野球とは何か知っていますか、と慧音は子供達に尋ねた。
子供達は知りません、と答えた。
知名度で言えば蹴鞠よりも低い野球。大人ですら知っている者がいないのだから、子供を無知だと罵るわけにはいかない。
それに、元々今日は野球というスポーツを教える為に集まって貰ったのだ。
ここで子供達が知っていると答えるのなら、慧音のロングホーンが炸裂する。
さりげない理不尽さもまた、上白沢寺子屋勉強塾の魅力だった。
「慧音先生、野球って何ですか?」
「良い質問だ、ワトソン君」
「太郎です、先生」
慧音は懐から花を取り出し、出席簿の間に挟んだ。
そして体重をかけながら、笑顔で生徒達を見渡す。教室は俄に押せ押せコールで包まれ、やがて見事な押し花が出来上がった。
それをゴミ箱に捨てて、慧音は代わりにチョークを手に取った。
なけなしの予算で買った黒板に、白く丸い円が描かれる。
「これは何に見える? 桜の木を切ったのはワシントン君」
「太郎です、先生」
「正解だ。これは太郎君の輪郭なんだよ」
満足げに頷いて、黒板消しが振るわれる。幽玄の如く太郎の輪郭は消え去り、哀れ白い粉となった。
「では話を戻そう。太郎君と野球はどういう関係なのか、みんな分かるかな?」
野球を知らない子供達。当然の如く、答える声はあがらない。
服にかかった白い粉を払いながら、慧音は前列の男子を指さす。
「先生、昨日妹紅に爪を切って貰ったんだが。綺麗だろ」
男子は辺りを見渡して頷いた。他の子供達もしきりに頷いている。
ここで下手くそですねなどという命知らずな発言をしようものなら、普通に頬を叩かれる。
割と独裁政治が敷かれているのだが、これに異論を唱えるだけの権力と腕力を持った児童はいまのところ一人しかいない。
ちなみにその生徒は迷いの竹林で人間の警護をしており、おそらく入塾させられていることなど知らない。
しかし妹紅絡みで無ければ、慧音先生も鬼というわけではない。ワーハクタクだ。
尻を触れば法に訴えかけてくるし、角に触れば法に訴えかけてくる。
「先生、先生」
「ん、どうしたモケイネさん。話は変わるが、モコケイネに改名する気はないだろうか?」
「ありません。それよりも、野球とは何なんざますか?」
「ざますか。幻想郷らしい良い語尾だ。花丸をやろう」
そう言って、少女の手の甲に判子を押した。赤い字で慧音という名前がくっきりと浮かび上がっている。
少女は礼を言って、手の甲をハンカチで拭いた。
「野球とは即ち、これを打ち合うスポーツのことだ」
そうしてまた、黒板に円が描かれる。
前列の男子が手を挙げた。
「太郎君ですか?」
「そうだ、太郎君だ。この太郎君を打ち合う太郎技の事を、野球というんだ。みんな、わかったかな?」
はーい、と元気の良い返事が教室中に響き渡る。
三半規管を揺さぶられた慧音はよろめきながら、教壇にもたれかかり、ふらふらの手で黒板を指さす。
「それじゃあ、実際に野球をしてみよう」
その発言に、俄に太郎という名前の生徒が慌てだした。
教室の半数を埋め尽くそうという太郎。
彼らが動揺するものだから、塾全体が右へ左へと大きく揺れる。
「落ち着け、落ち着け。太郎君といっても、何も人間の事を指しているわけじゃない。ファミレスだって御器かぶりの事を太郎さんと呼んだりするだろ」
「先生、ファミレスって何ですか?」
「ファミリーレスの事だ。家族で行くな。誰か消えるぞ」
セルフ神隠しの事かと生徒達が騒ぎ出す。
いずれはファミレスについても、ちゃんとした知識を教えないといけない。慧音はそう決意しながらも、とりあえず今は野球だとばかりに教壇の中から生地を取りだした。
あらかじめ用意して、こねておいた蕎麦の生地だ。
「はい注目。これが太郎君だ」
天井高く掲げられた生地。
白くふわふわしてそうなそれを生徒達は神々しい物でも見るような目で眺め、口々にやっぱり深爪してないかと囁きあった。
これは学級崩壊に繋がるから戒めようとした慧音だが、敢えて生徒達の自主性に任せるのも有りかもしれないと考え、しばらく放っておくことに。
「あれ爪じゃなく瓜だろ?」
「本当だ。深瓜だ」
「瓜ざます」
「ざます?」
「ざます!」
「ザーマース! ザーマース!」
子供達の熱狂的なコールに後押しされて、恥ずかしそうにモケイネが教壇にあがる。
生地を掲げたままの慧音は横においやられ、日の当たらない場所に置かれた。
「えー、この度ザマスに就任することになったモケイネです。みなさんと共に住みよい町作りをしていく覚悟ですので、どうかご声援のほどよろしくお願いします!」
「します?」
「ざますじゃないのか?」
「解任! 解任!」
突然の解任劇に涙を流しながらも、毅然とした態度でモケイネは教壇から降りていった。
一通り事の成り行きを見守っていた慧音。
生徒達が静かになったところで、説明を続ける。日の当たらない隅っこから。
「それじゃあ野球を始めようか。まずバット」
窓を開き、乾燥させた状態の角材を引っ張りこむ。
それを匠の技術で削るのかと、生徒の誰もが期待した。
プレッシャーのかかる視線に晒された慧音。
しかし動じる様子はなく、平然とした顔で木材を真っ二つに割る。
いやよく見れば、それは乾燥した木材ではなく四角く長いバットケースだったのだ。
なんという大胆な発想。これには生徒達からも感嘆の溜息が漏れる。
あれならば犯罪にだって使えそうだ。
犯行現場にバットケースがあれば誰もが不審に思うけれど、角材があったところで怪しむ者などいない。
「見えない奴は前に来てもいいぞ。これがバットだ」
ケースから取り出したバットを握り、高々と掲げる。
「先生、それはバットじゃなく麺棒だと思います」
生徒の一人がそう言った。
「麺……棒?」
確かめるように何度もバットを観察する慧音。
グリップが無かったり、全体的に平均的なフォルムでようやく気付いたらしい。
「ああ、これは麺棒だな。いやあ、すまない。先生ともあろうものが、うっかりしていたようだ」
照れくさそうに頭を掻き、生地を教壇に叩きつけた。
それを麺棒で伸ばし、どこからともなく取り出した包丁で切っていく。
出来上がった麺を茹で、あらかじめ用意していたツユを小さなお椀に入れておく。
茹であがった麺をザルに盛れば、もう完成だ。
蕎麦を子供達に配り、自分も教壇へと戻る。
「それでは皆さん、プレイボール!」
「プレイボール!」
些か場違いな掛け声。しかし、それを指摘できる者は誰もいなかった。
各々が満足げに切り刻まれた太郎君を啜り、舌鼓を打っていく。
「どうだ、みんな。野球は楽しいか?」
生徒達は笑顔で答えた。
「蕎麦美味しいです!」
幻想郷に野球が広まる日もそう遠くない。
慧音はそう思いながら、深爪している事に今更ながら気付いた。
って慧音! 違うよ! いろいろ間違ってるよ!
なんだこれ!
ザマスは間違いなくカリスマがあふれているに違いない
私は黒い野球の方が好きですが。………………アレ?
蕎麦一つ!w
太郎くーーーーん!!!!!!wwwwww
実際にカオスなだけだったw