――仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば
8.御阿礼乙女
阿求は昏々と眠っている間、繰り返し繰り返し、同じ夢を見ていた。
見上げれば、空を覆い尽くすほどに咲き誇った桜の花びら。
春風が吹く度に、枝が揺れ、白い花びらがはらはらと落ちる。
幼い女の子を連れて、その桜の森の中を散歩する――そんな夢だった。
夢の中の阿求は、少女の手を引き、ゆっくりと歩いて行く。
時折、隣に眼をやれば、必ず女の子と眼が合った。
その、にこりと微笑む少女の手の小ささや、温もりが無性に懐かしく、何度も夢の中で泣きそうになった。
きっとそれは、阿求の魂の底に眠っていた、私ではない『私』。
転生する前の古い古い記憶だったのだろう――。
途中、何度か短い覚醒を繰り返し、ようやく阿求が自力で起き上がれる様になったのは、丸一日が過ぎてからだった。
阿求は長く寝ていた時特有のだるさを覚えながら、茫洋とした視線で自室を眺めていた。
閉め切られた障子。見慣れた文机。愛用のレコードプレイヤーとティーセット。そして、きちんと整理された本棚。
開け放たれた窓からは庭が見える。既に庭のあちこちで花が咲いている。春はいつの間にかやって来ていたのだ。
だが、あの桜の森にはまだ春は訪れていないだろう。そんな予感がした。
まだ事件は全部終わった訳では無いのだ。それが気掛かりだった。しかし同時に、もう自分に出来る事など無い様な気もした。
そんな宙ぶらりんの気持ちのまま、自室でだらだらと過ごしていると、奉公人が部屋に現れた。
「お嬢様、お客様が来ています」
「慧音さんですか?」
「いいえ。焼き鳥屋さんだそうです。どうしましょう?お土産だと云って、筍を頂きましたが――体調が優れないのでしたら帰って頂きますか?」
阿求は我知らず笑みを浮かべた。
「お友達です。此処へ案内してあげて下さい。くれぐれも失礼のない様に」
暫くして、やあと妹紅が現れた。初めての場所に戸惑っているのか、そわそわとしている。
「思ったより顔色は良いし、体の方も大丈夫みたいだね。ここ座っていい?」
にかっと歯を見せ、妹紅が笑う。そんな笑い方もするのだと、阿求は少し驚いた。
「どうぞ。長く寝た所為で、まだ頭の方がボーっとしてますけどね」
「良かった。出来れば直接会って伝言をしたかったからね」
「伝言?」
「うん、慧音から。事件の真相――本当に知りたいのなら、今夜、あの桜の下に来いだってさ」
妹紅はさらりと、そう云った。
途端に阿求は胃の腑が締め付けられるような思いがした。
――あの場所にもう一度、私に行けと?
正直――怖い、と思った。
求聞持の能力の所為で、阿求は一度見たものを決して忘れないどころか、忘れる事が出来ない。
少しでもあの夜の事を思えば、燃える鈴の姿が頭にちらついた。いや、ちらつくなどと生半可なものではない。背景の樹の枝一本から、服の皺の一つまで、映像として記録されたものが真に迫る鮮明さを持って阿求を後悔のどん底へと叩き込むのだ。
――どうして、あの子を抱きしめてやらなかったのだろう。
鈴の変わり果てた姿に、あの時、阿求は恐怖から竦んだ。
鈴は死んでしまったのだ。だから、眼の前にいる鈴は、阿求の知っている鈴ではなく、全く別の存在なのだ――。
そういう風に頭では理解できた。しかし、阿求が本当に怖かったのはそんな事ではない。
蘇った鈴の醜さ、おぞましさが阿求を竦ませたのだ。
黒い肌、ぼさぼさの髪、濁った眼球、継ぎ合わされたかの様にちぐはぐな体、泥の付いた経帷子――。
まるで、黄泉の国で妻に再開した伊耶那岐神の様な気分だった。阿求が伊耶那岐神と違って逃げ出さなかったのは、それだけの胆力と体力が無かったというだけの話である。結果、悲鳴を上げる事しか出来なかったのだ。もし可能ならば、阿求は一目散に逃げていただろう。
それが、阿求には悔しかった。
生前の鈴とは違ってはいても――あれはやはり幼い子供だった。
訳も分からぬままに此の世に生み出された、右も左も分からない幼子だったのだ。本当に怖かったのは、阿求では無く、あの子自身なのだ。そう云う意味では、あの子もまた被害者だったのだろう。だから、逃げようとせずに、抱きしめてやるべきだった。怖くないよ、と一声掛けてやるべきだったのだ。
しかし、後悔は先に立たず、あの娘はもう完全にこの世にはいない。
だから――逃げてはいけない。
もう二度と逃げてはいけない。
慧音がもう一度あの桜の樹の下に来いと云うのなら、行くしかない。
そうでないと、阿求は一生、死ぬまでこの事に負い目を感じ続ける事になるだろう。
阿求は目を強く瞑り、鈴の最後の姿を思い起こし――再び眼を開くとはっきりとした声で答えた。
「――行きます」
無言で妹紅が頷く。
「分かった。待ち合わせの場所は私が聞いてる。一緒に行こう」
「はい――ところで、鈴ちゃんの仏様はどうなりましたか?」
あの夜――あの後の阿求の記憶は曖昧である。
恐らくは、疲労と緊張から、一種のショック状態に陥っていたのであろう。妹紅に背負われて里まで戻って来て、屋敷で掛かり付けの医者に診て貰った事は憶えているが、その他の細かい事となると全く覚えが無い。
「んー、昨日、ちゃんとお葬式をして改めて埋葬したよ。お父さんと一緒に」
「――そうですか」
「お葬式、あんまり人も来なかったし、淡々としたもんだったけど、意外な事に、お母さんの方は割と落ち着いてたね」
「静さんは――そうですか。良かった。冷静なんですね」
娘。そして、夫まで亡くした女性は――けれども、葬儀をちゃんと行う事で、それなりに踏ん切りが付いたのかもしれない。
強いな、と阿求は思う。
「里の様子は?」
「様子――様子ねぇ」
妹紅は不満そうに鼻を鳴らした。
「娘さんの仏様が戻って来た時点で、もう解決したって事になってるみたいだよ。世間的には」
「――やはりそういう事になるんですか」
阿求は何とはなしにそんな気がしていたのだ。世間を騒がした事件の内容が、消えた死体に関する事である限り、事件は落着したとは云える。だけど、今度の事件に関わった者としては、それで終わりという訳にはいかなかった。以津真天の事や、阿求が深夜の森で遭遇した鈴の変わり果てた姿など、依然として謎は残っている。
妹紅も似たような思いらしく、釈然としない表情で云った。
「慧音は全部話してくれなかった――。茶屋の事件の犯人は徳次郎さんだとは云っていたけど、それ以外は全然」
「やっぱり徳次郎さんの仕業だったのですか」
阿求は静かに息を吐いた。
「知ってた?」
「いえ、でも何となくそんな気はしました。森の中で変わり果てた鈴ちゃんを見つけた時に」
どういう原理でかは分からないが――アレは鈴の死体が蘇ったモノだと阿求は見当を付けている。
ぐしゃぐしゃと妹紅が長い髪を掻く。
「正直、もう関わり合いにもなりたくはないんだけど――」
と妹紅は片目を瞑った苦い顔で云った。
「ここまで来たら最後まで見届けてやろうって気になってさ。経緯はどうあれ、あの娘に引導を渡したのは私なんだし」
「――事件が全部終わったら」
「うん?」
「二人で鈴ちゃんのお墓に行きません?」
「そうだね」
妹紅は肩を竦めて笑った。
「ついでだから、慧音も誘って三人であの寺に行こう。桜がきっと綺麗で――」
――桜が。
桜。どうしても夢を思い出す。
夢の中の女の子。懐かしくて、切なくて――夢の中のあの娘は一体誰なのか。
阿求の夢想を破る様に、突如、そうだそうだ、と云いながら妹紅がポケットから封筒を取り出した。
「慧音におんぶに抱っこもどうかと思ったんで、一寸調べ物をして来たんだ」
「それ、中身は何です?」
「写真。里にある写真屋から無理云って貰って来た」
「はぁ、写真ですか――どなたの?」
「由子さん」
由子、という名前がすぐに何を意味するのか分からなかった。
少し考えた後、ああ、と阿求は上の空で返事をした。
あの夜、慥かに慧音は、あの怪鳥の顔は『由子』だと云っていた。
――由子。
阿求の中に心当たりのある名前は無い。
しかし、これもまた今度の事件の欠けた1ピースなのだろうか。
「いい、阿求?由子さんって云うのは――」
堰を切って話出そうとする妹紅に、阿求が掌を付き出し、ストップを掛けた。
「え、何?」
妹紅は怪訝な顔をする。
「長話になりそうですから、その前に準備をさせて欲しいのです。まず美味しい紅茶です。それから――」
と阿求は部屋に置かれているレコードプレイヤーを指差し、真面目な表情で云った。
「音楽です」
紅茶は少し考えた後、ダージリンを選んだ。
選曲は紅茶以上に悩んだが、結局、一番のお気に入りにした。
そのメロディを聴きながら妹紅が質問する。
「これ何て曲?」
「リーインカーネイション」
妹紅がにやりと笑う。
「成る程。私達にはお似合いって訳だ」
妹紅は持ってきた封筒の中から、写真を取り出すと阿求に見せた。
先ず、阿求が眼に行ったのは、中央に並んだ一組の男女だった。男の方は袴履き、女の方は角隠しで髪を隠している。周囲にいる人間も皆が一様に正装をしていて、これが結婚式の時に撮ったものである事は簡単に知れた。
「その真ん中にいるお嫁さんが由子さんだよ」
「この人が?」
写真は鮮明ではなく、あの怪鳥と同じ顔だと云われてもいまいちピンとは来なかった。
「やっぱり西行寺幽々子に似てますね」
阿求はじぃっと写真を眺めながら呟いた。
うんうんと妹紅も大きく頷く。
「似てる。不思議だよね。偶然かな?」
「赤の他人という可能性は勿論ありますが――」
「血縁関係って云う可能性は?」
「伝説が本当であれば、彼女の縁者は、千年以上前に絶えている筈です」
「ふん、じゃあ由子さんが幽々子の生まれ変わりってのは」
「あり得ないでしょう。西行寺幽々子は転生が出来ない亡霊なのですから」
「だとしたらやっぱり偶然なのかなぁ。うーん、まぁそれは兎も角――里で色んな情報を収集してたら、由子さんと今回の事件に、二つの新しい接点を見つけたんだ」
阿求は、このぶっきら棒で人見知りしそうな妹紅が、里に降りて聞き取り調査をしている様子を想像すると何だか可笑しくなった。いや、それだけ妹紅も本気という事なのだろうか。
「いい?一つは由子さんが、徳次郎さんと顔見知りで仲が良かった事」
「どの程度?」
「由子さんが徳次郎さんの茶屋の常連だったんだ」
「私と同じですか――でも、里の中に茶屋が何軒とある訳じゃなし、蓋然性の問題でしょう」
「まぁそうだね。だけどもう一つの方は重要だよ。写真の中で、由子さんの隣に座ってる人を見て――どう思う?」
阿求は由子の隣に座る男性――由子の夫に当たる人をジッと見詰めて、ふと思い当る人物を思い出した。
「この男の人――もしかして惣七さんですか?」
「そうだよ。この屋敷で庭師をやってるらしいね」
「ええ、慧音さんの紹介で、稗田家の庭を見て貰っていますが――この人が由子さんの旦那さん?」
「そう。さらにその後ろの人分かる?良寛和尚と佐馬介さんだよ」
「ああ、云われてみれば――」
「里で聞いた話なんだけどさ。その三人、幼馴染らしいね」
「三人というのは?」
「佐馬介さん、惣七さん、由子さん」
「成る程」
「んで、こっからがちょっとややこしいんだけど」
と、妹紅は長い髪をガシガシと掻いた。
「由子さんってのはどうやら父親が分からない子だったらしい」
「不義の子供という事ですか?」
「さぁ?一体どんな道ならぬ恋だったのか――兎に角、母親が絶対に口を割らなかったんで、父親は最後まで分からないままだった」
「ま、父親が分からなくたって、お腹の赤ちゃんは大きくなるし、産まれてきますよね」
「うん。ところがどっこい、お母さんは由子さんを産んですぐに亡くなった。産後の肥立が悪かったらしいね。だから、由子さんは生まれてすぐに孤児になってしまった訳」
「――ええ」
「でも、捨てる神あらば、拾う神ありって感じで、由子さんの引き取り先はすぐに見つかったんだ。それが佐馬介さんの家」
「へぇ」
「佐馬介さんの家は、あの辺じゃ有名な富農だったらしいね。土地も財産もあったし、娘一人を引き取るくらい造作なかったんだろう」
「と、なると由子さんというのは、佐馬介さんにとっては――?」
「義理の妹になるね。さらにその由子さんと惣七さんが結婚したんだから、佐馬介さんにとっては惣七さんは義理の弟でもある」
「親友で尚且つ義弟ですか。複雑そうな関係ですが――何か問題があったりとかは?」
「それが全くなかったみたい。結婚前も結婚後も、三人の仲の良さはそのままで、お互いの住処を頻繁に訪ねてたみたいだし、トラブルが起きたなんて話も全く無いね」
「良寛和尚はその三人とどういう――?」
「佐馬介さんの家はあの寺に割と近い。だから、三人が子供の頃はしょっちゅう寺で遊んでたみたい。境内で鬼ごっこ、かくれんぼとかそんな感じじゃないかな。で、良寛さんは面倒見も良かったらしいんで、暇があれば三人に読み書き算盤教えたり、遊び相手になったりもしてたらしいよ」
「あの人らしいと云えば、らしいですね。だから、良寛和尚も惣七さんと由子さんの結婚式に出た訳なんだ。でも――結婚の後、何かあったんですよね?」
妹紅の話を聞いている分には、その由子という女性は幸せに暮らしていそうだ。しかし、そうではないのだ。でないと、あの怪鳥の姿に説明が付かない。
「死んだ」
妹紅は端的に云った。
「亡くなったんだ。病死だよ。丁度、一年くらいになる」
ああ、と阿求は気の抜けた返事をした。
「――やっぱり、そうなんですか」
「やっぱり?ああ、うん、そうだね。少し考えれば、すぐに分かるよね。生きてる人間があんな形で事件に関わる訳ないもの」
阿求はもう一度、写真を凝視した。
怪鳥となって再び姿を現した女性。
――いつまでいつまで。
阿求の中で厭な想像が膨らむ。
「この由子という人は、何処に葬られたかご存知ですか?」
「え、そりゃ――あのお寺だよ。良寛さん達との関係を考えると妥当でしょ」
阿求は黙る。
耳朶に残る、あの怪鳥の声。
――いつまでいつまで。
阿求は息を留め、云うか云うまいか迷った後、結局、ぽつりと漏らした。
「何故、以津真天は由子さんの顔をしているのでしょうか?」
む、と妹紅が眉根を寄せる。そんな事を考えても見なかったという表情だ。
阿求は妹紅に顔を近づけ、囁く様に云った。
「以津真天は、きちんと埋葬されなかった死体から出るんですよ。そうでしたよね」
さっと妹紅の顔が蒼褪める。
そして、その視線が自分が持ってきた写真へと注がれた。中心で華やかに微笑む花嫁――由子。しかし、今は既に故人だ。
阿求が畳みかける様に再び問うた。
「あの以津真天は、何故、由子さんの顔をしているのでしょうか?」
「以津真天に現れる処に死体ありだ。いや、だけど――まさか――」
彼女の亡骸は、寺の裏の墓場で今も眠っている筈。
筈――勿論、阿求にも妹紅にも、その真実を知る術は無い。
実際、慥かめようと思えば、それこそ墓を掘り返すでもしないと駄目だろう。それは余りに莫迦らしい方法に思えた。
阿求も妹紅も口を噤み、暫し、それぞれの考えについて没頭した。
いつの間にかレコードは針を上げ、その動きを止めていた。室内は夜の様に静まり返っている。
その沈黙が破れたのは唐突だった――。
障子戸が外から開き、使用人が顔を覗かせた。
「紅茶のお代りをお持ちしましたよ」
盆にティーポットを乗せた中年の女性が室内に入って来る。
阿求は、ああ、と呆けた返事をした後、有難う御座います、と夢見心地で礼を云った。
妹紅は姿勢を正すと、僅かに首を竦めて会釈した。
その奉公人は、妹紅のぎこちない挨拶にも微笑みで返すと、慣れた手付きでティーポットを交換した。
「随分とお話に熱が入ってるみたいなので、邪魔するのも何だと思いましたのですけど――折角、お客様が来ているのに何時までも冷めたお茶は出せませんもの」
「いえ、そろそろ休憩をしようかと思っていた処ですし。ねぇ、妹紅さん?」
「ん?ま、まぁね」
「御免なさいね。すぐ出ていきますから――」
盆を手に退出しようとした女性が、あら、と声を上げる。
その視線の先には、例の写真があった。
「そう云えば、今日は由子ちゃんの命日でしたか」
と、そう感慨深げに漏らした。
阿求と妹紅が顔を見合す。
「何ですって?」
「ほら、今日は由子ちゃんの一周忌に当たる日でしょう?阿求様は憶えていらっしゃいませんか?」
「他人様の命日なんて流石の私でも憶えていませんが――でも、今日なんですか――?」
「あらあら、知らなかったんですか――てっきりその関係で、その写真を持っているのかと思いましたが――」
「いや、これは――」
阿求は具体的に説明できず、言葉を濁す。
女性は、阿求の態度をどう勘違いしたのか、ふむふむと頷くと、さらりとこう云った。
「稗田の家とも縁のある子ですし――お花の一輪でも供えに行ってあげても宜しいかと思いますよ」
「な――なんですって!?」
阿求は絶句した。
それは一体――どういう意味なのだ。
「由子さんってのは、阿求と何か関係あるの?」
真剣な表情で、妹紅が横から聞いた。
女性は暫くきょとんとした後、そうでしたそうでした、と一人納得した風に云った。
「阿求様が生まれる前の話ですから、御存じ無くて当然なんですね。私はてっきり知っているものとばかり――」
同じ事を、以前も静に云われた事を阿求は思い出す。
「それ、前にも同じ事を――。私だけが知らないというのは――どうなっているんですか」
「当時の事を知らない人には余り口外出来る類の話ではないのですけどねェ」
使用人は、話すのを渋る様子を見せた。
――これは欠けたピースだ。
阿求はそう思った。
この事件に関係のある欠けた部分が、今眼の前にある。
「でも――どうしてもと云うのなら、やぶさかじゃ御座いません。ただ、余り大っぴらに出来る話でも無いのを覚えていて下されば」
二人とも黙って頷いた。
使用人は、二人を凝視していたが、やがて対面に腰を降ろすとそろそろと語り始めた。
「そうですねェ。二十年程前に、この屋敷に奉公していた娘がおりました。その子がある日、ある青年と恋に落ちたのです。まァ、惚れたの腫れたのとよくある話ですよ。ただ、奉公人が仕事を放り出して、恋に鎌掛けるのが許されるのかと云えばそうじゃ御座いません。若ければ猶更でしょう。逢引きはどうしても隠れてする事になります。当時、私はその子の姉貴分でしたからね。仲も良かったから、当番を代わってやったりして、その子の事を色々と応援してやりましたよォ。ところが、ある日、その子の様子が変だったので問い詰めてみると――何と、子供が出来たと云うんです」
はぁッ!?と妹紅が叫んだ。
「赤ちゃんが出来た?その子が――」
「はい、由子ちゃんですよ」
「もしかして、この屋敷で産んだのですか?」
阿求も驚愕の色を隠せない。
「はい。当時の稗田の人間と相談し、出産の面倒から、その後の事まで皆で面倒を見る――そういう事になる筈でした」
「なる筈だった――?ああ、そっか、由子さんの母親は産後の肥立が悪くて亡くなったんだっけ」
妹紅が呻く。
「それで、その後、佐馬介さんの家に引き取られたと――」
阿求は不思議な感慨を覚えた。もし、引き取り手が見つからなかったのなら、由子という女性も、この屋敷で住み込みの奉公人として働いていたのではないだろうか。阿求より年上で、もしかしたら姉の様な存在になっていたかもしれない。しかし、ちょっとした偶然の違いで、そうはならならず、この事件に関わるまではその存在すら知らなかった。
――本当に、人と人との縁というのは分からない。
花嫁姿で微笑む由子の写真を見ながら、阿求はそう思った。
「でも、その話おかしいよ。父親が誰なのかは知ってたんでしょ?どうして、その男に引き取らせない訳?」
妹紅は怒りも露わに云った。
しかし、使用人は平静な態度で、それがあの子の意志なのです、と呟いた。
「今際の際に、生まれた子供の事はあの人に知らせるな、と。そう強く云われましたものですから――」
「――その父親というは誰なのですか?」
阿求が身を乗り出した。
「本当に――ここだけの御話ですよ」
そう云って、女性は真面目な顔で、一人の男の名を――告げた。
9.庭師の惣七
惣七は手にした鍬を握りしめたまま一息吐くと、己が土の中から掘り出したモノを暫し見詰めた。
何て――本当に、莫迦な事をしたものだ。
惣七は、自分の今し方の所業を信じられない思いで反芻していた。
頭で考えるだけなら誰にでも出来る。しかし、それをいざ実行するとなると、頭で考えるのとは全く意味が違ってくる。
――僕は狂っているのか。
惣七は何度目かになる自問を繰り返した。
陽は昇ったばかりで、山の中には薄靄の様な霧が覆っている。
場所は、桜寺の裏に広がる墓場。傍には、拓けた広場と、その中心に立つ大きな桜の木が見える。
この時間帯に墓を訪れる人間は居ず、自然、惣七のみだけが立っていた。いや、むしろそういう時間帯だからこそ、惣七は朝も早くから家を出て、此処までやって来たのだった。
眼の前では、掘り出された土の小山と、掘られた穴の中から覗く木製の棺の蓋が見えている。
そして、その棺の中には、惣七の妻であった人が眠っている筈だった――。
――そう云えば。
と、棺を見詰め、今更ながら思い出す。
――今日は由子の命日だったか。
しかし、惣七が手にしているのは手向けの花では無く、土を掘り起こす為の無骨な道具なのだった。
惣七は元々、きちんと筋道を立てて物事を考える性質だった。
庭師として仕事をする時も、樹の枝の付き方や生え方をよく観察し、必要に応じて切り揃え、枝を落としてやる。肥料をやる時も、樹の様子を見て、必要と思われるものを最小限やっていた。
そういう惣七の仕事の仕方には、経験や勘といった曖昧なものが付け入る余地は無い。惣七の行う処置というのは常に、決まったセオリーによって理路整然と導き出された結果に過ぎないのだ。
今度の事件にしても、そういう理屈屋の惣七からすれば、とても奇異なものに見えた。
少し冷静に物事を観察すれば、密室などと人が呼ぶものが存在しない事などすぐに分かる筈だったし、同時に誰の仕業かもすぐに分かる筈だった。
だから、事件など――少なくとも、里の人間が騒ぐ様な事件など存在しないに等しく、すぐに解決すると高を括っていた。
しかし、何時まで経っても一向に事件は解決する気配を見せず、その上、茶屋の主人が自殺し、混迷する様子さえ見せた。
惣七はそういう周囲の反応に疑問を覚えつつも、しかしあえては何も云わなかった。自分が知っている事も、自分が気付いた事も、一切を人に語らず、沈黙を通した。
何か理由があっての事というよりも、単に、事件に興味が無かった、というだけの話である。
惣七は庭師として仕事ができていれば、別段、他に望む物など無く、平々凡々に暮らしに埋没していたかったのである。
だが、あの通夜での出来事――。
あの夜、徳次郎の葬儀が行われた夜。惣七は佐馬介と共に、夜の森へと繰り出した。
それは佐馬介の提案だった。その夜の佐馬介は何かに脅える様な、恐れる様な、妙に居心地の悪そうな塩梅だったが、本堂の周囲を見て回る事が必要だと頻りに主張した。
惣七はそれに対して、特に意見は無かった。佐馬介がそうすると云うのなら、ついて行くという考えがあっただけだ。
佐馬介はどうやら何かを探しているようだった。
悲鳴が聞こえたのは大分してからだった。
二人は当然、悲鳴のした方へと駆け付けた。
そこで見たのは――。
阿求と慧音と妹紅。
それと見た事のない女の子が一人。
「鈴だ」
佐馬介は短くそれだけ云った。
成程、あれが鈴なのか、と惣七も納得した。
二人の見ている前で、女の子が矢で撃たれ、倒れて、燃え上がった。
夢の様な光景だった。或いは悪夢か。
佐馬介は立ち上がると、元来た道へと引き返し始めた。惣七もそれに続く。
「探しものはもういいのか?」
惣七が聞く。
「鈴は見付かった。だからもういい。惣七、今夜の事は他言無用だ」
「話してもどうせ誰も信じはしない」
惣七は首を傾げ、少し考える。
鈴が居た。だが、鈴は死んだ筈だ。ならあの女の子は一体何だったのだろう。
「あの鈴は――蘇ったものか。死体に魂を吹き込んで。徳次郎さんの仕業だな。もしかして『あの本』か」
「惣七ッ」
「知っていたんだろう、佐馬介。お前も。鈴の死体が消えたのは徳次郎さんの所為だって。でも、お前は黙っていた。どうしてだ」
佐馬介は無言で首を振った。
そして、一言だけ怖い顔をして惣七に云った。
「やめておけ、惣七。お前の考えている事は分かっているんだ」
分かっているんだ――。
――そうか、佐馬介、お前にはこれから僕がしようとする事が分かるのか。
幼馴染だものな、当然だ、と惣七は薄く笑った。
遠い昔、子供の頃。佐馬介と由子と三人で、寺で遊んでいた事を思い出す。
本を最初に見つけたのは由子だった。本の中身は癖のある古い字で、佐馬介にも惣七には理解できなかったが、由子だけはすらすらとそれを読んだ。
――死体に命を吹き込む方法が書いてある。
彼女は慥かにそう云った。
そんな事があるものか、と男二人で笑ったものだが――。
あるのだ。死人を蘇らせる方法は。
あるからこそ、鈴は蘇った。やったのは徳次郎以外にいない。
ならば、惣七にも出来る筈だ。そう考えるのは極々自然だった。
だがやはり、思う事と実際にやるのとでは大きな差がある。
――やはり僕は狂ってしまったのか。
狂いか。狂いなら、それでいい。由子が戻って来るのならば、狂っていようが、構わない。
棺の蓋は釘で打ちつけられている。鍬を蓋の僅かな隙間に突っ込むと、梃の原理でグッと抉じ開けるようとした。
その時――。
「やはり、ここにいましたか」
女の声がした。
惣七は体を強張らせ、声のした方を振り返った。
しかし、誰の姿も無い――。
――気の所為――いや、慥かに聞こえた。
冷汗が噴き出る。
――誰が。
――誰がいたのだ。
周囲を見回しても、桜の古木しか見当たらない。
――物の怪の類いか。
惣七はグッと手にした鍬を強く握り、身構える。
「朝も早くから失礼と思いながらも、先刻、自宅の方にも寄らせて頂きました」
声は背後から、しかもかなり近い位置から聞こえた。
惣七は慌てて、背後を振り返る。
朝霧の中、凛とした佇まいで上白沢慧音がそこに立っていた。
「留守だったので、もしやと思ってこちらへ足を伸ばしたのですが――どうやら、正解だった様だ」
惣七はその姿を認めて、身を竦ませる。
――見られた。
人気の無い墓場に、掘り返された土と鍬。惣七が何をしようとしていたかは一目瞭然だった。
惣七は見られた事に対する怖れと、羞恥心から、体が火照るのを感じた。
――逃げようか。
ふと、そう思う。しかし同時に逃げ切れるものでも無いとも思った。逃げ場など、何処にも無い。
結果、惣七は無言のまま、突如として現れた慧音を見詰める事しか出来なかった。
慧音は音も無く、惣七の傍に近付いた。
「以前もお会いしましたね。一度目は稗田家へ仕事の紹介した時。二度目は通夜の夜でしたか。しかし、こうやって面と向かって話すのは初めてです――惣七さん」
惣七は僅かに顎を引いた。
由子が亡くなった後、生きる気力を失い、庭師としての放棄していた惣七だったが、半年ほど前に一念発起し、新たにやり直す事を決断した。その折、良寛に相談し、さらに慧音へと渡りを付けて貰う事で、惣七は稗田家の庭師としての立場を手に入れた。里でも一番大きな屋敷で働ける事は名誉だったし、何より、遣り甲斐を感じている。それもこれも、眼の前の慧音の力添えがあっての事だ。
――この人には恩がある。
だからこそ、今の自分の状態が――余計に疾しい。
「貴方に聞きたい事があります」
しかし、慧音は惣七にしていた事、或いは、しようとしている事にはまるで気にしていない様子だった。足元に見える棺にも眼を遣らない。その無関心さが却って圧力となり、惣七を圧迫する。
「――里で起こった事件についてですか?」
声が上ずらぬ様に努めながら惣七は云った。
はい、と慧音が答える。
「里の中で消えた鈴の仏様。里の者は妖怪の仕業だと騒いでいましたが――」
「妖怪の仕業の訳が無いでしょう」
惣七は諦めた様な口調で、投げ遣りに云った。
ほう、と慧音が感嘆の声を上げる。
「貴方も気付きましたか――あの密室の仕組みに」
惣七は答えない。無言のまま、慧音と眼を合わせぬ様、地面を見ている。
慧音も無理強いはせず、言葉を続けた。
「ならば話は早い。御存じの通り、先日、茶屋の鈴の仏様は取り戻せました。葬儀も無事済んでいます」
「だったら――事件は終わったのではないですか?」
惣七が問う。しかし、そう云った惣七自身、そうは思っていない。
「表面上は解決したのかもしれません。しかし、仕上げと後片付けがまだ終わっていない」
「仕上げ――とは、どういう意味ですか」
「鈴の遺体を巡る物語とは別の物語が、今回の事件の裏にはあります」
私にとってはそちらが本命です、と慧音が云った。
「それに――由子が関係あるのですか」
「ええ――。失礼ながら、由子さんの事は里の人からも聞いています。素性なり、その人となりと――。随分と慕われていたようですね。誰もが、彼女が若くして亡くなった事を憐れみ、悔いていた」
そうだろうな、と惣七は思う
由子は屈託が無く、誰にでも人当たりが良かった。そういう種類の人間は、何処でも好かれるものだ。
「しかし、そういう世間から見た彼女ではなく――もっと親しく近しい仲であった貴方から見た由子という人を私は知りたい」
慧音が云う。澄んだ瞳を惣七から離さず、真っ直ぐ見据えたまま。
「由子の――事ですか」
惣七は熱病に魘される様に答えた。
「強い子でしたよ。見掛けによらずね。負けん気が強くて――男顔負けな部分もありました」
ふっと慧音が笑う。
「それは、ずっと貴方達と過ごして来たからでは無いのですか?貴方と由子さん――それに彼女のお兄さんである佐馬介さんは、子供の頃から仲が良く、よく一緒に遊んだそうじゃないですか」
「そんなのは本当に子供の頃の話ですよ――。僕たちの家は寺に近かったから、よく境内で悪戯して、良寛さんに怒られたもんです。由子の腕白な部分は――成る程、僕と佐馬介の所為とも云えるかもしれない」
「寺で――。やはり、そこで貴方達は見たのではないですか?あの書物を」
慧音の云う、あの書物、というのが何を指すのかは咄嗟に理解できなかった。
「見た目は何の変哲も無い、平綴じの和本の筈です。表紙には題や作者の名前も無く、内容は至って極めて個人的なものだったでしょう――」
すぅっと惣七の口から吐息が漏れる。顔面が蒼白になる。
――あの本というのは、アレの事なのか――でも、アレは――。
「な、何故、知っているのですか、慧音様が――あの本の事を」
「私も読んだ事があるのですよ、惣七さん。十年前、良寛和尚の御父上より頼まれて、書庫の中身を検めた折に」
「だ、だけど、内容は滅茶苦茶で――書いてある事も全部嘘ばかりの――」
本物ですよ、と慧音が呟く。
「書いてある事は全て真実です」
惣七は愕然とした表情のまま、暫し固まった。
「――本物?あんな滑稽な内容が――真実だと?」
「惚けるのは止しなさい、惣七さん。貴方にも分かっていたのでしょう?あの本に書かれている事は全て真実なのだと」
「真逆ッ!あんなものは分別のある人間が真に受けるような内容では――」
「そうでしょうか。むしろ、あの密室の仕組みと、あの夜に鈴が蘇った事を知った今の貴方なら理解できる筈です」
慧音が一歩詰める。
惣七は後ずさる。
「ば、莫迦しい――あの本に書かれていた事が――『死者を蘇らす術』なんて――そんなものが――ッ」
「だったら何故、貴方は由子さんの墓を掘り返したのですかッ!?」
慧音が睨む。その視線は、初めて、掘り返された墓へと向けられていた。
釣られる様に、惣七も自分の足元に見える棺を見詰める。
――何故?――それは――。
惣七は激しい羞恥心を覚える。自分のとてつもなく脆い部分を覗き見られた様な気分。
由子の――由子の墓を掘り返し、暴き出して――。
――でも、死人が蘇る訳が――。
僕は本当に正気なのか――。
――しかし、鈴は蘇って――。
だから――。
「た、慥かめる為に――」
惣七は喘ぐ様に答える。
「慥かめる――?何をですか」
慧音は逃さない。
「術が――本当に効くかどうか」
「成程。貴方は一応、術は有効だと信じている訳ですね」
慧音が笑う。
惣七も釣られて笑いそうになる。
惣七は、術はやはり偽物だと慧音に云って欲しいと思った。貴方は嘘を掴まされてとんでもない事をした愚か者だと謗って欲しかった。
しかし、慧音の眼は笑っていなかった。術は本物で、由子を蘇らせる事は可能だと肯定していた。
惣七は愕然とした。自分の狂気が、現実だと肯定された様で。
「私がいるからと云って、遠慮する事はありませんよ、惣七さん。術を試してみては如何ですか」
追い打ちを掛ける様に、慧音が囁いた。
「そうするつもりだったのでしょう?」
惣七は――勿論、そうするつもりだった。
取り落とした鍬を拾うと、喚きながら、棺の蓋へと今度こそ捩じ込んだ。
慧音がじっと手元を見ているのを感じる。その視線を振り払うか様に、力を込め、一気に抉じ開けた。
静かな森の中に、木の割れる音と土が棺の中に零れる音がした。
惣七は息も荒く、地面に片膝を付くと、壊れた隙間から中を覗き込んだ。
白い陽光に照らされて、経帷子が――僅かに見える。
腐臭がする予感があったが、予想に反し、棺の中からは土の籠った臭いしかしてこない。
――どうにも綺麗すぎる。
惣七は棺に空いた穴から手を突っ込み、経帷子の裾を掴んだ。
暫しの沈黙。
「――うわぁぁあああッ!!」
惣七は反射的に手を引っ込めた。尻餅を付き、そのまま後ろに下がる。
顔は青白くなり、汗を掻いている。口で荒く、息をし、首を何回か横に振った。
「こ、こんな事が――」
掴んだ経帷子は余りに軽過ぎた。
――由子の遺体が無い――これは。
――既に掘り返されて――。
「眼は覚めましたか、惣七さん」
「――な、何ですって?」
惣七は尚も青白い顔で慧音を見遣った。
慧音は――意外にも優しい顔をしていた。
「眼は覚めたか、と聞いているのです。貴方はどうやら悪いモノに憑かれていた様だ。貴方は盗み見していたのでしょう?通夜の夜、この森で蘇った鈴を。だから自分にも出来る、と思った。違いますか?」
慧音には――全部見透かされている。
「しかし、惣七さん。棺の中身を――御覧の有様ですよ。どうやら一歩遅かったようだ。でもそれは恐らく、僥倖だったのですよ。貴方は危うく一線を越えてしまう処だった」
惣七は自分の手を見詰め、ついで、自分の持ってきた鍬を眺め、掘り返した土を慥かめ、顔を顰めた。
「――違う、僕がしたかったのはこんな事じゃあなかったんです。今日は由子の命日だというのに――ぼ、僕はなんて事を――由子にしようと」
慧音はそっと惣七の肩に手を置いて云った。
「死の幻想はいつだって人を誘います。死を知らない人間は、死を生の延長に過ぎないと考えるかもしれませんが――それは違うのです。生と死の間には、絶対に越えられない境界線がある。そしてその境界線がある限り、生きたまま人は死を知る事は絶対に出来ないのです。そして、それを知らないからこそ、時に誑かされ、誘われる」
「死人は――蘇りませんか」
「残念ながら――。死人を蘇らせる術は慥かに存在します――。しかし、死人は何処まで行っても死人で、死体は死体に過ぎない。だが、無理にその理を曲げようとするとどうなるか――それが今度の事件の本質です」
慧音は惣七から離れると、由子の棺を見詰めながら云った。
「真実は貴方を傷つけるかもしれない。だけど、それでも全てを知りたいと思うのなら――良寛和尚と佐馬介さんを連れて来て下さい。今夜、あの桜の樹の下に」
「――桜の下に」
「全てを終わりにします。そこで――」
そこで本物の由子さんに会わせてあげます――、と慧音は云った。
10.白澤の慧音
蒼白く輝く月輪に照らされた森の中を、五人の男女が静々と歩いて行く。
先頭を行くのは妹紅である。弓矢を紐で肩から下げ、手には稗田家の紋を染め抜いた提灯を手にしている。物憂げな視線ながら、その口元はきっと一文字に結ばれている。
妹紅のすぐ後ろに阿求が続く。無表情を装っているが、時折、何かを考えている様な難しい表情が覗く。
少し遅れて、既に覚悟を決めた様にさっぱりとした表情の惣七と、対照的に、思い詰めた表情の佐馬介と続いている。
殿を務めるのは良寛である。妹紅と同じ提灯を手に、こちらは完全に無表情で、その所作から何を考えているかは全く読み取れない。
月が昇った頃、五人は申し合わしたかのように寺の境内で落ち合い、今は慧音に指定された場所へと移動している最中だった。
道中、会話は一切無く、それぞれが辿り着いた真相の一部と、それに対する感慨だけを胸に、慧音による審判が下されるのを只管待ち侘びていた。
やがて――。
目印となる立ち枯れした大きな桜が視界に入った。満月を背景に立ち尽くすその威容は無言の圧力を放っている。
先頭を行く妹紅が歩みを止める。
桜の樹がある広場は、何時もと様子が違っていた。
件の桜を中心に、四方に置かれた四つの蜀台。蜀台同士は、紙垂を垂らした注連縄で結ばれている。
「――結界だ」
妹紅はそう呟くと、縄を切らぬように注意しながら、下から潜って結界の中へと足を踏み入れた。
残りの四人もそれに続く。
妹紅は樹の傍に寄る。
樹の根元には小さな香炉が置かれており、そこから在るか無いかくらいのか細い香りが立ち上っていた。
妹紅が眉を顰める。
「何ですか、その香炉は」
阿求が隣へと並んで聞いた。
さぁ、と妹紅は首を振る。
「ただ、この香りは――あの夜、嗅いだのと同じ奴だと思う」
妹紅が一人で、この森を訪れた時の事だ。奇妙な幻を見る直前に、慥かにこの香りを聞いた記憶がある。
「――気を付けた方がいい。コイツには幻覚を見せる作用がある」
「心配ありませんよ。それは唯の香です」
妹紅の呟きに闇が答えた。
「ただ、少し珍しい一品でしてね。場所は西海聚窟州で作られる香木――漢の武帝も亡き妻逢いたさに使ったと云われるものです。ある意味、今夜此の場所で聞くには最も相応しい代物でしょう」
「漢の武帝が――?それは反魂香ではないのですか!?」
すぐ様、阿求が闇へと問い返す。
如何にも、と暗闇から再び声がした。
「武帝が亡き妻を想いながら、香を焚いた処、煙の中に夫人の姿を見た――という訳です。然しながら、香は所詮、香。死人の姿を見せたり、死人を蘇らせる力があるかと云えば――そうではありません。あくまでも武帝が亡き妻を強く想うあまり、煙の中にその幻を見たに過ぎないのではないでしょうか」
所詮、人は己の見たい物しか見ず、聞きたい事しか聞きませんから――、とその声が云った。
――何処だ。
妹紅は月灯りの下、声の主を探し、問い掛ける。
「この結界は?これは一体どういう趣向なの!?」
「――それは境界線です。夢と現、彼岸と此岸、過去と未来、生と死――それらを区切る為の。その内側にあり、全てが曖昧となった此の場所は――故に異界」
声の輪郭が明瞭になる。
五人は一斉に声のした方向へと視線を遣った。
太い桜の幹――その傍にわだかまる影がある。
その影がゆっくりと動き、月光の下へと姿を現し――上白沢慧音の姿を取った。
その姿に、おおッ、と良寛が驚きの声を発する。惣七は眼を見開き、佐馬介は息を止めた。
何度かその姿を見た事のある妹紅でさえ、一瞬、慧音のその姿に眼を奪われた。
慧音の長い銀色の髪の毛は、月光を浴び、人では在り得ぬ緑青色の輝きを放っている。
見開かれた両の眼が赤い。
結ばれた唇も朱い。
そして――頭からは白く輝く二本の角が生えている。
上白沢慧音は人間では無く、半分妖怪の血が流れている半妖である――。
故に、妖怪の力が最高潮となる満月の夜、慧音は最も妖怪に近い状態になり、その姿を変える。
それは慧音を知る者にとっては周知であっても、実際にその本当の姿を見た者となると殆どいない。
阿求もまた例外では無く、初めて間近で見る慧音の異形の姿に戦慄を覚えた。
――これが慧音さんの本当の姿――。
神の獣と称えられ、遍く知識を持って人を守護する存在。
人知を越えた美しさがあり、妖怪と呼ぶには余りに神々しく――ひたすらに貴い。
「今宵は旧暦で云う如月の望月」
慧音の静かな声が滔々と響いた。
「彼の歌聖が遺した有名な歌の中では、既に春満開となっている筈ですが――今年はどうやら開花が遅い様子」
慧音は能のシテを思わせる足取りで、ゆっくりと歩きながら喋る。
「そしてまた――奇しくもこの度の事件に関わり合いの深いある女性の命日に当たります」
ある女性――。
場にいる人間達に緊張が走る。
その一同を見廻し、慧音は厳かな声で告げた。
「――しかし、私が今日という日を選んだのは他でもありません――今宵は望月。妖の力が満つる時。私は、私の力と意志を以って、今宵、あってはならない歴史を消し去り、新たに歴史を創造しなおそうと思います」
――そうか、だからか。
阿求は空を仰ぎ見、漸く、慧音が事件の解決を引き延ばし続けていた理由を悟った。
恐らく慧音は、この日を待ち続けていたのだろう。満月の夜を。歴史食いの半獣が真の力を発揮できる時を――。
「そんな莫迦なッ」
静寂を破り、吼えたのは佐馬介だった。
「事件は解決したのでしょう!?鈴の御骨は見つかったという話じゃないですかッ!」
「さて――それは何を以ってして事件の解決と看做すかによるでしょうね」
慧音は流し目で佐馬介を見た。
「成程。慥かに、遺骨は帰って来ました。既に葬儀も終わり、鈴子を巡る物語は既に幕は引いていると考える事も出来るかもしれません」
「だったら今更、終わった事をを掘り返す様な真似をしなくても宜しいのではありませんか!?これ以上、死人を冒涜するような事は――」
「――下手な芝居は止して下さい、佐馬介さん」
慧音の声色に冷たい物が混じった。
「今度の茶番にもう一幕ある事は、貴方が一番よく分かっていらっしゃる筈です――。事件の本当の元凶も、その発端となった人物も――貴方ならよく知っているでしょう」
佐馬介はたじろき、怯えを顔に浮かべた。
「な――何故、それを」
「云った筈です。此処は私の用意した境界の中――過去が物語られる事により、歴史となる時間の止まった世界です。そして、此の場所を統べるのは語りべたる私――私の語る事こそが真実であり、今の私に分からない事など何も無い――そういう事です、佐馬介さんッ」
有無を云わせぬ声色に、佐馬介は虚脱した表情を浮かべるとそのまま押し黙り、場の空気は、慧音を中心に一段と張り詰めた。
蜘蛛が糸で蝶を雁字搦めにする様に、慧音は言の葉で皆を縛り付けたのだ。
――これが慧音さんの流儀か。
阿求は朧げながら、これから慧音が行おうとする『歴史を創る』という事の片鱗を理解した気がした。
慧音は分からない事は何も無いと云ったが、幾ら歴史の半獣とはいえ、パズルのピースの様に分断され、搔き雑ぜられた事件に関わる諸所全ての事象を把握しているとは思えない。虫食いの歴史年表の様に、漏れや抜けもあるだろう。しかし、慧音はそれらを掻き集め、一つの絵にしてしまう事で、事件をある方向へと収束させようとしているのだ。それは歴史の編集作業に似ている。一つの時代、一人の為政者によって、『正史』という名の歴史が後世に遺される様に――慧音もまた事件を『語る』――或いは『騙る』事により、別の形として提示しようとしているのだろう。
阿求が一挙手一投足見逃すまいと慧音を注視する中、沈黙した佐馬介に代わり、今度は良寛が動揺を押し隠せない様子で聞いた。
「も、もう一幕あるとはどういう意味なのですか」
慧音はつぅっと眼を細めて巨僧を見た。
「さて――今度の事件は複雑な構造をしています。順を追って説明しなければならないでしょう。先ずは――この事件の発端となった茶屋での出来事について御話しましょうか」
大きな樹の下、枝に遮られた月光が、周囲の景色に斑を作る。
黒と白。光と陰。そして、その中間の淡い境界。朧ろな世界。
眼が闇に慣れれば慣れるほど、体もまた闇に馴染み、溶けていく様な不思議な感覚を皆は味わっていた。
その中、慧音の低い声だけが聞こえる。
「この度の事件が奇妙な様相を呈して来たのは、密室であった母屋より鈴の遺体が消え失せていたという事でしょう。『密室』は慥かに存在しました。母屋は一箇所の窓を除いて、全て閉め切られていました。開いていた窓も、普通の人間が通れる大きさでは無いし、高い位置にあるから、ここから出入りするのはまず不可能です。さらにこの夜は雪が降り、母屋に近寄れば、雪の上に跡が残る筈が、それも無かった――。そんな風に、外から人が入れず、内からも出られない様な状況で、中のモノを外に持ち出す等――不可能です。それ故に、里ではこれは妖怪の仕業だという話が流布しました。この土地の歴史を考えると、そう突拍子も無い仮定ではありません。しかし、あえて妖怪による怪異という可能性は排除してみれば、事件の別の側面が見えてきます」
「つまりは――妖怪の仕業では無いとッ!?」
良寛が吠える。慧音は鋭い眼つきで良寛を睨む。
「人間の――徳次郎さんの仕業ですよ。遺体は外に運び出されたのではなく、ずっと母屋の中にあったのです。良寛和尚達が仏間に踏み込んだ時も、ただ遺体の安置してあった仏間から消えていたというだけの事です。遺体は移動させられ、隠されていた。押し入れの奥、天井裏、畳の下――何処でもいいのです。奥さんと良寛和尚達の眼から、少しの間だけ隠す事が出来れば良かったのですから。そして実際、誰にも見つける事はできなかった――ただ、それだけの事です」
「な、なにを仰る。そんな莫迦な事が――ッ」
と、良寛は左程驚かない皆の表情を見て、顔を強張らせる。
「皆、そう思っていたのか――?徳次郎さんがやったのだと」
妹紅も阿求も、佐馬介も惣七も無言のまま。しかしそれが返って、肯定の意思を示していた。
フッと慧音が息を漏らす。
「――何時かは分かってしまう事です。此処にいる皆は、事件に深く関わっているから少し早く分かったと云うだけです。若しかすると里の人間の中にも、既に気付いている者もいるかもしれません」
「せ、拙僧には信じられませぬ。慥かに徳次郎さんは娘を亡くして、人事不詳に陥っていたかもしれません――だけども、だからと云って、娘を――」
「通夜の夜の徳次郎さんが云った言葉――貴方は憶えていませんか?」
「通夜の――」
良寛の脳裏に、徳次郎の暗い眼の色が思い出される。
――慥か、あの時、あの人は。
死人を生き返らせる事などは――出来ますでしょうか――。
和尚さんの寺には死人を蘇らせる――そういう術が伝わっていると、そういう話を聞いた事があります――。
真剣な眼で、そう問い掛けて来たのだ。
「真逆、真逆――ッ、あれは――本気だったのか」
「本気だったのでしょうね。いいですか。最も、重要なのは信じていたという事です。死んだ人間は蘇らない、というは一般的な常識ですが、徳次郎さんはそれを覆せる方法や手段が『存在する』という事を信じていた。そんな彼にとって、死体は埋葬するものだという世間の常識はおかしいという理屈になります。何故なら、娘は、慥かに今は死体だけども、遠くない未来に生きて蘇るのだから――」
「だから娘の遺体を隠したとッ!?な、何故――」
「理由は単純です。必要だったからです。死体が故人を蘇らせる為の材料、又は依り代になる事は容易に想像できるでしょう」
「し、しかしですぞ!余りに杜撰な遣り方ではないですかッ!私達が、母屋に踏み込んだ時に、見つける可能性だって十分にあった!」
「そうですね。実際、徳次郎さんの遣り方はあまり賢くありませんでした。恐らくは、衝動的な思い付きからの行動だったのでしょうね。何分、時間も無かったし、杜撰な計画にならざるを得なかった。徳次郎さんにとっては賭けだった筈です。何かの拍子に、隠した遺体が見つけられる可能性も十分にありました。奥さんが気付く、又は、良寛和尚達が見つけ出す可能性も十分にありました。しかし、そうはならなかった――。果たしてそれが徳次郎さんにとって幸運だったかは、今になっては分かりませんが」
「いや――それで例え、仏様を手元に残せたとして、それで勝手に蘇る訳では――ッ」
「無論、然るべき処置をしなければ死体は蘇りません」
「しょ、処置とは」
「――反魂の術ですよ」
「はんごん――ですと」
パンッと慧音が掌を叩いた。乾いた音が闇に木霊する。びくり、と皆が体を強張らせた。
「そう、反魂の術ですよ。徳次郎さんは反魂の術を行いたかった――しかし――通夜が終わった直後の時点では、彼は術の具体的な遣り方が分からなかったのです。術の存在を知っていた――にも関わらず、肝心の方法は知らなかった――この捩じれた関係は奇妙に思えますが、その話は後です。今は徳次郎さんの行動についてお話しましょう――。徳次郎さんは一先ず、鈴の亡骸を手元に留めて置く事に成功しましたが、一方でその遺体を何とかする必要がありました」
と、慧音が再びゆっくりと歩きながら、皆の顔を観察する様に交互に見詰める。
「いつまでも家の中に置いておいたのでは、誰かに見つかるかもしれません。また腐敗が進めば、その臭いによって見つかる可能性が俄然高くなる。そこで、彼は娘の遺体を人里から離れた場所に移動させました。人や妖怪に見つからず、儀式が邪魔されない場所です」
妹紅が驚きの声を上げた。
「そうか――だから、この山ッ!墓場ばかりで、奥へ行けば人は殆ど近付かない。寺の聖域だから妖怪も好んでやって来ない!じゃ、じゃあ、私が一人でこの山に来た夜――誰かいたのは――やっぱり徳次郎さんだったんだ!徳次郎さんが鈴の遺体に術を――儀式を――だから、あの夜も、これと同じ匂いがしたんだ」
隣で阿求が小さく頷く。
「幽霊の噂――里の中を徘徊し、山にある寺に消えて行く光の話――あれは、やはり徳次郎さんが自宅から毎晩の様にここへと通っていた為に生まれたのですね」
「そうです。徳次郎さんは毎晩、この山の中に隠した娘の死体の元へと通っていた筈です。正式な反魂の術の手順を行おうとすれば、そうなる筈ですから」
妹紅が顔を顰める。
「でも、慧音はさっき、徳次郎さんは術の遣り方を知らなかったって――」
「鈴が亡くなる以前に、徳次郎さんに術の存在を教えた者がいます。しかし、その人物は、具体的な方法までは教えなかった。鈴を失った時、徳次郎さんの念頭にあったのはそれでしょう。だから良寛和尚に聞いた。寺にそう云う術が伝わっている筈だと。だが、良寛和尚は知らなかった。そこで、徳次郎さんは自分で探すしかなかった――」
「探すって――何処にそんなものが――」
「『本』に書いてあった事は知っていた筈です。ならば、その書かれた本を見つけ出しさえすればいい」
慧音が懐から、一目にも古いと分かる、黄ばんで皺が沢山入った小さな平綴じの和書を取り出す。
それを見た佐馬介と惣七が大きく眼を開く。そして妹紅も
――この本は、慧音の書斎の机に乗っていた奴じゃ――。
慧音がひらひらと本を振って指し示した。
「御二方には見覚えのある品でしょう。子供の頃、忍び込んだ寺の中で見つけた物だ。そして良寛和尚――この書こそ、あの夜、私が書庫で探していたものでもあります」
「その本が――。慧音先生、それは徳次郎さんが寺の書庫から盗んで行ったのですか。だからあの夜、探しても見つからなかったと――」
「いいえ。それ以前に、里の誰かがこの寺から持ち出していたと思われます。幾らなんでも、鈴が亡くなった後に、この寺へと忍んできて、書庫の膨大な蔵書の中からこれだけを探し出すのは難しいでしょうから」
「その反魂法っていうのは慥か――死体を繋ぎ合わせて、そこに魂を吹き込むとか――そういう術なんじゃ」
妹紅はぐしゃぐしゃと長い髪を掻きながら聞いた。
「その通りです」
「いや、その通り――って慧音、何でそんなモノがここにある訳!?ここお寺なんでしょ!」
「なら貴方は――ここが一体どういう寺なのか御存知なのですか?」
むっ、と小さな声を出して妹紅は黙り、良寛を横目で見た。
良寛は――力無く首を振る。
そして、幻想郷の歴史に詳しい筈の阿求――。
しかし阿求もまた無言で、何も云えなかった。
誰も知らないのだ――。
慧音がちらりと皆を一瞥する。
「さて――話は横道に逸れますが、この寺についても説明をしておきましょう。この事件を理解する為の手助けとなるでしょうから――。寺が幻想郷に姿を現したのは――そうですね――ざっと五百年程前です。歴史を伝え遺すという事にさして熱心でも無い幻想郷の人々が、この寺の由来を忘れ去るには十分過ぎる時間です。それにこの寺は人里より遠く離れた場所にあり、里との交流も少ない。おまけに妖怪達も何の興味も無いと来ています。ある意味、時の流れに押し流され、埋もれてしまうのは必定なのかもしれません」
この寺の開祖はね――役小角なのですよ、と慧音が云った。
「開祖が役小角ですとォ!!し、しかし役小角は山伏の様なものでしょう!?どうしてそんな人が寺なんぞ――」
良寛が驚愕の表情で叫んだ。阿求も信じられないという風に頭を激しく振る。
「役小角?修験道の祖が?でも、役小角は千年以上前の人物ですよ。なんでそんな人物が建てた寺が幻想郷に――」
「この寺は最初から幻想郷にあった訳では無いのですよ。元々、この寺は外の世界――金剛葛城山系にあった古刹の一つでした。書庫に残された記録によると、天武天皇、嵯峨天皇、後鳥羽天皇と三人の天皇に縁があり、行基もここで連業し、後には空海により中興されたと伝わっています」
「大師様までッ!!」
はぁッと良寛が大きな気を吐いた。
慧音は淡々として続ける。
「そんな風に、この寺の前身は、極めて由緒正しいものだったのですよ。しかし、その一方で、この寺に伝わる教義というのも、純粋な密教では無く、修験道の影響を受けた独自のものとなっています。その証左に、ここの本尊は密教では最もオーソドックスな大日如来では無く、山岳系の影響が濃い薬師如来となっている」
「――反魂法というのも――その修験道の影響の所為なのでしょうか」
惣七が聞いた。
いいえ、と慧音は即答する。
「違います。反魂法と修験道は何の関係もありません。ところで――『撰集抄』という書物を聞いた事はありますか」
阿求が息を深く吸った。
「――『高野山参詣事付骨にて人を造る事』ですか」
慧音は嬉しそうに口を吊り上げる。
「正解です。流石は御阿礼の子――よく御存知です」
「本当に?そんな――真逆」
阿求は体を震わせる。妹紅は阿求を心配そうに見詰めながら聞いた。
「――阿求。その本は一体」
「『撰集抄』というのは、鎌倉時代に書かれた説話集で、『高野山参詣事付骨にて人を造る事』はその中の話の一つです――。その話の中で、西行法師は高野山で躯を拾い集め、反魂法を執り行っています。妹紅さんが聞いた話もきっとこれの事でしょう。砒霜を骨に塗り、いちごとはこべの葉を揉み合いた後、藤の若葉の糸で骨をからげ、水にて度々洗い、髪の生えるべき場所には西梅枝とむくげの葉の灰を塗り付け、土の上にこの骨を伏せて置き、枕と香を焚きしめして、反魂の術を行うべし――。そうか、徳次郎さんが砒霜を買ったのは、自殺の為ではなく儀式の材料だったから――」
答える阿求の声は震えている。
「拙僧が、徳次郎さんを見つけた時に拾った茣蓙――あれも儀式の道具だったと?」
良寛が気の抜けた声を発した。妹紅は混乱で爆発寸前だった。
「だから慧音ッ!どうして西行がこの寺と関係して――」
それを宥める様に、慧音がぴしゃりと云った。
「それは――この寺が『西行寺』だからですよ」
「さ、西行寺ぃ!?」
妹紅は素っ頓狂な声を上げた。
良寛は片眉を吊り上げ、むぅと唸る。
一方の慧音は不敵な顔をした。
「正確に云うならば『西行寺』という寺は歴史上存在しません。西行法師が終焉を迎えた『ある寺』が、後年そう呼ばれる事もあったというだけです。そして、その寺は寛正四年に戦禍によって、本堂共々、焼失しました――」
「焼け落ちた?そうか、それで――此処に――幻想入りを――」
「恐らくは――。そうやって、この山に寺が出来てしまったのです。高い山、綺麗な清水と、金剛山に似た環境であり、人も殆どいない。世俗から離れて修行するには最適な土地なんですよ――此処は。寺ともども、幻想郷に取り込まれた修行者達にとってはまさに理想郷だったでしょう。そして五百年の間、この寺に伝わる密教と修験道の入り混じった退魔法を求めて門戸を叩く人間達で細々と成り立ってきた。しかし、ここ数十年の妖怪と人間の共存が進んだ所為で顧みられなくなられ――、この寺は今の様に歴史から忘れ去られた場所になってしまった。だが記憶は消えても、記録は残ります。例えば、この山は昔、竜池山と呼ばれていた頃があった。これは、この寺が幻想郷の外にあった頃の寺の山号なのですよ。他にも、ほら、この寺の歴史を示す遺物は残っています」
慧音が件の書物を片手でひらひらと振る。
「その書物は一体何なのですか。反魂の術が書いてある本だなんて――」
阿求がおぞましい物を見る様な眼つきで問う。その様子に慧音が笑った。
「そんなに怯えなくてもいいですよ。これは禁断の魔導書なんて大層なものじゃありません。この書物は――端的に云えば日記ですよ。西行の手ずからによる個人的な手記です」
「西行の――?それが本当だとすれば一級の歴史資料だと思いますが――本物だと云えるんですか?」
「間違いなく本物です」
慧音は手記を開くと眼を細めて、頁を幾つか捲った。
「作り掛けの詩歌の覚書や、旅先の出来事を簡潔に書いてあるのが殆どですが、中には『娘』の話も出てくる」
「娘の――」
「西行の娘は、歴史上、その名を残していません。我々にとっては周知の事でもね。この手記には、その娘の名がちゃんと出てくる」
「だから本物だと」
「無論、反魂の術にも触れていますよ。大凡は『撰集抄』で書かれている通りです。しかし、これではいけない――」
慧音は顔を顰めた。
「術のやり方自体は書いてあるが、肝心の――その結果が書かれていない。これでは――術が失敗しても当然だ」
「――失敗ですと」
良寛が尋ねた。
「ふむ、そうでしたね、良寛和尚。貴方だけは、通夜の夜、この森で起こった事を知らない」
慧音は本を閉じると、懐に仕舞いながら云った。
「鈴の『あの姿』を見れば一目瞭然だった筈です。徳次郎さんは術に失敗した」
「あ、あの姿とは?」
妹紅が顔を顰めて答えた。
「徳次郎さんの通夜の夜。この森の中で、鈴としか思えない女の子に会った――。いや、女の子って云うと語弊があるね。あれは――まるでお化けだった」
「鈴に会ったですとォ!?しかし、鈴は――」
「だから、蘇らせたんだって――徳次郎さんがッ」
「しかし妹紅様ッ、遺骨は戻って来たと――と、いう事は――」
「『退治』したんだ――私がッ」
「なんと――惨い」
と、良寛が空を仰ぎ見る。
「妹紅にそうしろと云ったのは私です」
慧音が感情を抑えた声で云った。
「いつまでもあんな状態で置いておく訳にはいきません。何時、里の方に降りて来るとも限らない――必要な事でした」
沈黙が降りる。温い風が吹き、蜀台に灯された火が揺れる。
刹那の沈黙の後、慧音の声がいんいんとした闇に響いた。
「――徳次郎さんが術に失敗したのには二つ理由があります。一つは、西行の手記に書かれた方法は間違っていた事――」
阿求が同意する。
「そう――。『撰集抄』でも西行は失敗していますね。『人の姿には似侍りしかども、全て心もなく無く侍りき。声はあれど絃管声の如し』と」
「はい。後日、伏見前中納言師仲卿に話した処、『香をば焚かぬなり。枕と乳とを焚くべきにや侍らん』と云われています。つまり、西行は手順を間違えてしまったのですよ。しかしこの事は、この手記には書かれていない。知らない徳次郎さんは書かれた通りに術を行うから、失敗するのは当然でした。その結果があの有様です――」
阿求はまた、変わり果てた鈴の姿を思い出したのだろう。きゅっと自分の体を強く抱きしめた。
慧音の言葉は続く。
「そして、もう一つ理由があります。西行の行った反魂法というのは、そもそも鬼の使う術なのですよ。高野山で鬼が死体を集めて、魂を吹き込んでいるのを目撃した西行が見よう見真似で行った術なのですから。だから正確に云うのならば、西行が執り行ったのは『死者の蘇生』では無い。生ける屍を作り出す、そういう儀式なのです。だから例え、徳次郎さんが香ではなく、乳を焚いていて、無事、綺麗な姿で鈴を蘇らせる事が出来ていたとしても――それは単に鈴の格好をしただけの人形です。これではやはり失敗だ」
「だから――なのですか?徳次郎さんが首を括ったのは――。娘をとんでもない姿で蘇らせてしまって――絶望を――だから自殺を――」
良寛が尋ねる。慧音は――しかし、意外にも首を横に振った。
「いいえ、違うと思います。単に絶望したのであれば、鈴が死んだ直後でも良かった筈です。無論、蘇らせる事が出来なかったのが、却って徳次郎さんを落胆させたと考える事も出来ます。しかし、そんなのは只の解釈に過ぎません。徳次郎さん自身の価値観の問題ですから、外野の我々があれこれと想像を巡らせた処で無意味です。真実を知りたければ、本人に聞くしかないでしょう。だが、それでも一つの有望な仮説は立てられます」
と、慧音は顔を伏せ、俯き加減に喋った。
「恐らく、徳次郎さんは『あっち側』に引っ張られたのですよ」
皆が顔を見合わせる。
「――引っ張られた?」
妹紅の言葉に、慧音は首を傾げる。
「ええ、死の幻想とでも云うべきものに。宜しいですか、良寛和尚――鈴の通夜の晩に、徳次郎さんは云っていた筈だ。鈴が死んだのは自分の所為だ――だから自分であの子に謝りたいと」
――私の所為なんです!鈴が死んでしまったのは、私が一寸眼を離してしまったから何ですッ!
――だから俺はこの子に謝りたい。莫迦な親で悪かったと一目見て謝りたいんです。
――ねぇ和尚さん無理でしょうか――何なら――私の命と引き換えでも良いんですよ
「一目見て謝りたいと――慥かにそう云ってました」
良寛の顔を蒼白になっていく。
「ああッ、何て事だ!あれも言葉通りの意味だったのですか――ッ。一目見て、謝りたくて――ただそれだけの為に、死者を黄泉から呼び戻そうと!?」
慧音は眼を閉じ、軽く首を振る。
「或いは、そうかもしれません」
「自分の命と引き換えでも良いとあの人は云った!しかし、術が失敗して――出来たのは鈴の魂の入っていない、伽藍堂の人形だった!これでは鈴に謝れないと思った徳次郎さんは――な、なんて事だッ」
「現世に鈴を呼び戻せないのならば、いっそ自分から冥界へと赴けばいい――そう思った可能性はあります。輪廻転生の仕組みが知られた通りならば、死んだ鈴の魂と何処かで会うという可能性は無い訳ではないのですから」
「そんなのおかしいッ!狂ってるよ!自殺して、死んだ娘に会いに行くなんてッ」
妹紅が両の手で自分の髪を掻いた。良寛は早口に捲し立てる。
「し、しかし妹紅様、徳次郎さんの死に顔は笑っていた!安らかで、幸せそうで――私はあんなに綺麗な顔をして死んでいる仏様を見た事は無かったのですッ。なんて事だ――あの人の心はとっくに彼岸を渡っていたんだ!そうでしょう、慧音先生!?」
「此岸の住人である私達が理解する必要はありませんよ、良寛和尚」
慧音は冷たく云い放った。
「世の中、知らない方がいい事もある――。望んで死んでいった者の気持ちも、きっとそういう類のものです」
さぁ、と慧音が両腕を広げる。
「――以上、茶屋で起きた事件について、私から説明する事はもう殆どありません。これで漸く、もう一つの事件、もう一人の配役について物語れます」
最早、打ちのめされた様に頭を垂れるばかりで、誰も返答はしない。慧音の暗い声色だけが夜の森に響いた。
「良寛和尚、他でも無い貴方の娘さんについてですよ」
びくりと、巨僧が一目見て分かるほど体を震わせた。
はぁ、と佐馬介が当惑した声を上げる。
「娘?でも良寛和尚は独身で――」
慧音が笑う。
「何を仰るのです、佐馬介さん。貴方もよく御存知の女性だ。貴方の血の繋がっていない妹――由子さんですよ」
刹那の沈黙。
佐馬介が引き攣った笑いを浮かべた。
「そんな――嘘だ。聞いた事ありません。由子が良寛和尚の娘だって?子供の頃から親しくして貰っているから、本当の親子の様に仲は良かったかもしれないが――でも、実の娘というのは」
「ほぼ間違いなく事実だと思います」
阿求が口を挟む。
「稗田家の古い使用人の方が話してくれました。由子さんのお母さんは、元々稗田の家に仕えていた使用人で、そこにいる良寛和尚と恋仲だったのです」
良寛に視線が集まる――。
坊主は平生と同じ落ち着いた表情をしていたが、開いた口から出た言葉には流石に震えが混じっていた。
「由子が――私の娘だと――?実の――」
「心当たりがありませんか?」
慧音にジッと見詰められ、いえ、と良寛は言葉を濁す。
「――心当たりが無い訳じゃ御座いません」
やがて良寛は皆を――特に佐馬介と惣七を暫く見つめた後、ぽつぽつと語り出した。
「私には好きな女性がおりました。由子が私の娘だと云うのならば――その人との子なのでしょう。もうかれこれ二十年も前の話です。拙僧はまだ半人前の見習いで、時折、里へと買い出しに行かされました。その女性とはその時、知り合ったのです。阿求様の云う様に、稗田の家に仕える人でした。私はその人が好きになった。向こうも――そう、たぶん好いてくれていたのでしょう。誰にでもある、若かりし頃の幸せで、楽しい思い出ですよ。しかし――」
良寛の声に苦いものが混じる。
「私は振られてしまったのですよ。二人で逢うようになってから一年程が経ったある日、突然、もう会えないと云われました。他に好きな男が出来たのだと――。毎日、顔を見たいと思っていても私にはそれが出来ない身分で、その事で負い目を感じていましたから、仕方がないと引き下がりました」
「子供が出来たんだ」
妹紅が呟いた。良寛は力無く、首を振る。
「噂として小耳に挟んだ事はありました。あの人に子供が出来たと――。しかしそれがよもや自分の子だとは思えませんでしたな。新しく出来た想い人との間の子なのだろうと――そう思いました。彼女はその男と結ばれ、私の知らぬ場所で家庭を築いて行くのだと、そんな疎外感を覚えたのを憶えています。何にせよ、当時の私には聞くに堪えない話でした。だから自分とは無関係な事。彼女と私は最初から何の縁も無かったのだと必死に思いこもうとし、現実から逃げる様に、寺での修行に励みました――。彼女が子供を産んだ時に亡くなったのだと噂に聞いたのは随分と後になってからです」
「御自分の子供だとは思わなかったのですか?」
阿求は棘を含んだ口調で云った。良寛は力無く答える。
「いえ――、最初はとてもそこまで考えが至りませんでした。暫くし、父親が名乗り出ないのを不審に思い、もしやと疑った事も御座いました――。しかし、私は修行中の身。寺山を出るのも遣いに行く時だけで、里の出来事は余りに遠過ぎました。そして、他に好きな男が出来たとあの人が云った手前、私も名乗り出る事は出来ませんでした。きっと――私にもプライドがあったのでしょう。浅はかな、臆病者のプライドです。そうして、私が何も出来ない内に、残された子供はある富農の家に引き取られる事になったと聞きました」
「佐馬介の家ですか」
惣七が呟いた。良寛が静かに首肯する。
「そう。忘れもしません。数年経ったある日、この寺に程近い場所に住んでいる悪餓鬼どもがこの寺に遊びにやって来た。桜の舞い散る小春日和――。男の子が二人に女の子が一人。女の子には私が好きだったあの女性の面影がありました。その時、奇縁というものを感じたのをよく覚えています――。例え、由子が自分の娘であろうとなかろうと、あの人の娘であるならば――私にとって大切な存在には違いない。だから私は――由子を自分の娘の様に常に思っていましたよ」
坊主は顔をゆっくりと、大きな手で撫でた。深い感慨を思わせる、弛緩した溜め息が漏れる。
「でも――そうか、本当に、私の子だったのか――あの子は」
「――何故、その人が良寛和尚と別れて、一人で由子さんを産もうと思ったのか分かりますか?」
阿求が尋ねた。怒った様な、泣き出しそうな、そんな感情を押し殺そうとしている顔だ。
良寛は困惑顔で首を振る。阿求は云った。
「それは良寛和尚が、まだ修行中だったからですよッ!自分や生まれた娘がその妨げになってはいけないと、そう思ったから自分から身を引いたのです」
「――そんな」
阿求が珍しくも激高した。
「当時の稗田家の人間に口止めをしてたんですよッ!父親の事は絶対に話すなと。きっと、貴方の事が好きだったから、本当に愛していたから――、邪魔になってはいけないと――。その気持ち、分かりますか!?」
「云ってくれれば」
良寛は自分の顔を覆った。
「云ってくれれば良かったのだ――。坊主など何時やめても良かった。一緒になって、里で暮らせば良かった」
「本気で想っていたのなら、そうするべきだったんですよ。他に好いた男がいようと奪うくらいの気持ちでいれば――」
「もう――それくらいでいいだろう、阿求」
尚も食い下がろうとする阿求に、慧音がぴしゃりと釘を刺した。
「阿求の気持ちも分かるが、男女の心の機敏とは理屈通りにはならないもの――。しかも良寛和尚は男性です。自分の腹を痛めて子を産む女性とは違い、男性には生まれた子が、本当の自分の子かなんて慥かめる方法はありません。疑い出せば切りがないのです。自分の娘かもしれない――しかし、そうだとは絶対には云い切れない。唯一分かるのは亡くなった母親だけです。だから由子さんに云い出す事も出来ないまま、ずっと傍にいるしか無かった。そういう関係は、良寛和尚にとってもさぞ歯痒いものだったでしょう。散々その事で悩んだ筈です。今更、第三者の我々が口を出すべき事では無いでしょう」
阿求は押し黙り、自分の幼さを恥じる様に顔を赤らめた。
事件について話を戻しましょうか、と慧音は腕を組むと、静かに眼を閉じた。
「最初に云った様に、事件にはもう一幕あります。茶屋での出来事が『表』だとすれば、さしずめこちらは『裏』で起こっていた出来事――。二つの事件は、起こった時間と配役を別とすれば、大変よく似た構造をしています。しかし『裏』の事件は、何の痕跡も残してはいませんでしたから、茶屋での事件が起こらなければ発覚する事は無かったか、若しくは、ずっと後になって判明したでしょう。私が気付いたのも、妹紅が以津真天を見たからです」
以津真天――。
漸く、怪鳥の名前が慧音の口から出た。自然、妹紅の意識は肩に掛けた弓へと注がれる。
慧音は眼を瞑ったまま、歌う様に口上を述べる。
「以津真天とは人の気質が変化し、あやかしと成り果てた物の怪――。当然、死体が無ければ湧いて出てきません。単刀直入に云いましょうか。由子さんの御墓の中に、本来在るべき彼女の骸はありませんでした。そこにいる惣七さんが慥かめたのです。間違いありません」
「惣七、お前――ッ」
良寛が驚愕の相で、黒作務衣の青年を見た。
惣七は頬を震わせながら、しかし、確りとした声で坊主を見詰め返した。
「――徳次郎さんと同じですよ。死人を蘇らせる方法があるのなら――とそう思いました。ただ、あの人と違って反魂法については最初から知っていましたよ。子供の頃、寺の書庫で盗み見た先程の手記――あれを眼にしましたからね。でも書いてある事が真実とは思わなかった。あの夜、蘇った鈴を目撃するまでは――ッ」
良寛は何かを口にしようとし、結局、押し黙った。惣七の懺悔にも似た独白が続く。
「可笑しい事に、鈴を見てからはどうにも我慢できなくなったのです。今まであんな術、偽物だと歯牙にも掛けなかったのに、それが本物だと分かった途端、どうしてもそれをやりたくなった。きっと徳次郎さんもそうだったのでしょう。尤も、あの人は鼻から信じていたようですが――兎に角、人間は目的に上手く合致する手段を眼の前にぶら下げられると、それをやらずにはいられないらしい。それで――今日の朝です――僕はいつも使っている手押し車に鋤と鍬と、死体を持って帰る為の桶を乗せて、この山までやって来た」
「それじゃまるで火車です――妖怪の」
阿求の呟きに、惣七がヒステリックな笑いを上げる。
「そうです!まさに妖怪になった気分でしたよ!土を掘っている間、僕はずっと頭がどうにかなりそうだった!僕は僕でなくなって、人間でなくなって、妖怪になってしまう様な、そんな心地でした。本当におぞましい経験です――あのままだと僕はきっと『あっち側』へと完全に渡っていたと思う。徳次郎さんの様に。でもそうはならなかった。何故なら、既に由子の入っていた棺は空になっていたのだから――」
惣七はそこで一旦、大きく呼吸をした。
「僕が『あっち側』へと渡らなかったのは、単にそれが出来なかったからだ。もし由子の遺体が、あの墓の下に埋まっていたら――僕は徳次郎さんと同じ道を辿ったに違いない」
そういう事ですよ、と慧音が云った。
「鈴の遺体が消えた様に、由子さんの遺体もまた消えていた。恐らくは、一年近く前に。それが表沙汰にはならなかった『裏』の――もう一つの事件です」
慧音は閉じていた瞼を開くと、紅く鋭い眼で男を見詰めた。
「由子さんの遺体を掘り返したのは貴方ですね――佐馬介さん」
妹紅が、阿求が、良寛が――、佐馬介を同時に見た。
佐馬介は、いつの間にか顔に汗を滲ませている。
慧音が鋭い口調で云った。
「事件が起こる以前に、反魂法がこの寺に伝わっている事を知っている存在は限られています。すなわち、かつてこの寺の由来を調べた先代の管主と私。そして、この寺で偶然にも手記を発見した惣七さんと佐馬介さん、それに由子さんの三人。それから、実際に術を執り行った徳次郎さん――。しかし、この中で今も生きているのは私と惣七さん、佐馬介さんの三人しかいない。しかも惣七さんが御墓を暴いた時には、既に先を越されていた。やったのは貴方以外にはいないのですよ、佐馬介さん」
「ち、違うよ、慧音ッ!!」
妹紅が強張った顔で云った。
「佐馬介さんがそんな事をする筈が無い――。だって、その人は私に頼んだんだ。消えた鈴の仏様を探してくれって――。自分と大して関わり合いも無いのに、わざわざ竹林の奥まで足を運んで。その人は『いい人』なんだ――。だから――」
「だから、何なのですか?」
慧音は眼を細めて友人を見詰める。
「佐馬介さんが妹紅に頼んだのは『お化け退治』ですよ。彼は、里の中を徘徊するお化けの正体を暴いて欲しかったんだ。しかし、その依頼内容からして、一つの矛盾――嘘を孕んでいた。佐馬介さんは、それ以前に、良寛和尚に云われて、その光の後を尾けているのです。だからこそ光が向かう先がこの寺だと知っていた。だが、妹紅がこの森で実際のその光を見つけた時、それが人の手灯りだとすぐに気付いたじゃありませんか。幽霊の正体は枯れ尾花だと、一目見れば誰にでも分かる、そういう状況だった。しかも、尾けたのが里の中ならば、その灯りの主も大凡想像できたでしょうに。茶屋の事件の犯人は、徳次郎さんだと――。それなのに佐馬介さんは、貴方には一言もその事実を伝えなかった。意図があったからですね。是が非でも森へと云って貰う必要があったのですから」
「わ、私は――」
妹紅は言葉に詰まる。慧音は尚も追及の手を緩めない。
「上手く利用されたのですよ――。佐馬介さんの筋書きだと、妹紅が森で徳次郎さんを発見し、それで事件は明るみに出て、終わりだった。反魂法は未遂に終わり、鈴は蘇る事も無く、徳次郎さんも死なずに済んだでしょう。それが貴方の狙いだった――違いますか、佐馬介さん?」
佐馬介は答えない。何かに耐える様に、地面の一点を凝視したまま動かないでいる。
「――どうして、そんな回りくどい真似を?」
阿求が聞いた。慧音は薄く笑いを浮かべる。
「無論、反魂の術が失敗すると分かっていたからですよ。しかし分かっていたとしても、それをどうやって徳次郎さんに伝え、納得させるか――。前後不覚に陥った人間に、術は失敗するからやっても無駄だと、どうやって諭せるというのですか。それに、それは同時に己の罪を告白する事に他ならない。結果、佐馬介さんは、事件にあまり関係の無い第三者で、しかも夜の森に行って貰える様な、そんな都合の良い相手を探すしか無かった」
「――それで私か」
妹紅は佐馬介の方を見、眼を細めた。
「そうかだから、アンタは鈴の遺体を見つけてやる事は『自分の罪滅ぼし』だって云ったのか。『不純な動機』だって。それは、鈴の遺体が消えた処に立ち会っていた責任感だと思ったんだけど――違うんだ。文字通りの、自分のしたことに対する罪滅ぼしだった――、徳次郎さんを止める事が」
「待って下さい、慧音先生ッ!」
突如として良寛が吠えた。
「佐馬介の云う『罪』とは何なのですか!さ、佐馬介は――」
と、坊主は、俯いたままの青年を凝視した。
「何をしたのですか、由子にッ!!」
慧音は平静な顔で答えた。
「もう全て分かっていらっしゃるでしょうに。聞くまでも無く。貴方のほぼ推察する通り、とでも云っておきましょうか。それとも詳しく説明した方が宜しいですか。私の口から――」
良寛はよろめき、汗で光る顔を撫でた。
「――自分で話します」
それまでずっと黙っていた佐馬介が口を開いた。抑制された小さな声だった。
「――昨年の話です。由子が亡くなり少し経った日――丁度、初夏に差し掛かる頃。自分は此処へとやって来て、由子の墓を暴きました」
「酷い有様だったでしょう」
慧音のぞっとする程に冷たい声が相槌を打つ。
「ええ。生きてた頃はあんなに綺麗だった由子がまるで見る影も無かった――。アレは――とてもじゃないが『仏様』なんて呼べるような代物では無かった。ただの死体。ただのモノだった。ぶよぶよしたただの腐肉の塊だった」
「焼きましたね」
「骨が必要でした。本にはそう書いてありましたから。地面の上に骨を並べ、藤の糸で骨同士を結び、水で綺麗に洗って――」
小声だが、よく響く声で佐馬介はその時の様子を語った。慧音が時折、相槌を打ち、描写をより克明にして行く。
慧音以外の皆の顔は蒼白になっている。しかし誰も止められない。慧音の冷え切った声色が、中断を挟む事を許さない。
阿求は、ずるりと眼の前の世界が変化して、夢の世界に迷い込んだ気持ちになった。或いは、夢で無いとすれば、狂気の世界だ。急激に現実感が失われていく。佐馬介の言葉が、慧音の言葉が、実態となって阿求の中で再生される。やった事も無い反魂法を、まるでよく知っている様な気分になる。佐馬介の体験と記憶が、我が事の様に感じられる。腐臭を嗅いだ記憶と、腐肉を触った記憶が――実際にはそんな経験は無いのに――思い出される。
「そうして――由子は蘇った」
「しかし当然、失敗しましたね」
「ええ。少なくとも自分が想像したいた様なものでは無かった。蘇った由子は――ああッ、なんて事だろう――途方も無く醜かった」
自然、阿求には壊れた人形を無理矢理に直した様な、鈴の姿が思い出された。ぎくしゃくとした挙動。知性の感じられない顔。壊れた楽器の様な声。眩暈を覚える。どうか眼の前の男の告白が全部嘘であってくれれば良いのに、という気持ち。しかし、理性は全て現実だと認めていた。この男の云っている事は実際に起こった事なのだ。
そして――。
徐々に熱っぽくなっていく佐馬介の言葉。
「おかしいと思った。由子は生前通りに蘇って、前みたいに生活できる筈だったのに。こんな筈じゃあ無かった。自分は騙されたのだと思った」
「やめろ、佐馬介――もうやめろ」
良寛が弱々しい声で止めに入る。しかし、佐馬介はそれを無視して続ける。
「騙された。許せない。由子をこんな姿にして――やったのは自分だが、これは自分の所為では無い。あんな本を書き遺した奴の所為だ。由子を、あんなに綺麗で、賢かった妹を、酷い姿にした。そして、そうだ。蘇ったコレは由子などでは無い。由子の骨から創った只の人形なのだと漸く理解した。由子の姿を、しかも不完全に模した、人形なんだ。由子の偽物だ。命の無い、ただヒトの形をしただけの――」
阿求の眩暈は、今や寒気と吐き気に変わっていた。慧音の声がやけに遠くに聞こえる。
「西行もまた自分の創り出した存在の酷い醜さに辟易したとされます。西行が欲しかったのは、共に詩作に耽れる様な友人でしたが、出来た人形には詩心どころか、言葉を理解するのも不可能だった」
佐馬介の声がする。
「由子の姿をした醜い存在に、自分は怒りを覚えた。許せない。存在してはいけないと思った。自分でも信じられないほどの眼も眩む様な激しい憎悪だった」
「僧侶でもあった西行は、しかし、そんな存在にも仏性はあるだろうと思い、山の奥へと行って捨てるに留めました。仏性の宿る存在を殺める事は殺生になりますから」
「元に戻さないといけないと思った。しかし創り出したものを元に戻すには壊すしか無かった。壊すしか無かったんだ。都合のいい事に、生まれたソレは命の無い、伽藍堂の容れ物だった」
「徳次郎さんも、蘇った鈴をどうかしようとはしなかった。娘の魂は入っていないし、姿こそ醜いが、その肉体は紛れも無い鈴自身だからだ」
「俺はあの人とは違うッ!娘の死が自分の所為だなどというのは只の自己陶酔だ!さらに、それに謝罪する為だけにこの世に呼び戻すなんて独り善がりも甚だしいッ!!俺が求めていたのは、生前と変わらぬ由子そのものだったッ!」
「佐馬介ッ!やめろ!それ以上は云うんじゃないッ!!」
良寛が叫ぶ。
しかし、云っても云わなくても同じ事だっただろう。皆は既に事の結末を予感していた。蘇った筈の由子は、誰の前にも姿を現さなかった。だから、それは鈴の様に既にこの世には残っていないのだろうと予感させた。佐馬介が云っても云わなくても、過去は変わらない。全ては終わってしまった事だった。だからある意味、佐馬介の告白は茶番とも云えた。分かり切った結果をなぞるだけの、予定調和。
だから――、と慧音は佐馬介を見据えながら云った。
「殺したのですか。由子さんを」
いいえ――、と佐馬介は首を振る。
「壊したんです。アレは由子では無い。只の人形なのですから――。あの時、頭に血が昇り、どうしようもない程に感情が高ぶった時――、傍には手ごろな大きさの石が落ちていました。俺はそれを拾い――アレの頭に打ち付けた」
佐馬介の言葉に、誰も――驚きはしなかった。
慧音はゆっくりと歩き、自らが張った結界の中心点――件の桜に近付くと、その肌を優しく撫でた。
「そうして――貴方は遺骸を再び埋めた。ただし、元の墓では無く、この桜の根元に。違いますか?」
「埋めました」
「何故です?どうしてこの桜の樹の下に?」
「由子が生前、気に入っていた場所です。此処は」
「しかし貴方は先程、蘇ったアレは由子さんでは無いと云った。矛盾していませんか」
「矛盾は――しているかもしれません。でも、せめてもの償いだと思いました。由子を冒涜してしまった事への」
「――佐馬介ェッ!!!」
惣七が走った。佐馬介に掴み掛り、拳で殴りつける。ごっ、と鈍い音がした。
「お前はッ!お前は由子になんて事を――」
よろめいた佐馬介は血の混じった唾を吐き、暗い顔で嘲笑った。
「惣七、お前が俺を責めるのか。お前だって、由子を蘇らせるつもりだったんだろう。同じ穴の狢だ」
「お前とは違う!由子は――例え、どんな姿になっても由子だ!それがお前には分からないんだ!」
もう一発、惣七が殴った。佐馬介は転び、尻餅を付いた。殴られた頬を撫でながら、友人を見上げ、静かに云った。
「どんな姿になってでもなんて――あのおぞましい姿を前にして本気で云えるなら、お前は本当に狂ってるよ、惣七」
惣七は再び掴みかかろとした。その間に妹紅が割って入る。
「やめて!二人とも!こんな事して何になるっていうんの!?ねぇッ!」
佐馬介は意に介せず、尚も自嘲気味に笑う。
「好きなだけ殴らせればいいんだ。俺を殴って気が済むのだったらな。だけど、惣七、お前は本当のとこは何も分かっちゃいないんだ」
「何ぃッ!?」
佐馬介は妹紅を押しのけ、一人でよろよろと立ち上がると、皆の顔を順に見た。
「自分は慥かに愚かな事をした。取り返しのつかない罪を犯した。死ねば、地獄行きにされるかもしれない。閻魔様がそう裁くのであれば仕方が無い。地獄行き大いに結構だ――。でも、違うんだ。事はそう単純じゃあない」
佐馬介の言葉に、奇妙な熱は既に無かった。代わりに、落ち着いた、諭す様な理性があった。
「いいか、惣七。お前は由子の気持ちを考えた事はあるか」
「由子の気持ちだと」
「そうだ。あの子の気持ちだ。若くして、この世を去らなきゃならなかった妹の気持ちだ」
「――死にたくはなかっただろうな」
「当たり前だ。死にたい筈も無い」
佐馬介はもう一度、血の混じった唾を吐きだすと桜を見上げた。
「あの子は悔しがっていた。酷く悔しがっていた。折角、お前と結婚して、さぁこれからだという時に、詰まらない熱病で死に瀕していた――。医者の腕は良かったんだよ。薬もよく利いた。ただ由子の体力が治るまで持たなかったってだけの話だ。人は不思議と、自分がこれから死ぬ段となると、それと分かるらしい。由子は死の床で俺に云ったよ」
佐馬介の眦から涙が零れおちる。
「悔しいってな――。それだけじゃない。妬ましい、憎い、とも云ったよ。あの優しい由子が、だ。生きている、生きていける人間が羨ましいとな。何も考えなくても明日が来る人間が憎らしいとよ――。死にたくないなんてもんじゃない、あの子は必死だった。惣七、お前とだ。お前とのささやかな生活ってのを続けて行きたかったんだ。でも、それが出来なくなりそうだった」
「し、知らない――由子が死の間際にそんな事を」
「云ったのさ。俺にだけ。きっと俺にしか出来ない話だったんだろう。義理とは云え、兄妹だからな。それであの子は――俺に頼んだ」
「何をだ――真逆」
「その真逆。反魂法だよ!由子は俺に、死んだ後、蘇らせてくれと頼んだんだッ」
阿求が小さく叫ぶ。
「そんな!反魂法は佐馬介さんが自発的にやったのでは――ッ」
それを佐馬介は大笑いで掻き消す。
「冗談じゃないッ!反魂法なんて、死者を蘇らせる術があると云われて誰が真に受けるんですか!?況して、それを試そうなんて普通は思いもしませんよ!死体を墓から掘り出して、骨を接ぎ合わせて人が生き返るだなんて、とてもじゃないが正気の沙汰じゃあない!」
妹紅が云った。
「佐馬介さんは、反魂術なんて信じて無かったの?でも、アンタは結局したんでしょ?だったら――同じだよ」
「結果から云えばそうでしょうが、正直、最初はまるで信じちゃいませんでしたよ。熱病にうなされた人間のうわ言だと思っていました。だけど、時間が経つにつれ、妙な夢を見る様になった」
「夢?」
「真っ暗闇が広がってて、人の声だけがするんです。男か女か分からない。だけど声はこう云っている。いつまでいつまで――って」
ひゅっと阿求の息を吸う音がした。
「由子が夢枕に立って、いつまでいつまでと急かしているのかも知れない。さっさと反魂法をしろってね。でも、俺は遣り方なんて分からなかった。だから、しろと云われてもやりようが無い。夢だって、その内、見なくなるだろうと思ってました。きっと由子が死んで時間が経てば忘れられるとね。そこまでは良かったんです。でも――」
佐馬介の顔に壮絶なものが浮かんだ。
「実家の掃除をしていたら妙なものが出て来た。本だ。何処かで見た事があると思ったら、昔々、寺に忍び込んだ時、見つけたものだった」
「それは――西行の手記?」
妹紅の言葉に、佐馬介が静かに頷く。
「読んでみると慥かに反魂法が書いてある。出来るかも知れない、と初めてその時思いました。と、同時に空恐ろしくなった。一体どうして、こんなものが家にあるのかと。勿論、犯人は由子しかいません。由子がいつの間にか、寺からこっそりと持ち出していたんだ。今となっては、どんなつもりだったのか分かりませんがね――。単に読み物として面白いから、持って来たのか、それともその内容を――反魂法を本気で信じていたのか。兎に角、その時――自分は憑かれた。此処にこの本があるのは由子の意思に違いないと思いました。それから、やり方が分かるのなら、やってやれと決めるまでそう時間は掛からなかった。準備をしながら、自分が段々とおかしくなっているのは分かっていたんです。何度もやめようと思った。それに実際の処、失敗すると思っていましたよ――。死体は何をしても死体のままだろうと。なのに、術と来たら、半端に成功してしまって――由子は慥かに蘇ったかもしれないが、あれでは生前のあの子の願いを叶えてやれそうにも無かった」
佐馬介は真摯な表情で惣七に語り掛ける。
「だからだよ――惣七。だから俺は、アレを土に還したんだ」
「そんな――由子が自分で望んだ事だったのか」
惣七は呆然と肩を落とす。
ははッ、と妹紅が自棄気味の笑い声を上げた。
「それって、つまり、やったのは佐馬介さんだけど、それを操ってた黒幕は由子さん自身だったって事じゃん」
追い打ちを掛ける様に、それだけではありません、と慧音が隣で囁いた。
「今度の事件は、元々由子さんが起点となっている。『表』の事件――徳次郎さんが反魂法に辿り着いたのも、予め由子さんが教えていたからと思われます」
「そうか、由子さんは、徳次郎さんの処の茶屋の常連だったのですものね。それに、静さんに天人の事を教えたのも由子さんだった――」
阿求は動揺を抑えきれない引き攣った顔で云った。慧音が頷く。
「由子さんがちょっとした話の弾みで、徳次郎さんに反魂法の存在を教えた可能性は高い。無論、その時は冗談のつもりだったのでしょうけどね。二人とも――。ただ、死の間際に瀕しては、そうでは無かった。溺れる者は藁にでも縋る様に、よく分からない、あり得そうにも無いものにでも飛び付かざるを得なかった。それだけ魅力的だったのですよ、死者の復活の術と云うのは」
「徳次郎さんが術の存在を知っていても、その遣り方を知らなかったのはその所為なのですか。でも、徳次郎さんは――何処で西行の手記を?」
「うちの家ですよ」
佐馬介が投げ遣りに云った。
「奴さん、うちに泥棒に入って、盗って行ったんだ。気付いていないだろうが、惣七の家も入られた筈だ。由子が住んでいたのは惣七のとこで、実家はうちだったから――。必死だったんでしょうね。鈴の仏様が消えて無くなってちょっとした頃、気付いたら本がうちから消えていた。しかも里じゃ幽霊の噂。後なんて尾けなくても、徳次郎さんの仕業だなんてすぐに分かりましたよ。だから俺は、鈴の御悔みを云う振りをして、茶屋に上がらせて貰った。本を取り返す為にね――。燃やすつもりだったんですよ。あの手記は人の手に置いておくべきものじゃない。だけど手記は見つからなかった」
「それは、一足先に私が先に持って行ったからですよ」
慧音が懐に手を当てて云った。
「寺の書庫で手記が見付からなかったので、その足で茶屋に行きました。御悔みを云わせて欲しいと理由を付けて中に入れて貰い、案の定、適当に探したら出てきましたよ」
寺じゃ見つからなかった、と慧音は云っていたが、その実、ちゃっかりと本は確保していた訳だ。
妹紅が呟く。
「――でも、西行の手記も寺から持ち出したのも由子さんなんでしょ?だったら――」
西行の手記。それに対し、最初に興味を持ったのは由子だ。彼女が寺から持ち出した。
茶屋の事件の犯人は徳次郎だった。しかし、その動機となる反魂法を教えたのは由子だ。
由子の死体を掘り出して、術を掛けたのは佐馬介だった。しかし、それを唆したのは他でも無い由子自身だ。
由子が事件の黒幕――。
しかし彼女は既に死んでいる。罪を糾弾する事も、罰する事も出来ない。それどころか、果たして由子自身を罪に問えるかも曖昧だった。
事件は結果から見れば、酷い事になったが――由子が意図しての事ではないだろう。悪い偶然が重なってそうなっただけだ。
――本当にこの事件、何処まで根が深いんだ。
由子――。
妹紅は直接会った事は無い。しかし彼女が愛される様な人間であった事は知識として知っている。
しかし故人だ。既に死んでいる。それにも関わらず、この影響力は何なのだろう。
「死人に操られてるんだ――皆」
人の想いは、その人が死ねば一緒に消える。
しかしこの世に残ってしまった死人の想い。そんなものはどうやれば消せると云うのだろうか。
生者は死ねば死者となる。死者は転生すれば生者となる。魂でさえ輪廻を巡ると云うのに、そこから零れ落ちた想いだけが、この世に残り、今や毒を撒き散らしている。
妹紅はゆるゆると顔を上げると、眼の前に立っている大きな桜の木を見上げた。
近くで見れば余計に大きく感じる。張り出した枝が、まるで腕を広げた人間の様に見えて――。
実際、人がこの樹の根元には埋まっているのだ――由子の骸が。
――以津真天。
あの怪鳥は由子の顔をしていた。この樹の根元に埋まっている彼女の骸の影響だろうか。しかしそれだけではないだろうと妹紅は感じた。
ぎしぎし。
樹の揺れる音がした。妹紅はそっちの方を見る。
枝の上――やはり――怪鳥がいた。
妹紅にとっては三度目の邂逅になる。既に最初に見た時の様な驚きは無い。その正体が判明した今となっては、単なる鳥の妖怪には見えなかった。
綺麗な女の顔――由子。
――寂しそうな、苦しそうな顔をしている。
――自分のした事で、犠牲者が出た事を悔いているのか。
死に際に残した未練。それが余りに苛烈なものであった所為で、残された人々の人生を狂わせてしまった。
――それでたぶん、罰が当たったんだ。
その報いによって、由子の魂魄は――完全に輪廻の輪に入れぬまま、以津真天と化して、その浅ましい姿を曝し続ける事になったのだ。
輪廻の輪から外れて、生まれ変わる事も出来ず。
しかし自らそれを解決する手立ては無く、ただ鳴き続けるしかなかった。
一連の事件の黒幕にして、最後まで傍観に徹するしか無かった哀れな女――。
「だから『何時まで』か――成程。アンタもいい加減、この忌々しい事件に蹴りを付けたかった訳だ」
妹紅の様子に気付き、他の皆も樹の上を見上げ――途端、ぎょっと身を竦ませた。
人の身程もある怪鳥が、樹の上から睥睨している。その異様に気圧され、誰もが呆気に取られた。
逆に怪鳥は、毒々しいまでの極彩色の羽根をはためかせながら、悠々と恐れをなす皆を眺めた。
惣七は呆けた顔のまま、乾いた声で呟いた。
「由子か――?」
怪鳥が惣七を見詰め――にっこりと微笑んだ。
「うわぁあああああッ!」
惣七の悲鳴が暫し夜の森に響いた。
さて、と慧音が皆を見回す。
「これで大凡、今度の事件の真相は話せたと思います。後は――そうですね、後始末をすれば完全に終わりです。明日になれば、事件は全て無かった事になり、代わりに新しい歴史が出来ている事でしょう」
「以津真天は?放っておいていいの?」
妹紅が尋ねる。
「無論、消えて貰わねばなりません。しかし、その前に始末を付けなければならないものがあります」
慧音は眦を強くし、怪鳥と、それが止まる樹を見詰めた。
「この樹だけは何とかしないと大変な事になる。人死にがこれ以上出ても困りますから」
「樹?」
慧音は緊張した面持ちで云った。
「この寺が幻想郷に持ち込んだものは、西行の手記だけではありません。もう一つ、厄介なものを此処へと持ち込んでくれた――それがこの樹ですよ」
「慧音さん――それって」
阿求の問いに、慧音は無言で頷く。
「昔、西行妖と呼ばれた妖怪桜がありました。人の生気を吸い、それに味をしめて、以後、何人もの人間を死に誘ったと伝えられています。しかし、西行の妖怪桜は化ける前は、やはり唯の桜の木に過ぎなかった。にも拘らず、人の生気を吸った途端に途方も無い化け物に成り果てた。それだけ危険なのですよ、美しい樹というのは――。そして、コイツは偶然にも二人分の人の生気にありついてしまった」
「二人分?由子さんと徳次郎さんの――ッ」
妹紅の言葉に、慧音は口の端を吊り上げた。
「そうだよ。佐馬介さんは弔いのつもりで、由子さんの骸をこの樹の下に埋めたが、樹はそんな気持ちなんてお構い無しだ。根元に埋められたらそれは肥料と同じだ」
「ひ、肥料だと!?」
佐馬介が気色ばむが、慧音は一笑に伏した。
「そうですよ。肥料ですよ。貴方がした事は、理由はどうあれ、そういう事なのですよ。結果、この樹は眼を覚ましてしまった」
その遣り取りに呼応する様に、何処からともなく、不吉な風が吹いて来た。桜の森全体がざわざわと揺れる。
と、同時に、慧音の張った結界が――蜀台の炎が煽られ、殆ど消えそうになる。
――なんだろう。このちりちりした感じ。
妹紅はうなじの毛が逆立つのを感じた。最初に、この森へ来た時に、この樹の下で見た幻覚。空気があの時の感触に似ている。
ハッとして妹紅が叫んだ。
「慧音!この寺に張られた結界って、もしかして元々この樹を封じる為に張られたもの!?」
「そうさ。この寺が幻想郷入りしても尚、切れなかった腐れ縁。西行妖の眷属さ――。そいつがどうやら封印されると分かって、抵抗を始めたらしい」
慧音が呟く。
ふいに、ごぉぉ、と強い風が森を吹き抜け、大きく枝を鳴らした。
再び、慧音の張った結界は風に煽られ、儚く揺れた。
妹紅は遅まきながら、慧音の用意した結界もまた、樹を封じる為に用意されたものだと気付き、生唾を飲み込んだ。
いつの間にか、以津真天は宙へと飛び立ち、樹の上を旋回している。あの禍々しい声で鳴きながら。
「何が起こるんですか。これから――」
こういう事に慣れないであろう阿求は、既にこの世ならぬ不気味な光景に気圧されている。
さて、と慧音は首を傾げる。
「我々を『誘う』つもりなのかもしれませんね。徳次郎さんにやった様に」
「徳次郎さんに?」
「徳次郎さんは彼岸に引っ張ったのは、他でも無い、この樹ですよ。コイツは――人に死の幻想を見せるのです」
「死の幻想って――そうか」
妹紅が小さく叫ぶ。
「私が見た幻覚――アレかッ」
見たくも無かった、忌々しい大飢饉の記憶。或いは、自分が殺した男と、自分が一番好きだった人。
慧音が云う。
「ええ、幻覚は香の所為なんかじゃ無かったんですよ。コイツが見せていたのです。妹紅は自分自身のトラウマを想起させられたが、効果がなかった。なので次に、コイツは妹紅がこの世でもっとも会いたい人物を見せる事によって、引っ張ろうとした。だけどいずれも妹紅には意味を成さなかった」
妹紅は皮肉な笑みを浮かべる。
「蓬莱人だからね」
「そう。しかし普通の人である徳次郎さんには十分過ぎたのでしょう。彼が見たのは、差し詰め、あの世で待っている鈴の姿だったのではないでしょうか。心に隙のあった徳次郎さんを引っ張るにはそんなので十分だった筈です」
「あの人の安らかな死に顔の理由はそれだったのですかッ!」
良寛の苦渋の声に、慧音は素っ気なく答える。
「恐らくは。しかし、勘違いしないで下さい。コイツが見せる幻覚というのは、見る人間が勝手に浮かべるイメージに過ぎない。鏡の様なものなのですよ。その人が思い描く『死』をコイツは見せているに過ぎないのですから。尤も、それでも危険な事には変わりありませんが――」
慧音は油断無く樹へと一歩近付くと、一度後ろを振り返って云った。
「良寛和尚。男達と阿求を連れて、今すぐこの場を離れなさい。貴方達がいても危険なだけです」
「いえ――慧音さん、私も残ります。全てを見届けないと――」
「阿求、此処からはもう遊びじゃない。後は妹紅と私だけでやる。唯でさえ、あの世とこの世の境界線が、他人より薄い君だ。これ以上、この場にいると本当に命に関わるよ」
慧音の本気の警告に、流石の阿求も沈黙せずにいられなかった。
「それで慧音、具体的にどうするの?燃やす?それとも切っちゃう?」
既に戦闘態勢の妹紅に、慧音が笑い掛ける。
「いや、封印するんだ。いいかい、この場所に墓があると云うのも元はと云えば――」
慧音の声を遮る様に、今までで一番強い風が吹いた。
枝が軋み、きしきしと不気味な音を立てる。
同時に、月に黒雲が掛かり、急に周囲が暗くなる。
「予想以上の力だな――黒雲を呼んだか――不味いな。月が隠れる」
空を仰ぎ見ながら、慧音が呟いた。
妹紅には最初、その言葉の意味は分からなかったが、月が陰る程に薄く、小さくなる慧音の存在感に悪寒を覚えた。
「慧音、体が――」
魔法の様に変身が――解けて行く。
慧音は苦笑する。
「月の光が無いと、この状態は維持できないからね。半獣というのは厄介なものだよ」
ふいに暗転する世界。
暗闇の中に以津真天の鳴き声が響く。
いつまでいつまで――。
慧音が焦燥した声で叫んだ。
「――私の力が弱まるぞッ!これ以上は結界を維持できない――良寛ッ!皆を連れて走れッ!!」
オォォオオオオオオ――。
枯れ樹の洞に流れ込んだ空気が不気味な音を立てる。
強い風が蜀台の炎をふっと掻き消し、完全な闇が訪れた。
誰かが転ぶ音がする。さらに蜀台の倒れる音。香炉がひっくり返り、周囲に濃密な香の香りが撒き散らされる。
その拍子に、たぶん、紙垂が切れたのだろう。
「――結界が破れた」
その瞬間は、そういう術に疎い妹紅にも理解出来た。周囲の空気が急に変わったからだ。
喩えるなら、押し込められた空気が一気に外へ流れ出したかのような感触。抑え込まれて来た妖気が、何倍にも膨れた感じ。
妹紅は立ち尽くしたままだった。突然、光を奪われた眼は何も視認出来ないでいる。
風は何時の間にか止んでいた。以津真天の鳴き声も何処かへと消えてしまった。静寂。聴覚でも何も捕えられなくなった。
眼の前には、唯、深淵が広がっている。
自分の体が消えてしまったかのような錯覚。なのに、眼の前に依然として存在する大きな威圧感。
突然、ポッと、闇に何かが光った。
続いて、ポッ、ポッ、ポッ、と立て続けに灯りを灯した様に、光る光。
紫色の――。
これは――。
「アレを見るなッ!心を強く持たないと引っ張られるぞッ!!」
慧音の声が遠い。
――この紫の光は。
はらはらと光が降って来て、妹紅の手の中に落ちた。
触ると、柔らかい感触。
――桜の花びらか。
ポッ、ポッ、ポッ、ポッ
鬼火の様に、忌わしくも、美しい光。
――樹が開花しているんだ。
三分咲き。
五分咲き。
八分咲き。
ぞぞぞぞ、と地面が揺れる様な錯覚。森全体に広がる妖気。
開花が連鎖的に広がっていく。森全体が一瞬、光に包まれたかの様に白んだ。
骨に肉がついて、人になる様に。
枝に花が咲いて、桜となる。
西行妖の――その眷属が眼を覚ます。
「――綺麗だ」
甘く蕩ける様に、妹紅の意識は恍惚としたものに支配される。
「ねぇ――父様」
妹紅が眼を向けた先。
満開の桜の樹の下で、あの人が待っていた。
良寛は――。
佐馬介は――。
惣七は――。
満開となった桜を見上げていた。
小春日和。何度か見た事のある光景だった。
樹の下には娘が佇んでいる。在りし日と同じ背恰好で。
娘は暫く満開の桜を見上げていたが、やがて傍に立つ男の存在に気付いたようで、振り向くと愛らしい笑みを向けた。
「お父さん」
と良寛に笑い掛ける。
「お兄さん」
と佐馬介の手を取る。
「あなた」
と惣七に囁く。
「さぁ行きましょうか」
男達はゆるゆると女に引っ張られる。
行く先には、全てを包み込む様に満開になった桜の樹が待ち受けている――。
阿求は――。
少女に手を引かれ、ゆっくりと桜の森を歩いて行く。
こんなにも美しい光景の中、握った手の愛らしい感触を思う度に、泣きそうになるのは何故だろうか。
少女が云う。
来年もまた此処へ来ようと。
阿求は答える。
勿論だ。約束しようと。
しかし阿求は知っていた。恐らくその約束は果たされない。
少女が阿求を引っ張る力は強い。ぐいぐいと引かれ、何処までも突き進んで行く。
阿求は段々と恐ろしくなってきて、少女に聞いた。
何処へ行くのか、と。
少女は二人きりになれる場所だと云った。
今でも二人きりでは無いかと阿求は答える。
少女は首を振った。
ずっと一緒に居られる場所です、父様――。
阿求は――男は、それならばと少し諦める気持ちになった。
少女は男の娘だったが、何人かいる他の子とは違い、公に出来る娘ではなかったのだ。
男はその事に少なからず、疾しさを感じていたから、少女の気持ちは無碍には出来ぬと思った。
――これは私の中の記憶か。
阿求には不思議と、今自分が見ているのが、幻覚だと意識出来た。
少女に連れて来られた先は、森の中で大きく拓けた広場だった。
中央には、満開に咲き誇った、一際大きな桜の樹。広げた枝が両腕を広げた人間の様に見える。
少女が父親に見せたかったのはこれらしい。
――この樹は。
鏡だと慧音は云っていた。この樹は、見る者が見たいものを見せて死に誘うのだと。
――だけど、この少女は。
少女は阿求の知る人物では無い。だからこの幻想は阿求の望んだものではない筈だ。
恐らくは、この記憶の持ち主。阿求が転生する前の『誰か』の望んだものなのだろう。
「――貴方は誰ですか?」
阿求は問う。先程からずっと背中しか見せずにいるこの少女に。
小柄な体。切り揃えられたおかっぱの黒髪。
知らない筈なのに――何処か見覚えのあるこの少女は――。
少女が振り向き、阿求は愕然とした。
「貴方が――どうして?」
しかし、少女は手を放してくれない。連れて行かれる。自分の命が儚く消えて行くのが分かる。
桜の花びらに包み込まれるようにして、意識が段々と曖昧になって来る。
このままだと本当に死んでしまう。それが本能的に理解できる。
苦しくは無い。恐怖も無い。心の中が暖かい。でも、苦しくないのが逆に何だか怖い。
ひらひらと桜の花びらが落ちる。
このまま死ねば、転生の準備を碌にしていない阿求は、次は稗田の家に生まれてくる事はないだろう。
求聞持の能力を持たない普通の人間に、生まれ変わるだけだ。そして同時に、短命な宿命とも縁を切る事が出来る。
今の幻想郷は平和になった。だから御阿礼の子がいなくとも人は生きていけるだろう。求聞史紀が編纂されなくなっても誰も困りはしない。
――人は何時か必ず死んでしまう存在なのです。
ならば、此処で阿求が独り果てるのも運命と云えはしないだろうか。
何より、これは阿求の夢見ていた死に方そのものでは無いのだろうか。
春風駘蕩とした景色の中、夢見る様に死ぬ事が出来たら――。
でも――。
「――助けて下さい」
阿求は声を絞り出す様に云った。
意識は今にも消えてなくなりそうだった。阿求という魂が痛みも無く、この世から消え去ろうとしている。
その儚さに、阿求自身が耐えられなかった。
「助けて――誰かッ!」
力を振り絞って叫んだ。
同時に、人が死ぬのは当然だと嘯いていた自分の本音は――結局それだったのだと阿求は悟った。
死ぬ事に覚悟なんて出来ない。死はいつだって虚無なのだ。それを想像して思い巡らす事は幾ら出来ても、生きながらにしてそれを手にする事は決して出来ない。
死とは、生きている者にとって、何処まで行っても理解の及ばぬ、未知の存在なのだ。
死を想う事によって、その境界線を越えたと勘違いしていた阿求は、眼の前の本物を前にして、叫ぶ事しか出来なかった。
「誰か助けてッ!やだァッ!!私はまだ死にたくないッ――助けてッ――妹紅さぁんッ!!」
体の感触は消えていた。
虚無に飲み込まれる。
刹那――。
ふいに、ぎゅっと両の腕を掴まれた。痛いくらいの強い力で引っ張られる。
「阿求ッ!アンタがあの世に行くのは――まだ早いよッ!!」
暗い森の中。阿求は妹紅に抱き抱えられていた。
「はァッ――はァ――な、何ですか――これ」
幾ら息を吸っても足りないくらいに苦しい。全身にぐっしょりと汗を掻いていて、心臓は破裂しそうな程激しく脈打っていた。
「こっちが聞きたいよ!阿求、さっきまで息が止まってたよ」
耳元で聞こえる憤慨した妹紅の声。
阿求は覚束ない意識で周囲を見回し、自分が例の桜の根元に倒れているのだと思った。
「全部――夢、というか幻覚だったんだ」
どくどくどくと脈打つ胸。まだ生きている。
時間はさっきからそれ程、経ってはいないだろうと思った。
月は相変わらず黒雲に隠されていて、闇に眼が馴れたとは云え、辺りは薄暗い。桜も咲いたままの状態だろうが、それを直接確認したいとは思わない。
「も、妹紅さんは」
阿求は暗闇の中で、妹紅の手を探し出すと、強く握って云った。
「大丈夫だったのですか?あの――桜を見ても」
「まぁね」
面白がるような声。
「二度目だしね。何より、蓬莱人の私には効果が無いって分かってるからどうって事は無かったよ。途中、『どっかで見た事のある人』の幻が見えたけど、ぶん殴ったら消えた」
「ぶ、ぶん殴った?」
「妖怪桜も大した事ないね。私を殺せないようじゃ」
「――だから云ったろう。心を強く持て、と」
少し離れた処で、苦り切った慧音の声がした。
「自分さえ見失わなければ、どうという事は無いのだから。全く、最初からそう云っているのに、お前達と来たら――」
そちらを向くと、月が隠れて何時も通りの姿に戻ってしまった慧音が、頻りに額をさすっていた。
足元には、頭を抱えて蹲る男達が三人。
慧音はじろりと阿求を睨みながら云った。
「だらしのない連中だから、少し喝を入れてやったんだ」
どうやら多少荒っぽい方法で目覚めさせられたらしい。
慧音自身が引っ張られなかったのは、自分を見失わなかったお陰だろうか。無茶苦茶な人だなと阿求は少し呆れる。
「慧音――これからどうするの?桜、完全に咲いちゃったよ。他の桜もどんどん開花してるし、このままだとホントにやばくない?」
妹紅は、しかし、深刻そうな言葉とは裏腹に面白がるような雰囲気がある。
慧音がふっと息を漏らす。
「全くだ。二人分の生気を吸ってこれだからな――。これ以上、人を誘われたりでもしたら西行妖の時の二の舞になる。かと云って、封印するにも今の私では力が足りない。しかし手が無い訳じゃない――どうだろう、試しに掘ってみるか」
「掘る?」
「地面をだよ。この樹の下には由子さんが眠っている。正真正銘、彼女の骸が。それが原因で、この樹は目覚めてしまったんだ。それを取り除いてやるのさ」
慧音は落ちている提灯を拾い上げ、火を付けると皆を照らし出した。そして、怖い顔で佐馬介を見た。
「惣七さんと一緒に由子さんの亡骸を掘り出して下さい。貴方が埋めたんだ。場所はよく知っているでしょう。良寛和尚は私と一緒にこちらへ。結界を引き直します」
「結界ですと?」
「素人の造作とは云え、何もしないよりはマシでしょう。妹紅は以津真天の退治を」
やれやれと妹紅が肩を竦めて、花で覆われた天蓋を見上げる。
「結局はそうなるのね。でもそんな事して何か変わるのかな」
「アレはこの樹の下に埋まった由子さんの亡骸が生み出した幻想だ。撃って、解き放ってやれ。阿求は――妹紅の傍にいるといいだろう。頼むぞ、妹紅。守ってやってくれ」
「勿論」
云い終えると慧音は樹の傍へと寄り、千切れた紙垂を引っ張って来て、結界を作り直し始めた。良寛はおずおずと傍に寄ると囁く。
「慧音先生。恥ずかしながら、拙僧に出来る事と云えば真言を唱えて葬儀をする程度で、結界や退魔法などとんと知らぬ有様で――」
「知っているよ、良寛。だからお前は祈れば良い」
「――はぁ」
「祈りだよ。般若心経でも陀羅尼経でも何でも良いんだ。信仰の形態なんて些細な事だ。お前は気付かなかったのか?此処は墓場だ。死体が沢山埋まっている。なのに、桜はこれまで、今度の様に人を死に誘う事はしなかった」
はて、と坊主は顔を顰める。
「それは――この森に強い結界が張られていたからでは」
「そもそも、その強い結界とは何なのか、という事さ。種を明かせば、この森に張られた結界と云うのは、多数の『人柱』の見立てによって形成されたものだ」
「ひ、人柱?」
「恐らくはね。地面への埋葬を、人柱に見立てて、封印の礎にしたのだろうと私は推測している。だから、此処が墓場なのもそういう事情があったからなのさ。それだけ、最初、寺ごと幻想郷にやって来た人々は知っていたんだよ。この桜の樹の怖さをね。だから、死者の魂を弔うと同時に、祀り上げる事により、この地と樹を封印し続けて来たんだ。案外、この寺の歴史が忘れ去られた理由もその辺りにあるのかも知れないぞ。この西行妖にまつわる歴史そのものを無かった事にする為に、わざと後代に伝え残さなかったという可能性がね」
最早、良寛には遠く及ばない話だった。慧音は笑う。
「祈るんだ、良寛和尚。この樹の下には、貴方の娘が眠っている。彼女の冥福を祈ってやれ。想いさえ込めれば――必ず届く」
――祈り。
おおぅ、と良寛が呻く。
――由子。
良寛は膝をついて、数珠を取り出すと、静かに経を唱え始めた。
慧音は結界を引き直しながら、その姿を横目で見、感慨深そうに笑った。
「いいぞ、良寛。立派な坊主になったじゃないかお前も。御父上に見せてやりたいくらいだ」
佐馬介は樹の根元を掘り返していた。
最初から慧音は由子の骸を掘り出すつもりでいたのだろう。樹の傍には、鍬が数本用意されていた。
佐馬介はそれを手に取ると、記憶を頼りに地面を掘り返し始めた。惣七もそれに倣う。
「――許してくれとは云わない」
佐馬介は掘る手を止めずに、呟くように云った。
「何をだ」
惣七が答える。
「由子に酷い事をしてしまった。やるべきでは無かった」
惣七が笑みを浮かべる。
「佐馬介がやらなかったら僕がしていた。お前の云う通り、僕達は同じ穴の狢だ。それに少し嬉しかったな。由子がそんなにも僕を想っていてくれたなんて」
「この期に及んで惚気か――。お前には敵わないよ、惣七」
佐馬介は、この春風の様に掴み所の無い友人の、思わぬ言葉に思わず苦笑する。
「なぁ佐馬介。もし、由子が妹でなかったらお前は――」
ひらりひらりと桜の花びらが落ちてくる。
佐馬介の苦い声が響いた。
「云うな。物心付いた時から、あの子は俺の妹だった。もしも、なんてのは意味が無い」
ざっ、ざっ、と土を掘り返す音だけがする。
やがて鍬の先が、桜の根を掘り当てた。白い何かに絡みつく様に生えている。
ああ、と惣七が声を漏らした。
「由子――これが由子か」
白い骨。そこに絡みつく桜の根。
暗闇の中で輝く頭骨に、一枚、桜の花びらが落ちて来た。
阿求は妹紅の傍へとぴたりと近寄りと、溜め息を一つ吐いた。
「結局――私は足を引っ張るだけでしたね」
「さぁてね。私にとっちゃ忘れられない夜になりそうだけどね。まさか阿求と一緒にこんな眼に遭う日が来ようとは、ついこの前までは思えなかったんだし」
妹紅は阿求の体温を感じながら、担いできた弓を馴れた手で手早く点検すると、矢を取り出し、番えた。
その横顔を眺めながら、阿求が真摯な表情で云う。
「きっと縁ですよ――私と妹紅さんには縁があったんです」
「縁ね。ふぅん――そんなものかな」
妹紅は矢を番えたまま、宙へと向ける。
黒雲に隠れて以津真天の姿は見えない。
唯、声だけが微かに聞こえる。
「――悲しい声です」
阿求の呟きに、妹紅は頷く。
「自分の境遇を嘆いている風に思える。いつまでいつまでって――。でも、本当の処はどうなのかな?私には分からないよ。言葉なんてのはどうとでも取れるから」
「武帝が焚いた香の煙の中に、妻の姿を求めた様に――人はいつだって都合のいい幻想しか見ないと?」
「それこそ分からないよ。唯、あの以津真天は現実の存在だ。人の想いが形になった妖怪だ」
妹紅は眼を細め、以津真天の姿を捉えようとする。厭でも視界に入る満開の花びら。しかし妹紅には既に通用しない。
雲には僅かに切れ間があり、月灯りが差し込んでいる。時折、見える以津真天の長い胴体。それは苦しそうにもがいている様にも見える。
――自分の力では逝けないのか。
それは骸が樹の下に埋まっている所為か。それともこの世にまだ未練がある所為なのか。
――くそっ、まるで私みたいだ。
望んだ訳でも無く、偶然が重なり、輪廻の輪を外れてしまった。
もがく様に生きた一千年。人の生としては途方も無い、その長い時間が走馬灯の様に妹紅の脳裏によぎる。
弦を引き、息を整える。
――いつまでいつまで、か。漸くだよ――アンタは輪廻の輪に戻ると良い。
限界まで引き絞り、撃った。
符を括りつけられた矢が、空中で燃えて、一瞬、火の鳥の姿を取った。
炎の矢は桜の天蓋を突き破り、空を焦がしながら、悠々と舞う怪鳥を捉えると、その体を射抜いた。
怪鳥は長い呼気を吐き出すと、動きを止めた。
落下しながら、体を覆う鱗の一枚一枚が、翼を覆う羽の一枚一枚が、ぱらぱらと崩れ――体が崩壊していく。
阿求は、静かになった以津真天の声に気付き、反射的に空を仰いだ。
空からはらはらと白い破片が落ちてくる。それを手で受け止め、驚いた声を上げる。
「桜の――花びら?」
オォォオオオオオ――ッ。
桜の樹が啼いた。
その力の拠り所にしていた遺骸を取り除かれ、さらに新しく張られた結界に封じられ。
身を捩る様に、瘴気を発散し、大気を震わせる。一気に膨れ上がる妖気。
それが――ぴたりと止まったかと思うと――爆ぜる様に散った。
それは恐らく、断末魔だったのだろう。
空に浮かぶ雲の様に咲かせていた紫の花が、宙に広がる。
同時に、消え失せる黒雲。
月輪に照らされ、色を取り戻す世界。
一面の――紫の世界。
いつまでいつまで――。
聞こえる女の声。
「――由子」
惣七の前に、女が立っていた。少なくとも惣七にはそう見えた。
惣七さん私――。
女がはにかむ。
――いつまでもお待ちしております。
――この桜の下で。
――何度、生まれ変わろうと。
――何百、何千年経とうと。
――いつまでもいつまでもお慕いしております。
風が吹き、紫の花びらを散らした。
女の幻も消える。
全て消える。
桜の森の満開の下――。
今夜起こった事は全て――。
消えて、無かった事になった。
ep.
妹紅は本堂の縁側に座り、桜を眺めていた。
しんしんと降り注ぐ花の雨。
薄桃の花に、柔らかな陽光が吸い込まれ、仄かに光って見える。
これまでに様々な場所、様々な時代にこの光景を見て来た妹紅だったが、今年の開花にはいつもと違う印象を受けていた。
「全く――こんな綺麗な思い出も何時まで憶えてられるか分からないってのに」
百年後、二百年後も果たして思い出す事が出来るだろうか。
それを思うと――少し辛い。
今はこうやって慥かに、穏やかで綺麗な景色に包まれて存在しているというのに、先の事を思うと何とも云えない寂寥感が胸を突いた。
妹紅にとって、どれだけ印象深い景色であっても、何時かは置いて行かないといけない場所になってしまう。
何故なら、妹紅は永遠だが、世界の方ははそうでは無い。何時かは変わり、終わってしまうものだからだ。
この先、思い出の中だけになったこの場所をちゃんと思い出せるのか――それが不安だった。
「妹紅さん、泣いているのですか」
背後から男の声がした。
妹紅は振り向き、努めて笑う。
「ちょっと、春風で砂埃がさ――」
妹紅の視線の先、そこには袈裟姿の若者が立っていた。
剃髪をし、頭こそ丸めているものの、男は佐馬介だった。
お久しぶりです、と佐馬介が頭を下げる。
「久しぶりって、あれからそんなに時間が経った訳じゃないでしょう」
「慥かに――でも、俺にはもう随分と昔の事の様に思えます」
佐馬介は結局、事件の後、寺に居ついて、良寛の下で修業をする事にしたのだそうだ。
自分の行いを償う為――そして、妹の菩提を弔う為に。
本当に律義な男だと妹紅は思う。
「積もる話もあるのですが、和尚様が呼んでいますので」
そう云って佐馬介は爽やかに笑う。
「そうだね。また今度、時間があれば」
妹紅の言葉に佐馬介は一礼し、本堂の中へと消えて行く。
それを見送り、ふぅ、と妹紅は溜め息を吐いた。
佐馬介は既に新しい自分の道を見つけている。
事件のもう一人の主役――惣七の方は、慧音から聞きかじった話では、相変わらず稗田家の庭師として働いている様だ。こちらも時々、寺へと来て妻の墓と、樹の下に建てられた祠を訪れるらしい。
良寛と云えば、初めての弟子が出来て、面にこそ出さないが、内心では安堵の思いで一杯だろう。良寛の代で終わりそうだった寺を継がせる事が出来る様になったのだから。
雨が降って地が固まる様に、由子の死によって齎された悲劇は、良い形に収束しようとしている。少なくとも、妹紅にはそう思える。
――やっぱり事件は終わったんだ。
寂寥感が再び、胸の中に渦巻く。
お祭りが終わってしまった様な感覚。
否――決して事件が面白おかしかった訳では無いのだが、それでも物事の終わりには常に一抹の寂しさが付きまとう。
「此処にいたんですか。探しましたよ」
やがて、向こうの方から、阿求が笑みを浮かべて歩いて来た。
妹紅の前に立つと、大きく手を広げ、さぁと催促する。
「少し歩きませんか?ほら、事件の後、ごたごたしてて二人きりで話す機会って余り無かったじゃないですか?」
「二人きりって――何だかなぁ――でも、まぁ、いいよ」
妹紅は苦笑を滲ませながら立ち上がる。
どうせ妹紅にも、阿求と話したい事が山ほどあったのだから。
「妹紅さんは今じゃ里の英雄ですよ」
阿求は下駄をぽっくりぽっくりと鳴らしながら優雅に歩いた。
妹紅は離れぬ様に、その隣に並びながら歩く。
阿求の話では、どうやら里では、鈴の遺体が消えたのは怪鳥の仕業で、窓から入って来た化け鳥が遺体を盗んで消えたのだという話になっているらしい。
そして、それを取り返しに山へと行った父親は化け鳥に返り討ちに遭った。
しかし、結局は竹林に住む妖怪退治の専門家に手に掛かり、化け鳥は退治されたのだと云う。
いいやそうじゃない、と云う里の者もいると云う。
鈴の遺体が消えたのは、実は鈴が蘇った所為で、自分から何処かへといなくなったのだ。
そこで、娘を探しに父親は山へ行ったが、化け物と成り果てた娘にやられた。
それを退治したのは昔から竹林に隠れ住んでいた忍者の末裔なのだという話。
さらにこんな噂もあるらしい。
怪鳥の正体とは、実は死んだ娘の怨念であり、それが父親に取り憑き、死に追いやったと云う。
怪鳥と化した娘の怨念は山に行き、そこでさらに多くの人に取り憑き、生気を食らおうとしたが竹林に住む焼き鳥屋によって退治されたのだと云う話。
他にもまだまだある――。
怪鳥は鈴の顔をしていたのだとか、怪鳥の正体は子供を攫うというウブメなのだとか、蘇った鈴が山の中を歩いているのを見ただとか、キャシャという猫の妖怪も一枚噛んでいるのだとか――。
どれもこれも事件の真相を云い当ててはいないが、微妙に輪郭が似ている。
「この噂の元はね――全部慧音さんなんですよ」
阿求が可笑しそうに云った。
下手な憶測で里の人間を勘ぐらせるより、慧音の口から直接事情を説明する事により事態を収束させようとした結果らしい。
しかし事件の真相をそのまま話さず、あえて嘘を織り混ぜる事により、全く別の話にしてしまった。
真相を求める里の人間の欲求を一応は満たし、それでいて肝心の部分はぼやけたまま。
慧音に云わせれば『正史』と『稗史』の様なものという事になるだろう。
本当の歴史は――あの夜起こった事や、一連の事件の深さというのは、立ち会った人間しか知らない。
だから、あの場所にいた者が口外しない限りは、決して表沙汰になる事はないだろうし、関係者が誰かに話すと云う事も、事件の複雑さや深刻さを思えば考えられなかった。
今や、事件の真相は、歴史食いの半獣の所有する年表にだけ書かれている。
妹紅はふぅんと感慨深く唸った。
「いらない歴史を食べて、新しいのを創っちゃったんだ。全部、慧音の意図通り――事件は無かった事にされてしまったんだ。それにしても私が英雄とはねぇ」
「まさに適役じゃないですか。英雄というのは、常に時代に求められて創りだされる民衆の幻想ですよ?」
「竹林にまで変なのが押しかけて来なきゃ何でも良いよ――私は」
ひらひらと手を振り、妹紅はしかめっ面を作った。
阿求が笑い声を上げながら、ひょいと妹紅の手を掴んだ。
阿求の手は小さく、温かい。
妹紅は何故か泣きそうになる。それを押し隠す様に聞いた。
「そういや――どうして由子さんは西行寺幽々子に似てたんだろう」
些細な事だが、それだけは今も妹紅の中で引っ掛かっていた。
「偶然なのかな、やっぱり」
うーんと阿求が可愛く首を傾げる。
「普通なら偶然で済ましちゃうのも手なんですけどね――でも、この寺は西行寺だった訳ですし」
花びらで白く染まった地面に、阿求の赤い下駄が映える。
「全部私の推論なんですが――西行に縁のある寺だったのなら、あの亡霊嬢に血縁のある人間が寺に住んでいた可能性も否定しきれませんよね」
「そりゃあ勿論そうだね。歴史書に書かれて無い抜けや漏れなんてあるだろうし」
妹紅はちらりと西行の手記の事を思った。
あれはどうなってしまったのだろう。慧音が持っている筈だが、燃やしてしまったのだろうか。
否、骨身まで歴史家の彼女がそんな事をする訳は無い。きっとあの狭い書斎の中に無造作に置かれているに違いない――本を隠すなら本の中だ。
阿求が云った。
「だったら素直にそう解釈してしまっていいんじゃないでしょうか。この寺が幻想郷にやって来た時、西行の血縁もまた一緒に幻想郷へやって来たのだと。その人の遠い子孫が良寛和尚であり、由子さんなんだと」
「でも、西行の娘は一人しかいなかったんじゃ――」
「鴨長明の『発心集』なんかに書かれている記述ではそうです。でもさっき歴史書に抜けや漏れがあるって云ったのは妹紅さんじゃないですか。西行に他に子供がいなかったという証拠にはならないでしょう?」
「そりゃそうだけど――ふぅん」
「それで納得できないなら、西行の妻に他の子がいたとかはどうですか?」
「えーっと――腹違いならぬ種違いの子か」
「ええ、他にも色々考えられますよ。西行には兄弟がいますし、その子孫だとも考えられます。必ずしも西行の直系だと仮定する必要は無いでしょう。意外と世間って狭いもんなんですよ。何代も前の先祖を辿るとあちこちで血縁が繋がってるってのもよくある話ですし」
「成程ね。どうとでも考えられる訳だ。証拠が無い分、それに囚われる必要も無い」
「そういう事です。尤も、私は西行の直系であればいいなとは思いますけどね。歴史家の浪漫みたいなものですけど、幻想郷の僻地に実は西行の子孫が残っていたなんて素敵じゃないですか」
「可能性は低そうだけどね」
「――そんな事ありませんよ」
阿求はさりげない調子で云った。
「歴史書には名前すら残っていない、藤原不比等の五番目の娘が、幻想郷で今も生きているなんて事に比べれば」
ざぁぁぁっと桜の森が揺れる。
妹紅が足を止めると、するりと阿求の手は抜けて行った。
「――どうして分かったの?」
殆ど自問に近い妹紅の呟き。
阿求は背を見せたまま、ゆっくりと同じスピードで前を歩いて行く。
「ねぇ阿求、どうして――」
妹紅は駆け寄り、阿求の顔を覗き込んだ。
「慧音に聞いたの?私が――あの人の娘だって」
阿求は一瞬きょとんとした顔をしたが、いいえと首を横に振った。
「慧音さんは、妹紅さんの許しも無く話す人じゃありません。私、思い出したんです」
「思い出した?」
阿求は、あの不可解な笑みを浮かべた。
「約束したじゃないですか」
「約束って」
阿求が妹紅の手を握る。
「来年も桜が咲いたら見に来ましょうって」
それは――妹紅が父親とした約束だ。
慧音も知らない。妹紅だけが知っている子供の頃の遠い約束――。
「どうして阿求が――」
阿求が妹紅の手を引き、歩き始めた。
妹紅はその光景に激しい既視感と懐かしさを覚える。
「それは私が御阿礼の子だからですよ。そして、稗田の祖は阿礼。いいですか、妹紅さん。阿礼と云う人物は――」
阿求がそっと囁く。
妹紅は絶句する。
「そんな――嘘だ」
「私だって信じられません。でも、思い出しちゃいましたから」
妹紅は、暫くの間、自分の顔を温かいものが流れて行くのに気付けなかった。
「酷いよ、阿求――こんな不意打ちみたいに――」
ぽろぽろと妹紅の眦から涙が溢れ出て来て止まらない。
妹紅は奥歯を噛み締めて、我慢しようとしたが、一度泣き出すとどうしようも無くて、とうとう嗚咽が止まらなくなった。
はらはらと桜が舞い散る中を、阿求に手を引かれ、妹紅は泣きながら歩いて行く。
孤独だった千年間。ずっと溜め込んできた想いを投げ出す様に、妹紅はひたすら泣き続けた。
阿求は子供をあやす様に、柔らかい笑みを浮かべながら、妹紅の手を引いて歩き続けた。
かつて見たのと同じ満開の花模様の下、永遠とも思える沈黙の後、阿求は厳かな声で云った。
「妹紅さん、もう一度、私と約束して下さい」
妹紅はしゃくり上げながら無言で頷く。
「もし、私が生まれ変わって戻って来たら――もう一度この森で桜を――」
妹紅は顔をくしゃくしゃにしながら何度も何度も云った。
「約束する――約束するよ、阿求――何百年でも何千年でも――この桜の下で――」
――いつまでも。
しかしそれに見合うだけの面白さは確かにあったように思います。
慧音たちの謎解きから妖桜の死へ誘う力など、見応えもありましたし
寺の知識なども面白く読むことができました。
反魂事件が終わってまたいつものような日常が戻ってきたときにはやはりホッとしますね。
そしてこのお話を作られたことへ、お疲れ様と一言。
面白いお話でしたよ。
なんというか似せ過ぎて読み進めれば進むほど桐生さんとしての味が薄くなっていくようでした。
ひとつの作品によく詰め込めたもんだ。
登場人物の言動や話の展開がだいぶ不自然かなぁとは思いましたが、
そこはまぁ仕方ないところですかいね。
誤字
・その沈黙を破れたのは→その沈黙が ・撒き散らせれる→撒き散らされる
ラストが唐突なくせに無駄に感動させてくるから困る。
正直ミステリーものはあまり読まないのですが、面白かったです。
燐や幽々子が出てくるのかな?と推理もどきをしながら読んできましたが、見事に的外れでした。
作者さんはミスリードにしていたのでしょうかねw
この大作の執筆、お疲れさまです。
良い話をありがとうございました。
ただ、慧音が解説をし始めたあたりから全員の動きが芝居臭くなったのと、
事件を興味の中心にしすぎて慧音が人情に薄く見え、違和感を感じました。
……まだ結界に隔離されていない当時の幻想郷にそのようなことが出来るのかどうか。
素晴らしかったです。京極のパロディにはもちろんニヤリとさせて頂きましたが、しかしその京極の匂いに潰されないくらいの綿密な構成とキャラの繋がり! 阿求の記憶が垣間見えるシーンで繋がりに気づいた時には思わず涙が出ました。
ミステリーとしてもきちんと二転三転していて、さらに以津真天をモチーフとした上手い構成になっている。オリジナルのキャラが多いにも関わらず、よくここまで纏めあげたものだと関心します。
薀蓄も為になったし、いやホント、読み応えありました。ファンになります。慧極堂、シリーズにならないかなぁ…w
分からない事には浪漫がありますね。ああかも、こうかもって具合に。
でも決して「しれない」の域から出しちゃいけないものもあるんですよ、と。
登場人物が立っていただけに、慧音が超人でいかにも解決役な立ち回りだったのは残念です。探偵とは言えど……
あのケレン味のある文体をよく研究して形にしてあるなあ。
それだけに、京極堂知らない人にとっては取っつきにくいかもしれませんが、これは仕方のないところでしょうね。
ああ、面白かった。満腹です。ごちそうさまでした。
メチャクチャだ…噂以上…
というわけでなおしておきました。
ご指摘ありがた(´ω`)人
パッと見は冗長だけど、読んでいるうちに我知らず引き込まれる…文章の流れがまさしく京極を体現していました。発想、表現・歴史的ガジェット…すべてひっくるめてよくまとめあげたなぁと、ただただ感心するばかりです。
割と真相自体はありきたりで問題編のあたりから見当は付くオチでしたが、それを補って余りある伏線・設定でした。特に、生死と輪廻の話題にからめて、モコたんと阿Qのあのような関係に結びつけるとは…目からコンタクトが落ちましたよ。
いやはや、おもしろかったです。
そして、大変面白いお話でした。
慧音と妹紅の役割は、そのまま京極堂と榎さんの役割になるのかな?
憑き物を落とすのではなく、不要な歴史を食べる――ですか。
慧音さんの能力設定を上手く活かしているなぁと感じました。
言い回しもとてもよく「らしさ」が出ていたと思います。
しかしそれが仇となったのか、やはりキャラクターには違和感を感じました。それだけが残念です。
そういえば最後の部分なんですが、阿礼がそうだとすると、輝夜的にはどうなんでしょうねwww
反応が気になるところですw
それでは、長くなってしまいましたが、とても楽しい時間をありがとう御座いました。
少しダッシュが多いかな?とも思いましたが、読み進めて行くうちに気にならなくなりました。
白沢モードの慧音先生は黒ずくめの京極堂が満を持して登場するシーンを想起させる。
まさに慧極堂と呼ぶにふさわしい作品だと思います。ダッシュの多さも含めて。
そしてラストの阿求と妹紅にも感動。想像の余地のある部分を上手く話に絡めていて、
というかそれ以前に永い時を経て果たされる約束とかには超弱い。
全然まとまってない感想だけど、これだけはちゃんと言わせてください。
こんな素晴らしいものを読ませていただき、ありがとうございました。
一度読み始めたらもう止まらない!一夜を通して全部読ませていただきました。
こういう長編ミステリは大好きです。そういうのに限って阿求がよく出てくる(後の作品にですが)のですが、阿求は好奇心の塊だからお約束ですかね。
問題編で黒猫=お燐かと思っていましたので、大したことないなと正直、最初は思っていたのですが探偵編で雄猫かよ!ってわかって、やっぱことは単純じゃないなと改めて思いました。
慧音が素晴らしい名探偵並の推理を披露してる時はかっこよかった!里の知識人は侮れませんね。
ラストの妹紅と阿求のシーンは凄く感動しました。
ああいう時を越える約束のシーンは絶対に感動しますよ!
ラストもラストでしっかり書いていますね作者さんは!
そして最後に少なからず、ゆゆさまが関わっていたことに感謝!
由子の元ネタについてあとがきを読んでああなるほどって思いました。
確かにあの作品は素晴らしかったです。読んだらもう必ず、泣かずにはいられない感動大作ですよあれは!
ほととぎすさんの描写は素晴らしかったの一言てす。
あと、リーインカーネイションの辺りは思わず苦笑してしまいました。私も旧作の原曲の中では一番好きです。
色々長くなってしまいましたが、綜合してこの作品は本当に素晴らしくて面白くて、楽しめました!
作者さんに感謝をこめて最後に一言、
素晴らしい作品をありがとうございました!
慧音先生かっこよくて惚れた。
複数の細かい事象や会話を、最後の局面で一気に説き明かして落とす
やりたくても自分にゃーできません
ジョロウ蜘蛛の様にエピローグの一部を冒頭に持って来たり、ニヤニヤがとまりませんでした