今日は朝から、何やら良くない空気が渦巻いていた。
生温い風が肌を撫でる。黒を通り越して漆黒になりつつある雲は、今にも機嫌を損ねて暴れ出しそうで不安を掻き立てる。
湿り気が翼にしがみついているように感じて、体が重い。ネタ探しや取材に行くどころか、そこら辺を軽く飛ぶ事さえ億劫だった。
いや、億劫だとか言う問題じゃない。空に生きる者、鴉天狗としての本能が「今日の空は危ない」と語りかけてくる。
得てしてこういう日には碌な事が起こらない。台風だとか、地震だとか。そういう物を警戒させる、漠然としたアンバランスさがある。
だからこう言った日には、外に出ずに大人しく様子を見た方が良いのだ。出掛けない方が良い。いや、出掛けない方が良かった。
「これじゃカメラも濡れちゃいますね……」
昼過ぎから降り出した雨は、あっという間に土砂降りになった。愛用のカメラとネタ帖が濡れてしまっては困ると雨宿りをしていたは良いけれども、待てども待てども雨は止むどころか、更に勢いを増していく。
流石にこのまま帰れないのは困ると、カメラを濡れないように懐にしまって飛び出したのだが、やはり大人しく雨宿りをしておくべきだったと飛びながら後悔した。
鉛玉のような大粒の雨と叩きつけるような暴風のせいで、視界はこれ以上無い程に悪く、もはや服は服として機能しない。気を抜いたら風に流され、地に落ちてしまいそうな程だった。
そもそも朝に出掛けなければこんな羽目には陥らなかったのだが、しかし新聞記者としてネタと取材を欠かすわけにはいかない。どうしても後悔はしてしまうが、やはりそれはお門違いと言う物だ。
早く山に帰って暖かい場所で原稿を書く事を心の支えに、更に飛ぶスピードを上げる。向かい風が急速に体を冷やして行くが、止まっていても状況は変わらない。濡れて動かしづらい翼を動かし、懸命に目を開く。
いざ帰り着いてみると、妖怪の山は結構な騒ぎになっていた。大雨と暴風で木が倒れ土砂が崩れ、流れが速くなりすぎて河童も一時的に川を離れたらしい。
それなのに、屋内に天狗の姿は全く見えない。手頃な妖怪を捕まえて話を聞いたところ、避難誘導をしたり土砂崩れを防ごうとしてみたり、割と献身的に動いてるとの事だ。
とはいえ私がそれを手伝いに行くかと言えば答えは否だ。体中が冷え切って、一度屋内の温もりを感じてしまっては外に出る事すら辛い。
加えて暴風雨の中を飛んできた疲労も重なって、この状況では手伝いが出来るどころか、要救助者を一人増やすだけだ。だから、今ここで嵐が過ぎるのを待つのが一番賢い選択なのだ。
「この分じゃ、滝の上流も危ないかねぇ。土砂崩れしてるんだろ?」
ただ、だからと言って自分の住処である山が壊れていくのを平気な顔で見ていられるわけではない。
人と雨音が混ざり合った喧騒の、何処かから聞こえてきた名も知らない妖怪の一言に不意に耳が反応する。
「ああ、万が一滝の上から岩なんて落ちてきたら、私ら並の妖怪じゃひとたまりも無ぇ」
並の妖怪じゃ、ひとたまりも無い。雨音がノイズのように鼓膜を揺らす。聞きたくも無いのに、雨が木々を打つ音が耳に残る。
妖怪と言うのは人間に比べれば圧倒的に頑丈に出来ている物だが、だからと言ってダメージを負わないわけではない。傷もつくし、普通に死ぬ。
妖怪の中では上位に位置する天狗と言えど、それは例外では無い。
「すいません、滝が危ないってのはどういう事ですか?」
あの滝の辺りには、哨戒の白狼天狗が居るはずだ。彼らは、私達鴉天狗のようには自由に空を飛べない。
そして恐らく、今山を飛び回っている仲間の鴉天狗は滝周辺の事情を詳しくは知らない。もっぱら山の上の方で暮らす鴉天狗が、生活テリトリーから外れた滝周辺の細かい地理をどれ程把握している?
彼らは自分達の知っているポイントを押さえには行くだろうが、この非常時に自分の知らない場所まで頭が回る者がどれだけいるだろうか?
気が付けば私は、話をしていた妖怪に焦りを含んだ声で尋ねていた。まだ水が滴っている翼が、危機感を察したように震え始めている。
「上流は大きめの岩がゴロゴロしてるからな。土砂崩れが起きたら、一緒に落ちてくるかもしれないんだ」
いきなり話かけた私に驚きながらも、声の主は手早く、要点を纏めた回答を返す。そしてそれを聞いた私は、お礼も曖昧に外へと駆け出す。
いかにネタは多いほうが良いと言えど、同族の訃報で新聞記事の一面を飾りたいほど趣味が悪いわけではない。
やめておけ、危ないぞ。背後から聞こえるそんな声を無視して、崖から飛び出す。翼を震わせ水滴を振り払い、私は滝に向かって飛び出した。
東の空に閃光が光る。一拍置いて轟音が山を震わせた。ついに雷まで来たか、と舌打ちをして一際大きく羽ばたく。
寒さと疲れでくず折れそうになった頃、ようやく滝が見えて来た。だが同時に、上流の方から嫌な音も近づいてくる。それが何かを視認する余裕は、恐らく無い。
滝の下を見遣る。横殴りの雨で視界が霞む中、妖怪の子供を抱いて反対側の岸に渡る一人の白狼天狗が見えた。他の妖怪は渡り終えたのか、岸から離れた所で心配そうにそれを見つめていた。
ただ、轟音はおぞましい速度で近づいてくる。今のままでは、あの白狼天狗が岸に渡るまで間に合わない。
――遂に、滝を見下ろす私の視界が土色の奔流に覆われかけた。
「危ない!」
叫びながら私は、全速で滝の下に向けて加速した。土砂を追い越し、白狼天狗を岸に向けて吹き飛ばす。
私の声が聞こえたのか、白狼天狗は私を見ながら何かを言いかけた。同時に手を伸ばしてくるが、声も手も届く事は無い。届かせる気も無い。
扇を握り締め、頭上に向けて全力で振るった。巻き起こった風が流れ落ちてくる土砂を吹き飛ばし、土砂は私から逸れるように流れ落ちていく。
間一髪で間に合った事に安堵し、全身から力が抜けた。そのまま墜落してしまいそうになり、慌てて力を入れる。
「大丈夫ですか!?」
慌てた様子で白狼天狗が近寄ってくる。見知った顔だった。下っ端の、確か犬走とか言う哨戒。抱いていた子供は、既に向こう岸へ渡し済みだ。
大丈夫、と息を切らしながら言いかけて、一際大きな音が頭上で聞こえる事に気が付いた。その直後、今度は音が急激に途絶える。見上げると、人里の家屋ほどはあろうかと言う岩が幾つも落ちてくる所だった。余りの大きさに現実感が失せ、一瞬思考が途絶える。
けれど何処までも現実のその岩々は、重力に従い真っ直ぐと私めがけて落ちて来る。避ける隙間は無い。咄嗟に扇を握りなおし、再び風を巻き起こす。
一つ、二つ。扇を握る手は痺れて力が入らない。初めは粉々に砕けていた岩も、三つ四つと数を重ねる毎に大きく割れるだけになってくる。
そして最後に、一際大きな岩が落ちてくる。
扇を振るうと、手から抜けてしまった。巻き起こった風は弱い。ほんの僅かに軌道が逸れただけで、そのまま岩と私の距離は近づいた。
グシャ、と。
鈍い音が耳のすぐ横で響いた。一瞬遅れて全身を走る痛みを伴ってようやく、私は翼をやられたのだと気付く。
羽ばたく事が出来ない。右の翼にだけ力が入らない。そのまま私は滝つぼの中へと墜落してしまうが、すぐに私を引っ張り上げた者が居た。さっきの犬走だった。
「私は大丈夫だから……早く此処から離れて」
そう言うのが精一杯で、言い終えると同時に私の視界は暗転した。
全身から力が抜け、崩れ落ちる寸前を抱き留められた所で、私の意識は途絶える。
――――――――
暗い世界だった。瞳の捉える光と言う光が黒くて、不明瞭な視界には何も見えない。目は開いている筈なのに、見えてくる物は無い。
完全に光が閉ざされたわけではない。何かが私の視界を遮っている。私の世界から光を奪うのは何だ。
手を動かし、顔を拭いたい。けれど体は動かない。力が入らない。おかしい、動かせないのは右の翼だけじゃなかったか。
焦りが脳裏を掠めたその時、風が吹いた。何処からか吹いたそよ風は、私の顔の上に乗っていた物を巻き上げる。ようやく開けた視界に映っていたのは――
――黒い、鴉の羽根だった。
そこで私は夢から覚醒した。なんとも生々しい悪夢だったと思い、疲れと安堵で小さく溜め息をつく。
余程昨日の、嵐の一件が尾を引いているらしい。鴉天狗の象徴たる羽根が飛んでいく夢なんて、翼を打たれでもしなければ見れないだろう。
まだ網膜には、風に巻き上げられた黒い羽根が飛んでいく様が焼きついている。今なら容易に夢の続きを見れそうだ。だが生憎、私には好き好んで悪夢を見る趣味は無い。
開いた窓からは風が吹き込み、気持ち良く晴れ渡った青空が見える。台風は完全に過ぎ去ったらしい。こんな爽やかな朝は、夢の事など忘れて取材に出掛けるのが一番だ。
布団を跳ね除け立ち上がる。箪笥から服を取り出そうとして、気付いた。
「私の部屋じゃ……ない?」
起き上がって部屋を見回すと、そこは全く見知らぬ部屋だった。今まで私が寝ていた布団も、いつの間にか着替えていた寝巻きも、全く自分の記憶には存在しない物だ。
一体寝ている間に何があった? 確か私は滝で犬走を助けて岩に当たって、痛みで気を失って……。
混乱する思考を記憶を辿る事で落ち着かせようと努めるが、効果は上がらない。今自分が何処でどうしてここで寝ていたのか、記憶の空白には不明瞭な点が多すぎる。恐らくは気を失ったので休ませようと、手頃な部屋に放り込まれたのだろうが。
ひとまず自分の家に戻ろうと窓を開け、飛び立つ。そのまま翼を羽ばたかせ、はだけた寝巻きと言う少し恥ずかしい格好で早朝飛行をする――筈だった。
右の翼が、ピクリとも動かない。
風を捕まえられない私の体は、重力に従って自由落下する。
慌てて足元に空気の塊を作り、落下を止める。かろうじて墜落は免れた。鴉天狗が飛び降り自殺だなんて、冗談にもならない。
とは言え、自分の置かれた状況は決して良いとは言えないらしい。妖怪でもあれ程の落石を喰らえば深刻なダメージを受けると言う事だろうが、それでも一晩寝て翼が再生しないのは不可解だ。全身から抜けきらない気だるさから、そもそも寝ていたのが一晩だけと言う保証も無いが。
飛行が出来ないので、ひとまず空気の塊を飛び移って地面に降り立つ。空を飛べないと言う事の不便さを、たった数メートルの移動で思い知った。
素足なので、足の裏に直に砂利が食い込む。思わず顔をしかめてしまうが、そういえばどれくらい地に足をつけていなかったのだろう。柔らかい痛覚と共に、妙な懐かしさも覚えた。
立ち止まっていてもしょうがない。仕方なく家を目指して歩き始めた私の頭上を、タイミング良く仲間の天狗が通りかかった。
「あ、おーい! ちょっと上まで連れてってくださーい」
私の声が聞こえたのかその天狗は向きを変え、こっちに降りてくる。私が怪我をしたのを知っているのか、飛べない私を不審がる様子も無い。
仲間内の情報伝達の速さには感心する。けれども、その天狗は一瞬だけ私に目をやると、嫌な物をみたような苦い顔で視線を逸らした。
黙って差し出された背中に、恐縮しながら乗せてもらう。けれどもその天狗はコクリと一度頷いただけで、一言も発する事無く山の上へと飛び出してしまった。
風を切り、空を泳ぐ。自分の翼には劣るけれども、それでも空を飛ぶのは気持ちが良い。明日か、明後日か。早く自分に空が戻る事を願う。
そんな思索を巡らしてると、あっという間に山の上層まで辿り着いた。適当な所で降ろして貰い礼を述べた時にも、見知らぬ天狗は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
不可解に感じながらも家に戻る。はだけた寝巻きだなんて、余り露出の多い服装で外を出歩く物ではない。ひょっとしたらさっきの天狗も、気恥ずかしさで何も言わなかったのかもしれないし。
扉を開くと住み慣れた家の匂いがする。やはり自分の家が一番落ち着く。愛用のカメラも、秘密が山ほど書かれたネタ帖も、あの時飛ばしてしまった扇も、揃って机の上に置いてある。誰か親切な者が届けてくれたようだ。
着替えようと箪笥を開く。皺一つ無いシャツとミニスカートを取り出し、シャツに袖を通す。が、背中に何か違和感を感じた。普段は引っかかる事など無く着替えられるのに、今日は何かが邪魔をして上手くいかない。
一旦シャツを脱ぎ、姿見に自分の姿を映してみる。背中の違和感の正体は何なのか、それはひょっとしたら一晩寝ても翼が治らない事と関係あるのか。不意に湧いた取り留めの無い恐怖感を抱きつつも、鏡の方を向いた。
右の翼が、潰れ、ひしゃげ、原型を残していなかった。
否、これは翼ではない。ただの黒い塊、かつて私を空に生かしていた物の残骸。
受け止めきれない現実が一気に脳髄に流れ込んで、混乱と絶望とで視界は色を失った。黒い羽根が一枚、抜け落ちる。
――――――――
「無理ね」
嗚呼、この薮医者は一体今何と言ったのだろう?
月の医学を究めたなどと触れ込んで妖しげな薬を作る割に、折れた翼の一つも治せないのだろうか。
淹れたての緑茶を運びながら、弟子の兎も不可思議な声を上げる。
「師匠、幾らなんでもあっさりし過ぎなのでは……」
「妖力の伝達神経が『消滅』しているのだもの。すぐに処置すればどうにかなったかもしれないのに、三日も黙って寝かせておくなんて狂気の沙汰だわ」
対して、蓬莱の薬屋こと八意永琳の回答は素早く、一切の迷いが無い。それは逆に、私にどこまでも残酷な現実を突きつける容赦の無さの裏返しだ。
永琳は緑茶を口に運びながら、キッと私の背後に立つ付き添いの天狗らを睨みつける。息を呑み、顔を逸らす仲間が見えた気がした。
あの後、私は仲間の天狗達によって永遠亭へと連れて行かれた。無論目的は、動かない翼を治療して貰う事だった。だったのだが……。
結論から言うと、私の翼は医術では治せない。
翼の形は外科手術で直せても、妖力で作られた神経がダメになっているらしく、それは私が気を失っている間――一日ではなく、三日も気を失ったままだった――に霧散してしまったと言う。
元々は妖力と言う形の無い物が集まって神経と言う形を成したわけで、一度消滅するともう外部からの力ではどうにもならない。無から有を作り出すのは医学の範疇ではない。
再び自己再生するのを待つしか無いが、翼と言う複雑な部位だけに、それにはどれ程かかるか。何十年か、何百年か。もしかしたらもう再生しないかもしれない。
ただただ淡々と、月の頭脳はこのような事を私に告げた。
「……それじゃあ、もう私は……」
それでも、私は現実を信じられない。信じたくない。信じるわけにはいかない。
何故なら私は鴉天狗で、幻想郷最速で、空を自由に駆ける事が存在意義にも等しいのだから。
その口が「まだ諦めるには早い」「どうにかなる可能性はある」と言葉を紡いでくれる事を期待していた。
「貴女には、もう今までの空は戻らない」
そして、期待は粉々に打ち砕かれた。希望と言う希望が指の隙間から抜け落ちていく。鴉の羽根を溶かした色のような深い黒が瞳の中へと流れ込んでくる。
逃げるように私は立ち上がり、駆け出した。後ろから誰かが呼び止める声はもう鼓膜を揺らさない。
診察室を飛び出し屋敷の兎を突き飛ばし廊下を駆け抜け、下駄を掴んで素足のまま外へと走り抜ける。このままスピードを上げれば、また空に戻れるのではないか。そんな考えすら浮かんできた。
けれども私は翼が無ければただの一妖怪で、特別速く走れるわけでも、高く跳べるわけでもない。
走れど走れど同じ眺めの竹林の中で方向感覚を失って、どれ程走ったのか陽はとうに沈んでいて、全速力で走り続けて体力も尽き果てて、私は次第に失速し、その場にへたりこむ。
地面に膝を着くと同時に足の裏の痛覚が戻ってきて、けれども痛みとは無関係に視界が涙で滲む。手に持った下駄を放り投げ、頭を抱えて私は必死に嗚咽を抑えた。
もう飛べない。二度と空は戻らない。それは私が私である意味を消失させる最悪の展開だった。
どうしてこんな事になってしまった? そもそも私があの時滝に行かなければ、今日も私は今まで通りに幻想郷を飛び回り、ネタを集めていたのではないか?
あの時滝に行かなければ。あの時屋内で嵐が過ぎるのを待っていれば。あの時――犬走を助けなければ。
そんな事を考える自分にまた絶望し、後悔と涙は止まらない。声を上げて泣き叫びたいのを必死に堪える。いっそこのまま死んでしまえれば、と思い始めた時に、竹林を掻き分け歩いてくる音が聞こえた。
「そこに誰かいるのか……?」
恐らくは私に向けられたであろう声に、ハッとして顔を上げる。長く伸びた銀髪と、継ぎ接ぎの目立つモンペ。
掌に浮かべた炎を明かりにして歩いてきたのは、蓬莱の人の形こと藤原妹紅だった。恐らくは見回りの途中だったのだろう。
彼女は竹林の中でうずくまり泣いている私を目にし、――最初の一瞬に不可解な物を見たと言う顔をしてから――近寄って心配を孕んだ声で私に問い掛けた。
「誰かと思えば天狗の新聞記者が、こんな竹林でどうしたんだ?」
掌の炎が、眩しいくらいに辺りを照らす。言い様の無い安心感。間違った数式で間違った答えを出して安堵しているような不安定さ。
その掌の炎がひょっとしたら私の心をも照らしてくれたような錯覚に襲われ、気付けば私はその華奢な体に縋り、泣きついていた。
今はとにかく、誰かに手を差し伸べて貰いたかった。
――――――――
竹林の外れに作られた粗末な小屋には、方々から隙間風が吹き込む。
庵に当たっているおかげで少しはマシだが、自分で風を切っている時の寒さとは風の種類が異なる。寒い物は寒い。
「もう二度と飛べないかもしれない……か」
あれから何とか落ち着きを取り戻した私は、ひとまずいつも見回りの時に使っていると言う小屋まで連れて行かれた。
小屋まで歩いている時も目の前の蓬莱人は余計な詮索をする事もなく、黙って私を先導して歩き続けた。それが逆に私を冷静にさせ、あらいざらいを話す気にさせたとも思える。
小屋に着き、庵に火を入れてから全てを話すと、藤原妹紅は複雑な顔をして天井を見つめた。
「すいません、妹紅さんには全く関係の無い話なのに」
話し終えてから、やはり話すべきではなかったかもしれないと言う後悔が浮かんできた。
そもそもこれは私個人の問題であり、無関係な人に縋ってしまったのは自分の弱さであるからだ。永遠亭で突きつけられた現実に動揺し、自分でもどうしようもない状態になっていたのは確かだ。でもそれを他人に打ち明けた所で荷物が軽くなるわけではない。
「いや、そうとも限らないさ」
そんな私の勝手な葛藤とは裏腹に、普段通りの調子で蓬莱人は相槌を打つ。
荷物は軽くならなくても、気は軽くなるよ。何て事の無い言葉にそんな意味合いが込められている気がして、私は顔を上げて耳を傾けた。
私の眼を見つめた後、ゆっくりと重みのある口調で妹紅は話し始める。少しだけ懐かしそうに目を細め、少しだけ辛そうに眉を寄せ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「確かに私には鴉の翼を失った経験は無いけれど、二度と忘れられない大切な物を失った経験ならある」
それから聞かされた話は、昔々の物語。外の世界なら御伽噺として語られるような物語だった。
平安の世に現れた絶世の美女、それに求婚し敗れた父。話は続き、やがて「かぐや姫」が月へと帰っていくくだりには、少しだけ声に力が入る。
そして父の恨みを晴らそうと単身家を飛び出してからの一幕。蓬莱の薬を手にした女の子は、それからの日々をどう過ごしたのだろう。
「私だってその時には、取り乱して泣き叫んで一人で突っ走って――」
――その結果が今の私さ。かつて物語を外で見る事しか出来なかった女の子は、そう言って自嘲気味に笑いながら頭を掻いた。
話が終わり、奇妙な沈黙が小屋の中を満たす。何を話せば良いのか、何から話せば良いのか。何かを掴めたような掴めてないような曖昧な感覚。
きっかけになる言葉を探していると、先に口を開いたのは妹紅だった。
「さっきさ、このまま死んでしまいたい、だなんて考えなかったかい?」
懐を短刀で刺された気がして顔を上げた。自分を見つめる、全てを悟ったような瞳。
それは今まで自分が何度も直面した現実だからなのか、それとも一度の余りにも大きい喪失が忘れさせてくれない現実だからなのか。
「私が言うのも何だけどさ、死ぬのは最後の手段なんだよ。出来る事を全てやった上で何も状況が変わらなくて、そういう時の最後の悪足掻きに『死』があるんだ」
先刻の昔語りよりも更に速度を落とし、自分で自分の言葉を噛み締めるように妹紅は語る。
とうの昔に「死」を捨てた蓬莱人が、最後の足掻きだと「死」を語る。けれどもその語り方は想像以上に重い。実は蓬莱人とは、一番「死」と近くで向かい合って生きているのかもしれない。
単なる生命の「死」も、概念の「死」も、存在意義の「死」も。あらゆる「死」を経験した者の言葉は、私の心の奥底に沁みこんでいく。
「だから、出来る事を探しなよ。翼が戻らないなら、別の飛ぶ方法を探せば良い。此の世は広い、空なんて一つじゃないんだ」
「空は、一つじゃない……」
耳にした言葉は新鮮な響きがあった。今まで私が生きてきた空はもう戻らない。それは永遠亭の永琳にも言われた確かな事だ。
けれど、空は一つじゃない。鴉天狗としての空があれば、他に空に生きる者にもそれぞれの空がある。他の空を模索してはいけない、なんて決まりは無い。
そろそろ帰りな、送るよ。そう言って妹紅は立ち上がる。小屋を出て、竹林の中を歩く。けれども来た道と違って、私は顔を上げて歩く事が出来た。
「一つだけ聞かせてください。……どうして妹紅さんは、空を飛ぼうと思ったんですか」
竹と竹の間から人里の明かりが見えてきた時になって、私は足を止め妹紅へと疑問を投げかけた。
最初に空を知らなかった人間が、どうして翼を手に入れようとしたのか。それはもしかしたら、一度失ってから再び手に入れるよりも難しい事かもしれないのに。
決まってるじゃないか、と言いながら、妹紅は振り向いた。私の瞳を見て、納得したように頷いてから口を開く。
「飛ばなきゃいけなかったからだよ」
飛べないと、憎たらしいアイツと殺し合いも出来ないからね。
そう言って笑った顔には、今度は自嘲も憂いも見えなかった。背を向けて手を振りながら、蓬莱人は竹林へと消えていく。
――――――――
「人工的に翼が作れないかって?」
「そうです。河童の技術力をもって、なんとかなりませんか?」
次の日から、私は飛ぶ方法を模索して幻想郷中を走り回ることにした。まだ完全に立ち直れたわけではないけれど、黙って山に篭りきりになるのは私の性に合わない。
ネタや情報は、自分の足で集めてこそ意味がある。少しでも手がかりになりそうな所を、虱潰しに訪ねてまわる。翼は折れても、心はまだ折れていない。
手始めに、山を下るついでに河童の下に寄ってみている。幻想郷では河童が一番機械工学に詳しい。義翼の一つくらい作れるのではないか。そんな淡い期待を持っていたが……。
「……形を作る事は確かに出来るよ。けれど、それを本物のようにしなやかに動かすのは……」
そこまで言って、河童は帽子を深く被りなおし、申し訳無さそうに肩を落とした。透き通る川の水のように綺麗な青のツインテールまでもが、気を落としてしょぼくれているように見える。
見ているこっちが申し訳なくなってしまう。そもそも唐突に無茶な提案をしたのはこっちなのだから、この河童――超妖怪弾頭こと河城にとり――がこうして気を落とす事は無いのだ。
もしかしたら私に対して申し訳なく思っているのではなく、自分達の技術力の低さに辟易しているだけなのかもしれないが。
「ああ、そんな気を落とさないでください。元から無茶なのは承知だったんですから」
私がそう言うと、にとりは更に背を丸め、深い溜め息をついた。自分達が元から期待されてなかった、と感じたのかもしれない。
作れない物はしょうがないと思うのだが、立場を置き換えて見れば、私だって「文々。新聞に面白いネタは期待してませんよ」と言われたら悔しい。
なんだかんだで、山の妖怪は職人気質なのだろうか。今度特集を組んでみても良いかもしれない。
「代わりと言っちゃなんだけれど、たまに私が掘り出し物を探してる店があるんだ」
そう言いながら、にとりは人里から少し外れた方角を指差す。その指の先にあるのは、確か魔法の森。
魔法の森の片隅に、外の世界から流れ着いた道具を扱っている店があるとにとりは言う。名前は――香霖堂。
にとりに手を振り別れながら、私は山を下って遥か先の魔法の森を目指した。
燦々と輝く太陽の下、歩き続けるのも楽ではない。もっとも、陽の暑さに関しては問題ではなく、単純に歩き慣れていないと言うのが一番のネックなのだが。
けれど歩くと言う行為は、飛んでいては絶対に見ることの出来なかった様々な景色を映し出してくれる。広大な森の全景は空からしか見れないが、木の一つ一つの違いは地に降りて注意しないと絶対に気付く事は無い。
これも一つの「空」なのか、と不意に思いついた。皮肉な事に、私は空を失ってから空の広がりに気がついたのかもしれない。
そんな事を考えながら歩けば、時間の経つのは早い。気がつけば私は少し傾いた「香霖堂」の看板を見上げて扉をノックしていた。顔を出した眼鏡の男に、かくかくしかじかと経緯を話す。
「飛行に使えそうな道具、か……」
呟きながらこの店の店主、森近霖之助は店の裏でガラクタの山を漁りに行く。外の世界から流れ着くとは言ってもそれらが全て有益な物と限るわけではなく、使い道がわからないまま保留してある物が溜まっているらしい。
時折何かが崩れる音や呻き声が聞こえたりもしたが、しばらくした後に彼は巨大な、且つ意味のわからない物を引き摺って持ってきた。金属の棒にわっかを二つ付けた物にゴチャゴチャと鎖やら取っ手やらがついており、その周りに硬い固定された翼のような物がある。
その翼には「烏人間コンテスト」と大きく書かれていた。外の世界の人間の考える事は、全くもってわからない。
「あの……何ですか、コレ」
「『自転車』と言う物に飛行機能を搭載した物のようだ。この翼のような部分で風を受けて飛ぶのだと思うが」
「じゃあこの『自転車』部分はなんのために……?」
「多分、その車輪を坂か何かで転がすようにして勢いをつけるんだろう。で、崖か何かから飛び出す、と」
外の世界の人間も、空を手に入れる為に色々と苦労しているらしい。仮に今私達が考え付いたような方法で飛行しているのだとすれば、下手をすれば死に直結する。
向こうが命がけで空に挑んでいるんだ、外の世界の人間に天狗たる私が負けていられない。変な形で勇気を貰いながらも、私は俄然やる気が出てきた。
早速「猿田彦1号」と名付けた改造自転車を高台まで引っ張り、飛行を試してみる事にする。とは言え、乗り方がさっぱりわからない。立てば良いのか、座れば良いのか。
ガチャガチャと触っているうちに、前面の取っ手で進路を変えるだとか、車輪が回ると連動して側面の棒が動くだとか、仕組みが朧気ながらわかってくる。それらを参考に、ついに私は乗り方を導き出した。
「行け、猿田彦1号!」
まずは坂の一番上から、思い切り猿田彦1号を転がす。車輪は回りどんどんと勢い付き、同時にバランスも崩れそうになるが、その前に私が上に飛び乗る。
右足を前の取っ手に。左足を一段高いハート型の台に。巻き込まれそうで怖いので側面の回っている棒は無視する。綱渡りのような姿勢を取りながら、私を乗せた猿田彦1号は思い切り崖から飛び出す。
上手くバランスを取るように風を起こすと、やや不安定ながらも猿田彦1号は空に浮かんだ。速度は自分の翼とは比にならないが、それでもとても久し振りに風を切る感覚を味わった気がする。
軽く上昇気流を起こすと、そのまま高くまで浮かび上がった。翼の耐久度が少し不安なので、ひとまず香霖堂を目指す。後で河童に補強をして貰えば良いだろう。
進路を香霖堂に定めたその時、遥かに広がる魔法の森の方角から飛んでくる者が居た。誰かを確認しようとする前に、それは結構なスピードで近づいてくる。
「なんだ、誰かと思えばいつぞやの天狗じゃないか。こんな所で妙な物に乗っかって、一体何をしてるんだ?」
箒に乗りながら私に手を上げたのは、森に住む魔法使いである霧雨魔理沙だった。人の身で空を飛ぶ少女、あくまで普通の魔法使い。
箒は魔女のアイデンティティだぜ、と言って大切にしているようだが、今となってはその気持ちが良くわかる。魔力で飛ぶのだから実際はデッキブラシでも何でも良いのだろうが、空を知る者で自分の翼に思い入れの無い者はいない。
彼女は珍妙な乗り物に乗って空を泳ぐ私に不思議そうな顔を向けながら横に並んだ。
「まぁ、ちょっとヘマして翼がダメになっちゃったんです。で、今は代わりになる飛び方を色々模索中と言う事です」
「……詳しい事情は知らないけど、色々と大変なんだな」
余り深く事情を聞く事もなく、魔理沙は納得してくれた。どちらかと言えば同情に近い気もしたが。
数日前まで自慢の翼で幻想郷を駆け回っていた天狗が、今日になったら妙ちくりんな乗り物に乗って飛んでました、と言うんじゃ、確かに並々ならぬ理由を連想させるインパクトはある。
ちょうど私も香霖堂に行く所だったんだぜ、と言う魔理沙と世間話などしながら香霖堂へと向かう。猿田彦1号がどれほどの負荷に耐えられるかわからないので、進むスピードは遅かった。
「一つだけ気になる事があるんだが、言って良いか?」
道すがら、魔理沙はそれまでの他愛ない話を遮るように質問を繰り出した。
私としては余りこの魔法使いが疑問や質問を抱く場面に出くわさないので、ある種新鮮に見える。深く考えない実直さのイメージが強いせいだ。
とはいえ、常に目の前の状況を受け入れ、何も疑問を抱かない人間がいるとしたら、それはただのバカに他ならないのだが。
「? ええ、どうぞどうぞ」
「その……何て言うか奇天烈な乗り物な、弾幕ごっこの時に物凄い邪魔になると思うんだぜ」
ガツンと脳天を殴られた気がした。飛ぶ事ばかりに気を取られ、弾幕ごっこの事など忘却の彼方に葬り去られていたからだ。
幻想郷に生きる妖怪として、弾幕ごっことスペルカードは必需品と言っても良い。確かに猿田彦1号に乗ったままでは、今までのように動けないばかりか、こちらからの攻撃すらままならない。
ましてや私なんて、取材上で生じる無茶を無理矢理弾幕ごっこに勝利して捻じ伏せていたような所もあるのだ、良く考えれば飛べる・飛べないに匹敵する死活問題である。
失意の余りに風を起こすのも忘れ、危うく墜落しそうになった。すんでのところで魔理沙に声を掛けられ、慌てて風を起こし持ち直す。
「なんつーかショックなのはわかるが、ショックで珍妙なそれまで失うってのは勿体無いぜ」
「そう、です……けど」
それからは私は口を開く気にもなれず、ひたすら無心で香霖堂を目指した。せっかく手に入れた翼も、本当に飛べる「だけ」じゃどうしようもない。
それとも私は贅沢なのだろうか。失った物と百パーセント同じ物など在りはしない。私が探しているのは新しい翼なのか、過去の翼の模造品なのか。
隣で話す魔理沙の言葉も、右から入って左へと抜けていく。立ち止まっている暇は無い。それはわかっているけれども、私はバカではないから、常に目の前の状況を受け入れ、何も疑問を抱かない事なんて出来はしない。
もう、全てがどうでも良く感じられる。扇を振るっている腕と虚無で一杯の頭とは、とても同じ私のパーツだとは思えない。気が付けば視界の隅に香霖堂が在り、魔理沙に声を掛けられなければ私は呆けたまま通り過ぎてしまうところだった。
「ああ、戻ってきたね。で、どうだった結果は?」
扉を開けた瞬間、期待を込めた眼差しで見つめてくる店主。何と報告するべきだろうか。
飛べる事には飛べたが、実用性は無い。外には弾幕ごっこの文化は無いであろうから、良く考えれば最初から期待する方が間違っていたのだけれど。
そのまま黙り込んでしまう私を見て、店主は残念そうに溜め息をついた。
「ダメだったか……。魔理沙、君も話は聞いただろう? 何か当ては無いのかい?」
「とは言っても、私は魔法で飛んでるだけだからなぁ……」
二人は頭を抱え込み、私は何を見るでもなく視線を彷徨わせていた。他人事のようで我ながらおかしい態度だとは思っているが、いかんせん頭が働かない。
ひょっとしたら、このまま私は地面に這いつくばって生きていくことになるのだろうか。そんなネガティブな考えばかりが脳内で空転して、肝心要の前向きな思考をするスペースが無い。
ただただ私は、二人があーでもないこーでもないと意見を出し合うのを眺めているだけだった。
「なぁ射命丸、どうして飛べなくなったかとか、わからないのか?」
考えあぐねたのか、魔理沙が疲れを孕んだ声で尋ねてくる。聞いている限り、意見の出し合いは一向に発展する様子が無かった。
第一、この幻想郷でこんな時に頼れる物と言われてすぐに思いつくのは、永遠亭の薬師か河童の技術力だ。そのどちらにも見放された私は、状況の好転する余地が無いようにすら思える。
それでもどうにかしようと、二人は懸命に考えてくれている。半ば自分が情けなく感じながらも、私は永琳に言われたままを伝えた。
「えーと、確か天狗の妖力で出来た神経みたいなのが切れて霧散してしまったから、形は直せても動かせないと……」
神経ね……と魔理沙が呟き、再び頭を抱える。形を直すだけならどうにでもなりそうな物だけれど、内部構造となると話は別だ。
薬師も河童も匙を投げた難題を、魔理沙はどう答えを導き出すのか。ひょっとしたら、答えは無いのかもしれないが。
しかし、しばらく考えた後に魔理沙は顔を上げる。
「それなら……もしかしたら当てが無い事も無い、かもしれないぜ」
どうやら、答えの候補はまだ残されているらしい。
――――――――
乗せてもらった魔理沙の箒から降りた私を出迎えたのは、一体の西洋風の人形だった。人形は私達に丁寧にお辞儀をした後、小さな体を目一杯に動かして家の方へと私達を誘導する。
煙突から煙が立ち昇る、決して大きくは無いけれど品のある家。それがその家を見た時の第一印象だった。
不思議なのは、その品のある家が人里ではなく、魔法の森に在ると言う事。出迎えに動く人形が現れる辺りからも、住人は普通の人間ではない事がわかる。
自律人形の完成を目指す七色の人形遣い、アリス・マーガトロイド。それがこの家の主の名前だ。
「おーいアリス、邪魔するぜー」
魔理沙が勢い良く扉を開け、家の中へと遠慮も無く入り込んでいく。勝手知ったる人の家とは正にこの事なのだろう。
ただ、この家の主はその態度を良しと思っていないらしい。邪魔者だと言う自覚はあるのに、これっぽっちも遠慮はしないのね。そんな呟きとも嘆きとも取れる声が聞こえた気がしたからだ。
呆れ顔の人形――人形が表情を変える筈は無いのだが――に連れられて、私はリビングへと通された。見知らぬ来訪者である私を視界の隅に認めたからか、アリスは読んでいた魔導書を閉じ、傍に控えている人形に何かを命令した。透明感のある綺麗な声だった。
「これは珍しいお客さんね。紅茶でよろしかったかしら?」
とりあえず座りなさいな、と促され、私はソファに腰掛ける。年季の入った木の優しい香りがした。
すぐに人形が湯気の立つ良い匂いの紅茶を持ってやってくる。私の前に紅茶と、何故か魔理沙の前にはお茶漬けを置いて人形は戻っていった。一見様でも無いのに帰れは酷いぜ、と魔理沙が苦笑いをするが、アリスは眉一つ動かす事も無い。
紅茶に口をつけると、優しい温かさが全身を巡った気がした。心が安らぐ。最後の頼みにまで見放されたらどうしよう、と不安で押し潰されそうだった心が、少しだけ楽になった。
「……で、鴉天狗さんが私に何の用?」
しばらく沈黙が続いた後、無音の空間に飽きたような口調でアリスが話を切り出す。
本来ならそれは私から切り出すべき話なのだが、いざとなると上手く言葉が浮かんでこない。それでも再び沈黙が始まったら二度と用件を告げられない気がして、私は思いをそのまま口に出す事にした。
「魔力で神経を作る事は可能なんでしょうか」
ピクリと一瞬、アリスの眉が動いた気がした。興味を示したのか、それとも触れない方が良い話題だったのか。
どういう事かしら。そうアリスは言って、私に視線を向ける。人形のような無機質さと人間特有の温かみが混在する視線。思わず私は息を呑む。
「仮に神経を作れるとして、それをどうするつもりなの?」
「あーアリス、こいつはちょっと事故にあってだな……」
「魔理沙には聞いてないわ」
切り捨てるような鋭いアリスの物言いに魔理沙も押し黙った。ほんの少し表情を暗くした後、気まずそうに視線を彷徨わせる。
アリスの視線は、私を見据えたまま動かない。ここだ、ここが正念場だ。引き下がってはいけない。自分に言い聞かせ、私は最初から説明を始める。
嵐の日の一件。永遠亭での宣告。竹林でのやり取りは話さなかったが、私なりに飛ぶ方法を模索した事は話した。
「……それで、魔力で翼に神経を通す事が出来れば、再び翼を動かせるんじゃないかと思ったんです」
一通りを話し終え、私は知らずに乗り出していた身を正した。口の中が乾ききって、喉も潤いが絶対的に足りない。ティーカップに手を伸ばし、温くなり始めていた紅茶を一気に飲み干す。
アリスは一言も言葉を挟む事無く、黙って私の話を聞き終えた後、目を瞑って何かを考え続けているようだった。魔理沙は魔理沙で、何かを考え込んでいるように眉間に皺を寄せて押し黙っている。
やがて深い思慮を終え、アリスが口を開く。
「技術的には不可能じゃない」
「本当ですか!?」
アリスの口から出た言葉は、思わず私に身を乗り出させるには充分な希望の言葉だった。
技術的には不可能じゃない。それはつまり、空への希望が繋がったと言う事。
「ただ、二つだけ問題があるわ」
私を手で制し、ソファに座り直させてから、ゆっくりとアリスは言葉を続けた。
問題か、上等だ。私に空が戻るなら、何だってやってやる。固く決意し、続く言葉を待つ。
「一つは、魔力で翼を動かすと言うのは魔法で飛ぶのと殆ど変わらない。一から魔法を使えるようになるのよ、厳しいリハビリは覚悟しなさい」
それは元から覚悟はしていた。何の代償も無しに失った物を取り戻せるだなんて、いくらなんでも虫が良過ぎるだろう。
苦労する分には一向に構わない。むしろ、苦労しないと罰が当たる気さえする。
気になるのは、もう一つの問題とやらだ。
「もう一つ。アナタは鴉天狗だけれど、妖力ではなく魔力をその身に宿すと言う事は――」
そこで一度、アリスは言葉を区切った。言葉を探しているようにも、私の決意を図っているようにも見える。
数分だったか数十分だったか、或いはほんの一瞬だったのかもしれない。確かな重さを持った沈黙がリビングに満ちた。
それでも、私は視線をアリスから離さない。一度ゆっくりと瞬きをして、アリスは続きを話し始めた。
「――もう二度と、純粋な鴉天狗には戻れないと言う事」
もう飛べない、と言われた時とは種類の異なる衝撃が私を襲った。
純粋な鴉天狗に戻れない。即ちそれは山を降りると言う事。空を捨てるか山を捨てるか、と選択を迫られているに等しい。
私にとって大事なのは、一体どっちなのか。山を捨てて再び青空を駆ける力を手に入れるか、翼が動くようになるまでの永劫にも等しき日々を地面に這い蹲って過ごすのか。
答えは最初から判りきっていた。
「それでも、……山の掟が私に空を戻してくれるわけではないですから」
ただ、判っていてもそれを言葉に表すのには勇気が要った。
過去は全て捨て去り、これからは未来へと歩むのだと自分に言い聞かせても、千年余りの過去はゴミ箱に対して大き過ぎる。
壊れてしまった思い出のおもちゃを捨てる時のように、背中を向けても思い出は名残惜しいと言わんばかりに後ろ髪を引っ張る。
私の心境を知ってか知らずか、アリスの言葉は私の背中を後押しする物ではなく、むしろもう一度立ち止まって考える事を促すそれだった。
「ご希望なら明日にでも処置をするわ。今日はもう家に戻って、……出来ればもう一度良く考えなさい」
それ以上は私も紡ぐ言葉が見つからず、黙って首を縦に振った。無言のまま私と魔理沙は玄関まで送られる。とうに日は沈み、月が高く昇っていた。
来た時と同じように魔理沙の箒の後ろに乗り、私は山で過ごす最後の夜を迎えた。箒の後ろで風を切る爽快感も、行きに感じたようには感じられなかった。
その夜、また私は羽根が抜け落ちる夢を見た。黒い鴉の羽根に視界を覆われて、そのまま私の意識は暗闇へと滑り落ちていく。
――――――――
カーテンの隙間から見たその朝の空は、灰色の雲に覆われていた。いつぞやの嵐の空を彷彿とさせる空は、嫌でも私の心を波立たせる。今音を立てて強い風が吹き始めたら、私は家から出られないかもしれない。
けれども今日の天気は記憶の中のそれとは違い、私が家を出る頃には晴れ間さえ覗かせていた。吹く風も優しく感じられる。
扇とカメラとメモ帖と、それと何枚かの衣服。荷物はそれ程多くないし、新しい旅立ちにはちょうど良い日だと言える。
下駄を履いて玄関から踏み出して、思わず足が止まった。慣れ親しんだ部屋を振り返れば、残していく家財道具に別れを惜しまれている気がして辛くなる。前を向いて、私は道とも言えない獣道を下り始めた。
私は今日天狗を捨てる。私は今日山を降りる。あの日に失ったのは翼だけではなかった。翼を、空を取り戻す為に全てを捨てる私は、果たして正しいのだろうか。
それにきっと答えは無いのだろう。何かを失わなければ進めないと言うのなら、私は私の一番大事な物をこの手に選ぶ。後悔は無い。後悔は無いと思う。後悔は無いと思っていた。
「文さん……」
滝の轟音をすぐ横で聞きながら歩いていた頃に、後ろから私の名前を呼ぶ声がした。
この声には聞き覚えがある。あの日、子供を抱きかかえながら私に手を伸ばした声。あの時は私に届く事無かった声が、今はハッキリと鼓膜を揺らす。
立ち止まり、振り返る。そこには声の主である犬走椛が口を真一文字に結んで立っていた。
「山を、降りるんですか」
何かを噛み締めるような表情のまま、犬走の唇から短い言葉が滲み出る。
そんな事は見ればわかるだろうに、この下っ端の哨戒天狗にはそんな脳味噌も無いのかしら。そんな事を頭の片隅に思い浮かべてしまう。犬走が本当に山を降りるか否かを聞いてる事くらい、理解はしているのに。
今目を合わせて口を開いたら、何か取り返しのつかない事を言ってしまいそうで、私は背を向けて歩き出しながら言った。
「仕事に戻らないと、大天狗様に怒られますよ」
「答えてください。本当に山を降りるんですか」
私の言葉を無視して紡がれる言葉は、苦々しくも強い意志を感じさせる。それが非常に、癪に触る。
「山を降りるって言うのは、天狗を辞めるって事ですよ? もう一度考え直してくだ……」
「うるさい!」
私の声に、ハッと弾かれたように犬走は身を硬直させる。私は今、自分の体からこんなに激しく、刺々しい声が出る事に驚いていた。まるで自分が自分で無いような感覚。少なくとも翼を失ってから、私の中の何かが変わってしまった気はするが。
怯えたような瞳で犬走は私を見る。彼女は怯えている、これ以上言う事はない。黙って背を向けて山を降りろ――。
けれど、勢いづいた土石流のように私の言葉は止まらない。言わなくて良い事、いや、言ってはいけない事をも口をついて出る。
「あなたが……あなたがあの時しっかりしていれば……」
もう感情に抑えが効かない。ただの八つ当たりだと言う事はわかっている。彼女は彼女の職務を全うしただけだ。
許してください、犬走。許して、椛。今から私は、自分の至らなさを全てあなたに押し付けてしまう。
「あなたがしっかりしていれば、私は空を失わずに済んだんだ!」
吐いた言葉から逃れるように振り返って、私は走って坂を駆け下りる。途中で何度も転びそうになるけれど、背負った風呂敷を強く握り締めて足を動かし続ける。
犬走の顔を見る事は出来なかった。見る余裕など無かったのだ。これ以上私は耐えられなかった。犬走を傷つけるのにも、自分を傷つけるのにも。
自分のどこまでも勝手な振る舞いに胸が痛む。何のためにあの時犬走を助けたのかもわかりゃしない。自分で助けた相手を自分の言葉で傷つけていたら、本末転倒も良い所なのに。
走って走って走り続けると、時間が経つのは驚くほど早い。息が切れて倒れこむ寸前にアリスの家に辿り着き、震える手で玄関のドアをノックした。
ドアを開けると、少し悲しそうな顔をした西洋人形が出迎えてくれた。短い手足を一杯に使って表現するジェスチャーから判断するに、奥について来い、と言っているらしい。
リビングとは別の部屋に通されると、部屋の中央にあるベッド以外には何も無い部屋にアリスが立っていた。
「本当に、良いのね?」
荒く息を吐き、肩で呼吸をしながら私は首を縦に振った。もう後戻りは出来ない。これで良い。これで良いのだ。全てを捨てて、明日から飛行の練習を始める。過去に囚われては進めない。
ベッドに寝るように促され、服を脱いで私は横になった。目を瞑って心を落ち着かせるように言われ、目を閉ざし無心に努める。
やがて翼に手が添えられ、ゆっくりと毛繕いをするように手が動かされる。指の長いしなやかな手が翼を撫でる毎に、感覚の途絶えていた翼に血が巡るような温かさを感じるようになっていく。
優しい温度の中で、ジワジワと睡魔が迫ってくる。春の陽射しの中で寝転んでいるような暖かさに耐えられず、知らず私は眠りに落ちていた。
――――――――
「ダメよそれじゃ。もっと気持ちを落ち着かせて、迷いを捨てて集中する」
翼に魔力を通された次の日から、私は早速飛行練習を始めた。とは言えいきなり自在に空を飛ぶ事は出来ず、それどころか満足に翼を動かす事さえ出来はしない。
生まれた時から既に翼はあったわけで、動かすのに意識などした事が無かった。つまりは赤子がする歩行練習と似たような状況なわけで、下手をすると変に意識してしまう分それより難しいのかもしれない。
とにかく私は非常に出来の悪い生徒で、つきっきりでコーチを務めるアリスも呆れ顔を隠せないらしい。初日の朝から練習を始めたのに、丸一週間後の夕方になっても翼はピクリとも動かないのだ。
「だから……幾ら力んでも意味が無いの。魔力は筋力と関係無いんだから、そんな顔真っ赤にして力込めても無意味よ」
容赦なく傍らから叱責が飛ぶ。私はと言えば朝からぶっ通しで力を入れたり精神集中したりしているのに、努力は全て空回りしている。
確かに厳しいリハビリを覚悟しろとは言われたが、全く成果が無いとなると精神的にキツい物がある。山を降りてからは寝泊りする場所も無いのでひとまずアリスの家に厄介になっているが、こうも出来ないとアリスと顔を合わせる事すら申し訳なくなってくる。
そして、成果が上がらない事が焦りを生む。焦りは余計に心を乱す。悪循環にハマりかけていた。
「……今日はもう良いわ。早目に休んで、続きは明日にしましょう」
溜め息をつきながら、アリスは家の中へと戻って行った。私は悔しくて仕方が無かったが、しかし体の芯から来る疲労は誤魔化し様が無い。半ば自分が嫌になりつつも、アリスの後を追って家の中へと入る。
借りている部屋のベッドに倒れこむように寝転がり、枕を抱きながら天井を見つめる。どうして私は飛べないのだろう、そう考えると涙が滲む。どう足掻いても飛べない状況よりも、条件は揃っているのに自分の努力不足で飛べないとなると、一層悔しさは増す。
山を捨て、犬走を傷つけてまで魔力を身につけた意味が無い。こんな事なら――
「――空を諦めるべきだった……? ……そんなはず無い」
後ろを振り向くな。過去は断ち切れ。悔しさは根性で捻じ伏せろ。
何度も自分に言い聞かせ、泣くのを堪える。泣いてはいけない。それこそ、山や犬走への真の裏切りになってしまう気がした。
腕で顔を覆い、呼吸を整える。深呼吸を何度かすると、キッチンの方から良い匂いが漂って来た。そろそろ夕食の時間だった。
部屋を出てリビングに行くと、美味しそうなシチューパイが二つ、食卓に並べてあった。フワフワに膨らんだパイが、食べられるのを待ちかねたように美味しそうな雰囲気を醸し出す。
思わず鳴りそうになる腹を押さえながら、アリスと二人で食卓につく。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、スプーンでパイを崩す。サクサクのパイが崩れた所から野菜たっぷりのホワイトシチューが顔を覗かせる。
本当にこの人は料理が上手い。魔法使いなら本来は食事なんて摂らなくても良い筈なのに、私に作る分のみならずしっかり自分の分も作り、私と同じように食べるのだ。自分で食べるから美味しく作るのか、美味しいから自分の分も作るのか。
何にせよ、こんな美味しい食事が食べられる私は幸せ者と言う事だろう。野菜の甘味たっぷりのシチューを舌の上で転がしている間だけは、届かない空に対する焦りも忘れていられる。
その時だった。
ポツリ、と窓に水滴が当たる音がしたのは。
「雨ね」
「雨ですね」
揃って視線を窓へと移しながら、同時に呟く。ここの所はずっと晴れが続いていて、雨は本当に久しぶりだった。
そう言えば、今日の夕焼けは少し灰色がかっていた。自分の事で精一杯で空に気をやる余裕も無かったが、今日はここの所ずっと続いていた昼間の陽射しと言うのも感じなかった気がする。
雨か、嫌だな。反射的にそう感じてしまう。どうしてもあの嵐の日を連想してしまうのだ。切り捨てて克服した筈のトラウマだったが、こればかりはどうしようもない。
「後片付けは上海がやっておくから、あなたはもう休みなさい」
食べ終わった私を覗き込むように視線を合わせたアリスの顔は、心底私を心配しているそれだった。知らぬ間に顔色が酷い事になっているらしい。
体はどうともない。けれど、心臓がキリキリと締め付けられているような気がする。思ったよりも深く、私の心にトラウマは根付いているみたいだった。
黙って首を振り、そのまま部屋へと戻る。今日はもう寝よう。明日になれば雨は止むはずだ。そうすればもう、何てことは無い。
ベッドに倒れこみ、布団もかけずに眠りに落ちる。けれど窓を叩く雨音が煩くて、深く眠ったかと思えばまた浅い眠りへと覚醒させられる。
そんな事を繰り返すうち、どれ程の時間が経ったのだろう。疲労が溜まっていたのか、夢と現実の境界が曖昧になるくらいに私は自然に眠りに落ちた。
久しぶりに、羽根の抜け落ちる夢を見た。
夢の中で、私は空を飛んでいる。やがて雨が降ってきて、私は早く山に帰ろうと必死に翼を動かす。
けれどスピードは上がらず、一向に妖怪の山が見えてくる気配も無い。不意にガクリと視界が揺らぎ、何事かと目をやると。
右の翼から羽根と言う羽根が抜け落ち、皮膚が腐り、動かなくなっていた。そのまま私は成す術も無く地面へと急速に落下する。ぬかるんだ地面に叩きつけられ、無様にくたばるその寸前――目を覚ました。
冷や汗が止まらなかった。つい今まで見ていたのはただの夢で、意識は確かに覚醒した。翼は腐ってなどおらず、しっかりと形を保って背中についている。
けれども夢で味わった感触はどこまでも生々しい。今にも抜け落ちた羽根で部屋が埋まってしまうような、そんな恐ろしい考えが止まらない。
暖かい紅茶でも飲んで、少し落ち着こう。そう考え、私はリビングへと向かった。窓を叩きつける雨音は、寝る前よりも一層激しくなっていた。
――――――――
リビングでは、何故かアリスが寝巻きではない普段着のまま紅茶を飲んでいた。もしやもう朝なのかと焦りが脳裏を掠めるが、どっちにせよこの雨では今日は練習できまい。
しかし時計に目をやると、ちょうど長針と短針が重なる頃だった。昼間と言うには、いくら大雨の日と言えど暗すぎる。
「まだ日付が変わる前よ」
紅茶を飲みながらアリスが呟く。なるほど確かにそう言われれば納得はいく。雨が止むにも、陽が昇るにも早過ぎる。
少しばかり早すぎた目覚めに呆然としている私のもとへ、紅茶を持った人形がやってくる。ティーカップを受け取ると、その人形はうやうやしく一礼して戻っていった。
紅茶を一口。少し苦いが、目を覚ますにはちょうど良かった。
「……雨、激しいですね」
そうね、と一言アリスが呟き、目を瞑った。何を考えているわけでもなく、この仕草は私に続く言葉を求めているのだ、と私はこの一週間で理解している。
けれども続く言葉なんて無い。雨は激しい、それだけだ。まさか自分のトラウマを意気揚々と語りだす事を求めているわけでもあるまい。
たまりかねたように、アリスは目を開いて苛立たしげに言った。
「で、アナタはこのままここで嵐が過ぎるのを待つの?」
細く開いた瞳で、睨み付けるように私を見るアリス。
私が何かアクションを起こすのを期待しているかのように、私が新しい視点を見出すのを期待しているかのように、私が扇を手に山へと向かうのを期待しているかのように。
けれど私は立ちすくんだまま、動く事も出来ない。うな垂れて唇を噛み締めるだけだ。自分の情けなさには反吐が出るが、それをどうする事も出来ないのがまた悔しくてもどかしい。
そのまま、時間が流れた。とうとう我慢が出来ないと言う様子でアリスは立ち上がり、私の眼前まで詰め寄って来る。
「胸騒ぎがして目が覚めたんでしょう? 山に行って仲間を助けないのか、って聞いてるのよ」
「それじゃどうやって助けに行くのか教えて下さいよ!」
どこまでも冷静に私を追い詰めるアリスに対し、つい感情的になってしまう。
大声を出した私に驚く様子もなく、ただただアリスは私を睨み続ける。答えは一つしか無い、と言わんばかりだが、その答えを導き出す方程式は私の背中で一週間も黙り込んだままだ。
吐いた言葉の情けなさにまた嫌気が差し、顔を逸らしながら私は自分でも一番言いたくなかった事を言ってしまう。
「それに……私はもう山を捨てたんです。今更仲間がどうなろうが………知ったこっちゃない」
言い終えるか否かの時に凄まじい勢いで顎を掴まれ、真正面から思い切り頬を殴られた。
踏みとどまる事も叶わず、頬を押さえながら尻餅をついた。落としたティーカップが盛大な音を立てて割れ、紅茶がアリスの足にかかる。
が、アリスはそれに動じる事も無い。見下ろしながら、ただただ私に侮蔑の眼差しを向ける。
「失望したわ。永遠亭の薬師が匙を投げるのも当然ね」
雨が止んだら出て行きなさい。そう言って私から目を逸らし、黙って割れたティーカップを拾い集め始める。
どうするべきかわからず、咄嗟に破片を拾うのを手伝おうとするも、無言で伸ばした手を振り払われた。今までのアリスはクールそうで人間的な温かみが感じられる所もあったのだけれど、今はもう私は汚らわしい物としてしか扱われていない。
何でこうもアリスは怒っている? 私が言った事は確かに間違っていたかもしれない。けれどそれはまた事実でもあるんじゃないのか。
煮え切らない私。翼さえ戻っていれば、山に行ったって良い。いや、本当は翼が戻ってない事を理解した上でそう考えている。次は何を失ってしまうのかと、空が怖くなりかけている自分さえいる。
「飛行練習の時、私は『迷いを捨てなさい』と言ったわよね」
私と視線を合わせないまま、透明な声でアリスは呟き始めた。
「生まれてからの千年もの生を過ごした山と、その時間を共有した仲間をそう簡単に捨てられるわけがない」
ただただ淡々と、私に言い聞かせるでもなく独り言のようにアリスは言葉を紡ぐ。
少し気を逸らせば外の雨音に掻き消されてしまう程の小さな声だったが、自然とその声は真っ直ぐ私の耳に届いた。
そしてその言葉の一つ一つが、地面に雫が染み込んでいくように私の心に響いていく。
「アナタは、迷いを捨ててなんかいない。ただ単に現実から目を逸らしているだけだわ」
そして、最後の言葉はストレートに心に突き刺さった。
私は現実から目を逸らしているだけ。本当に迷いを捨て去るつもりなら、目の前の全ての現実を受け入れなければいけない。
自分の落ち度で翼が使えなくなったのは現実。私が天狗として生きるしかないのも現実。恐らくこの嵐で、あの日のように山が危険な状態になっているのも――現実。
それを理解すれば、もう今の私がやるべき事は一つしか無かった。立ち上がり、部屋に戻ってベッド脇の扇を握り締める。もう迷わない、迷ってはいけない。
「翼が戻ったら助けに行く」じゃない。「助けるために翼を戻す」んだ。山を、仲間を助けるために、私は飛ばなければいけない。
扇を手に玄関へと向かう私の背中を見つめる者がいた。下駄を履き、玄関の扉を開けるとそこは凄まじい暴風雨。急がなければ。振り向くと、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべるアリスと視線が交錯した。
「ちょっと山に行ってきます」
「荷物は後で送っておくわ」
それだけの言葉を交わし、扉を閉める。真っ直ぐに山の方角を見据え、私は横殴りの雨と吹き付ける突風を薙ぎ払うように扇を振るった。
途端、一帯の風と雨を掻き消すような恐ろしく強い上昇気流が巻き起こる。目を瞑り神経を研ぎ澄ませ、私は風に飛び移った。高く高く私の体は上昇し、家よりも木よりも丘よりも高い空へと投げ出される。
重力が消え失せたかと錯覚する程の浮遊感。目を瞑り精神を集中させると、風の音も雨の冷たさも感じなくなる。代わりに、両の翼に確かな熱さを感じた。今にも弾けてしまいそうだ。あとはこの燃えんばかりの熱を解き放つだけ。
目を見開き、灰色の空を、現実を見つめる。目指すは妖怪の山。翼よ、動け――。
そして私に空が戻った。
叩きつけるような大粒の雨も、遥かに山の方に疾る閃光も、幻想郷最速の風となった私の敵では無い。遥か千里を一瞬で駆ける事すら、今ならきっと出来る。
両の翼が、まるで魂を持ったかのように思い通りに動く。違和感など全く無い。それどころか千年の間に感じる事が出来なかった程に、自分が「空」であり「風」であり「鴉天狗」である事を実感出来る。
あっという間に山が見えてくる。きっと山のそこかしこで、仲間の天狗が山を守る為に動いている。その天狗の一員である事が、この上無く嬉しい。
そして響いてくる轟音。滝にて単身山の妖怪を守ろうとするは、一人の下っ端の哨戒天狗。ああ椛、あなたのような誇り高い天狗を守れた事を、そしてこれから守る事を、私は誇りに思います。
手にした扇に風が集まる。飛行の勢いをも扇に乗せ、今私の右手には土砂など屁でもない竜巻が出来上がっている。
「風符――」
ただの竜巻じゃない。これは私の決意だ。これからも山に生き、空を駆ける決意の表れだ。何が起ころうと自分の信じる物を守る意志だ。
「――『天狗道の開風』!」
振り抜いた扇が流れ来る土砂を弾き、岩を粉砕する。数秒前まで背後で死を覚悟していた妖怪達は、何が起こったのか理解するまでに時間がかかっているようだった。
妖怪達の、犬走の方へ振り向き、思い切りVサインを突き出す。一瞬遅れた後、私は安堵と歓喜で狂わんばかりになった彼らにもみくちゃにされた。
それは私が一度は敗走した現実への、勝利のファンファーレにも等しかった。
――――――――
「本当にごめんなさい!」
嵐が過ぎ去った後、私は山に戻る事になった。連続して来た嵐のせいで山のそこかしこがダメージを受けていて、建前上はその復旧作業を手伝う事を条件に山に帰る事を許されたのだ。
けれど本当は、私が山を去った日に犬走が大天狗様に頼み込んでくれたらしい。どこまでも真面目な下っ端は私の八つ当たりを正面から受け止め、私が代わりに山を去るから、文さんを許してください、などと言って頭を下げたとの事だ。
まったくもって、どこまでも実直で真面目な天狗らしい天狗だ。それが何とも羨ましいような愛しいような、妙な気分にさせられる。
けれど、そんな彼女を傷つけてしまったのは私なのに変わりは無い。それはもうどうしようもない事実だ。だから私は頭を下げた。
「え、いや、そんな。頼むから頭を上げてください」
「嫌です。しっかり謝っておかないと、私自身が納得出来ない」
彼女に謝罪をする事は同時に、自分を赦す事でもあった。
彼女に酷い言葉を吐き、弱さを押し付けた過去の自分。それを受け止め、自分で自分を赦さなければ、せっかく戻った空も全く意味が無くなってしまう。
ただ一つの誤算は、犬走が私に頭を下げられて恐縮してしまっている事だ。通りかかった他の天狗に「おーい射命丸、椛ちゃん尚更困ってんぞー」と言われなければ、私は半日でも一日でも頭を下げ続けていただろう。
ようやく頭を上げ犬走を見ると、本当に申し訳無さそうな顔で私の顔を覗き込んでいた。
「文さんは悪くないです。あの時は私が力不足だったから、酷い怪我を負わせてしまって……」
「いや、椛は悪くないんですよ。私が勝手に八つ当たりをしただけなんですから」
頭を上げると今度は、終わらない責任の被り合いが続いた。私も犬走も、どっちも自分が悪いと言って引かない。
そんな押し問答を半刻も続けていれば、流石に疲れる。どちらともなく、一つの提案をしていた。
「それじゃ、今回はどっちも悪かったと言う事でどうでしょう。これから私は今まで通り新聞を書き続け、椛は今まで通り大将棋をしながら滝を警備する」
「はい、じゃあそれで良いです。ただ、私は滝を警備しながら大将棋をしてるんですよ、順序が逆です」
言って、一拍置いて二人して笑った。わだかまりもスッキリ消え失せ、本当に心の底から笑える。清々しい気分だった。
笑いながら手を振り、家へ帰る。自分が思っていたよりも疲れが溜まっていたらしく、着替えて布団に倒れこむのとほぼ同時に私は眠りに落ちた。
もう、羽根の抜け落ちる夢は見ない。
翌朝目を覚ましウトウトしていると、玄関の戸を叩く音がした。寝起きで人と会うのは余り好ましく無いのだが、仕方ない。
はだけた寝巻きを直し、玄関へと向かう。
「おーい射命丸、アリスがお前にこれを届けてくれだとー」
やってきたのは魔理沙だった。箒の後ろに括りつけた風呂敷を外し、私に放り投げる。
開いてみると、アリス宅に置きっ放しにしてあったカメラやネタ帖、洋服が包まれていた。カメラとネタ帖は丁寧にも箱にしまわれ、洋服は綺麗に畳まれている。
オマケに、千切られたメモ帳の1ページにシチューパイの作り方が書き添えてあった。早速今夜作ってみようと思う。
「……で、また飛べるようになったみたいだな」
魔理沙が私を見ながら、しみじみと言う。元に戻った翼を見て、良かった良かったと微笑んでいた。
何だかんだで、魔力で神経を作ると言う事のヒントをくれたのは魔理沙だ。猿田彦1号で空を飛んでいたあの時に魔理沙と出くわさねば、私はいつまでも現実から目を背け続けていたかもしれない。
頭を下げると、別に気にしなくて良いぜーと笑われた。
「でも、香霖堂で呆けてた時は、本当にどうなる事かと思ってたんだぜ」
これからは気をつけろよーと言いながら箒に跨り、また森の方へと飛んでいく。苦笑いしながら、私は丁寧に畳まれた、シワ一つ無いシャツに袖を通した。
窓の外は雲一つ無い青空だ。こんな日は、絶好の取材日和だろう。今日は幻想郷の何処へと駆けようか。竹林の蓬莱人の力強い生き様を取材しようか。河童の職人技を記事にしても面白い。礼を言うついでに、風変わりな人形使いの所へも行ってみたい。
ぐずぐずしてても、ネタは待ってくれない。今すぐにでも下駄を履いて、変わりゆく世界をフィルムに焼き付けに行こう。
「今日から文々。新聞も復活ですよー!」
カメラを手に、私はどこまでも広がる空へと飛び出した。
生温い風が肌を撫でる。黒を通り越して漆黒になりつつある雲は、今にも機嫌を損ねて暴れ出しそうで不安を掻き立てる。
湿り気が翼にしがみついているように感じて、体が重い。ネタ探しや取材に行くどころか、そこら辺を軽く飛ぶ事さえ億劫だった。
いや、億劫だとか言う問題じゃない。空に生きる者、鴉天狗としての本能が「今日の空は危ない」と語りかけてくる。
得てしてこういう日には碌な事が起こらない。台風だとか、地震だとか。そういう物を警戒させる、漠然としたアンバランスさがある。
だからこう言った日には、外に出ずに大人しく様子を見た方が良いのだ。出掛けない方が良い。いや、出掛けない方が良かった。
「これじゃカメラも濡れちゃいますね……」
昼過ぎから降り出した雨は、あっという間に土砂降りになった。愛用のカメラとネタ帖が濡れてしまっては困ると雨宿りをしていたは良いけれども、待てども待てども雨は止むどころか、更に勢いを増していく。
流石にこのまま帰れないのは困ると、カメラを濡れないように懐にしまって飛び出したのだが、やはり大人しく雨宿りをしておくべきだったと飛びながら後悔した。
鉛玉のような大粒の雨と叩きつけるような暴風のせいで、視界はこれ以上無い程に悪く、もはや服は服として機能しない。気を抜いたら風に流され、地に落ちてしまいそうな程だった。
そもそも朝に出掛けなければこんな羽目には陥らなかったのだが、しかし新聞記者としてネタと取材を欠かすわけにはいかない。どうしても後悔はしてしまうが、やはりそれはお門違いと言う物だ。
早く山に帰って暖かい場所で原稿を書く事を心の支えに、更に飛ぶスピードを上げる。向かい風が急速に体を冷やして行くが、止まっていても状況は変わらない。濡れて動かしづらい翼を動かし、懸命に目を開く。
いざ帰り着いてみると、妖怪の山は結構な騒ぎになっていた。大雨と暴風で木が倒れ土砂が崩れ、流れが速くなりすぎて河童も一時的に川を離れたらしい。
それなのに、屋内に天狗の姿は全く見えない。手頃な妖怪を捕まえて話を聞いたところ、避難誘導をしたり土砂崩れを防ごうとしてみたり、割と献身的に動いてるとの事だ。
とはいえ私がそれを手伝いに行くかと言えば答えは否だ。体中が冷え切って、一度屋内の温もりを感じてしまっては外に出る事すら辛い。
加えて暴風雨の中を飛んできた疲労も重なって、この状況では手伝いが出来るどころか、要救助者を一人増やすだけだ。だから、今ここで嵐が過ぎるのを待つのが一番賢い選択なのだ。
「この分じゃ、滝の上流も危ないかねぇ。土砂崩れしてるんだろ?」
ただ、だからと言って自分の住処である山が壊れていくのを平気な顔で見ていられるわけではない。
人と雨音が混ざり合った喧騒の、何処かから聞こえてきた名も知らない妖怪の一言に不意に耳が反応する。
「ああ、万が一滝の上から岩なんて落ちてきたら、私ら並の妖怪じゃひとたまりも無ぇ」
並の妖怪じゃ、ひとたまりも無い。雨音がノイズのように鼓膜を揺らす。聞きたくも無いのに、雨が木々を打つ音が耳に残る。
妖怪と言うのは人間に比べれば圧倒的に頑丈に出来ている物だが、だからと言ってダメージを負わないわけではない。傷もつくし、普通に死ぬ。
妖怪の中では上位に位置する天狗と言えど、それは例外では無い。
「すいません、滝が危ないってのはどういう事ですか?」
あの滝の辺りには、哨戒の白狼天狗が居るはずだ。彼らは、私達鴉天狗のようには自由に空を飛べない。
そして恐らく、今山を飛び回っている仲間の鴉天狗は滝周辺の事情を詳しくは知らない。もっぱら山の上の方で暮らす鴉天狗が、生活テリトリーから外れた滝周辺の細かい地理をどれ程把握している?
彼らは自分達の知っているポイントを押さえには行くだろうが、この非常時に自分の知らない場所まで頭が回る者がどれだけいるだろうか?
気が付けば私は、話をしていた妖怪に焦りを含んだ声で尋ねていた。まだ水が滴っている翼が、危機感を察したように震え始めている。
「上流は大きめの岩がゴロゴロしてるからな。土砂崩れが起きたら、一緒に落ちてくるかもしれないんだ」
いきなり話かけた私に驚きながらも、声の主は手早く、要点を纏めた回答を返す。そしてそれを聞いた私は、お礼も曖昧に外へと駆け出す。
いかにネタは多いほうが良いと言えど、同族の訃報で新聞記事の一面を飾りたいほど趣味が悪いわけではない。
やめておけ、危ないぞ。背後から聞こえるそんな声を無視して、崖から飛び出す。翼を震わせ水滴を振り払い、私は滝に向かって飛び出した。
東の空に閃光が光る。一拍置いて轟音が山を震わせた。ついに雷まで来たか、と舌打ちをして一際大きく羽ばたく。
寒さと疲れでくず折れそうになった頃、ようやく滝が見えて来た。だが同時に、上流の方から嫌な音も近づいてくる。それが何かを視認する余裕は、恐らく無い。
滝の下を見遣る。横殴りの雨で視界が霞む中、妖怪の子供を抱いて反対側の岸に渡る一人の白狼天狗が見えた。他の妖怪は渡り終えたのか、岸から離れた所で心配そうにそれを見つめていた。
ただ、轟音はおぞましい速度で近づいてくる。今のままでは、あの白狼天狗が岸に渡るまで間に合わない。
――遂に、滝を見下ろす私の視界が土色の奔流に覆われかけた。
「危ない!」
叫びながら私は、全速で滝の下に向けて加速した。土砂を追い越し、白狼天狗を岸に向けて吹き飛ばす。
私の声が聞こえたのか、白狼天狗は私を見ながら何かを言いかけた。同時に手を伸ばしてくるが、声も手も届く事は無い。届かせる気も無い。
扇を握り締め、頭上に向けて全力で振るった。巻き起こった風が流れ落ちてくる土砂を吹き飛ばし、土砂は私から逸れるように流れ落ちていく。
間一髪で間に合った事に安堵し、全身から力が抜けた。そのまま墜落してしまいそうになり、慌てて力を入れる。
「大丈夫ですか!?」
慌てた様子で白狼天狗が近寄ってくる。見知った顔だった。下っ端の、確か犬走とか言う哨戒。抱いていた子供は、既に向こう岸へ渡し済みだ。
大丈夫、と息を切らしながら言いかけて、一際大きな音が頭上で聞こえる事に気が付いた。その直後、今度は音が急激に途絶える。見上げると、人里の家屋ほどはあろうかと言う岩が幾つも落ちてくる所だった。余りの大きさに現実感が失せ、一瞬思考が途絶える。
けれど何処までも現実のその岩々は、重力に従い真っ直ぐと私めがけて落ちて来る。避ける隙間は無い。咄嗟に扇を握りなおし、再び風を巻き起こす。
一つ、二つ。扇を握る手は痺れて力が入らない。初めは粉々に砕けていた岩も、三つ四つと数を重ねる毎に大きく割れるだけになってくる。
そして最後に、一際大きな岩が落ちてくる。
扇を振るうと、手から抜けてしまった。巻き起こった風は弱い。ほんの僅かに軌道が逸れただけで、そのまま岩と私の距離は近づいた。
グシャ、と。
鈍い音が耳のすぐ横で響いた。一瞬遅れて全身を走る痛みを伴ってようやく、私は翼をやられたのだと気付く。
羽ばたく事が出来ない。右の翼にだけ力が入らない。そのまま私は滝つぼの中へと墜落してしまうが、すぐに私を引っ張り上げた者が居た。さっきの犬走だった。
「私は大丈夫だから……早く此処から離れて」
そう言うのが精一杯で、言い終えると同時に私の視界は暗転した。
全身から力が抜け、崩れ落ちる寸前を抱き留められた所で、私の意識は途絶える。
――――――――
暗い世界だった。瞳の捉える光と言う光が黒くて、不明瞭な視界には何も見えない。目は開いている筈なのに、見えてくる物は無い。
完全に光が閉ざされたわけではない。何かが私の視界を遮っている。私の世界から光を奪うのは何だ。
手を動かし、顔を拭いたい。けれど体は動かない。力が入らない。おかしい、動かせないのは右の翼だけじゃなかったか。
焦りが脳裏を掠めたその時、風が吹いた。何処からか吹いたそよ風は、私の顔の上に乗っていた物を巻き上げる。ようやく開けた視界に映っていたのは――
――黒い、鴉の羽根だった。
そこで私は夢から覚醒した。なんとも生々しい悪夢だったと思い、疲れと安堵で小さく溜め息をつく。
余程昨日の、嵐の一件が尾を引いているらしい。鴉天狗の象徴たる羽根が飛んでいく夢なんて、翼を打たれでもしなければ見れないだろう。
まだ網膜には、風に巻き上げられた黒い羽根が飛んでいく様が焼きついている。今なら容易に夢の続きを見れそうだ。だが生憎、私には好き好んで悪夢を見る趣味は無い。
開いた窓からは風が吹き込み、気持ち良く晴れ渡った青空が見える。台風は完全に過ぎ去ったらしい。こんな爽やかな朝は、夢の事など忘れて取材に出掛けるのが一番だ。
布団を跳ね除け立ち上がる。箪笥から服を取り出そうとして、気付いた。
「私の部屋じゃ……ない?」
起き上がって部屋を見回すと、そこは全く見知らぬ部屋だった。今まで私が寝ていた布団も、いつの間にか着替えていた寝巻きも、全く自分の記憶には存在しない物だ。
一体寝ている間に何があった? 確か私は滝で犬走を助けて岩に当たって、痛みで気を失って……。
混乱する思考を記憶を辿る事で落ち着かせようと努めるが、効果は上がらない。今自分が何処でどうしてここで寝ていたのか、記憶の空白には不明瞭な点が多すぎる。恐らくは気を失ったので休ませようと、手頃な部屋に放り込まれたのだろうが。
ひとまず自分の家に戻ろうと窓を開け、飛び立つ。そのまま翼を羽ばたかせ、はだけた寝巻きと言う少し恥ずかしい格好で早朝飛行をする――筈だった。
右の翼が、ピクリとも動かない。
風を捕まえられない私の体は、重力に従って自由落下する。
慌てて足元に空気の塊を作り、落下を止める。かろうじて墜落は免れた。鴉天狗が飛び降り自殺だなんて、冗談にもならない。
とは言え、自分の置かれた状況は決して良いとは言えないらしい。妖怪でもあれ程の落石を喰らえば深刻なダメージを受けると言う事だろうが、それでも一晩寝て翼が再生しないのは不可解だ。全身から抜けきらない気だるさから、そもそも寝ていたのが一晩だけと言う保証も無いが。
飛行が出来ないので、ひとまず空気の塊を飛び移って地面に降り立つ。空を飛べないと言う事の不便さを、たった数メートルの移動で思い知った。
素足なので、足の裏に直に砂利が食い込む。思わず顔をしかめてしまうが、そういえばどれくらい地に足をつけていなかったのだろう。柔らかい痛覚と共に、妙な懐かしさも覚えた。
立ち止まっていてもしょうがない。仕方なく家を目指して歩き始めた私の頭上を、タイミング良く仲間の天狗が通りかかった。
「あ、おーい! ちょっと上まで連れてってくださーい」
私の声が聞こえたのかその天狗は向きを変え、こっちに降りてくる。私が怪我をしたのを知っているのか、飛べない私を不審がる様子も無い。
仲間内の情報伝達の速さには感心する。けれども、その天狗は一瞬だけ私に目をやると、嫌な物をみたような苦い顔で視線を逸らした。
黙って差し出された背中に、恐縮しながら乗せてもらう。けれどもその天狗はコクリと一度頷いただけで、一言も発する事無く山の上へと飛び出してしまった。
風を切り、空を泳ぐ。自分の翼には劣るけれども、それでも空を飛ぶのは気持ちが良い。明日か、明後日か。早く自分に空が戻る事を願う。
そんな思索を巡らしてると、あっという間に山の上層まで辿り着いた。適当な所で降ろして貰い礼を述べた時にも、見知らぬ天狗は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
不可解に感じながらも家に戻る。はだけた寝巻きだなんて、余り露出の多い服装で外を出歩く物ではない。ひょっとしたらさっきの天狗も、気恥ずかしさで何も言わなかったのかもしれないし。
扉を開くと住み慣れた家の匂いがする。やはり自分の家が一番落ち着く。愛用のカメラも、秘密が山ほど書かれたネタ帖も、あの時飛ばしてしまった扇も、揃って机の上に置いてある。誰か親切な者が届けてくれたようだ。
着替えようと箪笥を開く。皺一つ無いシャツとミニスカートを取り出し、シャツに袖を通す。が、背中に何か違和感を感じた。普段は引っかかる事など無く着替えられるのに、今日は何かが邪魔をして上手くいかない。
一旦シャツを脱ぎ、姿見に自分の姿を映してみる。背中の違和感の正体は何なのか、それはひょっとしたら一晩寝ても翼が治らない事と関係あるのか。不意に湧いた取り留めの無い恐怖感を抱きつつも、鏡の方を向いた。
右の翼が、潰れ、ひしゃげ、原型を残していなかった。
否、これは翼ではない。ただの黒い塊、かつて私を空に生かしていた物の残骸。
受け止めきれない現実が一気に脳髄に流れ込んで、混乱と絶望とで視界は色を失った。黒い羽根が一枚、抜け落ちる。
――――――――
「無理ね」
嗚呼、この薮医者は一体今何と言ったのだろう?
月の医学を究めたなどと触れ込んで妖しげな薬を作る割に、折れた翼の一つも治せないのだろうか。
淹れたての緑茶を運びながら、弟子の兎も不可思議な声を上げる。
「師匠、幾らなんでもあっさりし過ぎなのでは……」
「妖力の伝達神経が『消滅』しているのだもの。すぐに処置すればどうにかなったかもしれないのに、三日も黙って寝かせておくなんて狂気の沙汰だわ」
対して、蓬莱の薬屋こと八意永琳の回答は素早く、一切の迷いが無い。それは逆に、私にどこまでも残酷な現実を突きつける容赦の無さの裏返しだ。
永琳は緑茶を口に運びながら、キッと私の背後に立つ付き添いの天狗らを睨みつける。息を呑み、顔を逸らす仲間が見えた気がした。
あの後、私は仲間の天狗達によって永遠亭へと連れて行かれた。無論目的は、動かない翼を治療して貰う事だった。だったのだが……。
結論から言うと、私の翼は医術では治せない。
翼の形は外科手術で直せても、妖力で作られた神経がダメになっているらしく、それは私が気を失っている間――一日ではなく、三日も気を失ったままだった――に霧散してしまったと言う。
元々は妖力と言う形の無い物が集まって神経と言う形を成したわけで、一度消滅するともう外部からの力ではどうにもならない。無から有を作り出すのは医学の範疇ではない。
再び自己再生するのを待つしか無いが、翼と言う複雑な部位だけに、それにはどれ程かかるか。何十年か、何百年か。もしかしたらもう再生しないかもしれない。
ただただ淡々と、月の頭脳はこのような事を私に告げた。
「……それじゃあ、もう私は……」
それでも、私は現実を信じられない。信じたくない。信じるわけにはいかない。
何故なら私は鴉天狗で、幻想郷最速で、空を自由に駆ける事が存在意義にも等しいのだから。
その口が「まだ諦めるには早い」「どうにかなる可能性はある」と言葉を紡いでくれる事を期待していた。
「貴女には、もう今までの空は戻らない」
そして、期待は粉々に打ち砕かれた。希望と言う希望が指の隙間から抜け落ちていく。鴉の羽根を溶かした色のような深い黒が瞳の中へと流れ込んでくる。
逃げるように私は立ち上がり、駆け出した。後ろから誰かが呼び止める声はもう鼓膜を揺らさない。
診察室を飛び出し屋敷の兎を突き飛ばし廊下を駆け抜け、下駄を掴んで素足のまま外へと走り抜ける。このままスピードを上げれば、また空に戻れるのではないか。そんな考えすら浮かんできた。
けれども私は翼が無ければただの一妖怪で、特別速く走れるわけでも、高く跳べるわけでもない。
走れど走れど同じ眺めの竹林の中で方向感覚を失って、どれ程走ったのか陽はとうに沈んでいて、全速力で走り続けて体力も尽き果てて、私は次第に失速し、その場にへたりこむ。
地面に膝を着くと同時に足の裏の痛覚が戻ってきて、けれども痛みとは無関係に視界が涙で滲む。手に持った下駄を放り投げ、頭を抱えて私は必死に嗚咽を抑えた。
もう飛べない。二度と空は戻らない。それは私が私である意味を消失させる最悪の展開だった。
どうしてこんな事になってしまった? そもそも私があの時滝に行かなければ、今日も私は今まで通りに幻想郷を飛び回り、ネタを集めていたのではないか?
あの時滝に行かなければ。あの時屋内で嵐が過ぎるのを待っていれば。あの時――犬走を助けなければ。
そんな事を考える自分にまた絶望し、後悔と涙は止まらない。声を上げて泣き叫びたいのを必死に堪える。いっそこのまま死んでしまえれば、と思い始めた時に、竹林を掻き分け歩いてくる音が聞こえた。
「そこに誰かいるのか……?」
恐らくは私に向けられたであろう声に、ハッとして顔を上げる。長く伸びた銀髪と、継ぎ接ぎの目立つモンペ。
掌に浮かべた炎を明かりにして歩いてきたのは、蓬莱の人の形こと藤原妹紅だった。恐らくは見回りの途中だったのだろう。
彼女は竹林の中でうずくまり泣いている私を目にし、――最初の一瞬に不可解な物を見たと言う顔をしてから――近寄って心配を孕んだ声で私に問い掛けた。
「誰かと思えば天狗の新聞記者が、こんな竹林でどうしたんだ?」
掌の炎が、眩しいくらいに辺りを照らす。言い様の無い安心感。間違った数式で間違った答えを出して安堵しているような不安定さ。
その掌の炎がひょっとしたら私の心をも照らしてくれたような錯覚に襲われ、気付けば私はその華奢な体に縋り、泣きついていた。
今はとにかく、誰かに手を差し伸べて貰いたかった。
――――――――
竹林の外れに作られた粗末な小屋には、方々から隙間風が吹き込む。
庵に当たっているおかげで少しはマシだが、自分で風を切っている時の寒さとは風の種類が異なる。寒い物は寒い。
「もう二度と飛べないかもしれない……か」
あれから何とか落ち着きを取り戻した私は、ひとまずいつも見回りの時に使っていると言う小屋まで連れて行かれた。
小屋まで歩いている時も目の前の蓬莱人は余計な詮索をする事もなく、黙って私を先導して歩き続けた。それが逆に私を冷静にさせ、あらいざらいを話す気にさせたとも思える。
小屋に着き、庵に火を入れてから全てを話すと、藤原妹紅は複雑な顔をして天井を見つめた。
「すいません、妹紅さんには全く関係の無い話なのに」
話し終えてから、やはり話すべきではなかったかもしれないと言う後悔が浮かんできた。
そもそもこれは私個人の問題であり、無関係な人に縋ってしまったのは自分の弱さであるからだ。永遠亭で突きつけられた現実に動揺し、自分でもどうしようもない状態になっていたのは確かだ。でもそれを他人に打ち明けた所で荷物が軽くなるわけではない。
「いや、そうとも限らないさ」
そんな私の勝手な葛藤とは裏腹に、普段通りの調子で蓬莱人は相槌を打つ。
荷物は軽くならなくても、気は軽くなるよ。何て事の無い言葉にそんな意味合いが込められている気がして、私は顔を上げて耳を傾けた。
私の眼を見つめた後、ゆっくりと重みのある口調で妹紅は話し始める。少しだけ懐かしそうに目を細め、少しだけ辛そうに眉を寄せ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「確かに私には鴉の翼を失った経験は無いけれど、二度と忘れられない大切な物を失った経験ならある」
それから聞かされた話は、昔々の物語。外の世界なら御伽噺として語られるような物語だった。
平安の世に現れた絶世の美女、それに求婚し敗れた父。話は続き、やがて「かぐや姫」が月へと帰っていくくだりには、少しだけ声に力が入る。
そして父の恨みを晴らそうと単身家を飛び出してからの一幕。蓬莱の薬を手にした女の子は、それからの日々をどう過ごしたのだろう。
「私だってその時には、取り乱して泣き叫んで一人で突っ走って――」
――その結果が今の私さ。かつて物語を外で見る事しか出来なかった女の子は、そう言って自嘲気味に笑いながら頭を掻いた。
話が終わり、奇妙な沈黙が小屋の中を満たす。何を話せば良いのか、何から話せば良いのか。何かを掴めたような掴めてないような曖昧な感覚。
きっかけになる言葉を探していると、先に口を開いたのは妹紅だった。
「さっきさ、このまま死んでしまいたい、だなんて考えなかったかい?」
懐を短刀で刺された気がして顔を上げた。自分を見つめる、全てを悟ったような瞳。
それは今まで自分が何度も直面した現実だからなのか、それとも一度の余りにも大きい喪失が忘れさせてくれない現実だからなのか。
「私が言うのも何だけどさ、死ぬのは最後の手段なんだよ。出来る事を全てやった上で何も状況が変わらなくて、そういう時の最後の悪足掻きに『死』があるんだ」
先刻の昔語りよりも更に速度を落とし、自分で自分の言葉を噛み締めるように妹紅は語る。
とうの昔に「死」を捨てた蓬莱人が、最後の足掻きだと「死」を語る。けれどもその語り方は想像以上に重い。実は蓬莱人とは、一番「死」と近くで向かい合って生きているのかもしれない。
単なる生命の「死」も、概念の「死」も、存在意義の「死」も。あらゆる「死」を経験した者の言葉は、私の心の奥底に沁みこんでいく。
「だから、出来る事を探しなよ。翼が戻らないなら、別の飛ぶ方法を探せば良い。此の世は広い、空なんて一つじゃないんだ」
「空は、一つじゃない……」
耳にした言葉は新鮮な響きがあった。今まで私が生きてきた空はもう戻らない。それは永遠亭の永琳にも言われた確かな事だ。
けれど、空は一つじゃない。鴉天狗としての空があれば、他に空に生きる者にもそれぞれの空がある。他の空を模索してはいけない、なんて決まりは無い。
そろそろ帰りな、送るよ。そう言って妹紅は立ち上がる。小屋を出て、竹林の中を歩く。けれども来た道と違って、私は顔を上げて歩く事が出来た。
「一つだけ聞かせてください。……どうして妹紅さんは、空を飛ぼうと思ったんですか」
竹と竹の間から人里の明かりが見えてきた時になって、私は足を止め妹紅へと疑問を投げかけた。
最初に空を知らなかった人間が、どうして翼を手に入れようとしたのか。それはもしかしたら、一度失ってから再び手に入れるよりも難しい事かもしれないのに。
決まってるじゃないか、と言いながら、妹紅は振り向いた。私の瞳を見て、納得したように頷いてから口を開く。
「飛ばなきゃいけなかったからだよ」
飛べないと、憎たらしいアイツと殺し合いも出来ないからね。
そう言って笑った顔には、今度は自嘲も憂いも見えなかった。背を向けて手を振りながら、蓬莱人は竹林へと消えていく。
――――――――
「人工的に翼が作れないかって?」
「そうです。河童の技術力をもって、なんとかなりませんか?」
次の日から、私は飛ぶ方法を模索して幻想郷中を走り回ることにした。まだ完全に立ち直れたわけではないけれど、黙って山に篭りきりになるのは私の性に合わない。
ネタや情報は、自分の足で集めてこそ意味がある。少しでも手がかりになりそうな所を、虱潰しに訪ねてまわる。翼は折れても、心はまだ折れていない。
手始めに、山を下るついでに河童の下に寄ってみている。幻想郷では河童が一番機械工学に詳しい。義翼の一つくらい作れるのではないか。そんな淡い期待を持っていたが……。
「……形を作る事は確かに出来るよ。けれど、それを本物のようにしなやかに動かすのは……」
そこまで言って、河童は帽子を深く被りなおし、申し訳無さそうに肩を落とした。透き通る川の水のように綺麗な青のツインテールまでもが、気を落としてしょぼくれているように見える。
見ているこっちが申し訳なくなってしまう。そもそも唐突に無茶な提案をしたのはこっちなのだから、この河童――超妖怪弾頭こと河城にとり――がこうして気を落とす事は無いのだ。
もしかしたら私に対して申し訳なく思っているのではなく、自分達の技術力の低さに辟易しているだけなのかもしれないが。
「ああ、そんな気を落とさないでください。元から無茶なのは承知だったんですから」
私がそう言うと、にとりは更に背を丸め、深い溜め息をついた。自分達が元から期待されてなかった、と感じたのかもしれない。
作れない物はしょうがないと思うのだが、立場を置き換えて見れば、私だって「文々。新聞に面白いネタは期待してませんよ」と言われたら悔しい。
なんだかんだで、山の妖怪は職人気質なのだろうか。今度特集を組んでみても良いかもしれない。
「代わりと言っちゃなんだけれど、たまに私が掘り出し物を探してる店があるんだ」
そう言いながら、にとりは人里から少し外れた方角を指差す。その指の先にあるのは、確か魔法の森。
魔法の森の片隅に、外の世界から流れ着いた道具を扱っている店があるとにとりは言う。名前は――香霖堂。
にとりに手を振り別れながら、私は山を下って遥か先の魔法の森を目指した。
燦々と輝く太陽の下、歩き続けるのも楽ではない。もっとも、陽の暑さに関しては問題ではなく、単純に歩き慣れていないと言うのが一番のネックなのだが。
けれど歩くと言う行為は、飛んでいては絶対に見ることの出来なかった様々な景色を映し出してくれる。広大な森の全景は空からしか見れないが、木の一つ一つの違いは地に降りて注意しないと絶対に気付く事は無い。
これも一つの「空」なのか、と不意に思いついた。皮肉な事に、私は空を失ってから空の広がりに気がついたのかもしれない。
そんな事を考えながら歩けば、時間の経つのは早い。気がつけば私は少し傾いた「香霖堂」の看板を見上げて扉をノックしていた。顔を出した眼鏡の男に、かくかくしかじかと経緯を話す。
「飛行に使えそうな道具、か……」
呟きながらこの店の店主、森近霖之助は店の裏でガラクタの山を漁りに行く。外の世界から流れ着くとは言ってもそれらが全て有益な物と限るわけではなく、使い道がわからないまま保留してある物が溜まっているらしい。
時折何かが崩れる音や呻き声が聞こえたりもしたが、しばらくした後に彼は巨大な、且つ意味のわからない物を引き摺って持ってきた。金属の棒にわっかを二つ付けた物にゴチャゴチャと鎖やら取っ手やらがついており、その周りに硬い固定された翼のような物がある。
その翼には「烏人間コンテスト」と大きく書かれていた。外の世界の人間の考える事は、全くもってわからない。
「あの……何ですか、コレ」
「『自転車』と言う物に飛行機能を搭載した物のようだ。この翼のような部分で風を受けて飛ぶのだと思うが」
「じゃあこの『自転車』部分はなんのために……?」
「多分、その車輪を坂か何かで転がすようにして勢いをつけるんだろう。で、崖か何かから飛び出す、と」
外の世界の人間も、空を手に入れる為に色々と苦労しているらしい。仮に今私達が考え付いたような方法で飛行しているのだとすれば、下手をすれば死に直結する。
向こうが命がけで空に挑んでいるんだ、外の世界の人間に天狗たる私が負けていられない。変な形で勇気を貰いながらも、私は俄然やる気が出てきた。
早速「猿田彦1号」と名付けた改造自転車を高台まで引っ張り、飛行を試してみる事にする。とは言え、乗り方がさっぱりわからない。立てば良いのか、座れば良いのか。
ガチャガチャと触っているうちに、前面の取っ手で進路を変えるだとか、車輪が回ると連動して側面の棒が動くだとか、仕組みが朧気ながらわかってくる。それらを参考に、ついに私は乗り方を導き出した。
「行け、猿田彦1号!」
まずは坂の一番上から、思い切り猿田彦1号を転がす。車輪は回りどんどんと勢い付き、同時にバランスも崩れそうになるが、その前に私が上に飛び乗る。
右足を前の取っ手に。左足を一段高いハート型の台に。巻き込まれそうで怖いので側面の回っている棒は無視する。綱渡りのような姿勢を取りながら、私を乗せた猿田彦1号は思い切り崖から飛び出す。
上手くバランスを取るように風を起こすと、やや不安定ながらも猿田彦1号は空に浮かんだ。速度は自分の翼とは比にならないが、それでもとても久し振りに風を切る感覚を味わった気がする。
軽く上昇気流を起こすと、そのまま高くまで浮かび上がった。翼の耐久度が少し不安なので、ひとまず香霖堂を目指す。後で河童に補強をして貰えば良いだろう。
進路を香霖堂に定めたその時、遥かに広がる魔法の森の方角から飛んでくる者が居た。誰かを確認しようとする前に、それは結構なスピードで近づいてくる。
「なんだ、誰かと思えばいつぞやの天狗じゃないか。こんな所で妙な物に乗っかって、一体何をしてるんだ?」
箒に乗りながら私に手を上げたのは、森に住む魔法使いである霧雨魔理沙だった。人の身で空を飛ぶ少女、あくまで普通の魔法使い。
箒は魔女のアイデンティティだぜ、と言って大切にしているようだが、今となってはその気持ちが良くわかる。魔力で飛ぶのだから実際はデッキブラシでも何でも良いのだろうが、空を知る者で自分の翼に思い入れの無い者はいない。
彼女は珍妙な乗り物に乗って空を泳ぐ私に不思議そうな顔を向けながら横に並んだ。
「まぁ、ちょっとヘマして翼がダメになっちゃったんです。で、今は代わりになる飛び方を色々模索中と言う事です」
「……詳しい事情は知らないけど、色々と大変なんだな」
余り深く事情を聞く事もなく、魔理沙は納得してくれた。どちらかと言えば同情に近い気もしたが。
数日前まで自慢の翼で幻想郷を駆け回っていた天狗が、今日になったら妙ちくりんな乗り物に乗って飛んでました、と言うんじゃ、確かに並々ならぬ理由を連想させるインパクトはある。
ちょうど私も香霖堂に行く所だったんだぜ、と言う魔理沙と世間話などしながら香霖堂へと向かう。猿田彦1号がどれほどの負荷に耐えられるかわからないので、進むスピードは遅かった。
「一つだけ気になる事があるんだが、言って良いか?」
道すがら、魔理沙はそれまでの他愛ない話を遮るように質問を繰り出した。
私としては余りこの魔法使いが疑問や質問を抱く場面に出くわさないので、ある種新鮮に見える。深く考えない実直さのイメージが強いせいだ。
とはいえ、常に目の前の状況を受け入れ、何も疑問を抱かない人間がいるとしたら、それはただのバカに他ならないのだが。
「? ええ、どうぞどうぞ」
「その……何て言うか奇天烈な乗り物な、弾幕ごっこの時に物凄い邪魔になると思うんだぜ」
ガツンと脳天を殴られた気がした。飛ぶ事ばかりに気を取られ、弾幕ごっこの事など忘却の彼方に葬り去られていたからだ。
幻想郷に生きる妖怪として、弾幕ごっことスペルカードは必需品と言っても良い。確かに猿田彦1号に乗ったままでは、今までのように動けないばかりか、こちらからの攻撃すらままならない。
ましてや私なんて、取材上で生じる無茶を無理矢理弾幕ごっこに勝利して捻じ伏せていたような所もあるのだ、良く考えれば飛べる・飛べないに匹敵する死活問題である。
失意の余りに風を起こすのも忘れ、危うく墜落しそうになった。すんでのところで魔理沙に声を掛けられ、慌てて風を起こし持ち直す。
「なんつーかショックなのはわかるが、ショックで珍妙なそれまで失うってのは勿体無いぜ」
「そう、です……けど」
それからは私は口を開く気にもなれず、ひたすら無心で香霖堂を目指した。せっかく手に入れた翼も、本当に飛べる「だけ」じゃどうしようもない。
それとも私は贅沢なのだろうか。失った物と百パーセント同じ物など在りはしない。私が探しているのは新しい翼なのか、過去の翼の模造品なのか。
隣で話す魔理沙の言葉も、右から入って左へと抜けていく。立ち止まっている暇は無い。それはわかっているけれども、私はバカではないから、常に目の前の状況を受け入れ、何も疑問を抱かない事なんて出来はしない。
もう、全てがどうでも良く感じられる。扇を振るっている腕と虚無で一杯の頭とは、とても同じ私のパーツだとは思えない。気が付けば視界の隅に香霖堂が在り、魔理沙に声を掛けられなければ私は呆けたまま通り過ぎてしまうところだった。
「ああ、戻ってきたね。で、どうだった結果は?」
扉を開けた瞬間、期待を込めた眼差しで見つめてくる店主。何と報告するべきだろうか。
飛べる事には飛べたが、実用性は無い。外には弾幕ごっこの文化は無いであろうから、良く考えれば最初から期待する方が間違っていたのだけれど。
そのまま黙り込んでしまう私を見て、店主は残念そうに溜め息をついた。
「ダメだったか……。魔理沙、君も話は聞いただろう? 何か当ては無いのかい?」
「とは言っても、私は魔法で飛んでるだけだからなぁ……」
二人は頭を抱え込み、私は何を見るでもなく視線を彷徨わせていた。他人事のようで我ながらおかしい態度だとは思っているが、いかんせん頭が働かない。
ひょっとしたら、このまま私は地面に這いつくばって生きていくことになるのだろうか。そんなネガティブな考えばかりが脳内で空転して、肝心要の前向きな思考をするスペースが無い。
ただただ私は、二人があーでもないこーでもないと意見を出し合うのを眺めているだけだった。
「なぁ射命丸、どうして飛べなくなったかとか、わからないのか?」
考えあぐねたのか、魔理沙が疲れを孕んだ声で尋ねてくる。聞いている限り、意見の出し合いは一向に発展する様子が無かった。
第一、この幻想郷でこんな時に頼れる物と言われてすぐに思いつくのは、永遠亭の薬師か河童の技術力だ。そのどちらにも見放された私は、状況の好転する余地が無いようにすら思える。
それでもどうにかしようと、二人は懸命に考えてくれている。半ば自分が情けなく感じながらも、私は永琳に言われたままを伝えた。
「えーと、確か天狗の妖力で出来た神経みたいなのが切れて霧散してしまったから、形は直せても動かせないと……」
神経ね……と魔理沙が呟き、再び頭を抱える。形を直すだけならどうにでもなりそうな物だけれど、内部構造となると話は別だ。
薬師も河童も匙を投げた難題を、魔理沙はどう答えを導き出すのか。ひょっとしたら、答えは無いのかもしれないが。
しかし、しばらく考えた後に魔理沙は顔を上げる。
「それなら……もしかしたら当てが無い事も無い、かもしれないぜ」
どうやら、答えの候補はまだ残されているらしい。
――――――――
乗せてもらった魔理沙の箒から降りた私を出迎えたのは、一体の西洋風の人形だった。人形は私達に丁寧にお辞儀をした後、小さな体を目一杯に動かして家の方へと私達を誘導する。
煙突から煙が立ち昇る、決して大きくは無いけれど品のある家。それがその家を見た時の第一印象だった。
不思議なのは、その品のある家が人里ではなく、魔法の森に在ると言う事。出迎えに動く人形が現れる辺りからも、住人は普通の人間ではない事がわかる。
自律人形の完成を目指す七色の人形遣い、アリス・マーガトロイド。それがこの家の主の名前だ。
「おーいアリス、邪魔するぜー」
魔理沙が勢い良く扉を開け、家の中へと遠慮も無く入り込んでいく。勝手知ったる人の家とは正にこの事なのだろう。
ただ、この家の主はその態度を良しと思っていないらしい。邪魔者だと言う自覚はあるのに、これっぽっちも遠慮はしないのね。そんな呟きとも嘆きとも取れる声が聞こえた気がしたからだ。
呆れ顔の人形――人形が表情を変える筈は無いのだが――に連れられて、私はリビングへと通された。見知らぬ来訪者である私を視界の隅に認めたからか、アリスは読んでいた魔導書を閉じ、傍に控えている人形に何かを命令した。透明感のある綺麗な声だった。
「これは珍しいお客さんね。紅茶でよろしかったかしら?」
とりあえず座りなさいな、と促され、私はソファに腰掛ける。年季の入った木の優しい香りがした。
すぐに人形が湯気の立つ良い匂いの紅茶を持ってやってくる。私の前に紅茶と、何故か魔理沙の前にはお茶漬けを置いて人形は戻っていった。一見様でも無いのに帰れは酷いぜ、と魔理沙が苦笑いをするが、アリスは眉一つ動かす事も無い。
紅茶に口をつけると、優しい温かさが全身を巡った気がした。心が安らぐ。最後の頼みにまで見放されたらどうしよう、と不安で押し潰されそうだった心が、少しだけ楽になった。
「……で、鴉天狗さんが私に何の用?」
しばらく沈黙が続いた後、無音の空間に飽きたような口調でアリスが話を切り出す。
本来ならそれは私から切り出すべき話なのだが、いざとなると上手く言葉が浮かんでこない。それでも再び沈黙が始まったら二度と用件を告げられない気がして、私は思いをそのまま口に出す事にした。
「魔力で神経を作る事は可能なんでしょうか」
ピクリと一瞬、アリスの眉が動いた気がした。興味を示したのか、それとも触れない方が良い話題だったのか。
どういう事かしら。そうアリスは言って、私に視線を向ける。人形のような無機質さと人間特有の温かみが混在する視線。思わず私は息を呑む。
「仮に神経を作れるとして、それをどうするつもりなの?」
「あーアリス、こいつはちょっと事故にあってだな……」
「魔理沙には聞いてないわ」
切り捨てるような鋭いアリスの物言いに魔理沙も押し黙った。ほんの少し表情を暗くした後、気まずそうに視線を彷徨わせる。
アリスの視線は、私を見据えたまま動かない。ここだ、ここが正念場だ。引き下がってはいけない。自分に言い聞かせ、私は最初から説明を始める。
嵐の日の一件。永遠亭での宣告。竹林でのやり取りは話さなかったが、私なりに飛ぶ方法を模索した事は話した。
「……それで、魔力で翼に神経を通す事が出来れば、再び翼を動かせるんじゃないかと思ったんです」
一通りを話し終え、私は知らずに乗り出していた身を正した。口の中が乾ききって、喉も潤いが絶対的に足りない。ティーカップに手を伸ばし、温くなり始めていた紅茶を一気に飲み干す。
アリスは一言も言葉を挟む事無く、黙って私の話を聞き終えた後、目を瞑って何かを考え続けているようだった。魔理沙は魔理沙で、何かを考え込んでいるように眉間に皺を寄せて押し黙っている。
やがて深い思慮を終え、アリスが口を開く。
「技術的には不可能じゃない」
「本当ですか!?」
アリスの口から出た言葉は、思わず私に身を乗り出させるには充分な希望の言葉だった。
技術的には不可能じゃない。それはつまり、空への希望が繋がったと言う事。
「ただ、二つだけ問題があるわ」
私を手で制し、ソファに座り直させてから、ゆっくりとアリスは言葉を続けた。
問題か、上等だ。私に空が戻るなら、何だってやってやる。固く決意し、続く言葉を待つ。
「一つは、魔力で翼を動かすと言うのは魔法で飛ぶのと殆ど変わらない。一から魔法を使えるようになるのよ、厳しいリハビリは覚悟しなさい」
それは元から覚悟はしていた。何の代償も無しに失った物を取り戻せるだなんて、いくらなんでも虫が良過ぎるだろう。
苦労する分には一向に構わない。むしろ、苦労しないと罰が当たる気さえする。
気になるのは、もう一つの問題とやらだ。
「もう一つ。アナタは鴉天狗だけれど、妖力ではなく魔力をその身に宿すと言う事は――」
そこで一度、アリスは言葉を区切った。言葉を探しているようにも、私の決意を図っているようにも見える。
数分だったか数十分だったか、或いはほんの一瞬だったのかもしれない。確かな重さを持った沈黙がリビングに満ちた。
それでも、私は視線をアリスから離さない。一度ゆっくりと瞬きをして、アリスは続きを話し始めた。
「――もう二度と、純粋な鴉天狗には戻れないと言う事」
もう飛べない、と言われた時とは種類の異なる衝撃が私を襲った。
純粋な鴉天狗に戻れない。即ちそれは山を降りると言う事。空を捨てるか山を捨てるか、と選択を迫られているに等しい。
私にとって大事なのは、一体どっちなのか。山を捨てて再び青空を駆ける力を手に入れるか、翼が動くようになるまでの永劫にも等しき日々を地面に這い蹲って過ごすのか。
答えは最初から判りきっていた。
「それでも、……山の掟が私に空を戻してくれるわけではないですから」
ただ、判っていてもそれを言葉に表すのには勇気が要った。
過去は全て捨て去り、これからは未来へと歩むのだと自分に言い聞かせても、千年余りの過去はゴミ箱に対して大き過ぎる。
壊れてしまった思い出のおもちゃを捨てる時のように、背中を向けても思い出は名残惜しいと言わんばかりに後ろ髪を引っ張る。
私の心境を知ってか知らずか、アリスの言葉は私の背中を後押しする物ではなく、むしろもう一度立ち止まって考える事を促すそれだった。
「ご希望なら明日にでも処置をするわ。今日はもう家に戻って、……出来ればもう一度良く考えなさい」
それ以上は私も紡ぐ言葉が見つからず、黙って首を縦に振った。無言のまま私と魔理沙は玄関まで送られる。とうに日は沈み、月が高く昇っていた。
来た時と同じように魔理沙の箒の後ろに乗り、私は山で過ごす最後の夜を迎えた。箒の後ろで風を切る爽快感も、行きに感じたようには感じられなかった。
その夜、また私は羽根が抜け落ちる夢を見た。黒い鴉の羽根に視界を覆われて、そのまま私の意識は暗闇へと滑り落ちていく。
――――――――
カーテンの隙間から見たその朝の空は、灰色の雲に覆われていた。いつぞやの嵐の空を彷彿とさせる空は、嫌でも私の心を波立たせる。今音を立てて強い風が吹き始めたら、私は家から出られないかもしれない。
けれども今日の天気は記憶の中のそれとは違い、私が家を出る頃には晴れ間さえ覗かせていた。吹く風も優しく感じられる。
扇とカメラとメモ帖と、それと何枚かの衣服。荷物はそれ程多くないし、新しい旅立ちにはちょうど良い日だと言える。
下駄を履いて玄関から踏み出して、思わず足が止まった。慣れ親しんだ部屋を振り返れば、残していく家財道具に別れを惜しまれている気がして辛くなる。前を向いて、私は道とも言えない獣道を下り始めた。
私は今日天狗を捨てる。私は今日山を降りる。あの日に失ったのは翼だけではなかった。翼を、空を取り戻す為に全てを捨てる私は、果たして正しいのだろうか。
それにきっと答えは無いのだろう。何かを失わなければ進めないと言うのなら、私は私の一番大事な物をこの手に選ぶ。後悔は無い。後悔は無いと思う。後悔は無いと思っていた。
「文さん……」
滝の轟音をすぐ横で聞きながら歩いていた頃に、後ろから私の名前を呼ぶ声がした。
この声には聞き覚えがある。あの日、子供を抱きかかえながら私に手を伸ばした声。あの時は私に届く事無かった声が、今はハッキリと鼓膜を揺らす。
立ち止まり、振り返る。そこには声の主である犬走椛が口を真一文字に結んで立っていた。
「山を、降りるんですか」
何かを噛み締めるような表情のまま、犬走の唇から短い言葉が滲み出る。
そんな事は見ればわかるだろうに、この下っ端の哨戒天狗にはそんな脳味噌も無いのかしら。そんな事を頭の片隅に思い浮かべてしまう。犬走が本当に山を降りるか否かを聞いてる事くらい、理解はしているのに。
今目を合わせて口を開いたら、何か取り返しのつかない事を言ってしまいそうで、私は背を向けて歩き出しながら言った。
「仕事に戻らないと、大天狗様に怒られますよ」
「答えてください。本当に山を降りるんですか」
私の言葉を無視して紡がれる言葉は、苦々しくも強い意志を感じさせる。それが非常に、癪に触る。
「山を降りるって言うのは、天狗を辞めるって事ですよ? もう一度考え直してくだ……」
「うるさい!」
私の声に、ハッと弾かれたように犬走は身を硬直させる。私は今、自分の体からこんなに激しく、刺々しい声が出る事に驚いていた。まるで自分が自分で無いような感覚。少なくとも翼を失ってから、私の中の何かが変わってしまった気はするが。
怯えたような瞳で犬走は私を見る。彼女は怯えている、これ以上言う事はない。黙って背を向けて山を降りろ――。
けれど、勢いづいた土石流のように私の言葉は止まらない。言わなくて良い事、いや、言ってはいけない事をも口をついて出る。
「あなたが……あなたがあの時しっかりしていれば……」
もう感情に抑えが効かない。ただの八つ当たりだと言う事はわかっている。彼女は彼女の職務を全うしただけだ。
許してください、犬走。許して、椛。今から私は、自分の至らなさを全てあなたに押し付けてしまう。
「あなたがしっかりしていれば、私は空を失わずに済んだんだ!」
吐いた言葉から逃れるように振り返って、私は走って坂を駆け下りる。途中で何度も転びそうになるけれど、背負った風呂敷を強く握り締めて足を動かし続ける。
犬走の顔を見る事は出来なかった。見る余裕など無かったのだ。これ以上私は耐えられなかった。犬走を傷つけるのにも、自分を傷つけるのにも。
自分のどこまでも勝手な振る舞いに胸が痛む。何のためにあの時犬走を助けたのかもわかりゃしない。自分で助けた相手を自分の言葉で傷つけていたら、本末転倒も良い所なのに。
走って走って走り続けると、時間が経つのは驚くほど早い。息が切れて倒れこむ寸前にアリスの家に辿り着き、震える手で玄関のドアをノックした。
ドアを開けると、少し悲しそうな顔をした西洋人形が出迎えてくれた。短い手足を一杯に使って表現するジェスチャーから判断するに、奥について来い、と言っているらしい。
リビングとは別の部屋に通されると、部屋の中央にあるベッド以外には何も無い部屋にアリスが立っていた。
「本当に、良いのね?」
荒く息を吐き、肩で呼吸をしながら私は首を縦に振った。もう後戻りは出来ない。これで良い。これで良いのだ。全てを捨てて、明日から飛行の練習を始める。過去に囚われては進めない。
ベッドに寝るように促され、服を脱いで私は横になった。目を瞑って心を落ち着かせるように言われ、目を閉ざし無心に努める。
やがて翼に手が添えられ、ゆっくりと毛繕いをするように手が動かされる。指の長いしなやかな手が翼を撫でる毎に、感覚の途絶えていた翼に血が巡るような温かさを感じるようになっていく。
優しい温度の中で、ジワジワと睡魔が迫ってくる。春の陽射しの中で寝転んでいるような暖かさに耐えられず、知らず私は眠りに落ちていた。
――――――――
「ダメよそれじゃ。もっと気持ちを落ち着かせて、迷いを捨てて集中する」
翼に魔力を通された次の日から、私は早速飛行練習を始めた。とは言えいきなり自在に空を飛ぶ事は出来ず、それどころか満足に翼を動かす事さえ出来はしない。
生まれた時から既に翼はあったわけで、動かすのに意識などした事が無かった。つまりは赤子がする歩行練習と似たような状況なわけで、下手をすると変に意識してしまう分それより難しいのかもしれない。
とにかく私は非常に出来の悪い生徒で、つきっきりでコーチを務めるアリスも呆れ顔を隠せないらしい。初日の朝から練習を始めたのに、丸一週間後の夕方になっても翼はピクリとも動かないのだ。
「だから……幾ら力んでも意味が無いの。魔力は筋力と関係無いんだから、そんな顔真っ赤にして力込めても無意味よ」
容赦なく傍らから叱責が飛ぶ。私はと言えば朝からぶっ通しで力を入れたり精神集中したりしているのに、努力は全て空回りしている。
確かに厳しいリハビリを覚悟しろとは言われたが、全く成果が無いとなると精神的にキツい物がある。山を降りてからは寝泊りする場所も無いのでひとまずアリスの家に厄介になっているが、こうも出来ないとアリスと顔を合わせる事すら申し訳なくなってくる。
そして、成果が上がらない事が焦りを生む。焦りは余計に心を乱す。悪循環にハマりかけていた。
「……今日はもう良いわ。早目に休んで、続きは明日にしましょう」
溜め息をつきながら、アリスは家の中へと戻って行った。私は悔しくて仕方が無かったが、しかし体の芯から来る疲労は誤魔化し様が無い。半ば自分が嫌になりつつも、アリスの後を追って家の中へと入る。
借りている部屋のベッドに倒れこむように寝転がり、枕を抱きながら天井を見つめる。どうして私は飛べないのだろう、そう考えると涙が滲む。どう足掻いても飛べない状況よりも、条件は揃っているのに自分の努力不足で飛べないとなると、一層悔しさは増す。
山を捨て、犬走を傷つけてまで魔力を身につけた意味が無い。こんな事なら――
「――空を諦めるべきだった……? ……そんなはず無い」
後ろを振り向くな。過去は断ち切れ。悔しさは根性で捻じ伏せろ。
何度も自分に言い聞かせ、泣くのを堪える。泣いてはいけない。それこそ、山や犬走への真の裏切りになってしまう気がした。
腕で顔を覆い、呼吸を整える。深呼吸を何度かすると、キッチンの方から良い匂いが漂って来た。そろそろ夕食の時間だった。
部屋を出てリビングに行くと、美味しそうなシチューパイが二つ、食卓に並べてあった。フワフワに膨らんだパイが、食べられるのを待ちかねたように美味しそうな雰囲気を醸し出す。
思わず鳴りそうになる腹を押さえながら、アリスと二人で食卓につく。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、スプーンでパイを崩す。サクサクのパイが崩れた所から野菜たっぷりのホワイトシチューが顔を覗かせる。
本当にこの人は料理が上手い。魔法使いなら本来は食事なんて摂らなくても良い筈なのに、私に作る分のみならずしっかり自分の分も作り、私と同じように食べるのだ。自分で食べるから美味しく作るのか、美味しいから自分の分も作るのか。
何にせよ、こんな美味しい食事が食べられる私は幸せ者と言う事だろう。野菜の甘味たっぷりのシチューを舌の上で転がしている間だけは、届かない空に対する焦りも忘れていられる。
その時だった。
ポツリ、と窓に水滴が当たる音がしたのは。
「雨ね」
「雨ですね」
揃って視線を窓へと移しながら、同時に呟く。ここの所はずっと晴れが続いていて、雨は本当に久しぶりだった。
そう言えば、今日の夕焼けは少し灰色がかっていた。自分の事で精一杯で空に気をやる余裕も無かったが、今日はここの所ずっと続いていた昼間の陽射しと言うのも感じなかった気がする。
雨か、嫌だな。反射的にそう感じてしまう。どうしてもあの嵐の日を連想してしまうのだ。切り捨てて克服した筈のトラウマだったが、こればかりはどうしようもない。
「後片付けは上海がやっておくから、あなたはもう休みなさい」
食べ終わった私を覗き込むように視線を合わせたアリスの顔は、心底私を心配しているそれだった。知らぬ間に顔色が酷い事になっているらしい。
体はどうともない。けれど、心臓がキリキリと締め付けられているような気がする。思ったよりも深く、私の心にトラウマは根付いているみたいだった。
黙って首を振り、そのまま部屋へと戻る。今日はもう寝よう。明日になれば雨は止むはずだ。そうすればもう、何てことは無い。
ベッドに倒れこみ、布団もかけずに眠りに落ちる。けれど窓を叩く雨音が煩くて、深く眠ったかと思えばまた浅い眠りへと覚醒させられる。
そんな事を繰り返すうち、どれ程の時間が経ったのだろう。疲労が溜まっていたのか、夢と現実の境界が曖昧になるくらいに私は自然に眠りに落ちた。
久しぶりに、羽根の抜け落ちる夢を見た。
夢の中で、私は空を飛んでいる。やがて雨が降ってきて、私は早く山に帰ろうと必死に翼を動かす。
けれどスピードは上がらず、一向に妖怪の山が見えてくる気配も無い。不意にガクリと視界が揺らぎ、何事かと目をやると。
右の翼から羽根と言う羽根が抜け落ち、皮膚が腐り、動かなくなっていた。そのまま私は成す術も無く地面へと急速に落下する。ぬかるんだ地面に叩きつけられ、無様にくたばるその寸前――目を覚ました。
冷や汗が止まらなかった。つい今まで見ていたのはただの夢で、意識は確かに覚醒した。翼は腐ってなどおらず、しっかりと形を保って背中についている。
けれども夢で味わった感触はどこまでも生々しい。今にも抜け落ちた羽根で部屋が埋まってしまうような、そんな恐ろしい考えが止まらない。
暖かい紅茶でも飲んで、少し落ち着こう。そう考え、私はリビングへと向かった。窓を叩きつける雨音は、寝る前よりも一層激しくなっていた。
――――――――
リビングでは、何故かアリスが寝巻きではない普段着のまま紅茶を飲んでいた。もしやもう朝なのかと焦りが脳裏を掠めるが、どっちにせよこの雨では今日は練習できまい。
しかし時計に目をやると、ちょうど長針と短針が重なる頃だった。昼間と言うには、いくら大雨の日と言えど暗すぎる。
「まだ日付が変わる前よ」
紅茶を飲みながらアリスが呟く。なるほど確かにそう言われれば納得はいく。雨が止むにも、陽が昇るにも早過ぎる。
少しばかり早すぎた目覚めに呆然としている私のもとへ、紅茶を持った人形がやってくる。ティーカップを受け取ると、その人形はうやうやしく一礼して戻っていった。
紅茶を一口。少し苦いが、目を覚ますにはちょうど良かった。
「……雨、激しいですね」
そうね、と一言アリスが呟き、目を瞑った。何を考えているわけでもなく、この仕草は私に続く言葉を求めているのだ、と私はこの一週間で理解している。
けれども続く言葉なんて無い。雨は激しい、それだけだ。まさか自分のトラウマを意気揚々と語りだす事を求めているわけでもあるまい。
たまりかねたように、アリスは目を開いて苛立たしげに言った。
「で、アナタはこのままここで嵐が過ぎるのを待つの?」
細く開いた瞳で、睨み付けるように私を見るアリス。
私が何かアクションを起こすのを期待しているかのように、私が新しい視点を見出すのを期待しているかのように、私が扇を手に山へと向かうのを期待しているかのように。
けれど私は立ちすくんだまま、動く事も出来ない。うな垂れて唇を噛み締めるだけだ。自分の情けなさには反吐が出るが、それをどうする事も出来ないのがまた悔しくてもどかしい。
そのまま、時間が流れた。とうとう我慢が出来ないと言う様子でアリスは立ち上がり、私の眼前まで詰め寄って来る。
「胸騒ぎがして目が覚めたんでしょう? 山に行って仲間を助けないのか、って聞いてるのよ」
「それじゃどうやって助けに行くのか教えて下さいよ!」
どこまでも冷静に私を追い詰めるアリスに対し、つい感情的になってしまう。
大声を出した私に驚く様子もなく、ただただアリスは私を睨み続ける。答えは一つしか無い、と言わんばかりだが、その答えを導き出す方程式は私の背中で一週間も黙り込んだままだ。
吐いた言葉の情けなさにまた嫌気が差し、顔を逸らしながら私は自分でも一番言いたくなかった事を言ってしまう。
「それに……私はもう山を捨てたんです。今更仲間がどうなろうが………知ったこっちゃない」
言い終えるか否かの時に凄まじい勢いで顎を掴まれ、真正面から思い切り頬を殴られた。
踏みとどまる事も叶わず、頬を押さえながら尻餅をついた。落としたティーカップが盛大な音を立てて割れ、紅茶がアリスの足にかかる。
が、アリスはそれに動じる事も無い。見下ろしながら、ただただ私に侮蔑の眼差しを向ける。
「失望したわ。永遠亭の薬師が匙を投げるのも当然ね」
雨が止んだら出て行きなさい。そう言って私から目を逸らし、黙って割れたティーカップを拾い集め始める。
どうするべきかわからず、咄嗟に破片を拾うのを手伝おうとするも、無言で伸ばした手を振り払われた。今までのアリスはクールそうで人間的な温かみが感じられる所もあったのだけれど、今はもう私は汚らわしい物としてしか扱われていない。
何でこうもアリスは怒っている? 私が言った事は確かに間違っていたかもしれない。けれどそれはまた事実でもあるんじゃないのか。
煮え切らない私。翼さえ戻っていれば、山に行ったって良い。いや、本当は翼が戻ってない事を理解した上でそう考えている。次は何を失ってしまうのかと、空が怖くなりかけている自分さえいる。
「飛行練習の時、私は『迷いを捨てなさい』と言ったわよね」
私と視線を合わせないまま、透明な声でアリスは呟き始めた。
「生まれてからの千年もの生を過ごした山と、その時間を共有した仲間をそう簡単に捨てられるわけがない」
ただただ淡々と、私に言い聞かせるでもなく独り言のようにアリスは言葉を紡ぐ。
少し気を逸らせば外の雨音に掻き消されてしまう程の小さな声だったが、自然とその声は真っ直ぐ私の耳に届いた。
そしてその言葉の一つ一つが、地面に雫が染み込んでいくように私の心に響いていく。
「アナタは、迷いを捨ててなんかいない。ただ単に現実から目を逸らしているだけだわ」
そして、最後の言葉はストレートに心に突き刺さった。
私は現実から目を逸らしているだけ。本当に迷いを捨て去るつもりなら、目の前の全ての現実を受け入れなければいけない。
自分の落ち度で翼が使えなくなったのは現実。私が天狗として生きるしかないのも現実。恐らくこの嵐で、あの日のように山が危険な状態になっているのも――現実。
それを理解すれば、もう今の私がやるべき事は一つしか無かった。立ち上がり、部屋に戻ってベッド脇の扇を握り締める。もう迷わない、迷ってはいけない。
「翼が戻ったら助けに行く」じゃない。「助けるために翼を戻す」んだ。山を、仲間を助けるために、私は飛ばなければいけない。
扇を手に玄関へと向かう私の背中を見つめる者がいた。下駄を履き、玄関の扉を開けるとそこは凄まじい暴風雨。急がなければ。振り向くと、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべるアリスと視線が交錯した。
「ちょっと山に行ってきます」
「荷物は後で送っておくわ」
それだけの言葉を交わし、扉を閉める。真っ直ぐに山の方角を見据え、私は横殴りの雨と吹き付ける突風を薙ぎ払うように扇を振るった。
途端、一帯の風と雨を掻き消すような恐ろしく強い上昇気流が巻き起こる。目を瞑り神経を研ぎ澄ませ、私は風に飛び移った。高く高く私の体は上昇し、家よりも木よりも丘よりも高い空へと投げ出される。
重力が消え失せたかと錯覚する程の浮遊感。目を瞑り精神を集中させると、風の音も雨の冷たさも感じなくなる。代わりに、両の翼に確かな熱さを感じた。今にも弾けてしまいそうだ。あとはこの燃えんばかりの熱を解き放つだけ。
目を見開き、灰色の空を、現実を見つめる。目指すは妖怪の山。翼よ、動け――。
そして私に空が戻った。
叩きつけるような大粒の雨も、遥かに山の方に疾る閃光も、幻想郷最速の風となった私の敵では無い。遥か千里を一瞬で駆ける事すら、今ならきっと出来る。
両の翼が、まるで魂を持ったかのように思い通りに動く。違和感など全く無い。それどころか千年の間に感じる事が出来なかった程に、自分が「空」であり「風」であり「鴉天狗」である事を実感出来る。
あっという間に山が見えてくる。きっと山のそこかしこで、仲間の天狗が山を守る為に動いている。その天狗の一員である事が、この上無く嬉しい。
そして響いてくる轟音。滝にて単身山の妖怪を守ろうとするは、一人の下っ端の哨戒天狗。ああ椛、あなたのような誇り高い天狗を守れた事を、そしてこれから守る事を、私は誇りに思います。
手にした扇に風が集まる。飛行の勢いをも扇に乗せ、今私の右手には土砂など屁でもない竜巻が出来上がっている。
「風符――」
ただの竜巻じゃない。これは私の決意だ。これからも山に生き、空を駆ける決意の表れだ。何が起ころうと自分の信じる物を守る意志だ。
「――『天狗道の開風』!」
振り抜いた扇が流れ来る土砂を弾き、岩を粉砕する。数秒前まで背後で死を覚悟していた妖怪達は、何が起こったのか理解するまでに時間がかかっているようだった。
妖怪達の、犬走の方へ振り向き、思い切りVサインを突き出す。一瞬遅れた後、私は安堵と歓喜で狂わんばかりになった彼らにもみくちゃにされた。
それは私が一度は敗走した現実への、勝利のファンファーレにも等しかった。
――――――――
「本当にごめんなさい!」
嵐が過ぎ去った後、私は山に戻る事になった。連続して来た嵐のせいで山のそこかしこがダメージを受けていて、建前上はその復旧作業を手伝う事を条件に山に帰る事を許されたのだ。
けれど本当は、私が山を去った日に犬走が大天狗様に頼み込んでくれたらしい。どこまでも真面目な下っ端は私の八つ当たりを正面から受け止め、私が代わりに山を去るから、文さんを許してください、などと言って頭を下げたとの事だ。
まったくもって、どこまでも実直で真面目な天狗らしい天狗だ。それが何とも羨ましいような愛しいような、妙な気分にさせられる。
けれど、そんな彼女を傷つけてしまったのは私なのに変わりは無い。それはもうどうしようもない事実だ。だから私は頭を下げた。
「え、いや、そんな。頼むから頭を上げてください」
「嫌です。しっかり謝っておかないと、私自身が納得出来ない」
彼女に謝罪をする事は同時に、自分を赦す事でもあった。
彼女に酷い言葉を吐き、弱さを押し付けた過去の自分。それを受け止め、自分で自分を赦さなければ、せっかく戻った空も全く意味が無くなってしまう。
ただ一つの誤算は、犬走が私に頭を下げられて恐縮してしまっている事だ。通りかかった他の天狗に「おーい射命丸、椛ちゃん尚更困ってんぞー」と言われなければ、私は半日でも一日でも頭を下げ続けていただろう。
ようやく頭を上げ犬走を見ると、本当に申し訳無さそうな顔で私の顔を覗き込んでいた。
「文さんは悪くないです。あの時は私が力不足だったから、酷い怪我を負わせてしまって……」
「いや、椛は悪くないんですよ。私が勝手に八つ当たりをしただけなんですから」
頭を上げると今度は、終わらない責任の被り合いが続いた。私も犬走も、どっちも自分が悪いと言って引かない。
そんな押し問答を半刻も続けていれば、流石に疲れる。どちらともなく、一つの提案をしていた。
「それじゃ、今回はどっちも悪かったと言う事でどうでしょう。これから私は今まで通り新聞を書き続け、椛は今まで通り大将棋をしながら滝を警備する」
「はい、じゃあそれで良いです。ただ、私は滝を警備しながら大将棋をしてるんですよ、順序が逆です」
言って、一拍置いて二人して笑った。わだかまりもスッキリ消え失せ、本当に心の底から笑える。清々しい気分だった。
笑いながら手を振り、家へ帰る。自分が思っていたよりも疲れが溜まっていたらしく、着替えて布団に倒れこむのとほぼ同時に私は眠りに落ちた。
もう、羽根の抜け落ちる夢は見ない。
翌朝目を覚ましウトウトしていると、玄関の戸を叩く音がした。寝起きで人と会うのは余り好ましく無いのだが、仕方ない。
はだけた寝巻きを直し、玄関へと向かう。
「おーい射命丸、アリスがお前にこれを届けてくれだとー」
やってきたのは魔理沙だった。箒の後ろに括りつけた風呂敷を外し、私に放り投げる。
開いてみると、アリス宅に置きっ放しにしてあったカメラやネタ帖、洋服が包まれていた。カメラとネタ帖は丁寧にも箱にしまわれ、洋服は綺麗に畳まれている。
オマケに、千切られたメモ帳の1ページにシチューパイの作り方が書き添えてあった。早速今夜作ってみようと思う。
「……で、また飛べるようになったみたいだな」
魔理沙が私を見ながら、しみじみと言う。元に戻った翼を見て、良かった良かったと微笑んでいた。
何だかんだで、魔力で神経を作ると言う事のヒントをくれたのは魔理沙だ。猿田彦1号で空を飛んでいたあの時に魔理沙と出くわさねば、私はいつまでも現実から目を背け続けていたかもしれない。
頭を下げると、別に気にしなくて良いぜーと笑われた。
「でも、香霖堂で呆けてた時は、本当にどうなる事かと思ってたんだぜ」
これからは気をつけろよーと言いながら箒に跨り、また森の方へと飛んでいく。苦笑いしながら、私は丁寧に畳まれた、シワ一つ無いシャツに袖を通した。
窓の外は雲一つ無い青空だ。こんな日は、絶好の取材日和だろう。今日は幻想郷の何処へと駆けようか。竹林の蓬莱人の力強い生き様を取材しようか。河童の職人技を記事にしても面白い。礼を言うついでに、風変わりな人形使いの所へも行ってみたい。
ぐずぐずしてても、ネタは待ってくれない。今すぐにでも下駄を履いて、変わりゆく世界をフィルムに焼き付けに行こう。
「今日から文々。新聞も復活ですよー!」
カメラを手に、私はどこまでも広がる空へと飛び出した。
これしか言えない、すまないけどマジで
火事場のなんとかで解決するのは良いのだが、リハビリも椛との衝突も、
過程がもうちょっと見たかった。
この一節が妹紅の台詞とシンクロしてるんですね。作者さんの技術が垣間見えました。
うん、素敵な話でした。
千年生きた妹紅ならではの重みがあって、心に響きました。
モチーフや哲学は十分に素晴らしいので、後はキャラクター(とキャラ同士の関係)にもう少し深みと味わいがあれば、もっと良くなると思います。
>10
その言葉だけで充分です。これでまた次作も頑張れます。
>12
実力向上スレでも同じ事を言われました。
文章に緩急がつけられるようになりたいですね。
>17
何と言うか、もう少しカッコ良い言い回しがしたかったのですが……結果オーライですかね
>19
自分でも今回の話は、前2作よりもレベルアップしてる実感がありました。
次は3000点くらい取れると良いなぁ。
>21
逆に、書き込まなくて良い部分ばかり書いてしまうんです。猿田彦1号の辺りとか。
「タオパイパイみたいに飛び乗る」と一言で言えれば良かったんですがねぇ。
>23
キャラ関係の深みですか……実は苦手なんですよね。
どうしても書いてて違和感を感じてしまうんです。特に、地の文での相手の呼称とか。
モチーフに対する表現が時折詩的で痺れるような素敵な台詞だったりで
物語にぐいっと引き込まれました
もうちょっと文の感情にフォーカスが当たってるともっと良かったように思います