「ほら橙、こっちにおいで」
「う、うん」
橙は足先から温泉に入ろうと、温泉の縁の上からそろそろと足先を伸ばしています。
ちゃぽん、という音と共に橙のつま先が湯に表面に触れました。
やがて彼女のつま先から脛(すね)まで、次に腰まで、最後に肩までお湯の中に浸かっていきます。
「ふにゃああああ……」
橙はどこか間の抜けている、しかし気持ちのよさそうな声を上げながら、湯の中で足をぐっと伸ばしました。
「どうだ、温泉は気持ちいいだろう?」
「はい、きもちいいれふ……」
橙が嬉しそうな表情を浮かべ、頬を紅潮させて答えます。
ふにゃふにゃとした声で答える彼女は、「まさに至福!」といった様子でした。
私もそんな彼女の様子を見て、なんだか嬉しくなります。
日頃紫さまに虐げ……もとい、いろいろと教育されたり、穴ぼこ結界の修復を代わりにやらされることなどの疲れも、すべてが癒されていく気がします。
裸のままちょうどいい温度の湯の中に浸かっていると、疲れやストレスやその他一切合切の悪いものが私の体の中から溶け出して、泡となって消えていくように感じられるからです。
それほど、橙と一緒に入る温泉は気持ちのいいものでした。
いつまでもこうしていたいと思えるほど、幸せな時間でした。
◆
「橙、そろそろ背中を流してあげよう。こっちにおいで」
私は湯から上がると、橙に風呂椅子のある方まで手招きします。
「はいっ!」
橙は元気よく返事をし、湯船から素早く出て、こっちに向かって早足で歩いてきます。
私は橙が風呂椅子に座るのを確認すると、垢擦りに石鹸を泡立てます。
そして、私も風呂椅子に座って、橙の染みひとつない白い背中を、垢すりで優しくこすってやるのです。
(そういえば、初めて一緒にお風呂に入った時は、もっと小さな背中だったっけ)
橙の背中の上でに垢すりを動かしながら、昔の橙のことを思い出し、少し懐かしくなりました。
(私も、紫さまにこうして背中を洗ってもらったっけなあ)
つられて昔の自分のことも思い出してしまい、懐古の情が大きくなっていきます。
目の前にいる橙の背中が、自分の記憶の中の、もっと小さかったころの橙の背中と重なっていきます。
そしてその姿が、幼いころの自分の姿と被って見えるようになります。
初めて私の式となった橙。
私とくだらないことで笑い合った橙。
私に叱られて、私の胸の中で泣いた橙。
初めて紫さまの式となった幼い私。
紫さまとくだらないことで笑い合った幼い私。
紫さまに叱られて、紫さまの胸の中で泣いた幼い私。
記憶の中の橙と自分が、重なって。
昔には戻れないんだなあ、という喪失感を感じて。
それでも、もう一度昔に戻ってみたいなあ、という想いが強くなって。
二度と還れない、子供のころを懐かしむ気持ちが、どんどん膨れ上がって――
「ら、藍さま!? どうしたんですか!?」
橙の声で、ハッとしました。
私は知らず知らずの内に、橙の背中をこする手を止めてしまっていたようです。
橙が私の表情を覗き込むように、心配そうな目でこちらを注視していました。
「藍さま、どうして泣いてるの……?」
そんな不安そうな声に、私は自分がいつの間にか自分の視界が潤んでいたことにようやく気付きました。
ぽろぽろと、瞳から涙の粒がこぼれます。
こんなことは滅多にないことです。
気がついたら他の者の前で、しかも自分の式神の前で泣いていたなんて。
橙が相変わらず不安そうな目でこちらを見ているのに気づき、
「ちょっと石鹸の泡が目に入っちゃっただけだよ、あいたたた……」
私はそう言って、大げさに目元をこすって見せます。
そして、垢すりについていた石鹸の泡がついた手で目元付近をこすってしまったので、今度こそ本当に石鹸が目に入り、「ぎゃおおおおおー!」と我ながら情けない叫び声を上げてのたうち回るのでした……。
◆
その夜。
「ら~ん~」
主の部屋から聞こえる気の抜けるような呼び声に、私は即座に反応しました。
「失礼します、紫さま」
言葉を終えると静かに襖を開け、脇息にもたれかかっている主人の前に正座します。
私の主人である紫さまは、相変わらず胡散臭い気配をたたえて、穏やかな様子で佇んでいます。
「どうかなさいましたか?」
私はできるだけ感情を殺した声で、主人に問いました。
しかしそんな様子の私を見て、紫さまは「ふぅ」と息を吐くと、気だるそうな口調でこうおっしゃいました。
「あんたねぇ……なんだか子供と大人の境界がすごく曖昧になってるわよ」
「えっ……」
思わず声が詰まりました。
子供と大人の境界。
その言葉に、今日の温泉での出来事を思い出します。
それは、今の自分の心の不安定さを表すのにこれ以上ないくらいしっくり来る言葉だったからです。
と同時に、紫さまが今日の私の様子をどこかで見ていたのではないかとの不安に駆られました。
紫さまは、本当に神出鬼没な方だからです。
「ゆ、紫さま、失礼ですが、どこかで見ておられてのですか!?」
私の慌てっぷりを見ても、紫さまは「あらあら、うふふ」と言いながら微笑むだけで、他の何もおっしゃいません。
急にいたたまれなくなり、私は恥ずかしさで顔がかあっと熱くなるのを感じました。
紫さまはそんな私を見てにやにやしながら、ようやく次の言葉を紡がれました。
「藍もまだまだ、子供ねぇ~」
「ううぅ……」
私は今度こそ恥ずかしさ極まって、言葉を失くしてしまいました。
やり切れない気持ちがぎゅっと握った両の拳に集まっていきます。
穴があったら入りたいとは、まさにこのことなのでしょう。
「まあまあ、そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃない~。
積もる話もあることだし、今日は一緒に語り明かしましょうよ~」
「嫌ですよう、どうせ私の暴露話になるんですから」
「なにようそれ。まったく、昔はあんなにかわいげあったのに。
今じゃしっぽは九本も生えちゃってフサフサのモサモサじゃない!
ちょっとモフモフさせなさい!」
紫さまはすっくと立ち上がると、正座したままの私の背後に回り、尻尾めがけてルパンダイブよろしく飛び込んできました。
「きゃあああ!?」
「あーいいわぁー藍のしっぽォ~モフモフしててしあわせよぉ~」
そしてそのまま尻尾の中に顔をうずめます。
ちょっ! ホントにくすぐったいですから!
「きゃっ、ゆかりさまっ、くすぐったいですってば! あははは!」
「モフモフ~モフモフ~」
「あはははっ……あっははははははは……!」
紫さまは私の尻尾を心ゆくまで何度も何度もモフモフと触り、撫でていました。
それがとてもくすぐったくて。
まるで心をくすぐられているようで。
心地よい思いを抱えたまま、その夜は更けていきました。
その夜だけは、子供のころに戻れたような、とても幸せな時間でした。
ふとした時に子供に帰れることって難しいけど大切ですね。
八雲家のほんわかした日常はいいですね。
温泉で石鹸のついた指でこすって悲鳴というか叫びに
ちょっと笑ったりもしたました。
その後の藍と彼女の尻尾をモフモフする紫様も微笑ましかったです。
良いお話でした。
でもちょっと短くて物足りない感じがありました。
もう少し事件みたいになってたら尚面白かったと思います。
ゆかりしゃま~とか言ってそうな藍にキュンときました。
まあ、個人の価値観なんで、気にしないでください。
いい話だった。連休は帰省しよっかな。
八雲家のほのぼのとしたお話はやっぱり良いものだ!!!!
ですます調は藍に合わないんじゃないかな。
あと一人称なのに客観的過ぎる書き方になってるから
もう少しキャラに入り込んで書いた方がいいかも。
例えば驚いた時に「驚きました」とかそのまま書くんじゃなくて
その驚きによる心の動きを描いて読者にそれを伝えるとか。
全体的に丁寧で、それぞれの情景が目に浮かぶようでした。
良い八雲一家をありがとうございました。