※ もしもの話です。注意
―――私は後悔したのか。
目の前の光景を見て、ふとそんな考えが浮かんでしまう。
空には満天の月が浮かび、闇夜の灯りにしては眩しすぎる程だ。
その眩しさのせいか、夜だというのに鮮明に周りが見えてしまう。
地面には妖怪だった者が息絶えていた。
血が地面へと飛び散り、私の服にもその妖怪の血がこびりついてしまっている。
必要以上に痛めつける気はなかった。
地面に横たわっている妖怪は、人里の者達から人を喰らう妖怪と認識され、退治してくれと言われた者だ。
人間にとっては、それは悪い妖怪に見えた事だろう。
私はその頼みを承諾し、夜中に出没するその妖怪を補足し、問答無用で殺した。
そこに勝負や決闘というものはなく、一方的な略奪だった。
奪ったのはその妖怪の命。
弾丸のように飛来し、襲撃してきた私とその妖怪は、一瞬目が合った。
妖怪の容姿は、何処にでもいそうな少女の姿だった。
紅い両の瞳に整った顔立ち、まだ幼さを見せるその姿に、黒いローブを羽織った姿は、西洋の魔女か何かを連想させた。
その妖怪が何か言葉を発する前に針を飛ばし、札による霊撃を食らわせ、陰陽玉でべしゃりと叩き潰した。
瞬殺ではなく確殺。それぐらいしなければ妖怪は死なないと、今までの経験が語りかけていた。
結果、返り血で身体中に血がこびりつくはめになったわけだが。
―――後悔したのは、目を合わせたせいだ。
殺す直前、原型が無くなる前の妖怪の姿を見た。
幼いその姿を見て、何故か、生んだ我が子とダブった。
それを殺したのだ。自らの手で。
「……うぷ」
連想は妄想を、妄想は現実を侵食して、身体に変調をもたらした。
口元を咄嗟に抑えるも、吐くのが止まらない。むせかえる血の臭いも、原型がなくなってしまった肉片も、まるで“自分の子供を殺した気がしてしまったみたいだった〟。
「……ハハ……」
吐きながらも苦笑してしまう。私は、もう駄目だ。
―――もう、博麗の巫女を続けられない。
「……ん」
目を開けて見れば、天井が見えた。
「あ、やっと目が覚めましたか」
鼻をくすぐるお酒の匂いと共に、そんな声が聞こえてきた。
夜は眠っていた間に消え失せたのか、鳥のさえずる声や、障子越しに溢れる太陽の光と温もりを感じる。
「……貴方」
「神主。ここではそう呼ぶ決まり事ですよ」
私に被さっていた布団をどかせ、身体を起こしながら声の方を見る。
その人は、いつものように缶ビールを飲みながら部屋の隅にあぐらを掻いて座っていた。
「……ごめんなさい」
この人がここにいるという事は、私はあの後ここまで運ばれたのだろう。
見慣れた部屋は、私の神社である博麗神社の私室だ。
「…謝る事でもないですが。それよりも、体調は大丈夫ですか?」
ぐいっと缶を傾けて、一息に飲んでから心配してくる。
「……こんな時でも、お酒は飲むんですね」
「ああ、すみません。気に障りましたか?」
失敬と謝りながら神主はビール缶を畳に置いた。
「…それぐらいで気に障っていたら、貴方と結婚なんてしてません」
溜息と共に私はそう言って、布団から完全に出ると、縁側に続く方まで歩き、障子を左右に開ける。
太陽は既に真上にあるようだった。昨日から意識を失っていた事を考えると、かなり寝ていたらしい。
「…霊夢は?」
「霊夢でしたら、霧雨の娘さんと遊びに行かせました。貴女の事を心配していましたが、大丈夫と言い聞かせましたので」
「そうですか」
ほっと一息吐くも、暗い感情は消えてくれない。
我が子と同じぐらいの妖怪を討った事実を、私は良しと出来なかった。
「……貴方」
「神主と呼んでくださいって」
「私は、間違っているのでしょうか…?」
神主の言葉を無視しながら聞いた。
「……何がです?」
「昨日の妖怪は、まだ幼かった。霊夢と同じぐらいの歳に見えたんです」
「……」
「実際は、もっと歳を取っていたかもしれません。けれど、まるで霊夢を殺してしまったみたいで……」
「それで、意識を失くしたと?」
神主の言葉に、コクンと頷いて見せる。
「…私はもう、妖怪を退治できません」
「………そうですか」
博麗の巫女が妖怪を退治出来ない。
それはつまり、この幻想郷のバランスが壊れるという事だ。
「……もう何年かは、貴女に任せても問題ないと思ったんですがね。せめて、霊夢が完全に成長するまでは」
困った素振りもせずに、神主は立ち上がると、私の横に来た。
「霊夢には、辛い思いをさせる事になりますね」
「……はい」
「博麗の巫女は、必ずその代に一人しか存在しない。貴女はそれをわかってる筈ですが」
「覚悟の上です。私はもう、妖怪達を退治する事なんて出来ません……」
「………覚悟の上、ですか」
頭を掻きながらも、もう片方の手で私の肩を抱いて、神主は自分の胸元へと招き寄せた。
「……もう、この温もりを味わう事も出来なくなるのですね」
「……ごめんなさい」
逆らわずに、私は頭を擦り付けるようにしながら神主の胸元に身を寄せた。
神主は、幻想郷を楽園に導く為の人だった。
私は、その幻想郷を守るための守護者だった。
それだけの関係。次の世代を守る為だけに肌を重ね、私は彼との子供を作った。
だけど、そこに愛情がないなんて、言えなかった。
彼と何度も酒を交わした。彼と何度も言い合った。彼と何度も喧嘩もした。
数え切れない程の思い出が、そこにあった。
灰色の世界になっていた私の世界に、彼は色鮮やかな世界をくれた。
「……霊夢の事を、お願いしますね。あの子は、強く見えるけれど、弱い子ですから」
「ええ、わかっています」
力強く頷く神主を見て、私はすっと胸元に寄せていた頭を離し、神社の境内の方へと歩いていく。
最後の仕事まで、せめていつも通りに過ごす為に。
※
博麗の巫女とは、幻想郷の創造神が作り出した人間の守護者だ。
あらゆる妖怪が彼の巫女に討伐され、幻想郷で暮らす人間達は日々平穏に暮らせている。
巫女は、常に平等でなければならない。
拒む事は許されず、追う事さえも許されない。
不動不変、そう言った全ての物を背負うからこそ、守護者と呼べるのだ。
「霊夢ー、どうしたんだよ? そんな難しい顔して」
「…いや、何でもないわよ」
その博麗の巫女の次の世代を担う私は、何故か人里のお店でお昼ご飯を頂いていた。
霊夢と呼んだ目の前に座る金髪の少女は、不思議な顔をしながらもちゃぶ台に乗っかっている御蕎麦を平らげていた。
彼女の名前は霧雨魔理沙という。魔理沙の母親と私の母様が仲が良く、必然的にその子供である私と魔理沙が仲良くなっているわけだが…。
最初は仲良くなんて出来なかった。私は博麗の巫女になる存在なのだ。
友達なんて、作ってはいけないと思った。
だけど魔理沙はそんな事等お構いなしに私に接してきた。会う度に何か提案し、気軽に遊ぼうと言ってきて、私と友達になる為に色々な事をしてきた。
それが四、五年も続き、結果的に私と魔理沙は友人関係にある。
そんな魔理沙の所に遊びに来るのは別に問題はないのだが……今回は事情が違った。
昨日の夜、人を喰らう妖怪退治を人里の連中から頼まれた母様が、意識を失った形で戻ってきた。
母様を担いで戻ってきたのは……父様だった。
あまり神社にはいない父様。いつもお酒の缶を持っている人だったが、母様を担いでいた時は、お酒の臭いもしなかった。
大丈夫なのかと聞いても、父様は大丈夫だよと言うばかりで、何で倒れたのかも答えてくれなかった。
不安なまま、もう遅いから寝なさいと言われ、その翌朝、まるで私が邪魔みたいに、霧雨の家に行っておいでと言われてしまって、こうして蕎麦を頬張っている始末なのだ。
「……魔理沙、貴女の所のおばさんから、何か聞いてない?」
「ん? 何を?」
ずぞぞぞと蕎麦を無心に頬張っていた魔理沙に聞くべきか迷ったが、昨日の事を知らないか聞いてみる事にした。
「昨日、母様が人里の人達から妖怪退治を頼まれてたのよ。それがどうなったか、知らないかしら?」
「聞けばわかると思うが……んー、ちょっと待っててくれ。親父に聞いてみるよ」
「? おじさんに?」
「ああ、言ってなかったっけ。母さんさ、ちょっと具合悪くて、外に最近出てないんだよ。だからそういう事情は親父の方が知ってると思うぜ」
「……ふーん」
そういえば、遊びに来た時もおじさんの顔と霖之助の顔しか見てないなと、今気がついた。
魔理沙の家は商い屋だ。それも霧雨道具店と言う何でも品が揃ってるような大きなお店だ。
妖怪退治がどうなったかも、確かにおじさんの方に話が来ているかもしれない。
頬張っていた蕎麦をそのままに、「ちょっと待っててくれ」と言いながら立ち上がると、黒いエプロンスカートを揺らしながら、小走りに魔理沙は居間から出て行った。
そうして数分と待たず、同じ勢いのまま戻ってくる。
戻ってきた魔理沙の表情は、難しい顔をしていた。
「聞いてきたが……んー、霊夢のおばさんから退治したって言いに来たわけじゃないみたいだぜ?」
「……父様でもない?」
私の言葉に、魔理沙は頷いてみせる。
「阿求の所からみたいだぜ。無事に妖怪は討伐出来たって」
「……そう」
阿求と言うのは、稗田の阿求と呼ばれる転生者だ。
見たものを記憶し、それを次の代に引き継がせる為に魂を転生し続ける幻想郷の記録者。
恐らく、父様が阿求に村の人達に言うように頼んだのだろう。
父様は、博麗神社の神主という立場にいるが、決して表には出ようとしない人だ。
母様が父様と結婚した事は、幻想郷の皆が知っているが……父様が何者なのか、それを知る者はあんまりいない。
正直な所、私も父様の事は、あまりよくわかっていない。
酒をいつも飲んでおり、細い身体は病的なまでに白い人。
けれど、いつも笑顔でいる人だった。
時々神社に来ては、私の成長を見に来たり、母様の事を心配している優しい人だ。
「……なんかあったのか?」
「ううん、何でもないわよ。ちょっと気になっただけよ」
魔理沙は何かあったのかと、心配するような目で私の方を見てくるが、私は首を横に振って答える。
何か言いたげだったが、私が何でもないと答えてしまえば、それ以上踏み込んでは来なかった。
「あー、そだ。香霖の奴がさ、またわかんない物を親父から貰ってたんだよ。これ食べたら一緒に見にいこうぜ」
「ふぅーん? 霖之助さんも物好きね。使えない物を集めるの」
話題を変えて、魔理沙はそう話す。
私もそれに合わせるようにその話題に乗っかる。
現実から目を背けている気がしたが、魔理沙と馬鹿な事をしている方が気が紛れたのだ。
だから、まだ十になったばかりの私には、現実がいかに重いか。
博麗の巫女が、どうやって次の世代に繋がれるかを、わかっていなかった。
※
「ちょっと遅くなっちゃったわね……」
空を見れば夕焼け雲。太陽は直に降りて月が浮かび上がる時刻だ。
あの後霖之助を冷やかしたり、魔理沙と色々と話し込んでいたら日が沈みかけていた。
急いで幻想郷の空を飛びながら、神社へと帰宅する。
「……あれ?」
しかし、境内へと降り立った私は首を傾げながら、周りを見渡した。
「…結界?」
いつもは施されていない結界が、境内の至る所にされており、まるで妖怪退治をする前の準備みたいだった。
「……おかえりなさい、霊夢」
「…! 母様!」
不思議に思いながらも、神社の入り口の方へと歩いて来た私に、声をかける母様の姿が見えた。
意識を失って戻ってきたが、立っている姿はいつもと変わらず、血で染まっていた巫女衣装も洗い落とされていた。
駆け寄ろうと笑顔のまま私は鳥居の辺りから走るが。
「止まりなさい」
「……え?」
静かに、境内の真ん中に差し掛かった所で制止された。
「母、様?」
「……霊夢、この十年間、私は貴女を博麗の巫女にする為に育ててきたわ」
私を見る目が、とても冷たかった。
「貴女は、天才よ。幻想郷を背負う為に、修行と呼べる物なんて全然していなかったのに、陰陽玉も針も、空を飛ぶ事さえも、たやすくやってみせた」
「……何を、何を言ってるの? 母様」
何かの間違いだと思った。私は、こんな母様なんて知らない。
「……もう五年も経てば、誰も貴女を止められなくなる。誰も貴女を殺せなくなる。最強の、博麗の巫女が出来たと思うわ」
こんな殺意を私に向けてくる母様なんて知らない。
「でもね、もう、駄目なの。私が、駄目になっちゃったの」
一歩、母様が踏み込んでくる。
「私が貴女に教えられる事は、あと一つだけ」
一歩、母様が踏み込んでくる。
「博麗の巫女として、妖怪を退治する為に」
一歩、母様が踏み込んでくる。
「明確な殺意を持った相手を、殺す事よ」
……もう一歩踏み込んでくれば、何が飛んできてもおかしくなかった。
「……嘘よ」
だけど、私はこの現実を受けいられなかった。
「嘘よ…嘘よこんなの! どうしたのよ母様! 昨日何かあったの!? 急に何で……!」
狼狽する私の横に、ひゅんっと、空気を切り裂く音が聞こえた。
「……え?」
頬が熱い。ポタリと、雫となって顔から血が流れる。
「……遅かれ早かれ、いずれはするべき事なのよ。霊夢」
母様の手には、いつの間にか針が握られている。
その一本が、私の頬を掠めたのだ。
「……どうして」
「幻想郷の為に。私も貴女も、その為にここにいるの」
「別に母様と私が殺しあう理由なんてないじゃない……! 二人で幻想郷を守ればいいじゃない!」
「……そう、出来たら良かったのにね」
そして、もう一歩、踏み込んできた。
「っつ……!」
直感があった。あと一歩踏み込まれたら、確実に殺しあう事になると。
後ろに逃げるようにしながら踏み込み、空へと再び飛ぶ。
母様と殺しあう事なんて出来ない。今は逃げなければ―――
「逃げる事は許されないわ」
風に乗って聞こえて来た声と、境内の周囲に張られていた札が蒼く輝いたのは、ほぼ同時だった。
「えっ……!?」
逃げようとした空の上にもその結界は張られ、鳥籠の形をした結界が神社を中心に形作られる。
「……母様の結界じゃないわ…何なのこれ……?」
見た事がない結界の式に戸惑い、私は茜色に染まる空の上で止まってしまう。
「さぁ、死合いましょう。霊夢」
声と共に、再び風を切る音が耳に聴こえる。
振り返った先には、最初の時のような威嚇の針ではなく、幾重もの針の弾丸が私に迫っていた。
「くっ……!」
咄嗟に袖から札を取り出し、結界を張る。
甲高い音を立てながら、結界に阻まれて落ちていく針の群れ。
「陰陽鬼神玉」
聞こえて来た声に、私は更に札を重ねて二重に結界を張る。
途端、巨大化した陰陽玉が結界に激突した。
「ううっ……!」
重圧は先ほどの針と比べ物にならない。
結界にたやすくヒビが入り、私を潰さんと迫る。
「そのまま結界が割れれば、死ぬわね」
「……! ぐっ、があっ!!」
聞こえて来る声に押される形で、ヒビが入った結界の方向を無理矢理斜めにして、陰陽玉を受け流した。
「上手よ、霊夢」
まるで私を鍛えているかのように、声をかける母様だったが、殺意は全く消えていない。
「今度は、これよ」
息を吐く暇もなく、今度は私の周囲に札が飛び交う。
一つ一つがまるで生きているかのように空を飛び。
「霊撃」
母様の言葉と共に、それが全て同時に光輝いた。
「…!」
声を上げる間もなく、袖から札を取り出して周囲に結界を再び張った。
次に見たのは、轟音と共に札が爆発していく光景だった。
しかし結界はたやすく壊れ、私はその爆撃に身を晒すはめになる。
爆撃が収まる頃には。
「か、は……」
空から無様に堕ちる私がいた。
がつんっと、境内に落ちたときにも痛みが背中を襲った。
よく今ので死ななかったなと霞がかかり始めた頭で思ったが、それ以上に信じられなかった。
母様が、本気で私を殺そうとしている事に。
「どうして攻撃しないの? 霊夢」
空の上で、沈む太陽を背にしながら、私に語りかけてくる母様。
「………どうして?」
仰向けに倒れ、視界に入る母様の姿は、何処までもいつもと変わらなかった。
だから、信じられないのだ。
母様は、優しい人だった。私を可愛がってくれた。私を育ててくれた。
立派な博麗の巫女になろうと決めたのは、母様の背中を見てきたからだ。
その母様が、私を殺そうとしている。
どうしてと聞きたいのは―――私の方だ。
「死にたいの? 死ぬわよ? 何も出来ずに、何も守れずに、貴女が倒れるだけで、幻想郷も崩壊するのよ?」
「……」
「霊夢、立ちなさい。立って闘いなさい。博麗の巫女として、闘うのよ」
「………嫌よ」
母様と闘って、母様を殺して、次の博麗の巫女になる?
そんな事になるぐらいなら。
「私が死ねば、母様が死ななくて済むのでしょう……? なら、私が死ぬわ」
自分が死んだ方がましだと、目を閉じた。
「…………そう」
風のそよぐ音が聴こえて来る。
日が沈み、月が浮かぶぐらいの間、母様は空の上で佇んでいた。
動物達が鳴く声も聞こえて来ない。この鳥籠の結界の中には、私と母様だけ。
「……なら、幻想郷も終わりね。貴女も、私も、人里に居る連中も全員死ぬわ」
―――まって
「残念ね。霧雨の家の子とも友達に霊夢はなれたのに」
―――何を、言っているの?
「本当に、残念。何て言ったかしらあの子……確か、魔理沙だったかしら? あの子も死んじゃうわね」
―――そんな
「さようなら、霊夢」
「そんなの嫌よ……!!」
叫びと共に、仰向けに倒れていた身体を起こした。
身体を駆け巡る痛みは計り知れない。けれど、それ以上に。
さっきまで一緒に居た温もりを消さない為に、再び身体は空を飛んだ。
速度も、霊力も、防戦一方だった時とは比べ物にならない。
痛む身体が、身体を駆け巡る霊力によって修復され、身を包み、弾丸となって母様へと向かっていく。
自分の為にではなく、友人の為に。
私は、母様を―――
「―――それでいいのよ。霊夢」
微笑む母様を、討つことになる。
鳥籠の結界は、母様が境内に落ちた途端、緩やかに消えていった。
何事もなかったかのように静寂が夜の帳と共に落ち、幻想郷は変わらず存在する。
……唯一つ、泣きじゃくる声を除いて。
「母、様……!なん、で、どうして……!」
横たわる母様の身体から、霊力が抜けていくのがわかる。
それが、私の身体に移って行くのも。
「……博麗は、こう、やって、代を重ねながら……強くなっていく、のよ」
ごほっ、ごほっと咳き込む度に、鮮やかな血が口から零れていく。
「……守護者が、一人なのは………この為よ……次の世代に……力を渡す為に………」
「まだ、まだ戦えたじゃない! これだけの霊力があるのに! どうして!? どうして……!」
「………昨日の、夜よ。戦えないと、思うようになったのは」
咳き込みながら、苦笑するようにして、泣きじゃくる私の顔に、そっと母様は手を伸ばしてきた。
「……貴女と被って見えた、のよ。妖怪が……そうしたら、もう、駄目だった。もう、退治出来ないと……思っちゃったの」
「………そんな」
「……ごめん、なさい、霊夢……こんなに、早く……貴女に……辛い事を任せる事に……なって」
「……そう、思うのなら、死なないでよ……生きて、頑張って、博麗の巫女に私が、頑張って……なるから、死なないでよ……! 母様!」
「………ごめん、なさい」
静寂の中、カツン、カツンと足音がした。
私は泣き顔のままそっちを見る。
「……父、様」
そこには、父様がいた。
いつも手に持っている缶ビールはなく、帽子を深く被り、眼鏡をかけたその奥の瞳からは、何も窺えない。
「……あな、た?」
「お疲れ様です」
「………無事に…最後の仕事を終えました……」
「ええ。よく頑張りました」
父様は、私の反対側まで歩いて来ると、膝を着いて、母様の顔を見る。
「……ふふ、貴方と……過ごせた数十年が、まるで……夢のようでした」
「ええ、私もです。貴女みたいな人と出会えてよかった」
淡々とした会話。
父様は泣かなかった。死に際の母様の顔を見て、最後の別れを告げようと、喋り続ける。
「……霊夢を、お願いしますね……導いて、あげてください……」
「………ええ」
「霊夢……貴女も……この人を……支えてあげて……この人も……弱い、人だから………」
「………母様?」
私の頬を触っていた手がするりと、落ちていく。
弱々しく開いていた瞳はゆっくりと閉じられ、静かに呼吸をしていた息さえも、聞こえなくなった。
「母様!!」
叫んでも、もう自分の名を呼んでくれない。
「嘘よ……こんなの嘘よぉ……!」
骸となった母様の身体に縋りついても、もう、自分を抱きしめてくれない。
私は、博麗の巫女になるという重みを。
母親が死ぬ事で、実感した。
※※※
母様が死んで、数ヶ月経った。
葬儀は私と父様で済ませた。火葬を神社で行い、墓は立てなかった。
父様は私に言った。博麗は、拒む事は許されず、追う事も許されない平等の存在なんだと。
昔から言われてきたその言葉は、肉親にも影響する。
私はそれに異を唱えなかった。
父様が平気な顔をして言っていたら、異を唱えていたかもしれない。
けれど、母様の死に際にも表情を変えなかった父様が、苦しげにそう言ったのを見て、私は異を唱えられなかった。
一番、母様の墓を立てたいのは、この人なんだと思ったから。
それからというもの、私は今まで母様がしてきた事をなぞるようにしながら行動していた。
……でも、神社にいるのがとても苦しかった。
何処を歩いても、母様との記憶が蘇るせいで。
台所に立てば一緒に料理を作ったなとか、境内の掃除をすれば一緒に箒を持って落ち葉を集めたなとか。
今まであったものが、蘇ってくるのだ。
その思い出を壊したのは、私自身だというのに。
―――そんな時だ。私に妖怪退治の依頼が来たのは。
「……人里に?」
「ええ。博麗の巫女として里の畑に出没する妖怪を退治して欲しいと。正式に阿求殿の方から依頼を受けました」
その話を持って来たのは、父様だった。
「既に死傷者も出ています。上白沢の者が人間達にあまり外に出ないよう注意を促しているようですが、妖怪の方が巧妙なようです」
「……私は、それを退治すればいいのね?」
相手が何であろうと関係なかった。
博麗の巫女として、悪しき妖怪を討伐する。
それが出来なければ、母様が死んだ意味がわからない。
「……霊夢」
身支度をしようと歩き始める私に、小さく、父様が声をかけてくる。
「なに?」
「………いや、気をつけてください。貴女にとって、初めての妖怪退治ですから」
「…ええ、気をつけて行ってきます」
心配してくれているとわかっていたが、私はそれを、冷めた表情のまま返した。
数ヶ月経っても、私の心は癒えていなかったのだ。
※
夕方頃、神社から人里に飛んできた私は、畑に出没するという妖怪を物陰に隠れて待った。
日が沈むまでもう数刻、夜になれば嫌でも妖怪達の時間になる。
古今東西、妖怪が夜に強くなるのは何処でも同じだ。逆に日が出ている時に強くなる妖怪なんてこっちが聞きたいぐらいだ。
昼間の内に人里に到着し、依頼した人間達を見たが、顔を合わせる度に怪訝な顔をされた。
当然だろう。まだ十程の娘が博麗の巫女を名乗り、今まで退治を任されてきた母様の姿がなかったのだから。
しかし、私にとっては、それもどうでもいい事だった。
「……」
冷や水を浴びせられたかのように、頭の中は冷え切っていた。
現れたら確実に退治する。問答無用で命を奪い、人を襲った事を後悔させるのだ。
やがて日も沈み、夜の帳が落ち始めた頃。
「……!」
空からバサリ、バサリと、黒い羽根を広げながら降り立つ妖怪を見た。
腰に細身の帯剣を差し、高下駄を履き、白い着物を着た、長い銀髪から二つ大きな耳を生やしている女性は、周囲を警戒しながら畑に生えていた物を引き抜く。
「……あれって」
それはどう見ても、天狗だった。
しかし、おかしい。天狗が人里の畑を荒らすなんて事、何故しているのか?
しかも死傷者を出してまで。
「……」
疑問が湧き上がるが、すぐに消えた。
どちらにしても、やる事は変わりないのだ。
物陰に隠れていた身体を起こし、ゆっくりと天狗に近づいていく。
「…っつ!? 誰だ!?」
頭の上に生えていた耳がピンと立ち、私が接近する前に気づいた。
だが、気づいただけだ。暗がりに目が行き届かないのか。私が誰なのか見えていないようだった。
気づかれた時点で私は地面を蹴り、空へと飛翔しながら、袖から針を取り出してその天狗に投げ付ける。
「くっ…!」
ガキィンと、金属と金属がぶつかる音が何度も木霊し、私の針が腰に差していた剣ではじかれていた。
しかし防がれるのもわかっている。空の上で回るようにしながら、袖から大量の札がばら撒かれた時には。
「なっ…!?」
天狗の退路はない。結界は縦横無人に空を飛び交い、私とその天狗を閉じ込める。
「……まさか、博麗の巫女………!」
その天狗は、周囲を巡る結界を見て、私の正体がわかったようだ。
けれど、答えてやる義務もなければ、待ってやる理由もない。
そのまま私は、陰陽玉を七つ空へと投げる。
一つ一つが色を纏い、輝き初めたそれは虹色になっていく。
「死になさい。妖怪」
冷めた声と共に、それが号令とばかりに陰陽玉はその天狗に高速に向かっていった。
「くっああっ!!」
迎撃しようと天狗は剣を振るうが、どうしようもない。
七つの陰陽玉は、その天狗に吸い込まれるように直撃し、爆発した。
※
「………」
白煙が畑から立ち昇り、私はその天狗が死んだかどうか確認する為に地面へと降りた。
ヒュー、ヒューと、荒い息遣いが煙の中から聞こえて来る。
「……生きてるわね」
煙が晴れる頃には、わき腹と腕が消し飛んだ、血に染まる天狗が畑の上で転がっていた。
「博、麗……まさか……こんな幼い少女が……」
「ごめんなさいね。まだなったばかりなの。苦しまずに殺せてあげられなかったわ」
「……く、はは」
その天狗は、私の言葉を聞いて苦笑するような顔をして見せた。
「その、物言いに……その冷めた目つき……人とは思えない……な」
「……そうね。自分でも本当に人間なのか、考えたくなるわ」
陰陽玉を袖から一つ取り出す。
天狗の上にそれを投げれば、終わりだ。
「……いつか、来るとは思っていたが………すまない……―――よ、―――」
ぐしゃりと、巨大化した陰陽玉がその天狗を押し潰した。
「……はぁ」
それで初めての博麗の巫女としての妖怪退治は、あっけなく終わった。
けれど、何故だろうか。
畑を荒し、人間を襲う悪い妖怪。
そういう風に言われていて、事実畑を荒らしていた天狗を退治したというのに。
―――生きて
誰かの名前を言いながら、そう言って死んだ天狗に、胸を突かれた気持ちになったのは。
「聞くべきだったのかな……」
殺してしまった後では、何もわからない。
風が弱く流れる中、血なまぐさい臭いと共に、私は踵を返した。
「……子供の為に、人里から食料を奪ってた……?」
数日後、私は父様に天狗が人里の畑を荒らしていた理由を神社の居間で聞いていた。
「ええ。霊夢が退治した天狗は、妖怪の山の天狗達の組織に、元々属していた者でした。名前やその他諸々の情報を天魔殿から聞かされましたが、どうやらかなり昔にはぐれ天狗になっていたようですね」
淡々と説明する父様だったが、ちゃぶ台の上には缶ビールがニ、三本置かれてあり、それに口をつけながらだった。
「……はぐれる事になった理由は何なの?」
「とある人間の男と、恋に落ちてしまったようで。駆け落ちのようです」
「……駆け、落ち?」
「天狗達はプライドが高い妖怪達ですが、稀にそういう事があります。ですが、組織はそれを良しとしなかったようですね」
つまり、話の流れはこうだった。
私が討った天狗は、妖怪の山にいた白狼天狗の一人であったが、山の警備に当たっていた際一人の人間に出会わしたのだ。
天狗とその人間との出会いはそこから始まった。彼らは人間と妖怪という壁を乗り越える為に天狗の方から組織を抜ける事を言い、人間が住む麓の方へと駆け落ちしてしまったのだ。
しかし、ここに大きな問題があった。人間と、妖怪の寿命の差だ。
人間は些細な事でも死んでしまう脆い存在であり、逆に天狗は、何百年も生きれるような妖怪だった。
人間の方が早くに死んでしまい、天狗と人間との仲睦まじい生活は終わりを告げてしまう。
その人間との結晶の形として子を授かるも、そこにも困った事があった。
半妖の子の育て方を、その天狗は知らなかった。
結果的に山に戻るわけにも行かず、かと言って我が子に食べさせる物をどうすればいいか迷ったその天狗が、人里の畑を荒し始めたと。
「……報われないわ」
話を聞き終えた私は、開口一番、そう感想を呟いた。
報われない。天狗は、自分の為にではなく、我が子の為に死んだようなものだ。
「報われません。ですが、天狗にも咎があります。彼女は我が子を優先し、邪魔する人間を殺してしまったのですから」
「……そう、だけど」
悪い妖怪というレッテルがあったにしても、その天狗にも荒らす理由があったのだ。
「……霊夢。博麗の巫女は幻想郷の人間を守る為に、妖怪を退治します。そこにどんな理由があろうとも」
「…わかってるわよ」
母様は、どんな思いで妖怪を退治してきたのだろうか。
初めての妖怪退治が、こうもややこしい物だと、そう考えてしまう。
「……父様、その天狗の子供はどうなったの?」
「ああ、それなら安心してください。天魔殿の方が、使いの者を行かせて保護したそうです」
「……そう」
「ですが、育ったら霊夢に復讐しに来るかもしれません」
「構わないわ」
復讐に来るのは構わない。その子にはする権利がある。
私はその子の親を殺したのだから。
「…………これで話は終わりです。霊夢」
「なんです―――」
かと、言い終える前に、父様の手が伸びてきて、私の頭をポンポンと叩いた。
「な、なに?」
「すまない。辛い思いをさせて」
ビクリと、その言葉に身を震わせてしまう。
「……どの世界にも、明確な“悪〟という者は存在してくれない。人が愚かな時もあれば、妖怪が愚かな時もある」
静かに、私の頭を撫でながら話し始める父様は、何か、別人のようだった。
「…だから霊夢が感じた事も、違うとは言えません。誰が悪いとは、強く言えないのです」
「……」
「妖怪も人間も、生きるために必死なのです。……両者が仲良くなれる機会が、あればいいのですが」
人と、妖怪が……?
私は父様のその言葉を、何度も反芻した。
人と妖怪が仲良くなる。
そんな事が、可能なのだろうかと。
※※
それから、更に数ヶ月が経った。
母様が死んだのが夏頃だった事を考えれば、約半年の歳月が経つ。
寒い冬。誰もいない冬。雪がしんしんと降る神社の境内には、私しかいない。
「ハァー、ハァー」
そんな中でも、私は腋が出る巫女服を着て境内の雪かきをしていた。
寒い。寒いのだが、じっと居間の方でごろごろしていてはそのまま腐ってしまいそうだった。
…あれからも定期的に妖怪退治の依頼は来た。
人間は弱い生き物だ。妖怪という捕食者が近くに現れれば、抗う術を持たない。
けれど、二度、三度と殺し損ねた妖怪の口から出た言葉に、私は苦笑してしまった。
―――化け物め
妖怪達から見たら……いや、守る人間達から見ても、博麗の巫女というものはそういう風に見えるのだろう。
化け物……人の皮を被った悪魔のような物だ。
母も同じ目を向けられながら、退治を請け負っていた事だろう。
違うのは、年端もいかぬ少女が顔色一つ変えずに妖怪退治をしている姿に、余計に恐れを感じているぐらいか。
「……参拝客も、全く来ないし」
チラリと、神社の前にある賽銭箱に目を向ける。
母が死んでから、参拝客が来た試しはない。私の噂を聞きつけてか、それとも元からそういう時期だったのか。
前は少なくとも、魔理沙や魔理沙のおばさんが賽銭箱にお金を入れていた事もあってか、全くないという事はなかったが。
「魔理沙、どうしてるかしら」
白い息を手に吹きかけながら、母が死んでから会っていない友人の事を想う。
妖怪退治を請け負った際に、霧雨の店に寄るべきか寄らないべきか迷った事はあった。
けれど、結局寄らなかった。今の私が顔を出しに行っても、迷惑になるだけだろう。
魔理沙は普通の人間なのだ。私みたいな化け物が近くにいては、いけないんだ。
「……化け物、か」
暗い感情にまた浸ろうとした時。
―――ザクッ、ザクッ
鳥居の方から足音が聞こえた。
息を吐きながらそちらを見れば、私の想いが届いたのか。
「あ……」
「やぁ、久しぶりだね。霊夢」
青いダウンコートを羽織った、眼鏡をかけた青年が、紅い鳥居の下で手をあげていた。
「霖之助さん……?」
その青年は、魔理沙のお店で働いていた者だ。
森近霖之助。外の世界の道具に興味を示し、霧雨の家で売れそうにない物を引き取っていた変人。
ぼんやりと、霖之助がこの境内にいるのが信じられなくて、じっと見つめていた。
霖之助は、そんな私の元にゆっくりと雪で滑らないように慎重に歩み寄ってきた。
「博麗の巫女に正式になったとは聞いたが、お店に来なかったからね。会う機会がなかったよ」
「……」
「霊夢?」
白い息を小さく吐きながら、不思議な顔をして目の前に立つ霖之助を、私は唯黙って見上げていたが。
「……何で、ここに来たの?」
自分でも驚く程、冷めた口調で喋っていた。
「……個人的にお店を持ったから、願掛けのつもりでここに寄ったんだが……」
すっと、霖之助は私の頬に手で触れた。
「少し、痩せたね。体調は大丈夫かい?」
「…大丈夫よ」
私の頬を触れた手は、雪が降る中ではとても暖かく、唯黙って触らせていた。
「……霖之助さん、魔理沙は元気にしてる……?」
けど、聞きたい事もあった。先ほどまで考えていた友人が、私が会いにこなくてどうしているかを。
「それも含めて、話があるんだ。立ち話もなんだから、神社に上がらせてもらえないかい?」
「…いいわよ」
私は踵を返す。
雪かきはまだ終わっていなかったが、どの道まだ雪は降り続けるのだ。
無下に断る理由もなく、私は霖之助を神社の居間へと招き入れた。
※
「良い話と、悪い話が一つずつあるんだが、どっちから聞きたい?」
居間へと案内し、ちゃぶ台を挟んで座布団の上にあぐらを掻いて座った霖之助さんは、お茶を用意し終えた頃を見計らって、そう話を切り出した。
「…じゃあ、良い話の方から」
急須から湯飲みに録茶を入れて、冷たくなっていた手を温めながら私は良い話から聞く事にした。
「良い話は、さっきも言ったが、僕が店を持つことになった話だね。香霖堂というお店を建てたから、今度来るといい。多少のもてなしも出来るし、服の新調もしてあげよう」
「……何処にお店を建てたの? 人里の中?」
「いや、魔法の森の入り口さ」
それを聞いて、湯飲みをこぼしそうになった。
「…………お客さん、来るの?」
魔法の森とは、妖怪や妖精、それどころか悪い魔法使いまで住み着いてるような危ない場所の筈だ。
その入り口にお店を建てたという事は、人間が足を運ぶ事は、あまりないだろう。
「それも含めて、神社に願掛けさ」
清清しいぐらいにこやかにそう言われては、最早こちらから何も言えなかった。
「……悪い方の話は?」
頭を抱えたくなる衝動を抑えながら、話題を切り替える。
「…………」
ずずっと、私が淹れた録茶を飲みながら、霖之助さんは難しい顔をして、湯飲みをちゃぶ台に置く。
言うべきか、言わないでおくべきか、迷うような素振りをしたが、やがて静かに、霖之助さんは言葉を紡いだ。
「…魔理沙の母親が、亡くなったんだ」
「………え?」
「元々、身体の弱い人でね。霊夢が霧雨道具店に来なくなってから、一月後ぐらいに」
「……そう」
私が母様を殺した日、そういえば魔理沙がおばさんの事を具合が悪いと言っていたっけ。
「それで、話が終われば良かったんだが……」
「なに、まだ何かあったの?」
「………」
霖之助は、何故か言いづらそうに、顔をしかめる。
「……魔理沙が、家を飛び出したんだ」
「…………………は?」
どれだけの間があった事か。
私は、霖之助さんの言葉を理解するのに、何度も何度も反芻して、自分の頭の中で整理しようとしたが。
「……なん、で?」
声が震えてしまう。私は、その先が何となく予想がついてしまっているのに、霖之助さんに聞いてしまった。
どうして霖之助さんが魔法の森の入り口何かに店を置いたのか。
どうして魔理沙の母親が死んで、魔理沙は家を飛び出したのか。
そして、今何処にいるのかも、頭の中で予想がついてしまっているのに、聞いてしまったのだ。
「……おじさんの方がね。今まで扱っていた“魔法〟に関する全てを、燃やしてしまったんだ」
魔理沙の母親が、私の母親と友人だった理由。
それは、博麗の巫女という称号が私の母親にあったのと同じように。
魔理沙の母親にも、“魔法使い〟という称号があったせいだ。
「おじさんは、魔法のせいで、こんなにも早く死んでしまったと思ってしまった……いや、違うか。魔理沙には普通の生活を送ってもらいたいと思って、形見である魔法の品々を燃やしてしまったんだよ」
「そんな……」
その光景が、目に浮かぶ。
魔理沙の事だ。泣きながらそれを止めようとしただろう。
けれど止められなかった。母親の形見を燃やされ、普通の生活をして欲しいと願われても、彼女はそれにYESなんて絶対言わない。
そして、家を出た。
「……魔理沙は、今」
「魔法の森にいるよ。魔法使いになる為に」
案の定だった。霖之助さんが、霧雨の道具店から個人店を建てた理由もこれでわかる。
「………」
「幸い、あそこには古くから放置されていた建物がいくつかあってね。工房には事欠かないと思うけど」
「それでも、妖怪達はどうするの? それに、元々住み着いている魔法使いだって……」
友人がいつの間にか、私と同じ世界に立っている事を知らせて、頭を本気で抱え込んだ。
私は、どうすればいいのだろうか。
今すぐにでも家に戻るよう言いに行きたかった。死んでしまってからでは、遅いのだ。
けれど、それすらも言えない。博麗の巫女だから、“追うことは許されない〟。
「……霊夢、どう思ってるかはわからないが、魔理沙が家を飛び出した理由は、それだけじゃないんだ」
「………え?」
他にもまだ理由があるのかと、突っ伏す形で頭を抱えていた姿勢を直して霖之助の方を見る。
「…これは、言うべきか正直わからない。僕のせいなのかもしれないし、魔理沙が自分で決断した事でもあるから」
私は、黙って続く言葉を待った。
「魔理沙は、君の友人として、ずっと横に一緒に居る為に、魔法使いになると言ったんだ」
母親が死に、形見の品が燃やされた事は、きっかけに過ぎないと。
霖之助は、呆然としている私に言う。
「……霊夢が来なくなってからずっと魔理沙は、悩んでいたと思う。彼女は、普通の人間だったから」
悩んだ結果、もう一度私と会って、横に一緒に居る為には、魔法使いになるしかないと。
彼女は、自分自身で決断したのだ。
「…………馬鹿よ」
大馬鹿だ。本当に馬鹿すぎて、どうしようもない。
「私が……それで喜ぶと、思ってるのかしら?」
顔から水滴が落ちる。
もう、枯れ果てたと思っていた。
二度と、泣く事はないと思っていたのに。
孤独になるしかないと思っていた私に、魔理沙は必死にもう一度手を差し伸べようと、頑張ろうとしていた。
「霊夢……」
「ごめん、なさい……霖之助さん、帰って、くれないかしら?」
泣いてる姿が恥ずかしかった。
だって、これは悲しい涙なんかじゃない。
嬉しくて、心の底から嬉しくて泣いてしまっているのだ。
「…そうするよ。じゃあ、暇な時にでもお店に来るといい」
霖之助は立ち上がると、そのまま何も言わずに帰っていった。
残された私は、堪えきれなかった涙をどう止めようかと考え始めた。
※
霖之助が来て、魔理沙が魔法使いになると聞いた翌日。
雪は降るのを止め、積もった雪が溶け始めるまでもう数刻という朝頃。
私は寝ずに、筆を取っていた。
以前、父様が言っていた人間と妖怪が仲良くなる機会があればという言葉を元に、私なりに色々考えたのだ。
私には、必要のない事柄だった。人と妖怪が仲良くなった所で、何の意味があるのかと。
けれど、魔理沙が魔法使いになるのなら別だ。彼女は魔法使いになろうと、あくまで人間なのだ。
妖怪と対峙すれば、殺されてしまう可能性のが高い。
妖怪は、人を喰らう生き物だ。
寿命も人間に比べれば遥かに長く、人間に比べて遥かに強靭な肉体を持っている。
それと仲良くなろうとするなら、まず対等な立場にならなければ。
対等な立場に立つにはどうすればいいか?
「……出来た」
自分の考えを纏めた紙をもう一度読み返す。
後に、幻想郷に浸透する一つのルール。
博麗の巫女としてではなく、博麗霊夢の意志によって作られた、人と妖怪が対等に闘い、仲良くなる為の遊び。
弾幕ごっこが、ここに誕生した。
※※※
それからが大変だった。弾幕ごっこを幻想郷に浸透させる為に父様に頭を下げ、天狗の長と阿求の方から博麗の巫女の決まり事として幻想郷に浸透させた。
私はそれ以来妖怪を殺していない。あくまで懲らしめるだけだ。
恨まれようとも、憎まれようとも、私に復讐しようとまた襲いかかってこようとも、絶対に殺さなかった。
懲らしめるのは退治するより何倍も難しいが、殺すよりはましだと、自分の信念を曲げなかった。
途中、魔理沙とも再会を果たし、彼女とも弾幕ごっこの元勝負をし、数少ない人間の友人として傍らにいてくれる。
勝負自体は負けてやれないが。私が負ければ均衡が崩れる。
それも父様に言った時に、懸念された事だった。
弾幕ごっこというルールの元戦えば、いつか負けてしまうかもしれないと。
覚悟の上だった。万が一負ければ、その時はその時だと。
そしてもう一つ、このルールを浸透させれば、くすぶっていた妖怪達が沸いてくるかもしれないとも言われた。
幻想郷には、昔から格の違う妖怪達がいることも聞かされていた。
今はだんまりを決め込んでいるが、こう言ったきっかけがあれば、そいつらが出てくるかもしれないと。
私はその言葉にも、胸を張って言ったのだ。
望む所だと。母様から引き継がれた博麗の力は、くすぶっていた者達に負ける程弱くはないと。
父様は、その言葉を聞いて納得した。
そして私は、幾重もの異変を解決するはめになる。
そこには数え切れない程の弾幕ごっこがあり、数え切れない程の出会いがあった。
友人の為にした事が、幻想郷全てを巻きこむ事になろうとも、後悔はしなかった。
……私は生涯を博麗の巫女に費やす事になる。
引き換えに私の本音を、私の心を知るものは決していないだろう。
けれど、これを“孤独〟と言ったら、母様に怒られてしまうかもしれない―――
「霊夢~どうしたんだ? ぼんやりして」
「何でもないわ。ちょっと考え事をしてただけ」
神社には、妖怪達や亡霊が思い思いに騒いでいた。
宴会も年を重ねる毎に集まる人数が増えて行っている気がする。
そこには神様が鬼と飲み比べをしたり、吸血鬼がそれを見ては天狗と何か話していたり、亡霊のお姫様と八雲の大妖怪が厄神の女性と静かにお酒を飲んでいたりしていた。
騒霊達が境内の方で演奏し、妖精達が踊って見せたりする所に照れる閻魔と笑う死神が一緒に混ざっていたり。
花の妖怪や人形遣いも妖精達の輪の外でその演奏を肴にしていたり、出張してきたのか、屋台毎境内に乗り付けてきた夜雀の妖怪の所には酔い潰れている天界の我侭お姫様や河童がいた。
常闇の妖怪や蟲の妖怪も屋台の横で夜雀を手伝うように何かしているのが見えたり、地底に住んでいた鬼と橋姫がじゃれ合う姿もあった。
地霊殿の主も既に横に転がっている。妹と一緒に仲良く転がって酔い潰れているのを見ると、どうやら無理に飲み比べしたらしい。
その二人を膝枕する黒猫と地獄の鴉が仲良く話していた。
「ホントに、煩いぐらいいるわよね」
後の連中は大体が死屍累々だ。神様と鬼の飲み比べの横に挑んで横に転がっている。主に蜘蛛や兎や不死者や門番が。
「霊夢さぁーん、飲んでますかー?」
「……もう、お嬢様の所に戻っていいかしら?」
声をかけてくる顔を赤くした風祝にそれに絡まれた瀟洒なメイドが私の横にいたり。
「煩いが、嫌いじゃないんじゃないかい? こんな風に大騒ぎするのも」
私のもう一つ横でお酒を飲む香霖堂の店主が私の言葉を拾う。
「私は嫌いじゃないぜ。楽しい方が静かに飲むよりお酒が美味くなるし」
「それで片付けも手伝いもしないんだからそれは美味しいわよね」
普通の魔法使いにそうやって嫌味を言ってやりながら、笑って私は手に持つ盃を傾ける。
「けど、確かにこういう風に騒ぐのは嫌いじゃないわ」
決して手に入らないと思ったもの。
それが、目の前で起こってくれてるのだから―――
―――私は後悔したのか。
目の前の光景を見て、ふとそんな考えが浮かんでしまう。
空には満天の月が浮かび、闇夜の灯りにしては眩しすぎる程だ。
その眩しさのせいか、夜だというのに鮮明に周りが見えてしまう。
地面には妖怪だった者が息絶えていた。
血が地面へと飛び散り、私の服にもその妖怪の血がこびりついてしまっている。
必要以上に痛めつける気はなかった。
地面に横たわっている妖怪は、人里の者達から人を喰らう妖怪と認識され、退治してくれと言われた者だ。
人間にとっては、それは悪い妖怪に見えた事だろう。
私はその頼みを承諾し、夜中に出没するその妖怪を補足し、問答無用で殺した。
そこに勝負や決闘というものはなく、一方的な略奪だった。
奪ったのはその妖怪の命。
弾丸のように飛来し、襲撃してきた私とその妖怪は、一瞬目が合った。
妖怪の容姿は、何処にでもいそうな少女の姿だった。
紅い両の瞳に整った顔立ち、まだ幼さを見せるその姿に、黒いローブを羽織った姿は、西洋の魔女か何かを連想させた。
その妖怪が何か言葉を発する前に針を飛ばし、札による霊撃を食らわせ、陰陽玉でべしゃりと叩き潰した。
瞬殺ではなく確殺。それぐらいしなければ妖怪は死なないと、今までの経験が語りかけていた。
結果、返り血で身体中に血がこびりつくはめになったわけだが。
―――後悔したのは、目を合わせたせいだ。
殺す直前、原型が無くなる前の妖怪の姿を見た。
幼いその姿を見て、何故か、生んだ我が子とダブった。
それを殺したのだ。自らの手で。
「……うぷ」
連想は妄想を、妄想は現実を侵食して、身体に変調をもたらした。
口元を咄嗟に抑えるも、吐くのが止まらない。むせかえる血の臭いも、原型がなくなってしまった肉片も、まるで“自分の子供を殺した気がしてしまったみたいだった〟。
「……ハハ……」
吐きながらも苦笑してしまう。私は、もう駄目だ。
―――もう、博麗の巫女を続けられない。
「……ん」
目を開けて見れば、天井が見えた。
「あ、やっと目が覚めましたか」
鼻をくすぐるお酒の匂いと共に、そんな声が聞こえてきた。
夜は眠っていた間に消え失せたのか、鳥のさえずる声や、障子越しに溢れる太陽の光と温もりを感じる。
「……貴方」
「神主。ここではそう呼ぶ決まり事ですよ」
私に被さっていた布団をどかせ、身体を起こしながら声の方を見る。
その人は、いつものように缶ビールを飲みながら部屋の隅にあぐらを掻いて座っていた。
「……ごめんなさい」
この人がここにいるという事は、私はあの後ここまで運ばれたのだろう。
見慣れた部屋は、私の神社である博麗神社の私室だ。
「…謝る事でもないですが。それよりも、体調は大丈夫ですか?」
ぐいっと缶を傾けて、一息に飲んでから心配してくる。
「……こんな時でも、お酒は飲むんですね」
「ああ、すみません。気に障りましたか?」
失敬と謝りながら神主はビール缶を畳に置いた。
「…それぐらいで気に障っていたら、貴方と結婚なんてしてません」
溜息と共に私はそう言って、布団から完全に出ると、縁側に続く方まで歩き、障子を左右に開ける。
太陽は既に真上にあるようだった。昨日から意識を失っていた事を考えると、かなり寝ていたらしい。
「…霊夢は?」
「霊夢でしたら、霧雨の娘さんと遊びに行かせました。貴女の事を心配していましたが、大丈夫と言い聞かせましたので」
「そうですか」
ほっと一息吐くも、暗い感情は消えてくれない。
我が子と同じぐらいの妖怪を討った事実を、私は良しと出来なかった。
「……貴方」
「神主と呼んでくださいって」
「私は、間違っているのでしょうか…?」
神主の言葉を無視しながら聞いた。
「……何がです?」
「昨日の妖怪は、まだ幼かった。霊夢と同じぐらいの歳に見えたんです」
「……」
「実際は、もっと歳を取っていたかもしれません。けれど、まるで霊夢を殺してしまったみたいで……」
「それで、意識を失くしたと?」
神主の言葉に、コクンと頷いて見せる。
「…私はもう、妖怪を退治できません」
「………そうですか」
博麗の巫女が妖怪を退治出来ない。
それはつまり、この幻想郷のバランスが壊れるという事だ。
「……もう何年かは、貴女に任せても問題ないと思ったんですがね。せめて、霊夢が完全に成長するまでは」
困った素振りもせずに、神主は立ち上がると、私の横に来た。
「霊夢には、辛い思いをさせる事になりますね」
「……はい」
「博麗の巫女は、必ずその代に一人しか存在しない。貴女はそれをわかってる筈ですが」
「覚悟の上です。私はもう、妖怪達を退治する事なんて出来ません……」
「………覚悟の上、ですか」
頭を掻きながらも、もう片方の手で私の肩を抱いて、神主は自分の胸元へと招き寄せた。
「……もう、この温もりを味わう事も出来なくなるのですね」
「……ごめんなさい」
逆らわずに、私は頭を擦り付けるようにしながら神主の胸元に身を寄せた。
神主は、幻想郷を楽園に導く為の人だった。
私は、その幻想郷を守るための守護者だった。
それだけの関係。次の世代を守る為だけに肌を重ね、私は彼との子供を作った。
だけど、そこに愛情がないなんて、言えなかった。
彼と何度も酒を交わした。彼と何度も言い合った。彼と何度も喧嘩もした。
数え切れない程の思い出が、そこにあった。
灰色の世界になっていた私の世界に、彼は色鮮やかな世界をくれた。
「……霊夢の事を、お願いしますね。あの子は、強く見えるけれど、弱い子ですから」
「ええ、わかっています」
力強く頷く神主を見て、私はすっと胸元に寄せていた頭を離し、神社の境内の方へと歩いていく。
最後の仕事まで、せめていつも通りに過ごす為に。
※
博麗の巫女とは、幻想郷の創造神が作り出した人間の守護者だ。
あらゆる妖怪が彼の巫女に討伐され、幻想郷で暮らす人間達は日々平穏に暮らせている。
巫女は、常に平等でなければならない。
拒む事は許されず、追う事さえも許されない。
不動不変、そう言った全ての物を背負うからこそ、守護者と呼べるのだ。
「霊夢ー、どうしたんだよ? そんな難しい顔して」
「…いや、何でもないわよ」
その博麗の巫女の次の世代を担う私は、何故か人里のお店でお昼ご飯を頂いていた。
霊夢と呼んだ目の前に座る金髪の少女は、不思議な顔をしながらもちゃぶ台に乗っかっている御蕎麦を平らげていた。
彼女の名前は霧雨魔理沙という。魔理沙の母親と私の母様が仲が良く、必然的にその子供である私と魔理沙が仲良くなっているわけだが…。
最初は仲良くなんて出来なかった。私は博麗の巫女になる存在なのだ。
友達なんて、作ってはいけないと思った。
だけど魔理沙はそんな事等お構いなしに私に接してきた。会う度に何か提案し、気軽に遊ぼうと言ってきて、私と友達になる為に色々な事をしてきた。
それが四、五年も続き、結果的に私と魔理沙は友人関係にある。
そんな魔理沙の所に遊びに来るのは別に問題はないのだが……今回は事情が違った。
昨日の夜、人を喰らう妖怪退治を人里の連中から頼まれた母様が、意識を失った形で戻ってきた。
母様を担いで戻ってきたのは……父様だった。
あまり神社にはいない父様。いつもお酒の缶を持っている人だったが、母様を担いでいた時は、お酒の臭いもしなかった。
大丈夫なのかと聞いても、父様は大丈夫だよと言うばかりで、何で倒れたのかも答えてくれなかった。
不安なまま、もう遅いから寝なさいと言われ、その翌朝、まるで私が邪魔みたいに、霧雨の家に行っておいでと言われてしまって、こうして蕎麦を頬張っている始末なのだ。
「……魔理沙、貴女の所のおばさんから、何か聞いてない?」
「ん? 何を?」
ずぞぞぞと蕎麦を無心に頬張っていた魔理沙に聞くべきか迷ったが、昨日の事を知らないか聞いてみる事にした。
「昨日、母様が人里の人達から妖怪退治を頼まれてたのよ。それがどうなったか、知らないかしら?」
「聞けばわかると思うが……んー、ちょっと待っててくれ。親父に聞いてみるよ」
「? おじさんに?」
「ああ、言ってなかったっけ。母さんさ、ちょっと具合悪くて、外に最近出てないんだよ。だからそういう事情は親父の方が知ってると思うぜ」
「……ふーん」
そういえば、遊びに来た時もおじさんの顔と霖之助の顔しか見てないなと、今気がついた。
魔理沙の家は商い屋だ。それも霧雨道具店と言う何でも品が揃ってるような大きなお店だ。
妖怪退治がどうなったかも、確かにおじさんの方に話が来ているかもしれない。
頬張っていた蕎麦をそのままに、「ちょっと待っててくれ」と言いながら立ち上がると、黒いエプロンスカートを揺らしながら、小走りに魔理沙は居間から出て行った。
そうして数分と待たず、同じ勢いのまま戻ってくる。
戻ってきた魔理沙の表情は、難しい顔をしていた。
「聞いてきたが……んー、霊夢のおばさんから退治したって言いに来たわけじゃないみたいだぜ?」
「……父様でもない?」
私の言葉に、魔理沙は頷いてみせる。
「阿求の所からみたいだぜ。無事に妖怪は討伐出来たって」
「……そう」
阿求と言うのは、稗田の阿求と呼ばれる転生者だ。
見たものを記憶し、それを次の代に引き継がせる為に魂を転生し続ける幻想郷の記録者。
恐らく、父様が阿求に村の人達に言うように頼んだのだろう。
父様は、博麗神社の神主という立場にいるが、決して表には出ようとしない人だ。
母様が父様と結婚した事は、幻想郷の皆が知っているが……父様が何者なのか、それを知る者はあんまりいない。
正直な所、私も父様の事は、あまりよくわかっていない。
酒をいつも飲んでおり、細い身体は病的なまでに白い人。
けれど、いつも笑顔でいる人だった。
時々神社に来ては、私の成長を見に来たり、母様の事を心配している優しい人だ。
「……なんかあったのか?」
「ううん、何でもないわよ。ちょっと気になっただけよ」
魔理沙は何かあったのかと、心配するような目で私の方を見てくるが、私は首を横に振って答える。
何か言いたげだったが、私が何でもないと答えてしまえば、それ以上踏み込んでは来なかった。
「あー、そだ。香霖の奴がさ、またわかんない物を親父から貰ってたんだよ。これ食べたら一緒に見にいこうぜ」
「ふぅーん? 霖之助さんも物好きね。使えない物を集めるの」
話題を変えて、魔理沙はそう話す。
私もそれに合わせるようにその話題に乗っかる。
現実から目を背けている気がしたが、魔理沙と馬鹿な事をしている方が気が紛れたのだ。
だから、まだ十になったばかりの私には、現実がいかに重いか。
博麗の巫女が、どうやって次の世代に繋がれるかを、わかっていなかった。
※
「ちょっと遅くなっちゃったわね……」
空を見れば夕焼け雲。太陽は直に降りて月が浮かび上がる時刻だ。
あの後霖之助を冷やかしたり、魔理沙と色々と話し込んでいたら日が沈みかけていた。
急いで幻想郷の空を飛びながら、神社へと帰宅する。
「……あれ?」
しかし、境内へと降り立った私は首を傾げながら、周りを見渡した。
「…結界?」
いつもは施されていない結界が、境内の至る所にされており、まるで妖怪退治をする前の準備みたいだった。
「……おかえりなさい、霊夢」
「…! 母様!」
不思議に思いながらも、神社の入り口の方へと歩いて来た私に、声をかける母様の姿が見えた。
意識を失って戻ってきたが、立っている姿はいつもと変わらず、血で染まっていた巫女衣装も洗い落とされていた。
駆け寄ろうと笑顔のまま私は鳥居の辺りから走るが。
「止まりなさい」
「……え?」
静かに、境内の真ん中に差し掛かった所で制止された。
「母、様?」
「……霊夢、この十年間、私は貴女を博麗の巫女にする為に育ててきたわ」
私を見る目が、とても冷たかった。
「貴女は、天才よ。幻想郷を背負う為に、修行と呼べる物なんて全然していなかったのに、陰陽玉も針も、空を飛ぶ事さえも、たやすくやってみせた」
「……何を、何を言ってるの? 母様」
何かの間違いだと思った。私は、こんな母様なんて知らない。
「……もう五年も経てば、誰も貴女を止められなくなる。誰も貴女を殺せなくなる。最強の、博麗の巫女が出来たと思うわ」
こんな殺意を私に向けてくる母様なんて知らない。
「でもね、もう、駄目なの。私が、駄目になっちゃったの」
一歩、母様が踏み込んでくる。
「私が貴女に教えられる事は、あと一つだけ」
一歩、母様が踏み込んでくる。
「博麗の巫女として、妖怪を退治する為に」
一歩、母様が踏み込んでくる。
「明確な殺意を持った相手を、殺す事よ」
……もう一歩踏み込んでくれば、何が飛んできてもおかしくなかった。
「……嘘よ」
だけど、私はこの現実を受けいられなかった。
「嘘よ…嘘よこんなの! どうしたのよ母様! 昨日何かあったの!? 急に何で……!」
狼狽する私の横に、ひゅんっと、空気を切り裂く音が聞こえた。
「……え?」
頬が熱い。ポタリと、雫となって顔から血が流れる。
「……遅かれ早かれ、いずれはするべき事なのよ。霊夢」
母様の手には、いつの間にか針が握られている。
その一本が、私の頬を掠めたのだ。
「……どうして」
「幻想郷の為に。私も貴女も、その為にここにいるの」
「別に母様と私が殺しあう理由なんてないじゃない……! 二人で幻想郷を守ればいいじゃない!」
「……そう、出来たら良かったのにね」
そして、もう一歩、踏み込んできた。
「っつ……!」
直感があった。あと一歩踏み込まれたら、確実に殺しあう事になると。
後ろに逃げるようにしながら踏み込み、空へと再び飛ぶ。
母様と殺しあう事なんて出来ない。今は逃げなければ―――
「逃げる事は許されないわ」
風に乗って聞こえて来た声と、境内の周囲に張られていた札が蒼く輝いたのは、ほぼ同時だった。
「えっ……!?」
逃げようとした空の上にもその結界は張られ、鳥籠の形をした結界が神社を中心に形作られる。
「……母様の結界じゃないわ…何なのこれ……?」
見た事がない結界の式に戸惑い、私は茜色に染まる空の上で止まってしまう。
「さぁ、死合いましょう。霊夢」
声と共に、再び風を切る音が耳に聴こえる。
振り返った先には、最初の時のような威嚇の針ではなく、幾重もの針の弾丸が私に迫っていた。
「くっ……!」
咄嗟に袖から札を取り出し、結界を張る。
甲高い音を立てながら、結界に阻まれて落ちていく針の群れ。
「陰陽鬼神玉」
聞こえて来た声に、私は更に札を重ねて二重に結界を張る。
途端、巨大化した陰陽玉が結界に激突した。
「ううっ……!」
重圧は先ほどの針と比べ物にならない。
結界にたやすくヒビが入り、私を潰さんと迫る。
「そのまま結界が割れれば、死ぬわね」
「……! ぐっ、があっ!!」
聞こえて来る声に押される形で、ヒビが入った結界の方向を無理矢理斜めにして、陰陽玉を受け流した。
「上手よ、霊夢」
まるで私を鍛えているかのように、声をかける母様だったが、殺意は全く消えていない。
「今度は、これよ」
息を吐く暇もなく、今度は私の周囲に札が飛び交う。
一つ一つがまるで生きているかのように空を飛び。
「霊撃」
母様の言葉と共に、それが全て同時に光輝いた。
「…!」
声を上げる間もなく、袖から札を取り出して周囲に結界を再び張った。
次に見たのは、轟音と共に札が爆発していく光景だった。
しかし結界はたやすく壊れ、私はその爆撃に身を晒すはめになる。
爆撃が収まる頃には。
「か、は……」
空から無様に堕ちる私がいた。
がつんっと、境内に落ちたときにも痛みが背中を襲った。
よく今ので死ななかったなと霞がかかり始めた頭で思ったが、それ以上に信じられなかった。
母様が、本気で私を殺そうとしている事に。
「どうして攻撃しないの? 霊夢」
空の上で、沈む太陽を背にしながら、私に語りかけてくる母様。
「………どうして?」
仰向けに倒れ、視界に入る母様の姿は、何処までもいつもと変わらなかった。
だから、信じられないのだ。
母様は、優しい人だった。私を可愛がってくれた。私を育ててくれた。
立派な博麗の巫女になろうと決めたのは、母様の背中を見てきたからだ。
その母様が、私を殺そうとしている。
どうしてと聞きたいのは―――私の方だ。
「死にたいの? 死ぬわよ? 何も出来ずに、何も守れずに、貴女が倒れるだけで、幻想郷も崩壊するのよ?」
「……」
「霊夢、立ちなさい。立って闘いなさい。博麗の巫女として、闘うのよ」
「………嫌よ」
母様と闘って、母様を殺して、次の博麗の巫女になる?
そんな事になるぐらいなら。
「私が死ねば、母様が死ななくて済むのでしょう……? なら、私が死ぬわ」
自分が死んだ方がましだと、目を閉じた。
「…………そう」
風のそよぐ音が聴こえて来る。
日が沈み、月が浮かぶぐらいの間、母様は空の上で佇んでいた。
動物達が鳴く声も聞こえて来ない。この鳥籠の結界の中には、私と母様だけ。
「……なら、幻想郷も終わりね。貴女も、私も、人里に居る連中も全員死ぬわ」
―――まって
「残念ね。霧雨の家の子とも友達に霊夢はなれたのに」
―――何を、言っているの?
「本当に、残念。何て言ったかしらあの子……確か、魔理沙だったかしら? あの子も死んじゃうわね」
―――そんな
「さようなら、霊夢」
「そんなの嫌よ……!!」
叫びと共に、仰向けに倒れていた身体を起こした。
身体を駆け巡る痛みは計り知れない。けれど、それ以上に。
さっきまで一緒に居た温もりを消さない為に、再び身体は空を飛んだ。
速度も、霊力も、防戦一方だった時とは比べ物にならない。
痛む身体が、身体を駆け巡る霊力によって修復され、身を包み、弾丸となって母様へと向かっていく。
自分の為にではなく、友人の為に。
私は、母様を―――
「―――それでいいのよ。霊夢」
微笑む母様を、討つことになる。
鳥籠の結界は、母様が境内に落ちた途端、緩やかに消えていった。
何事もなかったかのように静寂が夜の帳と共に落ち、幻想郷は変わらず存在する。
……唯一つ、泣きじゃくる声を除いて。
「母、様……!なん、で、どうして……!」
横たわる母様の身体から、霊力が抜けていくのがわかる。
それが、私の身体に移って行くのも。
「……博麗は、こう、やって、代を重ねながら……強くなっていく、のよ」
ごほっ、ごほっと咳き込む度に、鮮やかな血が口から零れていく。
「……守護者が、一人なのは………この為よ……次の世代に……力を渡す為に………」
「まだ、まだ戦えたじゃない! これだけの霊力があるのに! どうして!? どうして……!」
「………昨日の、夜よ。戦えないと、思うようになったのは」
咳き込みながら、苦笑するようにして、泣きじゃくる私の顔に、そっと母様は手を伸ばしてきた。
「……貴女と被って見えた、のよ。妖怪が……そうしたら、もう、駄目だった。もう、退治出来ないと……思っちゃったの」
「………そんな」
「……ごめん、なさい、霊夢……こんなに、早く……貴女に……辛い事を任せる事に……なって」
「……そう、思うのなら、死なないでよ……生きて、頑張って、博麗の巫女に私が、頑張って……なるから、死なないでよ……! 母様!」
「………ごめん、なさい」
静寂の中、カツン、カツンと足音がした。
私は泣き顔のままそっちを見る。
「……父、様」
そこには、父様がいた。
いつも手に持っている缶ビールはなく、帽子を深く被り、眼鏡をかけたその奥の瞳からは、何も窺えない。
「……あな、た?」
「お疲れ様です」
「………無事に…最後の仕事を終えました……」
「ええ。よく頑張りました」
父様は、私の反対側まで歩いて来ると、膝を着いて、母様の顔を見る。
「……ふふ、貴方と……過ごせた数十年が、まるで……夢のようでした」
「ええ、私もです。貴女みたいな人と出会えてよかった」
淡々とした会話。
父様は泣かなかった。死に際の母様の顔を見て、最後の別れを告げようと、喋り続ける。
「……霊夢を、お願いしますね……導いて、あげてください……」
「………ええ」
「霊夢……貴女も……この人を……支えてあげて……この人も……弱い、人だから………」
「………母様?」
私の頬を触っていた手がするりと、落ちていく。
弱々しく開いていた瞳はゆっくりと閉じられ、静かに呼吸をしていた息さえも、聞こえなくなった。
「母様!!」
叫んでも、もう自分の名を呼んでくれない。
「嘘よ……こんなの嘘よぉ……!」
骸となった母様の身体に縋りついても、もう、自分を抱きしめてくれない。
私は、博麗の巫女になるという重みを。
母親が死ぬ事で、実感した。
※※※
母様が死んで、数ヶ月経った。
葬儀は私と父様で済ませた。火葬を神社で行い、墓は立てなかった。
父様は私に言った。博麗は、拒む事は許されず、追う事も許されない平等の存在なんだと。
昔から言われてきたその言葉は、肉親にも影響する。
私はそれに異を唱えなかった。
父様が平気な顔をして言っていたら、異を唱えていたかもしれない。
けれど、母様の死に際にも表情を変えなかった父様が、苦しげにそう言ったのを見て、私は異を唱えられなかった。
一番、母様の墓を立てたいのは、この人なんだと思ったから。
それからというもの、私は今まで母様がしてきた事をなぞるようにしながら行動していた。
……でも、神社にいるのがとても苦しかった。
何処を歩いても、母様との記憶が蘇るせいで。
台所に立てば一緒に料理を作ったなとか、境内の掃除をすれば一緒に箒を持って落ち葉を集めたなとか。
今まであったものが、蘇ってくるのだ。
その思い出を壊したのは、私自身だというのに。
―――そんな時だ。私に妖怪退治の依頼が来たのは。
「……人里に?」
「ええ。博麗の巫女として里の畑に出没する妖怪を退治して欲しいと。正式に阿求殿の方から依頼を受けました」
その話を持って来たのは、父様だった。
「既に死傷者も出ています。上白沢の者が人間達にあまり外に出ないよう注意を促しているようですが、妖怪の方が巧妙なようです」
「……私は、それを退治すればいいのね?」
相手が何であろうと関係なかった。
博麗の巫女として、悪しき妖怪を討伐する。
それが出来なければ、母様が死んだ意味がわからない。
「……霊夢」
身支度をしようと歩き始める私に、小さく、父様が声をかけてくる。
「なに?」
「………いや、気をつけてください。貴女にとって、初めての妖怪退治ですから」
「…ええ、気をつけて行ってきます」
心配してくれているとわかっていたが、私はそれを、冷めた表情のまま返した。
数ヶ月経っても、私の心は癒えていなかったのだ。
※
夕方頃、神社から人里に飛んできた私は、畑に出没するという妖怪を物陰に隠れて待った。
日が沈むまでもう数刻、夜になれば嫌でも妖怪達の時間になる。
古今東西、妖怪が夜に強くなるのは何処でも同じだ。逆に日が出ている時に強くなる妖怪なんてこっちが聞きたいぐらいだ。
昼間の内に人里に到着し、依頼した人間達を見たが、顔を合わせる度に怪訝な顔をされた。
当然だろう。まだ十程の娘が博麗の巫女を名乗り、今まで退治を任されてきた母様の姿がなかったのだから。
しかし、私にとっては、それもどうでもいい事だった。
「……」
冷や水を浴びせられたかのように、頭の中は冷え切っていた。
現れたら確実に退治する。問答無用で命を奪い、人を襲った事を後悔させるのだ。
やがて日も沈み、夜の帳が落ち始めた頃。
「……!」
空からバサリ、バサリと、黒い羽根を広げながら降り立つ妖怪を見た。
腰に細身の帯剣を差し、高下駄を履き、白い着物を着た、長い銀髪から二つ大きな耳を生やしている女性は、周囲を警戒しながら畑に生えていた物を引き抜く。
「……あれって」
それはどう見ても、天狗だった。
しかし、おかしい。天狗が人里の畑を荒らすなんて事、何故しているのか?
しかも死傷者を出してまで。
「……」
疑問が湧き上がるが、すぐに消えた。
どちらにしても、やる事は変わりないのだ。
物陰に隠れていた身体を起こし、ゆっくりと天狗に近づいていく。
「…っつ!? 誰だ!?」
頭の上に生えていた耳がピンと立ち、私が接近する前に気づいた。
だが、気づいただけだ。暗がりに目が行き届かないのか。私が誰なのか見えていないようだった。
気づかれた時点で私は地面を蹴り、空へと飛翔しながら、袖から針を取り出してその天狗に投げ付ける。
「くっ…!」
ガキィンと、金属と金属がぶつかる音が何度も木霊し、私の針が腰に差していた剣ではじかれていた。
しかし防がれるのもわかっている。空の上で回るようにしながら、袖から大量の札がばら撒かれた時には。
「なっ…!?」
天狗の退路はない。結界は縦横無人に空を飛び交い、私とその天狗を閉じ込める。
「……まさか、博麗の巫女………!」
その天狗は、周囲を巡る結界を見て、私の正体がわかったようだ。
けれど、答えてやる義務もなければ、待ってやる理由もない。
そのまま私は、陰陽玉を七つ空へと投げる。
一つ一つが色を纏い、輝き初めたそれは虹色になっていく。
「死になさい。妖怪」
冷めた声と共に、それが号令とばかりに陰陽玉はその天狗に高速に向かっていった。
「くっああっ!!」
迎撃しようと天狗は剣を振るうが、どうしようもない。
七つの陰陽玉は、その天狗に吸い込まれるように直撃し、爆発した。
※
「………」
白煙が畑から立ち昇り、私はその天狗が死んだかどうか確認する為に地面へと降りた。
ヒュー、ヒューと、荒い息遣いが煙の中から聞こえて来る。
「……生きてるわね」
煙が晴れる頃には、わき腹と腕が消し飛んだ、血に染まる天狗が畑の上で転がっていた。
「博、麗……まさか……こんな幼い少女が……」
「ごめんなさいね。まだなったばかりなの。苦しまずに殺せてあげられなかったわ」
「……く、はは」
その天狗は、私の言葉を聞いて苦笑するような顔をして見せた。
「その、物言いに……その冷めた目つき……人とは思えない……な」
「……そうね。自分でも本当に人間なのか、考えたくなるわ」
陰陽玉を袖から一つ取り出す。
天狗の上にそれを投げれば、終わりだ。
「……いつか、来るとは思っていたが………すまない……―――よ、―――」
ぐしゃりと、巨大化した陰陽玉がその天狗を押し潰した。
「……はぁ」
それで初めての博麗の巫女としての妖怪退治は、あっけなく終わった。
けれど、何故だろうか。
畑を荒し、人間を襲う悪い妖怪。
そういう風に言われていて、事実畑を荒らしていた天狗を退治したというのに。
―――生きて
誰かの名前を言いながら、そう言って死んだ天狗に、胸を突かれた気持ちになったのは。
「聞くべきだったのかな……」
殺してしまった後では、何もわからない。
風が弱く流れる中、血なまぐさい臭いと共に、私は踵を返した。
「……子供の為に、人里から食料を奪ってた……?」
数日後、私は父様に天狗が人里の畑を荒らしていた理由を神社の居間で聞いていた。
「ええ。霊夢が退治した天狗は、妖怪の山の天狗達の組織に、元々属していた者でした。名前やその他諸々の情報を天魔殿から聞かされましたが、どうやらかなり昔にはぐれ天狗になっていたようですね」
淡々と説明する父様だったが、ちゃぶ台の上には缶ビールがニ、三本置かれてあり、それに口をつけながらだった。
「……はぐれる事になった理由は何なの?」
「とある人間の男と、恋に落ちてしまったようで。駆け落ちのようです」
「……駆け、落ち?」
「天狗達はプライドが高い妖怪達ですが、稀にそういう事があります。ですが、組織はそれを良しとしなかったようですね」
つまり、話の流れはこうだった。
私が討った天狗は、妖怪の山にいた白狼天狗の一人であったが、山の警備に当たっていた際一人の人間に出会わしたのだ。
天狗とその人間との出会いはそこから始まった。彼らは人間と妖怪という壁を乗り越える為に天狗の方から組織を抜ける事を言い、人間が住む麓の方へと駆け落ちしてしまったのだ。
しかし、ここに大きな問題があった。人間と、妖怪の寿命の差だ。
人間は些細な事でも死んでしまう脆い存在であり、逆に天狗は、何百年も生きれるような妖怪だった。
人間の方が早くに死んでしまい、天狗と人間との仲睦まじい生活は終わりを告げてしまう。
その人間との結晶の形として子を授かるも、そこにも困った事があった。
半妖の子の育て方を、その天狗は知らなかった。
結果的に山に戻るわけにも行かず、かと言って我が子に食べさせる物をどうすればいいか迷ったその天狗が、人里の畑を荒し始めたと。
「……報われないわ」
話を聞き終えた私は、開口一番、そう感想を呟いた。
報われない。天狗は、自分の為にではなく、我が子の為に死んだようなものだ。
「報われません。ですが、天狗にも咎があります。彼女は我が子を優先し、邪魔する人間を殺してしまったのですから」
「……そう、だけど」
悪い妖怪というレッテルがあったにしても、その天狗にも荒らす理由があったのだ。
「……霊夢。博麗の巫女は幻想郷の人間を守る為に、妖怪を退治します。そこにどんな理由があろうとも」
「…わかってるわよ」
母様は、どんな思いで妖怪を退治してきたのだろうか。
初めての妖怪退治が、こうもややこしい物だと、そう考えてしまう。
「……父様、その天狗の子供はどうなったの?」
「ああ、それなら安心してください。天魔殿の方が、使いの者を行かせて保護したそうです」
「……そう」
「ですが、育ったら霊夢に復讐しに来るかもしれません」
「構わないわ」
復讐に来るのは構わない。その子にはする権利がある。
私はその子の親を殺したのだから。
「…………これで話は終わりです。霊夢」
「なんです―――」
かと、言い終える前に、父様の手が伸びてきて、私の頭をポンポンと叩いた。
「な、なに?」
「すまない。辛い思いをさせて」
ビクリと、その言葉に身を震わせてしまう。
「……どの世界にも、明確な“悪〟という者は存在してくれない。人が愚かな時もあれば、妖怪が愚かな時もある」
静かに、私の頭を撫でながら話し始める父様は、何か、別人のようだった。
「…だから霊夢が感じた事も、違うとは言えません。誰が悪いとは、強く言えないのです」
「……」
「妖怪も人間も、生きるために必死なのです。……両者が仲良くなれる機会が、あればいいのですが」
人と、妖怪が……?
私は父様のその言葉を、何度も反芻した。
人と妖怪が仲良くなる。
そんな事が、可能なのだろうかと。
※※
それから、更に数ヶ月が経った。
母様が死んだのが夏頃だった事を考えれば、約半年の歳月が経つ。
寒い冬。誰もいない冬。雪がしんしんと降る神社の境内には、私しかいない。
「ハァー、ハァー」
そんな中でも、私は腋が出る巫女服を着て境内の雪かきをしていた。
寒い。寒いのだが、じっと居間の方でごろごろしていてはそのまま腐ってしまいそうだった。
…あれからも定期的に妖怪退治の依頼は来た。
人間は弱い生き物だ。妖怪という捕食者が近くに現れれば、抗う術を持たない。
けれど、二度、三度と殺し損ねた妖怪の口から出た言葉に、私は苦笑してしまった。
―――化け物め
妖怪達から見たら……いや、守る人間達から見ても、博麗の巫女というものはそういう風に見えるのだろう。
化け物……人の皮を被った悪魔のような物だ。
母も同じ目を向けられながら、退治を請け負っていた事だろう。
違うのは、年端もいかぬ少女が顔色一つ変えずに妖怪退治をしている姿に、余計に恐れを感じているぐらいか。
「……参拝客も、全く来ないし」
チラリと、神社の前にある賽銭箱に目を向ける。
母が死んでから、参拝客が来た試しはない。私の噂を聞きつけてか、それとも元からそういう時期だったのか。
前は少なくとも、魔理沙や魔理沙のおばさんが賽銭箱にお金を入れていた事もあってか、全くないという事はなかったが。
「魔理沙、どうしてるかしら」
白い息を手に吹きかけながら、母が死んでから会っていない友人の事を想う。
妖怪退治を請け負った際に、霧雨の店に寄るべきか寄らないべきか迷った事はあった。
けれど、結局寄らなかった。今の私が顔を出しに行っても、迷惑になるだけだろう。
魔理沙は普通の人間なのだ。私みたいな化け物が近くにいては、いけないんだ。
「……化け物、か」
暗い感情にまた浸ろうとした時。
―――ザクッ、ザクッ
鳥居の方から足音が聞こえた。
息を吐きながらそちらを見れば、私の想いが届いたのか。
「あ……」
「やぁ、久しぶりだね。霊夢」
青いダウンコートを羽織った、眼鏡をかけた青年が、紅い鳥居の下で手をあげていた。
「霖之助さん……?」
その青年は、魔理沙のお店で働いていた者だ。
森近霖之助。外の世界の道具に興味を示し、霧雨の家で売れそうにない物を引き取っていた変人。
ぼんやりと、霖之助がこの境内にいるのが信じられなくて、じっと見つめていた。
霖之助は、そんな私の元にゆっくりと雪で滑らないように慎重に歩み寄ってきた。
「博麗の巫女に正式になったとは聞いたが、お店に来なかったからね。会う機会がなかったよ」
「……」
「霊夢?」
白い息を小さく吐きながら、不思議な顔をして目の前に立つ霖之助を、私は唯黙って見上げていたが。
「……何で、ここに来たの?」
自分でも驚く程、冷めた口調で喋っていた。
「……個人的にお店を持ったから、願掛けのつもりでここに寄ったんだが……」
すっと、霖之助は私の頬に手で触れた。
「少し、痩せたね。体調は大丈夫かい?」
「…大丈夫よ」
私の頬を触れた手は、雪が降る中ではとても暖かく、唯黙って触らせていた。
「……霖之助さん、魔理沙は元気にしてる……?」
けど、聞きたい事もあった。先ほどまで考えていた友人が、私が会いにこなくてどうしているかを。
「それも含めて、話があるんだ。立ち話もなんだから、神社に上がらせてもらえないかい?」
「…いいわよ」
私は踵を返す。
雪かきはまだ終わっていなかったが、どの道まだ雪は降り続けるのだ。
無下に断る理由もなく、私は霖之助を神社の居間へと招き入れた。
※
「良い話と、悪い話が一つずつあるんだが、どっちから聞きたい?」
居間へと案内し、ちゃぶ台を挟んで座布団の上にあぐらを掻いて座った霖之助さんは、お茶を用意し終えた頃を見計らって、そう話を切り出した。
「…じゃあ、良い話の方から」
急須から湯飲みに録茶を入れて、冷たくなっていた手を温めながら私は良い話から聞く事にした。
「良い話は、さっきも言ったが、僕が店を持つことになった話だね。香霖堂というお店を建てたから、今度来るといい。多少のもてなしも出来るし、服の新調もしてあげよう」
「……何処にお店を建てたの? 人里の中?」
「いや、魔法の森の入り口さ」
それを聞いて、湯飲みをこぼしそうになった。
「…………お客さん、来るの?」
魔法の森とは、妖怪や妖精、それどころか悪い魔法使いまで住み着いてるような危ない場所の筈だ。
その入り口にお店を建てたという事は、人間が足を運ぶ事は、あまりないだろう。
「それも含めて、神社に願掛けさ」
清清しいぐらいにこやかにそう言われては、最早こちらから何も言えなかった。
「……悪い方の話は?」
頭を抱えたくなる衝動を抑えながら、話題を切り替える。
「…………」
ずずっと、私が淹れた録茶を飲みながら、霖之助さんは難しい顔をして、湯飲みをちゃぶ台に置く。
言うべきか、言わないでおくべきか、迷うような素振りをしたが、やがて静かに、霖之助さんは言葉を紡いだ。
「…魔理沙の母親が、亡くなったんだ」
「………え?」
「元々、身体の弱い人でね。霊夢が霧雨道具店に来なくなってから、一月後ぐらいに」
「……そう」
私が母様を殺した日、そういえば魔理沙がおばさんの事を具合が悪いと言っていたっけ。
「それで、話が終われば良かったんだが……」
「なに、まだ何かあったの?」
「………」
霖之助は、何故か言いづらそうに、顔をしかめる。
「……魔理沙が、家を飛び出したんだ」
「…………………は?」
どれだけの間があった事か。
私は、霖之助さんの言葉を理解するのに、何度も何度も反芻して、自分の頭の中で整理しようとしたが。
「……なん、で?」
声が震えてしまう。私は、その先が何となく予想がついてしまっているのに、霖之助さんに聞いてしまった。
どうして霖之助さんが魔法の森の入り口何かに店を置いたのか。
どうして魔理沙の母親が死んで、魔理沙は家を飛び出したのか。
そして、今何処にいるのかも、頭の中で予想がついてしまっているのに、聞いてしまったのだ。
「……おじさんの方がね。今まで扱っていた“魔法〟に関する全てを、燃やしてしまったんだ」
魔理沙の母親が、私の母親と友人だった理由。
それは、博麗の巫女という称号が私の母親にあったのと同じように。
魔理沙の母親にも、“魔法使い〟という称号があったせいだ。
「おじさんは、魔法のせいで、こんなにも早く死んでしまったと思ってしまった……いや、違うか。魔理沙には普通の生活を送ってもらいたいと思って、形見である魔法の品々を燃やしてしまったんだよ」
「そんな……」
その光景が、目に浮かぶ。
魔理沙の事だ。泣きながらそれを止めようとしただろう。
けれど止められなかった。母親の形見を燃やされ、普通の生活をして欲しいと願われても、彼女はそれにYESなんて絶対言わない。
そして、家を出た。
「……魔理沙は、今」
「魔法の森にいるよ。魔法使いになる為に」
案の定だった。霖之助さんが、霧雨の道具店から個人店を建てた理由もこれでわかる。
「………」
「幸い、あそこには古くから放置されていた建物がいくつかあってね。工房には事欠かないと思うけど」
「それでも、妖怪達はどうするの? それに、元々住み着いている魔法使いだって……」
友人がいつの間にか、私と同じ世界に立っている事を知らせて、頭を本気で抱え込んだ。
私は、どうすればいいのだろうか。
今すぐにでも家に戻るよう言いに行きたかった。死んでしまってからでは、遅いのだ。
けれど、それすらも言えない。博麗の巫女だから、“追うことは許されない〟。
「……霊夢、どう思ってるかはわからないが、魔理沙が家を飛び出した理由は、それだけじゃないんだ」
「………え?」
他にもまだ理由があるのかと、突っ伏す形で頭を抱えていた姿勢を直して霖之助の方を見る。
「…これは、言うべきか正直わからない。僕のせいなのかもしれないし、魔理沙が自分で決断した事でもあるから」
私は、黙って続く言葉を待った。
「魔理沙は、君の友人として、ずっと横に一緒に居る為に、魔法使いになると言ったんだ」
母親が死に、形見の品が燃やされた事は、きっかけに過ぎないと。
霖之助は、呆然としている私に言う。
「……霊夢が来なくなってからずっと魔理沙は、悩んでいたと思う。彼女は、普通の人間だったから」
悩んだ結果、もう一度私と会って、横に一緒に居る為には、魔法使いになるしかないと。
彼女は、自分自身で決断したのだ。
「…………馬鹿よ」
大馬鹿だ。本当に馬鹿すぎて、どうしようもない。
「私が……それで喜ぶと、思ってるのかしら?」
顔から水滴が落ちる。
もう、枯れ果てたと思っていた。
二度と、泣く事はないと思っていたのに。
孤独になるしかないと思っていた私に、魔理沙は必死にもう一度手を差し伸べようと、頑張ろうとしていた。
「霊夢……」
「ごめん、なさい……霖之助さん、帰って、くれないかしら?」
泣いてる姿が恥ずかしかった。
だって、これは悲しい涙なんかじゃない。
嬉しくて、心の底から嬉しくて泣いてしまっているのだ。
「…そうするよ。じゃあ、暇な時にでもお店に来るといい」
霖之助は立ち上がると、そのまま何も言わずに帰っていった。
残された私は、堪えきれなかった涙をどう止めようかと考え始めた。
※
霖之助が来て、魔理沙が魔法使いになると聞いた翌日。
雪は降るのを止め、積もった雪が溶け始めるまでもう数刻という朝頃。
私は寝ずに、筆を取っていた。
以前、父様が言っていた人間と妖怪が仲良くなる機会があればという言葉を元に、私なりに色々考えたのだ。
私には、必要のない事柄だった。人と妖怪が仲良くなった所で、何の意味があるのかと。
けれど、魔理沙が魔法使いになるのなら別だ。彼女は魔法使いになろうと、あくまで人間なのだ。
妖怪と対峙すれば、殺されてしまう可能性のが高い。
妖怪は、人を喰らう生き物だ。
寿命も人間に比べれば遥かに長く、人間に比べて遥かに強靭な肉体を持っている。
それと仲良くなろうとするなら、まず対等な立場にならなければ。
対等な立場に立つにはどうすればいいか?
「……出来た」
自分の考えを纏めた紙をもう一度読み返す。
後に、幻想郷に浸透する一つのルール。
博麗の巫女としてではなく、博麗霊夢の意志によって作られた、人と妖怪が対等に闘い、仲良くなる為の遊び。
弾幕ごっこが、ここに誕生した。
※※※
それからが大変だった。弾幕ごっこを幻想郷に浸透させる為に父様に頭を下げ、天狗の長と阿求の方から博麗の巫女の決まり事として幻想郷に浸透させた。
私はそれ以来妖怪を殺していない。あくまで懲らしめるだけだ。
恨まれようとも、憎まれようとも、私に復讐しようとまた襲いかかってこようとも、絶対に殺さなかった。
懲らしめるのは退治するより何倍も難しいが、殺すよりはましだと、自分の信念を曲げなかった。
途中、魔理沙とも再会を果たし、彼女とも弾幕ごっこの元勝負をし、数少ない人間の友人として傍らにいてくれる。
勝負自体は負けてやれないが。私が負ければ均衡が崩れる。
それも父様に言った時に、懸念された事だった。
弾幕ごっこというルールの元戦えば、いつか負けてしまうかもしれないと。
覚悟の上だった。万が一負ければ、その時はその時だと。
そしてもう一つ、このルールを浸透させれば、くすぶっていた妖怪達が沸いてくるかもしれないとも言われた。
幻想郷には、昔から格の違う妖怪達がいることも聞かされていた。
今はだんまりを決め込んでいるが、こう言ったきっかけがあれば、そいつらが出てくるかもしれないと。
私はその言葉にも、胸を張って言ったのだ。
望む所だと。母様から引き継がれた博麗の力は、くすぶっていた者達に負ける程弱くはないと。
父様は、その言葉を聞いて納得した。
そして私は、幾重もの異変を解決するはめになる。
そこには数え切れない程の弾幕ごっこがあり、数え切れない程の出会いがあった。
友人の為にした事が、幻想郷全てを巻きこむ事になろうとも、後悔はしなかった。
……私は生涯を博麗の巫女に費やす事になる。
引き換えに私の本音を、私の心を知るものは決していないだろう。
けれど、これを“孤独〟と言ったら、母様に怒られてしまうかもしれない―――
「霊夢~どうしたんだ? ぼんやりして」
「何でもないわ。ちょっと考え事をしてただけ」
神社には、妖怪達や亡霊が思い思いに騒いでいた。
宴会も年を重ねる毎に集まる人数が増えて行っている気がする。
そこには神様が鬼と飲み比べをしたり、吸血鬼がそれを見ては天狗と何か話していたり、亡霊のお姫様と八雲の大妖怪が厄神の女性と静かにお酒を飲んでいたりしていた。
騒霊達が境内の方で演奏し、妖精達が踊って見せたりする所に照れる閻魔と笑う死神が一緒に混ざっていたり。
花の妖怪や人形遣いも妖精達の輪の外でその演奏を肴にしていたり、出張してきたのか、屋台毎境内に乗り付けてきた夜雀の妖怪の所には酔い潰れている天界の我侭お姫様や河童がいた。
常闇の妖怪や蟲の妖怪も屋台の横で夜雀を手伝うように何かしているのが見えたり、地底に住んでいた鬼と橋姫がじゃれ合う姿もあった。
地霊殿の主も既に横に転がっている。妹と一緒に仲良く転がって酔い潰れているのを見ると、どうやら無理に飲み比べしたらしい。
その二人を膝枕する黒猫と地獄の鴉が仲良く話していた。
「ホントに、煩いぐらいいるわよね」
後の連中は大体が死屍累々だ。神様と鬼の飲み比べの横に挑んで横に転がっている。主に蜘蛛や兎や不死者や門番が。
「霊夢さぁーん、飲んでますかー?」
「……もう、お嬢様の所に戻っていいかしら?」
声をかけてくる顔を赤くした風祝にそれに絡まれた瀟洒なメイドが私の横にいたり。
「煩いが、嫌いじゃないんじゃないかい? こんな風に大騒ぎするのも」
私のもう一つ横でお酒を飲む香霖堂の店主が私の言葉を拾う。
「私は嫌いじゃないぜ。楽しい方が静かに飲むよりお酒が美味くなるし」
「それで片付けも手伝いもしないんだからそれは美味しいわよね」
普通の魔法使いにそうやって嫌味を言ってやりながら、笑って私は手に持つ盃を傾ける。
「けど、確かにこういう風に騒ぐのは嫌いじゃないわ」
決して手に入らないと思ったもの。
それが、目の前で起こってくれてるのだから―――
こういった事も、もしかしたらありえたのかもしれませんし
霊夢がどういった考えで弾幕ごっこを作ったのかというのも
良かったと思います。
面白かったですよ。
賛否両論わかれると思いますが、
その部分を抜きにしても、
面白かったです