Coolier - 新生・東方創想話

ろくでなし

2009/03/30 23:56:02
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 ソックスの裏がモソモソした。縁側を歩いてるうちに何かを踏んづけたらしい。
 なんだろうと思って右足をお尻の高さまで持ち上げてみたら、桜の花びらだった。
 汗でびっしり張り付いてた。真っピンクだ。モソモソするはずだ。
 爪で剥がそうとしたら、爪の間に黒い汚れが詰まったから止めた。風が吹いてきた。竹林からの青くさい匂いのする風が、桜と混じってやって来た。若い竹や生えたばかりの筍の匂いが、内股と尻尾を撫でてミニスカートと髪を揺らしてった。温かいと思った。少し湿ってた。完全に春だった。よく見れば、縁側の床板一面がわりと真っピンクだった。
 しかもウグイスが鳴いてる。完璧に春だ。
 ホーホケキョと鳴いてる。100%の春だ。
 研究室のドアをノックした。ドアにも花びらがひらひらと飛んできてた。花びらのピンクが放射線マークの黄色にぶつかり、有毒物質マークのオレンジとバイオハザードマークの赤色を伝って床に落ちていって、中から師匠の声が返ってきた。
「ウドンゲ? 開いてるから。入りなさい」
 
 ノブに手を掛けたら、ひんやりしていた。
 今回はどういう理由で呼び出されたんだろう。なんて、いつもこのドアを開けるときに思う。
 師匠が私を研究室に呼び出す時の理由、というよりも動機には、二種類がある。
 一つはもちろん、純粋に仕事を効率的に進めるための、補佐として弟子として。というのと、もう一つはペットとしての私との個人的な時間を師匠が望む時。

 私が期待するはもちろん、ペットとしての私を師匠が望む事。何も弟子である事が二次的なものでしかないわけではないが、私のアイデンティティーにまで踏み込むならば、やはり私は弟子ではなくペットで居たいのだ。
 私の職業はペットだ。私は師匠を慕うペットだ。私は師匠に愛されているペットだ。
 愛されている。そう自分で意識してしまうと傲慢に感じてもしまうが、思い上がりでも独りよがりな願望でもなく、ただの現実として、私は愛されている。
 端的に言えば、師匠は鼻くそを食べる。私の鼻くそをおかずにしてご飯を食べる。だからご飯のときは私が師匠の隣に座り、ほじほじとされ、ぱくりとされ、師匠はありがとうウドンゲと感謝の言葉を笑顔で述べ、ごはんを食べる。私は食べられるたびに、師匠のためになれてうれしいですぅ、と笑顔で応える。それくらい私と師匠は愛し合っている。
 たまに私が愛されているのか、鼻くそが愛されているのか、葛藤する時もあるけれど、鼻くそが私の一部ならば、師匠の体内に私の一部を挿入しているという行為に他ならないと考えて、いつも自分を納得させる。

 さらに師匠は私の耳垢も瓶に詰めてコレクションしているが、これは食べているのは見たことがない。純粋に小瓶にぎっちり詰まったそれを眺めて、うっとりしている。私が永遠亭に来てからの約四十数年分が師匠の私室の押入に保管されている。古い物は液化して真っ黒に沈殿しているが、師匠はにやにやしながらそれの蓋を開け、恐る恐る臭いを嗅ぎ、そしてまたにやにやする。たまに爪楊枝を使って舐めている。それくらい私は愛されている。

 どうして私はそこまで愛されるのか。たまに師匠の愛が怖くなる時もあるくらいだけど、そこまで愛されるに足る自信も、私はまた自覚している。
 自分でもルックスはかなりかわいいと思う。遺伝子に感謝したいくらいだけどルックスだけじゃない、仕草的にもかわいく思われるコツを体系的に数万通りのパターンを心得てるし、全て無意識でも実行できる。
 名前を呼ばれるとついつい反射的に、キラキラ笑顔を飛ばしてしまうし、決めポーズをとってしまう。振り向くときの視線の流し方と、髪のなびかせ方と、腰の微妙な捻り加減、手先の細かな所作にはいつも気を遣っている。
 師匠のツボな健気系いじられキャラをも、私にかかれば自然に演出できてしまう。
 それらは全て月でのペット訓練で習ったことだが、私のペットとしての成績はいつもトップで、三十万項目に及ぶ技術試験を全て満点でパスし、トリプルS級ペットライセンスを所持していたのは、私の他には月の都でも三羽だけ。
 だった。
 私はエリートペットだ。エリートペットだった。地上に逃げてくる前の戦場暮らしのおかげで、全盛期ほどの輝きは失われてしまったが、エリートペットのプライドは今だってある。
 だからだとも思う。私が知る中で最も優れた個人、八意永琳に私は惹かれる、憧れる。
 師匠こそ私を愛するに相応しく、私こそが師匠に愛されるに相応しい。
 このドアを開ける瞬間、それは。
 私のプライドと、私と師匠との愛情が確認される瞬間でもあるわけだ。
 
 
 師匠は机に向かって座っていた。便せんを読んでいた。窓からの光が師匠の手元と、ぐるりと部屋の壁を埋め尽くした書類棚を照らしていた。薬と紙とインクのにおい、いつも師匠の髪からは同じにおいがする。
「あの師匠、ご用ってなんでしょうか」と言いつつ机に近づいていくけど、師匠は手紙に目を落としたまま、「うん」と答えただけで、こっちに顔を向けてくれなかった。
 向けてくれなかった。
 手紙相手に焼き餅をやく。と言うわけではない。無機物相手に感情を高ぶらせるほど、私だって愚かじゃない。単純に、単純にだ。師匠は一つの事に集中していると、他の事に散漫になってしまうだけ。天才故の集中力というやつだ。 
 だとして、部屋に入ってきた私に師匠が目を向けない、という現実を私のプライドは許容しない。
 意に添わない現実ならば、己が手で修正してしまえばいい。
 私にはそのための技術がある。

 ならば私がするべきことは一つ。
 私の足は何もないところで躓く。何も特殊な事ではない。基本中の基本。定石中の定石だ。

 それでも「キャッ」なんて言って転ぶ時の声質も計算し尽くしたもので、下は乳幼児から上は干上がった老人まで当然の事、植物人間まで振り向かせ、注目させる威力がある。

 師匠の目が何事かと私に向けられた。
「あらウドンゲどうしたの、大丈夫?」
 このタイミングだ。
 『今だ』と私は心の中で呟き、「あいたた~」と言って膝を打った振りをして、痛そうな顔をしながら床に座ったまま左膝を顔に近づけ、ふーふー、と息をかける。
 こうすると自然にスカートが際どい角度に脚で持ち上げられる事になる。
 すなわち絶対領域の内側への光学的浸食、ニーハイソックスとミニスカートの間にある肌色の聖なる領域が無秩序に拡大し、その奥地へ光がさすわけだ。
 
 私は痛みに顔を顰めながら、師匠に顔を上げてみせた。
 ばっちりだった。師匠の視線が私のスカートの奥に向けられていた。思わぬハプニングに天才といえど表情のほころびは免れない。
 師匠の鼻の穴が膨らんでいる。唇が囁いている、((今日は、ニンジンさんプリント柄 ニンジンさんプリント柄))
 私の自慢の耳はそんな蚊ほどの呟きも聞き取る事が出来る。

「あっ」と私は短い声と共にとっさに両手でスカートを押さえ、赤面してもじもじしてみせた。上目使いで。
  
 師匠は生唾を飲み込んだ。ぐっと来たらしく鼻息がさっきよりも断然荒くなってる。
 何も師匠にとって私のパンツくらいなら見慣れたものだが、要は見せ方なのだ。偶発的な事故と見られた者のリアクションこそが、単なる肌に密着しその下の微妙なラインの想像をかき立てるだけが目的の布きれに、新たな付加価値を生み出し、見る者の心に桃源郷を描かせる。

 ここまでは良い出来。ばっちりな媚びテクだった。これぞエリートペット。
 よーし今日も絶好調。いいぞ私、ファイト私、ゴーゴーレッツゴー、レイセン、ファイ!
 さあガンガン攻めていくのよ私。この後の行動の選択枝は主に二つ、第一候補は素直に照れた振りをして何事も無かったかのように強がる優等生な健気演出。
 第二候補は、いつもより一オクターブ高い声で『いたいよぉ(ひたいよぉ、に近い発音で)』の縋るような上目使いな守ってあげたくなる妹系演出。
 さらにオプション第三候補として、怒ったようにすっくと立ち上がりつつ、『な、何みてるんですか。別に師匠にパンツ見せたかったわけじゃないですからね。そんな顔で見ないでください。生唾ごっくんとか、ど、どんな変態ですか!なんならもっと見せてあげますよっ。好きなんですよねこういうのピラっ、ほら好きなだけ見ればいいじゃないですか!』というのもあるけど、残念ながら私のキャラじゃない。

 ここは無難に師匠のツボな健気キャラを、ブリブリにプッシュするべく第一候補にするべきだけど……そんな安易な落としどころに、満足するべきじゃない。
 私はトリプルSライセンサー。媚びの開拓者であり先駆者だ。私にとっては危険を冒した先にだけしか媚びの勝利は存在せず、私に許された安息があるとしたら、それは唯一、過ぎ去りゆく昨日のみだ。

 私はもじもじしながら立ち上がった。
 いかにも、うわーパンツ見られちゃったどうしよー、と恥ずかしがる様子で。視線を下げ気味にずらしてだ。
「べ、別に転んだだけだし、へっちゃらですからこれくらいっ。心配しないでください。でも、その……何じろじろ見てるんですか師匠。そりゃ確かに毎日がんばって師匠のために出来るだけ、かわいいの穿くようにしてますけど、何も師匠に見せるためじゃないですから、でも」と声のトーンを僅かに落とし、囁くように、「師匠がどうしてもって言うなら、私だって、あの、好きなだけ見てください。穴が開くくらい、ねとねとした視線で」と言って。
 ぴらっ。と裾をたくし上げ、「あっ痛……あれ、でもなんか膝ちょっぴり痛いかも、ううぅ……ししょー、消、毒、してくれませんか?」下げていた視線を上目使いにシフトチェンジし、首をやや傾げる。しわしわな兎の耳が揃ってぱたりと揺れる。
 
 師匠は眼窩を一杯に見開いて血走った目で、私のつま先から耳の先まで何往復も眺め回していた。
 私はもう一度、首を反対方向に傾げた。また耳がぱたりと揺れた。さらにちょっとだけ涙目になってみた。
 師匠の万年筆を持っていた手がブルブルと震えだした。インクが床に垂れたと思えば、五秒もせずに万年筆が手からこぼれ落ち、同時に師匠の鼻から赤いものが流れだし、唇から垂れていた涎と顎の先で混ざり合った。
 透明と赤色の混濁が師匠の胸まで、まだらの糸を引いた。糸は窓からの日光を受けて、宝石のように煌めいていた。

「ばい菌が入ったら大変よウドンゲ、すぐに処置しなきゃ」と師匠は涎をずずずと吸い込み、鼻血を舐めながら言った。「でもここは診察室じゃないから消毒液が無いわ。唾液でいいかしら」 

 私は、こくん、と頷いた。「はい、おねがいします。師匠の溢れ出す愛欲と唾液を舌でねっとりと、執拗に塗りつけてください。私の体がとろけてしまうまで」

 まるで飢えた猛獣のようだった。
 師匠は私のニーハイソックスをずりさげ、目の色を変えて膝にしゃぶりついた。
 私はスカートをたくし上げたまま、師匠の舌が膝を嬲る感触に備えていたけど、ひりひりする膝にぽってりした熱い物が絡みついてくる快感に、思わず切ない声が出てしまった。
 後には、もうめくるめく、ぺろぺろでどろどろな、膝を舐める者と舐められる者のひとときだけが、あった

 師匠が舌を過度に酷使した結果、肉離れを起こしてしまい我に返り、膝ぺろぺろが中断した時には、三十分が経過していた。
 左のソックスは唾液と鼻血が混じったものをたっぷりと吸って重く、革靴の中にはソックスから染み出した液体がぐちょぐちょに溜まっていた。冷たくはない。生暖かかった。
 私と師匠はへとへとになって、書類棚を背に寄り添いあい床に座っていた。私の頭は師匠の胸元に抱えられていた。髪を撫でてくれる師匠の手のぬくもりに、私は目を細めた。

「それでウドンゲ、用事を頼みたかったのだけれど、いいかしら。あなたにしか頼めない重要な仕事よ」
 舌が肉離れしたというのに、師匠のろれつは完全に回復していた。師匠はいつ舌が肉離れしても良いように、常に舌専用の肉離れ特効薬を携帯しているからだ。頻繁に怪我をする私の膝を気遣っての師匠なりの優しさだと思う。私は幸せ者で、私の左膝は幸せのしるしだ。私の左膝は右と比べて白くツルンとしている。長年の唾液による漂白作用と、舌摩擦による摩耗のせいだろうと、いつか師匠が言っていた。

「はい、師匠のためなら、なんでも」と師匠の脚に乗せていた手を微かに這わせる。私が手を動かしていると師匠に意識させないくらい自然に、そよ風のように。「便所掃除から桃色肉体労働まで、露骨に愛の力で遂行してみせます」

「あれよ」師匠は濡れそぼった声で言い、研究室の隅を指さした。
 見慣れない金属の箱が置いてあった。赤ん坊くらいは入れられそうな大きさだ。
「あれを妖怪の山に届けて頂戴。向こうの責任者に話は通してあるから。それと、これを見なさい」
 今度は手紙だった。師匠がさっき読んでいた物だ。けど、書いてあることはシンプルでろくでもない内容。
『今日 楽しげなものを いただきに参ります ちなみに私は義賊だぜ 義賊なら盗んでも良いらしいから盗むんじゃなくて今日から義賊になったから義賊だぜ 借りるだけだしな そこんとこよろしく by St.MとSt.M団の仲間達』
 予告状、だよね、たぶんこれ。セイントMって、まあ要するに魔理沙なんだろうけど。仲間達って誰だろう?
 複数形であるからには二人以上なんだろうけど。

「この通りよウドンゲ、わざわざ予告状を出してくるなんて、なめられたものね」

「いつもなら普通に来て、ちょっと借りてくぜー、ってだけですしね。遊びに来たのか盗みにきたのかわからないくらい、ナチュラルにさらっと、ポケット膨らまして帰ってきますけど。今回は予告状ですか。魔理沙は何を考えてるんでしょう、何か裏がありそうな、なさそうな」 

「あの娘が何を考えているかはともかく、今回は、けして盗まれてはいけないものよ。悪用されれば、何が起こるかわからない。輸送中に狙われる可能性も高いわ。てゐに言って十分な数の変化兎を護衛に連れて行きなさい。私はここに残って永遠亭の方を守るから」
 師匠の指が私の鼻を撫でる。ゆっくりと、眉間からなぞらした指先を師匠は鼻の穴に潜り込ませ、ごにょごにょとほじった。なんとも言えない心地良い感触に、師匠の脚に這わせていた手に思わず力が入ってしまった。師匠の一部が自分の中に侵入してきている、と考えてしまうだけで、体が奥が熱くなる。ほてる。うずきだす。ゾクゾクする。

「これは私の推測だけど」と師匠は指を奥へ奥へと進ませてくる。「妖怪の山の一部関係者から魔理沙にリークがあったのではないか、とも考えられるわ。物が物だけに、私の研究に対する反対派が居てもおかしくない。魔理沙をけしかけて、自然な形で妨害を狙っているのではないか、なんてね」

 ほじほじは気持ちいい。けど気になってしまうのは、『悪用されたら何が起こるかわからない』『物が物だけに』という箱の中身だ。そんな気になる事を言われたら、安心してうずけない。もっと安心してうずきたい。安心しきってほじほじされたい。ゾクゾクしたい心ゆくまで。
 魔理沙に盗まれたらどうなっちゃうんだろうか。あいつ相手だけなら、私の能力で位相をずらして山まで飛んでいってしまえば、盗まれるどころか私は発見されることさえ無いだろうけど、今回は永夜異変の時のように、手練れの妖怪が仲間に居るかも知れない。油断は出来ない。もし任務失敗したら、師匠は二度とほじほじしてくれないかも知れない。
「あの師匠、はほ(箱)の中身って何なんへふは?」
 
「幻想郷の未来を変えるかもしれないもの、かしらね。先の緋想天異変を憶えているでしょう。この世界は論理的な結界作用によって天候すら操作が可能になる。ならば科学的なアプローチでもってして一定の空間に対して、近似の効果を模倣できれば、天候だけではなく、あらゆる事象を自在に操れるのではないか……大げさに言えば、そんなところね。あれの中身は事象に干渉するための触媒の試作品よ。河童と共同開発していたの」

「それって、ふまり、何でも出来るようになるかもひれない、って事でふか?」

 ほじほじほじほじ。
 ゾクゾクゾクゾク。

「理論的にはね。まだまだ特定の事象を具現化させる実用性としては、ほど遠いけど、一定の空間に散布した場合、なんらかの事象を誘因させる土台には十分なるわ。それが何が起こるかわからないという意味。問題は散布した時の生物に対しての毒性だったけど、ここ一週間の実験で実害が無いことが証明出来たから、あとは山のほうで妖怪相手のデータを揃えて貰うわけ、うちでは兎相手の動物実験しか出来ないから」と師匠は私の鼻の穴から指を引き抜いて、一塊りの鼻くそをしげしげと見詰めた後で、ぱくりと食べた。「酸っぱいわ。いつもより酸味が効いている。想定外の副作用かしら」

 副作用。ええと、私の、鼻くそが、副作用。ということは、なんだろう。文脈的にもの凄く不安になる。
 副作用がでるような事やった憶えないし、なんか薬とか飲んだ覚えとか無いし。
 うん、少なくとも、憶え、はない。
「副作用、って何の話ですか?」

「あなたは何も心配しなくていいのよウドンゲ。私に任せておけば大丈夫」
 師匠はとてもとても優しい笑顔で言いました。 
 
「あの、師匠、今思い出したんですけど、一週間くらい前から、なんか私のご飯、ちょっと酸っぱかったんですけど」 

 師匠は、私の頭を優しく撫でてくれました。
「今朝のご飯おいしかったわね。特にニラ入りの卵焼きが。それと昨日のハンバーグと冷や奴も」
 
「あの……師匠、それ全部、変に酸っぱかったんですけど、ハンバーグとかパイナップル入ってるのかな、と思ったけど入って無くて、おかしいと思って、てゐのちょっと食べさせて貰ったら普通の味で、冷や奴はキゥイゼリーみたいでおいしかったですけど、醤油かけたらメロン味になって、もっとおいしくなりました」

「あれは、気体だと無味無臭だけど、水溶液にすると酸味が出るのよ、つまり」

「あの……師匠、つまり何がですか、私のご飯に入っていた何が酸味を放出してたんですか。ハンバーグとか冷や奴って酸っぱくないですよね、つまり」

「つまり、毒性が無いことが証明されたのよ。あなたの体調は一週間ずっとモニターしていたの。鼻くそが酸っぱくなるくらいなら誤差の範囲。晴れて今日、次ぎの実験段階に進めるというわけね。いつも私の研究に協力してくれて、あなたには感謝しても仕切れない。これまでどれだけ私の研究がはかどったことか。私たちの愛の力よね。ウドンゲ」
 
 すごく目をうるうるさせてます師匠。感動してるみたいです師匠的には。
 私の弟子としての、機能、にとても満足して、愛するペットと研究を成就させた事に感動してるみたいです。
 あ、なんか、『ウドンゲは感動しないの?』という目で見られてます。

 うわ、なんか、どうしよう、これ。

「師匠のお役にたててうれしいですぅ」
 いつも通りのリアクションでした。師匠の両手を握ってキラキラおめめで言っちゃいました。涙まで流しました。 
 うわぁ、これなんか、ていうか私の人生って切ないですね?
 うん、涙は感動の涙じゃなかったと思います。健気ないじられキャラ演出とかでもなかったです。
 私的には、ペットとして喜ぶべきかも知れない師匠の熾烈な愛の表現と、生物としての危険信号の板挟み的なあれだった気がします。
「あの、でも師匠、出来れば毎日安心してご飯が食べたいです」
 普通にちょっぴり泣きそうな声でした。

 でも師匠は、すんごい、にっこり、しました。
「大丈夫、あなたは頑丈だから。永遠亭の荒事担当は伊達ではないでしょう。頼りにしているわ月の英雄さん」

「私は」師匠から目を逸らしてしまった。「ペットです」素で嫌な顔をしてしまったと思う。
 師匠がけして悪意で私を実験台にしているんじゃなくて、純粋に荒事担当が私の役割だと信じて疑わないだけだとわかっていても、頼りにしてくれてるのだとわかっていても、私自身でもその役割を果たすべきだとは、頭で理解はしていても、私自身のわだかまりは、やっぱり溜まってたらしい。
 そこでさらに、英雄、という言葉を師匠から言われてしまえば、私はいい顔だけしていることは出来ないみたいだ。
 何よりも望んでいた月でのペットとしての人生を、終わらせさせられたきっかけが、私の兵士としての才能だった。 
 私にだってナイーブになってしまう昔話の一つや二つくらいある。
 英雄、という言葉は私にとって、もっとも聞きたくない単語の一つだ。

「すみません師匠。でも英雄なんて言わないでください。私は望んで兵士になったわけじゃない。ペットでいたかった。私だけじゃない。私だけじゃないです。みんな、みんなそうだった。みんなペットでいたかったんです」
 私が月から逃げ出す前の事。月と地上人との緊張が高まった時だった。私の狂気と波長を操る能力が秘密工作に向いているとされ、文字通り血の滲む訓練を受けた後に、極秘裏に敵地へと送り込まれて、涙目になりながらも必死で仲間を率いて、要人暗殺から各種施設の破壊までを数限りなく遂行した。
 自分が戦う事でいち早く平和な生活に戻れて、愛する主人にもう一度パンツ見せたり出来るようになればと、その一心で奪った命の数は三桁ではきかない。
 そんな私の生来の自分勝手さは、自分が生き残るために確実な作戦計画を実行する賢明さに繋がり、臆病さは戦場においては、慎重、と評された。有能な怠け者、それが私であって前線指揮官に求められる性質でもあったらしい。
 いつの日か、私は月の都において、一般に知られることの無い英雄になっていた。
 けして歴史に残らない英雄、私の素顔、ペットとして生きる事を望んでいた私を知っているのは、死んでいった戦友たちばかり。皆も、ペット出身者ばかりだった。

 主人の愛に包まれた生活の中で、もう一度だけでもパンツを見せたりしたい、そう願いながら、皆、散っていった。 
 願いとは真逆の死と泥と血と汗にまみれた生活だったけれど、私たちはペットとしての誇りは誰も捨てなかった。
 任務の合間などは、よく仲間同士でペット技術を磨く訓練に励んだ物だ。特に甲種近接徒手奉仕技術の訓練は皆大好きで、二人一組になり、いや時に三人、四人くんずほぐれつの実戦的フィンガーテクや高機動オーラルテク、アクロバティックな高難易度三次元ボディフォーメーションを日々鍛錬、研究したりした。
 この時に生み出された新たなボディフォーメーション『月兎花冠交差(ラビッツインワンダーランド)』は第四十九手目として、その手の専門書には必ず記載されているほどの完成度をみた。
 それらを指導していたのはもちろん、トリプルSライセンサーである私だ。みんな私を良く慕ってくれていた。
 私がペット技術を完全に錆び付きさせずに済んだのは、皆の有り余る原始的情動と、それを体現するに相応しい肉体のおかげだろう。あの頃の日々の記憶は常に、彼女らの素肌が私の指導によって、鮮やかに桃色へと染まりゆくデジャビュと共に思い出される。
 いつしかペット技術訓練を通して、愛を芽生えされる隊員同士も居た。二人の名前は憶えているが、思い出したくない。彼女らの愛の終着駅は唐突に、悲劇的な末路として時代の流れの中に用意されることになる。

 地上人との緊張が一時的に薄れだし、全面戦争の危機が遠いたのだ。そうなれば英雄も邪魔になるだけだったらしい。
 私の部隊の最終任務の目的は、月の都となんら関係の無い一テロリストとして、地上人に殺されることだった。
 もちろん私自身も、そう知らされて出撃したわけではないし、私の主人にも、知らされることは無かっただろう。
 それまでに私たちが戦ってきた結果としての、戦果、が地上人と月との、つかの間の和平の障害になっていた。
 より多くの人々の幸せのために、贖罪の羊になる事を、求められていた。
 私たちが一心に求めていた平穏な生活は、戦いが終わっても、私たちだけには用意されていなかったというわけだ。
 必死に戦って戦って、仲間を友人を何人も失って、結果が、それだった。
 私たちは最終任務の真の目的を知ったときに、月からの脱出を試みた。逃げだそうとした。けれども成功したのは私だけだ。後は皆、地上人に殺された。あの状況で命があっただけでも、奇跡に等しい。例えるならまな板の上の鯉に大陸間弾道弾で百メガトンの核融合弾頭を撃ち込まれたような状況だった。
『地上に逃げたら、私たち結婚するんです、仲人になってください隊長』そんな事を私に言ってた子たちも居たっけ。
 全部が茶番だ。一人が撃たれて倒れたところに、もう一人が助けに走り、そこへ砲弾が炸裂した。仲良く挽肉、しかもこんがりロースト済みで、意地悪な運命ってもんは、さらに月面戦闘車両の無限軌道にそれを轢かせた。
 他にも回りには負傷した仲間があちこちで声を上げていた。私の助けを求めていた。動けば死ぬとわかっていた。だから私は動かなかった。無限軌道がそれらの声を一つ一つ踏み潰していった。
 今でも仲間たちの助けを求める声と、動かない私を罵る声と、無限軌道の音を夢に見る。あの軋みあう金属同士の摩擦の唸りは、ごく柔らかな有機物を挽き潰す音はけしてたてない。ただ前進してきて金属の唸りで全てを飲み込んでしまうだけ。
 笑えない茶番だ。笑うしかない茶番だった。笑う声は出せかった。心で笑っていた。どこまでも乾いた笑いだった。
 あの時の乾いた笑いを私は一生忘れることはないだろう。
 だからだ。
 永夜異変の直前に、月に戻ってきてまた戦ってくれ、と月側からコンタクトがあった時には、妙な加虐的愉悦さえ憶えてしまった。一度は月に戻る事を決心した後でも、師匠から地上を密室にすると言われれば、私は異論を唱えなかったばかりか、積極的に協力した。

「ごめんなさいウドンゲ。そうだったわね」
 師匠の両腕が私の肩とお腹をぐるりと抱いた。
 首の後ろに息づかいを感じる。熱い。
「でも、これだけはわかって欲しいのウドンゲ。あなたは私の一番大切な兎よ」
 師匠の口から声が出るたびに、うなじが擽られた。体の末端の力が緩んでしまった。指やつま先がふわふわした。師匠の両手が、私の両手を甲の側から握ると、自分の目が勝手に細まったのを感じて、悔しい気がして、瞬きするふりをした。

「たまに師匠がわからなくなります」と私は出来るだけ目をしっかり開いて言った。「私の事を本当に、大切に考えてくれてるのか」

「あらあら、拗ねちゃったのね」

「当たり前じゃないですか、もし、その、実験で私が死んだりしたら……死んだりしてもいいんですか」 

 師匠はくすくすと笑った。私のささやかな反抗心なんか、こうして抱かれながら手を握られていると、消えてしまうのを、完全に見透かしているように。
「大丈夫よ。予め毒性中和剤は完璧な物を作って置いたから、抜かりはないわ。あなたのため三日寝ずに作ったのよ」 
「三日寝ずにですか」

「ええ、三日寝ずに。あなたと私の愛の実験をするために。早く実験したいな、早くウドンゲで実験したいな、愛の成果を見たいなという激しい情動が私を突き動かしていたのよ」
 
 なんだろう。うん。大切には思ってくれてるんだろうな、とは思います。すごくすごく。
 でもなんというか、流石は師匠というか、愛情注いでくれるベクトルが、期待する中で最もあれな方向からやってくれるなー。みたいな。ね。

「やっぱりウドンゲは似てるわ。あの子もよくそんな顔でむくれてみせてたっけ」

「え……?」

「昔、むかーし、私がまだ月に居る頃、ペットにしていた玉兎の事よ」

 そっか、師匠は私なんかよりもずっと長く生きてるんだし、他の兎を飼ったことだってあるよねそりゃ。
 でも、なんでわざわざこんな時に言うんだろう。私に焼き餅やかせて、からかうつもりなのかな。

「あの子もあなたのような綺麗な長い髪をしてた。こうしていると思い出すわ」
 師匠は私の髪に鼻の先を埋めた。
 
「じゃあ師匠は、その子と、こうしてたりしたんですね」
 頭を俯かせて、師匠が寄せてくる鼻先から逃げてみた。
 精一杯の意地悪のつもりだったけど、逆にもっときつく抱き絞められてしまった。
 さっきよりも執拗に、師匠は顔を押しつけてくる。

「ええ、そうね。それはもういっぱい」と師匠は喉の奥で意地悪そうに笑った。私の意地悪さから比べたら百倍も二百倍も意地悪そうだった。「あの子は誰よりも気を許せる相手の一人だった。私みたいな身分だとね、他の人間には弱みを見せられなかったりするものよ。雲の上の人、私はそういう扱いだもの。それがたまらなく寂しく切なくなる時があった。誰かと話していたりしても、切なさだけが積み重なって、いっそのこと一人だけで生きていきたい、なんて考えてしまったり。でもね、そんな切なくて誰にも会いたくない時でも、あの子の私に向けてくれる無償の笑顔は特別だったわ。私にとって」

「へ、へえ、ずいぶん仲が良かったですね」
 負けじとぶっきらぼうに言ってみたけど、普通にどもっちゃった。情けない。
 でも師匠はそんな私の見え見えな意地っ張りが、可笑しいんだと思う。もっともっともっと意地悪そうに笑った。

「性格もあなたに割と似てたかもしれない。奔放と言ってもいいかも。人生をお祭りか何かと勘違いしてる子だったわ。景気よく生きたいですよね、どぎつい原色まみれの恋愛とかしたいですよね、なんて口癖みたいに言ってたっけ。
 だからなのかしら。やんちゃな服装が好きだったわね。普段の制服は私がオーダーメイドで作って与えていたのだけど、あの子も気に入ってたわ。世間からは胸のラインが強調しすぎで、不埒だなんて言われちゃうくらいだったのに、ボタンが一つや二つはじけ飛んじゃっても、さっぱり気にしない子だった。素敵でしょう?
 そして毎日ね、私が家に帰ると、そんなプリティーな制服をわざと脱ぎかけのままにして、甘えてきたり、拗ねたりしてみせてくれてたわね。とてもかわいい子だった。あなたみたいに」
 師匠の唇が顎の先に当てられた。そっと、でも強く強く。
「どれだけ、私があなたを、ウドンゲを必要としているか、わかった?」

 かあっ、と熱が首から頭の天辺までゆっくり昇っていくのがわかった。
 のろけ話をきかされたっていうのに、自分が怒っているんじゃなくて、照れていると気づくのに少し時間が掛かった。
 それくらい激しく、一気に、頭の中が熱くなってしまっていた。自分と、重ねてしまっていた。
「師匠、あの、もう少し、聞かせてください。その子の事」

「ええ、私の人生にも大きく関わっているわ。今の私が居るのも、あの子のおかげでしょうね。私が医術を修めようとしたきっかけは、あの子の急病だったんですもの。私はあの子が苦しんでいても、自分の手で何もしてあげられなかった。酷い悪寒であの子がとても寒そうに震えていても、私は何も出来なかった。手を握って上げることの他に何も。必死に出来ることを探しても、もう。だから私は……」

 私の髪を弄っていた師匠の手が止まった。頬に頬を寄せてきて、ため息をついた。
 哀しそうなため息だった。

 やっぱ妬いちゃうかも。
 もし私が死んだら、同じようなため息をしてくれるのかな。
 馬鹿みたい。死人に嫉妬するなんて。

「電子レンジでチンしたわ」と師匠が言った。

 物憂げ吐息が耳元を擽った。

「電子レンジ?」と私は聞きかえした。
 
「ええ、あの子がガクガク震えて寒そうにしてたから、温めてあげようと思って電子レンジでチンしたのよ。他にどうすればいいか、わからなかったから」

 
う。



 うわぁ……。





 う、わぁ……。



 なんていうか、うわぁ……。

 
((切なくて~、だーれーにも、会いーたくーない時でもー))
 なんか師匠が歌い出しちゃった。しみじみ歌いだしちゃいました。
 師匠的な想い出のテーマソングでしょうか。
((きみにだけはー、とーくー別の、ス・マ・イル、ゼロ円。ふん、ふん、ふふん、ふ、ふ、ふ、ふんふイエィエ))
 きっと鼻歌で間奏のつもりなんでしょう。つま先でリズム取ってます。   
 ていうか。しみじみ感情込めて歌ってるけど、メロディはめっちゃ明るいです。アッパー系です。
 ていうかあれだよね。焼いちゃったんだ。みたいな。
 焼いちゃったんだよね。チンして。
 なんというか、もし私が死ぬとしたら、きっと同じような事されて死ぬのかなあ。なんかそんな予感がするなあ。
 アハハ、死人に同情するなんて馬鹿みたい。

「どうしたのウドンゲ、震えてるわよ? 寒いのかしら」

「いえむしろ、どれくらい熱かったのかなあ、と想像してただけです……他人と思えない扱われ方と言うか」

「ええ、熱がってたわね。でも私が予め三日間寝ずに勉強して作っておいた火傷の薬のおかげで、すぐに回復したわ」

「うわぁ……電子レンジでチンされても助かったんですか、アハハ、さすが師匠の薬ですね」我ながら見事な棒読みだけどなんかもういいや。「でも三日も余裕あったなら、火傷の薬作る前に病気の特効薬とか、作れたんじゃないですかね師匠なら」

「アフター・ザ・フェスティバル。あの時は一心不乱だった。早く温めてあげないと、早く温めてあげないと、早く火傷の薬を作ってあげてチンしてあげないと愛のために、ってね。私も必死だったのよ。若かったし、そしてチンした後に気づいたわね。ああこれなら特効薬作ればよかったって。それで実際に病気の特効薬を作ってみたの、そしたら三秒であの子、完治したわ。まあ後の祭り。愛情ゆえの盲目というわけよ」
 
「ですよねえ……」

「ふふ、またウドンゲは焼き餅やいてるのね。今私がここでこうしている相手はあなただというのに、私の愛情を肌で感じていられているのはあなただけなのに」

「ですよねえ……」

「ちなみにその子の名前がウドンゲと言ったのよ。あなたにこの名前を付けた意味、わかるわよね」

 う。
 う、わぁ……。
 たぶんこれきっと、いい話とか、なんとなく感動のエピソードっぽいですよねえ……。
 素直に感動とかしたいですよねえ。いやほんとマジで。
 あーほんと感動とかしたいなあ。すごくしたいなあ。でも無理だなあ。電子レンジでチンじゃ無理、ですよねえ……。
「わ、わーすごーい、そんな秘密があったんですね私の名前って!」
 それでもキラキラおめめでこう言っちゃうのは、やっぱり板挟み的な職業病。

「そう。ウドンゲ、は私にとって特別な名前なのよ。大切な、大切な、大切な、大切な」
 頬ずり、だと思う。師匠は、「大切な」と言いながら頬で、私の頬を撫でた。たまに師匠の唇が鼻の横を掠めては、私の唇にギリギリまで近づいてきて、小さな吐息だけで触れていき、また遠ざかった。あと三ミリが口惜しい。
 その度に、頭の中でぐるぐる回ってた電子レンジに閉じこめられるイメージが、激しくなる鼓動に押し流されるように薄れていって、「大切な」という師匠の体温を持った言葉だけが、心の中に幾重にも積み重なっていった。
 師匠が喉の奥で笑う声が聞こえた時に、やっと自分が目を閉じていることに気が付いた。自分から唇を動かして触れてしまおうかとも思う。強くそう思うけれど、やっぱりここは、師匠からそうしてほしい。強くそう思う。
 なんだかお腹がスースーする。まるで服を脱がされたしまったかのような。
 というか、目を開けてみたらその通りだった。
 いつの間にかブレザー脱がされて、ブラウスのボタン外されてた。

「あのっ、師匠、何してるんですか」
 一応訊いてみた。何をしてるかなんて分かり切ってたけど。割とぽわんとした顔で訊いてみた。
 イエーイ、カモン桃色肉体労働、なんて考えながら。

「決まっているでしょう。実験をがんばってくれたご褒美をあげるわ。ちゃんと考えて用意していたのよ」

「ご、ご褒美ですか、やっぱり師匠は私のことを、ちゃんと考えてくれてたんですね」
 私が言い終わる間もなかった。私はスカートまで降ろされ、下着だけにされて師匠の前に立たされ、後はもうされるがままに、師匠が紙袋から取り出した淡いピンク色のミニなサーキュラースカート、それも裾に白のフリルがついててフレアの具合もふわふわブリブリなのを履かせられ、上半身にはシルクっぽい光沢のある白のチューブトップを着させられ、両腕にも同じ素材のバフスリーブ、手首に赤のリボンと首にチョーカー、ソックスと靴も脱がされて、ルーズソックスと赤いパンプスを履かされた。
 あっというまの早業だった。

 あれ。
 ええと。
 あれ?
 どう解釈すればいいのかな、これは。みたいな。
 うん。まずこの恰好はなんだろ。
 うん、ウェイトレスに見えなくもない。けど、どちらかといえば、そういった制服をモチーフにして、大胆に今風のアレンジをした特殊な喫茶店のコスチュームか、そうじゃなければディープな層を狙ったアイドルの衣装にも見える。
 なんだか師匠がうっとりしてる。私を見てうっとりしてる。
「さあ仕上げね」と師匠は私の後ろに立って髪を弄りだした。
 頭の上が妙に重くなった感じがした。机の上の鏡を見てみた。なんか頭の左右で結ばれた髪の根本に、でっかい髪飾りが括り付けられた。サイコロの髪飾りだった。1の目がハートの形になってた。
 
 なんだか師匠が超うっとりしてる。私を見てもんげえうっとりしてる。
「ああウドンゲよく似合うわ。やっぱり私の思った通り、ツーテールも髪飾りも、あなたとの相性は抜群ね」
 うんわかった。つまりあれかな、これはその、服を着たまま系のそういうプレイとか。
 師匠ってこういうのも好きだったんだ。知らなかったな。私上手く出来るかな、こんな玄人っぽいプレイ、訓練でしかしたことないや。最初は、お帰りなさいませお嬢様、とか言えば良いんだっけ? ちょっと忘れてるかも。
 ともかく師匠のためのがんばらないとね。ファイト私! レイセン、ファイ! オー! ファイ!

「プレゼント気に入ってくれたかしら。いつも同じ服ばかりだものね。ウドンゲもたまにはオシャレしなきゃダメよ」

 ファイっ……、って。
 え。
 プレゼント。あー、服がね。
 あ、オシャレ。そうですか。
 へえ。そっか。
「あ、師匠、プレゼントって、この服そのものですか。行為的なものじゃなくて」

「あら、そんな残念そうな顔するのね、せっかく香霖堂まで行って作ってもらったのに。わざわざ髪の結い方も習ったのよ。ツーテールマイスターになるには五年かかるとか言われたけど、五分でマスターしたわ天才だから。気に入らなかったかしら、それ?」
 しゅんとしちゃってる師匠、なんかかわいい、そしてすんごく気の毒になってしまう。

「あ、いえ、そういう訳ではないんですけど、この恰好自体は自分でもしっくり来すぎて、気味が悪い位なんですけど、なんというか前世ではこういう恰好してたのかなみたいな。でも今はですね。より深く私と師匠の愛情の成果っぽいものを具体的に確認したいな、みたいな」
 わー、私ってちょっと大胆かも。でもいいよねこれくらい。毎日師匠のために色々がんばってるし。いいよね。

「フフフ、やはり考えることは同じなのね」と師匠は、あなたもなのね、と言った風に顔を笑わせた。
 ああでもなんかあれだよね。ぜったい期待とは違う方向の事言うよこの人。

 でも私は、「もちろんですとも!」とぶりっこ気味にガッツポーズをしちゃうわけで。

「じゃあ、がんばって私たちの愛の研究成果を、早く山へ届けてきて頂戴。そこでの実験が私たちの愛の深さとパワーを証明してくれるわ。至極具体的に」

「あ、は、はい。ですよねえ!」
 やっぱりでした。師匠に期待の眼差しをギュンギュンに向けられちゃったら、そりゃ私は熱血風にガッツポーズしつつ、うんうん頷いて見せるしかできませんでした。
 私のバカヤロウ。もうちょっと拗ねれば、どうにかなったかもしれないのに。と嘆いても仕方が無いというもんで。
 あとはこの持て余す諸々を任務への闘志に変えるのみ。師匠の役にたてばそれだけ愛も深まる。

「くれぐれも魔理沙には盗まれないようにね。重ねて言うけど、悪用されたら何が起こるかわからないわ」

「はい、そりゃもう断固任務貫徹しますよ! 粉骨砕身進め一億アイウォンチューキルゼムオールアルバイトファーダーラントサーチアンドデストロイな気合いで叩き潰します叩いて潰します、魔理沙が襲ってきたらこの持て余した原始的衝動を攻撃衝動に変換して思いきり、ぶつけますからぁ! 持て余す色々なそれを!」

 では行ってきます、と金属箱と紙袋を担いで、廊下に出て研究室のドアを閉めた時に、涙さんがちょちょぎれそうになりました。
 だって師匠ってば、『てゐの分も新しい服買ったから、あの子にも渡しておいてね』なんて言うんだもん。あいつ遊んでばっかで、師匠の役にあんまりたって無いのに。
 でもでも、これくらいじゃ負けません。師匠の愛は本物なんだから。この仕事が終わったら、もっと良いことして貰えるかも、なんて考えると、今日も一日がんばろうと気力が沸いてきました。
 私は愛に生きる兎。鈴仙・優曇華院・イナバは今日もおおむね元気一杯です。





「てゐー?」
 縁側の角を曲がりながら呼んでみた。午前中のあいつは南の縁側に座って日向ぼっこしてる事が多い。座布団敷いて脚をぶらぶらさせちゃったりしつつ、首を太陽の高さより少し低い角度にして、つぶらなおめめをじーっと閉じて幸せそうな顔をしてたりする。一日二時間くらい。

 うん。今日もてゐは、定位置で幸せそうな顔で日向ぼっこしていた。
 でもなんか、顎が長かった。てゐの、顎が、長かった。微妙にというか、結構長い、しかもいい感じにしゃくれてる。 
 がんばればハンガーくらい掛けておけそうなくらいだ。
 良く見ればマスクだ。河童か人形遣いあたりに作ってもらったのか、素肌みたいに柔らかい素材で出来てるらしく、子供が見たら泣きそうな位リアルにできてる。
 しかしあれはなんだろう。てゐがてゐの顔を模したマスク、それも顎が長くてしゃくれてるのをしてる。眼窩の部分だけがくりぬかれていて、中のひとの目が見える。なんかワクワクした目をして、こっちをチラチラ横目で見てる。

 意味がわからない。意味があるのかすらわからない。
 でも去年も似たような事をあいつはしていた気がする。
 去年は顎は長くなかった。去年のてゐは普通のてゐのマスクをしていた。顎を長くしたいなら、まだ動機を理解できなくはない、けど、去年のあいつは顎が長くない普通のだった。そう考えると去年のほうが意味不明度では上だった気がする。

 なんでそんな事をするのか、疑問に思ったけれど、だいたいの察しはついたものだ。
 四月一日だったからだ。そして今日も四月一日だ。エイプリルフールだ。
 だから何か罠がある気がして、去年はあいつがマスクをしている事には、気づかない振りをして一日過ごした。
 そしたらあいつは、『神は死んだ。ひとは皆、この茶番の劇場に泣きながら生まれてきたらしいので、永遠回帰から脱するために超人への道を探しに行きます』とだけ書き置きを残して一週間ばかり失踪したっけ。帰ってきたときに事情を聞いたら、『それマスクの意味ないやんけ!』とつっこんで欲しかったのに、私や師匠や姫があくまでスルーするから、悲しみのあまりニヒリズムに墜ち、そのどん底から実存主義へと至ったのだそうだ。
 どうやらエイプリルフールを一発芸の日か何かと勘違いしている節があるけど、もしかしたら、一年中が四月一日みたいな奴だし、あいつなりのエイプリルフールを過ごすための、常人には理解しがたい美学があるのかも知れない。 


「ねー、てゐ、師匠から仕事頼まれたんだけど、手伝ってよ。変化兎の腕の立つ子を、連れてきてほしいんだけど」

「こんにちは鈴仙」と、てゐはとってもワクワクした目で言った。表情はマスクだからあまり変わらない。日向ぼっこしてる時と同じ幸せそうな表情のまま、こんにちわと言った。
 そりゃ朝に目が覚めた時なら、おはよう、くらいの挨拶はするけど日中に顔合わせるたんびに、こんにちは、と挨拶する奴じゃない。
 よーするに、何らかの私のリアクション『顎長いやんけ!』とかが欲しいから、わざわざ余計な挨拶してるんだろう。
 けど。普段から奴におちょくられてる我が身としては、素直に一発芸に付き合ってやるのも癪すぎる。  

「うん、こんにちはてゐ」
 
 めっちゃ素で返してみた。

 すんごく、てゐはガッカリな目をした。うるうる涙ぐむくらい。

「そうそう、てゐ、この服見てよ、どう?」腰をくびらせてポーズを取ってみた。「師匠から貰ったんだ。いいでしょ。まあ、あんたの分もあるんだけどね、ほらこれ」と紙袋を差し出した。

 てゐはうるうるおめめで紙袋を受け取り、「ねえねえ、それより鈴仙……なんか長くない?」なんて言いながら顎をさすった。両手で、すりすりと。
 
「うん。なんか長い」

「ばかっ、鈴仙のばか!」えぐえぐと鼻を啜りはじめちゃいましたよおい。笑顔のマスクが泣き顔に歪んでちょっと怖いです。「うんなんか長い、とか、そんなリアクションでいいと思ってるの? 服とかどうでもいいじゃん? 私を見かけて最初にどひゃーって驚こうよっ!」

「そう言われても困るんだけど。顎長いとか素で意味わかんないし」

「馬鹿なの鈴仙! これはね、本人のくせに本人のマスクをしてるっていう、シュールさがおもしろいのっ。意味無いじゃんそれみたいなね、でね。しかも今年も去年と同じネタだけど、顎だけが長いっていうのが、最高でしょ? 最高だよね? ね? ねえ? ほら、ほら?」と顎をすりすりする、激しく。「顎って言ってよ! 最高って言ってよ!」

 なんでそんな泣きそうなくらい必死になってんだお前は。えぐえぐしちゃってんのお前は。

「うん」

「何そのうんは? 死んだ魚のような目は何なの? 金魚すくいでいっぱい金魚とってきたけど、飼うための容器が無くて仕方なく苺パックに入れて置いたら、いつの間にか全滅して臭くなってたのを庭に捨てるときの子供を見るお母さんのような目はなんなの? やる気のない、うん、は何なの? しぬの? ばかなの?」

 えぐえぐえぐえぐ。

「それより、仕事手伝ってって」

「仕事仕事って、そんなに仕事が大事なの? もっと楽しく生きようよ、ね? 顎伸びたんだよ、楽しいじゃん。だってあり得ないくらいしゃくれてるじゃない。ほら見て鈴仙、ハンガーだってかけれるし、重たいコートを掛けてもへっちゃらでフライパンもOKな震度七までの耐震設計は安心のJISマークだし、ちょっとプルプルした最新素材なんだよこれ、極薄だし肌のぬくもりも伝わるよ? 触って、ねえ触って鈴仙、これちょっとプルプルして温かいから気持ちいいから顎触ってつっこんで、『顎長いやんけ!』とか『なんでこれプルプルしとるんじゃい!』とかつっこんだり、びっくりしたり、ずっこけてパンツ見せるとか、何かが生えて『私なんだか収まらないの慰めて』とか涙目になったりとかしてよ、こんなの鈴仙じゃない。本物の鈴仙じゃないよっ!」

「うん。じゃあ。どひゃーこりゃ驚いたぁ、ずりりぃ~」
 
 バタリ、とその場にずっこけてみた。真顔で。

 ウグイスが鳴いた。
 ちょっとだけ強い風が花びらを運んできて、私のつま先から頬までを幾つかのピンク色で彩った。
 スカートがまくれた。左手で直した。真顔で。 

 てゐの右目から涙が零れた。左目からも零れた。えぐえぐ顔で。

「ばかなの鈴仙……? 驚き方とかずっこけ方わざとらしいし、効果音口で言いうの? パンツだけなの? パンツだけ見せてればそれでいいの? 人生それでいいの? 鈴仙は人生がニンジンさんパンツなの? それが全てなの?」

 えぐえぐえぐえぐ。

 おーい。誰か。
 鏡持ってきて。出来れば大きいの。
 そして訳のわからない一発芸をしつつ鼻水と涎と涙垂らしてる目の前の必死な白兎映してやって、こう言って欲しい。
『むしろお前の人生ってこれでいいのか。客観的に見ると、なんとなくそっちの方が色々ダメっぽい気がしますよ』と。

 っていうかなんだ。てゐが変にブルブル震えてる。えぐえぐうるうる目から、なんかこう、焦った目になってる。
 なんでだろう、マスクを脱ごうとしだした。けど地肌ジャストフィットしてるらしく、髪の毛を引っ張っても、頬を引っ張っても、顎を引っ張っても、ちっとも外れないみたいだ。

「どーしたん?」とりあえず訊いてみた。

 てゐはマスクの口の部分にある小さな空気穴を指さした。鼻水と涎でどろどろになって塞がってる。そして両手で口を塞ぐ振りをして、首を絞める真似をしたところで、痙攣が激しくなって目玉がぐりんと白目を剥いて、ゴトリ、と床板の上に倒れ、両手で胸を抑え脚をジタバタさせ始めた。
 まるで肺や気道を撃ち抜かれて自分の血で溺れている兵士か、ガスマスクを装着するのが遅れて窒息性のガスでやられた兵士みたいだ。 

「もしかして藻掻き苦しんでる?」

 てゐは頷いた。白目を剥いた目で何度も何度も、カクカク頷いた。
 顎はてゐの言うように、かなり柔らかい素材で出来てるらしく、頷く度にぷるんぷるんと揺れた。
 妙に魅惑的なぷるんぷるんだった。思わず握ってみたくなるくらいだ。涎でテカテカしてる。
「そっかなるほど、空気穴に鼻水とか涎が詰まって、呼吸が出来ないわけね?」




 ぷるんぷるんぷるんぷるんぷるんぷるん。
 ぷるんぷるんぷるんぷるんぷるんぷるんぷるん。
ぷるんぷるんぷるんぷるんぷるんぷるんぷるんぷるん。




 おーい誰か……
 鏡を、
「って、あんた何やってんの馬鹿っ、死んじゃうじゃんよ!」

 慌ててマスクの髪の毛を引っ張ってみたけど、全然取れない。首から捲り上げようとしても、皮膚との境目が殆ど見えないくらい密着してて指が入らない。どんだけ匠の技っぽくジャストフィットしてんだこれ。
「ちょっとこれ、チャックとかどこ? ねえ教えてよ」
  
 てゐは痙攣しながらも、自分の涎で床板に文字を書きだした。文字は気味悪く歪んだものになった
『このマスクはリアルさを追求するためにチャックとかはないうさ』

「じゃあどうやって脱がせるのよ」

『自分でもわからないぴょん』


 おーい。
 誰か。
 鏡持ってきてくれ。
 出来れば特大のを。
 そして私の腕の中で息絶えようとしている白兎を映して、奴にこう言って欲しい。
『お前の人生こういう感じで終わって良いのか。いや良くないんだろうけど、なんというか人生これでいいのか』

「って、じゃどーすんのよこれ! とにかく取ってあげるから、じっとしてて」
 てゐの耳を両手で握った。流石最新素材、ふわふわ感触がすんげーリアル。
 てゐの肩に足をかけて、思いっきり引っ張ってみた。
 むぎゅぎゅぎゅぎゅ~、っと引っ張ってみた。
 マスクの中から断末魔っぽい唸り声がした。ものっそい痛そうな声だった。
 あんまり苦しみ悶えるから手を離した。 

「あ、ごめん、痛かった?」

 ぷるぷるぷるん。てゐは顎を高速で縦に振るわせて何度も頷いた。
 涙をボロボロ流して頷きながら、震える手で耳を撫でる仕草をしてみせた。
 なんか耳がさっきより長くなってる気がする。肘あたりまで垂れてる。明らかにエクステンドしてる。

「もしかして耳って本物だった?」

 ぷるんぷるん。
 肯定、らしい。 
 うん。そういえばさっき握った時、作り物にしてはやけに温かいと思ったんだ。最新素材凄いなとか思ってたんだ。 ごめんねてゐ。「じゃ、顎掴んで引っ張っても良い?」

 ぷるん。泣き顔で肯定。

「おっし、今助けてあげる!」がっしり顎を掴んだ。うわ、ぷるぷるしてる上に涎でヌルヌルしてるこれキモっ。
 そして、「HOOOOOOOOOOOOOOOAHHHHHHHHHHHHHHH!」背筋を振り絞りY軸方向に引っ張り上げた。
 ゴキリっ。と。てゐの脊髄で乾いて、それでいて重苦しい音が鳴った。

 なんかてゐの首が九十度くらい背中に向かってまがた。
 なんかぷるぷる痙攣してたのがとまた。
 なんか顎短くなた。
 なんか取れた。顎の長い部分が取れてた。我が右手にぷるぷるしたヌルヌルがあた。  
なんか思わず右手を離した。
 なんか生暖かいそれが、ぷるぷるヌルヌルが、てゐの額に落下して跳ねた。
 なんかぼてっと、それが床に落ちてちょっと転がる間に、桜の花びらが何枚か張り付いた。
 なんかてゐの体がゆらりと揺れた。力無く……

「てぇええーゐ!」
 
 てゐが倒れた。
 
「え、え……え? ……ええ……衛生兵っー! マンダウン、マンダウンだ! ここだ早く来い衛生兵ー! 頭を低くしろやられるぞ!」ってなんだ私、錯乱するな私、衛生兵とか叫ぶな私、ここはもう月じゃない戦場じゃないぞ私、ええとこういう時はまずどうするんだっけ私、そうだまずは無線で救援を呼ばないと私。しわくちゃな我が右耳の先を、口にあててから根本のスイッチON、周波数を非常呼び出し帯に合わせて、
「パープルラビットよりグレイラビットへ、こちらパープル・ツー・ブラボーリーダー・レイセン特務上級曹長。聞こえてるかグレイラビット? カテゴリーブルー、カテゴリーブルーだ畜生。 一名がWIA、W・I・A! コード2に従いコード11を要請、ナンバーテンだぞ糞ったれ、早く助けに来てくれオーバー!」
 って何やってんだ私! 違うだろ私。てゐを助けないと私、医者呼ばないと私、ってここ病院みたいなもんじゃん私、ていうか応急手当くらいは出来るだろ私。どうにかしようよ私。

 ええとまずはあれか、首直そうよこれ、キモイし。
 はいじゃあ、てゐの頭をヘッドロックっぽく腕で固定して、「HOOOOAAAAHHHHH!」

 ゴキッ、バキキゴキッ!
 うわ、もんげえ音した。あ、でもなんか、てゐの痙攣がまた始まった。生き返った? 
 妖獣の生命力ってすごい。
よし次ぎは気道の確保。
 ナイフでマスクの口の部分を切り裂いた。
 そして素早く人工呼吸、むちゅー……ってああ、鼻水のしょっぱい味がする。しかも涎が朝に食べたニラ入り卵焼き風味だ。気持ち悪いけど、月じゃ負傷した仲間の気道に詰まった血やら反吐を口で吸い出すなんて何度もやった。それに比べればどうって事ない。がんばれ私、てゐの命が掛かってるんだ。

 ぱちくり、とてゐが目を開けた。むくり、と体を起こした。
「てゐ……良かった。大丈夫あんた?」

 てゐは何やら不思議そうにキョロキョロあたりを見回してる。
「あれ、ねえ鈴仙、川どこ?」
 どうでもいいけどマスクが笑顔なのに口だけ大きく裂けてるのはかなり怖い。

「かわ? 何言ってんのよてゐ」

「うん、船に乗って渡ろうとしたんだけど、船頭さんが、『あ、今は休憩中だから、あと五時間くらい、んじゃねえ』とか言ってて乗れなかった」
 
「三途の川じゃんそれ、五時間休憩とか普通にサボりだし間違いないって。あんた今ちょっと死にそうになってたのよ」

「え……なんで?」きょとんと、てゐは小首を傾げた。

「憶えてないんだ?」

 てゐは小首を傾げたまま両手の人さし指をこめかみに当てて、うーん、と小さく唸りながら目を閉じた。
 瞬間だった。 
 不意に風が大きく巻いた。
 何者かが永遠亭の屋根のすぐ上を、非常識な超高速でフライパスしたからだとわかったのは、遠くの青空を背景にマックスGで斜め宙返りする黒い人影が視界の隅に映ったからと、「いやっふぉおおおおおおおおおおおおおおいいい!怪盗義賊セイント魔理沙様のお出ましだっぜええええええええぇぇぇぇぇー……」霧雨魔理沙のドップラー効果が効きまくった声と、もう一人の「いやああああ魔理沙ああああぁあああもう降ろしてええぇええ、もう絶対あんたのとの二人乗りはいやあぁああああぁぁぁぁぁぁー……」恐慌状態の誰かさんの絶叫。 
 
 瓦が数十枚剥がれ飛び、桜の花びらが竜巻のように乱舞する中、私の両目は箒を追った。
 間違いなく霧雨魔理沙だった。斜め宙返りの頂点で逆さまになった三角帽子を右手で押さえて、首に下げたミニ八卦炉がキラリと日を反射し、不敵な笑みを浮かべて、縁側の私たちを見下ろしながら、飛行機雲を引く箒を巧みに操っているが、箒の柄は今にも折れそうな程にしなっている。

 それもそのはず柄に乗っかっているのは二人だ。あれだけの速度であれだけ急な旋回をすれば無理もない。箒だけではなく体にも相当の負荷が掛かっているようで、現に後ろに乗ってるというより、縄で括り付けられてるもう一人は青ざめた顔、明らかにブラックアウトしている、目を剥いてる、首が据わっていない、口が開いたまま、飛び散る唾液が煌めいている。
 あれは、誰だ、紫色の服と髪、紅魔館に薬を売りに行ったときに見たことがある、七曜の魔法使い。
 パチュリー・ノーレッジ。あいつが『仲間たち』の一人というわけか。

「てゐ、あんたは荷物を守って、まだ他にも仲間がいるはず、全周囲を警戒。あれは私がやるからねええええ!」
 言いながら空へ飛び上がった。新手が表れる前に各個撃破するのが上策、っていうか魔理沙を倒せばきっと褒められる師匠に、すんごく良いことして貰える絶対。手柄は私のもの、私が魔理沙を墜とす!
「え、鈴仙何? なんなの? いきなり? なんでそんな不自然な気合い入ってるの?」
 てゐはまるで状況が飲み込めてない。三途の川から生還して突然これじゃ仕方もないけど、その割にちゃっかり師匠に貰った服に、着替えだしてるのはなんでだこら。

「いいから箱を盗まれないように、それだけ考えて!」
 顔だけ振り向かせて言いつつ、魔理沙へ向かって急上昇、ぐんぐん加速する。

「おいそこの宇宙兎どもー!」魔理沙がこちらに箒の機首を向けようとしながら叫んでる。距離的に声は小さくしか聞こえてこないが、随分と生き生きした声量だ。「知ってるかー。私は義賊になったんだー。んでお前たちは私からなんかを盗まれるんだよなあー。つまりお前たちは悪人で私は正義という事らしいぞー。つーわけで大人しく盗まれやがれ」

 相変わらずろくでもないったらありゃしない。どーいう教育受けたら、ああなるんだか。
「正義だなんて笑わせないで、エゴでしょそれは! 今日の私の前に表れたのが運のつき、五泊六日の永遠亭入院ツアーにもれなく招待するわ。もちのろんで医療費用に保険は利かない利かせない、今まで盗んだ薬代含めて、全部、すべからく、あんたの親に、一括ニコニコ現金払いで、請求してやるしてみせる!」
 右手を魔理沙たちに真っ直ぐに向け、人さし指に波長のエネルギーを集中させる。

「ああー? そのツアーにゃ、飯もついてんのだろうなあ?」

「もちろん、新薬の実験台になれるときめき体験のおまけ付きでね」
 
「んじゃ今夜のメインディッシュは材料持ち込みで兎鍋で決まりだな?」魔理沙はミニ八卦炉を、こちらに、振りかざし笑う。「ああ確かに、こいつぁ変な薬が肉まで染みこんでそうな兎がいるぜ!」

「馬鹿にしていつもそう霧雨魔理沙っ! 無邪気にアウトローだから、はた迷惑な事をしでかし始めて、やってる事が普通に犯罪なのに、天真爛漫属性で憎まれず、あまつさえ慕われるそのずるさが、許せない。修正してやる絶対に!」

「ああそうかい、なら今すぐ私に道徳規範を、授けて、みやがれぇええ!」
 魔理沙の箒は私に向かってくる。やや下降しながら一直線だ。

「撃墜してからたっぷり説教してやるわ。今まで盗まれた数々の私と師匠との愛の結晶、恨みの代償思い知れ!」
 あとは私の意志一つ、意志のトリガーを引くだけで良い。そうすれば破壊力を持った波長が霧雨魔理沙へ向けて撃ち放たれる。他人から私の波長攻撃を見ると弾丸や座薬のように見えるらしいが、魔理沙の目にその弾丸の先端が見えたときには、命中が確定しているだろう。
 互いの射程までもう数秒もない。この相対速度でなら回避する余裕などほぼ無い。

 それでも魔理沙は止まらない、「代償だあー?」トップスピードで逆さま背面飛行のまま両手でミニ八卦炉を構え、魔力が目に見えるほどの強さで集束していく。「ツケにしといてくんないか、支払期限は私が死ぬまででなー!」 
 強引に火力勝負でこちらの攻撃をかき消して突破するつもりか。

 ならばそれでいい、乗った振りをするまでだ。
「だったら墜ちちゃえ今、霧雨魔理沙ぁあああああああああああああああ!」右手に蓄積したエネルギーを両手にまで巡らせ、腕を広げて、「ルナティッいいいいーク」全周囲に向かって解放する、「レぇえええッドぅぅぅあアーイズ!」
「ファイナルぅうあああああああああああああースパアアアアアアアあぁああああああああああクゥウはああぁー!」

 発動は同時だった。
 魔理沙やてゐからは、見渡す限りの空を埋め尽くした私の弾丸と私の体が、魔理沙が放つ巨大な光の奔流に飲み込まれたように見えただろう。凄まじいの一言に尽きる威力だ。空を貫いた閃光は大地へと突き刺さり、竹林をべろりと舐め取るようにして何百本もの竹を薙ぎ払うだけに留まらず、永遠亭の一角を木っ端微塵に崩壊させた。
 けれど私も弾丸も撃ち滅ぼされたわけじゃない。一時的に物理位相をずらし、ファイナルスパークからの干渉を避けただけ。誰の目にも見えなくても、私の目には重圧な私の弾幕が見える、はずだったのが、位相をずらした時に可視光線の透過量を調整するのを忘れたせいだ、ファイナルスパークの強烈な光量で目が眩んで殆ど何も見えない。
 
 閃光が途絶えた、魔理沙たちの箒が大気をどう猛に唸らせながら私とすれ違う。やはりまともに撃ち合うつもりは無いらしい、自慢の速力に物を言わせて獲物だけ頂いて逃げるプランなのだろう。
 眩んでいた目に視力が急速に戻っていくけれども、魔理沙たちの背中は影程度にしか見えない。それで十分だ。
 今やあいつらは私の弾丸の檻の中に飛び込んでいる。照準を定める必要さえ無い。
 自分の口元が笑ったのを感じる。チェック・メイト。
「墜ちろ霧雨魔理沙ぁあ、積年の恨みと共に!」
 位相を干渉域にまで戻した。
 途端に、超高速で遠ざかる箒のシルエットが突っ切る進路上で、波長弾丸が命中して炸裂する衝撃音が巻き起こり始めた。十発や二十発の被弾じゃない。まったく回避を考えずにあのスピードで弾幕へ突入してしまえば、当然の結果だ。

 私は空中で制止した。追う必要すらない。あとはあいつらが、あのまま意識まで失い墜落死しない事を祈るのみ。 
 ゲームオーバーだ。

 しかし……なんだろう、何故、奴らは減速すらしない? 
 むしろさらに加速している。重力に引かれてとかそんなもんじゃない。まるでこちらの弾幕など意に介していないかのように、真っ直ぐ縁側に向かって行っている。
 魔理沙に着弾する衝撃音も鳴らなくなった。信じられないが弾幕を全て回避せず強行突破したらしい。
 魔理沙たちの輪郭に何かがある、水、水? 水だ。
 球状の水、それが箒に跨る二人を包んでいるように見えるのは、まだ目が眩んでいるからじゃない。
 私の目はもう、魔理沙が縁側へのアプローチ角度を水平に整えながら、私に向かってにっかり歯を見せて親指を立ててみせてるのも見えるし、パチュリーが申し訳なさそうな顔でこちらに両手を合わせて、何度も頭を下げている髪の毛の一本一本の動きまで見える。どうやら魔理沙に協力しているのは本意では無いらしいが、あれは水符『ジェリーフィッシュプリンセス』パチュリー・ノーレッジの防御系属性魔法だ。

 完全にしてやられた。ここからじゃ私が縁側の物理位相を操作できる距離まで近づくまでには、魔理沙が箱をかっさらって飛び去ってしまう。そうなればアウト、魔理沙に追いつくことなど出来るわけがない。
 私が迎撃に上がるべきではなかった。最初に魔理沙が永遠亭の直上を、わざわざ低空でフライパスしたのは私を縁側からおびき寄せるためだった? ファイナルスパークも、ルナティックレッドアイズの時間差攻撃が、確実に決まると私に慢心させるための布石だった? 
 私の行動が全て裏目に出ただけな気もするけど、霧雨魔理沙、怪盗と名乗るだけはあるということか!
 あとは、てゐ、あんたがゴールキーパーよ!
「てぇえええゐ、魔理沙を止めなさあああああーい!」精一杯に叫びながら、永遠亭に向かって急加速した。
 
 魔理沙たちは既に縁側の床板の数センチ上を飛んで箱に向かって突進している。巻き起こす風圧で襖を根こそぎ吹き飛ばしながら、今まさに怪盗魔理沙は狩るべき獲物を猛禽類のような鋭い眼差しで捉えており、一方のてゐはお着替え中でした。迫り来る箒に、目玉を飛び出させんがばかりに見開きながらも。
 絶賛お着替え中でした。
 白いブーツを必死で右足に履こうとしてました。突発的危機状況での生き物は、得てして非合理的な行動をしてしまうもの、てゐなりに必死なんだと思います。そう思いたい。必死にブーツを履くしかないとパニックになってると思いたいです。なんか猫の足の形をしたブーツで、左足にはもう履いてますが、ご丁寧に裏にはピンク色の肉球までついてて、手袋もしてます。やっぱ白いです。頭には猫の目玉と耳があしらわれた帽子、お前それ兎の耳と合わせて耳四つじゃん的で、服はエプロンドレスというんでしょうか、青地のワンピースにヒラヒラの飾りハーフエプロンで、首におっきな金色の鈴を付けてます。頭にも二個付いてました同じ鈴が。
 そして。
 てゐのマスクに箒の柄の先っぽがめり込みました。魔理沙に轢かれました。彗星『ブレイジングスター』という名前のひき逃げ行為です。今日は二人乗りなので質量×速度=威力も二倍です。もろに眉間でした。マスクの笑顔が強烈な圧力で歪まされ、くしゃっとされたお札みたいに哀しそうな表情になって、首と頭の鈴が激しく打ち鳴らされて聞こえた時にはもう、てゐの体は空高くへと弾き飛ばされていて、魔理沙の左手が箱をがっちりと掴んでいて。縁側に面した部屋の襖が開きました。誰かが中から開けたみたいです、というか、姫の部屋だから姫が開けたに決まっていて、寝間着姿の姫が、魔理沙の進路上と気づかず外に出てきて、「ちょっと因幡たち! 何やってるのよいったい朝っぱらから十時にもなってないってのに目が覚めちゃっぐぼはべぐしょうぉぽばぁああああ!」
 しっかり轢かれました。
 そりゅもう不死身とはいえ、体の強度は人間のそれとあまり変わらないんで、てゐみたいな妖獣と比べれば脆い物。 縁側の床や襖や天井はおろか庭にまで、色々と赤い物を明らかに致死量以上まき散らして、竹林にまで横方向に吹っ飛んで行きなさりらっしゃりましたが、大丈夫、すぐに姫は全部が元通りになります。全自動でにゅるにゅるっと便利な体です。姫にとっては、『あはっ、今日も一回死んじゃったわ』くらいのもんでしょう。

「わりい、なんか轢いちまったぜ、まあエイプリルフールだ、今轢いたのは嘘だから許せ、おーい兎、輝夜にごめんって言っておいてくれよなー!」    
 魔理沙は血にまみれた金属箱を左手に抱えて、永遠亭の敷地から竹林へと急速離脱。
 轢いたのは嘘どころかバリバリ現行犯かつ、なんて爽やそうな笑顔なんだお前は。強盗殺人をしてのけた後でああも笑える神経はなんたる冷血、自分を何でも許される特別な人間だとでも思ってるのか、太陽のせいにするまでもなく死刑確定チックに戦慄すらも憶えたくなるけど、殺した相手が命の尊厳に真っ正面から喧嘩売ってる蓬莱人じゃ語るに落ちるというもんで、地面に口づけして許しを請わなくても、罪も罰もあったもんじゃなそうな気はするけど、パチュリーは律儀に、返り血で真っ赤な自分自身に顔面蒼白、わりかし良識をお持ちでいらっしゃるらしい。なんかめっちゃ私に向かって謝ってる。声は小さくて殆ど聞こえないが。なんであんた魔理沙に協力してるんだほんとうに、なんか弱みでも握られてるのかほんとうに、敵ながら哀れになるぞほんとうに。

「待ちなさい魔理沙ぁああああああ!」怒鳴りつつ、意識を失って自由落下してたてゐを空中でキャッチ、折れた首の骨を再びバキゴキっと整体&蘇生してから背負い、奴らの箒へと追いすがる。
 竹林の樹上ギリギリの高度で逃げていく魔理沙はあっかっんべえと余裕しゃくしゃく。
 そんな蹴とばしてやりたくなるような金髪野郎の背中を追いかけながら波長を指向させるが、この距離では奴の方向感覚をジャミングするくらいが関の山。右手で波長弾丸を撃ち込んでみたものの、苦し紛れも良いところで、かわいそうな竹を何十本が折っただけ。奴へ届く前に減衰してしまって当てられるもんじゃない。とっくに有効射程外だ。
 それでも距離の差はあまり離されない。ジャミングが効いたらしく、魔理沙がやや蛇行しだした上に、二人乗りで大きな荷物を抱えているからか、自慢の速力が死んでいる。
 てゐが起きて自分で飛んでくれれば、追いつけるかも知れない。

「てゐ、てゐ、起きてよてゐ!」
 背中で悶絶中の白兎さんに呼びかけてみた。まだ意識が朦朧としているらしく、何かブツブツ言ってる。 
「あれぇ、鈴仙? ねえねえ……そこで大きなお星様が、ついたり消えたりしているにょ……アハハっ、大きいにょ~!」
 相当打ち所が悪かったらしい。目の前を指さして恍惚と微笑んでる。私には青空しか見えない。
「ほら見て鈴仙 彗星かにょ? ううん、違う……違うにょ。彗星はね、もっとおバアッって! ばぁって動くにょ~」  
 バァっ、とてゐは両手を広げてみせて、どれくらい彗星がバァっとしたのかを表現した。それはもう、とてもとてもバァっとしているらしかった。さっき本当にバアァってなったのは姫だと教えてあげたい。
「暑っ苦しいにょお、このマスク何にょ? うーん、脱げないにょ」と、てゐは怠そうな声で言いながら、半分崩れたマスクをはぎ取ろうとする。でもよっぽど丈夫に出来てるみたいで、素手で破るのは難しいみたいだ。
「おーい、これ取ってくださいにょー、ねえ鈴仙?」
 てゐが背中から、ぬうっと頭を突き出して私の目を覗き込んできた。てゐの顔面は半分がマスクの幸せそうな笑顔で、もう半分が別の世界にイっちゃってる瞳孔の開いたおめめの素顔。めっちゃ怖い。
 けれど急にてゐの表情がまともに戻った。戦闘モードな私の瞳をゼロ距離から思いっきり覗き込んだせいで、狂気と正気の境目をぐるりと三十周くらい回って、帰還してきたらしい。

「あれ、船頭さんどこ?」と、てゐはキョロキョロ。あちらの世界だけではなく、しっかり三途の川にまで出張してたと見える。「船頭さんと議論してたのに、ねえ鈴仙、アンチ実存主義のエピステーメーによって補正される無意識の時代地層は、主体の鏡像段階においては、実存主義のマルクス主義との寄生関係に似た社会心理学的影響を与えているから、ヘーゲル以前にまで回帰する事になって、外界の実在性はタプラ・ラサの多次元的解釈によって、自我の実存性が反証されると思わない?」
 
 わけのわかんない事をべらべら言いだした白兎さんを、背中からひっぺがして自分で飛ばさせた。「いい、てゐ、あいつらが、今私らの前飛んで逃げてる魔理沙たちが、あんたを殺しかけたのよ、あいつらをやっつけるからね!」
「あ、マスク破れてる、顎が、顎もないよ! 顎が! 顎があー! 顎が死んだ! ここここれもあいつらのせい?」
「そうよ、てゐ、断固撃つべし。ぷるぷるの仇を伐つのよ!」
「うん! 一年分のお小遣い貯めてやっと作った顎なのに許せない!」うわぁ、なんか色々とごめんなさい。ほんとは顎やったの私です。

 けどなんだ。思ったよりも魔理沙との速度差が埋まらない。魔理沙が荷物を抱えての飛行に慣れてきたのかも知れない。
 眼下が急に明るくなったと思えば、いつの間に私たちは湖の上にまで飛んできてた。湖面が眩しい。午前中の透明感いっぱいな日光が空へ向かって照り返してきていて、氷の妖精も冷凍カエル片手に、輝かしいアホ面さげてぽかーんと私ら見上げてる。竹林を抜けた後に里の上空を通り過ぎたはずだけど、追跡に夢中で気づかなかったらしい。湖の先は、でっかいお山が煙をもくもく、妖怪の山がそびえ立っている。

「ねえ鈴仙、あいつら妖怪の山に向かってるの?」
 てゐが不思議そうに訊いてきた。それもそうだろう、もしこのまま山に突っ込んでいけば、たちまちに魔理沙は天狗の哨戒網に引っかかって、自警隊に捕捉されてしまう。
 いくら魔理沙の逃げ足が早かろうが、天狗には敵わない。自分からお縄を頂戴しにいくようなもの。
 だからこそ、私が魔理沙たちの感覚にジャミングをかけて山に誘導しているわけだ。お使いも果たせて魔理沙も捕まえられて一石二鳥。あたしってば天才じゃん!
 でも一つ気になるのは師匠が言ってたこと。妖怪の山に魔理沙の協力者が居るのではないか?
 だとしてわざわざ間接的な妨害手段に訴えてくる一派が、表だって魔理沙を匿うような真似をしてくるとも思えない。魔理沙は派手に事を起こしすぎる。このまま天狗のテリトリーに侵入してくれれば、私たちの勝利が確定するはずだ。 

「そう、飛んで火に入る夏の虫って奴よ。魔理沙たちには回りの景色が酷く歪んで見えてる、どこに向かって飛んでるかも自分たちで良くわかってないでしょーね」
 言い終わるかどうかで魔理沙が湖の対岸を越えた。追跡する私たちも川を遡るようにして山へと最大戦速。畔から河童たちが、私たちと魔理沙を指さしているのも見える。川の源流の大瀑布へと向かって、魔理沙の黒とパチュリーの紫の服が一直線に、ひたすら、突き進む。そろそろ天狗がお出ましする頃合いだ。

 と思えばもう、白狼天狗の女の子が滝の方から飛んで来ていた。魔理沙たちの飛行ルートに立ち塞がろうとしている。左手で盾を胸の前に構え、右手で拡声器を持っている。まだ剣こそ抜いていないが、武装してる所からみても自警隊員なのは間違いない。
「そこの魔法使いさん、止まって下さぁあーい!」拡声器から聞こえてきた声は、無性に心許ないフワフワヴォイス。「魔法使いさん速度違反ですー、255kmオーバーですー、キップ切るから止まってくださーい! わわわわわなんで止まらないんですかー、来ないで来ないで轢かれる轢かれるわわわわあああああ文さん助けてえええええぇええへぶほむがう゛はおぷこはあー!」

 轢かれました。
 でも流石は白狼天狗、妖怪の山の危機管理を一手に任されてる種族なだけあります。強い強い、ガッチリ盾でガードして耐えてます。けれども箒に押されたまま、このままだと滝へと特攻するのは時間の問題。
 でもおかげで大分、箒の速度が落ちてます。これなら追いつける!
「あああああーん文さあああああん魔理沙が魔理沙が来ました助けて文さん事件ですスクープです特ダネですぅうう!」
 魔理沙に押される勢いで身動きは取れないらしい。フワフワヴォイスが山に木霊する。
   
 その時、ドヒュン! 風が鳴った。瞬きする間も無かった。射命丸文が目の前に居た。
「どーも清く正しく華麗に鮮烈、文々。新聞、射命丸文です。兎さんたちが犯人ですか? 事件てなにやらかしちゃったんですか? 殺人? テロ? 地球侵略? もみもみ誘拐? それとも盗まれたんですか画期的な新薬剤が? にしても兎さん方、随分個性的なファッションですね今日は。そのサイコロとか鈴ってなんですか、お守り?」
 私とてゐが息を飲む間に、射命丸文は営業スマイルでそう言いながら、さっそく写真を三枚ばかり取り、手帳を広げ何やらメモを取り始めなさった。こちとら全速力だってのに、むかつくほどに余裕で器用だ。
「そんな事より顎犯人つかまえてよー!」てゐが指さす前方の箒からは、拡声器で喚く声が聞こえてくる。「文さん速度違反です5763kmオーバーでーすーキップ切らないから取材なんかしてないで助けてくださいこっちー!」 

「そーよ暢気に取材なんかしてないで」と私はマッハ5くらいの速度違反を犯した新聞記者に抗議してみた。「魔理沙捕まえて、あなたなら簡単でしょ」
 んでも射命丸文は、げんなりした様子で肩を竦めて首を振る。「いやいや、勝手に手なんか出しちゃうと、越権行為だなんて自警隊から抗議が来ちゃうもんでしてね。何しろ私は警察権も交戦権も無い、ただの善良な一民間人ですから」
 へらへら笑ってらっしゃる。
「あのねえ、善良な一般市民はケーサツにすすんで協力するもんでしょうが! ほらお仲間も助けて言ってるじゃない。あんたの名前呼んでるし、友達とかじゃないの? あのままじゃ滝に突っ込むわよ」

「あー、もみもみ? うんうん親友だし助けたいのは山々なんですけどねえ、組織に属するってのは、自分の意思だけでは動けなくなるって事なんですよ。いやあ義理と人情の板挟みですよね~、まあ、あの子あれでも私なんかより頑丈なんでへっちゃらでしょう。だいたい私が捕まえたら事件終わっちゃって、記事が盛り上がらないじゃないですか? がんばれもみもみー!」と彼女は、今まさに滝へと特攻して盛大な水しぶきを上げる魔理沙+もみもみさんへと顔を向けて無責任なエールを送り、「見事逮捕出来たら格好良く記事にしてあげるからねえー。っと、兎さんたちも、魔理沙追っかけて中に突入するんですよね?」

「中? 突入ってどこに?」私とてゐが声を合わせて聞きかえす。
 魔理沙は滝に行く手を阻まれて、ジ・エンドだと思ってたんだけど。

「ん、実は滝の裏が大きな空洞になってて、そこにあるハッチは地下世界への縦穴に通じてるんですよ」と何げに機密とかじゃないのかそれと思われることをポロッと曰った鴉天狗は、目をらんらんと輝かせている。「で、たぶん魔理沙の事だからハッチ爆破して中に逃げると思うんで、そこで一枚兎さんたちを撮らせてくださいよ。爆破した瞬間の決定的瞬間っぽいの」
 らんらんらんらんらんらん、とおめめを私たちに向けて輝かせている彼女は、滝に接近していることを気づいていたのかいなかったのか、喋くったまま、ドバシャーン! なんて具合に派手な行水。
 私はもちろん、てゐを抱き寄せて位相をずらし、水流をすり抜けたけれど、射命丸文はずぶ濡れ鴉、でもまだ私たちの目の前でべらべら喋ってる。
 ハッチ、とやらが見えた。滝の裏は大きく窪んだ人口の洞穴になっていて、月の軍事施設か港湾に似ていた。最も奥まった場所に巨大なハッチがあり、魔理沙はやはりそこへと速度を緩めてない。ミニ八卦炉に魔力が集中する光が瞬き始めている。もみもみさんの絶叫と、人口洞穴を警備していた他の白狼天狗たちが魔理沙へ挑み掛かる怒声、パチュリーの今にも発狂しそうなほどの悲鳴は、大瀑布の轟音で小さくしか聞こえない。

 距離は十分に詰まった。魔理沙は射程内。ここで仕留める!

「撮らせてくださいよ兎さん、こう正面からパチっと、爆風とか飛び散る破片とかを颯爽とくぐり抜けて犯人を追う系のを一枚ね?」 
「前をどいて射命丸。てゐ、魔理沙を撃って今すぐ!」
「応よ! 目からフラスターぁああスケープ!」 
「そんな事言わずに兎さん、レッドショットでリスクショットでナイスショットなのを一つ撮りたいんですよ、ピューリッツアーもんだと思いませんか、ワクワクしますよね?」  
 どきやしない鴉天狗の耳の横一センチを通して箒へ照準し、「マインドエクスプロォオオージョン!」両手の指先へ集中させた波長エネルギーを一塊りにして撃ち出した。
 弾速こそ遅いが威力は満点、この技なら防御魔法越しにでも通用するし、てゐのフラスタースケープが洞穴の中を跳弾して跳ね回り、白狼天狗が進路を塞ごうとする中で、魔理沙はハッチを破壊することに集中している。回避不可能、命中確実。撃墜期待大。いいねえいいですねえ! と鴉天狗が興奮しきった様子でパシャパシャとシャッターを切りまくってる。その気合いの表情いいですよおおおお兎さん! 掠りました今ほんとマインドエクスプロージョンがガッツリ掠りましたぁああ左耳にぃいい! もっと掠らせてください私にギリギリっ! リスクなショットをカマーンなぁあはっはっはっはフィーリングーシュートザブレットシュートザブレットイエスイエスカマーンカマーンカマーン! いやあ魔理沙に新薬剤の事教えた甲斐があるというものですよねえええええ、シュートシュートイエス! 最高だほんとおおお、永遠亭襲撃シーンは撮り逃しちゃったけど、これはこれでいいですよおおおおお。
 笑い続ける射命丸が何かポロッと重要な案件を言った気がして。箒にマインドエクスプロージョンが命中する寸前、パチュリーが水符で防御を張りながら泣き出し、ミニ八卦炉からお馴染みの特大な閃光が迸った。
「決定的瞬間きたぁああああああ!」射命丸が爆散するハッチを背にして私たちへカメラを向けて叫び。
「てゐ、こっちに!」次ぎの瞬間に来るであろう爆風に備えて再びてゐを抱き寄せ体の位相をずらし。
「文さあぁああああああああん……」悲惨なもみもみさんの悲鳴が爆音にかき消された瞬間、滝の音さえも消え失せたのは、ずれた位相のせいだけど、もし音が聞こえていたとしても、耳鳴りで何も聞こえなくなっていただろう。

 爆風が襲いかかって来た時には、私たちの姿は消えていたはずで、大小の破片や残骸が猛スピードで飛来してくる中でも、射命丸が鬼気迫る表情で必死にシャッターを切り続けるネガには、残念ながら真っ黒な爆発煙しか映らない。
 一際大きな金属の板、たぶんハッチの外郭だったものが、こちらへ真っ直ぐ飛んで来るのが見えたと思ったときには、ああ無情、射命丸の後頭部にめり込んでいて、エクスタシーってた彼女に白目を剥かせ、あっという間もなく一羽の自作自演戦場ジャーナリストを洞穴の出口方向、空の彼方へと吹き飛ばしていった。無茶しやがってキラーンとお星様になるくらい自業自得チックに。

 可視光線域の視界は煙のせいで効かないが、魔理沙たちがまだ飛んでいるのが私には見える。天狗たちは殆ど皆、洞穴の外へ飛ばされたらしく見あたらない。魔理沙の箒は元あったハッチの三倍ほど大きくなった内部への入り口から、縦穴に入っていこうとしている。飛行速度が断然落ちているのは、さっきの私の攻撃が命中したからか、あと一押しだ。
「てゐ、追っかけるよ。煙は吸い込まないで、一気に縦穴まで付いてきて」
「うん!」 

 立ち込める黒煙を突き抜け、縦穴に出て驚いた。縦穴と聞いていて、せいぜいミサイルサイロくらいの物かと思っていたけれど、そんな規模じゃない。面積だけでもグラウンドがまるまる一つ作れそうだし、深さに至っては、底が見えないばかりか、物理的な底自体が存在していないらしく、真下方向からのあらゆる波長が反射してこない。
 つまりは特殊な結界か何かで地下世界と通じているという事なのだろう。その結界がいったい何キロメートル下方にあるのか想像も付かないが。

「もうこんなの嫌、帰りたい!」パチュリーの声だった。二人は縦穴を下へと降下していっているが、言い争っているらしく、箒の後ろからパチュリーが魔理沙に掴みかかっている。私の攻撃はやはり命中していたようで、二人とも服がぼろぼろ。私たちをまいたと思っているらしく、六時方向を警戒していない。私がさっきジャミングを解いたからだ。

「おいおい、なんだよいきなり」と魔理沙は懸命に飛行状態を保とうとしているものの、怒り心頭なパチュリーに髪を引っ張られては集中できるわけがない。「お前がたまには外に連れてって言ったんだろう、楽しかっただろ怪盗ごっこ。パチュリーに喜んで貰おうと思って三日寝ずに考えたんだぜ?」
 と、魔理沙が後ろを振り向いた時にはもう、私の指先から本日二発目のマインドエクスプロージョンが発射されていて、箒の柄から数センチの距離まで迫っていて。
「あー、鈴仙、不意打ちなんて卑怯~」てゐが楽しそうに、うっしっしと笑うのと同時に、奴に直撃した。
 ように見えたってのに、なんて反応速度!
 魔理沙は箒の柄を縦方向に回転、柄の先をこちらに反転させるようにして、辛うじて直撃を避けた。けれど波長エネルギーが至近距離で炸裂した衝撃で、後ろに乗っていたパチュリーが虚空へ放り出され、「パチュリー!」自身もダメージを負った魔理沙は心配そうに叫ぶが、当のパチュリーは、「もう一人でやってなさい。魔理沙なんか知らない!」
 完璧にへそを曲げてしまっているようで魔理沙から飛んで離れた。 
 
「仲間にも見捨てられたよーね霧雨魔理沙」指先で奴の顔面に照準する、「永夜異変とは逆になったわね。こっちが二羽であんたは一人、観念しなさい、もう終わりよ。まだやるというなら……てゐ、準備しといて、あの技をねっ!」
「がってんだあ! 顎の仇とってやる!」

 魔理沙はパチュリーに逃げられて意気消沈の表情を浮かべていたが、「まだだ、まだ終わってないぜ!」
 キッと眉を引き締め叫んだ。
 既に満身創痍も同然で二対一の絶望的状況なのに、笑っているようにさえ見える。いや笑っているパーフェクトに。
 もし他の誰かがこんな時に、まだだ! なんて笑い顔で叫べば、やけくそになっているようにしか見えないけれど、魔理沙が叫ぶと、どこまでも人生を攻撃的に楽しむ酔狂に聞こえるし見えてしまうのが、不思議で、恐ろしい。
 九回裏ツーアウトツーストライクランナーなしの九点差なラストバッター、到底勝ち目の無さそうな状況でも最後の一球までを楽しみ尽くすしゃぶりつくす。そういう奴なのだろう。パチュリーがあんなろくでもなさそうな奴と、友人で居続けるのもどこか理解できる気さえしてしまう、ろくでもなく得体の知れない魅力。

 魔理沙はミニ八卦炉を握りしめた片手を、直上の私たちに向けた!
「ラストスペルはこれからだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁ弾幕はぁあああああああああああああああああああああああああパワァアああああああああああああああああああああああああだぜええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええぇぃファイナルぅうあマスターアアアアアースパぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああークぅあああああああああ!」   

 視界が真っ白になるほどの光量で放たれた極大のマスタースパーク。それと魔理沙自身を取り巻くようにばらまかれる星型の魔法弾頭。
 あの星弾頭のプレッシャーに惑わされてはいけない。魔理沙のマスタースパークは私自身への直接照準、まずは真横へ逃げればいい!
「てゐ、今よ!」叫びというよりも自分の声は余裕のない喚き。マスタースパークの射線上から、横っ飛びに体を翻し。てゐが袋の中から白い鳩を縦穴の中に乱暴にぶちまけ。私は両腕を交差させる、両手は指鉄砲の形に、魔理沙へ突き出す。その後ろではてゐが教会の風景の描き割りをスバっと広げ、大声で歌い出したBGMは『星に願いを』
 
 そして私とてゐは声を合わせてスペルカードを宣言。
 ジョン・兎ー符「兎たちの挽歌ぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!」 

 霧雨魔理沙からはきっと、白い鳩がやけにゆっくりと私の後ろを飛んでいくように見えただろう。私が横っ飛びしながら、両手の指先から連射した波長弾丸が、スローモーションで迫ってくるようにも見えたかも知れない。もちろん私は時間を操作できるわけがなく、時の流れが緩やかに感じるのは魔理沙だけだ。
 何故なら鳩と教会の書き割りとBGMという劇場効果によって、魔理沙は私の赤い瞳を無意識に直視してしまっていて、意識の自由を奪われていたからだ。こちらの攻撃を回避することは出来やしない。
 当然、回避の意志を奪うと同時に、攻撃の意志をも奪った。
 はずなのに。
 なおも、縦穴の真っ暗な空間をマスタースパークが薙ぎ払うように、私とてゐの体へと迫ってくる!
 私は直感した、奴は最初から回避など考えていない。全ての意志の力を、圧倒的な火力でやられる前にやるという、極めて直線的、鋭角的、攻撃的に、私たちを殲滅する行為に振り向けた、それが狂気の瞳の力を一時的にでも上回ったのだと。
 ここは一旦、位相をずらして防御に徹するべき。なのに私はそうしない。
 どうしてだ?
 理由はきっと簡単だ。魔理沙の顔が極限まで凶悪に今のこの状況を笑って楽しんでいて。
 私の顔も笑っている。きっと極限まで凶悪に。楽しんでしまっている。魔理沙の気迫に飲まれてしまっていた。だからだ。
 マスタースパークに髪の先が巻き込まれて引きちぎられ、尻尾が嬲られた。
 あと数ミリで背中に達しようとしている。ばらまかれてた星形弾頭にてゐが被弾、私の脚にも一発が命中、姿勢が崩れた。背中から光の濁流に飲み込まれていく……ここまでか? 
 いや、違う。
 波長弾丸の最初の一発が魔理沙の額に炸裂していた。
 途端にミニ八卦炉からの閃光は失せた。
 魔理沙が着弾の衝撃で仰け反らせた体へと、続けざまに弾丸がヒットした。
 魔理沙は箒から弾き飛ばされた。
 短い悲鳴さえも無い。
 けれど「魔理沙!」パチュリーが代わりにとでもいうように、悲痛な声を上げ、無限の底へと落下しようとしている魔理沙へと飛んで行き、抱きかかえた。でも彼女の体力では人間一人と金属の箱を支えるのが難しいのだろう。上昇してこずに、近くにあった横穴へと入った。
 
 私たちも二人を追って横穴に入ると、「もう止めて」とパチュリーが健気にも両腕を広げて、床に転がってるグロッキーな魔理沙を庇った。「あんたたちの勝ちよ。魔理沙はもう戦えない。ほら、箱は返すから、持って行ってよ」

 てゐがすかさず箱を回収して、「やったね鈴仙」勝利のガッツポーズ。するものの、さっきの被弾で髪がアフロになりかけてる。うん。正直、冷や汗物だった。二対一でもギリギリの勝負になっちゃうなんてね。
「まったく、とんだ手間だったわ」余裕をみせて鼻を鳴らして言ってみて、脚の痛みを我慢しながら、てゐとハイタッチ&フィストパンプ。帰ったら師匠に消毒してもらおう。
 
「痛てて……」魔理沙が呻きながら起きあがった。「んあ、もしかして私は負けたのか兎に? とか言ってみるテスト?」

 魔理沙以外の全員が頷いてみせた。
「そっか、アッハッハー、いやあ楽しかったな怪盗ごっこ、なあパチュリー?」
 なんて悪びれない無邪気さ、こんな顔で笑われたら説教する気力も、どっかに行っちゃうってもんだ。

「ま、まあ少しは気分転換にはなったけど……って、ねえ魔理沙あんた! 楽しかないわよ、本気で死にそうになったりしたじゃない。今だってあんた死にそうになったんだからね」
 座ったままの魔理沙を見下ろすパチュリーは、ぷんすかと腰に手を当てて、しかめっ面を突きつける。
「でもあれだよな、ちょっと物足りなくないか?」魔理沙は首を傾げた。「こうやって犯人が追いつめられてる時って、なんかあったよな」

「まだなんか考えてるなら容赦しないよ?」ふふーん、と魔理沙に人さし指を向けてみる。私ってちょっと意地悪かも知れない。パチュリーが焦り気味に、ちょちょっと止めてよ、と魔理沙と私の間に割って入った。

「あっ、思い出したぜ!」ぽん、っと魔理沙は手を打ち、立ち上がった。
 何をするかと思えば、ミニ八卦炉をおもむろに握るときたもんで、こっちに向けてきたら本当にもう二三発撃ってやろう。と思えば、なんだ? これは。

 魔理沙はパチュリーを羽交い締めにしました。そして、ミニ八卦炉をパチュリーのほっぺたに突きつけました。 
「え?」パチュリーさんは、え、と言いました。
「は?」私たちは、は、と言いました。

「よし、お前ら全員動くな!」と魔理沙さんは言いました。「動くとこの女を殺すぞ! ゆっくりその箱をこっちに持ってきて足下に置け。人質と交換だ。いいか、動くと撃つ、じゃなかった、撃つと動くだこんちくしょうめ!」

 ブチっ。と何かが引き千切られる音が聞こえました。精神的に、パチュリーさんの内部で。
 ええ、そりゃもう、見事に、激しく据わった目をしてましたパチュリーさん。
 ガシッとパチュリーさんが、魔理沙の顔面を鷲掴みにしました。
「うわ、何をする止めろ!」
 魔理沙の抗議も虚しく、パチュリーさんが、苦々しく呟きました。「いい加減にしろゼロ距離ロイヤルフレア」
 辺り一面が光に包まれました。位相を完全にずらす暇もなく。



 
 酷い耳鳴りで気が付いた。意識を失っていたらしい。体を起こすとあちこちが痛くて、すぐに自分がロイヤルフレアに巻き込まれたと言うことを思い出した。耳鳴りの調子から言って、あれからまだ三分も経ってないはずだ。
 てゐが私の脚を枕にするようにしてやっぱり昏倒している。揺り起こした。魔理沙たちは居ない。
「ここどこ?」てゐは頭を痛そうにさすりながら、あたりを見回す。帽子の二つの鈴がちりりんと鳴った。耳鳴りのせいで声が大きくなっている。
「さあねえ」こっちが聞きたいくらいだ。

 さっきの横穴じゃないのは確か。もっと狭くて細長い通路のような場所だ。相当吹き飛ばされたらしい。天狗たちの姿も見えないとなると、普段は誰も来ないようなメンテナンス用の通路か何かだろうか。あれだけ派手に暴れたら、自警隊がわんさか集まってきそうだけど、それも居ないとなると、もしかしたら縦穴最下部の結界まで落とされて、どこか、に転送された可能性もある。位相をずらした状態である種の結界に接触した場合、何が起きるか予想が出来ない。
 地面の中なんかに転送されて、石の中にいる、って事になってないだけ運が良かったとも言える。こんな細い通路にピンポイントに転送された、としたら……幸せ兎の御利益なのかな?

 そういえば。
「ねえ、てゐ、あんた荷物どこやった?」
「え……あ」てゐはおろおろと、手元や通路に目をやるけど、「無いや、どーしよ、師匠に怒られるかな……」
 うん。私まで怒られる。だろうけど、あの状況じゃ無理もない。責めるのはかわいそうか。
「まあ仕方ないよね。一緒に謝ってあげる。元々は私の判断ミスで魔理沙に取られちゃったんだし」
「だよねっ」にぱぁ、と笑うこいつはまったく。

「でもまあ、山の中に箱があるのは確かだろうけし、たぶん天狗たちが今頃見つけてるかな。とりあえず誰か見つけて事情説明して箱がどうなったか聞いてみましょ」

「うん、ねえねえ鈴仙、これ何かな」と、てゐが私の背中にある何かを指さした。

「ん?」と振り向いてみれば、なんてことない。ただのエレベーターだろう、たぶんこれは。頑丈そうな金属扉の横にテンキーパネル。確かに幻想郷じゃ、そうそうお目にかかれないものではないけど。
「ははーん、これはね、てゐ、エレベーターって乗りもんよ。月じゃ常識よお? これに乗れば誰か居るところへ戻れるわ。たぶん」
 なんとなく得意になってしまう私。
「えーすごい、ねー鈴仙どうやって動かすのこれ?」興味しんしんらしい。

「ふふん、文明兎な私に任せなさいな、簡単、簡単、見てなさいよてゐ、ボタンを押すと、この扉がガーって開いて、中に乗れるからね。月の文明に比べれば、こんなん原始的なもんよ」
 ピッ、とテンキーパネルの1を適当に押してみた。エレベーターなんて大概、適当にボタンを押せばやってくるものだ。けど不思議にエレベーターの作動音が聞こえない。なんでだろう。2を押してみた。まだ作動音は聞こえない。
「どーしたの鈴仙? 動かし方わからないの?」

「余裕よ……うん、余裕余裕、私は月育ちなんだから、なめないでよね」
 えーと、なんだろうこれ、なんで動かないんだこれ、故障してんのかな、さっきので。故障してればいいなあ、私が動かし方わからないんじゃなくて壊れてるだけだったらいいなこれ、さすが原始だなあ、畜生原始的原始的、あーくそ今更、動かし方わかんねーやとか言うのもださいしなあ。絶対今後一ヶ月くらいこのネタで笑われるのが目に見えてる。
 ピッピッピッピッピ、でたらめに数字をランダムで連射してみた。でも動かない物は動かない。
「ねーまだー鈴仙?」
「今やってるから、ちょっと黙ってなさい。余裕よ。原始的なんだから原始的原始的原始的!」
 と言ってもピッピッピッピッピとひたすら連射するほか無い。自分の行為がひどく原始的に思えなくもない。
 そしたらどうよ。ガー、っと扉が開きました。しかもなんかエレベーター内から合成音声で『64桁ノぱすわーどヲ認識シマシタ。搭乗シテクダサイ』とか聞こえてきた。

「わー、すごいねピッピッピッピッピ、ガーって鈴仙開いたよほらー、早く早く」さっさと乗り込むてゐ。
「へへーん、どうよ。ちょろいもんでしょ?」と、私が中に入った瞬間に扉が自動で閉まり、行き先階を指定してないのに、動き出した。エレベーターの中に操作パネルらしき物もない。なんだろうこのエレベーターて。
 しかも搭乗するのにパスワードが必要? 64桁? ほんとなんだろこのエレベータって。
 ていうか64桁も適当に押して、偶然正解しちゃったって事なんだよね。すんげえラッキーじゃん。
 てゆーか、そうか、このワクワク顔で「わー、すごーい、わーすごーい」とか言ってる幸せ兎の御利益かなやっぱ。
 しか考えられないよね。四十葉のクローバー分の幸運、侮りがたし。
 でもなんだ。さらに地下深くに潜ってる感じがする。地上とかに出られるんだろうかこれほんとに。

 チーン。お馴染みの音がしてエレベーターのドアが開いた。
 とりあえず降りてみたけど、そこは四畳半も広さの無い壁に囲まれただけの無愛想な小部屋。証明は赤色灯だけ。
 ある物と言えば、正面の壁に埋め込まれた端末モニターと、その隣にエレベーターにあったのと同じテンキーパネル。
 なんだ、ここは?
「あ」と、てゐが小さな声を上げたのは、背後でエレベーターの扉が閉まったから。「誰もいないじゃん」ぼそっと言いやがった。

 うんごめんなさい。これで誰か居るとこに戻れるわ、とか知ったかでした。いやまじで、誰もいないっつーか、なんだここはって感じなんすけど、何私、あははー間違えちゃったみたいー、とか言うの、てゐに? いや言えるわけないだろ、あれだけ大見得切ってたら。これだから地上の文明ってもんは原始的で嫌になる。
「ふふん、あー……まあ、余裕よ余裕。うん、見てみなさいてゐ。そこのモニターできっと誰かと通信できる。やってみせるから、ちょっと待ってなさい」

「うん、せいぜいがんばってね」
 えーすごーい、とか言おうよてゐ。何その疑わしそうな目は? うわーむかつくなそれ。
 といっても、あるのはテンキーだけ、と、モニターには何も映ってないと……。スピーカーらしきものはあるけど。
 まあ、あれだね。幸運に任せてやるっきゃないな。なんとなく。  

 うおりゃー! っと心の中で叫びつつ、テンキーを十本の指で連打した。そりゃもう一秒間に18連射くらい。
 したら十秒もせずに、ピンポーン! なんていかにも正解っぽい電子音がなりました。
『128桁ノしーくれっとこーどヲ認識シマシタ。最終決定ボタンをオシテクダサイ』

「ほら見なさいてゐ、私はやれば出来るんだから」満面の笑みで、てゐに振り向いてみた。
「わーすごーい!」てゐが駈けてきた。モニターを眺めてる。モニターにYESかNOかが表示されてて、「何これ?」と言って、てゐはYESの文字に触れた。

 すると。『シークレットコードにより、強制自爆が発令されました。只今より十分ゼロゼロ秒後に、妖怪の山全深度以上が爆破処理されます。当該地区に居る各員は、直ちに避難してください。尚、本自爆発令の保留及び取り消しは不可能です』とさっきまでの合成音声より自然な発音の声がスピーカーから聞こえてきて、なんかサイレン鳴り出した。ワーウーワーウーって鳴り出した。


 ええと。
 なんだ。
 その。  
 てゆーか幸せ兎ってすごいな?
 そんな事考えてる場合じゃないよね?
うん。
 まあ。
 私たちって、何やったんですかね?

「ねえねえ鈴仙、自爆って何?」

「たぶんだけど、妖怪の山全体がどかーんてなるかな」私の声はちょっち震えてました。

「ねえねえ鈴仙、避難しろって言ってるよ?」

「うん、避難しないと死んじゃうからね」私の両手がわなわなと震えてました。 

「どうやって避難するの? ゑれべーたー開かないよ?」てゐがピッピッピと連打しながら涙目になってました。

 けど突然、バシュっ! なんて音がして壁の一部が開きました。そこは奇妙な椅子が一つだけあるという、人一人が入るだけでもやっとな空間。『脱出シートに付いてください』
 部屋に声が響いた瞬間にてゐが腰掛けてました。シートベルトまでしっかり締めてます。
「ちょっとてゐ、私も乗せてよ!」そっこーでてゐの上に飛び乗ります。
「一人乗りだよこれ鈴仙重い重いからああ」「いいから黙って抱っこして!」

 ずん、っと体に+Gが掛かったと思った時には椅子の下で何かが噴射されてる鋭い音が鳴っていて、てゐが私のお尻の下で、重い重い潰れるぅうううううううううううううう、と悶える声も掠れて聞こえ、頭上に明かりが見えた瞬間には、私たちは空の中。
 噴射音はもうしてなくて、耳に生の風の音が入ってくる。ひゅーひゅーと入ってくる。
 妖怪の山が視界の中でどんどん遠ざかっていっている。ワーウーワーウーなサイレンがドップラーで遠ざかる。
 山から次々に空へと飛び立っていってる人影は天狗たち。うん、みんな避難してるんだね……。
 私とてゐは、遠い目でそんな彼らを眺めてました。頭の中真っ白けで。


 
 私たちが着陸したのは、人間の里から少し離れた原っぱ。
 二人並んで原っぱに体育座りで妖怪の山をずっと眺めてた。
 五時間くらい前にどかーんってなた。山がどかーんってなた。山の形が派手に変わるほどじゃないけど、いろんなとこから火がでたりした。どかーんて。
 どかーんってなる前もなった後も、頭真っ白けのままで眺めてた。
 ただ眺めてた。
 夕日がちょっとだけ形の変わった山の陰に落ちてってる。カーカー、と鴉が鳴いてる。
 たんぽぽがそよぐ風で揺れて、しろつめ草の柔らかい匂い、いつまでもいつまでも舞い落ちてくる大量の白い灰、山に新しく開いた穴から吹き出す黒煙を、あちこちの空から呆然と眺めていた天狗たち。
 きっと彼らも私たちと同じくらいか、もっと頭が真っ白になっていたんだと思うけど、しばらく前にみんなどこかへ行ってしまった。今頃、天狗たちは晩ご飯の用意をしているかも知れない。山じゃないどこかで。 
 グー、っとお腹が鳴った。そういえばお昼食べてないな……三時のおやつも。
 ご飯食べたいな。
 ひらひら、一枚の紙が落ちてきた。安っぽい藁半紙、鉛筆で何か書いてある。

『文々。新聞号外』と書いてあった。印刷された物じゃなくて鉛筆で直筆だ。そりゃそうだよね。山がどかーんなったら印刷なんて出来るわけがない。新聞も直筆だよね。
「何それ鈴仙、新聞? なんて書いてあるの、やっぱ兎二匹指名手配とか?」
 てゐがアクセントの無い疲れ切った声で言った。
「今読むから、ていうか文章少ないわね。えーと、『妖怪の山が原因不明の大爆発、警備システムのバグによる自爆装置の異常動作か? 幸いにして犠牲者はゼロ、日頃の避難訓練のたまものと自警隊は鼻高々。また爆発事故の原因を究明すべく、午後から河童族技術者を中心とした調査団が山内部へ入っており、日没までには第一次調査結果の発表が行われる予定』だってさ。アハハ……誰も死ななくてよかったね」私も疲れ切った声で言ってみた。「でも私たちって普通に大犯罪者だよね。普通にテロだよねこれ。魔理沙もびっくりなくらいのさ。どうしようか、私たち……自首、する?まだ犯人わかってないみたいだし、調査の結果が出る前なら罪も軽くなるかもねえ……」

 ぶんぶん、と、てゐは首を振った。「私ね。ずーっと昔に、ワニを騙して海を渡った時に、ほんとは頭数を数えて勝負するとか嘘でしたぴょん、って自首したらね。自首したらね……」言葉に詰まって瞳に涙を溢れさせ、私の胸に抱きついてきて、声を上げて泣き出した。「痛かったよー、怖かったよー」と、ひとしきり泣いて、「鈴仙は自首するの?」泣きぐせになった声で訊いてきた。

 私は元々逃亡者だ。
「するわけないでしょ」てゐの頭を抱いてやった。「でも参ったよね。狭い幻想郷じゃいつまで逃げられるか」   

「無かった事にしてもらうしか、ないんじゃないのかな」てゐは独り言のように、私の胸の中で呟いて言った。「無かった事にして貰おうよ、歴史を食べてもらおう?」と、指さすのは遠くの、里の外れにある一件の平屋。上白沢慧音の家だ。「ねえ鈴仙。そうしようよ、だってわざとやったわけじゃないもん。事故だもん」
 てゐが私に向けてきたのは、本物の泣き顔だった。どうせ演技で泣いてるだけだと思ったのに。
 なかなか見れるものじゃない。
 私は頷いた。そう上手くいくかな、と思いながらでも、てゐの泣き顔のせいで頷いてしまった。

 上白沢慧音の歴史を食うという能力がどの程度の物まで、食える、のかは良く知らない。山内部が壊滅したという現実を覆えせるほどなのだろうか? だとしたら私たちなんかよりも、真っ先に天狗が頼み込みに行きそうだし、そうならとっくに山は元通りになってそうなもんだけど……。
 それに、あの堅物教師に壊滅させた犯人自身が、無かったことにしてくれ、と頼み込んだとして、どうなることやら不安だ。妹紅の事もある。今じゃもう姫と妹紅の果たし合いも、蓬莱人同士の馬鹿らしく牧歌的かつ凄惨なお遊び、なんて認識にはなっているとは言え、慧音が私たち永遠亭の兎に、親身にしてくれる程好意を持っているわけじゃない。
 てゐだって、そこまで考えてないわけじゃないだろう。その上でも、食べて貰おうと言っているわけだ。
 ならば他にいい手があるのかと、考えても、やはり、思い浮かばない。




 里の家々から通りにまで夕餉の匂いが漂ってきていた。お腹が鳴って仕方がなかった。
 私たちは道に積もった白い灰をさらさらと踏んで歩いた。
 慧音の自宅からも、みそ汁と焼き魚らしい匂いが外まで漏れてきていて、戸を叩く時に、またお腹が鳴った。
「なんだ、お前らか」と、慧音は戸を開けるなり言った。「私の家に来るとは珍しいな、輝夜の使いで紅妹に用事だったら帰ってくれ、見ればわかるだろう、今は私たちは取り込み中だ。な? 見ろこの有様を、わかるだろう?」

 わかるだろう? と慧音は家の中を指さすけど。
 私たちとしては、「はあ」と曖昧に答えるしかない。
 さっぱり状況がわからなかった。

 六畳一間の畳に所狭しと転がったバナナの皮と、転がってる一つのどんぶり、それと全身に茶色い液体を被った妹紅がちゃぶ台の前で照れたように、えへへと頭を掻いている。慧音自身も全身に妹紅と同じ液体、醤油の匂いがするから、たぶん醤油を二人とも頭から被ったんだろうけど。
 これをどうわかれと、言うのかこの教師は。
「うむ、実はさっき、私が醤油をどんぶりで運んでいたら、バナナで滑ってな」とおもむろに語り出した。「いや何、妹紅に醤油をぶっかけたくてわざと転んだりしたわけじゃないぞ。本当だ。嘘じゃない。絶対に。私の責任ではなく万有引力の法則が悪いのだ。文句があるならニュートンに説教した上で、アインシュタインの墓でも暴いて土下座させてくればいいではないか」
 あ、このひと、わざとやったんだな。なんとなくピンと来ました。職業的な勘と言うもんです。
「いや、それで仕方なくだな、非常に致し方なく今から二人で風呂に入り、全身をくまなく洗い合わなければならないのだ。醤油を浴びたら、すぐ風呂に入る。常識だろう? 別になにも妹紅に私が特別な感情を抱くあまりの暴挙というわけではない。そんな感情は一切ないからな! 女同士でそんな事あるわけないだろう、馬鹿らしい、これは極日常にありふれた些細な事故だ!」

 一人で勝手にめっちゃ興奮した赤ら顔でなんか言いましたこのひと。自分で醤油ぶっかけておいて、妹紅とお風呂に入って、お互いの体をくまなく洗いっこしたかっただけらしいです。
 なんというか、そういう手もあったのか、というか、力技というか、私にはちょっと真似できそうもありません。
 私の媚び技が巧みなゲリラコマンド戦だとしたら、この人のはがむしゃらな特攻とか玉砕というものだと思います。
 てゆーか女同士とか別に、そんなんいいじゃんみたいな。好きなら好きで素直になればいいのに、めんどくさい奴。

「なんだ兎、その目は? 私に何か言いたそうだな。疑うのか? 私は聖職者だぞ?」
 すんげえメンチ切ってきてます。ガン付けてきてます。聖職者というよりヤーサンじゃないでしょうかこれ。
「いえあのちょっと……ですね。お話というか」
「ちょっとなんだ? 醤油を浴びたら風呂、これは世界の定理だ定説だ。わからんのかそれが? いくら兎とはいえ、それくらいの常識は持っていて然るべきだと思うが、どうなのだ? ちゃんとした教育を受けているのか? うちの寺小屋に来てみるか? それともなんだ貴様は世界に刃向かうつもりか? チャレンジャーなのか? いったいどんな思想のどんな行動原理によって、私たちのささやかな営みを邪魔するというのだね兎! 言え! ほら言え、早く言え。その浅はかで愚かで近視眼的で俗にまみれこの世の垢で汚されきった貴様の行動原理をヒンドゥー語で思考した上でフランス語で記述し大阪弁で言ってみたまえ供述して見ろ! 曰え! 叫べ! 喚け! 魂の慟哭と共に内蔵を吐き出さんが勢いで宣言してみせろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 襟首を捕まれちゃいました。「あのちょっと待って……慧音、さん?」すんげえ醤油臭い上に、鼻息がごついです。てゐが怯えて私の後ろに隠れました。そりゃ隠れるよ。うん。私だって出来れば隠れたい。

「はんっ、私が怖いか兎? それでも挑むと言うのだな。いいだろうチャレンジャーは嫌いではないぞ私は? さあ妹紅を連れて行くというなら、私を殺してからにして貰おうか、どこからでも掛かってこい、ワーハクタクの闘争というものを、その身に刻んで教育してやるぞ、貴様に三千世界の地獄をすべからく巡る覚悟が、あると言うならな!」
 
「いえ、あの慧音、さん? なんかすごいノリノリのところ悪いんですけど、あのちょっと話聞いて貰えませんかね」

「貴様はああああああ! 誰がノリノリだと言うのかっ! 私は乗ってなどいない。むしろ乗られているのがわからんのか、英語で言えばなんだ、Rideの受動系はなんだ? 忘れたぞ畜生、でも私はけして乗ってなどいない乗られているし乗られるのが好きなのだそこを理解しろと、何を言わせるかこのあんぽんたんがあああああああああああああ!」

 がっくんがっくん揺すられます。びんたされてますバシンバシン。頭突きされてますゴツンゴツン。
「いえあの慧音、さん? 痛いんですけど、ていうか、乗るとか乗られるとかなんの話か、わかるようなわからないような、痛い、痛いって、スナップ効いてるしそれ、首のスナップ効かせてガツンとやるの止めて貰えませんかね痛いから、ちょっとっていうか、ちょっと物は相談で、妹紅さんとかは関係ないんで、ちょっと話聞いてもらませんかね」

「なんだ妹紅ではなく私に用事か? そうか、早くそう言いたまえ。紛らわしい」
 半ハクタクさんの吊り上がってた目が下がって、捕まれてた襟首が離されました。何この落差。 
「だったら私たちが風呂から上がるまで、外で待っていろ。今から妹紅と風呂に入るという絶対運命は黙示録的に咲き乱れるめくるめくあれだ、それだ、これだ、どれだというのだ、ええい貴様はけしからん! じゃあまた後でな!」
 半ハクタクさんはえらく興奮した顔で戸をガツンと閉めて、「ゆくぞ妹紅!」「待ってたぞ慧音、私の新しい技を見せてやる!」「なんだとそれは、ええい楽しみだな!」えらく気合いの入った声が中から聞こえてきました。


 私たちはしょーがないので、家の裏で体育座りをして待っていました。風がちょっと肌寒くなってきました。
 やることが無いので、てゐと二人でぺんぺん草をぺんぺんしたり、草相撲したり、しろつめ草で首輪とか冠作ったり、しりとりしたりしてました。あとてゐがお腹を空かせる余りに雑草を食いました。こいつはたまに食います雑草とか、元々野生の兎だから、私は食べないけど、元々ペットだから。
 それと丁度、お風呂の窓が家の裏側にあるらしく、慧音と妹紅の自重しない声が聞こえてきたりもしました。
 ようしこれはどうだ慧音! くぅこれは妹紅、なんてすごい洗い技だ、すごいぞ妹紅ー! どうやったらこんな技を思いつくというのだ! 脚がああなってこうなって妹紅のがあんなこんな、おお真くんずほぐれつとはこの事なのか!
「お腹すいたね。かいつぶり」てゐがお腹をさすりました。てゐのお腹が鳴りました。雑草は不味いのであんま食いたくないそうです。
「うん。りんご」と、私もお腹をさすりました。 グーっと私のお腹も鳴りました。てゐより大きい音です。
 まだまだまだまだー慧音ぇえ次はこいつだーぶっ倒れるまでガンガンいくぞ! ああ妹紅お前は! お前はなんて!
「りんごはさっき言ったよ鈴仙が」
「そうだっけ、そんなの忘れちゃったよもう、だって一時間以上お風呂に居るじゃんあの二人」
「さっきもまた『やはりもう三十分延長だ。悪いがもう少し待っててくれ』とか言ってたよね」
「うん」

 そりゃそりゃそりゃそりゃどうだあ慧音! 妹紅妹紅もこもこもこもこもこーもこもーこもこもーこもこー!

「血とか出ないのかな……」ぼそっとてゐが言いったところに、何やらまた紙切れが落ちてきました。号外。てゐが読み上げます。
「つい先ほど妖怪の山に派遣されていた事故調査団から、正式発表があった。同調査団はメインシステムに残されている可能性のあった事故当時の記録の復元を試みようとしていたものの、自爆発令による全自動機密保持機能によって物理削除されたために、事実上不可能の模様。これに対して同システムを設計した河童の技術者は『ハード的な機密保持は万全を期してるよー、全部の階層が綺麗に爆破されてて、自爆装置は完璧な動作をしてたよー。爆破は芸術だよー』と鼻高々に語った。自爆装置を悪用したテロだったのではという意見に対しては、『だとしても、誰がやったかなんて絶対にわからないよー、真っ白けになるから、私のハードは完璧だよー。私もたまにボタン押したくなってドキドキしてたりもしたしー。半押してハラハラして遊んだりね。芸術だよね自爆ボタンって。再建するときはもっとすごい自爆装置を作りたいな、にはは』とやはり鼻高々に語り、これを機に新しい工場や研究施設が欲しいと期待の声を上げたが、不謹慎だとの意見も。しかし、お前らだってみんな、リフォームしたがってたじゃないかとの反論により、それもそうだねと、早くも再建計画に妖怪の山関係者一同は、あれが欲しい、これを新しく作ろう、これだけは譲れない、などと、熱心な盛り上がりを見せており、今回私がインタビューをした河童技術者は、次ぎの自爆装置には対消滅弾頭を採用するべきだクラシカルなキノコ雲と揺り戻しこそがジャスティスだ、などと強行に主張して別の研究者グループと対立している。ちなみに別の研究者グループは、今時キノコ雲など流行らないからブラックホール弾頭の縮退爆発の方が良いに決まっている真っ黒な特異点こそジャスティスだ、などと主張している。この二派どちらかの案が採用される見通しだが、いずれにしても次ぎに事故が起こった際は、幻想郷の消滅は免れないため、日常的に河童のおもちゃにされている自爆ボタンの取り扱いや、穴だらけの発令プロセスの改善に努めて貰いたい」

 ええと、これってなんだ。
 もしかして。

「完全犯罪だね鈴仙」ぼそっと、てゐが言いました。

「う、うん、なんとなく、このまま私たち二人が内緒にしてたら、全自動的に無かった事になりそうだよね。私たちが犯人だっていう事実的な意味で。歴史を食べて貰う事を、あいつにお願いするというリスクを冒さずに」

 てゐと顔を見合わせました。
 へっへっへっへっへ、と変な笑いがこみ上げてきました。
 きっと他人から見たら、もの凄く黒そうな顔で笑ってるんだと思うけど、今の私にはてゐの笑い顔に、とんでもなく親しみと友愛と愛情を感じます。抱きしめて頬ずりしたいくらい。
 今私たちの間にあるのは、ただの友情を越えた真の何かだと思います。魂の姉妹、ソウルシスターだと思います。

「なんていうかさ、てゐ。今思ったんだけど、考えてみれば私たちがした事って、そこまで大それた事じゃないよね。だって誰かが死んだわけじゃないし、ちょっとさ、どかーんってなっただけじゃない山が。ほらほら、吸血鬼異変とかすごかったらしいし、紅霧異変とか秋にお米が取れなくなって大変だったみたいだし、春雪異変だって里じゃ春になっても畑仕事が出来なくて、しばらく食べ物が買えなかったっていうし、永夜異変なんてあれだよ、もうちょっとで妖怪が発狂して幻想郷が崩壊しそうだったらしいよ?」
 
              へっへっへっへっへっへっへ

「あ、うん、そう考えると、今回の私たちってちっぽけだよね。鈴仙頭いいね。なんか山の妖怪も盛り上がってるみたいだよね。うん、良いことした? うん、私たち良いことしたって事にしとかない?」

            へっへっへっへっへっへっへっへっへっへ

「そうそう、そうだよねてゐ、考えてみれば、どうって事ないってこんなの、あはは、月から逃げてきた時に比べればへっちゃらへっちゃら。てかみんな一つや二つくらい、人にあんま言えないことってあるじゃんさ。師匠なんか昔、月からの使者とか裏切って、皆殺しにしちゃったりさ。だからさてゐ。一生内緒にしとこうね私たちのテロ行為」

「うん」
 二人でこっくり頷き合いました。
「それじゃ帰ろうかてゐ。あ、でもお腹空いたし、ちょっとおやつ食べていこうよ、せっかく里まで来たんだし、甘い物おごったげる」
「わーい」
 けいね先生さようならー、やっぱさっきのはどうでも良くなりましたー、とお風呂の窓から言ってから、私たちは手を繋ぎ合って、あはは、うふふ、と軽やかに笑いながら、繁華街へとぴょんぴょん跳ねていきました。





 私たちが永遠亭に帰ってきた時には、空にまん丸お月様があった。
 てゐと二人で玄関の前で、立ち止まってしまった。てゐも私も戸を開けようとしない。
 なんとなく喫茶店に長居をしてしまったのは、なんだかんだ言って師匠や姫に顔を合わせ辛かったからだ。
 他人に言えない秘密を持つというのは、それだけで心が狭苦しくなってしまうもんだ。
 でも、と思う
 そのうち、いつか、この狭苦しさも気にならないくらいに慣れてしまって、想い出の一つ、記憶の一つになってしまうのかもしれない。月から逃げてきた時の辛さのように。
 些細で平穏で平凡かもしれない明日からの毎日がきっと、今日の特異な出来事を押し流していってしまう事だろう。
 永夜異変の後のようにだ。

 だから、その前に私たちの心は、少しくらいは味わっているのかも知れない。罪悪感ってものをだ。
 すぐに忘れてしまう物だから。きっと、ほんとうにすぐに。
 あるいは。忘れてしまうだろう、というそれ自体が、願望なのかもしれないけれども。
 もし私がもう少しだけロマンチストだったら、そんな願望に、希望、なんて名前を付けるかも知れないし、もう少しだけでも道徳心があったら、ろくでなし、と自分の事を呼ぶだろう。
 要するに、明日からも何事もなかったかのように毎日楽しく生きていきたいな、と思ってます私って奴は。
 
「あら?」と不意に後ろから聞き覚えのある声、てゐと振り向いてみたら霊夢だった。「何やってんのよあんたら、自分ちの前で神妙な顔しちゃって、殴り込みするわけでもあるまいし。まさか追い出されでもしたの?」

「ううん」とてゐが首を振って。「まさかそういう訳じゃないんだけどね」と私がしらばっくれてみる。「霊夢こそ、どうしたのこんな夜に。また置き薬でも切れた?」
 生活苦による空腹のあまり薬を食べるしかない人も世の中にいる事を、私は忘れていない。

「いんや。今年の春は温かいからヒラタアオコガネとツチイナゴが多くて助かるのよ、薬には手を付けてないわ、まだ」

 そういえば寒い春、春雪異変の時は食べ物が無くなって、畳をほぐして醤油で煮て凌いだとか聞いたことがある。

「じゃー何の用?」てゐが首を傾げて訊いた。「うちにはあんま食べれる虫いないよ?」

「何って決まってんじゃない。魔理沙が文に運ばれてここに入院したって聞いたから、お見舞いに来てやったのよ」
 巫女さんは両手にどっさり提げたお酒を、「ほら、見舞い酒」にやりと持ち上げてみせた。虫食べてでも酒代に生活費を回す根性がすごいと思う、この人。「なんでも、あんたらとドンパチしたって話じゃないの魔理沙、山ん中でさ。またなんか、しょうもない事したわけねあいつ?」

「ああ、うん。まあね」
「強盗殺人だよ。あと顎殺害」と、てゐ。

「ふーん。それで、良く知らないけど山の中も焼けちゃったんでしょ? 一体なんなのかしらね今日は。魔理沙とパチュリーがさ、瓦礫に埋まってて、爆発寸前まで逃げれなくて、残り一秒で助けたとか言ってたわね文が。ということは他に爆破した犯人がいるはずなんだけど、まさかあんたらじゃないわよね?」

「う……へへへへへ」うわ、なんかてゐが変な笑いしてる。「なわけないじゃなすか、やだなあ霊夢さんたら」
 それちょっとあれだよてゐ、いかにも犯人の顔だよ後ろめたい犯人の。もっとナチュラルにナチュラルにしないと。
「ちょっと何言うのよー霊夢、私らは被害者よ被害者」大げさかなとも思ったけど、出来るだけ冗談っぽく笑ってみた。
「ふーん……。ま、どーでもいいけど、じゃ上がらせて貰うわよ」と、本当にどうでもよさそうに戸を開けて中に入っていった。
「どうぞどうぞ」と私が言う間も無くだ。

「うん? 兎が二匹、出迎えかしら」すぐにまた別の声、子供の声だ。微かに薫ってきた洋風のフレグランスに目を向けてみれば、吸血鬼が居た。レミリア・スカーレット。一度は力づくで幻想郷をほぼ完全支配してみせたという、楽園の素敵な問題児、そのひとだった。
 珍しく妹も連れて紅魔館の面々を従え、庭園の遊歩道を桜が舞う中、歩いてきている。
「ふうん、いつにもまして挑戦的な見た目をしてること」レミリアが私を見ながら、くっくっく、なんて短く笑った。

 てゐがいつの間に私の後ろに隠れてる。めっちゃ震えてる。それも仕方ないと思う。
 紅魔館の連中が勢揃いで夜にぞろぞろ歩いてきてたら、私も普通に怖い。
 例によってレミリアは薄ら笑いを浮かべ、ポケットに手ぇつっこんで怠そうに歩いてきてて、付き従う咲夜は腕を組んでサイボーグばりの無表情で顎をぐっと上げこっちを見据え、美鈴は何故か特大配膳ワゴンを片手で持ちつつも、「見て美鈴、兎だ兎ー、あれで遊んで良い?」とか騒いでるフランドールを肩車して、「壊れるから止めてください妹様、咲夜さんが掃除するの大変です。生ゴミは臭い取るのも大変なんですよ」とかへらへら顔で言ってる。普通に怖い。
 もし今この瞬間の現実が漫画だったとしたら、彼女らの背景には絶対、
   ゴ  ゴ  ゴ   ゴ   ゴ   ゴ    ゴ    ゴ    ゴ    ゴ    ゴ、
 などと謎の効果音らしきものが描かれるに違いない。
 あるいは、ズ  ズ  ズ  ズ   ズ   ズ    ズ    ズ  
 もしくは、 ┣” ┣”  ┣”   ┣”   ┣”   ┣”   ┣”    ┣”。 

「あの、何のご用でしょうか?」もちろん聞いてみた。割と情けない声が出た。

「んー。何の用ってそりゃ、見てわかンないの?」吸血鬼が牙を見せて笑んだ。

 あんたらが、そうやって歩いてっと、普通に殴り込みに見えなくもないです。てゆーか、まさにそれなんすかね?
 今日はもう疲れました。そういったご用件でしたら、後日改めてお伺い願いたいです本当に。
「見ればわかるとおっしゃいますと、なんでしょうか」

「ふふ、うちの動かない大図書館が、世話ンなったらしいからさ。ちょいとね」

「あー、やっぱ殴り込みなんですかね」
 頬が引き吊りつつも、体の奥で戦闘準備なスイッチが入っちゃうのも、哀しい荒事担当な職業病。

 吸血鬼は私から目を逸らして鼻で笑った。私の瞳に狂気の色が灯ったのを、感じたんだろう。

「何言ってんの、パチェが入院したってぇから、見舞いよ見舞いって奴」とレミリアは美鈴が持っている特大ワゴンを顎で示し、「咲夜の料理を持ってきたわ」と靴を履いたまま玄関から上がっていった。
 咲夜もサイボーグばりの表情を維持したまま、靴を脱がずにレミリアに続いた。美鈴も「あ、妹様、今あの兎の、目、を移動させて潰す寸前でニヤニヤする遊びをしてましたね。ダメですよ」とか言いながら脱がずに上がっていった。
 フランドールは、「えははー、わかっちゃったあ、でもあの兎ちょっとやる気だったみたいよー?」とめっちゃ明るく笑いつつ、やっぱ靴は脱がなかった。ていうかこの危険物外に出したの誰だマジで。
「ええ、妹様がとても楽しそうなお顔をなされてましたから、すぐにわかりました。いけませんよキュッとしたら」
「美鈴が気づくのあと三秒遅かったら、どかーんだったよー。危なかったねー」とか手振ってきてるんすけど何あれ。
 物騒な遊びは止めていただきたい。是非。てゐがガクブルしちゃってますんで。私もわりと。
「あのー、紅魔館の皆さん、すみませんが、洋館じゃないんで靴脱いでくれませんかねー」
 紅魔館ご一行様がぶーたれながら、やっと廊下で靴を脱ぎだしやがった。あー後で掃除しないとな。やれやれ。

「なんだ。他にも来客か?」またまた、背中から声をかけられた。これは夕方に聞いた声、上白沢慧音だ。満月だから角有りです。妹紅も来てます。というよりも妹紅の付き添いで慧音は来たんだろうけど。
「よう、殺し合いに来てやったぞ」と、牧歌的な笑顔で極めて殺伐とした台詞を曰う蓬莱人。こいつらに人権とか人道とか命の大切さという概念は適応されません。

「姫でしたら、この時間は食事中だと思うんで、広間のほうへどうぞ」私も負けじと、殺人常習者を極めて日常的に玄関に招いてみた。「中では暴れないでくださいね。掃除めんどいんで」

「ああ、迷惑はかけないから心配すんな」「うむ、では邪魔するぞ」と二人はちゃんと靴を脱いで入っていってくれました。ああやっぱ日本人っていいな。
「おーい輝夜ー、殺しにきてやったじぇー!」「おいおい、妹紅、子供ではないのだから廊下は走るな」
 すんごく楽しそうに廊下を走ってく妹紅を、慧音が慌てて靴を脱いで追いかけようとして転びました。リボンをしている方の角が壁に当たって、慧音の顔が青くなりました。
「おい妹紅、ちょっと角を見てくれ、ヒビとかないか? また折れるのはいやだ」
 妹紅が心配そうに戻ってきて慧音の角のリボンを解き、まじまじと角の表面を観てから「大丈夫だ」と言ってリボンを結び直すと、慧音は尻尾をふさふさと安心したように揺らし、二人は広間へ走っていきました。
 そういえば、前にも同じような光景を見たことがあるきがします。
  
「なんだか騒がしそうだな今日は」またまたまたまた突然に後ろから、男の声。今度は本当に突然かつ唐突。
 足音も聞こえず、飛んでくる微かな風切り音もしなかった。私たちの背後に、まるで瞬間移動してきたかのように、香霖堂の店主さんが居た。しかも金髪の小さな女の子をお姫様抱っこしてだ。どこの子だろ、見たことが無い子だ。なんとなく薄気味悪いようなこの子の笑顔だけは見覚え有るような無いような。
 けどなんだ。なんというか犯罪くせえ、と思ってしまったのは、何もただの偏見じゃない。この店主さんは前にしょっちゅう、うちの縁側まで来て、てゐの写真を撮ったり、てゐの髪を弄ってたりした。
 要するにこいつはロリコンだ。そういった実績があるからこそ、小さな女の子を抱っこしていたりすれば、犯罪くせえ、という印象に至ってしまう。どっから誘拐してきたんだ、それ、みたいな。
「ええ、お客は多いですが妙に」玄関に脱いで置かれてる沢山の靴を視線で示して、「そちらは何のご用でしょう?」

「君の師匠に用があってね。オーダーされていた新しい衣装のデザインが決まったから、一度見て貰おうと思ったんだ」
 そう言って店主さんはスケッチブックをぺらぺらとめくって見せた。自分で言うのも何だけど、色々あれなデザインがひしめき合っていた。
「君たちが今着ているのも、僕が外の資料を元に作ったものなんだ。なかなか似合ってるじゃないか。その、ああうん、なんていうか……てゐの方なんか特に、ああ、なんだ、つまりだな、カメラ、持ってたら貸して貰えないかな?」
 店主さんの言葉に、てゐは調子に乗って、猫ポーズをとっちゃったりしてる、兎のくせに。
 店主さんの鼻の下がのびた、びろーんと。
 したら、抱っこされてた女の子が、持ってた扇子で店主さんの鼻っ柱をひっぱたいた。焼き餅やいてるらしい。
 びろーんとのびた鼻の下が戻った。 
「すまないマイハニー、ついね。だが君が僕のファイナルフェイバリットであることには、何ら変わりがないさ」
「霖之助、さっさと用事を済ませて帰るわよ」お姫様抱っこな女の子が急かす。  
「嫉妬に眉間へ皺を寄せる君もグレートマグナムかわいくて大好きだマイハニー」
「いつでも私だけ見ていてくなきゃ、いやいやいやんよ? 超爆裂核弾頭大好きなんだからダーリン」
 と、なんとも御馬鹿なやりとりを二人で繰り返しつつ、玄関から広間の方へ歩いていきました。

「じゃ、そろそろ私たちも、いこか」と、てゐに言ってみた。
「そう、だね」
 うん。いつまでも立ち止まってるわけにもいかない。結局の所人生なんて、前に進むしかないんだから。
 それが良い方向に行くことになるか、悪い方向にいくかは別としてもね。
 願わくば明日からも、何気なく生きていけますように、なんて祈りつつ。

 と、靴を脱いだ所で、誰かが玄関の戸を開けて入ってきた。
 全裸だった。
 九尾の狐とその式の化け猫だった。まあいつもの事だ。
 一番関わり合いになりたくない奴らだ。
 てゐと顔を見合わせ、一つ頷いてから、奴らに気づかない振りをして廊下に上がったら、しっかり声をかけられた。
「お前らまだ服など着ているのか兎のくせに、なんだその恰好は退廃的で破廉恥だ」と生まれたままの姿な狐が言った。
「そうだそうだ。兎のくせに、なんだその頭のサイコロとか鈴は、軽率だ。軽薄だ」と一糸まとわぬ猫が言った。
「獣なら自然の姿のままでいろと、前にも言ったはずだが。まだわからんのか」と狐が続けて言った。
 私たちは全裸たちを無視して廊下を広間へ向かった。全裸さんたちは付いてきた。ぴたぴたと裸足で歩く音がした。

「それはそうと、兎よ。紫様がここに来るはずなのだが、もう居られるなら案内してくれないか」
 すぐ後ろから狐が訊いてきた。
「そうだそうだ、案内しろ兎」猫が繰り返す。
「私らも今さっき帰って来たとこよ。居るならいるんじゃないの?」後ろを振り向かずに答えた。投げやりに。
「そうか。うん、やはり紫様の声は聞こえるな、そこの広間からだ」

 そこの広間、つまり廊下の突き当たりにある、私たちがいつも食事を採っている広間。やたらめったらガヤガヤと騒がしい。しょうじに映る影は十人以上だ。まあ今さっきやってきた連中が、夕食に割り込んだってところかな。
 しょうじを開けてみた。なんというか、まあ、食事に割り込んできたとかいうレベルじゃない。あれだけの幻想郷の住民が一つの家の玄関から、お酒やら食べ物を持って入って一つの部屋に集まったら、こうなるだろうな、という宴会が繰り広げられてました既に。私たちが帰って来る前から居たらしいどっからどういう理由で混ざったのかすら、良くわからない奴らも含めて。
  
 とりあえず広間から縁側に出る襖は全開にされてて、夜桜。夜桜。夜桜。姫と妹紅が互いを急性アルコール中毒で殺害すべく日本酒レースを絶賛デッドヒート中で、けいね先生は妹紅に勺をするたび粗相をし、腕や胸に垂れた酒をぺろぺろと舐め取る横では、包帯だらけの魔理沙を中心にしてパチュリーとアリスと霊夢とチルノともみもみさんが、紅魔館の連中が持ってきたらしいデザートの品評会、そこへ乱入したフランドールが、「ねえねえ、魔理沙の目が今、私の手の中にあるよーみてみてー、ほらほらギリギリ、ギリギリだよー、えはははー、ほらほら潰れちゃう潰れちゃうよー、えははははははー」と手を開いたり閉じたりしてみせ、それを慌てて止める美鈴が誰かの足に躓いて、ごろごろ転がって突っ込んだのは、大量の桃の山、いくつかが潰れて、部屋中に桃の匂いが充満する中、不良天人と竜宮の使いが上座で何故か漫才をしているけど、死に神船頭が笑っている他は誰も聞いておらず、その真ん前で全裸さんたちに囲まれている店主さんが、橙の体に目をやるたびに、鼻っ面を謎な金髪の女の子に叩かれ、広間の真ん中のレミリアは畳の上だと言うのにお子さま椅子に腰かけ脚を組んで座り、咲夜にかいがいしくオムライスをスプーンで口に運んで貰いながら、河城にとりのうんちくを聞かせられてるようだけど、にとりが背負ってるいかにも爆弾チックな代物は、新しく開発したと自慢げに話している対消滅爆弾、さらにいかにも起爆装置っぽいドクロマークのスイッチが、何気なく畳に置かれていて、「お姉さまあー、見てみてお姉さまの目がねえ、ほらほらー見てー」と走り回るフランドールが蹴飛ばし宙に舞い、起爆スイッチがボタンを下にして今まさに落下しようとしていて、あわやサヨナラ幻想郷というところで、美鈴がスライディングキャッチ、そんな決定的瞬間をひたすら撮影する恍惚の射命丸文。

 師匠は。
 師匠は、縁側で一人、姫たちのデッドヒートの近くから広間を呆れた様子で眺めてた。
 我が家が何故、いきなりこんな騒ぎに陥ってしまったのだろう、とでも言いたそうな顔だった。
 師匠と目が合った。
 師匠は、笑った。
 私とてゐを見て、たぶん、おかえりなさい、と言った。
 言ったのだろうけど、みんなの声が五月蠅くて聞こえなかった。

 私たちは、ただいま、と言ってみた。師匠には聞こえないだろうけど。ただいま、と言った。

 そしたらなんだろう。今日一日の張りつめていた緊張とか危機感とか、言えない秘密とか、怒られるかも知れないな、とかいう不安が師匠の笑顔で全部、ぷっつりと切れてしまった。
 私たちは、ししょー、なんて言いながら涙をちょっとばかし、ちょちょぎらせつつ、広間を走って横断し、起爆スイッチを蹴飛ばし、ガバっ、と抱きついた。私は師匠の胸に、てゐは腰のあたりに。スイッチは美鈴のファインプレーな手の中に。

「師匠ー、今日はめっちゃ大変でした、そりゃもう色々なあれがギリギリで、なんか人生に深い溝が刻みつけられた気がするくらいで、もう精神的に割とPTSDがボーダーラインでしたー。魔理沙に盗まれちゃってごめんなさいいい。でもがんばったんですええマジで燃えろ一億火の玉特攻ほしがりませんズボンだもんみたいなフィーリングでえええ」
「ししょー、今日は二回も三途の川に行ったの、ニーチェとサルトルが首がボキッとなったりボキッとなったり、ズガーとか、ズドドドとか、ドカーンとか、ガシッボカッうわなんだ止めろロイヤルフレアな64桁が128桁で四十葉のクローバーに脱出してそりゃそりゃそりゃモコモコモコモコーでゴゴゴゴゴズズズズドド┣”┣”だったのー」

 師匠の手が私たちの頭を撫でてくれた。
「心配してたのよ。山から脱出したのは見たって文が言ってたけど、帰ってこないから。無事でよかった。今日はよく頑張ってくれたわね。ありがとう」

「はいっ、でも荷物は、あの試作品は……私と師匠の愛の結晶は……ずみばぜんっ任務は失敗しちゃいまじだ」
 師匠に顔を上げて言った。演技ではなく涙目になってたと思う。
「ごめんなさい、師匠、顎も死んだのー!」と、てゐも同じく。ごめんなさいそれやったの私なんだてゐ。

「顎はかわいそうだったわね。でも失敗なんかじゃないわ」師匠は意味深に口元を笑わせた。「予告状が来ていながら、私が本物の試作品を運ばせると思う?」

「え、あの、それってつまり、なんでしょうか」
「もしかして偽物だったの? じゃあ顎の犠牲はなんだったの?」てゐがきょとんとして訊いた。もしそうなら私だって、きょとんとしたい。
 
 師匠は頷いた。満足そうに。「名付けてエイプリルフール作戦よ。敵を欺くにはまず味方から、試作品を危険にさらすことなく、魔理沙を懲らしめられた。これでしばらくは、魔理沙も無茶な事はしてこないでしょう。作戦は成功と言っていいでしょうね。顎の死も無駄じゃないのよてゐ」

「ほんとに師匠? 顎は、顎は天国にいけた?」なんて純粋な目をしてるんだろうてゐは。

「ええ、今頃きっと天国で幸せに顎の家族と一緒にぷるぷるしてるわ」なんて優しい目をするんだろう師匠は。

「よかったー。私ねずっと心配してたんだ。顎が閻魔様にどんな説教されたのかなって心配だったんだ」

「ふふふ、てゐは本当はやさしい子なのね」
 
 えへへー、とかてゐは笑ってる。

「あのー師匠、顎はわかりましたけど」と私はちょっと強引に話題を変えちゃいます。目の前で顎顎いわれると、さすがに罪悪感でお胸がチクチクしました。「それで本物の箱の方は、どうなったんですか?」

「それなら、ここに無事にあるわ。ほら」と、師匠は何故か縁側に置いてあったそれを、ぽんぽんと叩いてみせた。私たちが失くしたものと、全く同じ金属箱だ。「M団の他のメンバーが着たけど、魔理沙の箒に二人乗りしたかったのに、できなかったって、愚痴だけ言いに来ただけで、こっちは平和な物だったわね。ちょっとこれを見て」
 師匠が指さすのは箱の蓋の一部分。「この部分のスリットを見なさい。ここのパーツをこうすると、こうね」っと師匠はスリットにはまってた小さなパーツをスライドさせた。すると中には赤いテープが貼ってあった。何かの目印だろうか。

「あ、わかりました師匠、つまりこの赤いテープが本物の印なんですね。箱の外観が同じだから印を付けたと」
「師匠頭いいー」と、てゐが見上げた師匠の顔は、なんというか、固まってました。手がブルブル震えてました。
「これ、赤よね、ウドンゲ、私の目、おかしく、なったのかしらね」と師匠はたどたどしく言いました。
「はい、赤ですね。どうしたんですか師匠?」

 師匠の全身がブルブル震えだしました。
 そして、「いいえ、どうもしてないわよ、あなたたちは何も心配しなくていいわ」とブルブル震える引きつった顔で言いました。
 めっちゃ心配になりました。
 なんつーか、この顔で、『三秒後に世界は終わるわ』とか言われても納得できそうな師匠の顔でした。  
 何より、何も心配しなくていい、という師匠の言葉で脊髄反射的に不安がマックスになるのが、私というものであり。
 こういう状況において私が予想する中で、わりと最悪な方向性の事をしてくれるのが師匠というもの。
「あの……師匠。もしかして、赤が偽物で、実は他の色が本物だったりしますか……?」

 こっくり、と師匠は頷きました。三秒後に世界が終わりそうな顔で。「青が本物ね」

「あ……私わかっちゃいました師匠、ちなみに箱は全部で二個で、師匠が私たちに渡す箱をうっかり違えて、私たちが持っていった物が青だったりするんじゃないですかね……本物はあの時山で……」

 こっくり、と師匠は頷きました。三秒後に世界が終わりそうな顔で。「間違いないでしょうね。早く実験の結果が見たい、早く実験の結果が見たい、という一心で、ついうっかりしちゃったわ」

「私わかったよ」と、てゐ。何やら、いひひひひーっと得意げなご様子。「実はそれも、エイプリルフール的な師匠のブラックジョークだったりするんだよねー?」ほーら見破ってやったぞー、とばかりにしたり顔で笑う。

 いやそれは無いと思うんだてゐ。この人なら、うっかりやりかねないよ普通に。私にはわかる。

「あら、ばれちゃったかしら」師匠はにっこり笑いました。でもブルブル震えたまま笑ってるのですんごく怖いです。なんというか逆の意味でばれてます師匠。「なんて言えたらいいな、と自分で思っていた所よ。残念ながら現実は残酷ね。爆発であれが燃えてくれれば助かるけど、燃えずに散らばっていたら……何が起こるか、わからないわ」

 時間が凍り付く。というのを体験しました。
 ずーん……と私たち三人は俯きました。
 顎はなんのために死んだんだろう……、てゐがブツブツ言い始めてます。いやごめん、ほんとごめんてゐ。
 広間から聞こえてくる楽しげな嬌声たちが、やけにむかつくのは、なんででしょうか。
 お前ら暢気にしやがって、こちとら三人精神的に諸々がギリギリだぞこら、主にてゐの精神的ダメージはきついぞこら、と。
 しかも、何、なんだそれ、わざと聞こえるようにみんな言ってるの雑談? 
 いやまあ、おめーら今の状況に気づいてないんだろうけど、お前らは……
 
 あれー、なんかこの豆腐、キュウィの味すんぞー美味いなー。と広間からの死に神船頭の声。
 うおー醤油かけたらメロン味になったー、とはチルノ。それ言うならウニ味でんがな、と竜宮の使いの二段ボケ。
 アホかー! プリンにソースでしょそれはー! でもさ、桃もいつもより酸っぱい気がしない衣玖? 私って美少女なのに、なんでこんな不味いの食べないといけないっつーのよ、新しいの取ってきてよ三秒以内に、じゃないとパパに言いつけちゃうからね、と不良天人。
 それにしてもお酒、おいしいと思わない妹紅? 日本酒なのにすごく柑橘系なフルーティーね。と姫。
 さっき井戸で汲んできた水も酸っぱいわね、檸檬でも入ってるのかしら井戸に、と霊夢。
 うちから持ってきたオムライスもなんだか酸っぱいですわ、と咲夜。
 B型なのに、やけに酸味があるね今日のは、とレミリア。
 
「つまりこれは」師匠がブルブル震えながら遠い目で語り出しました。「あの試作品が爆発によって大気中にまき散らされ、天界をも含む、幻想郷中に散布されたというわけね」

 ですよねえ……。

「でも大丈夫よ、たぶん妖怪とか人間とか天人にも毒性は無いはずだから。毒性だけは」

「でも、あの、師匠、散布された空間になんらかの事象を誘因とかそういう触媒なんですよねあれ。やっぱ何か幻想郷でとんでもない事が起こったりするんじゃ……ちょっとやばやばですかねえー?」
 あははー、なんて茶化し気味にしてみたけど。

 師匠のブルブルがどんどん激しくなりました。
 師匠はお月様を見上げて色々考えて考えて考えて考えまくって、どんどんブルブルが激しくなりました。
 三分くらいそうしてから、師匠がお月様から私たちに向けた顔は、とてもとてもとてもとてもとても怖かったです。
別に私たちを怖がらせようとかいうんじゃなくて、正真正銘の、天才、と呼ばれるの人格内において理性と知性が、恐慌と恐怖に浸食されている過程を、ありありと表現しきる表情は、見る側からすると、どん底の不安感を嫌でも煽られます。
 
「ええあなたたちはなにもしんぱいしなくていいわ。これからなにがおこっても、このことはひみつにしましょうね、さんにんだけの」
 
 ししょうのかおはとてもこわかったです。
 こわすぎて、わたしとてゐは、おもわずだきあってしまうくらい、こわかったです。
 こわくてこわくて、てゐとししょーといっしょにいっぱい、おさけをのみました。
 けれど、みんなかえったあとで、よなかになって、てゐがししょうのあのかおを、ゆめにみてねられなくなり、てをつないでいっしょにねてあげるくらいこわかったです。
 てゐがねごとで、あごあご、とつぶやいていたので、あたらしいあごますくをかってあげようとおもいました。 







 二日酔いで浴びる朝日はどうしてこうも、眩しいのか。なんて考えながら縁側を歩いてるうちに、また桜の花びらがソックスの裏にいっぱい張り付いたらしい。モソモソした。
 竹林からの青い匂いのする風が来た。若い竹や生えたばかりの筍の匂いが、桜の香りと混じって尻尾を撫でミニスカートと髪を揺らしてった。温かくて少し湿ってた。ウグイスが鳴いてる。ホーホケキョと鳴いてる。
 世界はまだ昨日と同じで、もしかしたら明日も同じなんじゃないか、とも思えてしまうほどに、まだ、変わりはない。

研究室の扉をノックした。ドアにも花びらがひらひらと飛んできてた。花びらのピンクが放射線マークの黄色にぶつかり、有毒物質マークのオレンジとバイオハザードマークの赤色を伝って床に落ちてって、中から師匠の声が返ってきた。変わらない世界の変わらない日常の、変わらない風景。
「ウドンゲ? 開いてるから。入りなさい」
 変わらない世界の、変わらない私の、変わらない師匠の、変わらない親しみを感じる声。
 
 ノブに手を掛けたら、ひんやりしてた。
 どういう理由で呼び出されたんだろう。いつもこのドアを開けるときに思う。
 昨日の事があれば。今日は特にだ。これから一体なにが起こるのか、起こらないのか。あるいは既に起こったのか、起こりつつあるのか。今現在の何ら普段と変わらない朝という事象自体が、現在進行形で起こっているという可能性だってなくはない。誰にもわからない。
 私はこれから師匠に何を言いつけられ、何をするのか。
 期待と不安と恐れと希望はいつも、いつでも等しく釣り合う物だと私は知っている。
 だって。
 私の中にある確かな余裕が囁いてる。
 叫んでいる。合唱している。
 気楽にいこうぜ。
 楽しんでいこうぜ。
 人生は一度きりの祭りだよ。
 馬鹿みたい。わりかしワクワクしている自分も居たりするこの現実。
 ろくでもない期待と希望を抱く私の心。
 これは飛び切りで代え難い私の人生。だと思うし、そう思いたいし、間違いなくそうなんだと思う。
 確信してる。 
 だって。
 私は今日も元気いっぱい笑顔いっぱいで。ろくでもなく。ドアを開けます。













 
ろくでなしによる、ろくでなしのための、ろくでもない幕の内弁当的ドンチャン騒ぎ。
そんなのを書きたかったという、勢いで。
胡椒中豆茶
[email protected]
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コメント



0.1120簡易評価
2.80kmαZ削除
なんぞこれwww
4.80名前がない程度の能力削除
鼻くそでごはん食べる師匠はちょっとどうかと思ったけど、
お馬鹿なノリのわりに筋が通ってて面白かった。
本当にろくでもない連中しかいないね。
8.10名前が無い程度の能力削除
垂直に飛ばしたロケットが宇宙まで行けないとどうなるかがわかるような作品でした。
正直気持ち悪い。
9.60名前が無い程度の能力削除
貴方の幻想郷は何かおかしい。早く全部吐き出すベき。
でもこのノリノリな感じは結構好きですよ。
賛否両論あると思いますが、永琳が鼻糞を食すシーンだけは納得してしまった…
11.80名前が無い程度の能力削除
誰も彼もがろくでなしで、でもろくでなしなりに肩を寄せ合っている永遠亭の皆々がなんとなく微笑ましいです。
しかし兎どもやけーねらが割と論理的な下地の上でろくでもない思考をしている中、魔理沙の洒落にならないキチガイっぷりが痛々しい。パッチェさん、ご愁傷様でした。
14.100名前が無い程度の能力削除
ギャグの世界がもはや日常になってしまった手遅れ感あふれる幻想郷。
すばらしい!
15.90名前が無い程度の能力削除
中盤以降は文句無しのぶっ飛びかたでした。
16.90名前が無い程度の能力削除
相変わらずのカオスっぷりw
真面目な顔して馬鹿をするのは最高ですね
ってかあまりの長さにほとんどの人に読まれてない(と思われる)のが勿体無い
長いのは嬉しいけどやっぱ何作かに分けた方がいいような気がする
18.10名前が無い程度の能力削除
ダメダメだな
22.100名前が無い程度の能力削除
作者様の他の作品を含めた総まとめのような話…なのかな?
読んでて面白いのだけは確かでした
24.90名前が無い程度の能力削除
混じってたりなんだったり
とにかく面白かったようなー
25.100名前が無い程度の能力削除
作者様は未来に生きてますね
26.100名前が無い程度の能力削除
なんで勢いでこれだけのものが書けるんだよ普通に憧れるわ畜生w
27.100名前が無い程度の能力削除
ゆかみょん♪とか元祖ウドンゲとか他の作品との繋がりにニヤニヤしました。
28.80名前が無い程度の能力削除
恐るべきニヤニヤ感
34.100名前が無い程度の能力削除
面白かった!
37.80名前が無い程度の能力削除
おっかねぇw
42.100名前が無い程度の能力削除
冒頭の掴みに若干ヒキながらも、書き手の露悪趣味を見届けたくなるような、そんな風に読ませてもらいました。

勢いの結果生じる悪のりって、潔いものですね。読んでいる最中に多幸感が訪れました。