たん、たた、たたっ、たん。
音を少しだけ切り取ると、そういうリズムだった。
けれど、直ぐ他の音に紛れてわからなくなってしまう。
たた、た、たっ、たた、た。
「さむさむ」
もう少しで春だというのに、ちっとも暖かくなる様子がなくて少し寂しい。気がする。両の手で肩を抱いて、ちょっと擦ってみる。
「さみしい」というものはふわふわと眼の前を漂って、ゆっくりと地面に落ちていくことを私は知ってる。ただ「知ってる」のであって、今は見えない。ふわふわ漂っている筈のそれに、色が無い。
私はこの「さみしい」の色とかたちがどんなだったかと思い出そうとしたけれど、随分と昔に見たっきりのせいで上手くいかないものだから、面倒くさくなる。さみしいから寂しい色で、寂しいかたちをしているんだろう。それで答えが出たような気がしたから、良しとする。
別段声に出されたものでなくとも、私には色々なものが視えていたんじゃなかったっけ。聴こえていたんじゃなかったっけ。そのあたたかさとか、つめたさとか、そういうの、知ってたんじゃなかったっけ。
まあいいか、と呟く。あきらめっぽいものの色とかたちは、確かさみしいものと似ていたような。でもその塊はさっきのとは違って、地面に落ちるまでちょっと時間がかかったはず。
ほう、と息を漏らすと、そろそろ夜に目覚め始める獣のようなものが、ほう、ほう、と返してきた。こういうのは、少し面白いと思う。別に獣と私が何の関係も持っているわけでも無かったし、出くわしたところで向こうが私に気付くことも無いのだろうけれど。
「夜」
よる、が来る。もうそろそろ戻ろうか、と思ってみても、今この場を動いたら結構つめたい目にあってしまうので、行動に起こせないでいる。
今腰を下ろしている横倒しの枯れ木は乾いていて、辺りは随分寒くってもおしりがつめたくならないのが丁度よかった。頭の上には、大きな葉っぱの傘がいくつも重なっている。ほんの少し歩を進めればそこは水に溢れているというのに、私が座っている周辺だけが、ぽっかりと穴の空いたように乾いている。自然の雨宿りスポットか、と考えて。だから私が座っている樹は枯れてしまったんだ、と思ってみる。倒れたとき、この樹はまだいきていて。そしてゆっくりと、水を得られず、からからになって、しんでいったんだ。きっと、そうだよ。
そういったものの生き死にの類は、私が関わる分にはどうでも良いことだけれど、関わらないものについて想像するのはそんなに嫌いじゃない。どっちにしろ、どうせとても透明なのは知ってる。それらは色付かない。特に死は、ただからっぽなだけだ。
私の関わらない生き死にについて、私は自分で色々なことを決め付けていい。それはとても自由な想像だった。その時、ぼんやりとさみしいものが遠く離れていくような、そんな気がする。
さっきからこの傘に雨粒が落ちてくる音を、じっとして聴いている。不規則なリズム。でも何か法則性があっても面白いかもしれない。そういう愉しみを見つけるのは、結構得意。
たた、たん、た、たた、た。
「さむさむ」
声、を聴いた。
聴いた、というのは、それが私のものでは無かったから。
でも、私は驚かない。私以外の声が聴こえたということは、私以外の誰かが傍に居る、ただそれだけのこと。不意に誰かの隣に佇むのはいつも私がしていることだったから、されたところで特に驚かない。
と、思っている私に少し驚いてる。
「先客とは珍しい。穴場なんだけどねえ、ここ。雨を眺めるには絶好の」
その声が耳に届いて、「まあいいか」という私のあきらめっぽい何かが、丁度地面に辿り着いた頃だなと思った。とすん、と刺さるように。
ああ。そういえばなんか結構鋭いかたちしてたっけ、あれ。自分で投げ出した癖に、あわてて拾おうとすると手が切れるような。そんなの。
* * *
雨はやまず、私たちはふたり並んで枯れ木に腰を下ろしている。
傘もささずに此処にやって来たようだったけれど、頭に被ってる変な帽子のお陰で、そう濡れ鼠になっている様子も見られない。
「まだこの辺ふらふらしてるんだね、お前は。何か探し物でもあるってか」
「ううん。別に」
別に、考えてない。
地底を散歩においては大概のところは行き尽くしてしまったけれど、それでいて真新しいものを求めてこの辺をぶらぶらしてるのかと言われれば、多分そうでもない。だから「別に」って言うしかない。
「ねえ、かみさまはよく此処に来るの」
「ええ? うん、まあたまに。普段外に出たいとは思わないけど、雨の日くらいは潤ってみたいじゃないか」
私は彼女のことを、かみさまと呼ぶ。最初はそれやめろって、とも言われた。でも呼ぶ。かみさまはかみさまなんだから合ってるでしょ、という私の考えは多分ただしい。と思う。その証拠に、かみさまはもうそのことについて気にしてない様子なんだから。
「でも此処、乾いてるよ」
「穴場だからね」
「うるおわないわ」
「いいの、まだ。これだけ静かに降ってるんだ、そうそうやむもんでもない」
「静かな雨は直ぐに途切れないって言ってる? そういうこと?」
「そういうこと。ざぁっと降る強い雨はね、暫くしたら晴れの気を出してからっとやんじゃうもの。こうやって、静かに細く落ちてくる雨はしぶとい」
「しぶといの」
「泣いてるんだよ」
「泣く? 空が?」
「そう。わあわあぼろぼろ泣くのは、零すだけ零したらすっきりするだろう。しくしくさめざめ泣くのは、割と長い」
静かに、細く。確かに落ちてくる雨、さっきから頭上の葉っぱに打ち付けてくる雨は、そう言われてみるとなんだか糸みたいだった。風が全然吹いてなかったから、夜闇に混ざって真っ直ぐ落ちては、地面に吸い込まれていく。それだけ見つめてると、何も無かったみたい。はじめから、何も無かったみたい。でも、重ねて糸は降って来る。空が泣いてる。しくしくさめざめ、とても静かに。
「ねえかみさま、今度こそ私と遊んでよ」
前、お空に強い力を分け与えた輩に会ってみたくて此処に来たことがある。そのとき見た雪を、今でも私は「きれい」だと思う。きれいはそのままきれいなもので、それ以上でもそれ以下でもないことを私は知ってる。
その時、かみさまではない誰か。人間と出逢ったから、私はその娘と遊ぶことにした。面切って相手と向かい合って遊ぶのは、随分久しぶりだったように思う。死体を持ち帰られなかったのは少し残念だけど、結局あれから顔を合わせていない。まあいいか。その代わり、あの日初めて出逢ったかみさまと、ちょくちょくお話出来るようになったから。
でもかみさまは、私とお話はしても、ちっとも遊んでくれない。
今はもう、雪じゃなくて雨が降る季節になった。
「お前とはやらないって言ったと思うんだけどねえ。遊びはお互いが納得しなきゃしょうがない。無理矢理遊びに付き合わせるってのも、方法としては無くも無いか。でもねえ」
「かみさまが遊びたがらないだけなんじゃないの」
「お前のは、とても遊びとは言えない」
「よくわかんない」
本当によくわかんない。私が遊びたいと考えるものを、かみさまは遊びではないと言う。これじゃあただ、ふられちゃってるだけだ。
結局のところ、同じということ。私が求めてみても、相手は厭と言うだけ。
「ねえ、こいし。やたらめったら、相手のこころを引っ掻こうとしちゃあ、駄目だよ」
知ってる。それ、言われたこと、あるよ。
『やたらに引っ掻こうとしては駄目よ、こいし』
「……お姉ちゃんと同じこと言うんだね、かみさまは」
「お姉ちゃん? 姉が居るの?」
「うん。言ってなかったっけ? お姉ちゃんは私と違って、ちゃんと相手のこころとか、視えるよ」
「ほう、正しく覚りの類ということ。ちゃんと見るのは久方ぶりだったけど、そこについてる第三のまなこはちゃんと開いてるっていうことか」
「お姉ちゃんはそのせいで、外に出たがらないよ。私みたいに地上に来ることも無いし。お姉ちゃんも私と同じようにすればいいんだわ」
「そのまなこを閉じれば良いと言ってる?」
「うん。何も気にしなくていいじゃない。五月蝿くないし、面倒なことも無いし」
なにも躊躇わなくていいし。
私たちに出逢う輩はいつだってそうだ、眼を合わせたときにはひぃひぃ言いながら逃げ出すんだから。私はとりあえず追いかけてみるけど、結局のところ受け入れられることも無いし、がりってやったらこてんと相手は倒れてしまう。少しさみしい気がしないでもない。でも、やっぱり「まあいいか」で済ませられるから、それでいい気がする。
「覚りの類は、その辺りが面倒というか難儀というか。意思を持つものは、それだけで総じて五月蝿いもんだからねえ。其処を気にするんじゃないとまでは、流石に言えないかな。まあ、私の心なんか、やすやすと読ませんがね」
「そんなことできるんだ?」
「おほん。伊達で神様やってるわけじゃないの。聴いて欲しけりゃそうするさ」
そう言って、かみさまは帽子を外す。その中から、にゅっと何かを取り出した。栓のついた徳利ひとつと、お猪口っぽいものがふたつ。
「わっ、何それ物入れだったの?」
「軽いものならね。ほらこれ見てよ、裏に袋を縫い付けててさあ、うちの早苗がやってくれたんだよ、どうだ凄いでしょ、見て見てこの蛙柄! 見えないところのお洒落が大切なんだってさ、いやいやもうなんといっていいやらふふふ」
ほんとに何言っていいやらという感じで、とりあえず便利な帽子だなあくらいに思う。
そしたら帽子についてるめんたまと眼があった。うそこれ動くの? うそでしょ?
「遊びはとりあえずその辺に置いといてだ。どうだ一献、付き合わない?」
「お酒? あんまりすきじゃないんだけど」
「そうなの、残念。じゃあしょうがない、ひとりでちみちみ呑むか」
「や、やっぱりちょうだい」
「なんだそれ」
「すきじゃないけど、呑めないわけじゃないの」
「よくわからないなあ、お前は」
ほんのちょっぴり注いでもらって、ちょんとお猪口を付き合わせる。あんまり強くやると、それだけで中身が零れてしまいそうになる。おっとっと、と言いながら、ふたりしてお酒に口をつけた。
「ほうっ」
「んー、あまいね、なんか」
「甘いのは好まないか」
「や、そんなわけでもない。お姉ちゃんは私にあんまりお酒呑むなって言うから。特にあまいの。それでなんとなく、大丈夫なのかしらって」
「お前実は呑兵衛だろう?」
「違うって。かみさまの方こそどうなの、お酒持ち歩いてるなんて相当じゃないの」
「普段から持ってるわけじゃないって。今日はね、雨だから。此処に来るのには、必要だった」
くぴり、とお猪口を傾けながらかみさまは言う。
それにしても、このお猪口は不思議。私が知ってるものとは、ちょっと違う。
「ねえこれ、硝子でしょう?」
「がらす。ああ、びいどろね。そうそう、瀬戸物でも木でもない、びいどろだね。酒を鉄器で呑むってのもあれかと思ってさあ、どうだ珍しいでしょ」
「うん」
硝子のお猪口を、掲げてみる。透明な器の中で、やっぱり透明なものがゆらゆら揺れてる。その向こう側に、透明な細い糸がさらさら落ちてきて、……更に向こう側にある樹々が、ぐんにゃり歪んで見える。
「硝子みたいな瞳ですねって、言われるんだ」
「うん?」
「ペットにね、言われる。褒められてるのかな?」
「さあ。きれいだって言ってるんじゃないのかな」
たっ、たた、たっ、たたた。
雨が降る。
雨が降るよ。
「こいし。お前がそのまなこ閉じたのって、いつから?」
「……忘れちゃった」
ひゅう、と一吹き、風が通る。
ああ、それじゃ駄目だよ。
真っ直ぐ落ちてくれないと、困るよ。
糸が切れちゃうじゃない。
「そんなに昔の話か。若いってのにねえ」
「そんな若くないから」
「私に比べたらって話だよ」
糸が切れたら。
いろんなこと、思い出しちゃうじゃない。
「こいし、こいしかあ。道に転がる小さな石ころと同じ音か。目立たないようでも、その名前、私はすきだなあ。なんとなく」
「……ありがと」
『こいし。あなたの名前が、どんな思いでつけられたかを、あなたは知らない』
知ってるはず無いじゃないの。私は実際、聞いてないんだから。
腰を上げて、空を覗いてみる。あいかわらず、どんよりと灰色の雲が空の全部を覆ってる。あすこから、糸は落ちてくるんだ。透明で、でもなんとなく白い雨が。
「どうせ石なら、硝子みたいにきれいな石の方が良かったよ」
「そうなの? そりゃあ曖昧だなあ。それを言うなら、本当にお前は曖昧なびいどろみたいだ」
ふと、かみさまがそんなことも言う。私と同じように立ち上がって、葉っぱの傘の下から空を見上げているようだった。
「あいまいなの?」
「うん。びいどろってのは、確かにそこに在るくせに、わかりづらいんだよねえ。それ自体がまやかしっぽいと言うか、誤魔化してるようなものというか」
「私、特に誤魔化してるつもりはないんだけどな」
特に悪いことしてきた覚えも無いし。
そう私が思ったところで、「ふぅん?」とかみさまは声を漏らした。
「まあいいんじゃない、それはそれで。いっつも白黒つけるのがうつくしいって言う輩も居るけどね、例えば閻魔さまか。でも私はただの神様だし、思うことそれ自体は自由だけど。悪いことはいっぱいしてきたからね、神様も死んだとき、地獄に落ちるってことがあるのかねえ。どう思う? こいし」
「わかんない。でもさ、かみさまは悪いこと、してきたの」
「したさ。己が領地を守るため、争いもした。私はその長。土着神の頂点として、必死にもなった。私が命じなくても、みんないのちを投げ出さんばかりに闘ったよ。実際、空に昇ったたましいは数知れず。神も人も妖も、からだを持つ身なれば等しく死ぬよ。想像してごらん、こいし。争いで流れる血は、雨で洗われることは無い。なんでかわかる?」
「んー、……」
少し、考えてみる。でも、答えを出すことが出来なかった。
黙っていると、かみさまはまた言葉を続ける。
「そういうものなんだよ。天から落ちる雨で、どす黒い血はきれいにならない。どろどろ流れて、じんわり地に吸い込まれて、あとに残るは動くこともないからっぽの身体ばかり。私が一言、もっと早く、やめろと言うべきだった。でもそれは許されない」
「どうして?」
「神様だからさ。頂点だからさ。そして、その闘いには地を守るためという理由があった。そしてそれすら言い訳なんだ。神様はね、誰かに説教する立場じゃあ無い。でも、ただ言葉だけは用意している。誰かに問われたとき、答えるための言葉を持っている。私が神であるという意味を見出せるのは、自分の持ってる力を抜いたら、それだけだね。言葉を受けた誰かが其処に意味を見出すかどうかは、私には関係ないことだもの」
戦、というものを私は直に見たことが無い。
けれど、想像は出来る。
たくさんのいきものが争って、たくさんのいきものが死ぬ。
千にも万にも届くいのちが、ただ散っていく。
私は想像する。それは、とても自由な想像だった。
「戦なんて、頂点を潰せばおしまいじゃない」
「そうだね。でも、そりゃあ簡単にはいかない。簡単じゃないことをお互い知ってるから、周りから潰そうとする。例えば弱いものから。女子供や老人が、そう。例えば一目、関係の無さそうなものから。その土地に縁があったという理由があれば、蹂躙するのに足りる。そうやってじわじわと殺して、ぽつんとひとり頂点を残してやろうとする。とても効果的なことだよ、こいし。地を守ろうとしたら、そこに住まうもののいのちは、あらかた掻き消えていた。そのとき、残された長は何を考えるか?」
かみさまはそう言って、雨の中に身を乗り出す。
「どう、考えるの」
「あらかた消えて、尚残るいのちを、守ろうとする。そして勝ちの見えない戦は、引き際が肝要」
ぱたぱたと音を立てて、帽子が濡れていく。
「さて、そろそろ頃合かなあ。私はとりあえず、やんなきゃいけないことがあるから。良かったら、見てく?」
「何をするの」
「舞」
「まい、」
ぱっ、とひかりが放たれる。
思わず、眼を瞑った。
ゆっくり眼を開けると、かみさまが両手にぶら下げていたのは、まあるい輪っか。
円の外側には、刃の波が立っていた。
触れたら切れる。
見ただけで、わかる。
それくらい、鋭い。
かみさまは腕を振って、何度か、くるくる廻す。
しゃらん、しゃらんと音が鳴る。
鈴、がついているんだ。
「私はこうして生きている。今だって情けない話、酒でも呑まなきゃあ向き合えないの。空には色んなものが昇る。痛みを伴った、たましいだよ。昇った分だけ、空は傷む。だから、空は泣くんだ。ぼろぼろぼろぼろ、涙を零す。時々、その涙が真っ紅に視えることがある。そんな時、私はそれを悼むために、舞う」
たたた、たっ、たたた、た。
「舞は巫女の領分だがね、神様だって舞うことはあるよ。ただ、私がそれをする時には、争いしか顕さない。さあ、ご覧。私の首を取りたい輩は山と居た。その念、まさに空から舞い降りん」
かみさまが、鉄の輪を構える。
しんと静かな山の中、聴こえるのは。
落ちる雫が、葉っぱに打ち付ける音。
廻り始めた鉄の輪が鳴らす、鈴の音。
そしてひときわ通る、かみさまの声。
ぼう、と、細い雨に混じって、白い塊が渦を巻き始めるのが、見える。みえる。視える。
どうして。
これ、一体なんなの。
違う。知ってる。見たことある。
この塊。鋭い牙。鎌首をもたげるこれらは、身体を脅かすもの。
ぐるぐるかみさまの身体の周りを廻っていたそれらが、一斉に。
かみさまの小さな身体に、向かっていく。
ぱんっ、と、かみさまは両の手を合わせる。
『悼み、傷み、痛み入る!』
その声が、はじまりだった。
* * *
かみさまが、舞う。
溢れる水気の中、踊る。
落ちる雨、空が流すという涙、それを一身に受けながら。
『ひとつ!』
しゃん。
音と共に、首を切られる、塊ひとつ。
『その無念、我が請け負う! さあさあどうした、我はまだ声をあげる!』
しゃりん、しゃらん。
渦巻く塊が、ごぅと唸りをあげながら、私の方へと向かってくる。
わかりやすい。
こいつが何を思っているか、微塵もわからなくたって。
こうして向かってくるなら、わかりやすい。
ただ私は爪を立てればいい、
『ふたつ!』
しゃん。
眼の前で、また掻き消える、塊ひとつ。
『洩矢が首は此処に在り! 我を狙え、我をこそ狙え!』
塊は、霧のように弾けて消えた。
弾ける度に、闇がひかる。
きれい。
きれい、は、それ以上でも、それ以下でも無い、ただそれだけのもの。
知ってるよ、私、それを知ってる。
音と一緒に踊り続けるかみさまの身体から、ゆらゆらと何かが漂っているように見える。
ねえ、かみさま。
今、何を考えてるの。
そのゆらめきに、何か意味があるの。
知りたいと思う。からだがちりちりする。
眼の前でそのちりちりがかたちに成りはじめそうな気がするのに。
しゃらん、しゃらん。
宙を舞うようなのに、と、と、と、と、爪先を確かに地面をついて、かみさまは踊る。
かみさまを襲おうとする牙を、存分に屠りながら。
しゃりん、しゃらん。
みっつ、よっつ、いつつにむっつ、
かみさまは踊っている間、ずぅっと眼を瞑ったまま。くるくる廻りながら、鈴をしゃんしゃん鳴らしながら、其処にいた。
確かに見える。今の私には、見える。こころなんか、視えないはずでも。
かみさまの身体から、空へ何かが昇っていく。
『我が首級、価千にも万にも届こうぞ!』
透き通る声、
『恨め恨め屠られ恨め、昇れ昇れ切られて昇れ、しかして我らは、』
唄うような、
『ふたたび、合まみえん!』
ああ、
「ああ」
欲しい。やっぱり、欲しいよ。
こんなにもきれいで、しずかで、あついもの。
ちりちりが、はちきれそうになる。
だめだよ、かみさま。そんなの、見せられたら。
わたしもう、抑えられない。
ばぁっ、と。
かみさまの身体から、一筋のひかりが空へと昇っていった。
それと共に、かみさまの動きは止まる。
長いようで短い、舞の、おわり。
「はぁっ」
塊を全部が全部消し去って、かみさまは動きを止めた。
肩で息をしているかみさまの髪が頬に張り付いて、雫をたらしている。
「今日はおしまい。落ちてきた分のちょっとだけでも、還さないとね」
帽子をとって、はたはたと服についた水をはたきながら、かみさまは言う。
「ねえ、」
やっぱり、私と遊んで。今直ぐ。
「かみさま、わたし、よってるみたい」
あなたを、引っ掻かせて、欲しいの、その身体、ねえかみさま、あなたなら。
「だから言うわ」
じっ、とかみさまの眼を見つめる。かみさまも、私の眼を見つめている。硝子みたいにきれいって言われた眼を。ねえ、どう思う? かみさまは、私の眼、どう思う?
「わたしのものに、なって」
た、た、た。
零れる水滴の音が、一際大きく響く。
もう、かみさまの音しか聴こえない。
「こいし」
「なに?」
「お前は本当に、曖昧なんだなあ。お前のは、もう遊びじゃあ無いんだよ。さっきも言ったろう」
「どうして」
「無意識のうちにやるんだって? そうして、こころを引っ掻き潰すさま。そりゃあただ、自分を傷つけて欲しいこころの裏っかえしさ」
「……私、痛いのは厭だよ」
「傷つくのは、誰だって厭だろうさ。でもこいし、お前と私は、多分似てるんだね」
かみさまの吐く息が、白く濁っている。雨で、空気が冷やされているせいだ。
その吐息は、とてもあまい香り。
殺しちゃったらもう無くなっちゃうけど、それでもいい。
「私は悼むと言いながら、その実そのまま殺されることを願っているのかもしれない。あの日あの時、私は死ねば良かったんだと思うことがある」
「どうして。自分が死んだらおしまいだよ。永く生きて、愉しまなきゃ」
そうでないと、相手を殺す意味が無い。殺した後で、ひときわ気に入った身体は部屋に飾る。気に入らなかったものはどうでもいい。
「永く生きすぎてもね、どうなのかなあ。殺される前に、そもそも消えちゃってもいいくらいには思ってた筈なんだけど。私は今になって、此処にやってきて、自分が存在する意味を見出した。しかし駄目だね。かつて私と共に居た民や仲間のことを思うと。今でも、無性に傷を負いたくなる。もっと傷まなければならないと思う。でも、自分で自分を切った処でしょうがない。それは誰かにして貰わないといけない」
「……」
「こいし、お前はびいどろのように曖昧で、其処にあるかすらもわからないと言われるのか。それとも、言われもしないのか」
静かな雨が。
次第に強くなり始める。
「透明なびいどろは、割れては白い皹を走らせる。叩かれ砕かればらばらになったなら、確かな光を放つ欠片となるだろう。傷が欲しいか、こいし」
「きず」
傷を? ……よくわかんない。痛いのは厭だもの。
わかるのは、感触。足元に水気が帯び始めているのが、わかる。
さっきからぽつぽつと、帽子に水が落ちてきてる。
葉っぱの傘が、もう雨を受け止めきれなくなってるんだ。
「いいよ。その欠片、私が包んで抱いてやる」
「いいの? 遊んでくれるの?」
「遊びじゃないよ。戦は遊びじゃない。ただの殺し合いだ、だからただ存分にその爪を立てろ。私を引っ掻いてみせるが良い」
* * *
ふ、と。
かみさまの身体が、みえなくなった。
ざあざあ降りの雨音に隠れるかみさまの音に、耳をすます。
しゃん、しゃん、しゃん。
居る。構える。
どこから来てもいいよ。
ただ、私が立ち止まってちゃあ、駄目だ。
思う侭、走り出す。
た、た、た、と、爪先で地面を蹴る。
かみさまのこころは視えない。
でも、それはきっとやわらかい。気がする。
視えないけど、今までそうだったからきっとそうだそうに違いない。
どういう風に弾けるだろう。
どういう風に破けるだろう。
しゃらん。
「わ」
眼の前を、鉄の輪が通り過ぎた。掠めた帽子が吹っ飛んでいく。お気に入りなのにこれ。
留まるのはやっぱりうまくない。動け動けもっと速く。そうして、たん、と高く飛ぶ。
雨で服が濡れる。
けれどちっともつめたくない。
まあいいか、
「どうでもいいっ」
私がこれを呟けば。
存外に鋭いあきらめは、地面へと落ちていく。
地面から私を見上げる、かみさまの身体へまっさかさま。
私がかみさまに辿りつくのは、あきらめなんかよりもっと速い!
『たましいの、天へと昇るその声は』
びょう。
確かに奮った腕が、空を切る。
かみさまの身体は、気付けばもう別な処に。
「避けないでよっ」
さみしいじゃない。
もやもやとした「さみしい」が、辺りを覆っていくのが視える気がする。
『叫びか嘆きか』
かみさまの身体が、ぼんやりと幾つも重なっているよう。
ひとつひとつ、潰せばいい。
どれもこれも外れでも、残るひとつが本物だから!
『はたまた歓びなるものか』
しゃん。
「っつぅ」
切られる。右腕。
ちょっと服が破れただけ。大丈夫。
雨、
雨が、
雨音が、
たたた、た、たたた、た、
捉える。今度こそ。
空がぼろぼろ泣いてるせいだ。
私もなんだか、泣きたくなってくる。
ねえ、どうして。
どうして。
どうして、ねえ。
ざざ、ざざざ。
樹々を分け入り、私だって早く動いている。
その私の身体に、ぴったりとついてくるもの。
渦を巻き、牙を私に向けるもの。
さっきかみさまを取り巻いていた塊が、私に向かってくる。
「そんなに、」
大口開けるなんて、わかりやすいったら!
口に手を突っ込んで、思い切り腕をぶん回す。
ばしゃっ、と音が鳴るのが、やけに大きく響く。
「……ひとつっ」
まだ居る、まだまだまだ沢山居る!
空だ。もう一度空へ。
私が飛び立てば、こいつらも追ってくる。だんと地を蹴り、ばさばさ森の枝を折りながら。
そうすればほら、
「ほら、」
やっぱり。
思う侭にやる。邪魔、邪魔邪魔。わたしとかみさまの間に入らないでよ。
思い切り頭を掴んでやったら、塊が眼を開いた。
……眼を、
「ふたつ、」
みっつよっついつつにむっつ、ばしゃりばしゃり潰すたびに、手にぬるりとした感触がする、どうでもいいどうでもいいよ、あんたら私から、私たちから逃げていったじゃない! 何を今更!
地に、足をつけると。ぐちゃっと音が鳴った。
ふと足元を見たら、
「……あかい」
紅い。真っ紅。足が。手が。私が。こいつらの? 血?
違う。ばっと上を見れば。
白い糸のように思えた雨が。紅く染まっている。
『いざやいざやと、乾に昇るはたましいばかり』
どうして、がかたちになっていくのを、私は視る。
声だ、これは声だ。
私は、これを、
知らないよ。
知ってるよ。
どうでもいいよ。
よくないよ。
た、た、た、
早くかみさまをころそう。
早くかみさまにころされよう。
傷つくのは厭だよ。
傷つけるのは厭だよ。
た、た、た、
欠片を、拾ってくれるって。
ほんと?
もう、いいから。
もう、いいのかな。
ばらばらになろうよ。
……、
た、た、た、た、た、
『坤に残るは血とからだなり』
かみさまの唄を追え。涙に紛れる声を聴け。追いかけろ追いかけろ!
そうすれば、
『されば我』
其処にはただ、こころが在る、
だから、だから、
『此処に残りし、血と地を抱かん』
わたしだけを、
みて。
* * *
ちょうど。
ちょうど、胸の真ん中あたりだった。
私の爪。
かみさまの、鉄の輪。
どっちもどっち、ひたりとお互い当てられて、動けない。
「大したもんだ。そんなに力も無い癖に」
「かみさまを追っかけたからだよ」
でも。
でも、これじゃあ。
私が引っ掻くよりも、かみさまが私を砕く方が早い。
私たちはふたりして、ずぶ濡れだった。
でも、さっき見えた真っ紅なものが、すっかり消えてしまっている。
……私、ばらばらになっちゃうんだなあ。
とすん、と。
さっき空で呟いたあきらめが、私の身体にささってくる。
とすん、とすん。
いたいなあ。
これで、ばらばらになれれば、いいのに。
だらん、と手をぶら下げて。でも、かみさまの眼だけは、じっと見てた。
きれいだなあ。
なんでこんなに、きれいなんだろ。
でも、かみさまの眼は。
硝子なんかじゃあ、ないんだね。
……
「こいし」
「……なに?」
「その涙の意味を、いつかこの先、思い出せればそれでいい」
「へっ? ……」
なみだ?
わたしが。
わたしの。
頬に手をやる。
あつい。
雨じゃない。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、ほんとうに、涙だった。
「小石は小石のままで、いいんだよ。私は坤を創造する神。つまらないものでも、気付かれないようなものでも、私は確かにそれを抱いているんだから」
しゃん、と音を鳴らして、かみさまが鉄の輪を私の胸から離す。
「……私、普段地底に居るんだけど」
「うるっさい。地底だって地面がなきゃそう呼べないでしょうが。どら、ちょっと手を貸しなよこいし」
促されるままに、かみさまは私の手をとった。
私の涙よりも、触れた手があつい。
「傷むよ」
私の、てのひらに。
そっ、と鉄の輪をあてがって。
ぎっ、と音を立てながら。
かみさまは、その刃を、ゆっくりと、引いた。
「いっ」
てのひらに、線がはしる。
この線なにいろ、と思っていたら、もう真っ紅な血が、だらだらと零れ始めていた。
「それが傷み。お前の欠片。熱く紅く、血を地に零せ。こうして流れて吸い込まれた血は、決して消えない。何度新しく地を創り上げても、天からそれらは降ってくるのだから」
かみさまは。
血が流れ続ける私の右のてのひらを。
かみさまの右のてのひらに、重ねる。
「どうして、雨で血を洗い流せないか。それは、天から落ちてくる涙が、たまに血に似ているせい。たましいが昇りすぎると、そうなるの。それを私は見てきた。それを散々見続けてきて、結界を越えて尚、やっぱりそれがやむことは無い。私が、決して忘れないからだ。雨は、すきだよ。でも、血で血を洗い流すことは出来ないと、心の裡が叫ぶ」
合わせた手と手が、紅く染まっていく。
ひとしきりその熱さを感じたあと、かみさまは服の袖をびっと破いて、私の手にくるくる巻きつけた。薄紫色の布に、じわりと血が滲んでいく。
「お前のたましいが、今天に昇らなくても。覚えてるよ、きっと覚えてるよ。こいし、お前が此処に居ることを。ねえ、いい名前じゃない。小石は確かに、地に触れながら、確かに在るものだよ」
そう言って、かみさまはからからと笑った。
「ねえ、かみさま」
「んー?」
「私、ちょっと思ったの」
さっき、かみさまの心を追いかけていたとき。
「この眼、閉じなきゃ良かったなあって」
そうすれば、きっとかみさまの声が、もっと聴けたのに。
「そろそろ帰るね。お姉ちゃん、心配性だから」
「それがいい、気をつけておかえり」
私の涙は、もう止まっている。
「ああ、あと。さっきのかみさまの声、すごくきれいだった」
「そうかそうか、聴こえたか。なら、こいし」
「うん?」
「お前はあの時、その第三のまなことやらは、ちゃあんと開いていたよ」
「えっ、」
「またね。次はゆったりと、話でもしよう。晴れの日が良いね。酒でも呑みながら」
そう、言残して。
また、ふっ、と。
その姿が、見えなくなってしまった。
「……」
気付けば、もう雨もやんでいる。
強く降ったから、からっとやんだんだね。
かみさまの言ったとおりだったよ。
* * *
たん、たた、たたっ、たん。
地を蹴り走る。
音を少しだけ切り取ると、そういうリズムだった。
今日あったことを、話してみようと思った。
うまく纏まるかどうかは、わからないけど。
お姉ちゃん、お燐にお空、ペットたちも、家に居るかな。
ずぶ濡れだし、ちょっとぼろぼろだし、驚くかな。
ぐっ、と右手を握り締めると、痛む。
ちょっと傷が残ったよ。
直ぐ治ると思うから。
大丈夫。
そうだ。
お姉ちゃん、私の名前って。
どんな思いで、付けてもらったの。
あと、あと、もっと話さなきゃ。
いちばん話したいことは。
かみさまとの、お話。
『いざや、いざやと』
走りながら、唄う。
夜の獣が、ほう、ほう、と鳴いている。
さあ帰ろう。
私の家に。
たた、た、たっ、たた、た。
「さむさむ」
また、逢えるよね。
戦いも、激しさというよりも静けさを感じさせられました。
雨の擬音なども二人の会話と合わさってとても良かったです。
面白いお話でした。
あなたの作品大好きです。
いい話でした。
その後の地霊殿でのやり取りに想像が広がります。
なんだかこいしとフランは似たような雰囲気だな、と。
やはり諏訪子も神だと思える作品でした。
こいしは平仮名が似合いますね。
とても諏訪子らしい救い方をするなあ、と思いました。
無意識で避けてきたからこいしは痛みを知らなかったのかなぁ、と思いました。
それと、雨の音が非常に印象に残りました。