プレゼントを渡すだけ
魔理沙が地霊殿にやって来たのは三月十四日の昼下がりの事だった。
大理石なのか何なのかよく分からないが、とにかく白い石でできた回廊を力のこもった歩調でカツカツと鳴らし、目当ての相手はどこにいるかと辺りをきょろきょろ見渡している。
その顔に若干の緊張感が漂っているのは、地面の下に構える灼熱地獄跡から時折吹き上がる熱風にあてられての事ではないようだ。
藁を編んで造られた小さなバスケットの取っ手を腕に通し、上から星柄の布が被されているのでその中を窺う事はできない。
しかしこの殺風景な建物には似合わない甘ったるい匂いが抑えきれずに溢れ出ていた。
「たのもー!」
さっきからそう声を張り上げているのだが、応じる者は誰一人として現れはしなかった。
ここには主の他にはペットばかりが住んでいると聞いていたが、呼びかけにも応じられない程低級な妖怪ペットしかいないのだろうか?
地面に取り付けられた天窓から煌々とした赤い光が溢れ出て、壁に取り付けられている橙色の蝋燭の光をた易く飲み込んでいる。
そうしてしばらく歩いていると、大きな廊下と廊下とが交差している十字路から一匹の黒猫がひょいと顔を覗かせてきた。二又の尻尾をひょこひょこと揺らしているのが特徴的だ。
それを確認し、魔理沙はほっとしたように顔を綻ばせる。
「お燐!」
いそいそと駆け寄ると、そっとしゃがみ込んで笑い掛ける。
「さとりはどこだ? ああ、そうだこれお前にも」
どこか要領の得ない様子でバスケットの中に手を突っ込み、金色のリボンで口を縛られた星柄の散りばめられた青い透明のビニール袋を取り出す。
布が捲れて覗いたバスケットの中には、他にもいくつか同じ袋が納まっているようだ。
魔理沙は袋をそっと燐に差し出す。
袋は手の平から少しはみ出すくらいのちょこんとした大きさをしており、中に数枚の大きなクッキーが入っているのが透けて見える。
菓子の形は歪なのが外からでも見て取ることができ、どうやら手作りである事は誰が見ても分かる事ではあった。
燐は差し出された菓子の袋をふんふんと嗅いでいると、やがてぱくりと咥えてさっと走り出す。
「お燐!」
魔理沙が慌てて呼びかけると、
「にゃーお」
袋を咥えたままどうやって声を出しているのか分からないが、とにかく燐はくるりと振り向いて一声鳴いてみせた。
どうやら主の所に案内してくれるようだ。
魔理沙は安堵の息を吐き、急ぎ足で燐の後を追った。
特徴のない簡素な回廊が入り組んでおり、案内無しではとても目的地へと辿り着けそうにない。
魔理沙自身、迷ったらどうしようなどと考えて飛び込んだのではなかった。何も考えてなかったのである。
それにしてもここまで誰にも会わないとは思ってもいなかったが。
やがて着いたのは一際大きな扉の前だった。
鉛で作られた鬼の装飾がそこら中に取り付けられ、棍棒を持って人間達の周りを歩いている様子が表されている。
人の表情はどれも苦悶に満ちていて、どうやら地獄の様子を描いたものだと見て取れた。
燐は扉の前まで魔理沙を案内すると、ぱたぱたとすぐにどこかへ駆けて行ってしまった。
「ありがとな」
呼びかけると、燐は一声にゃんと鳴いてから廊下の彼方へと消えていった。
改めて荘厳な扉を見つめる。
ここに来るのは初めてであるが、趣味悪いなあ、などと半目になって溜息をつく。
あ、でも高そうだなあ、などとも思ったが、見るからに重そうだし取り外すのも難しそうなので借りていくのは無理だと判断した。
気を取り直し、魔理沙は鬼の装飾を押し潰すように手を当てぐいと力を込め押し開けようとすると、鉛の装飾が魔理沙の手の平の体温をさっと奪っていく。
すると重苦しい外見とは裏腹に、ぎぎぎという嫌な音と共に意外にあっさりと扉は開いていった。
顔を突き入れきょろきょろと見渡すと、内部の明かりは壁に掛けられた蝋燭しかなくどこか薄暗かった。
これでは廊下のほうがまだ灼熱地獄跡の明かりで先も見渡せるというものだ。
部屋はぽっかりと広く、天井も魔理沙の背の三つ分くらいはありそうだ。
そのためか、灼熱が地面の下で胎動しているというのにここだけどこか薄っすらとした冷気が幅を利かせていた。
内部の装飾は先ほどの豪奢な扉とは打って変わって殺風景なもので、箪笥やらベッドやらの必要なもの以外は排除されているようだ。
その部屋の中央に、白い洋風のテーブルとそれを取り囲むようにして同じく白い椅子が四脚並べられていた。
一脚は使用中だ。
地霊殿の主、古明地さとり。
ピンクと紫の中間のような髪色をしており、胸の辺りについた第三の瞳から方々に伸びるようにして赤い管が体を取り巻いている。
彼女は招いてもいないのに勝手に入ってきた魔理沙に目も向けず、淡々とした様子でティーカップを傾け紅茶で唇を潤している。
魔理沙は一瞬ぐっと息を溜め、意を決し歩き出した。
そしてさとりの前までやって来るとバスケットをテーブルの脇に置き、勧められてもいないのに向かいの席にどっかと座り込む。
そのままじいっと地霊殿の主を見やっていると、やがてさとりは緩慢な動きでティーカップを置き来訪者へと目を向ける。
いらっしゃいとも言わず、さとりは気だるい様子で半目を魔理沙に向けてきた。
「その扉がまだ地獄にあった時」
この世の全ての感情を洗い流したかのような荒涼とした口調でさとりは喋り出す。
「それを開ける際、人は生前のあらゆる行いを悔やむのだそうです。それなのにあなたは何を考えるでもなく、それを盗めるかどうかを算段していた」
紅茶を一口含み受け皿に置くと、かちゃんと静かにガラスが鳴る。
「罰当たりですね」
魔理沙がにやっと笑ったのを見て、さとりは呆れたようにほうっと息を吐く。
「反省はするが後悔はしない、ですか」
魔理沙は眉を曇らせふんと鼻息を捲く。
どうせ心を読まれるのだから感情を隠すこともない。
すなわちあからさまに不機嫌な態度を取っても良いだろう、という事らしい。
次にティーポットをじっと見やるので、さとりはまたも気だるく息を吐く。
「お茶が欲しいのですね。分かりました」
そうして空いたティーカップに紅茶を淹れてやると、魔理沙の前にそっと差し出した。
「わるいな」
「思ってもいない事を言うのですね」
魔理沙は、むう、と苦い表情を浮かべる。
気を取り直しティーカップを口に運ぶと、ダージリンのほんのりとした香りが鼻孔をくすぐる。
そのまま鼻で息を吸い込み堪能していると、やがてぐいっと喉に流し込んだ。
「うまいな」
「言わなくても分かります」
「言ってもいいだろう」
さとりは魔理沙をじっと見やったまま、そうですか、と素っ気無く呟いた。
「今日はこれを渡しに来たんだ」
心を読まれるので引っ張ることも無いと判断したのか、魔理沙はバスケットの中から菓子の入った袋を取り出した。
ぐにゃぐにゃ曲がっているので判別つきにくいが、よく見るとクッキーは星の形をしている。
さとりはホワイトデーのプレゼントらしき袋をじっと見ていると、やがて魔理沙へと目を上げる。
普通の魔法使いの笑みにはどこか緊張感が漂っていた。
この魔法使いとはろくに会った事もなく、ペットが引き起こした異変の折に弾幕勝負をしてからは一、二度顔を合わせただけである。
それに自分は心を読む妖怪である。誰もが忌み嫌う地霊殿の主。進んで会おうとする者などいるわけがない。
それなのに何故わざわざ自分の所に持ってきたのか。
理由は簡単に分かる。
さとりの三番目の瞳が常人には捉えられない程素早い瞬きをする。
途端、魔理沙の思考がどっと溢れ出てさとりの足元を濡らし尽くす。
どれだけ隠そうとしても無駄である。彼女の第三の瞳は他人の心の奥底を非情なまでに暴き出す。
この力によりどれだけ他人に嫌われているのかをさとりは知っている。
しかしその事で悩んだのはとうに昔のこと。
誰に何を言われようと妹のようにこの力を手放す気は無いし使用を控える事も無い。
嫌だと思う者は離れればいいのだ。
側にいてほしいと思うことも無いし離れていってほしいとも思わない。
そんな事で悩んだのもとうに昔のこと。
そうして魔理沙の思考を読んでいくと、わざわざここまでホワイトデーのプレゼントを持ってきた理由はいとも簡単に見付かった。
――こいつ、いつも一人でいて可哀想だなあ。
単純化するとそういったものである。
もちろんそれだけではなく、知り合いとしての挨拶の意味合いも含まれている。
他には、恩を売っときゃ良いことあるかな、等々。
しかし一番大きな動機はそれである。
単純で浅はかな同情の感情。
さとりはちろりと魔理沙を見やると、彼女はどこか真剣な面持ちで地霊殿の主の瞳に目を合わせていた。
そして分かるのは、魔理沙自身でその動機を認知している事だ。
同情だとは分かっている。
その心を読まれるのも分かっている。
でもここへやって来た。
――心を読まれるからって渡さないのはなんか違う。
どうやら魔理沙自身、はっきりと心の整理をつけて来た訳では無いようだ。
要するに、考え無しである。
「……ふう」
さとりは呆れたように溜息をついた。
こういった手合いはたまにいる。
気持ちを整理するのが面倒だからと放棄し、雑多で曖昧で複雑な感情のままで体を動かしてくる。
どう来るのかはっきりと予想がつかないので困ったものである。
本能にも似た行動原理だがそれとは真逆と言ってもいい。
これは様々な理性がごちゃ混ぜになっていて分からなくなっているだけである。
分からないのが本能ではない。
分かる分からないという思考のステージを素通りしていく事が本能である。
魔理沙は本能では来たくなかったと感じている。
それはそうだ。誰も好んで心の内を読まれに行きたくはない。
しかしごちゃごちゃに丸められた様々な理性がごろごろ転がりまわるので、本能の行く手を阻んで行動を司る神経へと辿り着かせていないのだ。
さとりは再び魔理沙を見やる。
魔理沙は、もしかしたら受け取りを断られるかもしれない、とも思っている。
気を悪くしてしまい、怒らせてしまうかもしれない、とも。
しかし魔理沙はさとりの心を知らない。
こんな同情を隠せないプレゼントでも受け取ってもらえるかも、喜んでくれるかも、という可能性は否定できない。
だから来た。
――いや、
さとりは半目のまま眉一つ動かさずに思考を読み取り続ける。
他にも理由はあるようだ。
魔理沙は、来ないでいると二度とさとりに顔向けできないとも思っていた。
さとりを怖がってプレゼントを渡せなかったという負い目を引きずったまま、それを容易に読み取ってしまう彼女を避けるようになってしまう。
それが何より嫌なのだろう。
そういった面倒くさい関係を築くのが我慢ならないのだろう。
意外と律儀な性格なのですね、とさとりは感心する事もなかったが。
顔向けできないならずっと会わなければいいではないか。
どうせ自分はここから出るつもりもない。
わざわざここに来なければ会うこともない。
しかしこの魔理沙はどうやら、いずれ自分と酒を交し合うんだと思いこんでいるようだ。
皆との宴会の席にさとりの姿を予想している。
そんな日は来ないだろうに。
さとりは突き出された袋をじっと見つめる。
さとりとしたら、そんなプレゼントごときで深く悩まれても何を思うわけでもない。
受け取る事で魔理沙の気が晴れるなら受け取ってやる、という訳でもない。
プレゼントを差し出されたから受け取る。
ただそれだけだ。
嫌悪も同情も感じ飽きた。
そんな他人の感情に心動かされていた時期はとうに過ぎた。
だからさとりは差し出された袋へとおもむろに手を伸ばし――
寸前でひょいと持ち上げられた。
さとりの手が空を掴む。
こんな悪戯をする思考は無かったはずだが。
さとりは僅かに眉を潜めて魔理沙を見やると、彼女の思考が目まぐるしく変わっていくのが感じ取れた。
「お前……」
プレゼントの袋を持ち上げたまま、魔理沙がじっと睨むようにして呟き見てくる。
さとりには、魔理沙が一つ先の言葉も頭の中で紡がずに発しているのが分かった。
「私の思考、読んでんだろ?」
「ええ」
さとりが悪びれる様子もなく答えてみせると、魔理沙の心がざわりと揺らめいたが、何か特定の感情を作ることもなく平坦に戻っていく。
「……嫌じゃないのか?」
「あなたが同情や自責でこれを持ってきた事でしょうか」
「っ!…………そうだよ」
心を読まれる事を観念したのか魔理沙はぎりぎりと歯を噛み締め、緊張した面持ちでさとりの言葉を待っていた。
彼女はどうやらさとりの心の内を知りたいと思っているのである。
心を読める存在というのは一体どういった思考をしているのか。
妹のこいしであれば、魔理沙は彼女をある程度理解できる。少なくとも魔理沙はそう思っている。
心を読む事で周囲から嫌われるのが嫌だから、だからその能力を封印したこいし。
魔理沙であっても、もしも他人の思考を読める能力を持っていれば彼女のようにするかもしれないと思っていた。
しかしさとりは違う。
能力は常に使用しているし、それによる躊躇も無い。
さとりの心の内を、魔理沙としたらおよそ考えもつかないのだろう。
「何か、」
さとりはやれやれといった具合で溜息をついた。
「色々と深刻に考えているようですが。私は特に気にしてはいません」
魔理沙は怪訝な様子で眉をひそめる。
「平気だって言うのか? 心を読まれる事で嫌われていても?」
「ええ」
さとりはこくりと僅かに頷いてみせる。
「嫌われようが気を使われようが、私は特に何も感じません」
「こいしのように能力を封印したいと思ったことは?」
「さあどうだったでしょうか」
はぐらかされた事に不満を覚えたが、思わず口を突いて出た自分の質問が出すぎた事だと気付き、魔理沙は口をつぐんだ。
妹のこいしのように第三の目を閉じてしまったら、と思ったことは無いわけではない。
しかしそれは自分の能力から逃げることに他ならず、自分の心を閉ざすのと同じである。
そうして逃げた結果、あてもなくふらふらと彷徨うだけの妖怪となった妹をさとりは不憫に思っていた。
その妹は巫女やらこの魔法使いやらと弾幕勝負をしてからは何やら他人への関心が強まったらしく、きっかけを作ってくれた彼女らには密かに感謝していたのだが。
それはともかく、さとりは自分の能力を拒否する事もなく誇る事もなく、ただ淡々と受け入れるのみである。
うな垂れた魔理沙を尻目にさとりは紅茶を口に運ぶ。
魔理沙の心が何か形を作ろうと必死にうねうねと蠢いているのが感じ取れる。
こういった心の動きをさとりは今まで嫌というほど見てきた。
結果、生まれたのはさとりの前から去る決定であったり、何も形作れずに考えるのをやめて次第にさとりから離れていったり、無理をして一緒にいる事にし、ある時心がぽきりと折れてしまったり。
千差万別のパターンがあるが、果たしてこの魔法使いはどうだろうかと、特に興味も無さそうにさとりはティーカップを傾ける。
「……ふー」
やがて溜息一つ。
大して時間も経たない内に魔理沙は心の整理をつけたようだ。
これにはさとりも些か驚いた。
魔理沙のごちゃごちゃとした心が箱詰めされるように纏まられ、すとんと整理されていったのだ。
本当に面倒な事を考えない性質のようだ。
魔理沙は相手の心を読む事などできない。
だから色々と勘ぐった所で答えが見付かるはずがない。
だから、気にしていない、というさとりの言葉を単純に信用しようというのである。
さとりを前にした時、大抵の存在は心を読まれることに怯え、そればかり気にする事に終始する。
しかしたまにこういった手合いがいる。
自分の心が読まれる事はさておき、さとりの言葉をそこらの一般の知り合いと同じように扱う連中。
確かにさとりからしたら他人は心を読む事の出来る何でも見透かせる存在だが、他人からしたらさとりの心を読む事はできない。
即ち一般的な知り合いと同じである。
そう思ってくれるのが、さとりとしたら、面倒くさく無いなと感じるのである。
「ん」
魔理沙がどこかさっぱりとした面持ちで改めてずいと袋を差し出すと、さとりはいつもの半目のまま「どうも」と言って受け取る。
プレゼントを渡すだけだというのに随分と手間をかけたものだ。
それをテーブルの脇に置いて紅茶を一口。
魔理沙も座り直し、紅茶をぐいと煽るように飲んでおかわりを要求してきた。
緊張して喉が渇いたのだろう。
紅茶を淹れてやると、開けないのか、といった魔理沙の思考に応じるように貰った袋を開いてみる。
星の形をしたクッキーが五枚出てきた。
さとりの小さな手の平にぎりぎり収まりきるくらいの大きさのそれは、少し焦げているし形も歪だ。
魔理沙の思考から、友人の人形使いと一緒に作った事が読み取れる。
しかも自分で作っておきながら相当程度を自分で食べていた。
また、ホワイトデーということで、バレンタインに貰った側だというのにまた貰いに飛び回っていた事も読み取れる。
魔理沙が作ったクッキーは、一緒に作ってくれたその人形使いとこの地底の住人の分だけであるという事も分かる。
さとりに渡す事を数日前からずっと考えていた事も。
だからといって特にさとりは感慨深くなった訳でもなかったが。
それからしばらくの間、魔理沙は地上の友人達と話すのと同じように他愛ない世間話をさとり相手に繰り広げていた。
別に話さなくても読み取れるのだが、構わず魔理沙は話を続ける。
さとりはたまに相槌を打って応じてやり、話を振られると短く答えてやった。
話し声に誘われたのか、燐が袋を咥えたままひょこひょことやって来て人型に姿を変えると椅子に座って会話に参加してくる。
二人の声を聞きながら、さとりは気だるい半目のまま紅茶を一口含む。
別にありがたいと思ったわけではない。
ただ――
少し焦げた星型のクッキーを齧ってみると、硬いそれはぽきりと軽妙な音を立てた。
こうして自分が誰かと一緒にいる所を見ると、妹も閉ざした第三の瞳を開けようという後押しになるのではと、そう思うのだ。
了
魔理沙が地霊殿にやって来たのは三月十四日の昼下がりの事だった。
大理石なのか何なのかよく分からないが、とにかく白い石でできた回廊を力のこもった歩調でカツカツと鳴らし、目当ての相手はどこにいるかと辺りをきょろきょろ見渡している。
その顔に若干の緊張感が漂っているのは、地面の下に構える灼熱地獄跡から時折吹き上がる熱風にあてられての事ではないようだ。
藁を編んで造られた小さなバスケットの取っ手を腕に通し、上から星柄の布が被されているのでその中を窺う事はできない。
しかしこの殺風景な建物には似合わない甘ったるい匂いが抑えきれずに溢れ出ていた。
「たのもー!」
さっきからそう声を張り上げているのだが、応じる者は誰一人として現れはしなかった。
ここには主の他にはペットばかりが住んでいると聞いていたが、呼びかけにも応じられない程低級な妖怪ペットしかいないのだろうか?
地面に取り付けられた天窓から煌々とした赤い光が溢れ出て、壁に取り付けられている橙色の蝋燭の光をた易く飲み込んでいる。
そうしてしばらく歩いていると、大きな廊下と廊下とが交差している十字路から一匹の黒猫がひょいと顔を覗かせてきた。二又の尻尾をひょこひょこと揺らしているのが特徴的だ。
それを確認し、魔理沙はほっとしたように顔を綻ばせる。
「お燐!」
いそいそと駆け寄ると、そっとしゃがみ込んで笑い掛ける。
「さとりはどこだ? ああ、そうだこれお前にも」
どこか要領の得ない様子でバスケットの中に手を突っ込み、金色のリボンで口を縛られた星柄の散りばめられた青い透明のビニール袋を取り出す。
布が捲れて覗いたバスケットの中には、他にもいくつか同じ袋が納まっているようだ。
魔理沙は袋をそっと燐に差し出す。
袋は手の平から少しはみ出すくらいのちょこんとした大きさをしており、中に数枚の大きなクッキーが入っているのが透けて見える。
菓子の形は歪なのが外からでも見て取ることができ、どうやら手作りである事は誰が見ても分かる事ではあった。
燐は差し出された菓子の袋をふんふんと嗅いでいると、やがてぱくりと咥えてさっと走り出す。
「お燐!」
魔理沙が慌てて呼びかけると、
「にゃーお」
袋を咥えたままどうやって声を出しているのか分からないが、とにかく燐はくるりと振り向いて一声鳴いてみせた。
どうやら主の所に案内してくれるようだ。
魔理沙は安堵の息を吐き、急ぎ足で燐の後を追った。
特徴のない簡素な回廊が入り組んでおり、案内無しではとても目的地へと辿り着けそうにない。
魔理沙自身、迷ったらどうしようなどと考えて飛び込んだのではなかった。何も考えてなかったのである。
それにしてもここまで誰にも会わないとは思ってもいなかったが。
やがて着いたのは一際大きな扉の前だった。
鉛で作られた鬼の装飾がそこら中に取り付けられ、棍棒を持って人間達の周りを歩いている様子が表されている。
人の表情はどれも苦悶に満ちていて、どうやら地獄の様子を描いたものだと見て取れた。
燐は扉の前まで魔理沙を案内すると、ぱたぱたとすぐにどこかへ駆けて行ってしまった。
「ありがとな」
呼びかけると、燐は一声にゃんと鳴いてから廊下の彼方へと消えていった。
改めて荘厳な扉を見つめる。
ここに来るのは初めてであるが、趣味悪いなあ、などと半目になって溜息をつく。
あ、でも高そうだなあ、などとも思ったが、見るからに重そうだし取り外すのも難しそうなので借りていくのは無理だと判断した。
気を取り直し、魔理沙は鬼の装飾を押し潰すように手を当てぐいと力を込め押し開けようとすると、鉛の装飾が魔理沙の手の平の体温をさっと奪っていく。
すると重苦しい外見とは裏腹に、ぎぎぎという嫌な音と共に意外にあっさりと扉は開いていった。
顔を突き入れきょろきょろと見渡すと、内部の明かりは壁に掛けられた蝋燭しかなくどこか薄暗かった。
これでは廊下のほうがまだ灼熱地獄跡の明かりで先も見渡せるというものだ。
部屋はぽっかりと広く、天井も魔理沙の背の三つ分くらいはありそうだ。
そのためか、灼熱が地面の下で胎動しているというのにここだけどこか薄っすらとした冷気が幅を利かせていた。
内部の装飾は先ほどの豪奢な扉とは打って変わって殺風景なもので、箪笥やらベッドやらの必要なもの以外は排除されているようだ。
その部屋の中央に、白い洋風のテーブルとそれを取り囲むようにして同じく白い椅子が四脚並べられていた。
一脚は使用中だ。
地霊殿の主、古明地さとり。
ピンクと紫の中間のような髪色をしており、胸の辺りについた第三の瞳から方々に伸びるようにして赤い管が体を取り巻いている。
彼女は招いてもいないのに勝手に入ってきた魔理沙に目も向けず、淡々とした様子でティーカップを傾け紅茶で唇を潤している。
魔理沙は一瞬ぐっと息を溜め、意を決し歩き出した。
そしてさとりの前までやって来るとバスケットをテーブルの脇に置き、勧められてもいないのに向かいの席にどっかと座り込む。
そのままじいっと地霊殿の主を見やっていると、やがてさとりは緩慢な動きでティーカップを置き来訪者へと目を向ける。
いらっしゃいとも言わず、さとりは気だるい様子で半目を魔理沙に向けてきた。
「その扉がまだ地獄にあった時」
この世の全ての感情を洗い流したかのような荒涼とした口調でさとりは喋り出す。
「それを開ける際、人は生前のあらゆる行いを悔やむのだそうです。それなのにあなたは何を考えるでもなく、それを盗めるかどうかを算段していた」
紅茶を一口含み受け皿に置くと、かちゃんと静かにガラスが鳴る。
「罰当たりですね」
魔理沙がにやっと笑ったのを見て、さとりは呆れたようにほうっと息を吐く。
「反省はするが後悔はしない、ですか」
魔理沙は眉を曇らせふんと鼻息を捲く。
どうせ心を読まれるのだから感情を隠すこともない。
すなわちあからさまに不機嫌な態度を取っても良いだろう、という事らしい。
次にティーポットをじっと見やるので、さとりはまたも気だるく息を吐く。
「お茶が欲しいのですね。分かりました」
そうして空いたティーカップに紅茶を淹れてやると、魔理沙の前にそっと差し出した。
「わるいな」
「思ってもいない事を言うのですね」
魔理沙は、むう、と苦い表情を浮かべる。
気を取り直しティーカップを口に運ぶと、ダージリンのほんのりとした香りが鼻孔をくすぐる。
そのまま鼻で息を吸い込み堪能していると、やがてぐいっと喉に流し込んだ。
「うまいな」
「言わなくても分かります」
「言ってもいいだろう」
さとりは魔理沙をじっと見やったまま、そうですか、と素っ気無く呟いた。
「今日はこれを渡しに来たんだ」
心を読まれるので引っ張ることも無いと判断したのか、魔理沙はバスケットの中から菓子の入った袋を取り出した。
ぐにゃぐにゃ曲がっているので判別つきにくいが、よく見るとクッキーは星の形をしている。
さとりはホワイトデーのプレゼントらしき袋をじっと見ていると、やがて魔理沙へと目を上げる。
普通の魔法使いの笑みにはどこか緊張感が漂っていた。
この魔法使いとはろくに会った事もなく、ペットが引き起こした異変の折に弾幕勝負をしてからは一、二度顔を合わせただけである。
それに自分は心を読む妖怪である。誰もが忌み嫌う地霊殿の主。進んで会おうとする者などいるわけがない。
それなのに何故わざわざ自分の所に持ってきたのか。
理由は簡単に分かる。
さとりの三番目の瞳が常人には捉えられない程素早い瞬きをする。
途端、魔理沙の思考がどっと溢れ出てさとりの足元を濡らし尽くす。
どれだけ隠そうとしても無駄である。彼女の第三の瞳は他人の心の奥底を非情なまでに暴き出す。
この力によりどれだけ他人に嫌われているのかをさとりは知っている。
しかしその事で悩んだのはとうに昔のこと。
誰に何を言われようと妹のようにこの力を手放す気は無いし使用を控える事も無い。
嫌だと思う者は離れればいいのだ。
側にいてほしいと思うことも無いし離れていってほしいとも思わない。
そんな事で悩んだのもとうに昔のこと。
そうして魔理沙の思考を読んでいくと、わざわざここまでホワイトデーのプレゼントを持ってきた理由はいとも簡単に見付かった。
――こいつ、いつも一人でいて可哀想だなあ。
単純化するとそういったものである。
もちろんそれだけではなく、知り合いとしての挨拶の意味合いも含まれている。
他には、恩を売っときゃ良いことあるかな、等々。
しかし一番大きな動機はそれである。
単純で浅はかな同情の感情。
さとりはちろりと魔理沙を見やると、彼女はどこか真剣な面持ちで地霊殿の主の瞳に目を合わせていた。
そして分かるのは、魔理沙自身でその動機を認知している事だ。
同情だとは分かっている。
その心を読まれるのも分かっている。
でもここへやって来た。
――心を読まれるからって渡さないのはなんか違う。
どうやら魔理沙自身、はっきりと心の整理をつけて来た訳では無いようだ。
要するに、考え無しである。
「……ふう」
さとりは呆れたように溜息をついた。
こういった手合いはたまにいる。
気持ちを整理するのが面倒だからと放棄し、雑多で曖昧で複雑な感情のままで体を動かしてくる。
どう来るのかはっきりと予想がつかないので困ったものである。
本能にも似た行動原理だがそれとは真逆と言ってもいい。
これは様々な理性がごちゃ混ぜになっていて分からなくなっているだけである。
分からないのが本能ではない。
分かる分からないという思考のステージを素通りしていく事が本能である。
魔理沙は本能では来たくなかったと感じている。
それはそうだ。誰も好んで心の内を読まれに行きたくはない。
しかしごちゃごちゃに丸められた様々な理性がごろごろ転がりまわるので、本能の行く手を阻んで行動を司る神経へと辿り着かせていないのだ。
さとりは再び魔理沙を見やる。
魔理沙は、もしかしたら受け取りを断られるかもしれない、とも思っている。
気を悪くしてしまい、怒らせてしまうかもしれない、とも。
しかし魔理沙はさとりの心を知らない。
こんな同情を隠せないプレゼントでも受け取ってもらえるかも、喜んでくれるかも、という可能性は否定できない。
だから来た。
――いや、
さとりは半目のまま眉一つ動かさずに思考を読み取り続ける。
他にも理由はあるようだ。
魔理沙は、来ないでいると二度とさとりに顔向けできないとも思っていた。
さとりを怖がってプレゼントを渡せなかったという負い目を引きずったまま、それを容易に読み取ってしまう彼女を避けるようになってしまう。
それが何より嫌なのだろう。
そういった面倒くさい関係を築くのが我慢ならないのだろう。
意外と律儀な性格なのですね、とさとりは感心する事もなかったが。
顔向けできないならずっと会わなければいいではないか。
どうせ自分はここから出るつもりもない。
わざわざここに来なければ会うこともない。
しかしこの魔理沙はどうやら、いずれ自分と酒を交し合うんだと思いこんでいるようだ。
皆との宴会の席にさとりの姿を予想している。
そんな日は来ないだろうに。
さとりは突き出された袋をじっと見つめる。
さとりとしたら、そんなプレゼントごときで深く悩まれても何を思うわけでもない。
受け取る事で魔理沙の気が晴れるなら受け取ってやる、という訳でもない。
プレゼントを差し出されたから受け取る。
ただそれだけだ。
嫌悪も同情も感じ飽きた。
そんな他人の感情に心動かされていた時期はとうに過ぎた。
だからさとりは差し出された袋へとおもむろに手を伸ばし――
寸前でひょいと持ち上げられた。
さとりの手が空を掴む。
こんな悪戯をする思考は無かったはずだが。
さとりは僅かに眉を潜めて魔理沙を見やると、彼女の思考が目まぐるしく変わっていくのが感じ取れた。
「お前……」
プレゼントの袋を持ち上げたまま、魔理沙がじっと睨むようにして呟き見てくる。
さとりには、魔理沙が一つ先の言葉も頭の中で紡がずに発しているのが分かった。
「私の思考、読んでんだろ?」
「ええ」
さとりが悪びれる様子もなく答えてみせると、魔理沙の心がざわりと揺らめいたが、何か特定の感情を作ることもなく平坦に戻っていく。
「……嫌じゃないのか?」
「あなたが同情や自責でこれを持ってきた事でしょうか」
「っ!…………そうだよ」
心を読まれる事を観念したのか魔理沙はぎりぎりと歯を噛み締め、緊張した面持ちでさとりの言葉を待っていた。
彼女はどうやらさとりの心の内を知りたいと思っているのである。
心を読める存在というのは一体どういった思考をしているのか。
妹のこいしであれば、魔理沙は彼女をある程度理解できる。少なくとも魔理沙はそう思っている。
心を読む事で周囲から嫌われるのが嫌だから、だからその能力を封印したこいし。
魔理沙であっても、もしも他人の思考を読める能力を持っていれば彼女のようにするかもしれないと思っていた。
しかしさとりは違う。
能力は常に使用しているし、それによる躊躇も無い。
さとりの心の内を、魔理沙としたらおよそ考えもつかないのだろう。
「何か、」
さとりはやれやれといった具合で溜息をついた。
「色々と深刻に考えているようですが。私は特に気にしてはいません」
魔理沙は怪訝な様子で眉をひそめる。
「平気だって言うのか? 心を読まれる事で嫌われていても?」
「ええ」
さとりはこくりと僅かに頷いてみせる。
「嫌われようが気を使われようが、私は特に何も感じません」
「こいしのように能力を封印したいと思ったことは?」
「さあどうだったでしょうか」
はぐらかされた事に不満を覚えたが、思わず口を突いて出た自分の質問が出すぎた事だと気付き、魔理沙は口をつぐんだ。
妹のこいしのように第三の目を閉じてしまったら、と思ったことは無いわけではない。
しかしそれは自分の能力から逃げることに他ならず、自分の心を閉ざすのと同じである。
そうして逃げた結果、あてもなくふらふらと彷徨うだけの妖怪となった妹をさとりは不憫に思っていた。
その妹は巫女やらこの魔法使いやらと弾幕勝負をしてからは何やら他人への関心が強まったらしく、きっかけを作ってくれた彼女らには密かに感謝していたのだが。
それはともかく、さとりは自分の能力を拒否する事もなく誇る事もなく、ただ淡々と受け入れるのみである。
うな垂れた魔理沙を尻目にさとりは紅茶を口に運ぶ。
魔理沙の心が何か形を作ろうと必死にうねうねと蠢いているのが感じ取れる。
こういった心の動きをさとりは今まで嫌というほど見てきた。
結果、生まれたのはさとりの前から去る決定であったり、何も形作れずに考えるのをやめて次第にさとりから離れていったり、無理をして一緒にいる事にし、ある時心がぽきりと折れてしまったり。
千差万別のパターンがあるが、果たしてこの魔法使いはどうだろうかと、特に興味も無さそうにさとりはティーカップを傾ける。
「……ふー」
やがて溜息一つ。
大して時間も経たない内に魔理沙は心の整理をつけたようだ。
これにはさとりも些か驚いた。
魔理沙のごちゃごちゃとした心が箱詰めされるように纏まられ、すとんと整理されていったのだ。
本当に面倒な事を考えない性質のようだ。
魔理沙は相手の心を読む事などできない。
だから色々と勘ぐった所で答えが見付かるはずがない。
だから、気にしていない、というさとりの言葉を単純に信用しようというのである。
さとりを前にした時、大抵の存在は心を読まれることに怯え、そればかり気にする事に終始する。
しかしたまにこういった手合いがいる。
自分の心が読まれる事はさておき、さとりの言葉をそこらの一般の知り合いと同じように扱う連中。
確かにさとりからしたら他人は心を読む事の出来る何でも見透かせる存在だが、他人からしたらさとりの心を読む事はできない。
即ち一般的な知り合いと同じである。
そう思ってくれるのが、さとりとしたら、面倒くさく無いなと感じるのである。
「ん」
魔理沙がどこかさっぱりとした面持ちで改めてずいと袋を差し出すと、さとりはいつもの半目のまま「どうも」と言って受け取る。
プレゼントを渡すだけだというのに随分と手間をかけたものだ。
それをテーブルの脇に置いて紅茶を一口。
魔理沙も座り直し、紅茶をぐいと煽るように飲んでおかわりを要求してきた。
緊張して喉が渇いたのだろう。
紅茶を淹れてやると、開けないのか、といった魔理沙の思考に応じるように貰った袋を開いてみる。
星の形をしたクッキーが五枚出てきた。
さとりの小さな手の平にぎりぎり収まりきるくらいの大きさのそれは、少し焦げているし形も歪だ。
魔理沙の思考から、友人の人形使いと一緒に作った事が読み取れる。
しかも自分で作っておきながら相当程度を自分で食べていた。
また、ホワイトデーということで、バレンタインに貰った側だというのにまた貰いに飛び回っていた事も読み取れる。
魔理沙が作ったクッキーは、一緒に作ってくれたその人形使いとこの地底の住人の分だけであるという事も分かる。
さとりに渡す事を数日前からずっと考えていた事も。
だからといって特にさとりは感慨深くなった訳でもなかったが。
それからしばらくの間、魔理沙は地上の友人達と話すのと同じように他愛ない世間話をさとり相手に繰り広げていた。
別に話さなくても読み取れるのだが、構わず魔理沙は話を続ける。
さとりはたまに相槌を打って応じてやり、話を振られると短く答えてやった。
話し声に誘われたのか、燐が袋を咥えたままひょこひょことやって来て人型に姿を変えると椅子に座って会話に参加してくる。
二人の声を聞きながら、さとりは気だるい半目のまま紅茶を一口含む。
別にありがたいと思ったわけではない。
ただ――
少し焦げた星型のクッキーを齧ってみると、硬いそれはぽきりと軽妙な音を立てた。
こうして自分が誰かと一緒にいる所を見ると、妹も閉ざした第三の瞳を開けようという後押しになるのではと、そう思うのだ。
了
ただ、これはすごく個人的なことなんですが、もう少し長く書いてもよかったと思います。
なんていうかさとりっぽいね