小春日和の空の下、妖怪の子が飛んでいる。
二つの尻尾を揺らして、ご機嫌な様子である。
「ふん、ふん、ふふ~ん♪」
大きな猫耳に金のピアス、緑の帽子に赤い服。
鼻歌を歌いながらスキップするように飛んでいるのは、八雲の式の式、橙だった。
向かう先は、八雲の実家である。
「ふんふふんふ~ん♪ 藍様、喜んでくれるかな~」
彼女がご機嫌なのは、里の猫達との関係が、だんだんと良くなっているからであった。
前は呼んでもついてきてくれないどころか、露骨に橙を見下していた猫達。
それが今では、向うから橙を探しに来るほどの仲となったのである。
もちろんまだ、反抗的なのはいっぱいいるけど、去年の橙から比べれば、格段の進歩だった。
これはぜひとも主に報告して、成長を褒めてもらいたい、という考えであった。
やがて、行く手に、八雲紫のお屋敷が見えてきた。
もう庭の雪はすっかりとけており、ぽつぽつと見え始めた草花が、春の訪れを感じさせる。
橙はいつものように、その庭に降り立たった。
「ら~ん様!」
主の名を呼びながら、式は縁側に駆け上がる。
「お帰り橙」
不意をつく錆びた重々しい声。
ひげ面の荒武者が、居間にどっかと座っていた。
「誰ぇえええええ!!?」
橙は急ブレーキをかけて、大きく後ろにのけぞりながら悲鳴をあげた。
顎を覆う無精髭、毛むくじゃらの太い腕。筋肉質の体を覆うのは、ぼろぼろの布服。黒いざんばら髪の下では、ぎょろりと目玉が光っている。
出迎えてくれた存在は、橙にとって、予想外すぎる人物だった。
その男臭さだけで、博麗大結界に弾き返されそうなほどなのに、どうしてこの家にいるのだろう。
「あ、あ、貴方は一体」
「俺か」
そこで男は、口元を歪めて、大鉈のような笑みを浮かべた。
「俺はお前の家族だ」
「か、家族ー!?」
家族。
つまり、このむさ苦しいオジさんも、八雲一家。
初耳すぎて、橙の頭脳は大混乱を起こす。
荒武者風の男は、その様子を見て、おかしそうに目を細めながら、なおもふてぶてしい声で続ける。
「信じられぬか、橙」
「し、信じられないよ!」
「本当に信じられぬか」
「うん!」
「どうしてもか」
「う……うん!」
「ふふふ、これでも?」
そこで、ぼわん、と男の周囲に煙が上がる。
煙幕が消えた後には、丸みを帯びた女性的な体が現れる。
帽子をかぶせた大きな狐耳、九本のふかふか尻尾。
「ら、藍様!」
「驚かせて悪かったね、橙」
くすりと笑うその妖怪は、橙の主である、八雲藍だった。
「藍様、今のオジさんは!?」
「私の変身術。まあ軽い手品みたいなものね」
「ぜ、全然気がつきませんでした」
「本当に気がつかなかった?」
「はい! すごいです藍様!」
はしゃいで褒め称える式の様子に、藍は微笑を返す。
「そうだ、橙も覚えてみない?」
「え?」
「だから、橙も変身術をやってみたくない?」
「お、教えてくれるんですか!?」
主が首肯するのを見て、橙は瞳を輝かせ、鼻息を荒くした。
「やりたい、やりたい、やりたいです!! 変身術、教えてください、藍様!」
「ふふふ。じゃあまずは、印の結びを教えるから」
「お願いします!」
橙は張り切り声で返事する。里の猫達の土産話も、すでに頭から飛んでいた。
藍は、変身術の印と真言を、一つ一つ丁寧に教えてくれた。
「あとは、変身したいものを想像するだけ。イメージが大切だよ。じゃあ、やってごらん」
「はい!」
橙は印を結んで、真言を唱えはじめた。
目を閉じて、なりたいものの姿形を想像する。だが、うんうん、と唸るものの、なかなか上手くいかない。
「ほれ」
とそこで、ぺたん、と背中に何かが貼られた。
橙の中で、散り散りになっていた妖力が、一定の流れへと向かう。
「藍様?」
「補助の御札よ。もう一度やってみなさい」
「わかりました!」
再度、橙は挑戦する。
今度は先ほどと違い、体内でスムーズに妖力が練られていくために、イメージに集中することができた。
やがて、ぼわん、と煙が体を包む。
橙はついに変身する感触を手に入れた。
「藍様、藍様! どうですか!?」
「ふふふ、奥の鏡台で確認してみなさい」
「はい!」
橙はわくわくしながら廊下を走り、洗面所の鏡の前に立った。
「あれ?」
金色の髪に、同じ色の大きな耳。
橙が変身したのは、主の藍の姿だったはずだった。
が、鏡に映っている藍は、妙に小さかった。
というか、顔はむしろ橙だったし、金の尻尾も二本しかなかった。
つまるところ、藍に変身したというよりも、藍の格好をした橙に見えた。
「あれれ、もっと上手くいくと思ったのに……」
「初めてでそれなら、まあまあかな」
「う~ん、藍様の尻尾は、九本もあるから難しいです」
「ふふふ、そうだね」
藍は橙に触られた尾の一つを、くすぐったそうに揺らす。
「そうだ、橙。主にも見せてあげたらどう?」
「え、紫様にですか?」
「そう」
「………………」
「あれ? どうしたの」
「いえ……じゃあ行きましょう」
二人は奥の寝室へと向かった。
橙の主の主にあたる八雲紫は、昼夜逆転の生活を送るスキマ妖怪。
お昼過ぎのこの時間は、当然のことながら、まだ就寝中であった。
広い畳部屋の中央に、白地に紫柄の布団が敷かれている。橙はそれに、そっと近づいた。
「……紫様~」
藍の姿のまま、恐る恐る、寝ているスキマ妖怪に声をかける。
だが紫は、すやすやと眠ったままだった。
軽く揺すってみても、寝がえり一つうたない。
「やっぱり、起きませんね。」
「そうだね」
藍と二人で、紫の寝顔を囲む。
しばらくそうやって見つめていると、無意識に、橙の口から軽いため息が漏れた。
世には、人間離れした美しさ、という言い回しがある。人の身で到達できる尺度を超えた、妖怪のように美しい、という表現だ。
しかし、主の主の八雲紫はむしろ、『妖怪』離れした美しさを持っていた。
粉雪のように白くきめ細かい肌、一番星を溶かしたような艶のある髪。
目鼻と口は、完璧な造形美を保っており、大人びた妖艶な魅力と少女のあどけなさが、一つの体に同居している。
それらが調和しながらも、時に混ざりあいながら一方の姿を見せるために、謎めいた魅力が匂いたち、見ているものを引き込むのだ。
「やっぱり、紫様って綺麗ですね」
「………………」
「あ、もちろん藍様もですよ!」
「ふふ、ありがとう橙」
でも橙にとって、二人の美しさの質はまるで違った。
主の藍も凄い美人ではあるが、近寄りがたい雰囲気はない。
彼女にはお日様が似合う。藍の笑顔は橙にとって、日向ぼっこのような魅力があるのだ。
しかし、紫には夜が似合った。彼女の微笑は、天体を取り巻く常闇のようである。その深さは、猫の好奇心さえも、警戒心へと変えてしまう。
妖怪であり、式の式である橙ですらそう感じるのだから、普通の人間が見れば、もっと恐ろしく感じるだろう。
つまるところ、八雲紫は怖いくらい美しいのであった。
それに第一、妖怪だろうと人間だろうと、本能的に自分より強い相手は警戒するものである。主の藍はともかくとして、紫の実力はありえないほど高い。橙が手放しで近づける相手ではなかった。
そこで藍が聞いてくる。
「橙は、紫様が怖い?」
「そ、そんなことないですよ」
「嘘はいけないよ」
「あう……実は……ほんの少し。でも、紫様には言わないでくださいね」
橙は声をひそめて言う。
とはいえ、そんな異次元の美しさと強さもつスキマ妖怪ではあったが、寝ている姿は、それほど怖くは見えなかった。
すやすやと可愛い寝息を立てている。橙はもっと強烈な寝相を予想していたのだが。
「気持ちよさそうですね、紫様」
「橙。ちょっと悪戯してみようか。顔に落書きとか」
「え、ええ!?」
藍が懐から取り出したサインペンを見て、橙は吃驚した。
「そんなことしていいんですか!?」
「だって、私はよくやられているし。紫様だって、たまには仕返しを受けるべきだ。はい」
「わ、私が書くんですか!?」
「橙ならきっと、紫様も大目に見てくれるだろう」
「そんなぁ……」
橙はしぶしぶ、主からサインペンを受け取った。
キャップを開いてから、うーん、と眉根をよせて考える。
ペン先はしばらく、寝ている紫の顔の上を、ふらふらとさ迷った。
「藍様~。何を書いていいのか、思いつきませんよ~」
「そうね。普段から考えていることにすればいい」
「普段から考えていること?」
「ババァとか」
「ええ!? そんなこと考えてませんよ私!」
橙はまたも仰天して振り向き、否定した。
「もー、藍様。ひどいですよ、そんなこと言うなんて。取り消してください」
「あれ、橙が怒っている」
「怒りますよそれは。紫様だって傷つくと思います」
「ははは、そうか、ごめんごめん。でもそれくらいじゃなくては、紫様も驚いてはくれないだろう」
「そうですかね~……」
じゃあ、と橙は、紫の顔に書いていく。
大きく、バランスの崩れた字体で、
『オバさん』と。
「ほほう、やるね橙。これはババァよりも効くかもしれない」
「ら、藍様が言うから」
「ははは、大丈夫、大丈夫。私ならともかく、橙はきっと怒られないから」
「本当かな……」
紫の眠りは深いようで、これだけ騒いでいても、起きる様子が無かった。
見目麗しいその寝顔は、オバさんの四文字で台無しである。
藍はそれを満足げに見下ろしながら、
「さて、そろそろ夕飯の支度でもするか。今日はここで食べていくんでしょう、橙?」
「あ、はい。でも藍様。ちょっと遊びに行ってきていいですか」
「お友達に、変身術を見せに行くんだね?」
「正解です! いいですよね?」
「もちろん。じゃあ、夕飯までには帰るのよ」
「はい! あ……、紫様が怒ったら、藍様助けてくれますよね?」
「ふふふ、大丈夫だと思うけどね。それじゃあ行ってらっしゃい」
「行ってきまーす!」
橙はサインペンを返して、あっという間に、屋敷を飛び出していく。
その姿を見送る藍は、うすい笑みを浮かべながら、小さく手を振った。
○○○
夕焼けの空の下、妖怪の子が飛んでいる。
二つの尻尾を振り回して、ステップを踏むように。
「ふん、ふん、ふ~ん♪」
橙は友達とたっぷり遊んで、帰宅するところであった。。
彼女の機嫌は、昼間よりも増していた。変身術をみんなに披露してあげたら、予想以上に驚き、喜んでくれたのだ。
妖精の姿になってみたり、大天狗の姿になってみたりして。
だけど、レティの姿に変身して、チルノが本物だと思って泣き出した時は焦った。
橙は慌てて謝ったが、春にいなくなってしまった冬妖怪の姿が見れて、チルノは少し嬉しそうだった。
今の橙は、もう元の姿に戻っている。
「ふふ。藍様に報告することが、増えちゃった」
昼間とは異なる色に染まった、八雲のお屋敷が見えてくる。
夕日の差し込む縁側に、主の歩く姿を見つけて、橙は庭に降りた。
「ただいまです! 藍様!」
縁側から、藍はこちらを向く。
「おや、おかえり橙」
「……!?」
その顔を見て、橙は小さく息を呑んだ。
「ら、藍様!」
「ん、どうしたの?」
藍の表情は、お日様が似合う、いつもの笑顔。
だが、その上には、大きくしっかり、『オバさん』と書かれていたのである。
橙はその理由に見当がついた。
紫に悪戯したのがバレて、やっぱり怒られたのだ。それで藍はお仕置きを受けて、あんな顔をしているのだろう。
だけど本当は、書いた自分が受けなきゃいけないはずの罰ではないか。
「ごめんなさい、藍様! 私のせいで」
「えっ、何が?」
「その……昼間のことで」
「昼間?」
藍は落書きのある顔を、きょとんとさせて、首をかしげた。
「ひょっとして、橙は昼間に一度、帰ってきてたの?」
「え?」
予期せぬ問いに、橙は思わず聞き返した。
「ら、藍様。覚えてないんですか?」
「覚えていないって、何を?」
「だからその、昼間に私が帰ってきて……」
「ああ、やっぱりそうだったの。昼寝していて気がつかなかったよ」
「昼寝?」
変だ。
昼寝していたのは、紫の方じゃなかったか。
ざわ、と嫌な予感が走った。
「で、でも、私に変身術を教えてくれた時は、起きてましたよね!?」
「変身術? 橙は変身術ができるようになったの?」
「い、いえ。藍様の御札の力を借りて」
「……変だね。私はずっと昼寝をしていて、その間は紫様が起きていらっしゃったのだけれど」
紫様が起きていた?
橙の嫌な予感はますます膨れ上がった。
よく見れば、藍の顔にある『オバさん』の字は、紫が書いたにしては、下手で子供っぽい筆跡だった。
むしろ自分の、橙の字そっくりである。
そして、藍と話が噛みあわないのも、不思議であった。
――まさか……まさか……まさかまさかまさか!
回り始めた頭が状況を推理し、ある恐ろしい真相へと橙を導く。
自分は、昼寝していた主の主、八雲紫の顔に『オバさん』と書いた。
その行為を執拗に勧めてきたのは、主である八雲藍のはずであった。
その藍は元々、自分が家に帰ってきた時は、むさくるしい荒武者に変身していた。
その荒武者は変身を解き、藍の姿へと戻った。
だから橙は、それが藍だと信じたのであった。
だが、あれが、『藍の姿に戻った』のではなく、新たに『藍の姿に変身した』のだとしたら?
つまり山男から『藍?』へと姿を変えた、そのもともとの正体は…………。
「あら橙、お帰りなさい」
そこに現れた第三の声に、橙の尻尾がはね上がった。
金髪のスキマ妖怪がこちらを見ている。
「どうしたの橙。藍につままれたような顔をして」
「なんだかおかしな表現ですね。確かに私は狐ですけど」
「狐の姿をした式、でしょ」
藍と会話しているその存在は、間違いなく、主の主である八雲紫だった。
だが、彼女が口元に浮かべている、得体の知れない妖しげな笑みは、昼間に会った『藍?』の笑顔と同じであった。
橙はそれで、自分の推理に確信を得る。同時に、顔面が蒼白になった。
「藍、もう晩ご飯の支度はできてるわ。顔でも洗ってしゃっきりしてきなさい。今起きたばかりでしょう」
「ええ、わかりました。それじゃ、橙も行こうか。まだ手を洗ってないでしょ?」
「あ、あの、藍様」
「藍。橙はちょっと、私と話があるから、貴方一人で行ってきなさい」
「はぁ。そうですか。では、お先に」
藍がのんびりした足取りで洗面所へと向かうのを、橙は硬直状態で見送る。
が、その姿が、廊下の奥へ消えたのと同時に、弾かれたように紫の方を向いた。
「ゆっ、ゆっ、ゆっ、紫様!?」
「昼間に教えてあげた変身術、お友達には評判だったかしら?」
「じゃあやっぱり、あの時の藍様は紫様!」
「大正解。ちょっと疲れているようだったから、仕事を変わってあげていたのよ。藍の姿でね」
「そ、それじゃ、昼間に寝ていたのは、紫様じゃなくて、本当は藍様だったんですね!?」
「ええ。でも、まだ起きたばかりで、藍はあの顔に気がついてないわよ。どんな反応か楽しみじゃない?」
「そ、そんな……」
うろたえる橙の耳に、もの凄い音が聞こえてくる。
どどどどどどど、と床を踏み鳴らして近づく、野牛のような足音が。
「紫様ー!!」
廊下の奥から出現したのは、般若の顔をした藍だった。
もちろんその上には、くっきりと『オバさん』と書かれている。
「また私の寝顔に落書きをしましたね!?」
紫はその迫力を受けても、まるで動じない。
対照的に、横の橙は、思いっきりビビって腰を引くが、藍はそちらを見ていなかった。
「おかしいと思ったんです! 珍しく優しいことを言うから、その好意に甘えてみれば! 私がオバさんなら、貴方は何なんですか!」
藍が叫びつつ取り出したのは、小ぶりな墨汁の容器だった。
「もう許しません! 今日こそ借りを返させていただきます! 今宵は春にふさわしく、『幽雅に咲く墨染めの紫』が拝めることでしょう! いざっ!」
「落ち着きなさい藍。それを書いたのは私じゃないわ」
それを聞いて、橙の心臓が、大ジャンプした。
藍はといえば、墨汁を構えたまま、怪訝そうな顔になる。
「何をいってるんですか。私にこんな悪戯するのは紫様だけでしょう」
「誓ってもいいけど、私じゃないわ。だって、筆跡が違うでしょ」
「む……それでは誰の仕業です。教えてください。知っているんでしょう」
「当ててごらんなさい」
「うーむ、幽々子様くらいしか、思い当たりませんね」
「あいにく、今回は関与していないわ」
「かといって、妖夢がそんなことするはずが無いし……」
「白玉楼から離れなさいな」
「しかし、他にこの屋敷にやってくる存在は」
「もっと身近にいるでしょ。今も」
「まさか。何を馬鹿なことを。橙がそんなことするはずがないでしょう」
「……いいえ、藍様」
橙は震える声で、会話に入った。
「私が……書きました……」
叱り声を覚悟して、搾り出すように、罪を告白する。
だがそれを聞いても、藍はかぶりを振って、
「橙。紫様を庇わなくてもいい」
「いいえ、本当に私が書きました」
「………………」
「藍様なら、私の字がわかるでしょう」
そこではじめて、藍は瞠目して、橙の方を向く。
「橙……本当に?」
「……はい」
「橙が……私の顔に……オバさんと……」
藍の手から、ぽとりと墨汁の容器が落ちる。
その顔には怒りは無く、魂が抜けたかのように、ただただ口を半開きにして、呆然としている。
「う……ひっく……」
しかし、その主の瞳の奥では、深い悲しみが揺れ動いているのが分かって、橙は耐え切れずに、しゃっくりをあげて
「……うわーん!! ごめんなさい藍様―!!」
大声をあげて泣き出した。
○○○
曲げた体をわななかせ、顔を赤く腫らし、喉が壊れてしまいそうな勢いで、橙は泣き叫ぶ。
主の主に裏切られ、主の心を裏切ってしまった、式の慟哭。その声は、聞く者の心に訴えかける、切ない響きだった。
しばらくして藍は、静かに橙の元に歩み寄る。
そして、その小さな震える肩を、優しく手で抱き寄せた。
「橙、泣かないで」
「うわーん!!」
橙の号泣はおさまらない。
藍の胸の中で、わんわんと泣き続ける。
その背中を撫でながら、九尾の式は、主の方を見た。
「……紫様」
「な、なにかしら」
スキマの大妖怪は動じない、と見せかけて、わずかに半歩後ずさりする。
その笑顔にも、いつもの余裕がない。
「どういうことか……説明していただけますね?」
藍の目は、怒りに燃えていた。
眼光は触れたものを斬りかねないほど鋭く、尻尾の毛は針山のごとく逆立っている。
ただ事ではない式の様子に、紫は正直に説明をはじめた。
「その……貴方が寝ている間に、私の姿に変身させちゃって、私も貴方の姿に変身して、あとは橙に色々と」
「もういいです。よく分かりました。ではなぜこのようなことをしたか、説明していただきましょうか」
「えーと……主と式の間の仲を深めるため、とか」
紫は人差し指を立てて、ごまかし口調で話す。
藍はそれを睨みつけながら、なおも泣いている橙を、ぎゅっ、と抱きしめた。
確かに、式と式の式の間の絆は強まった。
が、主と式の間のそれは、半ば風化していた。
「紫様、私に悪戯をして楽しむのは、一万歩譲って許しましょう。貴方は私の主ですからね」
最後の部分は、いかにも無念、という思いがある響きだった。
「しかし、わざわざ無垢な橙の手を汚させるという、極悪かつ非道な振る舞い。いくら主といえども、断じて許すことはできません。私は……貴方を軽蔑します」
藍は断固たる口調で、主の行いを非難した。
紫はそれを聞いて、笑みを消し、目を伏せた。
「そうね、正直やりすぎたわ。ごめんなさいね、二人共」
そう謝って、彼女は空間を指で撫でる。
「紫様」
「興がそがれてしまったので、もう寝ることにするわ。貴方達だけで、ご飯を食べて頂戴」
主の姿が、スキマへと消えていく。藍はそれを、黙って見送った。
ふー……と、長いため息がでる。
藍は、まだ泣き喚いている式の背中を、ぽんぽんと叩きながら、
「橙、もう泣かないで」
「でも……藍様が……藍様が……!」
「いいんだ。橙から見れば、私はオバさんだから」
「違います! 藍様はオバさんなんかじゃありません! とっても素敵なお姉さんだって、みんなもそう言ってます!」
「はは。ありが……えっ? みんなも?」
「はい! 私の友だち全員です。もし、藍様だと分かってたら、あんなこと絶対書きませんでした! もっとお星様とかハートマークとか、超美人とか書いてました!」
「そ、そう。それは……いい……のかな」
藍は困った顔をして、首をひねった。
「だから藍様、許してくださいよう……」
「許すもなにも、私は橙に怒ってなんかいないよ」
「ぐすっ……本当に?」
橙は涙でくしゃくしゃになった顔で見上げてくる。
「本当だとも。むしろ嬉しいよ。私のために、そんなに悲しんでくれるなんて。だから、もう泣かないで。ね?」
藍は式の頭を、優しく撫でる。
その顔に笑みが戻っているのを見て、橙は心の底からホッとした様子であった。
「藍様……お腹が空きました」
「うん。顔を洗うから、橙も一緒に手を洗いに行こう。そしてそのあと、一緒に晩ご飯を食べよう」
「……はい!」
「二人でね」
藍は最後の一語を、笑顔のまま強調した。
○○○
その日の夕飯は、八雲家には珍しく、会話が無かった。
食卓には式の姿が二つ。いつもはいるはずの、主の姿は無い。
九尾の式は仏頂面をして、黙々とご飯を口に運んでいる。
不穏な空気に、二尾を持つ式の式も声をかけられず、同様に無言で食べていた。
だがやがて、耐え切れなくなったようで、
「ら、藍様!」
「ん?」
「このつくだ煮、美味しいですね!」
「…………」
「あぅ……」
再び食卓は、お箸が時折たてる、かすかな音だけになる。
しばらく経ってから、橙はもう一度小声で言った。
「紫様、お腹空いてないかな……」
「……………………」
「ご飯を作ったのは紫様なのに……」
「……………………」
「藍様、起こしに行ってあげたら」
「放っておきなさい」
やっと喋った主の口調は、思いのほか冷たかった。
橙はそこで、意を決して訴える。
「藍様。ご飯は作ってくれた人に感謝して食べなさいって、私は藍様に教わりました」
「それはそれ。あの御方には必要ない。この料理だって、橙に私を悪戯させるために作ったんだから」
「でも、どれも美味しいですよ。心がこもっていると思います」
「む……」
「それに、ちょっと驚いたけど、私が紫様の変身術を見破れなかったのにも、責任があると思います」
「あの御方が本気で化けたら、私でさえ気がつかないよ。だから橙に責任はない」
藍はきっぱりと弁護を両断して、味噌汁をすするが、橙はめげずに口を尖らせて、
「きっと紫様、藍様に怒られて、寂しがってますよー」
「自業自得」
「お布団の中で、泣いてるかもしれませんよー」
「実際に、ふて寝しているんだよ。悪戯が上手くいかなくて、ばつが悪いから。まったく、妙なところで子供っぽいんだから」
「それなら、藍様だって子供っぽいと思います」
「橙?」
「あう……ごめんなさい」
藍が一睨みすると、橙はすぐにしおれて折れた。
――まあ、確かに、大人げないか
と 藍は胸中で反省する。ただし、紫に対してではなく、あくまで無言の場を強いてしまった橙に対してだ。
無垢で優しいこの式に手を下させたということで、今度という今度は、藍は紫に幻滅していた。
しかも、その橙自身が紫を庇っていることを思うと、けなげな話に、いよいよ腸が煮えくり返る思いだ。
そこで彼女の式が、その思考を読んだかのように、
「藍様は、私のために怒っているんですよね」
「そうよ」
「だったら……」
「いいや。お前が紫様を許してやるといっても、私は許すつもりはない」
「う……そうですか」
「わずかな謝罪で済まして逃げ出したうえに、布団の中でふて腐れるだけで、許されると思われては困る」
「じゃあ、どうしたら許してあげるんですか?」
「それ相応の報いがなくてはだめだ。そうね。どうせなら、その寝顔に……」
藍の箸が止まった。
「藍様?」
「まさか……」
「どうかしたんですか?」
「いや……だとすれば……」
「もしもーし?」
「…………そうか、そういうことか」
橙が不思議そうに見守る中、藍は袖で口を覆って、くっくっく、と笑う。
そして明るい声で、
「橙。あとで紫様の寝顔に悪戯書きをしに行こう」
「え!?」
主の提案は全くの予想外だったようで、橙は大きく目を見開いた。
「で、でも、怒られますよ。それに、本物の紫様なら、きっと私達に気がつくはずです」
「大丈夫。今の紫様は、何をされてもきっと起きないから。あの御方はわざとそうやって、隙を見せているのよ」
「わざと隙を?」
「そう。橙は紫様に騙されてひどい目にあったし、私も橙に落書きされてしまった。これで紫様が悪戯されれば、皆のわだかまりが消え、全ては丸くおさまる。そうじゃないと、不公平でしょ? きっと紫様は、そうやって私達に解決してほしいと思ってるんだ」
なんとも素直でない反省の仕方ではあるけど。
だが藍は、自分の推理が正解だという自信があった。
「でも、やっぱり気が引けますよ。紫様に悪戯するのは」
「どうして? 橙は紫様が怖いかい?」
「はい、少し……」
と言いかけて、橙はハッと思い出したように、
「藍様。それ、紫様にも聞かれました。姿は藍様でしたけど」
「ふふふ、それはきっと、紫様の本心だよ。もっと橙に、自分に悪戯してしまえるほど、側に近づいてもらいたがっているのさ」
「紫様が……ですか?」
「うん」
藍はうなずいた。
きっと、それこそが主の悪戯の、真の目的だったんだろう。
橙にもっと、自分を怖がらずに接してほしいという願い。だから、藍の姿に変身して橙の本音を聞こうとし、自分の寝顔にわざと悪戯させてみたのだ。
さらにその裏には、変身術を見極められるかどうか、テストするというねらいもあったのかもしれない。
それは紫が、式の式、八雲の一員として、本当に橙を認め、鍛えようとしていることの証明でもあった。
主の藍としては、嬉しくないはずがない。
「それとも、橙は紫様が嫌いになったかい? いやそもそも、元から嫌いだったりとか」
「いいえ! 私は紫様も大好きです」
橙はふるふると首を振ってから、卓の上に身を乗り出して、
「これからは、もっと怖がらずに近づいてみます。藍様にするように、紫様にも!」
「それを聞いたら、紫様もきっと喜ぶと思うよ。手始めに、思いっきり寝顔に落書きしてあげればいい」
「うーんと、じゃあ藍様も一緒に考えてください。だって、藍様は何にもしていなくて、私達に悪戯されただけじゃないですか。それだって不公平です」
「それもそうか。じゃあ一緒に、何を書くか考えよう」
「どんな落書きがいいですかねー」
「ヴァイオレットバーサン、アルティメットズボラー、あるいは豪血寺紫も捨てがたい」
「ちょ、ちょっと藍様! そこまで根に持っていたんですか!?」
「これくらいのこと書かれても、あの方は、こたえはしないよ」
藍はジト目になって愚痴る。
いくら嬉しいとはいえ、だしに使われたのは、毎度の事ながら腹が立つのである。
それにどうせ、自分が慌てふためく姿も見たかったのに違いないのだ。なにしろ、趣味と実益をかねた行動が好きな御方だから。
布団で寝ているスキマの高笑いが聞こえてくるようだ。可愛くないことこのうえない。
「どうせなら、紫様がすっごく驚くのがいいですね」
「うん。でもそれは難問ね」
しかし、藍はあえて、その難問に挑戦するつもりだった。
主の掌の上で動くというのは、式としては正しいのかもしれないが、何とかあの鼻をあかしてやりたいという気持ちがあった。
けれども、大体にして、藍が思いつくような悪口など、先回りで予想されているに違いない。
もっと何か、斬新なメッセージはないものか。
「う~ん。普通の悪口じゃあ駄目だわね」
「そうですねぇ」
「冷静に考えてみれば、年齢や少女趣味をからかう言葉、あるいは中傷などは、歯牙にもかけないだろうし。何しろ弱点が無いからなぁ」
「弱点が無い?」
「そう。少なくとも、私の知る限りは。だから難しい」
橙はそれを聞いて、目をぱちくりさせながら、
「藍様、私思いついたんですけど」
「ん? なにかな?」
ふふふ、と藍は耳を貸す。その期待はほんの少しだったが……
「ごにょごにょ……」
橙の囁きを聞くにつれて、藍の心に、純粋な驚きが響き渡った。
「どうですか?」
「……すごいな橙。それひょっとしたら、紫様の弱点かもしれない!」
「本当ですか!? 藍様!!」
「うん。まさにそれだ。紫様といえども、ぎゃふんとなるのは間違いない。これはびっくりした」
「じゃあ、これでいきましょう!」
「ふふふ、きっといい薬になるだろうな。それなら私も、いっそこうして……」
「……わあ、それ、絶対びっくりします」
「よし。それじゃご飯を食べ終わったら、準備をはじめるとしようか。これは楽しみになってきた」
二人は悪戯っぽく顔を見合わせて、くすくすと尻尾を揺らす。
それは今日の食卓に、ようやくあふれた笑い声だった。
そして、式と式の式は、密かに計画を練った。
○○○
ピピピピピピピ……
目覚まし時計の鳴る音が、夢から現実へと引きずり戻す。
「…………ふぁ、うるさいわねぇ」
八雲紫は布団の中から、億劫に右手を出した。
だが、いつも置いてある位置に手応えが無い。
目覚ましはやかましく鳴り続けている。
「も~、何なのよ~」
ぼやきつつ、伸ばした手をゆらゆらと動かしていると、ふと頭の片隅に疑問がわいた。
――あれ? 私は昨日、目覚ましをかけたかしら
紫はうーんと、ゆっくり上体を起こした。
髪を軽くかき上げてから、半分閉じた瞼をこする。
霞んだ視界の端には、いつもよりも遠くに置かれた、狐と猫の姿を模した目覚し時計があった。
時刻は正午。
そこでようやく、紫の意識が覚醒していく。
顔を触りかけて、その手が止まる。
「ふふふ」
紫はほくそ笑んで、布団から立ち上がった。
優秀な式のことだから、自分の思惑には気がついてくれたことだろう。
さて、橙は何を書いたのやら。
「藍~。お腹が空いたわ~」
寝室の襖を開けながら、紫はわざと、いつもの雰囲気で呼びかける。
だが、式の返事は無かった。悪戯に慌てる自分の姿を、隠れ見ようとしているのだろうか。
それにしては、気配がまるで感じられないが。
「おかしいわね……」
とりあえず顔を洗うついでに、落書きを拝もうと、紫は洗面所へと向かった。
だが、その廊下の途中で、居間の食卓に目が止まる。
そこには、大きめの半紙に書かれた、書置きが残されていた。
不思議に思って、紫はそちらへと足をむけ、それを拾い上げて読んだ。流麗な筆づかいは、式の藍のものだった。
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橙と二人で、ピクニックに行ってます
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淡々とした味気の無い一文に、ぐらりと視界が揺れる。
持つ手に力が入ったために、紙がたわみ、文面に皺が走った。
紫はそれをくしゃくしゃに丸めて、くずかごへと続くスキマに放り込んだ。
「……あの馬鹿」
藍の株が大きく下がる。
式は自分の考えを読めなかった。いや、読んで行動した結果がこれなのだろうか。
確かに、この仕返しは効いた。二人とも、昼餉も用意せず、主を置いて出て行ってしまうとは予想しなかった。
それにしてもこれはあんまりである。浮き立っていた気分は、一気に興醒めしてしまった。
「ああもう、どうして藍は洒落を解さないんだか。橙もあんな性格になるかと思うと、気が重いわね」
ぶつぶつと呟いてから、紫は思い出した。
そう、橙だ。
あの子は自分の寝顔に、何を書いたのだろうか。
藍の怒りの指導があったとすれば、生半可な悪口ではないであろうが。
紫は苛々した足取りで、廊下を歩きはじめた。
「ふん。詐称少女妖怪? クリムゾンババァインパクト? それとも豪血寺紫? 何でも来なさいよ」
誰もいない屋敷に、不機嫌な独り言が流れていく。
残念ながら、もう何が書かれていても、自分を驚かすことなどできない。
紫にとって、式達に拒絶される以上のショックなどないのだ。
だが、廊下を曲がる前に、ちょっと足が止まる。
もし……悪口ではなく、やはり絶交の引導を渡す言葉が書かれていたとしたら。それも橙の字で。
あんたなんか要らない、とか、さようなら、とか。もしくは無言の回答とか。
昨日、藍の姿で話した限りでは、自分は橙に怖がられても、嫌われてはいないようであった。
しかし、一日で評価がひっくり返ってしまった可能性がある。
だとすれば、
「……はっ。式に翻弄される主なんて、冗談にもならないわ。ましてや橙は、まだ幼い式の式じゃないの」
何もない空間に向かって、スキマ妖怪は自信たっぷりに言った。
とはいえ、一度深呼吸してから、鏡の前に向かうことにする。
「………………」
つむっていた目を、そろそろと開けていく。
両頬に小さく何かが書かれているのが見えた。
とりあえず、無言の回答ということはなかったわけで、少なからずホッとした。
しかし、何だろうこれは。
ペンで書いたような細かい字は、やはり橙の筆跡のようだが。何かの文章になっているようだ。
紫はそれを読み取ろうと、鏡に顔を近づけていく。
「…………え?」
薄くくもった表面に、ぽかんと口を開けた顔が映る。
鏡の中のスキマ妖怪は、呆気にとられていた。
それは、八雲紫の一生においても、滅多に味わえない感情であった。
地獄の断崖絶壁から、楽園のお花畑へと飛び降りたような衝撃。
「そんな……」
文字の一つ一つを呟くと、ふさがっていた胸が、じんわりとした温もりに開かれていくのが分かる。
その温もりが、白い頬を伝って、ぽたりと落ちる。
ついには腰から力が抜けて、ぺたんと、床に座り込んでしまった。
「まいったわね……あの子たち」
八雲紫は苦笑して、そっと目じりをぬぐった。
それから彼女は、いそいそと支度をはじめた。
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紫様へ
おどろかせちゃってごめんなさい
私も藍様も、もう怒ってませんよ
お昼ご飯も、ちゃあんと用意してあります
場所は冥界の桜並木です
二人で作ったお弁当を広げて待ってます
私たちだけではさびしいので、なるべく早く来てくださいね
式の式より
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二つの尻尾を揺らして、ご機嫌な様子である。
「ふん、ふん、ふふ~ん♪」
大きな猫耳に金のピアス、緑の帽子に赤い服。
鼻歌を歌いながらスキップするように飛んでいるのは、八雲の式の式、橙だった。
向かう先は、八雲の実家である。
「ふんふふんふ~ん♪ 藍様、喜んでくれるかな~」
彼女がご機嫌なのは、里の猫達との関係が、だんだんと良くなっているからであった。
前は呼んでもついてきてくれないどころか、露骨に橙を見下していた猫達。
それが今では、向うから橙を探しに来るほどの仲となったのである。
もちろんまだ、反抗的なのはいっぱいいるけど、去年の橙から比べれば、格段の進歩だった。
これはぜひとも主に報告して、成長を褒めてもらいたい、という考えであった。
やがて、行く手に、八雲紫のお屋敷が見えてきた。
もう庭の雪はすっかりとけており、ぽつぽつと見え始めた草花が、春の訪れを感じさせる。
橙はいつものように、その庭に降り立たった。
「ら~ん様!」
主の名を呼びながら、式は縁側に駆け上がる。
「お帰り橙」
不意をつく錆びた重々しい声。
ひげ面の荒武者が、居間にどっかと座っていた。
「誰ぇえええええ!!?」
橙は急ブレーキをかけて、大きく後ろにのけぞりながら悲鳴をあげた。
顎を覆う無精髭、毛むくじゃらの太い腕。筋肉質の体を覆うのは、ぼろぼろの布服。黒いざんばら髪の下では、ぎょろりと目玉が光っている。
出迎えてくれた存在は、橙にとって、予想外すぎる人物だった。
その男臭さだけで、博麗大結界に弾き返されそうなほどなのに、どうしてこの家にいるのだろう。
「あ、あ、貴方は一体」
「俺か」
そこで男は、口元を歪めて、大鉈のような笑みを浮かべた。
「俺はお前の家族だ」
「か、家族ー!?」
家族。
つまり、このむさ苦しいオジさんも、八雲一家。
初耳すぎて、橙の頭脳は大混乱を起こす。
荒武者風の男は、その様子を見て、おかしそうに目を細めながら、なおもふてぶてしい声で続ける。
「信じられぬか、橙」
「し、信じられないよ!」
「本当に信じられぬか」
「うん!」
「どうしてもか」
「う……うん!」
「ふふふ、これでも?」
そこで、ぼわん、と男の周囲に煙が上がる。
煙幕が消えた後には、丸みを帯びた女性的な体が現れる。
帽子をかぶせた大きな狐耳、九本のふかふか尻尾。
「ら、藍様!」
「驚かせて悪かったね、橙」
くすりと笑うその妖怪は、橙の主である、八雲藍だった。
「藍様、今のオジさんは!?」
「私の変身術。まあ軽い手品みたいなものね」
「ぜ、全然気がつきませんでした」
「本当に気がつかなかった?」
「はい! すごいです藍様!」
はしゃいで褒め称える式の様子に、藍は微笑を返す。
「そうだ、橙も覚えてみない?」
「え?」
「だから、橙も変身術をやってみたくない?」
「お、教えてくれるんですか!?」
主が首肯するのを見て、橙は瞳を輝かせ、鼻息を荒くした。
「やりたい、やりたい、やりたいです!! 変身術、教えてください、藍様!」
「ふふふ。じゃあまずは、印の結びを教えるから」
「お願いします!」
橙は張り切り声で返事する。里の猫達の土産話も、すでに頭から飛んでいた。
藍は、変身術の印と真言を、一つ一つ丁寧に教えてくれた。
「あとは、変身したいものを想像するだけ。イメージが大切だよ。じゃあ、やってごらん」
「はい!」
橙は印を結んで、真言を唱えはじめた。
目を閉じて、なりたいものの姿形を想像する。だが、うんうん、と唸るものの、なかなか上手くいかない。
「ほれ」
とそこで、ぺたん、と背中に何かが貼られた。
橙の中で、散り散りになっていた妖力が、一定の流れへと向かう。
「藍様?」
「補助の御札よ。もう一度やってみなさい」
「わかりました!」
再度、橙は挑戦する。
今度は先ほどと違い、体内でスムーズに妖力が練られていくために、イメージに集中することができた。
やがて、ぼわん、と煙が体を包む。
橙はついに変身する感触を手に入れた。
「藍様、藍様! どうですか!?」
「ふふふ、奥の鏡台で確認してみなさい」
「はい!」
橙はわくわくしながら廊下を走り、洗面所の鏡の前に立った。
「あれ?」
金色の髪に、同じ色の大きな耳。
橙が変身したのは、主の藍の姿だったはずだった。
が、鏡に映っている藍は、妙に小さかった。
というか、顔はむしろ橙だったし、金の尻尾も二本しかなかった。
つまるところ、藍に変身したというよりも、藍の格好をした橙に見えた。
「あれれ、もっと上手くいくと思ったのに……」
「初めてでそれなら、まあまあかな」
「う~ん、藍様の尻尾は、九本もあるから難しいです」
「ふふふ、そうだね」
藍は橙に触られた尾の一つを、くすぐったそうに揺らす。
「そうだ、橙。主にも見せてあげたらどう?」
「え、紫様にですか?」
「そう」
「………………」
「あれ? どうしたの」
「いえ……じゃあ行きましょう」
二人は奥の寝室へと向かった。
橙の主の主にあたる八雲紫は、昼夜逆転の生活を送るスキマ妖怪。
お昼過ぎのこの時間は、当然のことながら、まだ就寝中であった。
広い畳部屋の中央に、白地に紫柄の布団が敷かれている。橙はそれに、そっと近づいた。
「……紫様~」
藍の姿のまま、恐る恐る、寝ているスキマ妖怪に声をかける。
だが紫は、すやすやと眠ったままだった。
軽く揺すってみても、寝がえり一つうたない。
「やっぱり、起きませんね。」
「そうだね」
藍と二人で、紫の寝顔を囲む。
しばらくそうやって見つめていると、無意識に、橙の口から軽いため息が漏れた。
世には、人間離れした美しさ、という言い回しがある。人の身で到達できる尺度を超えた、妖怪のように美しい、という表現だ。
しかし、主の主の八雲紫はむしろ、『妖怪』離れした美しさを持っていた。
粉雪のように白くきめ細かい肌、一番星を溶かしたような艶のある髪。
目鼻と口は、完璧な造形美を保っており、大人びた妖艶な魅力と少女のあどけなさが、一つの体に同居している。
それらが調和しながらも、時に混ざりあいながら一方の姿を見せるために、謎めいた魅力が匂いたち、見ているものを引き込むのだ。
「やっぱり、紫様って綺麗ですね」
「………………」
「あ、もちろん藍様もですよ!」
「ふふ、ありがとう橙」
でも橙にとって、二人の美しさの質はまるで違った。
主の藍も凄い美人ではあるが、近寄りがたい雰囲気はない。
彼女にはお日様が似合う。藍の笑顔は橙にとって、日向ぼっこのような魅力があるのだ。
しかし、紫には夜が似合った。彼女の微笑は、天体を取り巻く常闇のようである。その深さは、猫の好奇心さえも、警戒心へと変えてしまう。
妖怪であり、式の式である橙ですらそう感じるのだから、普通の人間が見れば、もっと恐ろしく感じるだろう。
つまるところ、八雲紫は怖いくらい美しいのであった。
それに第一、妖怪だろうと人間だろうと、本能的に自分より強い相手は警戒するものである。主の藍はともかくとして、紫の実力はありえないほど高い。橙が手放しで近づける相手ではなかった。
そこで藍が聞いてくる。
「橙は、紫様が怖い?」
「そ、そんなことないですよ」
「嘘はいけないよ」
「あう……実は……ほんの少し。でも、紫様には言わないでくださいね」
橙は声をひそめて言う。
とはいえ、そんな異次元の美しさと強さもつスキマ妖怪ではあったが、寝ている姿は、それほど怖くは見えなかった。
すやすやと可愛い寝息を立てている。橙はもっと強烈な寝相を予想していたのだが。
「気持ちよさそうですね、紫様」
「橙。ちょっと悪戯してみようか。顔に落書きとか」
「え、ええ!?」
藍が懐から取り出したサインペンを見て、橙は吃驚した。
「そんなことしていいんですか!?」
「だって、私はよくやられているし。紫様だって、たまには仕返しを受けるべきだ。はい」
「わ、私が書くんですか!?」
「橙ならきっと、紫様も大目に見てくれるだろう」
「そんなぁ……」
橙はしぶしぶ、主からサインペンを受け取った。
キャップを開いてから、うーん、と眉根をよせて考える。
ペン先はしばらく、寝ている紫の顔の上を、ふらふらとさ迷った。
「藍様~。何を書いていいのか、思いつきませんよ~」
「そうね。普段から考えていることにすればいい」
「普段から考えていること?」
「ババァとか」
「ええ!? そんなこと考えてませんよ私!」
橙はまたも仰天して振り向き、否定した。
「もー、藍様。ひどいですよ、そんなこと言うなんて。取り消してください」
「あれ、橙が怒っている」
「怒りますよそれは。紫様だって傷つくと思います」
「ははは、そうか、ごめんごめん。でもそれくらいじゃなくては、紫様も驚いてはくれないだろう」
「そうですかね~……」
じゃあ、と橙は、紫の顔に書いていく。
大きく、バランスの崩れた字体で、
『オバさん』と。
「ほほう、やるね橙。これはババァよりも効くかもしれない」
「ら、藍様が言うから」
「ははは、大丈夫、大丈夫。私ならともかく、橙はきっと怒られないから」
「本当かな……」
紫の眠りは深いようで、これだけ騒いでいても、起きる様子が無かった。
見目麗しいその寝顔は、オバさんの四文字で台無しである。
藍はそれを満足げに見下ろしながら、
「さて、そろそろ夕飯の支度でもするか。今日はここで食べていくんでしょう、橙?」
「あ、はい。でも藍様。ちょっと遊びに行ってきていいですか」
「お友達に、変身術を見せに行くんだね?」
「正解です! いいですよね?」
「もちろん。じゃあ、夕飯までには帰るのよ」
「はい! あ……、紫様が怒ったら、藍様助けてくれますよね?」
「ふふふ、大丈夫だと思うけどね。それじゃあ行ってらっしゃい」
「行ってきまーす!」
橙はサインペンを返して、あっという間に、屋敷を飛び出していく。
その姿を見送る藍は、うすい笑みを浮かべながら、小さく手を振った。
○○○
夕焼けの空の下、妖怪の子が飛んでいる。
二つの尻尾を振り回して、ステップを踏むように。
「ふん、ふん、ふ~ん♪」
橙は友達とたっぷり遊んで、帰宅するところであった。。
彼女の機嫌は、昼間よりも増していた。変身術をみんなに披露してあげたら、予想以上に驚き、喜んでくれたのだ。
妖精の姿になってみたり、大天狗の姿になってみたりして。
だけど、レティの姿に変身して、チルノが本物だと思って泣き出した時は焦った。
橙は慌てて謝ったが、春にいなくなってしまった冬妖怪の姿が見れて、チルノは少し嬉しそうだった。
今の橙は、もう元の姿に戻っている。
「ふふ。藍様に報告することが、増えちゃった」
昼間とは異なる色に染まった、八雲のお屋敷が見えてくる。
夕日の差し込む縁側に、主の歩く姿を見つけて、橙は庭に降りた。
「ただいまです! 藍様!」
縁側から、藍はこちらを向く。
「おや、おかえり橙」
「……!?」
その顔を見て、橙は小さく息を呑んだ。
「ら、藍様!」
「ん、どうしたの?」
藍の表情は、お日様が似合う、いつもの笑顔。
だが、その上には、大きくしっかり、『オバさん』と書かれていたのである。
橙はその理由に見当がついた。
紫に悪戯したのがバレて、やっぱり怒られたのだ。それで藍はお仕置きを受けて、あんな顔をしているのだろう。
だけど本当は、書いた自分が受けなきゃいけないはずの罰ではないか。
「ごめんなさい、藍様! 私のせいで」
「えっ、何が?」
「その……昼間のことで」
「昼間?」
藍は落書きのある顔を、きょとんとさせて、首をかしげた。
「ひょっとして、橙は昼間に一度、帰ってきてたの?」
「え?」
予期せぬ問いに、橙は思わず聞き返した。
「ら、藍様。覚えてないんですか?」
「覚えていないって、何を?」
「だからその、昼間に私が帰ってきて……」
「ああ、やっぱりそうだったの。昼寝していて気がつかなかったよ」
「昼寝?」
変だ。
昼寝していたのは、紫の方じゃなかったか。
ざわ、と嫌な予感が走った。
「で、でも、私に変身術を教えてくれた時は、起きてましたよね!?」
「変身術? 橙は変身術ができるようになったの?」
「い、いえ。藍様の御札の力を借りて」
「……変だね。私はずっと昼寝をしていて、その間は紫様が起きていらっしゃったのだけれど」
紫様が起きていた?
橙の嫌な予感はますます膨れ上がった。
よく見れば、藍の顔にある『オバさん』の字は、紫が書いたにしては、下手で子供っぽい筆跡だった。
むしろ自分の、橙の字そっくりである。
そして、藍と話が噛みあわないのも、不思議であった。
――まさか……まさか……まさかまさかまさか!
回り始めた頭が状況を推理し、ある恐ろしい真相へと橙を導く。
自分は、昼寝していた主の主、八雲紫の顔に『オバさん』と書いた。
その行為を執拗に勧めてきたのは、主である八雲藍のはずであった。
その藍は元々、自分が家に帰ってきた時は、むさくるしい荒武者に変身していた。
その荒武者は変身を解き、藍の姿へと戻った。
だから橙は、それが藍だと信じたのであった。
だが、あれが、『藍の姿に戻った』のではなく、新たに『藍の姿に変身した』のだとしたら?
つまり山男から『藍?』へと姿を変えた、そのもともとの正体は…………。
「あら橙、お帰りなさい」
そこに現れた第三の声に、橙の尻尾がはね上がった。
金髪のスキマ妖怪がこちらを見ている。
「どうしたの橙。藍につままれたような顔をして」
「なんだかおかしな表現ですね。確かに私は狐ですけど」
「狐の姿をした式、でしょ」
藍と会話しているその存在は、間違いなく、主の主である八雲紫だった。
だが、彼女が口元に浮かべている、得体の知れない妖しげな笑みは、昼間に会った『藍?』の笑顔と同じであった。
橙はそれで、自分の推理に確信を得る。同時に、顔面が蒼白になった。
「藍、もう晩ご飯の支度はできてるわ。顔でも洗ってしゃっきりしてきなさい。今起きたばかりでしょう」
「ええ、わかりました。それじゃ、橙も行こうか。まだ手を洗ってないでしょ?」
「あ、あの、藍様」
「藍。橙はちょっと、私と話があるから、貴方一人で行ってきなさい」
「はぁ。そうですか。では、お先に」
藍がのんびりした足取りで洗面所へと向かうのを、橙は硬直状態で見送る。
が、その姿が、廊下の奥へ消えたのと同時に、弾かれたように紫の方を向いた。
「ゆっ、ゆっ、ゆっ、紫様!?」
「昼間に教えてあげた変身術、お友達には評判だったかしら?」
「じゃあやっぱり、あの時の藍様は紫様!」
「大正解。ちょっと疲れているようだったから、仕事を変わってあげていたのよ。藍の姿でね」
「そ、それじゃ、昼間に寝ていたのは、紫様じゃなくて、本当は藍様だったんですね!?」
「ええ。でも、まだ起きたばかりで、藍はあの顔に気がついてないわよ。どんな反応か楽しみじゃない?」
「そ、そんな……」
うろたえる橙の耳に、もの凄い音が聞こえてくる。
どどどどどどど、と床を踏み鳴らして近づく、野牛のような足音が。
「紫様ー!!」
廊下の奥から出現したのは、般若の顔をした藍だった。
もちろんその上には、くっきりと『オバさん』と書かれている。
「また私の寝顔に落書きをしましたね!?」
紫はその迫力を受けても、まるで動じない。
対照的に、横の橙は、思いっきりビビって腰を引くが、藍はそちらを見ていなかった。
「おかしいと思ったんです! 珍しく優しいことを言うから、その好意に甘えてみれば! 私がオバさんなら、貴方は何なんですか!」
藍が叫びつつ取り出したのは、小ぶりな墨汁の容器だった。
「もう許しません! 今日こそ借りを返させていただきます! 今宵は春にふさわしく、『幽雅に咲く墨染めの紫』が拝めることでしょう! いざっ!」
「落ち着きなさい藍。それを書いたのは私じゃないわ」
それを聞いて、橙の心臓が、大ジャンプした。
藍はといえば、墨汁を構えたまま、怪訝そうな顔になる。
「何をいってるんですか。私にこんな悪戯するのは紫様だけでしょう」
「誓ってもいいけど、私じゃないわ。だって、筆跡が違うでしょ」
「む……それでは誰の仕業です。教えてください。知っているんでしょう」
「当ててごらんなさい」
「うーむ、幽々子様くらいしか、思い当たりませんね」
「あいにく、今回は関与していないわ」
「かといって、妖夢がそんなことするはずが無いし……」
「白玉楼から離れなさいな」
「しかし、他にこの屋敷にやってくる存在は」
「もっと身近にいるでしょ。今も」
「まさか。何を馬鹿なことを。橙がそんなことするはずがないでしょう」
「……いいえ、藍様」
橙は震える声で、会話に入った。
「私が……書きました……」
叱り声を覚悟して、搾り出すように、罪を告白する。
だがそれを聞いても、藍はかぶりを振って、
「橙。紫様を庇わなくてもいい」
「いいえ、本当に私が書きました」
「………………」
「藍様なら、私の字がわかるでしょう」
そこではじめて、藍は瞠目して、橙の方を向く。
「橙……本当に?」
「……はい」
「橙が……私の顔に……オバさんと……」
藍の手から、ぽとりと墨汁の容器が落ちる。
その顔には怒りは無く、魂が抜けたかのように、ただただ口を半開きにして、呆然としている。
「う……ひっく……」
しかし、その主の瞳の奥では、深い悲しみが揺れ動いているのが分かって、橙は耐え切れずに、しゃっくりをあげて
「……うわーん!! ごめんなさい藍様―!!」
大声をあげて泣き出した。
○○○
曲げた体をわななかせ、顔を赤く腫らし、喉が壊れてしまいそうな勢いで、橙は泣き叫ぶ。
主の主に裏切られ、主の心を裏切ってしまった、式の慟哭。その声は、聞く者の心に訴えかける、切ない響きだった。
しばらくして藍は、静かに橙の元に歩み寄る。
そして、その小さな震える肩を、優しく手で抱き寄せた。
「橙、泣かないで」
「うわーん!!」
橙の号泣はおさまらない。
藍の胸の中で、わんわんと泣き続ける。
その背中を撫でながら、九尾の式は、主の方を見た。
「……紫様」
「な、なにかしら」
スキマの大妖怪は動じない、と見せかけて、わずかに半歩後ずさりする。
その笑顔にも、いつもの余裕がない。
「どういうことか……説明していただけますね?」
藍の目は、怒りに燃えていた。
眼光は触れたものを斬りかねないほど鋭く、尻尾の毛は針山のごとく逆立っている。
ただ事ではない式の様子に、紫は正直に説明をはじめた。
「その……貴方が寝ている間に、私の姿に変身させちゃって、私も貴方の姿に変身して、あとは橙に色々と」
「もういいです。よく分かりました。ではなぜこのようなことをしたか、説明していただきましょうか」
「えーと……主と式の間の仲を深めるため、とか」
紫は人差し指を立てて、ごまかし口調で話す。
藍はそれを睨みつけながら、なおも泣いている橙を、ぎゅっ、と抱きしめた。
確かに、式と式の式の間の絆は強まった。
が、主と式の間のそれは、半ば風化していた。
「紫様、私に悪戯をして楽しむのは、一万歩譲って許しましょう。貴方は私の主ですからね」
最後の部分は、いかにも無念、という思いがある響きだった。
「しかし、わざわざ無垢な橙の手を汚させるという、極悪かつ非道な振る舞い。いくら主といえども、断じて許すことはできません。私は……貴方を軽蔑します」
藍は断固たる口調で、主の行いを非難した。
紫はそれを聞いて、笑みを消し、目を伏せた。
「そうね、正直やりすぎたわ。ごめんなさいね、二人共」
そう謝って、彼女は空間を指で撫でる。
「紫様」
「興がそがれてしまったので、もう寝ることにするわ。貴方達だけで、ご飯を食べて頂戴」
主の姿が、スキマへと消えていく。藍はそれを、黙って見送った。
ふー……と、長いため息がでる。
藍は、まだ泣き喚いている式の背中を、ぽんぽんと叩きながら、
「橙、もう泣かないで」
「でも……藍様が……藍様が……!」
「いいんだ。橙から見れば、私はオバさんだから」
「違います! 藍様はオバさんなんかじゃありません! とっても素敵なお姉さんだって、みんなもそう言ってます!」
「はは。ありが……えっ? みんなも?」
「はい! 私の友だち全員です。もし、藍様だと分かってたら、あんなこと絶対書きませんでした! もっとお星様とかハートマークとか、超美人とか書いてました!」
「そ、そう。それは……いい……のかな」
藍は困った顔をして、首をひねった。
「だから藍様、許してくださいよう……」
「許すもなにも、私は橙に怒ってなんかいないよ」
「ぐすっ……本当に?」
橙は涙でくしゃくしゃになった顔で見上げてくる。
「本当だとも。むしろ嬉しいよ。私のために、そんなに悲しんでくれるなんて。だから、もう泣かないで。ね?」
藍は式の頭を、優しく撫でる。
その顔に笑みが戻っているのを見て、橙は心の底からホッとした様子であった。
「藍様……お腹が空きました」
「うん。顔を洗うから、橙も一緒に手を洗いに行こう。そしてそのあと、一緒に晩ご飯を食べよう」
「……はい!」
「二人でね」
藍は最後の一語を、笑顔のまま強調した。
○○○
その日の夕飯は、八雲家には珍しく、会話が無かった。
食卓には式の姿が二つ。いつもはいるはずの、主の姿は無い。
九尾の式は仏頂面をして、黙々とご飯を口に運んでいる。
不穏な空気に、二尾を持つ式の式も声をかけられず、同様に無言で食べていた。
だがやがて、耐え切れなくなったようで、
「ら、藍様!」
「ん?」
「このつくだ煮、美味しいですね!」
「…………」
「あぅ……」
再び食卓は、お箸が時折たてる、かすかな音だけになる。
しばらく経ってから、橙はもう一度小声で言った。
「紫様、お腹空いてないかな……」
「……………………」
「ご飯を作ったのは紫様なのに……」
「……………………」
「藍様、起こしに行ってあげたら」
「放っておきなさい」
やっと喋った主の口調は、思いのほか冷たかった。
橙はそこで、意を決して訴える。
「藍様。ご飯は作ってくれた人に感謝して食べなさいって、私は藍様に教わりました」
「それはそれ。あの御方には必要ない。この料理だって、橙に私を悪戯させるために作ったんだから」
「でも、どれも美味しいですよ。心がこもっていると思います」
「む……」
「それに、ちょっと驚いたけど、私が紫様の変身術を見破れなかったのにも、責任があると思います」
「あの御方が本気で化けたら、私でさえ気がつかないよ。だから橙に責任はない」
藍はきっぱりと弁護を両断して、味噌汁をすするが、橙はめげずに口を尖らせて、
「きっと紫様、藍様に怒られて、寂しがってますよー」
「自業自得」
「お布団の中で、泣いてるかもしれませんよー」
「実際に、ふて寝しているんだよ。悪戯が上手くいかなくて、ばつが悪いから。まったく、妙なところで子供っぽいんだから」
「それなら、藍様だって子供っぽいと思います」
「橙?」
「あう……ごめんなさい」
藍が一睨みすると、橙はすぐにしおれて折れた。
――まあ、確かに、大人げないか
と 藍は胸中で反省する。ただし、紫に対してではなく、あくまで無言の場を強いてしまった橙に対してだ。
無垢で優しいこの式に手を下させたということで、今度という今度は、藍は紫に幻滅していた。
しかも、その橙自身が紫を庇っていることを思うと、けなげな話に、いよいよ腸が煮えくり返る思いだ。
そこで彼女の式が、その思考を読んだかのように、
「藍様は、私のために怒っているんですよね」
「そうよ」
「だったら……」
「いいや。お前が紫様を許してやるといっても、私は許すつもりはない」
「う……そうですか」
「わずかな謝罪で済まして逃げ出したうえに、布団の中でふて腐れるだけで、許されると思われては困る」
「じゃあ、どうしたら許してあげるんですか?」
「それ相応の報いがなくてはだめだ。そうね。どうせなら、その寝顔に……」
藍の箸が止まった。
「藍様?」
「まさか……」
「どうかしたんですか?」
「いや……だとすれば……」
「もしもーし?」
「…………そうか、そういうことか」
橙が不思議そうに見守る中、藍は袖で口を覆って、くっくっく、と笑う。
そして明るい声で、
「橙。あとで紫様の寝顔に悪戯書きをしに行こう」
「え!?」
主の提案は全くの予想外だったようで、橙は大きく目を見開いた。
「で、でも、怒られますよ。それに、本物の紫様なら、きっと私達に気がつくはずです」
「大丈夫。今の紫様は、何をされてもきっと起きないから。あの御方はわざとそうやって、隙を見せているのよ」
「わざと隙を?」
「そう。橙は紫様に騙されてひどい目にあったし、私も橙に落書きされてしまった。これで紫様が悪戯されれば、皆のわだかまりが消え、全ては丸くおさまる。そうじゃないと、不公平でしょ? きっと紫様は、そうやって私達に解決してほしいと思ってるんだ」
なんとも素直でない反省の仕方ではあるけど。
だが藍は、自分の推理が正解だという自信があった。
「でも、やっぱり気が引けますよ。紫様に悪戯するのは」
「どうして? 橙は紫様が怖いかい?」
「はい、少し……」
と言いかけて、橙はハッと思い出したように、
「藍様。それ、紫様にも聞かれました。姿は藍様でしたけど」
「ふふふ、それはきっと、紫様の本心だよ。もっと橙に、自分に悪戯してしまえるほど、側に近づいてもらいたがっているのさ」
「紫様が……ですか?」
「うん」
藍はうなずいた。
きっと、それこそが主の悪戯の、真の目的だったんだろう。
橙にもっと、自分を怖がらずに接してほしいという願い。だから、藍の姿に変身して橙の本音を聞こうとし、自分の寝顔にわざと悪戯させてみたのだ。
さらにその裏には、変身術を見極められるかどうか、テストするというねらいもあったのかもしれない。
それは紫が、式の式、八雲の一員として、本当に橙を認め、鍛えようとしていることの証明でもあった。
主の藍としては、嬉しくないはずがない。
「それとも、橙は紫様が嫌いになったかい? いやそもそも、元から嫌いだったりとか」
「いいえ! 私は紫様も大好きです」
橙はふるふると首を振ってから、卓の上に身を乗り出して、
「これからは、もっと怖がらずに近づいてみます。藍様にするように、紫様にも!」
「それを聞いたら、紫様もきっと喜ぶと思うよ。手始めに、思いっきり寝顔に落書きしてあげればいい」
「うーんと、じゃあ藍様も一緒に考えてください。だって、藍様は何にもしていなくて、私達に悪戯されただけじゃないですか。それだって不公平です」
「それもそうか。じゃあ一緒に、何を書くか考えよう」
「どんな落書きがいいですかねー」
「ヴァイオレットバーサン、アルティメットズボラー、あるいは豪血寺紫も捨てがたい」
「ちょ、ちょっと藍様! そこまで根に持っていたんですか!?」
「これくらいのこと書かれても、あの方は、こたえはしないよ」
藍はジト目になって愚痴る。
いくら嬉しいとはいえ、だしに使われたのは、毎度の事ながら腹が立つのである。
それにどうせ、自分が慌てふためく姿も見たかったのに違いないのだ。なにしろ、趣味と実益をかねた行動が好きな御方だから。
布団で寝ているスキマの高笑いが聞こえてくるようだ。可愛くないことこのうえない。
「どうせなら、紫様がすっごく驚くのがいいですね」
「うん。でもそれは難問ね」
しかし、藍はあえて、その難問に挑戦するつもりだった。
主の掌の上で動くというのは、式としては正しいのかもしれないが、何とかあの鼻をあかしてやりたいという気持ちがあった。
けれども、大体にして、藍が思いつくような悪口など、先回りで予想されているに違いない。
もっと何か、斬新なメッセージはないものか。
「う~ん。普通の悪口じゃあ駄目だわね」
「そうですねぇ」
「冷静に考えてみれば、年齢や少女趣味をからかう言葉、あるいは中傷などは、歯牙にもかけないだろうし。何しろ弱点が無いからなぁ」
「弱点が無い?」
「そう。少なくとも、私の知る限りは。だから難しい」
橙はそれを聞いて、目をぱちくりさせながら、
「藍様、私思いついたんですけど」
「ん? なにかな?」
ふふふ、と藍は耳を貸す。その期待はほんの少しだったが……
「ごにょごにょ……」
橙の囁きを聞くにつれて、藍の心に、純粋な驚きが響き渡った。
「どうですか?」
「……すごいな橙。それひょっとしたら、紫様の弱点かもしれない!」
「本当ですか!? 藍様!!」
「うん。まさにそれだ。紫様といえども、ぎゃふんとなるのは間違いない。これはびっくりした」
「じゃあ、これでいきましょう!」
「ふふふ、きっといい薬になるだろうな。それなら私も、いっそこうして……」
「……わあ、それ、絶対びっくりします」
「よし。それじゃご飯を食べ終わったら、準備をはじめるとしようか。これは楽しみになってきた」
二人は悪戯っぽく顔を見合わせて、くすくすと尻尾を揺らす。
それは今日の食卓に、ようやくあふれた笑い声だった。
そして、式と式の式は、密かに計画を練った。
○○○
ピピピピピピピ……
目覚まし時計の鳴る音が、夢から現実へと引きずり戻す。
「…………ふぁ、うるさいわねぇ」
八雲紫は布団の中から、億劫に右手を出した。
だが、いつも置いてある位置に手応えが無い。
目覚ましはやかましく鳴り続けている。
「も~、何なのよ~」
ぼやきつつ、伸ばした手をゆらゆらと動かしていると、ふと頭の片隅に疑問がわいた。
――あれ? 私は昨日、目覚ましをかけたかしら
紫はうーんと、ゆっくり上体を起こした。
髪を軽くかき上げてから、半分閉じた瞼をこする。
霞んだ視界の端には、いつもよりも遠くに置かれた、狐と猫の姿を模した目覚し時計があった。
時刻は正午。
そこでようやく、紫の意識が覚醒していく。
顔を触りかけて、その手が止まる。
「ふふふ」
紫はほくそ笑んで、布団から立ち上がった。
優秀な式のことだから、自分の思惑には気がついてくれたことだろう。
さて、橙は何を書いたのやら。
「藍~。お腹が空いたわ~」
寝室の襖を開けながら、紫はわざと、いつもの雰囲気で呼びかける。
だが、式の返事は無かった。悪戯に慌てる自分の姿を、隠れ見ようとしているのだろうか。
それにしては、気配がまるで感じられないが。
「おかしいわね……」
とりあえず顔を洗うついでに、落書きを拝もうと、紫は洗面所へと向かった。
だが、その廊下の途中で、居間の食卓に目が止まる。
そこには、大きめの半紙に書かれた、書置きが残されていた。
不思議に思って、紫はそちらへと足をむけ、それを拾い上げて読んだ。流麗な筆づかいは、式の藍のものだった。
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橙と二人で、ピクニックに行ってます
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淡々とした味気の無い一文に、ぐらりと視界が揺れる。
持つ手に力が入ったために、紙がたわみ、文面に皺が走った。
紫はそれをくしゃくしゃに丸めて、くずかごへと続くスキマに放り込んだ。
「……あの馬鹿」
藍の株が大きく下がる。
式は自分の考えを読めなかった。いや、読んで行動した結果がこれなのだろうか。
確かに、この仕返しは効いた。二人とも、昼餉も用意せず、主を置いて出て行ってしまうとは予想しなかった。
それにしてもこれはあんまりである。浮き立っていた気分は、一気に興醒めしてしまった。
「ああもう、どうして藍は洒落を解さないんだか。橙もあんな性格になるかと思うと、気が重いわね」
ぶつぶつと呟いてから、紫は思い出した。
そう、橙だ。
あの子は自分の寝顔に、何を書いたのだろうか。
藍の怒りの指導があったとすれば、生半可な悪口ではないであろうが。
紫は苛々した足取りで、廊下を歩きはじめた。
「ふん。詐称少女妖怪? クリムゾンババァインパクト? それとも豪血寺紫? 何でも来なさいよ」
誰もいない屋敷に、不機嫌な独り言が流れていく。
残念ながら、もう何が書かれていても、自分を驚かすことなどできない。
紫にとって、式達に拒絶される以上のショックなどないのだ。
だが、廊下を曲がる前に、ちょっと足が止まる。
もし……悪口ではなく、やはり絶交の引導を渡す言葉が書かれていたとしたら。それも橙の字で。
あんたなんか要らない、とか、さようなら、とか。もしくは無言の回答とか。
昨日、藍の姿で話した限りでは、自分は橙に怖がられても、嫌われてはいないようであった。
しかし、一日で評価がひっくり返ってしまった可能性がある。
だとすれば、
「……はっ。式に翻弄される主なんて、冗談にもならないわ。ましてや橙は、まだ幼い式の式じゃないの」
何もない空間に向かって、スキマ妖怪は自信たっぷりに言った。
とはいえ、一度深呼吸してから、鏡の前に向かうことにする。
「………………」
つむっていた目を、そろそろと開けていく。
両頬に小さく何かが書かれているのが見えた。
とりあえず、無言の回答ということはなかったわけで、少なからずホッとした。
しかし、何だろうこれは。
ペンで書いたような細かい字は、やはり橙の筆跡のようだが。何かの文章になっているようだ。
紫はそれを読み取ろうと、鏡に顔を近づけていく。
「…………え?」
薄くくもった表面に、ぽかんと口を開けた顔が映る。
鏡の中のスキマ妖怪は、呆気にとられていた。
それは、八雲紫の一生においても、滅多に味わえない感情であった。
地獄の断崖絶壁から、楽園のお花畑へと飛び降りたような衝撃。
「そんな……」
文字の一つ一つを呟くと、ふさがっていた胸が、じんわりとした温もりに開かれていくのが分かる。
その温もりが、白い頬を伝って、ぽたりと落ちる。
ついには腰から力が抜けて、ぺたんと、床に座り込んでしまった。
「まいったわね……あの子たち」
八雲紫は苦笑して、そっと目じりをぬぐった。
それから彼女は、いそいそと支度をはじめた。
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紫様へ
おどろかせちゃってごめんなさい
私も藍様も、もう怒ってませんよ
お昼ご飯も、ちゃあんと用意してあります
場所は冥界の桜並木です
二人で作ったお弁当を広げて待ってます
私たちだけではさびしいので、なるべく早く来てくださいね
式の式より
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紫様は寂しいんだろうなぁ…
誤字報告
>>まさかかまさかまさか!
'か'が一つ多いです。
でも橙はどうやって最後の文章を紫の頬に書き込んだんだろうかw
かなり細かい字で書いたんだろうなぁ……w
楽しく読ませていただきました。
主と式という関係だけど、それ以上に家族である感じがすごくいいですね八雲一家は。
また次回作を楽しみにしてます。
ゆかりんが老眼で読めない…なんてオチじゃなくてよかったw
八雲一家はやっぱり一家だな
みんな可憐で魅力的でした。
ところどころの小ネタもクスリと笑えて良かったです。
超必殺技で若返る紫・・・許せるっ!
しかしスゲぇアダ名思いつく主従だなww
これで実は目覚まし時計に化けてたりしたらひどいですねwww
もっと簡潔にして欲しかった。
しかしとんでもねぇあだ名だww
(以前書いたコメントが削除されていたので再度)
温かいのう
紫視点の場面もハッピーエンドは読めているけれど、読んでいて安心感もありましたし紫様に感情移入できてすごく心が温まりました。
なにより、こういった八雲家はすごい新鮮でした、たまには式たちにいい意味でやられてしまう紫様もいいものです。
ただ、橙のメッセージが顔に書いたにしては長すぎるのが不満です、紫様の顔は文字だらけになってしまっているのではないでしょうか?w