奴らこそ恐るべき化け物なのだ!
ああ、なんということだろう。こんなことがあってよいものだろうか。私は……恐るべき事実の一片を掴んでしまったのだ。
もちろん、すぐにでも手放したかったのだが、思考はこのおぞましい状況をがっちりと握り締めていて、空気の漏れる隙間もできなかった。
かといって、このまま握りつぶそうにもそれ以上の力を今の私から搾り出せるはずもない。
理不尽な恐怖が回転を止めた脳髄から這い出て、足の先にまで凄まじい速度で染み渡るのを実感する。風祝としてまったく情けなく思うが、同時に仕方のないことなのだと喚きたてる声もした。
肩がぶるりと震える。
「ああ、寒い? もうちょっと火を強くしようか」
「い、いえ……その、大丈夫、です」
外気の寒さは室内をわずかばかりに照らしているか弱い炎の勢いをほとんど飲み込んでいたが、身震いはそのせいではなかった。震えは竹林の奥にひっそりと佇んでいた、このくたびれた小屋から生まれたのだ。
私の左隣に座り、小さな囲炉裏に向かって手をかざしている彼女の気遣いも、今となっては食前のマナーとしか思えなかった。
優しく接し、相手の警戒心のなくなったところで、血に渇いた牙をやわらかな四肢に深々と突き立てようとしているに違いないのだ。混乱と恐慌の荒れ狂う感情の波こそが、人を喰らう妖怪の好物とするところなのだから。
ああ、まったく恐ろしい。重い、息苦しい室内の沈黙は私の慎ましい心臓の鼓動を無理やりにでも動かそうとする。
身は硬くなり、頭の皮がぴんと引き締まったように感じた。
しかし、このままどれだけの注意を奴らに向けていようと、この恐ろしい人喰いの脅威はわずかばかりも薄れることはない。
そのうち、痺れを切らして私を殺してしまうだろう。弱り果てたこの肉体では、抵抗できたとしてもただの一撃だけだ。間もなく奴らは食事に入ることになる。
なんといってもこの人喰いの妖怪は、残虐にとみ、暴虐の虜で、加虐を常習とする、恐るべき化け物なのだから。
私がそれをはじめて耳にしたのは、つい数十分ばかり前のことだった。
しかし、そこに至るまでの経過を話さなければならない。そもそもの失敗は、ふもとの村に使いに出たときにある小説を見つけてしまったことなのだ。
呼吸するたびに体重が減っていく奇病のためにただひたすら食べるだけの生き物と化してしまった女がいて……という語りから始まる、世の女性がきわめて不愉快に思うふざけたそれは私の怒りと若干の好奇心を右手に惜しみなく流し込み、後にはこの充血した目が残った。
つまり、夜通しの読書は厚着もしていなかった私にあまりにも優しくなかったのだ。
そうして、風祝として恥ずかしくも風邪を患ってしまった私だったが、信仰が不動の土台を築く前にふもとの村にいる医者を訪ねるといった短慮な振る舞いをするわけにはいかなかった。
だが、このまま安静にして治すには私の自尊心があまりに喧しい。
そのため、以前に誰かの言っていた竹林の奥にいる医者ならば秘密裏にこの困った事態を処理できるだろうと私が考えるのも道理だった。
薬を無事に手に入れた私は妙にあちこちが焦げ付いた廊下を渡りながら、さっさと帰路につこうと考えた。
そのときだ。
兎たちの怯えた話し声の意味するところ、つまりこの近辺に出没するようになった恐るべき化け物の話を聞いたのは。
人喰いの猛威は取り除かなければならない。だが、今の私が実行すれば、それは暴勇に振り回された愚行となるだろう。
ともすればすみやかに竹林を抜け出すべきなのだが、ここで恐るべき化け物ほどに私の風邪の猛威は増大してしまい、前後の区別もつかなくなってしまった。
決して、私が方向音痴でもなければ迷子などという風祝としてあるまじき痴態を晒しているわけではないことは、誰の目からも明らかだろう。
ただ、不全を訴えてやまない体調のためちょっとばかり道がわからなくなってしまい、温まった脳髄のためちょっとばかり精神的に脆くなってしまっているだけなのだ。泣いてなどいない。
飛ぼうにも高く浮かぶほどの力強さを肉体は持ち合わせていなかった。
雨まで降ってきたときはさすがに水滴が頬を伝った。もちろん、雨粒だ。泣いてなど断じてない。風祝は強い子。
「うぅ、ぐすっ……あ、小屋……?」
不思議なことに、本当に不思議なことになんらかの障害により色彩の滲む視界の中、少し……というには語弊を覚悟しなければならない程度にくたびれている小屋が竹と竹の合間から躍り出た。
ぽつりぽつり、ぽつぽつ、と雨音が大気を刻む。この雨雲はどうも短気な性分のようで、音はその勢力を徐々に拡大させていった。
迷う暇はない。
それに休息のひとつでもとれば、弾んだ息を寝かしつけられるかもしれない。
私は急ぎ足でまっすぐ小屋へと向かった。辺りはもう暗くなっている。
あんなにも朽ち果てているのだから住人というものがいないのかもしれない。だが、そうなろうと一向に構わないのだ。一時の雨をしのぐことさえできるなら。
そうして、手早く小屋の戸を閉め、呼吸のおさまりを待つ私が先客の視線に気づいたのは、胸の落ち着きを気にせずになんとか動こうと思えるようになってからだった。
「知らない客が立て続けとは、珍しい日もあるものだね」
「えっ、あ、その、すいません。えと……よろしければ屋根をお借りしたいのですが」
「どうぞ。手狭なところで悪いけど」
話した女性はこの小屋の住人のようだった。室内は彼女の言うとおりの広さで、目立つものは中央に鎮座する囲炉裏くらいだ。
私は家主の右隣に腰を下ろす。さらに右隣、つまり家主の正面には彼女の言う一人目の客が既に温まっていたようで、濡れた後がほとんど見えなかった。さらにじっと見ているとその男性は居心地を悪そうに体をもぞもぞと動かしながらこちらに向かって言った。
「君も僕と同じようだね。僕は森近。森の近くで古道具屋を営んでいる」
「あっ、はい。ご丁寧にどうも。東風谷早苗と申します。風祝です」
森近さんは火箸を動かして甲高い音を響かせている。
しかし、随分と長い火箸ではないだろうか。ある程度成長した子供の腕くらいにはありそうだ。だが、彼はそんな不釣合いを無視するように、長い長い棒を揺らせていた。
「竹林に迷った挙句、雨に降られるとはあんたら本当についていないよ。ああ、わたしはここの家主、藤原妹紅だ」
「はい、藤原さん。ありがとうございます、助かりました」
「……できれば妹紅と呼んでくれないか。あんたもな」
「ええ、わかりました。人間同士、お近づきになりましょう」
「僕は半分違うんだが」
こうして私たちは打ち解けあったはずなのだが、どうにも空気は重苦しいままだった。雨音だけによるものではないように思える。
そうだ、音だ。
火箸のこすり合う音がまだ続いている。森近さんは何故に火箸を手放さないのだろう。
待て、いや……まさか。しかし、ことによると彼こそ……。
突如として私の脳裏にある考えが横切った。
想像しうる限りおぞましいものなのだが、どうしても振り払うことができなかった。
そう、森近さんこそ、この男こそが……。
いや、それならば何故こんなところで呑気に暖をとっているのだろうか。飢えた獣がご馳走を前にどうしてじっとしていられるのか。
そこまで考えて、私はすぐに打ち消した。単純に暖をとっていたからだ。いくら食事が相手でも、やはり不全を引きずってでは楽しめない。寒いままのろのろと食べていては愉悦を感じる前に飽きがきてしまうのだ。
それにこんな天候なのだ。もしかすると、ご馳走が向こうからやってくるかもしれないという期待も薄くはない。
私は顔から血の気が引いていくのを感じた。もちろん、私の妄想に巻き込まれただけの、ただの勘違いなのかもしれない。
しかし……それにしたって、森の近くだから森近などといい加減な名を名乗ったのだ。きっとその場限りで考えたでたらめに違いない!
どうすればよいのだろうか。恐るべき化け物がまさかこんなにも間近に潜んでいようとは思いもしなかった。私一人ではまともな抵抗もままならない。相手は武器を持っているのだ。どうすれば。
……妹紅さんに頼るしかない。
風祝とはいえ、熱でゆるんだ体では恐るべき化け物にはとても太刀打ちできない。風を起こし、転ばすくらいが関の山だ。だが、人間とはいえ、こんな竹林に住んでいるという妹紅さんなら、なにかしらの対抗できる手段を持ち合わせているだろう。
うん? ちょっと待て……待て待て待て。
こんな、竹林に、一人で住んでいる彼女が本当にただの人間だと言うのだろうか。
そもそもこのようなくたびれた小屋に住んでいるというのがおかしいじゃないか。まるで急ごしらえの作りなのだから。
そう、たとえば獲物を狙うための罠として作ったかのような簡易な作り。
つまり、そうだ。そうなのだ。彼女も、彼と同じく、恐るべき化け物に違いないということじゃないか!
こうなれば、私が取るべき手段は最早ただひとつ。日常に不釣合いで物騒なあの火箸を奪うことだ。
だが、奪うにしても相手は男だ。腕ずくでは容易に打ちのめされてしまうだろう。
運よく事を運ぶには確実に奪うことのできる瞬間を狙わなくてはならない。それはつまり、相手が火箸をただの凶器として使うときしかないのだ。
振りかぶるように火箸を使えば必ず足元は警戒心をなくす。そのときに、うまく、風を起こせば……。
相手に自身の正体を見破ったことを悟られないように、私は目のすみで森近さんと妹紅さんを油断なく見つめ、ただそのときをじっと待った。
おかしい。
どう考えを巡らせてもこの妹紅という女性はおかしかった。
迷宮のようなこの竹林に平気で、しかもたったの一人で住んでいるというのだから奇妙としか言いようがない。あまりにもおかしな人間だ。
こんなにも居心地の悪い気分になるのなら普段どおりに無縁塚に行けばよかった。
変な気まぐれを起こしてあまり足を運ばない方へ歩いていればこんな目にあうのだから、まったく本当についていない。
ああ、そんなことはどうでもいい。僕が今、考えるべきはこの女性の正体なのだ。先ほどからずっと、結論を騙していたのだがとうとう観念しなければならないのかもしれない。いや、僕は最初から観念していたのだ。
そうだ。この女性こそが、噂に聞いた化け物なのだと。
大体おかしいじゃないか。藤原妹紅などという古典からでも抜き出したかのような古風すぎる名前。おそらくは適当に思いついた名前なのだろう。
そして、家主だと主張するこの女性よりも先に火箸を握ることができてひとまず僕はどこかで安心してしまったのだから。これだけが人喰いの化け物に抵抗できる唯一の武器なのだと。
しかし、その温いため息はすぐに霧散することになった。東風谷早苗という女性によって。
初めはただの僕と同じ哀れな迷い人なのだと思っていたのだが、そうではないのだという疑念は僕の頭蓋をいっぱいにするまでに膨らみ続けた。
なんということだろうか。彼女の目はぎらぎらと血走っていたのだ。まるで、これから胃袋を満足させるために一仕事しようとでもいうかのように!
荒々しく息を弾ませ、高まった殺意と狂気から赤くなった顔をして駆け込んできた彼女を見て、僕は火箸をもう一度しっかりと握り締めた。指の関節が真っ白になるくらいに握ってしまい、火箸はそれにあわせるように震え、甲高い金属のこすり合う音を響かせたがここで手を緩めることはできなかった。
この化け物どもに唯一の武器を奪われてしまっては本の続きを読むことも叶わない。
おそらくは、この小屋も獲物を引き寄せるための餌なのだろう。一人が罠にかかったのを確認して、もう一人を呼び寄せて……といった狩り方をしているのだ。
血走った目をした東風谷と名乗る女性が先ほどからこちらをじっと見つめている。相手は知ったのだろうか。僕がそちらの正体を見抜いてこちらが警戒しはじめたことを、感づいたとしたら最早一刻の猶予もない。
ぐずぐずしてなどいられない。急がなくては。
相手は女性とはいえ、恐るべき化け物なのだ。火箸があるとはいえ、こちらから無策に突っ込めば容赦なく引き裂かれるだろう。
狙うべきは相手が空腹に耐えられずこちらに襲い掛かってきたときだ。攻撃は最大の無防備なり、という言葉が表すように攻撃する瞬間こそこちらの絶好の機会なのだ!
しかし、二人が同時に襲い掛かってきたならば……。
あまり考えたくないことだ。それに僕にはもう待つしか選択がないのだ。僕はそのときをただひたすらに待つことにした。
なんともおかしな二人だ。
恐怖の表情をおびては、またすぐに、凍ったような無表情に戻ることを繰り返している。往々にしてこういった挙動の怪しいものは追われているものと相場が決まっているものだ。
さては巷を騒がせている人喰いの化け物なのだろうか。
二人もいるとは聞いていなかったのだが、一人だけだとも聞いていない。
もしも、わたしがこいつらの正体を知ったと確信すればたちまち殺されてしまうだろう。もちろん、死にはしないのだが、痛いものは痛い。被虐の趣味もないため、痛みを望むわけではないわたしにとってそれは避けたい事態なのだ。
しかし、こちらからやっつけようにも……久々に輝夜を襲撃したのが昨日の話なのだが、こちらも随分と手痛い傷を負ってしまった。回復には時間がかかるし、力もあまりに使えない。今のわたしはただ、死なないだけという受身の人間だ。
報復なのか家も壊されていた。一応雨をしのげる程度の粗末な小屋を作ったが、これでは寒くてまったく駄目だ。明日にでも早速本格的に直すことにしよう。
さて、どうしたものか。
室内の緊張は高まる一方で、わたしはらしくもなく居住まいを正して間を持たせた。いつの間にか火箸の音が止んでいる。
眼鏡の男、森近は身を前にかがめていた。今にも一気に飛び掛ることのできる姿勢だ。
寒そうな服装の女、東風谷はこぶしを硬く握り、なにかを決心するように立ち上がろうとする。
室内に充満している警戒の空気はとうとう破裂しそうになる。
そのとき、戸がガタガタと音を立てた。
俺はなんて運がいいのだろう。
目障りな竹ばかりに飽き飽きしていたが、こんなご馳走の集まる食卓に出会えるとは思いもしなかった。つい先ほども食べたばかりだが、まだ腹は悲鳴をあげているままなのだ。しかし、この人間の姿でいるだけでこんなにも食事が楽になるとは。
一人ばかり味の違いそうな男がいたが、今はこの胃袋を黙らせるのがなによりも先というもの。
意気揚々と俺は小屋へと入った。
「お邪魔しますよ。雨が降っているもので、ね」
三人がそれぞれ違った表情でこちらを見てきた。
俺はそのままなにも答えようとしない三人を無視して入り口に近い囲炉裏の側へと進む。
知らず、おかしくてたまらないというような声が漏れる。俺のにやけきった口からだ。だが、これは仕方のないことなのだ。こいつらはまだ自分がどれだけ惨めな立場にいるのかをまったく理解していないのだから。
「皆さん、今日のような暗い雨の日にこんなぼろい小屋に集まっていると食べられてしまいますよ。俺のような、化け物にね!」
俺はにやにやと締まりのない口元を直すことなく、笑い続けながら、右隣の女に襲い掛かった。
しかし、俺の右手が女の肌を引き裂くよりも早く、目の前が凄まじい速度で落ちていった。いや、違う!
瞬く間もなく俺の後頭部に衝撃が襲った。脆い床がめきりと音を立てる。頼りない視界には緑髪の女がなにかぶつぶつとつぶやいてる姿が映った。そして、火箸を持った男がこちらの頭を目掛けて振りかぶった。何度も、何度も続く衝撃に俺の意識は段々と薄れていく。
何故だかわからないが、俺が入ってきたときには既にこいつらはすっかり準備を整えていたらしい。俺を万全の状態で待ち構えていたのだ。
だが、人間なら襲い掛かるにしてもなにかしらの動き、躊躇や戸惑いがあるはずなのに、こいつらときたら俺が襲い掛かったその瞬間に迷うことなく打ちのめしてきたのだ。
ああ、まったく恐ろしい。
人間とはこんなにも、残虐にとみ、暴虐の虜で、加虐を常習とする、狂気の生き物だったのだろうか。
怖い、人間とはこんなにも怖いものなのか。こんな恐ろしい生き物がそこらにあふれているのだから、もうこんなところにはいたくない。これならまだ地獄の方が安全だし、安心できるというものだ。
まったく人間とは恐ろしい。こいつらこそ恐るべき化け物だ。そうだ。そうに違いない。
奴らこそ恐るべき化け物なのだ!
ああ、なんということだろう。こんなことがあってよいものだろうか。私は……恐るべき事実の一片を掴んでしまったのだ。
もちろん、すぐにでも手放したかったのだが、思考はこのおぞましい状況をがっちりと握り締めていて、空気の漏れる隙間もできなかった。
かといって、このまま握りつぶそうにもそれ以上の力を今の私から搾り出せるはずもない。
理不尽な恐怖が回転を止めた脳髄から這い出て、足の先にまで凄まじい速度で染み渡るのを実感する。風祝としてまったく情けなく思うが、同時に仕方のないことなのだと喚きたてる声もした。
肩がぶるりと震える。
「ああ、寒い? もうちょっと火を強くしようか」
「い、いえ……その、大丈夫、です」
外気の寒さは室内をわずかばかりに照らしているか弱い炎の勢いをほとんど飲み込んでいたが、身震いはそのせいではなかった。震えは竹林の奥にひっそりと佇んでいた、このくたびれた小屋から生まれたのだ。
私の左隣に座り、小さな囲炉裏に向かって手をかざしている彼女の気遣いも、今となっては食前のマナーとしか思えなかった。
優しく接し、相手の警戒心のなくなったところで、血に渇いた牙をやわらかな四肢に深々と突き立てようとしているに違いないのだ。混乱と恐慌の荒れ狂う感情の波こそが、人を喰らう妖怪の好物とするところなのだから。
ああ、まったく恐ろしい。重い、息苦しい室内の沈黙は私の慎ましい心臓の鼓動を無理やりにでも動かそうとする。
身は硬くなり、頭の皮がぴんと引き締まったように感じた。
しかし、このままどれだけの注意を奴らに向けていようと、この恐ろしい人喰いの脅威はわずかばかりも薄れることはない。
そのうち、痺れを切らして私を殺してしまうだろう。弱り果てたこの肉体では、抵抗できたとしてもただの一撃だけだ。間もなく奴らは食事に入ることになる。
なんといってもこの人喰いの妖怪は、残虐にとみ、暴虐の虜で、加虐を常習とする、恐るべき化け物なのだから。
私がそれをはじめて耳にしたのは、つい数十分ばかり前のことだった。
しかし、そこに至るまでの経過を話さなければならない。そもそもの失敗は、ふもとの村に使いに出たときにある小説を見つけてしまったことなのだ。
呼吸するたびに体重が減っていく奇病のためにただひたすら食べるだけの生き物と化してしまった女がいて……という語りから始まる、世の女性がきわめて不愉快に思うふざけたそれは私の怒りと若干の好奇心を右手に惜しみなく流し込み、後にはこの充血した目が残った。
つまり、夜通しの読書は厚着もしていなかった私にあまりにも優しくなかったのだ。
そうして、風祝として恥ずかしくも風邪を患ってしまった私だったが、信仰が不動の土台を築く前にふもとの村にいる医者を訪ねるといった短慮な振る舞いをするわけにはいかなかった。
だが、このまま安静にして治すには私の自尊心があまりに喧しい。
そのため、以前に誰かの言っていた竹林の奥にいる医者ならば秘密裏にこの困った事態を処理できるだろうと私が考えるのも道理だった。
薬を無事に手に入れた私は妙にあちこちが焦げ付いた廊下を渡りながら、さっさと帰路につこうと考えた。
そのときだ。
兎たちの怯えた話し声の意味するところ、つまりこの近辺に出没するようになった恐るべき化け物の話を聞いたのは。
人喰いの猛威は取り除かなければならない。だが、今の私が実行すれば、それは暴勇に振り回された愚行となるだろう。
ともすればすみやかに竹林を抜け出すべきなのだが、ここで恐るべき化け物ほどに私の風邪の猛威は増大してしまい、前後の区別もつかなくなってしまった。
決して、私が方向音痴でもなければ迷子などという風祝としてあるまじき痴態を晒しているわけではないことは、誰の目からも明らかだろう。
ただ、不全を訴えてやまない体調のためちょっとばかり道がわからなくなってしまい、温まった脳髄のためちょっとばかり精神的に脆くなってしまっているだけなのだ。泣いてなどいない。
飛ぼうにも高く浮かぶほどの力強さを肉体は持ち合わせていなかった。
雨まで降ってきたときはさすがに水滴が頬を伝った。もちろん、雨粒だ。泣いてなど断じてない。風祝は強い子。
「うぅ、ぐすっ……あ、小屋……?」
不思議なことに、本当に不思議なことになんらかの障害により色彩の滲む視界の中、少し……というには語弊を覚悟しなければならない程度にくたびれている小屋が竹と竹の合間から躍り出た。
ぽつりぽつり、ぽつぽつ、と雨音が大気を刻む。この雨雲はどうも短気な性分のようで、音はその勢力を徐々に拡大させていった。
迷う暇はない。
それに休息のひとつでもとれば、弾んだ息を寝かしつけられるかもしれない。
私は急ぎ足でまっすぐ小屋へと向かった。辺りはもう暗くなっている。
あんなにも朽ち果てているのだから住人というものがいないのかもしれない。だが、そうなろうと一向に構わないのだ。一時の雨をしのぐことさえできるなら。
そうして、手早く小屋の戸を閉め、呼吸のおさまりを待つ私が先客の視線に気づいたのは、胸の落ち着きを気にせずになんとか動こうと思えるようになってからだった。
「知らない客が立て続けとは、珍しい日もあるものだね」
「えっ、あ、その、すいません。えと……よろしければ屋根をお借りしたいのですが」
「どうぞ。手狭なところで悪いけど」
話した女性はこの小屋の住人のようだった。室内は彼女の言うとおりの広さで、目立つものは中央に鎮座する囲炉裏くらいだ。
私は家主の右隣に腰を下ろす。さらに右隣、つまり家主の正面には彼女の言う一人目の客が既に温まっていたようで、濡れた後がほとんど見えなかった。さらにじっと見ているとその男性は居心地を悪そうに体をもぞもぞと動かしながらこちらに向かって言った。
「君も僕と同じようだね。僕は森近。森の近くで古道具屋を営んでいる」
「あっ、はい。ご丁寧にどうも。東風谷早苗と申します。風祝です」
森近さんは火箸を動かして甲高い音を響かせている。
しかし、随分と長い火箸ではないだろうか。ある程度成長した子供の腕くらいにはありそうだ。だが、彼はそんな不釣合いを無視するように、長い長い棒を揺らせていた。
「竹林に迷った挙句、雨に降られるとはあんたら本当についていないよ。ああ、わたしはここの家主、藤原妹紅だ」
「はい、藤原さん。ありがとうございます、助かりました」
「……できれば妹紅と呼んでくれないか。あんたもな」
「ええ、わかりました。人間同士、お近づきになりましょう」
「僕は半分違うんだが」
こうして私たちは打ち解けあったはずなのだが、どうにも空気は重苦しいままだった。雨音だけによるものではないように思える。
そうだ、音だ。
火箸のこすり合う音がまだ続いている。森近さんは何故に火箸を手放さないのだろう。
待て、いや……まさか。しかし、ことによると彼こそ……。
突如として私の脳裏にある考えが横切った。
想像しうる限りおぞましいものなのだが、どうしても振り払うことができなかった。
そう、森近さんこそ、この男こそが……。
いや、それならば何故こんなところで呑気に暖をとっているのだろうか。飢えた獣がご馳走を前にどうしてじっとしていられるのか。
そこまで考えて、私はすぐに打ち消した。単純に暖をとっていたからだ。いくら食事が相手でも、やはり不全を引きずってでは楽しめない。寒いままのろのろと食べていては愉悦を感じる前に飽きがきてしまうのだ。
それにこんな天候なのだ。もしかすると、ご馳走が向こうからやってくるかもしれないという期待も薄くはない。
私は顔から血の気が引いていくのを感じた。もちろん、私の妄想に巻き込まれただけの、ただの勘違いなのかもしれない。
しかし……それにしたって、森の近くだから森近などといい加減な名を名乗ったのだ。きっとその場限りで考えたでたらめに違いない!
どうすればよいのだろうか。恐るべき化け物がまさかこんなにも間近に潜んでいようとは思いもしなかった。私一人ではまともな抵抗もままならない。相手は武器を持っているのだ。どうすれば。
……妹紅さんに頼るしかない。
風祝とはいえ、熱でゆるんだ体では恐るべき化け物にはとても太刀打ちできない。風を起こし、転ばすくらいが関の山だ。だが、人間とはいえ、こんな竹林に住んでいるという妹紅さんなら、なにかしらの対抗できる手段を持ち合わせているだろう。
うん? ちょっと待て……待て待て待て。
こんな、竹林に、一人で住んでいる彼女が本当にただの人間だと言うのだろうか。
そもそもこのようなくたびれた小屋に住んでいるというのがおかしいじゃないか。まるで急ごしらえの作りなのだから。
そう、たとえば獲物を狙うための罠として作ったかのような簡易な作り。
つまり、そうだ。そうなのだ。彼女も、彼と同じく、恐るべき化け物に違いないということじゃないか!
こうなれば、私が取るべき手段は最早ただひとつ。日常に不釣合いで物騒なあの火箸を奪うことだ。
だが、奪うにしても相手は男だ。腕ずくでは容易に打ちのめされてしまうだろう。
運よく事を運ぶには確実に奪うことのできる瞬間を狙わなくてはならない。それはつまり、相手が火箸をただの凶器として使うときしかないのだ。
振りかぶるように火箸を使えば必ず足元は警戒心をなくす。そのときに、うまく、風を起こせば……。
相手に自身の正体を見破ったことを悟られないように、私は目のすみで森近さんと妹紅さんを油断なく見つめ、ただそのときをじっと待った。
おかしい。
どう考えを巡らせてもこの妹紅という女性はおかしかった。
迷宮のようなこの竹林に平気で、しかもたったの一人で住んでいるというのだから奇妙としか言いようがない。あまりにもおかしな人間だ。
こんなにも居心地の悪い気分になるのなら普段どおりに無縁塚に行けばよかった。
変な気まぐれを起こしてあまり足を運ばない方へ歩いていればこんな目にあうのだから、まったく本当についていない。
ああ、そんなことはどうでもいい。僕が今、考えるべきはこの女性の正体なのだ。先ほどからずっと、結論を騙していたのだがとうとう観念しなければならないのかもしれない。いや、僕は最初から観念していたのだ。
そうだ。この女性こそが、噂に聞いた化け物なのだと。
大体おかしいじゃないか。藤原妹紅などという古典からでも抜き出したかのような古風すぎる名前。おそらくは適当に思いついた名前なのだろう。
そして、家主だと主張するこの女性よりも先に火箸を握ることができてひとまず僕はどこかで安心してしまったのだから。これだけが人喰いの化け物に抵抗できる唯一の武器なのだと。
しかし、その温いため息はすぐに霧散することになった。東風谷早苗という女性によって。
初めはただの僕と同じ哀れな迷い人なのだと思っていたのだが、そうではないのだという疑念は僕の頭蓋をいっぱいにするまでに膨らみ続けた。
なんということだろうか。彼女の目はぎらぎらと血走っていたのだ。まるで、これから胃袋を満足させるために一仕事しようとでもいうかのように!
荒々しく息を弾ませ、高まった殺意と狂気から赤くなった顔をして駆け込んできた彼女を見て、僕は火箸をもう一度しっかりと握り締めた。指の関節が真っ白になるくらいに握ってしまい、火箸はそれにあわせるように震え、甲高い金属のこすり合う音を響かせたがここで手を緩めることはできなかった。
この化け物どもに唯一の武器を奪われてしまっては本の続きを読むことも叶わない。
おそらくは、この小屋も獲物を引き寄せるための餌なのだろう。一人が罠にかかったのを確認して、もう一人を呼び寄せて……といった狩り方をしているのだ。
血走った目をした東風谷と名乗る女性が先ほどからこちらをじっと見つめている。相手は知ったのだろうか。僕がそちらの正体を見抜いてこちらが警戒しはじめたことを、感づいたとしたら最早一刻の猶予もない。
ぐずぐずしてなどいられない。急がなくては。
相手は女性とはいえ、恐るべき化け物なのだ。火箸があるとはいえ、こちらから無策に突っ込めば容赦なく引き裂かれるだろう。
狙うべきは相手が空腹に耐えられずこちらに襲い掛かってきたときだ。攻撃は最大の無防備なり、という言葉が表すように攻撃する瞬間こそこちらの絶好の機会なのだ!
しかし、二人が同時に襲い掛かってきたならば……。
あまり考えたくないことだ。それに僕にはもう待つしか選択がないのだ。僕はそのときをただひたすらに待つことにした。
なんともおかしな二人だ。
恐怖の表情をおびては、またすぐに、凍ったような無表情に戻ることを繰り返している。往々にしてこういった挙動の怪しいものは追われているものと相場が決まっているものだ。
さては巷を騒がせている人喰いの化け物なのだろうか。
二人もいるとは聞いていなかったのだが、一人だけだとも聞いていない。
もしも、わたしがこいつらの正体を知ったと確信すればたちまち殺されてしまうだろう。もちろん、死にはしないのだが、痛いものは痛い。被虐の趣味もないため、痛みを望むわけではないわたしにとってそれは避けたい事態なのだ。
しかし、こちらからやっつけようにも……久々に輝夜を襲撃したのが昨日の話なのだが、こちらも随分と手痛い傷を負ってしまった。回復には時間がかかるし、力もあまりに使えない。今のわたしはただ、死なないだけという受身の人間だ。
報復なのか家も壊されていた。一応雨をしのげる程度の粗末な小屋を作ったが、これでは寒くてまったく駄目だ。明日にでも早速本格的に直すことにしよう。
さて、どうしたものか。
室内の緊張は高まる一方で、わたしはらしくもなく居住まいを正して間を持たせた。いつの間にか火箸の音が止んでいる。
眼鏡の男、森近は身を前にかがめていた。今にも一気に飛び掛ることのできる姿勢だ。
寒そうな服装の女、東風谷はこぶしを硬く握り、なにかを決心するように立ち上がろうとする。
室内に充満している警戒の空気はとうとう破裂しそうになる。
そのとき、戸がガタガタと音を立てた。
俺はなんて運がいいのだろう。
目障りな竹ばかりに飽き飽きしていたが、こんなご馳走の集まる食卓に出会えるとは思いもしなかった。つい先ほども食べたばかりだが、まだ腹は悲鳴をあげているままなのだ。しかし、この人間の姿でいるだけでこんなにも食事が楽になるとは。
一人ばかり味の違いそうな男がいたが、今はこの胃袋を黙らせるのがなによりも先というもの。
意気揚々と俺は小屋へと入った。
「お邪魔しますよ。雨が降っているもので、ね」
三人がそれぞれ違った表情でこちらを見てきた。
俺はそのままなにも答えようとしない三人を無視して入り口に近い囲炉裏の側へと進む。
知らず、おかしくてたまらないというような声が漏れる。俺のにやけきった口からだ。だが、これは仕方のないことなのだ。こいつらはまだ自分がどれだけ惨めな立場にいるのかをまったく理解していないのだから。
「皆さん、今日のような暗い雨の日にこんなぼろい小屋に集まっていると食べられてしまいますよ。俺のような、化け物にね!」
俺はにやにやと締まりのない口元を直すことなく、笑い続けながら、右隣の女に襲い掛かった。
しかし、俺の右手が女の肌を引き裂くよりも早く、目の前が凄まじい速度で落ちていった。いや、違う!
瞬く間もなく俺の後頭部に衝撃が襲った。脆い床がめきりと音を立てる。頼りない視界には緑髪の女がなにかぶつぶつとつぶやいてる姿が映った。そして、火箸を持った男がこちらの頭を目掛けて振りかぶった。何度も、何度も続く衝撃に俺の意識は段々と薄れていく。
何故だかわからないが、俺が入ってきたときには既にこいつらはすっかり準備を整えていたらしい。俺を万全の状態で待ち構えていたのだ。
だが、人間なら襲い掛かるにしてもなにかしらの動き、躊躇や戸惑いがあるはずなのに、こいつらときたら俺が襲い掛かったその瞬間に迷うことなく打ちのめしてきたのだ。
ああ、まったく恐ろしい。
人間とはこんなにも、残虐にとみ、暴虐の虜で、加虐を常習とする、狂気の生き物だったのだろうか。
怖い、人間とはこんなにも怖いものなのか。こんな恐ろしい生き物がそこらにあふれているのだから、もうこんなところにはいたくない。これならまだ地獄の方が安全だし、安心できるというものだ。
まったく人間とは恐ろしい。こいつらこそ恐るべき化け物だ。そうだ。そうに違いない。
奴らこそ恐るべき化け物なのだ!
恐怖が頂点に達した時の人の狂気ってのは怖いっすねぇ。
しかし早苗さんはやはり可愛かった。
ところでお望みの方がいらしてますよ
つ霊夢
こーりんつよい!
さなえさんかわいい。
「人喰い」の「化け物」なんて
この後の微妙そうな雰囲気が見てみたかった
しかし、この妖怪、なんと間の悪いときに
微妙な空気はヨカタ
雨の日はどこか人を不安にさせますね
というか深い傷負ってる最中なら何気に二人がいて良かったな妹紅ww
ただオチが結局そこにつなげたいだけなのかよってかんじで
よわかった。
全裸まだー?チンチン
面白かったから70点
こういう話って面白いよね
それにしても怖い、怖い
でも幻想郷には人食いの化け物なんてそこらへんにいる気がする
なかなか面白かったです。
勘違いかもしれませんが
とりあえずもこたん可愛い
もう少し長く読みたかったです(勿論良い意味で)
もこたんの所もう少し掘り下げてほしかったかも・・・
しかし三人とも知らない人から見たら確かに怪しいw
せめてあとがきに引用元書いておけばいいのに
人食い妖怪、運が、悪かったなwww