ここは旧地獄。今や妖怪たちはおろか罪人たる亡魂たちにさえ忘れられた地の底。かつては亡者の嘆きを満たした底も死者が訪れなくなって久しく、底へとかかる「橋」を「渡る」ものもない。
「橋」を渡るものがなければ、そこを守護するものも必要もなくなる。必要がないということは、居ても居なくても同じ、つまり意味がないということだ。
それは結局、私――水橋パルスィ――の存在に意味がないということ。
意味がないからとあっさり消えるほど潔いわけでもないので、私は今日も今日とて自分が終わるまでの日々を過ごしている。最近のお気に入りは、歌を歌うことだ。声でも出していなければ、本当に底に自分がいるのかどうか確かめる術がなくなるからだ。そしてさらにこの方法のいい所は、自分の声がこの穴倉に何重にも反響し、後から後から先行く声を追うように響きまわるのがとても楽しいということ。おかげで暇さえあれば即興で作った歌をずっと歌っていた。
「蜘蛛の糸よ、この地の底から私を救い上げておくれ」
今日も今日とて日がな一日歌をうたったりして過ごすはずだったのだが、今日は違った。
「お釈迦様も大したことないよねぇ。私の糸なら百人ぶら下がっても大丈夫」
聞こえるはずのない声が聞こえた。私は辺りを見回す。誰も、何も、いない。
「ここ、ここ。頭の上だよ」
同じ声がそう言った。私は頭上を見上げる。そうするとツツッと上から、見知らぬ逆さの顔が目の前に下りてきた。
「それじゃあ百一人ぶら下がったら、もう駄目ね」
「そのときは先頭の一人を蹴落とせばいいさ」
私の意見に誰かは肩をすくめた。私が呆れて言う。
「それじゃあ、結局誰も登れないじゃない。落ちた奴がまた糸にしがみついて、百一人から一人も減らない」
「その通りだねぇ。けれど大丈夫。そのうち落ちることも満更悪くないって思うようになって、糸を登ることが楽しくなるよ。なんせ亡者は罪を償うだけで手一杯で、娯楽らしい娯楽もないからねぇ」
そういうものかと思う。確かにやることもなく、あるのが目の前から垂れてきた糸だけというのなら、登って落ちてまた登るという意味の無い行為にも楽しみを見出せるのだろう。そこまで考えて、ここで意味無く歌をうたい続けている自分とそいつらとどこが違うのかと考えて、そこでやめた。この手のことは深い入りすると自分を傷つけるだけだと知っている。早々に離れるのが無難だ。藪をつついて大蛇やらヤマタノオロチやらをだすこともあるまい。
「そうかしら。まあ亡者のことなんて考えたって仕方ないからどうでもいいけど。ところで、あんた誰?」
私は話題を変えた。丁度、目の前のコレが一体なんなのか、いい加減気になって仕方なかったことだし。
「これはこれは自己紹介が遅れました。私、今度からこちらに引っ越してまいりました、土蜘蛛の黒谷ヤマメと申しますぅ。以後よろしくぅ! 気軽にヤマメちゃんって呼んでね」
天井からぶら下がったままで、コレこと黒谷ヤマメは道化じみた仕草で一礼した。しかし今更旧地獄にやってくるなど余程の物好きか、鼻抓みものか、そのどちらかだろう。多分こいつは前者だろう。目の前で馬鹿みたいに笑うこの顔を見れば分かる。お祭り好きで、どこにでもチョッカイをかけずにいられないタイプだ。とすると後者でもあるのか。
「で、貴方の名前は?」
そんなことを考えていて面倒だったので、ヤマメの問は無視した。
「あっあー! いーけないんだぁ! 人が自己紹介したらちゃんと応えるのが礼儀だぞぉ!」
失敗だった。余計五月蝿い。あからさまに舌打ちを一つ。これで気分を害して何処かへ言ってくれれば非常に助かるのに……
「……パルスィ。水橋パルスィ。地上と地底を結ぶ橋たるこの場所を守護している」
「橋姫ってわけだねぇ。そりゃ重要なお勤めでござんすなぁ」
ヤマメは腕を組んでウンウンと一人で何を納得しているのか頷いている。どこかに行くような素振はない。仕方ない、もう少し話に付き合うしかあるまい。
「かつてはね。この縦穴の底の底が地獄であった頃はね。今となっては妖怪にも亡霊にも忘れられた只の閑職よ」
「それじゃあ、呼び名はミズハスということで」
「人の話聞いてたっ!? しかも何勝手に人にあだ名つけてんのよ!」
コイツ、人の話を聞かない奴か!? ニコニコと悪気なさそうに笑いやがって……
「いやぁ、そういうややこしい話は苦手なものでぇ。それに聞いたって直ぐに忘れるような相手に話しても、話し甲斐がないでしょ?」
ボリボリと後頭を掻きながら、能天気に笑ってやがる……くそっ、調子狂うな。とりあえずこの土蜘蛛がどうしてここにいるのか、そこのところを問い質さねばならない。妙なちょっかいをかけにきたのであれば、それ相応の目に合わせるよい口実が出来る。
「……ったく……で、ヤマメ、だっけ? アンタ、何でこんな所に来たのよ? というか何処から来たの? アンタがここを通った記憶はないんだけれど」
「そりゃそうだよ、ミズハス」
「ミズハス言うな」
「私が通ったの、ミズハス気がつかなかったからねぇ」
……嘘っ! そんなはずはない。如何に最近は暇だったからって、こんな奴が側を通ったことに気がつかないほどうっかりはしていないはずだ。内心ではかなりうろたえていたが、表情にはでないようにする。幸い、私は皮肉っぽい表情は得意だ。何せ普通にしていても「馬鹿にしてんの?」と難癖つけられるくらいなのだから、取り立てて気をつかうこともない。
「……嘘つくな。アンタみたいな騒々しい奴が通ったことに気がつかないほど、私はもうろくしていない」
「あっはっはっは。確かにそうだけど、気持ち良さそうに歌ってたから、邪魔しちゃ悪いと思ってね~。ソッと通り抜けたってわけさ。流石に先にえらいさんに面通ししとかないと、あとあと面倒だからねぇ。宴会の時とかお呼ばれされないと寂しいし」
こんなところに歌って過ごすことの弊害が潜んでいるとは思わなかった。そして何より自分の歌が人に聞かれていたのが恥ずかしい。朗らかに笑うヤマメから顔を逸らせる。むぅ、頬が熱い……
しかしコイツ、ちゃっかりとこの先の連中に会っているらしいじゃないか。確かに旧市街の辺りにいる鬼や、地霊殿のさとりなんかには挨拶しておくと底での生活は過ごしやすいだろう。かわいい顔をして抜け目ない。抜けた顔して意外と冴える。それとも抜け目ないから可愛いのか? それだと頷ける。何故なら私が可愛くないからだ。
……妬ましいな、コイツ。
「……それでそんな人つき甲斐や忍び足がお得意で、人の歌の邪魔をしないご配慮が出来る土蜘蛛様が、気持ち良く歌ってるところを邪魔してまでどういったご用件でしょうかしら?」
だから思いっきり皮肉を言ってやることにする。さぁ、さっさと気を悪くして私の前から消えろ。そして二度と私の前に現れるな。
しかし目の前のコイツは、パタパタと手を振って苦笑いを浮かべるだけ。
「もぅ~。そんな皮肉言わなくてもいいじゃんかよぉ~。今日は挨拶に来ただけなのにぃ~」
「へぇ。今頃になって挨拶なんてねぇ。通り過ぎたのはちょっと前だったんでしょう? 今更ぁ?」
「いやぁ、挨拶に言ったら歓迎会を開いてもらっちゃってぇ。すっかりご馳走になってたもので」
「それは結構なことで。さぞやお友達も多いのでしょうねぇ」
皮肉の応酬にもお構いなしと、ヤマメは楽しそうに笑う。しかし、コイツ、一つだけ聞き捨てならないことを言ってたな。歓迎会がどうのこうのと。
そう、つまり既に地霊殿のさとりや旧都の鬼たちから親交を得たってわけだ。……ふ~ん、そうなんだぁ……
既にこの時、私の胸で脈打つ嫉妬炉は臨界寸前だったのだが、何とかそれを抑えていた。まだだ。コイツにはまだ私が妬むべきものをもっている。そう私の嫉妬職人としての勘がつげていたのだ。妬むのはそれを全て引き出してからだ。
「いやぁ、これでも結構人から嫌われるタイプなんだよぉ。妖怪は妖怪それぞれだけど」
「何よ、どういうことよ」
「あれ? 知らない? 土蜘蛛は病気をばら撒くんだよ」
「ゲゲッ! えんがちょ!」
「あーっ! ひっどーい! そういうのはちょっと傷つくなぁ」
ヤバイ。ちょっと妬む気が失せてしまった。しかし頬を膨らませたヤマメの顔……
私は再び顔を背けた。よく見れば、丸顔で可愛らしい顔をしている。人好き(妖怪好き?)のする顔だ。妬ましい。私の顔は頬がこけて、顎が尖っていてこんなに陰気で、目なんか三白眼で少し人に視線を向けただけで「睨まれた」と言われるのに。妬ましい。
まぁ大体、この土蜘蛛少女のことは分かった。彼女は「いい娘」だ。こんな私のぞんざい且つ尊大で無礼な物言いを笑って流せるなど、中々できないことだ。
オマケに病毒をばら撒いて、人から追われ、疎まれるだって? 他者から敵視されるだけの意味があるなんて、何て妬ましい。私にはそんな意味すらないというのに。
だからこそ、そんな良い奴だからこそ、妬ましい。
私に良くしてくれる。私なんかに良くしてくれる。それは私にはない尊いものだ。遥か遠くにあって、私の手には届かないものだ。それこそ蜘蛛の糸を登らなければ手に入らないものだ。だからそれを、無自覚にそれを持つ目の前の少女が妬ましくて堪らない。
だから私は彼女の邪魔をしてやることにした。コイツが私の所に来たのも、私と親交を結ぶためだというのなら、私はコイツを徹底的に敵に回してやろう。
「……まあ、アンタの来意は分かったわ。けれど宴にうつつを抜かして挨拶にも来なかったような奴をまともに相手すると思う?」
「いやぁ、だからそれは悪かったって。ここに長いこといるなら分かるだろう。あの鬼に捕まったら逃げられないんだよ」
「蜘蛛の癖に捕まったら逃げられないなんてぇ。私には気配も感じさせずすり抜けられる癖にねぇ」
「う~、やけに絡むじゃないか。……はっは~ん、何? 無視されたのがそんなに不満なわけ? 案外寂しん坊だったりする?」
ニヤニヤ笑いながらヤマメが言う。……ちょっと、流石にそれは本気でカチンときましたよ。……もう我慢しなくてもいいよね? もう胸の嫉妬炉も臨界突破ですよ。
「……五月蝿いわねぇ。ちょっと自分が人気あるからって、そんな風に人のことを見るんじゃないわよ!」
怒声とともに弾幕を放つ。遊びでも決闘でもない。当たれば四肢は位は吹き飛ばすほどの、本気の弾幕だ。
だがヤマメはそれを難なくかわす。弾幕が辺りの岩を砕く音が響き、土煙が舞う。ブラブラと揺れる糸の先で、ヤマメは私が穿った壁面を見て歓声をあげる。……余裕ですか、そうですか。……しかしだからこそ、こちらも妬みがいがあるというもの。
「おっ! やっとこ本音が出たねぇ。けど本音と一緒に弾幕までってのは、ちょっとやり過ぎじゃない?」
「ふん! こんな挨拶が気に入らないなら、もう私に付きまとわないこと……ねぇ!」
「いやいや、これは中々丁寧なご挨拶! 痛み入りますぅ!」
……ようし、やったろうじゃんか。泣きっ面すら分からないくらいグッチャグチャにしてろうじゃんか……
しかして始まる弾幕合戦。しばらくして……
「……って何で当たんないのよぉ!」
私は根をあげた。それもそのはず、こっちの弾幕が全く当たらないのだ。カスリもしないというのではない。ワザと当たりそうなところまでは近づく癖に、絶対に当たらないのだ。最初こそ私は、後少し、もう少しでアイツを泣いたり泣けなくしたりできると思って頑張ったのだが、途中からその「もう少し」という感じがヤマメにそう思わせられていると気がついた。だが私はそれが危ない火遊びだったということを思い知らせようとして、さらに躍起になった。
それでも駄目だった。肩で息する頃になって、私はようやくコイツと私では勝負にならないと悟った。なぜならコイツは一発も弾幕を放たなかったのだ。ただ逃げ回っていただけ。当てる気になればいくらでも隙はあっただろうに、そうしなかった。
何故か。答えは簡単である。
私は完全に舐められていた、遊ばれていたのである。
涼しい顔でブラブラとぶら下がり、ヤマメがあっけらかんと言う。
「そりゃ、こちとらあっちゃこっちゃで暴れ回った妖怪ですから。これくらいのことは朝飯前さね。パルスィのは……なんつうか、……運動不足なんじゃないのぉ?」
「……くっ!」
……確かに、コイツの言う通りかもしれない。ここの所、まともに弾幕合戦なんてしてなかったからなぁ……というよりもそもそも弾幕合戦をする相手もいなかったわけなんだけれど……
「ま、今回の弾幕勝負は私の勝ちみたいだねぇ。これで私のお願いを聞いてもらえるってわけだ」
けれど目の前で勝ち誇っているコイツの顔を見ていると、それを素直に認めるのは腹が立つ……って、コイツ何かとんでもないことを言わなかった……って……
「ちょっと! そんな約束してないでしょ! 勝手に決めないでよ!」
何をサラッと凄い条件を突きつけてるんだ、コイツ! しかも全く悪びれた様子もない。一体どういう神経してるのよ……
「ええ~! い~じゃん! 世の中、勝てば官軍なんでしょ? 敗者は語る舌を持たないんでしょ~? それともパルスィはそんな明々白々なことを反故にするような、度量の小さい奴なのかなぁ?」
ニヤニヤ笑ってこっちを挑発してくる。どこが明々白々だ。そんなことが明々白々なわけあるか。しかもどこか微妙にこっちのプライドをくすぐる言い方をしてくる。悲しいかな、私が敗者なことは間違いない。それにヤマメはこちらに一撃を加えたわけではないが、どう贔屓目に見ても私が劣勢だったことは明らか。言うなればヤマメの判定勝ちなのだ。
非常に妬ましいが仕方がない。少なくとも、ここで「負けていない」と喚き散らすのは、見苦しいことこの上ない。それは私のちっぽけな自尊心が許さない。
「……くっ! 分かったわよ! その代わり、あんまり無茶なことを言うんなら、絶対従わないからね!」
不承不承とヤマメの勝利を認めると、アイツは満面に笑みを浮べ、軽く手を振った。
「ああ、そんな大したことじゃないから大丈夫だよ。お願いは、また遊びにくるからそん時はよろしく、ってことで」
……何? 今、こいつは何を言った? 「また遊びに来る」、そう言ったのか? この私に? こんな
ちっぽけで、つまらない、人を妬むしかない私の元に、「また」来ると言ったのか?
その言葉に私はしばし揺れた。
肯定したかった。頷きたかった。「また来てくれ」と言いたかった。しかしそれでは今まで一人だった自分があまりに情けなくて、今までの自分を全て否定するみたいで、どうしても首を縦に振ることができなかった。
否定しようとした。こいつは私に情けをかけようとしている、そう思った。どうせ調子のいいコイツのことだ。私も地霊殿の有象無象の中の一人、十把一絡げの一つに過ぎないのだろうと、そう思った。だから否定しようとした。そんなものはいらない。それでは今の私と何も変わらない。混ざってとけて見えなくなるか、それとも最初から視界に入っていないか、それだけの違いだ。見えないことに変わりはない。首を横に振ろうとした。しかしそれを今までの孤独の辛さが邪魔をした。
肯定も否定もできず、私はいつもの苦虫を噛み潰した表情で、いつものように不機嫌そうに睨みつけ、結局こう答えた。
「……好きにしなさい……」
どうするか、私は選択を目の前の土蜘蛛少女に丸投げした。この手のことを深く考えても、精神衛生上よくないことは重々承知しているのだ。
「じゃ、そういうことで。……あっ、別にまた弾幕ごっこでも良いよぉ。私に勝てる自信があるならねぇ」
そんなややこしいこっちの内面などお構いなく、ヤマメは爽やかに笑うと、弾幕を交わした時のような素早さで、洞窟の奥へと消えていった。
「私は腹をすかせた蜘蛛~、貴方は美しい蝶~」
ああ、またあの歌が聞こえる。調子っぱずれた素面の酔っ払いの歌声だ。リズムも音階も歌声もみんな無視した、自分が歌いたいためだけに歌っている、酷い歌が聞こえる。
「おお、我がいとしの蝶々様。ご機嫌いかが? 今日も元気に妬んでるかぁい?」
耳を塞いで渋面を作る私の前で、ヤマメは仰々しい仕草で一礼した。
あれからというものヤマメはほとんど毎日現れた。一日中私につきまとうこともあれば、チラリと顔を見せただけで旧都へ向かうこともあったが、顔を出さないということはなかった。素面の時もあったし、酔っ払った時もあった。寝起きでやって来て、私を見るとまた眠ったこともあった。こういうのも律儀というのだろうか、毎日私の元にやってきた。
そしていつの間にやら、ヤマメは私の真似をして歌をうたうようになった。ヤマメの歌は下手くそで、聞くに堪えなかった。それでなのだろうか。ヤマメが歌うようになってから、私はめっきりうたわなくなった。目の前で酷い歌を聞かされ続け、それで懲りたのかもしれない。
「旧都じゃ有名だったよ。パルスィの歌。歌う歌詞が暗くって、声が綺麗な分、聞いてられないって」
その日はどうやら地霊殿での宴会の帰りだったらしく、酒気で赤くなった顔でヤマメは現れた。地霊殿からの帰りの日は、コイツは決って旧都での私の評判を話した。……私はそれはヤマメなりの皮肉なのだと分析している。面と向かって聞いた事はないが、恐らく間違いないだろう。如何に自分が人気者か、そして如何に私が嫌われ者か、それを私に知らしめようという一種の示威行為だろう。
「ふんっ! じゃあ聞かなきゃいいのよ。別に人に聞かせるために歌ってるわけじゃないし」
「ええ~! それじゃあ勿体無いじゃん! 折角だし、何か楽しい歌でも歌ってあげなよ。宴会の時とか重宝するよ? っていうか、ミズハスも一緒に宴会に行こうよ、絶対に楽しいからさぁ~」
「ミズハスいうな」
あと最近コイツはやたらと私を地霊殿の宴会に引っ張り出そうとする。恐らく宴会の席で私に何かとんでもない失敗をさせて、物笑いの種にしてやろうという魂胆だろう。そうはいくものか。オマエの考える程度のことは、こっちは既にお見通しなのだ。だから私はその都度、適当に理由をつけてそれを蹴ってやる。
「いいのよ。私が宴会に出たって、あっちこっちで嫉妬の嵐が巻き起こって、場が嫌な空気になるだけなんだから」
「何だ、そんなこと。妬むのは得意でも、自分が妬まれるのは嫌だっていうの」
そもそもそんな心配はない。私は妬む役で妬まれる役にはけしてなれない。それはちょいと悲しいことだけれど、仕方がないことだ。妖怪、諦めが感じである。
……しかし今日は妙に絡むな。酔ってるからか?
「……別にそういうわけじゃないけど」
おかげで言葉が少しばかり鈍ってしまった。ま、そんな些細なことに気がつくような奴ではないのだが……案の定、ヤマメは私が嫉妬の嵐を巻き起こしているところを想像して一人で笑っている。
「それに妬み嫉みは酒宴の華さね。それでいっちょ弾幕合戦で白黒つけようってんなら、宴会も盛り上がるよぉ」
「だから何でアンタはいつもそう好戦的なのよ……」
コイツがちょくちょく来るようになって一つだけ分かったことは、これだ。可愛い顔をしておいて、何かあると強力を振るおうとする性格。全く妬ましくない。奇麗な薔薇には棘があるというのは、こういうことを言うのだろうか。……否、多分違うな。こいつは何とかと喧嘩は宴の華というような類だろう。つまり騒がしければ何でもいいという奴なのだ。しかるに私は元来騒々しいのが苦手で……
「ねーねー、ミズハスぅ~」
……とそんなことを考えている私の肩をヤマメが揺する。どうも何か頼みごとをしたそうな声のトーンに、私は眉をしかめた。
「だからミズハスいうな。何よ? 酒ならこないだアンタが全部飲んじゃったからもうないわよ」
ヤマメは顔の前で手を振る。酒以外に何が欲しいのだろう、そう考えた私に、ヤマメがまた碌でもないことを言った。
「ちゃうちゃう。そうじゃなくて。余は一曲所望するのじゃあ~」
しばしの沈黙。勿論、私が呆れて言葉を失ったからだ。……さて、そろそろ何か返事をしないといけないのだが、あまりの衝撃で言葉が私から逃げて言ってしまった。仕方がないので、失われた言葉を求めて、人間にしかないという脳細胞をフル回転させてみる。結果、パルスィ脳によってはじき出された、この状況に最適な返答がこれだ。
「は? 何? 馬鹿なの? 死ぬの?」
「うわっ! ヒドッ! たまにはいいじゃんかよぉ~。最近全然歌わないからさぁ、たまいはパルスィの歌が聞きたいわけよ」
「ヤダ。絶対ヤダ」
パルスィ脳、絶好調である。引き続き最適な返答を、間断なく引き出す。……クククッ、ヤマメの奴、珍しく顔を曇らせて困っておるわ。非常に愉快也。
「……む、それなら弾幕合戦にて是非を問うがよろしいか?」
私がニヤニヤ笑っていると、もったいぶって腕など組んで、おもむろにそう言いやがった。……コイツ、私を舐めてるな。そう思ったが、実際にやりあってハッキリと実力差を見せ付けられるのも癪だ。……何だ脳髄、全然最適な返答してないじゃん。これじゃまるでおはぎと変わりない。やっぱり妖怪は脳味噌なんてつかうもんじゃないね。
「……わかった。わぁったわよ。……ったく、一曲だけだかんね」
「わ~い! パルスィ大好き~」
「うるさい馬鹿。黙れ馬鹿」
とりあえず抱きつこうとしたので、とりあえずヤマメのまん丸ホッペを押し返した。
何か物凄い期待した面持ちのヤマメを見ながら、渋々私は空咳を一つ。それから歌いだした。
「私は私の歌全てをあなたにさしだしましょう。なぜなら私はあなたを愛しているから」
久しぶりなので、声の調子が良く分からない。音が外れているような気もするし、高い声を出す時、声が裏返ったような気がする。そもそも期待されているという状況になれていないので、すこぶる恥ずかしい。視線を突き刺した記憶は幾らでもあるが、突き刺されたことなどほとんどない。
それくらい、ヤマメは赤い顔をだらしなく緩めて、私が歌う姿をジッと見つめていやがった。恐らく私が手を抜かないか監視しているのだろう。否、この場合は声を抜くだろうか。あるいは喉を抜く? まあ、この際どちらでもよい。つまりは私をからかって楽しんでいるのだ。でなければあんな幸せそうな顔で私の姿を見ているはずがない。……さらし者にされていると思うと、なんか腹が立ってくる。とはいえ、ここで突然止めるのも、負けたみたいで気に入らない。
結局私は最後まで歌いきった。パチパチと拍手が一つ起こる。ついでに口笛も一つ。
「そうそう! そういう感じの!」
未だパチパチと手を叩きながら、ヤマメが言う。なにが「そういう感じの」だ。誰がこんな恥ずかしい歌をうたうものかよ。
「嫌よ。人前でこんなの歌えるわけないでしょう」
そういうとヤマメは黙って自分の顔を指さした。……こいつは一々言わないと分からないのか。本当に抜けている奴だな。
「アンタはどうでもいいのよ」
「うぇ~。差別するのって酷くない?」
「全くもって酷くないわね」
苦い顔をするヤマメに、私はサラリと言ってやった。
自ら以外に他者がいなければ、妬もうにも妬めない。私は私以外の誰かが私の知らない誰かを妬めることが妬ましかった。
だから私は私が妬むことのできる誰かが欲しくて、歌をうたっていたのかもしれない。誰かに聞いてもらいたくて、自分がここにいることを誰かに知ってもらいたくて歌っていたのかもしれない。そうすれば誰かが私に会いに来てくれるかもしれないと、そう思っていたのかもしれない。それが寂しがり屋なくせに、妙なプライドのある私が許せる妥協点だったのかもしれない。
おかげで妬むには十分な相手がやってきたわけだが、今はコイツをいつまで妬むことができるのか、ちょいと自分が不安にならないこともない。
……ま、何でもいいか。この手のことは深く考えても、損をするのは自分だと相場が決っているのだ。深く考えないに限る。
「……何よ。何か私の顔が面白いことにでもなってる?」
ヤマメが私を見てニヤニヤ笑っている。実に不愉快だったので、思いっきり睨んでやる。
「いやさぁ、パルスィが考え事してる時の顔って、可愛いなぁと思ってねぇ」
……やっぱり妬ましい奴だ。自分の考えを素直に表現できるなんて、妬ましすぎる。だから私は、ことさらにしかめっ面をしてやるのだ。
……誰がほだされて素直になどなってやるものか。私はそう固く心に誓うのだった。
「橋」を渡るものがなければ、そこを守護するものも必要もなくなる。必要がないということは、居ても居なくても同じ、つまり意味がないということだ。
それは結局、私――水橋パルスィ――の存在に意味がないということ。
意味がないからとあっさり消えるほど潔いわけでもないので、私は今日も今日とて自分が終わるまでの日々を過ごしている。最近のお気に入りは、歌を歌うことだ。声でも出していなければ、本当に底に自分がいるのかどうか確かめる術がなくなるからだ。そしてさらにこの方法のいい所は、自分の声がこの穴倉に何重にも反響し、後から後から先行く声を追うように響きまわるのがとても楽しいということ。おかげで暇さえあれば即興で作った歌をずっと歌っていた。
「蜘蛛の糸よ、この地の底から私を救い上げておくれ」
今日も今日とて日がな一日歌をうたったりして過ごすはずだったのだが、今日は違った。
「お釈迦様も大したことないよねぇ。私の糸なら百人ぶら下がっても大丈夫」
聞こえるはずのない声が聞こえた。私は辺りを見回す。誰も、何も、いない。
「ここ、ここ。頭の上だよ」
同じ声がそう言った。私は頭上を見上げる。そうするとツツッと上から、見知らぬ逆さの顔が目の前に下りてきた。
「それじゃあ百一人ぶら下がったら、もう駄目ね」
「そのときは先頭の一人を蹴落とせばいいさ」
私の意見に誰かは肩をすくめた。私が呆れて言う。
「それじゃあ、結局誰も登れないじゃない。落ちた奴がまた糸にしがみついて、百一人から一人も減らない」
「その通りだねぇ。けれど大丈夫。そのうち落ちることも満更悪くないって思うようになって、糸を登ることが楽しくなるよ。なんせ亡者は罪を償うだけで手一杯で、娯楽らしい娯楽もないからねぇ」
そういうものかと思う。確かにやることもなく、あるのが目の前から垂れてきた糸だけというのなら、登って落ちてまた登るという意味の無い行為にも楽しみを見出せるのだろう。そこまで考えて、ここで意味無く歌をうたい続けている自分とそいつらとどこが違うのかと考えて、そこでやめた。この手のことは深い入りすると自分を傷つけるだけだと知っている。早々に離れるのが無難だ。藪をつついて大蛇やらヤマタノオロチやらをだすこともあるまい。
「そうかしら。まあ亡者のことなんて考えたって仕方ないからどうでもいいけど。ところで、あんた誰?」
私は話題を変えた。丁度、目の前のコレが一体なんなのか、いい加減気になって仕方なかったことだし。
「これはこれは自己紹介が遅れました。私、今度からこちらに引っ越してまいりました、土蜘蛛の黒谷ヤマメと申しますぅ。以後よろしくぅ! 気軽にヤマメちゃんって呼んでね」
天井からぶら下がったままで、コレこと黒谷ヤマメは道化じみた仕草で一礼した。しかし今更旧地獄にやってくるなど余程の物好きか、鼻抓みものか、そのどちらかだろう。多分こいつは前者だろう。目の前で馬鹿みたいに笑うこの顔を見れば分かる。お祭り好きで、どこにでもチョッカイをかけずにいられないタイプだ。とすると後者でもあるのか。
「で、貴方の名前は?」
そんなことを考えていて面倒だったので、ヤマメの問は無視した。
「あっあー! いーけないんだぁ! 人が自己紹介したらちゃんと応えるのが礼儀だぞぉ!」
失敗だった。余計五月蝿い。あからさまに舌打ちを一つ。これで気分を害して何処かへ言ってくれれば非常に助かるのに……
「……パルスィ。水橋パルスィ。地上と地底を結ぶ橋たるこの場所を守護している」
「橋姫ってわけだねぇ。そりゃ重要なお勤めでござんすなぁ」
ヤマメは腕を組んでウンウンと一人で何を納得しているのか頷いている。どこかに行くような素振はない。仕方ない、もう少し話に付き合うしかあるまい。
「かつてはね。この縦穴の底の底が地獄であった頃はね。今となっては妖怪にも亡霊にも忘れられた只の閑職よ」
「それじゃあ、呼び名はミズハスということで」
「人の話聞いてたっ!? しかも何勝手に人にあだ名つけてんのよ!」
コイツ、人の話を聞かない奴か!? ニコニコと悪気なさそうに笑いやがって……
「いやぁ、そういうややこしい話は苦手なものでぇ。それに聞いたって直ぐに忘れるような相手に話しても、話し甲斐がないでしょ?」
ボリボリと後頭を掻きながら、能天気に笑ってやがる……くそっ、調子狂うな。とりあえずこの土蜘蛛がどうしてここにいるのか、そこのところを問い質さねばならない。妙なちょっかいをかけにきたのであれば、それ相応の目に合わせるよい口実が出来る。
「……ったく……で、ヤマメ、だっけ? アンタ、何でこんな所に来たのよ? というか何処から来たの? アンタがここを通った記憶はないんだけれど」
「そりゃそうだよ、ミズハス」
「ミズハス言うな」
「私が通ったの、ミズハス気がつかなかったからねぇ」
……嘘っ! そんなはずはない。如何に最近は暇だったからって、こんな奴が側を通ったことに気がつかないほどうっかりはしていないはずだ。内心ではかなりうろたえていたが、表情にはでないようにする。幸い、私は皮肉っぽい表情は得意だ。何せ普通にしていても「馬鹿にしてんの?」と難癖つけられるくらいなのだから、取り立てて気をつかうこともない。
「……嘘つくな。アンタみたいな騒々しい奴が通ったことに気がつかないほど、私はもうろくしていない」
「あっはっはっは。確かにそうだけど、気持ち良さそうに歌ってたから、邪魔しちゃ悪いと思ってね~。ソッと通り抜けたってわけさ。流石に先にえらいさんに面通ししとかないと、あとあと面倒だからねぇ。宴会の時とかお呼ばれされないと寂しいし」
こんなところに歌って過ごすことの弊害が潜んでいるとは思わなかった。そして何より自分の歌が人に聞かれていたのが恥ずかしい。朗らかに笑うヤマメから顔を逸らせる。むぅ、頬が熱い……
しかしコイツ、ちゃっかりとこの先の連中に会っているらしいじゃないか。確かに旧市街の辺りにいる鬼や、地霊殿のさとりなんかには挨拶しておくと底での生活は過ごしやすいだろう。かわいい顔をして抜け目ない。抜けた顔して意外と冴える。それとも抜け目ないから可愛いのか? それだと頷ける。何故なら私が可愛くないからだ。
……妬ましいな、コイツ。
「……それでそんな人つき甲斐や忍び足がお得意で、人の歌の邪魔をしないご配慮が出来る土蜘蛛様が、気持ち良く歌ってるところを邪魔してまでどういったご用件でしょうかしら?」
だから思いっきり皮肉を言ってやることにする。さぁ、さっさと気を悪くして私の前から消えろ。そして二度と私の前に現れるな。
しかし目の前のコイツは、パタパタと手を振って苦笑いを浮かべるだけ。
「もぅ~。そんな皮肉言わなくてもいいじゃんかよぉ~。今日は挨拶に来ただけなのにぃ~」
「へぇ。今頃になって挨拶なんてねぇ。通り過ぎたのはちょっと前だったんでしょう? 今更ぁ?」
「いやぁ、挨拶に言ったら歓迎会を開いてもらっちゃってぇ。すっかりご馳走になってたもので」
「それは結構なことで。さぞやお友達も多いのでしょうねぇ」
皮肉の応酬にもお構いなしと、ヤマメは楽しそうに笑う。しかし、コイツ、一つだけ聞き捨てならないことを言ってたな。歓迎会がどうのこうのと。
そう、つまり既に地霊殿のさとりや旧都の鬼たちから親交を得たってわけだ。……ふ~ん、そうなんだぁ……
既にこの時、私の胸で脈打つ嫉妬炉は臨界寸前だったのだが、何とかそれを抑えていた。まだだ。コイツにはまだ私が妬むべきものをもっている。そう私の嫉妬職人としての勘がつげていたのだ。妬むのはそれを全て引き出してからだ。
「いやぁ、これでも結構人から嫌われるタイプなんだよぉ。妖怪は妖怪それぞれだけど」
「何よ、どういうことよ」
「あれ? 知らない? 土蜘蛛は病気をばら撒くんだよ」
「ゲゲッ! えんがちょ!」
「あーっ! ひっどーい! そういうのはちょっと傷つくなぁ」
ヤバイ。ちょっと妬む気が失せてしまった。しかし頬を膨らませたヤマメの顔……
私は再び顔を背けた。よく見れば、丸顔で可愛らしい顔をしている。人好き(妖怪好き?)のする顔だ。妬ましい。私の顔は頬がこけて、顎が尖っていてこんなに陰気で、目なんか三白眼で少し人に視線を向けただけで「睨まれた」と言われるのに。妬ましい。
まぁ大体、この土蜘蛛少女のことは分かった。彼女は「いい娘」だ。こんな私のぞんざい且つ尊大で無礼な物言いを笑って流せるなど、中々できないことだ。
オマケに病毒をばら撒いて、人から追われ、疎まれるだって? 他者から敵視されるだけの意味があるなんて、何て妬ましい。私にはそんな意味すらないというのに。
だからこそ、そんな良い奴だからこそ、妬ましい。
私に良くしてくれる。私なんかに良くしてくれる。それは私にはない尊いものだ。遥か遠くにあって、私の手には届かないものだ。それこそ蜘蛛の糸を登らなければ手に入らないものだ。だからそれを、無自覚にそれを持つ目の前の少女が妬ましくて堪らない。
だから私は彼女の邪魔をしてやることにした。コイツが私の所に来たのも、私と親交を結ぶためだというのなら、私はコイツを徹底的に敵に回してやろう。
「……まあ、アンタの来意は分かったわ。けれど宴にうつつを抜かして挨拶にも来なかったような奴をまともに相手すると思う?」
「いやぁ、だからそれは悪かったって。ここに長いこといるなら分かるだろう。あの鬼に捕まったら逃げられないんだよ」
「蜘蛛の癖に捕まったら逃げられないなんてぇ。私には気配も感じさせずすり抜けられる癖にねぇ」
「う~、やけに絡むじゃないか。……はっは~ん、何? 無視されたのがそんなに不満なわけ? 案外寂しん坊だったりする?」
ニヤニヤ笑いながらヤマメが言う。……ちょっと、流石にそれは本気でカチンときましたよ。……もう我慢しなくてもいいよね? もう胸の嫉妬炉も臨界突破ですよ。
「……五月蝿いわねぇ。ちょっと自分が人気あるからって、そんな風に人のことを見るんじゃないわよ!」
怒声とともに弾幕を放つ。遊びでも決闘でもない。当たれば四肢は位は吹き飛ばすほどの、本気の弾幕だ。
だがヤマメはそれを難なくかわす。弾幕が辺りの岩を砕く音が響き、土煙が舞う。ブラブラと揺れる糸の先で、ヤマメは私が穿った壁面を見て歓声をあげる。……余裕ですか、そうですか。……しかしだからこそ、こちらも妬みがいがあるというもの。
「おっ! やっとこ本音が出たねぇ。けど本音と一緒に弾幕までってのは、ちょっとやり過ぎじゃない?」
「ふん! こんな挨拶が気に入らないなら、もう私に付きまとわないこと……ねぇ!」
「いやいや、これは中々丁寧なご挨拶! 痛み入りますぅ!」
……ようし、やったろうじゃんか。泣きっ面すら分からないくらいグッチャグチャにしてろうじゃんか……
しかして始まる弾幕合戦。しばらくして……
「……って何で当たんないのよぉ!」
私は根をあげた。それもそのはず、こっちの弾幕が全く当たらないのだ。カスリもしないというのではない。ワザと当たりそうなところまでは近づく癖に、絶対に当たらないのだ。最初こそ私は、後少し、もう少しでアイツを泣いたり泣けなくしたりできると思って頑張ったのだが、途中からその「もう少し」という感じがヤマメにそう思わせられていると気がついた。だが私はそれが危ない火遊びだったということを思い知らせようとして、さらに躍起になった。
それでも駄目だった。肩で息する頃になって、私はようやくコイツと私では勝負にならないと悟った。なぜならコイツは一発も弾幕を放たなかったのだ。ただ逃げ回っていただけ。当てる気になればいくらでも隙はあっただろうに、そうしなかった。
何故か。答えは簡単である。
私は完全に舐められていた、遊ばれていたのである。
涼しい顔でブラブラとぶら下がり、ヤマメがあっけらかんと言う。
「そりゃ、こちとらあっちゃこっちゃで暴れ回った妖怪ですから。これくらいのことは朝飯前さね。パルスィのは……なんつうか、……運動不足なんじゃないのぉ?」
「……くっ!」
……確かに、コイツの言う通りかもしれない。ここの所、まともに弾幕合戦なんてしてなかったからなぁ……というよりもそもそも弾幕合戦をする相手もいなかったわけなんだけれど……
「ま、今回の弾幕勝負は私の勝ちみたいだねぇ。これで私のお願いを聞いてもらえるってわけだ」
けれど目の前で勝ち誇っているコイツの顔を見ていると、それを素直に認めるのは腹が立つ……って、コイツ何かとんでもないことを言わなかった……って……
「ちょっと! そんな約束してないでしょ! 勝手に決めないでよ!」
何をサラッと凄い条件を突きつけてるんだ、コイツ! しかも全く悪びれた様子もない。一体どういう神経してるのよ……
「ええ~! い~じゃん! 世の中、勝てば官軍なんでしょ? 敗者は語る舌を持たないんでしょ~? それともパルスィはそんな明々白々なことを反故にするような、度量の小さい奴なのかなぁ?」
ニヤニヤ笑ってこっちを挑発してくる。どこが明々白々だ。そんなことが明々白々なわけあるか。しかもどこか微妙にこっちのプライドをくすぐる言い方をしてくる。悲しいかな、私が敗者なことは間違いない。それにヤマメはこちらに一撃を加えたわけではないが、どう贔屓目に見ても私が劣勢だったことは明らか。言うなればヤマメの判定勝ちなのだ。
非常に妬ましいが仕方がない。少なくとも、ここで「負けていない」と喚き散らすのは、見苦しいことこの上ない。それは私のちっぽけな自尊心が許さない。
「……くっ! 分かったわよ! その代わり、あんまり無茶なことを言うんなら、絶対従わないからね!」
不承不承とヤマメの勝利を認めると、アイツは満面に笑みを浮べ、軽く手を振った。
「ああ、そんな大したことじゃないから大丈夫だよ。お願いは、また遊びにくるからそん時はよろしく、ってことで」
……何? 今、こいつは何を言った? 「また遊びに来る」、そう言ったのか? この私に? こんな
ちっぽけで、つまらない、人を妬むしかない私の元に、「また」来ると言ったのか?
その言葉に私はしばし揺れた。
肯定したかった。頷きたかった。「また来てくれ」と言いたかった。しかしそれでは今まで一人だった自分があまりに情けなくて、今までの自分を全て否定するみたいで、どうしても首を縦に振ることができなかった。
否定しようとした。こいつは私に情けをかけようとしている、そう思った。どうせ調子のいいコイツのことだ。私も地霊殿の有象無象の中の一人、十把一絡げの一つに過ぎないのだろうと、そう思った。だから否定しようとした。そんなものはいらない。それでは今の私と何も変わらない。混ざってとけて見えなくなるか、それとも最初から視界に入っていないか、それだけの違いだ。見えないことに変わりはない。首を横に振ろうとした。しかしそれを今までの孤独の辛さが邪魔をした。
肯定も否定もできず、私はいつもの苦虫を噛み潰した表情で、いつものように不機嫌そうに睨みつけ、結局こう答えた。
「……好きにしなさい……」
どうするか、私は選択を目の前の土蜘蛛少女に丸投げした。この手のことを深く考えても、精神衛生上よくないことは重々承知しているのだ。
「じゃ、そういうことで。……あっ、別にまた弾幕ごっこでも良いよぉ。私に勝てる自信があるならねぇ」
そんなややこしいこっちの内面などお構いなく、ヤマメは爽やかに笑うと、弾幕を交わした時のような素早さで、洞窟の奥へと消えていった。
「私は腹をすかせた蜘蛛~、貴方は美しい蝶~」
ああ、またあの歌が聞こえる。調子っぱずれた素面の酔っ払いの歌声だ。リズムも音階も歌声もみんな無視した、自分が歌いたいためだけに歌っている、酷い歌が聞こえる。
「おお、我がいとしの蝶々様。ご機嫌いかが? 今日も元気に妬んでるかぁい?」
耳を塞いで渋面を作る私の前で、ヤマメは仰々しい仕草で一礼した。
あれからというものヤマメはほとんど毎日現れた。一日中私につきまとうこともあれば、チラリと顔を見せただけで旧都へ向かうこともあったが、顔を出さないということはなかった。素面の時もあったし、酔っ払った時もあった。寝起きでやって来て、私を見るとまた眠ったこともあった。こういうのも律儀というのだろうか、毎日私の元にやってきた。
そしていつの間にやら、ヤマメは私の真似をして歌をうたうようになった。ヤマメの歌は下手くそで、聞くに堪えなかった。それでなのだろうか。ヤマメが歌うようになってから、私はめっきりうたわなくなった。目の前で酷い歌を聞かされ続け、それで懲りたのかもしれない。
「旧都じゃ有名だったよ。パルスィの歌。歌う歌詞が暗くって、声が綺麗な分、聞いてられないって」
その日はどうやら地霊殿での宴会の帰りだったらしく、酒気で赤くなった顔でヤマメは現れた。地霊殿からの帰りの日は、コイツは決って旧都での私の評判を話した。……私はそれはヤマメなりの皮肉なのだと分析している。面と向かって聞いた事はないが、恐らく間違いないだろう。如何に自分が人気者か、そして如何に私が嫌われ者か、それを私に知らしめようという一種の示威行為だろう。
「ふんっ! じゃあ聞かなきゃいいのよ。別に人に聞かせるために歌ってるわけじゃないし」
「ええ~! それじゃあ勿体無いじゃん! 折角だし、何か楽しい歌でも歌ってあげなよ。宴会の時とか重宝するよ? っていうか、ミズハスも一緒に宴会に行こうよ、絶対に楽しいからさぁ~」
「ミズハスいうな」
あと最近コイツはやたらと私を地霊殿の宴会に引っ張り出そうとする。恐らく宴会の席で私に何かとんでもない失敗をさせて、物笑いの種にしてやろうという魂胆だろう。そうはいくものか。オマエの考える程度のことは、こっちは既にお見通しなのだ。だから私はその都度、適当に理由をつけてそれを蹴ってやる。
「いいのよ。私が宴会に出たって、あっちこっちで嫉妬の嵐が巻き起こって、場が嫌な空気になるだけなんだから」
「何だ、そんなこと。妬むのは得意でも、自分が妬まれるのは嫌だっていうの」
そもそもそんな心配はない。私は妬む役で妬まれる役にはけしてなれない。それはちょいと悲しいことだけれど、仕方がないことだ。妖怪、諦めが感じである。
……しかし今日は妙に絡むな。酔ってるからか?
「……別にそういうわけじゃないけど」
おかげで言葉が少しばかり鈍ってしまった。ま、そんな些細なことに気がつくような奴ではないのだが……案の定、ヤマメは私が嫉妬の嵐を巻き起こしているところを想像して一人で笑っている。
「それに妬み嫉みは酒宴の華さね。それでいっちょ弾幕合戦で白黒つけようってんなら、宴会も盛り上がるよぉ」
「だから何でアンタはいつもそう好戦的なのよ……」
コイツがちょくちょく来るようになって一つだけ分かったことは、これだ。可愛い顔をしておいて、何かあると強力を振るおうとする性格。全く妬ましくない。奇麗な薔薇には棘があるというのは、こういうことを言うのだろうか。……否、多分違うな。こいつは何とかと喧嘩は宴の華というような類だろう。つまり騒がしければ何でもいいという奴なのだ。しかるに私は元来騒々しいのが苦手で……
「ねーねー、ミズハスぅ~」
……とそんなことを考えている私の肩をヤマメが揺する。どうも何か頼みごとをしたそうな声のトーンに、私は眉をしかめた。
「だからミズハスいうな。何よ? 酒ならこないだアンタが全部飲んじゃったからもうないわよ」
ヤマメは顔の前で手を振る。酒以外に何が欲しいのだろう、そう考えた私に、ヤマメがまた碌でもないことを言った。
「ちゃうちゃう。そうじゃなくて。余は一曲所望するのじゃあ~」
しばしの沈黙。勿論、私が呆れて言葉を失ったからだ。……さて、そろそろ何か返事をしないといけないのだが、あまりの衝撃で言葉が私から逃げて言ってしまった。仕方がないので、失われた言葉を求めて、人間にしかないという脳細胞をフル回転させてみる。結果、パルスィ脳によってはじき出された、この状況に最適な返答がこれだ。
「は? 何? 馬鹿なの? 死ぬの?」
「うわっ! ヒドッ! たまにはいいじゃんかよぉ~。最近全然歌わないからさぁ、たまいはパルスィの歌が聞きたいわけよ」
「ヤダ。絶対ヤダ」
パルスィ脳、絶好調である。引き続き最適な返答を、間断なく引き出す。……クククッ、ヤマメの奴、珍しく顔を曇らせて困っておるわ。非常に愉快也。
「……む、それなら弾幕合戦にて是非を問うがよろしいか?」
私がニヤニヤ笑っていると、もったいぶって腕など組んで、おもむろにそう言いやがった。……コイツ、私を舐めてるな。そう思ったが、実際にやりあってハッキリと実力差を見せ付けられるのも癪だ。……何だ脳髄、全然最適な返答してないじゃん。これじゃまるでおはぎと変わりない。やっぱり妖怪は脳味噌なんてつかうもんじゃないね。
「……わかった。わぁったわよ。……ったく、一曲だけだかんね」
「わ~い! パルスィ大好き~」
「うるさい馬鹿。黙れ馬鹿」
とりあえず抱きつこうとしたので、とりあえずヤマメのまん丸ホッペを押し返した。
何か物凄い期待した面持ちのヤマメを見ながら、渋々私は空咳を一つ。それから歌いだした。
「私は私の歌全てをあなたにさしだしましょう。なぜなら私はあなたを愛しているから」
久しぶりなので、声の調子が良く分からない。音が外れているような気もするし、高い声を出す時、声が裏返ったような気がする。そもそも期待されているという状況になれていないので、すこぶる恥ずかしい。視線を突き刺した記憶は幾らでもあるが、突き刺されたことなどほとんどない。
それくらい、ヤマメは赤い顔をだらしなく緩めて、私が歌う姿をジッと見つめていやがった。恐らく私が手を抜かないか監視しているのだろう。否、この場合は声を抜くだろうか。あるいは喉を抜く? まあ、この際どちらでもよい。つまりは私をからかって楽しんでいるのだ。でなければあんな幸せそうな顔で私の姿を見ているはずがない。……さらし者にされていると思うと、なんか腹が立ってくる。とはいえ、ここで突然止めるのも、負けたみたいで気に入らない。
結局私は最後まで歌いきった。パチパチと拍手が一つ起こる。ついでに口笛も一つ。
「そうそう! そういう感じの!」
未だパチパチと手を叩きながら、ヤマメが言う。なにが「そういう感じの」だ。誰がこんな恥ずかしい歌をうたうものかよ。
「嫌よ。人前でこんなの歌えるわけないでしょう」
そういうとヤマメは黙って自分の顔を指さした。……こいつは一々言わないと分からないのか。本当に抜けている奴だな。
「アンタはどうでもいいのよ」
「うぇ~。差別するのって酷くない?」
「全くもって酷くないわね」
苦い顔をするヤマメに、私はサラリと言ってやった。
自ら以外に他者がいなければ、妬もうにも妬めない。私は私以外の誰かが私の知らない誰かを妬めることが妬ましかった。
だから私は私が妬むことのできる誰かが欲しくて、歌をうたっていたのかもしれない。誰かに聞いてもらいたくて、自分がここにいることを誰かに知ってもらいたくて歌っていたのかもしれない。そうすれば誰かが私に会いに来てくれるかもしれないと、そう思っていたのかもしれない。それが寂しがり屋なくせに、妙なプライドのある私が許せる妥協点だったのかもしれない。
おかげで妬むには十分な相手がやってきたわけだが、今はコイツをいつまで妬むことができるのか、ちょいと自分が不安にならないこともない。
……ま、何でもいいか。この手のことは深く考えても、損をするのは自分だと相場が決っているのだ。深く考えないに限る。
「……何よ。何か私の顔が面白いことにでもなってる?」
ヤマメが私を見てニヤニヤ笑っている。実に不愉快だったので、思いっきり睨んでやる。
「いやさぁ、パルスィが考え事してる時の顔って、可愛いなぁと思ってねぇ」
……やっぱり妬ましい奴だ。自分の考えを素直に表現できるなんて、妬ましすぎる。だから私は、ことさらにしかめっ面をしてやるのだ。
……誰がほだされて素直になどなってやるものか。私はそう固く心に誓うのだった。
パルスィの内面が分かりやすく表現されていて読みやすかったです。
ヤマメは、まさにパルスィに垂らされた蜘蛛の糸ですね。
いいお話をありがとうございました。
そして誤字報告です。
>あまりの衝撃で言葉が私から逃げて言ってしまった。
土蜘蛛、それも妖怪なので同じとは言いきれませんが。
ところで蜘蛛っておしry
パルシィがヤマメに遅れを取る理由がちょいスッキリしない
ほぼあらゆる面でヤマメ優位のまんまで終わってますんで
せめて初戦くらいは力の差を口と愛嬌でギリギリ乗り切るくらいの余裕の無さがあってほしかったなぁ、と