見下ろすと雲が広がっている。真っ白な雲だ。そして、それはとても奇妙なことである。
見上げなければ見えないはずの雲が、反対の方向で見えるからである。しかし、それは常識に囚われない幻想郷にとってはなんら不思議でもない。
人間がいれば妖怪もいる。そして、雲の上の存在の天人もいる。
その天人の1人が雲に向かって糸を垂らしている。天人が竿を持っている。その竿の先から糸が垂れている。釣りをしているようだ。
ここでひとつの疑問が浮かんだ。彼女は本当に天人なのだろうか。天人ならば今の時間――真昼間は舞をしているからである。
それなのに彼女は釣りをしている。
「はぁ…」
手ごたえのない竿を持ちながらその天人はため息を吐いた。ここではその天人を便宜的に不良天人と名付けよう。
それでも意味もなく、期待もせずに竿を握り釣りを続ける。強く握らない。憤りを一切感じていないからだ。ただ、時間さえ潰せばいい。その密度のない思いが竿を握る手を弱めている。このはるか上空から竿を落としてしまうのではないかと思うくらいの脱力である。
時間が過ぎていくのを不良天人は敏感に感じ取った。糸に引っ掛かるものは一切ない。
時間が過ぎる前と状況はあまり変わっていない。強いていうなら太陽が少し傾き、後ろの音楽が止まったぐらいしか違いはない。正直不良天人にとっては音楽が鳴っていようとも止めていようとも関係のないことであるからだ。なぜならば、興味がないからだ。その舞についても「一応」同じ天人についても。
「どうしました。総領娘様。探しましたよ」
不良天人のことを総領娘と呼ぶ女性が音楽が鳴っていた方向から飛んできた。不良天人より幾分も大人びていた。
「別に…探さなくても結構よ」
「そうですか」
そっぽを向いて突き返すような口調の不良天人とそれに慣れているように受け流す女性の会話は仲がよさそうであった。
他愛のない会話を始めるほど彼女たちは仲がいい。
「何か釣れましたか?」
「釣れるわけないでしょ。 こんな雲に何がいるって言うのよ」
「ふふ。それじゃなんで、ここで釣りをしているのですか?」
「なんでって…」
不良天人は女性の質問に言葉が詰まった。考えるひたすら考える。しかし、空箱の中のような彼女の思考には何もない。何もないので、空箱なのである。
明確な理由はある。時間を潰すためだ、と。しかしそれを口に出すわけにはいかない。「一応」同じ天人といえども、人間のように差はある。その差は体型的にも精神的にもあてはまる。不良天人は体が少し幼く、精神はそれよりも幼い。その精神の幼さが自分の弱さを曝け出すことを拒んでいるのだ。
「ふふ。 理由ならすでに知っています。 意地悪な質問をしてすみません」
彼女は微笑みを浮かべて謝った。不良天人はそっぽを向いたままだ。
「……」
「ふふ。覚えていますか?ずっと昔のことですけど」
「なによ?」
「私と総領娘様が初めて出会った日のことです」
「……」
「昔と今でも全然変わっていませんね」
「馬鹿にしているの?」
「いやいや。 そんなわけありませんよ」
大きな風が吹いた。風の音が聞こえるくらいの大きさだ。
「あの日はこの日と同じように晴れていましたよね?」
「雲の上ならいつも晴れてるわよ。馬鹿にしないで」
「ふふ。そこは変わっていますよね」
「…どういう意味よ」
しばらくの沈黙。風も吹かない。しかし、女性が口を開けたときにその沈黙は簡単に破られた。
「誰とも打ち解けず、誰とも話さなかった人がいるとします。 その人と人との関係に不慣れな人物がある日打ち解ける人物と出会いました。 その人にとって見知らぬ他人と話すこととは生涯において初めてのことです。 当然最初の2人の関係には見えない仕切り板のようなものがあって、交わることはありませんでした。 しかし、不思議なことにそのうちその板はなくなりました。 そして今では互いに交り合い気軽に話しかけられる中になっています。 不思議なことだと思いませんか? 時間が過ぎるだけで交わらないものが交りあったのですよ」
「何が言いたいのよ」
「誰かと仲良くなりましょう。天人達と仲良くしろとは言いません。総領娘様はあの天人達が根本的な部分で嫌いなのですから」
「よく知っているわね」
「いえいえ」
根本的な理由。それは同じ天人でありながら同じではないということを示すには十分すぎる理由であった。現状に飽いているものと否かの差である。不良天人である理由は現状に飽いているからである。その逆が天人である。その反対の思想のせいで不良天人が「一方的」に交り合うことを拒んでいる。
「釣りをしていると見せかけて、下界を臨んでいますよね?」
「だったらなによ」
「行動を起こしてみましょう。 見果てぬ大地に飛び込むために」
さらに大きな風が吹いた。突風だ。2人は帽子を抑えていた。その帽子が飛ばされないために。
「なにをすればいいの? 私に何ができるのよ」
「考えてください。 自分で大地――幻想郷に飛び込むという勇気を持つために」
「……」
「異変というのは自分を見せるための一種の看板のようなものです。 自己主張の手段と言いましょうか」
「自己主張…勇気」
不良天人は女性の言葉を復唱する。忘れないように、空の箱に何かを詰めるように。
「わかったわ。 今、私の中で何かが吹っ切れたわ」
「そうですか。 それはよかったです」
片方の笑顔は満面の笑みでもう片方は微笑みであった。同じ笑顔でも含んでいる意味が全然違っていた。
そして、不良天人は竿をその場に置き、自分の屋敷へ向かって歩き出した。新しいおもちゃが貰えることが決まったときの子供表情そっくりの純粋な感情である。
一方女性は歩く不良天人を見送った。影が見えなくなると、ふらふら飛んで行った。
「また、お酒でも飲みましょう」
少し赤みを帯びた顔でひとり呟いた。その後、盃を口に傾けた。
その後、比那名居家の「緋想の剣」がどこかへ消えた。同時に大きなそして局地的な地震も起きた。
「緋想の剣」の所有者は比那名居天子という。彼女が持ち出した目的は明確であった。
そして、永江の衣玖は仕事が増えたことについてため息をついた。異変を起こしたであろう人物には心当たりがあるからだ。記憶がおぼろげだがその原因が自分でもあるからだ。
緋色の雲が空を見上げると見える。場合によっては見下ろしたときにも見える。しかし、それはとても不思議なことではないのだ。幻想郷は常識にとらわれないからだ。同時にあらゆることを受け入れるからだ。
見上げなければ見えないはずの雲が、反対の方向で見えるからである。しかし、それは常識に囚われない幻想郷にとってはなんら不思議でもない。
人間がいれば妖怪もいる。そして、雲の上の存在の天人もいる。
その天人の1人が雲に向かって糸を垂らしている。天人が竿を持っている。その竿の先から糸が垂れている。釣りをしているようだ。
ここでひとつの疑問が浮かんだ。彼女は本当に天人なのだろうか。天人ならば今の時間――真昼間は舞をしているからである。
それなのに彼女は釣りをしている。
「はぁ…」
手ごたえのない竿を持ちながらその天人はため息を吐いた。ここではその天人を便宜的に不良天人と名付けよう。
それでも意味もなく、期待もせずに竿を握り釣りを続ける。強く握らない。憤りを一切感じていないからだ。ただ、時間さえ潰せばいい。その密度のない思いが竿を握る手を弱めている。このはるか上空から竿を落としてしまうのではないかと思うくらいの脱力である。
時間が過ぎていくのを不良天人は敏感に感じ取った。糸に引っ掛かるものは一切ない。
時間が過ぎる前と状況はあまり変わっていない。強いていうなら太陽が少し傾き、後ろの音楽が止まったぐらいしか違いはない。正直不良天人にとっては音楽が鳴っていようとも止めていようとも関係のないことであるからだ。なぜならば、興味がないからだ。その舞についても「一応」同じ天人についても。
「どうしました。総領娘様。探しましたよ」
不良天人のことを総領娘と呼ぶ女性が音楽が鳴っていた方向から飛んできた。不良天人より幾分も大人びていた。
「別に…探さなくても結構よ」
「そうですか」
そっぽを向いて突き返すような口調の不良天人とそれに慣れているように受け流す女性の会話は仲がよさそうであった。
他愛のない会話を始めるほど彼女たちは仲がいい。
「何か釣れましたか?」
「釣れるわけないでしょ。 こんな雲に何がいるって言うのよ」
「ふふ。それじゃなんで、ここで釣りをしているのですか?」
「なんでって…」
不良天人は女性の質問に言葉が詰まった。考えるひたすら考える。しかし、空箱の中のような彼女の思考には何もない。何もないので、空箱なのである。
明確な理由はある。時間を潰すためだ、と。しかしそれを口に出すわけにはいかない。「一応」同じ天人といえども、人間のように差はある。その差は体型的にも精神的にもあてはまる。不良天人は体が少し幼く、精神はそれよりも幼い。その精神の幼さが自分の弱さを曝け出すことを拒んでいるのだ。
「ふふ。 理由ならすでに知っています。 意地悪な質問をしてすみません」
彼女は微笑みを浮かべて謝った。不良天人はそっぽを向いたままだ。
「……」
「ふふ。覚えていますか?ずっと昔のことですけど」
「なによ?」
「私と総領娘様が初めて出会った日のことです」
「……」
「昔と今でも全然変わっていませんね」
「馬鹿にしているの?」
「いやいや。 そんなわけありませんよ」
大きな風が吹いた。風の音が聞こえるくらいの大きさだ。
「あの日はこの日と同じように晴れていましたよね?」
「雲の上ならいつも晴れてるわよ。馬鹿にしないで」
「ふふ。そこは変わっていますよね」
「…どういう意味よ」
しばらくの沈黙。風も吹かない。しかし、女性が口を開けたときにその沈黙は簡単に破られた。
「誰とも打ち解けず、誰とも話さなかった人がいるとします。 その人と人との関係に不慣れな人物がある日打ち解ける人物と出会いました。 その人にとって見知らぬ他人と話すこととは生涯において初めてのことです。 当然最初の2人の関係には見えない仕切り板のようなものがあって、交わることはありませんでした。 しかし、不思議なことにそのうちその板はなくなりました。 そして今では互いに交り合い気軽に話しかけられる中になっています。 不思議なことだと思いませんか? 時間が過ぎるだけで交わらないものが交りあったのですよ」
「何が言いたいのよ」
「誰かと仲良くなりましょう。天人達と仲良くしろとは言いません。総領娘様はあの天人達が根本的な部分で嫌いなのですから」
「よく知っているわね」
「いえいえ」
根本的な理由。それは同じ天人でありながら同じではないということを示すには十分すぎる理由であった。現状に飽いているものと否かの差である。不良天人である理由は現状に飽いているからである。その逆が天人である。その反対の思想のせいで不良天人が「一方的」に交り合うことを拒んでいる。
「釣りをしていると見せかけて、下界を臨んでいますよね?」
「だったらなによ」
「行動を起こしてみましょう。 見果てぬ大地に飛び込むために」
さらに大きな風が吹いた。突風だ。2人は帽子を抑えていた。その帽子が飛ばされないために。
「なにをすればいいの? 私に何ができるのよ」
「考えてください。 自分で大地――幻想郷に飛び込むという勇気を持つために」
「……」
「異変というのは自分を見せるための一種の看板のようなものです。 自己主張の手段と言いましょうか」
「自己主張…勇気」
不良天人は女性の言葉を復唱する。忘れないように、空の箱に何かを詰めるように。
「わかったわ。 今、私の中で何かが吹っ切れたわ」
「そうですか。 それはよかったです」
片方の笑顔は満面の笑みでもう片方は微笑みであった。同じ笑顔でも含んでいる意味が全然違っていた。
そして、不良天人は竿をその場に置き、自分の屋敷へ向かって歩き出した。新しいおもちゃが貰えることが決まったときの子供表情そっくりの純粋な感情である。
一方女性は歩く不良天人を見送った。影が見えなくなると、ふらふら飛んで行った。
「また、お酒でも飲みましょう」
少し赤みを帯びた顔でひとり呟いた。その後、盃を口に傾けた。
その後、比那名居家の「緋想の剣」がどこかへ消えた。同時に大きなそして局地的な地震も起きた。
「緋想の剣」の所有者は比那名居天子という。彼女が持ち出した目的は明確であった。
そして、永江の衣玖は仕事が増えたことについてため息をついた。異変を起こしたであろう人物には心当たりがあるからだ。記憶がおぼろげだがその原因が自分でもあるからだ。
緋色の雲が空を見上げると見える。場合によっては見下ろしたときにも見える。しかし、それはとても不思議なことではないのだ。幻想郷は常識にとらわれないからだ。同時にあらゆることを受け入れるからだ。