篠突く雨に耳を澄ませて、軒先から垂れ落ちる水滴を眺めるも一興。
普段は商人やら農民でごった返す大通りとて、雨に見舞われては活気で賑わす暇もない。閑寂に包まれる通りを、水滴越しに見るのもそれはそれで雅だった。濡れていない地面にハンカチを広げ、阿求は腰を降ろしていた。
晴れの日は気持ちがいい。だが、時には喧噪や日光が煩わしく感じる。雨の日は陰気で湿っぽいが、心地よい雨音と程よい暗がりがあった。どちらが好きかと聞かれれば、躊躇わずどちらとも、と答える。一長一短であるものを、わざわざ甲乙付ける必要など何処にも無い。
暗々と光を遮る雲の層を見上げる阿求の顔には、鬱の色など欠片もなかった。むしろ望んでいるかのようにさえ見える。仮に通りを過ぎゆく人があったならば、そんな彼女を不思議に思っただろうか。手傘で目を守ってやらねば前も見えぬ雨の中、おそらくはそんな余裕もありはすまい。唯一の救いは風が無いことであったが、あるなら阿求とてもうちょっと引っ込んだところで雨宿りをしていたであろう。
膝をへの字に曲げて、弛んだ朱袴を雨に濡れぬようたぐり寄せる。先頃から降り始めた雨は、いまだに止む素振りすら見せない。雲の掛かり具合からしても、あと数刻は降り続ける。それを理解している人間は雨宿りなどせずに、駆け足で各々の家へと駆け込んでいった。雨宿りをしている酔狂者など、見える範囲では阿求だけだった。
それを寂しいとは思わないけれど、話し相手がいればきっと楽しいだろうなとは思う。雨の音を聞くのも耳に優しいわけだが、いかんせんリズムが単調で数刻も聞ける代物ではない。飽きる。飽きるのだ。
さて、果たしてその域に達するまであと何分かかるのか。
もっとも、飽きたら帰ってしまえばいいだけの話。さして危惧するわけでもないし、切実に誰か話し相手を求めているものでもなかった。だからこれが運命の仕業だとしたら、よっぽど暇なのだろう。運命という奴は。
「雨宿りとは風流だね。ちょいと私も邪魔させて貰うよ」
唐傘片手に軒先へ侵入してくる鬼。傘を持っているのに雨宿りとは、これいかに。
疑問混じりの視線に動じることもなく、鬼は堂々と阿求の隣に腰を降ろした。ちなみに言っておくが鬼とはこの所行に対する阿求の印象ではなく、種族名である。幻想郷縁起の編纂に携わる阿求でなくとも、額に角が突いていれば誰だって鬼だと分かるだろうし。あとはもうユニコーンぐらいしか思いつく種族はないのだが、見た風貌からして鬼なのは間違いない。
「傘があるのに雨宿りですか、あなたもなかなか面白い鬼ですね」
「傘があるから、こうして自由に雨宿り出来るんだよ。鬼とか人間とか関係なくね」
水滴を払い、唐傘を畳む。どうやら本格的に雨宿りをするらしい。広かった軒先が、少しだけ狭くなった。しかし不快な狭さではない。
「あんた、名前は?」
「稗田阿求と申します」
「へえ、あんたがあの阿求ね。いやあ、噂はかねがね天狗から聞いてるよ。私たちを取材しようなんて変わり者、あんたしかいないからねえ」
「おや、天狗は取材に来ないんですか?」
難しい顔で腕を組み、ただでさえ豊満な胸がより強調される。男ならず女でも思わず唾を飲み込みたくなる。
「天狗はあまり私らにいい顔しないからね。望んでは来てないだろう。本心は覚りのみぞ知るってところだけど、まあ顔色ぐらいは私でも分かるさ」
察するにあまり好ましい話題ではなかったのだろう。いかに鬼の身体が強靱だろうと、心まで強く出来ているとは限らないのだ。現に大半は地下へと移ったわけだし、案外脆い種族なのかもしれない。
「つまらない話をしたね。ただでさえ陰気くさいこの雨空だ。せめてこっちぐらいは明るく行こう」
快活に笑い、白い杯を手渡してくる。阿求は眉を潜め、手元の杯を不思議そうに見つめた。鬼は手ぶらだったのに、一体どこから出てきたのか。この杯。顔を上げれば、今度は酒が一瓶、鬼の手の中にあった。
手品も嗜むのか、最近の鬼は。今後の調査が必要だと、頭に書き留めておく。
「明るい話には酒が付きもの。あんたもイケる口だろ?」
「嗜む程度に」
「趣味として? 酒として?」
至極面白そうな鬼の問いかけ。どちらを選ぶかによって、その意味は大きく異なる。
阿求は悩む事無く、平素と変わらぬ表情で答えた。
「酒として」
立てた膝を叩き、鬼は嬉しそうに言う。
「神界の天水より作ったと言われる名酒『笹船』。あんたと飲むなら惜しくない」
「雨宿りに天水とは、これはまた雅な話で。頂けるなら、有りがたく」
楚々と控えめに差し出した杯に、なみなみと鬼が酒を注ぐ。ともすれば豪快に溢れさせるほど注ぎそうな言動の割に、その手つきは従者のように洗練されていた。酒を愛する鬼だけある。
零れそうなほど注がれて、まだ底が見える清酒。一瞬だけ飲むのが勿体なく思えたけれども、酒は飲まれてこそ酒。保存や鑑賞にさしたる意味はない。そう思い、おもむろに口をつけた。後は飲み干すまでに、さしたる時間を要さなかった。
いかに表現していいか。語彙の乏しさを恨めしく思える味に、抗う術など有りはしない。一気のみしたくなる酒というのは、なんと罪作りな酒であろうか。
感想を求めている鬼の視線に気付き、目を合わせたところで、さて困る。いかな言葉を用いたとしても、この酒の前では陳腐なおべっかにしか聞こえない。だとすれば、下手な修飾語など却って邪魔だ。千の言葉よりも、万の言葉よりも、一の言葉が相応しい。
「とても美味しかったです」
孫を褒められた老人のように、鬼の顔が綻んだ。美味い酒を飲むのも気分は良くなる。だが、その酒の美味さを誰かと共有することもまた、言いしれぬ喜びがあるものだ。酒を本に置き換えるのならば、阿求とて理解できる節はあった。
「いいね、いいね。どんどん飲んどくれ。私も飲む」
「では御言葉に甘えて」
迂闊に遠慮をしようもなら、この鬼は確実に瓶を空ける。せっかくの名酒、また飲める機会があるかどうかは分からないのだから、その味をしっかりと舌に刻み込んでおくのも悪くない。
鬼が飲み、阿求が飲み、鬼が飲み、阿求が飲み。それを何度か繰り返したところで、瓶はとうとう空き瓶になった。いくら名酒だろうと、飲み続ければ無くなる。至極当たり前の話だ。
「実に良い酒だった。良い酒だったけど、まだまだ飲み足りないねえ」
「この雨だと屋台も出ていないでしょうし、酒屋は休みです」
「それはまあ、どうしたもんか」
鬼の頭には、ここらで止めるという選択肢が無いらしい。阿求の頭にも無かったが。
困る二人を見かねてか、思わぬ所から助け船がやってきた。
「酒なら此処にあるよ」
雨が煙る中、ビニール傘を片手に、日本酒を一瓶片手に抱える死神。思わぬ所に思わぬ奴がいた為に、しばし二人とも言葉を失った。それを察して、死神が経緯を話し始める。
「今日は珍しく仕事が休みだったからねえ。四季様も忙しそうだし、一人寂しく酒でもやろうと思って里まで出てきたんだよ」
「しかし酒屋は休みのはずでは?」
「ああ、夜雀に頼んで一本譲って貰った。どうせ屋台も出さないだろうからって、快く譲ってくれたよ」
ああ、その手があったか。心の中で手を打っておく。
「これで晩酌でもしようかと思ってたんだが、雨宿りならあたいも付きあうよ」
口の端を意地悪く歪め、鬼が尋ねる。
「今は昼だよ。晩酌にはちと早い」
「じゃあ昼酌だ」
「要するに飲みたいんだろ?」
阿求の隣に腰を降ろし、あぐらを掻いて酒の封を切る。
「違いない。さあ、飲もう」
「よし、飲もう」
「まぁ、飲みましょうか」
いつのまにか一口増えていた杯。一つは鬼、一つは死神、一つは阿求。それぞれがそれぞれを手に持って、酒を傾け飲んでいく。口から出るのは、明日には忘れそうなくだらない話。
「前々から気になってたんだが、死神がいるなら生神もいるのかね?」
「現人神なら聞いたことあるけど、少なくともあたいは耳にしたこともないね。稗田は?」
「私もありません。ですが、探せばどこかにいるかもしれませんね」
「酒の席で思った戯言だ。わざわざ探そうとも思わんよ。ああ、そうだ。死神が生きてりゃ生神だな。なあ、死神」
「なんだい」
「ちょっと生きてくれ」
「あー、あたいも多少は長いこと死神をやってきたつもりだけれど、そんなお願いをされたのは初めてだね。生きてくれか、いやはや難題だ」
「死神は死んでいるから死神ですしね。生きている鬼に死ねと言うようなものです」
「なるほど、酷なお願いをしたようだ。悪い、死神。忘れてくれ」
「じゃあ忘れようか。酒の席だしねえ」
「酒の席ですし」
「酒の席だし」
つまらない話に花を咲かせ、雨を背景音に酒が進む。愚痴混じりに飲む酒よりも、やはり笑顔で飲む酒の方が美味い。本能か経験か、三人ともそれをよく知っていた。だから此処で愚痴を零すものはいないし、笑顔を絶やす者もいない。かといって、それは無理をして出した笑顔でもなく。心から面白いと思っている者だけが出せる表情であった。
笑顔と酒と雨と。
真っ先に切れるものがあるとすれば、やはり物の酒だ。三人掛かりで飲んだものだから、あっという間に空になった。また夜雀から譲って貰うのも億劫だし、あちらも迷惑に思うだろう。そして酒屋は休み。よって自然と解散の方へ話が進むのも、仕方ないことであった。
「いや、なかなかに美味い酒を飲めたよ。死神、稗田。今度、暇があったからまた飲もう」
「ああ、いいさ。もっとも、うちは怖い上司がいるからね。お伺いを立ててみないことには、どうにもこうにも」
「なに、その時は上司共々誘えばいい」
「ふむ、そりゃあ名案だ」
割と真剣に考え込む死神。上司の閻魔が酒好きだったら良いのだけれど、逆だったらお小言の材料が増えそうなもの。どちらに転ぶのか、阿求には知るよしが無かった。
「私の方はいつでも里にいますので、また機会があれば誘ってください。美味しいお酒でした」
「ああ、そうするよ。しかし」
唐傘を広げた鬼が、振り返って口を開く。
「見れば見るほど共通点の無い三人だね。いやはや、どうして巡り会えたのか、今更ながらに不思議だよ。私はちょいと天狗から酒を貰って、ついでに里まで様子を見にきただけなのに」
違いない、と死神も頷く。ただ、阿求だけは不思議そうな素振りすら見せない。運命の悪戯も多少は含まれているかもしれないけれど、大凡は巡り会うべくして巡り会ったのだ。
「お酒の好きな三人が、たまたまた雨に見舞われた。その三人が軒先に集ったのなら、気が合うのも必定。強いて言うなら雨のせいで、酒のおかげと言うべきでしょうか」
「酒と雨なら仕方ない」
「ああ、仕方ないね」
深く頷き鬼は地下へ、死神は三途の川へと帰っていった。
雨はまだ降り止まない。一人取り残された阿求も、そろそろ雨の音が飽きてきた頃合いだ。このまま此処にいても、おそらくは退屈なだけだろう。家に帰るか。
そう決めたところで、不意に呼び止められる。
「おや、稗田」
知った顔だ。上白沢慧音。寺子屋で子供達に勉強を教えている、里の守護者。阿求も頻繁に顔を合わせ、書物の交換や意見交流を繰り広げていた。里の中では、おそらく最も親しい人物だろう。
「見回りですか?」
「ん、ああ、そうだ。風が無いとはいえ、どこかで何かあるかもしれないしな。幸いにも里の中では異常が無かった。ここは山から遠いし、土砂崩れの心配も無い。強いて言うなら洪水が恐ろしいところだけれど、まだまだ心配するような段階でもなかった」
守護者というのも大変な仕事だ。文字では知っていたけれど、こうして雨の中実際に出会うと、その苦労がよく分かる。傘を差しているとはいえ、あまり出歩きたくないのが本音だろう。
「ところで、一つ訊いてもいいか?」
「はい、答えられる範囲でなら」
慧音は頬を掻いて、困った顔で尋ねる。
「稗田はそこで何をしてるんだ?」
「雨宿りです」
「自分の家でか?」
振り返れば、慣れしたんだ我が家。確かに何も知らぬ者が見れば、阿求の行動は奇行に感じられるだろう。だが、鬼や死神が知ったなら何と答えるか。聞いてみたいものだが、生憎とその二人はもういない。
阿求は仄かに笑い、理解されぬと分かっていて尚、真摯に答える。
「これはこれで、楽しいんですよ」
今日は酒を愉しんだ。さて、次の雨の日は何を愉しむか。
阿求は知らない。それを決めるのは、軒下で出会った者なのだから。
さっくり読めました。
あと誤字?らしきものが。
>雨に濡れるようたぐりよせる。
文脈的に「濡れぬよう」かな、と思いました。
誤字でなければすみません。
雨宿りもいいものですね。
始まりから後書きまで粋な語りが素晴らしかった。
良い話をありがとう。
何の関わりがなくても、不思議なその場の連帯感がありますね、雨宿りには。
ちと粋な五月雨の御酌か・・・いいですねえ。
なんて無粋ですね。
それにしても、雨宿りが稗田家の軒先だったとは気付かなかったですね。
風情を愉しむ
これぞ侘びと寂び
接点のない方々のやり取り、お見事に御座い。
格好いいなー、空気が
こういうその人にしか書けないオンリーワン的な
SSを書いてみたいものだ
文章的にもひずみがなく、お見事な技量です。素敵な作品でした。