「永琳・・・・・・イナバが死んだわ」
薄い笑みを浮かべて、蓬莱山輝夜はそう言った。
研究室の扉を開けてそう言った自らの主に対して、八意永琳は試験管を持ったまま振り向いた。その顔には驚きも何もない。永遠亭に生息する因幡の数はてゐ以外にはもう判らないのではないかと思われるほどだが、その内の一羽が危篤状態なのはつい先日からだったから。
「そう・・・・・・」
だから彼女の返事は薄くて。その応対に輝夜が頬を膨らませるほど。
「イナバが死んだっていうのに、薄情ね永琳は」
「どの口がそれを言いますか」
主に対しては絶対服従。とはいえ表面上までそうしてやる必要もないから、永琳は心に思ったままの言葉を発した。
件のイナバが死ぬことは前から決まっていた。そのイナバは妖怪化していたが、それでも生きてきた年数が長かった。すでに細胞分裂の回数は限界に近く、身体の臓器はいくつかが機能不全を起こしていた。突然死でも事故死でもないのだから、永琳の反応が薄いことを咎めるのはお門違いというものだ。
それ以前に重要なことがあるとすれば、因幡達には寿命があるということぐらいだろうか。
「まぁいいわ。埋葬は他のイナバが済ませちゃったそうだから、あとは持ち物の処分ぐらいね・・・・・・特に何か持ってたわけじゃないそうだけど」
「そうですか」
事務的な輝夜の言葉だったが、永琳の関心は反応を始めた試験管の方に移っていた。今ここで観察を逃してしまえば、二度と同じ場所・時間・状態での観察は行えなくなる。実験とはそういうものだ。
一瞬の刹那に全神経を注ぐ。
「それじゃぁ永琳、“準備”、お願い」
そんな大切な時間を邪魔する楽しそうな輝夜の言葉。
反応を続けている試験管をしばし見つめて、永琳は溜め息をついた。主に対して表面上はどう対応しようと、奥底では絶対服従が基本だ・・・・・・あくまで基本だが。
せっかくの実験だったが仕方のないことだ。従者である以上、それ以前に輝夜の頼みである以上それを断るという選択肢は有り得ないのだから。
「分かりました。準備しておきます」
試験管立てに持っていた試験管を置いてから、永琳は部屋を出て行った。
後に残ったのは試験管だけ。
永遠亭の因幡の数が増える原因をまず一つ挙げるなら、それは迷いの竹林という立地条件だろう。狩人や妖怪の類が入り込もうと、乱立する竹に方向感覚を惑わされ、迷い続けるか目的を達せずに外に出てしまうのが常であり、時たま幸運にも因幡に出会えたとして、竹林を良く知っている彼らに適うはずもないのだから。
そしてもう一つ。それは永琳の存在だろう。
彼女は医師ではなく薬師だが、前述の立地条件からして因幡たちが大怪我を負う事もないし、むしろ怖いのは伝染病や流行病の方だからそういう意味ではむしろ合っているほうだ。
外敵に襲われることもなく、急な病で死ぬこともない。因幡にとって永遠亭は天国に近い場所だ。天国と違うのは、寿命からは逃れられないということぐらいだろう。
因幡たちの大半は、畳の上で死んでいく。
因幡が死ねば、他の因幡たちは次の日の終わりまで“喪に服す”。馬鹿騒ぎも詐欺紛いもない。喧嘩も争いもない。ただ静かに、仲間の死を悼み、その魂の行く先を案じる。
それはずいぶん前からの行事。定められていること、というよりは暗黙の了解に近いものだ。それは、永遠亭で共に過ごした仲間を送る儀式のようなものに近い。
そして、そんな暗黙の了解を永遠亭を収める主従は真っ向から破っている。
「やっぱり美味しいわね。さすが、永琳が選んだだけの事はある」
「でしたら、普段から呑まれたらよろしいでしょうに」
「美味しい酒はたまに呑むから美味しいのよ」
月を望む中庭、縁側に二人は座っていた。脇には永琳直選の日本酒。もちろん杯は二つ。二人以外には誰も居ない、細い月だけが二人を見つめていた。
普段なら輝夜にじゃれ付いてくる因幡も、師匠の脇についている鈴仙・優曇華院・
イナバも、そんな彼女に悪戯を仕掛けようとする因幡てゐも、ここには居ない。
全員が、喪に服しているからだ。
「ほんと、みんな付き合いが悪いんだから。せっかく美味しいお酒も用意してるのに」
永琳直選の日本酒がこれだけで済むはずもない。いったいどこに隠しているのか、酒好きが狂喜乱舞するほどの量が蓄えられているともっぱらの噂だ。
そんな酒を呑んでいるのが二人だけというのは勿体無い。
「ほんと、主であるこの私の誘いを断るなんて。みんな命が惜しくないのかしら」
「物騒ですよ、姫」
永琳が一応嗜めておくが、頬を膨らませながら物騒な言葉を言ってもあまり怖くは無い。だいたいどこの世界に酒の誘いを断ったぐらいで相手を殺す存在が居るというのだ。
永琳の頭に子鬼の姿が浮かんだが、すぐに消えた。いくらアル中でもそれはないだろう・・・・・・きっと。
「・・・・・・呑まないの?」
「え、ああすみません、ちょっと考え事を」
「酒の席で考え事なんて感心しないわねぇ」
何時の間にか接近をかけてきた輝夜の顔は妙に上気している。ずりずりと擦り寄りながら両手は別の生き物のように同じ動作を繰り返している。
杯に酒を注ぎ飲み干す間に瓶を掴み空になった杯に次を注ぐ。
上記の動作を滞りなく行えるのが幻想郷で酔っ払いと呼ばれる人種だ。それ以外は単なる酒好きでしかない。
(・・・・・・立派な酔っ払いになられて)
訳の分からない感傷を永琳は抱く。ここで涙を流したとしてそれはどういう種類のものだろうか。
あまり考えたくないので永琳も酒を煽った。
ちょっとしょっぱい酒だった。
因幡が死んだ日に酒を呑む。その行動に因幡たちからは時折不満の声が上がってくる。ただしその声を上げるのは大抵まだ“若い”因幡たちだ。輝夜という存在をあまり知らず、彼女の考え方をほとんど理解できていない因幡。
もちろん、歳をとったからといって彼女の考えを全て理解できるはずもない。月人で蓬莱人である存在をそれ以外の種の存在が理解しようなど、不可能に近いものだ。
それでも、長い時を過ごす内に全てと言わずとも一片は理解できるようになる。だからてゐや年長の因幡は何も言わない。鈴仙もまた、種は違えど同じ月から来た存在だから何も言わない。
・・・・・・仮に輝夜の考え方を全て理解できる存在が居るとしたら、それはおそらく二人だけだろう。
「だいたいねぇ、あのイナバは妙にエロかったのよ。何かあれば布団に潜り込んでくるし、何時の間にか箪笥に入り込んでたこともあったわ」
「そ、そうでしたか・・・・・・」
消費された酒の量が増えるごとに愚痴の数も増えていく。話の種はもちろん死んだ因幡のこと。
イナバイナバと一括りで認識しているように見えて、輝夜は因幡をちゃんと個々として認識している。もちろん、増え続けていく因幡の全員を憶えることなど不可能だが、それでも普段じゃれあうことの多い因幡のことは良く憶えているのだ。
今日死んだ因幡はちょっと微妙なじゃれあい方を好んでいたようだが。
「着替えを取り出そうと箪笥を開けたら下着を咥えた兎、ってどういう状況よいった
い。だいたい入った後で誰が閉めたのよ・・・・・・もしや共犯?」
「有り得ますね」
適当に相槌を打ちながら永琳も杯を煽っていく。ほんとに適当な打ち方だが、酒と愚痴に一生懸命な輝夜はそれに気づいていないように見える。堰を切ったように出てくる出てくる、死んだ因幡がどんな存在だったか、どんなことをしたか、どんな風に遊び、どんな風に歳をとり、そして死んだか。
酒が入ってくると何時もこうなる、と記憶を辿りながら永琳は思う。今まで数多くの因幡が死んできた。その度にこの酒の席は設けられてきたが、何時も何時も、死んだ因幡の思い出話が出てくる。
それを語る輝夜の顔は、どこか楽しそうだった。
昔、永琳は聞いたことがある。
何故、因幡が死んだ日に酒の席を設けるのか。その席で聞いた。
「ん? 改めて理由を聞かれても、ねぇ・・・・・・」
特に考えていなかったのか、輝夜は考えにふける。もちろん酒を呑みながら。
何杯目か数えるのを永琳が放棄した直後に、輝夜は答えた。
「だって、おめでたい日じゃない」
そう答えた輝夜の顔は笑っていた。
空には月が輝き、星々が瞬く。邪魔をするモノがないから、自然の光は思うがままにそのその存在をアピールできる。
「良い夜ね・・・・・・」
「そうですね」
一通りの思い出(愚痴多し)を語り終えれば、後は静かに酒を嗜むだけ。すっかり世は更けてしまっているが、死んだ因幡との思い出を語るにはそれだけの時間が必要なのだから仕方が無い。
死という宿命から解き放たれた存在だからこそ、自らより後に生まれた存在について死んだ後に語るということができるのだ。
「こんな日に死ねるなんて、あのイナバも幸せよね」
「死んでしまった時点で幸せかどうかに疑問が残りますが」
「馬鹿ねぇ、死ねるってことは幸せなのよ」
「・・・・・・確かにそうですね」
こういった会話も、因幡が死ぬごとに繰り返されてきた。
まるで因幡が死んだことを喜んでいるかのような口ぶりの輝夜を永琳が窘め、それに対して輝夜が“正論”で反論する。
それを繰り返すたびに、永琳はこんなことを感じていた。
(私は――まだ死に囚われているのだろうか)
そう、死ねることは幸せなのだ。
生きる者全てが、生まれた時から死へと歩んでいく。それは人間だけでなく妖怪にも当てはまる。不慮の死は悲しいことだろう、だが寿命を全うして死ぬというのは、そういった感情を超越して、定められたことなのだ。
人生の最後が畳の上での安らかな死、これほどの幸せな締めくくりがどこにあるだろう。
(いや・・・・・・それは輝夜も同じこと)
目の前で美味しそうに酒を嗜む輝夜を見ながら、永琳はそんなことを思う。
死に囚われていないなら、わざわざこんな風に酒の席を設けたりはしない。結局は彼女も永琳と同じなのだ。死に囚われているから、どうしようもないということを確認したくてこんな席を設ける。
死から解き放たれた存在が死に囚われるというのは、最悪の皮肉だろう。
だがそれは仕方のないことだ。自らの死から解き放たれるということは、自らの周りの死に囚われるということ。
同じ蓬莱人である永琳の死を見なくて済むのは輝夜にとって不幸中の幸いであり、逆もまた然り。だが、因幡たちは不死身ではないし、蓬莱の薬をまた作るつもりは永琳にはない。
ならば、蓬莱人だけ、つまり二人だけで過ごせば死から本当の意味で解き放たれるのだろうか。
(馬鹿らしい)
その考えを永琳は一蹴する。
自らのために尽力してくれた詐欺兎、どこかまだ抜けている弟子兎、そして因幡たち。
そんな存在たちから離れることなど、出来るはずが無い。だって楽しいのだから。今の生活が楽しいから、後に待つその存在たちの死を甘んじて受け入れる。
対価を得ている以上、代償もまた得なければならない。
「ほんとに、幸せ者ですね」
「そうね」
畳の上で安らかに死に、因幡たちには埋葬され、主と従者に祝われる。
それ以前に、蓬莱人が捨てた死を味わえるだけで、幸せなのかもしれない。
「ねぇ永琳」
「なんですか?」
「乾杯しましょう」
「・・・・・・いいですね」
「因幡の死に、」
「乾杯」
夜空に一つ、カチンと音が鳴った。
素晴らしい昨日に、乾杯。
不死は最高の望であり、また最悪の拷問。とエジプト神話で云われてました。
兎に角、乾杯。
死という事柄がはいっているのに、暗く沈んだものではなく、
それを幸福と感じる二人が良かったと思います。
ちょっと行間が変になっている場所があったので報告です。
>普段なら輝夜にじゃれ付いてくる因幡も、師匠の脇についている鈴仙・優曇華院・
イナバも、そんな彼女に悪戯を仕掛けようとする因幡てゐも、ここには居ない。
と、こういうふうになってしまっています。
死をこういう風に笑って話せるのは羨ましくもあり、悲しくもあり・・・