Coolier - 新生・東方創想話

火車へ至る想い

2009/04/27 01:18:26
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 その時私は猫で、名前はまだ無かった。

 いや――名前は、というのは適切では無い。
 何しろ、その時私は名前どころか、家族も無ければ棲家も無く、食べ物も無ければ
 明日を生き抜く力も無い、何一つとして持てるものの無いただの仔猫だったのだ。

 一体何処で生を受けたものか、それすらも判らないのだが、ともかく物心ついた時分には
 私は既に地獄に居た。
 地獄と言っても、地獄のような世界という意味では無い。八熱地獄と八寒地獄を擁する、
 十王の裁きの果てに地獄道に堕とされた者が生まれ落ちる文字通りの意味での地獄である。
 地獄と聞くと陰惨なイメージがあるかも知れないが、巷間言われている程怖ろしい場所では無い。
 何時の頃からか大挙してやってきたと言われる鬼達がその片隅に都を作り、秩序ある社会を
 築いているのだ。詳しい事は知らないが、彼らは人間達に嫌気が差して地上を捨てたのだそうだ。
 「鬼に横道無きものを」という言葉の通り、彼らは総じて嘘や曲がった事を嫌う。そんな鬼が
 統治する社会ならば、秩序を乱せと言うほうが難しいだろう。
 公明正大だが大雑把、そこかしこから酒の匂いが漂っているのが玉に瑕――私が居たのは
 そんな所だった。

 しかし、そこがどんな場所であれ、弱肉強食のヒエラルキーの土台たる私には何ら関係の無い事だった。
 親兄弟も居ない、飼い主も居ない、右も左も判らぬ野良猫は、その日を生き抜く事だけが全てである。
 鼠と争い、ゴミを漁り、時には餌を恵まれ、またある時は掠め取り、私はそうして細々と命を繋いでいた。
 彼女と出会ったのは――そんな時の事だった。



 * * * * *

 その日私は逃げていた。
 土蜘蛛にぶつかり、鬼の脇を潜り抜け、居並ぶ店先に陳列された青果や装飾品をぶちまけながら、
 口元にはその日の生を約束する一尾の魚をくわえて、怒号を投げつけながら私を追う魚屋の店主と
 必死の逃走劇を繰り広げていた。
 笑い話でも何でも無い。決して大袈裟では無い、善も悪も無い私と店主との戦いだった。
 一尾の魚を挟んで、私達は生死の遣り取りをしていたのだ。
 口から生命をぶら下げて、私は逃げて、逃げて、逃げた。この身を措いて大事な物など他に無い。
 何かを弾き飛ばし、何かを崩しながら逃げる。逃げて逃げて、ひたすら逃げて、そして私は捕まった。

 彼も無茶をしたのだろう、首根っこを引っ掴まれて持ち上げられた私の視界には、あちこちに
 擦り傷を作った店主の姿が映った。
 薄汚れた路地裏で、叫喚地獄の大釜に放り込んでやる、と店主が吼える。
 彼の怒りも無理は無い。彼の魚を盗んだ事は、一度や二度では無いのだから。
 だが私にそんな事を忖度している余裕などある訳が無い。魚だけは固くくわえたまま、 私は手足を
 滅茶苦茶に振り回してもがいた。しかし結果は、店主の怒りに更に油を注いだだけだった。
 店主がぎらりと音がしそうに光る包丁を取り出すのを見て、私は心胆縮み上がった。
 こんな所で死んでしまうのか。何の為に――生まれてきたのか。
 走馬灯となる程の思い出すら無い私の心に去来したものは、絶望ただそれだけだった。
 もはやどうする事も出来ず、私は無念と諦念に満ちた双眸で店主を見上げた。
 それが――私に出来る最後の抵抗だった。

 待った、という声が路地裏に響いたのはその時だった。

 石畳に靴を打ち付ける音が近付いてくる。続いて、じゃらりと小銭の擦れ合う音。
 金は自分が払うから、その猫を逃がしてやってくれないだろうか――そんな言葉が柔らかな女声で
 紡がれたのを、私は確かに聞いた。
 店主は彼女に向かって何事か怒鳴り散らそうとしたようだったが、三言も口にしない内に
 その声は萎んで消えてしまった。
 店主に遅れて女性に眼を向けた私は、直ぐにその理由を理解した。
 特徴的なその姿は、忌まれた妖怪達の集うこの地底にあって――尚忌み嫌われる妖怪のものに
 他ならなかったからだ。
 店主は小さく舌打ちをすると、女性の掌からありったけの小銭を掴み取って、それから私を
 叩きつけるように彼女の胸に押し付けて言葉も掛けずに去って行った。

 店主に押し付けられたままの格好で、彼女は私を抱きかかえた。
 労わる声を掛けながら頭を撫でた彼女に、私はびくりと身を震わせた。
 助かった――とは思えなかった。私はどうしようもなく怖かったのだ。
 屈強な妖怪達にすら忌み嫌われる妖怪に抱かれている事が。
 そして、その暖かな胸に――死霊の臭い、その残滓が幽かに纏わりついている事が。
 彼女は善意で私を助けてくれた。そう信じ切る事が出来なかった。
 私は弾かれたように彼女の腕から飛び出し、そして脇目も振らずに逃げ出した。
 彼女がその時どんな顔をしていたかは判らない。ただ一言、彼女の発した「あ」という言葉、
 それだけがいつまでも私の耳に木霊していた。



 * * * * *

 その日地獄は雨だった。
 地下世界にも雨は降る。どういう原理なのかは知らないが、黄泉路にだって降るのだから
 地底が雨を降らせた所で別段おかしくは無いだろうと思う。
 一ヶ月か二ヶ月か、或いは半年も経っただろうか。私は未だ独り、雨にけぶる都を彷徨っていた。

 状況は悪化の一途。
 私は相も変わらずその日を生きる事に精一杯で、まるで急勾配の下り道で走り出してしまった時の
 ように転んでしまう前にどうにか片脚を差し出す事に必死で、それが余計に自分を加速させていると
 解っていてもどうしようも無くて、つまり私はその先に何が待つかを知りながら、一心不乱に
 真綿で己が頸を絞め続けていた。
 身体は少し大きくなった。けれども、それに反比例するかのように私の手足は痩せ細っていた。

 もういいかな、と。その時は思ったのだろう。
 雨に追われて人影一つ無い広場の真ん中で、私は身じろぎもせず立ち尽くしていた。
 数十歩も歩けば軒下に身を伏す事は出来た。だが、私はもはや雨を避ける気力すら無かった。
 終わりの見えぬ輪廻のようにこの地獄でただ繰り返される日々に、餓鬼のように満たされる事も無く、
 修羅のように敵だけが増え続ける日々に、私の生存本能は摩滅してしまった。
 身体は徐々に冷えてゆく。降り止まぬ雨が体温を奪うなら――いっそこの魂も共に連れ去って
 くれればいい。そう思った。
 ――彼女は。
 あの忌み嫌われる妖怪は――どんな気持ちで私を助けたのだろうか。
 あの日救った命が、もはや抗う事も諦めて死を待っている姿をどう思うのだろうか。
 何もかもが擦り切れた私の心に浮かぶのは、そんな思いだけだった。

 その時――雨が止んだ。

 ざあざあと耳障りな音は続いている。眼前では未だ無数の水滴が地を穿たんと降り注ぎ続けている。
 ただ私の周囲だけが、時が止まったように静寂を取り戻していた。
 私は反射的に頭上を振り仰いだ。
 天地を丸く分かつ壁。雨の襲来を阻んでいたものは――薄紅色の、小さな天蓋だった。

 冷えて鈍った私の頭が、夢でも見ているのだろうか。
 私の瞳が映し出したのは、あの日の彼女そのもので。
 彼女は片手に番傘を担いで、まるで最初から一人誰かを待っているように、或いは一心不乱に
 空を持ち上げ続けているように、ただの一言も喋る事無く私と背中合わせに佇んでいた。
 私が振り向いた事などとうに気付いているだろうに、アトラスと呼ぶには可憐に過ぎる彼女は
 傘で私を密かに守りながら、矢張り微動だにせぬままどこか遠くを見ている。
 あの日のように私が怯えてしまわないように、ずっと遠くを見つめている。

 ――ああ。
 恩も知らずに逃げた私に――貴女はまだその手を差し伸べようというのか。
 助けた命さえ投げ捨てようとしていた私を、貴女は尚も救おうというのか。
 人の形を持つ者達がどうして涙を流すのか、私は初めて理解した。
 言葉に出来ない想いがあって。それでも、どうしても伝えたい想いがあって。
 人の身ならぬ私には、たった一言謝る事すら出来ないから――声を張り上げて、私は鳴いた。
 もう二度と怯えないから、もう二度と逃げないから、どうかもう一度その眼で私を見て欲しい。
 ただそれだけを伝えたくて、私は声が嗄れるまで鳴き続けた。



 * * * * *

 私と彼女の生活は、そうして始まった。
 彼女の家には小さな古びた書斎があって、私は専らそこで一日を過ごす事になった。
 書斎に篭っていなければならなかった訳では無い。ただ、彼女が家に居る間の大半を過ごすそこは
 彼女の柔らかな匂いがお香のように染み付いていて、私はそこにいると情けないくらいに安心出来たのだ。
 小さな部屋を更に狭めているのは壁に沿って並ぶ古びた書棚で、中には何とも武骨な装丁の本ばかりが
 無造作に詰め込まれていた。私は無論文字など読めはしなかったが、年季の入った椅子に掛けて
 真剣な顔でそれらと戦う彼女の姿からは、きっと何かの勉強をしているのだろうという事が容易に
 想像出来た。彼女の仕事を考えれば、それもむべなるかなといった所だろうか。
 就寝前はいつも同じ古椅子に腰を降ろして、膝の上に私を乗せて読書するのが彼女の日課だった。
 邪魔をしないように眼を閉じて、気付けばいつも暖かな毛布に包まれてベッドの上――まるで天国の
 ような毎日。皆に忌まれ、避けられ、罵られる彼女こそが、私を地獄から拾い上げてくれたのだ。
 私はまるで母親の傍を離れようとしない子供のように、彼女に甘えていた。

 彼女は朝早くから仕事に行く事もあれば、昼を過ぎてから出て行く事もあった。
 流石に仕事場まで着いて行く訳にはいかなかったので、私はいつも留守番だった。
 無論、それに文句などあろうはずも無い。ただ、掃除も洗濯も、何一つ彼女を助ける力が無い事だけが
 心苦しかった。
 彼女はいつも霊魂の臭いを纏わり付かせて帰って来る。その度に彼女はすまなそうな顔をするけれど、
 私はもう何も怖いとは思わなかった。そういう時は決まって、私のほうから彼女の胸に飛び込む。
 そうして彼女の困り顔が笑顔に変わるまで、私は彼女から離れない。そんな私の励ましに応えて、
 彼女はいつも笑ってくれた――その笑顔を見る度に、私はどんどん彼女を好きになっていった。

 私は滅多に書斎から離れようとしなかったが、それでも彼女が仕事に出ている時、何度か家の中を
 見て回った事がある。
 手入れをすれば更に美しくなるだろうに、髪をいつも撥ねるに任せている彼女らしく、部屋の中は
 どこもかしこも片付いているとは言い難い状態だった。だのにどこか清潔感すら感じられるのだから
 何とも不思議なものだ。
 そうして気の向くままに散策を繰り返す内に、ある時、彼女の家には彼女以外の気配が全く
 感じられない事に気が付いた。
 独り――だったのだろう。彼女も、矢張り。
 たった独りで必死に日々を生きる私は、彼女の眼には自分の事のように映ったのかも知れない。
 私が彼女と同じならば、彼女も私と同じだろう。
 だと言うのに、私はただ与えられるだけで、何一つ彼女に返せてはいない。
 そう思うと居ても立ってもいられなくて――愚かな仔猫だった私は、その日後先も考えずに
 家を飛び出した。



 * * * * *

 何をすれば――彼女は喜んでくれるだろう。
 影から影へ飛び移るようにひっそりと走りながら、私はひたすら頭を悩ませた。
 私に出来る事は少ない。
 金を稼ぐ事も出来なければ、護衛だって出来はしない。炊事に洗濯、掃除――どれ一つとして
 私に出来る事は無かった。何をすればと言う前に、何が出来るかを考えなければならない事に
 私はようやく気が付いた。
 そうして途方に暮れていた時、私の眼に一軒の露店が飛び込んだ。
 小さな店だがそれに反するように軽い人だかりが出来ていて、私は好奇心のままに近場の庇に
 飛び乗って陳列台を覗き込んだ。そこには紅や碧の透き通った石が整然と並べられていて、
 道行く女性は皆それらに眼を奪われているようだった。

 これなら、と思った。
 彼女がそういった石をいくつか持っているのは知っていた。これを贈れば、きっと喜んでくれるだろう。

 ――チャンスだった。
 店主は私に背を向けて、客相手に何やら説明をしている所だった。 私は一際大きな青い石に狙いを
 定めると、跳躍の為に身を屈め――止めた。
 盗んだ物を贈るのは、何か違う気がした。それに、万一彼女が猫を使って窃盗を行ったなどと
 見做されてしまっては笑い話にもならない。いくら私でも、それくらいの分別はあった。
 ならばどうするか――考えた末に、私の小さな脳は昔地獄の外れにある洞窟の中で光る石を
 見つけた記憶を掘り起こした。
 思い出した瞬間、私は路地に飛び降り、放たれた矢のように猛然と走り出した。
 私の身体に突然脚を撫でられて幾人かの悲鳴と罵声が上がったが、私は既に石の事しか頭に
 無かった。



 * * * * *

 ひんやりと湿る岩肌。忍び笑いで吹き抜ける風。いつかの記憶のままに洞窟はあった。
 感傷に浸る情緒など持ち合わせていなかった私は、入り口で動きを止めたのも束の間、
 景色を記憶と照らし合わせるとすぐに再び歩き出した。
 この洞窟には一度来た事があるだけ――それも私を捕まえようとした妖怪から身を隠す為に
 潜り込んだだけなのでその全容など知るべくも無いのだが、少なくとも私が知る限りでは
 それなりの広さを持っていた。入り口は妖怪一匹なら軽く通れる大きさだが、かと思えば
 私でも苦労する程小さな横穴があり、或いは龍のねぐらと見紛う空洞があり、と多様な
 拡がりと狭まりを見せており、それがこの洞窟の全体像を解り難くしていた。

 私は記憶を頼りに右へ左へ岩屋を進む。
 静かだった。感じるのは時折天井から逆さに私を観察する蝙蝠の視線だけ。その他の何者も、
 この洞窟には存在しないように思われた。それが――油断に繋がった。
 何度目の角を曲がった時だろう。
 唐突に、何の前触れも無く、いきなり目の前に桶が落ちてきた。
 それもただの桶では無い。中には人らしき子供の生首のようなものが入っていて、それが私を
 じっと見つめていたのだ。
 想像してみて欲しい。一寸先も判らぬ暗闇の中、前触れも無く落ちてくる生首入りの桶を。
 私は心臓が停止する程驚いた。驚いて、フギャアともヒギャアともつかぬ鳴き声を上げて、
 それから死に物狂いで駆け出した。
 その後を生首が追いかけて来る。私の周囲を右へ左へ跳ね回り、何事かを叫びながらついてくる。
 私はあまりの恐怖に前後も天地も解らなくなり、混乱した頭でただただこの化け物から逃げようと
 四肢に加速を命じ続けた。この時の私の速度は、最速と名高い天狗達をも凌駕していたと今でも
 確信している。
 生首の正体が桶の中に棲んでいる釣瓶落としという名の妖怪で、特に害のある存在では無いと
 いう事を知ったのは大分後の話であり。

 私が地面にぽっかりと開いた亀裂に転落したのは、やっとの思いでそれを振り切った瞬間だった。



 * * * * *

 最悪だった。
 固い地面に強か身体を打ち付けて、私は恐らく随分と長い間気を失っていたようだった。
 思いのほか寝過ごしてしまった時のような、世界に置いていかれたような理不尽な感覚と共に意識を
 取り戻したのは、一体どれ程時間が経ってからの事だっただろうか。
 見覚えの無い景色に、矮躯を苛む痛み。状況を理解した私は思わず跳ね起き、全身を刺し貫く激痛に
 再び倒れ伏した。
 肩が、脚が、腹が――身体全体が悲鳴を上げている。
 もう一度立ち上がろうという気すら起こらぬ程の激痛だった。骨の幾本かは確実に折れているだろう。
 運良く無事だった頸を回して天を仰ぎ見る。私が落下したと思しき亀裂は、遥か上方にその口を開けていた。
 周囲は切り立った絶壁で、万全の状態であったならば何とか登り切れたかも知れないが、
 前脚一つ満足に動かせぬ現状では万に一つの可能性も無かろうと思われた。
 他の出口を見つけようと私は尚も辺りを探ったが、横穴はおろか蟻の這い出る隙間すら開いてはいない。
 半径数メートルの牢獄に――私は言わば捕らえられたも同然だった。

 絶望よりも何よりも、怒りが身体を包んだ。
 この状況にでは無く、あまりにも愚かな自分自身への怒り。
 彼女は今頃私を探しているだろうか。それとも、逃げてしまったのだと考えているだろうか。
 いずれにしても、こんな事で彼女を苦しませてしまっているであろう自分の軽挙が許せなかった。

 どうしようも無い状況というものはある。
 私は既に、己が助かる事など諦め切っていた。この生き物の気配すらしない洞窟で、誰が
 私を助けてくれるというのか。
 だからこそ――私は私が憎かった。
 彼女の心に、恐らくは浅からぬ傷を残したまま、この世から消えてしまう己が。
 憎くて、悔しくて、哀しくてどうしようも無かった。

 その時、視界の端が何か違和感を捉えた。
 どうでもいい、放っておけという私の意思に反して、動くものを眼が勝手に追うように
 私は無意識にそちらへ頸を曲げていた。
 違和感の原因は直ぐに理解した。
 岸壁から崩落したのだろう、地面に無数に転がる岩とその欠片。それらの中にたった一つ、
 他とは違うものが紛れていた。一見すると他の岩と変わらないが、よく観察すればその
 表面には僅かに光る石が露出している。
 探し求めていた石をこんな所で見つけてしまうとは――何という皮肉だろうか。
 頭にカッと血が上るのが分かった。
 怒りに任せて石を叩き割ってやろうと身体を起こし、瞬間咎めるように全身を刺す激痛に呻いた。
 それでも尚も四肢に力を込め――私はそこで思い止まり動きを止めた。
 痛みに震える脚で掌程も無いそれを引き寄せて、そっと胸に掻き抱く。
 万分の一の奇跡を信じてみようと思ったのは――彼女の笑顔が胸に浮かんだからだった。



 * * * * *

 そうして一体何日が過ぎただろうか。
 岩肌を湿らす水滴を舐めて必死に命を繋ぐ私の耳に――微かに声が届いた。
 朦朧とする私の意識は、それを言葉として理解するのに多大な時間を要した。

 ――りん。

 りん。リン。燐。
 彼女がくれた私の名前を呼ぶ声が、幾度も、幾度も響く。
 それが形となって心の奥底に届いた時、私は痛みも忘れて跳ね起きた。
 私は尽きかけた命をあらん限りに燃やして、引き裂けんばかりに喉を震わせる。
 上空目掛けて投げ掛けた私の声と、それを捜す彼女の声が呼応して――彼女は遂に、私を見つけ出した。


 服は擦り切れ、綺麗な髪は埃に塗れて、肌には血が滲んでいた。
 それでも彼女は、私を優しく抱きしめて本当に嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見た時、私は本当の意味で、己がした事の罪の大きさを知った。

 混濁する意識の中で、私はそれでも一番大切な事だけは忘れなかった。
 肌身離さず抱いていた石を、私は恐る恐る彼女に渡し、頭を垂れた。
 怒られる事は覚悟していた。いや、何百回怒られても、私の過ちに足りはしない。
 しかし、彼女はきっとそんな私の胸中を察したのだろう。
 ただ一言、ありがとうと呟いて――彼女は私を更に優しく抱きしめた。




 * * * * *

 今にして思えば、彼女を私の所へ導いたのはあの釣瓶落としだったのかも知れない。
 そうでもなければ、あの広大な洞窟を私の落ちた穴まで辿り着けはしなかっただろう。
 穴に落ちたのもあの妖怪が原因ではあるのだが、私は未だに彼、もしくは彼女に感謝している。


 そうして永い月日が経った。

 私の彼女への尊敬は年を数える毎に大きくなり、それはいつしか憧れへと変わっていった。
 いつかは私も――彼女のようになりたい。二つに裂けた尻尾を見つめる度に、私はその思いを強くした。
 思えばこの特異な場所で育ちながら、何の影響も受けずにいる事のほうが難しかったのかも知れない。
 魔都の妖気に当てられて、その頃には私は見事に猫又へと妖化を遂げていた。
 このまま力を蓄えてゆけば、やがては人の形をとる事も出来るかもしれない。
 いつかは人の姿を得て、自らの言葉で彼女にありがとうと伝えてみせる。
 それが私のささやかな、しかし大きな目的だった。

 ――夢にも。

 彼女との別れが来るなどとは――夢にも思わなかった。



 * * * * *

 深く、暗く、長い階段を彼女は一歩、また一歩と降りてゆく。
 彼女に抱きかかえられた私は、眼を逸らしたくともその震動を嫌でも身体で感じてしまう。
 彼女の歩みはやがて、大きな扉の前で止まった。ゆっくりと開く扉の向こうに眼を向ける。
 その奥には――独りの少女がいた。

 彼女は少女と幾つか言葉を交わすと、私をそっと地面に降ろし、優しく背中を押した。
 彼女に迷惑をかける訳にはいかない。
 私は催眠術にかけられたように、ふらふらと頼りない足取りで少女の下へと歩いた。
 私を見下ろす少女の眼は、まるで虚無を映したように心が見えない。
 いつか絵本で見た地上の太陽が彼女ならば、この少女は白く冷厳な月そのものだ。
 人の形をした月は静かにしゃがみ込んで、私にすっと視線を合わせた。
 初めまして、とまるで囁くように言って、表情も変えずに頭を撫でる。
 そうして一呼吸置いてから、少女は静かに口を開いた。


 「私の名前は――古明地さとりです」
















■■■

「さて――そろそろお暇しようかしら」
律儀に飲み干したカップを静かに置いて、四季映姫・ヤマザナドゥが呟くように言った。
古明地さとりは特に何を言うでも無く、立ち上がった彼女に続いて椅子から腰を上げた。
「お邪魔したわね」
「いえ」
短く返して、映姫を外まで送るべくさとりは先に立って応接室の扉を開けた。
いつもの流れである。
年に一度――或いは数度、地獄と切り離されたこの地底都市の旧地獄跡には是非曲直庁の
監査が入る。灼熱地獄に蓋をするように建てられたこの地霊殿も無論例外では無く、
さとりはその担当である閻魔、四季映姫とはや数百年、こういったやり取りを繰り返している。
問題が無ければ三十分も掛からぬ監査と問答を受けて、茶飲みがてら少し雑談を交わす、
たったそれだけのシステマチックな付き合いである。尤も今回は身内の起こした事件――
というか異変のお陰で多少長引きはしたのだが、元々閻魔は生者の行いに過度に
干渉するべきでは無い身、部下への説教は自分でせよという方針であるらしく、異変に
気付かなかったさとり自身も余りお咎めは受けなかった。
数日前に発覚し、そして同日の内に一応の終着を見せた異変――その首謀者である霊烏路空と
それを隠していた火焔猫燐には、現在火焔地獄跡に謹慎を命じている。空に力を与えた何者かが
居る事は判っているのだが、肝心の空からそれらの記憶が殆ど忘れ去られている事と、どうやら
犯人は地上の神様であるらしいという事を知り、これは己の手に余るとさとりは早々に追及を諦めた。
この地霊殿に乗り込んで来た二人の人間か、さもなくば地上の妖怪達が適当に解決するだろう。
らしくも無く楽観的だと考えながらも、あの人間達ならばという予感めいた思いがあった。

滑るように廊下を歩く。足元に敷き詰められた緋毛氈が、二人の靴音を飲み込んでいる。
肩越しに視線を遣れば、歩く姿勢すらも美しく後に続く映姫と眼が合った。
「ペットの事をもっと気にかけてやりなさい」映姫は悔悟の棒を撫でて言う。「彼女らを
遠ざける貴女の振る舞いが、あの子達に畏怖を植え付けているのだから」
尤も――此度は皮肉にも、それが最良の結果を導く事になったのだけれど。そう呟いて小さく
笑うと、映姫はそこで何かに気付いたように口を閉じた。
「ええ、解っています。今回の事で――痛感しました」
そんな仕草を敢えて無視してさとりは言った。
――駄目ね、気をつけているつもりでもついつい説教が出てしまう。
映姫の心がさとりの単眼に流れ込む。視線を前に戻して、さとりは気付かれないように苦笑した。
誰彼構わず説教に持ち込んでしまう所が、この閻魔の数少ない欠点の一つなのだろう。
しかしそれでも、不愉快な気分にはならなかった。彼女が心から他者を案じている事が
さとりには解る。だからこそ、さとりもそれに反発しようなどとは思わない。
「今度、ペットを集めてパーティーでも開いてみようと思います」
「そう――いい心がけね」
背後の映姫が笑顔を見せたのが解った。

「おや」
目の前の通路を白い塊がサッと横切り、さとりは思わず足を止めた。直後に聴こえた鳴き声から
察するに、塊の正体はペットの白猫のようだった。その声で、さとりは一つ忘れていた事を思い出す。
「閻魔様」
足を止めたまま、今度は百八十度振り返る。
「今回は――お訊きにならないのですか」
「ええ……そうだったわね」
この数百年。地霊殿に赴く度に、映姫が必ずさとりに投げかけてきた言葉がある。
それは職務などでは無かったが、とても大切な事だった。このような事件が起こってしまった今、
もはや往時のような意味を持つものではなくなったが――それでも映姫は頷いて、静かに
口を開いた。

「燐は――元気ですか」





■■■

 何が何だか解らなかった。

 お別れだと彼女の口から聞かされた時、私は文字通り固まった。
 地獄が地底都市と切り離される。
 都は鬼に譲り渡す。
 地底都市は外の世界と断絶する――。
 彼女は長い時間をかけて訳を話したが、私の耳には何一つ入りはしなかった。
 私に解ったのは彼女がここから去る事、そして恐らく――もう戻っては来れない事。

 大丈夫だと彼女は言った。
 私を一人にはさせない、心配はしなくていいのだと話す。
 何が大丈夫なものか。貴女のいない世界など、私には耐えられる訳がないのに。
 縋る事も、喚く事すら出来ないこの身が憎かった。
 しかし彼女の充血した瞳に気付いて、私はそんな気持ちさえ掻き消えてしまった。
 彼女と二人、片時も離れず夜明けを迎えた。
 それが、彼女と過ごした最後の夜だった。



■■■

火焔猫燐は今でも思い出す。
彼女と離れてから――どれ程の月日が流れたのだろうか。
永い歳月はか弱い仔猫を望んだ化生へと変ぜしめた。しかしそれを一番知って欲しかった相手は、
もはやこの暗く明るい地底の何処にも居ない。
燐は眼前に広がる灼熱地獄跡の炎に彩られて尚紅い己の髪に手を添えた。
黒猫である自分が、黒では無くこの燃えるような紅髪を手に入れたのは何故なのだろうか。
霊と意思を疎通するこの能力は、彼女と似たこの鳶色の瞳は。
『恐らくは――彼女への憧れの発露でしょう』
今の飼い主である古明地さとりの言だった。そうかもしれない。いや――きっとそうなのだろう。
けれど。
燐は片手で車を行きつ戻りつ遊ばせながら、小さく溜息を吐いた。
彼女のような姿になって。彼女のように霊と話して。こうして彼女の口調まで真似て――
それで、一体何になるというのだろう。
燐は彼女とは違う。彼女になりたい訳でも無い。ただ――彼女と自らの言葉で話がしたかった。
燐の望みは、燐の願いは、それだけだった。
而して今の自分はどうだ。地底という名の密室の中にあって、更に小さな檻の中に閉じ込められている。
いや――解ってはいるのだ。悪いのは、この状況を作り出したのはさとりを理解出来なかった自分自身。
自分と空に謹慎を命じたさとりの悲嘆と後悔を押し隠した表情を見た時、燐は己が間違っていた事を
知った。だから、これは正当な罰だとも思う。
今更さとりの元を離れる気はない。さとりの事は敬愛しているし、燐ももはや何も出来ない仔猫では
無く、怨霊の管理という立派な仕事を命じられている地霊殿の一員なのだ。
けれど。いや、だからこそ――燐はただ会いたい。
生きる希望をくれたあの人に。地獄から救い上げてくれた彼女に。

――小野塚小町に、会いたかった。



* * * * *

燐を呼ぶ声が聞こえたのはその時だった。
反射的にそちらへ振り返れば、灼熱に歪む景色の向こうに二つの人影が見えた。
「あ――」
燐が一つ呼気を吐く間に、二人は熱波の海を泳ぐように彼女の前にひらりと降り立った。
「さとり、様……それに」
「久しぶりですね、火焔猫燐」
「閻魔様――お、お久しぶりです」
碧髪の少女に、燐は恐縮して頭を下げた。
死体を持ち去り怨霊を使役する事は火車が火車として在る為の業、閻魔がそれを咎と見做す事は無い。
地獄鴉ならばともかくも、以前にそう言われた事を燐は無論覚えているが、映姫の前ではどうしても
身体が萎縮してしまうのだ。恩人の上司だという事もあって、燐の口はいつもの半分も回らなくなる。
「元気にしているようですね――と言うのは、この状況では皮肉になりますか」
「……いえ、その。あたいが招いた事ですし」
ちら、とさとりを見る。先程から一言も発さずに、彼女はじっと燐を見ている。
「その話なのですが――」
そこまで言って映姫は一歩後ろに下がる。心を読んだか、予め打ち合わせでもしていたような
動きでさとりが逆に燐の方へ進み出た。
「お燐」
「は――はい」
なんでしょうか、と極力平坦な声で答える。緊張を見せてはいけない。きっとそういった
態度こそが、さとりを自分達から遠ざけているのだ。
さとりは少し驚いたような顔を見せた。燐は思わず眼を見張る。感情を表に出さないさとりの、
それは殊更に珍しい表情だった。
「さとり様……?」
おずおずと覗き込んだ先の表情が、今度は苦笑のそれに変わった。
さとりはぽつりと呟く。
「気を遣われていたのは――私の方だったとはね」
「え?」
「いえ……何でも無いわ」
「……? そう、ですか。ええと――今日は一体どうしてこちらまで」
何となくだが、悪い話がある訳では無いような気がした。さとりは小さく首肯すると、
何かを探すように上空に投じた視線をすぐに燐に戻して口を開いた。
「貴女とお空に、報告が二つあるわ」

あのう、と言いながら軽く挙手をする。
「なら、あたいお空を呼んで来ましょうか」
燐の提案に、しかしさとりは首を振って答えた。
「いえ、お空の所にはまた後で向かうわ。自分の足であの子の元へ行きたいし、それにお燐には
お燐の話があるから」
「はぁ、そう言われるなら……。それで、報告ってのは何でしょうか」
「ええ。まず一つ目――お燐、貴女とお空の謹慎を解きます」
「へっ?」
主人の言葉は、燐には予想外のものだった。
「と、解きますって――今ですか? 一ヶ月どころか、まだ一週間も経ってないのに……?」
或いは己の記憶違いかと考えたが、何度数えてみても謹慎を言い渡されてから七日と過ぎてはいない。
燐のした行為は、下手をすれば地上との争いの火種に成り得る可能性すらあった。それを理解して
いるからこそ、燐はさとりの下した判断に耳を疑った。
さとりは第三の瞳を目蓋を透かし見るように細めると、「閻魔様の手前でおこがましいけれど」と
前置きしてから口を開いた。
「罰は罪を悔い改めさせる為のもの。大事なのは日数の長短では無いわ。貴女は己のした事を理解し、
そして心から反省している。ならば――」
「そう。これ以上罰を与え続ける事に意味はありません」
二人の遣り取りを見守っていた映姫が、最後を引き受ける事でさとりの判断を保障した。
「大切なのは己の罪に気付き、理解し、心より悔い改める事です。無限に近い責め苦を受ける
地獄の虜囚達とて、本当はそれに気付けば直ちに輪廻の流れに戻る事が出来るのですから」
映姫は少しだけ哀しそうにそう言った。それからコホンと一つ咳払いをすると、映姫は燐に改めて
向き直った。
「さて、それでは二つ目の話ですが――」





■■■

 地霊殿に一室を与えられ、彼女と暮らしていた時より物質的にかなり豊かになっても、
 私はさとり様に中々心を開けなかった。いや、開こうが開くまいがさとり様には私の心中など
 全て筒抜けであったのだけれど、ともかく私はさとり様に懐こうとしなかった。
 他人に心を開く事は――彼女に対する裏切りのようで。
 私が心を許せたのはただ一匹――同じペットである地獄鴉、霊烏路空だけだった。
 放逐されてしまうのならば、それでもいいと思っていた。脆弱な仔猫であった頃ならば
 いざ知らず、妖魅の仲間入りを果たした今の自分であれば如何様にも生きられるだろう。
 しかし、彼女を失い捨て鉢になっていた私にさとり様は辛抱強く接し続けた。
 そうして。
 過ぎてゆく日々の中で、さとり様に抱いていた敵意にも似た反抗心は、湧き上がる罪悪感に
 少しずつ中和されていった。



 * * * * *

 数ヶ月が経った頃、地霊殿に閻魔様がやって来た。
 その頃には既に、さとり様に聞かされて私はこの地底の現状をある程度把握していた。
 忌まれた妖怪達が集いすぎたこの地を、地上の妖怪達は危険視し始めたのだという。
 さもありなん、単騎でもかなりの力を持つ鬼達を中心として、本来群れる事を善しとしない
 妖怪――それも忌避すべき力を持つ者達――が一つ所に結集しているのだ。それが地上に
 牙を向けば一体どうなるか――彼らの危惧は当然の事と言えた。とは言え、それはこちらとて
 同じ事だ。恐怖に駆られた地上の妖怪達がいつ攻め込んで来るとも限らない。元々、その
 殆どが地上から弾かれた者達だ。地上に不信や敵愾心を抱くのも無理からぬ事だろう。
 地下と地上、双方の実力者達は数度に渡って会合を設け、その結果一つの約定が交わされた。
 『地下の妖怪達が地獄の怨霊達を封じるならば、地上からは如何なる妖怪も地底に入らせない』。
 怨霊の管理は本来ならば無論獄卒達の仕事だったのだが、折りしもその時地獄が地底から
 切り離される事が決定され、為に都に残る地獄跡には新たな管理者が必要となったのだ。
 一見すれば渡りに船の条件だが、何の事は無い。解り易く言い換えれば、それは『地底の妖怪が
 地上に出て来ない限り地上は地下に手を出さない』という事になる。意味する所は変わらないが、
 元を辿れば地底の妖怪達は地上の妖怪に居場所を追われたようなもの、それを地上に出て来るなと
 言うのは如何にも体裁が悪い。地上の賢しらな妖怪達はそこで、こうした迂遠な言い回しを考えたのだろう。
 尤も、文言が何であろうと自ら望んで地底に来た妖怪達がそれに否やを唱えるはずも無い。
 納得しなかったのは――私のような声無き少数者だけだった。

 こうして地底は地獄と分かたれ、地底都市の扉は閉ざされた。獄卒として地獄に居を
 与えられていた彼女は畢竟、新しい地獄に移り住まざるを得なくなった。言わば地獄の
 付属品を共に移動するようなもので、それ自体には何ら問題は無かったらしい。
 ただ。私は――駄目だった。
 いくら彼女と一緒に暮らしていようとも、私自身は是非曲直庁と何の関係もありはしない。
 加えて私は若輩と言えど既に猫又――地底に棲まう妖怪達の一員であった。
 彼女は鬼達にかなり食い下がってくれたらしい。けれど、どうしても許可は下りなかったのだという。
 考えてみれば当然の話ではある。結んだばかりのルールにいきなり特例を作るような事は、確かに
 認められるものでは無いだろう。そうでなくても、約した事は必ず守る鬼達だ。例えどんな理由が
 あろうと、彼らに道を開けさせる事は出来まい。
 残る手段は、形だけでも私を獄卒として登用してしまう事だが――この世で最も公平でなくては
 ならない是非曲直庁が、まさかそんな事を許す筈も無い。
 最初から、抜け道などありはしなかったのだ。
 私と彼女を繋ぐ糸は、無慈悲な刃にいとも容易く断ち切られた――そう思った。
 だから。
 閻魔様が監査に来ると聞いた時、私は一も二も無くさとり様に拝謁を願い出た。

 彼女との長く短い暮らしの内で、たった数回だけ、家に客人が来た事があった。それがつまり、
 彼女の上司である閻魔様だったのだ。
 その時の閻魔様と、監査の担当者が同一人物かは判らなかった。しかし、途切れたはずの繋がりが
 まだ生きているかも知れないとなれば、二の足を踏む理由など何処にも無い。
 そして――私は見事、賭けに勝利した。
 さとり様に招かれて応接室へ入った私の眼に飛び込んだ人物は、記憶にある彼女の上司そのもので。
 恐る恐る歩を進める私をその輝石のような双眸に映して少女は一言、元気なようでほっとしました、
 と言った。
 貴女が無事に暮らしているか教えて欲しいと小町に懇願されましてね――閻魔様のその言葉を、
 私は生涯忘れないだろう。絶望的に閉ざされた壁の向こうにあって尚、彼女は私を心配してくれていた。
 忘れないでくれていた。その事実が鮮烈な光となって、私の心に再び生きる希望を注ぎ込んだ。

 何か言い伝えておく事は無いかと聞かれたが、私は丁重にそれを辞退した。地底都市の閉鎖は
 いつかきっと解けるはずだ。だから――私は必ず生き抜いて、私の言葉で彼女にありがとうと
 伝えてみせる。届けたい想いは全て、その時まで胸の奥に仕舞っておく。
 貴女の想いはいつの日かきっと成就するでしょう、さとり様を介して答えた私に閻魔様はそう言って
 優しく微笑んだ。

 それから。
 年に数度の監査の度に閻魔様は私の元へ顔を見せては彼女の様子を教えてくれた。
 新しい環境に、彼女は直ぐに馴染めたらしい。地上にも随分と友人が出来たそうだ。それを聞いて
 私は大いに喜んだが、勿論驚きはしなかった。本来の彼女が誰からも好かれ、慕われるような
 性格である事は他でも無い私が一番良く知っているのだから。
 ここでは彼女は死神であるが故に忌避された。その象徴であるいびつな大鎌を誰もが怖れ、蔑んだ。
 妖怪も人も、天神地祇すら、死に打ち克つ事は出来ない。だからこそ、誰もが彼女を憎み、忌み嫌った。
 彼女の纏う「死神」から眼を逸らし、遠ざかり、逃げ出した。彼女自身を――誰も見ようとしなかったのだ。
 そんな周囲を宿命だと笑い捨てる彼女を見るのは、とても辛いものだった。
 だから、彼女の変化は私にはまるで自分の事のように――いや、それ以上に喜ばしいものだった。
 彼女は随分明るくなったという。その分不真面目になってきた事だけが困りものだと閻魔様は言ったが、
 私はそれでもいいと思う。今ではあの死神の鎌をすら、お客向けのサービスだなどと嘯いているらしい。
 きっと彼女は今、何ら屈託無く笑っているのだろう。その笑顔を想像する度に、私は逢いたい思いを
 強くした。



■■■

「え――」
二人の口からもたらされた報告に、燐は言葉を失った。
「す、すみません……今、何て」
乾いた喉から無理矢理に声を出す。聞き間違いでは有り得ないと解ってはいても、確かめずには
居られなかった。さとりは長く付き合った者にしか判らぬ程微かに笑うと、ゆっくりと言い含めるように
繰り返した。
「終わった、と言ったのよ。地下と地上の断絶が、ね」

燐の身体からは我知らず力が抜けていた。熱く鼓動する地面にへなへなと座り込んで、呟くような
声を出した。
「……本、当に……」
「私を含めた地下と地上の有力者達の決定よ。この数百年で――もはや下にも上にも、他方に害意を
持つような妖怪はいなくなった。それを知るきっかけとなったのが、鬼達に地上を棄てさせた人間で
あった事は皮肉だけれど。そして彼女達をここに導いたのは――」
言いかけて、さとりは何かに気付いたように言葉を止めて燐を見た。
さとりの言葉は聞こえていた。聞こえていたが――頭に届きはしなかった。
頑強な堤に僅か開いた蟻の穴のように。或いは堅牢な砦に一点生まれた突破口のように。
静かな衝撃が亀裂を伴って全身を駆け巡り――幾百年を耐え続けて来た燐の心の蓋を、それはとうとう
吹き飛ばした。
楽しかった事。苦しかった事。
あれも。それも。これも。どれも。
在りし日の思い出がまるで走馬灯のように次から次へと溢れ出して、もはや他には何も考えられなかった。

「……そうね。今は、そんな話はどうだって良かったわね」
さとりは緩く首を振って苦笑すると、燐の前にそっとしゃがみ込んだ。昔と変わらぬぎこちなくも
優しい手つきで、彼女の細い指が燐の紅髪を静かに撫でた。
「おめでとう、お燐。良く――頑張ったわね」
「――さ」
焼け付くような感情の坩堝の中で歪んだ表情を見られまいと顔を伏せた。
「……さと、り、さ」
様、と言い切るまで――燐の喉は持たなかった。
声の代わりに、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。数百年分の涙が視界を、世界を埋め尽くしてゆく。
もう一度「彼女」に逢いたい。
ただ、たったそれだけの為に――密やかに、しかし必死に生き抜いて来た少女の涙を、一体この世界の
誰が咎められるだろうか。
灼熱地獄跡の全てが、彼女の嗚咽を残して動きを止めたようだった。
その静寂の中でただ一人、肩を震わせて泣く燐の髪を、さとりの手が優しく撫で続けた。

「……さあ、燐。涙を拭いたら地上へ行く準備をしなさい。あの果報者が仕事を切り上げて
帰ってしまわない内にね」
映姫が優しく声を掛ける。
「……はい」
さとりの手がそっと離れたのを合図に、燐はごしごしと涙を拭いて立ち上がった。
「ありがとうございます、さとり様、閻魔様――」



* * * * *

足元に転がる手ごろな岩に腰を下ろして、小野塚小町は立ち上る川霧の向こうの夕日をぼんやりと眺めた。
「ふぅ……」
本日の仕事はここまで。今日は中々頑張ったと、全身の力を溜息に混ぜて吐き出しながら一人ごちた。
現世と幽世の境も定かならぬ三途の河岸にあっても、幻想郷の空を鮮やかに染める今日の夕日は良く見える。
「今日はまた、一段と見事だねぇ」
ぽつりと吐いた独り言は、勿論本心からのものだった。
確かにそう思いながらも、しかし何かが欠けているという漠然とした感覚を小町は拭い去れずにいた。
そう。何かが欠けている。
あの日から――ずっと。

色々な事があった。
得がたい経験があった。素晴らしい景色が、忘れられない思い出があった。
しかし、眼を閉じれば写真の山を引っくり返したように脳裏に浮かぶ無数の光景のどこにも、小町の求める
姿は映っていない。
「……燐」
逢いたかった。せめて――もう一度だけでも。
宵越しの銭は矢弾と投げ捨てる小野塚小町らしくも無い――そんな事は誰に言われずとも解っている。
それでも。
百年が経ち、二百年が過ぎ、悠久の時の流れにさらされて何もかもが変わってしまおうとも、
あの小さな黒猫と過ごした日々の記憶だけは決して忘れない。燐がいてくれた事で、自分は一体どれ程
救われた事か。
一瞬でもいい。再び出逢えるのなら、千年だろうと待ち続けよう。
だから――。



* * * * *

「閻魔様が船頭一のサボリ魔だと仰るから、どれだけ変わってしまったのかと思ったけれど」

夕闇から染み出す如く背中に投げかけられた声にそちらを振り返った小町は、数秒遅れてまるで
幽霊に遭遇した人間のような呆け顔を見せた。
「その似合わない悩み顔は、最後に会った時の貴女そのものね。少し安心したわ、小野塚小町」
「お、お前さん、古明地の――」
弾かれたように立ち上がった小町と対照的に、古明地さとりは静かに歩を進めた。
「久しぶりね……随分と。元気だったかしら」
「あ、ああ……お前さんこそ――って、そうじゃなくて! ちょっと待ってくれ、お前さんが一体
どうしてここに、いや違う、まさか地下の封鎖は……い、いや、それよりも――だからだな、ええと……
ああもう!」
小町はわしわしと頭を掻き毟る。訊きたい事が多すぎて頭の中が混乱しているのであろう事が、
傍目からも容易に見て取れた。さとり妖怪ならば尚の事だろう、小町の思念の過剰流入を防ぐ為か
彼女は第三の瞳を薄く閉じて悪戯っぽく笑った。
「私は厩戸皇子では無いから、一度に沢山訊かれたって返せはしないけれど……そうね。
とりあえず今、貴女の頭を跳ね回っている疑問達に関しては――全てイエスで答えられると思うわ」
「……そ、それは、どういう――」

「姐さんっ!!」

我慢の限界だった。
どうにも心の準備が出来なくて、燐は木々の間に隠れたままさとりに話を進めて貰っていたのだが、
こうして古木に身を預けていられたのも数分、瞳に映るあの日のままの小町の姿は恥だの外聞だの体裁だの、
或いはさとりの面目だの何だのといった両足に重く絡み付く有象無象を一つ残らず粉微塵に吹っ飛ばして
しまい、燐は飛び出したが早いか叫んだが先か、もう自分でも解らぬままに小町に向かって一直線に
駆け出して――。
「うおぁっ!?」
燐に全霊で抱き付かれた小町はそんな悲鳴を空に残して派手に地面へ倒れ込んだ。

「あいててて……」
上体を起こして背中をさする小町を申し訳無く思いつつも、燐は一度抱き締めた小町から身体を離せずに
いた。ついでに言えば、胸に押し付けた顔も上げる事が出来ない。彼女と眼が合えば――涙が溢れて
しまいそうで。
「……で、ねえさんてな何の勘違いだいお嬢ちゃん。あたいは舎弟を持った覚えは無いんだけ、ど――」
少し平静を取り戻したらしい小町の軽口はそこで止まった。

「……燐……?」

長い時間を掛けてゆっくりと紡ぎ出されたその声は微かに震えていて――だから燐は、漸く顔を
上げる事が出来た。
涙を零してしまったのはどちらが先か――そんな事はどうでも良かった。ただ、目の前の彼女が自分の為に
泣いてくれている。それだけが燐には――そして恐らく小町にとっても、この上無く嬉しい事だった。



* * * * *

さとりの姿はいつの間にか消えていた。私が居ては無粋だからと一足先に退場した映姫と共に、
或いは今頃どこかでお茶でも飲んでいるのかも知れない。

燐は小町と隣り合わせに座って、幻想郷の星空を静かに眺めていた。
地上の景色はどこまでも果ての無い美しさに満ちていて、燐は何故だかまた涙が流れそうになった。
「……不思議なんです。あたい、姐さんに逢えたら話そうと思ってた事がいくつも、いくつもあって。
なのにどれもこれも皆、いつの間にか頭から消えちゃって」
この眼に映る星の光よりも、もっともっと沢山あったはずなのに。
そう呟いた燐の横で、小町がからからと笑った。
「同じだよ、あたいもさ。嬉しかった事も悲しかった事も、ありきたりな芝居の筋書きみたいに
何もかも皆消えちまった。だけどいいんだ、そんな事は。これから少しずつ話していけばいいさ」
それに、と言って小町は燐に向き直った。
「一番言いたかった事は――ちゃんと憶えてるんだ。そしてそいつを言える相手がここにいる。
これ以上の事は無いさ」
小町の言いたい事が何なのか、燐は解った気がした。そうしたらまた涙がじわりと滲んで、燐は
慌てて空を振り仰いだ。
「……あたいも、そう、思います」

この空に光る星は、眼に見えるものが全てでは無くて、考えも及ばない遥か彼方まで、無数に
散らばっているのだと聞いた。
ならば――その中でただ二つの星が出逢う事は、どれ程稀有な事なのだろう。
――どれほど、幸せな事なのだろう。

顔を下げた燐の視線と、小町のそれが交差した。悪戯っぽく小町が笑う。つられて燐も笑顔を見せた。
全く自然に、全く同時に――二人の声が大気を揺らした。



「ありがとう」






ここまで読んで頂いた方に感謝を。

今回で二作目になります。
この二人の類似は誰でも思いつくであろう事だけにネタ被りが怖いのですが、
こういった形で書かれた方はきっとまだいないだろうと信じて書き上げました。
楽しんで頂ければ幸いです。
Azi
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コメント



0.2610簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
心暖まりました、、、!!
ありがとう!
12.100名前が無い程度の能力削除
凄く面白かったです。
時間を忘れてSSを読むなんて久々でしたよ。


作者名見てまさか二作目が読めるとは、と思いました。
三作目も期待していいのでしょうか?
14.100名前が無い程度の能力削除
こいつはお見事。途中まで見事に引っかかっていました。
お燐と小町にそんな関係があったとは……
面白かったです。
15.100煉獄削除
暖まるというかちょっと感動した面白いお話でした。
この長さでも苦にならずスラスラと読めましたし
お燐と小町の出会いから再会、互いに「逢いたい」と思う気持ちや
「ありがとう」という言葉がとても魅力的なお話でした。

脱字の報告です。
>固い地面に強か身体を打ち付けて
『強かに』ではないでしょうか。
20.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
中盤からは特に引き込まれました。



だのにどこか清潔感
は誤字かなぁ
21.100名前が無い程度の能力削除
時間を忘れて読みました。
お燐には何故か苦労話が似合う。
27.100名前が無い程度の能力削除
焔髪あ隊最高ォォッ!!

本当に善い話だなぁと感じましたね。
29.100名前が無い程度の能力削除
いい話でした。
33.100てるる削除
またあなたの作品が読めるとは!
あなたの書くこまっちゃんはほんといい!

この逢いたいって感じがものすごく惹かれます。

ものすごく熱中して読めました~。
危うく電車を乗り過ごすところでした;
35.100名前が無い程度の能力削除
な、なんといういい話……。
100点をつけざるを得ない……!
楽しませてもらいました。
ありがとう。
36.100名前が無い程度の能力削除
Aziさんの書く小町は前作も今作も魅力的すぎて困ります。
お燐、さとり、映姫の人物描写もとても素敵でした。

死神と火車ということで相対するように書かれることが多い二人ですが、
自分にはこっちの関係の方がしっくりきて心温まりまくりです。
良いものを読ませていただいてありがとうございました。
何ヶ月だろうと三作目を待つぜ!
37.100名前が無い程度の能力削除
地上と地下との距離を縮める、そんなところまで恩人に似ますか、お燐。

心の動きが細やかに描かれた、よい作品でした。
40.100名前が無い程度の能力削除
お燐と小町の共通点がわかる気がした

すごく筋書きもよく惹きこまれました…

ありがとう
47.90名前が無い程度の能力削除
途中まで完全に引っかかってしまった
綺麗な文章です
53.100名前が無い程度の能力削除
何とはなしに読みましたが、とても良い話でした。