はじめに。
一部、勝手な設定が含まれています。
あらかじめご了承ください。
1
さいきん、美鈴の元気がない。
チルノは赤い長髪の女性を遠巻きに眺めながら、そう思った。
チルノの住まう湖から、そう離れてはいない館。館は、吸血鬼である主の「スカーレットデビル(紅い悪魔)」に恥じない紅をその身にまとい、いかにも屈強でいかめしい塀に囲われている。塀に備え付けられた門の前に、「龍」という文字の刻んである帽子を被った女性の妖怪がいた。その妖怪こそ美鈴――本名は紅美鈴といった――だった。
門に近づいて美鈴に声をかけよう、チルノはそう考えていた。チルノは館のそばで乱立する雑多な木々のうちのひとつ、他の木と比べれば太い幹の陰に隠れていた。別段、隠れる必要はないように思われた。だがどうしてか、本人は意識せずとも隠れている。……まずは声をかけて、それで、わらって、それでたぶん、もう大丈夫。声をかければ「大丈夫」になる予定なのだが、自身がない。何日か前、声をかけてみたものの、ろくな返事が返って来ないということがあった。チルノはそのときにはなんと言葉をかけたのか思い出すことができないが、ただ相手にされなかったという強烈な記憶が彼女から自信を失わせていた。もしかしたら、そのときかけた言葉を思い出すことができれば今日は上手くいくかもしれない。木の陰でうずくまり、頭をかかえ、先ほどより幾度となく思い返そうとはしている。しかしまったく思いだせない。思い出すとっかかりのようなものさえ浮かばないのだから、もう無理なのかもしれない。
まだチルノが紅い館の門の前に立つ妖怪と親しくなかった頃――顔見知りでさえなかった、何年か前――いいやその数え方では語弊が生じる。言葉を付け加えねばならない。そう、付け加えるならば「妖怪にとって」は何年か前(よりいっそう正確にわかりやすくするならば、「五十年ほど前」)――天候に囚われずに毎日のように門の前に立つ美鈴に、チルノは興味をおぼえて近づいた。そしておずおずと訊ねた。
どうしていつもそこにいるの?
美鈴はとびきりの微笑みを見せて、答えた。
門番だからですよ。
チルノはその笑顔を見ただけで嬉しくなった。美鈴の周りを蝶のようにひらひらと飛び跳ねたい気持ちでいっぱいになった。
モンバンってなあに?
外からやってきた悪いやつらを、エイッ、ってこらしめるんです。
美鈴は左右の拳を交互に前方へと突き出して見せた。エイヤァッ。
カッコイイ!
チルノは美鈴のことがイッパツで好きになった。以来、幾度となく館に足を運ぶようになった。
館に入ろうともせず、門の前で遊んでくれとせがむチルノに、美鈴は嫌な顔ひとつせずにつきあってくれた。
チルノは妖精だった。幼稚ないたずらをしてはけらけらと無邪気に笑う、氷の妖精。
頭が悪い、とチルノは多くの妖怪から蔑まれているが、だいたいにおいて妖精の知能はそれ程高くはない。チルノは妖精のなかでは力があり、あるいは他の妖怪のように目立っていたため、周囲からは頭が悪いと思われがちだった。ただ、どこの世界においても「頭が悪い」というのは決して知能の高さを示すものではない。つまりそれは妖怪共がチルノを、同等とは言わずとも妖精以上の存在であると無意識的に認めている証であった。だが、それでも妖怪や人間と比べれば、確かにチルノは頭が悪かったのだが……。さて、美鈴がそこまで考えているかといえばそれは本人にしかわからない。考えていたかもしれない。考えてはいなかったかもしれない。しかしそれらは些細なことだった。いいや、どうだったいいことであったと言っても差支えはない。なんとなれば、チルノにはそれらが理解できないからだ。チルノは自分が馬鹿にされると悲しくもなるし、嫌な気持ちにもなる。だが、それだけだ。もしかすると次の瞬間には楽しいことが待ち受けているかもしれない。つかの間の負の感情など気にしている暇はない。
だからなのかもしれない。チルノには、美鈴の悲しみを理解できない。この頃の美鈴が元気のない理由は、おそらく悲しんでいるせいだろうとチルノは見当をつけている。
美鈴が悲しんでいる理由をチルノは知っていた。だがチルノには、その悲しみの深さを理解できないでいる。どうしてそこまで悲しむ必要があるのかわからない。
チルノの視点から、美鈴と出会ってからの五十数年間を描き、また、美鈴が悲しむと思われる理由をまとめると下記のようになる。
一、美鈴と出会う
二、遊ぶ
三、美鈴に人間の友達ができる。美鈴はその友達をコイビトと言った
四、美鈴とコイビトと遊ぶ
五、コイビトがいなくなる
六、美鈴が悲しそうになる
以上のことくらいしかチルノは覚えていない。むろん、遊んでいたときの楽しかった思い出や、コイビトの顔は覚えている。だが、その時々の感情を深く思い出すことはできない。たしかにコイビトがいなくなったのは、チルノにとっても悲しいことだった。だが美鈴の悲しみの量はチルノのそれとは比べ物にならないほどだった。あまり相手の感情を読めないチルノにさえ、それが痛々しいほどに伝わっていた。
たしかに、コイビトがいなくなったことはとても悲しい。だが、悪いやつらをエイッとこらしめられるような、とてもとても強い美鈴が、どうしてそこまで落ち込むのだろうか。チルノにはそれが理解できない。もしかしたら、コイビトはまた美鈴とチルノのまえに現れるかもしれないではないか。そうすればまた、きっと楽しい日々がやってくる。そうだ、きっとやってくるのだ。
チルノは美鈴を元気にさせようと心に決めた。
自然の一部である妖精のチルノには、死という概念が理解できない。
2
妖怪の美鈴ではなく、また、人以外の存在としての美鈴でもなく――ひとりの相手、ひとりの女性として、紅美鈴という存在を愛した男は死んだ。寿命だった。仕方のないことであった。美鈴は悲しみに明け暮れた。まるで置いてけぼりにされたかのようだった。どうして彼はいってしまったのか。どうしてわたしはこんなにも長く生きるのか。自殺という愚かな考えは美鈴の頭にはなかった。それは彼を愚弄することでもあったからだ。彼は天命をまっとうした。それを誇りに思い、己もまた、いってしまった彼に誇られるように命の限りを尽くさねばならない。それは死んだ彼に対する慈悲からくるものではなかった。自尊心からくるものでもない。生ある者としての務めだった。
まだ彼が生きていた頃。刻一刻と老いてゆく彼に美鈴はどうしてやることもできなかった。人里にいた彼は妖怪と深い関係を持つ者として、親族からは除け者にされていた。妖怪と付き合う者は何人かはいたが、深い関係を築き上げた者は少ない。美鈴自身、守るべき館の主からは馬鹿にされた。だが彼の立場に比べればどうということはなかった。彼が辛酸を嘗める思いであったろうことは容易に知れた。それでも彼は、己を愛してくれていたと美鈴は心身共にひしひしと感じていた。美鈴はまさに生涯をかけて愛されていたのだ。そしてそれは美鈴にとっても同じ――となるはずだった。
ひとと妖怪の流れる時間は、致命的なまでに異なっている。
それを美鈴は思い知らされた。まさか妖怪である己が思い知ることになるとは一片たりとも予期したことなどなかった。
その深い悲しみは癒えることなどないように思われた。
3
チルノは意を決して美鈴へと近づいた。しばらくのあいだ長身の美鈴の足元で、彼女を見上げていた。赤髪の門番はまるで気が付いていないかのように、前ばかりをしかと見据えたまま動かない。もしかすると本当に気づいていないのだった。
チルノはおずおずと口を開いた。
「こんにちは美鈴。遊ぼう?」
美鈴は足元で己を心配そうに見上げる、人間の童女のような氷精を見て驚きの表情を浮かべた。本当に気が付いていなかったようだった。が、すぐに微笑んだ。
「こんにちは」
チルノは不安になった。その微笑みには影が射しているように感じられたからだ。だがその影はすぐにかき消えた。
「なにをして遊びましょうか」
美鈴がそう言うのでチルノは嬉しくなった。なんだもう元気じゃないか。ぜんぜん、平気だ。
なにをして遊ぶのか、それを選ぶのは美鈴の担当だった。チルノの担当と言えば、美鈴を遊びに誘うことであり、もっぱら一番に遊びを楽しむ役である。それはコイビトがいるときも変わらなかった。だからチルノは美鈴が遊びを指定するのを待った。
「そうですね、なにをして遊びましょうか……」
だが美鈴はそう言ったまま、深く沈み込むかのように沈黙してしまった。またもや心配になったチルノは、服のすそをくいと引っ張った。
「なんでしょう?」
美鈴は己の顔をチルノと同等の高さに合わせるようにして屈み、微笑んだ。今度のそれは、剣呑な思いをするには至らなかった。チルノは首を左右にふった。
「ううん、なんでもないよ。それより、なにして遊ぶの?」
「それでは、隠れ鬼なんてどうでしょう」
それは名案だった。チルノは隠れ鬼が大好きだった。ひとりのときはカエルを凍らせる遊びが大好きだが、ふたり以上で遊ぶときは隠れ鬼や鬼遊び、怪獣ごっこや悪党退治が大好きだった。なにより隠れ鬼はそのなかでも一番に大好きだった。鬼に見つからないように隠れ、じっと待っているあいだのあのドキドキとする感じといったら他では味わうことなど出来るはずもない!
「わかった! じゃああたい、隠れるね」
「わたしはこれから数をかぞえますよ」
チルノは館のそばに生える多くの木々のうち、もっとも太い木を選び、その陰の下生えに頭から突っ込んで隠れた。ここはチルノが隠れ鬼をする場合においてよくかくれる場所であり、彼女にとってはここが最も隠れるに値する場所であった。
ややあって、チルノは鬼が探しに来た気配を感じ取った。チルノはドキドキし、同時にワクワクしていた。楽しかった。
夕方になった。チルノは何度か見つかった。毎回同じ場所に隠れたのが悪かったのかもしれない、そう思った。あの場所は最高だが、きっと、それ故に誰もが注意する場所なのだ。今度やるときはもう少し工夫しなきゃいけないな。
4
美鈴がチルノと出会い、さらに彼とも出会ってから何年か後のこと。
チルノを馬鹿にする者は多かったが、美鈴は小さな彼女を好きだったし、彼もチルノのことを可愛らしいと言っていた。その言葉は心からのものだったと美鈴は信じている。
彼と出会ってから、美鈴は彼との時間を大切にしていたが、彼とチルノとの三人で過ごす時間も好きだった。家族のようだった。それは、美鈴と彼とのあいだに子どもが生まれなかったためかもしれないし、そうではないのかもしれない。ただ、美鈴はチルノのことを娘のように思ったことは一度たりともない。むしろ妹のような存在だった。手のかかる、愛らしい妹――美鈴はチルノのことを彼にそう言ったことがあった。むろん、その言葉のひとつひとつがすべてにおいて良い意味である。手のかかるという言葉は、時として素敵な意味合いを含む。
彼は農夫だった。彼は人間の里の隅で己のちいさな田畑を管理していた。元々は里のなかでも一、二を争う大きさの田畑の持ち主であり、親族とともに管理していた。だが、美鈴と関係を持つことにより村八分と同様の扱いを受けた。そして住居や、管理する田畑を他に移すことを余儀なくされたのだった。
美鈴とチルノは何度か彼の働く姿を見たことがあった。うなじに薄汚れた手ぬぐいをかけ、泥だらけの手で額の汗をぬぐう姿が印象的だった。どうやらその姿は、無邪気な妹にしても印象的であったらしい。
三人で行楽へと出かけたことがある。村の外れで休息をとっているときのことだった。あたりは一面の野原であり、遠くに見える山の木々以外、なにもないかのようであった。チルノはなにか作業に打ち込みはじめ、美鈴と彼はその姿を見守っていた。チルノが作業をはじめると周囲の草花がざわざわと揺れた。だが風は吹いていないし、草花の陰になにか動くものがいるようにも見えない。風もないのに揺れる、草花の中心にいる愛らしい童女――その姿は非常に幻想的であり、美鈴はその姿に見とれた。
チルノははじめ、小石のような氷の粒を作り出した。その氷の粒を次第に大きくさせ、最終的には美鈴や彼とほとんど同様の高さの氷塊に仕立て上げた。彼は、おおっ、と感嘆の声をあげた。チルノはさらにその氷塊を少しずつ削り始めた。彫刻のようなことをしているのだと美鈴が気づくのに時間はかからなかった。だがいったいなにを作ろうとしているのかは、なかなかわからない。
陽が落ち始めた。休息であったはずの時間はとうに過ぎ、ピクニックはいつの間にかにチルノの彫刻作業鑑賞会となっていた。チルノの彫刻は、闇が訪れるまえに完成した。作業を終えたチルノは満足そうに無邪気に笑い、ぺたりと尻を地につけた。美鈴ははじめ、完成した彫刻がいったいなんなのか全くわからなかった。円柱から上下に二本ずつの枝が伸びている。下の二本の枝は左右対称で、地を踏みしめて円柱をしっかりと支えていた。上の二本はといえば左右非対称であった。片方はぶらりと垂れ下がり、もう片方の枝の先は、球状になっている円柱の頂上をなぜか突いている。どうやら人形(ひとがた)のようであると知れた。人形と判断するのには、なかなかに時間のかかる代物ではあったが、そうとわかれば、それはもう、はっきりとした人形だった。美鈴はあることに気がついた。おそらく顔を模しているのであろう円柱の頂上――球状になっている部分――の下からふたつ、垂れ下がっているものがあったのだ。それに気がついた美鈴はくすりと笑った。どうやらそれは手ぬぐいを模しているようなのだ。そして、腕だと思しき円柱の枝がなぜ球体を突いていたかといえば、これは汗をぬぐう姿なのであった。つまりこの彫刻は彼の姿だったのだ。
美鈴はチルノを抱きしめて褒め称えてあげようと思った。たとえこの氷塊が人形だとわかるまで時間のかかるような、前衛的だと揶揄する者がいてもおかしくないような、そんな代物であったとしても、これは表彰するに値するものであった。いや絶賛してもしきれない代物でさえあるといっても過言でない。抱きしめてやり、褒め称え、喜ばせてやりたい……。だが美鈴がそうすることはなかった。座り込んだチルノはそのまま眠ってしまっていたのだ。
彼がチルノを抱きあげた。その日は彼の住居に泊まることとなった。
翌日、チルノは目を覚まさなかった。美鈴と彼は不安がった。美鈴が不安に思う理由は、目を覚まさないということの他、もうひとつあった。その理由というものは、もしかすると気のせいなのかもしれない。だが、そうではないのかもしれない。そうでなければ、いい。
美鈴の目からは、チルノがちいさくなってしまっているように見えたのだ。まるで縮んでしまっているように見える。だがそれは、もし縮んでしまっているとしても些細な変化であり、本当にちいさくなってしまっているのかどうかの判断はつかない。美鈴は彼に訊いたが、彼の目にはちいさくなっているようには映らなかったようだった。そして彼はこう言った。
もし本当にちいさくなっているのだとしたら、自然の力をすこしだけ使い過ぎてしまったんじゃないだろうか。妖精のことは詳しくはわからないけれど、いまこうして眠っている姿を見ているとそんなふうに見える。
美鈴は彼のその言葉に同意した。だが、問題の解決策にはならない。そこへ彼は、だけど彼女は自然の一部なのだから、きっと大丈夫だよ、と言った。時間をかければきっと治るさ。なんの根拠もなさそうだったが、美鈴は彼のその言葉にほっと安堵した。
彼の言葉のとおりだった。チルノは丸一日眠り続けたが、結局は目を覚ました。目を覚ました後となっては、美鈴の目からもチルノが小さくなっているのかどうか、さっぱりわからなくなっていた。杞憂だったのかもしれなかった。
5
チルノは毎日のように美鈴に会いに行った。出会ってからすぐの頃や、コイビトが生きていた頃もそうであったように。
ふたりは色々なことをして遊んだ。チルノは、美鈴と遊ぶ場合においてならば悪党退治か隠れ鬼が最良の遊びであると信じている。よってそのどちらかで遊ぶことが多かった。隠れ鬼の場合、だいたいにおいてチルノは紅魔館付近に生息している木のうち最も太い幹の陰に隠れているし、たまのチルノが鬼の場合であれば美鈴は門の後ろに隠れている。その隠れる場所が変わることは滅多になかったが、チルノにとっては楽しいものであった。だがあるとき、チルノが珍しく自分から鬼の役を買って受けたときのこと。チルノはかなりの時間をかけて美鈴の隠れ場所を突き止めた。美鈴はやはり門の裏にいた。チルノはにんまりと笑顔になり、声をかけようとした。だがそうはいかず、チルノの笑顔はすぐかき消えた。あたかも、笑顔など作ったことのない捨て子のような虚ろな表情になった。なんとなれば、門に背中を預けていた美鈴が深く沈みこんでいたからだった。暗い顔で、片手で額を抑えて項垂れるその姿は痛々しかった。やがて美鈴はチルノに気がつくと、暗い気持ちを押し隠し、笑ってみせた。チルノは笑い返すことができなかった。チルノはそれまで、美鈴が元気を取り戻していると信じ切っていたのだった。だから美鈴のあの悲痛な表情を見た途端、ショックを受けたのだった。
後日、ふたりは墓参りに出かけた。死を理解できないチルノには墓参りというものを知らなかったが、ともあれ美鈴とお出かけが出来るとわかったので、墓参りというものがなんであろうとどうだってよかった。
墓はこれもまた里の隅にあった。他の親族と同じ場所には作ってもらえなかったようだった。墓はみすぼらしい姿だった。だが花はこまめに取りかえられているようではあった。添えられている花は新しいものであった。美鈴は己の持ってきた花を新しく添えてやるべきかどうか迷っているようだったが、結局は辞めたようだった。また別の機会に、新しい花がないときに添えてやればいいと考えたのだろうか。
チルノには目の前にある大きい石の塊がなんなのかわからなかった。文字が刻んであるがチルノには読めない。
「美鈴、これなんなの? これがハカマイリ?」
チルノは美鈴を見上げて言った。
「そうですよ。彼はこの下に埋まっているんです」
「ふーん」
このハカマイリという石がコイビトを土のなかに閉じ込めているのだろう、チルノはそう思った。ハカマイリをやっつけてやろうかとも考えたが、この石を前にするとそういったことをしては罰が当たるかのような、厳粛な気持ちにさせられて思い留まった。
美鈴は墓のまえまで来ると屈み、両の手の平を眼前で合わせた。指先ひとつとしてずらすまいとしているかのようだった。そして目を閉じ、やや首を垂れる。チルノは似たような姿を博霊の神社で見たことがあった。だが、すこしばかり違うようだ。神社のそれもそうだが、いったいなんのための動作なのだかチルノにはわからない。だがチルノは石のまえでちょこんと屈み、美鈴の真似をした。そうすべきだと感じたからだった。美鈴はその姿を見るとにこりと微笑んだ。
長いあいだそうしていた。飽き始めたチルノは何度か薄目を開いて美鈴の姿をちらちらと盗み見した。だが何度見ても美鈴は地蔵になったかのように微動だにしない。チルノは美鈴がまた暗く沈んでしまうのかと想像し、不安になった。どうしよう、そう焦った。美鈴は相も変わらず動かない。
7
美鈴は墓石のまえで動かなかった。祈ることは――いや、祈りたいことはいくつもあったはずだった。だが、彼の墓のまえまで来ると様々な感情がとめどなく溢れ、頭のなかでさえ祈りの言葉を形作ることなどできなかった。ずっとこうしていたかった。いや、ずっとこうしていたいと、すこしばかり本気で思った。
ふいに涙が出そうになった。だが、すんでのところで堪えた。人前では泣かないと決めている。例えそれが、妹のように思うチルノのまえだとしても。一度涙を流せば、崩れ始めた山のように元に戻ることはないように思われた。
美鈴はチルノが己を心配していることを知っていた。だが、どうすることもできないでいた。もう大丈夫だから心配しないでください――そう言うのには、それがたとえ嘘だとしてもまだ早すぎる。また、心配をかけていると知っていなが立ち直れない己がたまらなく嫌だった。
考えていたせいだろう、美鈴は己の横で手を合わせていたはずのチルノがそこにいないことに気がついた。視線をめぐらすと、遠く後ろのほうで、なにやら背中を向けて作業に没頭している様子だった。美鈴は立ち上がり、チルノの元へ近づいた。だがいくらか近寄ったところで、とあることにはたと気がついて足を止めた。
まわりの草花が、風もないのに揺れている。
美鈴の頭のなかに、遥か昔の記憶がよみがえった。いや、その記憶は妖怪にしてみれば「昔」のことではない。その記憶は、たかだか何十年余りかの記憶だ。ほんのすこしの時間。だが美鈴にとっては、己が生まれる前の昔話を聞かされるかのような、そんな古い出来事――まるで物語めいた過去の事柄――厳粛な幻想話――のようであった。なんとなれば、それは今の己と、その昔話の己がまるで別人のように感じられて仕方がないからだった。
また、彼を作ろうとしているのではないか。
あの褒め称えるべき、氷の彫像。手ぬぐいを肩にかけ、片手で額の汗を拭う彼の模造品。今となればすでに美化されつつある記憶のなかの、美鈴の尊き偶像。チルノはふたたびあの像を作ろうとしているのではないか。もう遥か昔の、お伽噺としての素晴らしい思い出のひとつ。
目じりに一滴の粒がたまり、つ、と頬に軌跡をつくって流れおちた。美鈴は一心不乱に作業を続けるチルノを、後ろから――あのときもそうしたいと思ったように――抱きしめた。チルノは、ひゃう、とちいさな驚きの悲鳴をあげたが抵抗しなかった。氷の塊はまだ、ちいさいものであった。
「美鈴?」
とチルノは言った。
ふたたび美鈴の目じりに涙の粒が現れた。美鈴は我慢しようとした。我慢するんだ! そう己に訴えてもみた。だが、美鈴のなかで感情が堰を切ったように激流となって暴れまわり、己を抑制することは不可能となっていた。
「うっ、あ……」
口から嗚咽がもれた。
身体のどの部分もコントロールがきかない。
もう、無理だった。
8
美鈴と墓参りをしてから何日か後。
チルノはハカマイリのあった場所へと急いだ。
美鈴はあの墓参りの日から少しずつ元気になっているように思われた。それは良いことだった。非常に良いことだ。だがまだ足りなかった。あとちょっとなのだ。チルノはまだまだ頑張ろうと決めていた。
今、チルノは美鈴と隠れ鬼をしていた。鬼役は美鈴だった。多くの場合、美鈴自ら鬼役を買って出るのだが、今日はチルノが美鈴に鬼の役を押し付けた。
はじめ、いつもと同じ場所に隠れるふりをした。どこにしようかなーっ、と大声で喚きながらいつもの場所へ近づいた。そしていつもの太い木の陰に隠れると、またもや声を張り上げた。やっぱりここがいいなーっ。それから音をたてないように忍び足でその場を離れると、飛んだ。
墓参りをしたあの日、美鈴は泣いた。すぐに泣きやんだが、美鈴が涙を流すのをチルノは始めて目にした。泣きじゃくる美鈴に抱かれながら、美鈴はものすごく悲しんでいたのだと、知っていたことなのに今更のように痛感した。だから、だからこそ、よりいっそう頑張ろうと思ったのだった。
チルノはハカマイリのあった場所へと急いでいる。計画を実行に移すためにはあの場所へ行かなくてはならなかった。
美鈴がどうして泣いたのかはチルノにはわからなかった。だが、もしかしたらコイビトの彫刻を作ろうとしたことに関係があるのではないだろうか、と予想している。
美鈴はまだ門のまえで数をかぞえているはずだ。数をかぞえ追わればチルノを探しまわり、最終的にいつもの場所を見る。だが見当たらないので、さらに探しまわることになる。時間がかかる。そのあいだに彫刻を作りきり、驚かしてやろう……そういった計画だった。
頭が悪い、とチルノは多くの妖怪から蔑まれているが、だいたいにおいて妖精の知能はそれ程高くはない。チルノは妖精のなかでは力があり、あるいは他の妖怪のように目立っていたため、周囲からは頭が悪いと思われがちだった。ただ、どこの世界においても「頭が悪い」というのは決して知能の高さを示すものではない。つまりそれは妖怪共がチルノを、同等とは言わずとも妖精以上の存在であると無意識的に認めている証であった。だが、それでも妖怪や人間と比べれば、確かにチルノは頭が悪かったが――それらのことをチルノは理解をしていない。美鈴は理解しているかもしれない(だが考えたことがあるかどうかは別問題として)。当たり前だった。当の本人が理解できるはずもない。だが、頭が悪いと言われるチルノは、覚えている。美鈴やコイビトと遊んだこと……、見るとこちらまで嬉しくなるような美鈴の笑顔……、馬鹿だ馬鹿だといつも誰からも相手にされない自分に優しくしてくれたこと……。これらの記憶は、頭が良いだの悪いだのということとは関係なかった。多くの記憶は頭の良さに関係があるかもしれないが、それらの記憶は全く関係がなかった。絶対的に無関係であった。なんとなれば、本当の思い出とは頭のなかにしまっておくものではないからだ。もっと大切な場所に保管しておくものだからだ。
ハカマイリのところまでたどり着いたチルノは辺りを見渡した。あの日、作りかけていた氷の塊を探していた。
チルノの思い出のひとつとして、コイビトの彫刻を作り上げたというものがあった。あの楽しかった思い出はまだちゃんと保管されていた。だからこそ、墓参りの日にふたたび作ろうとしたのだった。記憶があやふやだが、コイビトの像を作り上げた後、丸一日眠ってしまったのだと聞いたことがある。美鈴は理由がわからないと言っていたが、チルノはわかるような気がした。ただ、わかるような気がするだけで、はっきりとどうだとは説明ができない。おそらく力を使い過ぎていたのだろう、とそれだけならわかる。
ない。氷の塊はどこにもない。
チルノは必死になって探した。あちこちの草花をかき分けた。だが、どこにもない。ない、どこにもない。
当たり前だった。すでに墓参りの日から何日も経過している。氷の塊などすでにとけてなくなっている。だが、必至になっているチルノにはそれがわからない。
やがてチルノは探すのを諦めた。そうだ、また作りなおせばいいのだ。また力を使い過ぎてしまうかもしれないが、また眠りこんでしまうかもしれないが、美鈴がまた笑顔になってくれるのならばそんなことはどうだっていいことだ。そう、美鈴のためならばなんだってできる。
チルノが目を閉じると、周囲の草花が揺れ始めた。
9
美鈴はチルノを探していなかった。探したかったが、それは無理な相談であった。
チルノが去ってしまった後すぐ、里の人間が何人か紅い館のまえに来ていた。数は十人。まず考えられないことだが、もしもこの紅魔館に無断で入ろうとする輩であるならば、簡単に撃退できる人数であった。ただの館主の客人ということも考えられるが、美鈴は任されている仕事の都合上、だいいちに撃退できるかどうかの判断を己で下した。
だが客人たちの目的は美鈴の予想とは異なるものだった。より細かく説明するならば、紅魔館を脅かす愚か者共などではなかったし、館主の客人などでもなかった。もっと、悪意のある者たちであった。
客人たちの先頭には腰の曲がった老婆がいた。その老婆を見た途端、美鈴は彼らの目的を察した。美鈴はその老婆を知っていた。
10
一度作ったことがあったため――なによりも、あのときよりもっと強大な力を使ったためであろう、氷の像はすぐに出来上がった。チルノはにんまりと笑った。これで美鈴に笑顔が戻るのだ! こんなに嬉しいことはない。急に眠気がやってきたが、なんとしてでも美鈴にこの像を見せたかったため睡魔と闘うことにした。チルノは氷の像を抱きかかえ、飛ぼうとした。だが飛ぶことはできなかった。重すぎたのだ。もう一度挑戦した。今度は、すこしだけ地面を離れた。すこしでも飛べたことに安堵した途端、睡魔にやられそうになる。氷の像を取り落としそうになり、ハッとして首を振った。地面に立って顔をパンパン、と二度ほど叩いて気合いを入れた。もう一度、飛ぶ。今度は高く飛ぶことができた。木々を超えるほどは飛べそうもなかったが、速度をあげて飛ぶことはできそうだった。
チルノは睡魔と闘いつつ、美鈴の元へと急いだ。
11
彼らの目的は、美鈴であった。館主の客人ではなく、門番の客人。彼らの先頭に立つ老婆は、彼――チルノの呼び方を借りるならばコイビト―――の妹であった。
まず、先頭に立った老婆は美鈴に対し、自分の兄を返せと言った。美鈴は黙っていた。その態度が不満であったのだろう、老婆を押しのけ、別の者が喚き立てた。それを合図にしたかのように他の者共も罵倒を始めた。
曰く、
「化け物!」
「貴様のせいで!」
「人喰らいめ!」
「化け物め!」
「貴様がたぶらかしたのだ!」
といったものであった。
こういったことは何度かあった。辛いことだったが、覚悟はしていた。
なにを言ったところで彼ら――彼の親族であろう――の顰蹙を買うだけである。我慢して耐えるしかない。ほかにどうすることもできない。
言いたいことは山ほどあった。いったい誰が彼を見捨てたのか。いったい誰が彼を村八分にしたのか。どうしてあんなにちいさな田畑を養うこととなったのか。どうして彼の墓はあんな場所にあるのか。どうして今になって文句を言いに来るのか。彼が生きているときに来れば良かったではないか。わたしたちは望んで貴方達に立ち向かっただろう。認めてもらえるまで、血を吐く思いをしても努力を惜しまなかったことだろう。だが、彼のことを何も考えてやらずただ見捨てたのは、いったい誰なのか! なぜ今になって、なぜ今さら――
美鈴の右肩に石が投げつけられた。ついで、右のこめかみ。避けることは簡単であったが、美鈴は甘んじてそれに耐えた。
言葉による暴力、および石投は続いた。
12
チルノは門のまえで騒ぎ立てる人間どもを見て唖然とした。まだ距離があったため、なにが起こっているのかよくわからない。いったいなにをしているのか。その罵倒を浴びているのは美鈴であるように見えた。いったいなぜ?
ふたたび睡魔がやってきた。チルノは左右に首を振るってそれを払おうとした。あまりの眠気に、飛んでいるというよりも泥沼のなかを泳いでいるかのようだった。まるで、重たい空気の塊が身体のまわりにまとまりついているかのようだ。チルノは必死になって重たいコイビトの像を運び始めた。向こうでなにが行われているかはよくわからないが、あとすこし、あとすこしだ。
次第に、喚き散らす者共の言葉の内容が聞こえるようになってきた。それらの言葉を聞いたチルノは、思わず耳を塞いだ。耳を塞いだ途端にコイビトの像は地面に落ち、音を立てて呆気なく割れた。
罵倒の言葉はチルノの語彙にはないものが多かったが、多大な悪意が含まれていることはよくわかった。その悪意をチルノは敏感に感じ取った。力を使い果たし、弱り切っていたチルノには、その悪意は鋭利なナイフのように感じられた。やめて、やめて、とチルノは耳を抑えたまま呟いた。
チルノは耳を抑えたまま、門へ近寄るためにふらふらと飛んだ。今にも落ちそうだった。氷の像が割れたことには気がついていないようだった。
美鈴に石が投げつけられるのを、チルノは見た。悪夢を見ている気分であった。いったいなにをしているのか。美鈴は罵倒と石とを続けざまに浴びせ続けられている。服は汚れ、こめかみや額からは血が流れ出していた。
チルノは疲れと睡魔と目の前の惨状に、言葉が出なくなっていた。身体はすでに飛ぶことが出来なくなっており、一歩一歩地面を踏みしめて歩いている。チルノは門へ向けて確実に歩いていた。その足取りは頼りないものである。チルノの意識はほとんどが失われかけていた。無意識の状態に近い。ほんの一握りの気力だけで歩いているようなものであった。
美鈴、美鈴……。
チルノが脚を踏み出すたび、草花が激しく揺れ、木々はざわめいた。彼女の周囲を、風がびょうびょうと吹き始めた。
チルノは叫んだ。
13
「美鈴をいじめるなああぁっ!」
目を閉じて項垂れ、言葉や石による暴力に耐えているばかりであった美鈴が、ハッと顔をあげ目を見開いた。
悪意の塊のような客人どもの向こうに、ちいさな氷の精がいた。その妖精は見るからに疲れ果ててはいたが、どうも様子がおかしかった。先ほどまで吹いていなかった風が、チルノの周囲を取り巻くようにして吹き荒れている。さらに、草花だけでなく木々までもが、風の動きによるものとは到底思えない動作でざわめき始めている。まるで自然が怒り狂っているかのように思え、つかの間、恐怖を覚えた。激昂し、美鈴を罵倒していた人間どもでさえ、そのように感じたと見えた。何人かは腰をぬかし、何人かは口をあんぐりと開けてぽかんとしている。
美鈴は傷ついた身体に鞭を打ち、飛びだした。
そして、世界が凍りついた。
しばらくした後、美鈴は目を閉じていたが、しんと静まり返る世界に耐えきれずにやがて目を開いた。目を開くとき、パキパキと塗装が剥離するかのような音が聞こえた。次いで瞼に鋭い痛みが走った。パキパキという音は確かに剥離の音であったらしい。だがそれは塗装とはまた別のものであったが。
まず気がついたのは、目のまえの草花が凍りついていることだった。鬱蒼と茂っていたはずの緑が、まるで別の異次元から迷い込んできてしまったような、白の世界と化していた。ミニチュア版の氷のジャングルのようだった。もはや、到底草花として見えるものではなく、むしろ氷柱の束を剣山のように並べているかのように見える。次に気がついたのはチルノのことである。ちいさな妖精はうつろな目をし、立ったまま、今にも眠ってしまいそうだった。いや、すでに意識を失っているようだ。
美鈴は膝をついた状態でチルノを抱きかかえていた。己の身体は、首からしたのほとんどが凍てついている。すべてを凍らせてしまうかのような冷気を、美鈴は己ひとりで抱え込んだのだった。身じろぎをすると、パキパキというあの剥離の音が聞こえた。そしてその音は、今では剥離の音だけではないようだった。身体のどこかが鋭く痛んだようだったがよくわからない。痛覚が鈍っているようだ。
咄嗟の判断だった。あのとき、飛びだした美鈴は全身でチルノをつつみ込むようにして覆いかぶさった。おかげで身体のうち、胸や腹といった前身が凍りついた。背中や尻といった身体の後部はもしかしたら無事なのかもしれないが、美鈴自身には確かめる術がなく、よくわからない。なにせ、身体のほとんどが動きそうもないのだ。腕は特別に酷い有様だった。チルノを抱え込んだ瞬間、了腕を直に交差してしまったらしく、ぴたりとくっ付いてしまっている。まるで、元々くっついているかのようでさえあった。
「矢張り化け物だ」
そんな声が背後から聞こえた。客人たちの怯えた声だった。彼らは無事だったようだ。美鈴の身体がチルノを包み込んでいたため、美鈴の背後にいる者はすべて――なにからなにまで――無事であった。だが、その逆側の草花は一面に白の厚化粧を施すこととなっていた。
「神に逆らう異形の者としか考えられない」
ぽつり、ぽつりと彼らのうち誰かしらが声を出すうちに、勢いが戻ってきたかのようであった。あまりの事態に彼らはほとんどがヒステリーを起こしはじめていた。泣きながら怒鳴る者もいる。己を見失っている。ふたたび、彼らは罵倒の嵐を作りあげた。
美鈴は膝をついたまま、意識を失ったチルノを抱きかかえたまま首だけで彼らを振り向いた。彼らの罵倒はあまりよく聞こえない。だが、どうしても聞き逃せない――許すことのできない言葉だけは耳にしている。パキパキとあの音がし、首元の肌が剥がれ、出血するだけに留まらず、赤い肉片が露出した。だが美鈴は気にもとめなかった。いや、気付いていないのかもしれない。そして睨みつけた。その目に何人かはたじろいで黙り込んだ。だが、たじろがない者もいた。ヒステリーは収まらなかった。美鈴の睨みにより恐怖が増し、彼らは余計に昂った。そして彼らは一丸となり、ふたたび悪意をふたりにぶつけ始めようとしていた。
「帰りなさい」
と美鈴は静かに言った。聞こえていた者は何人かいたようだったが、ほとんどの者には聞こえやしなかった。
己がどう言われようと、なにをされようと、いくらでも耐えることはできた。だが、この愛おしい妖精を傷つけられることには我慢がならなかった。
「帰りなさい!」
美鈴は怒鳴った。まるで雷鳴を思わせるようなその怒号に、人間たちは震えあがった。
美鈴は静かに続けた。
「貴方達はいったい何を目の前にしていると思っているんですか? わたしを何だと思っているんですか?」
彼らは己をなんと言っていたのか。そしてそれは、事実その通りであるのだ。
目を閉じて奥歯をかみしめた。チルノを抱いたまま、いま一度人間たちを見据えた。
美鈴はゆっくりと言った。
「喰い殺して差し上げましょうか」
美鈴はそれきり黙りこくった。胸のなかで意識を失っているチルノを強く抱きしめようとした。身体中のあちこちが痛みを訴えた。痛覚が鈍っているというのにも関わらず、その痛みは激しいものであった。だがかまわなかった。腕はなんとか動き、チルノをひしと掻き抱くことに成功した。
美鈴はちいさな額に己の額を優しく押し付けた。
そして、光を湛えた目でもう一度人間たちを見た。
14
冬。雪が降っていた。
門のまえに立つ美鈴は、ほう、と空を見上げて息を吐いた。息は瞬時に白い霧となり、ふわりと柔らかい跳躍を見せた後で空気に溶けて行った。
雪が積もっている。館の主には休むようにと言われてはいたが、それほど苦になることでもなかったので、今日も門のまえに立つことにしていた。
「めーりん」
美鈴の名を呼ぶ者がいた。チルノだった。彼女は無邪気な笑顔を見せながら、美鈴の元へ飛んできた。
「こんにちは」
美鈴は微笑んでみせた。
「こんにちは」
チルノも応じた。
「寒いですね」
「そお? あたい、へーきだよ」
「強いんですね」
「うん、あたいつよいよ!」
チルノはあのときの一件から身体が一回りちいさくなっていた。過去に丸一日眠り続けたときも、美鈴はちいさくなったように感じていたが、今回の身体の縮小は一目見ただけで変化がわかるものであった。また、チルノには他にもいくつか失ったものがあった。そのうちのひとつを美鈴はすぐに見抜いたが、チルノ自身はおそらく気づいていない。いや、おそらく、その症状が故に金輪際気づくことはないだろう。きっと、これからチルノにとって辛いことが続く。
「でもねでもね、めーりんはもっともっとつよいんでしょう?」
「わたしは弱いですよ」
「だってめーりんはえいってわるいやつらをこらしめるんだ!」
チルノは舌足らずな発音でそう言った。すでにその言い方に聞きなれた美鈴には、チルノの言葉をはっきりと聞きとることができていた。
チルノの言う通りであった。門番は悪いやつらを「エイッ」とやっつける者でなければならないのだ。
わたしは門を守らなければならない。守るべき者を守る門――それを守ることのできる者になければならない。そうなのだ。守るべき者のため、悪いやつらを「エイッ」と懲らしめられる強い者でなければならないのだ。
だがすぐに強くならなくたっていいだろう。時間は有限だが、まだまだ沢山あるのだ。
「めーりん。きょうはなにしてあそぶの?」
「そうですね」美鈴は考える素振りを見せたが、言うべき言葉は決まっていた。「雪だるまを一緒に作りましょうか」
一緒に作っていけばよかった。これからの時間、チルノが失ったものを取り返すことも、そして今から作り上げる雪だるまも、過去の思い出も未来の希望も、なんだって一緒に作り上げればいいのだ。
今から作り上げる雪だるまの形を、美鈴はすでに思い描いていた。チルノにもわかればいいのだけれど、と美鈴は思った。
チルノはいくつか失ったものがあったが、それでも消すことのできない思い出は残っているはずだ。
きっと今から作るものがなにか、わかるだろう。覚えているだろう。
なにせ、あんなに上手だったのだから。
了
どうしてもこういうキャラクターが出てくるイメージが浮かばないんですよ。
とある世界の不条理。そんな一齣・・・
人間は大結界の中に「残された」という事が書籍にあるので、妖怪に反抗的な人間もいておかしくはないですよ、と。
良い話だったと思います。
チルノが好きになりました。人と妖怪との時間の違いはやはり大きいな…と。
来なければならないと分かっていても来てしまうと辛い、そんな心情表現が上手いなと思いました。
素敵な話をありがとうございました。
死んでしまったのは悲しいけど仕方の無いことですからねこれだけは。
人と妖、やはり最大の壁は寿命ですね。
美鈴の為に頑張るチルノが愛らしかった。
良い話をありがとう御座います。
今日一日でチルノ株が急上昇です。有難う御座います。
美鈴はよく我慢した・・・泣いた。感動した。偉かった!
この文章があまりに鮮烈過ぎました。この物語の中であるからこそ。
そこから続く物語、一部、三人称の物語展開の中で文意の重複が(狙った描写なのかもしれませんが)一読者としては眼についてしまったので、-10点とさせていただいた次第です。すみません。ただこのタイトルを見て惹き付けられつつ、読んでみて、ああ良かったと思える物語でした。ありがとうございます!
上手いと思いました。それがある故に、個々の心情がより深く伝わって来て、無邪気な
チルノや想い人を亡くした美鈴の深い悲しみが明瞭に思い浮かぶようです。
ただ文章の運びとして、単調に進んで行く印象を受け、それがやや読み進める上での
妨げとなっている気がします。そういった箇所に気を配ったなら、より文章としての質が
上がるのではないかと思いました。これは主観ですが、感想として。
描写の多さと比較しても、長さが気にならず、読み易かったです。
好い作品をありがとうございました。