十六夜さん家の娘さん
「お嬢様」
空は曇天で夜のように黒ずみ、雷鳴が稲光の直後に甲高く轟く今にも大降りの雨が降り出しそうな絶好の外出日和の昼下がり。
紅魔館のテラスで白いテーブルに肘を突き、椅子にゆったりと腰掛け優雅にお茶を嗜むレミリア・スカーレットの側に控える十六夜咲夜は恭しく話しかけた。
「何かしら?」
紅茶を一口飲んでみせ、レミリアは表には出さないが多少の驚きと共に応じた。
咲夜の行動パターンというのはある程度定まっている。
昼過ぎには「ディナーにご希望はございますか?」と聞いてくるし、会話の途切れた晩餐の最中には「明日のご予定はございますか?」と話の種がてら皆に聞いて回る。
そして今は昼過ぎだが、夕食のメニューについてはつい先ほどトマトのソテーを注文した所である。
故にこのタイミングで何か話しかけてくるというのは珍しい事ではあった。
一体何の用事かとレミリアが咲夜の方を振り向いてその言葉を待っていると、咲夜は主を見下ろす形で話す事に抵抗があるのか、さっと膝を折って地面についた。
レミリアが立った状態でも常に咲夜の背の方が高いので、別にそんな事気にしないよう申し付けており確かに普段は咲夜もそれに従ってはいる。
しかし多少なりともかしこまった話をする時には咲夜はすぐに主を見上げたがるので、レミリアは真面目な彼女に好感を持ちながらも、融通の利かない事に若干の焦れったさを覚えていた。
「お願いがあるのです」
やはり何か真剣な話のようだ。
レミリアは軽く頷いて次の言葉を促す。
「明日と明後日、お暇を頂けないでしょうか」
これはレミリアにとって意外な申し出だった。
咲夜は数年前に雇ってからというもの年中無休でばりばり働いている。それこそ外の世界の労働基準で考えれば非常識なほどに。
レミリアだって鬼ではない。休みがほしいと言われれば適当に許可していたであろうが、咲夜は今まで特にそんな事を言い出なかったので、遠慮の無い幼い悪魔は、ああ、じゃあいいんだ、と深く考えてはこなかった。
そして今、本当に珍しく咲夜が休みを所望した。
すなわちこれは余程の事情があるのだろうと了解できる。
そんな従者の異常を放っておく事もできず、ティーカップを傾けつつレミリアは「休むのはいいけど、どうかしたのかしら?」と事情を聞いておくことにした。
「はい」
一際大きな稲光が轟いた後、咲夜は端的にその理由を言ってのけた。
「実家の父が倒れまして……」
レミリアは飲んでいるアールグレイを吹き出しそうになった。
「お嬢様! 大丈夫ですか!?」
吸血鬼のメンツにかけて何とか口から紅茶が漏れ出ることは防いだが、逆に奥の方へ行ってしまい、しきりにごふごふと咳をつくレミリア。慌てた咲夜がその小さな背中を叩いたりさすったりしてくれる。
「ゲホゲホ……だ、大丈夫よ咲夜」
「そうですか……一体どうしました?」
「どうしたもこうしたも……」
どう質問したものかとぐるりと頭を巡らせる。
「あなたの実家って、どこにあるの?」
「人間の里にありますが」
あっさりと言ってのける咲夜。
「あ……そう」
まだコンコンと小さく咳をしながらレミリアは呆然とする。
十六夜咲夜。
数年前、慢性的な人手不足に喘ぐ紅魔館が働き手を募集したところ、ただ一人名乗りを挙げてきた稀有な人間の少女である。
端正な顔立ちに銀髪、時間を操る特異な能力を持っているというミステリアスな雰囲気溢れる彼女は勤勉実直な働きぶりで瞬く間に紅魔館のメイド長にまで登りつめ、今では館の主であるレミリア・スカーレットからの信頼も厚い一番の従者である。
そんな不思議な印象を醸し出す咲夜の出自については、きっと何か並々ならぬ事情があるのだろう、と紅魔館に住む個々人が勝手にあれこれ想いを馳せていて直接聞いたりする事も無かったのだが。
それが今、咲夜自身の口から何という事も無く何とも無い事があっさりと告げられた。口振りからして別に隠していたのではなく、単に聞かれなかったから答えなかっただけなのだろう。
「ええと……」
釈然としないものを感じ、どうしたものかとレミリアは額に手を当てて考え込む。
「あなたって、人間の里で普通に育ったのかしら?」
「はい」
普通というのは曖昧な表現だと咲夜は感じたが、指摘するのは従者として出すぎた事なので常識に照らし合わせて自分の育ちは普通であると判断した。
「そ、そう……」
レミリアは動揺を必死に押し隠して味のよく分からなくなった紅茶を口に含む。
レミリアでさえも、咲夜はきっと元々住んでいた所を追われてここに辿り着いたりしたのかしら、などと想像していたというのに。
それが理由で、勝手に身寄りが無いと判断してさっさと咲夜という名前を付けて運命を少しいじってしまった節もある。
「それではお嬢様、明日の朝に出て明々後日の朝に帰って参りますが、よろしいでしょうか」
「え、ええ、いいわよ」
「ありがとうございます」
「…………」
それで話は終わりとなった。
しかしそれで終わらす気の無いレミリアはその日の晩、咲夜も寝静まった夜半に紅魔館正門へとやって来た。
雨は結局降らなかった。雲の切れ間から星空が覗いており、どうやら明日から晴れの日が続くようだ。
紅魔館の正門は梯子を使わないと常人では届かない位置に橙色の弱い灯りが備え付けられ、常闇にじんわりと滲むように儚く光の輪を広げていた。
その弱い灯りでさえも油が切れかけているのか、苦しく喘ぐように時折点滅しており、今にも消えてしまうのではないかという不安を見る者に与えずにはいられない。
しかしここに住む者にとっては、油切れなどではなくこの灯りが随分と昔からこうなのだと知っていた。
どこか壊れているのか欠陥があるのか、とにかくこの館の不気味さを引き立てるのに一役買っているのは確かであった。
「美鈴」
そんな薄明かりの下、ぴしっとした直立不動の姿勢で彫像のように佇む門番の美鈴に呼びかける。
が、返事が無い。
「美鈴?」
「くかー」
「…………」
レミリアは寝ていた美鈴を蹴り飛ばした。
「うでああ!」
妙な悲鳴を上げて地面を転がっていく美鈴。
一目見てこの館の異様な姿に固唾を呑んだ者も、間の抜けたこの門番と接すればすっかり気が抜けてしまうというものだ。
すぐに「うーむ……」と呻き頭を押さえながらふらふらと立ち上がってきた。
「さ、咲夜さん、いつもより起こし方が乱暴ですよお」
「まだ寝ぼけてるのかしら?」
憮然とした様子で腰に手を当ててレミリアが言い放つと、主の姿を確認した美鈴は全身をびびっと電流が駆け巡ったように体を強張らせ、慌てて気をつけの姿勢を作り出した。恐縮しきった様子で顔は青ざめ、震える声で喋り出す。
「お、お嬢様、これはその、何と言いますかすいませんついでして」
「全く……」
無性に頭が痛い。叱るのもいいが、面倒臭がりのレミリアは呆れながらもさっさと本題に移る事にした。
「あなたに特別任務よ」
「へ?」
思わず「ええ~」と不平を洩らしそうになるのを必死に押し止めた。この悪魔の主が突拍子のない事を言い出すのはいつもの事であるが、はいはい何ですか、みたいな投げやりな態度を取ると途端に拗ねてしまうので取りあえず驚いてみせるのが無難な対応である。
しかし次にレミリアが言った事はいささか本当にきょとんとする内容であった。
「明日、咲夜が外出するわ。見付からないように後を追ってその様子を報告しなさい」
「ええ?」
訳が分からないといった具合で美鈴はがくんと首をかしげた。いきなりこんな事を言われれば当然のことではあった。
「それはどうして……」
聞くと、待っていたかのように主はうんうんと大仰に頷いてみせた。
「説明するわ」
レミリアが事の顛末を話してやると、美鈴も知らなかったのか「えええ!?」と今にも飛び上がりそうな声を高々と上げた。
幼い悪魔は眉を曇らせると人差し指をぴんと立て、その小さな唇に軽くとんとんと当ててみせる。
「静かに。咲夜が気付いたらどうするの」
「あ、ああはい……しかし咲夜さんがそんな、その、普通な出自だったなんて……」
驚きの余りつい口からそう洩らしてしまったが、何だか失礼な事を言っていると思った。
しかしレミリアは気にした様子もなくうんうん大きく首肯する。
「私も驚いてるわよ。まあ以前の暮らしが表沙汰になってないのも、私が咲夜って名前を付けた効果でもあるんだろうけど。で、あなたに咲夜が人間の里でどんな暮らしをしているのか調査してきてほしいのよ」
「え……でもそんなの本人に聞けば答えてくれるんじゃ……」
咲夜がその出自についてあっさり言ったという事は別に隠している訳ではないのだろう。
それに、レミリアに対しては尚更包み隠さず質問にも答えてくれるとは思ったが。
「それでも何か重大な事を隠していたらどうするのよ。咲夜は私の従者なのよ? ちゃんとあの子について知っておきたいじゃないの」
「はあ……」
じゃあなんで今まで調べもしなかったんですか、調査とか単なる好奇心じゃないんですか、とは言わなかったが、確かに気になることではある。
それにどちらにせよ、主の命令をまさか断るわけにもいかない。
「分かりました。確かにその任務を果たしてみせます」
「頼んだわよ」
レミリアはぱたぱた羽をはばたかせて館の中へと帰っていった。
「……咲夜さんの実家、かあ」
美鈴はふと空を見上げて呟く。
雲の切れ間から半月が覗き、正門に備え付けられた橙色の灯りが届かない暗がりを薄ぼんやりと照らし出す。
実のところ、美鈴は内心穏やかではなかった。
数年前にやって来た咲夜は以来ずっと紅魔館で暮らしてきたし、ここが彼女の家でありここで暮らす者は家族のようなものだと思っていた。
しかし咲夜には実家があるという。紅魔館ではない場所に帰るべき家があるという。家族があるという。
急に咲夜がどこか遠くに行ってしまったようで、心をすぱすぱ切られて穴を開けられたような寂しさが美鈴を襲った。
自分は咲夜さんのことを家族のようだと思っていたけれど、彼女からすれば単なる職場に過ぎないのではないか? 自分はただの同僚に過ぎない?
家族のように思ってくれというのは傲慢な事だったのだろうか。
それに、
「咲夜さん……」
あなたはいつか、どこかへ行ってしまうんですか?
いや分かっていた事ではある。彼女は人間で自分は妖怪だ。寿命の差は歴然としている。別れは相当早いうちにやって来るのだ。
彼女がやって来てからの数年、その成長の早さに愕然としてきたではないか。
しかし今、寿命以上に早く咲夜がどこかへ行ってしまうのではと思い、美鈴の中で焦燥が地団駄を踏むように助走を始めた。
どこへ向かえばいいとも知らないので掻き乱れる心をぐっと押さえ込む。
いつしか月は隠れ、一寸先も見えない闇がのたりと幅を広げ出していた。
「それでは、私がいない間のことは頼みます」
「ゆっくりしてくるといいわ」
「咲夜さん行ってらっしゃい」
翌日の紅魔館正門の前、簡単な手荷物を持った咲夜をレミリアと美鈴、それに妖精メイド達が見送りに出ていた。
昨日のどろどろした曇り空が嘘のようなからっとした雲一つ無い青空が広がり、おかげでレミリアは日傘を手放せなくなっている。
あれこれ妖精メイド達に指示を出していた咲夜は、レミリアに「いいから行きなさい」と促されてやっと歩き出した。
小さくなっていくその後姿を見つめながら、レミリアはさっさと陽の当たる場所から去りたいのか、「じゃあ頼んだわよ」と言い残して早々に戻っていく。
美鈴はぴしっと直立の姿勢を作った。
「はい、必ずや」
レミリアに連れられるようにして妖精メイド達もぞろぞろと館の中へと引き返していく。
誰もいなくなった頃合を確認し、美鈴は隠しておいた手荷物を担ぎ、小さくなった咲夜の後姿を見やる。
そんな時だった。
「美鈴」
呼びかけられてふっと振り向くと、レミリアと入れ替わるようにパチュリーが一人でやって来る所だった。
「パチュリー様? どうしました?」
吸血鬼以上に外出頻度の低いこの日陰少女が外に出てくるなど珍しい事もあるものだ。
そのせいか、いつも気だるい様子の半開きの目が今は更にその目蓋を重たそうにとっくりと引き下ろしているのが見受けられる。
本を抱えていないと落ち着かないのか、まさかここで読み始めるわけでもないだろうに分厚い大判の書籍を抱えていた。
美鈴の前まで来ると、若干声を潜める様子で話し出した。
「事情はレミィから聞いたわ。咲夜を調べに人間の里まで行くのよね」
「ええ、はい」
調べると言うと何か悪い印象を受けるが、やましい事をしているのはこちらの方だ。
「ちょっとお願いがあるのよ」
「? なんでしょう」
首をかしげる美鈴に、パチュリーは一層声を落として囁いた。
「最近、人間の里に紅魔館の事をよろしく思ってない連中がいるみたいなのよ」
「え? そんなの前からいるじゃないですか」
少し変わっているが伝統的な日本文化が息づくこの幻想郷、最近は色んな文化がごちゃ混ぜになって来ているが、それでも外国様式への抵抗感は根強い。
この紅魔館はまさに外国建築であるし、住んでいるのは危険度Aクラスの吸血鬼、他は妖怪に魔法使い。進んで訪れる物好きな人間はどこぞの巫女や黒い魔法使いもどきくらいである。
別に今の幻想郷では人も妖怪も特に争うことなく生活しているが、異質なものへの反発というのはいつの世も存在する。
紅魔館は人一倍それが強い傾向にあるのだ。
パチュリーは静かにかぶりを振った。
「行動力のある輩が集まっているみたいでね、積極的に喧嘩を売ってくるかもしれないのよ」
「はあ……」
まさかただの人間が紅魔館を相手取って戦えるとは思えないが。
「弾幕勝負や武術の試合ならいくらでも受けますけど……」
「そんな直接的に来るならいいんだけど。まあとにかく、向こうの里長が注意してきたのよ。だからまずは里長に色々話を聞いて頂戴。あっちの方でも対応はしているみたいだけど、こちらでも独自に調査をしていきたいのよ」
舐められたまま黙っているつもりは無いようだ。この魔法使いは意外と敵に対しては冷たいところがある。それに、人間同士では処分に甘いところが出るのではとも疑っているのかもしれない。
「そんな訳だからお願いね」
「簡単に言ってくれますよもう……」
とはいえ放っておく訳にもいかない。
「分かりました……敵を探し出して叩けばいいんですね?」
「そういうこと。死なない程度にね」
「それは当然ですが……」
「そう。とにかくお願いね」
「はあ……」
人間側の動きに懸念を持っているといっても自分が動く気はないのか、パチュリーはさっさと館へと引き返していった。
「反紅魔館、ですか……」
いちいちショックを受けるような細い神経をしていないが、それでも気分の良いものではない。それに、紅魔館に危害を与える可能性を放っておく訳にもいかない。
「よおし……」
仕事が一つ増えたが、気を引き締めて美鈴は咲夜の後を追うことにした。
パチュリーと話し込んでいるうちに結局見失ってしまったので、人間の里の入り口の所に急行して息を潜め、じっと張り込んでいるとやがて咲夜がやって来たので美鈴は安心してほっと息を吐いた。
そのまま気配を絶って咲夜の後をつけ始める。
朝の人間の里は天気の悪かった昨日を挽回するかのような活況を呈していた。
大きな通りでは肉が安いだの川魚がお買い得だのと威勢のいい掛け声が飛び交い、メイド服を着た咲夜は商売人にとっては格好の的であったのか、しきりに呼び止められては断ってを繰り返していた。
人間達の中に反紅魔館グループがいるんだと思うと、普段ならうきうきするこの大通りに若干の陰りが落ちているように見受けられる。
しかし今はお嬢様の任務中なんだと余計な感情を振り払い前を見据え、人ごみに紛れながらメイド長を追跡する。
咲夜は勘が鋭いし身体能力も高いが、美鈴に比べれば及ぶべくも無い。気付かれずに後をつける、などという事もさほど難しい仕事ではなかった。
たまに気配の薄い美鈴に気付かずにぶつかってきそうになる他の通行人をするりと避けつつ、つかず離れずの距離を保ったまま追跡劇は続く。
ばれたらどんなお仕置きをされるんだろう、などと考えると薄っすらとした悪寒がぞわりと足から頭にかけて這い登ってくる。
それをお嬢様の命令だから仕方ないんだと振り払うが、それは言い訳だと分かっていた。
自分自身、咲夜の事を知りたくてしょうがないのだ。家族のように思っている咲夜の家庭事情という重大な事を知らないのがもどかしかった。
「――!」
やがてどうやら目的地に到着したようだ。美鈴の表情に緊張が広がる。
「…………」
しかし美鈴はいささか呆然とした様子でそれを見やっていた。
咲夜が入っていったのは何てこと無い、人間の里の中心から離れた場所にある、通りから道を一本踏み込んだ細道に並ぶ住宅地。その一角に佇む一軒の平屋建てだった。
何か特徴がある外観でもなく、ちゃんと場所を覚えておかないと他の家々と混ざって分からなくなってしまいそうだ。
全体的に黒っぽい外観で、あまり裕福な方ではないのか所々の壁や瓦が剥がれて修理もされていなかった。
まさかここが?
表札には冗談みたいに『十六夜』と掛かっている。
半信半疑のまま外壁に耳を立てると、中から「ただいまー」やら「あ! おかえりー!」などのやいのやいのといった明るい声が伝わってきた。
何とか中を覗けないものかと裏手に回りこむと、木の桶やら雨に濡れてぐずぐずになった箱やらが雑多に積み上げられていた。こんな不衛生は紅魔館では考えられない事だ。
呆然としている暇は無い。きょろきょろ辺りを見渡すと丁度窓が半分開いている所が見受けられ、そこから一際大きく声が洩れている。
美鈴は見付からないように細心の注意を払い、積まれたゴミをかき分けて近づくとそっと窓から中の様子を窺った。
「…………」
するといるわおるわ、親らしき中年の夫婦に小さい女の子が三人、男の子が二人と結構な大家族である。
これには美鈴も開いた口が塞がらなかった。
本当にここがあの完全で瀟洒なメイド長の実家なのだろうか?
しかし口々におかえりおかえりと歓迎されているのを見ると、ここが咲夜の本来の住まいであることにどうやら間違いは無いようだ。
咲夜さんはどこか別の国から来たんじゃないのか、などと考えていた美鈴からしたら頭のてっぺんをトンカチで叩かれたような衝撃を覚えた。
「咲夜、あなたもっと頻繁に帰ってきなさいな」
「ごめんお母さん。色々と忙しくて」
「全く、月に一度しか便りはよこさないしなあ」
「お父さん! 具合はいいの?」
「そんなんとっくに良くなったに決まってらあ」
「なんだ……心配して損したわ」
「損するってこたあないだろう」
「おねーちゃーん」
「よしよし。いい子にしてた?」
「うん!」
「お前昨日おねしょしただろ?」
「もー! 言わないでよお!」
「あたしね、寺子屋に通い出したの」
「そう。あそこの先生は良いわよね」
「この前お兄ちゃん怒られてたんだよ」
「あの頭突きは死ぬかと思った」
実に微笑ましい家族の団欒である。
――これは……
窓の外から様子を窺いながら、調査の必要など無いのではないかと美鈴は考える。
至って普通の家族を咲夜さんは持ってました、咲夜さんは十六夜さん家の娘さんでした、と報告すれば事足りる。これ以上個人の内情を詮索する事ははばかられると感じた。
咲夜さんが普通の家庭出身だったということには驚いたが、勝手にあれこれ想像していたのはこちらの方だ。これ以上彼女の家庭に踏み入るのは横暴だとも思う。
咲夜さんには紅魔館以外にちゃんと帰る場所があった。それでいいではないか。
自分にそう言い聞かせそっと身を引こうとした。
その時であった。
三人の女の子の内で最も小さな子が目に涙を一杯に溜めて咲夜に抱きついた。
「ママー」
「ママあ!?」
美鈴は体全体がかち上げられるような衝撃を覚え、気付くと開いた窓から身を乗り出し叫んでいた。
「あ……」
そんな彼女を見つめ、それこそ時が止まったように固まる一同。
――しまった。
と思ったのは遅すぎた。
しかし妹のように可愛がっていた咲夜が母親呼ばわりされていて、まさか子持ちだった? などと思えば正気を失うのも仕様のない事ではあった。
咲夜が顔を引きつらせ、次第に薄ら寒い不穏な色がじんわりと広がっていく瞳をもって呼びかける。
「美鈴……? あなた、何やってるの?」
それに美鈴は、
「は……はは」
もう笑って誤魔化すしかなかった。
「いやあ娘の同僚さんとはねえ。いつも咲夜がお世話になってます」
「い、いえいえ」
あの後正式に客として招かれた美鈴は、居間の座布団に居心地悪そうに座り込み、咲夜の父親の言葉に恐縮しきった様子で首を振った。
外見通り家の中も結構ガタが来ているようで、天井や壁の一部が剥がれ濃い染みが広がっている部分も多かった。
隣の子供部屋からは大勢の子供達が興味深そうに見慣れない服装の美鈴を襖から顔を突き出して見やっている。
「こちらこそ咲夜さんにはいつもお世話になってまして……」
さっきからその咲夜からの視線が痛い。怖くて目を合わせられないが、針でぶすぶす刺されるような圧力はひしひしと感じられた。
冷や汗を垂れ流しながら全力で視線を目の前に座る父親に固定する。
咲夜の父はいかにも頑固そうな男気溢れる様子の中年男性で、髪は縮れさせた黒髪である。
母親の方も黒髪しなやかな中年女性で、温和な顔立ちは見ていて安心できる雰囲気を醸し出していた。
――あれ?
と思うのも無理はない。
咲夜は髪の色が銀に近い白色だしそれは地毛に違いないのだが、この家族は皆髪が黒いのだ。
顔立ちも似ていなく、親子だと言われても疑ってしまう者が多いかと思われる。
「それにしても」
美鈴の思考を氷の玉のように冷たく重い咲夜の口調が中断させる。
「一体どうしてここに来たのかしら?」
美鈴の斜め前に座り込み、口だけで笑って話しかけてくる。
土下座をしたがる体を必死に押し止め、美鈴はヤケになった笑いで誤魔化そうとした。
「い、いやあ、たまたま近くを通りかかったら聞き慣れた声を耳に挟みまして、それでちょっと覗いてみたら咲夜さんがいまして……」
「そう。まあ理由については後で聞くわ。大体予想はつくけれど。今はゆっくりしていきなさい」
「え、いや、理由は今言っ……た…………いや何でもありませんすいません」
万遍の笑みで見つめられ、このメイド長相手に下手な言い訳は不可能であると理解した。
しばらく世間話に花を咲かせていると、好奇心が満杯になってどこかから溢れ出たのか、子供達が美鈴に寄り付いてその赤く長い髪をくいくい引っ張ったりし出した。
「ねーねー中国さんって妖怪なの?」
「え、うん。いや私の名前は紅美鈴で……」
「これ、今話をしてるんだ。子供はあっち行ってなさい」
「中国さん遊ぼうよー」
「あそぼーあそぼー」
早くも美鈴の温和な気性を察したのか、子供達は興味津々で隣の子供部屋へと彼女を引っ張っていってしまった。
「すいませんお客さんが珍しいみたいで……」
「い、いえいえ」
咲夜の母に申し訳無さそうに謝られると、美鈴はぶるぶると首を振って微笑んでみせた。
それからしばらくの間、美鈴は子供達の遊び相手をして十六夜家で過ごす破目になった。
「私、何やってるんだろう……」
結局、美鈴が子供達から解放されたのは夕方になっての事だった。
「悪いわね、子供達の相手をさせちゃって」
「いえ、子供好きですし」
随分と陽の傾いた人間の里。
晩御飯の買出しに咲夜と美鈴は並んで通りを歩いていた。
あの後、当然のように昼御飯をご馳走になった美鈴はそのまま晩御飯も振舞われることがいつの間にか決定していた。
休日の人間の里は夜が間際まで迫っていても人が途切れる事が無く、通りの客引きの掛け声もせわしなく続いている。
人や建物の影は東へ東へと長く伸びており、人々が織り成す無数の影が重なってはまたせわしなく別れていく。
この場面だけを見れば、たまに咲夜さんと一緒に行く買出しと変わらないなあ、などと美鈴はぼんやり考える。
「あの、咲夜さん」
「何かしら?」
おずおずと美鈴は切り出した。
「すみません、折角の家族団らんなのに……」
「ああ、いいのよそんな気にしなくて。賑やかで良かったわ」
咲夜はもう怒ってもいないのか、けろっと笑ってみせた。
「あなたがここに来たのって、お嬢様に調べるよう言われたからかしらね」
「う……」
全てお見通しである。
隠してもしょうがないので、美鈴は「はい……」と観念する事にした。
「まあ、そんな事になるんじゃないかとは思っていたわよ」
「嫌……でしたか?」
咲夜は「ううん」と首を振る。
「別に隠していた訳じゃないんだけどね。今まで聞かれなかった事をいきなり言ったから、お嬢様随分と驚いてたし」
「はは……確かに私も驚きましたよ」
「私の実家がここにあるのってそんなに意外だったかしら?」
「それは……まあ」
力無く肯定すると、咲夜は「なんでかしら」と憮然とした様子で小さく頬を膨らませた。
「本当はね」
買い物の最中、咲夜はどこか遠くへ語りかけるように口を開いた。
「私の名前、咲夜じゃないのよ」
美鈴はきょとんとして首をかしげ、そして思い至る。
「咲夜さんの名前って、確かお嬢様が付けたんでしたっけ」
「そう。お嬢様の能力で……姓名判断、ってやつかしらね。働く時に変えられてね。それでちょっと驚いたわ。家族まで私のこと咲夜って呼ぶようになってるんだもの」
「ああ……」
美鈴は若干申し訳無さそうに問いかける。
「やっぱり、元の名前の方がいいですか?」
「ううん」
咲夜は即座に首を振った。
悪魔の館で働く事を決めたその時に、とうに覚悟はついていた。
「今の暮らしにも名前にも満足してるわ。ただ、少し昔を思い出しただけ」
ただ予想外であったのは、働き始めたその紅魔館があまりにも平穏な場所であったという事である。だからこそこれまで働いてこれたのかもしれないが。
「…………」
咲夜として生きる事を決めた彼女に今更、元の名前はなんですか、とは聞けなかった。
「十六夜家に私が娘としているって事も、近所の人達には何だかぼんやりというか曖昧になってるみたいでね。これも姓名判断の効果かしら」
人間の里に咲夜の知り合いがいるという話を聞かないのはそのためのようだ。
レミリアが「咲夜は素性がばれない方がいいでしょうね」と一人で早合点し、気を利かせたつもりでそう運命を操ったのだが、どうやらいささか的外れであったと言わざるを得ない。
美鈴は顔を若干引きつらせながらも、少々語気を強くして「そうでしょうね」と頷いた。
元々その外見のおかげで肩身の狭い思いをしていた咲夜からしたら、近所が自分を忘れがちな事について不自由はしていないし不満も無いのだが。
「あの、咲夜さん」
てきぱきと買い物を済ませた帰り道、美鈴は再び問いかけた。
「さっきの咲夜さんをママって呼んでいた子は……」
「ああ」
咲夜は少々照れくさそうに苦笑を浮かべた。
「変だと思ったでしょう? 私達子供が親と似てないこと」
「……ええ」
確かに子供達と遊ぶ中でずっと顔を突き合わせてみて分かった。咲夜どころか、子供達みんなが全然親と似ていないのだ。
「お母さんは子供の出来ない体質でね。代わり、っていう訳でもないけど、身寄りの無い子を引き取って養子にしてるのよ」
――私もその一人。
「……そういう事でしたか」
どうりで似ていないわけである。拾われたということは、時間を操る程度の能力についてもその出自は謎のままということか。
「それで、咲夜さんの娘? さんは……」
「あの子も身寄りが無くてね、私が見つけて連れてきたのよ。それでまあ、拾ってきた責任もあってずっと世話してたら、いつの間にかママって呼ばれるようになってね」
「はあ……咲夜さんに子供とか心臓が止まるかと思いました」
ついこの間までいたいけな少女であった同僚が実は子持ちでした、となった時には少なからずショックを受けるのも当然ではあった。
「あらどうして?」
「え。どうして、って……」
そんな心の内を白状するのも照れくさいので、答えに窮した美鈴は「何ででしょうね」と言葉を濁した。
「……ふう」
咲夜は軽く嘆息し、いまやすっかり陽の落ちた西の空を見やる。
「感謝してるのよ。私みたいな白い髪の奇人も育ててくれたしね」
「…………」
その横顔がとても穏やかな微笑みだったので、美鈴はさっきまで抱いていたほの暗い嫉妬心をふっとかき消してやった。
こうして家族と幸せに暮らす咲夜さん。喜ばしいと思ってあげるのが適切であろう。つまらない感情を抱いていた自分が馬鹿馬鹿しい。
やがて二人は十六夜家へと戻っていった。
夕食後も美鈴は子供達に懐かれ引っ張られよじ登られで大わらわであった。
いつになく賑やかな十六夜家に、近所の人も「なんだか十六夜さん家は賑やかだなあ」と首をかしげたものである。
咲夜の両親も美鈴の事を気に入ったのか、「今日は泊まっていきなさい」「いやそんな悪いです」「いやいや」「いやいやいや」などといった問答が続き、結局は泊めてもらう事に決定した。
その日の晩の事である。
子供達を引き連れるようになし崩し的に一緒に眠ることになり、子供部屋ではごちゃごちゃと暴れるように子供達とその中心に美鈴が横になっている。
その様子を可笑しそうに微笑みを浮かべて見ていた咲夜は、そっと襖を閉じて居間の座布団に座った。
両親が何やら話があるというのだ。
「何? お父さん」
「ああ。お前に話があってな」
どうやら真面目な話らしい。思わず居住まいを正して正面に座る父と母を見やる。
おもむろに父は切り出した。
「お前、いつまであそこで働く気だ?」
咲夜の眉間の皺が深まる。
「いつまで、ってどういう事?」
「いつまではいつまでだって事だ。あそこでずっと働いて将来はどうなる? いつまでも嫁に行かないでいる訳にもいかないだろう」
「それは……」
確かにそうであった。
将来の事を考えると、ずっと紅魔館で働くというのは無理があるのかもしれない。
いつかは結婚して子を産んで家族と一緒に暮らしていかないといけないだろう。それとも紅魔館に骨を埋めるとでも?
ずっと変わらない館の面々と過ごす内に、自分の生活も変わらないんだと漠然と思い込んでしまっていた。
自分は人間なのだ。さっさと結婚して子供を残さないとあっという間に死んでしまう。そんな危機感をあのゆったりとした時間が流れる紅魔館で暮らす内に忘れてしまっていた。
「お前がうちの家計の負担を減らすために、住み込み仕事のあの館で働き始めたのは分かってる」
「…………」
このさほど広くもない幻想郷、妙な白い髪をしていてしかもまだ幼い娘をわざわざ雇ってくれる所などそうありはしなかった。条件無しで募集をかけていたのは紅魔館くらいである。
あそこで働く度胸を兼ね備えているという、ある意味どこよりも厳しい条件ではあったが。
「でももういいんだ」
「……もういい、って?」
父はおもむろに脇に置いていた冊子を差し出した。
「これは?」
「開けてみろ」
怪訝な表情で開いてみると、片方のページにはばんと大きな白黒写真が載っていた。爽やかそうな良い感じの男が微笑みかけていて、隣のページにはそのプロフィールらしきものが書かれている。
「これって……」
どう見てもお見合い写真である。
「私にお見合いをしろっていうの?」
「明日会うことになってる」
「明日!?」
突然の話に抗議の目線を送ると、父は腕を組んで鼻息をまいた。
「お前もいい歳だ。そろそろ身を固めてもいいだろう。その人は問屋の息子さんで、お前は紅魔館で働いているがそれでもいいって言うんだ。こんな良い条件二度と無いぞ」
「……お父さん」
じいっと厳しい疑いの目を向ける咲夜。
「倒れたっていうのは嘘だったのね? これに私を呼ぶために」
長年メイド長として働くうちに培われた威圧感に、父は「うっ」と言葉に詰まりながらもごほんと咳をついて気を取り直した。
「とにかく、明日会うんだと先方と約束してんだ。今更反故にはできんぞ」
「…………」
ずるい、とは思ったが自分の事を心配してのことなのだろう。納得はできないが。
「咲夜」
今まで黙っていた母が諭すように語り掛けた。
「突然の話でいきなり結婚だなんて考えられないかもしれないけど、色々と将来について考えるためにも会うだけ会ってみなさい。決して悪い事じゃないと思うわ」
「…………」
確かにいつまでも結婚から逃げている訳にもいかないだろう。自分は人間なのだ。紅魔館の他の住人達とは違うのだ。
「分かったわよ、会うだけなら……」
咲夜は渋々ながら頷いた。
翌日の早朝、咲夜の昔着ていた服はもう合わなくなってしまっていて使えないので、母と一緒にばたばたと呉服屋まで出向くと白い髪に合う着物を店員と一緒になってあれでもないこれでもないと探し回り、陽がいくらか高くなった時分にようやく藍色の着物を一着こしらえると着付けまでしてもらってから店を出た。
「崩しちゃだめよ。このまま相手方とお昼をご一緒するんだから」
「分かってるわよもう……」
普段はメイド服で別の物を身につけたとしても洋服なため、和服を着るのは久し振りで懐かしくもあった。
着心地の悪さに肩が凝りそうだと辟易する。
家に帰ると、父は居間で新聞を読んでいて美鈴はまた子供達と遊んでいた。
咲夜を見るなり、父は目に涙を溜めて打ち震える。
「うう……咲夜が嫁に……」
「いや行かないから。会うだけだからね」
子供達と遊んでいる美鈴に若干ためらいながらも声をかけると、ふっと振り向いた彼女は限界まで目をまん丸に見開いた。
「さ、咲夜さん!?」
まとわりついていた子供達を振り切り咲夜の前までやって来る。
「どうしたんですか!? なんていうか、その……」
ちょっと買い物に行ったと聞かされていた咲夜が帰ってきたと思ったら艶やかな着物を着ていた。いつものセミロングの髪は後ろで一つの三つ編みに纏められている。
突然の事に言葉を詰まらせる美鈴に、咲夜は照れ笑いを押し隠して彼女の言葉を待っていた。
「あ、いえ、その……」
ひとしきり咲夜の着物姿を堪能していた美鈴は、ようやくおずおずと喋り出した。
「綺麗、です……すごく」
「そう?」
嬉しそうに微笑みを零し、着物の袖を持ち上げてみせる咲夜。
「あの、一体どうして?」
聞かれ、言葉を濁した。
「ええと……ちょっとお父さんお母さんと出かけてくるのよ」
「はあ……」
久し振りに会ったんだし、きっと親子水入らずで料理店にでも行くんだろうなあ、などと美鈴は納得することにした。
「…………」
そんな美鈴を見ながら咲夜は内心動揺していた。
なぜ見合いの事を隠したのだろう。
言えばいいではないか。なんの不都合がある?
きっと笑って祝福してくれるだろう。
「…………」
いや、それが嫌だったのだ。
美鈴からおめでとうございますお見合い頑張ってください、などと言われるのが何故だか無性に腹立たしかった。
「ママ? パパ? おねーちゃんもどこ行くの?」
着飾った咲夜に子供達が駆け寄ってくると、彼女は困ったように首をかしげた。
「ちょっとお出かけしてくるわね。大切な用事なの」
「えーわたしも行きたーい」
「わたしもー」
「僕も!」
「ううん、だめよ」
優しい言い方だが長年のメイド長としての仕事の中で培われた威厳がある。
子供達もどうやら付いて行ける望みがない事をにわかに察した。
「あ、そうそう美鈴、何か用事があるなら帰っていいわよ。この家のことは大丈夫だから」
「え? ああ、はい、そうですね」
途端、子供達が「えー!」と口を揃えて不平をこぼす。
咲夜が「迷惑かけないの」と諭すと、それでもぶーぶー文句を垂れていた。
やがて「行って来ます」と咲夜とその両親は若干急ぎながら出かけていった。
「行ってらっしゃーい」
手を振り三人が消えた後、残された子供達と美鈴との間に微妙な沈黙がすうっと流れる。
「え……と」
頬をぽりぽり掻きながらおずおずと美鈴は切り出す。
「もう少し、遊んでいこうかな」
十六夜家からわっと子供達の歓声が沸き上がった。
見合いの場所として指定されたのは小洒落た日本料亭であった。
なんでも最近になって大規模な改装を行なったようで、内装を一層オープンな造りにして料理も小物を増やし、価格も抑えてそれが今時の若者達に人気なのだとか。
咲夜と両親が到着した頃には、すでに相手方の男と両親、それに仲人が揃って座っていた。
中規模な庭先に面した座敷でゆったりとした広さがある。他にも複数の座敷が等間隔に備え付けられており、少なからぬ客達が談笑に花を咲かせていた。
喫茶店で言うオープンカフェのようになっており、成程いかにも若者受けしそうである。カップルらしき男女の姿もちらほらと見受けられた。
「すみません遅れまして」
「いえいえ、ちゃんと時間通りですよ」
男は咲夜より五歳ほど年上らしく、どことなく派手な袴を身に付け、やって来た咲夜に向かってにこりとした微笑みを投げかけた。
「こんなに綺麗な方とは思いませんでしたよ。私としては嬉しい限りです」
「……どうも」
さっき美鈴の前で見せた溢れんばかりの初々しい笑顔とは打って変わって微妙な反応である。
そっけない態度の咲夜を見て、両親ははらはらしながらも座る事を促した。
――ご趣味はなんですか?
――最近は問屋の仕事も順調でして。
――週末はどのようにお過ごしで?
滞りなく見合いは進む。
このような場など慣れてなく、すぐに表情が事務的になってしまう咲夜を両親が必死にフォローしたおかげかもしれなかった。
「咲夜さんは紅魔館で働いていると聞きました」
男が切り出すと、場に変な緊張感が張り詰めた。
怪しい悪魔の館で働いているというのはマイナス要素でこそあれ、プラスには決してなり得ない事であった。
「ええ、そうですが」
何という事もなしに答えると、男は爽やかな笑みを絶やさずに言った。
「世間じゃ悪魔の館なんて言われてますけど、僕はそんな物騒な所じゃないと思っているんです。実際に働いている咲夜さんはどう思いますか?」
「…………」
咲夜はちろりと男を見やる。
さぞ女受けするであろう、にこやかな笑みを浮かべる見合い相手。
紅魔館を肯定的に見ているというのは珍しい事だ。
「……そうですね」
溜息一つついて咲夜は言う。
「確かに気のいい方達ばかりです」
男は「そうでしょう!」と大仰に頷く。
何やら穏やかな空気になった事にほっとした他の面々は、それから二人の会話を盛り上げようと笑顔を振り撒き見合いを進行していった。
一方の十六夜家では、何も知らない美鈴が子供達を必死にあやして遊んでやっていた。
「中国さんすごろくやろー」
「いや私の名前は紅美鈴で……」
「えー博麗ごっこやろーよー。私博麗の巫女やるー」
「やだよそれ……男参加できねーもん」
「中国さんすごろくー」
「はいはい、皆で双六やろうね」
そうして子供に混じって美鈴がサイコロを転がしている最中の事だった。
「ねーねー中国さん」
咲夜をママと呼んでいた一番小さな女の子がじっと美鈴のことを見上げてきた。
もう名前を訂正することを諦めたのか、美鈴は嘆息してから苦笑いを浮かべる。
「何かな?」
「おみあい、って何?」
一同きょとんとしていると、一番大きな女の子がえへんと胸を張った。
「お見合いも知らないの? 結婚する前にするのがお見合いだよ」
ちょっと違うと美鈴は思ったが、概ね当たっているのでうんうん頷いておく事にする。
すると少女は途端に不安そうになって瞳を潤ませた。
「え、でも……昨日、ママとお父さん、お母さんが言ってたよ?」
ママというのは咲夜のことでお父さんお母さんは咲夜の両親のことらしい。
「ママ、今日お見合いするって」
美鈴の動きががくりと固まった。
そのままぶるぶると拳に力を入れるので、握ったサイコロがぎしぎしと悲鳴を上げてひびが入る。
美鈴は頬を引きつらせて少女を見やった。
「そ……それは、本当、に……?」
少女がこくりと頷くと、子供達がざわざわと騒ぎ出した。
「お姉ちゃんがお見合い?」
「そんなの言ってなかったじゃん」
「こっそり行ったんだよずるいなー」
「おいしい物食べるの?」
美鈴の脳裏には先ほどの咲夜の姿が浮かんでいた。
艶やかな着物を着込んでいた咲夜。
言われてみれば確かにお見合いに行くと言われても納得の格好であった。
綺麗だと言うと頬を赤らめ、これまで見た事も無い初々しく可愛らしい微笑みを零した咲夜。
その彼女が、
今、
どこぞの男とお見合いを。
握り拳を解くと、ひび割れたサイコロが破片を零して双六盤の上にとんと落ちた。
子供達がぎょっとした様子で雰囲気の変わった美鈴を見やる。
吹き消したはずの緑色の嫉妬の炎がまた別のところで燃え上がり、今回はどうやら易々と消えはしないようだ。
「ちょっと、行ってきますね」
断固とした口調からどうあっても止められはしない事を察した子供達は声をかける事も無く、飛び出していく美鈴を呆然と見送っていた。
通りに勢いよく走り出るとすぐに気を探って咲夜の居場所を突き止めようとする。
なぜ飛び出したのかは自分でも分からなかった。
ただ今はさっさと行けと本能が理性の上に乗って鞭を入れている。
馴染んだ気配をアテに探っていくと、東方二百メートル程の所にそれを捕まえた。
「咲夜さん!」
美鈴は一陣の風となって駆け出した。
通り過ぎた後には突風が吹き、通行人が目を回して何事かと辺りを見渡す。
うどん屋の暖簾が吹き飛びそうな程ばたばたとはためき、犬がけんけん吼えては威圧に呑まれてすぐにきゅんと小さく縮こまる。
美鈴の脳裏には咲夜が初めて紅魔館に来た時の姿が浮かんでいた。
当時はまだあどけなさの残る少女で、仕事について分からないことはしきりに質問してきたものだ。
あっという間に仕事を覚えた彼女は居眠りをしてしまう自分を今ではしきりに怒りに来るが、妹のように可愛がる気持ちは薄れていない。
そんな咲夜が結婚などと早すぎる、と親心のようなものを発揮して美鈴はひた走る。
そうして通りに小さな騒ぎを巻き起こした美鈴はあっという間に目的の場所へと辿り着いた。
見たところ小洒落た日本料亭だ。
通行人がぎょっとした様子で店の前で急停止をかけた美鈴を見やり、ここまで来てやっと自身の気配を抑える事を思い出す。
咲夜の気配は店の裏側だ。
美鈴は消えるように店の裏手へと回りこんでいった。
そこで見たものは――
「あ……」
整えられた茂みに身を隠し、美鈴は愕然と打ち震えた。
庭先に構えられた複数の座敷。他にも多くの客達が少し早い昼食を取っている中の一つ。
そこには咲夜とその両親、それに見合い相手や相手方の親や仲人らしき人が談笑に花を咲かせていた。
咲夜は見合い相手らしき二枚目の男と向かい合い、どこか楽しそうに微笑み合っている。
そう、とても幸せそうに。
実際には作り笑いに他ならないのだが、そんな笑顔を普段から見ていない美鈴からしたらただ笑っているようにしか見えなかった。
「あ……」
さっきまでの勢いがどこへやら、急に美鈴の中の温度がぐっと冷え込んでいった。
温度が下がったので嫉妬の炎に薪をくべると、それは更に大きく燃え上がった。しかしどれだけ火を強めてもこの寒さが収まる事はない。
自分は何をしにここまで来たのだろう。
まさか邪魔しに行くとでも?
そんな馬鹿な。あんなに楽しそうにしているというのに。
美鈴は自分の立っている所の地面だけがぐらぐら揺れて崩れていく錯覚を覚えた。
そもそもどうして咲夜さんは自分にお見合いのことを黙っていた?
自分には関係が無いという事ではないのか。
部外者である自分が関わる余地など無いのではないか。
顔を上げる力を出すのも億劫になり、自然と足元に視線が落ちていく。
考えてみれば当たり前の事だ。
自分は咲夜さんにとってただの同僚なのだろう。だからわざわざお見合いについて教える事も無いという事なのだ。
勝手に彼女は家族のように近い存在だと思い込んでいたのは自分の方だ。
美鈴の中での咲夜という存在がぐんと遠くなっていく。
馬鹿みたいだ。自分の希望を勝手に咲夜さんに押し付けて。
もしもこの先結婚するのだと言われたらどうする?
紅魔館から去っていくという事になったらどうする?
「…………」
それなら、結婚が決まったら謹んで祝いの意を伝えればいいではないか、同僚として。
「はは……」
美鈴は空笑いを浮かべていた。
よく冷えた重い鉄を押し付けられたような冷たさが体の芯からきんきん響いてくる。
そうなのだ。
彼女は自分とは違う。彼女は人間なのだ。
人間はさっさと結婚して子供を作るものだ。いつまでも変わらずにはいられはしない。
いつまでも紅魔館のメイド長でいてはくれない。
「咲夜、さん……」
だから我侭を言って困らせるような事は慎むべきなのだ。
結婚して家庭を持つ。それが十六夜咲夜にとって一番の事なのだろう。
それを今ようやく思い知った。
「…………」
自分でも情けないと思う格好で覗いていた美鈴はそっと茂みから立ち去っていった。
「…………」
時折人にぶつかりそうになりながらふらふらと力無く通りを歩きつつ、さっきの光景が頭に何度も蘇ってくる。
綺麗に着飾った咲夜さん。はにかんだ笑みを浮かべた彼女。
あれはあの男のために用意したものだったのだ。
そう、女であれば男と一緒になるのは至極当然の事だ。
自分は彼女の良き友人としていればいいではないか。
だというのに、何故こんなに心がそっくり抉り取られるような絶望感が襲ってくるのだろう。
「咲夜さん……」
美鈴はここに来てようやくもう一つの仕事を思い出し、それに逃げ込むように取り掛かることにした。
「咲夜さん?」
見合い相手の男に呼びかけられ、あらぬ方向を見やっていた咲夜ははっとした様子で首を振った。
「なんでもありません」
何となく誰かに見られているような気がして、何故かそれによってとても後ろめたい気持ちに襲われたのだ。
不意に美鈴の顔が浮かぶ。
この着物を見て綺麗だと言った時の照れくさそうな笑顔。
――帰ったらお見合いがあった事を言おう。
咲夜は何だか急に早く帰りたいという焦燥が大きくなったのを感じた。
明らかに力の抜けたふらふらとした状態の美鈴が里長の所にやって来たのは昼下がりの事だった。
紅魔館の使いということで里長が色々と資料を示し、異文化排斥を目指すその連中の溜まり場はもう見つけてあるのだとか、これから穏便に済まそうとしているのでできれば手出ししないでほしいなどと伝えると、美鈴は全てを聞き流しているようで「うん、うん」と頷くばかりであった。
資料をばらばらと捲ってそのアジトとやらの場所を確認すると、やって来たときと同じように壁にぶつかりそうなおぼつかない足取りで里長の家を後にする。
「ちょ、ちょっと、聞いてましたか?」
里長の呼びかけにも応じず、美鈴は通りの向こうへと消えていった。
「うちの息子ときたらこの歳まで結婚しないで友達とつるんでばかりいましてね……」
「母さん、それはいいだろう……」
見合いもその大部分が進んだ頃合、お喋りが好きなのか見合い相手の母親がぺちゃくちゃと話し出した。
「こんなしっかりした綺麗なお嬢さんがお嫁に来ていただけたらどんなにか助かるでしょう。いや息子がお見合いがしたいだなんて言い出すものだから一体どんな方だと思っていたら想像以上の良い方で……」
咲夜は、うん? と意外な印象を受けた。
どうやらこの見合いは目の前の男が言い出したものらしい。てっきり親が取り決めた事だと思っていた。
確かに問屋などという豊かな家が、十六夜家のようなお世辞にも裕福とは言えない家の娘と結婚を勧めたがるというのもおかしな話だ。息子の強い希望によるものであったらしい。
姓名判断の効果によって、咲夜の実家が人間の里にあるという事はあまり知られていない事実である。相当の興味を持って咲夜について調べなければ分かることではない。
しかし自分はこの男と面識など無いはずだが。
「咲夜さんはまだ紅魔館で働きたいとお考えで?」
男に言われ、咲夜が「ええ、辞めるつもりはありませんが」と応じると、向こうの親がむっと怪訝な表情をした事に気付いた。
お前は結婚する気が無いのかという事である。
無いのだから仕方ない。
「いえいいんですよ」
しかし男は親をたしなめるように笑いかけた。
「結婚後も働いてもらって構いませんよ」
途端、慌てた様子の親が小声で息子に「ちょっと」などと呼びかけると、彼は声を潜めて「僕に任せてくれるって言ったろ?」などと返していた。
咲夜にとっても意外であった。
物騒であるという認識が一般的な紅魔館で働くのを良しとしているのだ。
今時珍しく女が働く事に寛容だという事なのだろうか。
その後、見合いは若干の緊張感を伴いつつも滞りなく進んでいった。
人間の里の外れに建つとある問屋の倉庫。
大きさは並みの家一軒くらいはあるが、外壁は汚れて所々が剥がれ、屋根は一部に穴が空いて雨の日には苦労するであろうそれは、今はもう倉庫としての用を成していない事は容易に見て取れた。
あえて誰も近寄ろうとはしないだろうその建物の中に、しかし動く者がある。
それは廃屋に巣くう鼠でもどこぞの野良妖怪でもなく、紛れもなく人間であった。
数人の人間の男達が集まって適当に酒を飲み交わしだべっている。
着流しを着崩しただらしない格好で、町を歩けばいかにも不良といった目で見られる類の輩である。
「あの悪魔の館はいつになったら追い出せるんだ」
男の一人がつまみをひょいと口に運びながら誰にともなく話しかけると、寝転がって求聞史紀を見やっていた別の男が顔を上げる。
「今情報を集めてる所だ。リーダーの計画が進行中だろう」
「ふん。あんな目障りな館さっさとぶっ壊してしまえばいいんだ」
「正面からやりあうのは得策ではないだろう」
「十字架もニンニクも効果が薄いらしいしな」
「しかし自警団の目が最近厳しい。早いとこ計画を進めないと難しいぞ」
男が求聞史紀をぱらぱらと捲り、紅魔館に住む面々を見やっていく。
「いい女なんだけどなあ」
挿絵に描かれたメイド長を見て呟くと、またページを捲って門番の記述を導き出す。
「あ、この女もいいなあ」
そんな時であった。
どかんという音の後、倉庫のドアが吹き飛んでがらがらと盛大な音を立てつつ転がっていった。
呆然とその様子を見ていた一同。
「な、なんだ!?」
一瞬遅れて男達が色めき立つと、ドアがあった場所には人民服で身を包んだ中国娘が目の据わった状態で立ち尽くしており、何も言わずにただ目だけを動かして中の様子を探っていた。
「な……」
今まで見ていた求聞史紀のページと乱入者とを見比べ、それが同一人物であることを確認する。
「そ、そいつは紅魔館の門番――――紅美鈴だ!」
「なっ!」
慌てて鉄の棒を持って立ち上がった男の前に、瞬間移動するかのようにするりと美鈴が進み出た。
「ひっ!」
何か言う間もなく、男は頭部を横から殴りつけられて昏倒する。
「こ、こいつ!」
後は大体同じ感じであった。
弾幕も撃てない空も飛べないただの人間が何人集まろうと、熟練の戦士である妖怪、紅美鈴に勝てるはずもなかった。
壁を半身だけで突き破った状態でだらりと気を失った男がいたり、頭に大きなこぶを作って天井の入り組んだ鉄パイプに引っ掛かっていたり、倉庫の箱に頭から突っ込んで動かなくなっていたりと、美鈴自身、少々やりすぎたかもしれないと思わないでもない。
やつ当たりなどらしくない、と幾らか自己嫌悪に陥る。
「う……」
この中でのリーダー格らしき男が美鈴に襟首持ち上げられた状態で呻き声を上げる。
話を聞くためにこの男は手加減をしておいたのだ。
「く……そ……リーダー……しくじ、ったな……」
うん? と首をかしげる。
この男が頭だと思っていたがどうやらアテが外れたようだ。
「そのリーダーとやらはどこにいますか?」
冷たい視線で刺すように問いかけると、男は驚いたように目を見開いた。
「リーダーがしくじったんじゃ……」
「答えろ」
「うぐえ……」
ぎりぎり地面に足が届くかどうかくらいの位置まで襟首を持ち上げると、男は慌てた様子でぺらぺらと喋り出した。
「わ、分かった。リーダーは情報収集のために、メイド長の十六夜咲夜を取り込もうと見合いの席で落としにかかっている計画の最中で……」
「なっ!」
美鈴の瞳が瞳孔までぐっと開ききる。
あの男がこいつらのリーダー?
楽しそうに談笑していた彼女。
実に嬉しそうに着物を着ていた。
わざわざ休みを取ったこの里帰りも、あのお見合いをするためだったのだろう。
それなのに咲夜さんはこいつらに、こんなつまらない連中に騙されていると?
貧しい咲夜の家に問屋の息子から縁談話など普通ではありえないことだ。
最初からこのつもりで縁談を組んだのだろう。
美鈴の中で怒りが爆発し、嫉妬の炎をかき消すように飲み込んで全身を熱く煮えたぎらせる。
「そうか……」
「はは、た、助けて……」
「そうか」
男の腹に拳をめり込ませると、ぐげっ、という何やら奇妙な声と共に昏倒していった。
直後、里長から連絡を受けたのか人間の里の自警団達が踏み込んでくる。
「こ、これは……」
惨状を確認し、倒れた男達を見るとどうやらそれ程大した怪我ではないようだ。
「あ、あの」
自警団の男の呼びかけを無視し、美鈴は前に立つ者を吹き飛ばす勢いでずかずかと歩み出したので彼らは道を譲るしかない。
呆然と見送られる中、美鈴は先程の料亭への道を全速力で走りだした。
「どうして紅魔館で働こうと思ったのですか?」
聞かれ、咲夜は無表情の中に不審感を隠して目の前の男を見やった。
言葉の端や態度で分かる。
この男も人間達のいくらかが持っている紅魔館への偏見で満ちている。
うまく隠しているつもりのようだが咲夜の目を誤魔化す事はできていない。
咲夜にとっては自分が貶められるより何よりそれが腹立たしいのだ。
最初に働き始めた頃は戦々恐々であったのだが、実際に一緒に過ごしてみると紅魔館の面々は皆良い者達ばかりである。もちろん妖怪ならではの突飛な行動はあるが。少なくとも大した理由もなく異質なものを嫌う人種よりはよっぽど気の許せる相手だ。
昔から白い髪で肩身の狭い思いをしてきた経験も影響しているのかもしれない。
いつしかもう一つの家族のように思うようになった紅魔館の住人達。
だから彼女達を貶めるような行為は家族を侮辱されたと同じくらい許せないものである。
この里帰りも、最近里で噂になっている紅魔館排斥を掲げる連中をついでに調査して再起不能なまでに叩けたら、とも思っていたのだ。
美鈴に倒された彼らは運が良い方であった。
さっさと家に帰って里長あたりに話を聞きに行こうとも思い、咲夜は口だけで笑って男を見やった。
「それは、紅魔館がとても素晴らしい所だからです」
相手方全員がむっと眉をひそめるのを見て取れた。
それに構わず咲夜は続ける。
「幼い吸血鬼の姉妹も、図書館に引き篭もってばかりいる魔法使いも、居眠りばかりする門番も、みんなが私を人間としてではなく、十六夜咲夜という一つの存在として認めてくれます。悪魔だから妖怪だからと彼女達を偏見に満ちたくだらない見方をする人間達より余程魅力のある方達ばかりです。だから私は――」
自分の両親がぎょっとした様子で見てくるのを無視して咲夜は言い放った。
「紅魔館で働いていることを誇りに思っています」
その時だった。
ざわっとした他の客達の声に振り向くと、そこには見合い相手の男を視線だけで殺してしまいそうなほど厳しく睨みつける美鈴の姿があった。
「美鈴……?」
なぜここに?
咲夜が呼びかけるが、美鈴は彼女から目を逸らすようにしてずかずかと男の前までやって来る。
「な、なんですあなたは!」
相手方の両親が喚くが、美鈴の眼光に捕らえられると蛙のように縮こまってしまう。
とうとう咲夜達の座る机の前までやってくると、
「ひっ」
鋭く睨まれ、男がびくつき腰と間が抜けた掠れた声を上げる。
こうして見るとつまらない男だ。咲夜さんとお似合いだとか思っていた自分が情けない。
この男が紅魔館に敵対しているという事より何より、咲夜を騙しもてあそんだ事が何より許せなかった。
そのまま襟首を掴んで引きずり上げたので男は震え、咲夜が慌てた様子で、
「美鈴、あなた何を――」
多くの客が見守る中、美鈴は男の鼻っ柱を殴りつけた。
「うぶぇっ」
鼻から血を撒き散らして盛大に吹き飛んでいく見合い相手。隣の机に突っ込むと、片付け途中であった食器類をがちゃがちゃ言わせながら巻き込んで床へと転落した。男の上に残り物が降り注ぐ。
それでも男が身じろぎ一つしないのは、とうに昏倒しているからだろう。
「きゃああああ!」
男の親がやかましい金切り声を上げて息子に駆け寄る。
立ち上がった咲夜が美鈴の腕を掴んで「何やってるの!」などと揺すり、その両親は愕然とした様子で見合いの場に乗り込んできた娘の同僚を見やっている。
従業員が慌てた様子で店の奥へと引っ込み、周りの客達が何事かと遠巻きに見つめている。
「どうしてこんな事したの!?」としきりに咲夜から聞かれても、美鈴はじっと黙ったままで答えなかった。
おそらく何か理由があるのだろう、この温和な門番が訳無く人を殴るはずがないと思った咲夜だが、こう黙っていられては混乱するばかりである。
「これは一体どう責任を取るつもりです!」
突然乗り込んできた中国娘が咲夜の知り合いだと察した相手方の親が叫んでくる。
男は気に食わないが殴る理由も無いと思った咲夜は、訳が分からないがとにかく謝ろうとした。
が、咄嗟に美鈴が体を割り込ませて制止する。
「美鈴?」
美鈴はまだじっと黙ったままだ。
そして、一体どうしたのか信じられないといった面持ちでまじまじと見やっていた咲夜の腕を、厳しい表情のままにがっちりと掴んだ。
「ちょ、ちょっと」
戸惑う咲夜を強引に連れ、唖然とする両親の脇をすり抜け、そのまま店の出口へと歩いて行くと遠巻きに眺めていた見物人達が慌てて横に避けていった。
二人が店を出るのと入れ替わりに自警団が踏み込んでいくのが確認できた。後の処理は彼らに任せられるだろう。
能力を使えば楽に美鈴の腕を振り払うことはできるが、怒り心頭に発する彼女に何か並々ならぬ理由があるのだと感じた咲夜は、どうにもそうする気が起きなかった。
結局、解放されたのは大きな通りを何本も横切った後であった。
その後店では自警団の説明により事情が判明し、男の両親は顔を青ざめさせて平謝りしたが、娘がそんな身勝手に利用されようとしていたのを知った咲夜の両親は怒って中々許そうとはしなかった。
一方、連れて行ったはいいものの、咲夜に厳しく問いただされた美鈴は結局事情を話さざるを得なくなった。騒ぎを調べれば分かる事ではあったので、黙っていても無駄だと気付いたのもあったのだが。
反紅魔館グループの事については表沙汰にはならなかったが、見合いの席に乗り込んでいって男を殴り飛ばし相手の女性を連れて行った紅魔館の門番の噂は、それ程広くない人間の里でしばらくは話の種として尽きることは無かったという。
どこか痛快なその話により、「紅魔館に暮らす者は面白い、人間味がある」などと好意的な印象が広がる事になり、館に否定的な活動を行う者はそう現れなくなったという。
その日の晩。
十六夜家の縁側に並んで腰掛けた美鈴と咲夜は、揃って小さな庭先を眺めていた。
「あなたって本当に馬鹿ね」
「……すみません」
やっと落ち着いて話が出来るようになり、咲夜は改めて心底呆れた様子の息を吐いた。
あの後両親から益々気に入られた美鈴は、今日も泊まっていってほしいと言われて子供達と共に歓迎されることとなった。
父からは「紅魔館で娘が働いてる間は不安でしょうがなかった。でも、あんたみたいな人が一緒に働いてるって知って安心したよ」
これからも娘を頼む。などと言われ、
「はい分かりました」と美鈴は迷わず頷いた。
紅魔館の評判はどうやら悪い方には行かないようである。
「まあ私もおかしいとは思っていたけど。紅魔館で働くのをよしとする人なんてそういないもの」
あの男としては咲夜を紅魔館で働かせつつ内部情報を得ようと思っていたのだろう。
「そうだと分かっていたなら私も二、三発殴ってやってたのに」
「はあ……」
咲夜さんは容赦無くやりそうなのでやめといた方がいいです、とは言わなかったが。
「それにしても」
咲夜は憮然とした様子で若干頬を膨らませ、抗議の色を滲ませた瞳で美鈴を見やった。
「なんで料亭ですぐに言わなかったのよ。そうすれば私も怒らなかったわ」
「う……」
美鈴は喉を詰まらせたように押し黙った。
「どうしてかしら?」
このメイド長の追及からは逃れられない事が分かっているので、観念して正直に白状することにした。
「咲夜さんが、傷つくかと思いまして」
すると咲夜はきょとんとして首をかしげる。
「なんでよ」
「え、いや、だって……」
しどろもどろになって緊張した美鈴は両手をわさわさと絡ませる。
「咲夜さん、楽しそうに見合い相手と話してたじゃないですか」
途端、目を見開いた咲夜は、
「え?」
呟きまじまじと美鈴を見やる。
「紅魔館の敵対組織の頭だなんて知ったら、その、傷つくかと」
「…………」
途端、咲夜は背中を曲げて笑い出した。
「咲夜さん?」
「ふっ、あははは……あなたって本当に馬鹿ね」
「ど、どうして……」
「あのねえ」
顔を上げた咲夜を見ると、どうやらもう怒ってはいないんだと美鈴は察する。
「別に最初から結婚するつもりなんてないわよ」
「え?」
てっきりかなり進んだ話だと思っていた美鈴は呆気にとられてしまう。
「だ、だって、着物を着てあんなに嬉しそうにしてたじゃないですか」
「え……」
今度は咲夜が言葉に窮する番だった。まだ着たままの着物の袖を持ち上げて見やる。
あなたに綺麗だと言われたから嬉しかったんだと言える訳もない。
「別に嬉しそうになんてしてなかったわよ。普通よ」
「え? でも……」
「いいから」
「はあ……分かりました」
それから二人はしばらくの間、夜空に浮かぶもうじき満月になるその間際といった様子の月を見上げていた。あいにく薄い雲に隠れてしまっていて僅かな月明かりしか二人には届いてこない。
「咲夜さん」
おもむろに美鈴は呼びかける。
「何かしら?」
「あの……」
聞くのが少し怖かったが意を決して問いかける。
「もしも本当に良い縁談があったら、結婚して紅魔館を辞めて行くんですか?」
咲夜は妖怪である自分とは違う。
人間である咲夜の事を考えたら、誰かと一緒になった方がいいのではないか。
しかし咲夜は即座に笑い飛ばす。
「馬鹿ね、そんな事無いわよ」
「でも」
尚も食い下がる美鈴に、咲夜はイタズラっぽく笑ってみせた。
「私の気持ちはもう決まってるのよ」
美鈴は目をしばたたかせる。
「え?」
それはどういう?
美鈴ははっと息を呑む。
「まさか、もう意中の人がいるんですか?」
「ええ」
口元を笑みで結びあっさりと言ってのける咲夜に、美鈴は愕然として目を見開いた。
そして疑問が生まれる。
「でも、今紅魔館は出て行かないって」
「そうよ。だって私が好きなのは――」
咲夜は穏やかに微笑んで空を見やった。
雲の切れ間から月が覗き、縁側に腰掛ける二人を薄ぼんやりと照らし出す。
「紅魔館よ」
咲夜の言った事が分からず、美鈴は眉をひそめた。そんな彼女に咲夜は笑い掛ける。
「私はあの場所が、あそこに住む人全員が好きよ。だから一生あそこで働きたいって思うの」
お見合いをしてみて、もしかしたら紅魔館から去る時が来るかもしれないと考え、咲夜は改めて今の暮らしについて考えた。
毎日あの幼い悪魔に仕え、妖精メイド達に指示を飛ばして寝ている門番を起こして、よく曇った日には庭先でピクニックをして。
働き甲斐もある楽しい生活だった。失うのは嫌だと思った。
誰か男性と結婚して家庭を持つという人並みの幸せを捨ててでも紅魔館で暮らしたいと、そう思ったのである。
「いいんですか?」
「ええ。もしも私が結婚するとしたら紅魔館そのものと、って事かしらね」
おかしな事言ってるわね、と咲夜は笑ってみせた。
それに美鈴はぶるぶると首を振る。そこまで言われてはもう口を挟む余地もない。
「いえ、いいと思います」
「そうかしら」
「はい!」
咲夜は、ふふ、と小さく笑った。
「そう。ありがとう、美鈴」
咲夜さんは自分の事を単なる仕事相手としか思っていないのではないか、紅魔館はただの仕事場という認識ではないのか、などと疑っていた自分が情けない。
本当に紅魔館の面々を家族のように思ってくれていた。
「咲夜さん、これからもよろしくお願いします」
「何? 改まって」
「いえ、つい……」
くすりと笑い、咲夜は美鈴を見やった。
「そうね。これからもよろしく、美鈴」
それからしばらくの間、並んで縁側に座り込んだ二人は当分雲がかかる様子もない月明かりで静かに照らされていた。
翌日の昼下がり。
突き抜けるようなあいにくの晴天にみまわれ、テラスで陽射しを避けるようにして座るレミリアは目の前に控える咲夜を見やった。
「悪かったわね、余計な詮索して」
「いえ、私の方こそご心配をおかけしたみたいで申し訳ございません」
事の顛末は咲夜自身によって説明されていた。レミリアの言いつけを守れず咲夜に見付かってしまった美鈴を叱らないでほしい、とも付け加えられていたが。
慣れた手つきで紅茶を淹れる咲夜をレミリアはぼんやりと見つめる。
レミリア自身、咲夜に実家があると知って美鈴と同じような心配を抱いていた。
もしや、咲夜は単に仕事としてここで働いているのではないか、と。
別にそれ以上のものを要求するのはおこがましい事だと思っていたので、決してレミリアの方から忠誠を確認するような事は無かったが。
それでも近い内に辞めていってしまうのでは、という不安は拭えなかった。
しかし今回、咲夜が紅魔館を家族みたいに大切に思ってくれている事が知れてレミリアは満足である。
元の名前に戻りたい? などと聞こうと思っていたが、それは無粋というものだろう。
「今度両親が菓子折りを持って来るそうです」
「そう。盛大に持て成さないとね」
咲夜は遠くを見やり、門から半身だけをはみ出させて立っている美鈴の姿を確認する。彼女は立ったまま寝るので他の者には判別がつかないが、慣れた咲夜からしたらどうやら今は起きているのだと分かる。
あの料亭での一件があって以来、人間の里での紅魔館の評判は何かと良いものがある。
反紅魔館の動きは特に表沙汰になる事はなかったが、代わりに美鈴の取った行動が噂になって広まり、意外と人間味があって親しみやすいんだと認識されたようである。
「問題はそこなんですけど……」
美鈴が見合い相手を殴り飛ばして咲夜を奪った、という噂をどうやってもみ消すかにこのメイド長は頭を悩ませていた。
「あら、嫌なの?」
言われ、一瞬きょとんとした表情をし、それから困ったように小さく頬を膨らませる咲夜を尻目にレミリアは紅茶を口に含む。
「まあ、あなたが結婚するのは紅魔館とだものね」
「うっ」
その下りについては話さなかったというのに。
頬を赤らめ打ち震える咲夜は、半身だけを門からはみ出させた遠くの美鈴を睨むように見やる。
彼女が嬉々として語って聞かせたに違いない。
「いいじゃないの、時間が経てばじきに噂も消えるわ」
あっけらかんと言ってのけるレミリアに、咲夜は「そうかもしれませんが……」と少し困った様子で溜息をつく。
「慌てる事なんてないわ。だってあなた――」
レミリアは淹れたての紅茶に口をつけ、乾杯するようにティーカップを掲げて微笑む。
「ずっとここのメイド長でいてくれるんでしょう?」
その問いに、咲夜は微笑みを零し小さく息を吐いてから、はっきりと頷いた。
了
美鈴は人間より人間臭いですからねw
『人間』の妖怪なんじゃないでしょうか。
次回も、がんばってください。
まあ美鈴キレるわな……男ざまぁ!!
そんな事どうでもいいぐらい暖かくて優しい素敵な物語でした。
実家に戻った咲夜さんが、普通の『十六夜さん家の娘さん』になっているのが可愛い♪
オリキャラも許せる範囲内で、見事に色男を最悪な印象に仕立てあげられてました。男の口から直接的に悪口を聞かせて貰ってもよかったかと思いましたが、あえて周囲の情報からのみ悪者と判明された方がスッキリしているかもしれないと考えなおしました。美鈴が乗り込んできたときに一悶着あった場合は、美鈴が「咲夜さんに傷ついて欲しくない」という表現が出来なかったでしょうし。
おじちゃん100点あげちゃう。キスもあげよう。美鈴に。
これはやばい
話の作りも王道で丁寧だが、何より出発点の発想が良い。
普通過ぎる実家に意表を突かれた。
>「えー博麗ごっこやろーよー。私博麗の巫女やるー」
>「やだよそれ……男参加できねーもん」
頑張れ幻想郷の男の子。超頑張れ。
でも、一つだけ違っていたことは、就職先が悪魔の住む館だったのです。
こんな感じですね。いや、意外にしっくり腑に落ちました。
一応養子という事だから「出身は外の世界」という公式設定とも矛盾しませんし。
何より、ごく普通の女の子な咲夜さんが、とても良い。
陰謀云々の話はやや出来過ぎかなぁという印象もありますが、美鈴がカッコいいからこれはこれで。
たいへん結構なお手前でございました。
すごく良いなぁ
ギャグでいうならまだしもリーダーはないでしょ。
東方の二次が設定に関して自由とはいえ、その呼び名は書き手の浅薄さを感じてしまうには十分でした。
ありえるな、ふつーに……(笑)
※5
「人間」の妖怪…………?
ハートのカテゴリー2かw
それはさておき面白かったです。やさしい門番と子供たちのハートフルストーリー・・・え?違う?
でも咲夜さんの紅魔館と結婚する発言で、ベルリンの壁と結婚した女性を思い出してしまったwww
「普通」な咲夜さんとは新鮮でしたw
なんというか、お見合いが破綻するくだりはとても清々しくて良いのですが、
それが何も知らない(グループの存在が表沙汰になってない)里の人間からしたらプチ異変であって、
紅魔館に対する警戒心が高まりこそすれ、好意的になるとは思えず、
そこが若干引っかかったのが残念でした。
自警団が店で男の両親に説明された事情が噂で広まって、
里の人間が陰謀の存在を把握する必要があると思います。
たった一行あるかないかの話なので自己脳内補正すればいい話なので、
全体の流れは素晴らしかったです。
予想を裏切り、原作とも矛盾せず、いい按配でオリ設定が交ぜられ絶妙でした。
今後にも期待したいです。
咲夜さんは死ぬまでずっとメイド長をやっていそうだわ。
なかなか無い設定が新しかったです
ハートフル紅魔館ここにあり・・・!
美鈴が咲夜さんのお見合いと知って奪いに来た! っていう感じに話題浸透?
そして、それに対する最後の〆がグッと来ました!
もう、紅魔館万歳。
私も紅魔館と結婚したい!
それでもめーりんかっこいい!
有り勝ちなめーさく的エンドでなく、紅魔館の皆が好きだというのが伝わってきて何と言うか、楽しい気分になった。
家族という絆、いいですねぇ。
めーりんカッコイイ!
面白かったです。