大好きなアイツが、墜落していく。
―――『墜落ハネムーン』―――
「それじゃあ早苗、行ってきます」
「行ってきまーす。留守番よろしくねー」
「お帰りはいつ頃になるのでしょうか?」
「んー、しばらく。しばらくは遊んでくる」
「神奈子ー、何して遊ぶつもりなの? まさか、火、遊、び?」
「ふふ、諏訪子が望むのなら、それも悪くないわね」
「やだーもう神奈子ったら! せいっ!」
「あいたぁ! グーはないでしょグーは! このぉ!」
「あははは! ここまでおいでー!」
「…………」
と、神奈子と諏訪子がハネムーンへ旅立ってから、はや三日。当然その間、早苗は一人暮らしだ。
ここのところ毎朝毎昼毎晩、
『やだー、神奈子ってば、ほっぺにご飯粒ついてるー』
『はは、諏訪子のお口で取っておくれ』
などとテンプレート的なやりとりを見せつけられていた早苗であるから、せいせいしたというものだった。
ことの発端は、『かったりー』とかぼやきながらボサボサ頭で歩いていた神奈子と、
食パンくわえて『遅刻遅刻ー!』とか理由もなく忙しそうに廊下を走っていた諏訪子が、廊下の曲がり角でガーンとぶつかった、とのことだ。
それから、あれよあれよという間に恋が芽生えて、寝床を同じくするまでのラブラブっぷりとなったのだが、
出会いから馴れ初めまでベタもいいところなので割愛しておく。
早苗にとって一人暮らしは初めての経験だったが、慣れてしまえば気楽なものだった。好きな時間に寝て、起きて、食べれば良い。
腹が空いていなければ食事を用意する必要もなかった。
家事をする時間が減れば、当然フリーの時間が増える。趣味の編み物やら、クロスワードパズル、筋トレ、モンハンなどして気ままに暮らしていたのである。
異変が起きたのは、二日目の夜、つまり昨夜のことだ。
昼間に十分干していたはずの布団が、やけに冷たく感じられた。なんでだろ……、と不思議だったのだが、気にせず床に入った。寝つきが妙に悪かった。
一夜明けた今朝は、嫌な寝汗をかいていて、どうにも気分が優れなかった。
窓を開けて春の光と風を取り込んでみても、どこか寒々しい。身体中が目の荒いスポンジみたいに、スカスカしている気がした。
(風邪かなあ……?)
とまずは思ったけれど、別段熱っぽくも、気だるくもない。咳も鼻水も出ない。走れと言われたらグラウンド十周ぐらいは出来ただろう。
「はぁ、なんだろう、これ」
溜まってもいない洗濯物を洗い、汚れてもいない風呂を磨き、昼になった。それでも、嫌な感じは治まらなかった。
「うぅうん」
気散じにはなるかな、と早苗はスキマTVをつけた。『いいんだぜ』をメインテーマに据えたバラエティ番組が始まるところだった。
金髪の少女二人と人形たちが軽やかに踊っている。
(あれは……魔理沙さんと、そのお友達……かな)
ビジュアル的な寂しさが少々あるものの、楽しげではある。
ちゃぶ台に頬杖をついてぽけーっと画面を眺める。ありとあらゆる定番を寄せ集めたような内容だった。
人形がプレートを掲げ、二人が早押しで答えるクイズゲーム。
『勝者にはウォーズマンのヘルメットをプレゼントだぜ』
(いらない……)
クイズは最初から最後まで身内ネタばかりで、何がなんだかわからなかった。
魔理沙の好きな鶏肉の部位――ササミらしい。早苗が知るはずもなかった。
次は……ゆで卵をスプーンで運ぶリレー――あっ、コケた。
『ははは、お前は本当にどんくさいなあ。ま、そんなところもかわいいんだけど』
二人+αの出し物が続く、続く。
あと三、四人のメンバー、そして反応の良い観客がいればさぞや愉快だったのだろうが……。
時おり聞こえる『ア、ハ、ハ』だとか『ア、ア、アァー』だとかいう、演出らしき人形のロボットボイスが、なんとも切なかった。
それでも、見ようによっては滑稽であり、早苗は時折くすり、くすりと笑っていた。この調子なら、午後には調子が出てくるのだろう、とも思えた。
画面では二人のトークと相成っている。内容は他愛の無いものだが、とても仲が良さそうに見えた。
やがて、グラサンをかけた魔理沙が言う。タモさんの威光はここまで届いていたのだ、と早苗は今更ながら感心した。
『それじゃ、お友達紹介いってみようか』
『…………』
カチューシャの少女は俯いて、答えない。
『どうした? いるだろう、お友達の一人や二人』
『お友達は……、魔理沙、あなたよ』
搾り出すような声だった。
『え? そ、それは嬉しいけど、それじゃあこのコーナー終わっちゃうじゃないか。看板コーナーなんだぜ? はは、冗談が過ぎるな、アリス』
『…………』
アリスと呼ばれた少女はまた、黙る。
『え? なに? どういうこと?』
『あなたが、言った通りよ。いいえ、それ以上、もっと大元のところ……』
『ちょっと、え? どうなってんの。スタッフー! ちょっとスタッフー!?
ゆかりいぃ!? これ、どういうこと、え? 最終回? マジで? 嘘でしょ? マジで、マジなんだ……。びっくりなんだぜ……』
『ごめんね……なかなか言い出せなくって。瞬間最高視聴率が0.01%ではさすがにスポンサーがつかないのよ。
朝の釣り番組にも十倍近いスコアをつけられてちゃ……』
やっぱり二人じゃ無理だったのよ……、とアリスは力なく呟いた。
『そうか……残念、いや、無念だ……』
魔理沙は何かを堪えるように、天を仰いだ。しかし、すぐにアリスに向き直り、強い眼差しを見せる。
『けどな、アリス。二人だけ、ではなかっただろう?』
『え?』
『上海がいて、蓬莱もいた。だから私たちはここまで頑張ってこれたんだ』
『魔理沙……』
『おっと、時間か。最後ぐらいきっちり決めないとな』
魔理沙は正面のカメラを向いた。アップになると同時に、悲しげな音楽が流れる。
早苗には聞き覚えがあった。これは……、フレデリック・ショパンの練習曲第三番、通称『別れの曲』。
切ないカンタービレが心に染み入る……。
『えー、テレビの前のみなさん、今どれだけの人が見てくれているのかわからないけれど、
みなさん、いや、みんなに言いたい。あり……、ありがっ……、あ、あ……』
魔理沙の顔がくしゃっくしゃに潰れる。帽子のツバを下げて、下を向いてしまった。
画面を通してでもわかるほど、無機質な机の上にぽたぽたと涙が零れている。
『魔理沙、頑張って! あなたは強い子でしょう!?』
アリスが魔理沙の手を握って、励ます。彼女も既に泣き顔である。
ボロボロになっても支えあう少女二人の姿は、いやが応でも涙を誘った。
『アリス……うん、頑張らないとな。私が主役なんだもんな。みんな、テレビの前のみんな! 今まで見てくれて本当にありが――』
プツン。
早苗はテレビを消した。すっくと立ち上がって、テレビ台まで歩く。ゆらりと片足を頭上まで上げて、
「昼間っからなんて湿っぽいもん見せんだド畜生!」
カカト落としで突っ込んだ。テレビは白煙を立てて反応を失ったが、気にも留めなかった。電化製品は叩けば直るのだ。
(あああ、何なのよ、この気持ち……)
正体がわからなくて、気味が悪い。お腹が減っているのだろうか。そういえば朝食はとらなかった、と考えた早苗はお勝手に行き、飯びつを開ける。
冷や飯がたっぷり入っていた。おかずは残り物の煮物があったはずだ。
茶わんを三つ用意した。
大盛りの二杯をつぎ、小盛りの三杯目をつごうとしたところで気づく。そういえば、昨日も同じようなことを何度もやった。
(なにやってるんだろ、私……)
一杯を返して、残りの一杯と煮物が入った小鍋をお盆にのせ、居間に戻る。
「……いただきます」
米が妙にパサパサした。煮物も甘辛く味付けしたはずなのに、薄味だ。……おいしくないし、楽しくない。
「ごちそうさまでした」
空腹感はそれなりに残っていたのだが、半分も食べないうちに、早苗は箸を置いた。
座布団を抱えて寝転がり、障子紙に当たる陽光を見つめる。陰りはない。天気は良さそうだ。
モズやホオジロもそれを喜ぶかのように、楽しげに鳴いている。こんな日は……誰でもいい。
「誰かに、会いたいな……」
ため息混じりに、早苗は呟いた。
―――
その頃、神奈子は神社から割りと近い場所にいた。妖怪の山のとある断崖絶壁である。
強く歯を噛み、岩を握り締め、全身を止め具として、崖の上から手を伸ばしていた。
伸ばした手の先には諏訪子がいる。神奈子の手に吊られる形だ。
「神奈子、手を離して! このままじゃあんたまで落ちちゃうよ!」
諏訪子の悲痛な叫びを振り払うかのように、
「ええい! 離すものか! 例えこの身が砕けようとも離すものかぁ!」
神奈子は叫び、名を呼ぶ。
「スワコオオオオ!」
「いっぱあああああつ!」
諏訪子は応えた!
互いの筋肉が軋み、悲鳴を上げる。それでも互いに強く握った手を離さず。
――危地を脱した。はぁはぁ、と荒い呼吸のまま、ニ柱はごろりと崖の上に転がった。
「ふぅ」と一仕事終えた顔で、神奈子は息を吐く。
「いやぁ、良い汗かいたねー」
諏訪子がリュックからスポーツドリンクを出して投げてきた。
「サンキュ」受け取った神奈子は、「やっぱ親睦を深めるにはリポDごっこよねー」と笑うのだった。
「アクシデントって燃えるねぇ」
諏訪子の言葉に目線だけで答えて、神奈子は、んぐんぐと飲んでから「プハァー」。
高所で気温が低いのか、吐息が白くなった。見慣れた風景も、こうしたイベントの後だと絶景である。
にやりと笑って、
「で、どうだった諏訪子、私のアクション」
「えー、こここで言わせるのぉ?」諏訪子はもじもじした。
「なに照れてんのよ。私とあんたの仲じゃないの」
「え~、でもぉ」
「正直に言わないと、食べちゃうぞー? 泣き叫んだって誰も来ないんだから」
ククク、と神奈子は暗く笑った。割と本気である。
「んもう、すごい……、カッコよかった。マーライオンみたいだった」
「こいつぅ!」
神奈子は諏訪子の鼻をちょんと突いた。えへへ、と諏訪子は嬉しそうに、その鼻をさするのだった。
あははー捕まえてごらんなさーい、はっはっはお待ちなさーい、とニ柱のラブコメは続く。
―――
野鳥やらヤモリの他には客の無い神社に降り立った早苗は、
「何しに来たのよ」
と真っ先に問われたのだが、正直に答えるのはいささか気恥ずかしかった。
寂しさに耐えかねて三日の留守も守れないだなんて、自分はウサギか、と顔が熱くなる思いだった。ゆえに――。
「てっ、敵情視察というやつです!」
誤魔化す。
「敵? ケンカ売りに来たの?」
だったら買うわよ、と懐からスペルカードを取り出さんばかりの霊夢だった。
いきなり、話があらぬ方向にいってしまいそうになる。
「い、いやいや。そういう話じゃなくってですね、あの……その……」
言葉を探す。ストレートに、『一緒に遊んで下さい!』と言える性格だったらどんなに良かったろう、と早苗はこういう時いつも思う。
クラス替えの度に色々と苦労していたことが思い出された。
「なんなの?」
「その、霊夢さんの顔が、見たくて」
言ってから早苗はハッとしたのだが、
「私の顔見てどうすんのよ」
霊夢は歯牙にもかけない。色気もなにもあったものじゃなかった。
「要するに、冷やかし?」
「そ、その通り!」
思わず即答した。
「帰れ」
即答される……。なんでこうなるのだろう、と早苗は嘆いた。
「冷やかし、というわけでもなくて、なんていうんでしょう。えっと、あの、星を見に行きませんか!?」
「昼なんだけど」
「じゃじゃじゃじゃあ、パンダでも!」
「どこにいんのよ」
いったい何言ってるんだろう、と自分でも思う。
「はぁ」と溜め息をつかれた。「これから里で仕事があんのよ、だからあんたの相手してる暇は無いの」
「仕事……?」
普段は縁側でお茶を飲む神社のマスコットになって、たまにドンパチやるのが彼女の仕事だと思っていたから、驚いた。
失礼な認識だったのかもしれない。
「霊夢さんが……里でいったい何を?」
霊夢はむっとする。
「あんたまさか、私がお賽銭頼みで糊口を凌いでると思ってないでしょうね」
「え?」
その通りなのでは、とは言わなかったけれど、早苗は内心首を傾げた。
「営業よ、営業」
「営業って……具体的には何を?」
「そりゃあんた、妖怪退治やらお祓いの御用伺いとか、神棚の修理とか、
靴磨きとか、ゴミ出しとか、ひよこのオスメスの選別とか、どぶさらいとか」
霊夢は真顔だ。どうやら本当にそんなことをしているらしい。
「な」
早苗は絶句した。ほとんど雑用とか、質の悪いバイトじゃないですか、と。
そういった活動を早苗もしないではなかったが、近頃では分社の数も増え、それなりの信仰を得られていたから、せいぜい買い物ついでに挨拶して回る程度である。
「そういうわけだから、忙しいの」霊夢は背を向ける。
「あっ!?」
ここで置いていかれたら、また一人ぼっちだ。他にアテがない、というわけではない。人間でいえばもう一人心当たりがある。
けれど、場所がなんとも分かりづらいし、あの森は、なんだか薄気味悪いし……。夜とか何か出そうだし……。
びびりとか、そういう話ではないですよ。人気のない場所とか夜の一人歩きを避けるのは女子の常識です。
「じゃあねー、さっさと帰ってよね」
早苗があれこれ考えているうちに、霊夢は中空まで飛び上がっていた。
「ちょっ!」とスカートを思わず引っつかむ。
――すぽん、と脱げた。あらわになる白い布に一瞬目を奪われたが、
「あの、私も、私もお手伝いします! 今日はどうせ暇だから!」
必死でそれだけを伝えた。ああ、なんて回りくどい……。そんな自分がもどかしかった。
「……とりあえずそれ、返して」
昼過ぎの、強さを増してきた日差しがドロワーズに反射して、白くて、眩しかった。
―――
霊夢の言う、営業とやらにくっついて回って、はや二刻が過ぎた。
『妖怪退治いかがっすかー!』だとか、『お祓いいかがっすかー!』などと威勢の良い声を上げながら門扉を叩いて回るのである。
なんともはた迷惑なものだと早苗は思うのだが、里人の反応ときたら穏やかなもんだった。
『あらあら霊夢ちゃんお久しぶり』とお菓子をくれるおばさんまでいた。……これで意外と愛されているのかもしれない。
「はぁ、今日もボウズかしらねえ」
ぐるぐる模様の入った飴を、霊夢はぺろぺろ舐める。ボウズって……、釣りと同じような感覚なのだろうか。それでいいのか博麗の巫女。
「妖怪退治なんて、いまどきそうそう需要がないのでしょう」
「妖怪はいっぱいいるのにねえ」
早苗はただ、ついて回っていただけだ。手伝うとは言ったものの、仕事がないのではお話しにならない。
辺りには春の陽気が満ちみちている。こんなことならブラブラとお散歩なりピクニックなりしていても変わらないのではないか。
提案したところで、霊夢が首を縦に振るとは思えなかったのだが。
「次、あそこ行くわよ」
霊夢が角の家を指差した。茅葺の屋根がついた門が見える。竹垣の隙間からわずかに見える庭は、小ぢんまりとしていた。
いかにも隠居所、といった様相を見せている。
「ここは……?」
「商家の爺さん婆さんが隠居してんのよ」
「ってことは、お知り合いですか?」
「知り合いっていうほどでは、ないわね。どっちかというと他人よ」
そう言う霊夢はずんずん進み、おとないも入れずに勝手に門を開けて入り込んでいった。
「あ、ちょっと!」
お行儀というものを知らないのか、この巫女は。早苗は少し途惑う。
(昼間っから二人揃って不法侵入だなんて……)
とはいえ自分一人外で待っているのもなんだか居たたまれない。
「お邪魔します……!」
どこへともなく告げて、霊夢の後を追った。
霊夢は既に縁側へ上がりこんでいる。くつも脱がずに四つん這いになって、
「じいちゃーん、ばあちゃーん。いないの? 出てこないと火ぃつけるぞー」
しきりに奥へ向かって叫ぶのだ。頭が痛くなる。
「ちょっと霊夢さん、あんまりにも失礼じゃないですか。せめて玄関から――」
「おやおや」
言いかけたところで、廊下の奥から老爺が現れた。混じりけの無い白髪を総髪にしている。
優しそうな笑顔を浮かべていて、怒鳴り散らされることはなさそうだ、と早苗はほっとした。
「巫女様じゃあないですか。お久しぶりですね」
穏やかな声だ。『まる子や』とかすごい言いそうだった。
「じーちゃん、仕事か、お菓子ちょうだい」
挨拶も抜きで、霊夢は言うのである。早苗はコメカミをおさえた。なんだこれは、なんだこの、極めて斬新なトリックオアトリートは。
こんなのが許されるのなら、悪い子以外殺して回るナマハゲがいたっておかしくない。
恐る恐る様子を伺う。
「どっちもあげますよ。おはぎがありますから、そうですね、庭の掃除でもお願いしましょうか」
「おっけー、任せて」とてて、と霊夢は駆けていく。
「…………」
まかり通ってしまった。これが幻想郷クオリティ、というやつなのだろう。
しかしこれでは、お駄賃貰ってお手伝いする子供と一緒だ、と早苗は思う。
「おや、そちらの方は」と老人が早苗に気づいた。
「すいません。勝手にお邪魔して――」と早苗は非礼を詫びつつご挨拶、しようとするのだが。
「友達よ、友達。うっちゃっといて」
少し離れた所の霊夢にさえぎられた。あっさり言ってくれるなあ。自分の場合、こうはいかない。
どこどこの誰々さんだと説明するのが面倒だったのだろうが、それでも早苗には少し、くすぐったい感じがあった。
「それなら、お茶をお出ししませんとなあ」
「あ、お構いなく」
いやいやご遠慮なく、と老爺は後ろに組んだ手を腰にあて、部屋の奥へ消えていった。
「おっはぎー、おっはぎー」
どこから持ってきたのだろう。いつの間にか霊夢は箒を持って掃除を始めていた。
あ、と早苗は小さな声を出した。
「霊夢さん、手伝います」
すっかり忘れていたけれど、そういう名目だったのだ。
「え? 別にいいわよ。見ての通り狭い庭だし」
「う……」
こうなると手持ち無沙汰で仕方がなかった。ざっざっざ。手慣れた音を聞きながら、ぽけっと突っ立っていることしかできない。
まいったなあ、と手を揉みながら、隅にわずかに咲いている小菊を眺めた。白と黄色が実に鮮やかだ。
人の家の庭を掃除することが、博麗神社の営業活動なのだろうか。まぁ、何を祀っているのかいまいちわかりづらい神社ではある。
何か異変でも起きない限り、目に見える形で活動して見せる機会があまり無いのかもしれなかった。
その点、自分のところの神社は八坂さんにお諏訪さんと、非常にわかり易い。
……そして久しぶりに、二柱に考えが及ぶ。
どこで何をしているのだろう。しばらく、とは言っていたけれど、神様のしばらくって、一体どれぐらいなのか……。
「さあさあ、お茶が入りましたよ」
老爺が片手にお盆と、もう片手に手洗い水の入った桶を持ってきた。そこで思考はストップ。
「どうも。ありがとうございます」
掃除に夢中で気づかない霊夢の代わりに、早苗が礼を言う。老爺は膝をつきながら、
「突っ立ってないで、お座りになったらどうです」床板をタンと叩いた。
「あ、それじゃ、失礼して」
早苗は素直に従った。一心地つく。そういえば昼間から歩きっぱなしだった。
甘い香りに誘われてお盆を見ると、湯のみが三つに、おはぎが乗った皿が二つあった。早苗の肌がざわついた。
(つ、つぶあんですか……っ!)
乙女の宿命というべきだろうか。目を奪われてしまった。ガン見である。どうしようもなくガン見である。
老爺がその視線に気づいて、
「どうぞ、ご遠慮なく」
にこやかに勧めてきた。けれど、このまま勧められるがままにがっついていいものか。
しかしここで断るのも無粋というものでしょうし、と早苗は速攻で折り合いをつけて、手洗い水で軽く手を流した。
「いただきます」
おはぎが乗った皿を取って、菓子楊枝で小さく切り取ってから、口に運ぶ。舌がとろけた。
(あ……んまぁい……!)
早苗は夢中で食べた。食べれば食べるほど、目がほそまり、口元は緩んで、頬が温まるのを感じた。
おたふくみたいな顔になっているかもしれない……。
「良い食べっぷりですなあ」
老人は満足げである。早苗はぴくっと肩を震わせ、楊枝を置いた。
「ご、ごめんなさい……。意地汚くって……」
「いやいや、そんなに美味しそうに食べて貰えるとね、お出しした甲斐があるってもんです」
「そう言って頂けると……」
気が楽になって、お茶を一口飲んだ。良い塩梅に舌がすっきりした。
「霊夢さんって、よくこちらへいらっしゃるのですか?」
「ええ、たまにですがね。節目の時分にはお祓いをお願いしております。
それで、時折こうして、家の細々としたことをやって下さるのですよ」
「ははぁ……」
優良顧客に繋ぎを作っているのだろうか。それにしても、彼女にしてはマメなことだ、と早苗は思う。
「終わったわー。はー、くたびれた」
くたびれた様子は全然無い霊夢がやってきて、縁側に腰掛けた。
「ご苦労様でした」老爺は手洗い水を差し出す。
「ありがと」と霊夢は手を洗う。
すぐさま、ぱくぱくおはぎを口に運ぶ霊夢を、老爺は微笑ましげに見つめている。
自分と、自分の祖父の間にも、このような光景があったのかもしれない。
カメラがあったら写してあげたい。早苗はそんな気持ちに駆られていた。
が、そんなもの持っているはずもなく。
「あの、私も何かお手伝い出来ることありませんか?」
代わりにそう伝えた。お茶とおはぎの礼をしなくては、とも思う。
「はて、お手伝いですか」
「お掃除とか、皿洗いとか、何でも良いんです」
「それはありがたいことですが、見ての通り狭い家にばあさんと二人暮らしでしてなあ。
綺麗にしてもらうよりはむしろ、汚してもらいたいぐらいなもんで」
老爺はからりと笑う。
「そうですか……」と早苗がしょげていると、
「肩でも揉んであげたら?」
食べ終えた霊夢が茶をすすりながら提案した。
「おお、それは嬉しいですなあ。どうです、一つお願いできますか」
「肩揉み……ふふははふ、肩揉みですか」
早苗の口元が歓喜に歪む。
肩揉みには自信があった。あり過ぎた、といっても良い。天はニ物を与えず、というが、早苗には二つの才があった。
一つは風祝として、奇跡を操る才。もう一つは――そう、肩揉みの才。幼少時よりその指テクは神域に達すると囁かれていたのだ。
話を聞きつけて勝負を挑んできた指圧師を二、三人、引退に追い込んでしまったこともある。
幻想郷に来てからは、神奈子と諏訪子以外に発揮する機会がなかったから、思わず武者震いしてしまう。
「お任せ下さい、私、東風谷早苗の持てる技の全てを以って、極楽へ連れて行って差し上げますよ」
早苗は大真面目でそう言った。
「ほっほ、それはありがたい。なに、老い先短い私のことですからな、どうぞご遠慮なく」
冗談として受け取られたらしい。
「お邪魔します」
早苗は靴を脱いで、老爺の後ろに膝で立った。年季の入った背中だ、と思う。
「では、失礼します」とその肩に手をかけた。
(あ……)
少し握った感じが、硬さが、祖父のものとよく似ていた。たったそれだけのことで、ひどく動揺して、固まってしまう。
「早苗、どうかしたの?」
「いえ、花粉症で、ひょっと鼻が……」
ぐず、と鼻を鳴らした。……自分で思っていたよりも、痛めつけられていたのだろうか。たかだか二日と少しの、一人暮らしで。
(……ま、やるべきことをやれば、気も紛れるでしょう)
早苗は気を取り直し、手に軽く力を込める。まずは準備運動。ほぐし甲斐のありそうな肩だった。
「おうおう、良い気持ちです」
「もう少し、強くしても良いですか?」
「ええ、どうぞどうぞ」
ならば……と。許可を得た早苗は力を解放する!
「ここですかああああ!?」
ビシィ! とツボを突いた。
「んはぁっ!?」老爺の身体が、電流が走ったかのように震えた。
「この辺ですか!? この辺なのですね!」
「んあっ、はっ、はぁぁぁあん!?」
老人とは思えぬほど甲高い声が響き渡る。驚いた野鳥が庭を去った。
「ちょっと、早苗?」ただならぬ様子を霊夢は不審がる。
「大っ、丈夫、ですよ! 私に肩を揉まれた人は大体こうなるんです!」
早苗の指が老爺の肩を縦横無尽に這う。その度に、ビクンビクンと痙攣が起きる。
「んんんあああはああっ! なんじゃあ! なんじゃあれは! お釈迦様! お釈迦様じゃあ!
ゴータマシッダルタぁぁぁはははんん!」
「ちょっとじーちゃん!? どうなってんのよ!」
「うふふ、ノッてきましたね! その調子ですよ!」
どっちかというと早苗の方がノリノリだった。久しぶりの肩揉みということもあるし、あのおはぎの美味しさを思い出す度に、指に気合が入るのだ。
癒されもしたし、出来るだけのことをやってやらねば、という気持ちが強い。
「あああ! あれはなんじゃ! 神様じゃ! アマテラスオオミカミ様じゃっはん!
あれに見えるは、おおっ! おおお……っ! ゼウス様じゃないですか!
はぁあ、あなたはアッラー! アッラーアクバル!
これはまるで夢の共演、神仏オールスターの宝船やあ!」
もはや老人は白目をむき、ぶくぶくと泡を吹いている。あぐらをかいたままその場で跳ね上がりそうな勢いだった。
「ちょっとこれ、大丈夫なの!?」
「ああ――まさか、あれは、ばあさん! ばあさんじゃないか!」
「ばーちゃんまだ生きてるでしょう!?」
という霊夢の突っ込みも老爺には届かない。
「ふふ、これでトドメです!」
トドメという表現は自分でもどうかと思うのだが、早苗はいつもこう言ってから、「ホオオォォォ」とタメを作る。
「ホアタァ!!」
秘伝のツボを突いた。老爺の身体がぐにゃあと一際大きく痙攣して、パアと金色に輝く。
「ん~! はぁぁああ! 極楽じゃあ! ここはてっ、てててっ、てんごくっ、だっ、たっ! たわばっ!」
時が止まったようだった。
早苗が「ふぅ」と手を離すと、老爺は横に倒れ、そのまま動かなくなる。
「ちょっと、じーちゃん大丈夫!?」霊夢がその身体を揺する。
「うふふ、これでもう、向こう十年間は肩こりに悩まされることはないでしょう」
らんらん、といった調子で早苗は汗を拭く。いやぁ、肩揉みって本当に素晴らしいもんですねえ、と達成感に満ち溢れていた。
今朝の悶々とした思いが吹っ飛んだようだった。
「向こう十年間ってか、これ」
老爺の身体を揺する手を止め、霊夢は言った。
「息、してないんだけど」
「えっ」
―――
半分開けた小窓から入る風は、春風だ。梅の香が強まる度に、ページをめくろう。
そんな風に霖之助は、細かな文字の上に心を遊ばせていたのだが、
――カランカ「店主! 指輪はあるかね!」
勢い良く訪れた客を一目見て、それどころじゃなくなった。
(こんな格好の客は……)
珍客と呼ぶべきだろう。おそらくイミテーションだろうが、立派なカイゼル髭をたくわえ、燕尾服を着ている。
「あらやだ、狭苦しい店ねえ、おっほっほ」
貴婦人っぽい笑い声を上げながら続いて入ってくるのは、まさに貴婦人だった。何かの資料で見たことがある姿だ。
きついコルセットと共に、裾がやたらと広がったドレスを着ている。
(どういう勘違いなのだろう……?)
ここは幻想郷であってブリテンではない、と霖之助は説教してやりたかったのだが、まずは考える。
コスプレ……? もしくはタチの悪いドッキリだろうか。天狗辺りがどこかに隠れているのかもしれない。
『大成功!』と看板を出されるのかと身構えたが、その様子はなかった。
「いらっしゃいませ……」霖之助はひとまず挨拶しておいて、「ええと、指輪ですか」と繰り返す。
「そう、指輪だ、指輪。そりゃあもうぷりちーなやつを頼むよ」
紳士が言った。表現が痛々しいな、とは素直な気持ちなのだが、口には出さない。
「信仰三か月分ね!」
淑女の方が、わけのわからんことを言う。見れば目玉のついた、奇妙な帽子を被っている。馬鹿にされている気になる。引きちぎってやりたかった。
というのも、これだけのちょっとしたやり取りの間にも、目の前のカップルはいちゃいちゃベタベタと、霖之助の目の前でちちくり合っているのだ。
(彼女らは一体、僕の店をなんだと思っているのだろう……)
戸惑いよりもまず先に、腹立たしかった。とはいえ、客は客である。
「ええと、それはつまり、結婚指輪ですか?」霖之助は空気を読んだ。
「結婚? ああ、まぁそういうこともあるかもしれないねえ、諏訪子?」
「やだもう、神奈子ったら!」
――ガンッ。
紳士の方は神奈子、淑女の方は諏訪子というらしい。
……だが、そんなことよりも。
照れ隠しなのだろうか、諏訪子とやらが蹴飛ばしてくれた壷に、遠目にでも悲惨とわかるヒビが入っている。
枇杷色に垂れる釉がお気に入りだったというのに……。そんなに大切な物ならしまっておけ、と言われるかもしれないが、狭い店なのだから仕方ない。
そもそもあの壷は、特に用途はない、美麗なだけのものだ。いわばオブジェである。オブジェなら壊して良いとでも?
そんなことはないだろう。だから、こちらに非は無いはずだ。
理屈の後押しを得た霖之助の胸の内が、ドス黒く変色していく。
「まぁ、いくつか、あることはありますが」
「ほうほう、見せて貰おうか。なに、金ならあるんだ」
神奈子は貧相ながま口財布を出してみせる。とても中身が詰まっているようには見えない。
おそらく、そのセリフを言いたいだけなのだろう。
「少々、お待ち下さい」
霖之助は並んだ棚の引き出しの一つを空け、鈍く光る銀のアイテムを持っていく。
「これなんかいかがでしょう」
ごとり、と机に置いた。
「ほう、なかなか凝ったデザインをしているじゃないか。諏訪子、つけてごらんなさい」
「まぁ素敵!」
『ワオ!』って感じで口をあんぐりと開けてから、諏訪子はアイテムを装着する。一握り、二握りしてから、
「うーん、ちょっと大きいかも」と外して、机に戻した。
「そうか、それは残念だな。時に店主、一つ訊きたいのだが」神奈子は机の上を指差す。「この指輪の名称を教えてもらえんかね?」
「メリケンサックといいます」
霖之助は正直に答えた。
「用途は?」
「またの名をナックルダスターといって、拳にはめて、打撃力を強化することができます」
また、正直に答えた。
「いいかい、メガネ君」
神奈子は眉間に手を当て、横目に霖之助を見ながらぼそぼそと喋り始めた。
「結婚指輪が凶器であってはいけない。愛を誓った夫婦にケーキじゃなくてキョーキを渡してどうすんの。
純白のドレスを血に染めようってか? 結婚式ならぬ血痕式ってか? とても笑えないわ」
「そうですか、残念です。では他をあたって下さい」
霖之助は既に商売っ気を失っていた。視線を切り、勝手に本を読み始める。
「ちょ、ちょっと! まだあるでしょう!? こんだけごちゃごちゃしてるんだから一つや二つってことないでしょうが!」
ごちゃごちゃ、という表現がまた、霖之助の気に障る。黄金比に基づいて配置されているアイテム群だというのに、失敬な。
「まぁ、あることはありますが、お気に召すかどうか、っていうかさっさと帰ってくれないか?」
思わず後ろの方で本音が零れた。営業モードが終わりかけているのを自分でも感じる。
「あるのなら出しなさいよ! 私は客よ!?」
もっともらしいことを言われたので、霖之助は仕方なく、その辺にある適当な物を適当に取って、机の適当なところに置き、
「こんなんでどっすか」
つっけんどんに言う。
「あらこれ、かわいいじゃない。諏訪子、つけてみなさいよ」
「ほんとだ、かわいー! ……うん、しょ。薬指じゃちょっと小さいかな。小指なら……、ああぴったり」
「似合ってるわよ! それにしても美味しそうね……ちょっと食べてみたら?」
「うん、ぱくっ! おいしい!」
小指にかぶりついた諏訪子は、チーズ味だ……、と力なく呟いた。しっけてる……とも言った。
…………。
ひゅう、と小窓から、春にしては少し冷たい風が吹いた。霖之助はページをめくる。
「……度々すまないが、店主。この指輪の名前を教えて貰えんかね」
「カールといって、外の世界のお菓子――」
「知っているわ。独特の形と食感が大人気だそうね。けれど」
バンッ、と神奈子は机を叩いた。ふるふると肩を震わせる。
「スナック菓子バラ売りしようとするやつって初めて見たわ……。小学生でもやらねーよそんなこと……」
「お代は結構ですよ」
「当たり前だッ!」
ブンッと神奈子が拳を横に振った。丁度そこには、棚があって、その棚には、ああ、水が勝手に沸いて出てくる魔法の花瓶があって――ガシャーン「あららぁ!?」ああ、割れた。
霖之助は眼鏡をかけ直した。レンズが光って、
「……ふぅ、次で最後です。これで気に入らなかったら、とっとと出て失せて下さい」
表情は読めないだろうが、怒りは伝わったろう。
「ご、ごめんなさいね……あはは」
「あはは……」
反省の色が伺えない、緊張感のない笑い声が二つ。
霖之助は机の引き出しを開けた。売り物にならない、ガラクタ中のガラクタを寄せ集めた引き出しだ。そのなかから指輪っぽいものを掴み、
「おらよ」神奈子に投げてやる。
「わっ、とっと! それはあんまりじゃないの!?」
「あんまりな客に言われたくないですね」
「それに、これ……って」
ゴミじゃないの! という突っ込みを予想していたのだが、受け取った神奈子の顔色が変わる。
「あ、神奈子……それ」
覗きこんだ諏訪子も、同じような顔になった。
(なんだろう……?)
投げてやったそれは、とても値段がつけられるような代物ではない。無論、悪い意味で、だ。単品では何の役にも立たない、正真正銘のゴミだった。
「これ、頂いていくわ」
だから、神奈子のその発言は霖之助にとって意外だった。正気ですか、と問いたくなったが、かろうじて残っていた商売っ気がそれを阻んだ。
少し考える。自分なら、タダでも要らない物だ。
(けれど……)
自分にとっては不要な物でも、他人にとっては必要なことがあり、そこに利が生まれ、商人が存在する。
暴利を貪る気はない。商売には適切な値段があり、安いにしろ高いにしろ、そこを離れすぎると手痛いしっぺ返しを食らうことも、承知している。
しかし、タダで持って行かせるのは、どう考えても腑に落ちないのだ。
「値段の方ですが」
霖之助は壊された壷と花瓶の値段を足して、そのまま告げた。
「ええっ、ちょっとお高くない!? ゴミじゃないのコレ!」
「でも、必要なのでしょう?」
「ぐっ……必要っていうか、うううん……」
「諸々の意味で、適切な値段ですよ」
主導権はこちらにあるのに、迷惑料を加えていないだけ有り難いと思って欲しかった。
「ぬぅ……。諏訪子、夕食のランクがちょっと落ちちゃうかもしれないけど、構わないかしら?」
「いいよ」
諏訪子の答えは、凛として、淀みのないものだった。それが霖之助を少し驚かせる。強い意志のようなものを感じた。
そのせいなのか、いつもの気まぐれのせいなのかはわからないが、霖之助は多少値引いてやった。
無駄にされた時間と、壷と、花瓶と、売り上げを秤にかけてみれば、どうしようもなく赤字になる値段だった。
―――
霊夢が気を入れると、老爺は無事に息を吹き返した。なんでも、三途の川をバタフライで泳ぎきり、彼岸で閻魔とチークダンスをしてきたらしい。
『ちょっと頑張り過ぎました……』と早苗はしょげて謝ったのだが、彼はまさに天にも昇った心地だったらしく、お駄賃をたっぷりくれた。
早苗は固辞したのだが、霊夢が鬼をも殺せそうな眼光で睨んでくるものだから、仕方なく、何度も礼を言ってから受け取った。
「特盛り、つゆだくで。あと生卵に、おしんこと豚汁」
おかげでこうして今、幻想郷大手丼物屋でおごらされているというわけだ。
女の子二人で入る所かなあ、と早苗は別の場所を提案したのだが、『速い、安い、美味い以外に何が必要だってのよ』という霊夢の言葉に勝てなかった。
「小盛りを一つ……、はい、それだけ」
注文を終えて、しばし間が空く。
無愛想な店内を見渡しながら、早苗は落ち着きなく、色の薄い茶をすすってみたり、箸の入った箱を開閉させたりしていた。
話題を探していたのだ。
「で、なんであんた、ついてきてるわけ」
今更ながら、霊夢がそう訊ねてきたので、渡りに船、と早苗は概ねの事情を説明した。
勿論、人恋しくなって、という部分は伏せていた。ちぐはぐな説明になっていたかもしれない。
「ふぅん、ハネムーン……ねえ」霊夢は興味なさげだったが、「あいつら、そんなに仲良かったっけ?」
「喧嘩することは多いですけど、本当はすごく仲が良いんですよ」
幼い頃からニ柱を見てきた早苗であるから、それがわかる。
「だから、反動っていうんでしょうか。喧嘩に向かうエネルギーが、逆の方向に向いちゃって、
それで、あんな風に急接近しちゃったんじゃないかと……」
「あんな風って言われても、わかんないんだけど」
「ポッキーを端と端からちょっとずつ食べてみたり、湯飲みにストロー二本差してお茶を飲んでみたり、
八坂様がお風呂に入ってる間に洩矢様は外で石鹸カタカタ鳴らしてみたり――」
「あーもういい。具合悪い、胸焼けしそう。ほら、来たわよ」
大きなどんぶりプラスオプションと、小さなどんぶりが運ばれてきた。
「まだまだ、あるのに……」
辟易はしていたものの、仲が良いニ柱の姿は早苗にとってある種、微笑ましいものだった。仲が良いに越したことはない、と思う。
もう少し限度というものを考えて欲しいものだけれど……。
「ぱくぱく、うまうま」
霊夢は既に食べ始めている。
「さっきおはぎも食べたのに、太りますよ?」
「何故かしらないけど、どんだけ食べても太らないのよねー。お腹一杯食べる機会ってのがあんまり無いんだけど」
「うらやましいような、うらやましくないような……」
いただきます、と手を合わせてから、早苗は箸を割った。
こういう店には不釣合いな光景かもしれなかったが、身に染み付いた作法には逆らえない。
もくもくと二人、食事する。いかにも大衆向けといった味付けだったが、今朝の食事のような味気なさは感じない。おいしい、とも思えた。
入った時はそうでもなかった人の入りが、徐々に慌しくなってきた。一日の勤めを終えた人々が、補給に来ているのだろう。
入口に差す日差しからは、赤みが消えかかっていた。夜はもうすぐだ。
(神社に……帰る……)
帰らなければならない。いっそ博麗神社にお泊りを申し出てみようか、とも思うけれど、早苗はそこまで図々しくなれなかった。自分の神社の仕事もある。
(でも……)
隣の霊夢を見る。頬を膨らませ、もそもそと仏頂面で咀嚼していた。これじゃグルメ番組とか出られないだろうなあ。
……閑話休題。
家に帰れば一人、というのは霊夢も同じなはずで、自分よりもよっぽど長い間、一人暮らしなはずで。
なんとも、思わないのだろうか……? 早苗にはそれが気になった。
「あによ」と霊夢が視線に気づく。
「霊夢さんは……」
早苗は口ごもった。
ごくり、と霊夢は口のなかのものを飲み込んでから、「なによ」とまた言う。
「神社に、一人で住んでいるんですよね?」
「亀もいるけど」
「亀? ペットですか?」
「セクハラ好きの亀がね。下着とか、よく盗まれる」
「どんな亀なんですか……」
さっさと鍋にでもしてしまえば良い、と早苗は思った。
「……一人暮らしで、寂しいと思うことって、ないんですか?」
「寂しい?」霊夢はきょとんとした。それから、湯気の消えた茶を飲む。「考えたこともないわ」
「でも、ずっと一人なんでしょう? 朝起きて、『おはよう』を言う相手もいなくて、布団に入る前だって、『おやすみ』も言えなくて、
一日中頑張って働いても、誰も労ってくれない。それって悲しくないんですか?」
自分のことを語っているようだった。現に、早苗は悲しかった。
今日は霊夢と一緒にいたから、そんな暗い気持ちに沈むこともなかったけれど、昨日と一昨日を思い返してみれば、生まれて初めて味わうような物寂しい日々だったのだ。
「私にとっては、それが当たり前だからねえ」
「でも、だからって」
そんなに簡単に、受け入れられるものなのか。早苗は食い下がる。
「挨拶したいなら、すればいいじゃない。それこそ布団にだって、畳にだって、柱にだっていいわ。
自分が頑張ったと思うのなら、自分で自分を褒めてやればいい。それで満足できないやつは子供よ、子供」
「そう……なのでしょうか……」
早苗には納得できなかった。このままニ柱が帰ってこない日々が、一週間、一ヶ月と続いてしまえば、自分も霊夢のように、慣れてしまえるのだろうか。
それが、大人になるということなのだろうか。どれだけ考えてもわからなかった。
「さっさと食べちゃいなさいよ」と急かされる。
味気なさを取り戻した食事は、どうにも、喉の通りが悪かった。
―――
神奈子たちは、とある居酒屋のカウンター席にいた。
「君の瞳に乾杯」
神奈子はグラスを揺らす。本来ならボジョレヌーボーに舌平目のムニエルだったところが、梅酒のソーダ割りに鉄板焼きとなってしまっているのだ。
辺りには鉄が焼ける熱と、酔っ払いの吐息が充満していて、雰囲気も何もあったもんじゃなかった。
けれど、
「乾杯」
グラスをカチンと鳴らした諏訪子の表情が冴えないのには、別の理由があるようだった。
「飲みなさいよ、食べなさいよ」
「うん」
と諏訪子は言うのだが、箸の進みは遅いし、グラスの中身もちっとも減る様子がなかった。
神奈子はお構いなしに食べて、飲んだ。こんな安酒じゃ、少しも酔えない。何を飲んでも一緒なのかもしれないけれど。
……結局、どちらが先に言い出すのか、という話だったのだ。一度口に出せば、馬鹿馬鹿しくも楽しかった、このママゴトも終わる。
別に、惜しいとは思わない。ただ、何かに熱中して、それが終わって、ふっと正気に戻るあの感じを味わうのだろう。
自分のなかの人間臭い部分が、それを少しだけ嫌がっていた。
「神奈子ー」
箸で小皿を回しながら、諏訪子は言う。
「早苗、どうしてるかなあ」
ま、そうだよね、と予想通りの言葉だった。
「さあー、案外一人で気楽にやってるんじゃないかねえ」
「どうかねえ……」
確かに、希望的な観測だ。ケロちゃん人形を抱えて部屋の隅でしとしと泣いている早苗を、想像出来なくもないのだ。諏訪子も似たような思いなのだろう。
「神社出てから、何日目だっけ?」神奈子は訊いた。
「二日……いや、今日で三日目かな」
三日か。三日間、何の連絡もなしに家を空けるのは、家族として、どうなんだろう、と神奈子は思う。
神様である自分から見たら、三日なんてほんの一瞬だ。でも、早苗は違う。
家族、という言葉で思い出すのは、幻想郷に入った日のことだ。
『お仕えます』とだけ言った早苗に、神奈子は、
『私に、何が出来る?』と訊いた。
考える時間は十二分過ぎる程に与えたし、悩む早苗の姿も見てきた。その上で、彼女が出した結論なら、尊重しようと思った。
ただ、それでも、神奈子がしようとすることは、早苗が人間として積み上げてきた関係のほとんどを、
奪い去ることに変わりはなくて、一方的に受け入れるわけにはいかなかった。
『何も望みません。それが私の使命ですから』
と早苗は、声だけは強かった。
『正直に言いなさい』
『う……』
あの時の早苗は、斜め下を向いて、前髪を触り、鼻の頭をかいていた。嘘をついている時の仕草がオンパレードだった。
『あることは、あるんですけど……』
『なら、言いなさい。でないと連れて行かないんだから』
そう言った方が、早苗も気が楽なんじゃないかと思った。
『はぁ』と諦めるみたいにした早苗は、
『えっと、その……、私が辛い時は、慰めてください。嬉しい時は、一緒に喜んでください。怒っていたら、なだめて、ください……』
照れ隠しに笑いながら、歯切れの悪い言葉を続け、
『要するに、家族でいて欲しいんです』
と力強く言った。
…………。
「これさあ、思い出したんだよね?」
諏訪子がポケットを探り、テーブルの上に手を置く。
「もちろん」
置かれたのは、あの偏屈な店で高い金を払って買ってきたもの――缶のフタだ。指輪になんて到底見えない、ただのガラクタ。
「あの頃早苗、いくつぐらいだっけ」諏訪子が訊いてくる。
「五つか六つぐらいじゃないかったかしら」
「あの時は……なんで喧嘩してたんだっけ?」
「さあ、どうせくだらないことでしょう」
神奈子は笑った。
懐かしかった。最近はスルーも覚えてきた早苗だけれど、小さい時は自分たちが喧嘩をする度にわんわん泣いて、おたおたしていたものだ。
「なんでけんかするんですかぁ!?」諏訪子が、早苗の声色を作る。
「似てない」
「なかよくしてくださぁい!」
「やめてよ」
吹き出しそうだった。
「やさかさま、もりやさま!」
「――けっこんしてください!」
神奈子は思わず、ノッてしまった。夫婦は仲良くするものなんです。だから、結婚してください。それが、小さな早苗の主張だったのだ。
二柱、声を合わせて笑った。周囲の視線が集まるが、気にならなかった。
「あはは、それで渡されたのが、この結婚指輪」
諏訪子は笑いながら、缶のフタをかかげて見せる。
「厳密には、それじゃないけどね。私、まだ持ってるし」
あの時のジャンケンほど緊張したものはなかった。こっちはグー。チョキを出した諏訪子のあの顔は、忘れられるものじゃない。
思えば、今と逆だ。あの時は諏訪子が旦那役だった。
……この話を早苗にしたら、どんな顔をするのだろう? 顔を真っ赤に染めて、ポカポカ殴ってくるかもしれない。それはすごく、愉快だ。
「あの頃の早苗、かわいかったよねえ」諏訪子が遠くを見る。
「何言ってんの。今もかわいいわよ」
ぐいっと神奈子はグラスを空けた。先程までよりはいく分、マシな味になった気がする。
「料理、冷めちゃったけど」
「ま、私らだけで食べても、おいしくないでしょう」
「それもそうだね」と諏訪子が頷いたので、
「帰ろうか」
と席を立った。その流れでおあいそを告げる。
思いがけず、楽しい記憶を探り当てることが出来たし、諏訪子ともずいぶん仲良くなれたし、まぁまぁ有意義な三日間だったかな。
余った予算でお土産でも買って帰れば大団円だろう。神奈子はそんなことを考えていた。
――が。
「ありがとうございます。お会計はご一緒でよろしいですか?」
神奈子の何気ない一言が。
「あ、別々で」
戦いの火蓋を切って落とす。
「……ちょっと神奈子」
諏訪子が神奈子の肩を掴んだ。並々ならぬ力が込められている。
「なによ?」
「ワリカンってどういうこと」
「言葉通りよ。ほれ、半分出しな」
と神奈子は諏訪子のポケットをまさぐるのだが、
「触らないで!」
その手を弾き落とされた。
「……おかしいよね? 旦那役は神奈子だったはずだよね? ね、嫁の私がお金出すのはおかしいよね、すごくおかしいよね?」
「お遊びはもう終わったのよ。そもそも、なに? 今時そんな古い考えでやっていけると思ってんの?
流行らないわよそんなの。物事はいつも五分と五分。公平が基本なのよ。何なら閻魔でも呼ぼうかい?」
「神奈子のが、いっぱい食べてた。飲んでた。それでワリカンが公平だっての?」
「何よ、文句あるわけ?」
神奈子は眉間にシワがよるのを感じた。
店内がただならぬ気配に包まれ、空気が凍る。神々の闘気に耐えかねたグラスが砕け散った。
風も無いのにおっさんのヅラが宙に舞った。店で飼っている犬が吠えた。
口火を切ったのは諏訪子の方だった。
ポケットに手を突っ込み、斜め下から神奈子を見上げ、
「やんのかコラ」
「上等だ」
ああ、久しぶりのこの感じ。楽しいねえ。ここ三日間の反動だろうか、神奈子の血は早くも煮えたぎっていた。
―――
誰もいないであろう神社に帰る気になれなかった早苗は、霊夢を無理やり食後の散歩に引っ張りまわしていたのだが、
その最中、霊夢が不意に「ねえ」と指差した。
「アレ、あんたんとこの神様じゃないの」
「なっ」
開いた口が地面につくかと思った。確かにアレは、あの、居酒屋の前でパンチとキックの応酬を繰り返しているやつらは、うちんとこの神様だ。
「なにを……しているんでしょう……」
「どう見ても喧嘩じゃん。仲良くなったんじゃなかったの?」
それは早苗が訊きたかった。どういうことだ、これは。積年の溝を埋めるため、そして親睦を深めるため、出て行ったんじゃなかったのか。
そのためのハネムーンなんじゃなかったのか。
なればこそ、と必死で、いやそれほど必死でもなかったけれど、耐えて、いやそれほど耐えられなかったけれど、留守を守っていたのだ。
「チェストオオオォ!」
「甘いわぁ!」
諏訪子の回し蹴りを神奈子は肘で受け止めた。衝撃で両足が大地にめり込む。
「なんてこと……」
見ればニ柱の周りには人だかりがわんさと出来上がっていて、やれ「いいぞもっとやれ」だの、やれ「いいぞもっと服破れろ」だの囃したてている。
どいつもこいつも酒が入ってテンションが上がっているみたいだった。
「止めなくていいわけ?」
「止めます、止めますけれど……」
二日ぶりに見たニ柱の姿がこれだ。早苗の内部では様々な感情が渦巻いていた。
まずは、怒り。なぜかって、早苗の内部に搭載された信仰カウンターが、カタカタカタと音をたてて数字を減らしているのだ。
なんてことしてくれやがるんですか、このバ神様どもは。
「アンビリーバブルカッター!」
諏訪子の右ストレートが唸る!
「古いわァ!」
神奈子の左が諏訪子の腕を滑りクロスカウンター!
「ぐっ、やるじゃないの……、神奈子のくせに」
諏訪子は鼻の下をピッ、と某映画スターよろしく親指で払った。リズミカルなステップも刻む。
それを見た神奈子は不敵に笑った。
「久々に燃えてるからねえ、今の私には全部見えてんのよ。
ここら一帯はもう、私の身体の一部みたいなもんさ。あんたの一挙手一投足まで見てとれるわよ」
なら私に気づけよ! と早苗は横からドロップキックをぶちかましたかった。
「あははは! 楽しいねえ神奈子! とぉ!」
「まったくだあァ! せいっ!」
再び二柱の身体が交錯する。
(楽しんでやがる……っ!)
ギリリと拳を握り締めた、早苗の瞳がハイライトを失う。ゆらり……ゆらりと幽鬼のごとくニ柱に近づく。
「ちょっと、早苗?」
という霊夢の声ももはや耳に入らなかった。
こいつらは、いったい何をやってくれているでしょう……? 好き勝手遊んで……。人が頑張って集めた信仰を無為に減らして……。
っていうか私のことほったらかして……。私が一人でご飯食べて、寝て、起きたここ数日、どんな気持ちでいたと思っているのだろう……。
「八坂様、洩矢様……」
地を這うような声と共に、早苗の靴が、ざんと土を刻んだ。
二柱が気づいて、同じ方向を向く。しばし硬直。そして――。
「「ささささささ早苗さん!?」」
「さ」の数までハモるのであった。
「こんなところで、いったい何をなさっているんです……? みっともないじゃないですか、迷惑じゃないですか」
「何って、あは――あははは!」
神奈子は高らかに笑った。肘で突かれて、諏訪子も「あっ、あははは!」合わせる。
「仲直り、したんじゃなかったんですか? お二方の愛で幻想郷をピンク色に染め上げるんじゃなかったんですか……?」
顔を前髪で隠したまま、早苗はとつとつと呟く。
いつの間にやら、ヘビとカエルを模したアクセサリが、毒々しいカラフルさを帯びていた――ヤドクガエルとニシキヘビである。
「なっ、仲直り!? そ、そそそうよ! ねえ諏訪子、いや、すわちゃん!」
「そそそそその通りだよ、かなちゃん!」
と肩を組むニ柱を、早苗はちらと見た。肩と腕の距離が妙に空いている。空いた手でわき腹を殴りあっている。
白々しい……、ああ白々しい……。あなた方は、いつもそうやって……。
「貴様ら……貴様らァ……!」
「さっ、早苗落ち着いて! 違うの! これは違うのよ!」
「そうそう違う! 違うんだよ! 何が違うのかわかんないけど違うの!」
「何が違うんですか――ってそうですか、その場凌ぎなんですね」
ずんっ、と早苗は一歩踏み出す。神奈子はパーを突き出してそれを制した。
「待って! ……話をしましょう早苗。私、教えたわよね。『誰だって話せばわかる。だから行動に移す前に、まずお話をしましょう』って」
「その教えには続きがありましたよね。『まぁ話してもわかんないやつなら』」
「『殺っちまえ』……」
「なんてこと教えてんの!?」
諏訪子が突っ込んだ。
「だってあんた話してもわかんないじゃない!」
「私が対象かよ!」
わーわーぎゃーぎゃー。この期に及んで二柱はまた、取っ組み合いを始めた。
「貴様らあ、いい加減にぃ!!」
早苗のなかで、何かが弾けた。黄金のオーラが開いた腋から迸り、髪が逆立つ!
「わぁぁ神奈子! ヤバイって! ワープ、ワープ!」
「かなこはじゅもんをとなえた! MPがたりない! ――っていうか私モンクだし!」
「はぁ!? この脳筋が!」
「うるせえ! 文句言うな! なんちゃってえ!」
「死ね、今すぐ死ね! 舌噛んで死ね! なんなら私が切ってやんよ!」
「あだだだだ! あにひゅんのよこんひきしょう!」
と二柱は舌を引っ張り合う。
「いい加減にいいい!!」
早苗はスカートを握り締め、叫んだ。
「「ひゃええええ!?」」
二柱はびびった。
――が、その時。
早苗は言葉に詰まった。
「ひぐっ……」
と肩を震わせる。
「しゃ、しゃなえ……しゃん?」
諏訪子の舌を離し、神奈子は早苗に手を伸ばす。
なんだろう、と早苗は途惑っていた。鼻がツンとして、痛い。喉も詰まっている感じがする。だけど、ぐっと堪えた。
「いい加減に……帰ってきてくださいよ……」
冷たかった布団のこと。美味しくなかったご飯のこと。色々なことが思い出された。
寂しかった、と恨みがましくつらつらと伝えてもよかった。けれど、抑えた。それを言うのは傲慢で、自侭な子供と変わりない、と思う。
それでも、気持ちを抑え切れなかった。なにより、嬉しかったのだ。
ニ柱の姿は、いつも通りで、ずっと見てきた姿と何ら変わりなくて、それが早苗を喜ばせてもいた。
帰ってきて欲しい。自分の未熟さゆえの言葉だろう。いつまでも一緒にいられる保障なんてどこにもない。
明日には散り散りになっているかもしれない。その覚悟は持っておかなければならない歳だ。
でも、だからこそ、と早苗は思う。少しでも長く一緒にいたい。そう願うのは、ワガママなのでしょうか……?
嬉しさと一緒に、やり切れない気持ちが溢れて、ろくな言葉に出来なかった。
「…………」
二柱には声もなかったが、まず、神奈子が動く。
「早苗!」と抱きしめた。
「やっ、八坂様……?」
強い抱擁だった。懐かしい感覚に、早苗は少し落ち着く。
「ごめんなさい。一人にしちゃって、本当にごめんなさい。
約束したのにね、家族でいるって」
「……八坂様」
腕を通して、神奈子の気持ちが伝わってくるようだった。言葉にしなくても、自分の気持ちは伝わったんだ、と思えた。
「全ては諏訪子、いや、あの両生類が悪いのよ。考えてみたらアイツと仲良くなんて出来るはずなかったのよ。
だってアイツらの卵って殻に包まれてないのよ? ねっ、気持ち悪いわよね! ねー!」
ところがこの、空気の読めない責任転嫁……。だけど、いつもの八坂様だ、と早苗は思う。
諏訪子が動いた。「待てぇい!」と神奈子の背にタックルをかまして、
「「わああ!?」」と吹っ飛ぶ一人と一柱。諏訪子は神奈子を踏み台にして「私を踏み台にした!?」早苗を神速で空中キャッチ。
そして、お姫様抱っこで言うのだ。
「早苗、ごめんね。アイツに唆されてあんたのことほったらかしにしちゃってさ。全ては神奈子が悪いの。
知ってる? アイツらって周りの気温に合わせて体温が変わるんだよ。ほんと節操がないったらありゃしない。付き合ってらんないわ」
「洩矢様……」
それはカエルも同じです、と突っ込みたいところだったが、我慢した。
「なんだとぉ! てめぇコラ早苗を離せぇ!」神奈子が飛びつく。
「嫌だねー! 一億積まれたって離すもんか!」諏訪子はひらりとかわした。
「単位は何よ!?」
「ガバス!」
「それって安くない!?」
諏訪子の腕のなかで、がっくんがっくん揺さぶられながら、ああ、結局これで元の鞘か、と早苗はぼんやり考えていた。
でも、やっぱり私たちはこうでなくっちゃ、と楽しくもあった。
いつの間にか殺伐さを失っていた二柱と一人のやり取りは、見世物としての価値を失ったのか、潮が引けるように見物人を失っていた。
『なんでえ、結局ラブコメかよ』なんて声もあった。
そこへ、思いっきり蚊帳の外だった霊夢が残る。
「ねえ!」とよく通る声を出した。ドタバタがピタりと収まった。「一件落着なんでしょ? あたし、もう帰るから」と背をむける。
「あ、霊夢さん!」
早苗は慌てて降りようするが諏訪子がなかなか離してくれないので、ちょっとキツめのビンタをして振りほどいた。
「あのっ、今日はありがとうございました!」
早苗は深くお辞儀する。霊夢は半身になって、
「……? 別に何もしてないけど? むしろおごってもらったの、私の方だし」
「理由は言えない、っていうか言いたくないだけなんですけど、とにかくありがとうございました!」
ほらっ、あんたたちも! と二柱にまで頭を下げさせる早苗だった。
「よくわかんないけど、早苗が世話になったみたいで、ありがとね」
「ありがとー」
霊夢は複雑な顔をしていた。謂れのないお礼に、戸惑っていたのかもしれない。
「じゃあ、まぁ、どういたしまして」
霊夢は背を向けて、片手をひらひらさせた。そのまま飛び去っていく。
夜の空だった。ああもう、こんな時間だったんだ、と早苗は気づく。
背後にこちらを伺うような視線を感じて、振り返った。
「八坂様! 洩矢様!」
二柱をキッと睨む。
「「ははははい!?」」
二柱は鉄のように固まった。
それを見た早苗は、ふっと笑った。久しぶりに、根っこから笑えた気がして、
「楽しかったですか?」と訊ねた。
「え、あ、うん。そこそこ……かな」神奈子は照れたみたいに頭をかいた。
「まぁ、悪くはなかったね」諏訪子はそっぽを向いて言う。
「それじゃ、帰りましょう! 私たちの神社に!」
早苗は元気よく両手を上げた。
二柱は一瞬呆気にとられたようだったが、やがて顔を見合わせ、くすくす笑う。
「そうだね、帰ろうか」と神奈子が言うと、
「あんたは別に帰ってこなくても――」諏訪子は何か言いかけたのだが、
「今日ぐらい、憎まれ口はやめとこうかねえ」とポケットから何か取り出して、掲げて見せた。
「この結婚指輪に免じて」
諏訪子はにやけた顔を早苗に向ける。
(……?)
早苗には、ただの空き缶のフタにしか見えなかった。
「なんですか、それ?」
「あら、早苗、覚えてないんだ」と諏訪子は驚く。
「無理もない。こーんなにちっちゃかったし」
神奈子は自分の腰の辺りを手で示しながら、笑っていた。
「え? え?」
早苗には何が何やらわからない。二柱の顔を見る限り、自分はどうやら、からかわれているらしい、ということだけわかった。
「えっと、どういうことです?」と訊いてみるのだが、
「知らぬが花ってやつよ」
「知らぬが仏、じゃないの?」
「神様がそれを言うかね」
「かぁー、神奈子は相変わらず細かいねえ」
はぐらかされてしまった。
(まぁ……、でも)
そんなことよりも、今日は『おやすみ』を言って眠れそうだということが、早苗は嬉しかった。
久しぶりに川の字になるのも、今日ぐらいはお願いしても良いだろう。
それにしても。
諏訪子が持った缶のフタ――結婚指輪とやら――が、ぼんやりとした星明りの下でも、早苗には妙に、光って見えたのだった。
―――
いつものように、ふらりふらりと飛びながら、今日は嘘ばっかりだったなあ、と霊夢は考えていた。
あの丼物屋で早苗に言ったこと、全部が全部とはいわないが、嘘八百もいいところだった。
右手を見ると、今日は満月、一歩手前だ。雲が多いのか、輪郭がぼやけてしまっている。
この冴えない月みたいに、生きていくなかで寂しさを感じることは、呑気な自分にだってあった。
朝起きて雨だった時。日が落ちるのが前の日より早くなった時。米びつが空だった時……は違うか。
現に、守矢一家があーだこうだと騒いでいた時、霊夢はなんだか居たたまれなかった。
疎外感、だなんて大げさなものではないけれど、心が、なんだか弱くなる気がしていたのだ。
あの、胸に錆びが付くような感じは、いつまで経っても慣れないし、慣れたいとも思わない。
その方が人間らしいじゃない? と霊夢は誰かに言ってやりたかった。言わないけど。
「むーん」と一人、唸った。
なんとなく始めたことだけれど、里で小間使いみたいなことをしているのも、その辺に理由があるのかもしれなかった。
動き回っていた方が楽な時もある。……お菓子とか貰えるし。
「でもなー」
なんつーか、そんなに深刻な話じゃないのだ。
ことりことり、と寂しさは、積み木みたいに重なっていくけれど、辛く思ったことはあまりない。
昔からそうだった。胸のなかの風船が張り裂ける前に、空気を抜かれているような感覚が、霊夢にはある。
「なんでかなー」
「なにがだ?」
いつの間にか隣では、魔理沙が飛んでいた。黒い部分は闇夜に溶けて、金の髪と白いブラウスだけがキラキラしている。
魔理沙が一番輝く時間が、今なのかもしれない。
――そう、何かとタイミングが良いやつなんだ、こいつは。
「あんた、いつからいたの」
「さっきから、ずっと」にっと笑った魔理沙の顔は、どこか嫌らしい。「面白い顔してたぜ」
やはり言われた。
「見世物じゃないわよ」霊夢は顔をそらす。
「大丈夫、残念ながらもう、いつもの顔だ」
そのまま二人、歩くぐらいの速度で飛んだ。霊夢には一番気持ちの良い速度だが、魔理沙は右へ左と落ち着きなく、飛び難そうだった。
「あんた、何しに来たのよ」
「良い月だろ?」魔理沙は月を指差す。
「そうでもないわ」
「私はこれぐらいが、一番好みだ」
「だから何よ」
「屋根に寝転がって、月を見てたんだ。そしたら変なのが飛んでから、追っかけてきた」
「答えになってないし、何よ、変なのって」
「言葉通り」
魔法の森の上を通る時は、魔理沙のことを考えないでもなかった。少しだけ、本当に少しだけ。
それから二人、いつも通り、何の意味もない会話をする。明日は雨なのか、晴れなのかで激論をかわした。
晴れに決まっている、と魔理沙は主張して譲らなかった。
どっちでも良いし、明日になればわかることよ、と霊夢は打ち切ろうとするが、それじゃ困る、と魔理沙はしつこい。
(あれ、何だっけ……? 何考えてたんだっけ)
そうこうしている内に、霊夢は色々と忘れていた。頭のなかを引っ掻き回していたものが、綺麗さっぱりなくなっている。
覚えていることといえば、早苗と散歩したこと、守矢の二柱がどうだこうだということ、それと、魔理沙に感謝したこと、ぐらいだった。
(感謝……?)
何に対するものなのか、自分でもよくわからないのだが、まぁ感謝しているのなら礼を言っておくか、と霊夢は思った。
「魔理沙」
「今日はやる気のない雲だったろ? だから明日はどっかに行ってるさ、ってなんだ?」
「ありがと」
「え?」
魔理沙はきょとんとするのだが、
「ありがとう。感謝してる。愛してる。結婚しましょう」
と霊夢はお構いなしなのだった。ノリに任せて言葉を紡ぐ。
「まりさーだいすきーだいすきー」
「あ、愛し……だいすき……? な、な、なんなんだぜ?
風邪でも引いたか? お前が風邪引くのはあの言葉に反するだろう? 自重しておけよな」
強がってるけどこいつ、斜めって飛んでるし。これはテンパってるな、と可笑しかった。霊夢は追い討ちにかかる。
「まりさー」
「な、なんだよ!?」
魔理沙はさっきから、「なんだ」ばっかりだ。
「明日さあ。二人でどっか遠いところに行こうか。今からでもいいけど」
そういう気分だった。二柱が、えーっと、なんだっけ、何かやってたんだよね。あれをこいつとやってみるのも悪くないんじゃないか。
「は、何しに?」
魔理沙は耳まで赤い。ゆらゆらと蛇行している。
「ええっと、そう、そうだ、あれよ」
霊夢は思い出して、それはもういつも通りの顔で、こう言った。
「ハネムーン」
うわごとのように「な」を繰り返し、目をぐるぐる回しながら、魔理沙は墜落していく。
面白いやつだなあ。
こいつがいるから、あれこれ考えないでいられるのかも、と霊夢はその間を楽しむように、ゆるゆると魔理沙を追いかける。
季節は春。
髪とリボンを揺らす風はもう、冷たくなかった。
<了>
御爺さんが変な光景を見てるよ!?
口から出てくる言葉にはさすがに笑いました。お見事です。
霊夢が魔理沙にかけた言葉も見事に魔理沙を撃沈させるし
最初から最後まで面白いお話でした。
桁外れのドタバタと微かなペーソスだけでも大満足でしたのに、
ラストは霊夢と魔理沙の素敵な掛け合い♪
更に後書きで‥この先の騒動が楽しみ‥あ、いえ、心配です。
笑転げながらも爽快な読後感。ありがとうございました。
家族と長いこと紡いできた物語が、どれだけ日常生活に彩りを与えていたことか。
回想の、喧嘩していた二柱に早苗さんが缶詰め指輪をわたすあたりでじんわりきました。
早苗も霊夢も等身台で、感情移入しやすかったと思います。
読めて良かった。
このあとアリスを交えて三人でハネムるんですね。わかります。
くだらないことでいちいち喧嘩できる守矢一家が妬ましい。
このコメント書き終わったら、俺、実家に電話するんだ…。
コメディタッチとシリアスタッチのウエハースや~!
……何が言いたいかというと、さっくさく軽く進む展開、好きですよ。
めまぐるしい展開に心躍って読む手が止まりませんでした。
いや、とにかく面白かったです。
そして魔理沙とアリスで、楽しい夜をwww
テーレッテー!
あと、日本じゃあまり気にすることでもないんですが・・・・・・
アッラーアクバルはあまり軽々しく言うべき言葉ではないので気をつけて下さいね。
まさか霊夢に流れるなんて思いもよりませんでした。
とても楽しかったです!
点数入れ忘れました。
とってもいい作品でした。
家族に会いたくなりました。
そして、着地点がレイマリとは予想外。それも含めてこの点数。
気軽に話せる存在って良いよね!
一人でのモンハンは寂しすぎるwwww
だが待ってほしい
早苗(の先祖)はその殻に包まれてない卵かr