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『なあ、レミリアって優しいのか?』
私は霧雨魔理沙の言葉を思い出していた。
霧雨魔理沙とは私――フランドール・スカーレットの数少ない友人の一人であり、人間の友人である。この日、魔理沙は珍しく、門番長の紅美鈴を弾幕ごっこで吹き飛ばさずに、ちゃんとした手続きを踏んで紅魔館に入ってきた。魔理沙本人の言葉だから、完全に信じることはできないが、轟音が聞こえてくることはなかったし、たぶん本当なんだろう。私は、七曜の魔女パチュリー・ノーレッジの図書館で魔道書を読んでいて、同じく図書館にやってきた魔理沙とばったりと会ったのだった。魔理沙に会うのは久しぶりだった。私達は話でもしようということで、パチュリーが普段使っているテーブルのところに座った。珍しくパチュリーは薬品の研究をする、と言って、図書館の隅にある研究室に篭っていたため、不在だった。
地底にある封じられた妖怪の街の話や、妖怪の山の上の神社で会った無意識で戦う少女の話をしながら、時間は過ぎていったが、一時間ほど経った頃だろうか、魔理沙は私にこう訊いたのだった。
『なあ、レミリアって優しいのか?』と。
レミリアとは、レミリア・スカーレット――紅魔館の主であり、私のお姉さまである吸血鬼のことである。魔理沙はときどきこんな妙なことを私達に尋ねるのだった。前には咲夜がロリコンなのか、と聞いたことがあるらしい。私は魔理沙の質問にぽかんとしてしまったが、やがてうなずいてみせた。
『うん……優しいと思うけど?』
『そうか……』
魔理沙はそううなずくと、もうその質問がどうでもよかったような顔をした。だが、私は気になって魔理沙にその質問の意図を尋ねた。
『いや、あいつのところには、咲夜とか、パチュリーとか、美鈴とか、色んな奴が集まってくるだろ?』
『うん、まあそうだね』
『あんな我が儘なのに』
『うん、我が儘なのにね』
『あんな意地が悪いのに』
『うん、意地悪なのにね』
しかめ面をして言う魔理沙に、私は苦笑しながらもうなずいた。吸血鬼としての性格からか、それともお姉さま個人の性格からかはわからなかったが、お姉さまは実際かなりの我が儘娘だった。意地が悪いのも確かで、お姉さまは無理難題を言って人を困らせて楽しんだり、悪戯をしたりと、とても子供っぽいところがあった。
『あんな我が儘で意地の悪い奴でも、下についてくる奴がいるんだからな。あれも吸血鬼のカリスマなのか?』
『あー、どうなんだろうね? でも、吸血鬼は本来、もっとたくさんの配下の妖怪がいるらしいよ?』
『へえ。じゃあ、あいつも昔はもっと部下の妖怪がいたってことなのか?』
『どうだろう? いたのかもしれないね』
『フランは知らないのか?』
『……私は地下に篭っていたから、よくわからないや』
私の言葉に魔理沙は少しだけ申し訳なさそうな顔をして、黙ってしまった。だが、魔理沙は謝らなかった。私としても謝られても困るから、魔理沙のその気遣いがありがたかった。しばらく、魔理沙はテーブルの端を睨んでいたが、やがて私に向き直って言った。
『こんなこと言うのも、あいつの名誉に関わるかもしれないけど』
『お姉さまの名誉なんて気にしてないくせに』
『仮にあいつが過去にたくさんの妖怪を引き連れていたとして、今はそいつらがいないということは、あいつの部下だった妖怪はあいつの元から離れていったということなのか?』
魔理沙の言葉に私は口を閉じた。私は別段腹は立たなかったが、魔理沙の言葉を肯定するのは、お姉さまに悪いような気がしたのだ。
お姉さまの元を離れていった――
それは、お姉さまが君主に値する器ではないことの証だということだ。
お姉さまが我が儘だったり、意地悪だったりしたから、そうなったのかどうかはわからないが――
お姉さまが人の上に立つのに、十分な力量をもっていないということになるのだろう。
しばらく私が沈黙したままでいると、魔理沙はやがて首をふった。
『いや、そんなことないよな。咲夜や美鈴、パチュリーを見てればわかる。あいつらはレミリアのことが嫌いじゃないもんな』
私は魔理沙の言葉にうなずいた。確かにお姉さまのメイド長である十六夜咲夜、門番長の紅美鈴、親友の魔女たるパチュリー・ノーレッジは確固とした自分の意志でお姉さまの傍にいるように見えた。あんな自分勝手なお姉さまの傍にいるのである。それは、お姉さまが彼女達に慕われているということの証明なのだろう。
『じゃあ、あいつにも優しいところがあるのかもなぁ』
と、魔理沙は頭の後ろで手を組みながら言った。しばらく魔理沙は天井の一点を見ていたが、やがて、私のほうに微笑んで言った。
『そういえば、フランも意外と優しいよな』
……意外と、とは何だ。意外と、とは。
私が非難する目つきで魔理沙を見ると、魔理沙は今度こそ、ごめん、と謝った。顔はにやついていたが。
『いや、フランには、どうしてか、なりふり構わず物を壊したり、妖精メイドをバラバラにしたり、って凶暴なイメージがあるからな』
『……壊されたいの?』
私がそう言って右手を開いて見せると、魔理沙は手を合わせて、すまん、と頭を下げた。やはりその顔は笑っていて、とても謝っているようではなかったけれど、私はため息をついて許すことにした。
『あくまで、イメージだって。イメージ。私は、目の前にいるおまえをそんな風に捉えちゃいないさ』
『まあ……そうだよね』
……実を言うと、私も自分に対してもっているイメージは、魔理沙と同様によくないことがあった。暴走する破壊の力。死を弄ぶ狂った少女。なぜか、私も自分をそんな存在のように思ってしまうときがあるのだった。別の世界の私がいるとしたら、そんな私もいるのかもしれない。そう思う度に、私は――もしかしたら存在する彼女達には悪いと思うが――悪寒を感じるのだった。まあ、この世界の私も十分、頭がおかしいのだけれど。暴走したりしてモノを壊すこともないわけではない。
暴力だとか、殺人だとか、人を傷つけることは嫌いなのに。
不安そうな顔をする私に、魔理沙は慰めるように言ってくれた。
『大丈夫さ。それにおまえだって、そんな頻繁にその破壊の能力を使ってるわけじゃないだろ。メイド妖精の様子を見る限りじゃ、おまえはメイド妖精をバラバラにしてるわけがないし、最近では普通に人に会える程度には落ち着いてきてるじゃないか。だから、安心しろよ』
魔理沙は微笑んで、私の頭を撫でた。お姉さまとは違う乱暴な撫で方だったけれど、不愉快には感じなかった。私の髪の毛をかき回しながら、魔理沙は苦笑して言った。
『まあ、初対面の人に、初めましての挨拶代わりに弾幕ごっこを挑むのはどうか、と思うけどな……』
その言葉を聞いて、私は自分の顔が赤くなるのを感じた。
『いや、それは、その……』
私は必死で弁解しようとするが上手くいかなかった。まさか、人見知りのあまり、恥ずかしくて攻撃してしまった、なんて言えるわけがない。霊夢や魔理沙たちとの初対面が弾幕ごっこだったから、頭が真っ白になると、つい弾幕ごっこに走ってしまう傾向が私にはあったのだ。魔理沙は、わかったわかった、と言って、私の髪を撫で続けた。私は魔理沙の子ども扱いする態度が気に入らなかったが、許すことにした。
『でも、最近はその癖もなくなってきたみたいだし、人見知りも直ってきてるぞ。フランはちゃんと成長してるって』
魔理沙は優しげな微笑を浮かべながら続けた。
『後は、私が本を盗みに入ってきても、注意しないで見逃してくれるようになれば……』
『それはだめ』
何、良い雰囲気のところで、無茶苦茶な要求をしているんだ、この白黒は。図書館の本はパチュリーのものなんだから、勝手に持って行っていいはずがなかった。私の言葉に魔理沙は唇を尖らせてみせた。
『ケチ』
『ケチじゃない』
『頑固』
『倫理を守る人間――吸血鬼のことを頑固とは言わない』
『ガリ勉』
『なんだか、小学生の悪口みたいになってきたね……』
『ドロワーズ』
『貴様も、お姉さまみたいなことを言うか』
『実は履いてない』
『履いてるってば』
『履いてないなんて、フランは痴女だな』
『だから、履いてるっつーの』
その後、私と魔理沙は弾幕ごっこをした。いつもどおり、戦いの結果は引き分けに終わった。
お姉さまは優しい。
誰がお姉さまの悪口を言おうとも、私はこの事実を信じているつもりだった。
お姉さまは確かに、私を地下室に495年間も閉じ込めていたが、その代わり、私が寂しがらないようにずっと励ましてくれた。私を元気付けることを考えてくれた。495年の地下生活で完全に私の心が壊れてしまわなかったのはお姉さまのおかげだった。
地下室から出ても、お姉さまは私のことを考えてくれていた。こうして、紅魔館の中を自由に歩けるのはお姉さまが許してくれているからだし、私の生活リズムを自由にさせてくれているのもお姉さまの考えによるものだった。人里の寺子屋の先生を家庭教師につけてくれようとしたこともあった。お姉さまが優しいというのは、私にとって暗黙の事実だったのだ。
だが――
実際は、どうだったんだろう。
お姉さまは確かに私には優しくしてくれる。
だが、その他に対してはどうだったんだろう。
咲夜や美鈴、パチュリーに対するお姉さまは優しかった。我が儘や意地悪で彼女達を困らせることもあったけど、思いやりの気持ちを決して忘れなかった。それは妖精メイドたちに対しても同じだった。お姉さまは主君として妖精メイドたちのことも気遣う様子を見せていた。
私が知る限りのお姉さまはいつも優しかった。
少なくとも、私の知る限りの。
紅魔館の中でのお姉さまは――
あるいは、幻想郷の中でのレミリア・スカーレットは――
私に対して優しいのならば、お姉さまがそのほかの人間に対して優しくなかろうと、そんなことはどうでもいい――理性ではわかっているのだが、どうしても私はその覚悟を受け入れることができなかった。お姉さまが私に対して優しくしてくれるなら、当然、他の人に対しても優しいのだろう、と私は思い込んでいたのだ。
私にとって、お姉さまとは優しくて強い存在だったのだ。
だが、今――
その気持ちが崩れようとしていた。
いつものことのはずだった。
魔理沙を見送った後、私は自分の地下室に戻り、お風呂に入って着替えた。
そして、服を取り出すためにタンスを見てみたところ、タンスの引き出しのところに取り付けてあった赤い糸が切れていた。
万が一、というより、確定的にお姉さまが私のドロワーズを漁ったときに気づくことができるよう、私はタンスの引き出しに赤い糸のトラップを張っていたのだった。
ああ、またやったのか、と私は天を仰いだが、当然、見過ごすわけにもいかなかった。私は手早く着替えてお姉さまの部屋に向かった。
本当に、それだけのつもりだったのだ。
またいつものようにお姉さまと追いかけっこをして、弾幕ごっこをして、仲直りして――
それだけのはずだったのだ。
何も考えず、私はお姉さまのドアを開けた。
いつものように、そこには下手な演技をして誤魔化そうとするお姉さまがいることを期待して、私はお姉さまの部屋に入った。
けれども、
お姉さまの部屋にいたのは、
いつもとは似ても似つかぬ冷酷な顔をした美鈴と、
感情を全て殺したような顔をして控えている咲夜、
脳漿をぶちまけて倒れている死体、
手足をロープで縛られて転がっている見知らぬ女性、
そして――
闇夜のような、全身の血が凍ってしまうほど冷たい表情で、見知らぬ女性を足蹴にして睨んでいるお姉さまだった。
一瞬、部屋を間違ったのかと思った。間違えて、お姉さまの部屋じゃないところに来てしまったのかと。私は間抜けにも、全く想像だにしなかった部屋の中の光景に頭が真っ白になっていた。
ドロワーズ泥棒の部屋に乗り込むのだ。ドアをノックする奴なんていないだろう。私も同じようにノックすることなどなく、思いっきりお姉さまの部屋のドアを開けていた。
そんな私の目に最初に飛び込んできたのは、部屋の概観としての異様。ただ、日常と絶対的に違うということを示唆する警戒色だった。私はまず、今まで触れることさえなかった世界に足を踏み入れかけていることに気づいたのだった。
一刹那遅れて、次に目に入ったのは、お姉さまの顔だった。お姉さま、咲夜、美鈴――そして、縛られている女性、頭の上半分がなくなっている死体のなかで、一番私の近くにいたのはお姉さまとお姉さまに踏みつけられている拘束された女性だった。私の目はまずお姉さまの顔を映した。
それは今まで私が一度も見たことがない表情だった。喜んでいるときでも、怒っているときでも、悲しんでいるときでも、楽しんでいるときでもない。なんと表現していいのだろう? 何しろ、初めて見るお姉さまの表情だから、それを説明できる言葉がしばらく浮かんでこなかった。だが、数秒の後、私の本能――おそらく、血に飢える吸血鬼としての、獲物を狩る消費者としての本能、そして、時には自分もまた天敵に襲われるだろうことを恐怖する本能が、この上なく正しいと思われる推定をつけてくれた。
――殺すときの表情。
お姉さまは獲物を――あるいは敵を殺すときの顔をしていた。
私はお姉さまの心臓をすり潰すような顔から目が離せなかった。
「フラン……?」
敵を見ることに集中していて、お姉さまは私の来室に気づかなかったのだろう。しばらくお姉さまは足蹴にしている女性に殺すような視線を向けていたが、気配を感じたのか、顔を上げて、ドアのノブを握ったまま固まっている私を見た。すると、お姉さまの冷たい表情は、まるで嘘だったかのように融けていき――代わりに信じられないことが起こったような、驚愕に染まった顔をして、間の抜けた声で私の名前を呼んだのだった。
私とお姉さまはしばらく見つめ合っていた。
私は思った。なぜお姉さまがそんなことをしているのだろうか。
そして、たぶんお姉さまはこう思っただろう。なぜ私がそこにいるのだろうか、と。
私とお姉さまは二人して自分の疑問に縛られて固まっていることしかできなかった。
「ええっと、これはその…………」
やがてお姉さまは誤魔化すように笑った。いつもの下手な演技でお姉さまは笑った。
「いわゆる……あれよあれ。SMプレイって奴よ」
あははは、とお姉さまの乾いた笑い声だけが虚しく部屋の中に響いた。お姉さまの数歩後ろで控えていたメイド長の十六夜咲夜が静かに目を伏せた。門番長の紅美鈴はやれやれとでも言いたげに、頭を掻く。
どうして、こんな状況になっているのか。
私は言いようもない衝撃と恐怖に心を乱されていたが、何とか自分を奮い立たせて、お姉さまに尋ねた。
「……えっと、とりあえず訊いていい、お姉さま?」
一瞬ばつが悪そうな顔をするお姉さま。だが、お姉さまはすぐに、いつもの微笑をなぞるように笑って返事した。
「ええ……いいわよ、フラン」
私は頬が引きつるのを何とかこらえながら、恐る恐るお姉さまに尋ねた。
「……その人、誰?」
「ああ、この人? この人はね?」
お姉さまは足蹴にしている女性を一瞥し、相変わらず誤魔化すように笑って言った。
「SMプレイの相手よ」
子供さえだませないような嘘だった。
「へえ、そうなの……」
「ええ」
「妖怪……じゃないよね?」
私の質問にお姉さまは一瞬、言葉に詰まったが、また強いて微笑みながら言った。
「ええ、人間よ」
「そうなんだ……」
私がうなずいてみせると、お姉さまは硬い笑顔で、ええ、そうよ、と言った。お姉さまはそれ以上のことを言おうとはしなかった。まさか、本当にSMプレイなわけがないだろう。とにかく、私はお姉さまが今、この人間の女性に何らかの激しい暴力を加えているということはわかった。
何らかの激しい暴力。
では、一体何のために?
私はお姉さまに足蹴にされている女性に目を向けた。女性は教会の修道服を運動着に作り直したような黒い服を着ていた。服のところどころに十字架をモチーフにしたと思われる意匠がついている。縄で手を後ろ手で、足は足首のところで縛られていた。猿轡はしていない。私は女性の服装を確認してから、彼女の顔に視線を送ったが、彼女は私に視線を合わすこともなく、また、何も喋ろうとしなかった。ただ、苦しそうな、痛そうな顔で荒く息をするだけだった。歳は咲夜と同じくらいだろうか。それ以外わかることがなかったので、仕方なく、私はお姉さまの顔に視線を戻した。お姉さまは私を警戒しているかのように、ちぐはぐな微笑をやめなかった。
私とお姉さまが沈黙したままでいると、お姉さまに踏みつけられていた女性が、身体をよじった。お姉さまの足が女性の身体から外れる。すると、お姉さまは笑うのをやめ、また闇夜のような禍々しい表情に戻った。
そして、女性の胸に蹴りを入れる。
女性の身体が吹っ飛び、壁に衝突した。女性は胸を蹴られた痛みか、壁に背をぶつけた衝撃か、苦しそうに呻き、激しく咳き込んだ。背を丸め、苦悶に耐えているようだった。私は頬が引きつるのを感じていた。悲鳴を出さなかっただけよく耐えたものだと自分でも思う。この女性を蹴り飛ばすとき、お姉さまは手加減したのだろう。吸血鬼の本気で人間の身体を蹴ったら、それこそ胸の真ん中を境に上下に分裂していただろうから。お姉さまはつかつかと倒れている人間の元まで歩み寄っていき、女性の頭の上に足を置いた。
「誰が動いていい、と言った、人間――?」
お姉さまの地獄から響いてくるような声に私は、胸を強く締め付けられるのを感じた。そして身体ががたがたと震えだす。そんな私の様子などお構いなしに、お姉さまは女性の頭を強く踏んで地面にこすりつけた。
「私はいつでもお前を殺せるし、殺してもいいんだし、殺したいと思っているんだ。よく覚えておけよ、人間」
お姉さまの瞳はまるで沸騰した血のように紅かった。しばらくお姉さまは人間を睨みつけていたが、まるで飽きたとでも言うかのように長い息を吐くと、顔を上げて私のほうを見た。お姉さまはもう無理な笑顔などせず、諦めたような、寂しいような微笑を私に向けていた。
「……それで、フランは何の用事で私の部屋に来たのかしら?」
その声に、思わず肩が大きく震えてしまった。お姉さまの声は優しい声だった。それなのに、どうしてか私はお姉さまの声に首を絞められるような感じさえを覚えていた。
「その……私のドロワーズを返してもらおうと思って」
私がそう言うと、お姉さまは「ああ」と思い出したように声を漏らした。「そうだったわね」とお姉さまは力が抜けたように頬を緩めた。
「ごめんなさい、フラン。後で咲夜に届けさせるわ。申し訳ないけど、フランからの私へのおしおきは後でにしてもらえるかしら? 自分勝手だけど、許してちょうだい」
お姉さまはそう言って、私に頭を下げた。普段のお姉さまではありえなかった。いつものお姉さまなら、「ばれちゃ仕方ねぇ!」とか言って、バッドレディスクランブルで即、逃避を図るだろうに。それなのに頭を下げて謝るなんて、ありえないはずだった。
いや、ありえるのだろう。
この日常とは違う世界では――ありえるのだろう。
私はお姉さまから数歩離れたところ――窓際に倒れている死体に目をやった。
鼻の真ん中から上が、絨毯の上にぶちまけられていた。緋色の絨毯は黒く濡れ、さらにその上に血が半分混ざった吐瀉物のような、頭の上半分の残骸が広がっていた。
胸が気持ち悪くなるのを必死で抑える。思わず、手を口元に運んだ。喉の奥に苦い味がいっぱいに広がるのを感じていた。
吸血鬼の癖に情けない。
自分でもそう思うが、よく思い出してみれば、死体を見たことなんてこの500年間、ほとんどなかった。確かに私は食事として人間の血を食べているけれど、それは全部、作ってもらった料理に含まれているだけで、実際に私が生きている人間を襲ったことなんてないのだった。妖怪の死体を見たこともほとんどない。精々、本の写真で眺める程度だ。だから、私は人間――人間に限らず、動物の死体を目にするなんて、数えるのに片手の指で足りるほどしかなかった。
お姉さまは私の様子を見て、申し訳ないように眉を曲げた。後ろを振り返り、咲夜のほうを見る。
「咲夜」
「はい」
「悪いけど、『それ』、片付けておいて」
「……かしこまりました」
お姉さまが咲夜に視線で死体を示した。瞬きを一回した後にはすでに、死体も、絨毯の上の脳漿もなくなっていた。恐らく咲夜が能力で時間停止をしている間に片付けたのだろう。さすがに絨毯に広がった黒いしみまでは取りきれなかったようだけど。私は咲夜の表情を伺ったが、咲夜は何もなかったかのように涼しい顔をしているだけだった。美鈴もつまらなそうな顔をして、お姉さまと女性を眺めているだけだった。
――どうして、皆、そんなに冷静なの?
違和感が頭を激しく揺すった。どうして、皆そんなに平気そうにしているのか? おかしいと思うのは私だけなのか? 私だけがこの世界に取り残されているのか? 違和感を超えて、私は理不尽ささえ感じ始めた。もっと言わなければならないことがあるだろうと、私は心に鞭打って言葉を探す。だが、喉のところまで声は出掛かっているのに、その言葉は口から出てくることはなかった。
「フラン、それで用事はお終い?」
お姉さまの言葉に、私はまた身体を震わせた。それを見たお姉さまの目がわずかに細められる。お姉さまは夕焼け空のような優しい微笑を浮かべ続けていた。
お姉さまの言葉にうなずいてしまえば、私は楽になれるような気がした。今あったこの一件は何かの夢だったとして、忘れることができたような気がした。
だが、
「お姉さま、用事――というか、訊きたいことができたんだけど……」
私はすでにその言葉を口にしていた。舌の上まで出掛かっていて、それでもなお出なかった言葉を話していた。言った次の瞬間、後悔が血しぶきのように噴き出した。同時に逃げ出したくなるような恐怖が私の身体を縛っていた。お姉さまが口元に手を置く。その仕草でさえ今の私には、裁判官が死刑を言い渡すために振り下ろす木槌のように恐ろしかった。お姉さまは、ふう、とため息をついた。
「フランには知られたくなかったんだけどなぁ……」
お姉さまは諦めるような声でぼやいた。
「フランだけには知られたくなかったんだけどなあ……」
お姉さまの口ぶりは私の次の言葉を知っているかのようだった。優しく寂しげに笑うお姉さま。そして、その間中もずっと、お姉さまの足は女性の顔を踏みつけていた。あまりにちぐはぐな光景に私はめまいすら感じていた。
「そう……じゃあ、その訊きたいことって何かしら?」
お姉さまは柔らかい声で尋ねた。紅い瞳が私に向けられていた。私はつばを飲み込み、その視線を受ける。乾いた口を動かし、勇気を振り絞り、私はお姉さまに尋ねた。
「……ここで、何をしてるの?」
「…………」
「……SMプレイなんかじゃ、ないよね……」
「…………」
「お姉さまはどうしてその女の人を……踏んだりだとか、蹴ったりだとか……しているの?」
私の言葉にお姉さまは答えなかった。私から視線をそらして、逃げるかのように見えた。否、お姉さまは明らかに私の質問から逃げているのだった。お姉さまのその姿はまるで叱られている子供のようだった。しばらく沈黙が部屋を支配した。咲夜は相変わらず、石像のように表情を凍らせたまま、直立不動の姿勢を保っていた。美鈴は、やれやれとでも言いたげに前髪をいじっていた。どれほどの時間がたっただろう。この部屋の粘着質の空気が時間の流れを淀ませているかのように、一秒一秒が長く感じられた。だが、お姉さまがついに口を開いた。視線は逃げることなく、私に真っ直ぐに向けられていた。
「質問に答えるわ、フラン」
お姉さまははっきりとした声で言った。「こいつはね」とお姉さまは地獄の釜の火のような紅い瞳で、女性を一瞥すると短く言った。
「敵なのよ」
お姉さまは、怒るように、憎むように、呪うように、そして――諦めるように言った。
敵。
私は一瞬、お姉さまが何を言ってるのかわからなかった。『敵』というと、あれだろうか? 弾幕ごっこで戦って、そして、相手に自分の意志を伝えて、その後は何の恨みつらみもなし、という――。じゃあ、どうして、お姉さまは弾幕ごっこをするのでもなく、その女性を足蹴にしているのだろう?
「――それは敵とは言わないのよ、フラン」
お姉さまはため息をつくように言った。「敵というのはね」とお姉さまは初めて箸を使う子供に教えるように話し始めた。
「本当の敵というのはね――弾幕ごっこじゃ解決できないものなのよ」
「そうだったら、どれだけ気が楽なものか――」とお姉さまはぼやくように言ったが、やがて呆れるように笑った。
「やれやれ、私もこんなことを言ってるなんて、ぼけたものね」
お姉さまは髪を掻きあげて、自嘲するように呟いた。お姉さまは「……どこから説明しようかしら?」と腕を組んで絨毯を睨んでいたが、やがて、考えがまとまったのか、私のほうに視線を戻して言った。
「『教会』って知ってるわよね、フラン?」
――『教会』。
聞いたことがある――というか、吸血鬼ならば知らない者はいないだろう。私も本やお姉さま、パチュリーから話を聞いたことがあった。
外の世界で主流を成している宗教、キリスト教をまとめる宗教団体だという。キリスト教にも宗派は様々あるが、その中でも『カトリック』と呼ばれる宗派が一番大きいという。
そして、カトリックこそが、永年に渡り、吸血鬼を敵として抗争を続けてきた集団だという――
「まあ、カトリックの中でも、さらに色々な集団に分かれるんだけどね……。平和主義から闘争主義、現世主義から魔法主義――本当にたくさんあるのよ。この女は、一つの闘争主義、魔法主義の細胞の――特務部隊かしら? まあ、吸血鬼ハンターね。それがご苦労さんなことに、ついさっき私を殺しに来たのよ」
お姉さまは女性の顔を踏む力をこめた。女性が苦悶の表情を強めて呻く。お姉さまはそれを冷たい視線で盗み見ると、説明を続けた。
「あっさりと返り討ちにしてあげたけどね。ちなみにこの女は二人目。一人目は頭半分なくしてそこに倒れてた男ね」
「後ろを取ったくらいで、殺せると思ったら大間違いなのよ」とお姉さまはつまらなそうに言った。だが、そう語るお姉さまの顔には同時に何かを楽しんでいるような陰が見えた。お姉さまの楽しそうな姿が私をより強く怖がらせた。お姉さまは私の心情などにかまうことなく、話し続けた。
「まだ二人しか見てないけど、幻想郷に来るには、こんな魔術も使えないような下っ端二人ではとても不可能だわ。当然、この二人を支持している組織がある。そして、その組織も幻想郷に潜り込んでいる可能性が高い」
「だから、」とお姉さまは言った。
「その組織自体を潰さなきゃならない。そのためには、場所と人員の特定が必要。というわけで――」
一瞬、お姉さまは私の顔を見て口ごもった――口ごもったが、すぐ何のことでもないように言った。
「こいつを軽く拷問してたのよ」
――拷問。
なんてぼんやりとした言葉なんだろう。小説で見たことのある言葉だった。私は魔道書だけでなく、推理小説や冒険小説などの外の世界の小説を読むことがある。そんな本にたまに拷問という単語が出てくることがあった。パチュリーの世界史の授業でも習ったことがあった(もっとも、パチュリーは『こんな野蛮なもの知らなくていいわ』と言って、ほとんど飛ばしていたのだが) 。私は拷問というものがどんなものか一応知っているつもりだった。
だけど、本当に拷問というものを見たのはこれが初めてなわけで――
こんなに痛ましいものなんだ、と思った。
拷問という言葉は、こんなに恐ろしいものなんだ、と思った。
呆然としている私をよそに、お姉さまは喋るのをやめなかった。
「咲夜に比べれば、全然脅威というほどのものじゃなかったけど、準備はしっかりしてきているみたいね。気配と霊気を消し、さらには光学迷彩まで可能な結界が縫いこまれた服、純銀製の対吸血鬼専用の槍――なかなか見事なものだわ。結界の服は最高級品ね。私でさえ、部屋に入ってくるまで気づかなかったもの。槍もいい武器だわ。三十本くらい刺されれば、いくら私でも無事ではすまないでしょうね――」
お姉さまの声に、私は戦慄していた。
お姉さまはもはや楽しんでいる様子を隠そうとしなかった。今まで私に遠慮して見せないようにしていたのだろうが、お姉さまは活き活きと話し続けた。自分が殺されるかもしれないという状況で愉快そうに相手の武器を賞賛していた。
私は改めてお姉さまの表情を盗み見る。
殺す者の顔だった。
「それで――」
私はお姉さまの声を遮った。私はうつむくことしかできなかった。こんな恐ろしいお姉さまの顔を見ていたくなどなかった。私は歯を食いしばりながら言った。
「お姉さまはこれから、どうするの?」
私の言葉にお姉さまは喋るのをやめた。『もちろん、拷問を続けるつもりだけど?』とお姉さまが不思議そうな声で答えるのを期待して――まさか、期待などしていない。期待はしなかったが、予想していた。だが、意外にもお姉さまは――
「……フランは私にどうしてもらいたいのかしら?」
と、穏やかな声で私に尋ねた。その声に私は顔を上げる。お姉さまの微笑が目に映った。もうお姉さまは殺す者の顔をしていなかった。いつもの優しそうなお姉さまがそこにいた。
安心した。
ただ安心した。
胸につかえていたものが少しだけ軽くなった気がした。
私はお姉さまにどうしてもらいたいか――
私はとにかくこの非日常を消し去ってしまいたかった。私の知る紅魔館はこんな刺々しい感情の吹き溜まりではなかった。私は自分の家でこれ以上恐ろしいことが起こるのに耐えられなかった。
だが、私が口を開こうと意を決したとき、
強い視線を感じた。
私は思わずお姉さまから視線を外し、そちらのほうに目を向けてしまった。
――美鈴だった。
普段、呑気に昼寝をして、妖精たちの遊びの相手をし、門番隊の隊員たちからまるで姉のように慕われる優しい美鈴が、いつもでは見せないような強い視線を私に注いでいた。
悪意は感じられない。怒りもない。非難するような感情もない。
だが、まるで、それは私に問うかのようだった。
問う?
何を?
覚悟を。
何故かは知らないけど、美鈴はまるで私に覚悟があるのかとでも言いたげな目をしていた。美鈴は、鋭い視線で『それで良いんですね?』と私に問いかけていた。
「どうしたの、フラン?」
お姉さまが首をかしげた。お姉さまは優しく微笑んでいた。まるで、何でも私の言うことを訊いてくれるかのように笑っていた。そして、それはその通りなのだろう。私は一瞬、躊躇したが、美鈴が視線で示すとおり、覚悟を決めて言った。
「拷問をやめて」
――意外にもはっきりとした声だった。
「拷問なんてしないで」
私の願い事をお姉さまは優しく微笑んだまま受け止めていた。お姉さまはしばらく考えるように絨毯の紅を睨んでいたが、やがて、私に視線を戻した。
そして、女性の頭から足を外した。
ひゅう、と自分の気道が鳴る音が聞こえた。
お姉さまは振り返り、美鈴を呼んだ。
「美鈴」
「はい」
美鈴が力の篭った声でお姉さまの呼び声に応じた。お姉さまは淡々とした調子で美鈴に指示する。
「この女を閉じ込めておいて。適当な空き部屋でいいわ。手と足は縛ったままで、ね。服以外で身に着けているものは全部押収して私のところにもってきて。結界に関しては心配しないでいいわ。呪文は破れているからもう発動しないでしょう」
お姉さまの言葉に美鈴はわずかに目を細め、尋ねた。ぎらぎらと光る刃のように静かな声だった。
「……もう、よろしいのですね?」
お姉さまはしっかりとうなずいた。
「ええ。いいわ」
「――かしこまりました」
美鈴は慇懃に一礼を返すと、女性のもとにやってきて、縛られたままの状態で脇に抱えた。
私は美鈴の顔を垣間見たが、もう美鈴は険しい表情ではなくなっていた。いつもよりは無愛想ではあるが、普段に近い優しい美鈴に戻っていた。
そして、私は美鈴の片腕に挟まれている女性を見る。今まで目を合わせなかった彼女は、このとき初めて、私の目を見つめた。
瞬間、
――ぞくり。
――背筋が震えた。
禍々しい目だった。
お姉さまと同じような心をざわつかせる不吉な目だった。
美鈴は何食わぬ顔をして、女性を片手に抱えたままで退室した。私は固まったまま、美鈴がドアから出て行くのを見送ることしかできなかった。お姉さまのほうを向くことができるようになるまで、心臓が落ち着くのを待たなければならなかった。
ようやく心拍が元のリズムに戻る。
私はお姉さまのほうを振り返った。
お姉さまはいつもどおりに戻っていた。
――少なくとも、いつもどおりであるように見えた。
お姉さまはいつも私に見せてくれる優しい微笑を浮かべていた。
「これでいいわね、フラン?」
お姉さまは笑みを深くして首をかしげた。私は呆然としていたが、慌ててうなずいた。すると、お姉さまは安心したように――だが、どこか寂しそうに――「そう、よかったわ」と微笑んだ。
「そうだわ」とお姉さまは手を打ち、愛用の机に向かった。お姉さまは白い布を取って戻ってきた。
言うまでもない。私がこの部屋にやってくる原因となった私のドロワーズだった。お姉さまはそれを私に渡すと、深々と頭を下げた。
「――ごめんなさいね、フラン」
頭を上げたお姉さまは恥ずかしそうに――そしてとても申し訳なさそうに笑っていた。
私は渡されたものを手にして、突っ立っていることしかできなかった。
――いつものお姉さまじゃない。
こんなに正直に謝ってもらえることなんて初めてなのに――
お姉さまが素直に謝ってくれる姿が、私にはなぜか不安で、嫌な予感がして――そして、とても悲しかった。
失敗したか――と私は思った。
フランが出て行った後、私は自室の机の前に一人で座っていた。机の上には咲夜の淹れてくれた紅茶がある。咲夜には一人になりたいからと言って、外してもらった。今は紅茶を飲みながら、美鈴があの女から押収したものをもってくるのを待っているところだった。
しかし、あそこでフランが部屋に入ってくるなんて、予想外だった。
まあ、その後のやりとりは私のいつかの想像の範疇だったのだが。
――『拷問をやめて』。
そう言ったフランの顔が今でも私の網膜に焼き付いていた。あんな必死で切実な顔をしたフランを見るのは久しぶりだった。そして、その理由が自分になるとは思いもしなかった。
自分がフランを悲しませることになるなんてね――
いつかこんな日が来るのかもしれないと覚悟はしていたが、本当に来てしまうとはね――
私は紅茶を飲んでは、ため息をついていた。
もっとも、フランの前で拷問を続けられるはずがなかったのだ。あの子の前で自分のそんな残虐な一面を見せるなど、勘弁願いたかった。フランにやめてと言われなくても、私はあれ以上、あの教会の人間を拷問することはできなかっただろう。
私はフランの震えるほど怯えた顔を思い出した。
……あいつらの武器について話しすぎたのがよくなかったか。
私はまた紅茶を口に含んで反省していた。あのとき私はつい興奮していたのだ。昔の血が騒ぐというのか――私はあのとき、自分が久しぶりに『戦場』に身を置けたことを喜んでいた。
吸血鬼の血なのか、それとも、私の気質の問題なのか――。おそらく両者だろう。吸血鬼である限り、好戦的な人格になりやすいものだし、そして私はその吸血鬼の中でも特に『血に飢えた』吸血鬼だということだ。フランは優しい子だが、好戦的であるのは確かだった。あの子の一番の楽しみは弾幕ごっこだった。本来、殺し合いのための妖気弾を殺傷力を抑えたものを使う遊び。それは確かに遊びだが、同時に闘争でもあった。弾幕ごっこは安全な戦争ごっこなのだ。
だが、弾幕ごっこで死亡した妖怪というのは聞いたことがなかった。ならば、結局のところ、弾幕ごっこはやはり遊びに過ぎないのだろう。だから、フランが弾幕ごっこをしたがるのは、殺し合いが好きなのではなくて、ただ単純に戦い――力比べを楽しんでいるだけなのだ。相手を殺さないでできる戦争ごっこ。それがフランにとっての弾幕ごっこなのだ。
フランは人を傷つけるのが好きなわけではない。
まして、人殺しが好きなわけではない。
『気がふれている』、『情緒不安定』、『頭がおかしい』…………
一連のフレーズを思い出す。
私は自然に笑っていた。
純粋におかしいから笑っているのか、自らを嗤っているのか、自分でもわからなかった。
まあ、フランのことはともかく――
これはレミリア・スカーレットの問題なのだ。
吸血鬼がどうのこうのという話ではなく私の問題なのだ。
わかりきった結論だった。
答えはとうの昔に出ている問題だった。
しかし、どうしたものか。
ひとしきり笑った後、私は自分でも不愉快に感じる笑い声を黙らせ、カップを傾けながら思った。
フランが私の部屋に訪ねてくるのは想定外だった。フランのドロワーズを盗んできたことを覚えていれば、こんなことにはならなかったのだが、つい忘れてしまっていた。まあ、悔やんでも仕方ないだろう。我ながら恐ろしく間抜けだったが、今回は運が悪かったことも確かなのだ。今の段階ではこれからのことについて考えるべきだった。
あの女の始末をどうすべきか。
――『拷問なんてしないで』。
またフランの言葉が耳に甦った。
拷問が駄目だったら、殺人はもっと駄目だろう。
フランの見えないところで殺すという手もあるが、きっとフランは気づいてしまうだろう。あの子は悪意だとか、害意だとか、そういう人の悪い感情に敏感なのだ。私が人間を殺せば、あの子はたとえ一つの根拠もなくても、きっとそれに気づいてしまう気がした。
「あの子は、ほんとに悪魔の妹なのかね?」
私は椅子の背もたれに身体を任せ、天井を見上げながら一人ごちる。それも仕方のないことなのかもしれなかった。地下室暮らしを495年間も続ければ、人間が人間らしくなくなるように(人間は495年も生きられないが)、悪魔も悪魔らしくなくなるのかもしれない。そして、私はフランに『人間』として接しすぎたのやも知れない。
――まあ、なんだかんだで、私はあの子のことが可愛いんだけど。
思わず、自嘲の息が口から漏れる。とても『スカーレットデビル』の言葉とは思えなかった。『スカーレットデビル』と恐れられた吸血鬼はもっと残忍なはずではなかったか。誰に何を言われても、非道の限りを尽くす悪魔ではなかったか。
もっとも――
『スカーレットデビル』という概念は、フランのための概念でもあるのだから、全く間違っていないのだが。
それにしても私も平和ボケしたものだ。幻想郷自体平和ボケしているとはいえ、たった数年でこんなに自分が甘くなってしまうなんて思いもしなかった。
私は神社の縁側で呑気にお茶を飲んでいる巫女と、図書館に忍び込んでは本を盗んでいく、不敵な笑顔を見せる魔法使いを思い出していた。自然と笑みがこぼれるのを感じた。あいつらと一緒にいれば、ボケてしまうのも仕方ないことなのかもしれなかった。
でもまあ――
私は長い息を吐いた。
いくらボケようとも――
殺すときは殺さなきゃならないんだけど、ね――
『スカーレットデビル』と呼ばれた吸血鬼は紅茶を啜りながら思う。
『スカーレットデビル』であるがゆえに思う。
『スカーレットデビル』であるために思う。
『スカーレットデビル』か……
私は自嘲する。
全く、道化に相応しい渾名だよ……
……しかし、興がそげたな。
私は額に手をやり、再び天井を仰いだ。今から拷問を再開しようにも、すでに私の心からサディスティックな気分は消えていた。いくら私でも、いつもの素の状態で人間を嬲る気にはなれない。そして、フランの顔と言葉が脳裏にちらついていた。とてもではないが、あの人間に会いたいとは思えなかった。
どうしたもんかね、これは。
あいつらの組織の場所を割り出すのは確定事項なんだけれど。
確定されているのなら、その未来に向かって突き進むのが私の流儀のはずなのに。
しかし、いざやろうと思っても、どうしてもその気が起こらなかった。
私がうーんと唸りながら、天井を睨んでいると、ドアがノックされた。美鈴だろうか。「開いてるよ」と声をかけると、入ってきたのは意外にも別の人物だった。
動かない大図書館――パチェだった。
「あら、パチェ? ティータイムでもないのにどうしたの? それに今日は何か大事な実験があるって話していなかったけ?」
私の言葉にパチェはむすっと不機嫌そうな表情を見せた。そして、いつもより低い声で話しながら、私の机近くにあった椅子に座る。
「……ちょうど『ネズミ』が入ってきてね。邪魔されたわ」
「『ネズミ』? 魔理沙のこと?」
「いえ、別の『ネズミ』よ。十字架の皮を被った珍しい種類の、ね」
ああ、と私はうなずいた。そうか、あいつらはパチュリーのところにも来ていたのか。
「そう……あなたのところにも来ていたの」
「『も』ということは、レミィのところにも齧りつきにきたのかしら?」
「ええ、二匹ね。一匹は殺したけど、もう一匹は空き部屋に閉じ込めているわ……パチェは?」
「私のほうは一匹……七曜の魔女もなめられたものね。研究室の床に黒くなって転がっているから、後で咲夜に言って片付けてもらえないかしら? 研究室が煙臭くてしかたなくて」
「ああ、わかったわ。咲夜に後で言っておく」
「お願いね」
私はパチェにカップを差出し、紅茶を注いだ。パチェは「ありがと」と短く礼を言い、紅茶に口をつけた。パチェは一口啜ると、ふうとため息をつき、相変わらず不機嫌そうな顔で呟く。
「……幻想郷に来てまで、あの馬鹿共の相手をしなくちゃならないなんてね」
「全くもって同意だわ」
パチェの言葉に私は渋い顔をしてうなずいて見せた。すると、パチェは意外そうに目を少し開けた。
「……レミィも不機嫌なの? あなたのことだから、もう少し楽しそうにしていると思ったけど」
「よしてちょうだい」
私は苦笑しながら、顔の前で手を振った。
「あんな陰気臭い連中の相手なんか真っ平ごめんよ。まだ、霊夢たちと弾幕ごっこしてたほうが楽しいわ」
私がそう答えると、パチェはじっと私の顔を見ていた。そして、また一口紅茶に口をつけ、長い息を吐いた。パチェは遠くのものを見るような目をし、独り言を言うかのように呟いた。
「レミィ、変わったわね」
「…………」
「……否定しないってことは、自分でも認めたのね」
「……まあ、そういうことかしらね」
「レミィらしくもない」
「全くね」
私がうなずくと、パチェは目を細めた。訝しげな口調――といより、ほとんど心配するような口調で、パチェは私に尋ねた。
「どうしたの、レミィ? 珍しくずいぶん素直じゃない? というより、元気ないわよ」
「……別に何もないわよ」
私はパチェから顔を背けた。だが、パチェはティーカップを両肘を机の上に乗せ、組んだ手の上に顎を置き、つまらなそうに言うのだった。
「どうせ、妹様のことでしょ?」
「…………」
「妹様に何か言われたんでしょ?」
……さすがは我が親友といったところか。よく私のことをわかっている。だが、それは都合のよいこともあるが、今みたいに都合の悪いこともあるわけである。パチェは「やっぱりね」と額に指を当てた。
「ほんと、レミィってわかりやすいわね」
「余計なお世話よ。……ていうか、パチェ、そんなに私元気ないように見える?」
「ええ。どう見ても落ち込んでるようにしか見えないわ」
「そう……」
そうか、私は落ち込んでいるようにしか見えないのか……自分ではそれほど感じていないのだが、ひょっとしたら、心の奥底では私は相当がっかりしているのかもしれなかった。情けなかったが、なんとなく身体から力が抜けてしまった。パチェは私の様子を見て眉をひそめた。
「相当重症ね。まあ、深くは訊かないけど……」
パチェは紅茶を飲み干し、机の上に戻した。ポットを上げてみせて、お代わりを尋ねるが、パチェは首を振る。そして脇に抱えていた本を膝の上に広げ、目を落とした。パチェは本を読みながら、どうでもよさそうに私に訊いた。
「それで、今夜、報復するんでしょ?」
「…………」
「私も手伝ってあげるわ。一宿一飯の恩義って奴ね」
「…………」
「まあ、あの程度の暗殺者しか送ってこないんだったら、たかが知れてるけどね。私が手伝うまでもなく、あなたと美鈴だけで十分だろうけど」
「…………」
「……レミィ?」
私が何も言えずに黙っていると、パチェはようやく本から顔を上げて、私の顔を見た。訝しげなパチェの視線。しかし、私は渋い顔をして、彼女の視線に応える以外なかった。
「どうしたの? 報復するんでしょう?」
パチュリーは怪訝な顔でなお尋ねた。だが、やはり私は沈黙せざるをえなかった。
「……まさか、しないの?」
驚愕する表情を見せるパチェ。私以外の人が見ても驚いていることがわかるほど、パチェは吃驚していた。私はこれまた後退りするような、低い声で呟くことしかできなかった。
「いや、しようとは思うんだけど……」
「……思うんだけど?」
「……できないんだよねぇ」
パチェは馬鹿でも見るような目で私を見た。気持ちはわかる。今までの私――『スカーレットデビル』を知っている人間なら誰もが、こんな反応をとるだろう。もっとも一番驚いているのはパチェでもなく、私だろうけど。パチェはそんな私の気持ちを知ることもなく、首をかしげて言った。
「それは、相手の場所を知らないからできないってこと? それとも、そもそもやりたくないっていうこと?」
「あー、今のところ、前者。まず、敵の居場所がわからない」
「……わからない?」
パチェは顎に拳骨をあて、目を細くして私を見やった。
「レミィにしては手際が悪いわね……。さっき、一人は部屋に閉じ込めているって言ってたから、もう聞き出していたかと思ったわ」
「ああ……まあ、ちょっとね」
パチェの言うように、いつもの私ならば、『あのとき』に聞き出していただろう――『いつもの』私だったら。私はやはり何も言い返すことができなかった。口を開こうとするたびに、フランの悲しげな顔が浮かんできて、動かそうとした舌が止まってしまうのだった。
確かに重症かもしれない。パチェの言葉通り、私は想像以上にショックを受けているようだった。
だが、ここは気を引き締めないといけない。
今までそうやってきたのだ。
ここで変更するというわけにもいかないのだ。
そう自分に言い聞かす。
そう自分に言い聞かすのだが……
その答えに疑問符を浮かべる自分がいた。
もうやめてもいいんじゃないか、と呟く自分がいた。
それにフランの声が重なる。
だが――
それでも、私は――
……………………。
堂々巡りの思考に、私はだんだんイラつき始めた。
ハムレットかっつーの。
殺すと決めているのだから、早く殺せばいい。
簡単な話なのだ。
しかし、そう思うたびにフランの悲しげな目を思い出すのだった。
――勘弁してくれ。
これでは私のほうが拷問を受けているようではないか。
いくら考えても自嘲しか出てこない。
私は思わず、「……うー」、と頭と膝を抱えた。すると、パチェは呆れたようにため息をついた。
「レミィ、そのポーズをとっていると、カリスマも何もあったもんじゃないわよ……」
「うるさい。どうせ、私はヘタレな幼女さ」
「レミィ……あなた疲れてるのよ」
「そのセリフ、パチェからはギャグのときに聞きたかったな……」
「何を言ってるんだか」とパチェは再びため息をついた。どうやら、今日は『ため息デー』らしかった。私もパチェもため息ばかりついていた。
しばらく私とパチェは向かい合って、黙り込んでいた。
パチェは膝の上の本に再び視線を落としていた。
パチェが何を考えているのか――私は知ることはできなかった。
知る由もなかった。
…………。
否。
知る必要はないのだろう。
知るまでもないのだろう。
おそらくパチェがどう思おうと、彼女は私の言葉に従ってくれるだろうから。
要は私の意志一つだ。
私の殺意一つだ。
やれやれ。
まさか、数年くらいで、人の殺しかたも忘れてしまうとは。
平和ボケも大概にしておかないと。
私はパンと自分の両頬を張った。そして、数秒自分の心をじっと見据える。
……うん、私だ。
これは、私だ。
いつもの私だ。
もうフランの声も顔も頭の中には残っていなかった……ということはないが、かなり弱くなった。
これが私の義務なのだ。
誤魔化しのきかない、私の仕事なのだ。
私は私の義務を全うしなければならない。
私は私に課した責務を遂行しなければならない。
数年ぶりに気合を入れなおしたところで、コンコンとドアがノックされた。恐らく美鈴だろう。「開いてるよ」と声をかけると、案の定、紅い長髪をなびかせて、門番長の美鈴が入室した。美鈴は一礼すると、私の机の前までやってきた。
「これが、あの女がもっていたものです」
そう言って、美鈴は私にいくつかの物品を渡した。私は「ご苦労様」と応えて、それらを受け取り、すぐに検分を始めた。
「お疲れ、美鈴。帰っていいよ」
と美鈴に声をかける。だが、美鈴が立ち去る気配がしないので、私は顔を上げた。
そこにいたのは普段の――否、幻想郷の美鈴ではなかった。
幻想郷に来る前――少し懐かしささえ感じる、いつもどおりの美鈴がそこにいた。
美鈴はアルカイックスマイルのような微笑をたたえて言った。
「――どうやら、大丈夫のようですね」
その言葉を私は一瞬理解できなかったが――気づいたとき、私は自然と頬が上がるのを感じていた。
私は牙を美鈴に見せ付けて笑った。
――自嘲するように笑った。
「もちろんよ」
私は昔の――いや、いつもの感情が甦ってくるのを感じていた。
「私は『スカーレットデビル』だもの」
私は地下室のベッドの上で膝を抱えて震えていた。
お姉さまの禍々しい表情が頭から離れなかったのだ。
そして、同時にあの優しそうな笑顔も――
どっちが本当なの?
どっちが本当のお姉さまなの?
馬鹿馬鹿しい――私の理性が嗤う。
どちらも本当に決まっているのだ。
人は多面的な生き物だ。その場その場、その人その人によって見せる顔が違う。私だってお姉さまに見せたくない一面があるし、お姉さまだって私に見せたことのない表情があるのだろう。
理性ではわかっている。理屈ではわかっているのだ。
だが、認められなかった。
認めたくなかった。
お姉さまがあんな恐ろしい顔をするなんて知りたくもなかった。
お姉さまが他者にあんな悪意を見せるなんて考えたくもなかった。
もし――
あの顔を私に対して向けることがあったら――
そう思うだけで、身体の震えが止まらなかった。カチカチと歯が音を立てる。寒くもないのに、歯の根が合わない。ドキドキと自分のものでないように拍動する心臓がうるさい。
『なあ、レミリアって優しいのか?』
魔理沙の言葉が思い出される。不思議そうに尋ねた魔理沙の顔を思い出す。
それは――私のほうが訊きたい。
私のほうが、お姉さまが優しいのかどうか訊きたい。
私はお姉さまが優しいと信じられるのかどうか訊きたい。
理性が冷静に私を嘲笑した。
人に殺されそうになってまで、人に優しく必要があるの、と。
そうだ。その通りだ。
お姉さまは殺されそうになったんじゃないか。
教会とかいう、よくわからない組織の人間達に。
あれは正当防衛だ。お姉さまが悪いことなんて一つもないのだ。
お姉さまの悪意は正当なのだ。
もはや、優しいか、優しくないかという問題ではないのだ。
だが、また理性がおかしそうな声を立てる。どっちつかずの不誠実な理性が笑い声を立てる。
でも、拷問する必要はあったの?
返り討ちにされて、もう戦えない人間を――
ただでさえ重傷な人間を拷問する必要はあるの?
それは――
私は膝に顔を押し付ける。額をぐいぐいと膝頭に押し当てて考える。
お姉さまがあの女性を拷問したのは、組織の在り処を知るためだった。
組織の場所を知り、組織を撲滅するためだった。
自分に再び火の粉が降りかかってこないように――
当然のことだ。
お姉さまのやったことは常識的な判断だ。
お姉さまは自分の――そして、私達の生存のために妥当な判断をしただけだ。
お姉さまの拷問も私のためだったのだ。
お姉さまは私のために拷問してくれたのだ。
これは喜ぶべきことなのだ。
喜んでしかるべきなのだ。
『拷問をやめて』と言うのではなく、
『お姉さま、拷問してくれてありがとう』――
そう言うべきだったのだ。
――自然と私の目から涙が溢れてきた。私は涙を拭う気力もなかった。頬を涙がとめどなく零れ落ちた。
……無理だよ。
ありがとう、なんて言うのは無理だよ。
喜ぶなんて無理だよ。
私には無理だよ。
――これは私の我が儘なんだろう。
世間知らずな私の我が儘なのだろう。
それはわかってる。
わかってるのだ。
わかってるけれど――
私はぐわんぐわんと揺れる頭を押さえた。狂ってしまわないように必死で押さえつけた。
正直、わかりたくなかった。
そんな理屈、わかりたくなかった。
そんなルールのないところで、生きていたかった。
お姉さまを疑うことなく生きていたかった。
拷問なんてしてほしくない。
そして、
これ以上、人を殺してほしくない。
組織を滅ぼすとはより多くの人を殺すことになるのだろう。
お姉さまはこれからもたくさんの人間を殺すつもりでいるのだろう。
我ながら愚かだと思った。自分は馬鹿なことを言っているなぁ、と自覚していた。
吸血鬼が人を殺すな?
馬鹿も休み休み言え。
吸血鬼にとって人間なんて食糧だろうに。
食糧の命を気遣ってどうする?
飢え死にしたいって言うのか?
そして、吸血鬼と人間は争い合う関係なのだ。
吸血鬼が人間を食糧にする代わりに、人間は吸血鬼を退治するために戦う。
お互いは殺し合う運命なのだ。
吸血鬼が人間を殺すのはこの世の真理なのだ。
だが――
私は知ってしまった。
二人の人間に出会って。
そして、咲夜と暮らすことで。
人間だって、私達と同じなんだと。
一緒に会話もできるし、遊ぶこともできると。
確かに、私たちは人間を食糧にしないと生きていけないし――
吸血鬼と人間は戦いを免れない運命なのかもしれないけど――
仲良くできる人間とは仲良くしたいんだ。
食糧としてでなく、友達として。
敵ではなく、友人として。
――お姉さまもそうじゃなかったのだろうか。
お姉さまも人間をそう捉えていたから、霊夢たちと仲良くできたんじゃないのか。
お姉さまにとって人間とはどんな存在だったのだろう?
私と同じように友人としてありうる存在だったのか?
それとも簡単に殺してしまえる存在だったのか?
吸血鬼にとって人間はそんな存在以外ありえないのか?
……わからなかった。
お姉さまのことがわからなかった。
こんなに大好きなお姉さまのことがわからなかった。
そして――
私はお姉さまを好きでいていいのかどうか――わからなかった。
今の私にはそんな当たり前のことさえ、崩れてしまったのだった。
時計を見る。六時半を少し過ぎていた。もう少しで晩御飯だった。
きっと咲夜が私を呼びに来る。
それまでに泣いていたのを悟られないようにしないと。
私の頬はすっかり涙にぬれていた。目もきっと赤く充血しているだろう。そんな顔で人に会うのは恥ずかしかったし、何より、人にあれこれ心配されたくなかった。
お姉さまに心配をかけるのは一番嫌だった。
私が思っていることを伝えたら、お姉さまはどう思うだろう?
悲しむだろうか。それとも、何とも思わないだろうか。
――どちらも嫌だった。
洗面所に向かう。蛇口をひねり、手で水を受けて、それで顔を洗う。ひんやりとした水の感触だけが私を慰めてくれた。
少しだけすっきりとした心で思う。
私はお姉さまにどうしてほしいのか、と。
私はお姉さまにどうあってほしいのか、と。
――許されるのだろうか。
それを伝えることは許されるのだろうか。
私はお姉さまにそう言う資格があるのだろうか。
わからない。私にはそれすらもわからない。
わからないが――
晩御飯のときに私はお姉さまと顔を合わせるのだろう。
そのとき、私はどうすべきなのか――
そして、どうすべきでないのか――
覚悟と不安がない交ぜになった気持ちで、私は時間が来るのを待った。
やがて、咲夜が迎えに来た。
咲夜はお姉さまの部屋にいたときの冷たい表情はもうなくなっていた。いつものように優しい微笑を浮かべて私を迎えに来てくれた。
だが、咲夜に案内された食堂には、お姉さまはいなかった。
「お姉さまは?」
咲夜に尋ねると、咲夜は苦笑して言った。
「レミリアお嬢様は今、お仕事中なので、後でお食事をとられるそうです」
「仕事?」
「はい。書類仕事がたまっていらっしゃいまして。最近、さぼり気味でしたから」
「へえ、まあ、お姉さまらしいね」
「本当ですわ。今日だって、私に適当に判押しておいて、などと駄々をこねるのですから、ほとほと困ってしまいました」
咲夜はくすくすと笑った。私も咲夜に釣られて微笑む。
私は咲夜の言葉に納得しかけたが、どこか突っかかるような違和感があった。
咲夜は微笑んだまま、厨房へと身体を向けた。私の食事を運んできてくれるのだろう。
だが――気づくと、私はその背中に問いかけていた。
「ねえ、咲夜」
私の呼び声に咲夜が振り返る。咲夜の顔に浮かぶのは数秒前と変わらない微笑。いつもの瀟洒なメイド長のそれだ。私のよく見知った笑顔だった。
心が躊躇いの気持ちを見せる。だが、舌はそれを振り切り、動き出していた。
「――お姉さまは本当に書類仕事をしているの?」
私の言葉に、咲夜の眉がぴくりと上がった。あ、まずいな、と思う。しかし――
「お姉さまは本当は――」
――後悔するとわかっていながら、口が動くのを止められなかった。
「――拷問でもしてるんじゃないの?」
言い終わった瞬間、後悔が汗のように噴き出してきた。口の奥に罪悪感がじわりと広がる。咲夜は微笑を消し、冷たく細めた目で私のことを射抜いていた。私は必死で咲夜の視線に耐えた。ここまで進んで退くことは許されなかった。睨み合いはおよそ一分まるまる続いたが、咲夜はやがて諦めたように首を振った。
「いえ、正直に申し上げまして、お嬢様はお部屋で書類のサインの仕事をされています」
咲夜は緊張を解き、微笑んで言った――心配するように眉が力なく下がっていた。
「フランお嬢様、ご安心ください。あれからお嬢様はあの教会の者に会われていませんから」
咲夜はどうしてか切なそうに笑ってそう言った。
――咲夜が嘘をついていないとは限らない。もし、咲夜がお姉さまから何か口止めされていたとしたら、咲夜はどんなことがあっても私に本当のことを言わないだろう。だが、このとき、咲夜はきっと嘘をつかないだろうと信じることができた。それこそ根拠がないが、咲夜を信じなきゃいけないような気がしたのだ。
私は正直に咲夜に頭を下げた。
「ごめん、咲夜。変なこと訊いて」
咲夜は、「このようなことで、頭を下げないでください」と手を振る。顔を上げると、咲夜の困ったような笑顔があった。
咲夜は落ち着きのない生徒を心配する教師のような微笑をしばらく私に向けていたが、やがて、ふっと表情を柔らかくして言った。
「フランお嬢様はお優しいですね」
咲夜の言葉に私はぽかんとした。
「私が優しい?」
すると、咲夜は綺麗な微笑でうなずいた。
「はい。フランお嬢様は慈悲深いお方です。それは誇ってもよいことなのだと思います」
「きっと、素晴らしいことなのでしょう」――咲夜は嬉しそうに再び首を縦に振った。
だが、すぐに眉を歪めて――力なく微笑んで言う。
見ている私が切なくなりそうなほど、悲しい笑顔で言う。
「ですが――いえ、だからこそ、フランお嬢様はレミリアお嬢様のなされることが許せないのでしょうね」
咲夜の蒼く透き通った目は、私の心を奥まで見渡しているようだった。咲夜は私の知らない私の部分まで理解しているかのように言った。
「おゆはんが冷めてしまいますから、急いで持ってきますね」
そう言って咲夜は再び厨房へと、身体を向けた。私はもう咲夜を引き止めるようなことはしなかった。
胸にぽっかりと穴が開いたようで、無性に寂しかった。
咲夜の食事はいつもどおり美味しかった。
美味しかったが――どうしてか満たされた気分にはならなかった。
「ねえ、咲夜、」
私は夕食が終わってから、片づけをしてくれている咲夜に尋ねた。
「咲夜はお姉さまが優しいと思う?」
私の質問に咲夜は一瞬、きょとんとしたが、すぐに柔らかく笑って答えた。
「さあ……優しいときもあれば、優しくないときもあるかと思います。どんな人間――いえ、お嬢様は吸血鬼でしたわね――どんな妖怪もころころと心は変わるものです」
ですが、と咲夜は言葉を続ける。
「たぶん、フランお嬢様はこの答えでは満足していただけないでしょうね」
「…………」
咲夜は切なげで――だが、強さを感じられるような綺麗な笑顔を見せてくれた。
「――よろしいのではないでしょうか?」
「……『よろしい』って?」
「レミリアお嬢様が優しいと信じていても」
「…………」
「どんなにお嬢様が残虐非道な方でも私達が優しいと信じていれば」
「…………」
「私は信じますよ」
咲夜は明るい声で言った。
「私はレミリアお嬢様が優しい方だと信じます」
咲夜は当然であるかのように言った。そして、私に訊き返した。
「フランお嬢様は信じられないのですか?」
――私は咲夜の言葉に答えられなかった。
「フランお嬢様は、レミリアお嬢様を信じられないのですか?」
どんなに時間がかかっても、私は咲夜の質問に答えることができなかった。
私はドアの前にじっと立っていた。
咲夜が来ないか心配だったが、幸い、咲夜は別の仕事をしているようだった。廊下を掃除しているメイド妖精たちもいない。私は廊下にぽつんと一人立っていた。
まるで、世界に独りぼっちで取り残されたかのようだった。
――それは比喩ではないのだろう。
今の紅魔館は私にとって異質なものだったから。
あるいは、私が紅魔館の部外者なのか――
私はお姉さまの部屋の前にいた。
ここいる限りは、お姉さまの部屋に入るべきなのだろうけど――
私はドアのノブを握ることさえできなかった。
当然だ。
そもそも私はお姉さまに用なんてないのだから。
いや――用はある。用はあるのだ。
だが、口に出すことができない。明確な言葉にすることができない。
お姉さまに会ったところで、私は何を言っていいのか、わからなかった。
どれくらい悩んだだろう。それは1分でもある気がするし、1時間でもある気がする。1秒、あるいは3時間は、まあないだろう、と言える程度だ。
お姉さまの部屋の前で私はただ曖昧な時間をすごしていた。
しかし、このまま待ち続けるわけにもいかない。
けれども、目の前のノブを回す程度の勇気さえ持ち合わせていなかった。
やはり、私はお姉さまの部屋の前で立ち竦むことしかできないのだ。
まるで駄々をこねる子供だった。無いものをねだり続ける子供だった。
「どうすればいいんだろう」
私は思わずぼやいた。弱々しい声は薄暗い廊下に響くこともなく消えた。
私は頭を抱えた。意味もなく泣き出したい気分だった。
「どうすればいいんだろう」
「――どうすればいいんでしょうね?」
突然、耳元に声が聞こえた。
「うわっ!」、と心臓が口から出そうになるほど驚いて、私は後ろを振り返った。
すると、そこには、背の高い女性がいた。目鼻立ちのはっきりとした美しい女性だった。闇に溶けるような黒髪を腰まで伸ばしている。細い体格だが、それは決して貧相ということではなく、いかにもしなやかで武道家を思わせた。彼女の着ている服は紅魔館ではあまり見かけないものだった。和装なのだろう。写真で見せてもらったことがあったが、人里に住む人達がよく着るような服装だった。
――まさか、教会の人間?
私は突然現れた女性から、数歩後ろ足で飛び退った。そして、スペルカードを構えた。
だが――
「ストップストップ!!」
女性は慌てたように手を振った。必死な表情でぶんぶんと両手を振り乱している。
聞いたことのある声だった。
私はスペルカードにこめた魔力を開放するのを思いとどまる。
数秒考えた後、ようやく目の前の女性が誰だか理解した。
「……美鈴?」
私が呟くと、目の前の女性は「ほー」と息を吐き、苦笑して頭を掻いていた。
「やっとわかってくれましたか」
髪が黒かったから、最初はわからなかったが、私の後ろに突然現れた女性は本当に美鈴らしい。
私は、はあ、と息をついてスペルカードをしまった。
「美鈴、悪戯はやめてよ。びっくりしちゃったじゃない」
私が口を尖らせてそう言うと、美鈴はすいませんと笑って謝った。はきはきとした動作、溌剌とした笑顔。間違いなく美鈴だった。
しかし――
「美鈴、どうしてそんな格好してるの?」
大陸風の服装と星のついた人民帽が美鈴のトレードマークだった。メイドの仕事を頼まれたときは、メイド服を着ることもあった(ちなみにこのときは妖精メイドたちがキャーキャー言いながら、美鈴の後を追いかけていた。咲夜はそれを見て、頭を抱えていた)。だが、今のような和装――しかも浴衣でも着物でもなく、もんぺのような地味な服装をしているのは珍しかった。
私が尋ねると、美鈴は「ああ、これですか」と自分の服を見返した。「変ですかね?」と逆に訊かれる。
「いや、変じゃないけど……。それに髪まで黒く染めて。本当にどうしたの?」
私の質問に、美鈴は何でもないように笑って答えた。
「いえ、久しぶりにおつかいを頼まれるみたいで」
……おつかい?
「おつかいっていうと、その格好はおつかいに行くためなの?」
「はい」
「だけど、おつかいって言っても……」
私は窓の外を見てから言った。晴れた空には多くの星が広がっていた。
「もうこんな夜なのに?」
すると、美鈴は可笑しそうに手を振った。
「嫌ですね、フラン様。妖怪は夜活動するものじゃないですか」
美鈴の言葉に、それもそうか、と納得しかけたが、妙な間違いを発見した。
「……でも、美鈴、昼型の妖怪じゃん」
すると、美鈴は失敗したかのように、鼻の頭を掻いた。
「……ああ、それもそうですね。すっかり忘れてました」
「忘れてたって……。それでも行くの?」
「まあ、昼型の妖怪っていっても、夜のシフトに就かされることも少なくないですし、危険な仕事でもないですから」
「そう……それなら、何も不思議はないんだけど」
私は美鈴の言葉に一応そう返したが、どうも納得できなかった。美鈴は何か隠しているようにも見えた。私が一応うなずいてみせると、逆に今度は美鈴が私に尋ねてきた。
「それより、フラン様はレミリア様の部屋の前で何をしていらっしゃるんですか?」
美鈴の質問に言葉が詰まる。頭をフルに回転させ、何とか叩き出した答えを美鈴に伝えた。
「えっと、その、お姉さまとお話しようかな、って」
「ああ、なるほど。……でも、お嬢様は今、お仕事中ですからね。あまり入らないほうがよろしいかと」
「そっか、そうだよね……」
美鈴とのやり取りの中で、私は早々と退散してしまうことに決めた。もう今日はお姉様の部屋に寄るのはやめよう。仮にお姉さまに会ったとしても、何を聞いていいのか、何を言っていいのか、決まっていなければ、いたずらにお姉さまを困らせることになってしまうだけだから。美鈴が来たのが諦めるのにちょうどいいタイミングだったのだ。
本当に、どうして私はお姉さまの部屋に寄ろうとしたのだろう。
ただ、足がその方向に向かってしまったから――としか言いようがなかった。
私はお姉さまに会わずにいられなかったのだ。
何かを確かめずにいられなかったのだ。
それが何かはわからないけど……
本当に私は何を確かめたいのだろう。
そして、何を確かめたくないのだろう。
――疑問は尽きない。
「ありがとう、美鈴、じゃあ、私は帰ることにするよ」
私は美鈴にそう伝えた。美鈴も笑って言う。
「わかりました。では、私はお嬢様の部屋におつかいの内容を聞きにいきますので」
「わかった。じゃあ、がんばってね、美鈴」
「はい、お休みなさい。フランドールお嬢様」
私は挨拶を終え、美鈴に背を向けて、歩き出した。私はお姉さまに何を言うべきだったのか、考えながら、歩いた。
歩いたのだが――
――後ろから強い視線を感じた。
――美鈴だろうか?
そういえば、ドアが開いた音がしなかった。
美鈴はまだ廊下にいるのだろうか。
私は振り返った。
――くっ、と息が詰まる。
美鈴はまだ廊下にいた。
そして、
あのときと――お姉さまの部屋で私に向けたのと同じ目で私を見つめていた。
やはり、悪意や怒りなどはない。
ただ、強い意志だけが感じられた。
何かを見定めるような――
何かを願うような目で私を見ていた。
悪意や怒りなどの負の感情のこめられていないその視線は――
しかし、思わず身体が震えてしまうほど強い力がこもっていた。
私は、どうしたの、とは聞かなかった。
美鈴も何も話さなかった。
私と美鈴はただ見つめあった。
そして、私は気づく。
美鈴は最初から気づいていたのだ。
どうして、私はお姉さまの部屋の前で立ち止まっていたのか、知っていたのだ。
やがて、口を開いたのは美鈴だった。
静かで、だが、厳しさを含んだ声で美鈴は言った。
「姉君を信じなさい」
「…………」
「レミリアお嬢様を信じなさい。あの方は決して、フラン様を悪いようには扱いません。あの方はまず一番にあなたのことを考えていらっしゃいます。ご自分のことではなく、あなたのことを。そして、おそらく、その次に、ご自分のことではなく、私たちのことを、考えていらっしゃいます」
私は何も言うことができなかった。美鈴の言葉に圧倒されていた。
美鈴はなおも続ける。
「『スカーレットデビル』は冷徹で残酷です。ですが、決してその牙はあなたには向けられないでしょう。『スカーレットデビル』は決して私達に爪を振ることはないでしょう。彼女は私達の味方です。ただ、フランお嬢様が『スカーレットデビル』に気に食わないところがあるとすれば――」
美鈴は目を細めていった。申し訳なさそうに、そして――儚むように目を細めた。
「あの方が、わたしたち『だけ』の味方ということなのでしょうね……」
はあ、と美鈴が大きくため息をつく。疲れたかのように大きなため息をつく。
「ですが……」
美鈴は今までで一番力をこめて言った。
「たとえ、『スカーレットデビル』とはいえ、彼女もまた一人の『人間』だということを忘れないで欲しいのです……」
美鈴の口調は何事か願うかのようだった。
自分では叶えられないことを神に祈るかのように言った。
「このことだけは忘れないでください。レミリアお嬢様はご自身を救うことはできないのです。レミリアお嬢様を救って差し上げる誰かが必要なのです。それが誰になるか――よくお考えください」
美鈴は私に頭を下げた。深々と頭を下げた。私は美鈴の礼を黙って受け入れる以外、できなかった。美鈴は頭を上げる。もう私を見ていなかった。背筋をしゃんと伸ばして、美鈴はお姉さまの部屋に入る。廊下には私だけが残された。
――行こう。
私は今度こそ、自分の地下室に向かって歩き出した。廊下に敷かれた絨毯を睨みながら歩き出した。
『スカーレットデビル』。
確か、お姉さまの通り名だったか。
お姉さまは小食な吸血鬼だった。
そのため、人間の身体に牙を立てて直接吸血しても、その人間が貧血になる程度にしか血を吸えなかったのだという。
それどころか、血を吸うのが下手で、こぼした血で白いドレスを赤く染めてしまうことから、『紅い悪魔』――すなわち、『スカーレットデビル』の通り名がついたのだとか。
……名誉な通り名どころか、お姉さまをからかう呼び名だと思うんだけど。
しかし、美鈴はまるで畏怖すべき存在であるかのように、『スカーレットデビル』という言葉を使っていた。
何かあるんだろうか?
私は地下室へ帰る道すがら考えてみたが何も思い浮かばなかった。
――『スカーレットデビル』。
その単語は強く頭にこびりついて離れなかった。
嫌な夢を見て起きた。
詳しくは覚えていない。
シーンがところどころ、記憶に残っているだけだ。
私が額に手を当てている間から、その記憶が流れていってしまいそうだった。
何とか思い出せるものだけ、羅列してみる。
服を真っ赤に染めたお姉さまの姿。虚ろな表情で、手にはグングニルが握られている。私はお姉さまから数歩離れたところに座り込み、どうしてか泣きじゃくっている。そして、死臭。死の匂いが辺りに立ち込めていた。死体も何もないのに、死臭がした。
覚えているのはこれだけだった。
とにかくものすごい嫌な夢だった。夢を見て頭が痛くなったのは久しぶりだった。
今、何時だろう?
昨晩、お姉さまの部屋から――より正しく言うなら、お姉さまの部屋の前から地下室に帰ってきて、私はすぐにベッドに入った。昨日は本当にたくさんのことがあった。私は疲れていたのだ。
もぞもぞと身体を起こす。目はばっちりと冴えていた。正面の壁にかかっている時計を見やる。
午前6時ジャスト。
日の出の時間だった。
こんな時間に起きるなんて吸血鬼らしくなかった。
私、吸血鬼向いてないのかなぁ。
悩むが、やめるわけにもいかない。やめたいと思っても、やめられない。私が吸血鬼であることは私が生きている限り、変わらないことなのだ。
……つまらないこと考えてないで起きよう。
今日、咲夜が私を起こしに来るのは、あと1時間ほど後だ。二度寝してもよかったが、また寝転がっても、眠れない気がした。
今起きていったら、咲夜に迷惑だろうか。
この時間帯、咲夜は何をしているのだろう。
掃除をしているのかもしれないし、朝食の下ごしらえをしているのかもしれなかった。ひょっとしたら、ギリギリまで寝ているのかもしれない。とにかく迷惑になることは控えようと思っていた。
……居間にでも行くか。
居間とは大きなテラスがある部屋である。紅魔館の主であるお姉さま、その家族である私、友人のパチュリー、メイド長の咲夜、門番長の美鈴のみが入ることを許されたプライベートな部屋だった。パチュリーの司書の小悪魔もパチュリーといっしょに入ってくることが多々あった。主な使用目的は、お姉さまとパチュリー、そして、私が紅茶を飲んでくつろぐ場所である。咲夜や美鈴から報告を受けたり、命令を下達したりする役目もあった。お姉さまはどこにも出かけない日は、この居間で一日を大半を過ごしていた。
今の時間帯、行っても誰もいないだろうなあ。
お姉さまはきっと寝ているだろう。普段から咲夜が寝起きが悪いと言って苦笑するほどだ。きっと今もぐーぐーと布団を蹴散らして眠っていることだろう。
だが、居間以外に他に行くあてがないのも確かだった。このまま地下室で本を読んで咲夜が来るのを待っていてもいいのだが、どうしてか今朝は地下室にいると気が塞いでしまいそうで嫌だった。私はベッドを見苦しくない程度に片付け、その上に書置きを残して地下室に出た。
『居間にいます』。
しばらく私はその書置きを見てにやにやしていたが、やがて自分の姿を振り返って、激しい自己嫌悪に陥ったのは言うまでもないことだった。
だが、書置きを残す必要はなかった。
居間に向かう途中で、咲夜と会ったからだった。
咲夜は厳しい顔をして、ある部屋から出てきたところだった。
私は咲夜に朝の挨拶をした。
「おはよう、咲夜」
私に声をかけられた咲夜は、びっくりしたように目を丸くしたが、すぐに瀟洒な微笑を浮かべて、「おはようございます、フランドールお嬢様」と優雅な一礼を返してくれた。
咲夜はパンと牛乳の乗ったトレイを持っていた。
私はそれを確認すると、咲夜が出てきた部屋を見た。
確か、ここは空き部屋だったはずだった。
そして、私は昨日のお姉さまの言葉を思い返していた。
「ああ、そうか、ここが――」
私がそう呟くと、咲夜は神妙な顔でうなずいた。
「はい。昨日の教会の者がこの部屋の中におります」
「じゃあ、そのパンと牛乳は……」
「はい。一応食事として与えるようにお嬢様から申し付けられましたが、やはり口にしませんね。自白剤が入っていると思っているのかもしれません」
「もっとも、私も彼女と同じ立場だったら、とても食べる気はしませんが」と言って、咲夜は目を伏せた。
咲夜はこの部屋の中にいる女性をどう思っているんだろう。
私は部屋のドアと咲夜とを交互に見た。
咲夜も人間だ。ならば、同じ人間であるこの教会の人間についてどう思っているんだろう。
訊こうか訊くまいかしばらく迷ったが、訊かないことにした。咲夜も人間だ。吸血鬼の私に訊かれても不愉快な思いをするだけだろう。同じ人間である咲夜が、同胞に対してこのようなことをするのはつらくないはずがないと私は思っていた。
私はドアの向こうにいる人物を想像しながら、呟いた。
「……どうするんだろう?」
私の呟きに咲夜が小首をかしげる。私は咲夜に向き直って言った。
「お姉さまはこの人をどうするんだろう?」
「…………」
「いつまでも、このままってわけにもいかないよね……じゃあ、お姉さまはこの人を最後はどうするんだろう?」
解放するのか、拷問を再開するのか――
そして、殺してしまうのか――
きっと咲夜にもわからないだろう。
だけど、私は誰かにそれを訊かずにはいられなかった。
一晩経っても、私は正体のはっきりしない問題を相手に、あるかどうかもわからない答えを求め続けるのだった。
『これでいいわね、フラン?』
お姉さまの笑顔を思い出した。
『そう、よかったわ』
お姉さまの言葉を思い出した。
お姉さまはそう言ってくれた。
そして、きっとそれは約束だった。
だが、その約束はいつまで続くのだろう。
お姉さまが気を変えないという保証はどこにあるのだろう。
私はお姉さまのことを信じていいのか。
私は昨日からずっと繰り返している問題にまた引っかかっていた。
「『スカーレットデビル』か……」
うつむいて考え込んでしまった私に、頭上から咲夜の声がかかる。咲夜も深く考え事をするようにうつむいていた。私は顔を上げて咲夜の真剣そうな表情を見ていた。
「知らなかったとはいえ、私もよくあんな命知らずなことができたものね……。ほんと、思い出すだけで背筋が震えるわ……」
どうやら咲夜は珍しく独り言を呟いていたようだった。私が咲夜を見上げているのに気づくと、咲夜は「申し訳ありません」と照れたように笑った。
「すいません。つい考え事を……」
恥ずかしそうに釈明する咲夜に私は尋ねた。
「ねえ、昨晩も美鈴から聞いたんだけど、『スカーレットデビル』って何?」
咲夜の目が少し大きく開かれる。
「お姉さまの渾名だっていうことは知ってるし、その由来も聞いたことがあるけど、どうもそれだけの意味じゃなさそうだよね? 咲夜も今、『スカーレットデビル』って言ったけど、どんな意味があるの?」
私がそう訊くと、咲夜は口を一文字に閉じて黙ってしまった。
……そんなに重要な意味があるのか?
咲夜がそんな真剣な顔をして沈黙してしまうほど、大事なことなのか?
私はじっと待っていた。咲夜が時間を操っていないのに、時間が止まってしまったような気がした。
やがて、咲夜が重々しげに口を開く。
「『スカーレットデビル』の意味ですか……」
思わず、唾を飲んだ。じっと咲夜の真剣な顔を見つめる。数秒が数時間に感じられる中、咲夜は言った。
「『スカーレットデビル』――その意味は……」
咲夜は舌を出し、ウインクをして見せた。
「――忘れちゃいました」
お茶目という概念を具現化したような笑顔だった。
「……………………」
「どんな意味か、すっかり忘れちゃいました」
「……禁忌『レーヴァテ「お待ちください、フランお嬢様」
スペルカードを取り出した私に対して、咲夜は待ったという風に開いた掌を向けた。私は深呼吸をして怒りを何とか静め、スペルカードをしまい、睨んでやった。
「いくら咲夜でも怒るよ……」
「申し訳ありません、フランお嬢様」
「私は真面目なんだから」
「本当に申し訳ありません、フランお嬢様」
「『忘れた』、って嘘でしょ?」
「はい。嘘です」
咲夜はしらじらしくも告白した。全く悪びれた感じはなかった。咲夜は子供をからかうような笑顔で私を見ていた。そして、これまた駄々をこねる子供を優しくなだめるような口調で言った。
「ご安心ください、フランお嬢様。お嬢様が期待していらっしゃるような重大な意味はございませんから。『スカーレットデビル』の謎を解かなければ世界が崩壊するというようなことはありません」
「……もー、からかうのもいい加減にしてよ、咲夜」
「ふふ。でも本当に深い意味はないんですよ」
「じゃあ教えてよ、咲夜」
「いえ、私も実はよくは知らないのです」
「また嘘ついてるー」
「嘘ではありません。これは本当です」
そう言って笑う咲夜の顔に誰かを心配するような陰が見えた。咲夜は続けた。
「私が知っているのは、レミリアお嬢様が『スカーレットデビル』と呼ばれていたということ。そして、『スカーレットデビル』が非常に恐れられていたということです」
咲夜はどこか遠くを見るような目をして言った。
「伝説的な吸血鬼だったそうです。幻想郷では知る人もほとんどいませんが、『スカーレットデビル』と聞くだけでどんな妖怪も道を開けたというほどですから」
「私は人間の身ですので、お嬢様がどれほどの吸血鬼だったかは実際に見たことはありません。私が知っているのは全部伝聞です」と咲夜は付け加えた。そして、数秒、宙に目を泳がせた後、言った。
「美鈴なら知っているのではないでしょうか。彼女は私の前のメイド長でしたから、きっと昔のお嬢様のことについて詳しいでしょう。それほど気になることでしたら、彼女に訊いてみてはいかがでしょうか」
「美鈴、ね……」
実を言うと美鈴とは、咲夜やパチュリーよりも長い付き合いだ。よくは覚えてはいないが、地下室に閉じ込められる前、美鈴に抱っこしてもらったことがあった気がする。よく考えると――よく考えなくても、美鈴とは500年以上の付き合いなのだ。美鈴は地上にいた分、私よりもお姉さまとさらに長い付き合いだということになる。確かに、美鈴ならお姉さまのことについてよく知っていそうだが――
――話してくれるだろうか。
昨晩の美鈴の様子を見ている限り、何となく美鈴は話したがらないような気がしたのだ。
いや、ひょっとしたら――
話したくないことしか知らないのかもしれない。
それは考えすぎなのだろうが……
……………………。
……まあ、もう少し待とう。
ほかのことでもいい。お姉さまについてもっと色々なことを訊こう。
私に出来ることはそれだけしかなかった。
「ところで、フランお嬢様はどうしてここにいらっしゃったのですか?」
咲夜が今更のように尋ねた。ああ、そうか言っていなかったっけ。
「うん、何だか早く目が覚めちゃって。地下室にいるのもなんだったから、上がってきちゃった」
「そうですか。では、朝食を召し上がりますか?」
「いいの? 今忙しくない?」
「はい。大丈夫ですよ」
私は咲夜の提案どおり、いつもより早めの朝食を食べようかと思ったが、お姉さまのことが気にかかった。
「うーん、でもお姉さまが起きてからにするよ。数えてみると、お姉さまと一緒に朝食をとるのも久しぶりだし」
確かに私はお姉さまに会ったときどうすればいいのか、わからなかったが、同時にお姉さまに会いたいという強い気持ちがあるのだった。お姉さまの優しい笑顔が無性に見たかった。だが、咲夜の言葉は私の予想に反したものだった。
「いえ、お嬢様ならもう朝食を召し上がられましたけど――」
……一瞬、咲夜が何を言ったのかわからなかった。
「え……お姉さま、もう朝御飯食べたの?」
「はい」
「ということは、もう起きてるってこと?」
「レミリアお嬢様なら、寝たまま食事をされても特に驚きませんが、ちゃんと目を開けて納豆ご飯を召し上がっていらっしゃいましたよ?」
「……あの寝坊助のお姉さまが?」
「はい。驚くことに」
「それこそ夢じゃないよね?」
「私も夢の中にいるのかと思って頬をつねってみましたが違いました。ついでにお嬢様の頬もつねってみたら、半べそで怒られました」
「私がこの部屋に食事を持ってきたのも、起きてこられたお嬢様の命令なのです」と咲夜は付け加えた。
「……『スカーレットデビル』って早起きするの?」
「さあ……」
私と咲夜は顔を見合わせて首をかしげた。
「吸血鬼なのに……」
「吸血鬼なのに、ですよね……」
「…………」
「……とにかく食堂に行きましょうか?」
「……そうだね」
考えることはいろいろあったが――
私達は食堂に向かうことにした。
朝食の後、私はパチュリーの図書館にいた。
パチュリーはいつもの机の前に座って本を読んでいた。
私もパチュリーすぐ傍に座って本を抱えていた。
お姉さまは私室に篭っているようだった。図書館に来る前に居間にも寄ってみたのだが、お姉さまの姿はなかった。
私の読んでいる本はパチュリーの書いた魔術書だった。魔力の使い方について記されたものだ。私はその本を新しい弾幕を作る研究のために読んでいた。
だが、今日は文字が頭の中に入ってこなかった。いくらページをめくれど、私は本に集中することができなかった。
パチュリーのほうを見やる。
パチュリーはいつもどおり、何にも興味がないような顔で本に目を落としていた。時折、小悪魔に淹れさせたコーヒーを啜っては、億劫そうにページをめくっている。
パチュリーはお姉さまの話を聞いていないのだろうか?
私はそう疑問に感じた。パチュリーはお姉さまの友人だ。親友と言っても過言ではないだろう。そのパチュリーがお姉さまのしたことを聞いたらどう思うのだろうか。
私はパチュリーの反応を想像してみる。
『ふぅん、それで?』
……パチュリーがどうでもよさそうな顔でそう呟く姿が目に浮かんだ。
パチュリーは友人の妹である私の目から見ても、変わった人物だった。決して自分の考えていることを他人に見せようとはしない。たとえ、心の中で「むきゅー!」と叫ぶくらい驚いていても、パチュリーは平然とした顔でそれを隠し通すような気がした。どうやら魔法使いという種族は概して、自分の心の内面を隠す傾向があるようだった。お姉さまから聞いたことがある。魔法使いは鋭い爪や強靭な牙をもたないかわりに、自然をも従える魔法を持つ。しかし、その魔法を最大限に利用するには魔法を使用するタイミングと場所が必要なのだという。強力な魔法を使うためには詠唱や儀式に時間がかかり、その間は無防備だからだそうだ。要するに魔法使いの戦いは頭脳戦らしい。そのために魔法使いは幾重にも罠を張り巡らせ、敵を待つこともあり、トラップに気づかれたりしないようにポーカーフェイスをもって自分の考えを隠す。そのためにパチュリーだけでなく、一般に魔法使いは自分のことを話したがらないし、自分の考えを他人に読まれないようにするのだという。
パチュリーは本当にお姉さまのことをどう思っているのだろう?
どうしてか、私は皆がお姉さまのことをどう思っているのか、知りたがっていた。自分がお姉さまをどう思っているか――そのことが大事なのに、私はお姉さまに対する皆の考えを知りたがっていた。
私はまたため息をついた。私はかなり疲れていた。昨日のお姉さまの部屋から、ずっと神経が張りっぱなしだったのだ。
私のため息に反応するように、だが、本から視線を外すことなく、パチュリーは私に尋ねた。
「何だか、元気ないわね、妹様?」
パチュリーの言葉に私は少し慌てた。
「いや、そんなことないよ、パチュリー」
「そう、それならいいけど……」
「うん、心配してくれてありがとう」
「どういたしまして」
パチュリーはまた本に集中し始めたようで、むっつりと黙り込んだ。私はまたため息をつこうとし、直前で気づいて、ため息を抑え込んだ。
パチュリーはいつもの邪魔をするなと言わんばかりの表情で本を睨んでいた。声をかけようにも、遠慮してしまうようなオーラを漂わせていた。
どうしようか、そう思って、気づかれないようにため息をつこうとしたとき、図書館のドアが開かれた。
「よう、元気にしてるか」
静かな図書館に明るい声が響いた。
入ってきた人物は不敵な笑顔を浮かべていた。
霧雨魔理沙だ。
パチュリーは魔理沙の顔を見ると、不機嫌な顔をより不機嫌そうにした。
「……またネズミが来たのね。うちの本はチーズでできているわけじゃないんだけど? だいたい、あなた、昨日もきたでしょ?」
「いや、つい昨日忘れ物をしてな。それで今日はそれを取りに来たんだ」
魔理沙は照れ隠しのように頭を掻きながら、私達のほうによってきた。魔理沙は私の姿を見つけると、笑みを大きくした。
「お、フランもいるじゃん。元気?」
「……あ、うん、元気だよ」
魔理沙の声に私は一瞬、躊躇ってしまった。すると、魔理沙は首をかしげて言った。
「ん、返事が悪いな? ……フラン、なんだか、顔色悪くないか?」
「え、そう? そんなことないと思うけど……?」
「そうか、そうならいいんだけどな」
魔理沙は怪訝な顔をしたが、やがて机の側に立った。そして、机の上の本を一冊手に取り、ほっと息をつく。
「お、これこれ。昨日パチュリーから借りてく予定だった奴だ」
パチュリーは本に目を戻して、呆れたように言った。
「いつもは勝手に本を取っていくくせに、私が借りる許可を与えた本を忘れていくなんて、どういうことなのよ」
「悪い悪い。昨日、フランと弾幕ごっこをしてたら、つい忘れてしまったぜ」
そう言って、魔理沙は照れたように笑った。パチュリーは本に目を落としながら尋ねた。
「今日は忍び込んできたの? それとも、手続きを取って入ってきたの?」
「あー……今日は正門で、美鈴と弾幕ごっこして、突破して入ってこようと思ったんだがな。美鈴がいなくてつまらなかったから、ちゃんと咲夜を通してきたんだ」
「……普段もそうやって入ってきなさいよ」
パチュリーの言葉に対して魔理沙は誤魔化すように笑うだけだった。だが、私は魔理沙の言葉に気になったことがあった。
「美鈴、いなかったの?」
私がそう訊くと、魔理沙は何でもないことのようにうなずいた。
「ああ。どうも出かけてるらしくて、留守にしてるそうだ。いつも正門のところにいるのに珍しいこともあるもんだな」
どうやら、美鈴は『おつかい』からまだ戻ってきてないようだった。危険はないと言っていたが、そんなに時間のかかるものだったのだろうか。まあ、美鈴は弾幕ごっこは下手だけど、本気で戦えば強いらしいから、襲われても大丈夫なんだろうが。
魔理沙は本を帽子にしまうと――……この帽子の構造ってどうなってるんだろう?――、図書館の扉に身体を向けた。
「もう帰るの?」
私が尋ねると、魔理沙はうなずいた。
「ああ、今日は結構忙しくてな。悪いけど、今日はお暇しなけりゃならん。じゃあ、またな。フラン、パチュリー」
魔理沙は来たときと同じような、明るさに溢れた笑顔で言って、歩き始めた。
「うん、またね、魔理沙」
「……今度もちゃんと手続きどおりに来なさいよ」
魔理沙は私達の声を背に図書館から出て行った。ばたん、と図書館のドアを閉まる音が残った。
パチュリーはそのドアをしばらくじっと見ていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……やれやれ、本を取りにくるだけのために、『スカーレットデビル』の居城を出入りするんだから、全く気楽なものね」
まただ――
また、『スカーレットデビル』だ。
「……まあ、そんなことができるのも、ここが幻想郷だからでしょうね。レミィもそれが気に入ってるから、幻想郷に住んでるんでしょうけど……」
そう言って、パチュリーはまた本に目をやる。私は自然とパチュリーのことを見つめていた。パチュリーはしばらくページをめくっていたが、やがて私の視線に気づき、顔を上げた。
「どうしたの、妹様? 何か用?」
私はもう迷わずに訊いた。
「『スカーレットデビル』ってどういう意味?」
私の質問に、パチュリーはきょとんとした顔をした。私は真剣な目でパチュリーを見る。
「『スカーレットデビル』がお姉さまの通り名だっていうことは知ってるけど、それにはどんな意味があるの?」
パチュリーの紫水晶の瞳が私を見ていた。その透き通った瞳の奥で、パチュリーは何か考え事をしているようだった。やがて、パチュリーは何かに気づいたようにうなずいた。
「ああ、そうか。昨日のレミィの様子がおかしかったのも、妹様が何だか元気がないように見えたのも、それが理由だったのね」
パチュリーは自分の言葉にうなずいて一人納得していた。
……『それ』。
『それ』とは『スカーレットデビル』のことを指すんだろうか。いや、どうも違うようだ。「それなら、レミィが凹むのも理解できるわ」とパチュリーはぶつぶつ呟いていた。やがて、パチュリーは呆れたように、はあ、と息をつき、宙に向かってぼやいた。
「全く、ほんとヘタレね、あの幼女。それで私に黙っていたんだから、これはもうドヘタレね」
……パチュリーは昨日お姉さまの部屋にはいなかった。そして、私がいたことも知らなかった。私はパチュリーがお姉さまから、全部の話を聞いていたのではないかと考えていたが、どうやらお姉さまはパチュリーに話さなかったようだ。
パチュリーは紫色の目を私に向けた。
「妹様、昨日、レミィがあの『ネズミ』と一緒にいるところを見たんでしょ?」
「…………」
「あるいは、ちょうどレミィが『ネズミ』を折檻していたところに出食わしたか」
「……よくわかったね」
私がおずおずとうなずくと、パチュリーは「やっぱりね」と大して興味もないように言った。そして、改めて「まあ、そりゃ落ち込むわね」とぼやく。パチュリーはそのまま本に再び目を戻してしまった。パチュリーが口を開く気配がないので、私は慌てて尋ねた。
「それで、パチュリー、『スカーレットデビル』ってどういう意味なの?」
私の言葉に、パチュリーはようやく私を見返した。考えるようにうつむき、やがて顔を上げる。パチュリーは真剣な表情をして言った。
「教えないわ」
パチュリーは短く、だが、強い意志をもった声で言った。パチュリーは淡々と本を流し読みするかのように続ける。
「たぶん、レミィは妹様にそのことを聞かれたくないでしょうからね。黒歴史――というか紅歴史とでもいうか――華々しくもあれば、惨めったらしくもある――。どちらにしろ、レミィは妹様に聞いて欲しくないでしょうから、言わないわ」
それだけ言って、パチュリーは本に目をやった。
「そんなに重要な意味があるの?」
私はただ吃驚し、パチュリーに尋ねていた。パチュリーは本をめくる手を止める。
「『スカーレットデビル』という名前に、お姉さまにとって大切な意味があるの?」
「ないわ」
パチュリーは即答した。パチュリーは本をめくる手を再開しながら、私の問いに答えた。
「『スカーレットデビル』という名前に特別な意味はない。秘密でもなんでもない。知ってる妖怪は知っている。そして、知っている妖怪は決して少なくはない。ただ、妹様は知らないというだけで、ね。そして、それはレミィにとっても都合が良い――都合が良い、というよりは、心に良いというべきかしらね」
「いい?」とパチュリーはいくぶんか怒気のはらんだ目で私を見た。
「妹様はレミィを傷つけようとしているのよ」
――その言葉に私は思わず息を飲んだ。
パチュリーは珍しく強い口調で続ける。
「『スカーレットデビル』という通称は、レミィにとってどうでもいい名前でしょうね。基本的に呼び名でしかなかったから。一方的にそう呼ばれることだけの名前だったから。レミィも『スカーレットデビル』を自称することがあるけど、それも遊びのつもりだったんでしょう。妹様の前で言うことがあっても、それは格好付けでしかない。いえ、格好付けでしかなかった。あの『ネズミ』が来るまでは本当にただの遊びでしかなかった。でも、もうレミィは『スカーレットデビル』の言葉を妹様の前では出さないでしょう。妹様の耳に『スカーレットデビル』という名前が入るたびにびくびくと怯えることでしょう」
パチュリーは紫の瞳に静かな怒りを宿して言った。
「ぶっちゃけて言えば――レミィは妹様『だけ』に、『スカーレットデビル』の意味を知ってほしくないのよ」
私はパチュリーの言葉の内容と勢いに沈黙するしかなかった。
「わかったなら、もうその名前について詮索しないことね。『好奇心、猫を殺す』と言うけど、その言葉に殺されるのは妹様自身じゃなくて、レミィなんだから。レミィを傷つけたくないと思ったら、もうそんな名前のことなんか忘れてしまいなさい。そして、レミィの他のことについても、これ以上知ろうとしないこと。レミィはあなたに対して優しくしている――あなたにはその事実だけがあればいいの。もし、それを破ろうとすれば、傷つくのはあなただけじゃない。レミィも間違いなく瀕死の傷を負ってしまうでしょう」
パチュリーの紫の目は、私の心臓を貫き通すのに十分なほど鋭かった。
「だから、手遅れになる前に――今回のことは全て忘れてしまいなさい。全て忘れて、いつもどおり、レミィに甘えていなさい」
その言葉を言い終わると、パチュリーはまた本に目を戻した。もう質問についてはこれで終わり――そう言っているかのようだった。
私はパチュリーの言葉に頭を抱えることしかできなかった。
――どうすればいいんだろう?
本当にどうすればいいんだろう?
私はお姉さまのことが知りたくて。
知らないとお姉さまのことがわからなくて。
自分がお姉さまのことが好きでいるのかさえわからなくて。
けれども、お姉さまのことを知ろうとすると、お姉さまを傷つけることになって。
私だってお姉さまを傷つけたくなんかない。
私だってお姉さまのことを好きでいたい。
でも、できないんだ。
今のままじゃできないんだよ。
何もわからないままじゃできないんだ。
お姉さまのことを知らなければ何もできないんだよ。
だけど、それさえ許されないのか。
私はお姉さまを好きでいる努力さえ許されないのか。
本当に私はどうすればいいんだ――?
――私は椅子から立ち上がった。図書館から帰ることにした。ここにいても何もできないから、帰ることにしたのだ。
パチュリーは私を見ることなく、本に集中していた。冷たく、鋭い視線で何かをこらえるように、本を睨んでいた。
私はふと一つの質問を思いついた。さして重要ではない、他愛ない一つの質問を思いついた。
「ねえ、パチュリー?」
「……何かしら、妹様?」
「お姉さまってさ、優しいと思う?」
「…………」
「お姉さまは優しい人だと思う?」
――パチュリーは、悲しむような、悔いるような声で答えた。
「思わないわ」
「…………」
「レミィは決して優しくはない。優しくすることはあっても、優しい吸血鬼ではない」
パチュリーは目を閉じて言う。
「だけど――いや、だからこそ、私はレミィの傍にいられるし、美鈴も咲夜も、他のメイドたちもレミィといっしょにいることができる」
「…………」
「私達は――」
パチュリーは長い息をついて言った。
「――レミィの優しさを犠牲にして、生きてるのかもしれないわね」
私は廊下をとぼとぼと歩いていた。
あてもなく、徘徊するように歩いていた。
時刻はもう正午を回っただろう。もうすぐお昼ご飯だ。
だが、食欲はなかった。今日も咲夜が頑張って料理をしてくれるというのに、私はご飯を食べる気分じゃなかった。
図書館を出ても、私にできることは何もなかった。
お姉さまの部屋に行く気にはなれなかった。
お姉さまに何を訊いて、何を言うかということがまとまらないだけでなく――
お姉さまのことを考えるたびに、私はパチュリーの言葉を思い返していた。
――お姉さまのことを傷つける、と。
今、私がお姉さまに会ったら、お姉さまは悲しむことになるんだろうか――
そう思うと、行けなかった。行けるわけがなかった。
地下に帰ろうか、と私は思った。
また地下室に閉じこもろうか、と。
今、紅魔館で起こっているのは、私が知る由もないことだった。私が地下室にいて、地上のことなど想像もつかないときのことだった。そして、それはきっとお姉さまが私に知ってほしくないことなのだろう。
だから、お姉さまがまた私の部屋に来てくれるのをじっと待つのだ。
もし、お姉さまが私をまた迎えに来てくれるときがあるのなら、きっとそのお姉さまは私の知っているお姉さまだろう。
『スカーレットデビル』という、見知らぬ吸血鬼などではなく――
レミリア・スカーレットという私の優しいお姉さまだ。
私は思い出していた。
私が独りで地下に閉じ込められていたころのお姉さまを。
お姉さまはいつも優しく笑っていた。
優しく頭を撫でてくれた。外の世界の話を聞かせてくれた。おもしろい話で笑わせてくれた。勉強を教えてくれた。間違ったことをしたときは叱ってくれた。眠るまで手を握っていてくれたこともあった。弾幕ごっこを教えてくれた。友達のつくりかたを教えてくれた。
あんなに優しかったんだ。
お姉さまはいつもあんなに優しかったんだ。
けれども――
どうしても昨日のお姉さまの恐ろしい顔が頭から離れなかった。
そして、その後、私に向けられた詫びるような笑顔も――
たったそれだけのことで、私はお姉さまを信じられなくなっていた。
……………………。
たったそれだけのこと――
……………………。
――たったそれだけのことか?
人を拷問するのが『それだけのこと』か?
確かにお姉さまはあの女性に命を狙われたかもしれないけど――
もう、あの女性は戦えないほどにぼろぼろだったじゃないか。
すごく痛そうな顔をしていたじゃないか。
あんなに可哀想だったじゃないか。
それをお姉さまは――
私は重い頭を振った。
たぶん、私が間違っているのだ。
やはり、私は吸血鬼に向いていないのかもしれない。
きっと私が悪いのだ。吸血鬼になりきれない私が悪いのだ。
直接、人を襲ったことのない私は吸血鬼ではないのかもしれない。
人と対立し、殺し合う生き物が吸血鬼なのだとすれば、私は吸血鬼ではなかった。
私がちゃんとした吸血鬼だったら、お姉さまの考えに同調できたのかもしれない。
まるで、人間だ――
これでは私は吸血鬼じゃなくて、人間みたいじゃないか。
私が人間よりも、もっと吸血鬼に近ければ――
――だが、そこまで考えたところで、私はふと違和感を感じた。
……吸血鬼というのは関係あるのか? と。
本当に、お姉さまが吸血鬼だから、殺す者の目ができるのか? と。
私は美鈴に連れて行かれるときに向けられた教会の女性の目を思い出していた。
あの女性は、自分がお姉さまに向けられたのと同じ目をしていた。
殺す者の目を私に向けていた。
お姉様の目と比べれば弱いものだったが、殺す人間の目で私を見ていた。
逆に言えば――
お姉さまはあの女性と同じ目をしていたわけで――
ならば、お姉さまが吸血鬼だとかそんなことは関係なく――
ただ、お姉さまは――
私はぶるりと震えた。
頭ががんがんと痛んだ。
吸血鬼だからだと思っていた。
吸血鬼が妖怪で、妖怪と人間は敵対するものだから――そう思っていた。
でも違った。
もっと問題は単純だったのだ。
妖怪とか人間とかの原理ではなく。
もっとシンプルなところに答えがあったのだ。
わかってしまった。
まだ理屈でははっきり説明することができないけど、
まだ、もしかしたらの段階に過ぎないけど、
私はわかってしまっていた。
本能で、お姉さまが『妖怪』として人を殺しているのではないということをわかってしまっていた。
お姉さまが『人として人を殺す目』で人を殺していたことをわかってしまっていた。
ああ――
お姉さまが吸血鬼であるせいにできたらどれほどよかったことか――
お姉さまが人間ならば、あんな目をしないと思えたらどれほど救われたか――
お姉さまがお姉様であるがゆえに、殺す目をするのだと知らなかったら、どれほど幸せだったか――
限界だった。
私は限界に来ていた。
つまらないことでひびの入った私の心はもうすぐ砕けてしまいそうだった。
ただでさえ、狂っているのに、これ以上狂いたくなかった。
狂い始めた心で思う。
狂いそうに罪ながら思う。
狂った心で恋ながら思う。
――お姉さまに会いたい。
――お姉さまの声が聞きたい。
――お姉さまの優しい笑顔が見たい。
「フラン?」
ひどく懐かしい声が聞こえた。恋焦がれて――でも、もう聞けないんじゃないかと思っていた声がした。
当てもなく砂漠を彷徨うように、俯いて廊下を歩いていた私に、雲間から差し込む月明かりのような優しい声が聞こえた。
くたびれきった重い頭を上げる。
霞みきった視界で確認する。
――いや、顔を上げなくても、目が見えなくても、それが誰だかわかっている。
お姉さまは驚いたような顔をして、廊下に立っていた。
いつものお姉さまが不思議そうな、少し心配そうな顔で私を見ていた。
「どうしたの、フラン? どうしてそんな悲しそうな顔をしているの?」
お姉さまが私の方に歩いてくる。私を気遣う言葉をかけながら歩いてきてくれる。
視界が大きく崩れた。
ぼろぼろと涙が頬を伝っていた。
「……お、姉…さまぁ……」
本当に限界だった。
自分を抑えることができなかった。
部屋の前で逡巡し、会うことを恐れ、傷つけるかもしれないと我慢してきたくせに――
――結局のところ、私は本当に甘ったれな妹でしかなかった。
「本当にどうしたの、フラン? 何で泣いてるの?」
もうお姉さまは私にあと一歩のところまで来ていた。足は動かない。お姉さまを傷つけないために逃げなきゃいけないのに、もう手遅れだった。
ふわり、と――
優しさに抱き締められた。
私の頭をお姉さまのしなやかで柔らかい腕が包み込んだ。顔にお姉さまの温かい胸が押し付けられる。お姉さまの使っている石鹸のいい匂いで胸が一杯になった。
もう止められなかった。
私はもう泣くのを止められなかった。
みっともなく泣き続ける私を、お姉さまはぎゅっと抱き締めてくれた。
たとえ永遠に泣き続けても許してくれるように抱き締めてくれた。
お姉さまの柔らかな胸の中で思う。
こんなに優しいのに――
こんなに優しくて温かいのに――
どうして、お姉さまは人殺しなんかするんだろうか――
どうして、お姉さまは容赦もなく人を殺せるんだろうか――
そう思うと、切なくてどうしようもなかった。胸を締め付けるような苦しさに涙は溢れ続けた。
「どうしたの、フラン? 何が悲しくてそんなに泣いているの?」
月の光のような優しい囁き。顔を上げると、ぐしゃぐしゃの視界にお姉さまの困惑した顔が映った。私の大好きなお姉さまは困ったように微笑んでいた。
私はがらがらの喉を動かして言った。
「……悪いん、だもん……」
「え?」
「……お姉さまが、悪いんだもん」
「…………」
「……お姉さまが悪いから、私は、悲しいんだもん……」
そうだ……お姉さまが悪いのだ。
こんなに優しいのに、あんなに残酷なお姉さまが悪いのだ。
あんなに残酷なのに、こんなに優しいお姉さまが悪いのだ。
私の言葉にお姉さまは一瞬、きょとんとしたが――すぐに、何もかも状況を理解したように目を悲しく光らせて――申し訳なさそうに笑った。私の言いたいこと全てを言われなくてもわかっているような微笑を浮かべた。
お姉さまは悪いだけじゃなくて――ずるい。
こんなに私のことがわかってしまうなんてずるい。
私はお姉さまのことがわからないのに――
どれほどわかりたくてもわからないのに――
本当にお姉さまは悪くてずるい。
本当に――
本当にどうして――
本当にどうしてあんなことを――
――お姉さまは優しい声で私に詫びた。
「ごめんなさい、フラン――」
――私を殺してしまいそうなほど優しい声だった。
「こんなお姉さまでごめんなさい、フラン――」
――私なんか、このままお姉さまに殺されてしまえばいいのに。
そうなれば、どれだけ楽だろう。
私はお姉さまの胸で泣きながら、そんなことを考えていた。
私はその後、お姉さまに連れられ、お姉さまの部屋のベッドに寝かされた。
「フランは少し疲れてるの」
お姉さまは横になった私の頭を撫でながら、微笑んでそう言った。
「昼食は咲夜にサンドイッチでも作るようにお願いするわ。だから、少しでいいから眠りなさい」
――私が傍にいてあげるから。
お姉さまの笑顔を見て、髪を撫でられているうちに、私の意識は深い眠りの中に落ちていった。
それから起きたのは3時間後のことだった。時計は3時を過ぎていた。
耳元に優しい息遣いが聞こえる。私はその方向に顔を向けた。
お姉さまの寝顔があった。
お姉さまは穏やかな――きっと私よりも少し大人の表情で眠っていた。
少し大人――
だが、それはあくまでも少し、だ。
実際、私とお姉さまは5歳しか歳が離れていない。
私とほとんど変わらない歳なのに――
お姉さまはどんな思いで人を殺したんだろうか。
あるいは――殺すんだろうか。
あんなに楽しそうにしていたけれど――
嬉々とした表情で話していたけど――
でも、お姉さまは本当に人を殺したくて殺しているのだろうか。
お姉さまは人殺しにちょっとでも嫌悪を感じることはないのだろうか。
お姉さまの真意は。
お姉さまの目的は。
お姉さまの願いはどこにあるのだろうか。
横になったまま、お姉さまの寝顔をみつめていると、やがて、「ん……」とお姉さまが小さくうめき、目を開けた。
「……あら」
お姉さまは私の顔を見つけると、にっこりと微笑んだ。
「おはよう。フラン」
とても優しくお姉さまは笑った。
「起きてるつもりだったのに、寝てしまうなんて恥ずかしいわ」と照れたように言う。夢であるかのような綺麗な笑顔だった。
そして、お姉さまは起き上がり、寝転がったままの私の頭に手を伸ばすと、愛おしむように髪を撫でてくれた。
私もされるがまま横になっていた。お姉さまの手は優しくて心地よかった。心がほわほわとした気持ちでいっぱいになる。私は幸せという言葉の意味を再確認していた。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
ベタな言葉だが、本当にそう思う。
時間が止まってくれれば、お姉さまはずっと優しいままでいるのに――
お姉さまにはずっと今みたいな優しいお姉さまでいて欲しかった。誰かを傷つけるような恐ろしいお姉さまにはなって欲しくなかった。
私はどうすべきなのか。
何を聞き、何を言うべきなのか。
あるいはどうすべきではないのか。
何を聞くべきでなく、何を言うべきでないのか。
――考えはまとまらない。
そして、私が今のお姉さまに触れてしまえば――
きっと、お姉さまは傷つかずにはいられないのだろう。
だけど、お姉さまのことを傷つけなければ、私はお姉さまのことを知ることができない。
――結局、私はどうしたいのだろう?
私はお姉さまに何をしてもらいたいのだろう?
私がそんなことを考え、黙ってお姉さまの顔を見ている間、お姉さまはマリア様のような穏やかな顔で私を見つめてくれていた。
まるで、私のことを待つように。
私の言葉を許すかのように。
全てを知った上で、お姉さまは私のことを許容するように、私の前にい続けてくれた。
お姉さまは私に優しくしてくれる――
パチュリーの言葉を思い出していた。
けれど、お姉さまは決して優しい人ではない。
この慈母のような優しい微笑は万人に向けられたものではないだろう。
むしろ、お姉さまは大多数の人間に悪魔の冷笑をもって、見る者を震えさせるだろう。
だけれど――それでも私はお姉さまのことが大好きなんだ。
お姉さまを目の前にして改めて私は思い知った。
皆に優しくなくてもお姉さまが大好きなんだ。
たとえ、お姉さまからどんな言葉を聞こうと、私はお姉さまが私のことを好きでいてくれるという自信は揺るがないし、私がお姉さまを大好きなままでいるという自負は崩れない。
でも、私は誰かが傷つくことは耐えられないのだ。
お姉さまが誰かを傷つけることが許せないのだ。
そして、私がお姉さまのことを好きになるのは許されることなのだろうか。
眼前に存在する思慕の情。
根拠なくあやふやな罪悪感。
それでも私の天秤は前者に傾くということはなかった。前者が後者よりも重くなる、ということはなかったのだ。
――お姉さまのことが大好きだ。
――お姉さまのことが許せない。
二つの噛み合わない歯車に挟まれている私はどうすればいいんだろう。
やはりいくら考えても答えは出てこない。
だけれど――
行動しなければ何も進まなかった。
今、私は進まなければならないところに来ていたのだ。
少なくとも、前進するか、後退するか――どちらかを選ばなければならなかった。
もう一度、私はお姉さまの顔を見上げた。
お姉さまは微笑んでいた。
静かな微笑を浮かべて、何かを待つようだった。
お姉さまは私が進むのを待っているように見えた。
お姉さまは私がやって来るのを待っているかのようだった。
ならば――
私はきっと進まなければならないのだろう。
私は尋ねた。
『スカーレットデビル』のことでもなく、あの教会の女性に関する処置でもなく、あやふやな質問を――だけれど、きっと全ての答えである質問を、私はお姉さまに尋ねた。
「ねえ、お姉さま」
「何かしら、フラン?」
「お姉さまは優しいの?」
お姉さまはかすかに目を細めた。
「お姉さまは優しい人なの?」
私の言葉にお姉さまは微笑んだ。
まるで、別れを我慢するかのように悲しく微笑んだ。
「いいえ」
お姉さまは穏やかな声で答えた。
「私は決して優しい人間――吸血鬼ではないわ」
そして、お姉さまは小さな声で付け加える。
「ごめんなさいね」
私はその短い謝罪の言葉に、お姉さまがやはり私のことを全て理解していることを再確認した。
お姉さまは、どうして私がお姉さまが悪いと言ったのか、どうして私が泣いているのか、何もかもをわかっていたのだ。
私は続けて尋ねる。
「お姉さまは私に優しくしてくれるよね」
お姉さまはこくりとうなずいた。
「私だけじゃない。咲夜にも、パチュリーにも、美鈴にも、妖精メイドたちにも優しくしてくれる」
私はお姉さまの綺麗な微笑を見つめながら訊いた。
「それでも、お姉さまは優しい人じゃないの?」
私の言葉に、お姉さまは笑う。子供の未熟さをおかしく思うように、子供のあどけなさに憧れを感じるように笑う。
「そうよ、フラン」
けれども、そう言うお姉さまの顔はどこまでも優しかった――優しかったけれど、否定した。
「優しくするのと、優しいのは全く違うのよ」
私は黙ってお姉さまの言葉を待つ。お姉さまは寝物語でも囁くように、言った。
「フランだから、優しくするの。紅魔館の人間――妖怪達だから、私は優しくするの」
そして、何かを諦めるように言う。
「私は他の人間や妖怪達に優しくしようとは思わないわ」
お姉さまは子供をあやすように私の頭を撫でていた。お姉さまの手が温かくて切なくて涙が出そうだった。
「優しい人とは、そのほかの人間や妖怪達にも優しくできる人のことを言うの?」
私の質問にお姉さまはゆっくりと首を縦に振った。
「そう。その通りよ、フラン」
お姉さまは誇るような、寂しがるような声で言った。
「どんな相手でも怯えることなく、優しくできる人間を優しいと言うのよ」
そして、目を細めて私のことを見た。
「フラン――あなたのような人をね」
――うらやましいわ。
お姉さまはそう言って、ため息をついた。何かに疲れてしまったかのようにため息をついた。
私はそのため息がとても寂しいものに思えた。
お互いの姿が見えてるのに、その間に川が流れていて向こう岸にいる相手に会うことができない――そんな寂しさを感じていた。
「お姉さまは――」
私はそんな感情を振り払うように尋ねた。
「お姉さまは、優しい人になろうとはしないの? 私達だけじゃなくて、他の人間や妖怪に優しくしようとは思わないの?」
私の質問に、お姉さまは自嘲するように笑い、首を横に振って答えた。
「無理よ、フラン。私には無理なの」
お姉さまは本当に諦めるようにため息をついた。
「フランは知らないけど――」
お姉さまは微笑んで言った。
どんな紅よりも儚げな微笑だった。
「私はどうすれば優しい人になれるか忘れてしまうほど、たくさんの人間と妖怪を殺してきたから――」
――本当にたくさんの、ね。
お姉さまは悟ったように言った。そして、流れるように言葉を続ける。
「――そして、これからも殺し続けなくてはならない」
お姉さまの言葉は手のひらに降りしきる雪のように優しく冷たかった。私は凍えてしまいそうな喉を動かして訊いた。
「お姉さまは優しくないから人を殺すの?」
「そうよ」
お姉さまは即座にうなずいた。ためらうことなく首肯した。
私は続けて質問する。
「お姉さまは人を殺すために優しくないの?」
「そうでもあるわ」
お姉さまは再びうなずいた。間をおかず首肯した。
「変えることはできないの?」
私は尋ねた。追い詰められたような気持ちだった。
だが、お姉さまは首を横に振り、悲しげな微笑を浮かべるだけだった。
「できないわ」
お姉さまは悲しげな微笑で、決意するように言った。
「変えるつもりもない」
お姉さまは優しく――だが、突き放すように言った。
「私は優しい人間になるつもりはない」
お姉さまは人を殺すようには思えない微笑を浮かべながら言った。
「私は殺し続けるためにも、優しい人間になるつもりはない」
優しい声でこの上なく残酷な言葉を言った。
「私は自分のために誰かを殺すのをやめることができない。だから、優しい人にはならない」
――私はため息をついた。
「あの女性もこれから殺すの?」
お姉さまはその言葉にしっかりとうなずく。
「もう戦えないような無害な人でも殺すの?」
お姉さまはうなずく。
何度でもうなずく。
私は首を振った。
「――どうして?」
「……………………」
「――どうしてそんな……」
悲しみと怒りだった。悲しみと怒りに私は唸りながら言った。
「私はお姉さまを許したいのに……」
血を吐き出す気分だった。
「このお姉さまを許せない気持ちをどうにかしたいのに……」
私の言葉にお姉さまは悲しげに目を伏せる。
「私はお姉さまを好きでいてもいいと許されたいのに……」
私は頭を抱えながら唸る。
「どうして、お姉さまは優しい人じゃないの……?」
お姉さまが優しかったら、私はお姉さまを許せるのか――
お姉さまが他者にも優しかったら、私はお姉さまを好きでいることが許されるのか――
きっと、そんなことはないのだろうが――
でも、そうだったら、救いはある気がした。
この矛盾した気持ちを少しでも動かせる気がした。
だが、違った。
お姉さまは違った。
お姉さまは優しくなかった。
お姉さまは殺す人間だったのだ。
――やがて、お姉さまは謝罪するような声で言った。
「フランに非はないわ」
お姉さまの言葉に私はうなずくことも、首を横に振ることもできなかった。
「あなたの言ったとおり、悪いのは私。あなたが悲しんでいるのは私のせい。あなたが私を許せないのも、全部私が悪いせい。あなたは知らなかった。外の世界のことを何も知らなかった。そして、私もあなたにずっと隠していた。だから、フランが何も知らないのは仕方のないことだし、今こうしてフランが私を許せないというのも当然のこと――。私はあなたに対してずっと卑怯だった。明らかにフェアではなかった。そして、今も私の臆病のせいで、フェアでない話し合いをしている。だから――」
お姉さまは言った。
「許さなくていいわ」
お姉さまは微笑みながら言った。
「あなたは私を許さなくていい」
「……………………」
「私を許さないでいい。許さないで――私を嫌いになってしまいなさい」
お姉さまの言葉が遠くに聞こえる。とても現実ではないような言葉をお姉さまは続ける。
「あなたは私を嫌いになればいい。そして、もっと多くの人に優しくしなさい。彼らに優しくして――彼らを好きになりなさい」
正直、頭がどうかなってしまいそうだった。
「あなたはあなたの道を行きなさい。あなたはあなたのやり方で幸せになりなさい」
お姉さまは優しげにそう微笑んだ。
――お姉さまの言葉は本気だ。
お姉さまは決して私に対する恨みからこんなことを言っているのではない。
お姉さまは怒りで私を突き放すようなことを言っているのではない。
お姉さまは完全に私を理解した上で言っているのだ。
お姉さまは私に優しくしてくれるから言っているのだ。
そして、きっと本当に私のことを考えてくれていて――
どうしてそんなことがわかるのか――
わかる。
わかるよ。
わからないわけがない。
お姉さまが涙を流しているのに――どうして、わからないなんてことがありえる――
「きっと、そのときは私はフランの傍にいられないでしょう」
微笑を浮かべるお姉さま。また右の頬を一筋の涙が伝う。お姉さまは涙を手で拭い――それでも私に笑顔を向け続けた。
私は身体が震えるのを感じた。がたがたと肩が揺れるのをとめられなかった。
何てことを――
私は何てことを――
ようやく私は自分が取り返しのつかないことをしていたのに気がついた。
だが、遅い。
遅すぎる。
私はお姉さまの手を離してしまった。
お姉さまは自分の手を引いてしまった。
私達の手は離れてしまった。
――ごめんなさい。
咄嗟に私は謝ろうと思った。
謝れば、またお姉さまは私に手を差し出してくれるんじゃないかと考えたのだ。
けれど――
それは違う。
私が謝っても意味がない。
お姉さまが謝らなければ意味がない。
今、この場で私は許す側にいる。
一方、お姉さまは許される側にいるのだった。
だから、私が謝ってもそれは空回りにしかならなくて――
もうお姉さまは私の言葉を受け取ってくれなくて――
そして、決してお姉さまは私に許しを求めることはない――
お姉さまはもう涙を流さなかった。
その綺麗な目から、悲しみが流れることはもうなかった。
お姉さまは笑顔を浮かべていた。
それは晴れ晴れとしていながら――
けれども、雲も何もなくて、強い風だけが吹く青い空のように――どこまでもがらんどうな笑顔だった。
本当に、私は何てことを――
お姉さまは悲しみも何もかもなくしたような――いつものだけど、明らかにいつもではない――見慣れているけど見ているのがつらくてたまらない笑顔を浮かべた。そして、「ところで」と話の流れを変えるように強いて明るい声を上げた。
「フラン。あなた、昨晩、美鈴に会ったのよね?」
――何故いきなりそんなことを?
私は震える肩を抱き、唐突な話題の変更に驚きながらもうなずいた。お姉さまが私と美鈴が会ったことを知っていても、私はあまり驚かなかった。きっと美鈴がお姉さまに教えたのだろう。お姉さまは唇に右手の人差し指を当てて、言葉を選ぶようにして言った。
「あなたにも伝えておくわ。今までこういうことは教えてなかったからね。今回はあなたにも教えなくてはならない。私にはあなたに今回の件について告知する義務がある」
今回の件。
教会の女性のことについてだろう。
私は彼女の処遇に関して、これから話をするのかと思ったが、実際には、もっと大きなことの話だった。
お姉さまは優しい微笑を消し、真剣な顔をする。
その顔にもう悲しい陰は残っていなかった。
「美鈴はあなたに『おつかい』と言っていたようだけど、本当のところ、あれは偵察任務だった。もっと正しく言えば、偵察というよりは捜索かしらね」
お姉さまはベッドから下り、自分の机に向かった。私は「来てちょうだい」というお姉さまの言葉に従って身体を起こし、お姉さまの後ろについていった。机の上には、十字架や質素なペンダントなど、いくつかの小物があり、そして、何枚かのメモが置かれていた。お姉さまは十字架と一枚のメモを手に取った。
「教会の女からもっていたものと、美鈴からの調査報告ね。あの女のもっていた十字架から、特殊な魔力が出ていたの。パチェにその魔力をよく調べさせてみたら、それは彼らの組織の場所を隠蔽する結界の魔力だった」
お姉さまは机に広げてあった地図を私に見せる。紅魔館を中心とする幻想郷の見取り図だった。紅魔館、人里、博麗神社など、いくつかの言葉と記号が記されていた。お姉さまはそのうちのいくつかを指で示しながら私に説明した。
「ここが霧の湖で、その畔に建つのが紅魔館。この大きな山が妖怪の山ね。紅魔館は妖怪の山と霧の湖に挟まれた場所にあるの。そこで、紅魔館から十里ほど、妖怪の山の反対側にいった場所が――」
お姉さまは地図の上で指を滑らす。人差し指は紅魔館から動き、何も印のついていない場所を示した。
「――森のこのあたり」
地図には何も書かれていなかったが、お姉さまの言葉から、実際には森が広がっていることがわかった。おそらく何も目印――というか、特徴のない場所なのだろう。
「この森は人里の人間達も踏み込まない場所で、妖怪達の住処になっている森なの。妖怪の山からも離れているし、強大な妖怪も住んでいない。まあ、無法地帯ってところかしら?」
お姉さまは地図を強く睨みながら言った。
「でも、だからこそ、あの教会の人間達の隠れ家として最適だった。特に危険な妖怪はいないし、私のような強大な妖怪の力の及ぶ場所でもないからね。教会のハンター達は幻想郷の妖怪を敵視していないようだから、あいつらはこのあたりの妖怪を狩らなかったんでしょう。だから、この森に住む妖怪に見つかることもなかった。そのせいか――どうやら、数年前から結界を張って幻想郷に潜伏していたみたいなの」
「――それを美鈴に探させたの?」
お姉さまはうなずいて答えた。
「ええ。美鈴の『気を操る程度の能力』はレーダーの代わりにもなるからね。美鈴には十字架にこめられていた魔力とよく似た魔力を探索して、この場所をつきとめてもらった」
そうか。美鈴の昨晩の格好は偵察のための変装だったのか。髪を黒く染めたのも、人里の人間の格好をしたのも、敵に見つかったときに人間だと誤魔化せるようにするためだったのかもしれない。
「まあ、そんなことはほとんどないんだけどね。美鈴の密偵としての能力は一級だし、あくまで保険――それから、美鈴の趣味みたいなものね」
あいつは本当にこういうこと好きだからなあ、とお姉さまがため息をついた。
しかし、そう愚痴るように言うお姉さまは少し楽しそうな顔をしていた。
私ももうその様子に特に感じることは何もなかった。
「それで、美鈴には場所の特定だけでなく、人員の確認もしてもらった。それで、結果がこれ」
お姉さまはそう言って、私に新しいメモを見せた。
『戦闘員 23人(男18人 女5人)
その他(老人を含む。子供は別記)
男性 34人
女性 37人
子供 27人(男14人 女13人)
合計 121人』
「……121人?」
私は思わず呟いていた。
「どうしてこんなたくさん?」
「ええ、興味深いわね」
お姉さまは腕を組んでうなずく。にやりと頬が歪むのが見えた。
「普通、教会の暗殺部隊は、数人から多くて10数人で構成されている。もちろん、暗殺者のほかにも偵察員だとか補給部隊がいるけど、それを合わせたとして、どんなに多くても50人より多くなることはないわ。このことから考えられるのは――」
お姉さまの言葉はにわかには信じられないものだった。
「移民ね」
「……移民?」
「移住でもいいけどね。この規模はもう移民と呼んでいいでしょう。深い事情はわからないけど、奴らは暗殺者の集団だけじゃなくて、その家族もまとめて幻想郷にやってきたのよ」
お姉さまはまた新しいメモを示しながら言う。
「美鈴の偵察では組織の在り処に幾つかの畑が確認されたそうなの。それに数十軒の家――とても数ヶ月の生活で終わるようなものじゃなく、何十年に渡って住めるような家を建てている。彼らは幻想郷で自給自足の生活を密かに送っていたようね。私と美鈴もこういったことから、敵が何年にも渡って幻想郷に潜伏していたということを推測した。ここまで来ると、もはや村と呼んでも差し支えないでしょう」
「そのまま静かに暮らしてくれてればよかったんだけどね」とお姉さまはため息をつきながら言った。
私は机の上の資料――なんと、美鈴は写真まで撮ってきたようで、何枚かの村の様子を表した写真が置いてあった――を見つめていた。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、この人たちは紅魔館を攻撃してきたんだろう?」
私の言葉に、お姉さまは肩を竦める。そして、どうでもよさそうに言った。
「さあ、何故かしらね? 宗教的使命感が理由として一番わかりやすいけどね。そして、実際にこういったハンターは狂信者が多いから、その理由が一番考えられるわね。『吸血鬼は生きているだけで罪悪』――そう考えてる連中だから」
お姉さまは本当につまらなそうな顔をしていた。怒ったような素振りさえ見せず、どうでもいい、という表情をしていた。
――『吸血鬼は生きているだけで罪悪』。
……何て無茶苦茶な。
どうして、そんな酷いことを考えつくんだろう。
吸血鬼は『人間は生きているだけで罪悪』と言ったことがあるんだろうか?
胸が苦しくなるばかりだった。
確かに人間と妖怪は敵対し合う関係だ。教会のハンター達のように、私達吸血鬼と敵対する人間がいてもおかしくないのだろう。
でも、『生きているだけで罪悪』なんて酷すぎないか?
『おまえは生きていてはいけない』なんて、どうしてそんな無慈悲な言葉を言えるんだろう。
どうしてそんな悲しくてむかむかすることを考えられるんだろう。
私はお姉さまを見やる。
――『レミリア・スカーレットは生きているだけで罪悪』。
そんな言葉を思い浮かべるだけでも、腹の底が煮えくり返りそうだ。
――そんな馬鹿げた理屈、絶対に私は許さない。
お姉さまは右の頬に手を当てて先を続けた。
「他にも理由は考えられるわ。 何かしら外の世界と契約があって、幻想郷に住めるようになる代わりに私の討伐を約束したのかしら。まあ、装備がかなり充実していたところを見ると、その可能性がかなり高いわね。美鈴に報告してもらった戦闘員の人員と、私を襲ってきたハンターの装備から推測して――純銀製の槍に使われた膨大な銀の量、優れた結界構築技術を考慮に入れて考えると、ひょっとしたら、これは長期的な移民計画だったのかもしれない。銀は幻想郷でも貴重だし、それを供給する手段としたら、幻想郷の外からもってくるのが一番早いもの。案外、レミリア・スカーレットの討伐と移民計画は同時並行の別々の作戦だったのかもしれないわね。移民計画を進めながら、レミリア・スカーレットの討伐部隊を組織し練成する――そんな舞台裏も想像できるわ」
「まあ、あくまで想像の範疇を過ぎないんだけど」と、お姉さまはまとめた。
――移民。
彼らはどんな気持ちで幻想郷に引っ越してきたのだろう。
憎き吸血鬼の討伐に燃える使命感か、それとも異境の地に送られる不安か――
前者なら、彼らは決して不幸ではない――私たちには迷惑以外のなんでもないが――それでも不幸ではないのだろうけど――
後者なら、彼らが哀れなように思える気がした。
そして、もし彼ら自身が望んだことではなく、誰かの命令によってお姉さまを襲ったのだとすれば――
彼らも憐れむべきではないだろうか。
――人間にとって吸血鬼はどんな存在なのだろうか。
人間は吸血鬼に殺意しかもたないのだろうか。
人間にとって吸血鬼とはただ殺す対象なのだろうか。
『フランも意外と優しいよな』
魔理沙の言葉を思い出す。
人間の魔理沙の言葉を思い出す。
魔理沙は私たちのことを殺そうとしていない。
霊夢だって弾幕ごっこをするだけで、私達が死ぬべきだなんて考えていない。
そして、咲夜はいつだって私達の味方でいれくれる。
人間だって、ただ『人間』であるわけではないのだ。
お姉さまや私がただ『吸血鬼』でないように。
お姉さまや私が幻想郷で人間と共存できているように、彼らも私達と共存することはできないのだろうか。
和解の余地はあるんじゃないのだろうか。
殺す以外にも選択肢が――
それでもお姉さまは殺すのだろうか。
お姉さまはどうしてそこまで彼らを敵視するのだろうか。
同じ『人間』としてお姉さまは彼らを殺すのだろうか。
……愚問だ。
私の疑問は愚問以外のなんでもなかった。
お姉さまが教えてくれたじゃないか。
自分が優しくない人間だから、と。
咲夜は言った。
『フランお嬢様はお優しいですね』と。
そして、お姉さまも――
どういう意味なのだろう。
『優しい』とは。
『優しくする』とは。
そして、『優しくない』とは。
私は優しいのだろうか?
もし、そうならば、皆は違うということなのだろうか?
やはり、皆ではなく、私がおかしいのだろうか?
私だけが狂っているのだろうか?
もし、そうだとしたら――
『優しい』とは狂っているということなのだろうか?
――わからない。
わからないことだらけだった。
自分が狂っているのか。
世界が狂っているのか。
それとも狂っていない世界などないのか。
そもそも私が気がふれていることが問題なのか。
どれが正しいのか。
それとも正しいものなどないのか。
あまりにも私は無知なのだった。
気づくとお姉さまが私の顔を覗き込んでいた。
心配そうな顔で覗き込んでいた。
お姉さまは500年生きている。地上で500年以上生きている。
私はずっと地下室にいた。495年か地下室にいて、地上に出たからまだ10年の歳月も経っていなかった。
私は知らない。
殺すということを。
殺さなければならないということを。
優しいということを。
ならば、お姉さまは――知っているのだろうか。
その500年の中で。
数年しか生きていない私と違って。
「お姉さま」
私は尋ねる。
お姉さまは小首をかしげた。
「今の話とはあまり関係ないことなんだけど――ちょっと変なことなんだけど、訊いていい?」
「……ええ、いいわよ」
「『殺す』って、どういうことなの?」
お姉さまが息を吸い込む音が聞こえた。
「『殺す』って、どんなことなの?」
その質問にお姉さまは押し黙ったが、やがて諦めるようにして言った。
「……『殺す』というのは、一概には言い切ることができないわ。『生きる』という言葉が様々な意味を持つように『殺す』という言葉もたくさんの意味を持つ。だから、定義することは難しい」
だけど、とお姉さまは遠くを見るような目をした。まるで、自分の後ろの道を振り返るようなため息をついて言った。
「もし、それでも、一言で言うとしたら――『殺す』ということは、『いらない』ということなの」
「…………」
「相手に、あなたはいらない――そう伝えることが、殺すということなのよ」
その言葉に――私は理解した気がした。
『殺す』ということを理解した気がした。
殺されたように、『殺す』という言葉を私は理解していた。
私はその言葉を理解すると同時に、どっと疲れが湧き出してきた。
よくわからない倦怠感が感じていた。
いや、その疲労感は私が嫌というほど感じてきたものと同じだった。
私は何ともなしに、お姉さまの机の上のものに手を伸ばしていた。
何か、ちょっとした手慰めになるものがないかを探すように。
ペンダントを見つけた。
菱形をしたペンダントの中には写真が入っていた。
なら、これはただのペンダントではなく、ロケットというものだろう。
あの教会の女性がもっていたロケットだった。
切手ほどの大きさの写真を覗き込む。
あの教会の女性と小さな女の子が笑って写っていた。
私に殺意の視線を向けた女性が別人のように、優しげな笑顔を浮かべていた。
女性に抱えられている女の子も無邪気に笑っていた。
女の子は私と同じくらいの容姿だった。
顔つきが似ているところを見ると、姉妹なのだろう。
姉妹は幸せそうに笑って、ロケットの写真に写っていた。
大事なんだろうなぁ、と思う。
この女の子にとって、このお姉さんは大事なんだろうなぁ、と。
絶対にいらない存在じゃないんだろうなぁ、と。
私にとって、お姉さまが絶対に必要な存在であるのと同じように。
この子にとって、このお姉さんはとても大事な人なのだ。
お姉さまは私の姿を見て、呆然としたように立っていた。
諦めと申し訳なさの混ざったような表情で立ちすくんでいた。
「お姉さま、この写真見た?」
自分でも、ため息が出るくらいくたびれた声だった。私の問いにお姉さまも錆びたブリキの人形みたいにうなずいた。
「こんな優しそうな顔をしている人をお姉さまは殺すの?」
「…………」
「こんな幸せそうな家族をもっている人を――」
お姉さまはしばらく黙っているようだったが、やがて――
「ええ」
しっかりと――確固たる意志を持って首肯した。
「絶対に殺すわ」
お姉さまの声には疲れが含まれていたが、それでも、紅い瞳が血のように輝いていた。
「私はレミリア・スカーレットだもの」
私はため息をつく。今日で何度目になるかわからないため息をつく。
本当に――駄目なんだ。
お姉さまは殺すのをやめてくれないんだ。
お姉さまもわかっているのだろう。
写真の女の子にとって、この女性が大事な人であることを。
いらない人では決してないことを。
それでもお姉さまは殺すのをやめない。
わかっていてもお姉さまは絶対に殺す。
――そんなに殺すことに意味があるのか?
――そんなにお姉さまにとって、この女性はいらないのか?
――この女性を殺さなければお姉さまはレミリア・スカーレットでいられないのか?
しかし、それでは終わらなかった。うつむいてしまった私に、お姉さまは続けて信じられないようなことを言った。
「――その女だけじゃないわ」
冬の夜に吹く風でさえ震え上がってしまいそうな声だった。
「……だけじゃない?」
お姉さまの言葉から、私はとても不吉なものを感じた。
お姉さまは昨日、組織を壊滅しなければならないと言った。それなら、お姉さまはこの女性以外の組織の人間を殺すということになるのだろう。なら、お姉さまの言葉は言うまでもないことだった。
だが、私はお姉さまの口調から、そんな当然のことを言っているのではないと感じていた。
そこで、私はふとある違和感に気づいた。
私は美鈴が作ったリストを思い出していた。
どうして、あのリストは戦闘員以外の人間についても書かれているんだ?
老人を含んだ男性、女性、そして、子供――
どうしてそんなものまで、事細かに人数を調べる必要がある?
戦闘員だけで十分じゃないのか?
そして、ある考えに思い至る。
私は自分の顔から、さあっと血が引いてゆくを感じていた。
「まさか――」
見上げたお姉さまの顔はもう悲しそうな色はなかった。ただひたすらに強い意志の存在しか、その表情からはうかがうことができなかった。
私は自分の頬が引くつくのがわかった。
「冗談だよね……?」
お姉さまは微笑むことなく首を振った。
「いいえ、フラン。冗談ではないわ」
お姉さまは自然な声で――強くも弱くもなく、さも当たり前だと言わんばかりに宣言した。
「私はこの村を全滅させる」
一瞬、視界が真っ暗になった。
「私はこの村の人間全て、皆殺しにする。老若男女善悪問わず、根こそぎ皆殺しにする」
お姉さまは淡々と語る。
「それが私のやりかただから」
私はしばらく呆然としていたが、ぽつりと呟いた。
「おかしいよ」
私の言葉にお姉さまはうなずいた。
「ええ。わかってるわ」
お姉さまはやはり表情を崩さなかった。
「わかっててもやるの?」
お姉さまは再び首肯する。
「ええ、わかっててもやるわ」
お姉さまは声に少しの動揺も見せなかった。
「それがレミリア・スカーレットだから?」
お姉さまは意志を変えることはなかった。
「そう。私がレミリア・スカーレットだから」
お姉さまが変わることはなかった。
信じられなかった。
そりゃ信じられないだろう。
どうして、無力な人間を殺す必要がある?
どうして、無害な人を殺すことができる?
どうして、お姉さまを襲ってきた女性だけじゃなくて、この笑っているだけの女の子まで殺すことができるんだ?
それは必要なことなの?
「わからない」
お姉さまははっきりとした口調でそう言った。私は上擦った声で言った。
「わからないって……」
動揺する私とは対照的に、お姉さまは落ち着いた声で答える。
「わからないけど、私は今までそうしてきた」
「…………」
「私は――レミリア・スカーレットという吸血鬼はそうやって生きてきた」
お姉さまは一つだけ小さくため息をついて言った。
「私のやり方は正しかったかはわからないけど、それはきっと成功してきた。正しくなかったかもしれないけど、成功はした」
だから――とお姉さまは私を真っ直ぐ見据えて言う。
「私は今回もやりかたを変えるつもりはない」
このとき、私はさっきと同じように、お姉さまが本気なのだとわかった。
きっと、お姉さまはこの村の人間を皆殺しにしてしまうのだと。
この写真で無垢に笑っているだけの女の子を虐殺してしまうのだと。
あまりにも大きなこと過ぎて想像がついて行けなかった。
漠然とそれはおかしいということだけしかわからない。
でも、それはきっとやってはいけないことなのだろうと思う。
決して許されることではない。
たとえ、吸血鬼であっても、それは許されることじゃない。
――いや、吸血鬼ならば、こんなことはしないだろう。
吸血鬼は人の血を吸う鬼だ。
殺人鬼じゃない。
だから、やはりそれは単純にお姉さまがお姉さまであるからで――
やがて、私はぽつりと言った。自分でも聞き取るのが難しいくらいかすれた声だった。
「……やめてよ」
お姉さまの顔がわずかに強張る。
「そんなことをするのはやめてよ……」
お姉さまは答えなかった。ただじっと私の顔を睨むようにして見ている。
「そんなことをするなんて、お姉さまじゃないよ……」
私の言葉に、お姉さまは長く息を吐いた。そして、首を振って答えた。
「いいえ」
お姉さまはやはり私の願うことを否定するのだった。
「これが私なのよ」
お姉さまはやはり私の願わないことを肯定するのだった。
そんな事実受け入れられるか――
私は気づくとお姉さまに掴みかかっていた。激しい力でお姉さまの両腕をぎゅっと握った。
お姉さまは抵抗しなかった。
「どうして? おかしいよ。絶対におかしい。許さなくいい、とかそういう問題じゃないよ。これじゃ――これじゃ、本当に――」
本当にお姉さまのことを許せなくなってしまうじゃないか。
もしかしたら――
もしかしたら、お姉さまのことを嫌いになってしまうじゃないか。
私はお姉さまに詰め寄る。自分の感情の押し付けでしかないとわかっていても、相手の理想化にすぎないと理解していても、私は止まらなかった。
「どうして、わかってくれないのさ――」
これは我が儘なんだろう。
私の自分勝手でしかないんだろう。
だけど――
それでも――
私は我が儘じゃないと生きていけないのだ。
私はお姉さまに対して我が儘じゃないと生きていけないのだ。
それくらい私はお姉さまのことが好きなのに――
お姉さまだってそれをわかっているに違いないのに――
私はお姉さまの腕を掴んだまま言う。
「ねえ、お願いだよ、お姉さま。私はお姉さまに人を殺して欲しくない。もうそんな恐ろしいお姉さまは見ていたくない」
あのとき、お姉さまは私のお願いを聞いてくれた。すぐに拷問をやめてくれた。
私はかすかな希望にすがる気持ちで言う。
「お願い、お姉さま。村を全滅させるなんてやめて。もうこれ以上、人を殺すなんてことしないで」
そう言った私の顔はお姉さまからはどんな風に見えたのだろう。
お姉さまは一瞬、表情を曇らせたけれど、すぐに表情を鉄面皮の様な堅いものに変えた。
「そのお願いは聞けないわ、フラン」
お姉さまは静かな声で言った。
「フランのお願いごとであっても聞けない」
お姉さまはようやく笑う。
私を慰めるように笑んで――
自分を諦めるように笑んで――
お姉さまはそう笑んで否定する。
満月にも負けないくらい綺麗な笑顔を浮かべて、お姉さまは言った。
「だから、あなたは私のことを許さなくていい」
私はお姉さまの笑顔を見つめる。お姉さまの声は優しかった。
「それで、いいのよ」
どうして、と思う。
本当に、どうして、としか思えない。
そして、どうして、と思う一方で、諦めている自分がいる。
どうしようもなく諦めている自分がいる。
お姉さまを諦めている自分がいる。
「……これで今回の件についての説明は終わりよ」
お姉さまは私の手首を掴み、ゆっくりとその手を自分の腕から引き剥がした。
私の手にはもうお姉さまを掴んでいるほどの力も入らなかった。
「さあ、私は仕事をしないと」
そう言って、お姉さまは机の前の椅子に座った。仕事なんかないくせに――そう軽口を叩ける気力も残っていなかった。お姉さまは私に暗に帰れと言っているのだろう。
もう諦めろ。
そう言っているのだろう。
私は一歩、扉に向かって足を踏み出す。
自分の足で自分の身体を支えられていること自体、とても不思議だった。
心はぽっかりと空っぽなのに、身体がとても重く感じられた。
一歩、一歩よろけそうな足で扉の方へ私は進んでいった。
だが――
「待って、フラン」
何歩か歩いたところで、お姉さまが私を呼び止めた。
振り向くとお姉さまは――とても必死な顔をしていた。
切なげで、一生懸命な顔をしていた。
お姉さまが椅子から立ち上がり、私に近づいてくる。
私もお姉さまのほうに身体を向けた。
手を伸ばせば届くところまでお姉さまは来ていた。
そこから半歩お姉さまが私に寄る。
お姉さまは何かを我慢するような顔で私をじっと見ていた。
「何?」とは訊かなかった。
私はお姉さまを待ち続けた。
お姉さまは何度か、躊躇するように口をぱくぱくさせていたが、やがて、かすれた声で言った。
「少し、抱きしめさせてもらってもいいかしら――?」
その質問は、普段のお姉さまなら、きっと訊かない質問だった。
私は少しだけ躊躇ったが、うなすいた。
そして、腕を軽く開き、お姉さまを受け入れる格好で待つ。
――だが、いつまで経っても、お姉さまは私の背に腕を回すことはなかった。
お姉さまは私の顔と胸の辺りに視線を何度も彷徨わせていたが、やがてうつむいてポツリと言った。
「ごめんなさい」
お姉さまらしくない弱々しい声だった。
「余計なことをお願いしてしまったわね。図々しかったわ。本当にごめんなさい」
そして、お姉さまはつかつかと机まで戻った。そして、引き出しから書類を取り出し、それに目をやる。
しばらく私はお姉さまが何枚かの書類をめくるのをじっと見つめていた。
静かな部屋に紙の音だけが響く。
――行こう。
私はぼんやりとそう思った。
お姉さまが何をしたかったのか――考えることすらできずに、ただそう思った。
私はお姉さまに背を向け、お姉さまの部屋を後にした。
わかっていた。
こうなることはもうわかっていたのだ。
廊下でフランを見つけたときにもうわかっていたのだ。
『お姉さまが悪い』――あのとき、フランは私のことをよくわかっていたのだろう。
そして、私もフランの言葉が意味するところをわかってしまっていたのだ。
だから、これは必然なのだ。
必然は避けられなかった。
先延ばしすることはできるかもしれなかったが――
それでは、却って悪くなるだけだった。
私とフランの関係においても。
私の人殺しの在り方においても。
だから、これでよかったのだ。
そこまで思ったところで、私は自嘲する。
昨日の夕食のときも今日の朝食のときもフランと同席しなかったのは、フランに会うのを恐れていたからじゃないかと。
フランに何て言われるか怖がっていたからじゃないか。
フランに嫌われるのを怖がっていたからじゃないか。
私はため息をついた。安堵と諦観と自嘲の混ざったため息をついた。
だが、それも終わりだ。
そんな心配をする段階は過ぎてしまったのだ。
――残念だが、フランの願いには応えられない。
優しいフランの願いを優しくない私は認めることができない。
だが、それは決してフランが間違っているということではなく――
私が正しいということでは決してない。
フランが間違っている、などと私は思いたくなかった。
確かに成功の道のりは遠いかもしれないが――
私もフランの考え方に賛成していたかった。
けれども、それは許されないことだった。
この、今許されている安寧がいつまで続くのか。
この世に永遠などない。
永遠に続く安寧など存在しない。
幻想郷は平和かもしれないが、その安寧がいつまでも続くなどと私は思っていない。
いつか私がまた爪を血に濡らさなければならない日が来るだろう。
だから、私は続けなければならないのだ。
レミリア・スカーレットとして人を殺し続けることを。
500年間続けてきたやり方を私は今、また始めなければならないのだ。
私が自分を『スカーレットデビル』であることを厭う前に。
自分が人殺しなどもうたくさんだと弱音を上げてしまう前に。
そして、もしそれで私の服が真っ紅に染まることがあろうとも、私は満足なのだ。
フランに許されなくなっても、私は幸せなのだ。
フランの服が血に汚れることさえなければ――
フランを守りきることができるのなら――
私が『スカーレットデビル』であることに耐えられたのは、フランがそれを知らないからだった。
フランが私を『スカーレットデビル』ではなく、ただのレミリア・スカーレットであることを許してくれたからだった。
とうとうフランは知ってしまったけど――
それでも、もう十分だった。
フランが私にこれまで与えてくれたもので、もう十分だった。
今、フランが私を許してくれなくても、もう私は十分すぎるほどたくさんのものを与えられているのだった。
フランが今まで私に与えてくれたもので私は十分幸せになれるのだった。
フランは私のことを嫌いになるだろう。
今は戸惑っているかもしれないが、やがて、私のことをしっかりと嫌いになってくれるはずだった。
私のことを嫌いになって、私のことなど考えなくなって――
代わりにたくさんの友達に囲まれて――
それでいい。
私は遠目から見ているだけでいい。
フランの笑っている顔を遠くから眺めているだけでいい。
負け惜しみでもなんでもなく、私は本当にそれだけで満たされるのだろう。
何とも後ろ向きだが、誰にも文句など言わせるものか。
それが私のこの上ない幸せなのだ。
あの子の寝顔を撫でているとき、私はその思いを再確認していた。
あの優しい寝顔を見て、私は妹がこの子で本当によかったと思っていた。
そして、あのとき――
フランに抱きつかないで本当によかった。
もし、あのままフランにしがみついていたら、私の決心は粉々に壊れていただろう。
そして、これから自分をずっと呪いながら生きていかなければならなかっただろう。
我ながら、優柔不断だと苦笑する。
『スカーレットデビル』の愛を受け取る者などいない。
『スカーレットデビル』を愛してくれる者などいない。
ずっと昔から覚悟してきたことなのだ。
今更、それを引っくり返すことなどできない。
書類仕事などせず、机の前でぼーと考え事をしていた私を、ドアをノックする音が現実に引き戻した。
「入っていいよ」と声をかける。
美鈴が一礼をして、入室する。
服装はいつもの大陸風の服。髪の色も黒から、鮮やかな赤色に戻っていた。
だが、入ってきた美鈴は私を見ると眉をしかめ、用件も言わずに私の顔をじっと見ていた。
私も美鈴に合わせて黙っていた。
やがて、美鈴は怪訝そうに言った。
「お嬢様、具合でも悪いのですか?」
その言葉に私は驚く。
「いや、そんなことないよ。私はいつもどおりだけど?」
しばらく、美鈴は私の顔を観察するように眺めていたが、やがてため息をついた。
「また、妹様か……」
「……『また』とは何よ。『また』とは」
「ほんと、姉馬鹿ですね」
呆れたように言う美鈴。私は「余計なお世話」だと返した。美鈴は一つため息をつくと、すぐに私の部屋に入ってきた用件について話した。
「パチュリー様にも、組織の隠れ家の場所について伝達してきました。パチュリー様も報復作戦について協力してくださるそうです」
「教会の攻撃の第二波については?」
「偵察部隊――お嬢様が殺したあの男と、今、空き部屋に入ってる女、それから、パチュリー様の部屋にあった黒焦げ死体ですね――が戻ってくるのを待っているようです。それまで攻撃はないかと」
「ああ、あの三人、偵察部隊だったんだ……まあ、人数的にそうか。偵察部隊のくせによく私を殺そうとしたなぁ」
「殺せると油断していたのでしょうね……ところで、お嬢様、どんなときに襲われたのですか?」
「……どんなときって?」
「偵察部隊が殺せると思えるくらいなんだから、よほどお嬢様も油断しているように思えたのでしょう。ですから、どんなときに攻撃を受けたのですか?」
「……言わなきゃ駄目?」
「ええ。できれば聞いておきたいですね」
「……フランのドロワーズ被ってるとき」
「……はあ、姉馬鹿どころか、姉変態ですね」
「うるさい、黙れ。これでも反省してるんだから」
「反省してる割に偉そうですね」
「悪かったわね。これが私の性分なのよ」
やれやれと美鈴が首を振る。……反省しているのは本当だ。妹のドロワーズを被ってほんわかしているときに襲われたなんて格好悪すぎる。まあ、被っているときに攻撃されても、全く障害にはならないんだけど。ドロワーズを被ってようが、人なんていくらでも殺せるのだ。
私はしばらく他に何が必要かを考えていたが、特に思いつかなかった。まあ、報復攻撃についてはこんなところでいいだろう。一番恐れているのは、こちらが組織の隠れ場所を攻撃するのと、教会の暗殺部隊が紅魔館を襲撃するのと入れ違いになることだったが、もし、敵の攻撃部隊が偵察部隊の帰りを待っているとすると、今晩中に攻撃を行うことができれば入れ違いの心配はない。まあ、偵察部隊と音信不通になってから、丸一日以上経っているだろうから、あっちももう死んだものだと思って攻撃してきてもおかしくないんだけど。だが、実際今日の今まで攻撃してくることはなかったし、まさか今晩中――ちなみに今はもう午後4時になろうとしていた――に襲ってくることはないだろう。夜は妖怪の領域だ。ハンターが吸血鬼を退治しに来るのは、昼と相場が決まっている。夜に吸血鬼を退治しようなど、自殺行為以外の何でもなかった。人間にとって夜とは妖怪の襲撃を恐れて震えているものなのだ。まあ、私達としては今晩中に攻撃した方がいいだろう。
攻撃――虐殺。
私はフランのことを思い浮かべていた。
やはり、目蓋の裏にはフランの泣き顔しか映らなかった。
人を殺さないで――そう訴えるフランの必死の顔が脳裏にちらついていた。
――そうだ。
私は他にもやるべきことを思い出していた。
私はそのことについて美鈴に伝えた。
美鈴は最初怪訝そうな顔で「よろしいのですか」としきりに私に尋ねてきたが、私は半ば無理矢理、美鈴にその役を受けもってもらった。
私は自嘲した。
流石に私自身ではこの役はできそうもなかった。
全く私は最後まで卑怯者だ。
もう美鈴は何も言ってこなかった。美鈴は何かを考えるような顔をして私をじっと見つめていた。しばらく静かな時間が流れる。私は今さらだったが、一応訊いておいた。
「ねえ、美鈴。私ってそんな元気なさそうに見える?」
その質問にしかめっつらをした美鈴は深く深くうなずいた。
あの後、地下室に帰った私はベッドで眠った。
部屋には咲夜が作ってくれたサンドイッチがあったが、相変わらず食欲はなかった。咲夜には悪かったが、私はそれを食べずにベッドに横になった。
何もする気が起こらなかった。
ただ寝ることしか頭に思いつかなかった。
このまま寝ていれば、何もかも昨日よりも前の紅魔館に帰ってくるんじゃないか、そんな期待があった。
けれども、そんなことはないのだろう。
何かを知った人は、それを知る前に戻ることはできない。
私もまた、昨日以前の私に戻ることはできないのだった。
いや、違う。
紅魔館も私も変わったのではなくて――
私だけが変わったのだ。
私が変わったから、紅魔館が以前と違うように見えるだけなのだろう。
きっと、紅魔館は昔からそうだったのだ。
お姉さまはずっと前から、人を殺してきたのだ。
殺す。
いらないということ。
相手に、あなたはいらないと伝えること。
ならば、私は殺されてきたのかもしれない。
495年間、地下に閉じ込められて――
おまえは危険だから。
おまえは狂っているから。
おまえはいらないから、と。
仕方がなかったとはいえ。
私はずっと閉じ込められてきたのだ。
私も自分で気づいた。
どうして、自分がこんなに殺すということに敏感になっているかを。
それこそ、殺されるように気づいていた。
私も同じだったのだ。
いらないと言われ続けてきたから。
だから、殺すということが許せないのだ。
殺されてきたから――いらないと言われ続けてきたから――
誰かが誰かにいらないなんて言うことが許せなくて仕方ないのだ。
誰かが誰かを殺すということ自体が許せなくて仕方ないのだ。
世界はそんな風にできているのだろうか。
誰かを殺さないといけないようにできているのだろうか。
誰かにいらないと言わなければ生きていけないようにできているのだろうか。
私は無知だった。
世界がそんな恐ろしい場所であっても、私はそのことを知ることができずにいた。
お姉さまが自分を――そして、誰かを守るためにそのほかの誰かを殺すのも仕方のないことなのかもしれなかった。
でも――
でもさぁ――
そうだったとしても、私はお姉さまには誰かを殺して欲しくないんだよ――
どうしても、私はお姉さまが誰かを殺すなんてことが許せないんだ――
どんなことがあっても、お姉さまに人殺しでいて欲しくないんだ――
お姉さまは私をいらないとは言わなかった。
確かにお姉さまは私を地下室に閉じ込めることを引き継いでいたけど。
それでも、お姉さまは私のことを見捨てないでいてくれた。
お姉さまは絶対に私をいらないなんて言うことはなかった。
だから、どうか――
――私を見捨てないでいてくれたお姉さまだからこそ思う。
彼女達のこともいらないなんて言わないで――
私は地下室でひたすら願うことしかできなかった。
――それだけじゃない。
嫌いになってしまいなさい――
どうしてお姉さまがそんなことを言ったのか、今になってもわからなかった。
お姉さまは私にどう思われても平気なのだろうか。
私はお姉さまにとってその程度の存在だったのだろうか。
今ここに至って、お姉さまは私のことなどどうでもいいのだろうか。
私はお姉さまのことが大好きなのに。
もし、私がお姉さまに嫌われたとしたら――
考えるだけで、頭痛がする。胸が締め付けられる。
お姉さまはそうではないのだろうか。
私にとってお姉さまはとても大事なものなのに。
嫌うなんて、とてもできないのに。
私はお姉さまを嫌いたくない。
どんなことがあっても、私はお姉さまを嫌いになりたくない。
お姉さまを好きだという気持ちだけで幸せになれるのに、どうして嫌いになれるだろうか。
それなのに、どうしてお姉さまは――
嫌いになってもいいなんて――
あるいは私にとって、このことの方がショックだったのかもしれない。
そして――
目を閉じると、お姉さまが笑いながら涙を流している顔が思い浮かんだ。
あんな悲しそうなお姉さまは見たことがなかった。
あんな儚そうなお姉さまは生まれて初めてだった。
私がお姉さまにあんな顔をさせてしまった。
私がお姉さまを傷つけてしまった。
パチュリーの言葉通りに私はお姉さまを深く傷つけてしまった。
――あの涙が血に思えた。
お姉さまの心の致命傷から流れてくる――
私は頭を抱えた。
お姉さまを許せない気持ちはあるけど――
私はどうしようもなく後悔していた。
私はお姉さまを傷つけた私を許せなかった。
とても許せなかった。
ごろり、と私は寝返りを打った。
時計が目に入る。
6時だった。
もうこんな時間かと思う。今日は寝ている時間が長かったから、いつの間に夕方になっていた。
夕食まであと一時間だった。
きっと、また咲夜が呼びに来るのだろう。そして咲夜に連れられて食堂に向かうのだ。
そのとき、お姉さまも食卓にいるのだろうか。
仮に会ったとして、私はお姉さまとどんな顔を見せればいいのだろうか。
本当にどうしよう。
私はまたため息をついた。
鬱々をした気分で扉の方を見やると、
ちょうど扉を誰かがノックした。
――誰だろう?
私はベッドから身体を起こして、扉に目を向けた。
咲夜ではないだろう。時計を確認したばかりだ。まだ食事まで一時間ある。時計が止まっていることを考えられたが、ちゃんと秒針は動いているし壊れてはいないようだ。
じゃあ、誰なんだろう?
私のドアをノックできる――すなわち、地下室の隔壁のような扉のロックを解除できる人は限られている。
私の部屋に入るには二つのドアを通る必要がある。
まず一つ目の扉。私の力の暴走や、私が発狂して脱走した場合を想定して、私の地下室には火災時に閉まる隔壁のように巨大な扉が取り付けられていた。厚さ数十センチもの鉄製の扉であり、物理的強度はもちろん、魔法的防御システムが施されていて、魔法に対する攻撃にも相当な耐久性を誇るという。パチュリー曰く、マスタースパークでも傷一つつけられないとか。私が地下室から出て、紅魔館の中を歩き回るのを許可される前から、この扉はあった。この扉を開けるにはパスワードを言う必要がある。そのパスワードを知っている人間は限られていた。
すなわち、私、お姉さま、咲夜、パチュリー、美鈴の5人である。
そして、二つ目の扉。それが今、ドアの外にいる誰かが叩いている扉だった。木製でお姉さまの部屋に取り付けられているものと同じ、豪奢な作りの扉である。本来は地下室には一つ目の扉しかなかったのだが、私が地下室から出られるようになってから、お姉さまがわざわざ取り付けてくれたのだった。私はそのお姉さまの心遣いがとても嬉しかった。
この扉を叩いているということは、向こうにいるのはお姉さまか咲夜、パチュリー、美鈴だということになる。
――お姉さまだろうか。
もし、そうだったら、今、この扉を開けたいとは思わなかった。
お姉さまに会って、本当にどんな顔をしろというのだ。
だけど、開けなかったら、お姉さまはどんな気持ちになるだろう。
私はベッドから下りて、恐る恐るドアに近づいた。
また、ドアがノックされた。
それと同時にどこか呑気で、だが、元気に溢れた声がドア越しにかかる。
「美鈴ですけどー、フランドールお嬢様いらっしゃいませんかー?」
私はほっと胸をなでおろし、ドアを開ける。
美鈴がいつもの柔らかな微笑を浮かべて立っていた。
服はいつもの大陸風の服装。髪の色も黒から、鮮やかな紅色に戻っていた。
「お、いらっしゃいましたね」
美鈴は私を姿を見ると、にこっと笑った。
私もその笑顔に釣られて微笑む。
「どうしたの、美鈴?」
私が尋ねると、美鈴は微笑を保ったまま言った。
「いえ、咲夜さんにフランお嬢様をお食事にお呼びするようにと言われまして」
「もう食事?」
私は驚いてもう一度、部屋の中の時計を見る。やはり針がずれていたのだろうか。それとも、予定から時間が早まったのだろうか。
「いいえ。あと1時間後です。夕食はいつもどおり7時ですよ」
部屋の中を振り返った私に対して、美鈴は手を振って答えた。そうか。では、私の部屋の時計はずれてもいないし、夕食も定時どおりということになる。しかし、それだと別の疑問が生ずるのだった。
「……じゃあ、何で美鈴はこんなに早く来たの?」
私の質問に美鈴は「あー」と天井を見た。しばらく考えるようにそうしていたが、やがて、照れたように笑った。
「いえ、私も時間が空いたので、フランお嬢様とお話したかったのです」
美鈴の答えに私は一瞬、ぽかんとした。美鈴がこのようなことで私の地下室に下りてくることは珍しかったのだ。私が黙って美鈴の顔を見ていると、やがて、美鈴は気不味くなったのか、「あー、やっぱり正直に言うか」と一人ごち、微笑んだままだったが表情を少しだけ真面目にして言った。
「レミリアお嬢様のことでフランお嬢さまにお話ししたいことがあるのです」
その言葉に私は顔が自然と強張るのを感じた。
お姉さまについて話したいこと――
私は美鈴の顔を改めて見る。
美鈴は真剣な目で私を見ていた。
咲夜は言っていた。
自分よりも、前メイド長の美鈴のほうが昔のお姉さまのことについて詳しいと。
なら、これはその話を聞くことができる機会なのだろう。
だが、私の中にはその話を聞くことを拒んでいる自分がいた。
これ以上、お姉さまについて知りたくない――そう言っている自分がいた。
お姉さまをこれ以上嫌いになりたくない、と。
美鈴の話は私にとってとても不吉なもののように感じた。
きっと、美鈴の話を聞いた後は私は後悔しているのではないか。
そう思うと、私は美鈴を部屋に入れたくなかった。
「これは――レミリアお嬢様の望みでもあるのです」
美鈴は静かな声で言った。お腹にずっしりと響くような重い声だった。
美鈴の口調は私の中の葛藤を見抜いているようだった。
私は美鈴の言葉の姿勢に威圧され、その内容に心を乱されていた。
お姉さまの望み――?
私はやはり暗い予感を感じずにはいられなかった。
「はい。レミリアお嬢様はフランお嬢様に自分のことを知ってほしいとおっしゃられていました」
美鈴の物言いはだんだんと淡々としたものになっていた。あのときと同じだった。美鈴から、『スカーレットデビル』という言葉を初めて聞いたときと。美鈴は私を圧倒するような声で続ける。
「もちろん、聞くも聞かないもフランお嬢様の自由です。フランお嬢様が聞きたくないとおっしゃれば、私はこの場は去り、また一時間後にお嬢様を夕食にお連れするために参ります。ですが――」
美鈴はわずかに顔を曇らせた。
「私は、これはフランお嬢様の義務でもあるのだと思います」
義務――
その言葉が私の頭の中で反響した。
美鈴は微かに苦い微笑を浮かべながら言った。
「フランお嬢様がレミリアお嬢様をどう思いましょうが、レミリアお嬢様は必死に――本当に死ぬような思いで、フランお嬢様を守ってきたのですから」
私は美鈴の言葉に沈黙するばかりだった。
美鈴は少しだけ悲しげな色の混じった声で続ける。
「フランお嬢様は姉君がご自分にかけて下さった苦労を知りたいとは思わないのですか?」
私は美鈴の視線を正面から受け止めた。美鈴の強い視線を懸命に受け止めた。
しばらく睨み合いが続いたが、やがて美鈴がふっと微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
美鈴は優しい声で言った。
「フランお嬢様は大丈夫です」
美鈴は落ち込んでいる生徒を慰める教師のような微笑を浮かべていた。
「どんなことを聞いても、フランお嬢様はレミリアお嬢様のことが好きでいられます」
私は何も言うことができずに美鈴の言葉を聞いていた。
やがて、美鈴はやれやれ、とでも言うかのようにため息をついた――やはりその顔は静かに笑んでいた。
「あなたたち姉妹の絆は、ご自分達が思っている以上に堅いのですから」
――美鈴は指で私の部屋の中を示した。
美鈴はいつの間にか、いつもの人懐っこい笑顔に戻っていた。
「立ち話もなんですから、そろそろ入れていただけませんか?」
――私は美鈴を部屋に入れた。美鈴の笑顔に負けた気分だった。
美鈴と私は向かい合って椅子に座った。
美鈴は座ると、「んー」と唸った。「話すとは言ったけど、どこから話そうかなぁ」と首を捻っていた。やがて、美鈴が私に笑いかけて訊いた。
「フランお嬢様、何か私に訊きたいことはありませんか」
「そこから話しましょう」と美鈴は気楽そうな感じで言った。
いきなりそんなこと言われてもなぁ、と逆に私は困った顔をするしかなかった。
確かにお姉さまの昔のことについて知りたいことはたくさんあったが、いきなりこれと言われても、なかなか思いつかない。
しばらく私も首をかしげながら考えていると、ほとんど忘れかけていた――というより、どうでもよくなっていた言葉を思い出した。
私はその言葉を出すのに一瞬、躊躇したが、思い切って尋ねた。
「……『スカーレットデビル』って何?」
美鈴はわずかに眉を上げたが、すぐにもとの優しげな微笑になって答えた。「あー、そこから話しますか。そういえば、私昨日言ってましたね」と、隠す風もなく、いつもどおりの、普段と変わらない笑顔で美鈴は答えた。
「『スカーレットデビル』というのはレミリアお嬢様の通り名です。お嬢様が自称したわけでもなく、ただ人間や他の妖怪達から呼ばれ続けた通称が『スカーレットデビル』でした」
美鈴は少しだけ切なそうに目を細め、私に尋ねた。
「フランお嬢様は『スカーレットデビル』についてどのくらいのことを知っていますか?」
私は美鈴の質問に正直に答えた。お姉さまが上手く血を吸うことができず、服を血で赤く染めてしまうことから『紅い悪魔』――『スカーレットデビル』と呼ばれていること、咲夜から、『スカーレットデビル』が多くの妖怪から恐怖されていたこと、そして――パチュリーから、私がその名前を意味を知ればお姉さまを傷つけてしまうことなど、私は知っていること全てを伝えた。美鈴は相槌を打ちながら、聞いてくれた。
私が話し終えると美鈴は顎に手をやる。
「フランお嬢様は何か疑問に感じませんか?」
美鈴は私にそう尋ねた。そう言われると私もこころあたりがある。私は今まで頭に引っかかっていたことを伝えた。
「『スカーレットデビル』の名前の由来――血で服を濡らすってことが、とてもほかの妖怪達を恐れさせるような理由にならないってこと?」
「そうです。その話だと、まるで自分の食事で服を汚してしまう子供みたいですからね。お嬢様の容姿、性格と相まって、子供みたいではなく、まさに子供です。これでは、他の妖怪達を恐れさせるには至らない」
ですが――と美鈴が目を細めた。
「血で服を濡らすというのは一つの暗喩なんです」
暗喩――例え、メタファー、象徴……まあ、言い換えはたくさんあるが、おそらくお姉さまのこぼした血で濡れてしまった服は何かのシンボルなのだろう。
「より厳密に言えば、血をこぼすというところなんですが――」
美鈴はどこか遠くを見るような目をし、やがて今に戻ってきて私を真っ直ぐに見つめた。
「血をこぼす――ということは、必要以上に血を流すことの暗示なんです」
――必要以上に血を流す。
私は一瞬、美鈴の言っている意味がわからなかったが、何となく理解していた。
お姉さまは村を全滅させると言っていたことを思い出していた。
必要以上に血を流す。
まさに言葉通りだ。
美鈴の説明は続く。
「吸血する量以上――必要以上に血を流し、その血で服を真っ赤に染める。それはすなわち、本来敵であるよりももっと多くの生き物を虐殺する――そういう意味なんです。敵――敵よりもずっと多くの関係のない犠牲者の返り血を浴びたお嬢様の姿――それが『スカーレットデビル』なんです」
私は驚かなかった。
ああ、そういうことかと、あまり感動もしていなかった。
ただ、なるほど、と思う。
確かに咲夜やパチュリーが言ったように深い意味はなかった。
特に、感慨はなかった。
だが、どうしたのだろうか――
私は良い気分ではなかった。
お姉さまの昔の話について聞くことが出来る機会だというのに――
正直言って、つらかった。
美鈴からお姉さまの話を聞くのが苦しかった。
「本当に若いころから――お嬢様が20歳を過ぎたころ、ようやく今の容姿になられたくらいからです。お嬢様は若いながらも勇猛で強大な吸血鬼でした。お館様と奥方様は優しいお方で、戦にも消極的な方でした。お館様たちはお嬢様が戦場に身をおくことに反対されていましたが、お嬢様はご自身の意志で矛をとって戦場に向かいました」
美鈴はどこか遠くを見て言った。お館様、奥方様とは私のお父さまとお母さまだろう。美鈴はお姉さまではなく、私の両親に仕えていたときのことを思い出しているのかもしれなかった。
美鈴は私に笑いかけながら訊いた。
「フランお嬢様は当時――16世紀から18世紀の西欧がどのような有様だったかご存知ですか?」
私は昔、パチュリーにしてもらった世界史の授業を思い出していた。ルターの宗教改革が1555年のアウスブルグの和議をもって成功。その前にはドイツ農民戦争があったらしい。フランスではユグノー戦争が16世紀に、ドイツでは30年戦争が17世紀にあった。マキャベリが生きていた時代は16世紀くらいだったか。エラスムスも15から16世紀にかけて生きた人間だ。となると、ルネッサンスもこのころになる。かなり時代が飛ぶが、イギリスで産業革命が起きたのが1760年代らしい。ずいぶんいい加減だが、何しろ最後にパチュリーから世界史の授業を受けたのは幻想郷に来る前なのだ。知識がうろ覚えになるのも仕方ない。そう仕方ない。まあ、とにかく、宗教改革から産業革命の間くらいだ。すさまじい動乱の時代だったということはすぐに想像がついた。
美鈴は私の考えにうなずきながら、付け加えた。
「ついでに、魔女狩りですね」
魔女狩りについては――私は何も言わない。というか、実はよく知らなかったりする。パチュリーも『こんな馬鹿げたこと知らなくて良いわ』と言って、深く教えてくれなかった。覚えているのはそのときのパチュリーがとても不機嫌だったということくらいだ。私の記憶ではとにかくたくさんの人間が無実の罪で処刑された、その程度の事実だった。
だが、よく考えると、これはお姉さまの生きていた時代の話なのだ。
私はずっと地下室にいたが――
お姉さまはこの動乱の時代を生きていたのだ。
美鈴はため息をついた。遠く昔の苦労を思い出してつくため息だった。
「妖怪も同じでした。人間の知識、思考が徐々にですが確実に変わっていった時代でした。妖怪は人間の想像に非常に強い影響を受けます。妖怪は人間のもつイメージに左右されるものなのです。特に西欧ではこの極東の地よりもずっと早く、激烈な変化がありました。レミリアお嬢様が生きた時代は本当に血を血で洗うような戦争の時代だったのです」
美鈴は悲しげな笑みを私に向けて尋ねた?
「フランお嬢様は妖怪とは何だと思いますか?」
突然の質問に私は言葉に詰まった。しばらく私は考えていたが、わからなかったので素直にそう答えると、美鈴が一つの解答を教えてくれた。
美鈴はやはり寂しいような、悲しいような微笑を浮かべて語った。
「妖怪とはまず人間の対立概念なのです」
人間が存在しなければ、妖怪もまた存在しない、と美鈴は言った。妖怪は人間を襲い、食糧にし、そして何より存在意義の基盤とする。一方で人間は恐怖の象徴として生まれた妖怪を退治することでより人格的に優れた生物へと成長することができる。
「ですが、妖怪もまた『人間』なのです」
私は美鈴の言葉の意味を数秒考え、うなずいた。私にも美鈴が言っていることの意味がわかっていた。
そもそも――妖怪は人間から作られたという。月人が穢れを調節するために妖怪を生んだ――とか難しい理由があるらしいが、私にはよくわからない。そういえば、聖書で言われる悪魔も主が創り賜うたものだという。天使が地獄に堕ちたものだとよく言われるが、主はなんらかの理由があって悪魔を創ったとする考えもあるらしい。
妖怪も元は人間だったものなのだ。
ならば、人間の感情を妖怪が引き継いでいたとして、何の不思議がある。
そして、それは何より自分で経験してよく知っていたことだった。
美鈴はうなずき、さらに言った。
「さて、重要なのは、妖怪は人間の対立概念だということです。妖怪は妖怪同士の対立概念にはならない。では――妖怪が妖怪と対立するとき、それは妖怪といえるのか――」
美鈴は悲しそうに首を横に振った。
「違いますね。それは妖怪ではない。妖怪は人間と対立してこそ妖怪なのです。妖怪と妖怪とが対立するとき――それはもう、『人間』と『人間』でしかありません」
そして、美鈴は深いため息をついて言った。
「レミリアお嬢様が生きてきたのは、妖怪が妖怪ではなく、『人間』として殺し合わなければならない世界でした」
人間の精神文化の変化による妖怪自体の弱体化。
生存環境の縮小。
宗教改革による妖怪弾圧の拡大。
限られた資源に群がる妖怪達。
滅び行く世界で起こる勢力争い。
血みどろの闘争。
肉の山と骨の森を築きあげる戦争。
妖怪が妖怪である意義を果たせず、『人間』として、人間ではなく『人間』を殺さなくてはならない世界。
そして、人間と対峙するときでさえも、『人間』として戦わなければならない世界。
それはどれほどの苦痛だったのだろうか。
私が幻想郷に来る前の西欧はどんな地獄だったのだろうか。
お姉さまは『人間』としてどれほどの『人間』を殺したのだろうか。
「そんな中、レミリアお嬢様が生存のためにとった方法は『殺し尽くす』ということでした」
殺し尽くす。
男も女も子供も老人も家族も一族も郎等も従者も君主も隣人も友人も――
何から何まで全て――
まるごと根こそぎ草一本残さず――
皆殺しにする。
徹底的に皆殺しにする。
『スカーレットデビル』は容赦がなかった。
『スカーレットデビル』は情けがないかのように殺戮を繰り返した。
美鈴がやがてある一編の詩を口にした。
邪魔者は殺す。邪魔でない者も殺す。おべべを真っ紅に染めるスカーレットデビル
血を啜るだけでは飽き足らず、服を濡らすだけでは物足らず
飛ぶ野を緋に染め、千本の針の山に跳ねて遊ぶ
彼女こそは紅色の冥界。呪いの魔王に連なるあどけない大地獄
主の聖なる星の目も、永遠に紅い幼き月の前には隠れるのみ
昔の妖怪詩人の詩だという。美鈴は「しかし、センスのない詩ですよね」と力なく笑った。私は笑わず黙っていた。
ある村は、『スカーレットデビル』に敵対して敗北し、逃亡した妖怪を匿ったというだけで、住人全てが虐殺され、最後には火を放たれて灰燼に帰した。
抗争となった教会の組織の拠点のある村や街では、教会に関係のない人間も含めて皆殺しになった。
捕虜となった者も、最後まで抵抗した者も、関係なく平等に皆殺しにした。
『スカーレットデビル』は殺し続けた。
その爪を敵の血で真っ紅に染めて。
その槍で敵でない者の身体を貫いて。
その牙で吸血するのでもなく首を噛み千切って。
血の河が自分のくるぶしを濡らすまで。
街の道路が死体で隙間一つなく埋まるまで。
村と死体を焼く炎が太陽よりも明るく地上を照らすまで。
徹底的に徹底的に徹底的に。
何百年と殺し続けた。
永劫とも思える時間、あらゆる生き物を殺して回った。
誰に恐怖されようが、
誰に忌避されようが、
『スカーレットデビル』は止まることなく殺し続けた。
やがて『スカーレットデビル』に――『スカーレットデビル』だけでなく、その家族、眷属に反抗しようという妖怪はいなくなった。
『スカーレットデビル』は怨嗟を受けるようなこともなかった。怨嗟を覚える者さえ残さないほど、『スカーレットデビル』の虐殺は徹底していた。
『スカーレットデビル』は戦争の後に何の遺恨も残さないほどに、完全な鏖殺を達成してみせたのだった。
戦禍の後に残ったものは、『スカーレットデビル』への無限の恐怖だけだった。
「結果的にレミリアお嬢様の方法は成功しました。『スカーレットデビル』の名を聞くだけで、妖怪や教会の戦闘部隊はお嬢様と争わないようになったのです。お嬢さまの方法によりお嬢様の家族――お館様や奥方様、家臣たちは『スカーレットデビル』という強固な盾に守られ、平和なときを過ごすことができました」
「そして、もちろん、」と美鈴は私を真剣な目で見た。私に覚悟を尋ねたときと同じ目だった。
「その中にはフランドールお嬢様も含まれていたのです」
私には美鈴の話が嘘っぽく聞こえていた。
私はあまりに規模の大きい話に感覚がついていかなくなっていた。
だが、本当なのだろう。
何の誇張もなく、何の針小棒大もなく。
お姉さまは本当にたくさんの人間と妖怪を殺したのだろう。
数え切れない相手に対して、おまえはいらない、と伝えてきたのだろう。
そして、今の私はその無数の伝言で築かれた山の上に立っているのだろう。
――『スカーレットデビル』とはやはりお姉さまをからかう言葉だったのだ。
からかい――というよりは、負け惜しみのほうが正しいかもしれない。
人間と妖怪はお姉さまを恐怖していたのだ。
容赦なく敵を殺し続けるお姉さまを。
残酷にも敵以外も殺してしまうお姉さまを。
だから、お姉さまに敵わない彼らは、お姉さまが食事のたびに子供のように血をこぼすのを見て言ったのだ。
『スカーレットデビル』と――
――ささやかな侮蔑と限りない恐怖の意味をこめて。
美鈴の話ももう終わりだった。
「さらにそれから200年ほど、まあまあ平和ながらも緩やかな衰退があった後――お嬢様は幻想郷にやってきました。そのときも色々『すったもんだ』があったのですが、まあ、これは『スカーレットデビル』のときとは違って、実に平和なものでしたね。そして、今に至る。――『スカーレットデビル』については、こんなものですかね」
語り終えると、美鈴はふぅと一つ長いため息を吐いた。そして、黙って私のことを見つめ、私の返答が来るのを待っているようだった。
私は何て答えるべきなのだろう。
ただ私は呆然と真実の前に立っていた。
お姉さまがどんな人か――その真実の前に私は立ち尽くすことしかできなかった。
私の人生の陰にたくさんの死体があることに気づいて、私は気が抜けてしまった。
私はどうすべきなのだろうか。
私はお姉さまに感謝するべきなのだろうか。
それとも、お姉さまを許さずに軽蔑すべきなのだろうか。
――もちろん、後者はありえない。
私がお姉さまを軽蔑するなんてことはありえない。
私はお姉さまを蔑むなんてことはしたくない。
だが――
私がそれでも納得できない感情を抱えているのは確かだった。
私はお姉さまに感謝することができなかった。
お姉さまは私を必死に守ってくれたのに、私は素直にそのことを感謝できなかった。
それどころか、私はお姉さまを許すことができずにいた。
感謝したい。感謝したいのだけれど――
苦しくてしかたないけれど、私はお姉さまを許せなかったのだ。
今まで何度も繰り返した議論がぐるぐると頭の中を巡る。
美鈴の話を聞いても私は先へは進めなかった。
お姉さまのことをより詳しく知ることが出来ても、私は前進することができなかった。
うつむいて考えていた私は美鈴を見上げた。
美鈴は真っ直ぐな目で私を見つめていた。
母親が子供を見守るような目で私のことを見ていてくれた。
子供のことをよく知っている母親のように私の言葉を待っていた。
だが、それは見守っているというだけで――
答えは私が出さなければならないのだった。
これは私が判断しなければならないことだった。
――私は判断できなかった。
でも、立ち止まっていることにも我慢できなかった。
私はがむしゃらな気持ちで美鈴に訊く。
「美鈴、あと一つ質問していい?」
私の言葉に美鈴は目元を和らげた。
「ええ、もちろんです」
美鈴は優しげな口調で言った。
私はやはり曖昧であやふやで――だが、恐らく一番私が知りたがっていることを美鈴に尋ねた。
「美鈴はお姉さまが優しい人だと思う?」
美鈴は優しい微笑を崩さずに私の言葉を聞いていた。
「お姉さまは――優しい人なんだろうか?」
美鈴が目を瞑る。口元にはとても穏やかな笑みが浮かんでいた。そして、美鈴は目をゆっくりと開けると、優しげな翡翠の瞳を私に向けて言った。
「お嬢様は優しいお方です」
美鈴の言葉は私を柔らかく包み込むかのようだった。美鈴は優しくて寂しそうな微笑を浮かべながら語る。
「フランお嬢様の『優しい』と私の『優しい』は違っているのかもしれませんが――いえ、間違いなく違っているのでしょうが、私はお嬢様は優しいお方だと思っています。お嬢様は本来は誰にでも優しくできる方なのです」
美鈴の綺麗な笑顔に悲しげな陰が差した。そして、ため息とともに吐き出すように言った。
「全く、あの方は子供です」
私は何も言えなかった。
「生まれてきたときからずっと見てきましたが、本当にあの方はいつまでも子供のままだ。悪戯好きで、人に迷惑をかけるのを何とも思っていなくて、我が儘で、意地っ張りで、自分勝手で、不器用で、誠実だからイエスかノーしか頭になくて、純真で、傷つきやすくて、そのくせ人一倍心が強くて、強いからこそ他の人の気持ちがいまいち理解できてなくて、他の人が心配していることに気づかなくて、一生懸命で――」
美鈴はまたため息を吐いた。
「全く、いつまでも子供です」
お嬢様は正しいけれども、子供です――そう言って、美鈴は長い息をつく。
私は美鈴の昔のことを思い出していた。美鈴は咲夜の前のメイド長だったが、その役職に就く前からずっとお姉さまに仕えていた――いや、私の両親に仕えていた。確か、私が知ってる限りの美鈴の一番古い仕事は――
そうだ。
お姉さまの養育係だったのだ。
――美鈴はそれこそお姉さまの第二の母親なのかもしれない。
「本当にレミリアお嬢様は悪ガキで困ります」
そう言った美鈴の目から――
涙が一筋こぼれた。
私はその涙から、お姉さまのことを思っているのが私だけではなかったのだと気づいた。
皆もお姉さまのことについて本当に色々なことを考えているのだとわかった。
今更だけど、私は再認識していた。
そして、このとき同時に私はようやくお姉さまを信じられそうな気がしていた。
お姉さまもきっと人殺しが嫌なのではないか、と考え始めていた。
美鈴の真剣な眼差しを見て、そう思った。
――うらやましい。
そう言って、少しだけ悲しそうに笑ったお姉さまを思い出していた。
確かにお姉さまは人殺しについて楽しそうに話しているようにも見えたけど――
もしかしたら、お姉さまも人を殺したくないとどこかで思っているんじゃないだろうか。
私はお姉さまが本当は人を殺したくないんじゃないかと考え始めていた。
お姉さまの姿を思い出す。
楽しげに自分を襲ってきた敵の分析を語るお姉さまと、
悲しげで寂しそうな笑顔を浮かべて私に説明するお姉さまを。
前者も本当のお姉さまなのだろう。
『スカーレットデビル』と呼ばれる、残酷で冷徹な吸血鬼の姿も本当のお姉さまなのだろう。
今、思い出しただけで心の中で恐怖がくすぶっているのを感じた。私は確実に『スカーレットデビル』を怖がっているのだった。
情け容赦なく人を殺し、悪意を振り撒く『スカーレットデビル』――
それは私にとって恐怖以外の何でもなかった。
お姉さまがあんな怖い顔で私を見るかと思うと――
今にでも肩が震えて止まらなくなりそうだった。
でも――
きっと後者も本当のお姉さまなのだ。
あの悲しそうな顔も、あの寂しそうな顔も。
お姉さまの本当の気持ちなのだ。
今、聞いたばかりの美鈴の言葉を思い浮かべる。
お姉さまは本当は誰にでも優しくできる人――
なら、きっと、お姉さまは――
「ねえ、美鈴、本当はお姉さまは人を殺したいなんて思ってないんでしょ?」
私は『あと一つ』という言葉を破って美鈴に尋ねていた。だが、美鈴は私のこの質問を笑って受け止めてくれた。美鈴はとても寂しそうな微笑を浮かべて答えた。
「それは答えられません」
「…………」
「それを言ってしまえば、お嬢様はたぶん私をお叱りになるでしょうから」
それに――と、美鈴は首を振って続けた。
「その答えが知られてしまえば、お嬢様の今までしてきた努力が水の泡になってしまうでしょうからね」
――水の泡。
私は確信していた。
美鈴は直接肯定はしなかったが、その言葉は明らかに、私の言葉の正しさを証明していた。
『スカーレットデビル』が人を殺すことを嫌悪していると知られれば――
『スカーレットデビル』という盾にひびが入ってしまうだろうから。
だから、きっとお姉さまは――
いや、『きっと』、じゃない。
お姉さまは間違いなく――
「ねえ、美鈴、聞いて欲しいことがあるんだけど――」
私は口を開いた。
今度は質問するためじゃない。
美鈴にお願いをするためだった。
ようやく私は前へ進む準備ができたのだった。
この願い事が正しいことかはわからない。
ひょっとしたら、間違っていることだし、もしかすると、お姉さまをもっと傷つけてしまうかもしれない。
私がこれからすることはお姉さまの数百年を壊してしまうのかもしれないけれど――
それでも、私はこれが正しいと信じるから――
私は優しいお姉さまを信じるから――
「私はお姉さまに人を殺して欲しくなんかない」
美鈴は表情を変えず――静かに微笑んだまま聞いてくれていた。
お姉さまは私のお願いを聞いてくれなかった。
でも、『スカーレットデビル』をよく知る人の言葉だったらどうだろう?
もし、美鈴もまた、お姉さまに人殺しをしてほしくないと考えているのなら――
何も私だけではない。
お姉さまを説得できる人は私だけではないのだ。
美鈴は優しい表情のまま尋ねる。
「どうして、フランお嬢様はレミリアお嬢様に人を殺して欲しくないのですか」
――私はすぐには答えられなかった。でも、美鈴は待ってくれた。私はよく考えながら言った。
「……私はお姉さまが人を殺すことが許せないんだと思う。どうして、許せないかというと――それは言葉にするのは難しいけど、たぶん、お姉さまのことを好きでいたいからなんだと思う」
美鈴は黙って、私の言葉を聞いてくれていた。
「私の我が儘なのかもしれないけど――私はどうしても殺される人達のことを見捨てられないんだ。変なことなのかもしれないけど、私は誰であっても死んで欲しくないし、殺されるなんて本当に可哀想だ。私はこの人達が可哀想で仕方ないんだ」
美鈴は静かな表情で私の言葉にうなずいてくれた。
「お姉さまはそんな酷いことをしてきた。敵にも酷いことをしたし、そうでない人にも酷いことをした。だから、私はお姉さまが許せないんだ」
私はお姉さまが許せない。
許せない。
許せないけど――
「――けれども、私はお姉さまのことが大好きなんだ」
美鈴は目を優しく細めて、私のことを見ていてくれた。
「許せないけど、それは変わらない。私はお姉さまを嫌いにはなれない。私はどうしてもお姉さまが大好きなんだ」
だけど――
だからこそ――
「私は大好きな人がそんなことをするのが許せない。大好きな人だからこそ、して欲しくない」
私は自然と息が荒くなっていた。私は興奮を抑えながら言った。
「私は何もわからない」
――私は無知だった。殺すということの意味もやっと今日知ることができた。でも、私はまだしらないことがたくさんあるのだった。
「今もようやくお姉さまの昔のことについて知ることができた。だけど、そのとき私はお姉さまの傍にいなかった。私はお姉さまの事実については知ることができたけど、その気持ちまではわからない」
お姉さまがどんな気持ちで人を殺してきたか。
私はそれを知ることはできなかった。
人を殺したことがない私にはそれはわからなかった。
だが――そんな私でもわかることがある。
私は美鈴の翡翠色の綺麗な目を真っ直ぐに見つめて言った。
「――だけど、お姉さまも人殺しなんかしたくないんだと思う」
――どんなことがあっても、これだけは正しいと思う。
お姉さまはやはり優しいお姉さまなのだ。
『スカーレットデビル』のお姉さまも正しいかもしれない。
でも、優しいお姉さまも絶対に正しいのだ。
「それなら、尚更だよ。もし、人を殺さなくて済む道があるんなら、私はそちらを選ぶべきだと思う。昔のことについては私はわからない。だから、何も言えない。でも、私は今のお姉さまには人を殺して欲しくないんだ――」
お姉さまの優しさを犠牲にしたくないから。
私は覚悟を決めて言った。
「美鈴――私に協力してくれないかな?」
「――もう一度、言ってくれないかしら、美鈴?」
私は自分の耳を疑っていた。
まさか、美鈴から――『スカーレットデビル』と呼ばれた自分でさえ、その苛烈さに恐れを覚える美鈴からこんな言葉を聞くとは思わなかったからだ。
美鈴は飄々とした様子で続けた。
「いえ。ですから、報復攻撃の必要はないのではないか、と」
私は顔をしかめるしかなかった。パチェはどうでもいいとでも言うかのように、近くにあった椅子に座って本に目を落としている。咲夜は私の傍らに控え、無表情を保っていた。
「あなたのことだから、深い考えがあるんでしょうね」
私は手を組んで、椅子の背もたれに身体を預けた。ギッと椅子が軋む音がする。すると、美鈴はぽかんとした感じで笑って言った。
「いえ、ただ人殺しが嫌になっただけです。」
――その言葉は私の心を強く動揺させた。
『人殺しが嫌になった』。
普段なら――『スカーレットデビル』なら笑い飛ばせそうなその言葉に、私は酷く動揺していた。心がぐらついているのを悟られないように、私は美鈴を強く睨んで言った。
「何を言い出すかと思えば、まさかあなたの口からそんな腰抜けみたいな言葉が飛び出してくるとは驚きだわ。紅美鈴ともあろうものが、本当に平和ボケしてしまったのかしら?」
私は挑発するように美鈴にそう言って見せたが、「まあ、そんなところですかね」と美鈴は頭を掻いて笑うだけだった。向日葵の花のような温かい笑顔。だが、それは幻想郷の美鈴の笑顔ではなく、数百年前の西欧で浮かべていたものだった。血みどろの戦の中、私は美鈴のこの笑顔に数え切れないほど励まされたものだった。
「幻想郷に来てまで人を殺す必要はないだろう――そう思っているんです」
美鈴は穏やかな微笑を浮かべながら、そう言った。
私は黙ることしかできなかった。正直、私はかなり驚いていた。
私たちは、私――レミリア・スカーレットの私室に集まっていた。今晩の12時ちょうどに行動を開始し、およそ4時間で敵の村を襲撃、殲滅した後に紅魔館に戻ってくる予定だった。今はまだ9時にもなっていなかった。私と美鈴、パチュリーでこうして作戦の細部について話し合うつもりだったが――咲夜は留守番だったが、一応付き合ってもらっていた――、その会議を始める前に美鈴がこう切り出したのだった。
私は咲夜に淹れてもらった紅茶を一口啜った。口を離して、微かに揺れる紅い水面を見る。血の水溜りのような紅茶にもう一度、口をつけてから美鈴に言った。
「人を殺す必要がない――? 何を馬鹿なことを。妖怪が人を殺さないなどと、戯言にもほどがあるわ」
私の言葉に美鈴は首を振った。
「妖怪として人を殺すのならわかるんですけどね……。『人間』として『人間』を殺すのはもうやめてもいいんじゃないかと思うんです」
私は美鈴の翡翠のように輝く緑色の目を見た。美鈴の意志の強い視線は、この主君である私にも向けられていた。
『人間』として『人間』を殺す。
その言葉の指す意味は私にもわかった。
だから、私は美鈴に問い返さなかった。
私は美鈴を強く睨む。美鈴も私の視線を正面から受け止める。
私は――元養育係に言った。
「なら、勝手にしなさい。あなたがいなくても私とパチュリーだけであんな村を滅ぼすには十分だから」
私はそう言って、紅茶を再度啜ったが、心はひどく落ち着かなかった。
美鈴との付き合いはこの紅魔館の中で誰よりも長い。
500年以上姉妹をしているフランよりも長かった。
この飄々とし、食えない性格は昔から変わらなかったが――もっとも、幻想郷に来てから、より酷くなったような気がする――、美鈴はいつも私のために働いてくれた。私は『スカーレットデビル』として幾度となく虐殺をしてきたが、私のすぐ側にはいつも美鈴がいてくれた。美鈴は時として私よりも無慈悲で冷徹でもあった。あまり認めたくないが、美鈴は私の支えになっていたのだ。
それなのに、なぜ、今更このようなことを言うのか――
正直、理解できなかった。
美鈴は困ったような笑みを浮かべ、首を振る。
「いえ、お嬢様、私だけじゃなくてですね……」
美鈴は確かに口元は笑っていたが――真剣な眼差しで私を見つめていた。美鈴は何でもないことのように言う。
「お嬢様にも人を殺して欲しくないのです」
――は?
私はこのとき本当に思考が動かなくなってしまった。
何度も美鈴の言葉を咀嚼する。美鈴は何て言ったんだ? どうして欲しいと言ったんだ?
お嬢様にも人を殺して欲しくない――だと?
最近聞いたばかりの言葉だった。
――落ち着かない。
ひどく落ち着かない。
緊張もしてないのに、心音がうるさい。
脳裏にフランの声が響く。
私は心を落ち着けるためにもう一度紅茶を啜った。もうカップの中はほとんど空になっていた。
――ミイラ盗りがミイラになったとでもいうのか?
私は美鈴にフランと話してくれるように頼んだ。
フランに私が『スカーレットデビル』として何をしてきたかを教えてあげるように頼んだのだった。
まさか、そのときに――
「フランお嬢様は関係ありませんよ」
私がカップの中の紅茶を見つめていると、まるで、美鈴は私の心の中を読んだかのように言った。美鈴は相変わらず私に立ち向かうような目をしていた。
「いえ、関係ないということはありませんね。確かにフランお嬢様に頼まれましたから。ですが、どちらかというと私の願いであるほうが強いのです。私は――私もレミリアお嬢様に人を殺して欲しくないのです」
私は奥歯をかみ締め、私と正面切って対峙している元養育係を見た。私は自分でも冷たいと感じるような声で美鈴に尋ねた。
「あまりに馬鹿馬鹿しいことだから、正直相手をするのも嫌なんだけど、一応聞いておくわ――どうして、あなたは私に人殺しをして欲しくないの?」
美鈴はすぐに答えた。
「お嬢様が――レミリアお嬢様がそれを望んでいらっしゃらないからです」
今度こそ、私は言葉が詰まる思いをした。息をすることさえ苦しい。気づくと、パチュリーがこちらを見ていた。パチュリーはわずかに目を細めて、何かを思案しているようだった。
――私が望んでいない。
その言葉ががんがんと頭に響いた。
どうして、と思う。
どうして今更そんなことを言うんだ?
私は殺さなければならないというのに――
どうして今更そんな私を惑わすようなことを言うんだ?
美鈴は追い討ちをかけるように言った。
優しい声で――だが、容赦のない声で言った。
「レミリアお嬢様のような優しい方が、これ以上、誰かを傷つけるのを見ていたくないのです」
――優しい。
――お姉さまは優しい人じゃないの?
……馬鹿か。
本当に馬鹿か。
私は嗤って答えた。
「優しい、ですって?」
私は鼻で笑う。余裕のない私は虚勢を張りながら言う。
「『スカーレットデビル』を優しい、と? あなたは500年間、『スカーレットデビル』を見てきたんでしょう。本当にその目は節穴? 何もわかってないじゃない。よく、あなたみたいな阿呆が私の養育係など務められたものね。それを許してくれた私の両親に感謝なさいな」
だが、美鈴は私の言葉など何でもないかのように言った。
「確かに私は『スカーレットデビル』を優しいなどと思ってはおりません。彼女は恐るべき吸血鬼です。戦場において容赦せず、処刑場において慈悲もなく、残酷な吸血鬼です。ですが――」
美鈴は私の目を真っ直ぐに射抜いて言った。
「レミリア・スカーレットは違うと思います」
その言葉に、胸が締め付けられる感じがした。私は苦痛に奥歯を噛んで耐えた。
「レミリアお嬢様は優しいお方です。本当ならば、人間から血を吸うことでさえ嫌っているお方です。『あれ』はそう言う意味なのでしょう――?」
美鈴は優しげに目元を和らげて言った。
「自分を恐れる人間からしか血を吸わない――とは。人間であっても、自分を恐れることなく付き合うことができる勇気ある者を友として認める、決して食糧として扱わない、と――そういう意味なのでしょう?」
私は歯軋りした――自分でも驚くほどその音は大きかった。
「そんな方が――食糧となる人間にさえ慈悲をかけられる方が、優しくないわけがありません」
認めたくはないが、美鈴の言ったことは正しかった。
そんなことを考えた頃もあった。
まだ『スカーレットデビル』になりきる前、そんな願いをもった頃もあった。
だが――
私は自嘲した。
確かに人間の中にはそんな者もいた。
吸血鬼である自分を恐れることなく、対等に付き合おうとした人間が。
私にとって嬉しくなるくらい好ましい人間がいた。
しかし――
飛んだ笑い話だ。
そんな素晴らしい人間たちは皆、屍になった。
食糧になる代わりに、全員、死体になった。
全部、私がこの爪で殺してやった。
全部、この私が――
「だから、どうしたっていうのよ――」
私は美鈴を睨んだ。あらんかぎりの怒りをこめて睨んだ。
「仮に私が人間を殺すのを嫌だとして、今更殺すのをやめられると思う? 論外だわ。私は『スカーレットデビル』でなければならない。いや、『スカーレットデビル』以外になりえない。何百年、殺し続けたと思ってるの? もし、今やめたとしたら――この数百年を、あなたは無駄にしろってっていうの?」
今更、引き返す気などない。
引き返して、どうしろというのだ。
私は数百年をかけて『スカーレットデビル』という盾を作り上げた。
何千、何万の死体の上に、その城壁を築き上げた。
私は私のために殺してきた。
私は私の大事なものを守るために殺してきた。
もし、それを今、やめるとしたら――
それですべて終わりになってしまうんじゃないか?
『スカーレットデビル』は殺し続けることに意味がある。
どんな者も例外なく殺す。
そこに存在意義がある。
だから、『スカーレットデビル』の盾を守るためには、殺し続けるしかないのだ。
レミリア・スカーレットはこの盾がないと駄目なのだ。
レミリア・スカーレットは盾を守るために、殺し続けるしかないのだ。
それに――
どう詫びろと言うのだ?
彼らにどうすれば詫びることができるのだ?
今ここで、『スカーレットデビル』を否定して。
できるわけがない。
許されるわけがない。
私はどうやっても許されない。
許されないなら――私は否定するわけにはいかないではないか――
「私が人を殺したくないとしても、必要だから、私は殺さなければならない。私は私の義務を果たすために殺さなければならない」
私は美鈴の強い力のこもった翡翠の目を見据えて言った。
「私はレミリア・スカーレットとして殺さなければならない」
やがて美鈴は目を伏せた。そして、長く息を吐き、静かな声で言った。
「……ここは幻想郷ですよ」
美鈴は目を上げた。翡翠色の目が悲しそうに光っていた。
「平和な幻想郷です。妖怪が妖怪として――少々、歪ではありますけど、妖怪として生きることができる幻想郷です。『人間』が『人間』と殺しあうことなどない、平和な場所です」
美鈴はため息をついて言った。
「お嬢様だってそのことを喜んでいたのではないですか? ですから、今回のことでも、こんなに心を乱していらっしゃるのでしょう。自分の好きな場所を土足で踏みにじられた――それゆえに怒っていらっしゃるし、気を病んでいらっしゃる」
美鈴は言った。
「ですが、もういいでしょう。お嬢様はもう幻想郷にいるのです。数百年前の血にまみれた西欧ではなく、この平和な幻想郷に。もう、お嬢様は無理に殺す必要などないのです」
元養育係はそう告げて黙った。
部屋の中を沈黙が支配した。私はただ美鈴を睨みつけていた。美鈴も鋭い眼光で私を見つめ返していた。
しばらくして、今まで発言しなかったパチェが口を開いた。
「レミィ――」
パチェは本のページをめくりながら、どうでもよさそうに言った。
「私はどっちでもいいわよ」
「…………」
「私は報復攻撃しても、しなくてもどちらでもいい。そもそも紅魔館はレミィのものだからね。客人である私が口を挟むのもどうかと思う。それでも、やるというなら手伝うのもやぶさかじゃないということだけで、ね。だけど、まあ――」
パチェはそこで一息ついて言った。
「殺さないで済むんなら――そっちの方がいいんじゃない?」
私はパチェの言葉に答えなかったが、パチェも気にする様子はなかった。パチェはただそれだけ言い終わると、まるで関心を失ってしまったかのように本の文字に目を走らせていた。
――息苦しい。
呼吸がまともにできない。
それだけじゃない。
腹の奥底が煮えくり返りそうだった。
美鈴も何も言う気配がなかった。
彼女は私の言葉を待っていた。
――ふざけるなくだらない。
そう言ってしまえばよかった。
そして、私はそう言うべきだった。
そう言えば、きっと美鈴は自分の意見を取り下げてくれるだろう。
だが、言えなかった。
言わなければならないのに、言えなかった。
理由は――
その理由は、わかっていた。
私は自分の心に絡んでいる鎖を引きずりながら、答えた。
「却下よ」
私はそう言った。気づくと肩が震えていた。私はその震えを噛み殺すように言った。
「この平和は永遠には続かない。それとも、あなたは――」
私は美鈴に問いかけた。
「幻想郷の平和が永遠に続くと思う?」
美鈴は首を振って答えた。
「……思いません」
「なら、やるしかないじゃない……」
私は震えながらも言った。
結局はそういうこと。
たとえ幻想郷が平和であっても、その平和が永遠に続かないなら、それは同じことなのだ。
今がまさにそれだった。
外の世界から来た教会の組織によって、私達の世界の平和はかき乱されていた。
今すでに私達は幻想郷の平和の中にはいないのだ。
なら、私がやることは決まっているではないか。
しかし、美鈴はそれにも首を振って答えた。
「ですから、それは違うのです、お嬢様」
美鈴は優しげな笑みを浮かべた。
「確かに永遠に続かないかもしれませんが――それでも、ここは幻想郷なのです」
美鈴はまるで私に大丈夫かと言い聞かせるように微笑んでいた。
「確かに全てのものに永遠などありません。ですが、それでも私達は今、幻想郷にいるのです。ここは西欧ではありません。周りに敵などいません。お嬢様が彼らを殺さなかったからといって、侮って殺しにかかってくるような者などいません。彼らについても、今回がたまたまイレギュラーだったというだけです」
美鈴は私に願うように言った。
「お嬢様は幻想郷にいるのです。お嬢様は今、人を殺さなくても安全な場所にいるのです。お嬢様はもう『スカーレットデビル』でいる必要がない。ようやくお嬢様は『スカーレットデビル』であることをやめられる機会を得たのです。幻想郷ならば新しいやり方を見つけることができるのです。ならば、殺すことだけが解決法ではないでしょう」
美鈴は言った。
「和解の道を探せば、それは存在するのかもしれません」
和解――
私はその言葉をどこか遠くに聞いていた。
まるで夢のような言葉だった。
「それに――」
美鈴はわずかに口ごもったが、言った。
――あるいは、それは美鈴が本当に言いたかった言葉なのかもしれない。
「このようなことで、レミリアお嬢様がフランドールお嬢様を遠ざけられるのを見ていたくないのです」
それは真心のこもった声だった。
「私はレミリアお嬢様が人を殺すのを見たくありませんし、レミリアお嬢様がフランお嬢様に遠慮されて疎遠になるのも見たくないのです」
私はフランのことを思った。
私は結局、フランが弱点なのだった。
私はフランに、嫌いになってしまいなさい、と言った。
だから、もう私はフランを諦めるべきだった。
私はフランに捨てられたのだから、もうフランの心配をすることはなかった。
私は目を瞑って言った。
「……余計なお世話だわ」
そして、私はため息をついた――自分でも情けなくなるようなため息だった。
「フランは私と違うもの。あの子にはあの子のやり方がある。私はそれを尊重しているだけだわ」
しかし、美鈴は呆れたように笑った。やれやれと肩を竦めるかのように笑って言った。
「妹様に嫌われることが、尊重することなのですか?」
――気づいていたか。
これだから嫌になる。
自分を昔から知っている人間はこれだから嫌いなのだ。
「お嬢様は私に、フラン様に過去のことについて教えるように言いましたが、そのような意図があったのでしょう」
私の元養育係は再度、呆れるようなため息をついた。そして、安心させるように言った。
「フランお嬢様はレミリアお嬢様を嫌うようなことはありませんよ」
――今度こそ言葉を失った私を美鈴が見た。美鈴の目は優しかった。
「フランお嬢様は本当にレミリアお嬢様が人殺しをすることを嫌っているだけなのです。フラン様にはそれを許せないという気持ちがあるのでしょう。ですが、それでも――その程度のことではフランお嬢様はレミリアお嬢さまのことを嫌いにはなりません」
美鈴は自信に溢れた声で言った。
「私はレミリアお嬢様が過去にどのようなことをしてきたか、フランお嬢様に隠すことなくお話しましたが、それでもフランお嬢様は姉君のことを嫌いにはなっていないようでした」
「フランお嬢様は許せないだけなのです」と美鈴は私に微笑みかけた。
――どうしろと言うのだ。
本当に、私にどうしろと言うのだ。
美鈴は続けた。
「フランお嬢様はレミリアお嬢様を嫌いにはなりません。それどころか深く慕っていらっしゃるのです。それゆえ、今、フランお嬢様はレミリアお嬢様を慕う気持ちと、許せないという気持ちに挟まれて苦しんでいらっしゃいます」
私はどうすべきなのか――
「レミリアお嬢様にこれ以上人を殺して欲しくない――それだけがフランお嬢様の望みなのです」
私は退くことができないというのに――
「和解については私が取り次ぎましょう」と美鈴は言った。
「明日、あの空き部屋の女を連れて、私と――咲夜さんで彼らの村に行って、お嬢様の親書を渡すのがよいかと思います」
美鈴は咲夜に少しだけ申し訳なさそうな笑顔を浮かべて、「いいですよね、咲夜さん?」と尋ねた。それに咲夜がうなずく。
「ええ、いいわ」
そして、私の顔を真っ直ぐに見た。
「もちろん、お嬢様の意志次第だけど――」
咲夜は透き通るような青い瞳で私を見ていた。人間のメイド長は静かな微笑を浮かべて言った。
「私は一介の従者に過ぎません。ですが――」
咲夜はとても綺麗な笑顔を浮かべて言った。
「主君の幸福は従者の幸福でもあります」
咲夜の声はとても優しげだった。咲夜は目を細めて言った。
「そして、もし、レミリアお嬢様が苦しまれるなら、私にとってもそれは苦しみです。お嬢様は本当に楽でいられる道を進んでください。お嬢様の心が苦しくない道をお選びください」
そう言って、咲夜は穏やかに目を伏せた。
――正直、泣き出したい気分だった。
どいつもこいつも――
本当に何のために私は人を殺さなければならないんだ。
それでも私は殺さなければならないのに。
殺さなければ守れないのに。
それ以外の方法は忘れてしまったのに。
いや、それとも――
本当は私は――
美鈴が見ていた。
咲夜が見ていた。
パチェが見ていた。
そして、フランが――
どうするべきなのか――私は選ばなければならない。
どうしなければならないのか――私は判断しなければならない。
私は全員を見た。
私についてきてくれる皆を見た。
声を出すために息を吸う。
これでいいのかと思いながらも――
本当に私は――
私は――
私は――これでよかったのだろうか?
美鈴はもう私の部屋にはいなかった。美鈴は、門番隊の副隊長に留守中の仕事について指示をしてくると言って、出て行った。
咲夜が適当な――まあ、こういった行事に使うものでは最高級品だが――筒に私の親書を丸めて入れていた。
私は咲夜にまた淹れてもらったお茶を飲んでいた。胸にぽっかりと穴が開いてしまった気分だった。私はぼーとしながら、ただカップに口をつけるだけだった。
部屋にはまだパチェがいた。パチェは相変わらず、本を黙々と読んでいた。そして、思い出したように咲夜のお茶を啜っていた。
窓の向こうを見る。
満月まであと一週間ほどか。
上弦から少しだけ膨らんだ月から金色の優しい光をさらさらと空に零れていた。
静かな夜だった。
さやさやと、風が穏やかに木々の枝葉を撫でる音だけが聞こえていた。
空気はどこまでも透き通った蒼色をしていた。
しばらくして、パチェは退屈しのぎとでも言うかのように口を開いた。
「レミィは本当に美鈴のことを信頼しているのね」
私はそれにうなずいた。我ながら素直だった。私もどうでもいいようにパチェの問いに答える。
「あいつは私の元養育係だったからね。認めたくないけど、美鈴にはいろいろ世話になったし――迷惑もかけた。私の虐殺に最後までつきあってくれて、そして、幻想郷にいっしょに来てくれたのは美鈴だけだった」
幻想郷に来る前、私の臣下として働いてくれた妖怪は皆、お父様の臣下だった。ちなみにお父様はまだ存命だ。今頃、お母様や臣下達と一緒に、西欧の幻想郷みたいなところで暮らしているだろう。私はお父様に臣下を借りて、ずっと戦争をしていたのだった。美鈴も本来はお父様の臣下だった。
思えば彼らにも迷惑をかけたものだと思う。
『スカーレットデビル』の虐殺に私は彼らを無理矢理、つき合わせてしまったのだから。
外の世界が本当に妖怪という存在を必要としなくなってしまう頃、私はお父様、お母様と別れて、幻想郷に来た。私はそのときに自分の部下だった妖怪を全部お返しした。彼らもほっとしただろう。もう『スカーレットデビル』といっしょに罪のない人間を殺さなくて済むようになったのだから。彼らは私と一緒に幻想郷に来ることはなかった。だが、唯一、私とここまで付き合ってくれたのが、私の元養育係――紅美鈴だったわけだ。
本当にあいつには勝てない。
悔しいが、認めざるをえなかった。
「それにしても――」
パチェはどこか呆れたように言った。
「妹様も本当に優しいのね」
パチェは本をめくりながら言う。
「妹様は私達と違う。私達と違って、妹様は『許せない』のだからね。私と美鈴、そして咲夜はレミィを気遣っているけど、妹様はレミィだけじゃなく――むしろ、殺される人間を気遣っている」
パチェは紅茶を啜って、どうでもよいというかのように――だが、どこか怒ったような口調で言った。
「何だか、不公平だわ」
私はその言葉に頬が緩むのを覚えた。それはきっと私に対する気遣いなのだろう。私は親友の誤解を解くために言った。
「あの子は敵意というものを知らないからね。だから、殺し合いという概念を理解できないのよ」
フランは495年間、地下で暮らしてきた。私、お父様とお母様、美鈴、そして一番新しくてパチェ――フランのその長い幽閉生活の人間関係は本当に狭いものだったのだ。私の両親はしつけに厳しい人だった。あの子は私と違って生まれつき素直だったから、両親の言うことをよく聞き、良い子に育った。間違えたことをすれば、両親が――そして、私と美鈴、パチェも叱ったし、良いことをすれば、あの子はちゃんと褒めてもらうことができた。
フランは深窓の令嬢どころか、深地下室の令嬢だったわけだ。
外の世界の経験を得ることはできなかったが、好奇心旺盛なフランはよく本を読んだ。フランは本からたくさんの知識を吸収していった。
そんな生活で、あの子に理解できない感情があったのだ。
敵意と悪意。
たぶん、それは今のフランでもよくわからない感情なのだろう。
もちろん、人を憎悪する感情は本の中にも溢れかえっている。フランの好きな推理小説は殺人を取り扱った小説だ。人を殺す――それは敵意と悪意を発露すること以外のなんでもない。
だが、私達はあの子にその感情をもって接したことがなかった。フランと地下室で喧嘩したことは何度もあったが、それでも積極的に他者を傷つけようという敵意と悪意だけはあの子には与えなかった。
そして、ようやく外に出られるようになった今でも、フランは強い悪意というものに曝されたことがなかった。フランと弾幕ごっこをしてくれる霊夢や魔理沙は、そんな醜い感情をもって人と付き合うような奴らではない。能天気で常識はずれな奴らだが、だからこそ、彼女達でもフランに人を傷つけるという感情を教えることができなかった。
だから、結局のところ、あの子は敵意や悪意というものがわからないのだ。
もし、あの子が知っている、誰かに害を与えるような感情があるとするなら、
それは『いらない』ということだけだろう。
相手を不要のものとして考える思考。
相手を拒絶する気持ち。
フランはそれを495年間、地下室でずっと感じてきたのだ。
だから、きっとフランはあんなに殺人を嫌うのだろう。
殺人とは『いらない』ことだから。
自分もまた『いらない』と言われ続けてきたから。
でも、それだけでは殺し合いを理解することはできない。
『殺す』ということを理解するだけでは、『殺し合い』を理解することはできないのだ。
そして、私はフランにそれを理解して欲しくなかった。
フランにはそんな汚いものを知って欲しくなどなかったのだ。
フランにはそんな世界とは無縁の場所で生きて欲しかった。
だから、フランのせいじゃない。
フランが『スカーレットデビル』を許せないのは、フランのせいじゃないのだ。
フランは殺し合いを知らない。
フランは敵に悪意を向けることを知らない。
フランは悪意を向けられることを知らない。
フランは殺しに来る誰かがいることを知らない。
そして、私はそれをフランに教えてこなかった。
フランが西欧で外に出られるようになれば教えていたのだろうが――
生憎、フランが地下室から解放された場所は平和ボケした幻想郷だった。
ここなら、フランはそんなものを知らずに生きていける。
私はそう思ったから、教えなかった。
だから、フランが私のことを許せないのは、フランのせいではないのだ
「どうして――」
パチェは尋ねた。紫水晶の瞳が不思議そうに――少し心配するように光っていた。
「どうして、レミィはそこまで妹様に優しいの?」
その質問に私は自然と頬が上がるのを感じた。パチェにしてはずいぶんと愚問だった。私は笑いながら首を振って答えた。
「私はあの子の姉なのよ」
私は心の真ん中から、そう言った。
「姉の私があの子の幸せを考えてあげなくて、あの子に優しくしてあげなくて――他の誰があの子を幸せにしたり、優しくしたりすることができるの?」
私の言葉にパチェは黙り込んでしまった。パチェは口を一文字に閉じて私を見ている。
――もっとも、それだけじゃないけど。
私は自嘲した。そして、懺悔する気分で、もう一つの理由を付け加える。
「それにね、パチェ」
私はどうしてか――微笑んでいた。
「フランは495年間、ずっと『スカーレットデビル』を知らないでいてくれたのよ」
パチェは私の言葉に目を細めた。私はかまうことなく続けた。
「フランが『スカーレットデビル』を知らないでいてくれたから、私はレミリア・スカーレットでいられた――」
フランだけだった。
「私は本当にフランに救われたし、感謝してるわ」
私の周囲の人で、『スカーレットデビル』を知らないでいてくれたのはフランだけだった。
レミリア・スカーレットを『スカーレットデビル』と呼んで恐れなかったのはフランだけだったのだ。
地下室に閉じ込められていて、外の世界について何も知らなかったフランだけが、私にレミリア・スカーレットでいることを許してくれたのだった。
『スカーレットデビル』を愛してくれる者はいない。
『スカーレットデビル』の愛を受け取る者はいない。
お父様とお母様、養育係だった美鈴だけが、私をそれ以前の私として扱ってくれた。
他の者は私を恐怖していた。尊敬されることもあったが、恐怖されることのほうがずっと多かった。
そして、お父様とお母様、美鈴も私を『スカーレットデビル』であることを忘れてはくれなかった。たとえ本人達が気にしていなくても、臣下達の目があった。
フランだけだった。
本当に私をレミリア・スカーレットであることを許してくれたのはフランだけだったのだ。
私をいつも笑顔で迎えてくれるのは、フランだったのだ。
私が誰かに優しくすることを許してくれたのはフランだったのだ。
それが私にとってどれほど救われたことか――
それが私にとってどれほど喜びだったか――
私はどれほど、フランに感謝したことか――
フランは知らないだろうけど――
私はフランに救われていたのだ。
だから、思った。
私はこの子を幸せにしたいと。
私は、この子を地下室に閉じ込めてきた分、そして、私を救ってくれた分以上に、フランを幸せにしたかった。
私は自分でもよくわからない微笑みを浮かべることしかできなかった。
「そして、フランにそのことが――『スカーレットデビル』であることが知られたら、と何百年考え続けてきたことか――」
臆病な私はその日が来ることを想像していた。
何百年間、何十回も何百回も考え続けてきた。
フランに自分の正体が知られて、嫌われる日のことをずっと思い描いてきた。
そして、途中まではその想像通りだったのだが――
「まさか、こんな形でその想像を覆されてしまうとはね……」
結局、私は『スカーレットデビル』を捨ててしまった。
いろいろなものを壊して、捨てて、その挙句、私は『スカーレットデビル』を殺してしまった。
本当に私は道化だった。
何が『スカーレットデビル』だ。
何が『紅い悪魔』だ。
結局、私は服を汚すだけの子供でしかなかった。
周りを引きずり回して、たくさんのものを台無しにして――本当に子供以外の何でもなかった。
「もういいわよ、レミィ……」
うつむいた私に静かな声がかかった。
パチェだった。
パチェとは付き合って50年以上になるが、その中でも一回か二回しか見たことのないような、悲しそうな笑みを見せていた。
「もし、美鈴が――私達があなたに何も言わなければ、あなたはいつものように、あいつらを皆殺しにしてたでしょう。あなたは自分の主義を貫き通せた。レミィは私達の希望に応えただけ。応えて殺そうとしなかっただけよ。だから、あなたはそんなに自分を責めることはないわ」
信じられないほど優しい言葉だった。私は正直、かなり驚いていた。親友の魔女が、いつもは無慈悲を気どっている魔女がこのような言葉を口にするとは全く思っていなかった。私は思わず、尋ねていた。
「……パチェ、具合でも悪いの?」
すると、パチェは呆れたように笑い、席から立った。もう図書館に帰るらしい。
「……親友が落ち込んでるときに元気にしてる奴なんて、親友じゃないわ」
……やはり、パチェは具合が悪いようだ。こんなことを言うなんてパチェらしくない。パチェはもっとこうニヒルでツッケンドンじゃなくちゃ、パチェらしくないのに。でも、まあこんなこともあるのかもしれない。
パチェは微笑んだまま、挨拶をすることもなく部屋から出て行った。その仕草だけがパチェらしかった。
部屋には私と咲夜だけが残された。
ちょうどカップが空になったので咲夜にお代わりを求める。咲夜はいつも通り、瀟洒に紅茶を注いでくれた。
淹れてくれたばかりの紅茶に口をつける。咲夜は何も言わない。窓の外から聞こえてくる、風が木々を揺らす音とカップとソーサーのカチャカチャという高い音だけが、部屋の中に響いていた。
やがて、私は咲夜に言った。自分でも弱々しいと感じられるような声だった。
「あいつらの村に行くときは気をつけなさいよ」
咲夜が神妙な顔でうなずく。
「はい。わかっております」
「弾幕ごっこじゃないんだからね」
「もちろん、心得ております」
「それから――」
私は深く静かな気分で言った。
「咲夜は何かあったら、すぐ逃げるようにしなさい」
「…………」
「戦闘は美鈴に任せておけばいいわ。あいつはそう簡単に死ぬような奴じゃないからね。ほんと、ダイハードもびっくりなくらいにしぶとい奴だから」
咲夜は目を細めて私を見ていた。私の考えを読み取ろうとしているらしい。私はいつもの私なら言わないような生温い言葉を口にしていた。
「咲夜は人間だから――できるだけ人間を殺したくないでしょう?」
私の言葉に咲夜の目がぴくりと動いた。咲夜は静かに首を振る。
「いえ、お嬢様の敵となる者、人間か妖怪かなど関係ありません。咲夜は人間の身ですが、それでも人間を殺すことに何のためらいもありませんゆえ――」
「あら? 咲夜は私に人を殺すな、と言っておいて、自分は人を殺すと言うのかしら?」
私の言葉に咲夜は口を一文字に閉じた。私は少しだけそれを愉快に感じながら、言った。
「……咲夜もいいのよ。私が殺さないんだから、あなたも殺す必要はない。殺したいなら別だけどね」
私の言葉に、咲夜は何も言わずに深々と頭を下げた。私も何も答えなかった。咲夜はサファイアのように綺麗な目で私をしばらく見つめていた。
それから、またしばらく沈黙が続いたが、咲夜が思い出したように私に尋ねた。
「どうして、私を助けてくださったんですか?」
私はカップを口に運ぶ手を止めた。咲夜は静かな、だが、少し熱のこもった声で尋ねた。
「私もお嬢様と命をかけた戦いをしたことがありました。しかし、そのときお嬢様は私の命を奪おうとはしなかった」
私は、ああ、そんなこともあったな、と思った。咲夜は穏やかだったが、強さを感じられるような声で続けた。
「どうして、お嬢様は、殺しにきた私を助けてくださったんですか?」
けっこう前のこと――とはいえ、もう私が幻想郷にいたときのことだった。
私は一人の吸血鬼ハンターの攻撃を受けた。
彼女は時間を操る能力と銀のナイフで私に戦いを挑んだのだった。
まあ、言うまでもなく咲夜のことだが――
私は敗北した咲夜を殺さなかった。
代わりに『十六夜咲夜』という姓名を与え、紅魔館のメイドとして働いてもらうことにしたのだった。
「まあ、理由は色々あるんだけど……」
その能力が人間のものにしては非常に稀有であったこともあるし、当時、紅魔館の従者の数が少なかったのもある。人間はなかなか義理堅いから、そこら辺の野良妖怪をメイドなどにするよりずっと信用できた。咲夜が他のメイドや美鈴を狙わず、私の命のみを狙って行動したということも大きかった。他にも、何となく咲夜を従者にしたほうが良い運命に進むことができるような気がしたり、など、理由はとても一つには絞れないのだが――
「でも、やっぱり……」
私は自然と微笑んでいた。我ながら馬鹿だなぁ、と思いながら笑った。私は咲夜の優しげで、芯の強そうな目を見て言った。
「似てたのよ」
「……はい?」
「目が似てたのよ」
「……目がですか?」
咲夜がぽかんとした顔をする。とても可笑しかった。
そう。似てたのだ。
「あのときの咲夜の目が――私を殺しにきたときの咲夜の目が、フランの目に似ていたのよ」
――あの咲夜の目は『いらない』と言われてきた者の目だった。
地下室に500年近く閉じ込められてきたフランととてもよく似た目をしていた。
咲夜の寂しそうな目が、地下室で見るあの子の目とそっくりだったのだ。
「だから――何となく、私は咲夜を助けたくなっちゃったのよ」
私の言葉を聞いて、目を丸くしていた咲夜だったが、やがて何が可笑しいのか、ぷっと噴き出し、くすくすと笑い声を立て始めた。
「本当に、お嬢様は――」
咲夜は童女のように笑いながら言った。
「本当に、お嬢様は姉馬鹿なんですね」
「ほっとけ」
私も咲夜の微笑に釣られて笑っていた。
ひとしきり笑うと、咲夜は自分の部屋に戻ると言った。明日の準備をするためらしい。私がそれにうなずくと、咲夜は時間の能力を使い、一礼した後に私の前から姿を消した。
こうして、私だけが残った。
胸の中に大きな寂寞感があった。
『スカーレットデビル』に対する執着心なのだろうか。
私はあの無慈悲な悪魔に執着していたのだろうか。
私はまだ悩んでいた。
みっともなく、未練がましく悩んでいた。
自分の判断が正しかったのかどうか――
あの判断が逃げ以外の何でもなかったのではないかと――
しかし、もう私は決めてしまったのだった。
もう私は『スカーレットデビル』を殺すことを決めてしまったのだった。
私はふと外の月を見た。
500年前とあまり変わらない月。
金色の月が空の真ん中できらきらと輝いていた。
――いい夜だった。
思わず、本音がこぼれてしまいそうなほど、いい夜――
空っぽの心で私は呟いた。
「――人殺しなんて真っ平だわ」
月はさらさらと優しい光を夜空に満たし続けた。
私は窓から、三人の姿を見ていた。
三人――
咲夜。
美鈴。
そして、一昨日、お姉さまの部屋にいた女性。
咲夜と美鈴に挟まれて、女性が紅魔館の門をくぐってゆく。
私は三人が見えなくなるまで、ずっとその後姿を目で追っていた。
今朝、美鈴から聞いた話によると、お姉さまの親書には「これ以上、私に関わるな。そうすれば生かしてやる」といったことが書かれているらしい。
きっと咲夜と美鈴なら成功するだろう。
もう血を流すことはないのだ。
私は、昨日地下室に訪ねてきた美鈴の様子を思い出していた。
きっと美鈴も迷っていたんだと思う。
美鈴も私と同じように、お姉さまが人を殺すことに痛みを感じていたのだ。
美鈴は子供を心配する母親のように、お姉さまのことを気遣っていたのだ。
だから、美鈴は私の頼みを引き受けてくれた。
お姉さまを止めて欲しいという私の願いを引き受けてくれた。
結果、それは成功して――
お姉さまとは今朝、朝食のときに会った。
お姉さまはぼーとした様子で、文句も言わず、咲夜の料理を食べていた。
私もお姉さまに話しかけるのが何となく気兼ねしてあまり会話をしなかったが、何とか勇気を出して何か言っても、お姉さまは「……あら、フラン、何かしら?」と、優しい微笑を浮かべて気の抜けたように返事をするだけだった。
お姉さまはまるで魂が抜けてしまったように見えた。
心がここにないような――そんな感じ。
お人形みたいに微笑んでいるだけのお姉さまの姿に、私は胸が締め付けられる思いだった。
それから、お姉さまは私室に引きこもってしまった。普段は居間でくつろいでいるのに、今日は仕事があるからと言って、私室に入ってしまったのだった。
本当に仕事があるわけじゃないだろう。
でも、私はそう尋ねることができなかった。
――私はお姉さまを追い詰めてしまったのだろうか。
私は悩んでいた。
確かに覚悟を決めてお姉さまを説得したのに、私はまだ悩んでいた。
お姉さまが人を殺したくないと思っているのは本当だろう。
そして、私もそれを望んでいた。
でも、どうしてだろうか――
私の望みは叶えられた。
だが、お姉さまは元には戻らなかった。
お姉さまはまるで私に遠慮するかのように、ただ微笑んでいるだけだったのだ。
ただ、一つだけ私に話しかけてくれたことがあったが――
朝御飯を食べているとき、お姉さまはやはり優しげな、だが、空っぽな微笑を浮かべて、突然、私に尋ねた。
『ねえ、フラン、あなたは――』
――否、尋ねようとした。お姉さまの言葉は『あなたは――』で切れたままで、そのあとに続く言葉はなかった。私が答えようとするより前に、お姉さまは『いえ、やっぱり何でもないわ。ごめんなさいね……』と言って、トーストを齧り始めた。
それから私も何も言えず、お姉さまは黙々と朝食を終え、私室に帰っていった。
あのとき、お姉さまは何を聞こうとしたんだろう?
考えてみるが、私にはわからなかった。
それにしても――
私は誰もいなくなった紅魔館の庭を見ながら思った。
私は何をしたかったのか、と。
もうお姉さまに殺されるような人はいない。
お姉さまがあのロケットの女の子を殺すことはもうない。
そして、お姉さまも『スカーレットデビル』をやめることができた。
私の望み通りじゃないか。
だが、私は釈然としないものを感じていたのだ。
……………………。
いいかげん、悩むのはやめよう。
私はもう行動してしまった。
もう後戻りはできないのだ。
『スカーレットデビル』を止めるにしても、放っておくにしても、私はどちらにしても後戻りができなかった。
そのうちの片方に私は進んだのだ。
私はもう誰も歩いていない庭を見るのに飽きて、窓から離れた。
パチュリーの図書館にでも行こう。
私は歩き始めた。
パチュリーはいつもと変わらぬ様子で本を読んでいた。私がパチュリーに挨拶をすると、パチュリーも普段どおり挨拶を返してくれた。
適当に小説を選んだ。
パチュリーに、同席してよいか尋ねる。パチュリーは本を読みながら、私の問いにうなずいた。
しばらくページをめくる音だけが図書館の中に響いていたが、やがて、パチュリーは本から顔を上げて、真面目な顔でぺこりと頭を下げた。
「妹様、昨日はきつく当たりすぎたわ」
「…………」
「――ごめんなさい」
「……いいよ。パチュリーは悪くないよ」
今の私なら、あのときのパチュリーの気持ちがわかるような気がした。パチュリーはお姉さまのことを心配していたのだ。パチュリーはパチュリーなりに、お姉さまの悪い話を隠そうとしてくれたのだ。
それはむしろ妹として感謝すべきことだった。
やがて、昼食の時間になった。パチュリーは研究中だから後で食事をとるらしいので、私は一人で食堂に向かった。
もう咲夜と美鈴は紅魔館に帰ってきていた。
食堂にいるのは咲夜だけだった。美鈴はお姉さまに報告しに行っていたので会わなかった。
咲夜の話によると、教会の『村』はこちらの要求を全面的に受け入れたという。『村』の実体はお姉さまの考えでほとんど合っていた。移民と吸血鬼の討伐、二つの計画が同時に進んでいたらしい。だが、全体の責任者である『村長』はそもそも吸血鬼退治に乗り気ではなかったという。外の世界の親機関の強制によりしぶしぶ作戦を進めていたのだそうだ。『村』のほとんどの人間が戦いを嫌っていた。だから、『村』としてはこれ以上お姉さまに危害を加えるようなことはしないだろう。
一つ危ういとしたら、狂信者――特に戦闘部隊のうちの数人が狂信者であることだそうだ。だが、『村長』の話によれば、彼らを丸め込んでしまえば、『村長』の決定に反対するようなものはいないという。『村長』は彼らを説得することを約束し、お姉さまの親書を受け取った。
お姉さまは美鈴の報告を聞き、『村長』を信用すると言った。
お姉さまは『村』への攻撃をやめると正式に宣言した。
こうして、小さくて大きな紅魔館の事件は終わりを迎えた。
それから、一週間が経った。
教会の戦闘部隊が、紅魔館を襲撃してくるということはなかった。
お姉さまもだんだん元の調子を取り戻し始めていた。お姉さまは三、四日はぼーとして、魂の抜けたように微笑んでばかりいたのだが、ようやく人間らしく――吸血鬼らしく、朗らかに笑うようになってきた。
美鈴はいつもどおり門番中に昼寝をしては咲夜に怒られていた。美鈴はあの事件がなかったかのように、すぐに元の美鈴に戻っていた。
パチュリーは終始普段どおりだったように思う。それが魔法使いの性なのか、パチュリー本人の性格によるものか、私にはよくわからなかった。何にせよ、パチュリーはマイペースを崩そうとはしなかった。
咲夜はお姉さまの元気がない様子を心配していたが、今ようやくお姉さまが普段どおりのお姉さまに戻りつつあるのを見て、安心しているようだった。
私は――まだあの事件を引きずっていた。
私はあの事件を過去にすることができないでいた。
この一週間、お姉さまの元気のない姿を見ながら、ずっと私のしたことは正しかったのか、考え続けていた。
そして、私は毎日夢を見ていた。
私がまだ地下室に閉じ込められていた頃の夢。
地下室にいる私をお姉さまがやってきて慰めてくれる夢だった。
地下室で私はお姉さまが来るのを待っている。
すると、お姉さまは優しく微笑んで、私の地下室に入ってくるのだった。
そんなお姉さまの服は真っ紅に染まっていて。
でも私は気にせず、お姉さまと遊ぶのだった。
夢の中のお姉さまは楽しそうに笑っていた。
お姉さまは私に優しく微笑んでくれた。
ときどき、お姉さまが何かを思い出したように悲しそうな顔をする。
だが、それも一瞬で、お姉さまはすぐに楽しそうに優しそうに笑う。
夢の中の私はお姉さまが泣きそうな顔をしたことに気づかない。
そんな夢が何回も続いて――
私は今朝、こんな夢を見た。
お姉さまが膝を抱えて座り込んでいる。
場所は私のいた地下室だ。
虚ろな目で――この世の何もかもに絶望しているような目でお姉さまはじっと座っていた。
服は真っ紅だった。
これ以上染めることもできないほどに、紅い色をしていた。
一人閉じこもるように、お姉さまは自分の小さな身体を抱えて座っていた。
それを私は外から見ている。
ただ、私のいる場所は『外』なんだということだけがわかる。
私はお姉さまに近寄っていけない。
なぜなら、見えない壁があるからだ。
私とお姉さまの間には不可視の壁があって、行き来できないようになっていた。
私は疲れ切った顔をしているお姉さまの元に行きたかった。
だが、行けない。
私は壁に邪魔されて進むことができなかった。
私は自分の右手のことを思い出した。
この右手は何でも破壊できる手だ。これならば、この見えない壁を壊すことができる。
だが、そこで私は思いとどまった。
私はこの右手の力が嫌いだったんじゃないか、と。
私は自分の能力を忌避していた。
誰彼かまわず傷つけるかもしれない自分の能力を恐ろしく感じていた。
私は躊躇ってしまった。
私は壁を壊すのを躊躇ってしまった。
私はお姉さまを見返す。
お姉さまからは私の姿が見えていないのか、お姉さまの目は何も見ていないようだった。
私は叫んでお姉さまを呼ぶ。
だが、お姉さまの耳には届かない。
私はまた叫ぶ。
叫ぶくせに、右手の力を使おうとしない。
私は破壊の能力を使おうとしない。
そして、ようやく気づく。
お姉さまは目から涙を流していた。
血のように紅い涙だった。
でも、その涙は服に染み込んでいって、消えてしまった。
お姉さまの白いドレスに目立つはずの紅い涙は、血に濡れた服の中へと消えていくばかりだった。
私はお姉さまを呼び続ける。
私は右手を使わない。
――そこで夢が終わった。
今の夢は何だったのだろうか。
夢に特別な意味があるのか――私はフロイトじゃないから、わからないけど。
でも、もしかしたら、私にはまだやり残していることがあるような気がした。
私はお姉さまに何かしてあげなくちゃならないのではないか。
あの日以来、そのことばかり考えていた。
そこで、私は気づいた。
一週間もかかって、ようやく二つのことに気づいた。
一つは私がお姉さまとちゃんと仲直りしていないということ。
もう一つは自分がこんな大切なこともわからない馬鹿だったことだった。
私は美鈴に頼んで、お姉さまを止めることはできたけど、自分からお姉さまに話しかけることができなかった。どうして今まで忘れていたのだろう。本当に私は自分でも腹が立つくらいに馬鹿だった。
私はお姉さまと仲直りをしなければならないのだった。
でも……
私は許してもらえるのだろうか。
私はお姉さまに許してもらえるのだろうか。
お姉さまに『嫌いになっていい』と言われたあの日、私はお姉さまが許される側だと思っていた。私は許す側で――だから、お姉さまが許しを請わなければ、私達は元に戻れないと思っていた。
だけど――
私もお姉さまを傷つけてしまったのだ。
お姉さまの数百年分の苦労を水の泡にしてしまったのだ。
今も私は間違ったことをしたとは思わない――否、思えなかった。
私はお姉さまに罪悪感を感じていたのだ。
私はお姉さまに謝らなければならないと思い始めていた。
どう謝ればよいのか――
お姉さまは私を許してくれるのだろうか。
それとも、これも私の我が儘に過ぎないのか。もうお姉さまは私を許してくれないのか。
――よく考えてみればそうだ。
私はお姉さまのために行動したことがあるか。
お姉さまは私を守るために戦っていたのに。
私はお姉さまに人をもうこれ以上殺さないでくれと頼んだ。
それはお姉さまのためになったのだろうか。
私はお姉さまのために何ができたのか。
私はもっと別にお姉さまのためにしなければならないことがあったんじゃないか。
今の私は、それをすることさえ許されていないのかもしれないけど――
もし、可能であるならば、私はそうしたかった。
図々しいけど、お姉さまに許してもらいたかった。
そんなことを考えていると――
こんこん、とドアをノックする音が私を現実に引き戻した。
咲夜が私を起こしにきたのだった。
今日も――というか、あの事件以降、私はなぜか早起き体質になっていた。ちょうど6時頃に起きるのだった。しかも決まって目が冴えている。二度寝することもできなかった。もし、これが一年以上続くようなら、私は本気で吸血鬼をやめることを考えなければならないのかもしれない。今日も私は6時ジャストに目が覚め、夢のことについて考えていた。私は夢の中の光景を鮮明に覚えていた。そして、それについて考えているうちに私はお姉さまと仲直りしなければならないということに気づいたのだった。
咲夜のノックに答え、朝の挨拶をする。そして、咲夜に手伝ってもらい、着替えを行う。
「今日のご予定はどうしますか?」
咲夜は私の着替えの手伝ってくれているときに尋ねた。
私は勇気を振り絞って言った。
「……お姉さまとお茶がしたいな」
その言葉に咲夜は目を丸くした。私は変だったか、と一瞬驚いたが、咲夜はすぐに微笑んで言った。
「実はレミリアお嬢様もフランお嬢様とお茶が飲みたいとおっしゃっていたのです」
「本当に姉妹仲がよろしいのですね」と、咲夜がにこにこと笑う。私は恥ずかしかったが、同時に胸がぽかぽかするような喜びを感じていた。
私はお姉さまの部屋に向かっていた。
食堂では、私はお姉さまに会わなかった。どうやら、また私より早く起きて朝御飯を食べたらしい。お姉さまもあの事件以来、吸血鬼であることをだんだん忘れているみたいだった。
私は朝食をとった後、パチュリーの図書館で本を読んで時間を潰した。パチュリーをお茶に誘おうかとも思ったが、今日はお姉さまと二人で話をしたかったから言わなかった。そして、時間になったので私は図書館を出て、お茶の準備をして待ってくれているお姉さまの部屋に向かった。
私は廊下を歩きながら考えていた。
お姉さまに何と言って謝るか。
どうすればお姉さまに許してもらえるか。
そして、私をお茶に呼ぼうとしていたということは、お姉さまは私に何か言いたいことがあるのだろう。
では、お姉さまは私に何を伝えたいのか――
考えても考えても答えは出なかった。
私は不安になりながら歩いていた。
階段を昇る。もうすぐお姉さまの部屋まであと50メートルもない。
私の不安は膨れ上がるばかりだった。
お姉さまは私を許してくれないほど怒っているんじゃないか。
お姉さまは私のことを嫌いになったんじゃないか。
……全く勝手だった。
相手を傷つけて、我が儘を押し通して、それでもなお好きでいてもらいたいなんて。
嫌われて当然だった。
でも、私は本気だったのだ。
私は本当にお姉さまに人を殺して欲しくなかったのだ。
大好きなお姉さまに人を殺して欲しくなかったのだ。
お姉さまにこれ以上無理をして欲しくなかったのだ。
――それだけは誓って言える。
どうすれば私は許してもらえるだろうか。
いや、許してもらう、ということではないのかもしれない。
――私はもうお姉さまを許していた。
お姉さまに対するわだかまりは消えていた。
それでもう十分なのかもしれない。
お姉さまを許すことができたのだから、それでもう私は十分に満足するべきなのかもしれなかった。
お姉さまに嫌われても、私がお姉さまのことが好きならいいのかもしれない。
だが――
勝手なことに私はお姉さまに好いてもらいたかった。
お姉さまの優しい笑顔が見たかった。
本当に勝手だけど――
お姉さまの部屋に繋がる廊下に出た。もう20メートルほどでお姉さまの部屋だ。
私は祈るような気持ちだった。
どうか――
私を嫌いにならないでください。
私に、嫌いになっていいなんて言わないでください。
私は祈りながら進んだ。
もうお姉さまの部屋まで数歩だった。
と、そこで――
背中を押された。
ドンッと――
いや、ドンじゃない。
もっとこう激しく――
背中を押されたという表現で収まりきらないくらいに。
そう。突き飛ばされたというほうが正しい。
ドスンッと――
私は足が床から離れるくらいに、背中を強く突き飛ばされた。
だが、私の身体は床に落ちなかった。
床に落ちることなく、私の身体は宙で静止していた。
そして、私は目を見張った。
たぶん、私じゃなくてもそうしたと思う。
だって、胸から――
銀色の棒が生えてきたのだから。
口いっぱいに鉄の味が広がる。そして、その味は私の口で収まりきらずに、床へとこぼれた。胸が燃えるように熱い。胸に生えていたはずの棒が短くなる。胸部から背側に何かが後退するような感覚。私は長いものが背中から引き抜かれるのを感じた。身体に力が入らない。胸に開いた穴からひゅーひゅーと空気が漏れる音が聞こえた。私は床に崩れ落ちる。だが、そのまま床に倒れることさえ許さず、何者かの手が私の身体を引きずり上げ、壁へと叩きつけた。背中を打つ衝撃に絶息する。一刹那置かず、また私の胸に銀色の槍が突き刺さった。
「ぐぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!」
じゅー、と傷口が焼ける音がした。同時に自分の声帯から出たものだと信じられないくらいの絶叫が喉からこぼれていた。痛い。痛いというより熱い。ものすごく熱い。死んでしまいそうに熱い。
銀色の槍は抜かれることなく、私を壁に固定していた。だが、何者かはそれでは足りないと思ったのか、銀のナイフを取り出して、私の二つの手首と両方の足首に突き刺し、私をより強く固定する。私はナイフを突き刺されるたびに、気が狂ったような大きな声を上げていた。
痛い。
弾幕ごっこと比べ物にならないくらい痛い……
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
痛い、よぉ……。
私は目を開けた。ぐしゃぐしゃの視界。どうやら私は涙を流しているようだった。それにしても痛い……。私は涙をぼろぼろこぼしながらも、私を襲っている誰かを確認した。
教会の修道服を運動着に作り直したような黒い服。
服のところどころについた十字架をモチーフにしたと思われる意匠。
ああ、彼らだ。
教会の組織だ。
私は咲夜が言っていた言葉を思い出す。
狂信者が戦闘部隊に何人かいると――
――『村長』は彼らを抑え切れなかったのか。
視界の中に映った人影は四、五人しかいなかったが、今、紅魔館を襲ってきているのは、もしかしたら、これより多いかもしれない。
今度はお姉さまの言葉を思い出していた。
お姉さまがした教会の戦闘部隊の装備についての解説を思い起こしていた。
槍で突き刺されるまで私が彼らに気づかなかったのは、服の結界のためだろう。光学迷彩と霊気遮断だったっけ……。お姉さまなら気配だけで察知できるのだろうけど、私は経験不足だから、こうして攻撃を受けるまで彼らの存在を知ることができなかった。
私を壁に貼り付けた人間を見る。顔を覆面で隠していたが、体格から男性だとわかった。男性は腰についてるポシェットから、銀色の杭を取り出した。杭に文章が彫っているのが見える。たぶん、吸血鬼を退治するための福音なのだろう。
一瞬だけ、男性と目が合った。
覆面の細い隙間から男性の目が見えていた。
――殺す者の目だった。
お姉さまやあの女性がしたのと同じ、誰かを殺そうとする目。
容赦なく、誰かをいらないと切り捨てる目。
私の恐れている、怖い目。
ああ、私は殺されるんだな、と思った。
杭を心臓に刺されて、私は灰になるのだ、と。
死ぬ――
――怖い。
怖い。
怖い――!
私は自分の身を守ろうとして、スペルカードを取り出そうと思ったが、私の両の手はナイフで壁に打ち付けられていたため、少しも動かすことができなかった。
だが、すぐに私は自分の右手のことを思い出した。
右手は動いていた。グーパーしてその動きを確認する。
相手の『目』も確認できた。
――これなら、十分に破壊の能力を使うことができる。
私は男性の『目』を右手に移動させた。
そして、私は魔力をこめながら、きゅっと右手を握って――
……………………。
――私は握らなかった。
殺されるのは怖かったけど、私は右手を握らなかった。
何だか馬鹿らしくなってしまった。
お姉さまに散々人を殺すなと言っておいて、私が人を殺すなんて、本当に馬鹿らしかった。
まあ、普通だったら、そんなこと考えてないで殺すんだろうけど。
でも、生憎、私は普通じゃなかった。
『狂っている』、『気がふれている』、『情緒不安定』……
元から頭がおかしいと呼ばれていたのだ。
そんな奴だから、ここで抵抗しなくても何の矛盾も存在しまい。
そうか、と思う。
私はこのベクトルに狂っているのか、と。
この世界のフランドール・スカーレットはこの方向に狂っているのかと。
……まあ、そんなわけないんだけどね。
今の私は十分正気だった。まあ、普段から狂っていると言われることもあるから、私が言ったところで何の証明にもならないのだけど。
ということは、このフランドールの人格の問題というわけだ。
この私は自分を襲う相手を殺すことさえできないような人格をしているのだ。
その意味で、やっぱり私は狂っているのかもしれない。
でも、さ。
それでも、人を殺すのって嫌じゃない?
自分の身を守るためでも、人の痛がる姿は見たくないよ。
私は自分のために人を殺すなんて嫌だよ。
ああ、やっぱり私は狂っているのかもしれない。
自分の命より、見ず知らずの他人の命が大事だなんて。
だけど、私はこれでいいんだろう。
――私の冷静な部分が、自分の思考がかなり混濁しているのを感じていた。
せめて、私を拘束している銀の槍とナイフ、それから今まさに胸を抉ろうとしている杭くらいは壊そうよ、と思うが、もう間に合わないような気がする。まあ、やるだけやってみるけど。
でも、死ぬのもいいかもしれない。
私はずっと『いらない』と言われてきたのだから。
ずっと殺されてきたのだから。
元から死んでるような奴だ。
それがここで完全に死ぬだけ――
それが私にはお似合いなのかもしれない。
男性が私の胸に杭を当てる。
そして、何やら呟き始めた。お祈りか何かだろうか。
吸血鬼にまでお祈りをしてくれるなんてありがたいね。
狂信者も悪いものじゃないかもしれない。
私の右手にはすでに、槍、ナイフ、杭の『目』が入っている。
いつでも、私はこれを壊すことができたが、何だか気分が乗らなかった。
お姉さまは悲しんでくれるかなぁ。
私が死んだらお姉さまは悲しんでくれるかなぁ。
あはは。
こんなときでも私はお姉さまを悲しませようとしてる。
本当に姉不孝な妹だった。
でも、会いたいなぁ。
お姉さまに会いたいなぁ。
お姉さまの優しい笑顔が見たいなぁ。
でも、お姉さまは私に会うと傷ついちゃうんだよね。だから、私はお姉さまに会えない。私はお姉さまに会えない。私はお姉さまに会えない。
……あれれ、これはいつの話だっけ? もう私はそんな心配をする必要なんかないんじゃなかったか?
――記憶まで混線しているようだった。もう私は正常な判断ができそうになかった。
お姉さまを傷つけるなら、私は死んでしまったほうがいいのかもしれない。
……でも、謝りたかったなぁ。
お姉さま、ごめんなさいって。
とにかく――ごめんなさいって。
ああ、死ぬときはお姉さまの腕の中がよかった。
お姉さまの優しくて柔らかい腕の中で、眠るように死にたかった。
でも、駄目だ。
私はたぶんお姉さまに嫌われてしまったから。
嫌いになってもいい、と言われてしまったから。
お姉さまは私を抱き締めてくれない。
あのときもお姉さまは私を抱き締めてくれなかった。
思えば、あのとき、もうお姉さまは私を捨てていたのかもしれなかった。
ああ――
お姉さまに会いたいなぁ――
お姉さまに笑って欲しいなぁ――
胸に押し当てられた銀の杭に力がこもる。
もう最期か――
私は目を瞑った。
――お姉さま、ごめんなさい。
そう思った瞬間、杭が私の胸から離れていくのを感じた。
どうしたんだろうと思って、目を開ける。
目の前に、血の噴水が出来上がっていた。
私は驚いていた。
たくさんの血が天井に向かって跳ね上がっていた。
私は噴水の根元を見る。
そこには、右肩から左肩に通して真っ平になっている、人間の身体があった。
首のない人間の身体が、膝をついた。そして、そのままドカリ、とうつ伏せに倒れる。
死んでる……?
言うまでもなく男性は死んでいた。考えるまでもなく男性は死んでいた。
いや、死んでるというよりは――
――殺されている。
私を殺そうとした男性はどうしようもなく殺されていた。
誰かの悪意によって殺されていた。
――誰の悪意によって?
いったい、誰が――?
私はぼやけた視界の中を探した。正直、億劫だったが首を動かしてその誰かを探す。左側には教会の人間が7人いるだけだ。『誰か』はこの中にはいないだろう。私は今度は右側に動かしてみた。
私の目は紅く染まった白いドレスの少女を映した。
少女は紅く濡れた右手で、生首を持っていた。
お姉さまだった。
お姉さまは顔を伏せていた。その表情は私からは見えなかった。お姉さまは引き千切った人間の首をポイッと廊下に放る。首はころころと廊下にいくつかの血の点を残しながら転がり、壁にぶつかって止まった。
お姉さまは低い声で短く言った。
「――殺す」
深い闇の奥から響いてくるような声に、教会の人間達は震えるように構えをとった。お姉さまが顔を上げて、敵を見つめた。
――殺意。
私はお姉さまの顔を見て、まずそう思った。
鬼でも悪魔でも化物でもなく――お姉さまの表情はそれ以外の言葉では表現できないように思えた。
ただひたすらに強い敵意、悪意、害意――殺意。
お姉さまは殺意に口を歪ませながら言った。
「――貴様等、一人残らず皆殺しだ」
お姉さまの言葉に、弾かれたように前に並んでいた4人が銀の槍を構えて、お姉さまに踊りかかった。
お姉さまは高く飛びあがり、まず一番前にいた人間の首を爪で薙いだ。お姉さまの斬撃に対応することもできない人間。ぽーん、とその頭が宙を飛ぶ。頭を失った身体は槍を持って走る体勢のまま、前のめりに廊下に倒れこんだ。
お姉さまは飛翔しながら、2人目に襲い掛かった。2人目の人間はお姉さま目掛けて槍を突き出す。気迫のこもった見事な突き――だが、お姉さまはその槍を身を反らして難なくかわす。そして、槍の柄を左手で掴むと、粘土細工でも潰すように捻じ折った。お姉さまの右の爪が人間の胸を引き裂く。紙みたいに破れる人体。右の脇腹から左の肩へと逆袈裟に斬られて、人間の身体の上半分がするりと下半分から滑って落ちた。
3人目がお姉さまの左横から槍を繰り出した。お姉さまは翼を鋭く空中で打ち、その一撃を避ける。そして、左手で宙を薙いだ。爪の先から生じた紅い妖気の刃が人間の顔を捉える。人間の顔はざくろのように弾け、血を噴き出させた。顔をなくしてしまった人間は悲鳴を上げることなく、そのまま後ろへと倒れた。
4人目もまたお姉さまに向かって突撃した。宙に浮かんでいるお姉さまに白銀の刺突が迫る。お姉さまは再度、羽を大きく動かしてそれを紙一重で避けた。そのまま廊下に着地し、ばねのように跳んで人間の懐に入り込む。お姉さまの爪が人間の腹を深く抉った。内臓の残骸がびちゃびちゃと廊下に飛び散る。人間は口から血を吐き、腹から臓物をこぼして、床にうつ伏せになって絶命した。
――思わず惚れ惚れとしてしまった。
それが人を殺す行為だとわかっていても、お姉さまの流れるような動きはまさに芸術的だった。
廊下には4つの人間の死体が転がり、血の海が出来上がっていた。
紅い海の上に、お姉さまはさらに紅く染まった服を着てたたずんでいた。
お姉さまは右手を振って、爪についた血を払う。
そして、禍々しい目で残った敵――3人の敵を睨む。
その3人は敵わないと思ったのか、お姉さまと逆の方向に駆け出した。
お姉さまはそれを睨んだままで追おうとはしなかった。
お姉さまは皆殺しにすると言った――
なら――どうして追わないのか。
考えるまでもなく、答えが出た。
今、走り出して私の視界から消えたばかりの人間のうち1人が、吹っ飛ばされるようにして再登場した。
どうっと廊下に落ちる。
首がありえない方向に捻じ曲がっていた。遠目に見ても頬骨が明らかに陥没していた。
私は苦痛をこらえながらも、人間たちが逃げていった方向に顔を動かした。
美鈴と咲夜がいた。
美鈴はくだらないとでも言うかのように不機嫌そうに眉をしかめ、咲夜は感情を完全に殺したような顔でナイフを構えていた。
美鈴はため息をついて言う。聞いているこちらまで息苦しくなるようなため息だった。
「ほんと、何やってんでしょうねぇ……」
そして、鼻の頭を掻きながら、立ち尽くす2人の人間を見やった。
「あんたたちも――それから、私も――」
美鈴は首を振って言う。翡翠色の瞳を後悔に曇らせて言う。
「私はまったく――何をやってるんでしょうねぇ――」
「咲夜さん、私がやるからいいですよ――」と咲夜に短く言う。美鈴は咲夜の返答を待たずに、自分から2人の人間に襲い掛かった。
1人は美鈴の動きに反応することもできなかった。吸血鬼の目だからこそ捉えられる超高速の拳。美鈴の右手は人間の腹から背中に貫通していた。乱暴にそれを引き抜くと、もう1人に向かう。一人残った人間は仲間が殺されてやっと反応することができた。純銀製の槍を美鈴に向けるが、ただそれは構えただけ――。美鈴は人間が槍を突き出すのも待たず、貫手を覆面で覆われている顔に突き刺した。人間の喉からこぼれる、くぐもった声。美鈴が手を顔から引き抜くと、2人の人間はほぼ同時に廊下に倒れた。
一瞬の出来事だった。
私は改めて、本気になった紅魔館の門番長の強さを思い知った。
お姉さまは敵を全員倒したことを確認すると、壁に張り付けになっている私に駆け寄ってきた。
お姉さまの顔から禍々しい感情が消えていた。
代わりに、お姉さまは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「――しっかりして、フラン……」
らしくないおろおろとした声で私に話しかけながら、お姉さまは私の胸に刺さっている銀の槍を引き抜く。咲夜が私の両手首、両足首を貫いていたナイフをとった。
壁から解放され、私はお姉さまに抱きかかえられた。
お姉さまのドレスが私の血でまた紅く染まった。
だが、お姉さまはそんなことはちっとも気にならないようだった。
心配そうに歪んだ顔が私を覗き込んでいた。
美鈴が私の傍らに膝を突き、私を床に寝かすようにお姉さまに言った。
目を細めて、私の胸と両手首、両足首にできた傷口を見る。
やがて、美鈴は冷静を保ったままの顔で言った。
「……致命傷ではないですが、やっぱり銀製の武器で傷つけられただけあって、回復がかなり遅いですね……私の気功で治療しておきましょう」
美鈴はまず、私の胸に空いている二つの穴のうち、心臓に近い側の傷に手をかざした。
傷口がぽかぽかと温まるのを感じた。
美鈴の手から生命が流れ込んでくる感じだった。
お姉さまは美鈴の言葉を聞いて少し落ち着いたようだったが、私の傍に両膝で立って、私のことを心配そうな顔で見下ろしていた。
お姉さまは弱々しい声で呟いた。
「どうして――」
眦に涙を溜まっていた。
「どうして、抵抗しなかったの――?」
どうして、抵抗しなかったのか。
どうして、敵を殺さなかったのか。
どうして、自分を守ろうとしなかったのか。
お姉さまの悲痛に染まった目が私を責めていた。
どう――答えようかな。
お姉さまはどんな反応をするんだろう。
私は少し悩んだけど、正直に答える事にした。
「――殺すのが嫌だったから……」
「…………」
「人を殺すのが嫌だったから――」
その言葉にお姉さまは目を瞑って、首を振った。
やりきれないという顔で首を振った。
再び私を見つめるお姉さまはとても悲しげだった。
でも、その目から、お姉さまが私のことを何もかも理解していることがわかった。
ああ、やっぱり、お姉さまはずるいなぁ。
お姉さまは私のことが何でもわかってしまうなんて、ずるいよ。
お姉さまは言った。
「私は――」
喉の奥から搾り出すような声だった。
「それでも――あなたに、死んで欲しくないわ」
苦しそうな声でそれだけ呟くと、お姉さまは私から顔を背けた。もうそれ以上、お姉さまは何も言わなかった。
ああ、またか。
私はまたお姉さまを困らせてしまったのか。
本当に私は何をやっているんだろう。
でも、私は何となくわかり始めていた。
お姉さまが何を望んでいたのか。
お姉さまが暗い世界の底で何を望んでいたのか、おぼろげだけど、理解し始めていた。
お姉さまがどんな気持ちでいたのか。
お姉さまがどんな気持ちで、血に濡れた服を着ているのか。
どれだけつらかったんだろう――
どれだけつらいんだろう――
お姉さまが突然、顔を上げた。その顔には、獰猛な戦意が蘇っていた。熱く沸騰する血のように紅い瞳が廊下の先を睨んでいた。
美鈴も私の傷口から目を離す。それだけで人を殺せるような視線をお姉さまと同じ方向に向ける。
私も首を傾けて、その方向を見た。
廊下には何もなかった。
否、何もないように見えた。
今ならわかる。
私も何か強い悪意の気配を感じていた。
敵はまだ残っていた。
そして、お姉さまと美鈴、咲夜は逆側の廊下を見返した。
咲夜と美鈴が来た方向だった。
そこにも何か悪いものがいる気配。
どうやら私達は挟み撃ちをされているようだ。
「……ねえ、あなたたち、ここに来るまでにこいつらに会わなかったの?」
お姉さまは槍のように鋭い視線を見えない敵に投げながら言った。美鈴が申し訳なさそうにうなずく。
「……はい。急いでここに来たんですけど、怪しい気配はありませんでしたから……」
「さすがに美鈴の能力でも、結界に霊力を遮断されてると探知不可能か……」
「……申し訳ありません」
お姉さまは気にならない様子で、教会に人間達を睨みながら答えた。
「いいのよ。それより、敵の数は――5人、5人で、合わせて10人……」
「今、8人死んでるから、これで18人。残りの戦闘員は、この前返した女を抜いて5人ですね」
「……結界の性能についてはパチェから聞いてる?」
「ええ。まあ、光学迷彩が意外と欠陥品で、実際に透明人間が襲ってくるということはなさそうですが……」
「激しく動くとダメ、走ってもダメ、何か物に触れてもダメ、外部からの魔力に反応してもダメ、結界の復活に数分もかかる――まあ、本当に潜入用だけに作られてるみたいね。フランを襲ったときにもう全員の光学迷彩が解けていたのはそのせいか……」
「スナイパーがいると面倒くさいですけどね」
「あー、確かあいつらには遠距離武器がいくつかあるんだっけ……」
「聖釘を撃ってくるボーガンですね。全部で5丁」
「面倒くさいなぁ」
「お嬢様なら、百発くらい喰らわないと死なないでしょう」
「それでも、あれ滅茶苦茶痛いんだよ。百発っていうけどね――確かに一発ずつ時間を開けて撃ち込むんだったら私も耐えられるかもしれないけど、連続して撃たれたら三十発でもけっこうきついんだからね」
「あいつらにとっては、三十発も百発も同じですよ、殺せないという意味では」
「まあ……それもそうね」
そう言って、お姉さまが立ち上がった。
「美鈴はフランの治療を続けなさい。それから――」
お姉さまはナイフを構えてお姉さまと逆側の敵と相対していた咲夜に声をかける。
「咲夜には二人の援護をお願いね」
咲夜は冷たい表情を教会のハンター達に向けながら、背中越しにお姉さまに尋ねた。
「お嬢様、殺人を許可願います――」
その声に、お姉さまは一瞬だけ顔を曇らせたが、すぐに何もなかったように答えた。
「――許可するわ」
「ありがとうございます」
「悪いわね、あんなこと言っておいて……」
お姉さまの言葉に咲夜は首を振った。そして、咲夜は少しだけ表情を緩めていた。
「いえ――それにこれが初めてというわけでもありません」
お姉さまは黙って咲夜の返答にうなずいた。
お姉さまが天に向かって右手を掲げた。
その手が紅い光に包まれる。
光は徐々に長い棒状の――いや、槍状の形をとり始めた。
やがて、それは真紅の光沢を放つ魔の槍として完成した。
紅い神槍――グングニル。
スペルカード以外でお姉さまがグングニルを使うのを初めて見た。
まるで、血を吸ったかのように紅い。
まるで、血でできているように紅い。
お姉さまは血色の槍を構える。それはスペルカードで用いるような投擲の構えではなく、白兵としての持ち方だった。
グングニルの穂先を敵に向けると、お姉さまはつまらなそうに呟く。
「まあ、こんな仰々しい物出すまでもないんだけど、久しぶりに使うんだから、一応、ならしとかなきゃね」
そして、一つため息をつくと、一転して血を吸う鬼のような凄惨な笑みを浮かべ、言った。
「さあ、かかってこいよ、人間ども。貴様等が誰を敵に回したか――よく教えてやる」
その言葉を合図にしたかのように、敵が私達に向かって動き出した。3人が駆け出したようで、光学迷彩がぼろぼろと剥げていった。
お姉さまもグングニルを構えたまま、敵に向かって飛び出す。
何もない場所から、お姉さまに向かって、銀製の釘が撃ちだされた。それは釘というより、手槍と呼んだほうがよいような、大きな銀の塊だった。計2本の大釘がお姉さま目掛けて、発射される。美鈴の言っていた、光学迷彩を備えたスナイパーらしい。
だが、お姉さまは怯まない。グングニルをまるで蝿を追い払うように回して、難なく聖釘を打ち落とす。そして、お姉さまに突進してきた槍兵と接触した。
敵が銀の槍を突き出すのと、お姉さまがグングニルを突き込むのはほぼ同時だった。純銀製の槍とお姉さまのグングニルがぶつかり合い――
銀の槍が水になったように溶けた。
そのままグングニルの突きが敵の胸を捉える。グングニルが触れた瞬間、人間の胸部が爆発したように弾ける。床に首と二本の腕がぼとぼと落ち、腹から下の下半身がごろりと転がった。
これがグングニルの威力――
スペルカードとは破壊力が違う。スペルカードの神槍『スピア・ザ・グングニル』も当たればかなり痛い技で、お姉さまと戦った妖怪がときどき怪我をするくらいの威力があったが、今のものとは比較にならなかった。
私は本当の殺し合いを生まれて初めて見ていた。
仲間が殺されても、敵の攻撃は衰えなかった。お姉さまの右横から二つの突きが同時に繰り出される。
お姉さまはそれをグングニルの長い柄で払った。吸血鬼の強い力で繰り出された真紅の柄が、二つの白銀の刺突を容易に退ける。お姉さまはそのままグングニルを手の内で回し、斧のように刃の広いグングニルの槍頭で、敵の首を薙いだ。今度は爆発することも無く――どうやら、お姉さまが魔力をこめたときに、グングニルは魔法の道具として機能するらしい――、ハンターの首を斬り飛ばした。最後に残った一人が、銀の槍を短く持ち、特攻をかける。お姉さまの懐に侵入する人間。だが、お姉さまはまた柄をぐるりと回し、石突で敵の顔面を強打した。敵が顔を押さえて怯む。その隙にお姉さまはまたグングニルを風車のように回転させた。グングニルの刃が敵の股座から左肩にかけて斬り上げる。人間は真っ二つになり、床に倒れて絶命した。
お姉さまの戦い方は、今までの見てきたような力任せのものではなかった。
器用に槍を繰り出し振り回し、まるで舞うかのように敵を斬り払って見せた。
もしかしたら、これが本来のお姉さまの戦い方なのかもしれない。
お姉さまの顔が私の目に映った。
お姉さまは必死な顔をしていた。
敵は強くないけど、それでも侮ることなく真剣に戦っていた。
誰かが言っていた気がする。
お姉さまは必死で私を守ろうとした、と。
死ぬような思いで私を守ろうとした、と。
今更だけど、私はその人の言った言葉の意味がわかるような気がした。
3人の槍兵が倒れた。
残りは2人。弩兵だけだ。
敵はもう動いていた。光学迷彩を失った2人の戦闘員が、ボーガンをもっている。ようやく装填した銀の聖釘をお姉さまに向けた。
距離が近い。敵とお姉さま間はほぼ10歩。だが、この距離ではさすがのグングニルの刃もスナイパー達には届かなかった。お姉さまは急いで距離を詰めようとしたが、間に合わなかった。ボーガンの引き金が引かれる。
大釘が撃ち出される。その速度は人間が腕で銀の槍を突き出す速さとは比較にならないほど速い。
お姉さまは頭目掛けて発射された聖釘をギリギリでかわした。頬を釘がかすめる。お姉さまの頬をかすった傷から血が噴き出した。外れた銀の釘は廊下の壁に深々と突き刺さる。
もう1本の銀の矢がお姉さまの身体に迫る。お姉さまが身体をひねってそれをかわすが、白銀の暴力はお姉さまの左肩を微かに切り裂いた。2本目も1本目と同じように壁に突っ込んで止まった。
どきん――と、心臓が震えた気がした。
お姉さまの傷から血が出るのを見て、心が凍ってしまったような感じがした。
お姉さまは体当たりするように両手でグングニルを振り回した。グングニルはやすやすと人間の身体を撫で斬りにする。ただ一人残った人間が、お姉さまから逃げようと走り出した。
だが、お姉さまは大きく、右腕を振りかぶり、その背中目掛けてグングニルを投擲した。
背から紅い柄を生やした人間は悲鳴を上げることさえなく、床に崩れて動かなくなった。
お姉さまは敵が完全に死んだことを確認すると、長い息をついた。そして、かすった頬と肩を見て、顔をしかめる。傷は浅いようだが、銀の武器で傷つけられたからか、とても痛むようだった。
苦しそうな顔をして、お姉さまは痛みに耐えていた。
すごく――痛そうだ。
私は何だか――
――悲しかった。
お姉さまは荒い息をしながら言った。
「あー……思っていた以上ね。これは考えていたよりもけっこう強力な武器だわ。私もこれは心臓に喰らいたいとは思わないわね」
美鈴が心配そうな顔をお姉さまに投げかけていた。
「……大丈夫ですか?」
それにお姉さまは笑って答える。
「まあ、大丈夫は大丈夫だけど、ね。ちょっとかすっただけでこんなに痛いなんて。まあ、痛いと重傷なのは違うから、もっとよく調べてみないとわからないけど。新手の法術のようね。人間も本当に武器の開発には力を入れるわ。その分をもっと別のことに回してもいいのに。それと……」
お姉さまは咲夜のほうを見る。
廊下には、咲夜だけが立っていた。
そして、5つの新しい死体が、眉間や首から銀のナイフを生やして倒れていた。
咲夜には傷一つ無かった。
「流石、咲夜ね……」
お姉さまは感嘆するように言った。咲夜がお姉さまのほうを振り返り、黙ったまま深々とお辞儀をした。
お姉さまはため息をついて、廊下を見渡した。
計18体の死体がところ狭しと転がっていた。
床の絨毯を大きな血溜りがどす黒く染める。
18人の人間の血と私の血。そして、今、お姉さまの頬と左肩からこぼれている血。
それが床を紅く紅く濡らしていた。
「ああ……」
お姉さまは短くうめき、新しいため息をついた。
お姉さまの言葉は続かなかった。
お姉さまがゆっくりと私のほうに近づいてきた。
顔には疲れたような微笑が浮かんでいた。
お姉さまは3歩ほど私と離れたところで立ち止まった。そして、手を揃えて――
「ごめんなさい、フラン」
ぺこり、と頭を下げた。
お姉さまは私に謝っていた。
どうして、お姉さまが謝るんだろう――
私はぼーとして、そう思うことしかできなかった。
お姉さまは申し訳なさそうに微笑んで言う。
「あなたのお願い事を聞いてあげられなかったわ」
私は空っぽの心でお姉さまの言葉を聞いていた。胸の穴から私の心は流れ去ってしまったのだろうか。嬉しいだとか、怒っているだとか、苦しいだとか、そういった強い感情が全部消えてしまっていた。
ただ悲しみと虚しさだけが残っていた。
空っぽの心に淡い悲しみと広々とした虚しさだけがぽっかりと存在していた。
お願い事――
そうだ。
私はお姉さまにお願いをしていたんだ。
人を殺さないで――と。
人は殺したくない。
人を殺して欲しくない。
私はどうして、こんなに悲しいのだろう。
淡い悲しみが広々とした虚しさと一緒に、心の中に染み透っていってとても痛かった。
でも、その原因はお姉さまが私の願い事を破ったからだろうか。
お姉さまが私の言葉に反して、人を殺したからだろうか。
――何か違う。
決定的にどこかが違う。
私の悲しみの理由は――
私の本当の願い事は――
――視界に紅が舞った。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
出来事はちゃんとこの目に映っているのに。
びちゃ、とお姉さまの血が床を濡らしたところでようやく理解できた。
お姉さまの左肩を槍が貫通していた。
天井から生えてきた槍が、お姉さまの華奢な左肩を串刺しにしていた。
その槍が引き抜かれ、またたくさんの血が廊下に落ちて跳ねた。
お姉さまは左肩を押さえ、苦痛に歪んだ顔で頭上を睨んだ。
「……まさか、天井に張り付いていたとはね」
私も天井を見上げた。
そこには、2人の人間がまるで蜘蛛のように天井に張り付いていた。
――恐らく、光学迷彩を仕込んでいたのだろう。そして、天井に身を隠し、そこから油断したお姉さまを槍で攻撃したというわけだ。
光学迷彩が解けた2人のハンターは床へと降りる。美鈴が私の身体を抱えて飛び跳ね、彼らから距離をとった。お姉さまは肩をかばったまま、後方へと跳びすさった。
1人の人間が槍を腰に構え、お姉さまに向かって突進した。本来ならば、難なく避けられるそれを、銀の槍で肩を貫かれたせいかお姉さまは上手くかわすことができない。お姉さまは床に転ぶようにして、その突進をぎりぎりで避けた。
咲夜にもう1人の敵が襲い掛かる。時間の能力を使えば、咲夜の勝ちも同然なのだが、この能力の発動にはわずかなタイムラグがあった。敵もそれを知っているかのように咲夜に止まる隙を与えない。猛烈な勢いで繰り出される槍の刺突を咲夜は銀ナイフで捌くが、武器のリーチ上、攻勢に出ることができない。
この2人の動きは、今までのハンターのものと違っていた。先に死んだ18人よりもずっと洗練された動作。人間としてはこれ以上なく完成された動きなのだろう。
お姉さまは右手の爪を振るい、敵の攻撃を退ける。片手ではあったが、お姉さまは人間の猛攻を危なげもなくかわし続けていた。しかし、反撃することはできなかった。左肩からは休むことなく、滝のような出血が続いている。今にでもお姉さまの小さな身体の中から全部血が抜けてしまうんじゃないかという勢いで、血が流れ出していた。
何をやってるんだ――
私は本当に何をやってるんだ――
どうして、私は平然とこの様子を見ていられるんだ。
私は美鈴に抱えられながら、お姉さまが敵と戦っている姿を見ていた。
お姉さまが殺し合いをしているのを見ていた。
怖くて仕方がなかった。
胃の中のものを全部吐き出してしまいそうな不安――
お姉さまの爪と銀の槍がぶつかり合う音が聞こえるたびに、私は肩を震わせていた。
――やめて。
――もうやめて。
そう思って見ていることしかできなかった。
あまりにも恐ろしくて逃げ出したくなったが、私はまるで魔法に縛られているかのように、お姉さまと人間の殺し合いから目を背けることもできなかった。
銀の槍がお姉さまの蒼い髪の先を斬り散らした。そのまま石突の一撃がお姉さまに迫る。お姉さまはやはりそれを爪で払う。だが、またすぐに白銀の斬撃が繰り出される。人間はさきほどお姉さまが見せたように、風車、水車と槍を自在に振り回し、お姉さまに攻撃の隙を与えなかった。
銀の穂先がお姉さまの左肩をかすめた。
それだけでお姉さまは強く顔をしかめる。
とても痛そうに――顔をしかめる。
私の心は壊れてしまいそうだった。
お姉さまの動きが少しだけ鈍る。それを逃さないかというように人間が銀色の殺意を振り上げる。そして、お姉さまの左胸目掛けて――
私は軋む心で思った。
殺される、と。
お姉さまが殺される。
……殺される?
お姉さまが?
お姉さまが殺される?
――絶叫がした。
人間が右腕を左手で押さえて、叫び声を上げている。左手はびっしょりと血で濡れていた。
その右腕は肘から先がなくなっていた。鮫に食われたかのように醜い紅い肉と、砕けた白い骨が傷口から除き、水道の蛇口を開いたみたいに血がびちゃびちゃと床に落ちていた。
人間の右腕はもっていた銀の槍ごと爆発したのだった。
否。
爆発させられた――が正しい。
私は右手を握り締めていた。
私は自分の意志で自分の能力を使って、人間の右腕を破壊したのだった。
お姉さまを殺されたくなくて、私は人間の右腕を破壊した。
これだったのか、と思う。
お姉さまが感じていたのはこれだったのか、と。
お姉さまはこんな怖い気持ちと戦っていたのか。
私は何だか泣き出したい気分だった。
破壊の能力で人を傷つけたことに対する罪悪感からではなかった。
もちろんそれもあるが――
ただ、可哀想だった。
お姉さまが可哀想だった。
どうして、気づいてあげられなかったんだろう。
なぜ、お姉さまのつらい気持ちに気づいてあげられなかったのか。
もっと早くに気づいていれば――
お姉さまは目を見開いて、一瞬私の方を見た。
どこまでも悲しい紅色の瞳。
だが、それも刹那のこと――
お姉さまはすぐに視線を敵に戻す。
そして、爪を振り上げて――
人間の首を刎ねた。
――結局はこうなるのか。
私は私室にいた。咲夜に淹れさせた紅茶を飲みながら、私は一人考え事をしていた。
左肩がまだ少し痛む。穴は完全に塞がったのだが、痛みは残っていた。まあ、明日の朝には治っているだろう。
まったく、と私は思う。もう自嘲すら出てこなかった。
――私はフランさえも守れなかった。
私はフランの願い事を守れないだけじゃなかった。フランの人を傷つけるために破壊の能力を使わせてしまった――そのことが何よりも苦しかった。
どうして、その能力を使ったのか――とあの後、私はフランに尋ねた。そのときの私は狂乱していた。私はまるで詰問するように――フランを責めるかのように、フランに尋ねていた。
すると、フランは笑って言うのだった。
『たぶん、お姉さまと同じ』
フランは優しく儚げに笑って言った。
『お姉さまと同じ――だよ』
まるで、私とおそろいの服でも着て喜ぶように微笑んでいた。
私と同じ、真っ紅に染まった服を――
望んでいない。
私はそんなこと望んでいない。
フランの心を苦しめるようなことを私は望んでいないんだ。
十分だろう。
こんな役回りは私だけで十分だろうに。
汚れ役は私だけで十分だ。
それなのに、どうして私は――
――やはり、私は阿呆だった。
これはあのとき逃げた報いだった。
あのとき、自分を甘やかして、『スカーレットデビル』を逃げたから、こんなことになったのだ。
後悔が、絶えない。
――今、フランは看護室で休んでいる。美鈴の見立てどおり、フランの傷は致命傷ではなかったが、それは即死にはならないというだけで、放置していれば失血多量で死んでしまっていただろう。美鈴の治療のおかげで、フランの胸の二つの穴は塞がり、両腕、両足につけられた傷も消えた。だが、やはり私と同じように痛みは残っているし、若干麻痺もあるようだった。
ボーンボーンと紅魔館の時計が11回鳴った。
午後11時。
30分後だ。
あと30分で、私は再開する。
そして、明日の日の出までに私はようやく終わらせることができる。
そのためにも最後の確認をしなくては――
私は虚空を仰いで言った。
「覗き見してるんだろ? そろそろ出てきたら、どうだ?」
もし、第三者が今の私の姿を見たら、気が狂ったと思うかもしれない。だが、生憎、私は気がおかしくなったわけではない。今、この部屋には私しかいない、だが、私はこの瞬間、この部屋から自分を見ている奴がいると確信していた。こんな『おもしろい』ことを、あいつが放っておくわけがない。
空間につつっと切れ目が入る。直後、裂け目が大きく口を開けた。そして、1人の女がその隙間から現れる。
長い金色の髪。紫紺のドレス。全てを見透かすような紫水晶の瞳。
境界の妖怪――八雲紫だった。
紫は目を細め、口元を開いた扇で隠して言った。
「あら、お呼びかしら、レミリア・スカーレット? 覗き見なんて、失礼ですわね」
私はそのふてぶてしい態度に思わず笑ってしまった。私はポットをもって紅茶はいるかと尋ねると、紫は一礼して、カップを受け取った。
私は紫のカップに紅茶を注ぎながら、尋ねた。
「おまえは、いつから知ってたんだ?」
「……何についてですか?」
「もちろん、今回の件についてだよ」
「何のことかしら?」
紫は軽く頭を下げ、紅茶に口をつけてから言った。
「今日、たまたまあなたのところに顔を出してみただけよ。そしたら、あなたが机のところでぼーとしていた。それなのに、いきなり今回の件と言われても、ね」
どうやら、そう簡単に答えてくれないらしい。私は苦笑しながら言った。
「嘘付け。まさかおまえが西欧からやってきた物騒な連中のことを知らないはずがないだろう。奴らの排他主義は幻想郷のやり方と合わないからな。移民となれば尚更だ」
紫は私の言葉を何とも思わないかのように、再度紅茶をすする。
「幻想郷の管理者として、おまえは奴らを攻撃することはなかったが、同時に見逃すわけでもなかったはずだ」
「私は幻想郷の管理者ではありませんわ。結界の管理者であるというだけで、ね。どうして私のような者がそんな大それた名前を自称できましょうか?」
「少なくともおまえの態度からは、謙虚という様子は見られないけどね……だが、彼らは私を殺そうとした。神の敵として、ね。彼らは幻想郷の妖怪をそれほど敵視してはいないようだが、その排他主義が危険であることは変わりない。彼らがいつ幻想郷の妖怪に刃を向けるか、考えなかったわけじゃないだろう」
紫は黙っていたが、やがて透き通った声で答えた。
「幻想郷は全てを受け入れますわ。それはそれは残酷なことに――」
紫は永い時間を生きてきた妖怪の微笑みを浮かべる。
「たとえ、排他主義であっても幻想郷は原則としてまず受け入れるのです。幻想郷の中で騒乱を起こさないのなら良し。もし災禍をもたらすならば、その考えを改めるまで戦う。それが幻想郷のルールですわ」
「つまり、何か起こさない限りは見逃すと?」
「そう。幻想郷は外の世界から不要になった者が集う世界。はじかれ者同士が喧嘩するのは見苦しいでしょう。だから、幻想郷は基本的にどんな者でも歓迎したしますわ」
もちろん――、と紫は静かに目を伏せた。再び開いた紫水晶の目に少しの憐憫が宿っていた。
「幻想郷は『スカーレットデビル』をも受け入れるのです」
「本当に残酷なことですわ」と紫は穏やかな微笑を浮かべて言った。紫らしからぬ優しげな笑顔だった。
私は自分の紅茶に口をつけて、少し考えてから言った。
「おまえはあの人間達を守護しているのか?」
「守護? どうして私がそのようなことを?」
紫は口を吊り上げて言った。人間のような残酷で怖い笑顔を浮かべていた。
「確かに、私はあの人間達が幻想郷に留まることを許しているけど、かといって助けるつもりもないわ」
紫は紅茶に口をつけながら続ける。
「私は幻想郷は全てを受け入れると言ったけど、それはそういう心構えがあるというだけだわ。外から入ってくる者を無理に追い出すつもりはない――それだけのことです。もし、幻想郷の住人になるのならば、ちゃんと手続きを踏まなければならない」
紫は邪悪に微笑んでみせた。
「彼らはまだ幻想郷の人間ではない。ただ幻想郷にいるというだけですわ。自分達から人間として名乗りを上げない限りは、彼らは人間として認められない。そして、幻想郷のルールに従わなければ、彼らは外来人のまま、幻想郷の生き物でもない。あの教会の人間達はそのどちらも満たしていないわ。だから、私が彼らを守る理由など一つもありません」
――私は確認するように尋ねた。
「なら――殺してもかまわないと?」
やはり紫は酷薄そうに笑って答えた。
「さあ? 私は殺すつもりはないけれどね。けど、守るつもりもない。私の関与することではないわ。あなたのお好きなようにしたらどうかしら?」
紫はそれだけ言って、また紅茶をすすった。
――この言葉が聞きたかった。
私に残っている懸念は一つだけだった。
それは、八雲紫を敵に回すこと。
この私の前に座っている胡散臭い大妖を敵にすることだけは避ける必要があった。
八雲紫は人里の人間達を保護している。
それと同様にもしかしたら、私が戦おうとしている教会の人間達もまた、紫の手に守られているのではないかということだけが不安だった。
だが、もうその心配もない。
今、紫が言ったように私は何の気兼ねもなく、奴らを皆殺しにすることができる。
もう私を止めるものは何一つなかった。
それから、私達は美鈴とパチュリーが私の部屋に来るまでの短い間――咲夜にはフランの世話をするように頼み、留守番をしてもらうことにした――、適当な世間話をした。
やがて、紫が椅子から立ち上がった。
「そろそろお暇させていただきますわ。美味しいお茶をどうもありがとう」
そう言って、紫が空間に隙間を開く。紫は空間の間隙に身体を半分だけ入れて、私に振り返って言った。紫は胡散臭い――だが、どこか柔らかさを感じる笑顔を浮かべていた。
「無理をしないようになさいな、吸血鬼のお嬢様。あなたが思っている以上にこの世界は優しさに溢れているものよ」
「その台詞はおまえが言っても、あまり説得力がないな」
私が苦笑すると、紫も「全く、失礼ですわね」と言葉と裏腹に楽しそうに笑った。
「でも、私の言っていることは本当。それにあなたの側には優しい人たちが揃っている。彼女達を甘く見ないほうがよろしくてよ」
今度の言葉は私を黙らせることができた。紫は胡散臭さ半分、優しさ半分の笑顔で言う。
「あまり彼女達を侮るものではないわ。特にあなたの妹様を、ね」
「……余計なお世話だよ」
「たまには素直になりなさいな、レミリア・スカーレット。子供のように意地を張ってないで、ね。それでは、ごきげんよう。今度は元気な顔が見られることを祈ってますわ」
結界の管理者は静かに微笑みながら去っていった。
「『元気な顔を見られることを祈ってますわ』?」
私は紫に言われた言葉を口に出してみた。そして、噴き出して笑った。
「まったく……心にもないことを言う」
私はしばらく笑った。少し愉快な気持ちだった。
それから数分――11時25分ちょうど、美鈴とパチュリーが入ってきた。
美鈴の表情は引き締められていた。人間臭い幻想郷の門番の顔ではなかった。
パチュリーは普段と変わらないように見えたが、目元がややきつくなっている。残っている敵がいかに弱いといえど、久しぶりの戦場に緊張しているようだった。
私は強いて軽い口調で2人に言った。
「さあ、征きましょうか」
美鈴が私に深々と一礼するが、パチェはどこか不満げな顔をしていた。どうしたのか、と私はパチェに尋ねると、パチェは少しだけ心配そうな目をして答えた。
「レミィ、本当にまた始めるの?」
私は一瞬、パチェの言葉にぽかんとしてしまった。だが、パチェの言わんとすることを理解するとなんだか笑いがこみ上げてきた。私は必死でそれを抑える。この親友の魔女はこんなに可愛い少女だったのか、と思っていた。そして、それでもこうして手伝いに来てくれる親友に私はとても感謝していた。パチェは続けて言う。
「もう、敵だってほとんど残ってないんでしょ?」
パチェの言葉は正しい。午前中の戦闘で敵の20人が死んだ。全員が戦闘員で、残った敵の兵士はあの偵察部隊だった女も含めて4人。もはやその数で紅魔館を襲おうとはしないだろう。彼らの他に『村』に残っているのは、無力な一般市民だった。
だが――
「でも、それでも怨恨が残る」
怨恨を残すわけにはいかない。
私は家族を奪われた者の怒りがどれほど強いかを知っている。
少しの危険も未来に残してはいけない。
どんな小さな危険性も許してはならない。
そして、何もせずに、彼らの恨みと怒りを流すことはできない。
「流せるかもよ、ここは幻想郷だし」
パチェは言った。
幻想郷。
確かにここは幻想郷だ。
西欧とは違う幻想郷だ。
血が流れることを嫌い、寛容さに溢れた理想郷だ。
どんな恨みも怒りも水に流すように忘れることができるのかもしれない。
けれども――
それは確実ではない。
絶対ではない。
私は許さない。
絶対以外は許さない。
私は、私のものが傷つく可能性の存在を許すことができない。
「そう。ここは幻想郷。西欧のような危険な場所ではない。だけどね、パチェ――」
――もう『スカーレットデビル』などどいう誤魔化しは言うまい。
「私はレミリア・スカーレットよ」
そう言った私は、恐らくこの世で一番醜悪な笑顔をしていただろう。
邪魔者は殺す。邪魔でない者も殺す。おべべを真っ紅に染めるスカーレットデビル
血を啜るだけでは飽き足らず、服を濡らすだけでは物足らず
飛ぶ野を緋に染め、千本の針の山に跳ねて遊ぶ
彼女こそは紅色の冥界。呪いの魔王に連なるあどけない大地獄
主の聖なる星の目も、永遠に紅い幼き月の前には隠れるのみ
燃える。
血よりも明るい赤色をして、『村』が燃えていた。
まるで地上の太陽のように、炎が夜空を照らしていた。
肉が燃える独特の匂いが辺りに漂っていた。パチパチと木の柱が朽ち落ち、轟音を立てて家が潰れる。
燃え盛る家から、火達磨になった人間が飛び出してくる。
もはや人間の言葉になっていない悲鳴を上げて、自分の身体についた火を消そうと、地面に身体を打ち付けていた。
私は爪を振るい、その首を落とす。火達磨は四肢を投げて動かなくなった。
あちこちで断末魔が聞こえる。
助けを呼ぶ泣き声が聞こえる。
地獄だ。
地獄は何もあの世だけにあるわけではない。
むしろ、本当の地獄は現世にある。
その事実は数百年前と変わるものではない。
オレンジ色に染まる『村』の道を私は歩く。
悪魔が火に染まる『村』をただ歩く。
私の行く道を遮るものがあった。
農夫だろうか――彼は鍬をもって私の前に立っていた。
目がぎらぎらと恐怖に光っている。肩を激しく上下させ、それだけで今にも息絶えそうな様子だった。
男は鍬を振り上げ、怒号を上げて私目掛けて駆け出した。
私は爪を振るう。
男は腹から内臓を飛び散らせて絶命した。
あっけなく男は死んだ。
――愚か、などとは決して言うまい。
たとえ吸血鬼が相手であれ、彼はそれに立ち向かおうとしたのだ。
恐らく、自分のために、妻のために、子供のために。
決して、その勇気を嗤うまい。
どこかで子供が泣いている。親の名を呼んでいるのだろうか。だが、炎が木を焼き焦がす音に掻き消されてよくそれが聞こえなかった。
私と美鈴とパチェは、『村』を襲った。
パチェがまず上空から、魔法によって『村』を空襲する。
アグニシャインとは比較にならない、高温の巨大な火の塊が次々と『村』の建物を焼いた。まず村全体を取り囲むように、辺縁の家から火をつけてゆく。場所によっては森も燃やす。パチェは炎の壁によって完全に村人の退路を遮断していた。
灼熱の死に囲まれて、『村』はすぐにパニックになった。
逃げ道を必死に探して、もがく人々の群れに私と美鈴が飛び込む。
そこから先は血の池地獄。
村は炎の朱色と血の紅色に染まった。
遠くから叫び声が聞こえる。
美鈴がまた一人、人間を殺したのだろう。
私は、泣き叫ぶ人間の胸を容赦なく拳で貫いている美鈴の姿を幻視した。
ここにくるまで何人の人を殺したか、覚えていない。5人から数えるのをやめていた。まあ、たぶん30人くらいだろう。
男も女も子供も老人も関係なく、私は殺して歩いた。
殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して歩いた。
私はやがて不自然な二つの影を見つけた。
背の高い影が、背の低い影に寄りかかるようにして歩いている。
炎の光に照らされてその顔が見える。
あの女と女の子だった。
女は私を殺しに来た偵察部隊の奴だ。そして、女の子は、その女がロケットに入れていた写真の子供だった。
女は怪我をしていた。咲夜と美鈴で『村』に送り返したとき、すでに右脚を折っていた。たぶん、この女の子――妹の補助がなければ歩けないのだろう。
妹は、人間で言えば私の容姿と一つか二つ下の年齢だった。不安げな顔で姉を見上げて、一生懸命にその身体を支えていた。
私を見つけた女の顔が歪む。
憎悪ではなく、焦燥に。
殺すのではなく、守るために。
女が自分を支えていた妹を突き飛ばす。そして、逃げて、と叫んだ。女は私と妹とを何度も何度も見返す。私のことを知らない妹は姉の行動が理解できないのだろう。地面に尻餅をついて動けないようだった。
「早く逃げて!」
女がまた絶叫する。ようやく女の子は地面から立ち上がる。そして、私の姿を見て、顔が固まった。
その澄んだ目に私はどう映ったのだろう?
……考えても詮のないことだ。
女は懐からナイフを取り出した。脚を引きずりながらも、それを私に相対して構える。女はナイフの切っ先を私に向けつつ、妹に私から逃げるように怒鳴り続けていた。女の子はそれでも姉を残していくことに抵抗があるのか、首を振るだけで動くことができなかった。
私は思わず、2人の様子をじっと見つめていた。
まるで、自分が当事者ではなく、外の世界から眺めているみたいだった。
……いけない。こんなことでは冷めてしまう。
今、身体を駆動させている興奮が冷めてしまわないうちに、私は殺さなければならないのだ。私の悪いところだが、平然と人を殺すことができるほど私は強くなかった。
「いいから、とにかく逃げなさい! 私が引きつけているうちに、早く――!」
女が叫び続ける。だが、妹はそれでも逃げようとしなかった。私もどうしてか身体を動かす気にならなかった。このまま私は何もしないまま、時間だけが過ぎてしまえばいいのに、と思った。
――はあ、まったく……
私はため息をついた。
――私は何をしているんだか……
それだけ思って、意志を振り絞る。私は爪を振った。
女は私の爪を銀のナイフで受け止めたが、衝撃に耐えることができず、ナイフを落としてしまった。人間が吸血鬼に腕力で勝てるわけがない。
私は返す爪で女の胴を斬り上げた。
女の胸が破れて、血が飛び出した。たくさんの血が流れて、地面を濡らした。
姉は口から血を吐いてその場にうずくまった。倒れた姉はもう動かなかった。
「お姉ちゃん!」
妹が叫んで、姉の身体に駆け寄る。すぐ側に座り込んで、その身体を揺する。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん……」
女の子は目から涙をぽろぽろと流して、声が嗄れるまで姉を呼び続けた。
私はその女の子の顔を見て思った。
この子、フランに似てるなぁ、と。
その女の子は、金の髪も目鼻立ちもフランに似ていた。
姉の屍にしがみついて女の子は泣き声を上げた。姉の血で服が汚れようとも、妹は姉の身体を抱きしめて泣き続けた。
私が一歩、女の子に近寄る。じゃり、という足音に妹が顔を上げた。泣き腫らした赤い目で私をキッと睨む。
かたかたと肩が震えていたが、女の子は負けずに私を強く睨みつけていた。
フランに似たその女の子は私に憎悪と憤怒で溢れた目を向けていた。
私はぼんやりと考える。
きっとフランもこんな目で私を見るようになるんだろう、と。
また人殺しを始めてしまったから、フランはこんな恐ろしい目で私を見ることになるんだろう。
でも、まあ――
それでいいか。
それで――いいや。
私はがらんどうな心で爪を振り上げた。びくりと女の子の体が震える。「ひっ」という、かすれた声がその小さな喉から漏れた。
ごめんね。
本当に、ごめんね。
爪を女の子の華奢な胸に向かって繰り出す。紅い刃が女の子の背中まで突き破った。爪を引き抜くと、妹は糸が切れた人形みたいに、力無く姉の身体の上に倒れた。
私はぼーとして、姉妹の死体が折り重なっているのを見た。
どうしてか、吐きたくてたまらなかった。わけもなく、胃がむかむかしていた。
……いけない。夜明けまでそんなに時間がないのだ。時間はすぐに過ぎていってしまう。
私は姉妹を置いて、また歩き出した。
これで最後か……
攻撃を始めてどれくらい経っただろうか。もう朝の4時は過ぎているだろう。今、美鈴が死体の数と事前に調べていた『村』の人数が一致するかどうか確認中だ。
私は木を背もたれにして座り込んでいる老人と正対していた。老人の脚は投げ出されていた。もう力が残っていないのだろう。そして、両足とも脛から先が無くなっていた。
老人は『村長』と呼ばれていた。移民達の統率者であり、計画の責任者だった。
そして、今回の事件の最後の死者だった。
『村長』は顔を上げて、私の顔を真っ直ぐに見た。100人程度といえど、それは間違いなく人の上に立つに相応しい精悍な目だった。
老人はかすれた、だが、威厳を感じさせる声で尋ねた。
「どうして、『村』を襲った……?」
悲しみと怒りに満ちた声。老人は静かに、だが、憤怒をこめて私に話しかける。
「この『村』にはもう戦える者がいないということは知っていたはずだ。ならばこれは意味のない虐殺だ。もう貴様の身を脅かす者はいないはずなのに、どうして、無駄に人を殺す」
私も『村長』の意志の強そうな目を見て言った。
「一応、契約なんでね。私が親書に書いたことは、『私達にもう関わるな。そうすれば命は助けてやる。その代わり、指一本でも触れたら、皆殺しにする』ってことだからね。私はその契約を守っただけだよ」
私は『村長』に笑いかけた。
「まさか、本当にやるなんて思ってなかったかしら?」
『村長』の顔が歪んだ。憎々しげな目で私を見て、吐き捨てるように言う。
「貴様のような吸血鬼は初めて見た。私も吸血鬼ハンターとして長く生きてきたが、その中で一番凶暴だった吸血鬼も、一度にこれほどたくさんの人間を殺すことなどなかった。まして、子供を意味もなく殺す吸血鬼など初めてだ」
私は髪をいじりながら、『村長』の話を聞いていた。人間というのは短い間しか生きられない。もっとも吸血鬼もいかに長い寿命をもっているとはいえ、人間とそう時間感覚が変わるわけではないのだが、それでも、妖怪と人間との歴理的認識というか――物事の知っている幅というものの差を感じざるを得なかった。たぶん、この『村長』は『スカーレットデビル』のことをよく知らないのだろう。まあ、そんなものだと思う。西欧でもっとも妖怪と人間の抗争が激しかったのは、今から二百年位前だ。私が最も多く『スカーレットデビル』と呼ばれ、最も強く恐れられていたのもその頃のこと。もちろん、その後も『スカーレットデビル』は恐怖される存在だったが、やがて戦い自体が減り、私が幻想郷に来る頃には、教会の間では伝説のようなものに成り下がっていた。教会のトップは今でも、『スカーレットデビル』についてよく知っているだろうが、下位組織での知名度はかなり低くなっていると想像できた。まあ、西欧の妖怪の間ではまだ有名な名前だろうから、彼らの中では『スカーレットデビル』の盾はしっかりと生きているはずだ。
だが、そのまま忘れ去られるべきだったのか――
私は複雑な気分だった。
『村長』は私の考えなど気にせずに言う。
「狂っている」
その言葉は私の興味を惹きつけた。
「貴様は狂っている。たとえ吸血鬼でも、正気ならばこのようにたくさんの人間を殺せるはずがない。貴様は本当に狂っている」
私は笑った。この上なく愉快だった。
「素敵なことを言ってくれるね。少しだけ、あんたを殺したくなくなったよ」
私は『村長』に近寄りながら話した。
「『気がふれてる』、『情緒不安定』、『狂っている』……まあ、皆、あいつ――じゃなかった、その呼び方はやめたんだったな――あの子のことばかり、狂人扱いするけどね。一つ気づいて欲しいことがあって、たまらなかったんだよ」
私の笑顔に、『村長』の目が凍り付いていた。
「妹が狂っているなら、姉も狂っていないわけがないってね」
私は膝を突いて、座り込んでいる老人の目線と同じ高さにそれを合わせた。
「あの子は破壊の能力と少しだけ壊れた心をもっているけどね、それじゃ駄目なんだよ。そんなんじゃ、とても人を殺せない。ちょっとの意志さえあれば、そんなものいくらでも封じ込めることができる。現に、あの子はその意志の強さで誰も殺さなかった。今日になるまで――人を傷つけることさえなかった」
――今日のことだって、私がいなければフランが誰かを傷つけることなんてなかった。
「人を殺すのに必要なのは意志。吸血鬼には爪があるから、意志だけで十分人を殺せる。凶器を用意する必要も、右手を握る必要もない。それなのにどいつもこいつも、あの子ばかり危険視して――ほんと、腹立たしいったらないね」
「まあ、戯言さ。聞き流してくれ」と私は言った。そして、私を真っ直ぐに見つめ続けている『村長』の首に手をかける。『村長』の最期だ。
だが、『村長』は強い声で言った。
「貴様はなぜこんなことをした?」
「だから、それは……」
「そうではない。貴様は契約だとかそんな理由をつけているが、本心はそこにはないだろう。おまえは何か強い考えがあって、人を殺しているはずだ。そして、今の口ぶりからして、おまえは人を殺すことを楽しんでいるわけでもない」
老人は私を強く睨みつけて言った。
「何が、貴様をそこまで駆り立てる?」
――どうやら、私はこの老人を侮っていたようだ。
――私は思っていることを素直にそのまま伝えた。
「たぶん、おまえたちと変わらないよ」
その言葉に老人は口を閉じた。
「ちょっとおまえたちより臆病というだけでね。人間が敵を怖がったり、許せなかったりするのと同じだ。そして、私はそれを過度にやってしまうほど怖がりだったというだけだ」
そして、どんな理由をつけようが、それは許されることじゃない。
人を殺すことは許されることじゃない。
自分の身を守るためなら人を殺しても本当にいいのか。
自分の命を守るためなら人を殺しても本当にいいのか。
自分の大切な人を守るためなら人を殺しても本当にいいのか。
ああ、あの子の言うことは本当に正しい。
「だけど、私は殺すことを肯定した」
少なくとも私は――
自分の命を守るために人を殺したかったし、
自分の大切な人を守るために人を殺したかった。
誰かに自分の大切な人を殺されるのが許せなかった。
大切な人を殺されるかもしれないという可能性が怖かった。
だから、その前に殺した。
殺し続けてきた。
今までも。
そして――これからも。
「フランのため、なんて口が裂けても言うまいよ」
私は右手を振りかぶった。左手で『村長』の身体を木に押さえつける。
「あの子がこんなことを望んでいるはずもない。あの子は優しい子だ。あの優しい子のせいにするなんて、私にはとてもできない。そして、臣下のせいにするつもりもない。こんなことのために名前を持ち出されたら、いい迷惑だろうからな」
『村長』は私を見ていた。
それは敵を見る目だったが――
どこか私を哀れむようでもあった。
「レミリア・スカーレットの名において――『スカーレットデビル』などという戯言ではなく、レミリア・スカーレットの名において、言おう」
殺すべき敵の目を真っ直ぐに見て言う。
「おまえ達は、私のために死ね」
私は敵の首を、その爪で斬り落とした。
私は咲夜と一緒に、窓の外に灯る赤い点を見ていた。
暗闇の広がる幻想郷の大地で、そこだけに朱色の光が輝いていた。
咲夜は何も言わない。私も何も言わない。
私と咲夜は黙って、その点を見つめている。
耳を澄ませば、悲鳴が聞こえてくる。
きっとあそこは地獄になっているんだろう。
無実の人が、容赦なく殺されるこの世の地獄に――
今頃、お姉さまはどんな気持ちでいるんだろう。
お姉さまはどんな気持ちで人を殺しているんだろう。
私はぼんやりと考えることしかできなかった。
黙っていた咲夜が口を開く。目を伏せて、低い声で呟いた。
「――邪魔者は殺す。邪魔でない者も殺す。おべべを真っ紅に染めるスカーレットデビル……」
それは美鈴が教えてくれた詩だった。
咲夜は最初の一段目だけを詠った。
「その詩、知っていたんだね……」
私が尋ねると、咲夜は窓の外に煌々と光る炎に目を向けたまま、うなずいた。
「はい。お嬢様はかつてこう詠われていたようですね」
咲夜は微笑んでいた。悲しみに耐えるかのように微笑んでいた。咲夜は静かで澄んだ声で続けた。
「でも、私達のお嬢様はこの詩の通りではありません。この詩は私達の知っているお嬢様について何も言っていません。この詩の中に私達のお嬢様はいません」
そして、悔やみながら言った、
「そして、この詩の中には、お嬢様に守られる私達の姿がありません」
咲夜は長く息を吐いた。命を全部吐き出してしまうような、つらいため息だった。
「あの火は、私達のための火です」
黒一色の野に、小さな赤が揺らめいている。
「お嬢様が私達を守ろうとしてくれる証です」
咲夜は祈るように――否、祈るために手を組み、目を瞑った。
「――どうかお嬢様の心に安寧が訪れますように――」
私は前を向いた。私も咲夜と同じように、小さく燃え盛る火を見ていることしかできなかった。
私は何ができるのだろうか。
いや、違う。
私は誰のためにするべきなのだろうか。
――答えはまだ出なかった。
もうすぐ夜明けだった。
村を焼いていた火はもう消えていた。家が建っていた跡には、黒く焦げた木の柱と同じく、炭化した人間の死体だけが転がっていた。
私の心もすっかり落ち着いていた。
静かになった心で、『村』であった場所を見る。
――酷いものだった。
本当に、酷い。
いつになっても見慣れない。
私のすぐ側にはパチェがいた。私とパチェはちょうど2人座れるくらいの大きな石の上に、並んで腰掛けていた。
パチェはもってきた本も読まず、私といっしょに、自分が燃やし尽くした人家の成れの果てを見つめていた。
正しいものか、と思う。
こんなものが正しくあってたまるか――と。
紅い髪をした背の高い少女の姿が見えた。美鈴だ。
私は石から下りる。
美鈴は私の前までやってくると、片膝を突いて報告した。
「死体の数と、事前に調べた人間の数が一致しました」
私はそれにうなずいて、ご苦労様と言った。だが、美鈴は立ち上がろうとはしなかった。美鈴は顔を伏せたまま言った。
「お嬢様、私をご処断ください」
「…………」
「お嬢様の方法に反対し、代案を立てたのは私です。フランドールお嬢様がお怪我をされた原因を作ったのは私です。ですから、私へのご処断を賜りたいと思います」
……そういえば、そうだった。確か、美鈴が私に人を殺すな、と言ったのだった。
「だけど、あなたの意見を採用したのは私よ」
私はそう言ったが、美鈴は顔を上げようとはしなかった。まあ、確かに美鈴に責任がないわけじゃないけど、判断したのは私だから、一番、責められるべきなのは私なんだが――
私は少し考えてから言った。
「じゃあ、ご飯一日抜き」
「…………」
「ご飯一日抜きで、許してあげるわ」
「しかし、それでは……」
「いいのよ、美鈴」
もういいのだ。
もういいだろう。
美鈴は殺すべき敵じゃない。
美鈴の案は確かに失敗したが、そんなもの、殺す理由などにならない。
私は私のことを想って忠言してくれた臣下を殺すことなどできない。
だから――
もう、いいのだ。
美鈴は上げた顔を再び下げる。深々と顔を伏せて言った。
「生涯の忠誠をお嬢様に捧げます」
美鈴は真心のこもった声で言った。
「この命が消えるときまで、お嬢様の臣下としてお仕え申し上げることを誓います」
「――あなたの忠誠、嬉しく思うわ」
パチェが石の上に座ったまま、私を見ていた。
パチェは何も言わなかった。
何も言わなかったが、その紫の瞳が優しく輝いていた。パチェの目はとても綺麗だった。
親友はとても温かい目で私を見ていてくれた。
私は山の向こうを見た。
夜明けが近い。
もう空が白んでいる。
群青色の夜空は去り、明るく晴れ晴れとした青い朝がやってくる。
幻想郷の朝が来てしまう。
私は帰らなければならない。
朝日は、私には眩しすぎる。
逃げ出したくなるくらいに――眩しすぎる。
「――帰りましょうか」
私は2人にそう言って、紅魔館の方角に身体を向けた。
目を覚ますと、お姉さまが傍にいた。
ベッドの横の椅子に座り、微笑んで私のことを見下ろしていた。
昨晩のあの後、私は咲夜に傷に障るからと言って、地下室に帰された。それでもお姉さまが帰ってくるまで起きていようと思っていたのだが、眠気に耐えられず寝てしまった。
壁にかかっている時計を見上げる。
午後1時。
昼食の時間を過ぎていた。
まあ、最近の6時起きに比べれば、吸血鬼が起きてもあまり変ではない時間だとは思う。あくまで、『比べれば』の話だけど。
お姉さまの服はいつもの白いドレスだった。そのドレスには血は一滴もついていなかった。どんな小さな紅いシミもなかった。
私は身体を起こし、優しく笑っているお姉さまに尋ねた。
「終わったの?」
お姉さまは目を細めて答えた。
「ええ、終わったわ」
私はまた尋ねる。
「殺したの?」
お姉さまはうなずいて答えた。
「殺したわ」
私は再度尋ねる。
「皆?」
「ええ、皆」
「一人残さず?」
「一人残さず」
「あのロケットの女の子も?」
「あのロケットの女の子も」
「お姉さまが私に言った通りに?」
「私がフランに言った通りに」
「――そっか……」
私もうなずいた。
私とお姉さまは黙り込んだ。ずっとお姉さまは穏やかに微笑んでいた。まるで、夢の中にでもいるように、ぼんやりと儚げに微笑んでいた。
時間だけが進む。カチカチと時計の針の動く音だけが聞こえていた。
ただ静かだった。
何か伝えなければならないのに、私はそれが何かわからない。ただお姉さまに伝えたいことがある――その思いだけがあった。必死で言葉を探す。私はお姉さまに何を伝えなければならないのか、ずっと考えていた。
お姉さまは人を殺した。
私の願いを破ったとかそういうのはともかく、お姉さまは人を殺した。
私達のためであれ、お姉さまは人を殺した。
その事実は動かしようもないことだった。
でも――
もう一つ、気づかなければならないことがある。
私はフランドール・スカーレットとして――レミリア・スカーレットの妹として、認めなければならない事実がある。
しかし、私の心は何か重苦しいものに埋もれていて、それを見つけ出すことができなかった。
――私はもうお姉さまを責めていない。
人を殺すことは嫌いだけど、お姉さまを責める気にはなれなかった。
たとえ、無実の人を殺したとしても、私はお姉さまを責めようとは思えなかった。
許す、許さない、という考えも消えてしまっていた。
ただ――
お姉さまに人を殺して欲しくなかった。
それだけが、無念だった。
でも、そんな無念を取り払ってでも、私はお姉さまに言いたいことがあった。
言いたいことがあるのに――
お姉さまは小さく首をかしげて私に尋ねた。
「傷の具合はどう?」
傷は全部塞がっていた。胸に開いていた大きな二つの穴も、両腕、両脚の傷ももう消えていた。腕を振り、脚をばたつかせてみる。昨日の夜に残っていた痛みと麻痺ももうなくなっていた。私は微笑んで答えた。
「大丈夫。もうどこも痛くないよ」
すると、お姉さまは穏やかに目を細めた――どうしてか、そのお姉さまの優しい笑顔が心に沁みた。
――そう、良かったわ、とそよ風のように静かな声で言う。
また訪れる静寂。お姉さまは相変わらずお人形みたいに微笑んでいるだけだった。私もそんなお姉さまの悲しい笑みを見つめることしかできない。
胸が締め付けられるくらいに苦しいのに、私はまだ答えを見つけられなかった。自分の望みが何であるか、私はわからなかった。
ただ穏やかな時間だけが流れる。
――流れるだけ。
そして、流れ去ってしまった後には――
私は考え続ける。働かない頭で、何もわからない心で、必死に考え続けた。
お姉さまが椅子から立ち上がった。
私は自分の心が軋む音を聞いた。
お姉さまは笑った。笑って、優しいだけの声で言った。
「邪魔してしまったわね」
そして、恥ずかしがるように微笑んだ。
「本当に私はどうしてフランの部屋に来てしまったのかしら?」
お姉さまは小さなため息をつく。呆れたような――自分に対して呆れたような笑顔を浮かべて、首を振った。
「ごめんなさいね、フラン。用もないのに来てしまって。私は自分の部屋に帰るとするわ」
お姉さまはそう挨拶の言葉を言って、私の頭に手を伸ばした。
お姉さまは私の地下室から帰るとき、決まって私の頭を撫でてくれた。喧嘩したときはもちろんそんなことはなかったけど、仲直りしたときは必ず、お姉さまは優しく私の髪を撫でてくれた。
だけど――
お姉さまは私の髪に触れる直前で、手を止めた。
――お姉さまの顔が歪んでいた。
まるで、何か壊れやすいものに間違えて触れてしまいそうだったかのように。
まるで、汚れた手で大切な何かに触れてしまいそうだったかのように。
悲しみと、後悔と、罪悪感と、諦めと――
お姉さまはそんな顔で、私に触ろうとした手を止めていた。
お姉さまはすぐにそれを取り繕うかのように笑った。
相変わらずの下手な演技だった。
そして、何もなかったかのように手を引っ込め、私に背を見せ、扉のほうに向いた。
離れていく。
お姉さまが離れていく。
たぶん、お姉さまは戻ってこない。
お姉さまはもう帰ってこない――そんな予感がした。
このまま私とお姉さまは別れてしまうような気がした。
お姉さまはもう私と遊んでくれない。
お姉さまはもう私といっしょにご飯を食べてくれない。
お姉さまはもう私におもしろい話を聞かせてくれない。
お姉さまはもう私のドロワーズを被ることもない。
お姉さまはそうやって私と鬼ごっこすることもない。
お姉さまはもう私の頭を撫でてくれない。
お姉さまはもう私といっしょに笑ってくれない。
――嫌だった。
そんなの、嫌に決まってる。
そこで――ようやく気づいた。
ぎりぎりだけど、私はようやく気づくことができた。
そして、私は決心していた。
――待って!
私はお姉さまに抱きついた。
全力で、お姉さまに抱きついていた。
――これで同じだ。
お姉さまの服が血濡れだというなら、
私の服も今、同じ血で濡れているのだ。
「ごめんなさい!」
私はお姉さまに謝った。涙腺が決壊したかのように、涙が溢れてきた。
――違う。泣いていいのは私じゃない。
本当に泣きたいのはお姉さまだ。
私が泣いていいわけじゃない。お姉さまを苦しめた私がどうして泣いていいもんか。
だけれど、私は涙を止められなかった。
私の意志に反して、涙は流れるばかりだった。
「お姉さま――私を許してください!」
お姉さまが振り返る。驚いた表情。お姉さまは慌てて振り返り、反射的に私の身体を抱きしめた。お姉さまは困惑していた。
「どうしたの、フラン?」
お姉さまは急に泣き出した私に面食らっているようだった。
「あなたは私に何も悪いことをしていないじゃない?」
だが、私は首を振る。私は全力で首を振った。
どうして私は気づかなかったのだろう。
どうして、私はお姉さまの苦しみに気づけなかったのだろう。
何で、お姉さまがこんなに悲しそうな顔をするまで気づかなかったんだろう。
お姉さまはこんなにつらそうじゃないか。
お姉さまはこんなに苦しそうじゃないか。
それでもお姉さまは私を守ろうとしてくれた。
お姉さまは必死で私のために戦ってくれたんだ。
それなのに、どうして私は気づいてあげることができなかったんだ?
どうしてお姉さまを傷つけるようなことを――
「ごめんなさい、お姉さま――」
私は懇願した。お姉さまの胸に縋りついて、願った。
「――馬鹿な妹を許してください」
ぼろぼろの視界にお姉さまの凍りついた表情が映る。
「もう、人を殺さないで、なんて言わないから――」
お姉さまが私の腕を掴んでいた手の力を強めた。
「もうお姉さまに意地悪言わないから、お姉さまを傷つけたりしないから――」
本当に自分の愚かさが嫌になった。
「嫌いになっていい、なんて、言わないで。私のこと、どうでもいいなんて、思わないで――」
お姉さまが一番大事なんて、そんなの当たり前のことだったのに――
「本当に、ごめんなさい――」
お姉さまは呆然とした顔をしていた。お姉さまはどんな気持ちで私の泣き顔を見ていたのだろう。お姉さまはしばらく口を閉じていたが、やがて、かすれるような声で呟いた。
「……私はあなたのことをどうでもいい、なんて思わないわ」
そして、雨に打たれているかのように、鬱々とした声で続けた。
「……でも、あなたは私のことを嫌っていいの。私はそれだけのことをしたんだから――」
だけど、私は首を振った。一生懸命に首を振った。
「違うの、お姉さま! 私はお姉さまのことが好きなの! 本当に本当に、好きなの!」
私は泣き叫ぶように言った。
「お姉さまが誰を殺しても、どんな人を殺しても、私はお姉さまが好きなの! お姉さまだけ、お姉さまだけで……!」
ごめんなさい。
皆、ごめんなさい。
私はこの人が好きなんです。
この人が皆を傷つけても、
この人が皆を殺しても、
私はこの人が好きなんです。
私はこの人が好きで好きでたまらないんです。
誰に何と言われても、この人が私のお姉さまなんです。
この人以外に、私のお姉さまはいないんです。
この人しか、私を笑わせてくれる人はいないんです。
もう、決めてしまったんです。
「お姉さまだけで! 本当にお姉さまだけでいいの! 私はお姉さまがいれば幸せになれるの! だから、私に、お姉さまを嫌っていい、なんて言わないで! 私を否定しないで……!」
お姉さまはうつむいた。右手を私の背中から離し、代わりに額に置いた。お姉さまはぶつぶつと低い声で言った。
「……でも、私は、あんなに大勢の人を殺した。悪くない人達を一方的に殺したの。そんな私がフランに好きになってもらうなんて……」
私はお姉さまの顔を覗き込んだ。お姉さまは私から目を背ける。私は普段の私なら、絶対に聞けないようなことを尋ねていた。
「ねえ、お姉さまは私のことが嫌い?」
その質問に、お姉さまは逃がしていた視線を私に戻した。私はお姉さまの紅い瞳を見つめながら再度尋ねる。
「お姉さまは私のことが嫌い? 私がお姉さまのことが好きなのが鬱陶しい?」
お姉さまは一瞬躊躇ったが、ちゃんと私の目を見て言ってくれた。
「……そんなわけ、ないわ」
お姉さまは私の肩に顔を埋めて、言ってくれた。
「私がフランのことが嫌いなわけがないわ。私はフランのことが大好き。心から愛してる。もし、そんな大好きなフランが私のことを好きでいてくれるのなら――私はそれだけで十分幸せだわ」
「――ありがとう、お姉さま」
私は笑った。涙でぐしゃぐしゃの顔を、強いて笑顔に作ってみせた。
「私もお姉さまが私を好きでいてくれるなら、それだけで――本当に幸せだよ」
お姉さまはその言葉でようやく笑ってくれた。
私はお姉さまの身体をぎゅっと抱きしめた。
私は自分とほとんど変わらない小さな身体を精一杯包み込んだ。
――お姉さまは救われなければならない。
大罪を犯しても――お姉さまは救われなければならないのだ。
お姉さまは自分で自分を救うことができない。
本当は心の優しいお姉さまは自分の罪を決して許すことができない。
なら、私しか救えないじゃないか。
私は美鈴の言葉を思い出していた。
美鈴は言った。
誰かがお姉さまを救い上げなきゃいけない――と。
ヒントはもうずっと昔に提示されていたのだ。
もしかしたら、咲夜や美鈴、パチュリーもお姉さまを助けてくれるかもしれない。現に、お姉さまは今、3人によって助けられているのだ。3人はお姉さまにとってかけがえのない人達だった。
でも、もしそれでも足りないのだったら――
私がお姉さまを助けなきゃいけないんだ。
これが私のするべきことだった。
本当に私のしなければならないことは、これだったのだ。
そもそも、許す、許さないの問題ではなかったのだ。
私は許さなければならなかった。
お姉さまが何をしようとも、私は許さないといけなかったのだ。
そうでなければ、お姉さまは救われないから。
きっと私しか、お姉さまを救えないのだから。
お姉さまが救われないのは嫌だ。
お姉さまが不幸なのは嫌だ。
それだけは絶対に嫌だ。
お姉さまの不幸は私の不幸だ。
――ようやく、だった。
人を殺すことを――殺し合いの意味を知った私は、ようやくお姉さまがどんな気持ちだったかをわかることができた。
結局は誰を選ぶかという問題だったのだ。
お姉さまを選ぶか、それともお姉さまと対立している人を選ぶか。
どちらがいらないのか――
私にはどちらもいらなくなかった。
どちらにも生きていて欲しかった。
だけど、それは許されないことだった。
私はどちらかにいらないと伝えなければならないのだった。
そして、どちらかを選ぶとしたら――
私はお姉さまを選ぶ――
「私はお姉さまに人を殺して欲しくなかった。それだけは本当。私は誰が傷つくのも嫌だし、死ぬのはもっと嫌だ。誰かが誰かを殺すなんてことは許せない」
だけど、それでも――
「もし、お姉さまが人を殺さなければならないんだったら、私はそれを受け入れる」
――もう、我が儘は言わない。
私はお姉さまの顔をしっかりと見た。
お姉さまは紅玉のような綺麗な目から、珠のような涙を流していた。
私は泣きながら微笑んだ。微笑んで、もう一度、頭を下げた。
「だから、お姉さま、私を許してください。馬鹿な妹を許してください」
「許すも何も……」
お姉さまは涙を拭いながら言った。でも、お姉さまの目から溢れる雫は止まりそうもなかった。
「あなたは何も悪いことをしていない。むしろ、許されなければならないのは私。あなたは正しいことをした。だから、私こそあなたに謝らなければならない。でも、私は――」
お姉さまは謝ることができない。
謝って――お姉さまは自分のしたことを否定することができない。
お姉さまは私達のために、自分を否定することができない。
お姉さまはもう『スカーレットデビル』を殺せないのだ。
邪魔者は殺す。邪魔でない者も殺す。おべべを真っ紅に染めるスカーレットデビル
血を啜るだけでは飽き足らず、服を濡らすだけでは物足らず
飛ぶ野を緋に染め、千本の針の山に跳ねて遊ぶ
彼女こそは紅色の冥界。呪いの魔王に連なるあどけない大地獄
主の聖なる星の目も、永遠に紅い幼き月の前には隠れるのみ
誰にも畏怖されるスカーレットデビル。誰にも忌避されるスカーレットデビル
彼女の後ろには幾千もの従者が。彼女の目の前には幾万もの敵が
されど彼女の隣には誰もいない。彼女と並んで飛ぶ者はいない
頂点に位置するスカーレットデビル。独りぼっちのスカーレットデビル
血の涙を流しても、彼女の服は元から真っ紅。服を濡らしてもわからない
それでも爪を振るうスカーレットデビル。殺し続けるスカーレットデビル
ただただ屍と無念と悲しみの山を残す
違う。
それは違う。
お姉さまには私達がいる。
お姉さまの横には私がいる。
私はお姉さまの紅い涙に気づいたのだ。
私は、お姉さまの手を握る。血にまみれた――でも、間違いなく私のお姉さまのものである手をとった。頬を涙が伝うのを感じるけれど、私は無理矢理にでも笑う。
「いいんだよ、お姉さま。私はそれでいい。本当に――それでいいんだ」
もういい。
本当にもういいんだ。
私がお姉さまを認めることで、お姉さまが救われるなら、もういいんだ。
「私はいっしょにいるよ」
私は誓った。精一杯の微笑を浮かべてお姉さまに誓った。
「いっしょにいて、お姉さまといっしょに血に汚れる。私はもう気にしない。どんなに服が汚れたっていいんだ」
お姉さまの涙に誓う。
「私は、殺すお姉さまを受け入れるよ」
お姉さまの罪は許されないものだろう。
たとえ私が許しても、それは何の意味にもならない。
お姉さまの罪を許せるのは、お姉さまが殺した人だけなのだ。
だけど、その人たちはもういない。
本当の意味でお姉さまを許してくれる人はもういない。
お姉さまが背負う十字架は決して減ることはない。
でも、私にもそれを背負うことができるのなら――
「私も殺さなければならないときが来るなら、そのときは――」
そう言いかけた瞬間、お姉さまはぎゅっと私の身体を抱きしめた。あまりの強さに息苦しさを感じるほどだった。
「それだけは、やめて――」
お姉さまは泣きながら言った。
「あなただけは、人を殺さないで――」
お姉さまは荒く息をしながら、そう私にお願いした。
私はお姉さまの身体を抱き返しながら訊いた。
「お姉さまは私に人を殺して欲しくないの?」
お姉さまは強くうなずいた。私はもう一度尋ねる。
「それがお姉さまのお願い事?」
「ええ――お願いだから、それだけはやめて。あなたは余計なものを背負わないで……」
――どこまで優しいんだろう、この人は。
この人はどこまで私に優しくしてくれるんだろう。
どうして、この人はこんなにも強いんだろう。
その強さが痛いほどに切なかった。
でも、それがお姉さまの願いだと言うなら――
「じゃあ、私はどうすればいい?」
私は相変わらず、涙でぼろぼろの笑顔で訊いた。お姉さまもたくさん涙を流していた。
「私はお姉さまのために何ができる?」
お姉さまは泣きながらも笑ってくれた。その笑いに、私のほうが救われる気分がした。
「――笑ってちょうだい」
お姉さまはこの世で一番優しい声でおっしゃった。
「私はフランに笑っていて欲しいわ」
お姉さまはこの世で一番優しい笑顔を浮かべて、そうおっしゃった。
私はうなずく。
泣きながらだけど、精一杯うなずいた。
「わかったよ」
私は頬を涙でぬらしながらも、必死に微笑んだ。
「お姉さまが私に笑っていて欲しいと言うなら、ずっと笑ってる。お姉さまが誰を犠牲にしようとも、お姉さまが誰を殺そうとも、私がそれを知らなくても、私がそれを知っていても、私はずっと笑っている。私はお姉さまの隣でずっと笑ってる」
私は涙をぽろぽろ零しながら、一生懸命笑顔を浮かべた。
「私は知らない人がどこかで泣いていたとしても笑うことにするよ。お姉さまが泣いていたら、一緒に笑えるまで笑うことにするよ。お姉さまが幸福なら私はずっと笑うことにするよ」
私はお姉さまの身体を真心をこめて抱き締めて誓った。
「それが、私にできる唯一のことだから」
そして、私はお姉さまの顔を見た。この世で一番好きな人の顔を見た。
お姉さまは笑っていた。
とても優しく、満月のように綺麗に――
ああ。
この笑顔が見たかった。
「ありがとう、フラン」
お姉さまは星のように美しい涙をこぼしながら笑った。
「本当に、ありがとう」
――終わった。
ようやく終わった。
私の中でこの事件がようやく終わった。
私はお姉さまといっしょに笑いながら、この事件の終わりを迎えることができた。
それから一週間後のお話。
紅魔館の図書館に、また魔理沙が来ていた。
今日は美鈴をマスタースパークで撃墜してから来たらしい。どうして、この白黒はちゃんとした手続きをとって入ってくることを覚えないのか、不思議でしょうがなかった。
美鈴はいつもどおり門番長の仕事をしていた。昼寝をしては咲夜に叱られ、門番隊の隊員達と話をしたり、小突きあったりして笑っていた。そして、今日のように、魔理沙に弾幕ごっこを挑まれ、敗北する日々を平和に過ごしていた。
ただ、お姉さまからの処罰は少しきつかったらしい。一日飯抜き――本来ならば、まあ、多少、涙目になる程度の罰なのだが、美鈴の大食らいは尋常でなかったため、本人にとってはこちらが思っているよりもずっと重い罰だったらしい。美鈴の食費は、私、お姉さま、咲夜にパチュリーを合わせたものを、上回っているのだ。そんなわけで、その日一日の美鈴は酷く元気がなかった。次の日、咲夜が美鈴の食事を用意するのにどれほど大変だったかは語るまでもない。
「なあ、パチュリー、この本、借りていっていいか?」
魔理沙がにこにこ笑って、パチュリーに尋ねる。パチュリーはぎろりと魔理沙を睨んで言った。
「……いまさら、訊くなんて、あなたって本当に白々しい奴よね」
魔理沙はパチュリーの苦言にも不敵に笑うばかりだった。
パチュリーも相変わらずだった。もしかしたら、心の中で何か変化があったのかもしれないが、そんな様子は毛の先ほども見せなかった。私に特に遠慮するような素振りもなかった。七曜の魔女は今日も無愛想に本を読み、館の主とティータイムを共にしている。
「そういえば、咲夜はどうしたんだ? 今日会ってないけど」
魔理沙が私に尋ねた。
……どう答えたものか。
正直に答えたら、紅魔館の威厳に関わるよね、うん。
私は適当に誤魔化しながら言った。
「えーと、今、お姉さまが私室で仕事中なんだ。それで、今咲夜はその補佐をしてるんだ」
その言葉に魔理沙が目を丸くして言った。
「へえ、レミリアも仕事するのか。初めて知ったぜ」
「うん、書類仕事をね」
……仕事ではないんだけどね。まあ、実際にお姉さまが私室にいて、ペンを動かしているのは本当だ。
咲夜も変わりなかった。あの後しばらく、お姉さまのことを心配しているようだったが、やがて、それが杞憂であることに気づいたのか、咲夜も事件の前の咲夜に戻っていった。咲夜は今も瀟洒に紅魔館のメイド長として、お姉さまの我が儘と戦っている。
お姉さまは、すぐに元通りというわけにもいかなかったが、2、3日で元気なお姉さまに戻ってくれた。時折、何かを考えるように宙を見ていることがあったが、もう心配する必要はないだろう。少なくとも、私のドロワーズを被ろうとするくらいには元気になった。ちなみに今は、今日起こしたドロワ騒ぎについて、私室で反省中である。原稿用紙500枚を、『ごめんなさい。』で埋めるまで軟禁することにした。精々、腱鞘炎で苦しめ。咲夜には申し訳ないけど、その見張り役をしてもらっていた。
紅魔館は元通りになった。
紅魔館は私の知っている紅魔館に戻っていた。
明るく、穏やかな紅魔館に。
――これでいい。
――これでいいのだ。
私はこれを良しとするのだ。
私は本を読んでいる魔理沙の横顔を見た。
そういえば、魔理沙の言葉が全てだった。
『レミリア・スカーレットは優しいのか?』
私は今、その問いの答えを手にしていた。
私は魔理沙に話しかける。
「ねえ、魔理沙」
「んー、何だ?」
魔理沙が本から顔を上げた。魔理沙は微笑んでいる私を見て、怪訝そうな顔をする。
「どうした、にやにやして? 何かいいことでもあったか?」
私は魔理沙に笑いかけながら言った。
「前に魔理沙が、お姉さまは優しいのか、って訊いたことがあったじゃない?」
私の言葉に、ああ、そういえばそうだな、と魔理沙が相槌を打った。ちなみにパチュリーは本を探しに行ったらしく、席を外していた。魔理沙は頬杖をついて尋ねた。
「それで、どうなんだ? 結論は出たのか?」
「うん、ばっちりね」
私ははっきりとした声で言った。
「レミリア・スカーレットは優しくない」
その言葉に魔理沙は目を丸くした。だが、私は微笑んで、さらに言った。
「レミリア・スカーレットは優しいけど優しくない」
魔理沙は首をかしげた。
「『優しいけど優しくない』……言いたいことは何となくわかるような気がするんだが、いまいちピンとこないな」
「まあ、そうかもね」
「『優しいけど、優しくない』……まあ、皆そんなもんだろ?」
「まあ、そうかもね」
魔理沙が不思議そうな顔をした。どうして私が笑っているか、わからないようだった。
でも、私は笑う。
魔理沙が笑わなくても、笑う。
約束の通りに笑う。
「……なんだか、本当にいいことがあったみたいだな」
そう言って、魔理沙は本に目線を戻した。
私も静かに笑ったまま、本に視線を落とした。
,
自覚しているようなのでこの点数で・・・。
でも、…受けたんですけれども、やっぱり私は無在さんの描く紅魔館が大好きなんですよね。
どこまでも不器用な姉妹とか、そんな二人の幸せを心から願う友人やら従者とか。
多分無在さんが何を書いても私の期待にかなってしまうと思いますww
というわけでどうしても100を入れざるを得ないというか何というか。なんか変なことばっかり言ってすいません。
それでは、是非これからも頑張ってください!次回作待ってます。ネty(ryでも全然かまいませんのでww
面白かったですよ
こんな紅魔館は私の中ではアリアリです
うわぁあああぁあぁ
とりあえず誤字脱字多すだぜ;少なくとも二十じゃきかんと思います
美鈴がかっこよかったですね、本作でもそんな真剣に戦ってるように思えなかったし、美鈴が実は強いのは肯定します。レミリアが紅魔館で終決しているのもアリですね
長い作品はダラダラ感が出てしまったするものですが、そういうこともなくて
最初から最後まで一気に読んでしまいました
でも結構良いと思う。
話の内容-長さで90点入れていきますね。
そして無駄な文章はアリアリな気がするけれども、無駄な展開はなかった感じなので満点をつけちゃうのぜ。
いや、ホントあの姉妹は可愛いったらないですよね。
そして美鈴さんがかっこよくて素敵でした。
面白かったですよ
これなら前・後編にわけても良いんじゃないかと思ったりもします。
最後はああいう結果に終わってしまいますけど、フランや他の面々の
レミリアへの想いなど、素敵でした。
このスカーレット姉妹の関係は互いに想い合っていてとても好きですよ。
そしてドロワを被って遊ぶというのも、氏のいつものレミリアだなぁって思いました。
反省文が「ごめんなさい」を500枚に埋め尽くすというのも愉快ですね。
面白いお話でした。
誤字・脱字なのですけども……すいません、
見つけてはいたのですが全てどこにあるか忘れてしまいました。
ただ、個人的な意見を少しするとなれば
人物の台詞の前後にある地の文とは若干行間が空いていたほうが
読みやすくなるかと思います。
次なる作品も期待して待っていますが、
頑張りすぎないように祈ってます。
(ほとんど先にあとがきでいわれてちゃってるけどw)
えんえんえんえんえんえんえんえんと、
「例え理不尽でも
命を狙われても相手を傷つけるな
傷つける奴は悪」
みたいな・・・
「命を狙われて抵抗して加害者を殺した被害者はひどい奴で、加害者は擁護されるべき」
みたいな・・・
そんなこといわれても
それ何て聖人・殉教者(いっちゃってる人)?てな具合でした
正直、フランちゃんにイライラ
教会側もフラン側も狂ってるなあ、と思いながら読んでました
ちなみに、命を救われたのに相手を殺したからとごくうに怒った三蔵に納得いかない、という者の感想でした
文章の書き方や展開が私好みだったというのもあるんでしょうけど。
とりあえずごちそうさまでした。
>>28様
ご意見ありがとうございます。
そう思っているのは、たぶん、あなただけではないでしょう。
正直言えば、書いてる本人も、フランにイライラしてました。
でも、ですね……これは仕方が無いことと考えてください。
本当に、フランは人を殺すこと――傷つけることを知らなかったのです。そのあたりは、お嬢様がフランについて考察してますし、フランも自分をそう判断しています。
さらに言いますと、最初の段階――お嬢様の私室での拷問の場面で、フランはお嬢様が人を殺した場面を見ていないのです。ただ、お嬢様が一方的に誰かを虐げている姿しか見ていない。フランにとっては、お嬢様が加害者で、女性が被害者です。それでもって、フランはそういう敵意だとか、悪意だとか、暴力だとか、そんなものに一切免疫をもっていませんから、いくら、教会の人間が敵だ、と言われても、フランはそんなこと納得できるわけが無いのです。フランが本当にお嬢様が被害者で、教会側が加害者だとわかるのは、自分が襲われてから。自分を殺しに来る敵がいるとわかってからなのです。読者様としては、教会と吸血鬼は敵対するもの、という先入観もあったのではないでしょうか。
まあ、要するに、フランは根本から敵を知らなかったのです。だから、一方的に、お嬢様のことを許せないと思ってしまったのです。
このSSではフランは優しさの象徴として書かれています。お嬢様は、優しい人とは「誰にでも優しくできる人」と定義していますが、『優しくする』とは何か定義されていませんね。ですが、このSSを読めば、『優しくする』とは、『殺す』ことの対義語だということはすぐにわかるはずです。『優しくする』とは、『いらない』に対して、『あなたは必要だ』と伝えることなのです。あなたとは仲良くできる、あなたといれば楽しい、という意味なのです。フランは495年間、地下室に閉じ込められていました。そして、文中で書かれているように、とても寂しい思いをしてきました。フランの優しさはその反動でもあるのです。幸いなことに無在のフランはやさぐれることがありませんでした。無在のフランは両親やお嬢様たちから愛を受けて育ったことになっています。フランは人を傷つけることは知りませんが、傷つけられたら痛いということは知っていますし、相手のことを考えるだけの思いやりがあった。そういう風に育てられました。ですから、無在の書くフランは信じられないほどに優しいのですね。そして、幻想郷で、誰かと仲良くすることは楽しいということを覚えました。自分が殺されそうになる場面では、自分に対する劣等感や他者からの疎外感なども加わって、相手を許してしまいさえするのです。ですが、一つだけ許せないことがあった。それが自分のお姉さまが殺される、ということだったのです。
そして、右手の力を使い、人を傷つけることをようやく知ったフランはお姉さまを許すのです。(というか、この前にすでに、フランは優しさだとか傷つけるだとか、そういう議論をもうやめてしまっているのです。フランはお嬢様の家族として、人なら誰でも家族に思うような愛情、というか期待をお嬢様に向けているのです)
まあ、ここまで回りくどく舞台を用意して、本当に私が言いたかったことは、
フランちゃんはお姉さまが大好きだよ、ウフフ
ということだったわけですが。
書いている本人としてはここまで考えているのですが、説明不足だったでしょうか。実力不足です。すいません。ですが、このような感想を送っていただき、本当にありがとうございます。この作品について真剣に考えてくださったことを心より感謝いたします。
長々と失礼いたしました。
時の中で未だに思い悩んだりするかね? とか。村人全員皆殺しは、まあ、妥当な感じですが。
確かに色々とありますが、それを差し引いても十分面白かった。堪能させていただきました。
考えれば、破壊することはできるけどそれ自体を使う機会は無かったわけで、敵意や殺意に鈍感なのもうなずけました。
私は特にだらだらと長いなぁ、とは思わなかったです
歪で危うく、しかし美しく優しい姉妹・友・主従愛。
これは異変なんかじゃなくてただの喧嘩、或いは憂さ晴らし。
だから巫女も管理者も介入できない。
たかが・・・されど子供の我儘。
そんなイメージでした。
ちなみに、「あなた疲れてるのよ」は素で言われるとおもろいなあww
レミリアの冷血な面もギャグな面もちゃんと出てる感じで。
ただ穢れきった凡人のアタマでは「ヌアアアアフランちゃんの偽善者!」
と心で叫び続けてたり。ただそのお陰で最後が引き立ったので結果としては素晴らしかったかと。
フランちゃんの次の次に愛してくれー!お嬢様ー!
あなたなら別の道を創れると思ったけど、
落ち着く所に落ち着いてしまったの少し残念です。
妖怪は自分勝手と言いますし、本来の姿なのかもしれません。
まぁちょっと姉妹が壊れすぎてる気もしますが、きっと作者さんはフランちゃんにキュッとしてドカーン!されっちゃったのですね。羨ましいです。
紅魔館に幸あれ。永遠に。
本当に良かった。
ふらんちゃんは無知故に、お嬢様は諦観故に苦しんでいましたが愛とドロワがあれば光と闇の力がそなわり
最強に見えるでしょう。流石無在様の描く紅魔館は素晴らしい、見事な無在ワールドと感心するがどこもおかしくは
ないですね。
私は具体的な要望等は書きません、要望するくらいなら無在様にすべてお任せするでしょうな。
私、マリアちゃんのお話の続き読みたいですしおすしですね。
でもキャラはすごく魅力的でした。
大好きな妹を守るために殺さなくちゃいけない…………
でも、大好きな妹に「殺さないで」と言われてしまった………
しかしフランの気持ちも少しわかる…
好きな人には自分がいやな事をやって欲しくないですよね…
とても面白かったです。もっとあなたの作品を読みたいです。この姉妹大好き!
設定もストーリーもよく作りこまれており、どんどん引き込まれながら読んでいました。
それにただ長いとありますが、どの文章もこの物語を支えていると思います。
無理に短くする必要はないんじゃないかなと思いました。
せめて改行してくれ
3日かけてようやく読了しました。
よく作りこまれた世界観で、矛盾点なども感じずさほどのストレスを感じず楽しく読めました。
純粋な子供がなんとなく感じる正義感というか甘さというか、フランドール・スカーレットに対する読者の感情は、分かれるかもしれませんが、
一つのお話、と言う点では、変化も含めてすばらしい出来だと思います。面白かったです。
攻撃することはなかったが
ですかね?
誤字指摘ありがとうございました。
修正させていただきました。
書きたい話があるからそれに合わせてキャラを変えちゃったんだね。
それ自体はSSではありがちなんだけど、そういう事が気になったのは
俺がこのフランに好感を持てなかったせいかな。
何と言うか、他者に寄生している癖に最低限の義務すら果たさない愚者を見ているような。
周りの好意に甘えて際限なく状況を悪化させるのは、ギャルゲのヘタレ主人公にも通じるよね。
やっぱフランちゃんは妖精メイドを爆破して
「汚い花火だぜ…」って言ってる姿がお似合いだと思う。
そしてその後シャワーを浴びて流水に怯えたり。フランちゃんウフフ。
と言うか基本シリアスなんだからコミカルな部分もそれに合わせた方が統一性が取れると思うよ。
ドロワーズ云々の件ね。ちぐはぐな感じを受ける。
とか何とか書きながらも最後まで読めたのは作者さんの筆力が頭抜けていたおかげだと思う。
どうでも良い作品だと途中で読むのをやめるしね。好きの反対は無関心とも言うから。
こういう読者の感情を揺さぶられる話が書ければな、と読んでいて羨ましく思いました。
感想ありがとうございます。
レスをしないのもどうかと思いましたので、最低限で述べさせていただきます。
まず、今回のフランの人格についてですが、私が28様にしたレスのほうを読んでいただけるようお願いいたします。
また、メイド妖精をきゅっとしてドカーンなどについてですが、これこそ二次創作以外のなんでもないように思えます。原作を考察すれば(紅魔狂での会話、おまけテキスト、文花帖、スペルカードルールすなわち弾幕ごっこのあり方など)、フランが無駄に誰かを殺したりなどしていないことが良くわかると思います。フランは確かに狂ってはいますが、二次創作の弊害のほうが多いと思います。そこから、十分、心優しいフランを想像することができるかと愚考いたします。文花帖の会話についても、フランの狂気属性を利用すれば、いくらでも説明がききます。それについては、今後書いていきたいと思います。
また、シャワーについてですが、それは『フランお母さまの悲喜交々 2』で短い考察がありますので、そちらのほうを参照してください。
以上、長々と失礼いたしました。
お目汚し申し訳ありません。
ただ、殺す殺さないの葛藤においてちょっと引っ張りすぎた感があって私は途中で若干だれちゃいました。
ですので私としてはこのくらいの点数、ということで。
でもスカーレット姉妹ひいては紅魔館の絆はひしひしと感じられてとてもよかったです。
ただ殺す殺さないに吸血鬼がここまで拘泥するという点は違和感がありました
もっと楽しそうに殺していいよお嬢様、みたいな
文庫本形式に変換すると大体400ページ!
そして冗長。
でも、本当に冗長だったかと聞かれれば
長すぎて冗長に感じただけでそこまで冗長であるわけではない、と答えざるを得ない。
ここまで冗長であるように感じるほど長く書かれたからこそ感じ入ってしまいました。
あと、後書きにもつらかったと書かれていましたが、こちらも読んでる最中
これ書くのは辛かろうなぁ、よくここまで鬱々としたもの書けるなぁ、と感心してしまいました。
要約すると
長かった。でもよかった。
感想ありがとうございます。
一ヶ月以上経ってのレスもなんですが、一応、ということでレスします。
私はむしろ、お嬢様のような優しい人物だったからこそ、幻想郷に来れたのだと思います。
原作でも、霧の湖の周辺で迷い込んだ人間を紅魔館に保護していたりもしますしね。
ついでに、私の妖怪観では、人間も妖怪も大した差はないという考えがあります。
本文でも述べているように、妖怪の元は人間ですし。価値観こそ違えど、その基本的な考え方(特に集団を作る生物として)は人間とさほど差はないように思っています。特に、人間は妖怪にとってただの食料ではないでしょうし、その思い入れは強いものがあると思います。
というか、本来だったら、71様の言ったとおり、お嬢様はもうちょっと楽しそうに人を殺せたんですがw でもお嬢様は自分のそんな残酷な部分を妹様に見せたくありませんでした。それがお嬢様の本来の優しい性格に相乗効果となって、今回はこのように苦しんでしまったというわけです。
以上、長々と失礼しました。
お目汚し申し訳ありません。
個人的にはこれは本にして保存しておきたいですね・・・w
さあて、もう一度見てくるか。
ついでに脱字字報告。
美鈴の大食らいは尋常でなかっため、 → 美鈴の大食らいは尋常でなかったため、
ではないでしょうか?
内容的には100点なのですが、脱字を考慮してこの点数で。
「殺す」とは一言では言い表せないのだな、と
いろいろ考えさせられました。
でも殺すということを知らないフランと殺すことに傾きすぎたレミリアの情景や内面はにじみ出ていました。欲を言えばもう少し美鈴やパチュリーの視点からみたレミリアについて書いてほしかったかなと。こういう形の文は好きなんでこの点数
一気に読んでしまいました。
感想としては、ひたすらに、「悔しい」と思いました。
罪もないのに殺されてしまった村人たちも、殺したくもないのに殺してしまったレミリアたちも。
なんでこんな目にあわなくちゃならない、どうして。どうしようもない無念さがわきあがってきました。
個人的にはフランちゃんが純粋過ぎて鼻血吹きそうになりました。
あとレミリア、せっかくカリスマ出てんだからドロワ被るなw
人を選ぶ内容ではあると思いますが、私は素晴らしい作品だと思いました。
フランの言動を受け入れられない方も多いようですが、495年間外界から隔絶され、ある意味で「やさしい世界」しか見てこなかったフランにとっては仕方ないことと私には感じられました。
フランについては無在氏の世界観が我がジャスティスなので、本来の性格は優しくて、発作的に狂気に襲われるという設定が前提として脳内にあったからかもしれません。
長い長いと指摘されていますが、個人的には、それだけ重いテーマを扱っているのだからむしろこれ以上短くすべきではないような気がしました。
そして時々登場するドロワの話がなんともww浮いている気もしないでもないですが、氏の作品であるということを実感できました(良い意味で)
…他の方の感想にありますが…そんなにこの姉妹は狂っているだろうか?
全くそう思わない私が狂っているのか…
主題は面白いけれどフランの優しさがあまりに上滑り、
というか日本的平和ボケ主義でヨーロピアンに見えないような。
紅魔館の面々ばかり描いてて村側の描写が一切ないのは、フランがあくまでも、
幼稚さ故にレミリアの怖い顔を見たくなかったためだったからでしょうか。
とするとここまで引っ張るだけの中身でもないですね。
そうだとすると、それは単なる恐怖や拒否であって優しさと呼べるものではないからです。
内容としては筋が通っているけれども至極退屈かつ共感しかねました。
あと村長の台詞が非常にぎこちない上に、いきなりの描写で唐突感。
殺された姉妹も同じく。姉妹のダシに使うだけなら最後まで台詞なしでいいんでは。
文章・技法に関しては、116様の嗜好、ご主義に合わなかったのだと思います。一つの意見として参考にさせていただきます。
フランの思考に関して、日本的平和ボケ主義とおっしゃられていますが、このSSにおいて、フランの場合はそれ以下だという設定にしております。フランは 495年地下室にいて、西欧の争いどころかあらゆる外界の争いを知らなかった。フランは争いや悪意というものを一切知らないキャラクターとしてこの物語は書かれております。無在のフランは弾幕ごっこをしますが、それはあくまで力比べ的なもの――遊びとして楽しんでおります。そこには悪意は含まれておりません。それゆえ、無在のフランは誰かと仲良くすることは知っていますが、相手を意志をもって傷つけるという考え自体に疎いのです。それゆえ、レミリアが人を傷つけようとすることを嫌がり、本来は倒さなければならない人とも仲良くなれるのではないかと希望をもつのです。それはレミリアの台詞やフランの独白から読みとれると思います。もし、無在フランの性格設定について嫌悪感を感じるのであれば、今後は名前避けをすることをお勧めいたします。
そして、116様が示唆されてる通り、確かにフランは優しさだけで行動してるわけでもありません。ですが、恐怖や拒否の感情だけではありません。それは、フランがレミリアの過去を美鈴から聞き、それでもレミリアをとめようとしていることからもわかると思います。というか、レミリアの部屋のシーンで、少なくとも恐怖はほとんど消えてますし、拒否についても(……この「単なる拒否」というのが何のことを言ってるのかよくわからないのですが)フランは感情的な拒否よりも論理的思考による拒否に移っていると考えられますよね。フランを突き動かしてるのは、レミリアにも人を殺してほしくないという単純な感情です(これは、フランの優しさゆえに生じるものです。フランはレミリアにも優しくあることを望んでいるのです。ですから、この物語にとって「優しさ」を定義することは非常に重要なことなのです)。116様は「幼稚」とおっしゃられていますが、全く違います。これは家族の情です。家族が家族に対して同じ主義、同じ価値観をもってほしいというのは当然の願いだと私は考えております。フランはレミリアを家族だと考えるがゆえに、レミリアに優しさを強要します。この話が「ここまで引っ張るだけの中身でもない」かはわかりませんが(もっともそれは読者様の考え方次第だと思います。116様にとっては中身のない物語だったのかもしれませんね)、私としては「筋を通」すために絶対に必要でしたし(無在にとってのSSの必要条件は論理的に成立していることです)、価値があると思っております。「幼稚」であることは、フランが争いを知らなかったことについてです。
村側の描写が一切ないのは、あくまで紅魔館サイドでの話として終結させるためです。正義というわけではありませんが、その人の主義はその人だけのもの。相手の考えを読みとれるわけではありません。考えや思想はあくまで主観的なものだと私は考えております。それゆえ、紅魔館、というかレミリアにとって村の考えは読みとることができきない――というか、そもそも読みとっても仕方のないものなのです。レミリアにとって読み取る価値がないものなのです。それはレミリアがこれまで全滅主義を貫いてきたことを考えれば明白かと思います。この物語はこの事件を俯瞰的に解説する物語ではありません。あくまで片方側から見た真実を書いたものです。そして、その片方が行動するときは、その側がもっている真実しかそこには存在していません。行動は絶対的に主観的なものに拠るものだと私は考えておりますし、事実そうではないでしょうか。
以上、長々と失礼いたしました。
116様の「紅魔館の面々~からです」の部分がよくわからなかったので、2時間ほど考えた結果、「幼稚=無知であるがために人を殺したくないのだとして、その無知の状況において人を殺したくないという感情を優しさと言っていいのか」という内容に解釈いたしました。この部分について触れてないので書き込ませていただきます。
私としては、それも優しさの一つと言っていいと思います。結果的には「優しい」ですしね。というか、無知もまた人間の性質の一部だと思っています。欠点ではなく、あくまで一つの性質だと無在は考えております。
それはともかく、フランは無知を脱却しても「優しく」あれたかという問題についてです。
フランは三段階で、人を殺すことについて学んでいきます。一つはレミリアの言葉で「殺す=いらない」と教えられた時、もう一つは自分が実際に襲われ、殺されそうになったとき、最後はレミリアが殺されそうになり、破壊の能力で姉を守ったときです。
フランが「優しい」ことをやめるのは、最後の段階です。それまでは、フランは「優しく」あり続けます。自分が殺されそうになり、自分を殺すような外敵が存在するということを知っても、殺すことを否定して、自分の優しさを肯定します。
ちなみに、フランが自分の優しさについて肯定する最後のシーン――というか、ぶっちゃけて言いますと、フランはいろいろとぐちぐち悩んだり考えたりしてますが、一番奥底にあるのは、「レミリアを嫌いになりたくない」という感情なのです。「フランにとって家族(……家族という言葉でさえ生温い関係ですが……)であるレミリアを好きでい続けたい」という感情がこの物語の核なのです。「優しさ」やら「人を殺すこと」やら論理を展開し、ここまで話を引っ張ってきた理由は、これはあくまで無在のフランの物語だということの証明のためです。無在のフランやレミリアなら、こう考え、こう行動する。それを示したまでにすぎません。私は、キャラクターをSSを書く道具にしたくない、という主義があります。SSはあくまでキャラクターの生活そのもので、作者の不都合で省略することが許せないという想いもあります。ですから、無駄な展開も無駄な文章も書いていくつもりです。少なくとも創想話のなかでは、私は純粋に読者様を楽しませる作品は書かないと思います。それを楽しんでいただけるか、納得していただけるかは、読者様次第かと存じます
話が飛びましたが、三段階目においてフランは自分の優しさを否定します。そして、自分の優しさよりも姉の存在を肯定します。この物語の肝はここです。あれだけ大事にしていた優しさを否定してでも、レミリアを肯定すること――これが私がこのSSで見せたかったことです。この段階(より正確に言うと、フランがレミリアに謝りに行こうとして廊下を歩いている場面)から、優しさに関する議論は消し飛んでいるんです。
この物語はメッセージ性の強いSSだと思います。ですが、メッセージはありません。あくまで、無在の幻想郷でこういう事件があって、フランとレミリアが喧嘩別れしそうになった――ただそれだけの物語です。一般論について語っているSSではありません。この姉妹の行動に納得されない方もいらっしゃるのも当然かと思います。ですが、私は彼女たちの行動云々の善悪に関してはともかく、私の紅魔館のSSのなかで、こういう話があったということは肯定したいと思います。
以上、長々と失礼いたしました。
本当に稚拙な表現だと思うのですが、泣かされます。
キャラが涙を流す所でいつもスクロールする腕が硬直してしまう。そうなってしまう程に文章に、キャラに力があるのだと思います。
姉妹を思う美鈴の涙がただひたすらに重い。レミリアと本を閉じ肩を並べ、同じ目線で村を見据えるパチュリー……
氏の書く作品一つ一つに、自分が見続ける大好きな紅魔館が具現されているんです。
私の拙い表現力で、どうこの作品を批評していいものなのかさっぱりわかりません。
なので、私の思う事はこれだけです。ただ貴方の書く作品が好きなんです。
頑張ってください。
今回、最初から読み直して、何とか読みきりました。
今回も読んでて辛さを感じたのですが、最後まで読んで本当に良かったと思います。
何をどう言葉にしていいのかわからないので、一言でまとめさせていただきます。
フランとレミリアがちゃんと答えを出せて、よかった・・・。
両者の想い・葛藤が丁寧に書かれており、読んでいてどちらにも共感させられました。
読み応えのある良作でした。ありがとうございました。
でもまあ話良かったし、何よりどっぷりハマれたので良かったです。
自分は好みのssでしたのでこの点数で
戦争の悲惨さを知らないからなんだろうな。
実際見たことがなくても小説や漫画でもいいから
一度でも戦争の悲惨さを想像したことがあるかないかで
フランの抱いた感情に対する距離が決まる気がする。
結局、殺されたくないから殺すんだよね。
レミリアの至った結論の方が至極納得できるものだった。
まあフランの考え方も戦争ではなく単なる事件としての殺人なら
真っ当で支持者も多そうだけど。
例えば法治国家で殺人を行って捕まった犯人を死刑にするのかどうかとか。
前提とする状況が変われば結論も変わるのは当たり前のこと。
結果として見るとただレミリアは生まれた時代に運がなかっただけで
時代が違えばすごく優しい女の子になっていたはずだな。
感想ありがとうございます。返信するべきか考えましたが、することにいたしました。
非常に鋭いご感想だと思います。『戦争ではなく単なる事件としての殺人~』という点については、私もそれについて考えながら書いておりました。戦争で敵国の人間を殺すのと、平時において人を殺すのは全く違うことです。そして、妹様の考えは、妹様の生きた時代、すなわち、幻想郷での生活に適したものでした。この点において、妹様の論とお嬢様の論は別のステージにあると思えます。
さて、ここからは、全く別の次元の話になるのですが、どうも人間というのは古来より、戦場においては人に殺されることよりも、人を殺すことのほうがずっとストレスを強く感じる生き物のようです。殺すくらいなら、殺されるほうがマシ(真実のところを言えば、両方とも御免なんでしょうが)と感じる生き物らしいのです。これは、『戦争における「人殺し」の心理学』(デーヴ・グロスマン著)という本を読んでいただければ、よくおわかりになると思います。戦場で人を殺すのは、ただ単に自分が殺されるのが嫌だからだけではなく(もちろんその要素もありますが)、仲間の期待や上司からの命令など、非常に複雑な理由によるもののようです。人間とは、根本的に殺人を嫌う生き物なのです。
ですから、たとえ戦争だとしても、妹様の考えが本当に間違いだとは私には思えないのです。平和を希求する意志は、人間の最後の救いだと思っております(そして、このSSでも、本文でしつこく出てくるようにお嬢様と妹様は『人間』として書かれております)。妹様のような考え方も、人間が人間としてあるために、絶対に不可欠なものなのだと考えております。
一方、お嬢様は紅魔館の司令官でした。まずお嬢様が紅魔館を守らなければ、誰も紅魔館を守る者はいないのです。『生まれた時代に運がなかっただけ』と御指摘されている通り、お嬢様はこの意味で不幸でした。お嬢様は本当に自分の意志で人を殺さなければならなかったわけです。これは、人間であることを奪われる、と言っても過言ではないかもしれません。そして、世界とは、人間をやめた人間を必要とするものなのでしょう。
このSSは、人間であることを奪われてしまったお嬢様を、妹様が救済できるか、あるいは、いかに救済するか、という物語でもあります。そのために、妹様は自分の考え(さらに言えば生き方)を否としてでも、お嬢様を選ぶことができるのか――そういう物語だと考えております。
『レミリアの至った結論の方が至極納得できるものだった』というご意見ですが、私もそう思います。いざ、私も戦場に身を置くなら、自分の意志で人を殺せる人間でありたいと思っております。ですが、妹様のような考え方も、一つの真理だとも思っております。本来、もっと妹様の論を支持するための文章を書かなければならなかったのですが、当時の私では、明らかに実力不足でした。今後も精進したいと考えております。
以上、長文失礼いたしました。このような長いSSを読んでいただき、感想を書いてくださったことに、重ね重ねお礼申し上げます。ありがとうございました。
親族郎党皆殺しをしないと安心が出来ないっていうのは仕方ないですけどやはり何処かやるせないですね、その後子供が成長したときのことを考えると正しいと分かっていても。
途中本当の戦いを知らなくて綺麗事を言うフランちゃんにやきもきしてたり
素晴らしい作品でした
でも、面白かった。それ以上に、レスの考察が面白い。
違和感もあった。
500年も殺戮を続けても、未だに割り切りをつけられていないのは、
妖怪の成長が寿命に比例して遅いからなのか、
成長を制限された妹がそばにいたから影響を受けたのか。考察を聞きたい。
レミリアの年齢と業績を考えると、その若さには疑問だ。
でも、安心のベタな展開と安易な幻想郷賛美に行かなかったので
個人的に大満足。
ご感想ありがとうございます。稚拙ですが、考察を述べさせていただきます。
『500年も殺戮を続けても、未だに割り切りをつけられていない』というのは、当時の私も考えていたことでした。さすがのお嬢様も500年間を殺戮を行えば慣れるのではないか、と。このようにくどくどと考える必要はあったのかと思いました。
前の方へのレスにも述べさせていただいておりますが、今回の事件はとても『特殊』だということを考えております。つまり、この事件は『お嬢様が妹様の前で初めて人を殺そうとした事件』なわけです。最初に妹様が部屋に入ってこなければ、恐らく妹様に知られないようにひっそりと特に問題もなく終わっていたように思われます。暗殺者を拷問して村の場所を特定し、紫から攻撃への処罰がないことを確認し、恐らく二晩ほどで村を全滅させていたと思われます。『本来』であれば、お嬢様はこのようにいつも通りに殺戮を行えたのでしょうが、今回は妹様というあまりにも純粋無垢な『邪魔者』が出てきてしまいました。このお嬢様は殺人狂ではありませんし、人間の感情を読みとるだけの優しさをもっています。普段は出てこなくても心のどこかで抱え続けてきた重すぎる罪悪感が、妹様と向き合うことで噴出し、また、妹様に嫌われるのではないかという恐怖もあって、それらのマイナスの感情が増幅されたのだとして、このお嬢様でもよい、と考え、このSSを書き終わった次第であります。
また、「妖怪の成長が寿命に比例して遅い」というご意見ですが、私のなかで、妖怪はとても純粋な感情の持ち主だというイメージがありまして、それも関係していると思います。神主が「幻想郷はとてもさっぱりしている」とおっしゃっているように、妖怪もまた自分の気持ちに対してさっぱりしており、自分のなかの悪いものも良い物も両方受け入れるという、そのような潔さをもっているんじゃないかな、とも考えております。
最近の私としましては、『戦争における人殺しの心理学』という本に影響を受けておりまして、そもそも「人間が人殺しに慣れるということがあるのか?」とも考えております。
戦争というものは、どうやら普段の我々が考えている以上にストレスを感じるものでありまして、恐らくお嬢様も相当なストレスを感じながら、500年を戦い続けていたと思われます。
『戦争における人殺しの心理学』では、実際に戦場で敵と呼ばれる人間と向かい合い、彼らを殺した人々の話が記載されております。自分を殺そうとする敵の表情、彼を殺した瞬間のその表情――そういった憎悪と罪悪感の記憶は、何十年経っても忘れることができないようです。お嬢様は今回も村を全滅させるときに、そういう恐ろしく耐えがたいものを見、心に刻みながら戦っております。そして、きっとこのお嬢様は、そういったものも自分の罪として決して忘れようとはしないでしょう……
まだSSに出来ていませんが、私の書くお嬢様は、同族の吸血鬼とも戦争で殺し合ってますし、もちろん人間も大量に殺しています。ただ殺すだけでなく、手にかけた相手の最期を看取ったり、元は味方でともに戦った者を敵に回し、殺したこともあります。お嬢様はこれらで戦争というものの悲惨さを嫌というほど感じております。それでも君主として、領民を守らなければならず、自分の精神を疲弊しながら生きているというキャラです。それを支え、一時でも戦争を忘れさせてくれていたのが、無知にして心優しい妹様だったのですね。
果たして『人は殺人に慣れることはあるのか』という問題ですが、私は戦場で人を殺したことはありませんし(そ戦場以外でも人を殺したことはありませんが)、私の経験ではわからないところです。学問としてもまだ研究を続けていく必要のある分野だと思います。個人差も大きいと考えられます。成長した環境が大きな要因になるのはもちろん、生まれもった性質というのも無視できないでしょう。人類が戦争や闘争というものを見つめていくのに、これらの研究は大きな足掛かりになると感じております。
以上が考察であります。妹様の心理描写がクドイのはそれだけ彼女が動揺していた証拠だとお考えください。あまりに驚き過ぎて、ぐるぐる同じことばかり考えていてしまったのだと。当時の私も、今の私も、これ以上短縮したものを書けるか、微妙なところであります……己の実力不足も含め、よく考えていきたいと思っております。
長々とレス失礼しました。ご感想ありがとうございました。少しでも楽しめていただけたのならば、幸いに思っております。