天人にならなかったら、怪盗になっていたかもしれない。黒い魔法使いよりも狡猾な。天界の蔵に忍び込みつつ、そんなことを思った。
四方を壁に囲まれた、暗い封印庫の中。天球儀や巻物を脇に寄せて、大つづらを三つ跳び越えて、目的の品に手を伸ばした。
黒塗りの鞘に守られた、一振りの宝剣。僅かに鞘をずらすと、夕陽色の刀身が覗いた。炎のような激しい光が漏れて、深夜の蔵を照らした。天界の道具、緋想の剣だ。
先の地震異変の後、私は父と名居様にきつく叱られた。人間の模範たる天人が騒ぎを起こすとは何事か、力では人の心は掴めないぞ、慢心は損にしかならない、云々云々。全て、神妙な面持ちで聞き流した。私は異変を起こして満足している。痛い目も見たけれど、最終的に幻想郷の面子には受け入れられた。ずっと欲しかった悪友が手に入った。これからも好きにやるつもりだ。やりたいようにやらなければ、つまらない。
「あんたもそう思わない?」
異変の相棒となった剣に、語りかけた。私は時折蔵に侵入しては、こうして緋想の剣を抜いている。外に持ち出して振ることもある。人の気質を見て遊ぶのだ。最終的に蔵に戻しておけば、問題はない。
刀の光を受けてにやついていたら、
「いけないんだ」
いきなり背後で声がした。実りたての桃のような、薄甘い声だ。
「どっちが」
振り返ると、予想通りの人物がいた。
天女達より小さな背丈と、大きな幼い瞳。どこか虚ろに瞬いている。柔らかそうな銀髪に、菜の花色のリボンをつけた黒帽子。リボンと同色の上着。その左胸で揺れる、闇色の閉じた眼球。そこから伸びた導線が、両足に絡み付いている。
古明地こいし。最近できた、地上の友人だ。いや、地下の友達と言ったほうが正確か。
彼女は座っていた竹のつづらから下りるなり、私を指差して言った。
「道具泥棒」
私も剣を向けて言い返す。
「天界不法侵入」
睨み合って、緊張の一瞬を演出して、子供みたいに笑った。どちらからともなく。
初めて彼女と会ったのは、二月ほど前だったか。今夜と同じように、緋想の剣に会いに行ったときだった。耳元で突然「悪い子」と囁かれて、悲鳴を上げた。忌々しい境界の妖怪の再来かと驚いた。びくつく胸を押さえて相手を見れば、可憐な顔立ちの童女。何者か、どうして来たのか、どうやって気配を絶っていたのか。次々と疑問が生まれた。酒を呑ませて問い詰めた。
こいしは、心を読める妖怪『さとり』なのだという。読めてもつまらないので、覚りの瞳を閉ざしたそうだ。その結果、誰にも気付かれずに動けるようになったのだとか。住まいは地下深くの洋館で、姉とペットと暮らしているらしい。
あれこれ訊いた後に、「友達になって」と手を握られた。「貴方は馬鹿っぽくて面白そうだから」と。膝に蹴りを入れてから頷いてやった。悪友は何人いてもいい。それに、彼女の在り方には何故か惹き付けられた。彼女は目を閉ざした、不完全な『さとり』。私は修行せずに天に至った、不完全な天人。霞んだ鏡を見ているような気がした。
酒瓶を数本抱えて、天界の外れに繰り出した。黄色い小菊、なずな、柴桜、撫子、蒲公英、有頂天には四季の花が揃っている。今夜の宴席には、春らしく立坪菫の密集地を選んだ。仄かな紫の花弁が五枚、淑やかに散らばっている。「お姉ちゃんの髪の色みたい」と呟いて、こいしは小さく正座した。私は隣に腰を下ろし、だらしなく足を伸ばした。ハート型の葉を幾つも下敷きにした。
宴会の明かりは、月と数多の星座。月は新月から目覚めたばかりで、細い曲線にしか見えなかった。星々は今が出番とばかりに、威張って輝いていた。いつものことだ。
地底暮らしのこいしには、本物の空が珍しいのだろう。両腕を伸ばして、星空を掻き回していた。温い夜風も回る。夢見るような、無邪気な笑い声が響く。
「手に掴めそうね」
「あんたも馬鹿っぽいわ」
「合わせてあげてるんだよ」
「言うわね」
瓶に直接口をつけて、中身を呷った。甘い。桃を蜂蜜で煮詰めたように、甘ったるい。一片だけ、鉄錆のような苦味がある。舌、内頬、触れた先から酔っていく。熱い。熟れきった果実のような、濃密な香りが広がった。何百年物か。
横目で見ると、こいしは水のように軽々と古酒を飲み干していた。表情は変わっていない。声だけが、若干浮かれて高くなっていた。
私の左腕に寄りかかって、こいしは「ねえ」と呼びかけた。
「天子、あれやって」
「また?」
「だって綺麗だもの」
緩く波打つ銀髪を擦り付けて、ねだってくる。こいつの姉さんは絶対に苦労しているだろう。甘え上手め。
私は瓶をこいしに預けると、緋想の剣を左手に握って立ち上がった。横に構えて鞘を引く。菫の絨緞が橙の光に染まった。
輝く刀身に右手を添え、想いを載せていく。感情は何でもいい。神社を地震でぶち壊す爽快感でも、天界生活の味気なさでも、どんなものでも。心の形、気質さえ伴っていれば、剣は色を変えていく。暮れ行く夕陽色から、始まりの緋色へと。
十分に緋の光を溜めてから、剣を振り上げた。星の煌めく天空目掛けて。鮮やかな光球がひとつ放たれ、空の幕に吸い込まれた。
大気の唸り声が聴こえる。
夜空に波紋が生じた。湖に小石を投げ込んだときのように。
揺らぎの中から、次第に色彩の光が顔を出した。赤、橙、黄、緑、青、菫、紫。虹の七色と、その中間の微細な色。山吹色や、紫陽花色、足元の立坪菫の色も。彩りの光が帯となって、星の世界に伸びていく。常識知らずな私の気質、極光だ。天女の羽衣のようだと、こいしは褒めてくれた。まともに見たことなどない癖に。
「私からはまだ出ない?」
虹のカーテンを眺めながら、こいしが訊いた。蜜柑色に戻った剣の、切っ先を顔に向けてやった。
「駄目ね」
念じさせても祈らせても、刀身に変化がない。
彼女は自分の天気を知りたいらしく、私に会う度に緋想の剣を求める。興味から私も応じてやっている。けれども、何度試しても剣は目覚めない。彼女の第三の瞳のように、色変わりを拒んでいる。
剣の応えない理由は、わかっている。
「ずるいなぁ、皆は出るんでしょ」
こいしからは、気質が流れてこないのだ。喜怒哀楽はあるけれど、中身は空っぽ。心の底から溢れ出るものがない。感情の水源に、幾重にも封がされている。きっと、覚りの瞳を閉ざしてしまったからだ。彼女を彼女たらしめているものが、途切れてしまった。自業自得だ。
「あんたも目を開けば出るようになるわ」
「んー」
「難しいの? 閉じたものをまた開くって」
つばの広い帽子と俯き顔のせいで、どんな顔をしているのかわからなかった。こいしはちんまりとした両手を、眠れる眼球に被せた。
「このへんがぎゅーって止まる」
「死神のお迎え的に?」
「身体は少しも痛くないよ」
膝を抱えて、こいしは一層小さくなった。彼女は主張が足りない。掴めない。自己の薄さゆえか。死神のように雄弁になれとは言わないけれど、大事なことは話してほしい。もどかしい沈黙は嫌いだ。抜き身の剣で肩を二度叩いて、続きを促した。
彼女は顔を上げた。嘘がばれた子供のような、ぎこちない笑顔を見せた。
「考えてること、視られたら嫌でしょ?」
眼の奥で、虹が震えていた。
(ああ)
そういうことか。
読めてもつまらないから、瞳を閉ざしたと彼女は言っていた。でも本音は違って。
(目を開いたら、また読めるようになる)
内側を見透かされて嬉しい奴なんて、そうそういない。欲を捨てたとのたまう天人だって、『さとり』を前にして平気でいられるかどうか。邪心や秘密を読まれたくない人々は、彼女を疎むだろう。彼女自身の振る舞いに関係なく。だからこいしは覚りの瞳を閉ざしたのだ。
彼女に惹き付けられた訳が、わかった。
(こいしは、私だ)
似ているのは、不完全な立場だけではない。
親の上司の功績が認められて、天界に迎えられて。待っていたのは天人達の冷ややかな視線。歌舞音曲をこなしても、なっていない、これだから七光りはと囁かれた。私の振る舞いに関係なく、見下された。私の意思で天人になったのではないのに。苛立ちと自己否定と退屈で、幾度境遇を怨んだことか。地上人に戻れないかと思って、事件や暴力沙汰も起こした。家出もした。
(でも、私は天人のまま)
『さとり』が目を閉ざすように、容易くは変われない。
悩んで、剣や花を振り回して、数百年過ごした。
「天子も、嫌でしょ? 読まれたら」
「嫌ね」
「やっぱり」
残念そうにうな垂れるこいしの膝に、寝転んで頭を載せた。緋想の剣を傍らに置いて、両の手足を伸ばした。花弁や葉が肌をくすぐる。いじけた顔に触れて、頬を抓ってやった。
「えぐ」
「心を読まれるのは嫌。でもね、背後からいきなり声かけられるのも嫌」
「それじゃ全部駄目じゃない。どうすればいいの」
時代の詰まったお酒を啜って、歌うように教えた。
「何やったって嫌う奴は嫌うのよ。堂々としてればいいじゃない」
荒れた日々を経て、私の至った結論だ。中傷に怒るのも、非難に畏縮するのも馬鹿馬鹿しい。心が擦り切れる。踏みつけられて止まっては、何も残せない。開き直る方が賢明だ。
目を丸くするこいしの後ろで、星彩と色彩が交わっている。カラーシロップを滅茶苦茶に溶かした、炭酸水のよう。緋想の剣は好きだ。誰にどう言われようと怯まない、根の部分を映してくれる。『さとり』が心を読むように、私の剣は心を描き出す。
「わがままね、天子は」
頬にある私の手を握って、こいしが笑った。小鳥の羽根のように柔らかく、温かだった。
「何年不良天人やってると思ってるの。あんたとは格が違うのよ」
発現させた極光が、夜闇に呑まれていく。
「そろそろ帰らなくちゃ。お姉ちゃんにまた怒られちゃう」
「もう門限破ってない?」
私が頭を退けると、こいしは浮き上がった。薔薇模様のスカートに、ハート型の葉がへばりついている。取り払う様子はない。裾を摘んで、面白がっている。私の帽子の桃に手を出して、
「持って帰っていい? お土産にするの」
「味は保証しないわよ」
一つもいでいった。
肴も音楽もない宴だ。片付けるものは空の瓶と剣のみ。酒瓶を二人で分けて持って、比那名居邸の裏手まで運んだ。屋敷の中から、古歌を吟ずるしわがれた声が聞こえる。ここに帰ると思うと、気が重い。
一回目の宴会の後、こいしは地霊殿に来ないかと誘ってくれた。行けないと断った。天人の在るべき場所は、清浄な天界。地上に長居すると、身体に苦痛が生じる。数百回の家出経験で、嫌というほど思い知っている。地上でさえ辛いのだ、地底に行ったらどうなることか。
私はいつだって見送る側だ。堂々と、元気よく。気軽に来てもらえるように。湿っぽい空気は作らない。
妖怪の山の方面まで案内した。山は天狗と河童の縄張りだけれど、こいしなら微風のように下りていけるだろう。心配はない。
「じゃあね、不良『さとり』」
「最近はいい子だもん」
鞘に収めた緋想の剣を握って、手を振った。彼女の姿が見えなくなるまで。
後は、剣を蔵に封じて、吟詠会の最中の家に帰って、眠る。
次の異変の夢を見て、また明日。
気侭に、賑やかに、迷惑に、鈍感に。
もっと呑んでおけばよかった。酒宴の終わった天界は、広過ぎる。感覚と感情が狂うまで、酔えばよかった。
(馬鹿馬鹿しい)
回れ右。無限の花畑を踏みつけて、歩き出した。さっさと剣を返しに行こう。鈴蘭の茎が曲がっても、花が潰れても、どうでもいい。どうせ幾らでも生えてくる。
唇を噛んだ。
途端、首筋に人の腕が回った。締め付けはしない。重荷にならない程度に、優しく抱き締めてくる。
背中に布越しの体温が伝わってきた。よく知らない行為に戸惑っていたら、
「淋しいときはこうするといいって、お姉ちゃんが言ってた」
甘い声が咲いて、遠ざかった。
一時、呼吸を忘れた。
「淋しい」。胸中で蠢く感情を言い当てられて、吃驚した。第三の瞳が、うっすら瞼を上げたのだろうか。
空虚さごと包み込まれて、悔しいけれど泣きたくなった。格好悪いことはしたくないのに。やりたいようにやるのは、難しい。
緋想の剣を抜いて、星の空に振り下ろした。脆さを払うように。
(あれ)
縦に下ろした瞬間、ごく淡い光の球が出た。刀身は杏色のままだ。気質を込めた覚えはない。それなのに、浅い緋色の小球が撃ち出されて、夜空に潜った。
春風が一鳴きして、真新しい月が揺らめいた。
雲海の下から、光が走った。目を凝らさないと見つけられないほど、存在感のない朧な光だ。色は白だと思う。光線は空高く飛んで弧を描き、月と交差した。
(単色の、虹?)
生まれて初めて見る天気だ。天気とは呼べないかもしれない。余りにも地味で、無垢。草木にも人にも影響を与えない。間違いない、これは彼女の気質だ。
「こいし」
おどけた返事はなかった。山を下り始めているのだろう。気付いただろうか。雑木林の隙間から、見えやしないか。
彼女の瞳が、心が、開きかけている証拠だ。今は星に負けているけれど、いつか。堂々と、開き直ることができたなら。
剣の柄を握る両手が、彼女に抱かれていた身体が、期待で熱くなった。自分のことのように嬉しい。彼女は、もう一人の私だから。
想いを描く剣を、胸に抱いた。
地底と天界を繋ぐ虹を、私はいつまでも見守っていた。
四方を壁に囲まれた、暗い封印庫の中。天球儀や巻物を脇に寄せて、大つづらを三つ跳び越えて、目的の品に手を伸ばした。
黒塗りの鞘に守られた、一振りの宝剣。僅かに鞘をずらすと、夕陽色の刀身が覗いた。炎のような激しい光が漏れて、深夜の蔵を照らした。天界の道具、緋想の剣だ。
先の地震異変の後、私は父と名居様にきつく叱られた。人間の模範たる天人が騒ぎを起こすとは何事か、力では人の心は掴めないぞ、慢心は損にしかならない、云々云々。全て、神妙な面持ちで聞き流した。私は異変を起こして満足している。痛い目も見たけれど、最終的に幻想郷の面子には受け入れられた。ずっと欲しかった悪友が手に入った。これからも好きにやるつもりだ。やりたいようにやらなければ、つまらない。
「あんたもそう思わない?」
異変の相棒となった剣に、語りかけた。私は時折蔵に侵入しては、こうして緋想の剣を抜いている。外に持ち出して振ることもある。人の気質を見て遊ぶのだ。最終的に蔵に戻しておけば、問題はない。
刀の光を受けてにやついていたら、
「いけないんだ」
いきなり背後で声がした。実りたての桃のような、薄甘い声だ。
「どっちが」
振り返ると、予想通りの人物がいた。
天女達より小さな背丈と、大きな幼い瞳。どこか虚ろに瞬いている。柔らかそうな銀髪に、菜の花色のリボンをつけた黒帽子。リボンと同色の上着。その左胸で揺れる、闇色の閉じた眼球。そこから伸びた導線が、両足に絡み付いている。
古明地こいし。最近できた、地上の友人だ。いや、地下の友達と言ったほうが正確か。
彼女は座っていた竹のつづらから下りるなり、私を指差して言った。
「道具泥棒」
私も剣を向けて言い返す。
「天界不法侵入」
睨み合って、緊張の一瞬を演出して、子供みたいに笑った。どちらからともなく。
初めて彼女と会ったのは、二月ほど前だったか。今夜と同じように、緋想の剣に会いに行ったときだった。耳元で突然「悪い子」と囁かれて、悲鳴を上げた。忌々しい境界の妖怪の再来かと驚いた。びくつく胸を押さえて相手を見れば、可憐な顔立ちの童女。何者か、どうして来たのか、どうやって気配を絶っていたのか。次々と疑問が生まれた。酒を呑ませて問い詰めた。
こいしは、心を読める妖怪『さとり』なのだという。読めてもつまらないので、覚りの瞳を閉ざしたそうだ。その結果、誰にも気付かれずに動けるようになったのだとか。住まいは地下深くの洋館で、姉とペットと暮らしているらしい。
あれこれ訊いた後に、「友達になって」と手を握られた。「貴方は馬鹿っぽくて面白そうだから」と。膝に蹴りを入れてから頷いてやった。悪友は何人いてもいい。それに、彼女の在り方には何故か惹き付けられた。彼女は目を閉ざした、不完全な『さとり』。私は修行せずに天に至った、不完全な天人。霞んだ鏡を見ているような気がした。
酒瓶を数本抱えて、天界の外れに繰り出した。黄色い小菊、なずな、柴桜、撫子、蒲公英、有頂天には四季の花が揃っている。今夜の宴席には、春らしく立坪菫の密集地を選んだ。仄かな紫の花弁が五枚、淑やかに散らばっている。「お姉ちゃんの髪の色みたい」と呟いて、こいしは小さく正座した。私は隣に腰を下ろし、だらしなく足を伸ばした。ハート型の葉を幾つも下敷きにした。
宴会の明かりは、月と数多の星座。月は新月から目覚めたばかりで、細い曲線にしか見えなかった。星々は今が出番とばかりに、威張って輝いていた。いつものことだ。
地底暮らしのこいしには、本物の空が珍しいのだろう。両腕を伸ばして、星空を掻き回していた。温い夜風も回る。夢見るような、無邪気な笑い声が響く。
「手に掴めそうね」
「あんたも馬鹿っぽいわ」
「合わせてあげてるんだよ」
「言うわね」
瓶に直接口をつけて、中身を呷った。甘い。桃を蜂蜜で煮詰めたように、甘ったるい。一片だけ、鉄錆のような苦味がある。舌、内頬、触れた先から酔っていく。熱い。熟れきった果実のような、濃密な香りが広がった。何百年物か。
横目で見ると、こいしは水のように軽々と古酒を飲み干していた。表情は変わっていない。声だけが、若干浮かれて高くなっていた。
私の左腕に寄りかかって、こいしは「ねえ」と呼びかけた。
「天子、あれやって」
「また?」
「だって綺麗だもの」
緩く波打つ銀髪を擦り付けて、ねだってくる。こいつの姉さんは絶対に苦労しているだろう。甘え上手め。
私は瓶をこいしに預けると、緋想の剣を左手に握って立ち上がった。横に構えて鞘を引く。菫の絨緞が橙の光に染まった。
輝く刀身に右手を添え、想いを載せていく。感情は何でもいい。神社を地震でぶち壊す爽快感でも、天界生活の味気なさでも、どんなものでも。心の形、気質さえ伴っていれば、剣は色を変えていく。暮れ行く夕陽色から、始まりの緋色へと。
十分に緋の光を溜めてから、剣を振り上げた。星の煌めく天空目掛けて。鮮やかな光球がひとつ放たれ、空の幕に吸い込まれた。
大気の唸り声が聴こえる。
夜空に波紋が生じた。湖に小石を投げ込んだときのように。
揺らぎの中から、次第に色彩の光が顔を出した。赤、橙、黄、緑、青、菫、紫。虹の七色と、その中間の微細な色。山吹色や、紫陽花色、足元の立坪菫の色も。彩りの光が帯となって、星の世界に伸びていく。常識知らずな私の気質、極光だ。天女の羽衣のようだと、こいしは褒めてくれた。まともに見たことなどない癖に。
「私からはまだ出ない?」
虹のカーテンを眺めながら、こいしが訊いた。蜜柑色に戻った剣の、切っ先を顔に向けてやった。
「駄目ね」
念じさせても祈らせても、刀身に変化がない。
彼女は自分の天気を知りたいらしく、私に会う度に緋想の剣を求める。興味から私も応じてやっている。けれども、何度試しても剣は目覚めない。彼女の第三の瞳のように、色変わりを拒んでいる。
剣の応えない理由は、わかっている。
「ずるいなぁ、皆は出るんでしょ」
こいしからは、気質が流れてこないのだ。喜怒哀楽はあるけれど、中身は空っぽ。心の底から溢れ出るものがない。感情の水源に、幾重にも封がされている。きっと、覚りの瞳を閉ざしてしまったからだ。彼女を彼女たらしめているものが、途切れてしまった。自業自得だ。
「あんたも目を開けば出るようになるわ」
「んー」
「難しいの? 閉じたものをまた開くって」
つばの広い帽子と俯き顔のせいで、どんな顔をしているのかわからなかった。こいしはちんまりとした両手を、眠れる眼球に被せた。
「このへんがぎゅーって止まる」
「死神のお迎え的に?」
「身体は少しも痛くないよ」
膝を抱えて、こいしは一層小さくなった。彼女は主張が足りない。掴めない。自己の薄さゆえか。死神のように雄弁になれとは言わないけれど、大事なことは話してほしい。もどかしい沈黙は嫌いだ。抜き身の剣で肩を二度叩いて、続きを促した。
彼女は顔を上げた。嘘がばれた子供のような、ぎこちない笑顔を見せた。
「考えてること、視られたら嫌でしょ?」
眼の奥で、虹が震えていた。
(ああ)
そういうことか。
読めてもつまらないから、瞳を閉ざしたと彼女は言っていた。でも本音は違って。
(目を開いたら、また読めるようになる)
内側を見透かされて嬉しい奴なんて、そうそういない。欲を捨てたとのたまう天人だって、『さとり』を前にして平気でいられるかどうか。邪心や秘密を読まれたくない人々は、彼女を疎むだろう。彼女自身の振る舞いに関係なく。だからこいしは覚りの瞳を閉ざしたのだ。
彼女に惹き付けられた訳が、わかった。
(こいしは、私だ)
似ているのは、不完全な立場だけではない。
親の上司の功績が認められて、天界に迎えられて。待っていたのは天人達の冷ややかな視線。歌舞音曲をこなしても、なっていない、これだから七光りはと囁かれた。私の振る舞いに関係なく、見下された。私の意思で天人になったのではないのに。苛立ちと自己否定と退屈で、幾度境遇を怨んだことか。地上人に戻れないかと思って、事件や暴力沙汰も起こした。家出もした。
(でも、私は天人のまま)
『さとり』が目を閉ざすように、容易くは変われない。
悩んで、剣や花を振り回して、数百年過ごした。
「天子も、嫌でしょ? 読まれたら」
「嫌ね」
「やっぱり」
残念そうにうな垂れるこいしの膝に、寝転んで頭を載せた。緋想の剣を傍らに置いて、両の手足を伸ばした。花弁や葉が肌をくすぐる。いじけた顔に触れて、頬を抓ってやった。
「えぐ」
「心を読まれるのは嫌。でもね、背後からいきなり声かけられるのも嫌」
「それじゃ全部駄目じゃない。どうすればいいの」
時代の詰まったお酒を啜って、歌うように教えた。
「何やったって嫌う奴は嫌うのよ。堂々としてればいいじゃない」
荒れた日々を経て、私の至った結論だ。中傷に怒るのも、非難に畏縮するのも馬鹿馬鹿しい。心が擦り切れる。踏みつけられて止まっては、何も残せない。開き直る方が賢明だ。
目を丸くするこいしの後ろで、星彩と色彩が交わっている。カラーシロップを滅茶苦茶に溶かした、炭酸水のよう。緋想の剣は好きだ。誰にどう言われようと怯まない、根の部分を映してくれる。『さとり』が心を読むように、私の剣は心を描き出す。
「わがままね、天子は」
頬にある私の手を握って、こいしが笑った。小鳥の羽根のように柔らかく、温かだった。
「何年不良天人やってると思ってるの。あんたとは格が違うのよ」
発現させた極光が、夜闇に呑まれていく。
「そろそろ帰らなくちゃ。お姉ちゃんにまた怒られちゃう」
「もう門限破ってない?」
私が頭を退けると、こいしは浮き上がった。薔薇模様のスカートに、ハート型の葉がへばりついている。取り払う様子はない。裾を摘んで、面白がっている。私の帽子の桃に手を出して、
「持って帰っていい? お土産にするの」
「味は保証しないわよ」
一つもいでいった。
肴も音楽もない宴だ。片付けるものは空の瓶と剣のみ。酒瓶を二人で分けて持って、比那名居邸の裏手まで運んだ。屋敷の中から、古歌を吟ずるしわがれた声が聞こえる。ここに帰ると思うと、気が重い。
一回目の宴会の後、こいしは地霊殿に来ないかと誘ってくれた。行けないと断った。天人の在るべき場所は、清浄な天界。地上に長居すると、身体に苦痛が生じる。数百回の家出経験で、嫌というほど思い知っている。地上でさえ辛いのだ、地底に行ったらどうなることか。
私はいつだって見送る側だ。堂々と、元気よく。気軽に来てもらえるように。湿っぽい空気は作らない。
妖怪の山の方面まで案内した。山は天狗と河童の縄張りだけれど、こいしなら微風のように下りていけるだろう。心配はない。
「じゃあね、不良『さとり』」
「最近はいい子だもん」
鞘に収めた緋想の剣を握って、手を振った。彼女の姿が見えなくなるまで。
後は、剣を蔵に封じて、吟詠会の最中の家に帰って、眠る。
次の異変の夢を見て、また明日。
気侭に、賑やかに、迷惑に、鈍感に。
もっと呑んでおけばよかった。酒宴の終わった天界は、広過ぎる。感覚と感情が狂うまで、酔えばよかった。
(馬鹿馬鹿しい)
回れ右。無限の花畑を踏みつけて、歩き出した。さっさと剣を返しに行こう。鈴蘭の茎が曲がっても、花が潰れても、どうでもいい。どうせ幾らでも生えてくる。
唇を噛んだ。
途端、首筋に人の腕が回った。締め付けはしない。重荷にならない程度に、優しく抱き締めてくる。
背中に布越しの体温が伝わってきた。よく知らない行為に戸惑っていたら、
「淋しいときはこうするといいって、お姉ちゃんが言ってた」
甘い声が咲いて、遠ざかった。
一時、呼吸を忘れた。
「淋しい」。胸中で蠢く感情を言い当てられて、吃驚した。第三の瞳が、うっすら瞼を上げたのだろうか。
空虚さごと包み込まれて、悔しいけれど泣きたくなった。格好悪いことはしたくないのに。やりたいようにやるのは、難しい。
緋想の剣を抜いて、星の空に振り下ろした。脆さを払うように。
(あれ)
縦に下ろした瞬間、ごく淡い光の球が出た。刀身は杏色のままだ。気質を込めた覚えはない。それなのに、浅い緋色の小球が撃ち出されて、夜空に潜った。
春風が一鳴きして、真新しい月が揺らめいた。
雲海の下から、光が走った。目を凝らさないと見つけられないほど、存在感のない朧な光だ。色は白だと思う。光線は空高く飛んで弧を描き、月と交差した。
(単色の、虹?)
生まれて初めて見る天気だ。天気とは呼べないかもしれない。余りにも地味で、無垢。草木にも人にも影響を与えない。間違いない、これは彼女の気質だ。
「こいし」
おどけた返事はなかった。山を下り始めているのだろう。気付いただろうか。雑木林の隙間から、見えやしないか。
彼女の瞳が、心が、開きかけている証拠だ。今は星に負けているけれど、いつか。堂々と、開き直ることができたなら。
剣の柄を握る両手が、彼女に抱かれていた身体が、期待で熱くなった。自分のことのように嬉しい。彼女は、もう一人の私だから。
想いを描く剣を、胸に抱いた。
地底と天界を繋ぐ虹を、私はいつまでも見守っていた。
特に色の描写部分が個人的に大好きです。
内容も面白いですし、とても良い短編でした。
なんだか面白くも切ないしんみりとしたお話だと感じました。
というか意外とこの二人の組み合わせは良いね。
相変わらず綺麗な文章でした。
二人の気質の天気が美しい・・・
境遇は決して安穏とはいえないけれど、支え合って歩んで行く二人の未来が見えるよう。
短編の完成度としては、個人的にとても満足です。ありがとうございました。
本編からは予想も付かない新たな関係と反応を作り出すことこそ、二次創作の醍醐味。
話を彩る描写も一つ一つがとてもキレイで、しかも無駄なく話の筋を写し出して。
すばらしいです。これほどのお話を読めたことに感謝したいくらい。
暖かいお話で読んでて楽しかったです。
ほのぼの感に安堵し
最後の虹を見てみたいと思った。
How wonderful!
ノックアウト。
地底と天上、いつか見たかった組み合わせでした。
純朴な気質として月虹を持ってくるとはね。普通思いつきませんよ。
文章がすっきりしてしかも温かい、いいものです。
天界の天子と、地底のこいし。本編では接点のない二人ですが、ゲームそのものや設定、絵に触れて、何か話を書きたいと思うようになりました。
白い月虹は、すっと心に浮かびました。『緋想天』の天気雨時の虹と被るかな、と少し躊躇いましたが、直感を通すことにしました。イメージと違っていたら、ごめんなさい。
色遊びをするように、楽しんで形にしました。一片でも皆様の心に残るものがあれば、幸いです。
気が向いたら是非もう一度書いてください