※一部、原作と設定の異なる点もございます。ご了承ください。
「最近、身体の調子が良くないみたいで。寝ても醒めても疲れが取れないというか、眠たいし、今にも意識が飛びそうなのよね。」
「あんたも、紫と一緒なんじゃないの?冬眠するべきなんじゃない?」
霊夢は茶を啜りながら、幽香の相談を右から左へ聞き流していた。最も、彼女が相談に来るなど、思ってもみなかったのだが。
幽香はかぶりを振ってため息を吐き、続けた。
「最初は私もそう思ったのよ。けど、いくら寝ても明け方には起きちゃうし、冬眠なんてできそうにないわ。」
そもそも今は夏じゃない、と付け加える。
「ふぅん。」
興味無さそうに茶を飲み干し、たん、と湯飲みを置く。その態度から、さっさと帰れという内心が読み取れる。が、幽香はお構いなしに更に続けた。
「そういやあんた、人里で花屋やりたいとかって言ってたわね。あれはどうなったのよ?」
「花屋じゃないわ、展示会よ。四季の花の美しさを、人間たちにも見せてあげたいと思ってね。」
「どっちでもいいけどねぇ、何でまた、よりによって人間の里でそんなことをする必要があるのよ?」
「私の友人の為よ。そのついでに折角だから、見せてあげようと思って。」
幽香の言葉に、霊夢はこの春先の出来事を思い返していた。稗田の屋敷の使用人が、主が消えたと血相を変えて博麗神社に飛び込んできたのである。
依頼を受けて、霊夢は勘に従って阿求の行方を捜した。昼間は妖怪に襲われる危険も大してないし、危ない妖怪退治はこの前したばかりだった。
そんなわけで、それほど事態を深刻に捉えることなく花畑へ赴いたのだが、そこで霊夢が見たのは幽香と並んで座り、楽しそうに喋っている阿求だった。
と、おもむろに阿求が立ち上がり、幽香に何事か喋りかける。霊夢が耳を澄ませて聞き取ったのは、幽香の返事だけ。
「いつでも見せてあげるわ。」
その横顔は、霊夢が見たことの無い晴やかなものだった。
「それは結構だけどあんた、人里でも結構有名な妖怪よ?そう簡単にいくかしらね。」
噂に尾ひれがついて、いつの間にか幽香が阿求を術に掛けてかどわかした、という作り話まで流れている始末だと、霊夢は暗に言っているのだった。
「大丈夫よ。名目上は阿求の招待客になってるし。」
里の人間は基本的に、稗田様がそうおっしゃるなら、と阿求の我を通すきらいがある。
もっともそれは、阿求が人格者であり、また知識も豊富であるという実績に基づいたものであるからして、当然といえば当然なのだが。
「へぇ。あの阿求があんたを招待ねぇ・・・ま、気をつけなさいよ。色々と。」
「後ろから刺した人間を殺さないように?」
「そう、殺さないように。あんたが何か問題を起こせば、困るのは阿求なんだから。」
「物騒ねぇ。誰がそんなことするのかしら。」
「あんただ、あんた。それで、いつ稗田の屋敷に行くの?」
「あら、あなたも来るの?」
「阿求に顔見せだけよ。直ぐ帰るわ。」
「まぁ、いいけど。明日よ、明日。眠気の原因は分からないし、無駄足だったわ~。さぁ、帰って準備しないとね。」
「二度と来るな。」
腰掛けていた縁側から立ち上がり、すたすたと去っていく幽香の背を睨みながら、霊夢は吐き捨てた。
そして翌日。霊夢はいつもの紅白の巫女服ではなく、以前阿求にもらった、絹で仕立てられた着物を身に付けて稗田の屋敷を訪れた。
奥に通され、久しぶりに会った阿求が目を丸くする。
「あら霊夢さん。珍しいですね、いつもの衣装ではないなんて。」
「まぁ、ちょっとね。それより阿求、幽香は今日この屋敷に泊まるんでしょう?」
「ええ、そのつもりです。こちらがお呼びしたのですから、是非泊まっていただこうと思って。」
「それなんだけどね、気をつけなさいよ。相手は妖怪なんだから、いつあんたを殺しに掛かるかだって分からないわよ。」
それを聞き咎めた阿求は不満そうな顔をした。
「そんな言い方やめて下さい、霊夢さん。彼女がむやみに人間を襲うような妖怪ではないことは、分かっているはずです。」
「念のためよ、念のため。はいこれ、お守り。」
霊夢が阿求に手渡したのは、三日月形の小さなペンダント。この辺ではあまり見かけない珍しいものだ。
「あんたの体調がここ最近、あんまり良くないって聞いたから見に来ただけよ。あんまり勝手に外うろついてると、また身体壊すわよ?」
「すみません、ご心配をおかけしました。」
「まぁ、元気そうで何よりだわ。それじゃ、私はお暇するわ。幽香によろしくね。」
「はい、わざわざありがとうございます。」
阿求が丁寧にお辞儀をする。霊夢はそれがむず痒くて、くるりと踵を返した。
「お礼言うくらいなら、摂生に励みなさいな。じゃあね。」
長い廊下をすたすたと歩いていくと、丁度到着したらしい幽香に出会った。屋敷の使用人の後に続く幽香を一瞥して、再び歩き出す。
何というか、今日の幽香は少し変、と言えば変だ。いつになく緊張したような面持ちで、それは思いつめているようにも見える。
霊夢は神社に帰るのをやめ、人里に宿をとることにした。
展覧会は大成功、と言えるだろう。人間には入れない険しい山奥に咲き誇る花々や、少しばかり、外の世界の花も併せて稗田の屋敷を彩ってみせた。
阿求はそんな光景を蕩けるような目で見つめ、うっとりとしていた。物珍しさにつられてやってきた、里の子供たちは慧音同伴で写生をしていた。
普段、一般の人間達が踏み入ることはまずない稗田の屋敷の中庭。普段、独りで物静かに筆を執り、目が疲れると見やっていた中庭。
それまでは、いつだって静かに、そして寂しそうに揺れていた桜の樹が、今はたくさんの草花と、そして子供たちの笑い声に包まれて華やいでいる。
そうした光景全てを、孤独だった桜の樹に己を重ねてきた阿求は楽しんでいるのだった。そして同時に、少しばかりの嫉妬もした。
子供にせがまれて、花について詳しく説明してやる幽香がうらやましいと思った。
―私もあんな風に、野山を自分で歩き回って、積極的に人と関わりがもてればいいのに。
そんな羨望を幽香にぶつけてみたのはその晩、二人向かい合っての夕餉の時だった。
「私も、あなたみたいな健康な身体になれたらいいのに。」
「あら、こんなに花の世話がしやすい場所なんて、そうそう無いわよ?」
「それは、そうでしょうけれど。」
阿求が幽香を羨むのは当然、その点ではない。言ってしまえば、阿求が羨んでいるのは健康な者凡てということになる。
「隣の花は赤く見えるものよ。それに、あなたには世話を焼いてくれる使用人がいるじゃない。
身体が弱いのは可哀想だと思うけれど、その分生活には恵まれてると思うわよ。八雲紫の保護の目もついているわけだし。」
阿求は、ゆるゆると首を振る。
「私なんて、彼女からすれば、記録を残すためだけの存在に過ぎません。
転生させてもらっても、心から物を言える友人も、心から愛せる人もない。私があなたなら、絶対に稗田の人間にだけはなりたくないです。」
「それなら、私は何のために今日、ここに呼ばれてきたのだと思う?
ただ里の人間たちのために今日みたいな催し物をしろというだけだったら、私は絶対に来なかった。他でもない、あなたのためだからよ、阿求。」
「ありがとう―でも幽香。私は転生すれば、あなたのことも忘れてしまう。」
「だから?」
「だからって・・・。」
阿求は俯き、言葉を捜す。幽香はそんな彼女の顎を片手で引き寄せて、紅い瞳で阿求を見据えた。その顔には意地の悪い笑みがある。
「忘れさせないわ。だって、あなた言ったでしょう?私と友達になって、またこんな綺麗な花をみせてくれますかって。
妖怪は欲深いものよ。特に私は一度気に入ると、そう簡単には手放さないたちでね。あなたが気に入っちゃったわ、阿求。」
阿求はじっと幽香を見つめ返し、突然破顔した。
「それはそれは。あなたも変わり者ですね、幽香。あなたはまるで、向日葵みたいです。」
「よく言われるわ。そういうあなたは―雪割一華かしらね。」
「雪割一華ですか。私のような病弱で、世話を焼くのにこの上なく手が掛かる者にはぴったりですね。」
阿求は思わず苦笑した。流石はフラワーマスターとでも言いたげに。
「確かにデリケートな花ではあるけれどね。環境に恵まれさえすれば、きちんと育つのよ。」
「そうですか・・・それなら私は、とても恵まれている、ということになりますね。あなたという素晴らしい友人に出会うことができたのですから。」
「えぇ。私の期待に応えて、丈夫に育ちなさい。」
「努力します。」
幽香はわが子を慈しむかのように、阿求の頭をさらりと撫でた。阿求は思う。こんな風に人に頭を撫でられるのは、どれほど久しぶりだろうか。
子を残すために、男性と交わる過程で髪を愛撫されることは何度かあったのだろう。しかし、生まれてこの方、慈しんで頭を撫でてくれた人など数えるほどしかいない。
ましてや、稗田阿求といえば里で知らない人間はいないほどに有名であり、またどういうわけか望まずして崇高な存在になってしまっている。
幽香は、身分という名の要らぬ垣根を蹴破って自分を外の世界に連れ出してくれるひとなのかもしれない、とも思った。
敷かれた布団に片足を突っ込み、今まさに眠りにつこうとした途端、霊夢は奇妙な感覚に襲われた。そう、言うなればあの忌まわしい出来事の。
彼女の母親が妖怪に命を狙われた幼い霊夢を護ろうと、身を挺したあの夜の胸騒ぎ。結果から言えば、戦いですらなかった。
「こんなやつ、さっさと片付けてしまうから、あなたは神社から一歩も出ないで。分かったわね、霊夢。」
妖怪避けの結界の外に出歩いてしまった霊夢を殺そうとした一撃の身代わりになり、致命傷を負った母は、息も絶え絶えに霊夢を結界の中へと押し込み、
霊夢が大人しく神社に引っ込んだのを見届けると、最後の力を振り絞って九尾の式神を使役しようと試みた。しかし。命の灯火が消えんとしている者に
それほどの式が扱えるわけもなく。彼女の母親は、妖怪の前にその身体を差し出すこととなった。
霊夢の母を殺した妖怪がその亡骸を貪らんばかりに近づいたその途端、後ろからやってきた新たな妖怪に頭半分をすっぱりと吹き飛ばされた。
「・・・ごめんね、間に合わなくて。あなたの事、私がずっと憶えておくわ。・・・藍、ご苦労様。」
「力及ばず申し訳ありませんでした、紫様。」
彼女が使役しようとして、ついに叶わなかった九尾の式が、のた打ち回る妖怪を蒼白い火炎で焼き払った。一片の肉片も残さずに、一瞬で灰と化す。
「さて・・・と。あの子は、どこかしらね。」
紫は霊夢の母親の亡骸を抱き上げ、静かに神社の結界をすり抜けた。
「あぁもう、こんなんじゃ眠れやしないわ全くっ!!」
がばりと飛び起きて、外へ飛び出す霊夢。目的地は云わずと知れた、稗田の屋敷である。
空は月食。嫌な予感がした。こんなことなら、私も稗田の屋敷に泊まるべきだったのだ。
どうして、あんたがお母さんに重なるのよ・・・!冗談じゃないわ、あんたまで死なせたりしない。博麗の名にかけて。
稗田の屋敷の門前に辿り着いた霊夢は、自分の犯した重大なミスに気づいた。
「あは・・・あははは・・・。」
がくりと膝をつき、拳を地面に叩きつける。ここ一番で致命的なミスを犯すなんて、あの日からまったく成長していない。
異常なほど濃い妖気を発している稗田の屋敷を目前にしながら、幣、御札、陰陽玉、スペルカード、封魔針。
どれ一つ、携えてこなかった。それでも、これで諦めるわけにはいかない。武器がないなら、巫力を込めた拳骨でぶん殴って戦うことになってでも、阿求を守る。
「阿求!!」
壊れんばかりの勢いで襖を開け放つと、果たして阿求と幽香がそこに居た。思ったとおり、この強烈な妖気は幽香のものだ。そして、幽香の様子がおかしい。
うずくまるようにして頭を抱え込み、唸り声をあげている。阿求はどうしたら良いのか分からずに、おろおろするばかりだ。
「幽香、しっかりして。私が分かりますか!?」
「阿求、そいつから離れなさい。後は、私が。」
阿求を半ば強引に引き剥がし、幽香を見下ろす。それまでうずくまっていた幽香が、ゆらりと立ち上がった。
「・・・どきなさい。阿求は私の物よ。」
「あんた、誰?幽香じゃないわよね。何者なのよ。」
両手に巫力を湛えながら、霊夢が睨みつける。幽香はケタケタと肩をゆすって下品に笑うと、爛々と光る紅い目を見開いた。
「私?さぁね。自分の名前なんて忘れちゃったわ。どうでもいいもの。それより私は、強い身体が欲しいのよ。
この妖怪だったら強い身体が手に入ると思ったら・・・まるで駄目ね。完全に力が弱まる月食以外じゃ、こっちが押さえ込まれちゃうだけだったわ。」
「そう。要するに、悪霊なのね。なら、話は簡単―祓って終わりよッ!!」
拳で殴りかかる霊夢。しかし幽香は可笑しそうに不気味な笑いを浮かべると霊夢の腕を捕らえ、更に思い切り握った。
「ぅ・・あぁぁぁぁ・・・。」
みしみしと骨が軋み、苦痛に霊夢の顔が歪む。
「うふふ、お馬鹿さん。こっちの肉体は、あなたなんかより遥かに強いのよ。敵うわけ、ないでしょ?」
ぱっと手を離し、目にもとまらぬ早業で鳩尾を突く。霊夢はなす術無く、崩れ落ちた。それを見届けると阿求に向き直り、にやっと哂う。
「さてと。それじゃ、まずはあなたの魂でも頂こうかしらね。そうすれば、こんな自我の強い身体でも夜くらいは思い通りに動かせそうだし。」
「幽香・・・。」
阿求は臆することなく、幽香をじっと見つめた。揺らぎの無い視線に射抜かれた幽香が、歩みを止める。
「ぐっ・・・生意気な・・・大人しくしていれば、いいものを。」
その時。阿求の頭の中に、声が聞こえた。幻聴、と片付けてしまう事もできたかもしれない。声は言った。
今だ。幽香を助けたいんだろう?彼女の身体に触れろ、と。
迷いは無かった。何故だか分からないが、阿求はその声を信じる気になったのだ。静かに歩み寄り、膝をつく。
苦しむ幽香の頬にそっ、と触れた。
「そのまま、放すんじゃないぞ。」
幻聴ではない、はっきりとした声が聞こえた。勿論、阿求はこの声の主を知っているはずもない。
が、幽香の背から、煙のようなものが立ち昇り、まさしく悪霊と呼ぶに相応しいような醜い怪物を形作っていった。
そしてもう一人、その怪物の首根っこを掴んで宙吊りにし、喉元に三日月型の刃を突き立てている者があった―魅魔である。
「悪霊にしちゃ、少しは賢かったね。お前さんは多分、同じく幽香の妖力が極端に弱まる新月の夜にあいつにとり憑き、
自分の意のままに操ろうとしたんだろ。だが、できなかった。何故かって?幽香の妖力が強すぎたからさ。そこでお前さんは、
巫女に祓われないように、自分の気配を隠すことに徹した。月食が来る前に巫女に祓われちゃ、今までの努力が水の泡だからね。
そして、月食の夜。そう、今日の事だ。お前さんはどの道、人間狩りでもしようとしたんだろう。蛇の道は蛇ってね。私がお前さんなら、そう考えるさ。」
だが、と魅魔は阿求に視線を投げかけ、直ぐに元に戻した。
「襲う相手が悪すぎたね。残念ながら、悪霊のよしみで見逃してやるなんてわけにも行かないんでな。そういう訳で―閻魔によろしく伝えとくれ。」
その言葉と共に、魅魔は怪物の喉を掻ききった。耳をつんざくような断末魔がひゅうひゅうとした弱々しい呼吸に変わり、消滅する。
「あれぐらいのやつ、自分でどうにかできたんじゃないのかい?私をこき使うことないだろう。」
魅魔はくるりと振り返って、霊夢を見やる。霊夢は腹部を擦りながら恨めしそうに魅魔を見返した。
「忘れ物だらけだったのよ。今日が月食だったのは誤算だったけど、一応あんたを阿求に付けておいて正解だったわ。ご苦労さん。」
「全く、悪霊に悪霊を祓わせるなんぞ、とんだ巫女もあったもんだ。」
くつくつと魅魔が笑う。
「こっちは魔理沙にしょっちゅう振り回されてるんだから、これくらいしてもらわなきゃ、割に合わないわ。」
「あの子は元気にやってるかい?まあ、予想はつくがね。」
「こっちが困るくらいに元気よ。迷惑してるわ。お賽銭は入れないし、お茶は勝手に淹れて飲んで行くし。」
「知ってるさ。全部見てたからね。」
「止めなさいよ。」
「おいおい、悪霊に泥棒退治までやらせるのは筋違いってもんだろう。ともかく、私の用は済んだんだ。一足先に帰らせてもらうよ。」
魅魔が煙になって消えた途端、阿求の懐にあった三日月のペンダントが砕け散った。
「あ・・・。」
阿求の声に、霊夢は再び後ろを向き直った。幽香が目を覚ましたらしい。
「阿求・・・大丈夫?怪我は、ないかしら?」
が、その声は酷く弱々しく、消え入りそうだった。
「ええ、大丈夫です、ありがとう。」
「そう・・・よかっ・・た・・・。」
「幽香・・・?」
幽香はぐったりしたまま、阿求の腕の中で目を瞑る。
不意に、障子がばん、と喧しく開けられ、屋敷の使用人がなだれ込んできた。
「阿求様、ご無事ですか!?その者はやはり、阿求様の御命を狙っていたのですね。」
「おお、巫女殿がいらしてくれていたとは、阿求様を救っていただき、感謝の言葉もありません。」
「勘違いしないで頂戴。幽香はただ、悪霊に憑かれていただけ。そして、その悪霊はもう祓ったわ。
慧音と、それから霊感の強い者で、血を提供しても良い、という人をできるだけ多く連れてきてもらえる?」
霊夢は幽香を抱き起こして布団に寝かせながら指示を下した。が、屋敷の者たちは怪訝そうな顔をするばかり。
「一体何を、なさるつもりなのです。」
「決まってるでしょ。助けるのよ、幽香を。」
「なんと、なんと。このような野蛮な妖怪を、助けると申されるか。」
「ええそうよ。今回の件、幽香が望んで引き起こした事態じゃないもの。」
「待って頂きたい、巫女殿。仮にそうだとしても、この者が阿求様を危険に晒した事、まかりなりませぬ。然るべき罰を与えるべきで―」
「待ってください。私はそのような事、望んではいません。」
阿求の声に、静寂が訪れる。
「あなた方にも、お話しておくべきことなのでしょう。私が幽香に出会ったのは、この春のことでした。」
しん、と部屋は静まり返ったまま。阿求は続けた。
「あの時、勝手に屋敷を抜け出して皆さんにご迷惑をおかけした事は、本当に申し訳なく思っています。
あの日、私は霊夢さんに連れられて帰ってきました。それまで何をしていたかというと、
彼女と、向日葵畑で他愛の無い話をしていたんです。その時は、彼女が妖怪だとは知りませんでした。
ですが、彼女が妖怪だと知った後も、恐怖心は皆無でした。何故でしょう。彼女が、とても優しいひとだと感じたからです。
実を言うと、向日葵に見とれている内に、身体の調子が悪くなってしまって・・きっと日の光に当たり過ぎていたんですね。
頭がくらっとして、倒れてしまいました。そのまま放置されていたら、熱に浮かされて命が危なかったと、お医者様に言われました。
私が次に目を覚ましたとき、そこは相変わらず向日葵畑でしたが、私の真上に、丁度日陰になるように大きな蕗の葉が生えていました。
私が起き上がると、不意に横から、でもそっと、果物を差し出してくれた人がいました。それが、幽香だったんです。」
阿求は言葉を切り、床に手をついて丁寧に頭を下げた。
「お願いです。彼女を見捨てないで下さい。命の重さは、人間であろうと妖怪であろうと関係ないはずです。」
「しかし、阿求様。」
「しかしもへったくれも無いわ。大体ね、ついこの間、里の人間が霊にとり憑かれたって大騒ぎして、
真夜中に駆け込んできたのは何処のどちら様?巫女の私がこう言うのも変だけど、何の抵抗もできずに暴れまわってたあんたらより、
阿求を傷つけまいと頑張ってた幽香の方が褒められたもんだわ。霊的な力とか、そういうものじゃないの。意志の強さなのよ、結局。
幽香は、最後まで諦めなかった。私が来るまでは絶対に自我を失うまいとしてた。除霊に手間取ったのは、私のミスだけどね。でも、阿求は無事。
その阿求が幽香を助けて欲しいって言ってるんだから、それでいいじゃない。どうしてそこまで、妖怪だからって憎めるのかしら。私には分からないわ。」
「・・・。」
使用人達は、微動だにしない。ある者は、霊夢を道化師でも見るかのような目で睨んでいる。
それら全てを無視して、霊夢はもう一度幽香の身体を抱き起こし、その胸に耳を当て澄ます。
「―まずいわね。妖力の回復が見込めない。もう、とやかく言っている場合じゃないわ。あんたらが出来ないって言うなら、私がやる。」
霊夢はきっぱりと言い放ち、床の間にあった花瓶を手に取り―
がちゃん、と叩き割った。そして、その破片を手に取り―
「霊夢さん何を!?」
「もう、これしかない。」
すっぱりと、自らの手首を切った。
「あなたが、博麗霊夢ね。」
「お姉さん、だーれ?お母さんは?」
「ごめんなさいね、霊夢。あなたのお母さんは・・・死んでしまったわ。」
冷たい現実を突きつけられた。それは余りにも唐突で、霊夢は一瞬、紫の言葉が理解できなかった。
が、紫が彼女の母親の亡骸を彼女の目の前にそっと下ろすと、霊夢は母の身体に触れ、それが冷たい事で本能的に悟った。
―優しかった大好きな母は、もう居ないのだと。
その日、八雲紫は博麗霊夢の母に代わり、霊夢を育て上げる決心を固めたという。
「・・・あなたの形見、大切にするわ。どうか、霊夢の成長を見守ってあげてね。」
泣き喚く霊夢を他所に、九尾の式を記したヒトガタに向かって語りかけた。
紫からは、ありとあらゆる事を教わった。生活一般については勿論のこと、巫女として生きる上で必要不可欠な知識もだ。
巫力の使い方、妖怪についての知識、妖怪の殺し方、そして―妖怪の身体の事。
「どうして、妖怪の治し方なんか知らなきゃならないのよ。巫女の仕事は妖怪退治でしょうに。」
「知っておいて、損は無いでしょう?それにね霊夢。巫女だから妖怪を退治しなくちゃならない、という考えは違うと思うわ。」
「―」
紫は果たして、見通していたのか否か。博麗霊夢は、幻想郷にスペルカードルールを確立した。
ここに、人間と妖怪の間を取り持つ安寧秩序は一応の形ではあるが、創り上げられたと言ってもいい。
結果、どうなったか。相変わらず人里の人間たちは妖怪を恐れているし、妖怪は人間を襲う対象と見ているが、
少なくとも、霊夢の元に来る妖怪退治の依頼はぐっと減った。知能ある妖怪達は、ある程度のところで折り合いをつけて人間と共存する事を選んだ。
そして霊夢は時に、傷つき斃れかかっている妖怪を救ってきた。それが、今日の幻想郷における巫女の在り方なのだと信じて。
妖怪の妖力が流出し続け、回復しないということは即ち、死に近づいているに等しい。
殆どの場合は、そんな状態になるということは最早、肉体の損傷が酷く命もあと僅か、助かる見込みは無いのだが、幽香は違う。
だが、危険な状態である事に変わりはなかった。長い間じわじわと妖力を搾取され続け、それが限界を超えてしまい、医術で言えば
脱水状態のような危機に晒されている―それも、かなり重度である。今思えば、兆候はあったのだ。いくら眠っても疲れが取れない、
眠気が醒めない。妖力不足を補おうと身体が休息を求める事から来る症状だった。では何故、今夜急に。
風見幽香という妖怪は、昼も夜も活動できるという点で特殊な妖怪だ。昼は太陽光、夜は月光によって妖力を蓄える事が出来る、
という身体の造りをしていた。そのお陰で、彼女は丸一日妖力の供給を受けられる状態にあったから、今までは何とか持ち堪えてきたのだ。
しかし、今夜は月食。太陽光も、月光も満足に届かないとあっては、妖力が得られないのだ。搾取され続けて限界に来ていた彼女の肉体は、
己の内に妖力を留める術を失ってしまった。このような状態に陥ってしまうと、自分の知る限り対処法は一つしかない。
―即ち、霊力の強い人間の血、または妖力を含む妖怪の血を飲ませて足りない妖力を補う、というものである。
博麗の血は確かに強い霊力を持ち併せている。が、霊夢が提供できる血液量で、果たして足りるか、という所だった。しかし、こうなっては迷っていられない。
あなたに教わった事は、何一つ無駄ではない。そうでしょう?紫。幻想郷を見守る、胡散臭くも慈悲深い賢者よ。
無理やり口をこじ開け、自らの血液を流し込む。幽香の白い喉がこくこくと嚥下するのを見て、僅かに安堵した。意識はあるようだ。
「しっかりしなさい。あんたが死んだら、阿求の面目は丸潰れよ。」
「どう・・して。あな・・たは・・・そこま・・で・・・。」
朦朧とした様子で、訊ねる。霊夢は黙ったまま、傷口を直接幽香の口へ押し付けた。幽香も霊夢の意図を理解したらしく、大人しく従う。
「・・・お願いです。どうか、どうか。」
阿求が再び、頭を下げる。お顔を上げてくださいと使用人達は口々に言うが、阿求はてこでも動かない。
「・・・分かりました。阿求様がそこまで入れ込んでいらっしゃる方です。
私はその御方を詳しく存じませぬがさぞや、御立派なのでしょう。皆の者!これ以上我らが主に恥をかかせるでない!
他の皆が反対しても、私は上白沢先生を呼びに行く。阿求様の事を想うのであれば、巫女殿の御指示に従え!良いな!」
白髪の老人が使用人達を一喝する。鶴の一声で、使用人達は堰を切ったようにばたばたと駆け出した。
使用人達が慌ただしく外へ出て行った後、阿求は幽香の手を握りながら唯ただ、うわ言のように呟く。
「ありがとう、妖忌。ありがとう・・・。」
一刻が過ぎた。慧音が到着し、数名ではあるが血液を提供しようと、名乗り出た者もいた。
しかし幽香が必要とする妖力は余りに大きく、霊夢と交代して血を分け与えた慧音、それに数名の人間達の血も、
今の幽香には雀の涙でしかなかった。あらゆる手を尽くして、それでも駄目だと感じた霊夢はただひたすらに、己の無力を嘆いた。
阿求だけが、諦めなかった。彼女を救ってくれるひとが今に現れると言わんばかりに、つきっきりで幽香を看ている。
病弱な阿求の頬は赤みが差し、少し咳も出てきた。妖忌が交代を申し出ても首を縦に振らず、大量の血を摂取した事で熱っぽい幽香の額に、
冷水に浸した手拭いをそっと置き、それが温くなっては再び冷水を張った桶に手を突っ込み、絞っては再び額に戻す。
―そうよ。阿求が諦めてないのに、私が諦めてどうする。眠ってはいるがまだ、幽香は死んでない。
―まだ、あなたから教わった全てを出してない。
脳裏に八雲紫の包み隠すような笑みがよぎる。今まで成功した事は無かった。が、試みもせずに出来ないと決め付けるのは愚の真骨頂。
霊夢は静かに正座し、強く祈った。いい加減な止血処置を施した傷から、ぽたぽたと畳に赤黒い染みが生まれる。
―神様。風見幽香を、稗田阿求の初めての親友を、どうかお助け下さい。
大きな物音ひとつ立てず、阿求を除く誰もが霊夢を見つめたまま、半刻が過ぎた。もう、駄目なのだろうか。幽香の呼吸が、荒々しく、息も絶え絶えになってきている。
半泣きになりながら、それでも尚、祈り続けていたその時だった。
「こんばんは。・・・今度はちゃんと、間に合ったかしら?霊夢。」
声の主は、八雲紫。いつもの胡散臭い笑いではなく、穏やかな柔らかい笑みを浮かべている。嗚呼、なんだろうか、苛立ちと安堵が入り混じった、この感情は。
「遅いのよ。馬鹿ぁっ・・・!」
霊夢は母を失って以来十余年あまり。それまで一度も人前で見せた事の無かった涙が止め処なく溢れ、啜り泣いた。
紫の処置には一切の無駄が無かった。苦しいだろうからと、応急処置で飲ませた人の血を吐かせてしまうと、
式神・八雲藍と何事か相談した後、ヒトガタに何やら書きつけ、今度はそれを幽香の口に突っ込み、強引に嚥下させた。
阿求らが緊張した面持ちで見守る中、紫は事も無げに「はい、これで大丈夫です。」と宣言した。
翌日、暁光を背にして紫は起き上がった。
「妖力の回復が確認できるまで暫くは、私の式神で居てもらうわ。心配しなくても、良くなったら直ぐに式は破棄する。」
「・・・今回ばかりは感謝してるわ。ありがとう。」
幽香は眠たげに枕に顎を預け、うつ伏せに寝転んだまま。隣では阿求が静かに寝息をたてている。昨晩幽香の額にのっていた手拭いは、いつの間にか阿求の額にのっている。
「それにしてもあなたを使役するのは大変ねぇ。妖力の消費が激しすぎて、藍の比どころじゃないですわ。」
自分で式神にしておきながら、紫は面倒くさそうに大きな欠伸を一つ。幽香は軽く睨んでみせた。
「悪かったわね。命令なりなんなり、下してくれて結構よ。」
「そう、じゃあ早速命令を下すわよ。あなたには、これから暫く阿求の御守をしてもらうわ。」
「それはできないわよ。」
「あら、どうして?」
「あんな事があった後じゃないの。しかも事を引き起こした張本人が堂々と阿求の傍に居られるわけ、ないじゃない。」
「堂々としていればいいのよ。この件は、あなたのせいでは無いでしょう?それについては、霊夢がとりなしてくれる事になっているから。」
「酷な事を言うわね。そんなに楽しい?」
「えぇ、風見幽香ともあろう者が、たかが人間一人を殺しかけた程度でおどおどと縮こまっている様、傍から見ていてとても滑稽で面白いわ。」
「最低ね。」
「いいじゃない、殺しかけたって。どうせ長い命じゃないわ。燃え尽きかけた蝋燭のような灯火よ。どうせなら、派手に燃やしてあげなさいな。」
―そこまで言うのなら。何かの間違いで阿求を殺してしまっても、文句は言わせない。どうせ、紫が止めるだろうから。
「いいわよ。どうなっても知らないけど。」
幽香は立ち上がり、荒々しく廊下を歩き去っていった。何処へ行くの、という紫の問いかけに、散歩、と短く答えて消えた。
「そういうわけだから、阿求。あのじゃじゃ馬と仲良くしてやって頂戴。」
スキマに腰掛けて、紫が阿求に向き直る。途端、阿求はぱちりと目を醒ました。
「なんだ、やっぱりばれてたんですね。」
「狸寝入りなら飽きるほど見てきましたから。では、ごきげんよう。」
紫はふっと背を後ろに倒し、頭からスキマに倒れ込んで消えた。
霊夢は日の出を眺めながら、ぼうっと座っていた。自分は果たして、神通力を使う事に成功したのだろうか。
「あれは、神通力と言うより、妖通力だったわね。私に助けてって思念が届いたから。」
「あんた、いつからそこに・・・。」
「たった今、よ。私と話したいって、思ったでしょう。」
「それは嘘ね。思ったけど。」
「ねぇ霊夢。そんなに気負う事ないのよ。」
「だって紫。あんたに習った事、何一つ満足に―」
「私が何時、あなたを一人前の巫女として認めたかしら。結果として幽香は助かったし、里にも被害は出ていない。上出来よ。」
「人里での私の評判は堕ちる所まで堕ちたんでしょうね。」
「そうかしら。元々大して良くない評判だったもの。今更変わらないでしょう。」
冷めきった茶を啜りながら、酷いやつだと思う。まぁ、紫に慰めて欲しくてそんな事を言ったのではないけれど。
「そう。これで少しはあいつも、人間に接しやすくなるんじゃない?」
「永く生きていると、必然的に孤独になってしまうものね。そういう意味では今回の件、彼女には幸運だったのかも知れないわ。」
「あんたは?式神がいるだけで孤独に苛まれなくなるものなのかしら。」
「そうねぇ・・・霊夢が居るから寂しくないわ。」
「嘘吐き。」
「本当よ。じゃあ、またね。」
「ええ。ありがと。」
「一つ、忘れていたわ。」
スキマから半身を乗り出し、霊夢の手首に右手を添えると、包帯の下にあるはずの切り傷は綺麗さっぱりと消えていた。
「そんなものが無くても、あなたが人間であろうと妖怪であろうと分け隔てなく接している事は百も承知。
業はまだ未熟だけれど、立派な博麗の巫女よ。幻想郷の賢者として、誇りに思いますわ。」
それだけまくし立てると、紫はするっとスキマに滑り込んだ。
日の光に照らされて、幽香は大きく伸びを一つ。暴れるように爛々とした妖光を湛えていた真紅の瞳は、落ち着きを取り戻していた。
今まで紫に補われていた妖力の他に、僅かに自分の内からふつふつと活力が沸いてくるのを感じていた。
この分なら、紫の式で居る必要も間もなく、無くなるかもしれない。どうせあのスキマは、見越していたのだろうけれど。
全快したら、阿求を連れて出かけようか、などと思う。阿求がまだ知らぬ世界を、見せてやりたい。夢幻館にも顔を見せに行こう。
魔界、は・・・危ないといえば危ない気もするが、彼女が望むのなら連れて行こう。
自分でも驚くほどに、様々な計画が浮かんでは消えてゆく。これほどまでに、自分は孤独で飢えていたのだろうか。
借り物の浴衣を羽織ったままで草履を履き、からからと屋敷の外へ出る。門の所で、うっすらと記憶している白髪の老人に出会った。
「昨日は、騒がせてしまってごめんなさいね。」
「いいえ。阿求様は人一倍、繊細なお方。故に、私どもも敏感になっていたのでしょう。
こちらこそ、申し訳ない。差し出がましいようで恐縮ですが、この老いぼれの頼みを聞いて頂けますかな?」
「何かしら。」
「阿求様はご存知の通り、お身体があまり丈夫ではありません。かといって私は、お屋敷で唯物静かに過ごされるのは、
毒だと考えます。幽香殿、私どもは阿求様を外にお連れして、楽しんで頂く術を存じません。どうかその役目、お引き受け頂けませぬか。」
幽香は何も言わず、黙って頷いた。
「かたじけない。阿求様の事、よろしくお願い申し上げます。」
私がこの老人の頼みに頷いたのは、決して人に頼まれたり、紫に命じられたからではない。
―転生して、妖怪について記す、それが稗田の役割です。これじゃ、何の為に生きているのか分からないですよね。
そんな台詞を聞く度に、幽香は思う。生きる意味なんて、死ぬ時に分かるものなのではないのだろうか。
そして同様に、私が阿求の事を頼まれてそれを承諾したのも、単に阿求という雪割一華を見守りたいと思ったからに過ぎないのだ。
生きる意味が分からないというのなら、私が与えてやる。私が育てる以上は、決して若くして枯らせたりはしない。だから、安心なさい。
私の恩返しはこれから。私を救ってくれた、魅魔に、霊夢に、里の人間達に、白澤に、そして・・・阿求へ。
―本当に、ありがとう。
了
「最近、身体の調子が良くないみたいで。寝ても醒めても疲れが取れないというか、眠たいし、今にも意識が飛びそうなのよね。」
「あんたも、紫と一緒なんじゃないの?冬眠するべきなんじゃない?」
霊夢は茶を啜りながら、幽香の相談を右から左へ聞き流していた。最も、彼女が相談に来るなど、思ってもみなかったのだが。
幽香はかぶりを振ってため息を吐き、続けた。
「最初は私もそう思ったのよ。けど、いくら寝ても明け方には起きちゃうし、冬眠なんてできそうにないわ。」
そもそも今は夏じゃない、と付け加える。
「ふぅん。」
興味無さそうに茶を飲み干し、たん、と湯飲みを置く。その態度から、さっさと帰れという内心が読み取れる。が、幽香はお構いなしに更に続けた。
「そういやあんた、人里で花屋やりたいとかって言ってたわね。あれはどうなったのよ?」
「花屋じゃないわ、展示会よ。四季の花の美しさを、人間たちにも見せてあげたいと思ってね。」
「どっちでもいいけどねぇ、何でまた、よりによって人間の里でそんなことをする必要があるのよ?」
「私の友人の為よ。そのついでに折角だから、見せてあげようと思って。」
幽香の言葉に、霊夢はこの春先の出来事を思い返していた。稗田の屋敷の使用人が、主が消えたと血相を変えて博麗神社に飛び込んできたのである。
依頼を受けて、霊夢は勘に従って阿求の行方を捜した。昼間は妖怪に襲われる危険も大してないし、危ない妖怪退治はこの前したばかりだった。
そんなわけで、それほど事態を深刻に捉えることなく花畑へ赴いたのだが、そこで霊夢が見たのは幽香と並んで座り、楽しそうに喋っている阿求だった。
と、おもむろに阿求が立ち上がり、幽香に何事か喋りかける。霊夢が耳を澄ませて聞き取ったのは、幽香の返事だけ。
「いつでも見せてあげるわ。」
その横顔は、霊夢が見たことの無い晴やかなものだった。
「それは結構だけどあんた、人里でも結構有名な妖怪よ?そう簡単にいくかしらね。」
噂に尾ひれがついて、いつの間にか幽香が阿求を術に掛けてかどわかした、という作り話まで流れている始末だと、霊夢は暗に言っているのだった。
「大丈夫よ。名目上は阿求の招待客になってるし。」
里の人間は基本的に、稗田様がそうおっしゃるなら、と阿求の我を通すきらいがある。
もっともそれは、阿求が人格者であり、また知識も豊富であるという実績に基づいたものであるからして、当然といえば当然なのだが。
「へぇ。あの阿求があんたを招待ねぇ・・・ま、気をつけなさいよ。色々と。」
「後ろから刺した人間を殺さないように?」
「そう、殺さないように。あんたが何か問題を起こせば、困るのは阿求なんだから。」
「物騒ねぇ。誰がそんなことするのかしら。」
「あんただ、あんた。それで、いつ稗田の屋敷に行くの?」
「あら、あなたも来るの?」
「阿求に顔見せだけよ。直ぐ帰るわ。」
「まぁ、いいけど。明日よ、明日。眠気の原因は分からないし、無駄足だったわ~。さぁ、帰って準備しないとね。」
「二度と来るな。」
腰掛けていた縁側から立ち上がり、すたすたと去っていく幽香の背を睨みながら、霊夢は吐き捨てた。
そして翌日。霊夢はいつもの紅白の巫女服ではなく、以前阿求にもらった、絹で仕立てられた着物を身に付けて稗田の屋敷を訪れた。
奥に通され、久しぶりに会った阿求が目を丸くする。
「あら霊夢さん。珍しいですね、いつもの衣装ではないなんて。」
「まぁ、ちょっとね。それより阿求、幽香は今日この屋敷に泊まるんでしょう?」
「ええ、そのつもりです。こちらがお呼びしたのですから、是非泊まっていただこうと思って。」
「それなんだけどね、気をつけなさいよ。相手は妖怪なんだから、いつあんたを殺しに掛かるかだって分からないわよ。」
それを聞き咎めた阿求は不満そうな顔をした。
「そんな言い方やめて下さい、霊夢さん。彼女がむやみに人間を襲うような妖怪ではないことは、分かっているはずです。」
「念のためよ、念のため。はいこれ、お守り。」
霊夢が阿求に手渡したのは、三日月形の小さなペンダント。この辺ではあまり見かけない珍しいものだ。
「あんたの体調がここ最近、あんまり良くないって聞いたから見に来ただけよ。あんまり勝手に外うろついてると、また身体壊すわよ?」
「すみません、ご心配をおかけしました。」
「まぁ、元気そうで何よりだわ。それじゃ、私はお暇するわ。幽香によろしくね。」
「はい、わざわざありがとうございます。」
阿求が丁寧にお辞儀をする。霊夢はそれがむず痒くて、くるりと踵を返した。
「お礼言うくらいなら、摂生に励みなさいな。じゃあね。」
長い廊下をすたすたと歩いていくと、丁度到着したらしい幽香に出会った。屋敷の使用人の後に続く幽香を一瞥して、再び歩き出す。
何というか、今日の幽香は少し変、と言えば変だ。いつになく緊張したような面持ちで、それは思いつめているようにも見える。
霊夢は神社に帰るのをやめ、人里に宿をとることにした。
展覧会は大成功、と言えるだろう。人間には入れない険しい山奥に咲き誇る花々や、少しばかり、外の世界の花も併せて稗田の屋敷を彩ってみせた。
阿求はそんな光景を蕩けるような目で見つめ、うっとりとしていた。物珍しさにつられてやってきた、里の子供たちは慧音同伴で写生をしていた。
普段、一般の人間達が踏み入ることはまずない稗田の屋敷の中庭。普段、独りで物静かに筆を執り、目が疲れると見やっていた中庭。
それまでは、いつだって静かに、そして寂しそうに揺れていた桜の樹が、今はたくさんの草花と、そして子供たちの笑い声に包まれて華やいでいる。
そうした光景全てを、孤独だった桜の樹に己を重ねてきた阿求は楽しんでいるのだった。そして同時に、少しばかりの嫉妬もした。
子供にせがまれて、花について詳しく説明してやる幽香がうらやましいと思った。
―私もあんな風に、野山を自分で歩き回って、積極的に人と関わりがもてればいいのに。
そんな羨望を幽香にぶつけてみたのはその晩、二人向かい合っての夕餉の時だった。
「私も、あなたみたいな健康な身体になれたらいいのに。」
「あら、こんなに花の世話がしやすい場所なんて、そうそう無いわよ?」
「それは、そうでしょうけれど。」
阿求が幽香を羨むのは当然、その点ではない。言ってしまえば、阿求が羨んでいるのは健康な者凡てということになる。
「隣の花は赤く見えるものよ。それに、あなたには世話を焼いてくれる使用人がいるじゃない。
身体が弱いのは可哀想だと思うけれど、その分生活には恵まれてると思うわよ。八雲紫の保護の目もついているわけだし。」
阿求は、ゆるゆると首を振る。
「私なんて、彼女からすれば、記録を残すためだけの存在に過ぎません。
転生させてもらっても、心から物を言える友人も、心から愛せる人もない。私があなたなら、絶対に稗田の人間にだけはなりたくないです。」
「それなら、私は何のために今日、ここに呼ばれてきたのだと思う?
ただ里の人間たちのために今日みたいな催し物をしろというだけだったら、私は絶対に来なかった。他でもない、あなたのためだからよ、阿求。」
「ありがとう―でも幽香。私は転生すれば、あなたのことも忘れてしまう。」
「だから?」
「だからって・・・。」
阿求は俯き、言葉を捜す。幽香はそんな彼女の顎を片手で引き寄せて、紅い瞳で阿求を見据えた。その顔には意地の悪い笑みがある。
「忘れさせないわ。だって、あなた言ったでしょう?私と友達になって、またこんな綺麗な花をみせてくれますかって。
妖怪は欲深いものよ。特に私は一度気に入ると、そう簡単には手放さないたちでね。あなたが気に入っちゃったわ、阿求。」
阿求はじっと幽香を見つめ返し、突然破顔した。
「それはそれは。あなたも変わり者ですね、幽香。あなたはまるで、向日葵みたいです。」
「よく言われるわ。そういうあなたは―雪割一華かしらね。」
「雪割一華ですか。私のような病弱で、世話を焼くのにこの上なく手が掛かる者にはぴったりですね。」
阿求は思わず苦笑した。流石はフラワーマスターとでも言いたげに。
「確かにデリケートな花ではあるけれどね。環境に恵まれさえすれば、きちんと育つのよ。」
「そうですか・・・それなら私は、とても恵まれている、ということになりますね。あなたという素晴らしい友人に出会うことができたのですから。」
「えぇ。私の期待に応えて、丈夫に育ちなさい。」
「努力します。」
幽香はわが子を慈しむかのように、阿求の頭をさらりと撫でた。阿求は思う。こんな風に人に頭を撫でられるのは、どれほど久しぶりだろうか。
子を残すために、男性と交わる過程で髪を愛撫されることは何度かあったのだろう。しかし、生まれてこの方、慈しんで頭を撫でてくれた人など数えるほどしかいない。
ましてや、稗田阿求といえば里で知らない人間はいないほどに有名であり、またどういうわけか望まずして崇高な存在になってしまっている。
幽香は、身分という名の要らぬ垣根を蹴破って自分を外の世界に連れ出してくれるひとなのかもしれない、とも思った。
敷かれた布団に片足を突っ込み、今まさに眠りにつこうとした途端、霊夢は奇妙な感覚に襲われた。そう、言うなればあの忌まわしい出来事の。
彼女の母親が妖怪に命を狙われた幼い霊夢を護ろうと、身を挺したあの夜の胸騒ぎ。結果から言えば、戦いですらなかった。
「こんなやつ、さっさと片付けてしまうから、あなたは神社から一歩も出ないで。分かったわね、霊夢。」
妖怪避けの結界の外に出歩いてしまった霊夢を殺そうとした一撃の身代わりになり、致命傷を負った母は、息も絶え絶えに霊夢を結界の中へと押し込み、
霊夢が大人しく神社に引っ込んだのを見届けると、最後の力を振り絞って九尾の式神を使役しようと試みた。しかし。命の灯火が消えんとしている者に
それほどの式が扱えるわけもなく。彼女の母親は、妖怪の前にその身体を差し出すこととなった。
霊夢の母を殺した妖怪がその亡骸を貪らんばかりに近づいたその途端、後ろからやってきた新たな妖怪に頭半分をすっぱりと吹き飛ばされた。
「・・・ごめんね、間に合わなくて。あなたの事、私がずっと憶えておくわ。・・・藍、ご苦労様。」
「力及ばず申し訳ありませんでした、紫様。」
彼女が使役しようとして、ついに叶わなかった九尾の式が、のた打ち回る妖怪を蒼白い火炎で焼き払った。一片の肉片も残さずに、一瞬で灰と化す。
「さて・・・と。あの子は、どこかしらね。」
紫は霊夢の母親の亡骸を抱き上げ、静かに神社の結界をすり抜けた。
「あぁもう、こんなんじゃ眠れやしないわ全くっ!!」
がばりと飛び起きて、外へ飛び出す霊夢。目的地は云わずと知れた、稗田の屋敷である。
空は月食。嫌な予感がした。こんなことなら、私も稗田の屋敷に泊まるべきだったのだ。
どうして、あんたがお母さんに重なるのよ・・・!冗談じゃないわ、あんたまで死なせたりしない。博麗の名にかけて。
稗田の屋敷の門前に辿り着いた霊夢は、自分の犯した重大なミスに気づいた。
「あは・・・あははは・・・。」
がくりと膝をつき、拳を地面に叩きつける。ここ一番で致命的なミスを犯すなんて、あの日からまったく成長していない。
異常なほど濃い妖気を発している稗田の屋敷を目前にしながら、幣、御札、陰陽玉、スペルカード、封魔針。
どれ一つ、携えてこなかった。それでも、これで諦めるわけにはいかない。武器がないなら、巫力を込めた拳骨でぶん殴って戦うことになってでも、阿求を守る。
「阿求!!」
壊れんばかりの勢いで襖を開け放つと、果たして阿求と幽香がそこに居た。思ったとおり、この強烈な妖気は幽香のものだ。そして、幽香の様子がおかしい。
うずくまるようにして頭を抱え込み、唸り声をあげている。阿求はどうしたら良いのか分からずに、おろおろするばかりだ。
「幽香、しっかりして。私が分かりますか!?」
「阿求、そいつから離れなさい。後は、私が。」
阿求を半ば強引に引き剥がし、幽香を見下ろす。それまでうずくまっていた幽香が、ゆらりと立ち上がった。
「・・・どきなさい。阿求は私の物よ。」
「あんた、誰?幽香じゃないわよね。何者なのよ。」
両手に巫力を湛えながら、霊夢が睨みつける。幽香はケタケタと肩をゆすって下品に笑うと、爛々と光る紅い目を見開いた。
「私?さぁね。自分の名前なんて忘れちゃったわ。どうでもいいもの。それより私は、強い身体が欲しいのよ。
この妖怪だったら強い身体が手に入ると思ったら・・・まるで駄目ね。完全に力が弱まる月食以外じゃ、こっちが押さえ込まれちゃうだけだったわ。」
「そう。要するに、悪霊なのね。なら、話は簡単―祓って終わりよッ!!」
拳で殴りかかる霊夢。しかし幽香は可笑しそうに不気味な笑いを浮かべると霊夢の腕を捕らえ、更に思い切り握った。
「ぅ・・あぁぁぁぁ・・・。」
みしみしと骨が軋み、苦痛に霊夢の顔が歪む。
「うふふ、お馬鹿さん。こっちの肉体は、あなたなんかより遥かに強いのよ。敵うわけ、ないでしょ?」
ぱっと手を離し、目にもとまらぬ早業で鳩尾を突く。霊夢はなす術無く、崩れ落ちた。それを見届けると阿求に向き直り、にやっと哂う。
「さてと。それじゃ、まずはあなたの魂でも頂こうかしらね。そうすれば、こんな自我の強い身体でも夜くらいは思い通りに動かせそうだし。」
「幽香・・・。」
阿求は臆することなく、幽香をじっと見つめた。揺らぎの無い視線に射抜かれた幽香が、歩みを止める。
「ぐっ・・・生意気な・・・大人しくしていれば、いいものを。」
その時。阿求の頭の中に、声が聞こえた。幻聴、と片付けてしまう事もできたかもしれない。声は言った。
今だ。幽香を助けたいんだろう?彼女の身体に触れろ、と。
迷いは無かった。何故だか分からないが、阿求はその声を信じる気になったのだ。静かに歩み寄り、膝をつく。
苦しむ幽香の頬にそっ、と触れた。
「そのまま、放すんじゃないぞ。」
幻聴ではない、はっきりとした声が聞こえた。勿論、阿求はこの声の主を知っているはずもない。
が、幽香の背から、煙のようなものが立ち昇り、まさしく悪霊と呼ぶに相応しいような醜い怪物を形作っていった。
そしてもう一人、その怪物の首根っこを掴んで宙吊りにし、喉元に三日月型の刃を突き立てている者があった―魅魔である。
「悪霊にしちゃ、少しは賢かったね。お前さんは多分、同じく幽香の妖力が極端に弱まる新月の夜にあいつにとり憑き、
自分の意のままに操ろうとしたんだろ。だが、できなかった。何故かって?幽香の妖力が強すぎたからさ。そこでお前さんは、
巫女に祓われないように、自分の気配を隠すことに徹した。月食が来る前に巫女に祓われちゃ、今までの努力が水の泡だからね。
そして、月食の夜。そう、今日の事だ。お前さんはどの道、人間狩りでもしようとしたんだろう。蛇の道は蛇ってね。私がお前さんなら、そう考えるさ。」
だが、と魅魔は阿求に視線を投げかけ、直ぐに元に戻した。
「襲う相手が悪すぎたね。残念ながら、悪霊のよしみで見逃してやるなんてわけにも行かないんでな。そういう訳で―閻魔によろしく伝えとくれ。」
その言葉と共に、魅魔は怪物の喉を掻ききった。耳をつんざくような断末魔がひゅうひゅうとした弱々しい呼吸に変わり、消滅する。
「あれぐらいのやつ、自分でどうにかできたんじゃないのかい?私をこき使うことないだろう。」
魅魔はくるりと振り返って、霊夢を見やる。霊夢は腹部を擦りながら恨めしそうに魅魔を見返した。
「忘れ物だらけだったのよ。今日が月食だったのは誤算だったけど、一応あんたを阿求に付けておいて正解だったわ。ご苦労さん。」
「全く、悪霊に悪霊を祓わせるなんぞ、とんだ巫女もあったもんだ。」
くつくつと魅魔が笑う。
「こっちは魔理沙にしょっちゅう振り回されてるんだから、これくらいしてもらわなきゃ、割に合わないわ。」
「あの子は元気にやってるかい?まあ、予想はつくがね。」
「こっちが困るくらいに元気よ。迷惑してるわ。お賽銭は入れないし、お茶は勝手に淹れて飲んで行くし。」
「知ってるさ。全部見てたからね。」
「止めなさいよ。」
「おいおい、悪霊に泥棒退治までやらせるのは筋違いってもんだろう。ともかく、私の用は済んだんだ。一足先に帰らせてもらうよ。」
魅魔が煙になって消えた途端、阿求の懐にあった三日月のペンダントが砕け散った。
「あ・・・。」
阿求の声に、霊夢は再び後ろを向き直った。幽香が目を覚ましたらしい。
「阿求・・・大丈夫?怪我は、ないかしら?」
が、その声は酷く弱々しく、消え入りそうだった。
「ええ、大丈夫です、ありがとう。」
「そう・・・よかっ・・た・・・。」
「幽香・・・?」
幽香はぐったりしたまま、阿求の腕の中で目を瞑る。
不意に、障子がばん、と喧しく開けられ、屋敷の使用人がなだれ込んできた。
「阿求様、ご無事ですか!?その者はやはり、阿求様の御命を狙っていたのですね。」
「おお、巫女殿がいらしてくれていたとは、阿求様を救っていただき、感謝の言葉もありません。」
「勘違いしないで頂戴。幽香はただ、悪霊に憑かれていただけ。そして、その悪霊はもう祓ったわ。
慧音と、それから霊感の強い者で、血を提供しても良い、という人をできるだけ多く連れてきてもらえる?」
霊夢は幽香を抱き起こして布団に寝かせながら指示を下した。が、屋敷の者たちは怪訝そうな顔をするばかり。
「一体何を、なさるつもりなのです。」
「決まってるでしょ。助けるのよ、幽香を。」
「なんと、なんと。このような野蛮な妖怪を、助けると申されるか。」
「ええそうよ。今回の件、幽香が望んで引き起こした事態じゃないもの。」
「待って頂きたい、巫女殿。仮にそうだとしても、この者が阿求様を危険に晒した事、まかりなりませぬ。然るべき罰を与えるべきで―」
「待ってください。私はそのような事、望んではいません。」
阿求の声に、静寂が訪れる。
「あなた方にも、お話しておくべきことなのでしょう。私が幽香に出会ったのは、この春のことでした。」
しん、と部屋は静まり返ったまま。阿求は続けた。
「あの時、勝手に屋敷を抜け出して皆さんにご迷惑をおかけした事は、本当に申し訳なく思っています。
あの日、私は霊夢さんに連れられて帰ってきました。それまで何をしていたかというと、
彼女と、向日葵畑で他愛の無い話をしていたんです。その時は、彼女が妖怪だとは知りませんでした。
ですが、彼女が妖怪だと知った後も、恐怖心は皆無でした。何故でしょう。彼女が、とても優しいひとだと感じたからです。
実を言うと、向日葵に見とれている内に、身体の調子が悪くなってしまって・・きっと日の光に当たり過ぎていたんですね。
頭がくらっとして、倒れてしまいました。そのまま放置されていたら、熱に浮かされて命が危なかったと、お医者様に言われました。
私が次に目を覚ましたとき、そこは相変わらず向日葵畑でしたが、私の真上に、丁度日陰になるように大きな蕗の葉が生えていました。
私が起き上がると、不意に横から、でもそっと、果物を差し出してくれた人がいました。それが、幽香だったんです。」
阿求は言葉を切り、床に手をついて丁寧に頭を下げた。
「お願いです。彼女を見捨てないで下さい。命の重さは、人間であろうと妖怪であろうと関係ないはずです。」
「しかし、阿求様。」
「しかしもへったくれも無いわ。大体ね、ついこの間、里の人間が霊にとり憑かれたって大騒ぎして、
真夜中に駆け込んできたのは何処のどちら様?巫女の私がこう言うのも変だけど、何の抵抗もできずに暴れまわってたあんたらより、
阿求を傷つけまいと頑張ってた幽香の方が褒められたもんだわ。霊的な力とか、そういうものじゃないの。意志の強さなのよ、結局。
幽香は、最後まで諦めなかった。私が来るまでは絶対に自我を失うまいとしてた。除霊に手間取ったのは、私のミスだけどね。でも、阿求は無事。
その阿求が幽香を助けて欲しいって言ってるんだから、それでいいじゃない。どうしてそこまで、妖怪だからって憎めるのかしら。私には分からないわ。」
「・・・。」
使用人達は、微動だにしない。ある者は、霊夢を道化師でも見るかのような目で睨んでいる。
それら全てを無視して、霊夢はもう一度幽香の身体を抱き起こし、その胸に耳を当て澄ます。
「―まずいわね。妖力の回復が見込めない。もう、とやかく言っている場合じゃないわ。あんたらが出来ないって言うなら、私がやる。」
霊夢はきっぱりと言い放ち、床の間にあった花瓶を手に取り―
がちゃん、と叩き割った。そして、その破片を手に取り―
「霊夢さん何を!?」
「もう、これしかない。」
すっぱりと、自らの手首を切った。
「あなたが、博麗霊夢ね。」
「お姉さん、だーれ?お母さんは?」
「ごめんなさいね、霊夢。あなたのお母さんは・・・死んでしまったわ。」
冷たい現実を突きつけられた。それは余りにも唐突で、霊夢は一瞬、紫の言葉が理解できなかった。
が、紫が彼女の母親の亡骸を彼女の目の前にそっと下ろすと、霊夢は母の身体に触れ、それが冷たい事で本能的に悟った。
―優しかった大好きな母は、もう居ないのだと。
その日、八雲紫は博麗霊夢の母に代わり、霊夢を育て上げる決心を固めたという。
「・・・あなたの形見、大切にするわ。どうか、霊夢の成長を見守ってあげてね。」
泣き喚く霊夢を他所に、九尾の式を記したヒトガタに向かって語りかけた。
紫からは、ありとあらゆる事を教わった。生活一般については勿論のこと、巫女として生きる上で必要不可欠な知識もだ。
巫力の使い方、妖怪についての知識、妖怪の殺し方、そして―妖怪の身体の事。
「どうして、妖怪の治し方なんか知らなきゃならないのよ。巫女の仕事は妖怪退治でしょうに。」
「知っておいて、損は無いでしょう?それにね霊夢。巫女だから妖怪を退治しなくちゃならない、という考えは違うと思うわ。」
「―」
紫は果たして、見通していたのか否か。博麗霊夢は、幻想郷にスペルカードルールを確立した。
ここに、人間と妖怪の間を取り持つ安寧秩序は一応の形ではあるが、創り上げられたと言ってもいい。
結果、どうなったか。相変わらず人里の人間たちは妖怪を恐れているし、妖怪は人間を襲う対象と見ているが、
少なくとも、霊夢の元に来る妖怪退治の依頼はぐっと減った。知能ある妖怪達は、ある程度のところで折り合いをつけて人間と共存する事を選んだ。
そして霊夢は時に、傷つき斃れかかっている妖怪を救ってきた。それが、今日の幻想郷における巫女の在り方なのだと信じて。
妖怪の妖力が流出し続け、回復しないということは即ち、死に近づいているに等しい。
殆どの場合は、そんな状態になるということは最早、肉体の損傷が酷く命もあと僅か、助かる見込みは無いのだが、幽香は違う。
だが、危険な状態である事に変わりはなかった。長い間じわじわと妖力を搾取され続け、それが限界を超えてしまい、医術で言えば
脱水状態のような危機に晒されている―それも、かなり重度である。今思えば、兆候はあったのだ。いくら眠っても疲れが取れない、
眠気が醒めない。妖力不足を補おうと身体が休息を求める事から来る症状だった。では何故、今夜急に。
風見幽香という妖怪は、昼も夜も活動できるという点で特殊な妖怪だ。昼は太陽光、夜は月光によって妖力を蓄える事が出来る、
という身体の造りをしていた。そのお陰で、彼女は丸一日妖力の供給を受けられる状態にあったから、今までは何とか持ち堪えてきたのだ。
しかし、今夜は月食。太陽光も、月光も満足に届かないとあっては、妖力が得られないのだ。搾取され続けて限界に来ていた彼女の肉体は、
己の内に妖力を留める術を失ってしまった。このような状態に陥ってしまうと、自分の知る限り対処法は一つしかない。
―即ち、霊力の強い人間の血、または妖力を含む妖怪の血を飲ませて足りない妖力を補う、というものである。
博麗の血は確かに強い霊力を持ち併せている。が、霊夢が提供できる血液量で、果たして足りるか、という所だった。しかし、こうなっては迷っていられない。
あなたに教わった事は、何一つ無駄ではない。そうでしょう?紫。幻想郷を見守る、胡散臭くも慈悲深い賢者よ。
無理やり口をこじ開け、自らの血液を流し込む。幽香の白い喉がこくこくと嚥下するのを見て、僅かに安堵した。意識はあるようだ。
「しっかりしなさい。あんたが死んだら、阿求の面目は丸潰れよ。」
「どう・・して。あな・・たは・・・そこま・・で・・・。」
朦朧とした様子で、訊ねる。霊夢は黙ったまま、傷口を直接幽香の口へ押し付けた。幽香も霊夢の意図を理解したらしく、大人しく従う。
「・・・お願いです。どうか、どうか。」
阿求が再び、頭を下げる。お顔を上げてくださいと使用人達は口々に言うが、阿求はてこでも動かない。
「・・・分かりました。阿求様がそこまで入れ込んでいらっしゃる方です。
私はその御方を詳しく存じませぬがさぞや、御立派なのでしょう。皆の者!これ以上我らが主に恥をかかせるでない!
他の皆が反対しても、私は上白沢先生を呼びに行く。阿求様の事を想うのであれば、巫女殿の御指示に従え!良いな!」
白髪の老人が使用人達を一喝する。鶴の一声で、使用人達は堰を切ったようにばたばたと駆け出した。
使用人達が慌ただしく外へ出て行った後、阿求は幽香の手を握りながら唯ただ、うわ言のように呟く。
「ありがとう、妖忌。ありがとう・・・。」
一刻が過ぎた。慧音が到着し、数名ではあるが血液を提供しようと、名乗り出た者もいた。
しかし幽香が必要とする妖力は余りに大きく、霊夢と交代して血を分け与えた慧音、それに数名の人間達の血も、
今の幽香には雀の涙でしかなかった。あらゆる手を尽くして、それでも駄目だと感じた霊夢はただひたすらに、己の無力を嘆いた。
阿求だけが、諦めなかった。彼女を救ってくれるひとが今に現れると言わんばかりに、つきっきりで幽香を看ている。
病弱な阿求の頬は赤みが差し、少し咳も出てきた。妖忌が交代を申し出ても首を縦に振らず、大量の血を摂取した事で熱っぽい幽香の額に、
冷水に浸した手拭いをそっと置き、それが温くなっては再び冷水を張った桶に手を突っ込み、絞っては再び額に戻す。
―そうよ。阿求が諦めてないのに、私が諦めてどうする。眠ってはいるがまだ、幽香は死んでない。
―まだ、あなたから教わった全てを出してない。
脳裏に八雲紫の包み隠すような笑みがよぎる。今まで成功した事は無かった。が、試みもせずに出来ないと決め付けるのは愚の真骨頂。
霊夢は静かに正座し、強く祈った。いい加減な止血処置を施した傷から、ぽたぽたと畳に赤黒い染みが生まれる。
―神様。風見幽香を、稗田阿求の初めての親友を、どうかお助け下さい。
大きな物音ひとつ立てず、阿求を除く誰もが霊夢を見つめたまま、半刻が過ぎた。もう、駄目なのだろうか。幽香の呼吸が、荒々しく、息も絶え絶えになってきている。
半泣きになりながら、それでも尚、祈り続けていたその時だった。
「こんばんは。・・・今度はちゃんと、間に合ったかしら?霊夢。」
声の主は、八雲紫。いつもの胡散臭い笑いではなく、穏やかな柔らかい笑みを浮かべている。嗚呼、なんだろうか、苛立ちと安堵が入り混じった、この感情は。
「遅いのよ。馬鹿ぁっ・・・!」
霊夢は母を失って以来十余年あまり。それまで一度も人前で見せた事の無かった涙が止め処なく溢れ、啜り泣いた。
紫の処置には一切の無駄が無かった。苦しいだろうからと、応急処置で飲ませた人の血を吐かせてしまうと、
式神・八雲藍と何事か相談した後、ヒトガタに何やら書きつけ、今度はそれを幽香の口に突っ込み、強引に嚥下させた。
阿求らが緊張した面持ちで見守る中、紫は事も無げに「はい、これで大丈夫です。」と宣言した。
翌日、暁光を背にして紫は起き上がった。
「妖力の回復が確認できるまで暫くは、私の式神で居てもらうわ。心配しなくても、良くなったら直ぐに式は破棄する。」
「・・・今回ばかりは感謝してるわ。ありがとう。」
幽香は眠たげに枕に顎を預け、うつ伏せに寝転んだまま。隣では阿求が静かに寝息をたてている。昨晩幽香の額にのっていた手拭いは、いつの間にか阿求の額にのっている。
「それにしてもあなたを使役するのは大変ねぇ。妖力の消費が激しすぎて、藍の比どころじゃないですわ。」
自分で式神にしておきながら、紫は面倒くさそうに大きな欠伸を一つ。幽香は軽く睨んでみせた。
「悪かったわね。命令なりなんなり、下してくれて結構よ。」
「そう、じゃあ早速命令を下すわよ。あなたには、これから暫く阿求の御守をしてもらうわ。」
「それはできないわよ。」
「あら、どうして?」
「あんな事があった後じゃないの。しかも事を引き起こした張本人が堂々と阿求の傍に居られるわけ、ないじゃない。」
「堂々としていればいいのよ。この件は、あなたのせいでは無いでしょう?それについては、霊夢がとりなしてくれる事になっているから。」
「酷な事を言うわね。そんなに楽しい?」
「えぇ、風見幽香ともあろう者が、たかが人間一人を殺しかけた程度でおどおどと縮こまっている様、傍から見ていてとても滑稽で面白いわ。」
「最低ね。」
「いいじゃない、殺しかけたって。どうせ長い命じゃないわ。燃え尽きかけた蝋燭のような灯火よ。どうせなら、派手に燃やしてあげなさいな。」
―そこまで言うのなら。何かの間違いで阿求を殺してしまっても、文句は言わせない。どうせ、紫が止めるだろうから。
「いいわよ。どうなっても知らないけど。」
幽香は立ち上がり、荒々しく廊下を歩き去っていった。何処へ行くの、という紫の問いかけに、散歩、と短く答えて消えた。
「そういうわけだから、阿求。あのじゃじゃ馬と仲良くしてやって頂戴。」
スキマに腰掛けて、紫が阿求に向き直る。途端、阿求はぱちりと目を醒ました。
「なんだ、やっぱりばれてたんですね。」
「狸寝入りなら飽きるほど見てきましたから。では、ごきげんよう。」
紫はふっと背を後ろに倒し、頭からスキマに倒れ込んで消えた。
霊夢は日の出を眺めながら、ぼうっと座っていた。自分は果たして、神通力を使う事に成功したのだろうか。
「あれは、神通力と言うより、妖通力だったわね。私に助けてって思念が届いたから。」
「あんた、いつからそこに・・・。」
「たった今、よ。私と話したいって、思ったでしょう。」
「それは嘘ね。思ったけど。」
「ねぇ霊夢。そんなに気負う事ないのよ。」
「だって紫。あんたに習った事、何一つ満足に―」
「私が何時、あなたを一人前の巫女として認めたかしら。結果として幽香は助かったし、里にも被害は出ていない。上出来よ。」
「人里での私の評判は堕ちる所まで堕ちたんでしょうね。」
「そうかしら。元々大して良くない評判だったもの。今更変わらないでしょう。」
冷めきった茶を啜りながら、酷いやつだと思う。まぁ、紫に慰めて欲しくてそんな事を言ったのではないけれど。
「そう。これで少しはあいつも、人間に接しやすくなるんじゃない?」
「永く生きていると、必然的に孤独になってしまうものね。そういう意味では今回の件、彼女には幸運だったのかも知れないわ。」
「あんたは?式神がいるだけで孤独に苛まれなくなるものなのかしら。」
「そうねぇ・・・霊夢が居るから寂しくないわ。」
「嘘吐き。」
「本当よ。じゃあ、またね。」
「ええ。ありがと。」
「一つ、忘れていたわ。」
スキマから半身を乗り出し、霊夢の手首に右手を添えると、包帯の下にあるはずの切り傷は綺麗さっぱりと消えていた。
「そんなものが無くても、あなたが人間であろうと妖怪であろうと分け隔てなく接している事は百も承知。
業はまだ未熟だけれど、立派な博麗の巫女よ。幻想郷の賢者として、誇りに思いますわ。」
それだけまくし立てると、紫はするっとスキマに滑り込んだ。
日の光に照らされて、幽香は大きく伸びを一つ。暴れるように爛々とした妖光を湛えていた真紅の瞳は、落ち着きを取り戻していた。
今まで紫に補われていた妖力の他に、僅かに自分の内からふつふつと活力が沸いてくるのを感じていた。
この分なら、紫の式で居る必要も間もなく、無くなるかもしれない。どうせあのスキマは、見越していたのだろうけれど。
全快したら、阿求を連れて出かけようか、などと思う。阿求がまだ知らぬ世界を、見せてやりたい。夢幻館にも顔を見せに行こう。
魔界、は・・・危ないといえば危ない気もするが、彼女が望むのなら連れて行こう。
自分でも驚くほどに、様々な計画が浮かんでは消えてゆく。これほどまでに、自分は孤独で飢えていたのだろうか。
借り物の浴衣を羽織ったままで草履を履き、からからと屋敷の外へ出る。門の所で、うっすらと記憶している白髪の老人に出会った。
「昨日は、騒がせてしまってごめんなさいね。」
「いいえ。阿求様は人一倍、繊細なお方。故に、私どもも敏感になっていたのでしょう。
こちらこそ、申し訳ない。差し出がましいようで恐縮ですが、この老いぼれの頼みを聞いて頂けますかな?」
「何かしら。」
「阿求様はご存知の通り、お身体があまり丈夫ではありません。かといって私は、お屋敷で唯物静かに過ごされるのは、
毒だと考えます。幽香殿、私どもは阿求様を外にお連れして、楽しんで頂く術を存じません。どうかその役目、お引き受け頂けませぬか。」
幽香は何も言わず、黙って頷いた。
「かたじけない。阿求様の事、よろしくお願い申し上げます。」
私がこの老人の頼みに頷いたのは、決して人に頼まれたり、紫に命じられたからではない。
―転生して、妖怪について記す、それが稗田の役割です。これじゃ、何の為に生きているのか分からないですよね。
そんな台詞を聞く度に、幽香は思う。生きる意味なんて、死ぬ時に分かるものなのではないのだろうか。
そして同様に、私が阿求の事を頼まれてそれを承諾したのも、単に阿求という雪割一華を見守りたいと思ったからに過ぎないのだ。
生きる意味が分からないというのなら、私が与えてやる。私が育てる以上は、決して若くして枯らせたりはしない。だから、安心なさい。
私の恩返しはこれから。私を救ってくれた、魅魔に、霊夢に、里の人間達に、白澤に、そして・・・阿求へ。
―本当に、ありがとう。
了
とはいえ、ちょっと捻るだけで原作とこじつけられたのではないか、という部分もあり。
実際そうしてる作品の方が多い。合わせられるところは合わせた方が、違和感がなく仕上がる。
題材は悪くないが調理が荒削り、かつ直接的過ぎてあざとく、鼻につきやすい。
もそっと展開や構成で暗示する工夫をしてみてはどうだろう。
まあ作者さんの書きたい世界がありのままに書けるなら、無理に原作とこじつけたり合わせたりする必要はないと思いますよ。
ちゃんと原作は踏まえているみたいだし、注意書きもあるし、十分二次創作の範疇かと。
たまに読み直してます。そして、東方ではありませんが創作の手本にもしてます。
それほどに気に入ってます。久しぶりに読み直してやはり素晴らしいと思い、この作品と出会えた機会を与えてくれたことを感謝したいと思いました。
ありがとう。
もっと評価されるべきなんだがな