昼下がりの図書館に、少女の声が木霊する。といっても、ここは学校ではないし、公立の市民図書館でもない。ここは、パチュリー・ノーレッジの私設図書館である。この紅魔館の一画を占める大図書館には、本に埋もれる魔女と、彼女が契約した悪魔、それに、本を求めてやってくる客人たち。そんな彼女たちが織り成す日々。今日もまた、そんな一日であった。
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「私に足りないのはあだ名だと思うんだよ」
「ああ、頭が足りないのね」
ふう、と一息ついて、目の前の少女を見やる。霧雨魔理沙は人間だが、魔法使いである。普段から紅魔館へ本を目当てにやってくるのだが、今日は珍しく別の目的があるという。とりあえず席をすすめたところ、座るのもそこそこに飛び出したのが、先の発言であった。
「酷い言い草だな」
全く気にしていない風な声だったが、魔理沙はその金髪にくるくると指を絡ませる。
「いきなりやってきて、あだ名が足りないとか、正気の沙汰じゃないわね」
「今朝閃いたんだけどなぁ」
思い立ったが吉日、とは言うが、思いつきに振り回される側にとってみれば凶事以外の何でもない。
「それに、何でここに来るのよ。神社にでも行けばいいじゃない」
神社には巫女がいる。霊夢なら魔理沙とはつき合いが長そうだし、別にあだ名で呼び合っていてもおかしくはないだろう。と、考えたのだが、どうやらそうでもないらしい。魔理沙は頬杖をついて、視線を斜めにずらした。
「霊夢はだめだ」
「どうして」
「あいつが私をあだ名で呼びながら笑顔で茶を出してくる様子が想像できん」
「確かに」
誰かと特別な関係になることの似合わないことこの上ない霊夢である。ついでに、笑顔で茶を出すのも似合わない。魔理沙の想像力もなかなかのものだと思ったが、それには触れずに次の名前を出す。
「じゃあ、アリスあたりで」
「あいつも違う」
「どうして」
「何というか、アリスとは名前で呼び合う距離感が必要なんだよ」
「結構意識してるのね」
「うるさい。張り合いがないと困るだろ」
少し照れたのか、視線を横に外してぶっきらぼうに言う。また指のくるくるが始まった。
「別に、好敵手と書いてともと読んでもいいと思うけど」
「お断りだぜ」
「貴方、あだ名で呼ばれる自分が欲しいのか、自分をあだ名で呼んでくれる誰かが欲しいのか。それともただ単にあだ名が欲しいだけかしら」
くるくるが止まる。その代わり頭の中が回転しているに違いない。自分の問いがもたらした変化に満足しながら魔理沙の答えを待つ。
「ふむ、言われてみればどれも当てはまっているようで、少し足りないな」
「一番目のだとばかり思ってたわ」
「あのなぁ」
やれやれだぜ、とでも言いたげなポーズを取られる。私はまた魔理沙が変なことを言い出した、という感じに受け止めていたのだが、意外と真面目に考えていたようである。正直に言って、驚きを禁じえない。顔には出さないが。
「どれも当てはまっていて、少し足りない……」
「欲しいのは、そういった間柄、だな。あだ名はその象徴だ」
「そういう相手が欲しくなるなんて、どういう心境の変化よ」
「お前にだってそういう時ぐらいあるだろ」
「私には既にいるから」
おお、とでも言いたげに身を乗り出してきた。まさか本気で忘れていたのではないだろうか。というか、それが決め手になって私のところに来たのだとばっかり思っていたのだが、違うのだろうか。
「忘れてた。それで、どうなんだよ」
「何が」
「そういう相手がいて良かったと思うとき、あったか」
私にとっての、そういう相手、とは、レミリア・スカーレットである。あだ名というより、愛称で呼び合う間柄だ。私は彼女をレミィと呼び、彼女は私をパチェと呼ぶ。いつからそういう間柄になったかはもう定かには覚えていない。しかし、彼女がいて良かったと思うときがあっただろうか。
「正直わからないわね。良い悪いの対象じゃないから」
「そういう関係がいいんだよなぁ」
霧雨魔理沙という人間は、嘘は多いが表裏はない。心からの反応であることを疑わなくて済むので、そういった意味では楽な相手である。魔理沙の言う、そういう関係、の良し悪しはわからないが、時間的な制約を考えると、人間にとってはとても難しいことであるのかもしれない。魔理沙が今のままでいる限り、得ることのできないもの。そう考えると、本人が気付いているかどうかはともかく、こう欲しがるのも理由のあることかもしれない。
「貴方には無理ね」
微笑ましさが高じて、つい口をついて出てきてしまった。
「何でだよ」
早速食いついてくる。元・最速は伊達じゃない。
「魔法を使う者は名前を疎かにしたりはしない。貴方も未熟者ね」
「ちょっとわからないな。説明してくれ」
「あだ名をつけるということは、新しい名を与えるということ。その意味もわからないというの」
「おいおい、名前を奪うなんて、まるで泥棒じゃないか」
魔理沙の顔が曇る。泥棒は専門分野だろうに。
「元の名前から懸け離れるほど、その拘束は強くなり、互いを縛り付ける」
「じゃあ、お前らはまだ緩いんだな」
ほっとしたような顔になる。わかりやすく顔色を変えるのが面白く、まだ二転三転させたくなる。
しかし、役者は私だけではないらしい。やっと紅茶の用意ができたようで、魔理沙の背後から影が忍び寄る。
「パチュリー様はこうみえて酷いお方ですよ」
「何だ、お前か。おどかすなよ」
魔理沙は小さく驚き、そしてその対象を認めた途端に大人しくなり、その後、みるみる顔から血の気が引いていった。
「どうしましたか、魔理沙さん」
「おい、まさか、お前……」
「ああ、気付いてしまわれたのですね。でも、ご想像の通りです。昔は私にも名前がありました。それが、パチュリー様に奪われたまま、新しい名前も貰えず、私はパチュリー様と呼び続け、永遠に隷属させられるのです」
歌うように小悪魔が囁く。ティーカップを置きながら。
「それでも私は構わないのです。私を繋ぎ止める鎖は一つ、それ以外から縛られることはなく、私は自由で、誰も私のことを知らず、気侭な生活を続けるのですから」
魔理沙の耳元で小悪魔が囁く。いつまでも耳に残るその甘い声で。
「小悪魔」
続けさせると長くなりそうだったので、制することにした。
魔理沙の動揺は手に取るようにわかる。私が想像するに、彼女は現状に行き詰まりを感じたのだろう。上手くいかない、だが自分では打開できない。そういった状況になり、ふと周りを見渡したときに、その寂寥とした光景に愕然としたのかもしれない。ただ、そんな時でも、誰かを頼るようなことはしたくないのが彼女の人となりである。それ故に、頼るではないが、頼りになる、そういう関係の人物を欲したのではないか。
私はこう見えて頼られるのは嫌いではないし、魔理沙の弱みに付け込むのも悪くはないのかもしれない。しかし、やはり今はそうすべきではないように思う。彼女の傍に、私がいるだけの場所はないのだ。
「それで、元に戻ってあだ名の話だけど」
「お、おう」
「確か、森の道具屋のことを本名で呼んでいないのではなかったの」
「ああ、香霖か」
「彼でいいじゃない」
「やっぱり違うな」
「どうして」
「あいつは私が物心ついたときから香霖なんだ。むしろ他の呼び名で呼ぶほうがおかしい。それに、あの正式名称マニアがあだ名なんかつけるとでも思うか」
「知らないわよ」
「とにかく、違うんだよ」
「あら、森近魔理沙、いい名前じゃないの」
最初きょとんとしていた魔理沙だが、やがてその意味するところを悟ったらしく、顔を赤くして怒りだした。その顔の赤さは断じて怒りのためではない、と思う。
「まったく、いい加減にしろ」
「貴方が苗字を森近に変えられたら、あだ名、考えてもいいわ。でも、今はだめね」
「じゃあだめだ。仕方がないな、今日のところは出直すぜ」
魔理沙は乱暴に席を立つと、足早に図書館を後にした。残された私は、そこで始めてカップに口をつける。
「良かったのですか、パチュリー様」
「ええ。いいのよ」
霧雨魔理沙は色々なものを抱え込む。彼女の周りは常に物で溢れかえっていて、もう飽和状態にある。その癖、彼女は捨てることがとても下手なのだ。名前を見ればいい、彼女は結局霧雨の苗字を捨てることができないでいるではないか。親元を離れ、人との交わりを絶つような場所に住んでいながら、それでも後生大事に抱え込んでいる。重ねて言うが、そういった人間の傍に、私がいるだけの場所はないのだ。
ただし、私には彼女の不安が良くわかる。良くわかるだけに、彼女に一つ、問題を出した。答えは何も苗字に限ったものではないのであって、何でもいいから、自分が抱えているものから捨てることができればいいのである。持たざることは時に持つことに勝る、それがわかって、なお私を求めるのであれば、その時は……。
そこまで考えて、それ以上の思考を中断する。仮定に仮定を重ねるようなやり方は好きではないし、魔理沙のことだ、数日もすれば吹っ切ってまたいつもの姿に戻るだろう。今の日常も、それなりに気に入っているのだから、それが変わらないなら良しとすべきである。
気がつけば、小悪魔はさっきまで魔理沙がいた椅子に座り、魔理沙が飲むはずだった紅茶を楽しんでいる。
「貴方、名前が欲しくなったら言いなさい」
「嫌ですよ。パチュリー様が私に名前をくださるときは、きっと私のことが不要になったときです」
「そう」
それじゃあ、貴方はずっと小悪魔のままね、という言葉は声に出さず、紅茶に溶かして飲むことにした。今日の紅茶は、普段よりも、少し甘い。
幸福感のあるSSでした。
面白かったです。
淡々とした優しさと空虚さが同居したような奇妙な読後感です。
ここで吐血しそうになったので。