「早苗ちゃんはホントにやさしい子ねえ、うちの子も見習ってくれないかしら」
また、ほめられた。
「やさしい」という言葉は、わたしがもっともよろこぶ言葉だ。
物心ついたころにはすでに「やさしい」「やさしい」と言われてほめられていたから、知らずのうちに「やさしい」という言葉をいいものとして、好きになったんだろう。
「やさしい」と言われるとうれしくて、もっと「やさしい」子になろうとがんばってきた。いや、がんばるというのはちょっと変かもしれない。
ただ困っている人に手を差しのばすだけで、その人はわたしを「やさしい」人だとみなすのだから。
わたしを「やさしい」人としてみんなに知らせるのは、本当にかんたんなことだった。
そうそう、たまに学校で「その人のいいところを本人に伝えてあげましょう!」という授業があった。確かそれは『道徳』と呼ばれていたはずだ。
その授業で「わたしのいいところは?」と聞くと十人中十人が「やさしいところ」と答えてくれるようになった。それが百人中になってもきっと全員そう言ってくれるはずだ。
おそらくそれは、そんな授業面倒だから、目にみえたその人のいいところをただ書いただけなんだと思う。
それでも、わたしは満足だった。
だって、面倒でも最初に思いついたのが「やさしい」ところ。つまり、最初にピンとくるほど「やさしい」と思われている、ということだ。
人生にはいろいろあるけど、「やさしい」と言われたときほど心がどうしようもなくおどり、得意になることはなかった。
家に帰って「今日みんなから『やさしい』って言われたよ!」と親にまでアピールした。すると親は決まって、「早苗はやさしい子ねえ」と頭をなでてくれたのを覚えている。
中学生になっても『道徳』の授業はあって、その度に親に自慢した。さすがに頭をなでられることはもうなかったけど、それでも「やさしい子ねえ」という言葉がわたしをどうしようもなく、天にのぼるような気持ちにさせてくれた。
それははずかしいような、ふしぎな感覚。でもイヤなものじゃない。
その感覚を味わうときにはかならず、すこし下を向いてほほえむ。そして誰もいなくなったら思いっきりにこにこ笑う。
勉強をしたり一人でいるときでも、たまに過去の栄光を引きずって、にっこりしていることがあった。すると友だちが「何かいいことがあったの?」と聞いてくれる。
でも決まって「何でもなあい」と話を終わらせていた。そしてやってきた友達への気配りタイム。その友だちの制服に糸くずがついていれば取ってあげるし、リボンが傾いていたら教えてあげる。
そんな「やさしい」わたしだから、友だちはどんどん増える。増えれば増えるほど、自分の「やさしさ」をアピールできる。
やがて、毎日のように「早苗ってやさしいよね!」という言葉を耳にするようになった。
その言葉を聞くことが、生きがいといってもいい。
そんなわたしだから、人生は他人のために尽くされていった。
でも。
それが鎖になったのは、いつのことだったかなぁ……。
【「やさしさ」の罪】
困っている人をみると放っておけなくて、相手の荷物がどんなに重くても手をのばす。そんな日々を気づいたら送っていた。
楽しいか、と聞かれれば楽しい。感謝されたそのときだけは。
でもやっぱりつらくて、心の中では助けながらもその人の恨み言をつぶやく。でも顔には決して出さない。
そのやっかいな心が、わたしを「やさしい」人として作りあげた。
「早苗はいつもイヤな顔せずに助けてくれるよね、ありがとう!」
「大したことないよ」と笑顔でかえしつつも、心の中ではこう呟いていた。
ちがう。してるんだよわたしは。誰にもみせないだけ。ホントは心の中で、「ああ、またか……」って思ってるんだよ。「いいかげんにしてよ」と思ってるんだよ。
でも、
「ホントにありがとうね。やっぱり早苗は――」
次に来る言葉を予想すれば、そんなイヤな気持ちなんて吹っ飛んでしまった。
「やさしいよね!」
その言葉を聞いたら、じわりと暖かいものが胸の中に広がった。助けてよかった、と思えるただ一つのときだ。
けれども同時に。わたしを締めつけていた鎖が、いっそう強くなるときでもある。今度こそは、と思って飛びだそうとした本当のわたしが、無理やり押さえつけられたとき。
◆
そういえば、わたしは昔から、ある言葉を好んで使っていた。
「どっちでもいいよ」
相手に決定する権利をゆずり、「あなたに逆らいません」という意思を伝える魔法の言葉。
こう言っておけば、自分の意見のせいで相手を困らせることがない。
本当に、便利すぎる言葉だった。
でも、途中で何かがおかしくなった。
「あ、うん。わかったー」
これが、使いはじめてから一年くらいまでの反応。
「じゃあ、わたしたちが決めるね」
これが、二年くらいまでの反応。
「……はいはい」
これが、三年くらいまで。
「……そればっかだよね早苗」
それよりあとは、こうなった。
使えば使うほど、その言葉は期待していたほどの力をなくしていって、わたしは首をかしげた。何かわるいことを言っただろうか。いや、言っていないはず……だよね?
どうしても、その言葉を使うと同時にのしかかる罪に気づかなかった。
◆
ある日のこと。
「早苗、学級委員引きうけてくれない?」
イヤ。
と、心の中のもう一つの世界では、何とか言うことに成功した。でも、現実の口はその言葉を詰まらせて、うまく言うことができない。
それもそのはず、空気が痛いのだ。ピリピリしているというか、張り詰めているというか。わたしが「イヤ」と言った瞬間に、今まで平和だった日常が壊れてしまうような気がした。
そのせいで損をしたことは、いったい何度あったかな。数えるのもバカらしいくらいだ。
「え……でも……」
わたしの「やさしさ」が「イヤ」「無理」という言葉を書きかえて、先のばしにする意味のない言葉にしてしまった。
「おねがい、どうしても女子が一人足りないの! 男子はもう決まっててさ、はやく決めろってうるさいの」
ぱん! とわたし顔の前で両手を合わせ、目をつぶる前の学級委員。わたしのはじめてのお友だちでもある子だ。
いつも落ち着いているのに、何でこの子はこんなにあせってるんだろうと考える。考えているうちにひょっこりと、さっきの先生の言葉を思い出した。
『休み時間中に学級委員を決めておきなさい。決まらなかったら、放課後残って決めること』
今は五時限目と六時限目の間。六時限目がおわれば一日の授業はおわり、すぐにホームルーム。六時限目とホームルームの間は一分もないほど短い。なるほど、だから今決めないとダメなんだ。
「ね、今日はわたし病院行かなくちゃいけなくて、のこってる時間なんか無いの。クラスの女子全員に聞いたけどやっぱりみつからなくて……早苗が頼りなんだ」
ちら、と頭をさげる彼女のうしろに目をやった。こっちをみていた何人かの女子がすばやく目をそらした。
「早苗……無理?」
目を机に落とした同情をさそう表情で言う彼女。その表情に心がズキリ、と痛んだ。空気がいっそうかたく、冷たく、鋭くなったような気がする。
「それは、ちょっと……」
もう一度先のばし。その間に、自分を正当化する理由が欲しくて、頭の中を探しまわった。でもそんな理由「イヤだから」以外にみつからなくて、カラカラの、音になっていない言葉しか出てこなかった。
どちらかというと否定よりのその言葉を吐いたとたん、自分の心がさらに痛んだ。後悔に似た感情が心を包み込む。
わたしの中にいる何人ものわたしが、わたしを批判する。
『何でそんなこと言うの?』
『かわいそうじゃない』
『わたしって、冷たいんだね』
座りこむわたしを囲んで、何人ものわたしが冷たく非難する。耳じゃなくて、体の中のもっと深いところでのリフレイン。残酷なくらいゆっくりと、わたしのもっとも大切なところが壊されていくような気分だった。
その中にまぎれこんでいた友だちが、元気のない顔で言った。
「そう。ごめんね……」
すごく気の毒にみえた。雨の日、体をふるわせながらこちらをみる、捨てられた子犬のようだった。
「ありがとう」とだけ言いのこしてゆっくりと背中を向ける彼女に思わず、声をかけてしまった。
「……ねえ」
「うん?」
彼女は背を向けたときの倍くらいのはやさで向きなおった。
「じょ、冗談だよ、やるよわたし」
舌を出して、「何だまされてるのさー」と相手を軽くバカにしたような表情で、彼女の袖をつかんだ。
「ホント!? ありがとう早苗!」
気のせいか、クラス中の空気が澄んだような気がする。ただわたしの心には、また断れなかったという後悔がほんのすこし、のこっていた。さっきとは手のひらを返した何人ものわたしにほめられて、すぐにでも消えてしまうだろうけど。
――まあ、いっか!
いつもこう思うようにしていた。いや、していると言わなくちゃいけない。
半分の残念さと、半分のうれしさを抱えたその日のわたしは、下校途中に数人の女子とコンビニでたむろする彼女――学級代表だった子――をみてしまった。
誰にも、そのことは言えなかった。
◆
『親しき仲にも礼儀あり』って言うけれど、守っている人なんてほとんどいない。付き合うにつれて言葉は尖っていって、相手の心を傷つけるようになる。
でもそれは、心が強くなっていくことがわかっているからだ。心が強くなるんだから、このくらい鋭くても大丈夫だろう。そう思うから、さらに鋭くなっていく。
でも、知っていてほしい。体と同じように、心にも成長のはやいおそいがあることを。
「大丈夫だって、早苗はやさしい子だから!」
こういう言葉を聞いたことがある。ある――というより、しょっちゅうだ。
わたしはやさしい子だから。だから大丈夫。
そう言われると、無理にでも大丈夫にしないといけないような気がする。
「ね、早苗!」
こう言われるとなおさら。ここで反抗したら、わたしはやさしい子じゃなくなってしまう。そう考えると、「うん」と言うしかなかった。
「ありがとう早苗ー」
感謝されると、すこしだけ救われた。でも、心に刺さったトゲは抜けなかった。
……この出来事は、かなり前のこと。でもわたしは、まだ忘れられずにいる。思い出すと寒気さえするくらい、イヤな思い出の一つだ。
◆
ある日の下校途中、箱に入った捨て犬をみつけた。黒くてちいさい犬だ。と言ってもみつけたのはわたしじゃなくて、いっしょに帰っていた二人の友だちのうちの一人だけど。
「かわいいなあ……。飼えないかなあ?」
「わたし無理。マンションだから」
見つけた子も無理だった。彼女の家族は犬が苦手らしい。そしてもう一人はマンションに住んでいる。
つまり、
「早苗は?」
こうなる。
わたしは昔、犬がほしくて両親にねだったことがあったけど、神社を荒らされたら困る、と言われてあきらめる必要があった。だからそのとき以来、ねだったことはない。無理だとわかっているからだ。
「ダメなの、うちじゃ飼えない」
「そんなこと言わずにさあ、可哀想じゃん」
「早苗はやさしいんだからね、もう一回考えてよ」
数分で状況が変わるはずなんてない。当然無理だ、と答えた。
一人の表情が、わたしに対する非難の色に染まっていく。そして、口をゆっくりと開いた。
「えー……早苗って、――」
ぐさり、とすごい音を立ててわたしの心に黒い剣が突き刺さった。
「早苗って、冷たいんだね」
ドッと冷や汗が出てきて、言い逃れをしようとするけど、乾いた口の中にくっついて舌がうまく回らない。頭がパニックを起こしている。
どうすることもできなくて、どもるわたし。でも友だちの非難は止まらない。
「神社なら広いし、飼う場所くらいあるでしょ、拾ってあげなよ。……できないの?」
こわいくらい友だちの目は白くて、もう一人の友だちに助けを求めようと視線を送った。だけどその友だちも、同じ目でわたしをみていた。
その視線にどうすることもできなくて。
「……わかった」
と、呟いてしまった。
とたんに、張りつめていた空気がやわらかくなった。
「やっぱ早苗はやさしいね!」
「ありがとう早苗!」
「どういたしまして」なんて言えない。ただ黙ってその犬の箱を持ちあげる。犬は好きで、今でも飼いたい気持ちはある。でも、無理なものは無理だ。
「どうしよう、どうしよう」と心の中ではオロオロしつつも、冷静を装って友だちと別れたあと。家に犬を持って帰ったわたしは、両親にひどく怒られた。やっぱり、「捨ててきなさい」と責められた。
捨ててくることを約束に、とりあえず犬にミルクをあげることができた。子犬はこれからの運命なんか知らず、うれしそうに鳴いてからミルクを飲む。
ずきり、ずきりと釘が心に、じわじわと打たれていくような気分だ。
その日の夜、神社の裏の山に箱を持って行った。ゆっくりと箱を木の下に置く。犬がこちらをみて、助けを求めるように吠えた。でもわたしは背を向けて、泣きながら、謝りながら、必死に逃げる。何度も転んだけど、そのたびに起き上がっては、ふりかえらずに逃げた。
気づけば神社の前に立っていた。
家に飛び込んで、ご飯も食べず、お風呂にもはいらずに布団をかぶる。犬がずっと追いかけてきて、責めているような気がしたのだ。
すりむいたひざを押さえて、「ごめんなさいごめんなさい」と何度も呟く。この熱ささえ感じるような痛さが、罪の重さなのだと思った。
その日はどこからか犬の遠吠えが聞こえたような気がして、眠ることができなかった。
つぎの日も、そのつぎの日も――。今でさえ、犬の声が直接心の中に響いてくるように感じている。
いつかは狂ってしまいそうだ。心はもう、ズタズタだった。
◆
いつも気を使っていたつもりなのに、どうして友だちとの関係がこんなにもギクシャクしているように感じるのだろう。
こうして昔のことを思い出しているのに、答えはいっこうに出てこない。
「早苗」
「……はい」
今話しかけてこられたのは、神奈子さまだ。
わたしの気持ちを理解してくださる数すくないかたのお一人。
今まで話に出てこなかったのは、このかたといるとストレスを感じなくて、出す必要がなかったからだ。やっぱり、すごいかただと思う。
「最近元気がないね、どうしたんだい?」
わたしの気持ちを敏感に察して、こうやって相談にのってくださるところもすごく助かる。
でも。
「いえ、何でもないんです。申し訳ありません」
迷惑をかけるわけにはいかない。神奈子さまは神さま、わたしは人間。ただでさえお世話になっているのに、これ以上は許されない。と、わたしは考えている。
「いや。お前――最近ずっとそれじゃないか。
話してみな、命令だよ?」
「いや、しかし……」
「いいから。家族でしょ?」
家族。この単語を出されると弱い。神と並ぶ絶対的な言葉のように思えて、逆らうことができたことがない。今の会話からでも、『命令』以上に『家族』は強い力を持っていることがほかの人にもわかっただろう。
「……はい。
じつは――」
「ふむ、なるほどね」
神奈子さまは小さくうなりながら考えごとをなさっているようで、やがて目を閉じられた。
「早苗は、」
「はい」
「嫌われることが、こわいんじゃないか?」
「……え?」
「やさしい」という言葉を一切使わない、予想とはぜんぜんちがう、鋭い言葉だった。
「嫌われることが、ほかの人よりもずっとこわい。
そうじゃないかい?」
言葉が出なかった。つまりそれは、ズボシ、的を射られたということで――。
ついに、気づいてしまった。「やさしい」のではない。「嫌われるのがこわい」のだ。ほかの人よりも、ずっと。
思えばそうだ。昔から、病的なまでに人に気を遣ってきた。おそらくそれは「やさしさ」なんかじゃなくて、恐怖だ。
おとなしい性格をしているわたしは、自分から友だちをつくることが苦手。だから、いつも誰かが手をのばしてくれるのを待っていた。でもそれを、わたし――もしかしたら友だちも――、逆だと思っていた。
わたしはその誰かに離れられるのがイヤで、出された手を引っぱって無理やり関係を作っていた。「やさしさ」というロープ――いや、錆びた鎖でわたしと誰かを縛りつけて。
わたしも、そして友だちも、その図を「早苗が誰かに手を差しのべている」ようにみていたのだ。角度をかえれば、ちがった図だったろうに。
「私にはわからないが……早苗みたいな性格の子にはよくあることだと思うな」
ああ、
「ただ早苗、気をつけたほうがいい。
嫌われたくない、嫌われたくない――と思いすぎることは、望みとは逆の結果を導き出すことが多い」
どうしてこんなに心が暖かいのだろう。
興奮のためか息が荒くなって、頭の中が真っ白になっていった。苦しみから解放されたような気分だ。
すっと伸びてきた神奈子さまの手が、ほほをなでてくださった。ほほから手が戻るとき、その手に尾をひいた水がたどっているのをみた。
◆
「なあ早苗」
神奈子さまのひざの上に顔を埋めるわたし。頭上から、とつぜん静かな神奈子さまの声が聞こえた。
会話がしやすいように起き上がる。
「幻想郷に行かないか?」
「幻想郷?」
はじめて聞いた言葉だったけど、神奈子さまはわかりやすく説明してくださった。
「――という場所だ。どうかな、無理にとは言わないよ。
でも、自分を変えることが出来るかもしれないね」
「神奈子さまは――よろこんでくださいますか?」
神奈子さまはキョトンとなさったあと、「何が?」と聞いてこられた。
「わたし――早苗が、幻想郷にいけば、よろこんでくださいますか?」
「早苗、さっきの私の話を聞いてたかい?」
「……あ」
神奈子さまはあきれたような表情で、ため息をつきなさる。
「お前が昔から使ってきたよね。『どっちでもいい』とか、『あなたが決めたほうでいい』って。今早苗、この言葉を使おうとしたよ。巧妙に形をかえた、後者の亜種だ。私は騙されないよ」
神奈子さまのお説教。なぜか心に染みる。痛いんじゃない。その証拠に心がこんなにもあたたかい。
「早苗、お前が決めるんだよ。どっちを選ぼうが、誰も恨みはしない。誰も怒らない。誰も嫌ったりはしない。
お前の、お前が決めた答え。それを教えてほしい。時間がかかってもいい。だが、絶対自分で決めるんだ。いいね?」
神奈子さまは「わかったね?」とさとすようにおっしゃって、ほほ笑みを浮かべられた。
その笑顔にわたしは、元気よく「はい!」と答えた。
もう、答えは決まっていた。
「いいんだね? まだ、考える時間はあるよ」
「いいえ、もう決めたんです。わたしの、わたしだけの意思で!」
「……よし、いい子だ」
伸びてきた手をみて、すこし頭をさげる。髪の毛が乱れるほど荒くだけど、神奈子さまがなでてくださった。首が動くほど力強く、それでも心にじわじわと何かが染みこむなでかただった。
「そうだ早苗」
「はい?」
「ちょっと待ってな」
神奈子さまがお立ちになって、どこかへと。
もどってこられたのは、十分ほどたったころだった。
「幻想郷に行くんだろう、この子も連れて行ってあげな」
「……?」
ダンボール箱を地面において、そうおっしゃった。
促されたので、段ボール箱を開ける。
「あ、ああ!」
中からは、黒い犬が出てきた。子犬とは呼べないほどの大きさで、わたしの腰くらいまではあるだろう。でも、でもまちがいなかった。
「ごめん、ホントにごめんね!」
犬を抱きしめて、精いっぱいの謝罪。犬は、気にした様子もなく「わんわん」と吼えていた。ミルクをあげたときに聞いた声に、ひどく似ていた。よろこんでいるときに出す声だ。
その声が「いいんだよ」と聞こえたのだけど、それは都合がよすぎるかな。
「神奈子ー、犬はどこへ――だあっ!?」
諏訪子さまがいらっしゃったようだ。
「だ、誰が早苗を犬の嫁にしていいって言ったああ!」
「落ち着け諏訪子!」
「お前はこの国の頑固親父か!」と突っこみながら、神奈子さまは諏訪子さまを抑えていらっしゃった。あまり迷惑をかけてはいけないので、わたしはそそくさと犬から離れるのだった。
◆
ここから先は、幻想郷入りしてからのことだ。
幻想郷入りした直後、わたしは神奈子さまに一つのアドバイスをいただいた。
「いいかい早苗。優しさっていうのは、人に見せなくていいんだ。もちろん見える優しさも優しさだよ?
でもな、『私は優しい人!』という顔はしないこと。甘ったれたハイエナのような奴等を引きつける事になるからね。思わず手伝いたくなるような状況でも、そいつが何とかなりそうなら放っておきなさい。
そいつらを助けて感謝されて喜んでるだけじゃ、ただの偽善者になっちゃうからな」
神奈子さまはほほ笑んで、そうおっしゃる。
「面倒ごとを避けたきゃ、気づかれないようにこっそりやるのが正解だよ。
それが出来ないなら、優しい人を演じるのはやめなさい。偽善者になってしまう」
そこで、ついついイタズラ心が芽生えた。
「じゃあ神奈子さま、偽善者じゃないですか」
「は?」
「だって今やさしいお姿を、わたしにおみせになったじゃないですか。やさしい人は、人にやさしさをみせないんですよね?」
「……こいつめ」
こつん、と額をこづかれた。痛くはなかった。それに、なぜかちょっとうれしかった。
「ま、頑張りな。あっちの世界と同じ事を繰り返すんじゃないよ?」
「はい!」
わたしの声は、神社の境内によく響いた。
◇
「早苗ぇ、勘弁してよ……」
「ダメですっ、門限過ぎたらご飯無しって言いましたよねわたし!」
「いやだって麓の巫女が宴会に……」
「ダメなものはダメですっ!」
いつも、神奈子と諏訪子の二柱は早苗がもうけた門限をすぎて帰ってくる。最初は黙認していたものの、そろそろ黙認できなくなったようだ。
無理もない。この二柱の言う宴会とは、昨日のことだ。宴会のあと酔っ払って眠ってしまい、その日のうちに帰ることが出来なかったのだ。しかも連絡なし。
そういうわけで、早苗は怒り心頭なのだった。
「うう……」
「これにこりて、つぎからははやく帰るようにしてください」
「あーうー……」
がっくり肩を落として部屋に戻る二柱を見送ってから、早苗は二柱に気づかれないようにおひつを開いた。その音は、ふすまを閉める音にかき消された。
「神奈子、あんたのせいだからね」
「何だとう!?」
「だいたいあ――ん?」
「だいたいあんたが、『ちょっとだけ寄っていこう』何て言うからわたしはカン違いしたんだよ!」
「ふつう『寄っていこう』と『酔っていこう』なんて間違えないだろ!?」
こう続くはずだった会話が突然止まった。その二柱の怒声にも似た大きな音を止めたのは、消えてしまいそうな小さな音だ。
本来生まれるはずがなかった、本当に小さな音だった。きっと本人も、そんな音は作るつもりはなかったのだろう。
ふすまの外からだ。
二柱は仲良く、一緒にふすまを開けた。足元をちゃんと見ていなかったら蹴飛ばしてしまいそうな近い距離に、湯気の立つご飯とお味噌汁、そして焼き魚が二つのお盆にのせられておいてあった。
二柱は安心したように微笑み、「ありがとう」と小さく呟いた。
(まったく……気づかれないようにやれって、言ったじゃないか)
神奈子は心の中で早苗を罵る。毒として失格なくらいの毒づきだった。
(でも……悪くないよ、早苗!)
結局、早苗はいつまでもやさしい早苗だった。でもそのやさしさは、いままでの「やさしさ」とは、何かがちがった。
「おや?」
二柱が茶碗を手に取ったとき、お盆の隅っこに小さな紙がたたんで置いてあることに気づいた。
神奈子が先にそれをひょいと拾いあげ、四つ折のそれを開く。諏訪子は横から、それをのぞきみた。
『わたしのいいところは、どこですか?』
まったく、私たちを試してるのかい? 上等じゃないか。
二柱は目を合わせ、同時にうなずく。
ふすまを開いて、「やさしいところだよ!」と仲良く叫んだ。
怒ってる早苗も、こっそりとご飯の用意をした早苗も
やっぱり優しいなぁって、そう感じましたね。
学校へ通っているときの「優しさ」とは別の「優しさ」が
神奈子や諏訪子に向けられているのはとても良いですね。
面白かったですよ。
誤字の報告
>幻想郷した直後
『幻想郷入りした直後』、もしくは『幻想入りした直後』
ではないでしょうか?
というかNoと言えない日本人そのものじゃないか!
俺も一昔前まではNoと言えないような人間だったからわかるが
他人の目は気になるよね
楽しませて頂きました。良いお話をありがとうございました。