「いやはや、明らかに年端の離れた異性での交際とは白い目を向けられがちでして。殊にそれが単なる少女嗜好から来るものだったのなら、白い目どころかお縄という可能性もある訳です。とかく住み辛いこの世の中じゃ純粋なる恋愛ですら容易じゃありません。だって子供から大人へ純粋な愛が向けられたのなら、どうすれば好いでしょう? 大人は大人らしくやんわりと拒絶するのが定石かも知れませんが、どうしたって良心は痛むものです。そうすると大人はどういう対応を取るのが一番相応しいのでしょうか。私はこう思うんですよ。一思いに突き離せ、って」
一旦筆を置き、天狗は茶を啜る。
「そりゃ貴方は酷いって云いますが、中途半端に期待を抱かせるよりも余程優しいやり方ですよ。私達が住むこの幻想郷じゃその定義だって曖昧なんですから。例えば私と貴方との年の差はあまりにも大きいじゃありませんか。そうすると価値観だとかそういうのも変わってくるもので、そういう差異が意識の差を生むんです。だから長命の妖怪が、――仮に男性だとして、貴方と同じくらいの少女に想いを寄せられたら、男性の方は相手を子供だと思うより仕方がなくなる訳です。元々関係の近しい相手だったなら、その壁は決して越えられないでしょうね、ええ」
天狗は立ち上がり、抜けるような晴天を仰ぐ。
「あはは、まあその通りなんですよ。あの二人――正に今挙げた例に当て嵌るじゃないですか。何ともなしに興味を持って、影から見守ってみれば悲惨なものですよ。私よりも貴方の方が二人の事をよく知っているとは思うので、私が持っている勝手な自己解釈を鵜呑みにされちゃ困るんですが、まあ得てして世の中はそういうもので。――え? あはは、私の方が犯罪者らしいって、全く的を射た指摘ですが記者にそれは無粋な評価です。東西奔走してでも誰彼が興味を持つ記事を書かないとならないんですから、それは胸の内に仕舞っておいて下さい」
怪訝な表情をしている巫女を顧みて一言。
「今回の記事はこれで決まりですね。題して"大人と子供の境界"、何とも皮肉めいていて、購読者の興味をそそりそうじゃないですか。――それでは私はそろそろ。貴方には一番最初に読ませてあげる事をお約束しますよ。なに、取材に応じてくれたお礼とでも思って下さい。じゃあ、また」
黒い羽が宙を舞い、土煙りを残して消える影。
――巫女、嘆息。
1.昔日
ある日何もする事がなく、店内に客が来る気配がない昼下がり、何とも無しに僕の享楽の一つである書見を止めて過去の出来事を思い出した。それはとても唐突で、何故自分が柄に合わない郷愁に想いを馳せたのだかは全く判らないが、無性に過去の思い出に浸りたくなったのである。
すると今まで忘れかけていた、けれども決して忘れる事の出来ない記憶が次々と僕の頭へ舞い戻り、記憶の回廊を辿れば懐かしい発見が更に新しい発見を促して、その時には現実の光景すら目の前には浮かばなかった。視界に映るのは慣れ親しんだ香霖堂の光景ではなく、しかし此処とよく似ている光景で、それを思い出すと胸の辺りが締め付けられるようだった。決して気持ちの好い感覚ではない。むしろその逆に分類されるべき感覚である。が、だからこそ意義がある。
臆病で厭世的で誰よりも不安定だった過去の僕の虚像は、それだけで今を生きる僕への戒めとなる。例え不愉快な心持ちになったとしても、その全ての責は僕にある。それを咎めようものならばどうしようと僕は惨めであり、全く成長を遂げていない馬鹿な者になってしまう。過去の過ちは二度と正す事は出来ないが、それを教訓に学ぶ事は幾らでも出来る。それを閑却したまま過去を忘れ楽天的に生き、やがて大切な記憶まで失ってしまうのは紛れもなく愚者の行いだ。
僕が愚者である事に間違いはないのだろうが、それでも過去の過ちは太陽を真正面から見据えて生きる事が出来る今に繋がっている。愚者でありながら僕は愚者でない。かと云って賢人でもなく、あくまで僕は平々凡々たる一介の半人半妖なのである。――思い出せば、何時でも明瞭にあの日々は頭を巡る。その中で経験した事の一つ一つが、全てこの瞬間に経験しているかのような錯覚にさえ囚われる。だから、この胸は締め付けられるように痛むのだろう。
ふと視線をずらすと、置物の招き猫が笑っている。漆塗りの黒い身体は窓から差し込む陽光を受けて鈍く光り、黄色い目には細い瞳孔が描かれている。手に持った小判は金色の輝きを放ち、身体の至る場所にはそれが木彫りだという事を示し出すように木目が浮かび、とても傑作とは評せない招き猫である。僕はそれを眺める度に思う。その招き猫が現在の形へと至るまで、どれだけの彫刻刀が入れられたか、そして完成するまでにどれだけの時間を費やしたのか。
尖った耳は僅かに欠けている。それを見て僕は笑みを零した。全く拙い作品である。しかしそこから感じられる温かみだとかは、彼の人以外の万人が作れる物ではない。これは世界に一つだけの作品で、世界で一つだけしか存在し得ない僕の宝である。それはこの店に置かれるどんな商品よりも価値があるに違いない。
2.
相容れぬ種族間の間に於ける溝は広く深い。周囲の糾弾とて決して生温くはなく、彼がこの世界に生まれ落ちて、物心が付いた頃からの生活は凄惨を極める事となった。人間と妖怪との間に生まれた彼、森近霖之助は常に孤立していた。唯一霖之助を愛したのは母親と父親のみである。生まれた場所は既に忘却の彼方へと置き遣られ、彼が深い思慮を有するようになった頃には、既に彼の生活は生まれた地で行われてはいなかった。
父母は周囲の風当たりの強さが原因か早々に死に、頼れる者も居らず、天涯孤独の身となった彼は生きる為に場所を選ぶ訳には行かなかった。食を確保し、住を得る為には必然生物が共存する地が必要だった。曖昧な存在である彼は妖怪にさえ白い目を向けられる。殊にその妖怪に知識が乏しかったのなら、人間と判じられて襲われるとも限らない。外見だけは人間に近寄っていたのもあって、彼が生きる為に赴いた地は儚い生を全うする人間達の里であった。
相貌若く美しい霖之助は、しかし里の人間とは外見的特徴が余りにも懸け離れている。髪の色も瞳の色も、全てが人里で生活する人間とは違っていた。必然彼に向けられるのは奇異の視線と畏怖の視線である。誰もそんな異常な外見的特徴を持った、素性の知れぬ男を匿おうとはしなかった。それだから霖之助は人里で行き倒れ同然の身となり、誰を信じる事も出来ないまま人里の一角で座り込んでいた。そんな彼が人生の岐路と云うべき出会いを得たのは、人里に訪れてから数日が経ったある日の事である。その日は雲さえ存在を憚る晴天が広がる天気であった。
「随分と我々とは違った特徴をしているが、お前は人間か?」
何もかもに疲れ果て、このまま死んでしまおうか、と霖之助が考え始めた時である。彼の前には一人の男が立っていた。厳格な面持ちに威厳を備えた風格の男である。その男は人里に居た人間の誰もが霖之助に向けた奇異だとか畏怖だとかという類の色を瞳に含ませずにそう尋ねた。が、その時には霖之助の身心はともに憔悴し切っていて、目の前の人物に興味など浮かぼうはずもなく、虚ろな視線をぼんやりと向けるだけである。返事をする事ですら大義であった。
すると男は眉間に皺を寄せて難しい顔付きになる。霖之助にとってはその男の上にどんな変化が現れようとも全く関係がない。やはりぼんやりと焦点の定まらない目を向けるばかりで、廃人みたようにしているだけである。やがて男はこんな事を尋ねた。霖之助にはその問いが意外に思えて、そこで初めて男に対する興味が少しばかり浮き上がった。
「行く所がないのか。己れにはまるで物乞いのように見えるが」
「そうに違いない。このまま死んでしまおうかと考えていた所です」
「話す事も出来るじゃないか。何故声を出さなかった。それでは何も伝わらない」
「僕みたような奴は、どうも此処の人間には受け入れ難いようですから」
そうして霖之助は、はは、と力なく笑って見せる。何処か自嘲めいた響きを伴った笑みである。目の前に立った男の顔は更に難しくなった。ともすれば怒りの情が湧き上がっているようにも見える。が、それも霖之助には何も関係がない。何処かで男の癇癪を買って殴り殺されても構わないといった風である。しかし男にはそんな気色は豪も見られない。それどころかその場に屈んで霖之助と目線さえ合わせている。それが得てして妙なので、霖之助はこの男を奇人だと疑った。これまで自分に此処まで話しかけてきた人間は、この時が初めての事だった。
「その通りだろう。己れはお前のような髪や瞳を見た事がない」
「それなら貴方も放って置いた方が好い。奇人だと云われるのが僕だけじゃ留まらなくなる」
霖之助がそう口にしても、男は「ははは」と豪快な笑い声を立てるばかりであった。いよいよ怪しくなってきた目の前の男に霖之助の視線は冷ややかになる。男の調子がまるで自分を虚仮にしてからかっているかのように思われた。皮肉な事に、それが人里に訪れた霖之助に初めて芽生えた人間らしい感情だということに彼自身は気付かない。しかし男はそれに気付いたと見えて、やがて笑うのを止めると霖之助の手を取って強引に立ち上がらせた。痩せこけた身体は容易く持ち上がる。木の梢のように細い霖之助の腕と比べて、男の腕は力強かった。
「して、先刻の問いに答えて貰おう。お前は人間か?」
霖之助の身体はふらりとしていて頼りない。支えが無くなれば今にも崩れ落ちそうなほどである。男の問いに答える体力でさえ残っているのか定かでない。が、気紛れか天啓か、答えようという気になった。今までその事実を告げれば冷罵が押し寄せてきた経験しか無かったが、それでも自分の身の上を語ろうとしたのは何か理由があるからに違いない。しかし男には勿論、霖之助ですらその理由を知り得ない。双方共に気紛れかと納得したのみである。
「人間であって人間じゃない。妖怪であって妖怪でもない。僕はそんな生物です」
「面白い奴も居るものだ。聞けば行く宛てもないと云うし、己れの家へ来ると好い。使わない部屋は有り余っている。住人が一人や二人増えた所で何の影響も受けやしない。なに、ただの気紛れだと思ってくれて好い。何もお前の事を騙して金を取ろうなどと狡猾な考えを持っている訳でも無し、取って喰う訳では尚無し、お前にとっては願ったりの話だ」
気さくに笑う男の云う事は真実であるかのように霖之助に思わせた。既に意識は朦朧としている。長らく運動を忘れていた脚は自重を支える事でさえ容易ではない。意識は次第に遠退いて行く。まるで霞掛かった心持ちである。霖之助は惰性的に「はい」と答えた。そうして男に引っ張られるがままに、人里の往来を歩いて行った。周囲から受ける視線は百にも千にも感じられる。けれどもそれが彼に痛痒を与える事は一向に無かった。
3.
気付けば見覚えのない天井が視界に入った。次いで自分の身体に掛けられた柔らかな布団の感触が、そうしてぼんやりとした頭が段々と事態を咀嚼して行く。そうして意識が明瞭になって来ると、彼は漸く身体を起こす。霖之助は布団の上に座って、自分が知らない家の中に邪魔している事を理解した。事の顛末は細部に至るほどでなくとも、少しの部分は解している。けれどもその少しの部分が判らぬからこそ、霖之助は混乱した。
その部屋は彼の下に敷かれている布団を中心にして他は何もない部屋である。ただ襖と窓とが対になるようにして在る。外を見れば見事な庭が広がり、丁度誰かの趣味だと思われる盆栽などが鎮座していた。やがて霖之助が何も判らないまま立ち上がると、途端に身体が前のめりになった。前に進もうとした脚はその行動を卒然として拒絶し、膝は畳の上に付く。とてつもない痛みが来ているかのように感じられる腹は、しかし極限の空腹によって引き起こされた一種の病である。近来食事に有り付いた記憶のない彼は一瞬にして事態を飲み込んだ。霖之助は餓死する寸前なのである。
「貴方、大丈夫?」
ところへ掛けられた声は若い女の声であった。霖之助が倒れながらも立っている女を見上げると、そこには黄金に輝く
髪の毛を腰まで垂らした美麗な女が立っている。髪色と同様の瞳は心配の色に染まり、霖之助を見詰めながらどうしたら好いのか判らずあちらこちらを低回する。その時霖之助は一瞬我を失った。逆に意識を判然とさせる空腹は絶えず彼を苛んでいたはずだったが、それでもその女の事を見た時にはそれさえも忘れたのである。
「……大丈夫じゃない」
が、一時の苦しみを逃れたとてそれが持続する道理があるはずもなく、思い出されたように帰ってくる空腹感は再び霖之助の身体を侵し始める。とうとう堪え切れず、けれども声を出すのも辛い中、霖之助は必死になって言葉を紡ぐ。しかしそれだけであった。それ以上は何も伝える事が叶わない。意思があろうとも、それに身体が付いて来なかった。必然霖之助はその場に横たわるしかない。女は未だ困った風で忙しなく「どうしたの」と問うてくる。
「泥のように眠ったり、起きたと思えば倒れたり、忙しい奴だ」
そうして女の横に立ったのは霖之助をこの場に連れて来たと思われる男であった。霖之助はこの男の事を記憶していたが、それ以外の事をよく覚えていない。だからこそ、先刻過去を思い返した時に要領を得られるような答えを見つける事が出来なかったのである。男は倒れ伏している霖之助を力強く起こすと、その腕を肩に回してどうかこうか立ち上がらせた。そうして女に向かって「朝餉の準備を頼む」と云うと、長い廊下を霖之助を引き摺りながら歩いて行った。
やがて霖之助が連れて来られたのはその家の居間らしき場所だった。卓袱台の上には食欲を誘う豪華な食事が所狭しに並べられている。誰かが腕によりをかけて作ったと思われる出来である。中途半端な気持ちでこの料理は作れまい。丹精込めて作らねば完成する事はないもののように思われる。霖之助は垂涎の的である食物を目の前に置かれながら、しかし手を付けるのを憚っていた。彼は五分の警戒と五分の遠慮とに阻められて、手が箸を持ちそうになるのを堪えていた。
「警戒せずとも毒など入ってはいない。遠慮せずとも我が家の食物が尽きる事はない。そう迷わず食べると好い。でなければ誰の為にこの朝餉があると思っている。尤もお前がこれをただの塵としたいと云うならば話は別だ」
霖之助の正面に坐した男はそう云って霖之助の顔を見遣る。その瞳には呆れとも優しさとも付かない光が湛えられていたが、その瞳を目にした時に、霖之助は漸く目の前の食事に対して警戒心を解く事が出来た。男の言葉は尤もであったし、折角自分の為に用意された物だと云うのなら、敢えて手に付けないのは失礼に当たると思われた。
霖之助は目の前に出された箸を怯ず怯ずと手に持つと、恐る恐るそれを料理の上へと持ち運ぶ。そうして適当に煮物を掴むと一思いにそれを口の中へ放り込んだ。味のよく沁み込んだ芋である。それを噛むと旨みが舌の上に広がり、何日振りかも判らぬ食の享楽を感じられる。知らず霖之助の箸は頻りに動いた。魚の開きを突いたり漬物を掴んだりする。それがあまりに熾烈な勢いだったからか、男は微笑を湛えて「美味いか」と問うた。霖之助はただ頷くばかりである。
「急がずとも飯は逃げまい。そう急く事なく食べろ。折角の料理も丸呑みにされては味がよく判らないだろう」
余りにも勢い好く料理を食べる霖之助を見て、男は可笑しそうに笑いながら云った。霖之助は自らが晒している必死な姿に羞恥を感じて微かに頬を赤く染めたが、やはり空いた腹には何かを詰め込まなければならない気があって、先刻よりは静かに料理を食べ始めた。凡そ何日振りかの食事は五臓六腑に染み渡るようにして彼の糧となる。枯れ掛けた栄養分を補給する度に、霖之助は幾度となく「美味しい」と評した。
「あらあら、とてもお腹が空いていたのね。私、こんなに食べる人を見た事が無いわ」
ところへ現れたのは、霖之助が目を覚ました時に見た女であった。台所と思われる方から遣って来た彼女は穏やかな微笑を湛えながら一心に食べ続ける霖之助を見て、口元に手を当てながらころころと笑う。それが余りに無邪気に見えたので、霖之助は見た目や仕草ほど畏まった人ではないらしいとその女を評した。彼女は男の隣に座りながら、「好きなだけ食べると好いわ」と云って霖之助を眺め始めた。そうしてその頃には、霖之助の前に用意されていた料理の品々も、既に無くなろうとしていて、間もなく霖之助は全ての料理を平らげた。
「御馳走様でした」
「御粗末さまでした」
霖之助の挨拶に応えたのは女の方である。見た目から判じても大きい家で、その主人と思われる男の隣に座るほど親しい関係であるのなら、下女が支度をしていそうなものだと霖之助は思ったが、彼女の挨拶を聞くにどうもこの朝餉は彼女が用意したように思われる。単なる好奇か感謝の為か、霖之助は一寸彼女へ「これは貴方が」と問い掛けた。
「ええ。この家の家事は満遍なくやっているわ。だからそれも、私が作ったのよ」
「大変美味しかった。どうも有難う御座います」
「いいえ、そこまで美味しそうに食べてくれたのだもの。作り手冥利に尽きるわ」
そうして女はまたころころと笑った。それを見て霖之助は、きっとこの女性は感情豊かな人なのだろうと思った。初対面と変わらぬ者と何の憚りなく対話出来る者は多く居ない。人々の大半は何らかの遠慮を持ちながら話すのを常識としているし、またそうする勇気を持ち得ていない。けれども彼の対面に坐する女はまるでそういう類の遠慮を感じさせない気味で霖之助とさも親しげに話す。そうしてそれは、男の方も同様であった。
「お前の腹も膨れた所で、双方の話をしようじゃないか」
「話、というと」
「自己紹介の事だ。互いに何も知らぬ身だ、今後に差し支えがあっては困るだろう」
「今後?」
「此処で生活を共にするのなら、当然の処置であって然るべきはずだ」
男はそう云って状況を心得ていない風に戸惑った様子を見せる霖之助を見て笑った。出会い頭に聞いた豪快な笑い声である。霖之助は何時の間にやらこの男が自分を匿おうとしている事を知り、内心驚いた。彼が人里の中で行き倒れ同然の身となっていたのを男が知らぬ道理はない。であればそんな彼を匿ったとて、満たされるのは偽善の欲ばかりで実際的な利は毛ほども無いに等しい。物好きが高じてそんな暴挙に及ぶのならば、眼前にて笑う男は奇人と評されても不思議の感は起こり得なかった。
内なる奇と外なる奇が偶然の出会いを果たしたのなら、そこから数奇な運命は歪な歯車を回し始めたのだろう。ぎりぎりと不快な音を立てながら、何時壊れるやも知れぬ不安定な玩具のように。――男は自らを霧雨と名乗った。そうして彼も自身の名を明かした。霧雨の隣に座って無邪気に微笑む女は沙耶と名乗って、朗らかに笑んだ。雲も存在を憚るような快晴は未だ広がっている。一片の雲霞さえ残さぬ空の中心には、傲然と燃ゆる太陽が揺れていた。
4.
彼は霧雨から一つの部屋を貰い受けた。聞けば二人以外に誰も居ない家だから、何処を使っても構わないのだが、此処が一番好いだろう。窓から見える景色は自慢の庭、陽当たりも好しとくれば文句はあるまい。そう云って豪快に笑って見せた霧雨の姿を思い出しながら、霖之助は窓から外を見渡せる位置に置いた机の前に座って、茫然としながらただ静かに流れ行く雲を眺めていた。まるで宛てもなく何処かへ流れて行き、何時しか消えている雲の姿が、思いもよらぬ運命に巻き込まれて、こうした事態に陥った自分と重なって妙に思える。霖之助は何処か寂しげな笑みを浮かべた。
霖之助はこうして住まいを貰い受ける代わりに、道具屋を営んでいるという霧雨の家業の手伝いをする事を条件とされた。働かざる者食うべからず、という冗談のようで真面目の霧が掛かった彼の言葉は一種の矜持であったのかも知れないと霖之助は思った。が、こうして一人何をする事もなく座っているのは、今日ぐらいは休め、という霧雨の言葉があったからなので、どうも外見に似付かず優しい人のようだと彼への評価を今一度正していた。
「部屋はどうかしら。何か嫌な事でもあったら、何でも云って好いのよ」
すると霖之助の部屋と廊下とを隔てる襖が静かに開けられて、沙耶が唐突に現れた。淡墨桜の模様が鮮やかに散りばめられた着物に金色の髪の毛が懸かっている。相反する色合いのようで、見事な調和を成しているのは、彼女の美貌があるからか、それとも色調が偶然にも互いを助長しているのか、それは霖之助には判り兼ねる問題であったが、とかく沙耶は美しい女である。袂より覗いた白い手は、薄桃色の唇に当てられて、無邪気な笑みはそんな彼女の仕草に好く似合っている。窓より差し込む光がそんな彼女の美しさを際立たせ、彼女の魅力はより一層引き立てられているように思われた。
「いえ、とても好い部屋で、嫌な事など何もありません」
「それなら私も安心ね。必要な物は後から用意するから、欲しい物があったら今の内に云って頂戴」
そうして沙耶はまたころころと笑って見せる。霖之助も僅かに頬を綻ばせている。けれども冷やかな瞳は変わらず、疑惑を隠さない光は陽光に劣る事なく沙耶へと向けられていた。霖之助が拵えて来た過去の傷跡の数々は決して回復する兆しを見せはしなかった。久方振りに与えられた温もりも、傷付いて来た過程で冷たく凍り付いて来た彼の心を溶かす事は叶わない。――彼の瞳の奥には常にして人を射抜く剣呑な光が宿っていたのである。
しかし沙耶はそんな光を湛えた彼の瞳を目にしても、たじろぐ気色はおろか臆す素振りさえ寸毫も見せなかった。彼の瞳に宿る冷たい冬枯れの光は既に自覚の域にある。それなのにも関わらず、平生の如く振舞い接して来る彼女は、霖之助には一種異端の存在に思われた。誰彼をも自分に近付く事を潔しとしない彼には、そんな異端の存在が恐怖の対象となる。人々の間に横たわる関係という繋がりは、何時切れるかも判らぬ脆い糸のようなのだから。
「それじゃもうすぐ昼食が出来るから、貴方もいらっしゃい」
沙耶はそうして微笑を残して霖之助の部屋を出て行った。後には鮮やかな薄紅色の残影が白い襖に残っているばかりである。そして風に靡いて揺蕩う金色の髪の毛は、柔らかな華のような芳香を、彼の鼻を掠めて去って行った。開け放たれた窓から吹き込む初春の風は小春日和に好く合った、涼しくも温かな曖昧な温度を孕んでいる。空を見上げれば僅かな雲が、太陽を横切って遠く聳える山の方へと流れて行く。世の移ろいは斯くも緩やかでありながら、あの雲とは一線を隔した位置にある。何故なら世は激烈な事件の元に初めて動きを見せるものなのである。霖之助はそんな事を考えた。
それから間もなくして霖之助は自室を抜け出して、昼食の場へと行った。そこに霧雨は居らず、卓袱台の上に並べられた料理の品々の前には、沙耶が一人座っているばかりであった。霧雨は仕事が忙しいので昼食は抜くらしい事を霖之助は聞き、大人しく食事の場に着いたが、沙耶と二人で対峙するのは何故だか居心地が悪かった。元々好く話す性質ではない彼からすれば、何事も楽しそうに話している沙耶はまるで対極に位置する女なのである。
「貴方は一体何処から来たの? とてもこの辺りの人には見えないけれど」
「……余り思い出したい事じゃありません。ただ宛てもなく歩いて、此処へ」
静謐に包まれた昼食は言葉少なく行われた。沙耶には居心地の悪さや気まずさを感じる風が無く、純粋な興味や風に当てられて揺れる枝垂れ柳のように柔らかな感情の元に行動しているようである。それが霖之助には頗る苦手に思われた。寡黙な彼は多くを語らない。殊に自分の身の上となれば、重い口は更に重くなり、容易に開く事はない。彼は叶う事ならば沈黙がこの場を領してくれやしまいかと考えた。ころころと変わる沙耶の表情に変化が無くなれば好いと願った。それほどまでに、霖之助には彼女の口からついて出る話題が辛辣に思われていたのである。
「それじゃ話さなくとも好いのだけど、――早く慣れると好いわね」
沙耶はそうして微笑んだ。物事に頓着しない柔らかな微笑である。霖之助は事あるごとにその笑みを目にする。沙耶という女が醸す、無邪気でいて大人らしい姿は、全てその微笑の元に生まれているのかも知れないとさえ思った。彼は沙耶に関して多くを知り得なかったが、それでも外見や物腰からある程度の推測を立てる事は出来た。沙耶は世の中の陰影を知らぬ光の中に佇む女である。怨嗟の声も聞き取れぬ純然たる心の持ち主である。霖之助は彼の女をそう評した。そうして自分は、陰影の渦中にて横臥する惨めな者なのだと評して自身を嘲った。
「昼食を食べ終えたら、少し散歩へ行って来ます」
「私は構わないけど、一人で大丈夫なの?」
「ええ、体力もこの通り回復しましたし、何ら差支えはありません」
「そう。それじゃ遅くならないように気を付けて」
そうして沙耶は柔和な笑みを湛える。霖之助は少しばかりの昼食を目の前に残して立ち上がった。食に対する欲望は彼に如何ほどの食物を求めなかった。それよりも霖之助はこの場を脱する事を先決とし、早々に立ち上がると沙耶の送り出しの言葉も碌に聞かぬまま家を出た。暖かな陽射しは心持ち肌寒い空気を和らげている。一人人里に行き倒れていた時とは比較にならぬほどの温かみが、天より降りて大地より立ち上っているかのようである。霖之助はそんな中を一人歩き出した。釈然としない心の蟠りは、近来常の体調となりつつある。けれども霖之助にはその原因に皆目見当も付ける事が出来なかった。それは雲影が太陽を隠しているが如く、不愉快な事象であった。
「……」
人里の往来は何事もなく、一つの流れに沿うようにして世を渡る。その雑踏は静寂と同義である。川のせせらぎに何ら疑問を抱く者が居ないのと同様で、その世の流れに頓着する者は居ない。けれども一度霖之助がその流れの中に介入すると、雑踏は取り沙汰へと変化し、異なる姿形を持つ彼に向けられるのは、必然好奇や奇異の視線であった。――行き倒れ、霧雨、匿われた、そういう単語が休みなく彼の耳へと滑り込んでくるのも、また必然の事象で、今更そんな事に腹を立てる事もなく、霖之助はふらふらと人里の中を歩き始めた。
雲雀が高く飛ぶ空には陰りが無い。そこから降りる太陽の光にもまた一片の濁りさえ見当たらない。が、それでも尚彼の背に伸びる影は周囲を取り巻く人間の誰よりも陰湿なようである。その中で心持ち全体的な姿を華奢に見せる銀色の髪の毛だけは周囲を憚る事なく無暗に輝いている。霖之助は自らの頭が光を反射している事にどうしようもなく苛立った。視界が白むからでもなく、また周囲から刺さる視線の淵源だからでもなく、矛盾の象徴のような髪色が気に食わなかった。何時しか彼は憮然とした表情のまま、何処か厳しい顔付で、荒々しい足音を立てるようになっていた。裸眼に吹く風が冷たく思われる。彼に吹く突風は冷水を浴びせ掛けられるが如く冷やかであった。
5.
翌日霖之助が目覚めると例の如く襖を開けて挨拶をして来たのは沙耶であった。彼女は霖之助が自身で起床しようがしまいが、定刻になると霖之助を起こしに部屋までやって来る。彼女なりの気遣いなのだろうと霖之助は解釈していたが、近頃の彼にはそれが鬱陶しくも思われていた。何を原因としてその行為を疎んでいるのかは一向に判らないけれども、例の心の蟠りがそういう時に再び現れるのである。全く不可解な現象だと霖之助は思わずには居られなかった。
「おはよう。今日からこの霧雨店のお手伝いさんね」
「感謝しています。拠り所が無い僕を匿って下さって」
「あの人も大概お人好しだものね。きっと貴方が此処に来たのも、何か不思議な縁があっての事なのよ」
「それなら僕はどうも幸運だったようですね」
霖之助が言葉を弄するように云うと、沙耶は朝陽を白い頬に浴びせられながら、頬を綻ばせて「ええ、きっと」と云った。小さな唇は殊更優雅な美しさを放ち、太陽の恩恵を受けて桜色に輝いた。平生の通り淡墨桜の模様が入った着物が、それに同調する。そうして金色の髪の毛は艶美な雰囲気を醸し出す。沙耶がこの部屋へ来て霖之助を起こす度、彼女にはそういう美貌が際立った。まるで妖の類のように、――ともすれば絵画の中に坐する女のような華麗な佇まいは、何時も霖之助を刺激する。心地好い感覚ではなく、何処か微かな憎悪の影を感じさせるように。
「貴方は、何時も家事をしているんですか」
布団から立ち上がり、沙耶がそれを片付けている頃、彼は単純な好奇心の元にそんな事を尋ねた。これほど大きな家にも関わらず、使用人を一切見かけなかった事が稀有に思えたからに他ならないが、そんな彼の推測を肯ずるように沙耶は布団を押入れの中に仕舞うと「ええ」と云って微笑んだ。朝陽に照らされ、布団から舞った埃が明瞭に漂っているのが映る。その渦中に立つ女の微笑みは、何処か寂寞を訴えるような寂しい笑顔であった。
霖之助は妙な質問をした、と自身を諫めると、一寸頭を掻いた。沙耶は平生の如く笑っている。他者との間に何ら隔たりを築かない彼女の性質は、何時でも克明に彼の前へ現れる。それが霖之助は苦手であった。対極に位置する磁力は互いを引き付け合う物だが、一度反転してしまえばたちまち離れようとする。霖之助は敢えてそういうものに背を向ける男である。決して自分に向けられた好意や親切を、そのままに受け取ろうとはしない。
「……貴方は、僕には少し眩し過ぎる」
小さな声量で紡がれた声は空気の中を伝わって女に届く事なく消え失せた。呟きの余韻は未だ彼の咽喉の中に残っている。女はそれに少しも気付いた様子が無い。背を向けた男に対して「朝餉は用意してあるわ」と云ったばかりである。男は如何なる別れ文句も切り出さぬまま、廊下を歩いて行った。朝の空気は冷えている。瞳の奥に残る朝桜の残像は酷く彼の頭の中に張り付いて離れなかった。遠く、鶏鳴が聞こえて来る心持ちがした。
礼の如く食事の場に霧雨の姿は見えなかった。元より忙しい身であるから、普段は碌に朝食も取らぬまま仕事に出るのだという沙耶の言を聞いて、霖之助は彼の勤勉さに意外の感を得たりした。が、これから自分も同じ境遇に陥る未来を想像すると、昨日人里を一人彷徨した時の記憶が舞い戻り、陰湿な心に黴が生えたる如く、進む道先には影が差す。霖之助は暖かい味噌汁を一口啜ると、悄然たる表情で「美味い」と呟いた。食事の場には「好かったわ」という沙耶の言葉が何時までも響き渡っている。それだから殊更「御馳走様でした」という霖之助の声は際立っていた。
「朝食を終えたら店まで来て欲しいって云ってたわ」
「僕などを弟子にしても利は無いと思いますが……」
「そう卑屈にならないで、どうぞ一思いに行っていらっしゃい」
「元来奇妙な外見だし、店が疎まれるようになったらと思うと不安なんです」
「貴方がそんな弱気じゃどうしたって駄目よ。働かざる者食うべからず、あの人もそう云ってたじゃない」
その言葉に後押しされるようにして、霖之助は不承不承しながらも家を出た。沙耶は気楽な身であるようだから、主人の言伝を間違いなく伝える事を義務としているのだろう、と霖之助は解釈した。そうして身勝手な彼女を一寸恨んだ。気楽な身でない追い詰められている存在の彼からすれば、泥船を提供するだけの助言などに耳を貸すはずがない。それなのに彼女の云う事を聞いたのは、沙耶の云う不思議な縁によって交差した運命の元に生まれ得た恩義に報いる為である。それ以外には彼が働く道理などあろうはずも無かった。
「お世話になります」
そうして入った店内は整然としているけれども、埃の臭いが立ち込めて薄暗かった。陽気には到底なれそうもないその空気を嗅ぎながら、霖之助は店の奥まで進んで行くと、そこでは何やらしている霧雨の姿がある。霧雨はそうして一寸動かしていた手を休めると、霖之助の来訪に初めて気付いた気味で「おお」と声を上げた。霖之助は小さく会釈したばかりである。こういう店の知識に乏しい彼が出来る事など、この時点で一つも存在し得なかった。
「初めてで兎角難儀な事が多かろうが、少しずつ教えるからよろしく頼んだぞ」
「尽力します。――ところで、此処はどんなお店で」
「道具屋だ。日用品などを主に売っている。これでも人里の中では中々繁盛していて、お陰であんな大仰な家を構える事も出来た。あの細君を持てるようになったのも、平たく云ってしまえば金の力だ」
「細君?」
「薄々気付いている事だとは思うが、沙耶は己れに嫁いでくれた女だ」
霖之助はこの時初めて、沙耶が霧雨の細君である事実を知った。風体からして細君という推断が出ないでも無かったが、いざこうして当人から事実を耳にすると、如何ともし難い不思議な情が湧いて来る。霖之助にはそれが興味の解消から来るものだか意外の感から来るものだか一向要領を得なかったが、深く考える事もせずに「へえ」と云うばかりであった。そうして次なる疑問が浮かび始めると、彼を阻むものは何も無く、すぐに口からはそれが形となって飛び出て行った。
「金の力だなんて、まさか娼婦である訳じゃないでしょう」
「そういう訳じゃないが、――色々と事情がある」
憂いの雲が懸かる霧雨を前にして、霖之助は質問の為に動く舌を知らず止めていた。踏み込んで来るなと言外に楔を打った彼の表情は、疑問を軽々と尋ねる事を拒んでいる。霖之助もそれ以上は何も云わずに黙っていた。事情という言葉がしつこく耳を離れない。暗然たる重圧を耐え兼ねたが如く仕事に関する説明を始めた霧雨は、先刻の重々しい表情をすっかり放擲して、平生の豪放さを見せながら快活に話し出す。
霖之助にはその姿が不自然に思われた。疑心に病んだ彼の心は他者を深く読み解こうとする。この時その癖は単純なる猜疑の元に行われたのではなく、ある一人の女性を対象として行われた。果たして霧雨の表情が意味した通りに、陰刻な事情があの女にあるのだろうかと、霖之助にはそれが甚だ疑問だったのである。厭世的な彼には人を信ずる心が欠損していた。細く広がった亀裂には、疑心の根がその核を侵さんとして、少しずつ侵入して行くのである。
6.
霖之助が霧雨家に定住するようになってから、早くも一月が経過しようとしていた。霖之助は道具屋での仕事を多々覚え、霧雨の手を煩わせなくとも独りで仕事をする事が出来るようになり、彼自身この生活に慣れようとしている。が、相変わらず人里に住まう人間の視線は彼に対して険悪であった。誰もが店の中で仕事をする銀髪の青年を見る度に、顔を顰めては声を潜めて「妖怪の類ではあるまいか」と噂する。それは外聞など全く思慮の外に置いた、陰湿な嫌がらせと同義であった。彼らは霖之助の気性が荒く無いのを好い事に、影では好き放題に霖之助を批評していた。時には霧雨すらも狂人だと疑われた。――得体の知れぬ者を匿うなんて、狂気の沙汰の行いだと。
しかし霖之助は元よりそんな全くの他人が下す評価など耳に入れなかったし、霧雨も元来の気性からかそんな陰口はものともしなかった。彼は時折自分に対する暴言が聞こえて来ても「何だ陰口なんて叩いていないで、直接云いにくれば好い」と常々漏らして、霖之助に「人間とは余程臆病な生き物らしい」と笑って云う。霖之助はそれが慰みの為の言葉だとは思っても、豪快に笑って見せる霧雨には微かに頬を綻ばせる事もあった。自らの心情を胸の内に留めて押し隠してしまう性質の霖之助と、その真逆で思った事は口にする霧雨とは、頗る相性が好いようであった。
が、沙耶に対するとなると、霖之助の態度は一変して冷やかなものとなる。彼は平生人付き合いも好くはなく、飽くまで他人を遠ざける処世術を持っていたが、霧雨と対話する時はそれが和らいでも、沙耶と対峙する時ばかりはそれが前面に押し出されて無愛想になる。霖之助がそうしている事に、彼自身の自覚はない。また沙耶にも気にする風が見えないので、二人の関係は同じ屋根の下で過ごし始めた時期と何ら変わった様子がない。――故に彼の心の奥底に佇む心象を知る者は居ない。何時でも彼が沙耶を目にする時には、羨望と妬みとが綯い交ぜになり、底なしの沼に揺蕩う闇が、どろりと渦巻いている事に、誰一人として気付かないのである。
「無縁塚、ですか」
「色々と珍しい物が落ちている。己れも何度か行っているのだが、仏の眠る地に入り込むのは好くないと細君が厳しく云うものだから暫く行っていない。お前も一度来てみたら好かろう」
唐突にそんな事を切り出されて、霖之助は大して要領も得ぬままに頷いた。そうして二人は沙耶には内密にしようという約束を交わした後、無縁塚へと出発した。死して弔ってくれる者が居ない孤独な死者が眠る地――霖之助は無縁塚に関してそういう事を霧雨から教えて貰った。そうして実際は赤い彼岸花が妖しげに咲いている綺麗な地でもあって、外の世界から流れて来る珍妙な物がある貴重な場所だとも聞いた。
出掛けるには相応しい日和の好い日である。霖之助が霧雨家へ定住する事になってから一月余りが経過して、幻想郷が呈する様相は次第に春色を帯びて来た。木々に煙る花々は桜色だの紅色だのといった鮮やかな色彩を太陽に向けている。大地に生い茂る青々とした緑は、活気溢れているかのように、風に揺られてはしきりにさわさわと音を立てた。霖之助と霧雨はそんな風景が連なる道を延々歩き続け、やがて目的の地であった無縁塚へと逢着した。
「春の気候とは思えませんね。何処か冷やかで寒い気さえする」
「縁者の無い者が、寂しさの余りそういう空気を漂わせるのだろう」
「すると此処を彷徨う霊魂は、とても哀れですね」
「何故そう思う」
「寂しさの余りそういう空気を発するのであれば、それに凍えているのはこの地から離れられない彼らじゃないですか。それなら紛れもなく哀れに違いありません。それが身から出た錆であるなら憐憫の余地は全くありませんが、運命に翻弄された結果孤独に行き付いてしまったのなら、この世を統べる神とやらは随分と残酷です」
そうして霖之助は辺りを浮遊する白い霊体を、哀憐の想いを秘めたる瞳で見詰め遣った。思考さえ失い孤独だと云うことすら忘れ、存在を無くし裁かれる事もないまま、ただ寂しいこの地を漂い続けるだけの存在は酷く滑稽に思われる。けれども霖之助はかつて自分もそんな状態だったのだと思うと、途端にこの地が肌骨を震わせる恐ろしいもののように思われる。その中で静かに咲き誇る彼岸花が、血液のような色彩を艶めかしく魅せているので、殊更霖之助は身の震えを克明に感じた心持ちがした。そんな彼を嘲るように、赤い花弁が一枚地に落ちては風に救われて、霖之助の頬を掠めて飛んで行った。
「――此処を、不快だと思うか」
何処か心配の色を滲ませた霧雨の顔色は、鬱蒼と茂る樹木の影を被っている所為で平生より厳酷な面持ちのようである。霖之助は「いえ」と答えたばかりで、それきり辺りを徘徊し始めた。無縁塚には霧雨の言葉通りに様々な道具が落ちていた。中には使い所の判らぬ物も沢山ある。けれども霖之助にはその名称が判った。近来道具に触れ合うようになってから、見る道具の名称や用途が知らず頭の中に浮かび上がって来る経験を、霖之助は幾度としている。それを誰かに打ち明けた事は無かったが、彼はそれを天性の能力だと解釈して、肝心の使い方が判らねばどうしようもないと呆れたりもした。――ところへ、霖之助の視線は地面に落ちた道具に一旦奪われた。
それは一種行燈のような趣を凝らしている。けれどもその燈心に灯るのは赤々とした焔ではなく、薄く透き通った白い玉である。霖之助はそれが人魂なのだとすぐに判じた。燈心から逃げようとするかのように、回転したり震えてみたりと忙しなく動くそれは、青白い光を薄暗い無縁塚の中に輝かせている。それが寂然とした情緒を醸し出して、元々寂しい無縁塚を更に寂しく魅せていた。悲壮を煽る悲しき火球。霖之助はそんな感想を心中に漏らした。
「ほう、それは」
「人魂灯」
「判るのか」
「はい。初めて見る物ですが」
霧雨が霖之助の見る物に興味を寄せたのか、あちこちに向けていた目の動きを休めると、彼の方へと歩んで来る。そうして怪訝な表情で「見た事がないのに判るのか」と問うた。
「僕にも不思議なんですが、見た物の名称や用途が判るんです。貴方の店を手伝うようになってから初めて気付いたのですが、どうもそういう特別な能力らしい」
霖之助が自らの能力について説明すると、霧雨は感心した風に地面の上で横たわった人魂灯を見詰めた。燈心にて蠢くそれは休む事もなく頻りに動く。さながらそれは死苦に耐え兼ねて全てから逃げんともがき苦しむ様にも見えた。死して尚四苦にのたうつ姿は見ていて気持ちの好いものではない。霖之助はやがてそれから目を外すと、霧雨を顧みた。彼は難しい顔付で霖之助を眺めている。そうして暫時を要した後、唐突にこんな事を語った。
「物には魂が宿ると云うが、お前にはその声を聞く力があるのやも知れぬ。それが天性のものならば大切にするが好い。お前だけが持ち得る特性だ。無下に切り捨てては勿体ない。努めて道具の声を聞け。彼らが語る事は一つしかなくとも、お前が感じる事は数多ある。ならば人世の関わりは誰よりも多くなる事よ」
霖之助は一度頷いたばかりである。自らの力に対する実感が伴わなくては、彼の言葉が心に響く事も無かった。が、それは追々判る事なのだろうと納得して、人魂灯を一瞥すると「もう行きましょう」と切り出した。そうしてその後に「貴方の細君も心配します」と付け加えた。霖之助は何処か不穏な雰囲気が漂う此処に長居したくないが故にそう云ったが、霧雨には異なる響きが感じられた気味である。
「そうしよう。沙耶も此処が好きじゃないと云っていた」
音が振動によって物質から物質へと伝わるが如く、霧雨へ伝った異の響きは霖之助にも感じられた。そうしてその時、霖之助には自分の世話をしてくれているこの夫妻が、無縁塚を漂う孤独な霊魂と同様哀れむべき対象に思われた。それが如何な解釈を与えたのかは当人でさえ判然としない。彼は道具の名称や用途が伝わって来る時と同じで、無意識の内に何か言葉では表現の仕様がない感情を芽生えさせただけである。
――毒々しくも鮮やかな彼岸花が、再び二人を嘲るが如く、風に揺られて散っている。蒼穹に舞い上がる紅色の花弁は、煢然たる身を彷彿とさせた。
7.
人里の中で行われる宴会に呼ばれたと云い、霧雨は薄暮の時分に家を出た。何でも稗田の人間なども出席する大変大掛かりな宴会らしい。霖之助はその宴会について霧雨に尋ねた折り、「己れも何だかんだと云われる身だが、あそこの方々は好い人達ばかりだ。身内の者についてとやかく云う者など居はしない」と聞いて成程と一人頷いた。
詰まる所今夜家に居るのは霖之助と沙耶の二人なのである。霖之助にとってはそちらの方が余程重大な問題であった。彼が心の奥底に抱える粘質を孕んだ闇は、彼女と相対した時、露骨に勢力を広げる。であればそれが彼を不愉快にするのは至極当然の事象で、わざわざ自分の利にならぬ事は進んでしたくない霖之助は、それを思うと憂鬱になる。が、現実がそうとして動いている以上はその事態から逃げる事も出来ないので、結局は観念するより他に無かった。
今宵は冴え冴えしい月が憚りなく輝く美しい星月夜が広がっている。霖之助は一人自室の机に向かって、ぼんやりとした心持ちのままそんな空を何とも無しに見上げていた。そうして書から得た星座の知識を、実際の空に当て嵌めたりして過ごしていた。が、そんな事をしていても時間は一向流れて行かない。今夜ばかりは夜空に浮かんだ雲の流れが遅く思われる。霖之助はとうとう無聊に耐えられなくなって自室を出た。
「あら」
部屋を出ると、そこには沙耶の姿があった。腰まで伸びる煌びやかな金色の髪は否が応にも霖之助の注意を惹き付ける。彼は予想外の事態に出会った気味で、「どうかしたんですか」と尋ねた。
「燐寸が切れて、釜戸に火が付けられないの。それで、ほとほと困っていたのだけれど」
「買いに行けばそう困る問題でもないでしょう」
霖之助は彼女が至極平凡な悩みの種を自分に打ち明けたのを案外に思った。そうして困るぐらいならすぐに買いに行けば好いと思って、心中に微かな非難を漏らした。けれども沙耶は眉根を下げて、未だ困った風に行動に踏み出そうとしない。それが取るに足らない問題に対してわざと思い悩むような素振りに見えて、霖之助はそこに成熟した女性特有の媚を認めたかのような心持ちがした。そうしてそれが、自分に向けられているかのようで、彼女と相対した時に感じる不愉快が、再び彼の心の中に根を張る。自然霖之助の口は荒々しい調子を伴うようになった。
「そう困る事じゃない。安穏無事に過ごしている貴方なら、燐寸を買いに行く事ぐらい容易じゃないですか」
「それは判っているわ。判っているけど……」
「判っているなら早く行けば好い。まさかそんな事を頼む為に僕を当てにした訳じゃないでしょう」
元来冷やかな彼の視線は、殊更冷たい輝きを放って沙耶を突き刺した。彼女は微かに瞳を潤ませながら、彼の前で俯く。しかしそれしきの事で霖之助の不愉快が収まる事は無かった。むしろ火に油を注ぐが如く、彼の心頭に灯った怒り火は、瞬く間に大きく燃え上がったのである。彼は自分が人里の人間から忌み嫌われている事が、既に周知の事実となっているのを当然としている。それ故に沙耶の言葉は新たな火種と成り得る。猛々しい焔はやがて己が身に燃え移り、他人に飛び火しては惨禍を広げて行く。霖之助にとって沙耶の些細な心配事など、事実として自らの上に降り掛かる火の粉にすら敵わないものと思っていた。戦争を遠目にしか眺めた事のない、実に自分勝手なものだと思い込んでいた。
「どうか、そんなに気を悪くしないで。癪に障ったのなら謝るから」
沈んだ声音は湿り気を帯び、霖之助を見上げた髪の毛同様の金色の瞳からは一滴の涙が零れ落ちる。針が落ちる音ですら木霊しそうな、静邃なる夜である。仄暗い廊下には、小さな女の嗚咽が響き渡った。男は何も云わない。女もまた何も云わなかった。心地悪い静寂の中に響く儚げな声が煩わしい。自身を苛めた嘲りの声より尚煩わしい。彼の前に立つ女は、初めて彼にとって憐れむべき対象への確信となった。霖之助は言葉の槍を引っ込めるより他にない。
「……すみません。僕が買って来ましょう。すぐに戻ります」
「私も、行くわ。貴方だけに頼むのは、気が引けるから」
目元を次々と濡らして行く雫を拭い取り沙耶は心苦しい笑顔を彼に向けた。震える睫毛は痛々しく、そこから落ちる沈鬱な影は彼女の白い頬の中にありありと浮かび出す。霖之助は一言も言葉を発さぬままに歩き出した。背後からは頼りない小さな足音が聞こえて来る。仄暗い廊下の闇が、彼の背中へ大挙して押し寄せて来る心持ちがする。霖之助はいっその事その闇の中へ溶け込めて、誰の目にも触れず消え去れたなら、漸く安心出来るに違いないと思った。
夜も更け出す時分となれば人里の往来は昼間と比較して随分と静かであった。人通りも少なく、時折前から歩んで来る人間が居ても、その相貌は深い闇がことごとく隠してしまって、双方共に互いが誰であるかを確認する術は無い。霖之助はそんな中を沙耶と共に歩いていた。月夜は変わらず冴え冴えしい蒼然たる月光を放っている。夜気に冷やされた空気は鼻孔を通る度、つんとした痛みを与えて来る。隣を見遣れば闇の中でも尚輝く金糸を風に靡かせた女が、俯きがちに歩んでいた。
霧雨が持つ道具屋は既に店仕舞いである。その扉を開く鍵は常時霧雨が所持しているので、彼らには店の中に燐寸がある事を知りつつも別の道具店に向かうしか無かった。その為に沙耶と二人歩かなくてはならないのは霖之助にとって苦痛でしかない。自らの失態も相まって、彼女の落ち込んだ表情も嘲りの声と同様のものとなる。気の利いた声をかけられぬままに霖之助は色々な事を考えながら往来を歩んで行った。そうして月が雲に隠されて、闇夜が世界を支配する度に、不明瞭な安堵を胸に抱いた。逆に家の中から零れる光が二人を照らす時には遣り切れない思いを持つのである。
――やがて二人はある道具店の前に辿り着いた。店内から漏れ出る行燈の光が、心持ち眩しく思われる。中を覗き込むと店主の姿は見えなかった。店の玄関前に立ち尽くしながら、沙耶は躊躇っている。霖之助はそれを見て、すぐさま店内へと押し入った。それに続くようにして沙耶も怯ず怯ずとしながら足を踏み入れる。そこへ物音を聞き付けたのか初老の男が店の奥より姿を現し、二人を見るなりあからさまな嫌悪を表した。
「何だお前達のような者が己れの店に」
「一寸燐寸を買うだけです。すぐに済みます」
言葉少なに霖之助はそう云って、目当ての品を探し始める。元より男の態度は気にならなかった。最早日常茶飯事である。それを一々気に病んでいては到底霖之助はこの日まで平常を保って居られなかった。無論腹立たしさは常に付き纏うが、無駄な争いが利を生むはずもなく、彼は耐えるより他の方法を心得ていない。沙耶も、――沙耶の表情は悄然としていた。まるで店主の男の態度に耐性が付いていないかの如く、辛そうに美しい柳眉を下げている。
「お前達のような者を店に入れたとなれば風評に傷が付く。早々に済ませて帰るが好い。ああ、全く気味が悪い。金も銀も煌びやかなれど、お前達の髪の毛は異端の権化だ。決して自惚れるなよ」
店主はそう云うなり冷罵の念を秘めたる冷やかな瞳を霖之助と沙耶に怯む事なく向けた。霖之助は腹の奥底に燻ぶった焔が再燃する心持ちである。けれどもそれを抑えられぬほど狭量ではなかったのが幸いして、それ以上に余計な問題を挟まずに済んだ。が、沙耶ばかりは今にも零れ落ちそうなほどに涙を浮かべて、一歩動く事でさえ痛みを伴う剣山の上に立っているかのように、その場を動こうともしなかった。
――霖之助は漸く真に愚かしきは自分だと気が付いた。心無い嘲りと罵声の声は、彼に対してのみ向けられたものではない。沙耶もまた霖之助と同じ境遇に立っていたのである。そうしてそれを厭う素振りさえ見せぬまま、彼女は家の中で明るく振舞っていた。その明るみの影に、涙さえ浮かべていた姿を霖之助は捉えていないが故に、鋭き言葉の槍は躊躇なく彼女の心に突き刺さったのである。そうであるなら暖かくあって然るべき血潮は、雪花の如き冷たさと儚さを有している。今になって彼女が無縁塚の地を嫌っていた事実が、彼の脳裏を熾烈な勢いで掠めて行った。
「全く霧雨も物好きな奴だ。下らぬ同情に流されず、保身に生きれば巻き添えを食う事も無かっただろうに」
燐寸の代金を支払った霖之助に、皮肉交じりの言葉を吐き捨ててから、店主は再び店の奥へと消えて行った。取り残された一組の男女は、そうして一言も言葉を交わす事なく店を出る。肌寒い夜気は容赦なく二人を苛めた。空に懸かる月は雲に隠れている。悠久なる深き闇は、先刻と違って暗然たる心持ち以外を彼に与えなかった。砂利を踏み締める音ばかりが、人里の往来に続いて行く。霖之助は道中幾度となく謝罪の言葉を心中に創り出していた。けれども隣を歩く沙耶の頬を伝う微かな光を見る度に、それらは再び彼の中へと仕舞い込まれて、陳腐な慰藉の言葉は遂に彼の口より発せられる事はなかった。
月夜の輝きは、何処までも冷徹な神を彷彿とさせている。霖之助はそれが神であって然るべきものならば、大地を這う我々は下々の者に違いないと思った。そうしてその中で自分達は、殊更小さな存在なのだと思った。
8.
翌日から霖之助の様子は以前と比べると頗るおかしくなった。朝には中々自室から出て来ず、沙耶もまた霖之助の部屋へ行かなかった。必然この家の中を流れる空気は圧力をかけて来るものとなったが、霖之助と沙耶は勿論、霧雨までもが何も云わずに過ごしていた。そんな日々が続いたある日、遠くに聳える妖怪の山を圧する厚い雲が空の一切合財を覆ってしまう曇天が広がる日があった。鬱々とした湿った空気は肌に纏わり付くように遍満して、一滴二滴と降り始める雨は、屋根に当たって騒々しい音を立てた。どうにも落ち着かぬ好くない天気である。霖之助は何をする気も起らず、ただ自室の椅子に腰掛けて、緑の煙る庭先を眺めていた。
春を彩る鮮やかな色の花こそ少なかったが、それ故に小さな雪割草が雨に耐えている様だとか、天を抱くように瑞枝を広げる辛夷の花が、雨に打たれて美しく散る様だとかが殊更明瞭に映る。そんな時節さながらの美を感じれる事が出来たので、霖之助も満更退屈な訳では無かった。
しかし降り続ける雨の音は、それこそ執拗に彼の耳に纏わり付いた。止む気配など到底見えぬ、けれども豪雨と云うには勢いの足りない雨である。それが何だか中途半端な場所を低回し続けている自分のように思われて、霖之助には腹の中に業腹な部分があった。燐寸の事件以来、沙耶とは殆ど言葉を交わしていない。話しかけようという気概はある。が、それを実行する勇気だけが、何時までも振り絞れないで居たのである。一方沙耶には霖之助に話しかけようとする気概がないように思われた。彼女は何時も食事の席や家事をしている間、霖之助と出くわす事がある度に、何処か寂しげな微笑を湛えるばかりであった。それが霖之助の罪悪感を一層高めるので、余計に彼の心境は辛かった。
「……」
やがてざあという雨音を聞いている内に、霖之助は居ても立ってもいられない心持ちになって、おもむろに椅子から腰を上げると、自室を出て居間の方へと向かった。居間は自室を出てから縁側の途中にある。彼はすぐに縁側へと出た。廂から次々と流れる雫が地面に水溜りを作っては、澄んだ水音を響かせている。長らく外さないでいたのか、薄汚れた風鈴が音もなく吊り下げられていた。――そうしてその下に、沙耶は物静かな佇まいで、一人座っていたのである。
霖之助は当然とばかりに狼狽した。雨音が幸いしてか、霖之助の存在に沙耶は気付いていないようである。霖之助は暫時逡巡した後、縁側から引き返して自室の前の廊下に立った。そうして心の準備にと息を二三度吸ったり吐いたりした後、再び縁側へと出て、一人雨を眺めながら金色の明眸を細める沙耶の元へ、恐る恐る近付いた。彼の女は、二人の距離があともう一歩分の所まで来ると、漸く霖之助の存在に気が付いた。
「あら、部屋に籠っているとばかり思っていたのだけど」
「僕も何かしらの家事をしていると思っていました」
「お互い今日はする事のない身だものね」
「そうですね。退屈で仕方がない。その上この雨ですから」
そうして二人は空を仰ぎ見た。曇天の空模様は変化の兆候を決して見せようとはしない。雲間が割れて陽が差す事も無ければ、厚い雲さえものともせず、滲みだす白光が見える事もない。重苦しい空は、ただ冷たい雨垂れを廂から落とすばかりである。心なしか庭に咲き誇る草花も、元気が無さそうに項垂れているように思われる。生気の薄まる天気。鬱懐ばかりが勢力を広げる蕭条とした曇り空。霖之助は却ってそれが心地好くなった。雨の騒がしさが、沈黙を幾らか彩ってくれるお陰か、沙耶との間にある雰囲気が悪い方向へ流れ出していない心持ちがしたのである。
「でも、こういう天気だって何か趣があるものよ」
「と云うと、どんな趣が」
「雨って、神様の涙だって聞いた事があるの。そうすると神様は何かを悼んで居られて、悲しみの余り雨を降らすのよ。もしもこの雨が、不憫な地上の人間を憐れんで流してくれる神様の涙なら、恩倖を感じられるわ」
この雨を神の涙だと沙耶は形容した。霖之助はその刹那無縁塚に赴いて人魂灯を見た時に自分が云った言葉を思い出した。彼は神を残酷だと云った。沙耶は優しいと云う。霖之助はそこに二人が決定的に異なる部分を有している事に気が付いた。そうしてそれが厭世的な自分と、快活に振舞って見せる沙耶の強さと弱さを明確に表している心持ちがした。彼女が眩しく見えたのは、影に隠れて生きて来た霖之助には、例え儚く小さな蝋燭の灯火の光であっても慣れないものだったからに違いない。その元来の性質の差が、あの事件を引き起こしたのだから。
「神様の涙とて、流され過ぎれば作物は枯れます」
「でも降らなければみんな死ぬわ」
「そうすると、神は案外気紛れな存在かも知れませんね」
霖之助はそうして沙耶の隣に座った。彼女は特別な変化も見せぬまま、先刻と同じ姿で佇んでいる。廊下の上に垂れた金の髪が、曇った光を受けて鈍く輝いている。二人は降り頻る雨を眺めながら、座り続けていた。
「――この間は、すみません」
そんな一言が発せられたのは、霖之助の方からであった。彼は視線を庭の風景に向けながら、云い難そうな面持ちでその言葉を紡ぐと、罪悪の念が自身を苛んでいるのか、幾らかの落ち着きを失くしているようである。が、沙耶だけは平生の通り、寂しげな微笑を湛えたまま、黙って座り続けていた。その視線の先に何があるのかさえ霖之助には判らない。あの事件が起こった日より、彼は沙耶に対する如何なる憶測も出来ぬようになってしまった。
やがて重苦しい沈黙はたちまち二人の間に立ち込め始めた。払拭しようにも、霖之助にはその術が見付からない。沙耶の言葉が無ければ、次の言葉が紡がれる事もない。それ故に彼には黙している他に無かった。この沈黙が此処に在るのを黙許しているかのように涼しげな表情をしている沙耶は、気まずさなど微塵も感じていない気味で、静かなる手を重ねたまま、異の愛嬌が秘められたる瞳を、無心に庭へと向けている。
「どうして謝るのかしら」
「実に失礼な事を云いました。今はそれが愚かだったと思います」
「何も謝る必要なんて無いわ。図々しいのは私だものね」
「いえ、それでも貴方は耐えていた。僕はそれを見誤ったんです。どうしたって償いようがない」
「耐えているだなんて、――私はただ逃げているだけだわ。籠の格子の隙間から、何時も見ていただけ」
沙耶の瞳は、そうして初めて霖之助に向けられた。笑みを象る桜色の唇が、綺麗な弧を描く。青味を含んだ白い頬が綻んだ。霖之助にはそれが痛みに耐え兼ねた者の如く見えた。そうして何時かの自分も同様の表情をしていたのだと悟った。冷たい風が颯と吹く。薄汚れた風鈴が揺れて、錆び付いた音が雨の中に紛れ込んだ。霖之助は穏やかに笑んでいる沙耶に対して掛けるべき言葉が、まるで見付からなかった。
「僕はそう思いません。逃げ続けて来たというのは、きっと僕みたような者の事を云うのです」
霖之助はそう云うなり黙った。沙耶も言葉を続ける事はなく、二人は静寂の中に黙り込んだ。しとしとと降る雨が、時を刻まんとするかのように降り続けている。曇天は晴れる兆しなく、薄暗い影を地上に投じている。やがて霖之助はその場に座り続けている内に、沙耶の声を聞いた。心持ち喜色を混ぜた、明るい声音である。そうして彼女の無邪気な面が見える声である。彼女は「私達って似ているのね」と云った。
9.
それから数日経った朝、まだ眠気の醒め切らない時分、容赦のない陽射しが窓より差し込み、霖之助の瞼を貫いた。軽く眼を擦って起き上がると、陽気な雀達の歌声と共に爽やかな朝陽が面を出している。霖之助は昨日の天気が嘘であるかのような日和を見ると、何だか身体の内より元気が湧きあがって来るようで、久方振りに憂鬱でない日が始まりそうだと思った。此処数日彼を悩ませ続けた心の蟠りは、昨日の沙耶との会話を以て、漸く解消されたのである。
ところへ自室の扉が二三度叩かれた。こんと乾いた音が、朝の音に混じって伝わる。そうして霖之助が許可しない内に、沙耶が扉を開けて入って来た。
「おはよう御座います」
「おはよう。もうすっかり朝よ。早く起きて、朝餉を取っていらっしゃい」
「好い天気ですね。今日ばかりは神様の機嫌も好いようだ」
霖之助がそう云うと、沙耶は淑やかに微笑んだ。花開くような美しい笑みの類ではない。年齢相応の艶がある笑みである。霖之助はそれに微かな違和を覚えた。彼の沙耶に対する認識は常に変わらず在り、それは童染みた稚気を秘めたる中に、触れば砕けてしまいそうな儚さを持つものである。けれども眼前に立つ彼女が浮かべた笑みはそれとは程遠い。幼き日々の時日に別れを告げた、真に大人と成った者が浮かべる笑みである。
が、元よりそれを指摘するだけの勇気と確信を霖之助は持ち得ない。彼は気怠い身体に鞭を打って立ち上がったばかりである。自らの肩口辺りの背丈でしかない彼女は、今までよりも華奢に映る。それが先刻の違和と相まって、彼を不思議な心持ちにした。桜の舞う美しい着物は、何時もより優雅に、そうして綺麗に思われた。
眠気が段々と醒めて行くにつれ、霖之助は沙耶の小さな顔の中に、平生と異なる点を見出した。精巧な人形の如く白い肌が、心持ち青褪めているように見えたのである。陽に晒された彼女は、何処か気怠そうな瞳を虚ろなる景色へと向けて、傍目から判じても覚束ない足取りで漸く立っている。霖之助は布団から立つと、沙耶に一歩ばかり近付いてから、その表情を注意深く見遣った。彼女は不思議そうに眼を丸めたまま、何故自分が注視されているのかまるで判らぬ風で、怜悧な霖之助の瞳を見詰めている。
「顔色が優れないようですが、どうしたんです」
注意深く見れば見るほどに、霖之助には沙耶の表情が病魔に伏した者の如く映った。それでそんな言葉を掛けたのだが、彼の心配に反して沙耶は平然とした表情のまま「そうかしら」と云ったきりである。けれどもやはり足元は覚束なく、支え無しに立っていては今にも倒れそうで、生気の失せたる青白い頬は一向に変わらなかった。
――そんな時、「可笑しな人ね」と云い掛けた沙耶の身体が、唐突に前のめりに倒れ出した。糸に繋がれた繰り人形が、主を失くして不様に崩れるように、彼女の身体を支える足は機能を失い折れる。唯一無二の美を携えた桜が、大嵐に煽られて、哀れにも崩れる時のように、彼女の着物を鮮やかに飾る淡墨桜の花弁が、眼前にて鮮やかに散る。それが現の光景であるならば、感服の極みと成り得る明媚な風景となるものを、彼が目にしたのは絵に描いた桜が散る様である。そうしてそれを身に纏う女は、他ならぬ沙耶であった。
沙耶は霖之助の布団の上に倒れ込んだ。朝陽に照らされて、中空を舞う埃が明らかに映る。それすら鬱陶しいとでもいうように、霖之助は慌てた気色で沙耶を抱き起こした。青白い頬が、殊更青白く見える。霖之助は不安の渦に揉まれ、縋る藁すら無いままに沙耶の名を呼んだ。そうしてそんな彼の悲痛な叫びを宥めるように、沙耶の長い睫毛がぴくりと動き、次いで苦しそうに伏せられた瞼から、心持ち輝きの薄くなった金色の双眸が現れた。
「御免なさい。少し、立ち眩みがして」
「立ち眩みだって好くない事に変わりはない。一体どうしたんです、僕は心配で気が気でない」
「大丈夫だから、どうか放っておいて。本当に、大丈夫だから」
沙耶はそう云って、額を抑えながら立ち上がった。その拍子に再び転びかけたので、危うく倒れそうになった所を霖之助が支えて遣ったが、彼女は依然として大丈夫という言葉を頑なに続けるばかりである。無論その言葉で霖之助が安心出来ようはずもなく、彼は平生と比較すれば尋常でないくらいに彼女を問い詰めた。が、それが一向に要領を得る事はなく、沙耶の強情な主張を打ち崩すには能わなかった。
「……少しだけ休むわ。心配してくれて有難う」
「それならお部屋までお送りします。僅かな距離とて倒れられては親父さんに向ける顔が有りません」
これだけは拒絶させまいという霖之助の気迫に押されてか、沙耶は無言の内に彼の言を受け入れた。酩酊してしまったかのような彼女の足取りは支えて遣らねば落ち着かない。努めて霖之助は沙耶に優しく接した。自身の内で不思議の念が起こるほど、その心配に身体が突き動かされていた。縁側を通ると物云わぬ風鈴が下げられている。雨の上がった庭は、朝露に陽光が反射して、まるで全体が輝いているかのようである。その強き光輝に容易く褪せてしまいそうな彼女の髪が、霖之助を不安の内に陥れた。そうしてひたひたと足音を隠して近付いて来る運命を感じた心持ちがした。
枕元には透き通った水が注がれた水飲みがある。そうして布団の上に横たわる沙耶は、長い睫毛を伏せて、輝く金の髪の毛を白い布団の上に広げていた。西洋の姫君のような美しい彼女は、時折苦しそうな吐息を漏らしては額に汗を滲ませている。その傍に座っている霖之助は濡れた手巾を使ってそれを拭っていた。沙耶が倒れてから如何ほどの時間が経ったのか、窓の外には赤い光が落ちている。赫焉として輝く夕陽が落とすそれは、何処か不吉な雰囲気を醸し出していた。遠くで鳴く烏が鬱陶しい。霖之助は一人座りながらそう思った。
霧雨は沙耶が倒れた報せを聞くなり、慌てた風に彼女へ会いに来た。そうして眠りに就く彼女を暫く眺め遣った後、仕事があると云って沙耶の世話の一切を霖之助に託して去った。霖之助はそこに非情な面を見出さずには居られなかったが、それでも何も云わずに彼女の世話をしている。それが自身に与えられた使命なのだと信じて疑わなかった。彼が沙耶に対して持っていた理不尽な感情は、今に於いて罪悪感以外の何物も与えない。こうして世話をする事で、それが慰藉と成り得るのであれば、この身が塵労に疲れ果てるとて、何も厭わぬという覚悟があった。
「貴方……」
ところへ、心持ち濡れた睫毛が微かに揺れたかと思うと、沙耶の双眸がそっと開かれた。そうして天井を見上げた後、隣りで座す霖之助に視線が止まったかと思うと、不思議そうに丸くなった明眸が、何処となく嬉しげな光を湛えて細められた。霖之助は目覚めた沙耶に「お身体は」と尋ねたきりである。男を惑わす濃厚な艶が彼女から放たれているけれども、それに目を向ける事を彼は憚った。深い闇の中に埋もれて、未だ姿を現さぬ不明瞭な感情の断片は、何時からか固い封印の元に隠されている。彼はそれが自己の内に出現するのを、どうしようもなく恐れていた。
「もう大丈夫。夕餉を拵えなくてはならないし」
「いえ、今日は安静にしていて下さい。親父さんもそう云っていました」
霖之助は優しく告げると、無理に起きあがろうとする沙耶の肩を制して、再び布団の上に寝かせる。未だ彼女は申し訳なさそうな顔をしていたが、霖之助の厚意を汲んだのか、それから起き上がろうとはしなかった。そうして大人しく横たわったまま、外へ目を向けては穏やかに流れる沈黙の中に横臥していた。
二人の間にこれと云った会話は無かった。空は暗くなり始めている。黄昏時の夕闇は間もなく漆黒に移り変わり、月夜が姿を現す事であろう。
「――ずっと、そこに居たの」
「ええ。貴方の世話を頼まれていますから」
「何だか可笑しいわね。何時もは私が貴方の世話をしなくてはならないのに」
「こういう日だって時にはあります。休日だと思って下さい」
「それじゃお言葉に甘えるわ。有難う」
いよいよ空は暗くなって来た。病体に宵闇は心細かろうと、霖之助は明かりを付ける。燭台に灯った小さな焔が、ゆらゆらと揺れながら部屋を照らし出し、沙耶の白い頬が明らかに現れた。平生よりも青白くなったその肌が、金色の髪の毛と比較して殊更美しい。まるで狐に抓まれた心地である。霖之助は頗る落ち着かない。若き血潮が煮え立つように体内を流れている。青臭い春の香が、纏わり付いて彼から離れなかった。
「無理せず、体調が悪い時は休む事です。文句など誰も云いません」
二人の間に流れるのは心地の悪い沈黙では無かったけれども、霖之助はふと気付けば励ましの言葉を沙耶に告げていた。彼女は何も云わず、霖之助の瞳を見詰めて微笑んだばかりである。それきり二人は黙ったまま時を持て余した。夜の訪れを知らせる烏の鳴き声も今や聞こえぬ。人里の往来は静まり返った。庭先を吹き抜ける風の音が、颯と鳴っては窓を僅かに揺らしている。春は目前に迫った。それ故に風は強い。
直に桜花爛漫たる景色が見られるようになる。霖之助はそんな話題を口に出そうとした、が、それよりも早く沙耶が口を開く。桜色の小さな唇の間から、艶めかしい舌が覗いた。
「私」
何故だか嫌な予感が霖之助の背筋を這うように過ぎて行った。あたかも大切な人の死を告げられるかのような、予感である。霖之助は即座に耳を塞ぎたい衝動に駆られた。が、そうするよりも早く、そしてまたそうする勇気も持ち得ず、彼は悠然と紡ぎ出される彼女の言を、しかと聞くより他に無かった。彼女は寂しげな微笑を湛えながら、言葉を創り出して行く。離別を宣告するように、死を宣告するように、厳酷なようで何処か優しい声音が、静謐な室内に浸透して行った。
「子供を、身籠ったわ」
衝撃が胸を打つ。乾いた舌が麻痺したように動かない。運命が彼の肩を叩いた。情緒纏綿として雑然とする霖之助の思考は、しかし冷静な外見を保ち続けている。沙耶は眼を閉じて静かに横たわっていた。風が、青い風が吹いている。青春の香に誘われるように、霖之助の拳に力が籠った。無音の世界の中に、「おめでとう御座います」という消え入るような声だけが何時までも響いている。霖之助は柔らかく微笑んだ。兎角辛辣な笑みである。……
10.
格好の冴えぬ草とて春が訪れれば華やかに開花する。
悠然と動く世の中に、無変である物はなく、全ては諸行無常の響きの中に、確然たる変化を見せては流れ行く。
雷鳴轟き嵐渦巻く時あれど、決して其の流れが止まる事はなく、唯々非情に流れるばかり。
其の流動の源を、運命と称せばこそ、強き風に吹かれた花が、ひらりひらりと宙を舞う。
嗚呼儚き花に閑雲野鶴は訪れず、運否天賦に翻弄されては地に堕ちる。
――さりとて、さりとて、恋路の行方を知る者は、無し。
穏やかな春風が、離愁を伴い幻想郷に吹いている。色付く景色は生気に漲り、人々は浮足立つ。
霖之助が沙耶の口から新たな事実を聞いてから、数週が経った。時折沙耶は体調を崩しては床に臥したが、幸い経過は順調らしく、霧雨と仲睦まじくいずれ生まれて来る子の名を決めたりという光景が見られる。霖之助もそういう場面に遭遇しては、「お前はどんな名が好いと思う」などと尋ねられたが、彼はその度に「僕には到底思い付きません」と云ってその場を離れていた。
そんな折、霧雨が再び宴会に呼び出されて居ない日があった。霖之助は居心地の悪さを感じぬ訳には行かなかったが、その理由となると途端に考えるのが嫌になり、きっと気分の所為だろうと決め付けてしまった。決して明るみの中へ面を出さない彼の本心は、何処か執念めいたもので覆い隠されていたのである。が、それも沙耶の前へ出るとなると、苦痛へと転じて平生の顔を装うのが難儀になる。それだから、霖之助の口数は次第に減って行った。
それが起因してか、霖之助は一人縁側に座りながら、夜空を見上げていた。心中を落ち着ける為にそうしていたのかも知れなかったが、彼自身どうしてそんな事をしているのかは判らなかった。ただ身に余る寂寥に押し潰されそうで、感傷に浸りたかったのである。が、だからと云って心持ちは何一つとして変わる事は無かった。
「こんな所で、何をしているのかしら」
そこへ沙耶が遣って来た。霖之助は彼女を一瞥したばかりで何も云わない。ただ、その場を立ち去りたいという思いが胸の中に芽吹いた。
「少し呆けていました」
そんな投げ遣りにも思われる返事をすると、沙耶はふと笑みを漏らす。彼女は何時かの彼と同じように、霖之助の隣へ腰掛けた。物云わぬ季節外れの風鈴が、その上に吊り下げられている。庭を彩る草花は、季節が春へと移るに連れて、色鮮やかに変化した。桜は優雅に花弁を散らしている。それを前にして、沙耶の着る淡墨桜の模様が散りばめられた着物は、殊更映えるようである。けれども霖之助の心持ちは、却って悪くなるばかりであった。
「近頃元気がないように見えるけど、何か好くない事でもあったの?」
「別段特別な事はありません。そう見えるだけでしょう」
素気ない霖之助の返事は沙耶の眉根を垂れさせる。二人は共に黙り込んだ。夜風が草木を揺らす音が、静かに響いている。霧雨の居ない家には静寂が一際目立つ。彼の豪放さは時に明るさをもたらし、最近になって変化した霖之助と沙耶の二人の間にある雰囲気を幾らか和らげるが、今宵は肝心の霧雨が居ない。家の中から物音は消え去り、空虚な風の音ばかりが明瞭である。霖之助は何を云う気概も無くして黙り込んでいた。そうして先刻芽吹いた思いが、次第に肥大化して行くに連れて平然とした風で隣に座る沙耶が、途端に恨めしい存在であるかのように思われ出した。
「また、私が何かしてしまったのかしら」
暗い声音で唐突に紡がれた言句は、たちまち霖之助の思考を乱した。眼前に煙る桜の花が乱れ咲いている様と同様に、霖之助の心持は決して落ち着いてはいない。そうしてどういう返事をしたら好いのかも判らず、彼はただ黙々としているより他に無かった。隣に沙耶が居るのは最早逃れようのない現実の光景である。それだから霖之助は碌に隣を見遣る事も出来ず、彼女の表情を窺い知る由もなかった。
「――私は貴方を家族だと思っているわ。それこそ出会うべくして出会ったとでもいうように。それでも貴方が私を鬱陶しい存在だと思っているのなら、今此処で云って頂戴。非があればすぐに直す努力をするから。そうでなければ、私は貴方と同じ屋根の下で過ごすのが心苦しくて敵わないわ。だから、何かあれば此処で……」
暗くなった声音は次第に湿り気を帯びて来た。それが霖之助には一夜の事件が再来したかのように思われて、何を考える暇もなく、ただ衝動的に隣を見遣った。そこには大粒の涙を美しき金色の明眸から落とす沙耶の姿がある。端正な顔立ちが歪んでいる様がある。白く儚げな手が、微かなる赤味を帯びた頬に当てられて、悲しみに喘ぐ姿がある。
それは沙耶の言が真と定められる証左に他ならなかった。が、霖之助にはその姿を見ていながら如何なる行動も取り得なかった。彼は自身を苛む正体不明の感情から、ひたすらに逃げ続ける他に現状を乗り切る手段が見付からなかったのである。安易な言葉を投げかけた所で、一時の救済には成り得ない。霖之助が取るべき行動は沙耶に対して真摯な気持ちで向き合う事のみである。そうであるはずなのに、聡明な彼は愚かしくもその事実には到底気付かぬままであった。
「僕は……」
霖之助はそう云い掛けて踏み止まった。濡れた眼差しが向けられている。彼の胸を射抜く強烈な矢の如き瞳が一心に向けられている。外界の音は消え去った。二人が居る世界は無音の中に佇んでいる。美しく乱れ咲く桜の風景ですら、二人の情操を刺激し得ない。そうして霖之助が紡ごうとした言葉は闇の中に溶けては消えた。後に続くのは酷く逃避的で、酷く残酷な言葉の刃ばかりである。沙耶の視線を受けて、霖之助は言葉を紡ぐ。
「近い内にこの家を出ます。そうして自分の店を立てて独立しようと考えています。貴方の云う僕は、きっとこの家に留まるか否かに悩まされていた状態だった僕なのでしょう。しかし、もう決意しました。僕はいずれ独立し、貴方達の温かな手助けなしに生きようと思います。本来それこそが在るべき僕の姿なのです。妖怪――例え半妖であっても、人と同じ道を歩く訳には行きません。僕を匿ってくれた御恩を返すのなら、そうする事が一番の方法なのだと、漸く気付いたのです」
一思いに紡いだ言葉は、一切の滞りなく空気中を伝わって沙耶の元へ届いた。彼女は悲しみに濡れた瞳を丸くさせながら霖之助を見詰めている。霖之助の瞳は刻薄なまでの冷たさを以て、彼女の眼差しを正面から射抜いていた。静寂が木霊している静かなる空間に、一陣の風が吹いた。春の訪れを告げる強い風が、彼らの関係の変化を告げるように、強く強く吹き抜ける。やがて沙耶は何も云う事なく嗚咽を噛み殺して咽び泣いた。玲瓏たる調べの泣き声が、深い闇の中へ響いている。……
11.
霖之助が独立するという考えを持つに至ったのは、何も突発的なものではなかった。彼らの過ごす時世で妖怪と人間の隔たりは果てしなく深い。そうした関係がある中で、半妖である霖之助が人と同じ時を歩むなどという事は決して出来ない事なのである。それだから霖之助が独立を考えるようになったのは、沙耶に切り出した時から大分時を巻き戻した頃であった。そうしてそれを打ち明けてから、霖之助の中で独立の決意は更に固くなり、霧雨との対談が行われるほどに進んで行った。
霧雨は初めこそ驚いた素振りを見せたものの、霖之助の話を聞く内に持前の豪放さからか、霖之助の意思を汲んでか、独立に対して好意的な反応を見せた。が、それを許諾して、すぐに独立しろなどとは云わず、今少し此処で修業を積んでから、自分が独立しても差し支えない程度の知識を身に付けたと己れが認めたなら、その時に初めて独立を許可しよう。突然この家に住む事になったお前とて家族である。一知半解の知識しか持たぬ身で、己れは独立を許可しない。己れを感服させるほどに実力を付けるが好い。その時には、お前に生きる力が有る事であろう、と云い、霖之助も快くそれを了承した。
そうして季節は流れて行く。桜が散り青葉が煙り、それが赤く色付いて行く。霖之助は道具屋の手伝いを通して、霧雨の持つ知識のことごとくを自身の内に修めて行った。それこそ霧雨が霖之助の知識を認めるほどに、彼は成長した。そうして霖之助は、とうとう独立しようという話を霧雨に持ちかけようと行動を起こした日、残酷な運命の歯車が、重苦しい音を鳴らして回り始めたのである。それは底冷えのしそうな冷たい雨が降る、深い宵の事であった。――
ざあと降り注ぐ雨が騒々しい夜、霧雨邸は慌ただしく動いていた。月も雲の中に隠れる不吉な宵である。寝室に敷かれた布団の上には、額に脂汗を浮かした沙耶が横たわり、その隣に霧雨と霖之助が神妙な面持ちで佇んでいる。時折呻く沙耶の呼吸は荒々しく、それを見守る二人の表情も、何処か不安めいた影に覆われているかのようであった。
沙耶の産気付いたのは、皆が寝静まろうとした時の事である。時刻は日を跨ぎ、肌を刺す寒気が厳しい過酷な夜に、突然沙耶は腹痛に悩まされ、それが出産を間近に控えた証なのだと気が付いた。
「霖之助。里から産婆を呼んで来てはくれまいか。己れは沙耶の容態を見ていなければならぬ。医術の心得を持たぬ我らが二人、此処に居ても意味はあるまい。助けが必要だ。経験を積んだ人の手が」
縋るような声音は、霖之助が一度として聞いた事のないほど、弱々しい声だった。何か形の見えぬ恐怖に身を抑圧されている気味で、霖之助は事態をそう重く捉える理由が頗る腑に落ちなかったが、その場は大人しく「はい」と云って立ち上がった。ところへ、布団の上に寝ている沙耶が、震える唇で蚊の鳴くような声を振り絞って、霖之助に何事かを云った。小さく今にも消えてしまいそうな声を聞き取るのは容易で無かったが、霖之助はその声をしかと聞き、そうして猜疑のようなものを微かに感じ取った。夫婦の面持ちは何処までも重苦しくあったのである。
「こんなに寒い夜だから、無理はなさらないで……」
自らが苦境に陥っているというのに、他人を心配するのは人の好い性質の為か、それとも何か特別な理由があってか、霖之助には到底判らぬ範疇である。彼は結局心の深くに残った蟠りを払拭する事なく家を出た。そうして冷たい雨が降り注ぐ外へと身を晒し、霧雨から聞いた産婆の居場所に向けて走り出した。風が強く、横から殴りかかってくるように雨は強烈な勢いで降っている。光の差さない空には黒洞々たる闇ばかりが、広がっていた。
産婆が住んでいるという家は案外に近かった。霖之助が走り始めてから間もない所にある。が、時間が時間だから、そう速い対応はしてくれまいと霖之助は覚悟して、古い戸を大きな音を鳴らして叩いた。けれども一向に応対の気色はない。それどころか人が住んでいるのか危惧してしまうほどに、中から人の気配が感じられなかった。霖之助は次第に不安になって来て、その度に戸を叩く力を強くして、懇願にも似た表情で「ごめん下さい」と叫んだ。
「なんだい、この夜更けに」
ところへ、突然戸が開き、中から乱れた白髪を掻きながら一人の老婆が現れた。腰が折れそうなほどに曲がっている、随分と年を食った風体の老婆である。霖之助は一寸怖気付いたが、老婆に事情を説明しなければならなかったので、早口に沙耶が産気付いていて苦しそうにしている事や、一刻も早く産婆の手を借りなければならない旨などを簡潔に話した。が、それを聞いた老婆が人情に動かされる様子は豪も見られず、彼女は小さく欠伸をしたばかりである。その呑気な様が、焦燥を携える霖之助には全く業腹であった。彼の中に蟠った不安の萌芽は、次第に成長している。
「他をお当たりな。普通の家庭ならいざ知らず、お前のような得体の知れない格好をした者が二人も居るあの家に行く気なんてさらさら無いよ。判ったらささっとお帰り」
霖之助は余りにも衝撃的な言葉に、一瞬我を無くして立ち尽くした。これが人の世にあるべき人情の姿であるのなら、何と冷たいものなのだ、きっとこの老婆には冷え切った血潮しか流れてはいまい、でなければ今にも出産を控えている女性を見捨てなどするものか。霖之助はそんな事を思いながら、自分に背を向けて再び家の中へ戻ろうとする老婆を慌てて引き留めた。この時ほど、霖之助は医療に関して無力である事を呪った事はない。平気で他人を見殺しにする輩にしか頼る事が出来ないのは、彼にとって矜持を打ち砕かれる思いである。が、それこそが沙耶の心配する理由なのだと知った。
「待って下さい。僕達には出産に立ち会う能力など何もありません。貴方が手を貸さないというのなら、きっとあの方は母親にもなれずに死にましょう。決して身体の強い人じゃない。だからどうしても貴方の手を貸して貰わなければ困ります。同じ人の身なら、一緒に来て下さい。少し外見が違っていたって、あの方が人間だと判らない訳ではないでしょう」
必死の言葉は、しかし鼻を鳴らされて一蹴された。老婆は徒に光るぎらぎらとした瞳で霖之助を睥睨すると、冷たい声音で話し始める。凡そ協力しようという気色は豪も見られぬ物言いである。霖之助の焦燥は次第に昂って行った。無理にでも引き摺って行きたい心持ちがする。けれどもそれを踏み出す勇気が、どうしても出なかった。
「何と云われようと行くものかね。お前は知らないかも知れないがね、あの女は昔散々人里を荒らして回ったんだよ。盗みなんて日常茶飯事、声を掛ける者には罵声を浴びせ、石を投げ、そりゃもうやりたい放題だったさ。それを霧雨の所が引き取ったものだから、誰も何も云えず仕舞い。あれほど性質の悪い娘がいるものか。因果応報だ、死ぬのもまた道理さね」
遂に老婆は霖之助の言葉に耳も貸さずに家の中へ引っ込んだ。その間際に「無理にでも連れて行こうものならお前を罪人にしてやる」という言葉が霖之助に重く突き刺さった。霖之助は玄関口に佇んだまま、絶望に打ちひしがれた表情で雨に打たれていた。衝撃的だったのは老婆の辛辣な言葉ばかりではない。新たに告げられた沙耶の過去が、酷く心に痛い心持ちがしたのである。が、それを因果応報として野垂れ死にするのが運命ならば、自分にも沙耶にも生きる道など残されてはいない。老婆の論弁は何処までも客観的で、何処までも非人情的である。それが霖之助を深い悲観の内に招いたのである。
霖之助は暫くすると、光の消え失せた死人の如き虚ろな瞳で歩き出した。身に刺さる雨の冷たさは少しも痛痒を与えない。頭の中は酷く冷静である。怒りや憎悪の全てが、絶対零度の冷たさで凍り付いていた。ただ震える唇から「きっと死ぬ」とばかり繰り返した。刃よりも尚冷たく鋭い現実が、背中に覆い被さっているかのように思われる。見上げた空に、光るものは何一つとして浮かんでいない。細かな雨粒が、顔面に打ち付けて来るばかりであった。……
12.
霧雨は何をも語らなかった。また沙耶も何も苦悶に顔を歪めたまま、何事も話さなかった。全身を濡らした霖之助が一人で帰って来た事実は、最早その理由を二人に告げている。彼らは等しく深い絶望の中に佇んでいた。そうして縋る藁も無い濁流の中で身を揉まれながら、必死にこの状況を切り抜ける術を模索していた。が、時は止まる事なく過ぎて行く。沙耶の顔色は段々青味を帯びて行く。付け焼刃の処置ですら、誰の頭の中にも浮かんでは来なかった。
「あなた……」
雨音ばかりが木霊する嫌な沈黙が広がる中で、か弱い女の声が明らかに響いた。沙耶は無理に微笑みながら霧雨を見詰めている。そうして身体に走る激痛すら物ともせずに、話し始めた。
「もう私は死ぬわ。最初から判っていた事だもの、覚悟はしてる。それでも、子供は、私の子供だけは無事でいて欲しいの。だからあなたの手で、取り上げて頂戴。何も判らなくて好いわ。ただ生まれて来る赤ん坊を引っ張り出すだけだから」
「馬鹿な事を云うな。お前を死なせたりするものか」
「馬鹿な事でも真実だわ。ねえ、お願いよ。私の事は構わずに、子供だけは……」
夫婦が会話している様を、霖之助は傍観しているだけであった。元より掛けるべき言葉が見付からない。そうしてするべき行動も、見付からなかった。一寸先には闇ばかりが広がっている。暗闇を裂く光は何も無い。沙耶の言葉は真実に違いなかろうと、霖之助は現実に抗おうとする自己の裏に確信を得ている。それだから殊更霧雨の姿は何処か滑稽に映った。抗え得ぬ現実に抵抗したとて、何も変わらない。運命は常時残酷に、その者の元へ姿を現すのである。
「あなた、どうか泣かずに子供を生かしてあげて。でないと私は一生あなたを怨むわ。死んだって怨むわ。――ねえ、お願いだから判って頂戴。私はもう長くない。元より身体の弱い身ですもの。あなただって判っているはずだわ」
沙耶の声音は断続的になっている。襲い掛かる苦痛が会話さえ容易に成立させんとしている。霖之助は思わず霧雨の肩に手を置いた。振り向いた男の顔は、悲壮に歪んでいる。あれほど屈強な肉体に思われた彼の身体は、稚児のように弱々しく霖之助に目に映った。
「云う通りにしましょう。これが今生の別れなら、その願いを聞き遂げる事が僕達に出来る事ではありませんか」
霧雨は頷いた。行燈に照らされた男の面持ちは、殺人を犯した罪人のようにも見えた。
新たな生の産声は高らかに響き渡った。先刻まであった嫌な沈黙を払拭するように、母親の死に際を悲しむかのように、強く響いた。血に塗れた布団には、最早脂汗すら浮き上がらぬ青白い頬の女が横たわっている。今にも消えそうな瞳の光は、それでも強く光りながら、霖之助に抱かれる我が子へと注がれて、血色の薄い唇は穏やかな笑みを象っていた。
「沙耶、お前の子だ。お前と俺の子だ。見ろ、可愛い顔をしている。この子はきっとお前に似るだろう。美しい女に成長する。だから好く見てくれ。この子が成長するまで、ずっと見ていてくれ」
霖之助から我が子を受け取って、霧雨は沙耶の前へ泣き続ける赤子を出して見せた。男の涙は赤子の身体にぽたりと落ちている。女の涙は目元を伝って枕に沁み込んだ。霖之助は二人の空間に立ち入る間隙すら見出せぬまま、彼らの後ろで立っていた。今にも息絶えそうな女の顔が、克明に映る。美しい金色の髪、金色の瞳、淡墨桜の着物――それらを携えて爛漫と振舞っていた彼女の過去の姿が、闇の中を駆け巡って彼の中に現れた。
「ずっと見ているわ。この子が強く成長してくれるよう祈りながら。――魔理沙、魔理沙、母親が居なくても、どうか強く生きなさい。私は何時でも貴方を見守っているから。例え私に似ようとも」
美しい女の明眸が、静かに伏せられた。我が子を抱いた手が、力無く両脇に崩れ堕ちる。男の慟哭が、暗闇の中へ響き渡った。神の涙が、ざあと降っている。悲しみに暮れる彼らを嘲笑うかのように。
13.
煙と消えるは恋心、闇に溶けるは彼の女。
恋路の行方を知る者は無く、恋路の行方を知る由は亡く。
残った男の咽び泣き、神の目元から流るる涙が攫い逝く。
――されど昔日の面影は、しかと刻まれ生きている。
沙耶の葬式は密やかに行われた。参列者も少なく、非常に静かなものではあったが、霧雨はそれで満足しているようであった。大粒の涙を流す霧雨とは違い、霖之助は淡々と進む式を、無表情のまま眺めているだけであった。彼女の死という事実を受け止められていないのか、現実から逃避しているのか、それすらも定かでなかったが、元気に騒ぐ魔理沙を見ると、不思議と目の奥が熱くなるのだった。
沙耶が死して、二人の生活は目まぐるしく変わった。家事もしなくてはならなくなり、魔理沙の世話もしなくてはならず、仕事ばかりを優先していられなくなってしまったのである。それだから霖之助も独立という目的は一先ず置く事にした。そうして季節が動いて行く中、魔理沙はすくすくと成長を遂げ、金色の髪の毛を生やし、金色の双眸を持つ可愛らしい娘になった。まるで母親と見紛うその姿に、霖之助も霧雨も戸惑わされたものだが、他人と違う外見など気にする事なく元気に遊び回る魔理沙を見ると、二人とも頬が緩むのである。
そんなある日、霖之助はとうとう独立の話を霧雨に持ちかける事にした。約束の通りに、霧雨の持つ知識は全て修め、自律出来る能力も得ている。魔理沙は丁度三つを数えるくらいに成長した。準備は万端だと霖之助は信じて疑わなかった。
「そうか。お前がそう決意したのなら、己れは何も云うまい。好きにするが好い」
「有難う御座います。今までの御恩は未だ返し切れていない身ですが、これからも精進します」
「思えば立派になったものだ。少し前までは、もっと沈鬱な顔をしていた」
「貴方達のお陰で、こうして今の僕が居ます。幾ら感謝しようとも足りません」
そんな会話を交わしては、一人で遊んでいる幼い魔理沙は、霧雨や霖之助に無聊を訴える。その度に二人は苦笑しながら宥めているが、腕白な魔理沙は不機嫌そうに唇を尖らしていた。
「しかし、精進という言葉は些か勘違いが過ぎる」
「と、云うと」
「お前は己れ達の家族だ。そうして親のようなものだろう。精進ではなく、孝行してくれ」
霖之助はその時、神の涙を見た心持ちがした。そうして女の咽び泣く声を聞いた心持ちがした。霖之助を家族だと云った女の声は今でも忘れられぬ記憶であった。そうしてそれがある種の離別だと気付かぬ訳には行かなかったから、彼は独立の話を切り出したのである。が、今やその思い出は後の祭りとなって、寂寞の想いを抱かせる以外に彼に何も与えなかった。ただ、微かな暖か味が、身体の芯を暖めているかのような心持ちがして、「有難う御座います」とだけ云った。
「そうだ、お前に渡す物があった」
「渡す物」
「沙耶が、いずれ自立するお前に、だそうだ」
霧雨は寂しげな眼で霖之助を省みると、一寸部屋を出て、すぐに戻って来た。手には決して秀作とは云えぬ出来の招き猫が抱えられている。掘りは荒く、全体的な形も歪であったけれども、彼の目には他の何にも勝る金銀財宝の如く、その拙い招き猫が映ったのである。一人の女が必死に作ったのであろう、その招き猫が、自分の為に此処に在ると思うだけで、霖之助の瞳からは熱い雫が零れ落ち始めた。
泣きたかった訳でも、まして感動の余りに流した涙ではない。ただ、その招き猫が沙耶の死を幾年の時を越えて、初めて彼に実感をもたらしたのである。それ故に彼は泣いた。外聞を憚る事なく泣いた。霧雨は優しく肩に手を置いて、無言のままその部屋を後にした。ただ幼い魔理沙だけが、まだ上手く回らない舌で「大丈夫」と繰り返し尋ねていた。
――何処までも青く澄み渡った空に、雨は降っていなかった。……
――続
もちろん霖之助も。
しかし無粋なツッコミですが、幻想郷の人里は妖怪と飲んだりするくらい仲がいいと思うのですが…
続きに期待します。
それぞれの人物が、どのような思いでいたのか、些細な表現からも十分に伝わってきました
後篇に期待して、満点はとっておくことにします
これは続きが気になるところです。
霖之助のこれからの状況がどうなっていくのか……。
人里の反応も解らなくはないのですが…やはり産婆などの反応は
読んでいてかなり酷いなぁって感じますよね。
次を楽しみにしてます。
文章のおかしい部分?があったので報告
>僕みたような奴は
『僕みたいな奴』もしくは『僕のような奴』ではないでしょうか?
場面や情景がすごく丁寧に描写されているのがすごく好きです。
霖之助が独立してからの後編が楽しみです。
とりあえず産婆はあの世でエーキ様に有罪をもらい地獄に行くと思いましたね。
ほぼオリキャラに近い霧雨夫婦をここまで魅力的に描くとは……。
俺の胸中がエライことになってます。
魔理沙視点なのか霖之助視点なのか…
> 惨めな者なのだと評して自信を嘲った。
自信 → 自身?
あと章番号が一部重複していました(9. が 2 つ)
それを踏まえた上で
あの産婆は許せねえ
昔風の文章なんで誤字じゃあありやせん
こういうのもご法度かな……大丈夫だろうか
ぬぬん、点とか感想とかは後編のつもりだったけど
でもちょっと何か言いたくて我慢できなかった……よってフリーレス
導入が今までで一番面白いやり方だったと思いました
>沙耶が沙耶が遣って来た
ただやはり人里の描写等に酷く違和感を感じますし、年表が本来のものとかなり変わってきてます。
これが沙耶編だとしたら次は魔理沙編ですかね?
芥川龍之介の様な雰囲気と、この美しい情景・心境描写。
どことなく明治、大正のかほりがして、私はとても感動しました。
ただですね、私としては、情景やら心境の描写がいささかしつこすぎる感じを受けまして、
もうちょっとあっさりしてもいいと思いました。ただ描写力にはかなりのものがあるかと。
あと原作準拠関連ですが、コレに関しては二次創作小説という立場上、
最低限のラインさえ守れば、原作と違ってもいいと私は思ってるんですよ。
そのライン自体、人それぞれ違いますけどもね。
長文&上から目線、大変失礼致しました。続編に期待させていただきます。
後半、楽しみにしています。
思わず絵画でも見ているかのような、そんな錯覚を覚えさせる流麗な文章ですね。
食せねばならぬ霖之助や、人外なる者に対して畏怖嫌煙する人里の住民など、
原作とは些か違う点が見えますが、それを挙げても遜色ない出来映えかと。
続編もあるようなので、この点数で評価を付けておきます。後編お待ちしてますよ!
続編に期待
シーンによってはちょっと書き(描き?)込み過ぎの感はありますが後編が楽しみです
夏目漱石の作品を読んでいるような気持ちになりました。
香霖堂本編でも語られている通り、霖之助が人里にいた頃は
人妖の壁は薄くなかったはずですし、原作の雰囲気も損なっていないと感じます。
恋の話が絡まなくても良いんじゃないか、と思ってしまうくらい引き込まれました。
ぜひとも後編をも読みたいです。
前述のレスで指摘されいるようなのですがやはり、少し描写がくどく感じられる感もありましたが・・・。
難しい削りどころだと思います。
後、思うところがあったのは原作での霖乃助の自身の能力に対する批評と、今作中にて霧雨に語られた批評が一致していることです。
原作中の霖之助が語るように、「まずは自分で考えてから」という風に、自身の考えを大事にしようとする霖之助が霧雨の意見をそのまま流用しているのには違和感がある、と思いました。
そこはやはり、霧雨自身の考えを別に作っていただくというのが良いと思われます。
それともうひとつ、気になった点なのですが、邪険にされた老婆に霖之助が何か皮肉を一言零すといいなと思いました。
霖之助は元来野心家ですから@@
ただ単に私の願望だと受け取って流してもらえればorz
続き楽しみにしています
あなたの文章を読む度に、私はベロンベロンに酔っ払ってしまう。
けれど、どれほど酔ってもこの胸の痛みは消えてはくれません。
なんて恥ずかしい事を書いてしまう気分になってしまう! どうしてくれるんですか! もう大好きです!
自分は『考える、考えさせられる文(あやじゃないですwぶんですw)』
というのがとても好きです。
これからもこういう文章を見ていけたらいいなぁと自分は思いました。
上から目線失礼しました。