花畑に咲いた紅い花が、あまりに健気で可愛らしくて。
ついついその場へ座り込み、鼻先を近付けて見とれたことがそもそもの始まりだったように記憶している。
しかし最早きっかけがどうこうという問題ではない。目下早急に検討すべきは今これからの自分の行動、革新的な解決案、現状を打破する乾坤一擲の方策。いや本当にどうにかせねば。
いつの間にか地べたに直接下ろしていた腰は、そのまま地中深く根を張った。知らない内に背中が噴水の側壁へくっついていた。どちらも引きはがすのは至難の業と思われる。
瞼が重たい。体に力が入らない。腕を上げることすら億劫でままならない。つまり、正直、有り体に言って。
眠い。
何かにとり憑かれたかと訝しみたくなるほど、途方もなく眠かった。
太陽が天頂を通り過ぎ、お腹もくちいこの時間。
紅魔館の開放的な前庭には、春の陽光が慈雨のごとくさんさんと降り注いでいた。
空は晴れ、途切れ途切れの煙のような雲があちこちわずかに浮かぶのみ。うららかな気候が今だけはほんの少しばかり恨めしい。そしてどうしようもなく気持ちいい。
花畑には一面見事な花が顔を出している。一輪一輪がよく調和して規則正しく列を為し、背景に鎮座する紅い館へ文字通り花を添えていた。ひらひら優雅に色とりどりの蝶が舞う。夢のような光景だった。実際もう夢の世界に片足くらいは突っ込んでいる気がする。
あれはいつの日の出来事だったか。パチュリー様の手にかかり、花の一部が星形に白く変化してしまったことがあった。不可思議な現象にも驚かず、むしろ余裕綽々面白がっていたお嬢様の顔が懐かしい。いたずらっぽい悪魔の笑みは今でもありありと思い出せる。素敵で不敵。さすが紅魔の大黒柱、求心力は伊達じゃない。
回想に浸っていると余計に眠気が加速する。
悪魔の棲む館へ仕える自分とて、やはり睡魔には太刀打ちしようがない。どうして背後から聞こえる噴水の水音はこんなにも耳に心地良いんだろう。さあさあと。ざあざあと。
こういう時に限って誰も近くを通りかかったりしないからなおさら始末が悪い。数だけならどこにも引けを取らないはずの妖精メイドたちは一体何をしているのか。
この際客人でもなんでも構わないから、一人くらい自分を見つけて眠りの淵から引っ張り上げてほしい。恥も外聞も無いが仕方も無い、状況はひどく差し迫っている。大変まずい。
ふと気が付くと目の前が膝で慌てて顔を上げる、という一連の行為から抜け出そうにも抜け出せない。手の甲や二の腕をつねって抵抗を試みるも効果の程はごく薄い。このままでは間違いなく寝てしまう。むしろ一度寝ないと収まらない。経験則が物語っていた。
ああ眠い。如何ともしがたい。
寝不足ではない、休憩もしっかり取った、なのに全体どういう運命のいたずらだろう。運命を掌に巡らす我らがお嬢様は屋敷の中で就寝中のはず。ああ眠い。あーまんじゅう怖くない。違うこれは妹様だ。何を考えてるんだ私は。
詮無いことが栓無く溢れる。眠たい時にありがちな思考。いよいよ以て退っ引きならない。
おもむろに太陽の位置を確認する。ほとんど高さは変わっていない。時間はある。
うたた寝くらいなら大丈夫かな、と思った。
はっとして頭をぶんぶんと振った。甘い考えに身をゆだねるのは命取り以外の何でもない、睡魔の囁きに耳を貸すべきではない。数分寝るだけのつもりが数時間過ぎていたりしたらお約束すぎて予定調和の美さえ生まれてしまう。罠だ。
仕事の最中に寝てはいけない。当たり前の理屈で自分を叱咤する。
そうだ私には与えられた役割を立派に果たす義務がある。花に囲まれてのんびりまどろんでいる暇など存在し得ない。睡眠欲の一つや二つ振り切らないで勤まるものか。
唇を噛む。使命感に心が燃え立つのをはっきりと感じた。大丈夫まだまだ頑張れる。よし立ち上がろう、今立とう。
膝をぱしんと叩く。大きく息を吸い込む。この深呼吸が終わったら私仕事に戻るんだ。さああの蒼天を見上げてぱっちり目を覚まそう。
振り仰いだ春の大空には、とんびがゆったりと円を描いていた。
軟風を受け、この上なく自由に翼を広げて飛んでいた。快晴の空は我が物と言わんばかりの優雅さで、それはそれはもう奔放に、上昇気流とじゃれ合っていた。
平和もここに極まれり。
穏やかさの至りだった。
あまりにも伸びやかなその姿に、しばらく視線が釘付けとなる。軌跡を追っているうちに、こきっと首が小さく鳴った。
ぴーひょろろ、というどこか気の抜けた鳴き声がとどめを刺した。
もう駄目だ何かが自分の中で崩れ去った。気力が雲散霧消した。からっぽだ。
だいたいこんなぽかぽか上天気の日に眠気を我慢しろというのが土台無理な話であって、きっと恐らく私に非は無い。出鱈目なのは眠気の方だ。巫山戯ている。
常の自分からは想像もつかないような結論を頭がはじき出したが、生憎これも陽気の仕業と割り切ることにした。そうでなければやってられない。
三十分、いや十五分だけ仮眠を頂こう。
ぐだぐだと迷っていたずらに時間を潰すよりよっぽど建設的だ。それがいい、そうしよう。
ひとたび意を決してしまえば、あとは自然の摂理に従うだけ。
襲い来る眠気の雪崩に逆らわず。
体が欲するままに抜ける限りの力を抜き、抗うことなく瞼を下ろす。慣れてしまえば地面の土も、背中の固さも気にならなかった。
風が柔らかい。
陽射しが暖かい。
ああ、なんて甘美な感触だろう。人生はかくも素晴らしい。
さわさわと涼しげな噴水の音も相まって、仰向けに水底へ沈んでいくような錯覚を覚える。久しく味わうことのなかった感触。解放感と安心感に大きく息を漏らした。
ついでに意識も綺麗さっぱり手放した。
◇
「咲夜さん、咲夜さーん……?」
波間で揺られるように上下するメイド服の肩を、恐る恐るながら揺さぶってみる。
はじめ弱く、続いて二度三度。
「いくら春だからって風邪ひいちゃいますよ、起きてくださいってば」
くう、という何とも邪気のない寝息が返事だった。思わず揺さぶる手が止まる。
「ありゃりゃ……深いなあ、これは」
そっと身を離す。後退った足が小石を踏んだ。靴底が滑った。慌てて腕を振り回す。
すんでのところで持ち直し、どうにかこうにか転倒だけは免れた。ほっと胸を撫で下ろす。飛び出そうになった心臓をなだめ、改めて眼前の状況を咀嚼する。
噴水に寄りかかって眠る人物の、ふんわり白いエプロンドレス。
春風になびく銀の髪。見紛いようもない。
美鈴は困っていた。
昼食後の散歩がてら、館のぐるりを一周見回り帰ってきてみれば。
いつも瀟洒なメイド長、十六夜咲夜その人が、あろうことか花畑のど真ん中でぐっすり寝こけているではないか。
日が北東から昇ったようなまさかの事態に目を疑ったのは言うまでもない。
見回り前に閉めておいた門の鍵に開けられた形跡があったこと、また近くの地面へ転がった手提げの中にこまごまとした生活雑貨が入っていることなどを鑑みるに、どうやら彼女は人間の里から買い出しを終えて帰って来たところらしい。食事も里で済ませたのだろう。
噴水の傍らでぐったりと横たわる姿を目にした時は、すわ敵襲でもあったのかと緊張に身が凍りついた。同時に肝心な場面で門番の責務が果たせなかった自分を激しく悔やんだりもした。青ざめて駆け寄った三歩手前で寝言を聞いた。そして今に至る。
実際、ありえない光景だとしみじみ思う。
微笑ましさより心配が先に立った。過程はどうあれこんな青空の下で寝入るとは、まさか体調でも崩してるんじゃなかろうかと気を揉んだ。
しかしそんな胸騒ぎも、はらはらしながら寝顔を覗きこんだ時点で吹き飛んだ。具合の悪い人間はこんなにも幸せそうな顔で眠らない。
昼寝は私の専売特許ですよ、と苦笑するよりほか無かった。
きょろきょろ辺りを窺ってから、美鈴は腕を組んで悩む。
さすがにこのまま見過ごす訳にはいかない。いったん番小屋にでも運ぶべきだろうか。
生半なことでは目覚めそうにないほどかっちり眠ってしまっているようだし、起こさないで移動させるのは容易いように思われた。
それは当然、物理的な意味でも。
美鈴が自慢の体力に物を言わせるまでもなく、易々と運べてしまうほどに咲夜は軽い。
紅魔館の雑務一切を、この華奢な体躯で切り盛りしているのだから頭が下がる。上がらないのはいつものこととして。
幼子さながらぽかんと口を開いた寝顔の奥に、色濃い疲労の陰影が透けて覗いた気がした。美鈴はしばらく身動きもせず立ち尽くし、風に紅い長髪を揺らしながら考え込む。
黙考の末、よし、とばかりに組んだ腕を解いた。
訳知り顔で頷いて、噴水の縁へ腰掛ける。
決めた。
せっかくだからこのまま少し寝させてあげよう。
それが自分にできるせめてもの気遣いだ、と。
とは言え、あまり熟睡してもらってもうまくない。できることなら心ゆくまで休んでほしいものだけど、万が一仕事が滞った場合にお叱りを受けるのは咲夜だ。
だから自分がこの場で見張る。
ここからならば門にだって目が届く。番もできる。門番として不足はないだろう。
そして頃合を見計らい、適度な休眠が取れたあたりで起こせばいい。
人知れず決意を固めて拳を握る。
そうだ、三十分。三十分経ったら起きてもらおう。それだけ眠れば仮眠としては上出来だ。日頃の経験からして間違いない。
為すべきことの算段がつき、美鈴は満足そうに微笑んだ。
未だ咲夜に目覚める気配がないことを確認し、視線を宙へ放り投げる。気を取り直して見渡せば、どこを向いてものんびりとした春が広がっていた。
すぐ後ろには夜の帝王が二人も控えているというのに、呆れるほどの暢気さだった。
ほのかに花の香りが漂う。手塩にかけて育てた花がこうも立派に咲き誇ってくれると、花畑の管理者としては感無量の一言に尽きる。
いいお日柄だな、と思った。
それから大いに納得する。
あの咲夜さんが居眠りするのも無理はない。自分だってこんな日は何事も無ければ十中八九寝ている。自信がある。賭けてもいい。
咲夜さんにも休息が必要なんだろう。昼は掃除や洗濯に追われているし、夜になったらお嬢様方の側勤めが待っている。忙しいにも程がある。
眠りながら時間を操るのは厳しいようだから、察するにこの人は相当な無理を押して仕事をこなし、余った時間を盗み寝に充てている程度なんじゃないだろうか。
仕えるべき方々がお休みになっている今、束の間の午睡を楽しむ権利くらいはあるはずだ。鬼の居ぬ間に洗濯じゃないけれども。吸血鬼だから洒落にならないか。いやむしろ鬼なら目の前にいる。すぐそこにいる。
美鈴は再度、こんこんと眠る咲夜を眺めた。
有事となれば嵐のようにナイフを繰り出す両の手は、指も長くてまぶしく白い。均整の取れた細い肢体がしなやかに瑞々しい。とてもじゃないが、異変解決に飛び出して妖怪相手に大立ち回りを演じる人間のそれとは思えない。
物腰柔らかく落ち着いた完全なメイド長も、こうして見ればどこまでも一人のうら若き少女だった。本当にこの人は年齢が分からない。
特別な秘密を思いがけず垣間見てしまったような、自分だけこっそり得をしたような気分になる。くすぐったい。
怒るとあれほど怖い咲夜さんの珍しい一面。
無防備に油断しきった表情を、今は私がひとりじめしている。
「……お疲れ様です、咲夜さん」
言葉にしてみたところでこそばゆさが限界に達した。
いつも叱られている自分が働き物の上司を労っている。滑稽だ。なんだろうこれ。
すやすやと華胥の国に遊ぶ咲夜の横で、美鈴は一人悶えて恥じる。抑える暇もあらばこそ、口元からよく分からない照れ笑いが次々こぼれ出して溶けた。
頭を抱えて足をばたつかせるその様は、本人が自覚する以上に滑稽だった。紅魔館にまた一つ春が訪れた。
いつまでも続くかと思われたお花畑の独演喜劇は、しかし前触れもなく唐突に終わる。
ふとした瞬間に違和感を覚え、美鈴は眉根を寄せた。
視界にふわりと紗が掛かる。
いけないいけない、と頬を張った。この感覚を自分は知っている。というよりもほぼ毎日のように戦いを挑んでは健闘むなしく負け越している。事情も都合もお構いなしで遍く万人を引きずり込む、慈愛に満ちた無慈悲な誘惑。
正に天敵と呼んで差し支えのないこの感覚。すなわち眠気。
げんなりした。
どうしてこんな状況下でも眠たくなるのかと自分で自分をなじりたくなった。がっくりと肩が落ちるのを自覚する。
自分は緊張感が欠けているのだろうか。もし何か事があった際、寝ぼけ眼だったゆえに失敗しましたでは全く以て立つ瀬がない。お日様がぽかぽか暖かい。考えようによっては今だって有事に違いない。自分が隣のメイド長を起こさなければ紅魔館全体が停滞してしまうのだから。のどかな鳥のさえずりが聞こえる。そうともこれは他の誰でもなく自分がやるべき任務。たまには気を利かせて咲夜さんの役に立ちたい。だから気をしっかりと張らなくては。ああ、いい風が吹いている。ちゃんと起こすことができたら咲夜さん褒めてくれるかな。頭撫でてもらったりなんかして。あら美鈴ありがとう。いえいえ大丈夫ですか咲夜さん。私としたことがはしたないところを見せたわね。そんなことはありませんよとても可愛らしい寝顔でした。いつの間にそんな一丁前の口をきくようになったのかしらねちょっと頭を出しなさい。そんなあ折角起こしたのにひどいですよう。何か勘違いしているようだけれどいいから身をかがめなさい。はいすみませんあんまり痛くしないでくださいね。万が一これが痛いと感じるのなら貴女はよっぽど後ろ暗い生涯を歩んできたのね。えっとそれはどういうことでうわあ咲夜さん何を。おとなしくしてなさいこれ以上動いたらやめるわよ。分かりました絶対動きません。なでなで。
「えへへ……って違う違うそうじゃないしっかりしろ私っ」
危なかった。いつぐらいから目を閉じていたのか判然としないが瞼の裏にどこか違う世界が見えていた。なんだあの展開は。誰ださっきの二人は。
ごめんなさい咲夜さんおかしな想像に登場させてしまいました。でもどうか許してくださいね。すべてはこの陽気がいけないんです。春の陽気の仕業です。
そう、髪をさらさら梳かしてくれるようなこの風が、命の息吹を感じさせてくれる花の芳香が、水や鳥や草木の奏でる優しげな楽の音が。
ありとあらゆる春が、大好きな紅魔館の全てを包んでくれていること、それ自体が。
あんまりにも嬉しくて、あんまりにも幸せで――
◇
「やれやれ、とうとう門以外の場所で居眠りこくようになったか」
絶妙のリズムと程良い緩急、決してぶれすぎることのない体幹と重心。
ゆらりゆらりとその様は、まるで岸辺の柳のように。
「職務怠慢の鑑だな。惚れ惚れするぜ、まったく」
図らずも感嘆のため息が漏れるほどの見事さで舟をこぐ美鈴の雄姿を、魔理沙は遠慮容赦も無くありのままに表現してみせた。呆れ半分、面白半分。
優雅なティータイムを迎え、ひとときの憩いに紅茶の香りを添えた紅魔館。
いつものごとく図書館の本漁りに訪れた魔理沙が花畑で見つけたのは、気持ちよさげにくうくう眠る、お馴染み虹色門番だった。噴水の縁に腰掛けて、危うい均衡を保ちながら揺れていた。紅い髪が陽によく映えていた。
「本当に背水の陣が好きだなお前は。ああ押してみたい。押してみたいぜ」
うずうずと腕を伸ばす魔理沙。
不穏な気配に反応したか、美鈴は舟をこぐどころか座礁したようにがくっとバランスを崩した。
うおわっ、と魔理沙が手を引っ込める。
対する美鈴は落ち着いたもの。すぐにまた何事も無かったかのごとく、こくりこくりとやり始めた。寝姿はもはや堂に入っていた。
「よーしいい度胸だよくも驚かせてくれたなこいつめ。決めた。押す。被害者としての正当な権利だぜ覚悟しろ」
いきり立って袖をまくり上げた魔理沙はしかし、
「っとと、お?」
美鈴の足元、靴すれすれに突き立った物体へ気付いた途端、たちまち興味を奪われた。
そこには走り書きのメモが留めつけられていた。銀のナイフによって。
魔理沙はどれどれと膝を曲げて座り込み、短く書かれた一文を読む。
「えーと、なになに。……んむ?」
簡潔な内容の割に文意が汲めなかった。
首を傾げる魔理沙の前で、美鈴がむにゃむにゃ口を動かした。
これ以上ないほど幸せそうな寝顔で、さくやさんおきてください、と呟いているようだった。
「……『本日に限り特赦』? なんだこりゃ」
ところがどっこいときたもんだ。始終ほのぼので仕事中ににもかかわらず眠くなりました。今が休憩時間で助かった。
自分も見事に騙されました。
ぽかぽか陽気には咲夜さんですら勝てないのか……w
まさか咲夜さんだったとは。
ほのぼの、穏やかな時間の流れがとても良かったです。
咲夜さんも良い陽気の日には眠くもなりますよね。
面白かったですよ。
咲夜さんが起きた時の反応も見たかったな
やっぱ烈海王みたいなってたんだろうかw
うまいなぁ
これは良いシエスタ