、留守番を任されるのは当然の事である。元より人間や妖怪が集まる宴会だと云っていたのだし、前に現れた女がいるのかと思うと別段行きたいという気も起らなかった。それよりも森閑としている森の中に、静かに佇む香霖堂で何をするでもなくぼんやりとしている方が性に合っているようで、私は店主の居ない店の中で丸くなりながら、時が過ぎて行くのをじっと眺めているばかりである。――そんな折、一人の女が店に入って来たのは、私にとって全く突然の事件であった。
女は暗闇に包まれている店の中を手探りに歩んで来る。時折「霖之助さん」という名を呼んでいたが、返事がない事に気付くと他に声を出したりはしなかった。女はやがて店の明かりを点けて、初めて私の存在に気が付いた。
「あら」
案外な声を出して私を目に留めた女は、巫女装束らしき服を纏った少女である。肩を露出して、袖だけがある格好に、紅白の色が目立っていて、洋灯の橙の光に中てられた髪の毛は美しい黒髪であった。年端は魔理沙とそう変わらないように思われる。けれども身に纏う雰囲気というものは、魔理沙とはまた全く違うもので、何処か店主と同じ匂いが彼女から感じられた。女は足元に気をやりながら私の方へと歩んで来る。珍しそうに細められた瞳と、穏やかな弧を描く唇が、明かりに照らされて明らかに見える。
「猫を飼い始めたって噂は本当だったのね」
女はそんな事を云いながら私の頭に手を置いた。警戒に足る者ではないらしく、彼女から不穏な空気は豪も感じられない。私はそう思って、私の身体に触れる手を甘んじて受け入れた。表情は何処か物憂い気だけれども、穏やかな感じで、その中に呆れを忍ばせながら、彼女は私を抱いて縁側の方へと向かう。春の夜は気になるほどの寒さが無い。とりわけ今宵は暖かな夜である。私も女も、縁側に腰かけていて何等の苦痛は無かった。
「全く。迎えに来てあげたのに、とんだ無駄足だったわね」
店主はもう随分も前に店を出ている。深い女の溜息が木々のざわめきに溶けては消えた。一時は陰鬱とも見受けられた森は、こうして見ると然程の恐ろしさは無い。月明かりの下に浮かび上がる鮮やかな色は綺麗であったし、私達の元に伸びて来る影も特別な趣があった。こうして見知らぬ女の膝に丸くなりながら、広がる夜空を見上げ、星々に目を止めては月光に目を眩ませて、一人は徒労を厭う溜息を、一匹は安穏とした時間に満足しながら過ごしている。ただ共通点として私達の間にあるのは、決してこの時間が嫌いではないという認識ばかりである。単なる推測でしかないが、女の様子はこの場に嫌悪感などを微塵も感じさせはしなかった。
「何だか疲れたし、少し休んで行こうかしら」
何故だかその言葉が同意を求めているように聞こえたので、私は一度ばかりにゃあと鳴いた。そうすると女は微笑して私を撫でる。私は何も抵抗はしなかった。
全てを包む暗黒が森の中に広がっている。その中に落ちる月光が、梢から陰影を投じさせ、花々は風に揺られて花弁を散らし、何処かで咲き誇る桜の花が、不意に私達の元へと流れ着く。悠久なる時を思わせる美しい上弦の月は幾星霜の響きを秘めて、穏やかなる時の流れを表現しようとするかの如く、その前を雲が流れ行く。私の目に全ては杳然として映った。遠い場所に浮かぶ幽光が、一つ時を刻む度に小さくなって霞んで行き、段々と朧げになっては輪郭を失って行った。無重力の内に座している心地である。もしかすれば、私を膝の上に乗せて座る彼女が居るからこそ、そんな心地になったのかも知れぬ。――私は生涯逃れ得ぬ束縛から解放された、究極の自由を感じた心持ちがした。
◆
春の香が、風と共に去って行く。それに代わって吹く風は生暖かくなり、頻りに雨が降る季節は始終暗澹たる雲を空に広げ、太陽がここぞとばかりに張り切る夏は酷く蒸し暑かった。私が居る香霖堂という店には毎日と云わずとも、色々な客人が訪れる。時には背に黒い翼を生やした天狗と名乗る少女が現れた。珍しい靴をかつかつと鳴らしながら、彼女は何だか珍妙な機械を私に向けたかと思うと、満足げに微笑んで見せていた。後に店主から私が映る一枚の絵画を見せて貰ったが、その精巧な出来はまるで静止した空間を切り出したかのようで、大いに感動した事を未だ記憶している。
また洋服に身を包んだ侍女らしき佇まいの女が来店した事もある。彼女は香霖堂に訪れる客人には珍しく、店の品物を目当てにやって来た。何でも店主との話を聞く限りでは、珍しい茶葉や食器はないだろうか、と云っていて、更に聞き耳を立てていると彼女が仕える主人が大変我儘だそうである。暇だという理由で、茹だるような暑さの中を買い物に行かされるのは、主君に尽くしているという誇りはあれども容易な事ではないと、苦笑交じりに店主に愚痴を零していた。私の目に彼女の銀色の髪の毛は殊更印象的であった。店主と同様の髪色だというのが、私の目には物珍しく映ったのである。
魔理沙は暇さえあれば店主に会いに来る気色で、彼女が来ない日はむしろ珍しいくらいであった。何でもこの香霖堂に置かれている扇風機という機械が、この季節には重宝するだとか云っていた。私も扇風機が作り出す風を心地好く享受していた立場だったので、彼女の言い分が判らないでも無かったが、店主は喉から手が出るほど欲しいと云いかねない彼女に対して、「これは商品ではないから、悪しからず」などと頻りに云っていたのが面白かった。
私が香霖堂の看板猫となってから、数か月の月日が流れ、現世を生きる我々に一瞥すら与えず非情な速度で過ぎ行く時は、草花の色を次々と変えて行った。夏の青々しい若葉は赤く色付き、茶に染まった葉は地に落ちては風に攫われる。私は秋の夜空を何とも無しに眺め遣りながら、心持ち冷たく感じられる風に打たれ、縁側に寝そべっていた。蟋蟀の鳴き声は静寂が包む宵闇の中、何処までも響き渡っている。透き通った空気を吸い込む度に、身体の内が冷やかになる。そんな私の眼前を、力尽きた葉が流れて行っては何処かへと飛び去って行った。森閑とした秋の夜、星々が目に眩しい。
そんな所へ店主が遣って来た。何時もと同じ穏やかな面持ちで、私の隣へ腰掛けた。寝巻に着替えた店主は、昼間に見るよりも常人の風を思わせる。彼は何処か世を達観しているようであったから、私はそんな素朴な店主の一面を見ると、何だか心が安らぐ心地になる。彼は季節外れの団扇を片手に、湯を上がったばかりで湿った髪の毛を夜風で冷やしながら、一息吐くなり楽な体勢を取る。私はそんな店主を尻目に見遣りながら、労いの鳴き声を一つ落として、また元の通りその場に佇んだ。店主は何も云わぬ。また私も何も云わなかった。時はこの身体に吹く風と同様に、過ぎる。
ふと店主が空を見上げた。目を見張るほどに美しい月夜が広がる夜空が明滅している。店主はそんな静けさの漂う風景を好んだので、空を見上げるその表情には嬉しさの色が混じっていた。そしてまた、私もこういう夜空を見上げては感慨を得る性質の猫だったので、彼が見上げる空を私も見上げていた。奥に鬱蒼と茂る木々の連なりが、颯々と吹く風に当てられて騒ぎ立てている。静かな夜に一際目立つ静寂の音である。木々が生命力に漲っていた日々へ別れを告げる、離愁の音である。そうして我々が来たるべき我々の完結に向かっている事を自覚する音である。
「猫も団子を食べるのかな」
店主がそんな事を云って私を見た。室内を顧みると、大皿の上に重なった白い団子がある。私はにゃあと鳴いた。店主は微笑んで、その大皿を手元へ寄せる。白い団子を差し出されたので、喜んで口に入れた。何だか味は好く判らない。静けさの味がする。大空という大海に浮かぶ雲の風味であろうと心中で評した。二個三個と続けて食べると、いよいよ腹は膨れて来る。その内に眠くなって来た。それが尋常でない眠気である。一度目を瞑れば刹那の時すら要さぬまま眠れそうな気色で、それを耐える事も出来ず、私は目を瞑る。星月夜が瞼に隠されて、深淵の闇が私を包んだ。頭に暖かな感触がする。蟋蟀の鳴き声が耳の中に反響している。「お休み」と店主が云った。それだから私も眠りに就いた。
何だか酷く身体が倦怠に包まれている夢を見た。そうしてそれが近来の私の健康状態だと気が付いて、ならばこの身体が浮遊しているかのような心地好さは死んだからに違いないと思われた。けれどもそれを判然とさせる術が思い付かない。私は夢の中で座り込んだまま、どうする事も出来ずに立ち尽くしている。そこへ銀色の光が差した。冷然としているが、暖かい。そうして何より安らぐ心地になる。私はまた目を瞑った。瞼に包まれた視界は、闇に覆われていない。銀色の光が差している。決して眩しくない光であった。もしかすれば、私の魂はあの星月夜の中に吸い込まれて行ったのかも知れぬ。……
◆
さあさあ生憎話はこれで終いだ。こんな話を最後まで聞くなんて、貴方も余程物好きであると見た。まだ知りたいと思う事もあるだろうが、そこはご勘弁願いたい。これから先に語る事はもう無いのさ。猫は知らない内に化け猫となってこの世に生れ、それから気の向くままに過ごしている。時々出会う人間に昔話をしてみたり、夜には空を見上げたり、何もする事が無けりゃただ眠っていたり。当時の気品は何処へやら、と思うかも知れないが、きっとその猫は自分の在り方を見付けたんだろうね。気儘に過ごして、気分の赴くままに歩いたり、その方が性に合っているらしい。尤も普通の猫から化け猫へと変化したからこそ、そうなったのかも知れない。
まあ先に云った通り、物語はもうお終いだ。貴方も家族の元へお帰り、まだ気儘に出歩くような年端には見えないからね。……最後に一つだけ、ってそこまで云うなら仕方ない、その質問には答えてあげよう。猫は化け猫となった後、件の店には一度として訪れていない。人語も操れるようになったってのに、何故と云うかい。その猫は、きっと自分の変わった姿を見せたくなかったんだろうね。化け猫の姿では昔のような関係に落ち着く事もあるまい。猫が望んだのは、店主と過ごした穏やかな日々で、会話をする事もなく過ぎて行く時を見詰める事が、何より楽しかったのだろうさ。
何を云っているのか判らないって顔をしてるね。貴方がもう少し大人になれば、自然と判る事だろう。今は知らなくても好いんだ、ただ今持っている不思議という感情を忘れさえしなければ。我々は決して同じ生物には成り得ない。それぞれの答えが、それぞれの正解なのさ。深く考えなくともいずれ判る。
さあもうお帰り。夜も更けたしきっと家族も心配されている。つまらないお伽噺はこれで終焉、今宵語った物語は夏の夜の夢。気を付けて帰るんだよ、妖怪の喜ぶ、人間からすれば恐ろしい時刻だ。
――ああ、この尻尾かい? そう気にせずとも好い。猫は化け猫でもなく、また元の通りの猫でもなく、そうして妖怪でもなく、きっと彼と同じ存在になりたかったのさ。それなら自分が化け猫だなんて、思いたくもない事だろうから。
――了
謎掛けは全く分かりませんorz
団子に毒……とか? いやまさかねえ。
普段気難しい店主の違う一面を楽しめました。
ただ、折角妖怪となったのに再会しないのは寂しいなと思う自分。
大人になれば彼(彼女?)の気持ちも分かるのだろうか…
猫と霖之助の静かな生活風景がとても良いですね。
魔理沙への威嚇や紫様への畏怖、文が撮った写真への考えや霊夢と
一時を過ごしたことの感情など、どれも魅力的な内容でした。
面白いお話でした。
一字余計?な部分があったので報告です。
>「それは勘弁して欲しいもな」と云っているが
『も』が一字余計ではないでしょうか?
報告でした。(礼)
丁度、酒を飲んでいたのでいい感じにうっとりできました。
霖之助の話はこういう静かな話が一番合うなと思いました。
豊かな情景描写も加わって、香霖堂の匂いさえ感じ取れる様でした。
色々と感慨深かったですね。
ちょっと夜空を見ようと思いました。
氏の卓越した文章には全くもって感嘆の溜息しかでない限り。
色んなものに眼を向けるべきだなと思いました
風景を愛でる「静」の物語と、猫が逢いに行かなかった結末が趣深く、しみじみと気持ちにさせて頂きました。
最後の語り手の口調からして、聞き手の憤慨っぷりが目に浮かぶようで最後はいい幕引きだと思います。
紫はやはり天使のようでいて悪魔ですよね!
嗚呼、あの胡散臭さがたまらない
もう一押し欲しかったですが、そうすると余分になってしまうかもしれないのでそこは個人の趣味ということでこの点を
ここを読んで100点決定。巧い。
猫になりたい……
だから何だって話ですが。
とりあえず猫飼いたい。