八雲紫はなんとなく、本当になんとなく人間の里を歩いていた。何がそうさせたかは知らないが、突然気が向いたと言えばそうなのだ。
里の表通りはいつも賑やかで、歩いているだけで楽しい気分にさせてくれる。しかし、紫は、別段そのような気分になることはなく、無表情に売り子の声を聞き流したり、無感動に茶店のお客を眺めていたりしていた。本屋の軒先に並んだ大量の同じ本が目に留まり、一冊手に取って中をぱらぱらと捲っていた。そのとき、後ろから「お嬢さん」というしゃがれた声がした。怪訝な面持ちで且つ面倒臭そうに後ろを振り返った。
そこには、背丈は紫より低く、短い白髪で、ごつごつした大きなこぶだらけの古老が立っていた。
紫が「何か?」と切り返すと、古老はにやつきながら言った。
「お嬢さんは大変聡明ですなぁ。儂の願いなどを叶えてはくれまいか」
「聡明な方でしたらこの里にも幾らでもいらっしゃる。わたくしなどでは到底力が及びませんわ。そう例えば……寺子屋の――」
「白澤ですかな?」
紫は眉をぴくりと動かした。
「ええ。それに、稗田家の――」
「阿礼乙女ですか?」
「ええ、よくご存知ですわね。あともう一人挙げるとするなら……」
「ほう、どなたですかな」
「あなたですよ」
「儂がですか? こりゃ驚いた」
古老は声にならない笑い方でかっかっかっと笑った。
「とぼけても無駄ですよ。あなたはここ最近の里で起きている異変に関係している…………いや、犯人と言った方が早いかもしれませんわね」
古老の顔からふっと笑みが消えた。
「どこでそれをお知りになったのかな?」
「いえ、今わたくしはここで本を読んでおりましたの。改訂版の『荘子』をです。そしたら不思議なことに削除されているのですよ。〝あなた〟の件が」
「かっかっかっ。お嬢さんの記憶力には到底敵いませんな」
「そしてあなたの願いとは、この荘子を普及させることですわね?」
「いや、全くそのとおり。かっかっかっ、こりゃ愉快愉快」
一息の間を置いてから、
「まぁ、それはあくまで二次的なものじゃがのう」
と言って、古老は笑いながら紫の許を去っていった。
紫は博麗神社に神出した。すると博麗霊夢と射命丸文が話し込んでいた。尤も、話し込んでいたのは文だけだったが。
「だから、ここに関連性があると思うんですよ」
「ふぅん」
「楽しそうね」
二人とも突然現れた紫に驚く様子もなく、文は律儀に挨拶をし、霊夢は依然としてお茶をすすっていた。
「楽しいのは鴉だけよ。わたしは退屈してたとこ」
「えー、酷いじゃないですか。今までわたしが一所懸命にお伝えしていたことは退屈だったんですかぁ」
「とてもね」
きっぱりと言う霊夢に文はしばらくの間しゅんとしていたが、突然顔を上げて紫に詰め寄った。
「わたしの推論聞いてくださいますか?」
「退屈でしょうけど、暇つぶしくらいにはなるかもしれないわね」
「では」
嫌みを言われているのは気にならないらしく、話を聞いてもらえば満足らしい。ごほんと咳払いを一つして手帳をポケットから取り出した。
「ここ一ヶ月の間、人間の里に不穏な空気が流れているんです。どういうわけだか人間たちが働かないんですよ」
紫は湯飲みにお茶を注ぎ始めた。
「当然なんですけど全員というわけではないんです。一部の人間なんですけど、その人間たちに共通点は今のところありません。性別も職種も年齢層もまちまちで、どういう人間たちが働かないかと訊かれたら答えられないというのが現状です。しかもその広がりが並々ならぬ速さで進行しているので、統計などを取ろうと思っても追い付かないんです」
文は既に手帳を見ずに喋り続けている。どうやらあちこちで喋りまわっているうちに憶えてしまったらしい。
「そして、ここからが一番肝心だと思うんですよ。その働かなくなった人たちは口を揃えて――」
「其の脰(くび)肩々たり」
「えっ?」
突然紫に割り込まれて文は意表を突かれた。
「五体満足の人を見ると、その首が細く見えると言うんでしょ?」
「な、なんで知ってるんですか!?」
「いいから続けて」
「は、はい……」
怪訝な顔付きで話を再開した。
「えっと、取り敢えずこの件に関してはそれで終わりなんですが、ここからがわたしの推論です。最近書店で或る本が急に売れ出しているんですよ」
「荘子ね」
「なんで言いたいところばっかり持っていくんですかぁ」
文は半べそである。
「いいから続けて」
「だから……ここに……関連性が――」
「あると思ったわけね。その推論は正しいとわたしも思うわ。働かなくなった人間たちの持ち物を調べたらきっと出てくるわ。しかも改訂版の荘子がね。今直ぐ調べる価値はあると思うわ」
「うわぁぁぁぁぁん」
射命丸は泣きながら飛んでいった。調査に行ったのか居た堪れなくなったのかは定かではないが、紫と霊夢は微塵も哀れだとは思っていなかった。
「話が見えないわよ。説明しなさい」
霊夢はお茶をすするのを止めてようやく喋った。
「あなたも少しはあの鴉のように大童になったらどう?」
そう言って紫は鬼没した。
霊夢は人間の里へ下りた。
紫に言われて気にして見てみたが、里の風景で特に変わった様子はなかった。いつもの如き賑わいが里全体に充満していた。強いて変わったところを挙げるなら、定休日でもないのに目当てのお茶屋が休みだったことである。霊夢はしばらく立ち尽くし、斜向かいのお茶屋に足を運ぶことにした。
斜向かいといっても、売っているものは全く違っていた。行きつけの店は主に日本茶なのに対し、足を運んだ店は主に中国茶を扱っていた。
「こんにちは」
「はい、いらっしゃい。何を差し上げます?」
粋な店主だった。しかしそれとは裏腹に、店内は落ち着いた様相だった。棚に陳列された茶を眺めながら、どれにしようかと考えていた。
「じゃあ、水仙にしようかしら」
「へぇ、お客さんお若いのに通だね」
「別に好きなもの飲むだけなんだから、つうもすりーもないわ」
店主はこりゃ参ったと笑っている。
「あの斜向かいのお茶屋ってなんで今日が休みなのか分かる?」
何の前置きもなく且つ無機質に霊夢は訊ねた。
「ああ……あれかい?」
気のない返事だった。そして少しためらいながら話を切り出した。
「実を言うと、あの店の店主は俺の兄貴なんだよ」
霊夢は別段驚きもせずに、依然として棚のお茶を見ている。
「兄貴が突然店を休むようになったのはちょうど一ヶ月前からなんだ」
「そうね、確かに一ヶ月前お茶を買いに来たときは開いていたわ」
「三日間くらい休んだあたりでおかしいなと思って様子を見に行ったんだ。そしたら兄貴、俺は働くよりムカユウノキョウに生きるんだとか言ってたんだ」
「ふぅん」
「気でも違ったんじゃないかって凄く心配で……。でも、何をしてやればいいのか分かんねぇし。そ、そこで、ものは相談なんだが、あんた見たところ巫女さんだろ? 兄貴を元に戻してくれないか? いや、戻して……下さい」
霊夢は今日ここへ来て最も不機嫌な表情を店主に向けた。
「犬も歩けば……ね……」
「も、もちろん、タダとは言わねぇ」
「そういう問題じゃないのよね。いや、確かにお金には困ってるんだけど……」
紫は大童になれと言っていた。それに深い意味はないであろう。しかし、動かなければそれはそれで心に澱が残る気がした。
「やっぱり引き受けるわ」
店主はきょとんとしていたが、直ぐに我に返り感激を幾度となく言葉に換えていた。魔が差すというのはいつだって唐突である。無論、霊夢が言ってから後悔したことは言うまでもない。
「じゃ、じゃあ早速兄貴の店に行こう」
「尚早ね。もう少しお兄さんについて教えてくれないと……」
「そ、そうだな。じゃ、じゃあ上がってくれよ」
そう言って霊夢を店の奥の座敷に上げた。
「何よこれ……」
それが座敷に上がった霊夢の第一声だった。
「どうしたんだい?」
「まぁ信仰っていうのは人それぞれだって言われてはいるんだけどね……。なんで神棚の前に閼伽棚があるわけ?」
「なんだいそのアカダナってのは?」
霊夢はしばらく開いた口が塞がらなかった。しかし、浮世とはこういうものだという巫女的ナイスジョークを思い付いてそれを自分に言い聞かせて、渋面ながらに話し始めた。
「閼伽棚っていうのは仏に供える花や水を置く為の棚のこと。まぁ……知らなくても困るってことはなさそうね」
「へぇ、さすが巫女さんだ。ところで巫女さんってのは神に仕えてるのか? 仏に仕えてるのか?」
「次に口を開くときがあんたの最期だと思いなさい」
店主は口を固く結んでから頷いた。
「巫女は神社にいる者よ。だから神に仕えている。それから、これからわたしがする質問に答えるときだけは口を開いていいわ」
このような和洋折衷ならぬ神仏折衷が、少なからずこの里にあるということを今ここで知った。里の人々は何かに縋ろうとしている。朦朧とした、目に見えない何かに。しかし、見えない故にそれは曖昧となり、結果的に形だけが残った。そんな風潮に霊夢は恐怖していた。自分自身の存在は、正真正銘の幻想なのではないかと。
そんなことを考えているうちに、要領を得ない説明が終わった。仕方がないので、オブラートに包んでそれを諭してやることにした。
「あんたも要領を得ないわね。一言でまとめると『荘子』を読んでからおかしくなったんでしょ?」
「そ、そうなんだよ。その通り」
長々と説明を受け、霊夢はようやく重い腰を上げることにした。
「あんたのお兄さんが洗脳されたのはよく分かるわ……。さぁお兄さんのお店に行くわよ」
紫は或る民家の前に佇んでいた。
竹林に囲まれた里の外れ、見当たる民家はここ一軒しかなく、主は隠棲中らしい。井戸と畑がある他は、この家に続く一本道しかない。
しばらくすると貧相な男が向こうからやってきた。一冊の本を両手で大切そうに抱えながら歩いてくる。そして紫の前で立ち止まると珍しいものを見るような顔つきで言った。
「おや、あんたは不思議な人だ。いや、不思議じゃねぇ、これは自然だ。だけど、あんたは一見普通の人だが首が細く見えん」
「ふふ。それはそうですわ。そうねぇ、わたくしは夜を生きる者……とでもしておきましょうか」
「よ、よる……」
一歩退いて、その顔には焦躁の色を浮かべている。
「餌食にはしないわ。それより一つ忠告があるの。聞いてくれるかしら?」
男は全力で幾度も首を縦に振った。
「万物斉一の理を以て時を刻む愚かな者よ、斯く云う所以は吾等に喰われんとする顕れか。然もなくば自身の下へ帰るべしって里中で言いふらしてくれる?」
無言で何度も首を縦に振っているところを見ると、どうやら了解したようで、逃げるように一目散と消えていった。紫は一息つく。
間もなく背後に気配を感じた。あの古老である。
「何か御用かしら?」
わざとらしく振り返りながら訊ねた。
「余計なことをしよって……」
その顔に笑みはなかった。
「あら、当然の措置ですわ」
「貴様は何も解っとらん。いずれ外の世界は月のようになる」
「目覚しい発展を遂げる……ということかしら」
「戯言を。何の冗談じゃ」
古老は紫を睨みつけながらゆっくり話し始めた。
「現代の外の世界の状態を知っておろう。国は乱れ、政治は汚れ、民草は疲れておる。こんな状態が長く続けば天下が荒むのは目に見えておる」
「何を根拠に」
紫は嘲笑った。
「国々はそれぞれに争う。誰の為じゃ? 剰え、政ごち成す輩は既に汚れ切り、私腹を肥やすことしか考えておらん。でなければ民の租税はどこに消えるんじゃ? 挙句の果て、家を失う民が続発し、未だ解決の糸口が見つかっておらん。これで世が荒廃しない方がおかしいわ」
「大局的過ぎませぬか?」
「だから貴様は何も解っとらんと言ったんじゃ」
「ふふ。しかしですね、ご老体。あなたが現実と幻想の境界を消そうとしていることくらい解っていましてよ」
「ふん、そこまで解っていて何故そのような戯れを……。まぁよいわ。所詮、人間の考えた世の仕組みなど浅はかなもの。全て形よ。それゆえ徳を伴うことはない。人は徳を忘れた。それは形と徳が隔ち、分かれたその時から狂い始めた。だから儂は、まだ儂が生まれるずっと前の、まだ形と徳が一つであった頃のような、泰平の世に戻したいだけなんじゃ。その為に、徳で出来上がっているこの幻想郷を、儂の手で消す。外の世界の存亡を懸けてな。それを貴様は……」
握った拳をふるふると震わせていた。そんな古老を紫は蔑んだ目で見つめていた。
「愚かね」
「何が愚かだというのじゃ」
「竹林に住む宇宙人医師が『胡蝶夢丸』という薬を発明したそうですよ。それを服用すると――」
「夢に胡蝶と為る……そういうわけじゃな」
「ふふ、正解ですわ。その昔、胡蝶夢を見た人は、それが夢か現か、更にはそれが自分自身であるのかすら判らなくなったそうですね。羽ばたいている己は果たして自分なのか蝶なのか、自身の夢なのか蝶の夢なのか」
「何が言いたい……」
「あら、既にお察しかと思っていましたわ。簡単に申し上げますと、吾々『あやしきもの』が喰うということですよ」
古老は何も答えなかった。
「人間と妖怪の区別もない。人間と食べ物の区別もない。現実と幻想の区別もない。でしたら、お腹いっぱい食べることが理想でありませんこと?」
「以前は皆、均衡の上で共に生きていた……。もうよい、貴様とは相容れぬ。もう儂は行く」
そう言うと、軽い足取りで一本道を歩いていった。その背中にはとても大きく重いものが背負われているように、紫には見えた。
斜向かいのお茶屋に向かった。
表の入り口は閉まっていたので、裏の戸口から入ることにした。
「兄貴、居るかい? 入るよ」
どうぞという返事があって、霊夢と弟の店主は家の中に上がった。
「これは巫女様、お初お目にかかります」
兄の店主の方は霊夢を見て特別驚きもせず、平然としていた。寧ろ礼儀正しい挨拶に霊夢が驚いたくらいだった。しかし、どこか空虚を僅かに感じた気がした。一方の霊夢はというと、あちこち見回して落ち着かない様子だった。
「今日こそ、兄貴に正気に戻ってもらおうと思ってな。巫女さんを連れてきたんだ」
「……。俺は正気だと言っているだろ? 何度も言わせないでくれ」
「ちょっといいかしら?」
突然の霊夢の介入に、二人はしかめっ面を鋭く向けた。
「あんたわたしの首が細く見えるの?」
弟は怪訝な顔をしているが、兄はその通りだと言って頷いた。
「巫女さん、あなただけじゃない。俺の弟もそうです。それと、俺の名前は――」
「名前なんてどうでもいいわ。それより、これは本当だったのね。ちょっと疑ってたんだけど……」
「兄貴も巫女さんも何言ってんだ? 首が細いってどういうことなんだよ?」
「眼鏡を掛けてれば賢そうに見えるってことよ。それにしても案の定、この家にも神棚と閼伽棚のセットがあるのね……」
霊夢が指を差した方を兄が見た。
「あれですか? あれは代々うちの家系で取ってる形です。まぁ、家系と言っても立派なものじゃありませんが……」
「鰯の頭もっていうしね。もう何も言わないわ」
「で、巫女さん。兄貴をどうやって元に戻すんだ?」
霊夢は静かに耳を塞いだ。人間は目を閉じれば見えなくなるのに、耳は完全には閉じられないところに不満を感じながら黙っていた。
すると、裏の戸口が勢いよく開いた音が家中に響き渡った。
「誰か! 居るかい!」
戸口を開けた男は、貧相な顔で大事そうに一冊の本を抱えていた。そして息も切れ切れに中へ上がってきた。勝手に上がってきたところを見ると、どうやらここの人間の友人らしい。
「どうした?」
弟が代わりに応えていた。
「た、大変だ……。く、喰われる……」
「何言ってやがる。分かるように順々に話せ」
駆け込んできた男は、深呼吸をして呼吸を整えた。
「えっとな、あっし、先生の家へ行ったんだよ。そしたら先生の家の前に変な女が立ってたんだ。その女、首が細く見えないから不思議に思ったら、なんと妖怪だったんだ。そんで、バンブツセイイツノコトワリは俺らを喰うから、自分のところへ帰れって言ったんだ。しかもそれを里で広めてくれって頼まれたんだ。だから今こうしてここに来たってわけだ」
「その先生って誰なの?」
「俺たちに荘子っていう立派な本を薦めてくれた方だよ。名前は訊いても教えてくれねぇんだ」
家の前に立っていた妖怪とは恐らく紫であろうと霊夢は思った。今回の件について彼女が首を突っ込んでいたことは神社のやり取りで間違いなかった。しかも話の流れからすると、今回の異変を解決しようという前向きな態度も見て取れる。大きな異変であるとは感じていなかった霊夢も、さすがに身の毛がよだった。
「その荘子って本見せてくれる?」
貧相な顔の男は霊夢に荘子の本を渡した。
「何この表紙の『改訂版』って?」
「さぁ、俺たちも知らねぇんだよ」
「そういえば紫もそんなようなこと言ってたわね」
「誰だって?」
「いや、独り言。それよりちょっと用事思い出したから今日はこの辺で失礼するわ」
「おいおい、まだ何もしてねぇじゃねぇか」
「あ、あっしの荘子……」
どっちも後でと言い残して、お茶屋を後にした。
「霖之助さん、荘子ある?」
「だからいつも言っているだろ? 勝手に――」
「今は勝手に上がっても許される状況なの!」
道なき道を突き進んできた霊夢は、香霖堂の店主である森近霖之助の背後に立っていた。
「まったく……。で、ソウシってあの中国の老荘思想の荘子のことかい?」
「知らないわ。とにかく改訂版じゃない荘子があったら出して」
「君が読むのか?」
「いいえ、勿論霖之助さんよ」
溜息を一つ吐いて、店の奥の本棚を漁りに行った。
「で、ストーリーテリングでもしろってのかい?」
奥から戻ってきた霖之助の言葉はどこ吹く風。霊夢は自分で持ってきた荘子を取り出して、霖之助に渡した。
「これは……。ふむ、確かに荘子だね。しかもでかでかと改訂版としてある。なるほど、差詰めどこが改訂されたのか図々しくも僕に探させようって寸法か」
「今すぐにね」
無理難題を押し付けて、霊夢は戸棚に行き急須を取り出した。
「今すぐって言うのはいくらなんでも無理だよ。それにね、普通はどこを改訂したのかということが書いてあるものさ。だけどこれにはそれが無い。どうにも怪しい本だ。どこで手に入れたんだい?」
「書店に沢山並んでたわ」
霊夢は出任せを言ったつもりだった。しかし、里には現に沢山の荘子が陳列されていることを本人は知らない。
「しかし、今見ている限りでは改訂されたところは見つからないなぁ」
霖之助の前にお茶が置かれた。
「でも改訂版って書いてあるんだからどこかにあるでしょ?」
「君は見ているだけなんだから静かにしていてくれ」
霊夢は頬を膨らませて、店先に行った。いつもの如く誰も来ない。棚に陳列された商品という名のコレクションを眺めていた。実に脈絡がない。外の世界にこういうデータがある。缶ビールと紙おむつを隣りあわせで一緒に置いておくと、ばらばらに置いたときよりも売れ行きが伸びるというものだ。しかし、どうやらこの店には当てはまらないようで、そもそも客が来ないのである。
しばらく霖之助は荘子と格闘していたが、ようやく改訂されたところを発見したらしく、霊夢を呼びつけた。
「やっと見つけたよ、ほらこれ。内篇の第五部の徳充符篇の五つ目の話だ」
「どう変わってるの?」
「それがね、五つ目の話が丸っ切り消されているんだよ」
「何を意味しているのかしら……」
霖之助は解らないと言って、改訂前の荘子をそのページに開いた。
「どういう話が載っていたかっていうと」
――昔、足がひん曲がったせむしの三つ口の男が衛の国の霊公という君主に人の道を説いた。霊公はそれを大層気に入った。しかしその話を聞いた後、五体満足の人を見ると、その首が細く弱々しく見えると言った。また、ごつごつした大きなこぶだらけの男は斉の国の桓公という君主に人の道を説いた。桓公も大層気に入った。しかしその話を聞いた後、やはり五体満足の人を見ると、その首が細く弱々しく見えると言った。
世間の人は外見ばかり気にして、内に潜んでいる徳を忘れてしまっている。賢者は外見や内徳などの何ものにも囚われない。自然に与えられたそのままを受け入れる。だからこそ人の手を加えること、自分の意見や考えを加えることをしない。
「まぁ、こんな感じの話さ」
「首が……細く、弱々しい……ね」
「そこがどうかしたのかい?」
「ありがと、霖之助さんもたまには役に立つのね」
そう言い放って、お茶に口もつけずに香霖堂を後にした。
「ああ、僕の荘子を……」
外はすっかり日が落ちて、月が皓々と輝いていた。霊夢はもと来た道を博麗神社に向かって歩いていた。夜の森は昼間の鬱蒼としている景色が闇へと変わる。それでも負けずに木立の狭間から覗く月光は、霊夢の希望を嘲笑うかのようで少しだけ気分が悪くなった。
翌朝、目を覚ますと紫が卓袱台に頬杖をついて座っていた。
「やっと、起きたわね。早く人間の里に行く支度をなさい」
霊夢は無視して、顔を洗いに手洗い場まで行った。わざと時間を掛けて洗ってみたのだが、精々五分が限界だった。
床に戻ってみると、果たして先ほどと変わらない姿勢で紫が座っていた。霊夢はそのまま通り過ぎ、勝手に行った。
「何しに行くわけ?」
勝手の方から無気力な声が聞こえてきた。
「お茶は熱いままでお願いね」
思っていた回答と違った。
勝手からお茶を持って戻ってきても、紫は同じ姿勢だった。頬を乗せる手が右手から左手に変わっていてもよさそうなものだが、それすら窺えない。無言でお茶を前に差し出す。紫も無言で手を伸ばす。一口飲んで「温度が少し低いわね」などと言っていた。
「あれからいろいろ調べたようね」
霊夢は癪だったので黙ってお茶をすすった。
「人間が事を起こすのに必要なこと、それは逼迫した状況。差詰め今のあなたは見えない焦燥に駆られているんじゃない?」
「勝手なこと言ってくれるわね」
「勝手かどうかは自分の胸に訊きなさい」
「そんなことより、さっさと言いなさいよ。暇つぶしにここへ来たわけじゃないんでしょ?」
そう言って紫の持っている錫杖を一瞥した。紫がこのような小道具を持っていることはすこぶる珍しかった。平生、妖怪は自身の力で物事を解決する。況してや紫クラスの妖怪ともなれば、錫杖一本持たせただけで、萃香に金棒並みの強さを増す気がする。あくまで気がするだけではあるが。
「あら、わざわざ言わせるの? 異変の抜本的解決へ乗り出そうってこの錫杖は言っているのよ」
「そんなこと訊かなくてもやらされることくらい判ってるわ。その解決方法を訊いてやろうって言ってるの」
紫はにやりと笑みを浮かべた。
「仙人に会ったことはあるかしら?」
霊夢は怪訝な顔を作った。
「仙人っていうのは超人的な人間のことよ。ただちょっと変わり者でね。普通に掛け合っただけじゃ雲を掴むような果てしなさを覚えるくらいだわ。ま、霞を食べて生きてるのもいるからしょうがないんだけど。それから、得意としているのは妖術で、妖怪すらも撃退できるほどの腕前を持っているのが殆どね。だから霊夢、あなたも引っ掛かることは目に見えているわ」
余計なお世話だという目線を中空に漂わせる。
「この異変の犯人は境界を操るわ。と言っても妖術だから思い込ませるだけなんだけど。だから実際は術を解除すれば怖いことはない。そこで一計。術を外す決め手は己の確立よ」
「……おのれ?」
「そう、自分を持つことによって、自分という堅固な境界を作り出す。それが相手の弱点よ。まぁ、それがあなたにできればの話だけど」
紫はくすくす笑っている。
「アイデンティティとは少し違うわ。それは相対的な自己だから。そうではなくて、他の何者でもないこのものとしての自己。そしてそれは他人と置き換えることができず、もしかしたらこの世界と同化しているかもしれないし、隔離されているかもしれない。この世はあなた中心で回っていると言っても過言ではないわ」
霊夢はしばらく黙っていたが、唐突に、さも当然のように「当たり前じゃない」などと言った。話は煮詰まり、里に行くことになった。
珍しく霊夢は躍起になっていた。一抹の不安を抱えてはいたものの、今だけは瑣末なことに感じた。
里に下りた霊夢は驚いた。
活気というものがまるでない。足取りが重く、顔に生気が感じられない者が大多数を占めていた。道行く者はただ歩き、建物はただ立っているだけで入り口は閉ざされていた。ただ、すれ違った人は欠かさず礼儀正しく挨拶をしてくれた。その挨拶の無味なこと。礼儀正しく交わされる挨拶がこれほどまでに空虚なのかと始めて思った。
「思った通りだわ。ふふ、でも面白いわね」
「面白くないわよ。何よこの体たらく……」
「これが徳を求めた結果よ。笑止千万ね。徳が一朝一夕で身に付くと本気で思っているのかしら」
紫は非常に楽しそうだった。
「それより早く犯人を捜しましょ」
「犯人を捜す必要はないわ。開いている店でも捜しましょ」
霊夢は疑問符を浮かべながら、すたすたと歩いていってしまう紫に着いていった。
最初に見つけた店は、店の種類で言うなら風俗店だった。所謂、賭博場である。これは少々居心地が悪いということで次の店を当たった。
三町ほど行った頃に茶屋を見つけたので、店先の長椅子に座ることにした。この辺りまで来るとどの店も大抵開いている。さきほどの光景はやはり異常だった。店の者が出てきて注文を取っていると怪訝な顔をされた。霊夢は別段気にするわけでもなく注文を言い終えると、店の者が質問をしてきた。
「瓦版に出ていた本日この町に来る方というのはあなた方ですか?」
単刀直入な質問だったので答えに詰まった。
「何の話?」
「あ、すみません。人違いでした。あのですね、今日この町の大通りで公演があるそうなんです。見慣れない方たちでしたのでつい……」
霊夢は冷ややかにあしらって注文を促した。店の者が中へ入っていくのと同時に紫の方を見ると、こちらを向いて気味の悪い笑みを浮かべている。何か言いたげであるが、無視して先に話を切り出した。
「公演を開くってのは――」
「九分九厘と一厘の確立であなたが今想像している者で正解よ」
「つまり、わたしたちから出向かないといけないわけ?」
「それには及ばんよ」
突然背後から声が聞こえたので、思わず振り向いてしまった。見ると、奇妙な老人が立っている。大きなこぶがそこかしこにあり、しわがれた笑い声で笑っている。
「儂をお捜しかな?」
「ええ、とてもね」
「して、何用かな?」
「里の人間を元に戻してほしいんだけど」
「元に? これはまたお戯れを……」
こぶだらけの老人は首をかしげている。
「人間は元来斯くあるべきもの。それを元にというのは……。ははぁ、巫女様は世俗に毒されておられるのですな。如何に巫覡の血を引くものであっても、因襲の跳梁跋扈には到底かなわぬということじゃな」
「あらあら、はっきり言うわね」
しばしの無言の中で、老人は霊夢を見つめた。
「ふむ。お主不安を感じておるな?」
背筋が凍るような気がした。後ろめたいことがあるわけではないのに、何かを隠そうとしている霊夢の心を見透かすかのようなタイミングだった。
「もしや……己の存在に疑問を抱いておるのではないかな?」
霊夢は応えなかった。
「そのような疑問や不安を抱えることほどつまらないことはない。何故人間はこの世を複雑に考えたのか。先ず人間は両儀に大別した。それでは足りなくなり四象を生み出した。そして次々と八卦、六十四卦とそれは際限なく生み出され、世界を複雑にしていった。複雑の大海に生まれ、複雑の大海に去ぬ。それは夏に生まれ夏に去ぬ蜩の如し。大海を捨て、大空に翔け出だしたる者のみが至ることのできる桃源郷。それが元の世」
「ど、どうしたらその海から抜け出せるの?」
霊夢は自分で言って驚いた。老人の喋っている意味は全く解らなかったにもかかわらず、自分の中から出てきた言葉に違いなかった。老人の言葉は既に形であって、意思の伝達を阻害するということはなかった。言葉という未発達な道具を直に世界に埋め込み、世界から直接霊夢に語りかけたのだった。
「容易いことではないぞ。先ず儂の元へ通え。そして努め励めよ。さすれば一条の光が見えよう」
そこで耳慣れぬ甲高い金属の音が聞こえた気がした。振り返ろうと思っても、わざわざ振り返るほどでもないなと思った。
「荘子を持て。そして立ち上がれ」
自然と足が老人の方へ一歩進んだ。
するとまた聞こえた気がした。それはやたらと耳に残り、向いた足を抑止するようだった。
「躊躇うことなどない。無何有の郷へ遊ぼう」
不快な音が再び内に響いた。無性に胸が苦しくなった。煩わしい。
「わたしは……」
「さぁ、こっちへ来るんじゃ」
一際大きな、そして鋭い音が判然と聞こえた。その音に叩きつけられたような衝動を覚えた霊夢は、ふっと我に返ったような気がした。
「わたしは――」
老人は毅然とした態度だったのが急速に冷めていった。そして、そっと口を噤んだ。
「そうよ、そうよね。わたしは博麗の巫女、博麗霊夢。他の何者でもないわ」
老人はかっかっかと笑い出した。その時、老人の顔や体に見る見るうちに皺が増えていき、顔は窶れ、手足は細くなっていった。そして、ばたりと倒れ込み、体のあちこちが灰と化していった。人の形はなく、しわがれた声の残響と、僅かに積もった灰だけがそこに残った。
霊夢は余りに突然のことで、声を出すことも動くこともできなかった。再び我を忘れてしばらくの間立ち尽くしていた。
佇む霊夢に紫はそっと近寄った。
「それにしても満足げだったわね。彼は幸せだったと思う?」
「し、知らないわよ。そんなことより何で灰になっちゃったわけ?」
「仙人はね、修行を怠ると己を維持している力が一気に崩壊するの。ま、差詰め有終に努めた結果、修行を説法に変えたのね。それであなたという外れ籤を引き当てたというわけ。説法がうまく相手に伝われば、修行の成果が得られるわ。しかし、うまく伝わらなかったら修行の成果はない。そうなれば修行不足に相違ないわ」
「じゃあ何で外れ籤であるわたしなんかのところに来たの?」
「これは偶然ではなく必然よ。彼は人間の里を片っ端から説法していったわ。だから人間が彼に毒される範囲は徐々に拡がっていく。だからここで座っていればいずれ来たというわけ」
霊夢は納得のいかない様子だった。
「じゃ、じゃあ――」
「もう沢山。早々に頭の中を整理しなさい。あなたにはまだ行かなければならないところが残っているでしょ?」
仙人のことで頭がいっぱいだった霊夢は、変わらず立ち尽くしていた。
◇
霊夢は茶屋に来た。店に入ると店主が出てきて軽く挨拶をした。後日談を聞かせてもらうと、兄はすっかり元に戻ったのだそうだ。店の奥に上がるよう勧められたので座敷に移った。そのとき目に入ってきたのは普通の神前の姿だった。
「神前の形を変えたのね」
店主はそうなんだよと威勢はよかったが、結局俺は神と仏のどっちを信じればいいんだと霊夢は問われて逼迫した。差し当たり事代主大神を信じておけと言っておいた。それから報酬として帰りに茶屋から水仙を半年分ほど頂戴して罷り出てきた。霊夢が後悔したのは言うまでもない。
◇
神社に戻ると紫がお茶を飲んでいた。
「あら、がっつり戴いてきたのね」
「やな言い草ね」
「本当のところ悔やんでいるのでしょ?」
「何を?」
紫はこれと言いながら親指と人指し指で輪を作っている。霊夢も腰を下ろしてお茶を湯飲みに注いだ。
「そんなことより、何で今回はあんたが腕白に動いてるわけ?」
「不満かしら?」
「問いを問いではぐらかさないで、ちゃんと答えなさいよ」
紫はしばらく黙っていた。それからゆっくり口を開いた。
「幻想郷は生きているの。生き物なのよ」
霊夢は怪訝な顔つきで「意味が解らない」と訴えた。
「生物にはね、免疫というものがあるのよ。体に異常があるとすぐに駆けつけてくれるいい子たちよ。でも、時に勘違いをしたり、過剰に働いたりするの。すると効果は逆で、体にはよくないわね」
「回りくどい言い方ね。それで、今回のあれは勘違いや過剰反応だって言いたいの?」
「あら、そんなこと一言も口にしていないわ」
霊夢は再び疑問符を頭に浮かべた。
「なぜ彼が免疫だと思うのかしら?」
紫のこの問いに回答はなかった。
二人はしばらく空を見上げていた。空に浮かぶ雲、これは水滴の塊であって、形は定まっていないし定まらない。それでも皆同じように日を隠し、雨を降らし、雷を見せる。細かな雲の種類は瑣末な問題で、皆一概にそれを雲と呼ぶ。白いふわふわだから雲なのか。雲だから白くふわふわしているのか。これも瑣末な問題で、結局のところ「雲」に落ち着いて、かつ「ふわふわ」しているのだ。
「わたしって結局何者なのかしら……」
霊夢は呟いた。
「あら、哲学的ね」
「だって……」
それからまた一息間があった。
「人は巫女を忘れたわ。いや、巫女だけじゃない。神をも忘れた。残っているのは形骸だけ。それも外の世界だけじゃない。私が今ここにいる幻想郷ですらそう……。私は最早幻想ですらない……ってことなのかなって……」
黄昏の緋が霊夢の顔に映えていて、苦笑が一層憂いを増した。
「何を勘違いしているの?」
紫に顔を向けると、いつになく小ざっぱりとした微笑みだった。
「あなたは今『どこ』にいるのかしら?」
「どこに……」
紫は珍しく澄ました顔で中空に視線をやっている。
「ふふ、あなたがここまで考えてくれるなんて想定外だわ」
「はぐらかさないで」
「ふふ、確かにこれは真摯に応えるべきね。あなたはここに在る巫女だわ。そしてこことは、外の世界とを分け隔つ結界を司る神社。だったらここは外の世界でも幻想郷でもないんじゃないの?」
「…………」
「本来巫覡は神と人とを繋ぐ鎹だった。それを彼は危惧したのね。あなたが余りに堕落していたのを見て、さぞ失望したでしょうよ。ふふ、あなたが限りなく人に近づいていることを自覚して、己の存在意義を認識しているなら、彼も成仏するんじゃないかしら?」
「じゃ、当分成仏できないわね」
「本当にあなたには形と徳というものがないのね」
里の表通りはいつも賑やかで、歩いているだけで楽しい気分にさせてくれる。しかし、紫は、別段そのような気分になることはなく、無表情に売り子の声を聞き流したり、無感動に茶店のお客を眺めていたりしていた。本屋の軒先に並んだ大量の同じ本が目に留まり、一冊手に取って中をぱらぱらと捲っていた。そのとき、後ろから「お嬢さん」というしゃがれた声がした。怪訝な面持ちで且つ面倒臭そうに後ろを振り返った。
そこには、背丈は紫より低く、短い白髪で、ごつごつした大きなこぶだらけの古老が立っていた。
紫が「何か?」と切り返すと、古老はにやつきながら言った。
「お嬢さんは大変聡明ですなぁ。儂の願いなどを叶えてはくれまいか」
「聡明な方でしたらこの里にも幾らでもいらっしゃる。わたくしなどでは到底力が及びませんわ。そう例えば……寺子屋の――」
「白澤ですかな?」
紫は眉をぴくりと動かした。
「ええ。それに、稗田家の――」
「阿礼乙女ですか?」
「ええ、よくご存知ですわね。あともう一人挙げるとするなら……」
「ほう、どなたですかな」
「あなたですよ」
「儂がですか? こりゃ驚いた」
古老は声にならない笑い方でかっかっかっと笑った。
「とぼけても無駄ですよ。あなたはここ最近の里で起きている異変に関係している…………いや、犯人と言った方が早いかもしれませんわね」
古老の顔からふっと笑みが消えた。
「どこでそれをお知りになったのかな?」
「いえ、今わたくしはここで本を読んでおりましたの。改訂版の『荘子』をです。そしたら不思議なことに削除されているのですよ。〝あなた〟の件が」
「かっかっかっ。お嬢さんの記憶力には到底敵いませんな」
「そしてあなたの願いとは、この荘子を普及させることですわね?」
「いや、全くそのとおり。かっかっかっ、こりゃ愉快愉快」
一息の間を置いてから、
「まぁ、それはあくまで二次的なものじゃがのう」
と言って、古老は笑いながら紫の許を去っていった。
紫は博麗神社に神出した。すると博麗霊夢と射命丸文が話し込んでいた。尤も、話し込んでいたのは文だけだったが。
「だから、ここに関連性があると思うんですよ」
「ふぅん」
「楽しそうね」
二人とも突然現れた紫に驚く様子もなく、文は律儀に挨拶をし、霊夢は依然としてお茶をすすっていた。
「楽しいのは鴉だけよ。わたしは退屈してたとこ」
「えー、酷いじゃないですか。今までわたしが一所懸命にお伝えしていたことは退屈だったんですかぁ」
「とてもね」
きっぱりと言う霊夢に文はしばらくの間しゅんとしていたが、突然顔を上げて紫に詰め寄った。
「わたしの推論聞いてくださいますか?」
「退屈でしょうけど、暇つぶしくらいにはなるかもしれないわね」
「では」
嫌みを言われているのは気にならないらしく、話を聞いてもらえば満足らしい。ごほんと咳払いを一つして手帳をポケットから取り出した。
「ここ一ヶ月の間、人間の里に不穏な空気が流れているんです。どういうわけだか人間たちが働かないんですよ」
紫は湯飲みにお茶を注ぎ始めた。
「当然なんですけど全員というわけではないんです。一部の人間なんですけど、その人間たちに共通点は今のところありません。性別も職種も年齢層もまちまちで、どういう人間たちが働かないかと訊かれたら答えられないというのが現状です。しかもその広がりが並々ならぬ速さで進行しているので、統計などを取ろうと思っても追い付かないんです」
文は既に手帳を見ずに喋り続けている。どうやらあちこちで喋りまわっているうちに憶えてしまったらしい。
「そして、ここからが一番肝心だと思うんですよ。その働かなくなった人たちは口を揃えて――」
「其の脰(くび)肩々たり」
「えっ?」
突然紫に割り込まれて文は意表を突かれた。
「五体満足の人を見ると、その首が細く見えると言うんでしょ?」
「な、なんで知ってるんですか!?」
「いいから続けて」
「は、はい……」
怪訝な顔付きで話を再開した。
「えっと、取り敢えずこの件に関してはそれで終わりなんですが、ここからがわたしの推論です。最近書店で或る本が急に売れ出しているんですよ」
「荘子ね」
「なんで言いたいところばっかり持っていくんですかぁ」
文は半べそである。
「いいから続けて」
「だから……ここに……関連性が――」
「あると思ったわけね。その推論は正しいとわたしも思うわ。働かなくなった人間たちの持ち物を調べたらきっと出てくるわ。しかも改訂版の荘子がね。今直ぐ調べる価値はあると思うわ」
「うわぁぁぁぁぁん」
射命丸は泣きながら飛んでいった。調査に行ったのか居た堪れなくなったのかは定かではないが、紫と霊夢は微塵も哀れだとは思っていなかった。
「話が見えないわよ。説明しなさい」
霊夢はお茶をすするのを止めてようやく喋った。
「あなたも少しはあの鴉のように大童になったらどう?」
そう言って紫は鬼没した。
霊夢は人間の里へ下りた。
紫に言われて気にして見てみたが、里の風景で特に変わった様子はなかった。いつもの如き賑わいが里全体に充満していた。強いて変わったところを挙げるなら、定休日でもないのに目当てのお茶屋が休みだったことである。霊夢はしばらく立ち尽くし、斜向かいのお茶屋に足を運ぶことにした。
斜向かいといっても、売っているものは全く違っていた。行きつけの店は主に日本茶なのに対し、足を運んだ店は主に中国茶を扱っていた。
「こんにちは」
「はい、いらっしゃい。何を差し上げます?」
粋な店主だった。しかしそれとは裏腹に、店内は落ち着いた様相だった。棚に陳列された茶を眺めながら、どれにしようかと考えていた。
「じゃあ、水仙にしようかしら」
「へぇ、お客さんお若いのに通だね」
「別に好きなもの飲むだけなんだから、つうもすりーもないわ」
店主はこりゃ参ったと笑っている。
「あの斜向かいのお茶屋ってなんで今日が休みなのか分かる?」
何の前置きもなく且つ無機質に霊夢は訊ねた。
「ああ……あれかい?」
気のない返事だった。そして少しためらいながら話を切り出した。
「実を言うと、あの店の店主は俺の兄貴なんだよ」
霊夢は別段驚きもせずに、依然として棚のお茶を見ている。
「兄貴が突然店を休むようになったのはちょうど一ヶ月前からなんだ」
「そうね、確かに一ヶ月前お茶を買いに来たときは開いていたわ」
「三日間くらい休んだあたりでおかしいなと思って様子を見に行ったんだ。そしたら兄貴、俺は働くよりムカユウノキョウに生きるんだとか言ってたんだ」
「ふぅん」
「気でも違ったんじゃないかって凄く心配で……。でも、何をしてやればいいのか分かんねぇし。そ、そこで、ものは相談なんだが、あんた見たところ巫女さんだろ? 兄貴を元に戻してくれないか? いや、戻して……下さい」
霊夢は今日ここへ来て最も不機嫌な表情を店主に向けた。
「犬も歩けば……ね……」
「も、もちろん、タダとは言わねぇ」
「そういう問題じゃないのよね。いや、確かにお金には困ってるんだけど……」
紫は大童になれと言っていた。それに深い意味はないであろう。しかし、動かなければそれはそれで心に澱が残る気がした。
「やっぱり引き受けるわ」
店主はきょとんとしていたが、直ぐに我に返り感激を幾度となく言葉に換えていた。魔が差すというのはいつだって唐突である。無論、霊夢が言ってから後悔したことは言うまでもない。
「じゃ、じゃあ早速兄貴の店に行こう」
「尚早ね。もう少しお兄さんについて教えてくれないと……」
「そ、そうだな。じゃ、じゃあ上がってくれよ」
そう言って霊夢を店の奥の座敷に上げた。
「何よこれ……」
それが座敷に上がった霊夢の第一声だった。
「どうしたんだい?」
「まぁ信仰っていうのは人それぞれだって言われてはいるんだけどね……。なんで神棚の前に閼伽棚があるわけ?」
「なんだいそのアカダナってのは?」
霊夢はしばらく開いた口が塞がらなかった。しかし、浮世とはこういうものだという巫女的ナイスジョークを思い付いてそれを自分に言い聞かせて、渋面ながらに話し始めた。
「閼伽棚っていうのは仏に供える花や水を置く為の棚のこと。まぁ……知らなくても困るってことはなさそうね」
「へぇ、さすが巫女さんだ。ところで巫女さんってのは神に仕えてるのか? 仏に仕えてるのか?」
「次に口を開くときがあんたの最期だと思いなさい」
店主は口を固く結んでから頷いた。
「巫女は神社にいる者よ。だから神に仕えている。それから、これからわたしがする質問に答えるときだけは口を開いていいわ」
このような和洋折衷ならぬ神仏折衷が、少なからずこの里にあるということを今ここで知った。里の人々は何かに縋ろうとしている。朦朧とした、目に見えない何かに。しかし、見えない故にそれは曖昧となり、結果的に形だけが残った。そんな風潮に霊夢は恐怖していた。自分自身の存在は、正真正銘の幻想なのではないかと。
そんなことを考えているうちに、要領を得ない説明が終わった。仕方がないので、オブラートに包んでそれを諭してやることにした。
「あんたも要領を得ないわね。一言でまとめると『荘子』を読んでからおかしくなったんでしょ?」
「そ、そうなんだよ。その通り」
長々と説明を受け、霊夢はようやく重い腰を上げることにした。
「あんたのお兄さんが洗脳されたのはよく分かるわ……。さぁお兄さんのお店に行くわよ」
紫は或る民家の前に佇んでいた。
竹林に囲まれた里の外れ、見当たる民家はここ一軒しかなく、主は隠棲中らしい。井戸と畑がある他は、この家に続く一本道しかない。
しばらくすると貧相な男が向こうからやってきた。一冊の本を両手で大切そうに抱えながら歩いてくる。そして紫の前で立ち止まると珍しいものを見るような顔つきで言った。
「おや、あんたは不思議な人だ。いや、不思議じゃねぇ、これは自然だ。だけど、あんたは一見普通の人だが首が細く見えん」
「ふふ。それはそうですわ。そうねぇ、わたくしは夜を生きる者……とでもしておきましょうか」
「よ、よる……」
一歩退いて、その顔には焦躁の色を浮かべている。
「餌食にはしないわ。それより一つ忠告があるの。聞いてくれるかしら?」
男は全力で幾度も首を縦に振った。
「万物斉一の理を以て時を刻む愚かな者よ、斯く云う所以は吾等に喰われんとする顕れか。然もなくば自身の下へ帰るべしって里中で言いふらしてくれる?」
無言で何度も首を縦に振っているところを見ると、どうやら了解したようで、逃げるように一目散と消えていった。紫は一息つく。
間もなく背後に気配を感じた。あの古老である。
「何か御用かしら?」
わざとらしく振り返りながら訊ねた。
「余計なことをしよって……」
その顔に笑みはなかった。
「あら、当然の措置ですわ」
「貴様は何も解っとらん。いずれ外の世界は月のようになる」
「目覚しい発展を遂げる……ということかしら」
「戯言を。何の冗談じゃ」
古老は紫を睨みつけながらゆっくり話し始めた。
「現代の外の世界の状態を知っておろう。国は乱れ、政治は汚れ、民草は疲れておる。こんな状態が長く続けば天下が荒むのは目に見えておる」
「何を根拠に」
紫は嘲笑った。
「国々はそれぞれに争う。誰の為じゃ? 剰え、政ごち成す輩は既に汚れ切り、私腹を肥やすことしか考えておらん。でなければ民の租税はどこに消えるんじゃ? 挙句の果て、家を失う民が続発し、未だ解決の糸口が見つかっておらん。これで世が荒廃しない方がおかしいわ」
「大局的過ぎませぬか?」
「だから貴様は何も解っとらんと言ったんじゃ」
「ふふ。しかしですね、ご老体。あなたが現実と幻想の境界を消そうとしていることくらい解っていましてよ」
「ふん、そこまで解っていて何故そのような戯れを……。まぁよいわ。所詮、人間の考えた世の仕組みなど浅はかなもの。全て形よ。それゆえ徳を伴うことはない。人は徳を忘れた。それは形と徳が隔ち、分かれたその時から狂い始めた。だから儂は、まだ儂が生まれるずっと前の、まだ形と徳が一つであった頃のような、泰平の世に戻したいだけなんじゃ。その為に、徳で出来上がっているこの幻想郷を、儂の手で消す。外の世界の存亡を懸けてな。それを貴様は……」
握った拳をふるふると震わせていた。そんな古老を紫は蔑んだ目で見つめていた。
「愚かね」
「何が愚かだというのじゃ」
「竹林に住む宇宙人医師が『胡蝶夢丸』という薬を発明したそうですよ。それを服用すると――」
「夢に胡蝶と為る……そういうわけじゃな」
「ふふ、正解ですわ。その昔、胡蝶夢を見た人は、それが夢か現か、更にはそれが自分自身であるのかすら判らなくなったそうですね。羽ばたいている己は果たして自分なのか蝶なのか、自身の夢なのか蝶の夢なのか」
「何が言いたい……」
「あら、既にお察しかと思っていましたわ。簡単に申し上げますと、吾々『あやしきもの』が喰うということですよ」
古老は何も答えなかった。
「人間と妖怪の区別もない。人間と食べ物の区別もない。現実と幻想の区別もない。でしたら、お腹いっぱい食べることが理想でありませんこと?」
「以前は皆、均衡の上で共に生きていた……。もうよい、貴様とは相容れぬ。もう儂は行く」
そう言うと、軽い足取りで一本道を歩いていった。その背中にはとても大きく重いものが背負われているように、紫には見えた。
斜向かいのお茶屋に向かった。
表の入り口は閉まっていたので、裏の戸口から入ることにした。
「兄貴、居るかい? 入るよ」
どうぞという返事があって、霊夢と弟の店主は家の中に上がった。
「これは巫女様、お初お目にかかります」
兄の店主の方は霊夢を見て特別驚きもせず、平然としていた。寧ろ礼儀正しい挨拶に霊夢が驚いたくらいだった。しかし、どこか空虚を僅かに感じた気がした。一方の霊夢はというと、あちこち見回して落ち着かない様子だった。
「今日こそ、兄貴に正気に戻ってもらおうと思ってな。巫女さんを連れてきたんだ」
「……。俺は正気だと言っているだろ? 何度も言わせないでくれ」
「ちょっといいかしら?」
突然の霊夢の介入に、二人はしかめっ面を鋭く向けた。
「あんたわたしの首が細く見えるの?」
弟は怪訝な顔をしているが、兄はその通りだと言って頷いた。
「巫女さん、あなただけじゃない。俺の弟もそうです。それと、俺の名前は――」
「名前なんてどうでもいいわ。それより、これは本当だったのね。ちょっと疑ってたんだけど……」
「兄貴も巫女さんも何言ってんだ? 首が細いってどういうことなんだよ?」
「眼鏡を掛けてれば賢そうに見えるってことよ。それにしても案の定、この家にも神棚と閼伽棚のセットがあるのね……」
霊夢が指を差した方を兄が見た。
「あれですか? あれは代々うちの家系で取ってる形です。まぁ、家系と言っても立派なものじゃありませんが……」
「鰯の頭もっていうしね。もう何も言わないわ」
「で、巫女さん。兄貴をどうやって元に戻すんだ?」
霊夢は静かに耳を塞いだ。人間は目を閉じれば見えなくなるのに、耳は完全には閉じられないところに不満を感じながら黙っていた。
すると、裏の戸口が勢いよく開いた音が家中に響き渡った。
「誰か! 居るかい!」
戸口を開けた男は、貧相な顔で大事そうに一冊の本を抱えていた。そして息も切れ切れに中へ上がってきた。勝手に上がってきたところを見ると、どうやらここの人間の友人らしい。
「どうした?」
弟が代わりに応えていた。
「た、大変だ……。く、喰われる……」
「何言ってやがる。分かるように順々に話せ」
駆け込んできた男は、深呼吸をして呼吸を整えた。
「えっとな、あっし、先生の家へ行ったんだよ。そしたら先生の家の前に変な女が立ってたんだ。その女、首が細く見えないから不思議に思ったら、なんと妖怪だったんだ。そんで、バンブツセイイツノコトワリは俺らを喰うから、自分のところへ帰れって言ったんだ。しかもそれを里で広めてくれって頼まれたんだ。だから今こうしてここに来たってわけだ」
「その先生って誰なの?」
「俺たちに荘子っていう立派な本を薦めてくれた方だよ。名前は訊いても教えてくれねぇんだ」
家の前に立っていた妖怪とは恐らく紫であろうと霊夢は思った。今回の件について彼女が首を突っ込んでいたことは神社のやり取りで間違いなかった。しかも話の流れからすると、今回の異変を解決しようという前向きな態度も見て取れる。大きな異変であるとは感じていなかった霊夢も、さすがに身の毛がよだった。
「その荘子って本見せてくれる?」
貧相な顔の男は霊夢に荘子の本を渡した。
「何この表紙の『改訂版』って?」
「さぁ、俺たちも知らねぇんだよ」
「そういえば紫もそんなようなこと言ってたわね」
「誰だって?」
「いや、独り言。それよりちょっと用事思い出したから今日はこの辺で失礼するわ」
「おいおい、まだ何もしてねぇじゃねぇか」
「あ、あっしの荘子……」
どっちも後でと言い残して、お茶屋を後にした。
「霖之助さん、荘子ある?」
「だからいつも言っているだろ? 勝手に――」
「今は勝手に上がっても許される状況なの!」
道なき道を突き進んできた霊夢は、香霖堂の店主である森近霖之助の背後に立っていた。
「まったく……。で、ソウシってあの中国の老荘思想の荘子のことかい?」
「知らないわ。とにかく改訂版じゃない荘子があったら出して」
「君が読むのか?」
「いいえ、勿論霖之助さんよ」
溜息を一つ吐いて、店の奥の本棚を漁りに行った。
「で、ストーリーテリングでもしろってのかい?」
奥から戻ってきた霖之助の言葉はどこ吹く風。霊夢は自分で持ってきた荘子を取り出して、霖之助に渡した。
「これは……。ふむ、確かに荘子だね。しかもでかでかと改訂版としてある。なるほど、差詰めどこが改訂されたのか図々しくも僕に探させようって寸法か」
「今すぐにね」
無理難題を押し付けて、霊夢は戸棚に行き急須を取り出した。
「今すぐって言うのはいくらなんでも無理だよ。それにね、普通はどこを改訂したのかということが書いてあるものさ。だけどこれにはそれが無い。どうにも怪しい本だ。どこで手に入れたんだい?」
「書店に沢山並んでたわ」
霊夢は出任せを言ったつもりだった。しかし、里には現に沢山の荘子が陳列されていることを本人は知らない。
「しかし、今見ている限りでは改訂されたところは見つからないなぁ」
霖之助の前にお茶が置かれた。
「でも改訂版って書いてあるんだからどこかにあるでしょ?」
「君は見ているだけなんだから静かにしていてくれ」
霊夢は頬を膨らませて、店先に行った。いつもの如く誰も来ない。棚に陳列された商品という名のコレクションを眺めていた。実に脈絡がない。外の世界にこういうデータがある。缶ビールと紙おむつを隣りあわせで一緒に置いておくと、ばらばらに置いたときよりも売れ行きが伸びるというものだ。しかし、どうやらこの店には当てはまらないようで、そもそも客が来ないのである。
しばらく霖之助は荘子と格闘していたが、ようやく改訂されたところを発見したらしく、霊夢を呼びつけた。
「やっと見つけたよ、ほらこれ。内篇の第五部の徳充符篇の五つ目の話だ」
「どう変わってるの?」
「それがね、五つ目の話が丸っ切り消されているんだよ」
「何を意味しているのかしら……」
霖之助は解らないと言って、改訂前の荘子をそのページに開いた。
「どういう話が載っていたかっていうと」
――昔、足がひん曲がったせむしの三つ口の男が衛の国の霊公という君主に人の道を説いた。霊公はそれを大層気に入った。しかしその話を聞いた後、五体満足の人を見ると、その首が細く弱々しく見えると言った。また、ごつごつした大きなこぶだらけの男は斉の国の桓公という君主に人の道を説いた。桓公も大層気に入った。しかしその話を聞いた後、やはり五体満足の人を見ると、その首が細く弱々しく見えると言った。
世間の人は外見ばかり気にして、内に潜んでいる徳を忘れてしまっている。賢者は外見や内徳などの何ものにも囚われない。自然に与えられたそのままを受け入れる。だからこそ人の手を加えること、自分の意見や考えを加えることをしない。
「まぁ、こんな感じの話さ」
「首が……細く、弱々しい……ね」
「そこがどうかしたのかい?」
「ありがと、霖之助さんもたまには役に立つのね」
そう言い放って、お茶に口もつけずに香霖堂を後にした。
「ああ、僕の荘子を……」
外はすっかり日が落ちて、月が皓々と輝いていた。霊夢はもと来た道を博麗神社に向かって歩いていた。夜の森は昼間の鬱蒼としている景色が闇へと変わる。それでも負けずに木立の狭間から覗く月光は、霊夢の希望を嘲笑うかのようで少しだけ気分が悪くなった。
翌朝、目を覚ますと紫が卓袱台に頬杖をついて座っていた。
「やっと、起きたわね。早く人間の里に行く支度をなさい」
霊夢は無視して、顔を洗いに手洗い場まで行った。わざと時間を掛けて洗ってみたのだが、精々五分が限界だった。
床に戻ってみると、果たして先ほどと変わらない姿勢で紫が座っていた。霊夢はそのまま通り過ぎ、勝手に行った。
「何しに行くわけ?」
勝手の方から無気力な声が聞こえてきた。
「お茶は熱いままでお願いね」
思っていた回答と違った。
勝手からお茶を持って戻ってきても、紫は同じ姿勢だった。頬を乗せる手が右手から左手に変わっていてもよさそうなものだが、それすら窺えない。無言でお茶を前に差し出す。紫も無言で手を伸ばす。一口飲んで「温度が少し低いわね」などと言っていた。
「あれからいろいろ調べたようね」
霊夢は癪だったので黙ってお茶をすすった。
「人間が事を起こすのに必要なこと、それは逼迫した状況。差詰め今のあなたは見えない焦燥に駆られているんじゃない?」
「勝手なこと言ってくれるわね」
「勝手かどうかは自分の胸に訊きなさい」
「そんなことより、さっさと言いなさいよ。暇つぶしにここへ来たわけじゃないんでしょ?」
そう言って紫の持っている錫杖を一瞥した。紫がこのような小道具を持っていることはすこぶる珍しかった。平生、妖怪は自身の力で物事を解決する。況してや紫クラスの妖怪ともなれば、錫杖一本持たせただけで、萃香に金棒並みの強さを増す気がする。あくまで気がするだけではあるが。
「あら、わざわざ言わせるの? 異変の抜本的解決へ乗り出そうってこの錫杖は言っているのよ」
「そんなこと訊かなくてもやらされることくらい判ってるわ。その解決方法を訊いてやろうって言ってるの」
紫はにやりと笑みを浮かべた。
「仙人に会ったことはあるかしら?」
霊夢は怪訝な顔を作った。
「仙人っていうのは超人的な人間のことよ。ただちょっと変わり者でね。普通に掛け合っただけじゃ雲を掴むような果てしなさを覚えるくらいだわ。ま、霞を食べて生きてるのもいるからしょうがないんだけど。それから、得意としているのは妖術で、妖怪すらも撃退できるほどの腕前を持っているのが殆どね。だから霊夢、あなたも引っ掛かることは目に見えているわ」
余計なお世話だという目線を中空に漂わせる。
「この異変の犯人は境界を操るわ。と言っても妖術だから思い込ませるだけなんだけど。だから実際は術を解除すれば怖いことはない。そこで一計。術を外す決め手は己の確立よ」
「……おのれ?」
「そう、自分を持つことによって、自分という堅固な境界を作り出す。それが相手の弱点よ。まぁ、それがあなたにできればの話だけど」
紫はくすくす笑っている。
「アイデンティティとは少し違うわ。それは相対的な自己だから。そうではなくて、他の何者でもないこのものとしての自己。そしてそれは他人と置き換えることができず、もしかしたらこの世界と同化しているかもしれないし、隔離されているかもしれない。この世はあなた中心で回っていると言っても過言ではないわ」
霊夢はしばらく黙っていたが、唐突に、さも当然のように「当たり前じゃない」などと言った。話は煮詰まり、里に行くことになった。
珍しく霊夢は躍起になっていた。一抹の不安を抱えてはいたものの、今だけは瑣末なことに感じた。
里に下りた霊夢は驚いた。
活気というものがまるでない。足取りが重く、顔に生気が感じられない者が大多数を占めていた。道行く者はただ歩き、建物はただ立っているだけで入り口は閉ざされていた。ただ、すれ違った人は欠かさず礼儀正しく挨拶をしてくれた。その挨拶の無味なこと。礼儀正しく交わされる挨拶がこれほどまでに空虚なのかと始めて思った。
「思った通りだわ。ふふ、でも面白いわね」
「面白くないわよ。何よこの体たらく……」
「これが徳を求めた結果よ。笑止千万ね。徳が一朝一夕で身に付くと本気で思っているのかしら」
紫は非常に楽しそうだった。
「それより早く犯人を捜しましょ」
「犯人を捜す必要はないわ。開いている店でも捜しましょ」
霊夢は疑問符を浮かべながら、すたすたと歩いていってしまう紫に着いていった。
最初に見つけた店は、店の種類で言うなら風俗店だった。所謂、賭博場である。これは少々居心地が悪いということで次の店を当たった。
三町ほど行った頃に茶屋を見つけたので、店先の長椅子に座ることにした。この辺りまで来るとどの店も大抵開いている。さきほどの光景はやはり異常だった。店の者が出てきて注文を取っていると怪訝な顔をされた。霊夢は別段気にするわけでもなく注文を言い終えると、店の者が質問をしてきた。
「瓦版に出ていた本日この町に来る方というのはあなた方ですか?」
単刀直入な質問だったので答えに詰まった。
「何の話?」
「あ、すみません。人違いでした。あのですね、今日この町の大通りで公演があるそうなんです。見慣れない方たちでしたのでつい……」
霊夢は冷ややかにあしらって注文を促した。店の者が中へ入っていくのと同時に紫の方を見ると、こちらを向いて気味の悪い笑みを浮かべている。何か言いたげであるが、無視して先に話を切り出した。
「公演を開くってのは――」
「九分九厘と一厘の確立であなたが今想像している者で正解よ」
「つまり、わたしたちから出向かないといけないわけ?」
「それには及ばんよ」
突然背後から声が聞こえたので、思わず振り向いてしまった。見ると、奇妙な老人が立っている。大きなこぶがそこかしこにあり、しわがれた笑い声で笑っている。
「儂をお捜しかな?」
「ええ、とてもね」
「して、何用かな?」
「里の人間を元に戻してほしいんだけど」
「元に? これはまたお戯れを……」
こぶだらけの老人は首をかしげている。
「人間は元来斯くあるべきもの。それを元にというのは……。ははぁ、巫女様は世俗に毒されておられるのですな。如何に巫覡の血を引くものであっても、因襲の跳梁跋扈には到底かなわぬということじゃな」
「あらあら、はっきり言うわね」
しばしの無言の中で、老人は霊夢を見つめた。
「ふむ。お主不安を感じておるな?」
背筋が凍るような気がした。後ろめたいことがあるわけではないのに、何かを隠そうとしている霊夢の心を見透かすかのようなタイミングだった。
「もしや……己の存在に疑問を抱いておるのではないかな?」
霊夢は応えなかった。
「そのような疑問や不安を抱えることほどつまらないことはない。何故人間はこの世を複雑に考えたのか。先ず人間は両儀に大別した。それでは足りなくなり四象を生み出した。そして次々と八卦、六十四卦とそれは際限なく生み出され、世界を複雑にしていった。複雑の大海に生まれ、複雑の大海に去ぬ。それは夏に生まれ夏に去ぬ蜩の如し。大海を捨て、大空に翔け出だしたる者のみが至ることのできる桃源郷。それが元の世」
「ど、どうしたらその海から抜け出せるの?」
霊夢は自分で言って驚いた。老人の喋っている意味は全く解らなかったにもかかわらず、自分の中から出てきた言葉に違いなかった。老人の言葉は既に形であって、意思の伝達を阻害するということはなかった。言葉という未発達な道具を直に世界に埋め込み、世界から直接霊夢に語りかけたのだった。
「容易いことではないぞ。先ず儂の元へ通え。そして努め励めよ。さすれば一条の光が見えよう」
そこで耳慣れぬ甲高い金属の音が聞こえた気がした。振り返ろうと思っても、わざわざ振り返るほどでもないなと思った。
「荘子を持て。そして立ち上がれ」
自然と足が老人の方へ一歩進んだ。
するとまた聞こえた気がした。それはやたらと耳に残り、向いた足を抑止するようだった。
「躊躇うことなどない。無何有の郷へ遊ぼう」
不快な音が再び内に響いた。無性に胸が苦しくなった。煩わしい。
「わたしは……」
「さぁ、こっちへ来るんじゃ」
一際大きな、そして鋭い音が判然と聞こえた。その音に叩きつけられたような衝動を覚えた霊夢は、ふっと我に返ったような気がした。
「わたしは――」
老人は毅然とした態度だったのが急速に冷めていった。そして、そっと口を噤んだ。
「そうよ、そうよね。わたしは博麗の巫女、博麗霊夢。他の何者でもないわ」
老人はかっかっかと笑い出した。その時、老人の顔や体に見る見るうちに皺が増えていき、顔は窶れ、手足は細くなっていった。そして、ばたりと倒れ込み、体のあちこちが灰と化していった。人の形はなく、しわがれた声の残響と、僅かに積もった灰だけがそこに残った。
霊夢は余りに突然のことで、声を出すことも動くこともできなかった。再び我を忘れてしばらくの間立ち尽くしていた。
佇む霊夢に紫はそっと近寄った。
「それにしても満足げだったわね。彼は幸せだったと思う?」
「し、知らないわよ。そんなことより何で灰になっちゃったわけ?」
「仙人はね、修行を怠ると己を維持している力が一気に崩壊するの。ま、差詰め有終に努めた結果、修行を説法に変えたのね。それであなたという外れ籤を引き当てたというわけ。説法がうまく相手に伝われば、修行の成果が得られるわ。しかし、うまく伝わらなかったら修行の成果はない。そうなれば修行不足に相違ないわ」
「じゃあ何で外れ籤であるわたしなんかのところに来たの?」
「これは偶然ではなく必然よ。彼は人間の里を片っ端から説法していったわ。だから人間が彼に毒される範囲は徐々に拡がっていく。だからここで座っていればいずれ来たというわけ」
霊夢は納得のいかない様子だった。
「じゃ、じゃあ――」
「もう沢山。早々に頭の中を整理しなさい。あなたにはまだ行かなければならないところが残っているでしょ?」
仙人のことで頭がいっぱいだった霊夢は、変わらず立ち尽くしていた。
◇
霊夢は茶屋に来た。店に入ると店主が出てきて軽く挨拶をした。後日談を聞かせてもらうと、兄はすっかり元に戻ったのだそうだ。店の奥に上がるよう勧められたので座敷に移った。そのとき目に入ってきたのは普通の神前の姿だった。
「神前の形を変えたのね」
店主はそうなんだよと威勢はよかったが、結局俺は神と仏のどっちを信じればいいんだと霊夢は問われて逼迫した。差し当たり事代主大神を信じておけと言っておいた。それから報酬として帰りに茶屋から水仙を半年分ほど頂戴して罷り出てきた。霊夢が後悔したのは言うまでもない。
◇
神社に戻ると紫がお茶を飲んでいた。
「あら、がっつり戴いてきたのね」
「やな言い草ね」
「本当のところ悔やんでいるのでしょ?」
「何を?」
紫はこれと言いながら親指と人指し指で輪を作っている。霊夢も腰を下ろしてお茶を湯飲みに注いだ。
「そんなことより、何で今回はあんたが腕白に動いてるわけ?」
「不満かしら?」
「問いを問いではぐらかさないで、ちゃんと答えなさいよ」
紫はしばらく黙っていた。それからゆっくり口を開いた。
「幻想郷は生きているの。生き物なのよ」
霊夢は怪訝な顔つきで「意味が解らない」と訴えた。
「生物にはね、免疫というものがあるのよ。体に異常があるとすぐに駆けつけてくれるいい子たちよ。でも、時に勘違いをしたり、過剰に働いたりするの。すると効果は逆で、体にはよくないわね」
「回りくどい言い方ね。それで、今回のあれは勘違いや過剰反応だって言いたいの?」
「あら、そんなこと一言も口にしていないわ」
霊夢は再び疑問符を頭に浮かべた。
「なぜ彼が免疫だと思うのかしら?」
紫のこの問いに回答はなかった。
二人はしばらく空を見上げていた。空に浮かぶ雲、これは水滴の塊であって、形は定まっていないし定まらない。それでも皆同じように日を隠し、雨を降らし、雷を見せる。細かな雲の種類は瑣末な問題で、皆一概にそれを雲と呼ぶ。白いふわふわだから雲なのか。雲だから白くふわふわしているのか。これも瑣末な問題で、結局のところ「雲」に落ち着いて、かつ「ふわふわ」しているのだ。
「わたしって結局何者なのかしら……」
霊夢は呟いた。
「あら、哲学的ね」
「だって……」
それからまた一息間があった。
「人は巫女を忘れたわ。いや、巫女だけじゃない。神をも忘れた。残っているのは形骸だけ。それも外の世界だけじゃない。私が今ここにいる幻想郷ですらそう……。私は最早幻想ですらない……ってことなのかなって……」
黄昏の緋が霊夢の顔に映えていて、苦笑が一層憂いを増した。
「何を勘違いしているの?」
紫に顔を向けると、いつになく小ざっぱりとした微笑みだった。
「あなたは今『どこ』にいるのかしら?」
「どこに……」
紫は珍しく澄ました顔で中空に視線をやっている。
「ふふ、あなたがここまで考えてくれるなんて想定外だわ」
「はぐらかさないで」
「ふふ、確かにこれは真摯に応えるべきね。あなたはここに在る巫女だわ。そしてこことは、外の世界とを分け隔つ結界を司る神社。だったらここは外の世界でも幻想郷でもないんじゃないの?」
「…………」
「本来巫覡は神と人とを繋ぐ鎹だった。それを彼は危惧したのね。あなたが余りに堕落していたのを見て、さぞ失望したでしょうよ。ふふ、あなたが限りなく人に近づいていることを自覚して、己の存在意義を認識しているなら、彼も成仏するんじゃないかしら?」
「じゃ、当分成仏できないわね」
「本当にあなたには形と徳というものがないのね」
こういう、はっと考えさせるSSを読むと、自分の生きる環境がどれ程もろい地盤の上に立っているのか思い知ります。
何だかすごい事を言ってそうだけど、全然そんなことないあたりがそっくり。
良いと思います。