今日の青空は、いつも以上に高く突き抜けているような気がした。
私は庭に面した障子を全て開け放ち、部屋に光と新鮮な風を引き入れる。空気の淀んだ部屋が、息を吹き返したように明るく照らし出されていった。
生来体の強くない私は、寒い日が続けばどうしても中にこもりがちになってしまう。冬の間は、もはや数えるくらいしか屋敷の外に出ることはない。
だから、今日のように気候が穏やかで暖かな日は、それを自然からの贈り物としてめいっぱい享受することにしているのだった。
くるりと外を振り返ると、どこからともなくうぐいすの鳴き声が聞こえてくる。春告げ鳥の別名を持つ鳥だ。
その音色に誘われるようにして、私は縁側に腰掛けた。庭先を見回して声の主を探してみたが、残念ながら見当たらない。
さえずる姿は見えないけれど、高らかに春を歌い上げているだろうことは、その透き通るような音色からよく分かった。ならば、強いて探すこともない。恥ずかしがり屋のうぐいすさん、ということにしておこう。
肩越しに、風が静やかに通り過ぎてゆく。
庭に桜の木は植えられていないけれど、この風には、春の――桜の香りが微かに乗せられていた。
数日前から、そこここの桜が開花したという話を聞いている。あと幾日かすれば、満開の桜を楽しむことが出来るのだろう。
季節は、ようやく春を迎えたのだ。
日差しが柔らかく降り注ぐ、うららかな昼下がり。
そんなゆったりとした陽気に抱かれていると、時の流れさえも停滞してしまったように錯覚してしまう。
けれど、時が歩みを止めることなど決してなくて。
雲は風にたゆたって消え。お日様は青空を西へと傾き始め。そして――私は刻一刻と老いてゆく。
こんなにものどかな日なのに――いや、のどかな日だからこそ、私は、ぼんやりと考えてしまうことがあった。
――いつか逝く時も、このような穏やかな日であって欲しい、と。
それは、本来ならば私のような年端の行かぬ子供が考えることでは決してない。
けれど私は――御阿礼の子は、三十まで生きることは叶わない。転生の術の準備期間も差し引けば、私に残された時間はさらに少なくなる。つまり私は既に、人生の折り返し地点に差し掛かっているのだった。
御阿礼の子として生を受けた私は、幻想郷縁起の編纂を生涯の仕事とする。
その務めにひと区切りをつけた私は、御阿礼の子としての責務は既に果たしたと言えるだろう。
つまり、やや僻んだ言い方をすれば、私は今まさに“余生”を送っているのだ。齢わずか、十と少しにして。
もちろん私は、これからも本の編纂を続けるつもりでいる。この生が続く限り。
それは私に託された使命であると同時に、逃れられない宿命でもある。
幻想郷縁起を書き記してゆく過程は充実したもので、私はこの運命に縛られているなどと思ったことは一度たりともない。それは、本当のことだった。
ただ、それでも。
時には全てを忘れ、こうやって風に身を任せていたい。心に浮かんでは消えてゆくとりとめのないことに、ぼんやりと思いを巡らせていたい時もあるのだった。
今日はきっと、もう幻想郷縁起の執筆は手に付かないだろう。
ならば何処ぞの巫女のように、お茶を口にしながら日がな一日縁側でひなたぼっこをして過ごすのも悪くはない。
そう思い、紅茶でも淹れようと立ち上がった時に。
――ふと。
私は、風の流れが変わるのを感じ取った。あらためて庭の方へと向き直る。
優しく頬を撫でてくれるようなそよ風から、かすかに荒々しさを孕んだような風へ。
それは、どこか人為的なものを感じさせるような風だった。
何だろう、と思ったのと同時に、その答えが目の前に舞い降りて来る。
ざ、と地面を踏みしめる音。
一本歯の下駄のような履き物で、器用に庭に降り立ったのは。
「こんにちは、阿求さん」
烏天狗の新聞記者、射命丸文さんだった。
彼女は妖怪の山に住まう天狗でありながら、こうして里に顔を出すことも多い。
「こんにちは、文さん」
「空を飛んでいたら、縁側にいる貴方がたまたま目に入ったもので、ね」
そう言うと彼女は、正面から入って来なかった非礼を詫びた。とは言え、玄関に妖怪が現れても使用人たちを怖がらせるだけだろうから、結果的にはこれでも構わない。もっとも、今のこの場面を目撃されたらそれはそれで驚かれるだろうが。
見たところ、今日の文さんは号外を配りに来たのではないようだ。号外であればわざわざ挨拶などせずに勝手に屋敷に投げ込んで来るから、違いはすぐに分かる。
「今日はどのようなご用向きで?」
彼女の手には、いつものように手帖が携えられていた。
ならば、私に対する取材かな、などと考えてみる。幻想郷縁起こぼれ話、とか、御阿礼の子の私生活に迫る! とか。我ながら発想がゴシップ誌じみているが、ネタ好きな彼女がほじくり返しそうな題材ならいくらでもある。
私はちょっとだけ、わくわくした。
「今日は、幻想郷縁起の閲覧に伺いました」
割と普通でちょっとがっかりした。
積み上げられた、幾冊にも渡る幻想郷縁起。文さんは縁側に腰掛けながらページを捲っている。
私は紅茶を出し、彼女の隣りに座った。
文さんは時折紅茶を口にしながら、リラックスした表情で私の書いた記事に目を通している。調べものに来たと言うよりは、ゆったりとした午後を過ごすネタとして、幻想郷縁起を選んだといった様子だった。
「新聞記者が、こんなにのんびりとしていていいのですか?」
私は単純な好奇心から、そう訊いてみた。
私の知る限り、彼女はあちこちを飛び回ってはネタを集めるか号外を配っているかしているイメージが強い。だからこうして、腰を落ち着けて文章を読みふけっている姿は新鮮に感じられた。
春の日差しを浴びて書物に没頭する様子は理知的ですらあり、その横顔は、どこか文学少女を彷彿とさせるような雰囲気を纏っていた。
「こういう穏やかな日には、ネタはなかなか落ちていないものですからね。
それなら、こうやって書物に目を通して今後の取材の方針でも検討していた方が有益なんですよ」
「へぇ……」
我が稗田の屋敷には、幻想郷に関する様々な資料が所蔵されている。文章を書くことを生業とする彼女とすれば、こうした文献調査的なことも欠かせないのだろう。記事の内容はともかく、彼女のそういった態度には好感が持てる。
「それに、どうせ本格的な桜の時期になれば、やれ花見だ宴会だと騒ぎ出す輩が出て来ますからね。それまでは小休止なんですよ」
「ああ、例えば何処ぞの神社に妖怪が集まったりとかですか」
「そうそう、何処ぞの能天気巫女がいる神社に」
私たちは恐らく同じ顔を想像して、笑い合った。もしかしたら、縁側でお茶を啜っている様子まで一致しているかも知れない。当人は今頃くしゃみでもしていることだろう。
「阿求さんも、こんなところで日向ぼっこしていて、幻想郷縁起の執筆を続けなくていいのですか?」
「こんなにものどかな日ですからね。今日はお休みです。
それに、こうして誰かとお話することも、幻想郷縁起をより面白くするためには大事なことですから。
部屋にこもってばかりでは良いものは書けません」
「新聞記者なんて、まさにそうですね。取材をしなければ記事なんてひと文字も書けやしません」
また、私たちはくすくすと笑い合った。今日みたいな穏やかな日は、控えめな笑いがよく似合う。
そして私は、心の中でもうひとつ、それに、を付け加える。
――それに、私が次に生まれ変わっても、貴方は今と同じままで生きている。だから私は、転生後の自分のために、色んな方々と繋がりを作っておきたいんです――。
けれどそれは、口には出したくないことだった。
声に出してしまうと、切なさが余計に胸に募ってしまう気がしたから。
「幸い、今の幻想郷には色んな妖怪や人間がいますからね。出歩けば大体どこかで何かが起きていますから、新聞のネタには困りません」
「そうですね、本当、今の幻想郷には色んな方々がいますよね」
またもう一つ、小さな笑い。
そう、色んな人間が、色んな妖怪がいるからこそ、私はそれを楽しく思いながら幻想郷縁起を纏めることが出来る。
文さんも色んな人間や妖怪のことを記事にして、絶えず好奇心を満たしているのだろう。
形は違えど、私たちはお互い、幻想郷に生きる者についてを書き記す身。通じ合う部分は多いと思うのだ。
「もし、本のどこかにおかしな記述でもあれば、遠慮なくご指摘下さい」
「分かりました」
文さんは常に、ネタを求めて幻想郷の隅から隅までを飛び回っている。ならば彼女の中には、幻想郷に関する知見が多岐にわたって蓄積されていることだろう。
もちろん、私も可能な限り自らの足で調べて回ってはいる。けれど 肉体的に普通の人間以下である私にはどうしても限界がある。
彼女のフットワークの軽さと行動範囲の広さは、人間の私にはうらやましい限りだった。
だから、文さんは幻想郷縁起の内容の校閲をお願い出来る数少ない相手なのだった。
「でも、取り立てて変なところもありませんし、よくまとまっていると思います」
「……ありがとうございます」
彼女は冊子をぱたりと閉じると、ふう、と一息つく。
「ところで阿求さん」
「何でしょうか」
「先ほどから私の方ばかりを見ていますが、やっぱり気になるものですか? 読まれるのが」
「もちろんですよ。これは私が書いたものですから、言わば私の子供も同然なんです。
自分で書いたものが他の人にどう思われるか、気にならない人はいませんよ」
私にしては珍しく、やや強い語調だったのだろう。文さんがちょっと驚いたように目を丸くしていた。
思わずありのままの内面を吐露してしまい、私は自分が恥ずかしくなった。
「……すみません。勝手に熱くなって」
「でも、それもそうですね。私も、同じです」
「……ですよね」
「私だって、配った号外の感想を聞いて回ったこともありますからね」
「へぇ……」
それは、彼女の意外な一面だった。
いつも好き勝手に号外をばら撒いては去っていくものだから、彼女は自らの記事をあまり省みないものと思っていた。
けれど、そんなはずはない。あの沢山の号外だって、誰かに読んで貰い、心に留めて欲しいからこそ配っているのだろう。
さっきは余計なことを口走ってしまったと思ったけれど、結果として文さんのちょっとした内面をうかがい知ることが出来て良かったと思う。
こんな話は、ものを書くことを生業とする文さんだからこそ、出来ることなのだった。
「ま、その感想もはかばかしいものではなかったんですけどね」
「あら、まあ」
「聞いた相手が何処ぞの能天気巫女だったのが良くなかったんですよねぇ」
「それは仕方がないですね」
私たちは、小鳥がさえずるように小さくくすくすと笑い合った。今度あの巫女に会うことがあったら、謝っておこうと思う。
子供の内緒話のような笑いが収まると、文さんは平積みしてあった幻想郷縁起にあらためて手を伸ばす。
今日一日で全てに目を通すことは不可能だろうけれど、こうして少しずつ読み進めてくれれば、いつかは最後の一冊まで辿り着くだろう。
と、その時。
文さんが手に取った冊子から、折りたたまれた紙がばさりと床に落ちた。恐らく、ページの間に挟まっていたものだろう。
「おっと失礼」
文さんがそれを取り上げ、何だろうというように紙を広げていく。
これは……、
「私の記事ですね」
「私の記事ですね」
声が重なった。私たちは思わず顔を見合わせ、またくすりと笑った。
「確かに、これは貴方の記事ですね」
「そうですね、貴方の記事でもあります」
これは、昔の文々。新聞の記事。文さんが、私が生まれた時のことを記事にしたものだった。未解決資料として挟んでおいたものだ。
文字通り、文さんの記事であり、私の記事でもある。
「また、随分と懐かしい記事ですねこれは」
「記念に取っておいたものです」
文さんは懐かしむようにして、自身の書いた記事を眺めている。
記事になった自分を見られているというのも、不思議なこそばゆさがあった。
「この記事を書いてから、もう十年以上も経っているんですねぇ」
「ええ……」
十年。
文さんは別に、何かの意図があってその言葉を口にしたわけではないと思う。
けれど十年という月日は、たとえ彼女にとっては何でもない時間であっても、私にとっては人生を半周もしてしまうほどの年月なのだ。
妖怪が戯れに過ごすだけの間に、私は生まれ、そして死んでゆく。恐らく、私の訃報も彼女の手によって書かれてしまうのだろう。それが、決して遠い未来のことではないことが、私には辛かった。
――それでも、と思い直す。
それでも、私に残された希望は確かに存在して。
妖怪である彼女は、私が転生を続けても、今と変わらぬ姿で生きていることと。
そして、次なる私が生誕した時も、それを記事にしてくれるだろうことだった。今の私――阿求が生まれた時と同じように。
「……阿求さん」
「あ……」
気が付くと、文さんの顔が目の前にあった。その赤い瞳に、私の姿が小さく映り込む。
いつしか私は、すがるようなまなざしで彼女のことを見つめていたのかも知れない。
口に出さなかったとは言え、一方的に彼女に頼ろうとしていたことが恥ずかしかった。
文さんはふいと私から視線を外すと、遠い目をして澄み渡った青空を見上げた。
「私にとっては、十年なんて大した歳月ではありません」
独り言のように、文さんがつぶやく。これはきっと、あえて独り言のかたちを取ってくれているのだろう。
ならば、私もそれに合わせるべきだった。私は文さんにならって、遠くの青空を仰ぎ見る。
本当、今日は良く晴れていると思った。
「私はもう、長いこと記者をやっていますが、この好奇心が尽きない限り、いつまでも新聞記者をやっていますよ。たとえ何百年でも何千年でも」
彼女はそこで一息つけると、カップを手に取り、残っていた紅茶を飲み干す。
「何せこの幻想郷には、この紅茶のように美味しいネタが溢れていますから、ね」
最後の「ね」を言う時だけは、同意を求めるように私の方を向いていた。
可愛らしく、そして楽しそうな笑顔だった。
彼女が私の瞳から何を読み取ったのか。それは分からない。
けれど彼女の言葉は、私をより前向きに生きさせるには十分過ぎる力を持っていた。
そして、私も彼女と同じだった。
たとえ、幻想郷縁起が本来の役割を失いつつあっても。
私――阿一から遠い未来まで連綿と続く私は、決して幻想郷縁起の編纂をやめないであろう。
この幻想郷には、記録に残したくなる――残さないではいられないような人やものが、満ち満ちているのだから。
「文さん」
「なんでしょうか」
「ありがとうございます」
「うん、何がですか?」
うやうやしく頭を下げる私に対し、文さんはそ知らぬ顔をして見事にすっとぼけてくれた。
それなら、私もそれに乗っかっておく。
「紅茶を美味しいと言って下さって、ですよ」
「ああ、貴方の淹れる紅茶は格別ですね。今度、お茶会でも催されたらいかがですか?」
「それも良いかも知れませんね。貴方の新聞のネタにもなりそうですし」
「ばれましたか」
舌をちょこんと出して、彼女は悪びれもせずに笑った。
「それはともかく、どうです? 二杯目はいかがですか?」
「あらあら、すみませんね。何だか催促してしまったみたいで」
「いえいえ、構いませんよ」
「それでは、もう一杯頂いていきます」
淹れた紅茶を美味しく味わってくれることは、私にとって最上の喜びだった。
それこそ、完成した幻想郷縁起を読んでくれることと同じくらいに。
「じゃあ、幻想郷縁起の続きを読み進めることにしますか」
「どうぞどうぞ、穴が開くほど見てやって下さい」
「この際だから、とことんダメ出ししちゃいましょうかしらね」
「ふふ、お手柔らかに」
いたずらっぽく笑い掛ける彼女に、私は余裕の笑みを返してやった。
私は二杯目の紅茶を淹れるために、立ち上がる。文さんは既に、次の冊子を開いて読み始めていた。
青空を見上げると、日はまだ高いところに輝いている。
こんなにも穏やかな春の陽気なのだから、日が暮れるまで、文さんと一緒に楽しもうと思った。
「まず、私の項にある『可愛い文字を書く』っていう注釈、消してくれません? 恥ずかしいのですが」
「いいじゃないですか、事実なんですから」
「と言うか何で私の筆跡を知ってるんですかね。私の手帖を覗き見でもしたんですか?」
「秘密です」
たとえ生まれ変わって、今の私の記憶をほとんど失ったとしても。
こんな隅っこの小さな注釈から、彼女との親交の跡を感じ取ることが出来ればな、と。
そのくらいの遊び心は許されてもいいと、私は思うのだった。
談笑する光景は笑みを誘うものもありました。
阿求の最後の語りが、彼女が生きた証と様々な人物との親交を
表していてとても良かったです。
良いお話でした。
良い光景をありがとございました
同じ物書き同士、通じるものがあるんでしょうね。