4重苦、と内心呼んでいる。
一度気づかずに声に出したら、通りがかったパチュリーに「49?」と聞き間違えられた。
「7曜の2乗か、白黒の八卦炉みたいに豪勢ね。咲夜、あなたひょっとしてもうそんな歳なのかしら」
「まさか、パチュリー様。咲夜はまだまだピチピチですわ」
「そうでしょうね。人間はすぐ年老いてしまうから。猫の髭と黒薔薇の花弁、鹿の歯形がついた茸を煎じて、秋の星座を映した水に溶かして飲みなさい。長生きに効能あり、よ」
紫の長衣をひきずるようにして魔女は歩いていく。水をたたえたフラスコが左右に揺れるように、重心が振れる背中に、咲夜は彼女の、女としての肉体を強く意識する。
やがてその姿も消え、館の東西を貫く廊下から、動くものは絶える。咲夜の能力で拡張した紅魔館は、怪物の内臓みたいにだだっ広い。
主はあと2時間と少し、眠っているはずだ。
燭台のろうそくを交換する。窓を細かな雨が叩く。霧のような雨――。
それから、つま先からかじかむ冷え込み。悪い夢からくる寝不足。
この三つに、女の日が重なると、とたんに症状が重くなるのだ。
あわせて4つの苦しみ。最後のひとつ以外は、別に苦痛というほどのことはない。咲夜のささやかな、甘えだ。
これに主の妹の不機嫌が加わると、5重苦になる。
気分にむらのある紅魔の妹、地下室のフランドールは、それでも滅多に館の中で暴れ出したりはしない。むしろいつも以上に引きこもる。自分の不安定さを、彼女は憎んでいるのだ。地下室の分厚い扉の前はビリビリして、誰も近づけなくなる。
館のあちこちの光り物、鏡や窓や銀食器に、地下にいるはずのフランドールが映ることもある。夜光虫みたいな目をして、のっそり立っている。普段なら気にしないが、体調がよくないとしばしば、彼女の感情に捉えられる。痛む下腹部をぎゅうっと握り締められたようになる。わが子を亡くした女のように、哀れみが怒涛になっておしよせて、涙があとからあとから流れる。
この種の怪異は――紅魔館に暮らす者にとっては日常だが、主であるレミリアが眠っている間だけ起こる。レミリアが目を覚ますと、そのあたりに跋扈していたフランドールの幻は見えなくなる。苛立たしげな地下からの波動も、ぴたりと止む。どういうやりとりが二人の吸血鬼の間でなされるのかわからないが、これも一種の甘えかもしれないと咲夜は考えている。
レミリアは、伝説の存在の上澄みを凝縮したようなこの吸血の娘は、起きている間ずっと溌剌と躍動する。くるくるとよく動く瞳で館とその住人を追い掛け回し、紅茶と砂糖菓子を供にして大風呂敷を広げ、主の椅子に悠々と君臨する。咲夜を見おろし高く膝を組んだかと思えば、腰に手を回してむしゃぶりついてきたりする。
そのすべてを咲夜は愛している。夜の王なのに太陽みたいに、レミリアはすべてを照らし、従う者たちと無関係に公転する。
主の前では咲夜はいつも、透明でありたいと願っている。人としての体も、女としての重みも、忘れてしまいたい。主の放つ光を受けても、影ひとつ零さないでいたいのだ。
月のものが下りる日には、咲夜はきまって、手持ちの中で一番いい下着をつけることにしている。万が一にも汚したくないから気が張るのだ。
念には念を入れて身だしなみを整え、何度も鏡の前に立つ。軽い香水を一滴だけ、襟元に叩きこむ。
主は吸血鬼だ。吸血鬼である感覚は、むろん咲夜には理解できない。
「よく晴れているわね。テラスで日傘を広げて、お茶にしましょう。私を灼こうとする太陽に、ほえ面かかせてやるのよ」
つま先ではじくように階段を上っていくレミリアに、咲夜はトレイを持ってついていく。ティーカップとスプーンが触れてかちゃりかちゃりと音を立てる。
ろくに紅茶をすすりもせず、入浴がしたいと唐突に言い出される。咲夜はバスルームに下りて湯を張り、入浴剤をといて大きく攪拌し、軽く泡立てる。香油を落とし、枇杷の葉を散らす。
小さくとがった鼻に泡をくっつけて天井を眺める主の後ろでタオルを持って控える。ぽっかり、空洞になった体の内奥から、古い粘膜が剥がれ落ちるのがわかる。備えはしているからもちろん下着まで垂れることなどないが、足首がきゅっと引き締まる。
ひびの入った土器にでもなったような気分だ。
大丈夫、しばらくは湯の香りが満ちている。些細な血のにおいなど、かき消してくれるに違いない。
自分にそう言い聞かせる。湯を出たレミリアは、神社に行きたいと言い出す。夕食が近いし、どうせ週末に宴会の予定が入っているからと、咲夜は翻意をすすめる。
結局、夕日にこんがり染め上げられた湖のほとりを、主従連れ立って散歩する。日傘を差して長い影を伸ばすレミリアのあとについて、白い花をつけたタデの岸辺をゆく。
主は吸血鬼だ。血に対する感覚は、咲夜の想像を絶する。
「だからって」以前、図書館で茶会をした折にレミリアは言った。「いつでも腹をすかせている餓鬼みたいに思わないで頂戴。犬みたいに鼻がきくと思われるのも嫌ね。ただ、わかるのよ。どうしてって聞かれても、困るけれど」とふくれっ面をして。
その少し前、書棚の上に跨っていた主の、ぶらぶら垂らしていた足が一度ぴたりと止まる。緩慢に首をもたげたレミリアはすぐ興味なさげに、目を大判の画集に戻したが、ぐるりうつむく眼球の奥でゆらりと、遠い烽火みたいに赤の色が揺れたのを、咲夜は見逃さなかった。
それから、たっぷり一町ほどもある書棚の列をくぐってパチュリーのいる長机の傍にいくと、乾いた煎餅を急いでつまみ食いしたあげく舌を噛んだ、自業自得の黒白魔法使いが口を押さえていたという訳だ。
「フランもきっと気づいているわね。距離の問題じゃない、テリトリーだからよ。館の中は、私たちの領土だからさ」
変化について指摘すると、レミリアは少し決まり悪そうにし、咲夜は強く後悔したのだ。気づいたことを、知らせるべきでなかったと。
足の間から血を流している日に、気づかれたくないと思うように。
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息継ぎなしで泳ぐような寝苦しさから目覚める。数珠繋ぎにとりとめのない夢をみた気がするが、思い出せない。
咲夜は身を起こした。ひどく寒い。手足の先の感覚が鈍り、役立たずの棒切れになってベッドに横たわっている。
足元にタオルケットが押しやられ山をつくっている。肩からかけて寝たはずが、熱気に倦んで剥いでしまったらしい。
小さく舌打ちしてしまう。
カーテンの引かれた窓の向こうには、きっと白くけむる館の庭が広がっているに違いない。
森から流れ出た霧が朝夕、湖を冷やす。このところ、そんな天気が続いていた。
里の隠居がいうには、何年かおきにこういう夏がめぐってくるらしい。真昼と夜中はむしむし暑くなるのだから、始末が悪い。
「またあんたの親玉が駄々こねてるのかと思ったわよ」
巫女には、そう茶化された。
ベッドの脇に足を着くと、カーペットの毛先が針のように感じる。血の詰まった袋と化した身中で、膨れ上がった心臓が常より早い鼓動を打っている。
案の定、寝る前より体調は悪い。
とはいえ、のんびりもしていられない。ハンガーにかけてあったメイド服に着替え、髪を撫で付ける。
数種の薬草に鳥の羽、古釘など結わえた束をスカートの内ポケットにしのばせる。咲夜に事情を打ち明けられたパチュリーが用意してくれたものだ。なんでも「吸血鬼の感覚をさえぎる」効能があるとかで、もとは夜歩く人間のお守りかららしい。ちなみに、束ねているのはやっぱり猫の髭だという。
廊下に出て厨房へ向かう。脳天のあたりに霞がかかったようだ。
食材を確認し、下ごしらえなど済ませてホールに出ると、妖精メイドの一団が階段の掃除をしている。一人を呼びとめ、とれかかっていたエプロンのボタンを縫い付けてやる。朝飯前のつもりが、針を指に二度も刺してしまった。
開け放した玄関からは、濡れ鼠のようにうな垂れる雲と、わずかに散った朱色が見える。霧はほとんど晴れたらしい。
「でも、気にしなくてもいいのに。少なくとも私は気づかないし、レミィだって」
咲夜に薬草を渡した魔女は、言いかけた言葉を飲み込んでふっと息を吐いた。
「参考までにお聞きします」
積み上がった本の間を拭きながら尋ねたのは、深刻なつもりではない咲夜なりのアピールだった。
「将来、子を持つつもりがあるなら、やめておいた方がいい。――今の私に作れるのは、その程度の薬だけ」
質問の内容は察していたらしい。拭き終えた机に両肘をつき、細いおとがいを細い手首にのせて、パチュリーはしげしげと咲夜を見つめた。
「どうなの、咲夜」
「それは……。わかりません」
「うん」
曖昧な返答に、どうしてか満足そうだったと、思い出す。
日が落ちる。独特の静寂が館を包む。どこにいても、広間の柱時計が刻む音が聞こえてくる奇妙な時間帯。昼と夜の狭間。
「咲夜」
起きたばかりの主は、いつも消え入りそうな声で呼ぶ。
「はい」
黒檀の扉を押し開けながら、きまって咲夜は、館に受け入れられた日のことを回想するのだ。人ならぬものに囲まれ、全身の毛穴が開いた。床に落ちる自分の影ばかりを見ていた、あのとき。
暗がりに、薔薇に似た香りが充ちている。
横座りにベッドにうずくまった影から、青白い頬が三日月の形に浮かび上がる。
うす絹の衣を落とし、小さな体がそっと、ベッド脇に立った咲夜の腰に寄り掛かった。
思わず硬くなる手足を、意識してやわらげる。
「変わったことはないかしら?」
「ええ、お嬢様」
それは言葉遊びのようなものだ。
着替えを手伝い、青く透明な髪を梳きながら、胸元にこみあげる焦燥と咲夜はたたかっている。体の真ん中で、しずくが落ちる。その水音が漏れ聞こえるのではという幻想を、ありもしないことと思いつつ、振り払えない。
くさび型をした痛みが下腹を叩く。体を冷やしたことを、あらためて咲夜は悔やんだ。
ようやく眠気が吹っ切れたレミリアは活発に飛び出していく。シーツを整えて、咲夜も階下へ下りていく。
大食堂の一番奥、細長いテーブルの端に主は静かに座っている。入ってきた咲夜を見るともなく、夜を嗅ぎ分けるような仕草。彼女の額で夜は分かたれ、静謐と混濁の両極へ選別されていく。
「いやあ、雨降ってきましたよ」
ところへ賑やかな夜があらわれる。赤い髪を濡らした門番に、レミリアは黙っておいでおいでする。主の斜め前に陣取った彼女の頭に、咲夜はタオルをかぶせてやった。
「あ、すみません、咲夜さん」
片手でざっくりと髪を拭きつつ、美鈴は主の三倍近い量の料理を涼しい顔でたいらげていく。レミリアが彼女になにか話しかける。椅子に膝をついて、ぴんと羽根を張って、口に物を入れたままの応答に一心に聞き入っている。
高い窓に雨が降りかかる。館の明かりに照らされ、光の群れが渦を巻き、風のかたちそのままをなぞってうねる。
呼ばれた。傍に行くと、ワインの栓を抜いたレミリアに特別のグラスで飲みたいからと、頼まれる。地下へと降り、ひし形文様のカットグラスを選ぶ。以前冥界の姫君と、ちょっとした賭け事をして手に入れたものだ。
フランドールの部屋の真上に位置する貯蔵庫は静まり返っている。悪魔の妹は、眠っているのかもしれない。
食堂では、美鈴が消えてパチュリーがその席についている。
グラスにとくりとくりと、鮮烈な赤が溜まっていく。見つめる主の瞳は、すでに酒精に魅入られたかのようだ。
時をとめる。
急に押し寄せた痛みの波が引くまで、こめかみに力を入れて待つ。下半身全体に濡れ雑巾を押し当てられたような不快感。実際濡れているわけではない、そう感じるだけだ。
静止した景観。なにか言いかけた主の唇がいびつな三角形をつくっている。対して横顔を向けた友人は、偶然だろうか、まるで母親のように甘くほほ笑んでいた。
咲夜が永遠に時をとめていられないのは、もちろん能力の限界でもあるが、一人別の世界に切り捨てられる孤独に耐えられなくなるからだということに、気づいている者はいるのだろうか?
時を戻す。厨房の様子を見ようかと歩きかけた。
硬質な音。振り向いた咲夜を、赤い染みが動揺させる。テーブルのセッティングをしていたメイドが誤ってクロスを引いてしまったのだ。レミリアの手元のグラスがない。繊細なカットグラスは、カーペットに落ちただけなのに、わずかに底を欠いてしまっている。
レミリアが言葉を発する前に、メイドを強めに叱責する。主が怒り出すとは思わなかったが、助け舟のつもりだった。先日入ったばかりのその妖精は、まだまだ吸血鬼を怖れていたから。人間に叱られるほうが、ずっとマシだろう。
「これさあ」しゃがみこんだレミリアが、咲夜の止める間もなくグラスをつまみあげる。「風鈴にでもしたら、綺麗だと思わない? 底に穴あけてさ」
パチェ、作ってよ。嫌よ面倒臭い。杯をひったくってワインを干す主を、魔女は怪訝な顔で見上げる。のどかなやりとりに、縮み上がっていたメイドがやっと表情をゆるめる。
彼女を食堂から送り出すと、椅子を蹴るように飛び降りたレミリアが、咲夜の胸元に例のグラスを差し出して、口の端をつりあげた。ああ、これはなにか頼まれるなと咲夜は確信する。
「というわけだから、咲夜。これに蛍を入れてきて」
「ちょっと、レミィ。なにがというわけ、よ。だいたいもう夏も終わりなのに、蛍だなんて」
「理由なんて、綺麗そうだからでいいじゃない」
「酔狂のきわみだわ」
「かしこまりました」
グラスを受け取る。主は得意そうに、咲夜のエプロンの端を一度強くぎゅっと握った。その後ろで魔女が眉間にしわをよせ、指を立てた。
「ちょっとの間だけでも雨、やませましょうか? 館の周りだけだけど」
「それにはおよびません。でも、ありがとうございます、パチュリー様」
「帰ってきたら、紅茶を淹れてね」
ワルツを踊るように、レミリアはくるりとターンして、渋い顔の友人に駆け寄った。
柱時計が、ぼうんぼうんと時を告げる。
闇の底を背面で飛ぶ。雲が早い。切れ間からちらちら、澄んだ藍色が透けて見える。
思ったよりしっかりした雨が頬を濡らす。心地よかった。どうも少し熱があるらしい。パチュリーの申し出を断ったのは、体の欲求からだったのかもしれない。
館の門を越え、湖のほとりに咲夜は降り立った。だいぶ風が強い。シルエットになった背の高い葦と、岸辺を囲む木々が、抗議する群集のように左右に揺れている。
ほたる。ほたる……。
「こっちの水は、赤いわよ」
口ずさむ。手のひらをかざす。蛍など、どこにも見えない。川のあたりまで行かなければいけないだろうか。
困惑するべきところが、奇妙に気分が高揚していく。下腹の痛みは散らばり、薄っぺらい広がりになって、腰から腿をじんじんとしびれさせている。
いつの間にか、ナイフを手にしていた。なにをするつもりだったのか思い出せない。ためしに指先でも傷つけてみたところで、血のにおいにさそわれる虫ではあるまいに。
雨が引いていく。ずっと遠くの空を雷鳴が伝っていく。
そのとき、一筋の光がすっと、目の前を斜めに流れた。咲夜は手の中で回したナイフをゆっくりかざす。背後の、紅い館の弱い明かりを刃先に受け止めて、左右に振って動かす。
明滅する光がふわりと持ち上がり、戸惑うように揺れて、差し出した咲夜の腕に舞い降りた。
「あなたのお嫁さんにはなってあげられないのよね。悪しからず」
米粒より大きい程度の虫を壊さないよう指でくるんで、咲夜は引き返した。
食堂に入っていくと、主も魔女も姿はなく、居並ぶろうそくの明かりだけが咲夜を迎える。洗っておいたカットグラスに蛍を入れ、さかさまにしてテーブルに伏せた。
「それは、なに?」
一回り小さな手が、テーブルに置いた咲夜の手に寄り添ってくる。フランドールは眠たげな瞳で咲夜を見上げていた。
「蛍ですわ」
「ほたる? 知ってるわ。本で読んだことがある。……でも、光ってないじゃない」
「光っていなくとも、蛍は蛍ですわよ」
手近の燭台に近寄り、咲夜はろうそくを吹き消した。
「わっ」
フランドールがテーブルに詰め寄る。テーブルクロスにしがみついた虫が、誇らしげにその身を輝かせる、小さな体に似合わず光は強く、フランドールの羽根に似て七色に変化するようだった。
「お嬢様に頼まれたんです。戻ってきたら紅茶を淹れるよう言われたのですが」
「図書館に居たよ。でも、パチェと二人でワイン飲んで盛り上がってたから、当分いらないんじゃないの」
テーブルに肘をおいてしゃがみ、フランドールは咲夜の方を見ようともしない。カットグラスの底を指でなぞり、緩く笑う。
「その子、見ていてくださいね。朝には放しますから」
「飽きるまでは見てるよ」
いつの間にか夜は更け、日付けも変わっている。廊下に出た咲夜を、強い眩暈が襲う。
(いけない)
ふらふらと自室へ走りこむ。膝をついたベッドが深い泥のように咲夜を迎える。仰向けに倒れ込むと、世界がぐるぐる回った。螺旋をえがいて、体の重さにまかせてどんどんと沈んでいく。
起き上がって下着をたしかめたかったが、梃子でも手足が持ち上がりそうにない。観念して、力を抜いて、瞼をおろす。
赤い闇が広がる。こちこちと、体の奥から刻まれる硬い音が、規則的に咲夜を取り巻いて動いていく。時計の文字盤に磔となり、針の代わりに回っているかのようだ。
(咲夜)
主の呼び声が聞こえた気がした。時をとめて立ち上がろう、いつものように、静止した館を駆け抜けて馳せ参じよう。今すぐに……と思いながら、それができない。
こちこちと回っていく意識を、なすすべなく見つめる。止められない。
停めたくない。
怖かった。ほとんどはじめて、咲夜は己の能力を恐れた。自分以外のすべてが静止した世界を思うだけで、心細さに打ちのめされた。耳をふさぎ、手足を丸めて、落ち葉の下に隠れる虫のように、存在よ薄くなれと祈る。
やがて、しつこく鳴っていた時計の音が遠くなる。体の感覚が無くなり、十六夜咲夜は館の一部となる。館の住人のかろやかな足音が、咲夜の内壁でこだまする。妖精メイドたちの羽が小さな風を起こし、無邪気な陰口が囁かれる。厨房にて、洗い終えた食器から水がしたたる。
悪魔の妹はテラスの手すりに腰掛けて口笛を吹く。前庭で夜空を見上げた美鈴がぶるりと身震いする。
広大な図書館では使い魔が書棚の埃を払っている。いつもの机で本を広げた魔女は、いつになく熱心な口調で、はるか遠くの星の色について話している。そして館の主は、こっくり舟をこぎかけては友人の熱弁に引き戻されながら、つめたい炎のような瞳を、やさしく瞬かせるのだった。
人でないものたちの気配は、舞い散る羽毛のように、静かに堆積していく。そのただ中で、咲夜は力なく消失していた。骨も肉も溶けて消え、容れ物を失い流れ出た血液だけがとろりと広がる。どす黒い赤の水面にうつるのは咲夜の幻影だけ、その岸辺に誰も立ち寄ることはない。カーペットにこぼれたワインの染みと同じだ。
――わたしは、人間なのです。
たとえ瞬きするくらいの刹那でも、たとえ自身から流れ出した血であっても、それがレミリアの関心を横取りすることが許せなかった。自由気ままにたゆたう彼女を、声をかけ引きずりおろす無粋。咲夜本人すら追い越して、赤い濁り水などにそんな真似をされるのが、たまらなく嫌だったのだ。
(咲夜)
だから。――そんなふうに、呼ばないでください。わたしは、人間の女なのです。
耳たぶに熱いものがしたたり、過ぎたあとはさあっっと冷える。目じりから山なりにつづくその形が、咲夜に思い出させる。体が形を取り戻す。指先に力がこもる。遮二無二に涙を拭った。
ベッドから跳ね起き、ボタンをはめて髪を直す。鏡の中の自分をにらみつけ、咲夜は躊躇なく時を止めた。
「遅いわよ」
「申し訳ありません」
「部屋で紅茶を飲むから」
「承知しました。すぐ支度しますね」
しびれを切らしたのか、主は図書館の扉の前で待っていた。ふんふんと出鱈目なメロディーを口ずさみながら、咲夜の先に立って歩く。アザミの花のような赤い帽子が上下する。
オーバルトレイにティーセットをのせてついていく。不思議と、体の痛みも疲労もすっかり拭い去られていた。足全体の皮膚が、ちょっと突っ張ったように感じられるばかりだ。
だから、油断していたのかもしれない。階段を上りきった後ろ足の踵が、すとんと落ちた。
踏み外したのかと思った。瞬間的に意識が途絶えたのだと気づいたときは、体はもう後ろに大きく傾いでいた。奈落へ落ちかかる。時をとめるか飛翔するか、どちらも発動にわずかな時間を要する。少なくとも、すでに手を離れたティーセットの被害は、免れない。
スプーンがかちゃりと鳴る。
それだけだった。
傾いたまま止まっている自分の体より、前を歩いていた主の姿が消えていることが、咲夜にとっては驚きだった。
振り向いた鼻先に、一糸乱れずカップが鎮座しているトレイを差し出される。もう一方の手で咲夜の腰を支えた主は、なぜか気まずげに目をそむけた。
「あ、ありがとうございます」
「ん……」
体勢を直してトレイを受け取る咲夜を、ゆっくりとレミリアが追い越していく。その手に、ポケットに入れておいたはずの薬草の束が握られているのを、咲夜は呆然と見送った。
「ねえ? 咲夜は私を、いっぱしのレディと認めてくれていないのかしら?」
犬歯を剥いて笑みを浮かべ、主は無造作に手を振る。階段の手すりから描く放物線、途中で紐のいましめを離れた魔除けの品々は、散り散りになって階下の暗闇に消えていった。
「お嬢様」
咲夜を振り返らず、黙りこくってレミリアは、真っ直ぐの廊下を歩いていく。
「蛍ね」
自室の扉に手を置いて、背中で主は呟いた。
館の屋根で鳥が鳴き交わし始める。夜明けが近い。
「さっき見た。素敵だったよ」
「そうですか」
「でもね。もう寿命だったみたい。フランがグラスから出してやったんだけど、もう飛べなくてね。光らなくてね」
「……それは、可哀想なことをしましたね」
レミリアは真っ直ぐ咲夜を見上げた。彼女の中を、血液そのもののように駆け巡った言葉が、形をとれず無念げに消えていく。ゆらめく瞳の底に、咲夜はその様をありありと見ていた。隠さず見せてくれることが、嬉しかった。
手の中に指が入り込んできて、くいと引かれる。かがみ込んだ咲夜の片頬を、主のやわらかな髪が包み込んだ。
薔薇の香りがする。
「私に無断で、無理をするな」
「はい」
忌々しくも優しい朝日が、吸血鬼の館の窓を、おずおずと覗き込んでくる。
あるいは実際、時を止める能力、などは思い込みで、ただ咲夜はその間別の世界に行っているだけなのかもしれない。
「おかえり」
些細なことで能力を使ったところで、食後の紅茶を楽しんでいた主に看破され、咲夜は戸惑いながらそう思ったのだ。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい、咲夜さん!」
時を止めたことに気づいていなかったらしい魔女と門番にも悪乗りされ、顔が赤らむ。
お返しに二杯目にはセンブリでも入れてやろうか、とたくらみながら、厨房へ向かう咲夜の足取りは、軽かった。
今日はすこぶる、体調がいい。
<了>
だがしかし猫の髭を切るなんて所業、俺には出来ないんだぜ……
各キャラクターの家族的な距離感や会話の内容などが私の思うところと合致し引き込まれました。
情景・心理描写もすばらしい。文句なしです。
言葉など、他にもパチュリーたちが彼女のことに気を使ってくれていて
咲夜さんをとても大切に思っているんですね。
面白かったですよ。
誤字の報告
地下室の分厚い扉の前はビリビリして、誰も近づけなくネる。
『近づけなくなる。』ですよね。
素敵な紅魔館の皆さんとお嬢様ですね…
綺麗な物語をどうもでした
素晴らしい作品だと思います。
瀟洒なメイドに徹するつもりで無理をする咲夜に対する
レミリアの気遣いの様は,物凄く魅力的に感じました。
父性に近いカリスマとでもいうのでしょうか素敵でした。
何と綺麗な文章、ぐいぐい引き込まれて一気に読んでしまいました
僕は男なので、月のものの辛さはわかりませんが、それでも締め付けられるような咲夜さんの苦しさや切なさが伝わりました
いや、男でよかった
それを知りつつも敢えて言わせて頂きます。
上手い、そして凄い――
緻密なまでの心理描写が、鳥肌が立ちそうな程に素晴らしいです。
男の身なので咲夜さんの心情がどれほど理解できたか解りませんが、重さ、辛さ、どろりとした感覚、倦怠感、それらがひしひしと伝わってきます。
そしてそれだからこそレミさまの言葉が――
読めてよかったです。多謝。
>>八卦路
>>昨夜は強く後悔したのだ。
誤字でしょうか?
つきのものをモチーフに持ってきてなお美しい物語に脱帽。
創想話通いは辞められない
なにかもう言いたいことが上手くまとまらないので
咲夜さん俺のために生理痛乙と書いて糸冬
月のものの痛み、鬱陶しさ、流れ出てくる感覚がリアルでした。
紅魔館の住民はいいやつらばっかりだ。
咲夜さんと紅魔館の皆さんの心理描写は勿論ですが、
陰鬱な館の様子と夏を前にした不順な季節の描写が主題と響きあっていて、
冗談掛け値なく鳥肌が立ちました。
素晴らしい作品をありがとうございます。
‥何か生理痛の薬は幻想入りしていないのでしょうか?
今回のも然り。
巫女はMAXで不機嫌オーラだだ漏れさせてそうだけどなぁw
男性には経験する事の出来ない痛みを、巧みかつ克明に伝えていて、
とても面白く思いました。
登場人物たちの一人一人の言葉が、それぞれ個性を持っていて、
全体的に東方らしさを感じた気がします。
流れるような進行の中、結末に持ってきた場面には微笑せざるを得ませんでした。
そういうところの上手さにもただただ感嘆のため息を漏らすばかり。素晴らしいの一言に尽きます。
どこまで私が理解できたかはわかりませんが、
咲夜さんの言葉では言い表せない苦しさだけでなく、
紅魔館のみんな、特に倒れそうになった彼女を支えたレミリア様の優しさを感じます。
でも彼女の負担がなんだかんだで一番大きそうに思います。
有給休暇とか八意印の痛み止めとかあっちにないんでしょうか?
個人的に、あとがきの一文が一番気に入りました。
『正当な交渉・取引・弾幕勝負など経たうえで』のあとで『なお遠慮しましょう』
と持っていくところが幻想郷的に見えます。
なんというか・・・
これほどまでに文学的に「痛み」を描写した作品をはじめてみました
おぜうさまもいい味だしてるし
すばらしい
書き手がはっきり意図しないところまでも丁寧に読み込んでいただけたみたいで、作品も私も本当に果報者であります。
いい物語をありがとうございます。
途中の蛍…………レミリアは、蛍が咲夜さんとかぶって見えてしまったんでしょうね………
彼女は人間で脆い存在……あの蛍の様に無理させちゃいけない。レミリア男らしい!!
二人の関係がとても素敵で、この作品に巡り合えて嬉しく思いました。
凄く素敵な作品でした。
過剰でなく余分でもない、的確な修飾がされた表現には感心させられます。
読後感もステキ!
一つ一つの描写に引き込まれながら読ませていただきました。
なんというか生々しいというか、咲夜さんの感情が刺すようにしみ込んでくる。
なお物語が美しいのは、情緒あふれる文章と描かれる人物が美しいからですね。
人間の女なのです、と咲夜さんが作中で独白するシーンが、もう言葉も見つからないくらい良い。
参考までに、と尋ねた咲夜さんに対するパチュリーの反応もすごく良い。
どこまでも人間でしかない咲夜さんを中心に淡々と静かに描かれる紅魔館がとても綺麗でした。
そしてレミリア、まさしく主って感じだなあ。
この一言がたいへん印象的でした。