春告精も姿を消し、漸く訪れる夏を待ちわびるかの様に緑が青々と茂る深夜の博麗神社。
博麗の巫女も眠りに就く夜闇の中、境内へと近づく一つの陰が存在していた。
男性的な服装の中にも柔らかな曲線を描く括れは、それが女性だと言う事を認識させる。
鮮やかな緑を発する短髪からは一対の触覚が生えており、彼女が妖怪の類だと言う事を主張していた。
恐る恐るといった動作で境内を行く彼女――リグル・ナイトバグは、夏の到来に昂る感情を発散させようと博麗神社に訪れていた。
本人からしてみれば肝試しの様な物なのだろう。 参道の中程からでもひしひしと感じられる巫女の威圧を含む気配に、思わず鳥肌を立てながらも賽銭箱へと近づいていく。
無事に拝殿の前へと辿り着いたリグルは適当に柏手を打つと、悪戯小僧が浮かべる笑顔で賽銭箱の中にカメムシを投入する。
朝の日課である賽銭箱の確認をした際に巫女が浮かべるであろう悲鳴を想像し、リグルは一人悦に入る。
声を殺しながらも一頻り笑い終えた悪戯蛍は、すっきりとした表情でそろそろ寝床に戻ろうと踵を返し、境内を後にしようとした。
しかし、ふと自分の目の前を一匹の蛍が横切るのが眼に入る。
まだ成虫となって間もないだろう頼りない飛び方をするそれに、彼女は若干の庇護欲が胸に沸き上がるのを感じた。
暫しの間休息させてやろうとそのか細い指先を差し出すと、蛍は導かれる様に彼女の元へと向かっていく。
誤算だったのは、まだその蛍の飛び方が安定していなかった事だろう。
明りを明滅させた蛍が差し出された指の腹に止まろうとした刹那、やや強めの夜風に流されて軌道を乱される。
暫しのあいだ彷徨う様に飛行した蛍が漸く羽を休めた所。 それは彼女の胸元だった。
服に付着する蛍に、リグルは頬を赤らめる。 彼女の仕草を見るに、どうやらその蛍は雄なのだろう。
恥ずかしさに慌てて指先で摘まみ上げた後、改めて蛍を休ませてやる。 その動きは慣れた物で、彼の足は一節も欠損する事無く衣服からの別離に成功した。
顔の火照りが取れた頃、改めて手先に蠢く助兵衛蛍を睨みつけると、その蛍は居心地悪そうに顔を逸らす。
やや呆れながらも、そういえば何故ここに蛍が居るのだろうと言う疑問が首をもたげた。
蛍が居ると言う事は、近くに水があるという事だ。 まだ夜明けまで随分と時間がある。 これも何かの縁だ。 この辺りをゆっくりと探検してみよう。
新たな好奇心を胸に抱いた彼女は、疲れを癒し溌剌といった表情の雄蛍を案内人として、彼が彷徨い出てきたであろう池を目指し、羽を広げた。
「へえ、こんな所があったんだ……」
博麗神社の裏手、蓮の浮かぶ池へと辿り着いたリグルは感嘆の声を漏らす。
そこには彼の仲間であろう蛍達がそこかしこを舞い、自らの伴侶を見つけ出そうとしていた。
その光景に彼女は子供の様に笑いながら、先程と同じ様に手を差し出す。 だが、今回は先程とは違う趣旨を含んでいる様だ。
彼女が左に振ると、蛍達はそれに従う様に彼女の指が示す方向へと移動する。
次に、上。 そして真中。 そこで彼女は手を止めてじっくりと光の塊を凝視する。 煌煌と光り輝くその美しさは、蓬莱の珠の枝にすら引けを取らないだろう。
満足がいった様に笑顔を浮かべたリグルは、楽団指揮者が締めに行う様に両の手を広げると、それを合図に蛍達は方々に散開し、彼等の日常へと戻っていく。
これが彼女の能力。 ”蟲を操る程度の能力”だ。
数多居る蟲達を統べ意のままに操るこの能力は、使い様によっては非常に危険な能力だといえる。
その気になれば、恙虫を介して感染症を引き起こしたり、イナゴの大群を呼ぶ事によって飢饉を発生させる事もできるだろう。
彼女がそれをしないのは、別に博麗の巫女や妖怪の賢者を恐れているからではない。 多分、それが益を齎さない事を理解しているからだ。
もしもそんな事をすれば、人間達は躍起になって蟲達を殺しにかかるだろう。 全ての蟲を愛でるリグルに取って、その事態はあまり好ましい物ではない。
そういった事情を本人が意識しているのかは分からないが、リグルは蟲達を少しでも好いてもらおうと人間相手に商売を始めていた。
それが『蟲の知らせサービス』である。 天狗の新聞にも載った事で無名なこの商売で、彼女と蟲達は少しずつ認知され始めていた。 だがやはり、気持ち悪い物は気持ち悪い様だが。
その様な事情を抱えているリグルは辺りを飛び交う蛍達を眺めながら、この子達を使って新しい商売は出来ないだろうかと思案に耽る為、近くにある苔のむした岩へと腰を降ろす。
「むぎゅっ!」
「えっ、何!?」
すると突然、何処からとも無く叫び声が響き渡る。 驚いたリグルは立ち上がって周囲を見渡すが、何処にも人の気配は無い。
首を傾げたリグルは再び腰を降ろそうとすると、その岩は唐突に動き出し、緩慢な動作で向きを変える。
暫しその様子を見守っていたリグルは、その岩の動きが停止すると戦々恐々といった面持ちでその岩に対し声を掛けた。
「あ、あの……どちら様?」
岩からの返事は無い。 しかしだからといってその岩を放置していたら、後で後ろから襲われるかも知れない。
視線を逸らす事無く、じっと岩が動き出すのを待ち続けるリグル。 だが時間が経つと流石に気が緩んだのか、物言わぬ岩に退屈したリグルは間延びした欠伸を掻く。
その一瞬の隙を突く様に、岩から細長い何かがぬるりと生え出した。 その様に驚いた彼女は一際大きな悲鳴をあげて尻餅をつき、異様に蠢くそれを凝視し続ける。
暫くの間揺らめいていたそれは不意に動きを止めると、目の前に生き物が居る事を探知したのか首の様な物体をそちらへと近づける。
もはや恐慌状態に陥り、少しでもその物体から離れようと後ずさるリグルだったが、不意に掛けられた声にその動きを静止した。
「おや……初めて見る顔だのう」
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……へ?」
頭を抱え涙を流しながら縮こまっていたリグルは、声の主に敵意が無い事を悟ると幾分か冷静さを取り戻し、砂埃を払いながら立ち上がる。
どうやら目の前にある岩だと思っていた物体は、大きな亀だったようだ。 先程までの取り乱し様に恥ずかしさを覚えた彼女は照れ隠しなのか、誤摩化す様に笑いながら亀へと近づいていく。
「ああもう吃驚させないでよ。 寿命が縮んだわ」
「五分程度の尺が少し縮んだ所で大して変わりはあるまい」
悪態をつく亀に一度の蹴りを入れたリグルは、彼の隣に座り込む。 闇に浮かぶ蛍達を眺めている内、自然と閑談が始められた。
聞く所によると、亀の名前は玄爺と言うらしい。 昔は博麗の巫女を背中に乗せて大空を飛回り、数多の異変を解決したもんだと誇らしげに語る彼の姿は、老齢の身とは思えない程の輝きを放っていた。
擦れながらも芯の有る声は、永い時を生きた者特有の落ち着き払った雰囲気を醸し出しており、彼の話が嘘ではないと思わされる。
しかし良く見れば彼の体に生える苔の量は相当な物であり、かなりの年月を放置されていた事を窺わせる。 それに彼の話し振りからすると、この話は大分昔の事なのだろう。
つい、疑問が口を突く。
「じゃあ今は?」
「うぐ……それがじゃな」
リグルの言葉に、玄爺は頭を垂れながら今にも甲羅に篭ってしまいそうな程に気落ちする。 やがて、彼はぽつりぽつりと言葉を絞り出す様に、事の顛末を語り出した。
彼の話を要約すると、博麗の巫女が自力飛行を会得して以来、彼女と共に異変解決に赴く事は無くなってしまい、今ではこの池でひっそりと隠居生活を営んでいる、との事だ。
抑揚が無くなり、何処となく哀愁を漂わせる玄爺の姿に、リグルは悪い事を聞いたかなと若干の居心地悪さを感じていた。
話題を変えようとするが何も話題が浮かび上がらず、どうした物かと悩んだリグルは、そうだと両手を叩くと勢い良く立ち上がり、横に居る玄爺へと笑顔を向ける。
「ちょっと待ってて」
「何処へ行くんじゃ?」
「良い所」
そう告げるとリグルは羽を広げ、夜空へと飛び去っていった。
静かに佇む月がその身一つ分程を西に移動する頃、謝罪の声と共に戻ってきた彼女の手には二本の棒が握られていた。
ひやりとした冷気が漂うそれは、妖怪の作った物では無いだろう。 玄爺の眼に冷厳な態度が篭められる。
「よもやその金、人を喰ろうて得た物ではあるまいな?」
「まさか、ちゃんと自分で働いて得た報酬で買った物よ。 はい一本」
そう言い、リグルは彼の口にアイスキャンディを突っ込む。
聞くと、彼女は人里で『蟲の知らせサービス』と言う物を営んでいるらしい。 多少なりとも人間達の貨幣を手にしている様だ。
ゴキブリ退治の為にアシダカグモを貸した縁で仲良くなった居酒屋の店主から買ってきたのよと笑いながら話す彼女に、なるほどそう言う事ならと得心した玄爺は遠慮なくそれを口にする。
暫しの間もごもごと口を動かしていた玄爺だが不意にその動きを止めると、隣に座るリグルに辛うじて聞こえる声量で小さくぼやく。
「歯にしみるのう……」
その一言に、リグルは笑いながら玄爺の甲羅を叩いた。
木々のざわめきだけが聞こえる中、蛍光の美しさを眺めながら、二人は無言でアイスキャンディをしゃぶり続ける。
それが食べ終わる頃には元気を取り戻したのか、玄爺は再びリグルとの歓談を再開する。
「のうリグル殿、最近の御主人……靈夢様はどうじゃ?」
「え? ……う~ん、相変わらず元気に飛び回って異変解決してるようだけど」
「そうかそうか」
彼女の返答に、玄爺は嬉しそうに眼を細める。 恐らく、未だに霊夢の事を慕っているのだろう。
主従の絆と言う物を理解しているリグルは、彼を喜ばせてやろうと文々。新聞で知り得た覚えている限りの霊夢の活躍を、若干の誇張を交えながらも面白可笑しく玄爺に伝え聞かせた。
それが話し終わる頃、玄爺は清々といった表情でリグルの事を見詰め、深々と頭を下げる。 照れているのか、笑顔を浮かべながらも謙遜する彼女の姿に、分かり辛いが玄爺もまた笑みを浮かべながら、ゆっくりと礼を告げる。
「靈夢様が元気だと分かっただけで、立派に成長していると言う事が分かっただけで僥倖じゃよ。 本当に、ありがとう」
「や、やだなあよしてったら! え、えへへ~」
頭を掻きながら頬を赤らめるリグルを一瞥した後、玄爺は何を思ったのかふいと池へと顔を向ける。
そうして暫く蛍達の舞い踊る光景を眺めた彼は、呟く様に寂しげな声を吐き出した。
「はあ……また靈夢様と共に空を飛びたいのう……」
呟き、玄爺は神妙な面持ちで空を見上げる。 その横顔を視界の端に捉えたリグルは立ち上がると尻に付いた土埃を払い、月明かりに照らされる玄爺へと視線を向ける。
「う~ん、でも私、貴方にはずっと此処に居て欲しいけどなあ」
「ほえ?」
「だってほら」
そう言って玄爺の背中に生えた苔を指差すリグル。 不思議に思い玄爺が首を回してみると、甲羅に生茂る苔の中に小さな粒が点在していた。
「これは……?」
「いっぱいくっ付いてるでしょ。 それ、蛍の卵よ」
楽しそうに微笑みかけるリグルの顔に、玄爺は間の抜けた表情を浮かべる。
甲羅の周りを楽しそうにくるくる回るリグルは彼の眼前で足を止めると、朗らかな声で話を続けた。
「多分だけど玄爺、あなた前に川か何処かに行ったんでしょう。 その時に産みつけられたのね。
じゃなきゃこんな池に蛍が住み着く筈が無いわ」
言い終わり、くるりと反対を向く。 そのまま二三歩進んだリグルは再び振り向き、満面の笑顔を浮かべる。
「ありがとう。 蛍達の新しい住処を作ってくれて」
「礼を言われる筋合いは無いと言うのに……全く、蟲と言う物は気楽で良いのう」
返事をする玄爺も満更ではないのか、照れを隠す様に顔を逸らして返事を返す。
その後も談笑を続けた二人だったが、別れの時間は唐突に訪れた。
リグルの元に小さな虫が飛び込んでくる。 どうやら彼女へ仕事の時間を告げる為にやって来たようだ。
彼女は虫に礼を言うと起き上がり、玄爺へと声を掛ける。
「ごめんね、仕事の時間がきちゃった。 お得意様なんだけど、毎度決まって丑の刻前に起こしてくれって頼まれてるの」
「ほう……ん? それはもしや、この辺りで夜な夜な何かを打ち付ける音がしているのと関係があるのかの?」
「え? どういう事?」
首を傾げるリグルに対し、玄爺は神社裏にあるこの森での出来事を包み隠さず話した。
彼の供述する内容に自分の依頼主との共通点を山ほど見つけ出した彼女は腕を組み、さてどうしたもんかと考え始めた。
お得意様を失いたくは無いし、かといってここに住む蛍達に迷惑をかけさせたくも無い。
散々悩んだ彼女だったが、ふと自分がしている仕事を思い出すと不適な笑みを浮かべ、不審に思う玄爺に待っている様伝えると、一人その場を後にした。
――
草木も眠る丑三つ時。
博麗神社の裏手にある森に、一人の陰が入り込む。
その陰は辺りを見渡して手頃な木を見つけると、その木へと静かに近づいていく。
手に持っていた藁人形を木に押し付け、今まさに五寸釘が打ち付けられようとした刹那、その木の裏側から別の人物の陰がゆっくりと姿を現した。
「あら、こんばんはアリス」
「あ、あら、こんばんは霊夢」
にこり。 霊夢と呼ばれた少女は寝間着姿のまま笑顔を浮かべる。
ねちょり。 アリスと呼ばれた少女は全身に冷や汗をかいたまま笑顔を浮かべる。
「え~とね、霊夢。 別にこれは貴方に向けた呪いではない訳だし、
音もそんなに立ててない訳だから見逃してくれないかな~なんて」
「ええとね、アリス。 たまにうるさくて夜中に目を醒ます事があったの。
今日も嫌な夢を見たのよ私。 沢山の蟲達に体中を這い回られる夢。 それでもしかしたらって思ってね。
それじゃあおやすみなさい」
ピチューンと良い音が博麗神社の裏手に響き渡り、それを耳に入れた二人はやったと両手を叩き合わせた。
「えへへ、まさに『蟲の知らせ』ね」
(了)
しかし賽銭箱にカメムシは酷すぎるw
でも確かに確かにありそうな
霊夢さんはあれですよ、「ウチの玄爺(よめ)を汚らわしい少女(ケダモノ)共に見せるモノか……!」こんな感じの孫ですよきっと。
取り敢えず玄爺ちゃんをHARA〇〇TAI(変態)
玄爺ちゃん似の娘だと尚良し(は私の誉め言葉)
りぐるんはメディの嫁。
1.名前が無い程度の能力さん
100点⊂ ありがとうございます
5.名前が無い程度の能力さん
次の日から暫く、妖怪蛍は姿を消したそうです。
巫女の感を侮ってはいけない。
6.名前が無い程度の能力さん
書いててぽっと浮かんだので足してみました。
10.謳魚さん
さあ、伏せ字を解き放って御覧……?
14.名前が無い程度の能力さん
あ、ありがとうございます。 玄爺の髭触りたい。
最近だとSPIRITSもありますし
わかる人は多いんじゃないかなあ、と思いますね