はじめに。
キャラクターの崩壊のおそれがあります。
また、オリジナルのキャラクターが存在するために、東方シリーズの世界観が皆様の思うそれと著しく異なる可能性が多いに考えられます。
あらかじめご了承ください。
※
「彼」は侵入に成功した。
※
1
あまり身を隠せそうもなかった。
竹林。
背の高い無数の竹が我が物顔で群生し、夏だというのにも関わらず足元はひやりとしている。だが夏の虫の鳴き声から、一歩竹林の外に出れば猛暑に見舞われるということは簡単に察することができた。
鈴仙は霧雨魔理沙の後姿をかろうじて確認できるか否かの距離をとりつつ、彼女を追いかけていた。
竹林の中は緑一色に覆われており、白と黒と金の色は映えるようにも思われた。だが離れているとそうもいかなかった。竹の影、落ち葉、背の低い木々、その他の草花。それらが重なり合い、ときたま色が隠れてしまう。また、風による木々のざわめき。おかしな話かもしれないが、こんなに視界の悪い場所では音により見失うということも有り得る。
魔理沙を監視するように。鈴仙は師よりそう仰せつかっていた。できれば見つからないよう、尾行してちょうだい。そう付け加えられもした。
竹という植物は厄介だった。他の長身の植物と比べると幹が細く直線的で、また、頑丈なために折れているものは少ない。さらに枝葉は陽の光を吸収するために頂上付近に集中しているので胴や足元にはあまり見られない。身を隠す場所が少ないのだ。どう転んでも、気づかれないように尾行する場所には適していない。身を隠せる場所がないために距離をおかねばならない。だが距離を置きすぎると見失う可能性があった。
離れていると見失いそうになるが、離れていないと見つかってしまうかもしれない。竹林で迷わない自信はあった。それだけになおさら歯痒い。対象を見失わない自信はないのだ。
どうして診察に来ただけの魔理沙を監視せねばならないのかわからなかった。しかも相手に見つかってはならないなどと、意図がわからない。鈴仙は己の師にその旨を問いかけた。返答は至極簡単なものだった。
いいから行きなさい。
腑に落ちない話だが、なにかありそうだと鈴仙の直感が訴えかけていた。果たしてその直感は正しいようだった。魔理沙を追いかけるために踵を返したとたんに、その背中に補足の言葉がかけられた。先ほどの完結極まりない言葉に対する補足だった。
まだどうなっているのかはっきりとわからないの。いい加減な情報を与えたくない。悪いけれど、わかってちょうだい。
鈴仙はあのとき永淋に背中を向けたままそうしたように、黙ったまま、己を鼓舞するためにひとり頷いた。深くは考えず、負った責務を果たすほかなかった。ただ「どうなっているのか」という言葉は気になった。なにが「どうなっている」というのか。
竹林を抜ければ魔理沙はきっと飛んで帰るだろう。それこそ物陰などないので尾行が困難になるかもしれない。だが、そんなことよりも炎天下を飛ばなければならないことのほうが不安だった。鈴仙本人は、心のなかで不安という言葉を選んだが、本心としてはただ嫌なだけだ。魔理沙ならば、焼きつけるような日差しを遮るために片手をかかげ、片目をつむって白い歯をむき出しにし、くそったれ炎夏め、という程度の、決して上品とはいえない愚痴はこぼすかもしれない。それほど今日は猛暑なのだと予想がついているのだ。だがその当の魔法使いは下生えを鬱陶しそうにかきわけ、劫火の世界目指してずんずんと進んでゆく。
塩辛い汗の粒が一筋の軌跡をつくり、顎の先から、つ……、と垂れた。それを機に、思いだしたかのように大量の汗がふき出しはじめた。今までは気にならない程度の発汗量だったのだが。鈴仙は袖で額の汗をぬぐった。そろそろ外が近い。
2
竹林を抜け、飛んで帰路をたどっていた魔理沙は自身の家が見えてくると、あっちぃなちくしょう、とぼやいた。ただしその言葉は口をついて出たものだった。まったく意識していないうえ、魔理沙本人の耳には入っていない。もし飛んでいなかったとしたら、その言葉を意識できたかもしれない。ただ、それはもしもの話である。ぼやきのような小さな声など、ごうごうという風の音や、ばさばさと乱れ擦れあう髪の音にかき消されている。だいたいが、これでもかと言わんばかりの早い速度で飛んでいるため、無意識のぼやきなどあっと言う間に背後へ置いていかれる。横から静止画を撮り拡大すれば、魔理沙の横顔から背後へと、汗の粒が勢いよく直線的に飛ぶ様を見ることができるであろう。
家のまえで降下し、箒からおりる。家の戸を開けた魔理沙は振り返り、片手をかかげ、片目をつむって歯をむき出しにした。この猛暑を生み出している諸悪の権現をにらむ。鈴仙が予想したとおりのその格好だった。奇しくも、魔理沙の視界の端に飛んでいる鈴仙の姿が豆粒のように映った。だが魔理沙は気がつかなかった。
あっちぃな、と魔理沙は今度こそ意識してつぶやいた。家のなかに入る。夏には「あっちぃな」と言い「ちくしょう」と続けることが季節に対する謙譲の美徳だと信じている。冬はむろん「さみぃな」と言う。アリスの前でついそうつぶやくと睨まれることがあるが、別段気にしたことはない。
いつまでも先輩面しているんだ、きっと。
魔理沙は帽子を脱いで所定の場所に置き、インスタントのコーヒーをいれるためにキッチンへ向かった。
アリスは面倒見がいい。おそらく性格なのだ。魔法使いの仲としてだろう、よく気にかけてくれる。
魔理沙の魔法を扱う友人の中では、おそらくパチュリーが一番の先輩にあたる。アリスは魔理沙に対してはよく気を配ってくれるが、逆に自分よりも古参の者に対してはあまりいい顔をしないようだった。パチュリーといがみ合うことがある。どうしてだろうか。パチュリーだってそうだ。アリスに対してきつくあたることがある。アリスもパチュリーも、もっと仲良くなればいいのにと魔理沙は思う。
コーヒーを淹れたマグカップを持ち、ダイニングへ戻る。途中、パチュリーから借りた本が床に転がっていたが、気がつかずに蹴飛ばしてしまった。魔理沙はその本を拾い上げ――腰をかがめたため、コーヒーがこぼれないよう気を配った――初めて動く生き物を見る赤ん坊のように目をぱちくりとさせた。題目から察するにSFの小説のようだった。だが、どうしてこんな本を持っているのか魔理沙にはわからなかった。読んだような気がするのだが、いつ読んだのかわからない。(たしか宇宙生物との戦争ものだったような気がするな、と魔理沙は思った)どこで入手したのだろうか。紅魔館の図書館か、あるいはアリスの家か。はたまたどこかから買ってきたんだっけ? 魔理沙は本を元あった場所に戻した。むろん、本棚などではない。元あった場所である。その場所に戻すため、彼女はわざわざ腰をかがめた。だいいち、本棚はすでに満席だった。どうやらその本棚には指定席など存在せず、すべてが自由席の様子である。縦、横、斜め、縦横無尽に雑多な本が種類関係なしの所狭しと詰まっている。魔法に関する書物がほとんどだった。さて、魔理沙がその紙の束の山のうち、どれだけの本を自分で手に入れたのかというとそれは本人にもわからない。すくなめに見積もっても三割は自分で購入したものだと思っているのだが自信はない。そもそも自分で買っただの、ひとから借りただの、そんなことはどうだって良かった。
魔理沙はテーブルにマグカップを置き、椅子に座った。椅子は木製のものであったが、改造が施されてあった。愉快な友人のひとりに頼んだのである。あの友人は河童だったが、技術師としての腕前は立派だった。いや、河童だったがというと語弊が生じる。どうしても河童と工学というものの関係をイコールで結んで考えることができないので、ついそう思ってしまう。その技師の手にかかった椅子は、もともとは肘掛けと深い背もたれのある普遍的な椅子だったのだが、その肘掛けに作られたボタンを押すと腰を下ろす部分の下部より弓なりの脚が現れてロッキングチェアとなる。ロッキングチェアの状態でボタンを押すともとの椅子に戻る。友人の手によって非常に快適な椅子となったのだが、ロッキングチェアにした後、深く後ろに体重を預け、椅子を身体ごと斜めにした状態で眠ってしまったことがあった。こういった椅子に座ったことのある者ならば何人かは経験があるはずだ。しかしこの先は、経験した者はあまりいないだろうと思われる。魔理沙は椅子を身体ごと背後へ斜めにした状態で眠ったまま、うっかりと肘掛けのボタンを押し、普通の椅子の脚では支えられずにそのまま後ろに倒れこんだのだった。魔理沙は魔法使いとロッキングチェアにはどこかしら因縁めいたものがあると考えてはいたが、倒れて後頭部にたんこぶを作って以来、その椅子で眠らないよう気をつけるようになった。
魔理沙はロッキングチェアにした状態でコーヒーを飲みながらゆらゆらと前後に揺れていた。はたから見れば――外からその様子をうかがう……監視する者は確かにいた――メトロノームを彷彿とさせるような規則的な動きだった。魔理沙は考え事にふけっていた。今日一日のこと。一日といっても、まだ夕方にさえなっちゃいないが、ともかく朝から竹林の診療所まで行ったこと。そして永淋の診察を受けたこと。
永淋はまずこう言っていた。記憶は定かではないからあまり自信はないが、確かこう言っていたように思われる。
なにかおかしな物でも食べた?
そんなことはない。最近はちゃんと自分で調理したものを食べていたはずだった。自分で作った以外のものといえば……。魔理沙はここ二日間の食事事情を思い返した。アリスの家に遊びに行ったときの「偶然作る予定だった」という豪華な食事、紅魔館でメイド長に作ってもらったご馳走(ただし、なぜか図書館で食事をするはめになった)、それから神社での普通の食事。神社には不安要素がありそうだったが、おかしなものは食べていないはずだった。この三か所ではしょっちゅう食事を摂っている。それに、ここ三日間は野生のキノコを食べていない。そろそろ食べたいのだがもう少し我慢したほうがいいかもしれない。
魔理沙は次に、本人は元来薬師だと言い張る、医師の別の言葉を思い返した。その言葉は魔理沙に聞かせようとしているものというより、むしろ独り言に近いように感じられた。
身体のどこもおかしいところはない。標本として飾りたいくらい健康体そのものだし。でも……。
でも、の後はなにも続かなかった。永淋はしばらく黙りこくった後に、もういいわ、と言った。おいおいそれはないだろう、と訴えたが、体調に不安を感じたらまた来て頂戴、と返された。せっかく炎天下のなかを死ぬ思いでやってき、身体の不調を訴えたのになんにもわからないまま帰される……納得いくほうが無理というものだ。だが医師はこう言った。貴女は健康よ、どこにも問題がない、もしどこかがおかしいと思ったのならそれは暑さにやられただけ、むやみに日照りのなかにいないこと、ちゃんと水分を取りなさい、身体になんの支障もないひととのお喋りを興じていられるほどわたしは暇じゃないの。魔理沙は文句をもっと並べてやろうとしたが、医師の弟子のうさぎに背中を押されて部屋を追い出されてしまった。部屋を出る際、永淋に、体調に不安を感じたら再診に来ること、いい? かならずよ、と釘を刺すような言われ方をした。二度と来るか! と叫び返した。
誰よりも知る自分の身体なので、健康体だということはわかっていた。だが、どうしてだか不安があった。これからあまり良いことが起こらないとつい想像しまうような不安。まるで、旅行に出る日の朝に黒く広大な雲を遠くの空に見つけたときのような、幸先が良いとはどうあっても言えることができない場面に遭遇してしまったときに感じる不安。それらの不安のもとは、どうも自分自身の身体にあるように思われたのだ。だが理由がどうしてもわからない。わからないから医者に診てもらおうとしたのだ。
魔理沙は二杯目のコーヒーを淹れるため、椅子をもとの形に戻してから立ち上がった。
考えることは辞めにした。
永淋の言うとおり、また不調を感じたら診察してもらえに行けばいい。なにせ本人がそう言ったのだから、それをあげつらって今度こそちゃんと診てもらうのだ。
二杯目のコーヒーを持ってダイニングへ戻る途中、また本を蹴飛ばしてしまった。今度は恋愛物の小説だった。これは香霖堂で購入したものだった。魔理沙はその本を拾って椅子まで戻った。小説は男と女が立ったまま抱き合っている場面から始まった。そこへ別の女が現れる。「ちょっと。いったいなにをしているの……?」とその女は言う。女はあきらかに怒っていた。男は「や、やあ」と言って無理に笑顔を取り繕い、誤魔化そうとする。馬鹿だなあ誤魔化せるはずがない、と魔理沙は思う。「いったいなにをしているの?」新しい女がふたたび問い詰める。「なにって。そりゃあスキンシップに決まっているじゃないか」――そこまで読んだ魔理沙はうんざりした。この男は頭が悪い。読むのを途中でやめようかとも考えたが、その後の展開には目を見張るものがあった。コーヒーをすすりながら、しばらくのあいだ暑さも忘れて本に熱中した。
やがて魔理沙は、ふと、何のとりとめもなく開け放しにしてある窓の外を見た。いつの間にかに夕方になっているようだった。絵に描いたような幻想的で綺麗な夕焼けだった。その空に日照り雲を見つけ、それがあまりにも映えていたために魔理沙はしばらくのあいだ心を奪われていた。だが、結局はそれが日照り雲なのだと思うと嫌な気分になった。
夕方だがまだ涼しくはない。そして明日からも暑そうだ。
「あっちぃな」と魔理沙は夕焼けを見たままつぶやいた。「ちくしょう」
※
「彼」はしばらくのあいだ眠っていた。その場を拠り所とするにはしばらく身体を馴染ませねばならなかった。そのあいだやることがなかった。なので、眠っていた。眠っていれば体力を温存できる。起きれば活動をしなければならない。それも、多くの活動だ。それらは考えたうえでの行動ではなかった。いわば本能だった。
※
3
夜になった。魔理沙の動向をずっとうかがっていたが、別段なにも変わったことはなかった。鈴仙は帰ることにした。
4
朝。昨日の雲が予言したように、やはり晴天だった。
魔理沙は目覚めたばかりの身体を起こすと、目をつむった。自身の身体のどこかしらが、おかしいところがあるぞと訴えかけていないかどうか探した。昨日の今日である。心配だった。だらけるように両の腕をぶらんとたらし、首をうなだれる。なるべく力の入らない、自然な状態になるよう心がけた。夏の朝の虫の鳴き声、風の音。他にはなにも聞こえてこなかった。
不調の訴えは、あった。
ただしその訴えの発信源は心のうちからだった。
昨日と同じだ。
魔理沙は思った。昨日と同じで、不安を感じている。どこかがおかしい。なにかがおかしい。いったいどこが? なにが? わからない。告発しようにも犯人がわからなければ訴追は不可能である。ただし、犯人は無実ではない。どうあっても裁かねばならない。だがすくなくとも、閻魔には裁くことのできない相手である。やはりもう一度、薬師に診てもらうしかない。
昼前には家を出よう。あの昼間の破壊的な日射はあまり耐えられたものではない。暑さに負けて地面から逃げだした蚯蚓のような運命になるのは御免だった。
ベッドから抜け出した魔理沙は、服を着替えた。
けれど夏は嫌いではなかった。なんというべきか、魔理沙は夏という極端な季節を「元気」や「活力」の象徴のように感じている。だから夏の裏返しとなる冬は好きではない。昔、そのことを霊夢に行ってみたことがあった。博麗の神社の縁側で、ふたりで茶をすすっているときだった。すると、あんたらしいわね、と言われた。魔理沙は照れて頭をかいたが、霊夢は、だったらわたしは冬のほうが好きだわ、と言った。「元気」なほうがいいに決まっているのに、おかしなことを言うもんだとそのときの魔理沙は思った。あの日の季節はいつだったか、もう思い出すことはできない。
「今日もあっちぃな。ちくしょうめ」
そう愚痴をこぼしたが、ほんのすこし顔をしかめただけだった。暑いのは夏なのだから仕方がない。
魔理沙は朝食を作るためキッチンへ向かった。
5
鈴仙は、夏は嫌いだと思った。冬は服を重ねて着ればいくらでも寒さを防げるが、夏はそうもいかない。いくら脱いだところで――極端な話、すべて脱いだところで暑いものはあつい。我慢ができない。
だのにこんな晴天の日の朝っぱらから外に出突っ張りである。この森に来るまでいったいどれだけの水分と塩分を身体のなかから失ったことか。汗をかけば体力もそれだけ減る。今日一日、ふたたび監視を続けねばならないというのにもう疲れている。幸先が悪い。そしてようやく魔理沙の住む森までたどり着き、この暑さから解放される――熱気から解放されなかったとしても、すくなくとも日差しからは解放されるはずだ――と思ったのもつかの間、そこは魔法の森である。鬱蒼と生い茂る雑多――よく見かけるものから、地上にこんなものがと驚く奇形なものまで――な植物。不気味なものが多く、また、幻覚を見せる化け物茸が生息しているため、常に緊張を強いられる。狂気の月の兎が幻覚を見せられるなど、間違ってもあってはならないことだ。昨日の監視は半日で済んだが、今日は一日。それもまだ始まったばかりときた。あんまりだった。
鈴仙は魔理沙の住居の窓が見える場所を確保していた。比較的太めの幹の陰になり、なおかつ下生えは豊富にあった。もし見つかったとしても、そうとわかれば狂気を操りどうとでもなるだろう。
鈴仙は袖で額の汗をぬぐった。
本来ならば今日は嘘つきうさぎと共に人間の里まで薬の販売へ行くはずだった。同じ炎天下を行き来するにしても、気持ちの面での辛さがずいぶんと違う。なにより、てゐをひとりで行かせることがあまりにも心配だった。この魔法の森、それと人間の里へ行ったてゐ。心配ごとは増えていく。ストレスで胃の調子でもおかしくしてしまうかもしれない。そうしたら師は診てくれるだろうか。
昨晩、魔理沙の監視を終えて永遠亭に帰宅した鈴仙は、何事もなかったと己の師に報告をした。杞憂に終わりましたね、と付け加えて。まったく、なにかありそうだという己の直感も大したことはなかったのだ。えてして直感など頼るものではない……。だが誰かしらのレントゲンを真剣な面持ちでじっと睨んでいた永淋は、弟子の姿を見もせずにこう答えた――明日もお願いね。鈴仙はあっけにとられ、しばらくした後に、は? と思わず口にした。すぐさま己の口をふさぐ。だがどうしても納得がいかなかった。手をどけ、おそるおそる訊ねた。気に病みすぎでは? 永淋はその言葉に返答はせず、頼むわ、と言った。片時もレントゲンから目を離さない。いったいぜんたい、そんなちんけな白と黒の二色しかないモノクロのような写真がどれほど大切だというのだろうか。鈴仙は黙ったまま部屋を後にしようとした。苦労をかけるわね、と聞こえて振り返った。だが師は未だこちらを見ようともしていない。一度もこちらを見てくれやしなかった。鈴仙は応えずに部屋を出た。
今日は顔を合わせていない。
鈴仙は昨晩のことを考えたり、てゐの心配をし、それから永遠亭の姫と朝に交わした冗談を思い出したりと、大木の太い幹の陰でひとり暇を持て余していた。やることがない。己の仰せつかった任務を徹底してまで完遂する気がおきない。なにしろ意味のない心配事のために一日を潰しているのだ。餌のない釣り竿で魚が釣れるのを待っているようなものだ。はて、なにかの書物でそのような奇行を続ける人物の話を読んだことがあったような気がする。たしか釣り針は曲がってさえおらず、しかも水面から離れていたような。結局、彼はなにかを釣ったのだったか。釣ったような気がする。だがそんなはずはない。きっと、結局は釣れなかったに違いない。なんとなれば、餌がなくてはなにも釣れるはずがないのだ。
ときおり、背後に気配を感じたり物音がしたりはしたが、身の危険を脅かすようなことはなにも起こらなかった。その間、鈴仙は何度か森から抜けて太陽の位置を確認した。魔理沙の住居の周囲を別として、魔法の森は木漏れ日さえ射さないように思われた。
太陽の位置から巳の刻だと知れた。一日はまだ長い。森の外へ出ていた鈴仙は、気を滅入らせながら監視のための所定の位置へ戻った。おりしも、魔理沙が家を出るところだった。鈴仙は慌てて幹の陰へと隠れた。注意力が散漫になっていた鈴仙は、気をしっかりと引き締めた。事態の変化への兆しに、鈴仙は任務を完璧に遂行する兵士と化した。意味のない心配事だと考えていた彼女はすでにそこにはいない。そこにいる鈴仙は、姜子牙のことなど一度たりとも考えたことなどない。
外に現れた魔理沙は竹箒を手にしていた。
これは喜ばしいことだった。箒を手にしているということは飛んでどこかへ移動するということだ。鈴仙が竹箒からすぐに連想できる人物は三人。まずは博麗の巫女と奇跡を起こす守也の巫女。その二人に加えて目の前の白黒魔法使い。先の二人は掃除の道具としての竹箒だが、最後のひとりは言わずともがな、である。この魔法使いが箒を持てば、彼女を知っている者は次に出る行動を掃除よりも飛行だと予測するだろう。そしてだいたいにおいて、その予想は当たる。
つまるところ、鈴仙はこの場所を離れたかった。というよりも、事態の推移を待ち望んでいたのだ。なにも変化もなく、ずっと同じ場所にいるというのはもうこりごりだった。
鈴仙は飛行をはじめた魔理沙の後を追いかけた。
果たしてたどり着いた先は永遠亭だった。
永遠亭を目の前にした途端、任務を完璧に遂行する兵士は鈴仙のうちから消え去り、ふたたびやる気の失せた彼女が戻ってきた。ただ、今度の彼女の頭には「不信」の文字はなかった。おそらく最後まで任務を果たすことだろう。今の彼女の頭のなかでは「諦め」の文字が嘲笑うかのようにぐるぐると回っている。
※
そして、目を覚ました。
※
6
「お邪魔するわよ」
「おっ、アリスか。なんだ珍しいな」
「そろそろ本を返してもらおうかと思って」
「いったいなんのことだ?」
「白々しい。入るわよ」
「別にかまわないが。散らかってるぜ」
「それこそ別にかまわないわ。承知のうえで来たんだもの」
「それにしても、今日はあっちぃな」
「お昼前にはどこかへ出かけていたの?」
「竹林の診療所まで行ってたぜ。どうしてそんなことを聞くんだ?」
「用事ついでに一度ここへ寄ったんだけれど、留守のようだったから。身体でも壊したの?」
「いや、違うんだ。なんていうかな、その、心の病気?」
「はあ?」
「いやいやいや、あの藪医者に言われただけだって。ちょっと疲れが出てるかもしれないって」
「要領を得ないわね」
「あの藪医者、身体の疲れが精神にまで影響を及ぼしてるんじゃないか、なんて言うんだぜ」
「ああ、そういうこと」
「ちくしょう、わたしの頭はどこもおかしくなんかないぜ」
「頭のおかしい人はみんなそう言うに決まってる」
「どうやって証明すればいいんだよ」
「その医者はなにも対処法を授けてくれなかったのかしら?」
「そうだった。地霊殿の主に診てもらえって言ってたな。それにしても、ちくしょう、あの医者め。眠れないこともあるでしょうとか言って睡眠薬までわたしやがった」
「地霊殿の主……。ああ、あのときの。なるほど、心を読んでもらうのね」
「そうなんだ」
「行ってくればいいじゃない」
「いやだね。わたしの頭はおかしくなんかないね」
「そう意地はらなくてもいいじゃない。それより、そろそろ椅子にでも座らせてもらえないかしら」
「おっとしまった。ほら、そこの椅子に座りな。まえに河童に改造してもらったんだ」
「いったいどんな?」
「ほら、そこの肘掛けのボタンを押してみな。そう、それだ、それ」
「へえ。椅子の脚が代わるのね。これはいいわね」
「だろう? せっかくだしなにか淹れようか。コーヒーでいいか?」
「ええ、お願いするわ」
「高くつくぜ?」
「あら、わたしが貴女に貸した分は返してもらえるのかしら」
「いったいなんのことだ?」
「まったく。もう諦めかけてはいるけど」
「それならいいじゃんか」
「良くはないわ。それにしても、貴方は本当にオトモダチが多いわね」
「なんだなんだ藪から棒に」
「なんでもないわ」
「なんだよ気になるな」
「なんでもないって言っているでしょう?」
「そうかよ。ほら、コーヒーだ」
「いただくわ」
「なに怒ってるんだ」
「怒ってなんかいないわ」
※
「彼」は知能が高かった。目を覚ました「彼」はまず情報を集めなければならなかった。だが、視覚はまだ得られない。音はひろうことができた。おりしも、いくつもの音が伝わってきた。なので、まずはそれをひろうことにした。どうやらそれは言語のようだった。たくさんの言語が流れ込んでくる。
「彼」は自由に動けるようになるまで、言語を解析することにした。いずれ使うべきときが来るかもしれない。
※
7
薬の効果でアリスが眠るまで、ずいぶんと時間がかかった。怒っていたせいだろうか? 怒っていた理由もわからなければ、薬の効果がなかなか表れない理由もわからなかった。魔理沙はアリスと会話をしながら、効き目が表れるのをまだかまだかと待ち続けた。待っているあいだ、緊張のために心臓の音がばくばくとうるさく、アリスに聞こえてやしないかと不安になっていた。
やがてアリスがうとうととし始めると、魔理沙はつい「やったぜ」と無意識に言ってしまった。
コーヒーに睡眠薬を入れたのは咄嗟の判断だった。診療所で貰った薬。きっとあの医者は、心の病におかされていると信じ切っているのだ。ちくしょう。
渡された目的とは違えど、さっそく使用してしまった。アリスが家にやってきた時点では、そんなことを自分がするなどと思いもよらなかったというのに。
なぜ睡眠薬を入れたか。
それはアリスと話しているうちに地霊殿へ行きたくなったからだった。話しているあいだに不安が募り、是が非でも行きたくなったのだった。自分の精神が壊れちゃいないことは百も承知だったが、万が一、ということもある。そう思っているうちになるべく早く行かねばならないと焦りが生じた。だがアリスはなかなか帰ってくれない。早く行きたい。そして、なるべくなら誰にも知られたくない。いいや、それは嘘だ。なるべくなんて生易しいものではない。絶対に知られたくはない。絶対に知られてはいけない。早く行きたい。だがアリスはなかなか帰ってくれない。知られたくはない。早く、早く――。そして、コーヒーを淹れるための湯が沸くのを待っているあいだ、睡眠薬のことをふと思い出したのだった。
アリスの向かいに座っていた魔理沙は立ち上がると、そろりそろりと忍び足でアリスに近づいた。改造を施された椅子の背もたれを指でちょんとつつく。椅子は、アリスの身体ごとゆらゆらと規則正しく前後に揺れるだけだった。混入物――それも意図あっての混入物だ――の入った飲み物を他人に与えたのは初めてのことだった。いまだに動悸が激しい。それに罪悪感や背徳感もある。しかし、もうやってしまった。
魔理沙は急いで支度をすませ、地霊殿へ向かうべく家を飛び出した。
※
「彼」はいくらか言語を解することができるようになっていた。拠り所のおかげだった。しばらくのあいだ、多くの言語で溢れていた。また、「彼」はこのときにはもう感情を読み取ることができるようになっていたため、言語を理解するのはそれほど苦ではなかった。それに
※
8
鈴仙の師は魔理沙を心の病だといって追い返した。鈴仙はまたあの森へ行くのかと、ため息をつきたい思いだった。しかし魔理沙を追いかけようとした彼女は、師に呼び止められた。そして事の様相の説明を受けた。ただし、その説明とは仮説であり実証はできないのだと言う。実証を得るために魔理沙へ地霊殿に行くことを勧めたのだと言う。
まず永淋はレントゲン写真を鈴仙に見せた。永淋に比べれば医学の知識の乏しい鈴仙には、どこかおかしいところがあるようには見えなかった。そしてその写真は魔理沙のものなのだと言う。一度目の身体の不調を訴えにきたときに撮ったのだそうだ。そしてその写真にはおかしいところはない、永淋はそう言った。ならば何故見せるのか、鈴仙は疑問に感じたが口を開くことは控えた。この一件で我慢することには慣れたような気がしていた。次いで、永淋は魔理沙の心音を聞くために聴診器をつかったのだと言った。それは鈴仙も実際にそうしているところを見ていたので知っていた。
「そうしたら」
と永淋は言った。
「そうしたら、魔理沙の心音以外にもうひとつ、生き物が動く音が聞こえたの」
※
それに、「彼」は拠り所の身体をある程度理解し始めてもいた。脳という大事な部分があり、これは、外観だけ見ると左右に大きくふたつに分かれているだけに見えるが、複雑な構造となっているようだった。この脳という皺だらけの物体が情報伝達の中枢のようだった。ここがすべての機能を担っているのかどうかの判断はまだつかないが、拠り所の全身に最も信頼されている部分といって差し支えないようだった。
また、「彼」は拠り所の感情を読み取るだけでなく、それらを増幅させたり減少させたりもできるようにも、すでになっていた。さらに拠り所以外の感情をも読み取ることができる。これは拠り所の種族繁栄のためには欠かせない能力だった。
つまり、これからだった。
「彼」はこれからのために、幾分か身体を大きくする必要があった。「彼」の成長は早い。
※
9
永遠亭を後にした鈴仙は急いで魔法の森へと向かった。そろそろ夕方を迎える頃だというのに、夏の太陽は相も変わらずその凶暴な日差しを投げかけていた。だが鈴仙には気にもならなかった。汗が身体から吹き出し、身体からすぐに離れ、風に舞い踊った。喉がからからだった。だがそれも気にはならなかった。
師は言っていた。
もしかしたら杞憂に終わるかもしれない。いいえ、そう終わってほしい。でも、もしかしたら。
その生き物の動く音は、小さな寄生虫の類のそれではないのだと、永淋は言っていた。そして、そんな音を発する生命体がもし魔理沙のなかにいるのだとするならば、それは未知の生物だという可能性が捨てきれないと永淋は言う。レントゲンに映らないのだ。だが、レントゲンに映らないということはもしかしたら存在していないのかもしれない。ただの聞き間違いや、聴診器の不具合かもしれない。一度目の診察のとき、永淋はそう判断した。だが、二度目の診察。これが問題だった。その二度目の診察で、永淋は聴診器で確かに音を聞いたのだった。怖くてレントゲンを撮ることはできなかった。なぜなら、魔理沙のなかにいる何者かが意志を持っているかのように思えて仕方がなかったからだった。まるで胎児が魔理沙の身体のなかにいるかのように感じられたのだと永淋は言う。大きさの問題ではない。身体的には魔理沙の格好は変わっていない。はっきりといえば、どこかが不自然に出っ張ってしまっていたりということはない。永淋は魔理沙の身体のなかに、意思のある音を聞いたのだと言う。身体のなかを這いずり回るような音だ。永淋が魔理沙に語りかける言葉によって、その動きを変えた……ように思われた。実際はわからない。レントゲン写真を撮るという行為は「彼」――永淋は魔理沙の身体のなかにいるかもしれないという存在を無意識に「彼」と呼んだ。鈴仙は気がつかなかった――に知られてしまうかもしれないと、永淋は言う。
もしも魔理沙の身体のなかに何かがいるとして。
もしも未知の生物だったとして。
もしも意志があったとして。
永淋はその幾つもの「もしも」を考慮して魔理沙を地霊殿へ行くように勧めたのだった。地霊殿の主ならば、もしかしたら「彼」の意思を知ることができるかもしれない。もしかしたら「彼」など存在しないのだと断言してくれるかもしらない。
そして睡眠薬も渡した。これは、魔理沙がそれを服用し、眠っているあいだに地霊殿へ運び込むという目論見だった。服用する可能性は低いだろうと見当はついたが、なにもしないよりは良かった。ただし、魔理沙は眠ったとしても「彼」まで眠るかどうかはわからない。
鈴仙は魔理沙の住まう家にたどり着いた。昨日からの所定の位置で窓を覗く。窓からはロッキングチェアでくつろぐようにして眠る人形遣いの姿があった。あまりにものんきななその姿に鈴仙は顔をしかめたが、慌てて窓のそばへと駆け寄った。師はなんと言っていたか。睡眠薬を魔理沙に渡したと言ってはいなかったか。魔理沙のなかにいる生命体が、あるいは魔理沙を操るということは考えられるのではないか。魔理沙のなかにいる生命体が睡眠薬をつかってアリスを眠らせたのではないか――。
窓の外から家のなかを見回したが、その場からでは魔理沙の姿を確認することはできなかった。どこへ行ってしまったのだろうか。
そのとき、悲鳴が聞こえた。
この仮説には問題がいくつもある、と鈴仙の師は言っていた。そのうちのひとつに、「彼」には目的があるのかどうかという点がある。ただ寄生し、そこで一生を終えるだけならば問題ない。けれど、未知の生物だとするならば、そこからいったいどんな行動に出るのかがわからない。
永淋は「彼」が気に入らないようだった。鈴仙も気に入らない。それも、ひどく気に入らない。
※
「彼」の目的は単純だった。
繁殖、そして繁栄。
※
10
「そんなに急いでどこへ行くの?」
地霊殿へ向かおうとしていた魔理沙は、そう声をかけられて振り向いた。パチュリーだった。
「なんだ、パチュリーか。おどかすなよ」
魔理沙は安堵から笑顔になり、そう訊いた。
「別におどかしたつもりはないわ」
「珍しいな。どうしたんだ、こんなところに」
「魔理沙。今日という今日こそは本を返してもらうわ」
「ちょ、ちょっと待て。どうしてこんなときに限って来るんだ」
魔理沙はうろたえて後ずさった。
「どうしてもこうしてもないわよ。返却期限はとうに過ぎてるのよ。もっとも、それを設定して貸したわけではないけれど」
「今日は勘弁してくれ! 今度返すから」
近づいてくるパチュリーの気迫に気圧され、魔理沙は逃げを決めようと箒をかまえた。
「だめよ。いつもそう言って逃げるだけじゃない。今日こそ返してもらうわ。わざわざわたしが館の外に出てきたのよ。今日は喘息の調子が良かったからとことん――」
「今日はなにがどうあっても無理なんだ。じゃあな!」
魔理沙はそう言うと、パチュリーに抱きついた。
パチュリーの悲鳴があがった。
同時に魔理沙も悲鳴をあげた。
※
「彼」はそろそろ頃合いだと感じた。
拠り所の姿は、ここの住人たちにとってなかなかに見栄えがいいようだった。見栄えというのは大事だった。どこに行ってもそうだ。優劣をつけるのに重要なファクターのひとつだ。そして子孫を残すためには優劣をつける激しい競争に勝たねばならない。むろん、それを考慮してのこの拠り所だった。
「彼」の種族は拠り所の増加とともに増える。つまり、拠り所が二個体になれば「彼」も二個体になるのだ。だが、この拠り所の種族はどうやら単体で分裂できる種族ではないようだった。それは種の繁栄としては利口な考え方だったが、「彼」にとっては厄介極まりないことだった。相手が必要になるからだ。
「彼」は己の故郷を知らない。「彼」の種族は、ありとあらゆる大地で、そこに栄える種族――特にその大地に君臨する種族――に寄生し繁栄していった。そして寄生した種族が滅びると、長いあいだ眠りにつく。大地で眠り、拠り所とするに相応しい新たな種が現れるまで待つ「彼」。巨大な岩のなかで眠りにつき、隕石を船として別の大地へ繰り出す「彼」……。様々な方法で己の種族を増やしていた。「彼」らは己の身体を極端に縮めることができたため、身を隠す方法には事欠かなかった。
いま、拠り所は焦っているようだった。だが、その直後に安心をし、さらにそのあとで後悔をしている。はじめてなにかの行動をとったらしい。それがなにかはわからない。まだ視覚がはっきりと得られていないのだ。しばらくのあいだ、拠り所のそばに別の生命体がいたようだった。拠り所とその生命体は多くの言語を発していた。拠り所はよく「ちくしょう」という言葉を使っていた。無意識に使うことが多いようだった。だが、その言葉はあまり褒められたものではないようだった。拠り所は、一緒にいる生命体にあまり頭があがらないようだった。だが、好感を持っている。「彼」は行動に移るべきかと悩んだが、そうしているうちに生命体の音が聞こえなくなった。沈黙してしまったようだった。死んだのだろうか? 「彼」には判断がつかなかった。
その後、拠り所は己の住処を飛び出したようだった。そこでちょうど視界を得ることに成功した。拠り所は周囲をきょろきょろと見渡し、誰もいないのを見て取ると、拠り所と先ほどの生命体がよく口にしていた「地霊殿」へ向かうために先を急ごうとした。だが、「彼」は、拠り所の元へ近寄ってくる者がいることをちゃんと視認していた。その生命体は全体的に紫がかった格好だった。そしてどうやら病弱な体質のようだった。だが「彼」にとってそれはあまり問題ではなかった。相手が病弱だろうとなんだろうと問題はない。問題は数なのだ。繁殖することに意味がある。
拠り所は紫色の生命体に背後から声をかけられ、ひどく驚いていた。が、すぐさまこの拠り所の持ち前であろう、ざっくばらんな人柄がその感情を消した。「彼」はすぐに拠り所と紫色の生命体が互いに好感を抱いていることを知った。都合の良いことに、紫色の生命体が拠り所に抱く好感の度合いは計り知れないほどのようだった。これは非常に結構なことだった。拠り所の感情はこちらで操作してしまえばいため、相手が拠り所を好き好んでいてくれれば事は簡単にすむ。
拠り所と紫色の生命体は口論をはじめた。これは面倒なことになったと「彼」は感じた。さらにその直後、拠り所はこの場所から逃げ出そうとしていた。そうはいかすまい。「彼」は慌てて魔理沙を行動にうつさせた。
※
11
ふたつの悲鳴のあがった場所にたどり着いた鈴仙は口をあんぐりと開けた。いったいぜんたい、なにをやっているんだ?
魔理沙が真っ赤な顔をしたパチュリーに抱きついている。そして、ふたりとも悲鳴をあげ続けている。
鈴仙はぽかんとしたまま、やがて頬を染めた。だが、師の心配そうな顔を思い出し、邪推しようとしていた己を叱咤して魔理沙をひきはがしにかかった。見た瞬間は呆気にとられたが、そうなのだ、師の恐れていたことが起こってしまったのだ。やはり魔理沙のなかには未知の生命がいるのだ!
ひきはがした途端、パチュリーはうずくまった。なにかされたのではないかと鈴仙は心配になったが、魔理沙から気をそらすことは憚られた。当の魔理沙は眼を見開き、今にも失神してしまいそうに見えた。
「わたっ……、わたしはなにもしてないんだ」
と魔理沙は言った。声が震えている。よほど恐ろしかったのだろうと鈴仙は思った。
「抱きつくつもりなんて、これっぽちもなかったんだ。ただ、逃げようとして――」
魔理沙は鈴仙の顔を見た。鈴仙にはどうすることもできなかった。
幻覚を見せて惑わせ、一度永遠亭へ連れてゆくべきか……。
魔理沙は鈴仙に抱きついた。
鈴仙は己の身になにが起こったのかわからなかった。ただ、良い匂いがした。それだけは確かで、それはとても心地よいものだった。
そして悲鳴。
12
アリスは後頭部への激しい痛みで目を覚ました。つかの間、ここがいったいどこなのか判断がつかず、部屋のなかを見渡した。どうやら魔理沙の家のようだった。そうだ、たしか本を返してもらいに来たのだった。
悲鳴が聞こえた。
アリスは顔をしかめ、自分の今の状況を確認しようとした。どうやら椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。確か、改造されたという椅子で、揺り椅子の状態で……だが、椅子は普遍的な四脚の椅子だった。すぐ、肘掛けにあるボタンを押せば変形するのだということを思い出した。揺り椅子の状態で眠ってしまい、うっかり四脚に変形させて頭を打った――なるほど。事の顛末が簡単に推測できた。
ふたたび悲鳴が聞こえた。
アリスは後頭部をさすりながら、その悲鳴のもとへ急いだ。
※
「彼」にはわけがわからなかった。拠り所と紫色の生命体は互いに好意を抱いていた。それは確かだった。だが、ふたりがあげた悲鳴、それに伴って激しく揺れた感情によると、ふたりは互いの種族が違えど雌雄の区別があることに違いはないことが知れた。まさか相手が必要なだけでなく、雌雄が必要だとは。雌雄の区別があるなどと、なんと愚かしいことか! 同性同士では子を発生させることはできない。しかし、ならば何故好意を持っていたのか。特に紫色の生命体の好意の大きさには納得がいかなかった。
次いで、「彼」は長い耳を持つ生命体を発見した。拠り所は気が動転しているようで、その生命体に対する情報を得ることはできなかった。だが長い耳を持つ生命体は拠り所のことを心から心配しているようだった。すくなくとも敵意を持っているようには見えない。
「彼」は行動を再開した。
しかし、「彼」はすぐに後悔することになる。
※
13
魔理沙は気が気ではなかった。とんでもないことが身に起こったのだ。パチュリーに、そして鈴仙に、自分は欲情してしまった。
やはり精神がおかしくなってしまったのだ!
ちくしょう、あの医者の言う通りだったのか。
魔理沙は自ずから抱きついてしまった鈴仙から、どうにかして離れようとした。だが身体が言うことをきかない。鈴仙は目を丸くし、頬を染めて硬くなって動きそうもない。まずい、これは非常にまずいぞ。むらむらとした感情は収まるところを知らないかのようだった。
「ちょ、ちょっと魔理沙。いったいなにをしているの……?」
魔理沙は、鈴仙に抱きついたまま声のするほうへと顔を向けた。
そこにいたのはアリスだった。
「や、やあアリス」
魔理沙は無理に笑ってみせようとした。だが上手くいくはずもなかった。
バカダナアゴマカセルハズガナイ――つかの間、覚えのない言葉が頭をよぎった。魔理沙が覚えていないだけだった。小説を読んだのはつい昨日のことだ。
「いったいなにをしているの?」
アリスが近寄ってくる。なぜかアリスは怒っているようだった。わけがわからない。魔理沙は逃げ出したくなった。泣きたくもなった。だが身体は思うように動かない。
魔理沙は小説のことを思い出した。そうだ、こんな場面だった。焦った男はどうやってその場を切り抜けたんだったか……、思い出せ、思い出すんだ!
魔理沙は思い出した。
「なにをしてるって……。そ、そう、スキンシップなんだぜ!」
ついにアリスが魔理沙と目と鼻の先まで来た。
魔理沙はアリスの目がうるんでいることに気がついた。
そのとき、蹲ったままだった知識と日陰の少女が立ち上がった。
※
なんということだ。長い耳の生命体も拠り所と同性ではないか。
「彼」は、「彼」の種族にしかわからない言葉で悪態をついた。しかし、どうやら騒ぎを聞きつけて新たな生命体がやってきたようだった。
だが、やってきた新たな生命体を確認すると、ついに「彼」までもが「ぎゃっ」と悲鳴をあげた。
新しくやってきた生命体の、なんという感情の大きさか。これほどの感情は見たことがない。好意、嫉妬、憎悪。それらが激しく渦巻いている。しかし……、しかしまた同性ではないか!
「彼」は、「彼」の種族にしかわからない言葉で泣きごとを呟きはじめた。
もう、もう無理だ。
この拠り所ではやっていけない。
逃げなくては。
そうだ、逃げなくては。
※
14
魔理沙をはさみ、七色の人形遣いと動かない大図書館の全面戦争が勃発した。
鈴仙は赤い顔のまま、ふらふらとその場を離れた。なんとか逃げおおせることができた。
悲惨な二日間だった。
鈴仙は身体を休めるために、うつむいて地面に座ろうとした。だがそこには先客がいた。ほんの小さな糸ミミズのような生物だった。だが、そいつには無数の足が生えており、あまりにもグロテスクだった。鈴仙は八つ当たり気味にその糸ミミズのような生物を足で潰した。
「ちくしょう」
潰す直前、か細い声が聞こえたような気がして鈴仙はあたりを見渡した。とても悲しい悲鳴のようだった。しかし、声の主と思しき相手は見当たらなかった。きっと気のせいだろう。
まったく、本当に悲惨な二日間だった。
鈴仙はそう思った。
それに、なんということだ。結局わたしはなにもしちゃいないじゃないか。
太公望の魚釣り――。
ふと、魔理沙を監視しているあいだに思い浮かべた物語をおもい出した。
ああ、たしか彼は大物を釣ったんじゃなかったか。もちろんそれは魚ではない。それから彼は大活躍をする。
それに比べてわたしはなんにも活躍できてない。
だが鈴仙は、これから魔理沙を永遠亭なり地霊殿なりに連れていかなければならないのだと思いだした。そうか、まだ悲惨な二日間は終わっちゃいなかったのか。
それにしても。
鈴仙は喧嘩をする魔女と人形使い、それに慌てふためく白黒魔法使いを見て思う。
未知の生命体なんて本当にいるのかしら。
了
その彼の姿というのは解りましたが……。
面白くはあったんですけど、なんか微妙な終わり方のような気がしました。
魔理沙が板ばさみなのはまぁ…お疲れさま?
彼、悲しい悲鳴をあげて死んじゃったようにみえますが…コメディなんですか?
コメディ??という感はありましたが,
これはこれでアリだと思います.
多分文体のせいでしょうね。
淡々と冷静に描写しすぎていて、笑おうにも笑えない感じです。
正直、コメディのタグを忘れてしまって、途中までホラーかと思ってしまったくらいです。
全体的にライトなノリにしてしまうか、ホラーだと思わせておいた所で一気に軽くし、落差で笑わせてしまうかすれば良かったのでは。