『レミリア・スカーレットは吸血鬼である。桁外れの力、弱点の日光やニンニク、背に生えた蝙蝠の翼など、その特徴が多くの吸血鬼の前例と合致するからだ。
また身体的特徴に加え、彼女は運命視の能力を持っている。眼を魔術回路とするのは吸血鬼には良く見られる。ただ、視る事は出来ても運命を意のままに操る事はしない。彼女ほどの魔力を持ってすればある程度の運命操作は不可能では無いと思えなくもないが、この部分は要調査である。
反面、彼女は血を吸って眷属を増やす事が出来ない。一度に吸血する量が少なすぎるせいで、簡単な呪い・魅了に留まってしまうのだ。よって、現在彼女と直接関わりのある吸血鬼は、妹のフランドール・スカーレットのみとなる。先日襲撃してきた吸血鬼狩りを何を思ってか魅了したようだが、この場合も吸血したわけではない。逆に自らの血を飲ませ、意図的に魅了に留めただけである。
なので自ら血を吸い、僕として従えている吸血鬼は存在しない。
余談として妹のフランドールについてだが、こちらはそもそも形を保った人間と相対した経験が無い。地下室から殆ど外に出ないせいである。ただ、差し入れられる紅茶等に含まれる血液で吸血衝動が治まるとも思えない。
あくまで推測だが、彼女は吸血衝動を他の何か、例えば魔力に還元する術を身に付けているように感じる。単純な魔力に限れば、姉であるレミリアをも遥かに凌ぐからだ。
レミリア・スカーレットに話を戻すが、現状彼女は「吸血出来ない吸血鬼」である。矛盾が生じるようだが、この表現が一番適切なのだ。
ただ、何故吸血が上手くいかないのかについては判明していない。単に人間で言うところの小食者なのか、何らかの理由で吸血行為を嫌っているのか、それとも別の心理的・肉体的要因があるのか、それらは全て憶測の域を出ない。
今後も引き続き、彼女の観察を継続する必要がありそうだ』 ――パチュリー・ノーレッジ
――――――――
ここまで書き終え、私は羽根ペンを置いた。さっきまで白紙の魔術書にインクが染み込む音だけが聞こえた夜の図書館は、今はもう静まり返って何も聞こえない。
窓から差し込む月明かりと、机に置いた魔法のランタンだけが周囲に積み上げた本の山を照らす。凝り固まった体を伸ばしながら、周りに出来た本の壁に目をやる。使い魔を総動員して図書館中から集めさせた吸血鬼に関する古今東西の本が積み重なっている光景は、ちょっとした迫力がある。
全てに目を通すのに一週間。その中から使えそうな文章を抜き出す作業に三日。自分の今までの調査結果と照らし合わせ、文章として纏めるのに四日。おおよそ昼夜を徹して二週間を私はこの研究に費やした。我ながら研究に没頭していると思う。
研究のテーマは「吸血鬼」。他でもない、無二の友人であるレミリア・スカーレットについてだ。
「お疲れのようですけど、大丈夫ですか?」
本の壁の向こう側から、心底私を気遣うような声が聞こえてくる。その声の主が私の使い魔なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
返事をしないまましばらく経つと、本の壁の一角が徐々に取り払われていく。私は別に魔女なのだから少し無理をしたくらいで死にはしないが、そういえば以前読書に夢中で気付かず、崩れてきた本の山に三日間生き埋めになった事があった。あの時は埋もれたまま「むきゅー」とも言えなかったが、それを心配しているのかもしれない。
「大丈夫だけれど、一段落したし少し休憩しようかしらね」
向こう側に赤いストレートヘアが確認できるくらいに本が減ったので、魔術書を畳みながら私は言った。目に見えて作業ペースが上がる。
壁の一角が完全に取り払われた頃、ちょうど図書館にメイドが様子を見にやってきた。咲夜、と言ったか。時間を操る能力をレミリアが気に入ったらしく、先日から館に仕える事になったと聞いた。
もっとも、仕える事になった経緯は使い魔越しにしか知らない。レミリアを狙って襲撃してきた所を返り討ちに遭い魅了された、と言うのがおおよその経緯らしいが、不完全なレミリアの魅了でこうも従順になるとも思えない。何か裏があるのだろうか。
紅茶を一杯持ってきて、と注文する。頭を下げる咲夜を見ながら、こちらも並行して調査する必要がありそうだ、と考えた。
「それにしても、今回は随分と熱が入ってますね」
紅茶を待つ間、使い魔と並んで机に腰掛ける。サラサラの髪と無垢な瞳は小悪魔をさせておくには惜しい程に綺麗だけれど、元来サキュバスとはそういう物だったと思い返して一人納得する。
彼女は良く働く。魔法で無理矢理本を詰め込んでるこの図書館の司書として、私の注文を受けて文字通り飛び回っている。私はもっぱら読書と執筆に専念しているが、それが出来るのは少なからず彼女のおかげでもある。
「ちょっと以前から気になっていた事でね。良い機会だから徹底的に調べてみようと思って」
適当に返事を返す。研究内容については誰にも悟られてはならない。もっとも、目の前の従者は私に歯向かうような真似はしないけれども。それでも何かの拍子にレミリアの耳に入らないとも限らない。それだけは絶対に避けたい。
単純に険悪な空気が流れるとか、そういう事は問題にしていない。私とレミリアの付き合いは長いし、今更多少の事では彼女も動じないだろう。
ただ、これをきっかけに彼女が自分自身について深く考えるのは不味い。非常に不味い。最悪、アイデンティティを失って気が触れる事も考えられる。
「紅茶をお持ちしました」
レミリア・スカーレットは吸血鬼だ。それに関して疑う余地は無い。
しかし、『正確なカテゴライズの上で』吸血鬼かどうかはわからない。
「血が吸えない吸血鬼」と言う矛盾した存在への得体の知れない好奇心が、百年近くの付き合いの友人を研究対象にすると言う暴挙に出させた。
「ありがとう。そこに置いたら下がって良いわ」
一度頭に浮かんだ疑念は、とことん調べ上げるまで晴れてくれない。永劫に近い月日を、頭に浮かんだ疑念と共に過ごす事など耐えられはしない。
それが例え今後レミリアに対して秘密を抱え続ける結果になったとしても、呪いのような知識欲からは逃れられない。
もしかしたら、私はとても大きなタブーに触れようとしているのかもしれない。それでもいい。それも仕方ない。
「……少し苦いわね、コレ」
血のように濃い紅茶を口にしながら、私は魔女に生まれた『運命』を呪った。
――――――――
『この幻想郷に来てから、どれ程経つだろうか。永い月日の中で日にちを数えるのは虚しくなるだけの気がするけれど、興味深い側面もあるのでそれをここに記す。
何が興味深いかと言えば、それは先日レミリアが起こした紅霧異変の他に無い。
概要としてはレミリアが「昼でも外出したいから」との自分勝手な理由で霧を出し日光を遮ったと言うわけで、当然異変解決に来た人間に弾幕ごっこで敗北し、異変は既に収まっている。
問題はその異変自体ではなく、レミリアの動機に関する部分だ。異変を起こした動機と、幻想郷に移住を決めた動機。
これから記すのは、あくまでも私の勝手な憶測である事を先に記しておく。
どうやらこの幻想郷には、吸血鬼の類はレミリアとフランドール以外には存在しないらしい。
確かに外の世界では吸血鬼はまだまだ現役、人々の記憶から風化するのには程遠い。レミリアの同族も、人々が知らないだけでそれなりの数は存在している。
しかし、だ。それならば何故、レミリアは外の世界での一切合財を捨て、幻想の向こう側へと渡る決意をしたのか。
こうは考えられないだろうか。
レミリアは以前記した通り、吸血行為の出来ない吸血鬼だ。その事が深いコンプレックス、同族に対する引け目となっていた。
レミリアのプライドは高いとは言え、限度はある。五百年もの間、周囲の視線に耐え続ける事にも疲れ、幻想郷に行く決心をした。ここまでが移住を決めた動機だ。
そして境界を越えてこの幻想郷に移住し、他に吸血鬼が存在せず、人々が吸血鬼について「強大な力を持った妖怪」と言った漠然なイメージしか持っていない事を知る。
そこでレミリアは「吸血鬼として最初の」異変を起こし、自らの、吸血鬼としての力を誇示してコンプレックスから目を背けようとした……。
「霧で日光を遮る」と言うのは、もしかしたらただの大義名分だったのではないか?
それが成功したかどうかは関係なく、新しい世界での自分のイメージを定着させるのが真の目的だったのではないか?』 ――パチュリー・ノーレッジ
――――――――
「邪魔するぜー」
威勢の良い声と共に図書館の扉が開け放たれる。ここ最近は特に珍しい事でも無い為、一々顔を扉に向けて無作法な来客を咎める事もしない。
あくまでここは図書館なのだから余り騒々しい真似はしないで欲しいのだけれど、人の本を「死ぬまで借りるだけ」と言って勝手に持っていくような人間にそんな事を注意しても無駄だ。
諦めの意味で溜め息をつき、私は本に栞を挟んだ。
「また来たのね……」
おう、来たぜ。と悪びれる様子も無く、早速持って帰る本を物色し始めるのは人間にして魔法使いと言う変り種。霧雨魔理沙には色々な意味で「常識」の二文字が欠落している。
人の身で魔法を使うメリットなんて、私には思いつかない。そもそも人であるのに魔法使いになろうと考える事自体が、種族としての魔法使いの私には理解できない。
その割に腕はそこそこ立つらしく、先日に異変――幻想郷を紅い霧で覆って日光を遮った――を起こしたレミリアを弾幕ごっこのルールの上とは言え倒していたりする。人の身で吸血鬼に勝つなんて、やはり常識から外れているとしか思えない。
「いい加減、貸した本を返してくれないかしら?」
「『マンガでわかる魔導工学』か、懐かしいな……世話になったぜ。うん? 何か言ったかパチュリー?」
本当に聞こえていないのか、意図的に無視しているのか。はたまた聞こえてはいるけれど、自分に都合の悪い話には鼓膜が揺れないのかもしれない。
何にせよ、図書館に侵入された時点で本が持ち出されるのは諦めている。本当に持っていかれては困る本は、何重にも結界を張った上で隠してあるし。
見る見るうちに彼女の手には、持って帰る本の山が出来る。魔理沙に気付いた小悪魔が仕事の手を止めて微笑みながら頭を下げ、魔理沙も慣れた様子で片手を上げ、挨拶を返す。使い魔は仕事は問題無くこなしてくれるのだけれど、どうも大事な何かが抜けてる気がしてならない。
「……ウチの門番はいったい、毎度毎度何をしてるのかしらね」
抜けてると言えば、美鈴もそうかもしれない。
顔見知り兼居直り強盗のような来客を追い返す事も無く通してしまうのは、いくら弾幕ごっこが苦手とは言えど門番としては問題がある。魔理沙が来た日の夜には痛々しく包帯を巻きながら紅茶を飲んでいるから、決して仕事に不真面目と言うわけではないのだろうが。
スペルカードルールが制定される前は、少なくともそこいらの人妖などは話にならない程の頼りになる門番だったと思うのだけれど。
「ああ、あの門番だったらさっき『ドゥブッハァ!』とか言いながら吹っ飛んでったぜ」
ただ、今目の前にいる魔法使いは、どうやら「そこいらの人妖」にはカテゴライズされないらしい。
「それはアナタが意図的に吹き飛ばしたんでしょう」
そうとも言うな、と呟いた後、魔理沙は机に山盛りの本を置き、ご丁寧にも風呂敷で包み始めた。第一に用意周到さに感心し、第二に神経の図太さに感心した。
最早通じる言葉もない。とっくにわかりきっていた事だけれども、わかっているから悔しくないかと言われたらそうではない。溜め息をつくと、図書館に灰色の空気が満ちるような気がした。
私の溜め息の意味を察してか、不意に魔理沙が手を休めた。初めて見る反応に少なからず驚き、私は顔を上げる。魔理沙の視線は、積まれた本の表紙から動かなかった。
「なぁパチュリー、一つ聞きたい事がある」
何よ、と返した声は、知らずぶっきらぼうになっていた。大人しく本を返すわけではないとわかったのもあるが、不意に魔理沙から発せられた声が妙に憂いを帯びて聞こえたと言うのもある。
ゆっくりと私の方を向く魔理沙の瞳は、強い意志と大きな疑念の混在する複雑な色をしていた。まだ付き合いが長いわけではないが、それでも普段見せる快活さとのギャップに少なからず動揺する。
「魔法使いって、何なんだ?」
ずっと魔法使いを目指してきて、念願叶って魔法を使えるようになって、お前やレミリアとも弾幕ごっこが出来て、けれど私は魔法使いじゃない、「魔法を使う人間」だ。
私は「種族:魔法使い」になるつもりはないんだ。でも、それとは別に目指す魔法使い像は確かにある。どうしたら魔法使いになれるんだろうか。なぁパチュリー、魔法使いって何だと思う?
ゆっくりと取り乱す事無く、けれどそれはむしろ長い間立ち止まって考えすぎて足が動かなくなったような、そんな口調で魔理沙は私に問い掛けた。
「……そんなの、知らないわよ」
自分でも無意識のうちに声が沈んでいた。答えが見つからない。何を言うべきか、まるで検討がつかない。魔法使いの在るべき姿、いわば「完全な魔法使い」なんて考えた事も無い。
いや、考えた事が無いのとは違う。最初から諦めていた。持病の喘息のせいで詠唱呪文も満足に唱えられない自分は、イレギュラーな魔法使いにしかなれないと思い込んでいたのではないか?
見つかりもしないその答えを本に求めて百年間、知らずのうちに私の魔法使いとしての在るべき姿は「動かない大図書館」となり、読書と研究に没頭するようになった。過程だった筈の物が結果になった。
泥のような返事を返すのと同時に、レミリアについての研究が頭に浮かんだ。
レミリアが生まれつきの吸血鬼なのか、何者かに血を吸われて吸血鬼化したのかは定かではない。血を吸えない理由もわからない。それを解き明かす理由は、魔法使い特有の探究心による物だとずっと思っていた。
けれどもしかしたら、私はその研究に自分の魔法使いとしてのアイデンティティを投影していたのではないか?――そんな考えが、不意に脳髄の奥から染み出した。
詠唱出来ない魔法使い。
血を吸えない吸血鬼。
その二つの本質的な違いとは何ぞや? 自信を持てる回答は、すぐには出てこなかった。
「まぁ、そうだよな。そんなのが私以外にわかるわけはないな」
数瞬前までのしおらしさが嘘のように魔理沙は顔を上げて笑い、すっかり大きくなった風呂敷を担いで箒に跨った。
そのまま図書館を出て行く後姿を目にしながら、私は何もしなかった。いや、しようと思っても出来なかったのだ。伸ばしかけた手は鉛のように重い。待ってと言いかけた喉はカラカラに渇いている。
図書館に急激に静けさが戻る。静寂の中、私は手元の魔術書に視線を移す。長い間続けている研究を記した一冊の魔術書が、まるで蠢く心臓に見えた気がして、私はそれを机の上に放り投げた。
――――――――
「もうすぐ、咲夜にかけた魅了が解けてしまう」
その夜図書館に訪れた吸血鬼は、随分と弱々しい声でそう言った。咲夜が倒れてからのここ数日、レミリアは後悔と苦悩と憔悴の入り混じった顔を明るくさせる事も無い。
ちょくちょく様子を見ている美鈴によれば、まだ意識は戻らないらしい。それもそうだ。言うなれば吸血鬼の魔力が血液を侵食して魅了になるのだから、一日二日で魅了が解け、意識が回復する筈も無い。それでも咲夜は人並み外れた体をしているから、明日の朝が来る前には目が覚めるだろうけれど。
しかし、それは今のレミリアにとっては決して良い知らせとも言えない。何故なら彼女は今、運命の岐路に立たされているからだ。
「レミィ、貴女はどうしたいの?」
魅了が解けると言う事は、咲夜が元の吸血鬼狩りに戻ると言う事でもある。
咲夜が紅魔館を出て行く自体はまだ良い。問題はレミリアだ。不吉な運命視の能力故、彼女は世界から疎まれ続けてきた。長い間孤独で居た所に、似たように時間に干渉する咲夜と言う人物が現れたのだ。
今や咲夜の存在はレミリアにとって欠かせない物になっている。それも、私や美鈴では代替の利かない、だ。そんな咲夜がいなくなったら、目の前の吸血鬼の辿る運命は私でさえ見える気がする。
「私は……」
彼女には、彼女さえその気になれば割と多目に選択肢がある。
一つ目、咲夜が意識を失っている今のうちに、再度魅了をかけなおす方法。至極簡単だ。ベッド脇に置いてある銀ナイフを手にとって指をなぞって、咲夜の口に当ててしまえば良い。咲夜はたちどころに目が覚めて、これまでの日々と同じようにレミリアの指の止血を始めるだろう。
二つ目、同じく咲夜が意識を失っているうちに、血を吸って眷属としてしまう方法。もっとも吸血鬼らしいと言えばらしい。ただ、以前から続けている研究で知ったように、レミリアはまだ眷属を増やせた試しが無い。確実性には欠ける。
三つ目は、今のまま何もせず、咲夜の自由意志に任せる方法。ある意味では賭けだ。咲夜が紅魔館に残る理由は、少なくとも私には思い浮かばない。それでもレミリアが咲夜に情が移ってしまったように、その逆も有り得るかもしれないが。
「私は……咲夜の意志を尊重したい」
そして吸血鬼は、もっとも吸血鬼らしくない選択肢を選んだ。とは言え、ある程度は想像出来た事だ。元から今のレミリアには、この選択肢しか存在しない。
ただ、彼女は不安なのだ。自分でも予期しない内に欠かせなくなった、日々の構成要素を失いたくなくて悩み、悔やんでいる。それでも咲夜に何もしないのは、従者を信じる主人としてのプライドか、あるいは。
「ねぇレミィ、一つ聞かせて」
顔を上げるレミリア。なぁにパチェ?と聞き返すその声は酷くか細い。
少し叩けば折れてしまうようなその声に今から私が投げかける質問は、もしかすると楔を打ち込むに等しい程の重い物かもしれない。
それでも、この機を逃せば二度とチャンスは無いように思えた。レミリアと、――私のために。私は痺れる喉に精一杯喝を入れる。
「どうして、咲夜の血を吸わないの?」
ハッキリとレミリアの顔の色が変わった。潮が引いていくように血色は失われ、唇はわなわなと震えだす。
それでもレミリアはキッと私を見据え、声の震えを必死に押し隠しながら言った。
「……決まってるじゃない。従者の意思を尊重するのは、主人として当然の務めでしょう」
「血を『吸わない』のなら尊重と言えるわレミィ。でも、もしかしたら貴女は……」
ダメだ。それから先を言ってはいけない。それはレミリアのアイデンティティに関わる事だ。
レミリアは大切な友人なんだ。そんなレミリアを傷つけるくらいなら、影を抱えて暮らし続けた方が良い。
いや、良いんだ。それから先を言わなくてはいけない。何故?レミリアが自分と向き合う為に?
違う。私は自分に答えが欲しい。私自身に対する答えを、目の前の無二の友人を傷つけてまで手に入れようとしている。
私は、私は――。
「……『吸わない』んじゃなくて『吸えない』んじゃないのかしら?」
放った言葉が銀のナイフと化して、レミリアの心臓に突き刺さるのが見えた気がした。心から深紅の血液が止めどなく流れ出す。
レミリアは驚愕に目を見開き、そして強く拳を握り締め、私を睨みつけながら言葉を搾り出す。
理由も無く反抗する子供にプライドの高さと絶大な力を与えたら、きっとこんな風になる。困惑と驚きと怒りが入り混じった瞳に、いつもの輝きは無い。
「――何を根拠にそんな事を」
違う。これは自己投影なんかじゃない。私はレミリアの事を思ってこれを言わなければならないのだ。
血を吸わないのには、絶対に何か理由が有る筈だ。それをそのまま放置しておいたら、どちらにせよ何らかの皺寄せが来る。
だから、いつかは自分と嫌でも向き合わなければいけない。
「根拠なんて無いわ。ただの魔女の勘よ。でもね、レミィ」
「…………黙って、パチェ」
違う。私はそれを大義名分に自己投影を正当化してるだけだ。大体、事の真偽も定かではない、私の憶測ではないか。
レミリアだって止めろと言っている。今ここで言葉を引っ込めて謝罪すれば、レミリアも許してくれる。
だから、今喉から出掛かってる言葉を止めなければいけない。
「貴女は確かに吸血鬼。それは認めるわ。血を吸えない以外は非の打ち所が無い吸血鬼だもの」
「……黙りなさい」
違う。違う。違わない。違う。違わない。何が違って何が正しい。或いは正解なんて無いのか。
冷静かつ無意識にレミリアを追い詰める言葉を紡ぐ口と、葛藤を続ける頭。体の中に自分が何人も居るようで気持ちが悪い。私は一体何がしたい。私はレミリアに何を望んでいる。
そう考えている間に、言葉が運命の岐路に楔を打ち込んでしまう。歪んだガラスが盛大な音を立てて割れる錯覚。確かに何かが壊れた。
「だけど、一番大事な『吸血』と言うパーツが欠如してる。貴女は『血を吸えない吸血鬼』なのよ」
「うるさい、黙れ!」
叫びながら、レミリアは紅の槍を手に取った。それを視認した次の瞬間に閃光が走り、背後の本棚が倒壊する音が聞こえる。
頬に生温かい感触。知らず震え始めた手で頬に触れると、ヌメリとした感触と共に赤い液体が手に付く。それが血液だと認識出来るまでには数秒を要した。
視線をレミリアに戻す。槍を投げた姿勢のまま、荒く息を吐きながら私を困惑の表情で見つめていた。自分が何をしたのかわかってない。そう表現するのが一番近い表情だった。
「あ、パチェ、私……」
レミリアの体が、傍目からもわかるくらいに震えだす。瞳の色は困惑から怯えに変わっている。昂ぶった感情が急激に冷めて、数秒前とはまるで様子が違う。
その表情のまま、レミリアは私に背を向けた。黒く映える蝙蝠の翼をバサリと広げると、そのまま窓を突き破って夜の空へと飛び立って行く。
咄嗟に伸ばした手は届かない。小さくなる背中は、何から逃げているのか。私の言葉か、友人を傷つけた過ちか、真実の核心か。
「レミィ、待って!」
制止の言葉も届かない。あっという間に姿は見えなくなり、ガラスの割れた窓からは満点の星空だけが広がる。
どうすれば良い。私の言葉がレミリアを追い詰めた。なら私が行く事に意味はあるのか。ここで帰りを待ち続けた方が良いんじゃないか。
頭の中でそんな葛藤を展開するより早く、私の右手は魔術書を開く。結果的にどれ程レミリアを傷つけたかはわからないけれど、少なくとも私はレミリアの力になれるようにこの研究を始めたのだ。謝罪の一つもしないといけないのは、百年間魔女をやっていなくてもわかる。
「浮遊、飛行術式展開」
目を瞑り、精神を落ち着かせる。唱えやすいように切り詰めた呪文を詠唱すると、体は青い光に包まれてフワリと浮いた。
そのまま脳内の葛藤を振り払うように、私はレミリアを追って夜の空に飛び出す。
帽子を抑えて夜の空を飛びながら、今更だが私は自分自身の軽率さを恥じた。
私が口にした事がレミリアのアイデンティティに関わる事で、下手をすれば取り返しのつかないダメージを与えてしまうかもしれないなんて、一番最初に心得て研究を始めた筈ではなかったか。
ダメージで済むなら良い。今のレミリアは、ただでさえ咲夜がいなくなる懸念のせいで不安定になっている。そこにきて自分の忘れようとしていたコンプレックスを掘り起こされたとなったら、私ならそのままではいられない。
同時に、それをわかっていながらも言葉を止める事が出来なかった自分が恐ろしかった。「言わなければならない」と言う強迫観念すら覚えた気がする。それが言い訳にならない事はわかっているが。
何にせよ、今はレミリアに追いつく事が先決だ。夜風が身に染みるが、構わず私はスピードを上げた。
――――――――
魔力を辿りながらレミリアを探すと、しばらく飛んだ後に開けた丘に出た。月明かりが夜風になびく草むらと、そこに一人立つレミリアを照らす。
星の降る丘。最後に自分の目で外の景色を見たのは、随分と古い記憶の気がする。
自然の美しさを厳選して詰め込んだような風景に、自然の理に反して生きる吸血鬼。その対比が妙に可笑しいけれども、その崩れた対比に美しさを覚えるのは、普段私が外に出ないからなのだろうか。
「レミィ、ここに居たのね」
「来ないで!」
歩み寄ろうとした私を声だけで跳ね飛ばすように、レミリアは叫んだ。ただ、その声色に含まれていたのは拒絶ではなく恐怖。
お化けを怖がる小さな女の子。背中の翼さえなければ、今のレミリアは正にそれだ。未知の存在にどう接すれば良いのかわからず、ただ関わる事を拒絶する。
百年近く友達で居たが、レミリアのこんな様子は初めて見た。少なからず驚いてしまい、私も思わず足を止めてしまう。
「お願い、私を吸血鬼じゃ無いなんて言わないで……」
途端に声は弱々しくなり、最後には俯きながら搾り出すように言葉を紡ぐ。咲夜の身を案じていた時の弱々しさとは違う類のそれだ。
再び私が近寄ろうとすると、ビクリと体が反応した。怯え、に近いかもしれない。ただ、私が怯えられるような事は心当たりが無い。先ほどの会話の後、飛び立つ直前から急激にレミリアは何かに怯えている気がする。
一歩、一歩と近づくにつれ、レミリアの体が震えている事に気付く。今にもくず折れそうな体に懸命に力を入れ、震える両足で立つ目の前の少女は、本当に私の知っているレミリア・スカーレットなのか?
「怖いの。私はずっと自分を吸血鬼だと信じて疑わなかったけれど、それでも血は吸えない」
そうだ。目の前にいるのは、確かにレミリア・スカーレットそのものだ。
確かに、単純に「吸血鬼」とカテゴライズするには大事な部分が欠けている。
どれほど力を持っていても、血を吸えないならそれは吸血鬼ではなく、「吸血鬼の特徴を持った別の何か」だ。
「お願い教えて。パチェ、アナタは私の何を知っているの? 私は吸血鬼じゃないとしたら何なの?」
顔を上げてこっちを見るレミリアの眼は、深い困惑に囚われている。自分を見失うのは誰だって怖い。第一、私だって自分について正確に把握しているかと言われれば、即座に頷ける自信は無い。
レミリアは血が吸えないから吸血鬼じゃない。私は長い詠唱が出来ないから魔法使いとして出来損ない。それは確かにそうかもしれない。種族としての分類とはそういうものだ。
それがどうした。
「……例え貴女が吸血鬼じゃなくても」
いつだったか、図書館で聞いた魔理沙の言葉を思い返す。「魔法使いって、何なんだ?」「私は『種族:魔法使い』になりたいわけじゃないんだ」
ずっと心の中で燻ぶっていた疑念を晴らす言葉を、出任せのように聞こえてもたった今見つけた。文面上だけの特徴で振り分けられる分類なんて、最初からどうでも良かったのだ。
大事なのは、自分自身の在り方。例え本物の吸血鬼じゃなくても、自分が模索して見つけた吸血鬼としての生き方は確かにある。詠唱が出来ないなら、呪文を省略すれば魔法は使える。
種族:吸血鬼にはなれなくても、吸血鬼として生きる事は出来る。
「私の友達であって、咲夜や美鈴の主人。フランの姉。紅魔館の主であり、永遠に紅い幼き月」
そう。それでも彼女は――
「貴女は貴女よ、レミリア・スカーレット」
在り方は、自分の心次第。時間は有り余る程に長い。心一つで世界は変わる。
風が吹いた。冬の夜風が足元をくすぐり、サラサラと音を立てて草むらが揺れる。
随分と長い沈黙の時間が流れる。息苦しい類の物では無いけれども、重みのある沈黙だった。
「私は私、か……」
先に沈黙を破ったのはレミリアだった。ゆっくりと噛み締めるように、私の放った言葉を咀嚼し、飲み下す。
言葉をどのようにレミリアが受け取ったのかは私にはわからない。吸血鬼ではない事を肯定した風にも、もしかしたら捉えられるかもしれない。
けれど、それは私の本心だ。吸血鬼であろうがなかろうが、私の中でのレミリア・スカーレットの位置づけは変わらない。言うなれば、吸血鬼かどうかなんてどうでも良い。
「じゃあパチェは、例え私が血を吸えない吸血鬼の出来損ないだとしても、見放したりしないのね?」
だから、この問いに対して否定の返事を返す理由も無い。
「私はレミリア・スカーレットと友達なのであって、吸血鬼と友達でいたいわけじゃないもの」
思えば、随分と遠回りをして結論を出した気がする。そもそも、何故私は吸血鬼について調べようとなんて思ったのだろうか。
自分の在り方に自信が無かったとは言え、それで無二の友人を傷つけていたんじゃ尚更自分が嫌になる。
その事に関して、きちんと謝罪の言葉を述べなくてはいけない。
「それと、さっきはごめんなさい。貴女を追い詰めたくて言ったんじゃないけれど、結果的に酷く傷つけてしまって」
それはもう良いわ、とレミリアは呟いた。棘がある風にも聞こえない。許してくれたのだろうか。
顔を上げると、レミリアは私に背中を向けて月を見ていた。満月でもなく紅くも無いけれど、その月は何故だか印象的だった。
小さな背中に、不安と迷いが纏わり付いているのが見える。自分については解決したけれど、まだ問題は残っていた。
「咲夜の事?」
背を向けたまま、レミリアは力なく頷く。
「きっと咲夜は、朝になれば紅魔館を出て行ってしまう」
私が伝えた言葉の本質をわかっているのだろうか。それほどまでにコンプレックスが深く心に根をおろしているのかもしれないが。
とは言え、虚勢を張り続けていつか折れるよりかは、こうして弱い部分を見せてくれる方が良い。友達なら、少しでも支え、支えられたい。
本当に厄介で手間のかかる運命だとは思うけれど、永い月日を共にするならそれもまた良しと言える。
「果たして咲夜は、貴女と言う主人に仕えていたのか、吸血鬼の肩書きに仕えていたのか。レミィ、貴女はどっちだと思う?」
私の言葉に、レミリアは目を覚ましたように顔を上げた。
驚きと不安と希望が瞳の中で混沌としている。けれど、さっきには無かった希望の色が今は見える。
広がり始めた翼はもう、我慢出来なさそうに見えた。あとは少しだけ背中を押してやれば良い。
「咲夜の意志を尊重するんでしょ? 逃げないで、どんな現実も正面から受け止めなさいな」
私の言葉を受け、一瞬置いてレミリアは力強く頷いた。表情からまだ若干の不安が読み取れるけれども、迷いはもう見えない。
背を向け、レミリアは走り出す。そのまま翼を広げて夜の空へと飛び立った。方角は紅魔館。飛ぶ姿はまっすぐ、ブレる事は無い。
あとは咲夜次第か。明日の朝もいつもと同じ味の紅茶が飲める事が何よりだけれど、こればっかりは運命を視れないし時間も操れない私には知りようが無い。
一段落ついて、急に夜の静けさが身に沁みた。虫の鳴き声一つしない夜の闇は、まるで未知の世界のようで不気味だけれど興味深い。
緊張が解け、緩やかな疲れと眠気が襲ってくる。図書館に戻って一休みしよう、そういえばあの問いにまだ答えてなかった、明日になったら魔理沙に見つけた答えを話してみようか。
「その前に本を返して貰おうかしら」
体を伸ばして凝りをほぐして、私は魔術書を開き詠唱した。浮かび上がった体はさっきよりも軽い。清々しいなんて気持ちは、随分久しぶりな気がする。
少し、飛ぶ速度を落とした。時間は果てしなくあるけれど、今と言う一瞬は戻すことは出来ない。たまには、そんな今をしっかり目に焼き付けておくのも良い。そう思ったからだ。
月がゆっくりと傾いていき、空の色は黒から蒼、白へと移り変わっていく。
また明日からの日々を、私は魔法使いとして生きる。
また身体的特徴に加え、彼女は運命視の能力を持っている。眼を魔術回路とするのは吸血鬼には良く見られる。ただ、視る事は出来ても運命を意のままに操る事はしない。彼女ほどの魔力を持ってすればある程度の運命操作は不可能では無いと思えなくもないが、この部分は要調査である。
反面、彼女は血を吸って眷属を増やす事が出来ない。一度に吸血する量が少なすぎるせいで、簡単な呪い・魅了に留まってしまうのだ。よって、現在彼女と直接関わりのある吸血鬼は、妹のフランドール・スカーレットのみとなる。先日襲撃してきた吸血鬼狩りを何を思ってか魅了したようだが、この場合も吸血したわけではない。逆に自らの血を飲ませ、意図的に魅了に留めただけである。
なので自ら血を吸い、僕として従えている吸血鬼は存在しない。
余談として妹のフランドールについてだが、こちらはそもそも形を保った人間と相対した経験が無い。地下室から殆ど外に出ないせいである。ただ、差し入れられる紅茶等に含まれる血液で吸血衝動が治まるとも思えない。
あくまで推測だが、彼女は吸血衝動を他の何か、例えば魔力に還元する術を身に付けているように感じる。単純な魔力に限れば、姉であるレミリアをも遥かに凌ぐからだ。
レミリア・スカーレットに話を戻すが、現状彼女は「吸血出来ない吸血鬼」である。矛盾が生じるようだが、この表現が一番適切なのだ。
ただ、何故吸血が上手くいかないのかについては判明していない。単に人間で言うところの小食者なのか、何らかの理由で吸血行為を嫌っているのか、それとも別の心理的・肉体的要因があるのか、それらは全て憶測の域を出ない。
今後も引き続き、彼女の観察を継続する必要がありそうだ』 ――パチュリー・ノーレッジ
――――――――
ここまで書き終え、私は羽根ペンを置いた。さっきまで白紙の魔術書にインクが染み込む音だけが聞こえた夜の図書館は、今はもう静まり返って何も聞こえない。
窓から差し込む月明かりと、机に置いた魔法のランタンだけが周囲に積み上げた本の山を照らす。凝り固まった体を伸ばしながら、周りに出来た本の壁に目をやる。使い魔を総動員して図書館中から集めさせた吸血鬼に関する古今東西の本が積み重なっている光景は、ちょっとした迫力がある。
全てに目を通すのに一週間。その中から使えそうな文章を抜き出す作業に三日。自分の今までの調査結果と照らし合わせ、文章として纏めるのに四日。おおよそ昼夜を徹して二週間を私はこの研究に費やした。我ながら研究に没頭していると思う。
研究のテーマは「吸血鬼」。他でもない、無二の友人であるレミリア・スカーレットについてだ。
「お疲れのようですけど、大丈夫ですか?」
本の壁の向こう側から、心底私を気遣うような声が聞こえてくる。その声の主が私の使い魔なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
返事をしないまましばらく経つと、本の壁の一角が徐々に取り払われていく。私は別に魔女なのだから少し無理をしたくらいで死にはしないが、そういえば以前読書に夢中で気付かず、崩れてきた本の山に三日間生き埋めになった事があった。あの時は埋もれたまま「むきゅー」とも言えなかったが、それを心配しているのかもしれない。
「大丈夫だけれど、一段落したし少し休憩しようかしらね」
向こう側に赤いストレートヘアが確認できるくらいに本が減ったので、魔術書を畳みながら私は言った。目に見えて作業ペースが上がる。
壁の一角が完全に取り払われた頃、ちょうど図書館にメイドが様子を見にやってきた。咲夜、と言ったか。時間を操る能力をレミリアが気に入ったらしく、先日から館に仕える事になったと聞いた。
もっとも、仕える事になった経緯は使い魔越しにしか知らない。レミリアを狙って襲撃してきた所を返り討ちに遭い魅了された、と言うのがおおよその経緯らしいが、不完全なレミリアの魅了でこうも従順になるとも思えない。何か裏があるのだろうか。
紅茶を一杯持ってきて、と注文する。頭を下げる咲夜を見ながら、こちらも並行して調査する必要がありそうだ、と考えた。
「それにしても、今回は随分と熱が入ってますね」
紅茶を待つ間、使い魔と並んで机に腰掛ける。サラサラの髪と無垢な瞳は小悪魔をさせておくには惜しい程に綺麗だけれど、元来サキュバスとはそういう物だったと思い返して一人納得する。
彼女は良く働く。魔法で無理矢理本を詰め込んでるこの図書館の司書として、私の注文を受けて文字通り飛び回っている。私はもっぱら読書と執筆に専念しているが、それが出来るのは少なからず彼女のおかげでもある。
「ちょっと以前から気になっていた事でね。良い機会だから徹底的に調べてみようと思って」
適当に返事を返す。研究内容については誰にも悟られてはならない。もっとも、目の前の従者は私に歯向かうような真似はしないけれども。それでも何かの拍子にレミリアの耳に入らないとも限らない。それだけは絶対に避けたい。
単純に険悪な空気が流れるとか、そういう事は問題にしていない。私とレミリアの付き合いは長いし、今更多少の事では彼女も動じないだろう。
ただ、これをきっかけに彼女が自分自身について深く考えるのは不味い。非常に不味い。最悪、アイデンティティを失って気が触れる事も考えられる。
「紅茶をお持ちしました」
レミリア・スカーレットは吸血鬼だ。それに関して疑う余地は無い。
しかし、『正確なカテゴライズの上で』吸血鬼かどうかはわからない。
「血が吸えない吸血鬼」と言う矛盾した存在への得体の知れない好奇心が、百年近くの付き合いの友人を研究対象にすると言う暴挙に出させた。
「ありがとう。そこに置いたら下がって良いわ」
一度頭に浮かんだ疑念は、とことん調べ上げるまで晴れてくれない。永劫に近い月日を、頭に浮かんだ疑念と共に過ごす事など耐えられはしない。
それが例え今後レミリアに対して秘密を抱え続ける結果になったとしても、呪いのような知識欲からは逃れられない。
もしかしたら、私はとても大きなタブーに触れようとしているのかもしれない。それでもいい。それも仕方ない。
「……少し苦いわね、コレ」
血のように濃い紅茶を口にしながら、私は魔女に生まれた『運命』を呪った。
――――――――
『この幻想郷に来てから、どれ程経つだろうか。永い月日の中で日にちを数えるのは虚しくなるだけの気がするけれど、興味深い側面もあるのでそれをここに記す。
何が興味深いかと言えば、それは先日レミリアが起こした紅霧異変の他に無い。
概要としてはレミリアが「昼でも外出したいから」との自分勝手な理由で霧を出し日光を遮ったと言うわけで、当然異変解決に来た人間に弾幕ごっこで敗北し、異変は既に収まっている。
問題はその異変自体ではなく、レミリアの動機に関する部分だ。異変を起こした動機と、幻想郷に移住を決めた動機。
これから記すのは、あくまでも私の勝手な憶測である事を先に記しておく。
どうやらこの幻想郷には、吸血鬼の類はレミリアとフランドール以外には存在しないらしい。
確かに外の世界では吸血鬼はまだまだ現役、人々の記憶から風化するのには程遠い。レミリアの同族も、人々が知らないだけでそれなりの数は存在している。
しかし、だ。それならば何故、レミリアは外の世界での一切合財を捨て、幻想の向こう側へと渡る決意をしたのか。
こうは考えられないだろうか。
レミリアは以前記した通り、吸血行為の出来ない吸血鬼だ。その事が深いコンプレックス、同族に対する引け目となっていた。
レミリアのプライドは高いとは言え、限度はある。五百年もの間、周囲の視線に耐え続ける事にも疲れ、幻想郷に行く決心をした。ここまでが移住を決めた動機だ。
そして境界を越えてこの幻想郷に移住し、他に吸血鬼が存在せず、人々が吸血鬼について「強大な力を持った妖怪」と言った漠然なイメージしか持っていない事を知る。
そこでレミリアは「吸血鬼として最初の」異変を起こし、自らの、吸血鬼としての力を誇示してコンプレックスから目を背けようとした……。
「霧で日光を遮る」と言うのは、もしかしたらただの大義名分だったのではないか?
それが成功したかどうかは関係なく、新しい世界での自分のイメージを定着させるのが真の目的だったのではないか?』 ――パチュリー・ノーレッジ
――――――――
「邪魔するぜー」
威勢の良い声と共に図書館の扉が開け放たれる。ここ最近は特に珍しい事でも無い為、一々顔を扉に向けて無作法な来客を咎める事もしない。
あくまでここは図書館なのだから余り騒々しい真似はしないで欲しいのだけれど、人の本を「死ぬまで借りるだけ」と言って勝手に持っていくような人間にそんな事を注意しても無駄だ。
諦めの意味で溜め息をつき、私は本に栞を挟んだ。
「また来たのね……」
おう、来たぜ。と悪びれる様子も無く、早速持って帰る本を物色し始めるのは人間にして魔法使いと言う変り種。霧雨魔理沙には色々な意味で「常識」の二文字が欠落している。
人の身で魔法を使うメリットなんて、私には思いつかない。そもそも人であるのに魔法使いになろうと考える事自体が、種族としての魔法使いの私には理解できない。
その割に腕はそこそこ立つらしく、先日に異変――幻想郷を紅い霧で覆って日光を遮った――を起こしたレミリアを弾幕ごっこのルールの上とは言え倒していたりする。人の身で吸血鬼に勝つなんて、やはり常識から外れているとしか思えない。
「いい加減、貸した本を返してくれないかしら?」
「『マンガでわかる魔導工学』か、懐かしいな……世話になったぜ。うん? 何か言ったかパチュリー?」
本当に聞こえていないのか、意図的に無視しているのか。はたまた聞こえてはいるけれど、自分に都合の悪い話には鼓膜が揺れないのかもしれない。
何にせよ、図書館に侵入された時点で本が持ち出されるのは諦めている。本当に持っていかれては困る本は、何重にも結界を張った上で隠してあるし。
見る見るうちに彼女の手には、持って帰る本の山が出来る。魔理沙に気付いた小悪魔が仕事の手を止めて微笑みながら頭を下げ、魔理沙も慣れた様子で片手を上げ、挨拶を返す。使い魔は仕事は問題無くこなしてくれるのだけれど、どうも大事な何かが抜けてる気がしてならない。
「……ウチの門番はいったい、毎度毎度何をしてるのかしらね」
抜けてると言えば、美鈴もそうかもしれない。
顔見知り兼居直り強盗のような来客を追い返す事も無く通してしまうのは、いくら弾幕ごっこが苦手とは言えど門番としては問題がある。魔理沙が来た日の夜には痛々しく包帯を巻きながら紅茶を飲んでいるから、決して仕事に不真面目と言うわけではないのだろうが。
スペルカードルールが制定される前は、少なくともそこいらの人妖などは話にならない程の頼りになる門番だったと思うのだけれど。
「ああ、あの門番だったらさっき『ドゥブッハァ!』とか言いながら吹っ飛んでったぜ」
ただ、今目の前にいる魔法使いは、どうやら「そこいらの人妖」にはカテゴライズされないらしい。
「それはアナタが意図的に吹き飛ばしたんでしょう」
そうとも言うな、と呟いた後、魔理沙は机に山盛りの本を置き、ご丁寧にも風呂敷で包み始めた。第一に用意周到さに感心し、第二に神経の図太さに感心した。
最早通じる言葉もない。とっくにわかりきっていた事だけれども、わかっているから悔しくないかと言われたらそうではない。溜め息をつくと、図書館に灰色の空気が満ちるような気がした。
私の溜め息の意味を察してか、不意に魔理沙が手を休めた。初めて見る反応に少なからず驚き、私は顔を上げる。魔理沙の視線は、積まれた本の表紙から動かなかった。
「なぁパチュリー、一つ聞きたい事がある」
何よ、と返した声は、知らずぶっきらぼうになっていた。大人しく本を返すわけではないとわかったのもあるが、不意に魔理沙から発せられた声が妙に憂いを帯びて聞こえたと言うのもある。
ゆっくりと私の方を向く魔理沙の瞳は、強い意志と大きな疑念の混在する複雑な色をしていた。まだ付き合いが長いわけではないが、それでも普段見せる快活さとのギャップに少なからず動揺する。
「魔法使いって、何なんだ?」
ずっと魔法使いを目指してきて、念願叶って魔法を使えるようになって、お前やレミリアとも弾幕ごっこが出来て、けれど私は魔法使いじゃない、「魔法を使う人間」だ。
私は「種族:魔法使い」になるつもりはないんだ。でも、それとは別に目指す魔法使い像は確かにある。どうしたら魔法使いになれるんだろうか。なぁパチュリー、魔法使いって何だと思う?
ゆっくりと取り乱す事無く、けれどそれはむしろ長い間立ち止まって考えすぎて足が動かなくなったような、そんな口調で魔理沙は私に問い掛けた。
「……そんなの、知らないわよ」
自分でも無意識のうちに声が沈んでいた。答えが見つからない。何を言うべきか、まるで検討がつかない。魔法使いの在るべき姿、いわば「完全な魔法使い」なんて考えた事も無い。
いや、考えた事が無いのとは違う。最初から諦めていた。持病の喘息のせいで詠唱呪文も満足に唱えられない自分は、イレギュラーな魔法使いにしかなれないと思い込んでいたのではないか?
見つかりもしないその答えを本に求めて百年間、知らずのうちに私の魔法使いとしての在るべき姿は「動かない大図書館」となり、読書と研究に没頭するようになった。過程だった筈の物が結果になった。
泥のような返事を返すのと同時に、レミリアについての研究が頭に浮かんだ。
レミリアが生まれつきの吸血鬼なのか、何者かに血を吸われて吸血鬼化したのかは定かではない。血を吸えない理由もわからない。それを解き明かす理由は、魔法使い特有の探究心による物だとずっと思っていた。
けれどもしかしたら、私はその研究に自分の魔法使いとしてのアイデンティティを投影していたのではないか?――そんな考えが、不意に脳髄の奥から染み出した。
詠唱出来ない魔法使い。
血を吸えない吸血鬼。
その二つの本質的な違いとは何ぞや? 自信を持てる回答は、すぐには出てこなかった。
「まぁ、そうだよな。そんなのが私以外にわかるわけはないな」
数瞬前までのしおらしさが嘘のように魔理沙は顔を上げて笑い、すっかり大きくなった風呂敷を担いで箒に跨った。
そのまま図書館を出て行く後姿を目にしながら、私は何もしなかった。いや、しようと思っても出来なかったのだ。伸ばしかけた手は鉛のように重い。待ってと言いかけた喉はカラカラに渇いている。
図書館に急激に静けさが戻る。静寂の中、私は手元の魔術書に視線を移す。長い間続けている研究を記した一冊の魔術書が、まるで蠢く心臓に見えた気がして、私はそれを机の上に放り投げた。
――――――――
「もうすぐ、咲夜にかけた魅了が解けてしまう」
その夜図書館に訪れた吸血鬼は、随分と弱々しい声でそう言った。咲夜が倒れてからのここ数日、レミリアは後悔と苦悩と憔悴の入り混じった顔を明るくさせる事も無い。
ちょくちょく様子を見ている美鈴によれば、まだ意識は戻らないらしい。それもそうだ。言うなれば吸血鬼の魔力が血液を侵食して魅了になるのだから、一日二日で魅了が解け、意識が回復する筈も無い。それでも咲夜は人並み外れた体をしているから、明日の朝が来る前には目が覚めるだろうけれど。
しかし、それは今のレミリアにとっては決して良い知らせとも言えない。何故なら彼女は今、運命の岐路に立たされているからだ。
「レミィ、貴女はどうしたいの?」
魅了が解けると言う事は、咲夜が元の吸血鬼狩りに戻ると言う事でもある。
咲夜が紅魔館を出て行く自体はまだ良い。問題はレミリアだ。不吉な運命視の能力故、彼女は世界から疎まれ続けてきた。長い間孤独で居た所に、似たように時間に干渉する咲夜と言う人物が現れたのだ。
今や咲夜の存在はレミリアにとって欠かせない物になっている。それも、私や美鈴では代替の利かない、だ。そんな咲夜がいなくなったら、目の前の吸血鬼の辿る運命は私でさえ見える気がする。
「私は……」
彼女には、彼女さえその気になれば割と多目に選択肢がある。
一つ目、咲夜が意識を失っている今のうちに、再度魅了をかけなおす方法。至極簡単だ。ベッド脇に置いてある銀ナイフを手にとって指をなぞって、咲夜の口に当ててしまえば良い。咲夜はたちどころに目が覚めて、これまでの日々と同じようにレミリアの指の止血を始めるだろう。
二つ目、同じく咲夜が意識を失っているうちに、血を吸って眷属としてしまう方法。もっとも吸血鬼らしいと言えばらしい。ただ、以前から続けている研究で知ったように、レミリアはまだ眷属を増やせた試しが無い。確実性には欠ける。
三つ目は、今のまま何もせず、咲夜の自由意志に任せる方法。ある意味では賭けだ。咲夜が紅魔館に残る理由は、少なくとも私には思い浮かばない。それでもレミリアが咲夜に情が移ってしまったように、その逆も有り得るかもしれないが。
「私は……咲夜の意志を尊重したい」
そして吸血鬼は、もっとも吸血鬼らしくない選択肢を選んだ。とは言え、ある程度は想像出来た事だ。元から今のレミリアには、この選択肢しか存在しない。
ただ、彼女は不安なのだ。自分でも予期しない内に欠かせなくなった、日々の構成要素を失いたくなくて悩み、悔やんでいる。それでも咲夜に何もしないのは、従者を信じる主人としてのプライドか、あるいは。
「ねぇレミィ、一つ聞かせて」
顔を上げるレミリア。なぁにパチェ?と聞き返すその声は酷くか細い。
少し叩けば折れてしまうようなその声に今から私が投げかける質問は、もしかすると楔を打ち込むに等しい程の重い物かもしれない。
それでも、この機を逃せば二度とチャンスは無いように思えた。レミリアと、――私のために。私は痺れる喉に精一杯喝を入れる。
「どうして、咲夜の血を吸わないの?」
ハッキリとレミリアの顔の色が変わった。潮が引いていくように血色は失われ、唇はわなわなと震えだす。
それでもレミリアはキッと私を見据え、声の震えを必死に押し隠しながら言った。
「……決まってるじゃない。従者の意思を尊重するのは、主人として当然の務めでしょう」
「血を『吸わない』のなら尊重と言えるわレミィ。でも、もしかしたら貴女は……」
ダメだ。それから先を言ってはいけない。それはレミリアのアイデンティティに関わる事だ。
レミリアは大切な友人なんだ。そんなレミリアを傷つけるくらいなら、影を抱えて暮らし続けた方が良い。
いや、良いんだ。それから先を言わなくてはいけない。何故?レミリアが自分と向き合う為に?
違う。私は自分に答えが欲しい。私自身に対する答えを、目の前の無二の友人を傷つけてまで手に入れようとしている。
私は、私は――。
「……『吸わない』んじゃなくて『吸えない』んじゃないのかしら?」
放った言葉が銀のナイフと化して、レミリアの心臓に突き刺さるのが見えた気がした。心から深紅の血液が止めどなく流れ出す。
レミリアは驚愕に目を見開き、そして強く拳を握り締め、私を睨みつけながら言葉を搾り出す。
理由も無く反抗する子供にプライドの高さと絶大な力を与えたら、きっとこんな風になる。困惑と驚きと怒りが入り混じった瞳に、いつもの輝きは無い。
「――何を根拠にそんな事を」
違う。これは自己投影なんかじゃない。私はレミリアの事を思ってこれを言わなければならないのだ。
血を吸わないのには、絶対に何か理由が有る筈だ。それをそのまま放置しておいたら、どちらにせよ何らかの皺寄せが来る。
だから、いつかは自分と嫌でも向き合わなければいけない。
「根拠なんて無いわ。ただの魔女の勘よ。でもね、レミィ」
「…………黙って、パチェ」
違う。私はそれを大義名分に自己投影を正当化してるだけだ。大体、事の真偽も定かではない、私の憶測ではないか。
レミリアだって止めろと言っている。今ここで言葉を引っ込めて謝罪すれば、レミリアも許してくれる。
だから、今喉から出掛かってる言葉を止めなければいけない。
「貴女は確かに吸血鬼。それは認めるわ。血を吸えない以外は非の打ち所が無い吸血鬼だもの」
「……黙りなさい」
違う。違う。違わない。違う。違わない。何が違って何が正しい。或いは正解なんて無いのか。
冷静かつ無意識にレミリアを追い詰める言葉を紡ぐ口と、葛藤を続ける頭。体の中に自分が何人も居るようで気持ちが悪い。私は一体何がしたい。私はレミリアに何を望んでいる。
そう考えている間に、言葉が運命の岐路に楔を打ち込んでしまう。歪んだガラスが盛大な音を立てて割れる錯覚。確かに何かが壊れた。
「だけど、一番大事な『吸血』と言うパーツが欠如してる。貴女は『血を吸えない吸血鬼』なのよ」
「うるさい、黙れ!」
叫びながら、レミリアは紅の槍を手に取った。それを視認した次の瞬間に閃光が走り、背後の本棚が倒壊する音が聞こえる。
頬に生温かい感触。知らず震え始めた手で頬に触れると、ヌメリとした感触と共に赤い液体が手に付く。それが血液だと認識出来るまでには数秒を要した。
視線をレミリアに戻す。槍を投げた姿勢のまま、荒く息を吐きながら私を困惑の表情で見つめていた。自分が何をしたのかわかってない。そう表現するのが一番近い表情だった。
「あ、パチェ、私……」
レミリアの体が、傍目からもわかるくらいに震えだす。瞳の色は困惑から怯えに変わっている。昂ぶった感情が急激に冷めて、数秒前とはまるで様子が違う。
その表情のまま、レミリアは私に背を向けた。黒く映える蝙蝠の翼をバサリと広げると、そのまま窓を突き破って夜の空へと飛び立って行く。
咄嗟に伸ばした手は届かない。小さくなる背中は、何から逃げているのか。私の言葉か、友人を傷つけた過ちか、真実の核心か。
「レミィ、待って!」
制止の言葉も届かない。あっという間に姿は見えなくなり、ガラスの割れた窓からは満点の星空だけが広がる。
どうすれば良い。私の言葉がレミリアを追い詰めた。なら私が行く事に意味はあるのか。ここで帰りを待ち続けた方が良いんじゃないか。
頭の中でそんな葛藤を展開するより早く、私の右手は魔術書を開く。結果的にどれ程レミリアを傷つけたかはわからないけれど、少なくとも私はレミリアの力になれるようにこの研究を始めたのだ。謝罪の一つもしないといけないのは、百年間魔女をやっていなくてもわかる。
「浮遊、飛行術式展開」
目を瞑り、精神を落ち着かせる。唱えやすいように切り詰めた呪文を詠唱すると、体は青い光に包まれてフワリと浮いた。
そのまま脳内の葛藤を振り払うように、私はレミリアを追って夜の空に飛び出す。
帽子を抑えて夜の空を飛びながら、今更だが私は自分自身の軽率さを恥じた。
私が口にした事がレミリアのアイデンティティに関わる事で、下手をすれば取り返しのつかないダメージを与えてしまうかもしれないなんて、一番最初に心得て研究を始めた筈ではなかったか。
ダメージで済むなら良い。今のレミリアは、ただでさえ咲夜がいなくなる懸念のせいで不安定になっている。そこにきて自分の忘れようとしていたコンプレックスを掘り起こされたとなったら、私ならそのままではいられない。
同時に、それをわかっていながらも言葉を止める事が出来なかった自分が恐ろしかった。「言わなければならない」と言う強迫観念すら覚えた気がする。それが言い訳にならない事はわかっているが。
何にせよ、今はレミリアに追いつく事が先決だ。夜風が身に染みるが、構わず私はスピードを上げた。
――――――――
魔力を辿りながらレミリアを探すと、しばらく飛んだ後に開けた丘に出た。月明かりが夜風になびく草むらと、そこに一人立つレミリアを照らす。
星の降る丘。最後に自分の目で外の景色を見たのは、随分と古い記憶の気がする。
自然の美しさを厳選して詰め込んだような風景に、自然の理に反して生きる吸血鬼。その対比が妙に可笑しいけれども、その崩れた対比に美しさを覚えるのは、普段私が外に出ないからなのだろうか。
「レミィ、ここに居たのね」
「来ないで!」
歩み寄ろうとした私を声だけで跳ね飛ばすように、レミリアは叫んだ。ただ、その声色に含まれていたのは拒絶ではなく恐怖。
お化けを怖がる小さな女の子。背中の翼さえなければ、今のレミリアは正にそれだ。未知の存在にどう接すれば良いのかわからず、ただ関わる事を拒絶する。
百年近く友達で居たが、レミリアのこんな様子は初めて見た。少なからず驚いてしまい、私も思わず足を止めてしまう。
「お願い、私を吸血鬼じゃ無いなんて言わないで……」
途端に声は弱々しくなり、最後には俯きながら搾り出すように言葉を紡ぐ。咲夜の身を案じていた時の弱々しさとは違う類のそれだ。
再び私が近寄ろうとすると、ビクリと体が反応した。怯え、に近いかもしれない。ただ、私が怯えられるような事は心当たりが無い。先ほどの会話の後、飛び立つ直前から急激にレミリアは何かに怯えている気がする。
一歩、一歩と近づくにつれ、レミリアの体が震えている事に気付く。今にもくず折れそうな体に懸命に力を入れ、震える両足で立つ目の前の少女は、本当に私の知っているレミリア・スカーレットなのか?
「怖いの。私はずっと自分を吸血鬼だと信じて疑わなかったけれど、それでも血は吸えない」
そうだ。目の前にいるのは、確かにレミリア・スカーレットそのものだ。
確かに、単純に「吸血鬼」とカテゴライズするには大事な部分が欠けている。
どれほど力を持っていても、血を吸えないならそれは吸血鬼ではなく、「吸血鬼の特徴を持った別の何か」だ。
「お願い教えて。パチェ、アナタは私の何を知っているの? 私は吸血鬼じゃないとしたら何なの?」
顔を上げてこっちを見るレミリアの眼は、深い困惑に囚われている。自分を見失うのは誰だって怖い。第一、私だって自分について正確に把握しているかと言われれば、即座に頷ける自信は無い。
レミリアは血が吸えないから吸血鬼じゃない。私は長い詠唱が出来ないから魔法使いとして出来損ない。それは確かにそうかもしれない。種族としての分類とはそういうものだ。
それがどうした。
「……例え貴女が吸血鬼じゃなくても」
いつだったか、図書館で聞いた魔理沙の言葉を思い返す。「魔法使いって、何なんだ?」「私は『種族:魔法使い』になりたいわけじゃないんだ」
ずっと心の中で燻ぶっていた疑念を晴らす言葉を、出任せのように聞こえてもたった今見つけた。文面上だけの特徴で振り分けられる分類なんて、最初からどうでも良かったのだ。
大事なのは、自分自身の在り方。例え本物の吸血鬼じゃなくても、自分が模索して見つけた吸血鬼としての生き方は確かにある。詠唱が出来ないなら、呪文を省略すれば魔法は使える。
種族:吸血鬼にはなれなくても、吸血鬼として生きる事は出来る。
「私の友達であって、咲夜や美鈴の主人。フランの姉。紅魔館の主であり、永遠に紅い幼き月」
そう。それでも彼女は――
「貴女は貴女よ、レミリア・スカーレット」
在り方は、自分の心次第。時間は有り余る程に長い。心一つで世界は変わる。
風が吹いた。冬の夜風が足元をくすぐり、サラサラと音を立てて草むらが揺れる。
随分と長い沈黙の時間が流れる。息苦しい類の物では無いけれども、重みのある沈黙だった。
「私は私、か……」
先に沈黙を破ったのはレミリアだった。ゆっくりと噛み締めるように、私の放った言葉を咀嚼し、飲み下す。
言葉をどのようにレミリアが受け取ったのかは私にはわからない。吸血鬼ではない事を肯定した風にも、もしかしたら捉えられるかもしれない。
けれど、それは私の本心だ。吸血鬼であろうがなかろうが、私の中でのレミリア・スカーレットの位置づけは変わらない。言うなれば、吸血鬼かどうかなんてどうでも良い。
「じゃあパチェは、例え私が血を吸えない吸血鬼の出来損ないだとしても、見放したりしないのね?」
だから、この問いに対して否定の返事を返す理由も無い。
「私はレミリア・スカーレットと友達なのであって、吸血鬼と友達でいたいわけじゃないもの」
思えば、随分と遠回りをして結論を出した気がする。そもそも、何故私は吸血鬼について調べようとなんて思ったのだろうか。
自分の在り方に自信が無かったとは言え、それで無二の友人を傷つけていたんじゃ尚更自分が嫌になる。
その事に関して、きちんと謝罪の言葉を述べなくてはいけない。
「それと、さっきはごめんなさい。貴女を追い詰めたくて言ったんじゃないけれど、結果的に酷く傷つけてしまって」
それはもう良いわ、とレミリアは呟いた。棘がある風にも聞こえない。許してくれたのだろうか。
顔を上げると、レミリアは私に背中を向けて月を見ていた。満月でもなく紅くも無いけれど、その月は何故だか印象的だった。
小さな背中に、不安と迷いが纏わり付いているのが見える。自分については解決したけれど、まだ問題は残っていた。
「咲夜の事?」
背を向けたまま、レミリアは力なく頷く。
「きっと咲夜は、朝になれば紅魔館を出て行ってしまう」
私が伝えた言葉の本質をわかっているのだろうか。それほどまでにコンプレックスが深く心に根をおろしているのかもしれないが。
とは言え、虚勢を張り続けていつか折れるよりかは、こうして弱い部分を見せてくれる方が良い。友達なら、少しでも支え、支えられたい。
本当に厄介で手間のかかる運命だとは思うけれど、永い月日を共にするならそれもまた良しと言える。
「果たして咲夜は、貴女と言う主人に仕えていたのか、吸血鬼の肩書きに仕えていたのか。レミィ、貴女はどっちだと思う?」
私の言葉に、レミリアは目を覚ましたように顔を上げた。
驚きと不安と希望が瞳の中で混沌としている。けれど、さっきには無かった希望の色が今は見える。
広がり始めた翼はもう、我慢出来なさそうに見えた。あとは少しだけ背中を押してやれば良い。
「咲夜の意志を尊重するんでしょ? 逃げないで、どんな現実も正面から受け止めなさいな」
私の言葉を受け、一瞬置いてレミリアは力強く頷いた。表情からまだ若干の不安が読み取れるけれども、迷いはもう見えない。
背を向け、レミリアは走り出す。そのまま翼を広げて夜の空へと飛び立った。方角は紅魔館。飛ぶ姿はまっすぐ、ブレる事は無い。
あとは咲夜次第か。明日の朝もいつもと同じ味の紅茶が飲める事が何よりだけれど、こればっかりは運命を視れないし時間も操れない私には知りようが無い。
一段落ついて、急に夜の静けさが身に沁みた。虫の鳴き声一つしない夜の闇は、まるで未知の世界のようで不気味だけれど興味深い。
緊張が解け、緩やかな疲れと眠気が襲ってくる。図書館に戻って一休みしよう、そういえばあの問いにまだ答えてなかった、明日になったら魔理沙に見つけた答えを話してみようか。
「その前に本を返して貰おうかしら」
体を伸ばして凝りをほぐして、私は魔術書を開き詠唱した。浮かび上がった体はさっきよりも軽い。清々しいなんて気持ちは、随分久しぶりな気がする。
少し、飛ぶ速度を落とした。時間は果てしなくあるけれど、今と言う一瞬は戻すことは出来ない。たまには、そんな今をしっかり目に焼き付けておくのも良い。そう思ったからだ。
月がゆっくりと傾いていき、空の色は黒から蒼、白へと移り変わっていく。
また明日からの日々を、私は魔法使いとして生きる。
種族のアイデンティに対するコンプレックスが面白いです。
そして何より,落ち着いた文章がすばらしいです。
ありがとうございました。
しかもその独自設定を主軸に据えておきながらまったく結論を出してないので何がなんだか……
うん、此方を読んでからあっちを読んだのでラストの場面でしっくり感動。
なるほどこういう考え方も面白い。
不安に震えながらも前を向くレミィが好きなので、点数にはキャラ好き補正と
丁度シリアスが読みたかった補正がかかってるかもしれませんが。
個人的には素晴らしい作品だったと思います。
…パチェも毎回こういうアドバイスすれば良いのに、
毎度変な事吹き込むからなぁと思ってしまう。
でも別に作品全体を侵食するようなものでは無かったので良いと思いますよ。
そういばフリーゲームって同人とは違う世界のジャンルですよね。
そういう融合もまぁアリといえばアリかも。
しかし咲夜さんは一体どういう結論をだすのでしょうか?それだけが気になるところです。
話も何だか終わりきらず中途半端に見えてしまいました。
「ドゥブッハァ」は……端的に言っちゃうと場違い過ぎて引きました。
シリアスの中にここまで完全なネタ台詞が出ちゃうと物凄い浮きますね。
落ち着いて……るんですかね?
余り文章回しは意識して無いんですが、それが逆に良いのかもしれません
ありがとうございました。
>7
ネタが被ってましたか?ごめんなさい……。
自分にそのつもりが無かった事は明記しておきます。
出来ればサークル名など教えて頂ければ幸いです
>9
言い訳をすれば、敢えて何も解決させずに宙ぶらりんで終わるのもアリだと思ったんです。
ただ、それを活かすようなプロットの練り方や構成力に明確な欠陥があるのは確かですよね。
反省点は次回作の糧にしたいと思います。
>10
前作とコレは、二つで一つ的な面も正直ありますしね。
二人の視点、話からレミリアと言う存在を描写したかったんですが……。
やはりこういうのは綿密にプロットを練る必要があると痛感しました。
>12
咲夜さんの結論は、前作と繋がってますので良ければそちらも合わせてどうぞ。
小ネタについては、一応通じる人が居て安心しましたが……。
>17の方が述べているように、混ぜていくタイミング等がまだまだ未熟なみたいです。
>14
魔女はなんだかんだ人間より頑丈な気がするので、
年中むきゅーでもどうにかなりますよ、多分。
>17
無理矢理感、確かにちょくちょく感じますね。
もう少し長めに尺を取って、じっくり描写していくべきでした。反省します。
小ネタの使い方は、引いてしまう程の物でしたか……。
あのシーンは割とコミカルなノリで書いたつもりだったのですが、次はもう少し自然に混ぜられるように努力します。