「タオルここに置いときますね。」
微かな音とかけられた声に、びくりと肩が揺れる。
知らず浴槽の縁に置いてあったナイフを掴んでいた。
相手は特に気付いた風もなく、また微かな音と共に去っていく。
ふぅ、と肩の力が抜けた。
それでも安心できなくて、しばらくじっと浴室の扉を睨む。
けれどいつまで経っても赤い妖怪が現れる気配はなかった。
手の中のナイフをくるくると玩ぶ。
銀のナイフは錆びることは無いが、こうして浴室まで持ってくるのは自分でもどうかと思った。
それはへらへらと笑う赤い妖怪にも言われたが、これだけが唯一自分の身を守ってくれる。
これがないと安心できないくらい、この体は傷を負ってきたのだ。
「いざよい、さくや。」
新しい名前は、どうにも自分には似つかわしくないように思える。
どうしてこんなところにいるんだろうと、ぼんやりと考えた。
湯船から上がって、鏡の前に立つ。
痩せた体、窪んだ目。
肋骨が丸見えになっている胸元には、小さな傷がいくつか見えた。
それでも、久しぶりに自分の顔を見た気がする。
銀灰の髪、夜色の瞳。
吊りあがり気味の目が、自分をじっと睨んでいた。
あぁ、自分も成長していたんだなぁ、とぼんやり思う。
顔を覆っていた髪を、本当に久しぶりに上げた。
後ろに流したそれを、そっと摘む。
こんな色だったんだ、と、微かな声が自然漏れた。
「お湯に触ったのなんて、久しぶりだな。」
それどころか、人工の光を見ることが久しぶりだ。
真白な明かりに目がちかちかした。
一度だけ電灯を見上げて、少女はようやく浴室から出る。
なんだかんだで大分時間が経っていた。
久しく温かいものに触れていなかった体に合わせて、ぬるく設定されていた湯が体の隅々まで染みこむ感覚に、らしくもなく意識を飛ばしていたからかもしれない。
扉一枚隔てた向こうの部屋からは、なんの物音もしなかった。
赤い妖怪はもう寝てしまったのだろうか。
それともどこかへ行ったまま、戻ってきていないのだろうか。
タオルで体を拭き、用意されていた服に袖を通した。
どこかに毒針でも仕込んであるかと思ったが、それらしきものは見当たらなかった。
「・・・・・。」
浴室のドアを、細心の注意を払って開ける。
音は一切立てず、隙間から部屋を覗いた。
視界をぐるりとめぐらせると、この部屋の主の背中が見えた。
なんだ、いたのか。
そう思いながら、しばらくその背を観察していると、相手がふっとこちらを振り向いた。
「っ!」
「上がったならこっちにいらっしゃい。冷えますよ。」
慌てて隠れる自分に、相手は少し苦笑したようだった。
椅子から立つ音がする。
目の前の扉がゆっくりと開かれた。
「そんなに警戒しなくても食べたりしませんよ。」
微笑んで戸を開け放つ。
じっと動かない自分に笑いかけた彼女は、先にすたすたと歩いて先ほどの椅子まで戻って行った。
「さぁ、座って。お茶を淹れましょうね。コーヒーやココアもありますよ。」
笑みを崩さず、歌うように言葉を紡ぐ彼女は、天使かと見紛う。
だって、無条件の愛なんて自分は知らない。
見返りを求めない愛なんて。
「・・・なんでそんなに、私にかまうの。」
服を握り締めながらそう聞いたら、彼女は少しきょとんとした顔をした。
しばらく自分をじっと見てから、少しだけ首をかしげる。
「理由が、必要ですか?」
そうして微笑んだ彼女に、不覚にも驚き言葉を返せなかった。
理由が必要ですか、なんて。
聞かれたこともなかった。
いままでずっと、理由の元で愛されてきた。
愛を戴くことは、見返りを求められることと同等だった。
自分と言う人間に、上辺だけの愛を振りまくことで、己に返るものがある。
だからちやほやされ、傍に置かれた。
そして思ったような見返りが得られないとわかると、あっさりと捨てられて。
ずっとずっと、その繰り返しだった。
いままで何人もの父と母に抱かれ、何人もの姉と兄に愛されてきた。
たった十年にも満たない小さな体で、耐え切れぬほどの離別を繰り返してきた。
そうして。
人を信じない、という悲しい行為を。
覚えてしまったのだ。
だのに、そんな少女に対して、妖怪は笑う。
理由が必要かと聞く。
目を見開く自分にそっと微笑んで、ゆっくりと頭を撫でてくれた。
「理由が必要なら、今いい考えが浮かびました。」
撫でる手は止めぬまま、赤い妖怪はしゃがみこむ。
少し濡れた銀灰の髪。
その延長線上にある頬に、そっと手を当てた。
首はすぐ傍だ。
動脈を切るなり、首を絞めるなり。
されるならば山ほどある。
けれど「咲夜」は、この妖怪がそんなことをするはずがないと、どこか確信めいたものを感じ始めていた。
「お友達になりたいからです。」
「とも、だち?」
「はい。私を好きになってもらいたいから、優しくする。私を知ってほしいから何かと貴女をかまうんです。それじゃあ、理由になりませんか?」
目線が同じ位置で、合う。
自分が瞬きをすると、相手も同じように瞬いた。
微笑みが、少し深くなる。
頬に置かれていただけの手が、ゆっくりと動いて目元を拭っていった。
自分勝手な理由ですみません。
そういって困ったように笑う彼女に、小さく首を振った。
自分勝手なんていわない。
そんな優しい自分勝手なんて、自分勝手とは言わない。
「お友達に、なってくれますか?」
笑う妖怪は、そこらの人間よりもよっぽど人間らしく感じた。
こんな笑顔の温かさを、自分は大分見ていない。
その真白な光に、目がちかちかした。
喉の奥が痛い。
目が熱くて、鼻の奥がつんとした。
「さくやさん。」
かけられる声に、首を振る。
すこし逡巡した彼女は、そのあとそっと、さくや、と呼び方を改めた。
あぁ、安心する。
「十六夜咲夜。お嬢様に気に入られた証ですね。」
聞いてもいないのに、おせっかいな妖怪は話し続ける。
自分はぎゅっと目を閉じてしまっているから、その群青の瞳は見えなかったが、きっと穏やかな光を宿しているのだろう。
「十六夜は十五夜よりも、一時間以上遅く昇る。急くことなく、慎ましやかに夜空に咲く十六夜が、お嬢様は一等好きだと仰っていました。」
そしてやっぱり、穏やかに笑った。
あぁ、ありがとう。
たとえばそれが方便だったとしても、その言葉を胸に抱いて、自分は歩いていけるだろう。
その名前を愛しながら、この邸で。
お礼も、まして彼女の名前を呼ぶこともできなかった。
喉の奥が焼け付くように熱くて。
ただ何度も何度も頷くと、目の前の妖怪が嬉しそうに笑う音だけ、耳に響いた。
「これからよろしくお願いします、咲夜。」
言葉と共にぎゅっと抱きしめられて、咲夜はやっと、自分が泣いているのだと理解する。
彼女の肩に顔を埋めたら、微かな香の匂いと、いっぱいの太陽の匂いがした。
この匂いを、覚えておこう。
そう、強く思った。
この匂いに包まれたなら、微笑むことができるように。
この匂いと共にあったら、ありのままの自分でいられるように。
「めいりん。」
呼んでみた、彼女の名前は。
思ったよりも、ずっとずっと、柔らかで綺麗な響きだった。
微かな音とかけられた声に、びくりと肩が揺れる。
知らず浴槽の縁に置いてあったナイフを掴んでいた。
相手は特に気付いた風もなく、また微かな音と共に去っていく。
ふぅ、と肩の力が抜けた。
それでも安心できなくて、しばらくじっと浴室の扉を睨む。
けれどいつまで経っても赤い妖怪が現れる気配はなかった。
手の中のナイフをくるくると玩ぶ。
銀のナイフは錆びることは無いが、こうして浴室まで持ってくるのは自分でもどうかと思った。
それはへらへらと笑う赤い妖怪にも言われたが、これだけが唯一自分の身を守ってくれる。
これがないと安心できないくらい、この体は傷を負ってきたのだ。
「いざよい、さくや。」
新しい名前は、どうにも自分には似つかわしくないように思える。
どうしてこんなところにいるんだろうと、ぼんやりと考えた。
湯船から上がって、鏡の前に立つ。
痩せた体、窪んだ目。
肋骨が丸見えになっている胸元には、小さな傷がいくつか見えた。
それでも、久しぶりに自分の顔を見た気がする。
銀灰の髪、夜色の瞳。
吊りあがり気味の目が、自分をじっと睨んでいた。
あぁ、自分も成長していたんだなぁ、とぼんやり思う。
顔を覆っていた髪を、本当に久しぶりに上げた。
後ろに流したそれを、そっと摘む。
こんな色だったんだ、と、微かな声が自然漏れた。
「お湯に触ったのなんて、久しぶりだな。」
それどころか、人工の光を見ることが久しぶりだ。
真白な明かりに目がちかちかした。
一度だけ電灯を見上げて、少女はようやく浴室から出る。
なんだかんだで大分時間が経っていた。
久しく温かいものに触れていなかった体に合わせて、ぬるく設定されていた湯が体の隅々まで染みこむ感覚に、らしくもなく意識を飛ばしていたからかもしれない。
扉一枚隔てた向こうの部屋からは、なんの物音もしなかった。
赤い妖怪はもう寝てしまったのだろうか。
それともどこかへ行ったまま、戻ってきていないのだろうか。
タオルで体を拭き、用意されていた服に袖を通した。
どこかに毒針でも仕込んであるかと思ったが、それらしきものは見当たらなかった。
「・・・・・。」
浴室のドアを、細心の注意を払って開ける。
音は一切立てず、隙間から部屋を覗いた。
視界をぐるりとめぐらせると、この部屋の主の背中が見えた。
なんだ、いたのか。
そう思いながら、しばらくその背を観察していると、相手がふっとこちらを振り向いた。
「っ!」
「上がったならこっちにいらっしゃい。冷えますよ。」
慌てて隠れる自分に、相手は少し苦笑したようだった。
椅子から立つ音がする。
目の前の扉がゆっくりと開かれた。
「そんなに警戒しなくても食べたりしませんよ。」
微笑んで戸を開け放つ。
じっと動かない自分に笑いかけた彼女は、先にすたすたと歩いて先ほどの椅子まで戻って行った。
「さぁ、座って。お茶を淹れましょうね。コーヒーやココアもありますよ。」
笑みを崩さず、歌うように言葉を紡ぐ彼女は、天使かと見紛う。
だって、無条件の愛なんて自分は知らない。
見返りを求めない愛なんて。
「・・・なんでそんなに、私にかまうの。」
服を握り締めながらそう聞いたら、彼女は少しきょとんとした顔をした。
しばらく自分をじっと見てから、少しだけ首をかしげる。
「理由が、必要ですか?」
そうして微笑んだ彼女に、不覚にも驚き言葉を返せなかった。
理由が必要ですか、なんて。
聞かれたこともなかった。
いままでずっと、理由の元で愛されてきた。
愛を戴くことは、見返りを求められることと同等だった。
自分と言う人間に、上辺だけの愛を振りまくことで、己に返るものがある。
だからちやほやされ、傍に置かれた。
そして思ったような見返りが得られないとわかると、あっさりと捨てられて。
ずっとずっと、その繰り返しだった。
いままで何人もの父と母に抱かれ、何人もの姉と兄に愛されてきた。
たった十年にも満たない小さな体で、耐え切れぬほどの離別を繰り返してきた。
そうして。
人を信じない、という悲しい行為を。
覚えてしまったのだ。
だのに、そんな少女に対して、妖怪は笑う。
理由が必要かと聞く。
目を見開く自分にそっと微笑んで、ゆっくりと頭を撫でてくれた。
「理由が必要なら、今いい考えが浮かびました。」
撫でる手は止めぬまま、赤い妖怪はしゃがみこむ。
少し濡れた銀灰の髪。
その延長線上にある頬に、そっと手を当てた。
首はすぐ傍だ。
動脈を切るなり、首を絞めるなり。
されるならば山ほどある。
けれど「咲夜」は、この妖怪がそんなことをするはずがないと、どこか確信めいたものを感じ始めていた。
「お友達になりたいからです。」
「とも、だち?」
「はい。私を好きになってもらいたいから、優しくする。私を知ってほしいから何かと貴女をかまうんです。それじゃあ、理由になりませんか?」
目線が同じ位置で、合う。
自分が瞬きをすると、相手も同じように瞬いた。
微笑みが、少し深くなる。
頬に置かれていただけの手が、ゆっくりと動いて目元を拭っていった。
自分勝手な理由ですみません。
そういって困ったように笑う彼女に、小さく首を振った。
自分勝手なんていわない。
そんな優しい自分勝手なんて、自分勝手とは言わない。
「お友達に、なってくれますか?」
笑う妖怪は、そこらの人間よりもよっぽど人間らしく感じた。
こんな笑顔の温かさを、自分は大分見ていない。
その真白な光に、目がちかちかした。
喉の奥が痛い。
目が熱くて、鼻の奥がつんとした。
「さくやさん。」
かけられる声に、首を振る。
すこし逡巡した彼女は、そのあとそっと、さくや、と呼び方を改めた。
あぁ、安心する。
「十六夜咲夜。お嬢様に気に入られた証ですね。」
聞いてもいないのに、おせっかいな妖怪は話し続ける。
自分はぎゅっと目を閉じてしまっているから、その群青の瞳は見えなかったが、きっと穏やかな光を宿しているのだろう。
「十六夜は十五夜よりも、一時間以上遅く昇る。急くことなく、慎ましやかに夜空に咲く十六夜が、お嬢様は一等好きだと仰っていました。」
そしてやっぱり、穏やかに笑った。
あぁ、ありがとう。
たとえばそれが方便だったとしても、その言葉を胸に抱いて、自分は歩いていけるだろう。
その名前を愛しながら、この邸で。
お礼も、まして彼女の名前を呼ぶこともできなかった。
喉の奥が焼け付くように熱くて。
ただ何度も何度も頷くと、目の前の妖怪が嬉しそうに笑う音だけ、耳に響いた。
「これからよろしくお願いします、咲夜。」
言葉と共にぎゅっと抱きしめられて、咲夜はやっと、自分が泣いているのだと理解する。
彼女の肩に顔を埋めたら、微かな香の匂いと、いっぱいの太陽の匂いがした。
この匂いを、覚えておこう。
そう、強く思った。
この匂いに包まれたなら、微笑むことができるように。
この匂いと共にあったら、ありのままの自分でいられるように。
「めいりん。」
呼んでみた、彼女の名前は。
思ったよりも、ずっとずっと、柔らかで綺麗な響きだった。
そして名前に託されたレミリアの愛情に感動しました。
ここから紅き館の従者たちの物語が始まるのですね。期待しています!
やっぱりこの二人は良いですね。
自分の中の美鈴のイメージにぴったり合った。
美鈴の優しさが美鈴らしいなぁと思いました。
その一点だけ強烈に違和感がありました。
それ以外はいい感じの作品でした。
ちょっと、銀の記述についてご説明に。
銀は貴金属にあたりますので、「錆びる」ことはありません。
ただ、汗に触れたり水に触れたりすることで、表面が「酸化」し、黒ずむことはあります(´∀`)
アクセサリー等で使用されている金属は、錆びない、腐らない、が最低条件となりますので!(赤錆くっつけて歩くのもいやですしね)
でも錆びない、って記述だけだと確かに違和感はありますね。
早めのご指摘ありがとうございました。
余計なことかとは思いましたが、皆様の雑学辞書の片隅にでもそっと置いておいていただけるとうれしいです。
この後咲夜さんはデレ期に入ると信じていますw
そして実に美鈴らしい理由ですね。
いいお話でした。