ちょっとしたおことわり
・ 妖精等についてマニアックな語りが入りますが流し読みで無問題です。特にラストのサリエルとアリスのくだりは面倒でしたらスルーの方向で。ではでは……
夢美と名乗った少女と別れた後、大妖精とルーミアの二人はまた再思の道を歩き出した。
だんだんと幽霊とすれ違うことが多くなってきている感じがする。無縁塚とやらが近付いてきているからだろうか。
――それにしても
この場所には風を司る存在がいない。先ほど風を兎に向けて放ったときにそれが分かった。
風神不在、とルーミアは表現した。烏天狗に魔法使い――風を操る存在というのは幾多いる。しかしそれを統括し、風を生み出しているであろう存在がこの場所にはいないのだ。だからこそ風の表情が安定しない。
もちろんその表情というのは大妖精だから感じ取れるものなのであって、人間や妖怪にはその微細な変化を察知することは困難である。
「もう少しで着くよ」
「無縁塚とかいうところですか?」
「うんにゃ、そことも関わりの深いところではあるんだけど、別のところ。ねえ、大ちゃん」
「何でしょうか?」
「貴女の目の前にいる奴はね、人喰いなの。貴女はそれをどう思う? 人なんか喰われようが野垂れ死のうが気にはしない? それともイヤだなーって思う?」
――人を……
死という概念からほど遠い妖精の身からしてみると、命の重みや大切さといった人間が良く使いそうな言葉の意味というものは理解しづらい。それは多くの妖精がそうなのだろうし、大妖精もいまいちその死というものについては理解が追い付いていない。
ただ――あまりよい気分のするものではないということは間違いない。
少なくとも大妖精は生き物の死骸というものは好きではないし、そういう意味ではその前段階としての死もやはりあまり好きではなかった。動物が死肉を食い散らかしているさまを見ても気持ち悪いという感想しか湧いては来ない。もちろんそうしなければ彼らが生きていけないということぐらいは大妖精も分かってはいるのだが。
「私には良く分かりません」
死というものの性質がどうあれ、それは別離としての意味合いを持ってはいるのだろう。なら――それならば、その辛さは大妖精にも十分理解できるのだが、どうも上手く言葉としてはまとまらない。
「死肉を漁る様が気持ち悪い――なるほどなー、でもさでもさ」
とんと跳ねてルーミアは大妖精の目の前に立つと、下からのぞき込むような妙な仕草で大妖精の方を見た。
穏やかではあるが、同時に暗く、奥底には冷えた何かを湛えた目――見透かされているようで、何だかひどく落ち着かなくなる目線だ。
「貴女だってこのまえ太公望の奴がさばいた魚を食べたわ。死肉を炙り、死肉をさばき、塩をふって醤油に浸して――食べた。アレはどうなるんだろうね?」
「それは――」
「魚の命の価値は低い? 魚なら食べてもいいと思った?」
何だか非難されているようで所在がなくなってしまう。
「そうではないですけど――そこまで考えていなかったです」
「まあ妖精だからね、ふつうはそんなこと考える必要はないよ。でも――」
踵を返してルーミアは歩きだす。大妖精はそれを追う。
周囲は相変わらず森だ。風景に変わり映えがないから、ちっとも距離が進んでいないような錯覚が湧きあがる。
「貴女はチルノの中に何が『入っている』のか知っている?」
しばしの沈黙の後、路傍の小石を蹴りつつルーミアはたずねた。
「『因子』のことですか? 残念ながら詳しくは知らないんです。ただ王族の方々はそれが解放されることを良しとはしない、と」
「王族ねえ……ここじゃ妖精にそういう存在がいるってことすらあまり知られていないからねえ。彼らは何て言っていた? 思い出してほしい」
ええと、と言って大妖精は記憶の糸をたどる。元来妖精は物事を長々と覚えておくことは苦手であるし、そうする必要性もそれほどない。
それでもしばらく考えていると途切れ途切れではあるが、かつて聞かされた言葉が蘇ってきた。
「たしか――『あの場所に王国は必要ない』とかなんとか」
「ふーん……」
「王国ってなんなんでしょうか? ルーミアさんは分かります?」
「分からなくもないけど……それより」
ルーミアが立ち止まる。そしてまるでそれに合わせるかのような出来すぎたタイミングで、つむじ風が辺りを抜けていく。
森が騒ぐ。
砂塵が踊る。
それが目に入り、大妖精は反射的に目を閉じたのだが――
――羽根?
目を閉じる直前の、ほんの一瞬。
その瞬間に風に踊る無数の白い羽根を大妖精は見たような気がした。
「やっぱり貴女はあの場所を見ておくべきだわ」
砂ぼこりに目を閉じた大妖精の耳に、やけに厳かな感じのするルーミアの声が反響する。
そして大妖精は目を開ける。
変わらないルーミアの姿がある。
白と黒。明星のような黄金の髪に血のような赤い瞳――
「ここにいる妖精たちで一番判断力があるのは貴女だろうからさ。この場所がどういうものの上に成り立つ世界であるのか、少なくとも貴女は知っておくべきなんだと思う。貴女たちから選択肢を奪う権利は私にはないから」
「選択?」
「ここを第二の『Tir na n-Og』とするのか、それとも幻想郷とするのかということ」
「もう少し分かりやすく言ってほしいです……」
「聞いての通りの意味しかないよ。私はこの場所は嫌いじゃないから、この場所は遠い未来まで変わらず幻想郷であり続けてほしいけどね」
行こうか、と言うとルーミアは三度歩き出した。
その後十分ばかり歩いたところで二人は脇にそれた小道が現れた。ここを折れることなくまっすぐ進むと件の無縁塚という場所へと至るらしいが、ルーミアの目指す場所は小道の先、森の奥であるらしい。
「思ったより早く着いちゃったし、もうちょっと話をしよう」
そう言うとルーミアは近くにあった木の上に飛び乗る。大妖精もそれを追う。
「これから向かうのは屠殺場。人間が精肉される場所だよ」
「セイニク?」
ルーミアにならい太めの枝に腰をかけ、大妖精はたずねた。地面までは十メートルほどである。
「食べやすい形に整えるということ。つまり食材に仕立て上げるところね。人も妖怪も――生きて動いているモノを食材として見るのはけっこう難しいんだよ。ヒトにもよるんだろうけどね、少なくとも私はダメ。動いてる人間は食べ物として認識できない。頭ではそれが食べられるモノだっていうことは理解できるし、私がたまに食べているものとそれらが同じものなんだってことも分かるんだけど――不思議と無理なの。文明、文化――そうしたものを持てば持つほどその傾向は強くなる。だから外の人間も似たような感じだと思うんだけどね。外の人間は丑の干支飾りをかわいいかわいいって飾りながら、同時に正月でめでたいからって言ってすき焼きを食べるらしいの」
私も人間のことはそれほど嫌いじゃないしね、とどことなく自嘲の混ざった感のある口ぶりでルーミアは言った。
目的地へと至るであろう小道の奥は、暗い。うら寂しい――ここはそういう感じのする場所だ。
そして辺りの空気が異様に重たい。身体にまとわり付いてくる感じがする。
「牛を食材として見ようと思ったら、解体精肉のプロセスを経なければダメ。他の獣もそう。そうやって綺麗にばらされて切り揃えられた肉を見て初めて、ああ美味しそうと思える。外の人間だって同じことをしている。その過程は見えにくく、隠されているけどね。まるでお肉は始めからその形で存在していたかのように、生きて動いていた牛だの羊だの鶏だのとの同一性を剥奪されて、お店に並べられるの。スーパーって分かる?」
「おっきい店屋さんのこと?」
「そう。そういう場所とかに、ぽんと無造作に置かれているの。じゃ、そのお肉がその形になるまでには何が行われているのか――そのことはたぶん知らない、あるいは見たことないって人が多いんだと思う。特にこの国はね。外の世界の本とかを読む限りはそう見える。略取班の連中ならともかく、私は外部と直接的関わりがあるタイプじゃないから詳しいことは知らないけどね」
最後の方は取って付けたふうだったと大妖精は思ったが、口には出さない。
「例えば牛ならどうするか。まず汚れを落とした上で――息の根を止めなくちゃいけない。ここでいたずらに牛に苦痛を与えるのは牛がかわいそうだし、ついでに作業する輩も危ない。暴れるからね。だから……最近は電気かガスかしら? まあいいや。ともかく何らかの形で昏倒させるの。そのあと頸動脈を切り裂いて――」
「ケイドウミャク?」
「血がいっぱい通る管のことだよ。切開すれば大量に血が出る。要するに気絶している間に失血死させるの。痛くないようにね。その際には血がはやく抜けるように、後ろ脚を天井につるして身体を逆さまにする。それでその後は……えーと何だったかな……頭部および四肢の切断、剥皮、内臓の摘出……他にも色々やることはあった気もするけど、ともかくそれらの過程を経た後、部位ごとにカットされて売り物のお肉のカタチが完成する。後は配送。そして幻想郷においていま言ったプロセスを担当するのが解体班、提供班。外から人間をさらってくるのがさっき言った略取班ね」
そう言えばこれは幻想郷の話だったのだ。どうも話が生々しいからそのことを大妖精は失念していた。
ただ聞くところによると大妖精が示した反応と同じような反応を外の人間もするのだそうで、そういう意味では外の世界の人間もある種の幻想の中に生きているのかもしれない。きっと彼らの中では牛と牛肉はイコールではないのだろう。その二つは彼らの中では連続していないのだ。その二つの間を繋ぐミッシングリンクが屠畜のプロセスということなのだろうか。それがひた隠しにされているのなら、それは確かに動くものを食材とみなすことは難しいだろうとおぼろげながら大妖精は思う。
そして――
「同じことを人間にするということ?」
「そう。外からさらってきた人間にね。息の根を止める方法は少し違うんだけど……あと、さばき方を知らない奴が材料だけ持ち込んでくることもある。ここら辺はさっき言ったとおり外の連中が迷い込みやすいからね。ここで虎視眈々と獲物を狙っている奴もたまにいる。まあ――」
まれに食い散らかす阿呆もいるけどさ、と枝から垂らした足をぶらつかせてルーミアは言った。口調は淡々としているが少し不快感がにじみ出ているようでもある。
ただそれが何かの慈悲の類の表れなのか、それとも単にマナーの悪い輩に対して腹を立てているだけなのかは大妖精には分からなかった。
「そうやって野垂れ死んだ魂――特に地に縛られてしまったようなものは、おそらく『猫』が持っていく。あれはそういう意味では一種の救済手段だし、上手く回ってもいるんだけど、あの子ら自体はあまり好かれてないだろうね。いや、そもそも知られていないのかなあ」
「猫?」
「ああ、ごめん。今のは関係ないや。忘れていいよ。ちなみにさっき貴女が魚を食べたことを失念していたのは、あれが特に処理とか施さなくても食べられる形をしているからだと思うよ。大きさだって問題がない。まあ種として近しいか離れているかとか他の要素もあるんだろうけどね」
そこで言葉の途切れたルーミアを大妖精はちらりと見る。
綺麗な横顔だと思う。
暗がりでも輝きを失わない金髪がその横顔を飾っている。
――それにしても……
この辺りを覆う重苦しい空気は何なのだろうか?
絡み、まとわり付くかのような気配――その気配の中心はこれから進む小道の先にあるのだろう。言いようのない重い気配がその奥から流れ出てきているのだ。
何かがこの場所に満ち溢れている。
それはおそらく注意してみればあまねく地上のどこにも存在している代物なのだと思う。ただ他の場所においては気にならない程度にまで希釈されているそれが、しかしここにおいては極端な濃度をほこっているのである。
風が淀んでいる。
澱のような重たい空気が、清浄な空気との間に境界をつくり、それが地に沈殿してこの場所はひどく風の流れが滞っている。あまり――気分のいい場所ではない。
「あの……」
大妖精には一つ気になっていることがあった。
「外の世界からさらってくるって言いましたよね? ここにも人間はいるのにそうするんですか?」
「ここの人間は美味しそうだからね、食べることは出来ないの。数も少ないし」
「美味しそうだから食べられない?」
意味が良く分からなかった。
「そうだなあ……さっきから例え話ばっかりだけど、ここの人間はワインみたいなものなの。それも優良なヴィンテージの品を適切な年数しっかりと寝かせたようなね。ちゃんとこちらを怖がってくれて、なおかつ自分たちの立ち位置や分というものをしっかりと弁えてる。上質なの。そういう人間は外には数えるほどしかいないから代えが利かないのね」
外の世界に自分たちの観客はいない――夢美という少女に出会う前にルーミアはそう言っていたのだ。
「寝かせたワインの価値ってね、栓を開けてしまったら一気に霧散してしまうの。開けないことに価値がある。開けてしまえばもうそこまで。そりゃコルクを飛ばせば美味しく飲むことは出来るけどさ、でもそれっきり。もうワインセラーに収めておくことだって出来やしない」
「でも飲みたくなることに変わりはないから――」
「ん、あんまり良いことではないけれど理解が早いね。そう、外から代わりの品を仕入れるの。『安い』ワインをね。でも――」
またしてもルーミアは憂いを帯びた目付きをする。その目付きを見ていると平時の掴みどころのない態度は、実は何かの情の裏返しだったのではないのかという気がしてくる。
「この場所をどう捉えるかはヒトによるんだろうけどね、でも結局はこの場所は広い世界の内のごくわずかな一角にすぎないんだよ。ここにいるとそのこと忘れちゃいそうになるけど――ここがここだけで完結した世界であるんだと錯覚しそうになるけれど、でもそれは違う。外部との関係性を抜きにこの場所を語ることは出来ない。食糧だって外から持ってきている。この場所の在り方は結局は外の世界次第なの。だからね、外からさらってきた連中を真の意味で安物呼ばわりするのは――『傲慢』というものよ」
「口にする命に感謝する?」
「そ。子どもだっていただきますぐらいは言うよ。己の口にするものへの感謝を忘れてしまったら――それはちっとも精神的に優れてなんていない。喰らった人間を軽んじるような輩を、私は妖怪と認めたくはないなあ。そういうのってなんかイヤじゃない」
まあ私が認定するわけじゃないんだけどね、と言うとルーミアはばつが悪そうに笑った。
「本当、こんなにしゃべったのは久しぶりだよ。一年分くらいしゃべったに違いないわ」
「あの、どうして私なんかを連れてきたんですか?」
「んー……えっとね、妖精である貴女がどうしてこの奥の情景を見なければならないのか、それは今はまだ分からないと思う。でも知っておいてほしいの」
あの道の先が人間の解体される場所ということなのだろう。
本当に――なぜルーミアがこの場所へ大妖精を連れて来たのかが分からない。妖精はその気になれば何も食べずとも生きていけるのである。大妖精自身とこの場所に何か関わり合いがあるとも思えない。
――いや
この場所は妖怪のための場所であり、妖精はその場所を構成する要素の一つなのだろう。なら――
「理由は考えないでいいよ。理屈も要らない。ただ貴女がこの場所の礎となっているものを好ましいと思うか、厭わしいと思うか、それだけで今はいい」
そしてルーミアは二人で通ってきた道の方を見て、ちょうど良かったと言った。
二人の人間が歩いてくる。
一人は釣竿を持った男――件の魚を大妖精に供した釣り人だった。チルノにたこ呼ばわりされていた人物である。ほんの少し前のことであるというのに、もう遠い昔のことのようにも思える。その間に色々なことが起こり、色々なものが動いたのだ。
もう一人は青みがかった銀の髪をした少女だった。
「おーい、センセイ」
ルーミアがひょいっと木から飛び降りる。大妖精も後を追って降りる。
「ルーミア、無事だったのか」
幾分か安堵の混じった声で少女は言う。その背は大妖精やルーミアに比べて少し高く、姿勢も凛として良いが、声は意外と柔らかく女の子らしい。ルーミアとは知り合いのようである。
――なんか色々と真っ直ぐだ。
そんなおおよそ人物評とはいいがたい感想を大妖精は抱く。しかし本当にそう思ったのだ。
ただ他方でその顔はどことなくやつれてもいて、何か気落ちしているようにも感じられる。おそらくこの異変が原因なのだろう。
「まあね。センセイは元気? 内光は足りている?」
「あんまり元気じゃあないかな。いろいろと気がかりなことだらけだよ」
「『明日のことを思い煩うなかれ』――とか」
「貴女が言うと皮肉にしか聞こえないなあ……それよりここで何をやっている? その子はどちらかな?」
大妖精の方を見ながら慧音と呼ばれた少女は問う。
「食材をもらいに来た――と言いたいところだけど今はそういう状況でもない。この子は最近こっちに入ってきた子だよ。チルノの古いお友達」
「チルノの? そういえばあいつはどうした?」
「あいつはやられたよ」
「そうか……」
「私とこの子はあいつを何とか出来ないかと思ってこそこそやってる。だから、たぶん里にはいけないと思うわ」
「別にお前のような奴はいてもいなくても変わらないから気にするな」
ひょっとするとこの慧音という少女はルーミアについて何か知っているのかもしれない。知っているからこそあえて突き放しているふうな物言いだったのだ。
「ん、ありがとう。ただまあ、あの霧がどうにかならないことには動きようがないから、それで今はこの子は世界観の学習中というわけ。ホントはもっと緩やかに知ってほしかったんだけどね」
「妖精だろう? こんなところに連れて来る必要はないだろうに」
「慧音、この子シルフだよ」
唐突に昔の名前を呼ばれ、大妖精は少し戸惑う。ただ考えてみれば知る人に対してはそう説明するのが一番分かりやすくはある。
対する慧音はほうとつぶやいた。
「なら古き神々の――あるいは『貴女たちの』系譜の上に乗る者ということか……」
――あなたたち?
「アリエル――なのか? この子が?」
「どうだろうね。ひょっとするとそれは全部人間が適当にでっち上げたお話かもしれないよ? 『我々は夢と同じ物で作られており、我々の儚い命は眠りと共に終わる』……シルフとアリエルがただちに通じ合うかどうかだって分からない。とても似ているけれどね。ただ――」
「ただ、なんだ?」
「ふふ、風は移り気の象徴。でも逆にそうであるが故に――時にそれは燃えるような激情を内に宿すこともある」
洩矢という神と話を交わしたときと同様、大妖精には二人の会話の意味が全く分からない。分からないから横やりを入れることも出来ない。
どうもここの住人たちは説明不足のきらいがある――そのことを大妖精は経験的に学習しつつある。
「疲れているなら、気分転換でもしよっか、センセイ。お題はいま言ったアリエル。これはね、神の名を冠するシェムハメフォラシュの72天使の一人とされる」
また変な言葉が出た、と大妖精は少し辟易する。
主、この世を喜ばれ、主の恵み、あまねく主の御業に宿れり――宵闇妖怪は、やけに様になる態度で何かの一節を暗唱した。
「シェム――? 私はそっちの方にはあまり明るくないんだが……」
「『出エジプト記』十四章第19節から21節――この三つの節はそれぞれ72文字で構成されているの。これを19節を右から左、20節を左から右、21節を右から左に書いて、縦に並べる。そうすると三文字の言葉が72列できるでしょ? あとはそこに神格を表す el や yah を足してそれを神に連なる者の名とし、またその力を借りるための呪文とする――外界の人間ならそう説明するはず。モーセが紅海を割った時に唱えた呪文であるともされます」
大妖精は話が理解できないので退屈に思っているが、慧音はそうでもないらしく真面目な表情で聞いている。見た目の印象は対照的だが、意外とこの二人は波長が合うらしい。
「アリエルと言えばたしか旧約聖書の一書でも……なんだったか……」
「『エズラ記』」
「そうそう、それだ。そこにおいてもアリエルは天使とされていたはずだが」
「アリエルは正典よりも偽典やグノーシス主義、コプト教会とかと相性がいい。風や鳥――そういった自然のものと密接なつながりを持っている天使よ。ユダヤのその他の伝承でも鳥たちの支配者であるとされている。その天使性についてはアグリッパの奴もしつこく主張していた。アリエルは天使であり都の名前でもある――とかそんなようなことを言っていたはず」
「都? そうか『イザヤ書』ではアリエルはエルサレムの別称だったな。『アリエルを群がって攻撃する国はすべて、夢か夜の幻のようになる』――」
「『彼女を攻撃し、取り囲み、苦しめる者はすべて』……」
「あ、そういえばアリエルは『失楽園』でも天使として――」
「先生」
ルーミアが慧音を見つめる。
「話を振っといて悪いんだけど、その名前は――あんまり聞きたくないの。ごめんね」
そのルーミアの声はどことなく――
――寂しいの?
理由は分からないがそう思った。
帰るべき場所をなくしたような、あるいは友や仲間を失ったかのような、そういう類の悲哀の情を感じたのだ。それはチルノと離れ離れになった時に自身が感じたことでもあった。
そして慧音も失言を悔いるような表情で、すまないと言った。
「少し――浅慮が過ぎた」
「私が始めた話だから気にしないでいいよ。それにね、まあ色々言ったけどさ、結局のところ大事なことは一つなの」
そう言うとルーミアは大妖精の方を向き、にこりと笑った。
それは今まで見せていたどことなく冷笑じみたそれではなく――まっすぐで含みのない明るい笑顔だった。
「今のこの子は風。それは間違いないの。穏やかに、たおやかに――時に荒々しく吹いて、世界を渡り満たす風よ」
両腕を広げてルーミアはくるりと回転する。そういういかにも舞台劇じみた動作にちっとも違和感が伴わないから不思議だ。むしろ似合ってすらいる。左右の森が垂れ幕のように見えてくる。
そして回るルーミアの手により払われたかのように、辺りを覆っていた淀んだ空気はどこかへと消え、代わりにやけに清浄な空気が天から流れ込むようにして満ちる。
その澄んだ空気そのものと戯れるようにして、ルーミアはさらにくるりと舞い、穏やかな優しい声音で語る。
「風は火を育み、雲を呼ぶ。鳥たちを導き、花たちの命を運んでいく。この子はそうやって世界を紡ぐ元素の中を、自在に飛び回る者」
「空気の精ということね……そういう子だからこそこの場所を見せるということか? まあ私も長話で覚悟は――覚悟だけは決まったよ。でも深部まで見せるの?」
「いや、浅いところまででいいよ。この子が口にしないものについてこの子が知るべきことなんて、ほんの少ししかないもの。どこまで見せるかは先生の判断に任せるよ。私はその間にやっておきたいことがあるから」
明後日の方を見ながらルーミアは言った。その表情はすでに元の掴みどころのないそれへと戻っていた。辺りの空気も先ほどまでの重さを取り戻している。ひょっとすると初めから払われてなどおらず、全ては大妖精の気のせいだったのかもしれない。
「そうか……自己紹介が遅れた。私は上白沢慧音。貴女は名前はないんだったね。こっちの釣り竿は――」
「そいつと大ちゃんとは面識があるよ」
「大ちゃん? まあいいや。あまりいい気分のする場所ではないだろうが――特に空気と密な繋がりを持つ貴女には辛いだろうが――付いてくるといい」
慧音はそう言って踵を返し分かれ道の奥へ向かって歩き出す。釣り人が追随し、大妖精もその後を追う。大妖精はなぜルーミアが自分にこの場を見せようとしたのかはまだ分かっていなかったが、現状はルーミアに従っておくことがチルノのためにもなると思い――それはほとんど勘だったが――、人間二人へと付いて行くことにしたのだった。
一方ルーミアは三人とは別れて無縁塚のある方へと歩いて行った。
進めば進むほど空気は淀んでいく。
穢れともいうべき何かが辺りに満ち溢れていて、空気に高い感応性を持つ大妖精には、すでに辺りの空気が暗い紫色へと変じて見えるようになっていた。
慧音や釣り人にはその様は見えていないようなのだが、口数の少なさやその気配を見るに、見ることは出来ないにせよ感ずるものはあるのだろう。三人とも自ずと無言となっている。
そしてやがて周囲の森が少し開ける。
その開けた森の先はちょっとした崖になっていて、その壁面に洞窟らしきものが口を開いている。入口付近には桃の木がひっそり埋めてあって、また隅には塩と思しき白い粉が小さく盛られている。
「二つほど聞いていいだろうか?」
慧音は立ち止まると大妖精の方を振り向く。
「こんな詩に聞き覚えはない? 『蜂と並んで蜜を吸い 寝床にするのは桜草――』」
「『梟の歌が子守唄 蝙蝠に乗って空を飛び』、ですか?」
「知っているか……じゃあもう一つ。チルノの友だちと言ったね。彼女の――名前のつづりは分かるだろうか?」
――チルノちゃんの?
慧音は大妖精などよりずっと賢そうに見えるからそれが分からないということでもないのだろう。
だから質問の意図も目的も大妖精にはつかめなかったのだが、それでも慧音の目付きはいたって真面目なものだったから、大妖精は知っていることをありのままに答えた。
「『 Tirno 』ではないですか? どうしてそんなことを?」
「いや……何でもないよ」
歯切れの悪い口調でそう答えると慧音はうつむいた。何か考えごとをしているようである。
「やはりノタリコンか? ……スペリングを弄ったのはたぶんルーミアの奴なんだろうが……氷だからchillで『C』ってこと? ずいぶん安直な……いや、むしろ強固だったのか。今のあいつではその程度しか干渉できなかったということか」
「慧音さん?」
ぶつくさ言っている。どうも考え事に没頭すると独り言が増えるタイプであるらしい。
「というかあの短縮法はヘブライ文字でやらなければ意味がない気もするんだがなあ……まあ『 אָ מֵ ן 』をAmenと記してしまってもその意味は失われないのだから、そこは特に問題はないわけか」
「あ、あの――」
「ならあの名前そのものが結界ということか。この場合は封じるためのものではなく、守るためのもの……そうか、ひょっとして『因子』というのは『歴史』のことか? なるほど、選択肢を遺したということか。だからこの子にここを見せようとしたんだな」
ヒトの話を聞いてほしい――と大妖精は思う。
「それにしても……あいつが『L』を捨てたときと同じやり方を、チルノにも仕掛けていたのだとして……妖精が歴史を取り戻すか。なら私には促す理由も止める大義もないが、そうなったら妖怪の手には負えなくなる可能性もあるわね……」
「あの、慧音さん」
「先生、先生、なに言ってるかさっぱり分かりませんて」
それまで黙っていた釣り人も声をかけた。そういえばなぜ釣りに行くわけでもないのに竿を持っているのだろうか。
そしてその一言で慧音は我に返る。
「へ? ああ、ごめんなさい。どうも考え事を始めると周りが見えなくなってしまう癖があってね、すまない」
では覚悟を決めて行こうか、と何かをごまかすような調子で慧音は言い、洞窟の奥へと歩み入る。
大妖精もそれにならう。釣り人はしんがりでその後ろから付いてくる。
暗い洞窟の中は、外の比ではないほどに空気が淀み、滞っていた。
◇◆◇
今の時期の筍は旬が過ぎているからアク抜きをしなければ渋みが勝る――藤原妹紅はそんなようなことを考えつつ、迷いの竹林を早足で進んでいた。
竹は天を貫くように伸びて日の光をさえぎっている。まだ朝だというのに林の内は暗い。
先ほどから妹紅はそれとなく筍はありはしないかと探しているのだが、一向に見つからない。途中で先に竹林に踏み入っていった筍採りたちと出会ったのだが、彼らすでに結構な数を掘り当てていたようで、妹紅は密かに感心しているのだった。
この騒動が起きる前、八雲藍から何かを頼まれていたような気もしたのだが、あいにく忘れてしまった。それどころではない状況なのだし、守らねばならない義理も特にないから、あっさり妹紅は藍の事は頭から追い出してしまっている。
それより妹紅が気にしているのは、今日中に人里に帰ることができるのかという点だった。
今日向かうべき場所は永遠亭だけではなくて、他にもう一つ回っておくべき場所があるのだが、その場所への行き方がはっきりとしないのだ。どの程度の距離があるのか、往復に有する時間はどのくらいなのかといったこともさっぱりである。
それでも因幡てゐや八意永琳辺りであれば何か知っているだろうと見切りをつけて――というか勝手に当てにして――出発したのだが、彼女たちが妹紅の都合に見合った答えを知っているとは限らない。それに仮に知っていても、平素の行いがたたって何も教えてもらえない可能性もある。その場合は延期である。今日は竹林だけ回って大人しく帰ることになるのだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか目的地である永遠亭が近付いてきた。
竹林の最深部とも言うべき場所に永遠亭は位置している。この場所の存在を知っている者は幻想郷でもごくわずかしかいない。妹紅も何の因果か因幡てゐに誘われてたどり着くまでは、こんな場所のことはつゆ知らなかったのだ。それでたどり着いた先には積年の仇敵――ということに妹紅はしている――がいたのだからあの時は驚いたものだった。
檻のように連なる竹の向こうに見えるその屋敷は、大昔の日本家屋そのものではあるのだが、どこもかしくも全くと言っていいほど朽ちていない。
新しい――わけではない。
かといって古いということもない。
そもそも新古の概念は推移する時間を前提として存在するものなのだ。だがこの屋敷の時間は止まってしまっている。古いも新しいもない。ただ普通であれば須臾の長さしか持たない今という一瞬が、無量に積み重なって無限の厚みをなしている。過去も未来も関係はない。ここには『今』しかないのである。
時の凍り付いた屋敷――
「穢き所に、いかでか久しくおはせん……ふん」
一人そう呟くと外柵を飛び越え妹紅は檻の内へと踏み込む。
着地した先は広大な玉砂利の庭である。庭内は無人だ。静かである。
「……おい」
と思いきや、妹紅の頭の上にぽんと暖かい何かが乗った。
軽い。ふわふわとしている。
「下りてほしいんだが」
それは饅頭のように丸々とした兎だった。
それがただでさえ丸いというのにさらにご丁寧に丸まって妹紅の頭に乗っかっている。特等席と言わんばかりの態度である。物凄くぬくい。そしてどく気配はさらさら感じられない。
「ほら、いい子だから下りよう。な?」
聞き分けの悪い子どもを説得するようにして妹紅は自分の頭の上に乗った兎をぽんぽんとたたく。やはりどく気配はない。
「ううむ」
「曲者――ってアンタか。何やってんの?」
頭の上に兎を乗せた妹紅を駆けつけた鈴仙が発見し、呆れた顔でたずねた。鈴仙の本名は長くて珍妙であるため、妹紅は覚えていない。うどんだとか鯨飲だとか、そんなような名前だったはずである。
「今日は争う気はない」
「じゃあ素直に門から入ってきてよ」
「箸より重いものを持ったことがなくて門が開けられませんでしたのよ」
「嘘つけ。ていうかその子なんなのよ? 人質?」
鈴仙は不思議な形状をした耳をひくつかせた。
「違うってば。勝手に乗ってきたの。下りてくれないからこっちだって火が出せん。下ろせ」
「私の言うことはあんまり聞かないからなあ……」
渋々と鈴仙が近寄り妹紅の頭に手を伸ばすと、途端に兎は屋敷の中へと逃げた。
「……脱兎だな」
「ふんだ。で、今日は何の用事なのよ? 基本的に貴女は追い払えと言われているわ」
「まあ待て。今日は本当に争いに来たわけではない。ただ話したいことがあってね、輝夜か八意の奴はいる? というか絶対いるね。通せ」
「うーん」
「私の頭を抑えつける要石は去ったぞ? ちなみに竹の地下茎は地面をきちんと支えるから、竹林は地震の防災手段としては優秀よ」
慧音から聞いた蘊蓄を適当に傾けつつ、妹紅は指先から火を出して見せる。すると鈴仙は数歩下がる。
この兎は基本的に臆病なのだ。火をちらつかせれば大体は退く。八意永琳辺りの命令が下りていれば話は別だろうが、そうでないなら御すのはたやすい。
――もっとも
それはこの兎が自身の持つ力の使い方を知らないからである。妹紅の予測が正しければこの兎の持っている力は途轍もなく危険な代物だ。きちんと修練を積めば化けることだろう。
「と、とりあえずお師匠様に聞いてくるからアンタはここで待ってて」
「早くしろよー」
「うるさいなあ……ちゃんと大人しくしてなさいよ?」
幻想郷では珍しいタイプの、機能性が重視された衣服をはためかせ、鈴仙は邸内へと消えた。
そしてそれを待っていたのかどうかは知らないが、妹紅の周りに無数の兎が群がってくる。みな丸い。頭に乗る。肩に乗る。周りを跳ねる。
どうやら兎たちにとっては妹紅は遊び相手といった認識でしかないらしい。
「まったく、外は大事だというのに」
ため息をつくと妹紅はまんざらでもない表情で兎たちの相手を始めるのだった。
邸内に通された妹紅は、黒檀の机を挟んで蓬莱山輝夜と向き合った。
妹紅としてはてっきり従者の八意永琳が現れ、輝夜はいつものように御簾の裏から動かないものとばかり思っていたから少し意外である。
開かれた障子戸の向こうには庭と、その奥の竹林が見える。庭では兎がぴょんぴょん跳ねていて、相変わらず丸い。白玉のようだ。
「もちもち」
「何を言っているの? それで、本日はどういった要件かしら。争いに来たってわけでもないんでしょ?」
輝夜は普段通りののんびりとした口調である。
平素から妹紅は邸内に侵入しては建物を焼いたり輝夜に戦いを挑んだり――ついでに兎に餌をやったり永琳の下剤で腹下しになったり――していくのだが、その彼女に対してペースを崩すことなく悠然と向き合っていられるのだから大したものである。
手入れに苦労しそうな長い黒髪が畳に垂れている。それは乾いているはずなのに、まるで洗い髪のように艶がある。
妹紅は輝夜のことが基本的に嫌いだが、この髪だけは素直に綺麗だと思う。ただし口は心ほどに素直ではないので、綺麗という言葉が妹紅の口をついて出ることはない。
「外はいま面倒なことになっている。あんたも知ってるでしょ?」
「何かが暴れているらしいわね」
「『鬼』を冠するもの――つまり人間の天敵だ」
「人間の……でも妖怪たちも手をこまねいているのではないの? てゐからはそう聞いてるけど」
たしかに――いま現在妖怪たちはことごとく後手に回ってしまっている。
気配から判ずるにあの鎖を放った輩はそれほど年を経た存在ではないのだろうが、それでもこの場の妖怪たちはみな手出しができずにいた。
――あの霧だ……
あれが途轍もなく厄介なのだ。
あの霧の内に妖怪が踏み込めば、ものの数分であの鎖を受けたのと同じ状態に陥る。
人に関しては踏み入った者がいないから分からないが、妖怪でもそれしか持たないのだ。人間ならば絶命すると思っていいだろう。
ならば払ってしまえと思って妹紅は渾身の炎をぶつけてみたりもしたのだが――
――効かん。
火力が足りないということではおそらくない。そうではなくて、妹紅はうまく言い表すことができないのだが、力そのものが打ち消され無効化されている――そう感じるのだ。
他の力にしても同様で、その気になれば幻想郷そのものを壊滅させうるだけの力を持った存在が数多ありながらあの霧の内部に手出しが出来ないのはそのせいである。霧そのものが特殊なのか、それとも霧とは別の力が作用しているのか知れないが、ともかく手出しが出来ないのだ。
そんなことを考えていると、襖がすっとひらいて盆を持ったてゐが現れた。そして茶を二人の前に置きながら言う。
「雷公鞭と太極図みたいなもんかねえ、あの姉妹の関係は」
相変わらずの、幼さの中に老獪さが見え隠れする口調でてゐは言った。
「因幡、姉妹っていうのはどういうことだ?」
「あの十字架を伴って現れた輩の他に、同レベルの別個体がもう一体いるってこと。聞いての通りよ」
――もう一体だって?
「そいつはさる事情で敵さんのアジトからは出られないらしいから、守勢に回るだろうけどね。あとは名の無い悪魔が一匹。こいつはどうやら力自体は大したことはないようよ。とはいえ悪魔って種は悪知恵が回る。気を付けた方がいい。そんでもって、残りはみんなこっちにきてから取り込んだ急ごしらえの軍隊だね」
「てゐったらどこでそんな情報を仕入れて来るのかしら? そのライコウとかタイキョクとかいうのはなあに?」
「宝貝という――まあ姫様の難題アイテムみたいなものです。各々の詳しい効果は放っておくとして……雷公鞭というのは斯界においては最も強力だとも評される代物で、持主の方が全く使おうとしないので本当はどの程度の威力があるのか分かりませんが、形あるものならばその気質まで含めて完全に破壊し尽くすことができる――といわれています。でもって太極図の方はね、早い話が全ての宝貝を制御できるものなんだと思えばいい。本当はもっとえぐい使い方も出来るんだけど」
「全てを貫く矛と、それを唯一止められる盾とがあった――そういう感じ?」
輝夜は広げた掌を片方の指でもって突く仕草をした。
「そうそう。ただこの場合は止めるというより、そもそも振るわせないようにするんですけどね。いくら強大な武器だろうと、振るわせなければ脅威たり得ないということ」
「あの霧に攻撃が通じないのはそういうことか? だが……」
「心配しなくても、そのどちらもが力を完全に制御できてはいないそうよ。さすがにね、そんな力をそうホイホイ振るわれちゃ堪らん。そんなことになったらわたしゃとっくに逃げている。君子危うきに近寄らずってね」
「お前のどこが君子だ」
突っ込みを入れつつも、この兎はいったい何者なのだろうかと妹紅は内心でいぶかしむ。
おそらくは目の前の兎は妹紅や輝夜よりもさらに長く生きている身なのだろう。そうしたことは妹紅自身がそれなりに長く生きた身であるが故に良く分かる。
「ちなみに今の事態とは関係ないけど、雷公鞭と太極図は大本の持ち主は一緒よ」
「そうなの?」
「そうよ。太上老君というお方がその至宝ともいうべき二つの宝貝を両方所有してたの。大昔はね」
輝夜が好奇心を目に宿らせる。意外とそういうアイテムの類が好きなのであり、少々コレクターめいた一面も持っているのだ。
おかげで妹紅は本題を切り出しそびれてしまった。
「太上老君は――道教の最高神格の一つということになってますね、外界じゃ。崑崙、もしくは太清境にいらっしゃる……まあ要するに大陸のお偉い神様。『西遊記』は知ってる?」
お茶をふうふう冷ます輝夜にてゐが話しかける。
常々思っていたが永琳とてゐでは、輝夜に対する態度はずいぶんと異なっているように感じられる。付き合いが長いのは永琳の方なのだろうが、てゐの方が砕けてはいる。姉のようでもあり妹のようでもあり、また乳母のようでもある。
「大筋だけ」
「その冒頭でね、孫悟空は天に殴り込むのよ。与えられた称号が気に食わん、ってね。御釈迦様との賭けに負けて山に下敷きにされるもっと前のことです。でもってそこでナタ坊や二郎真君様らと散々ごと争って、暴れて、それで最終的には罰として火炉に投げ込まれて燻されることになった。太上老君てのはその火炉の製作者でもある。ちなみに八卦炉という。まあ仙桃や仙丹をたらふく食ってたあの猿は、結局死ななかったんだけど。後は知っての通り御釈迦様にのされて、三蔵様助けて~と話は続く」
「妹紅みたい。火では死なないのね」
「うるさいわね、輝夜」
「雷公鞭と太極図が威力を振るった一件は現在では『封神演義』という名で語り継がれている。もちろん細部は事実とは異なるけれどね。ナタ坊の奴や二郎真君様はこっちでも、いやむしろこっちの方が活躍している。乾坤圏と三尖刀がそれぞれのトレードマークさね」
美男子なのよ二郎真君様は――とてゐは付け足した。
「それはあれか? 藍の奴がまだ荒れていた頃の――」
そこまで妹紅が言ったところで、てゐは妹紅の喋りを止めるかのように掌を突き出した。
「……なんだ?」
「その話は知らずに語っていいことじゃないの。それにとんでもなく長くなる類の話でもある」
「藍の奴が昔暴れていたことぐらいは知っているが?」
「ふん、あんたが知ってるのはせいぜいあいつが王を惑わしただとか、姜子牙に嵌められただとか、その程度の話でしょう? 実態はそんな単純なもんじゃあないの」
突然不機嫌そうになったてゐは、手の付いていなかった妹紅の茶を奪うとそれを口に運んだ。
「ま、それは置いておきましょう。この騒動とはなんら関係ないしね。それよりさ――」
てゐが妹紅を見つめる。
「私は退出するから、そろそろ本題に入るといい」
無駄話をしてすまなかったわねと詫びると、てゐは輝夜の方に向って何か目配せをし、そそくさと退室した。
「妖怪は妖怪で独自にやるだろう。私がここに来たのは人里の件でだ」
置きっぱなしの盆に輝夜が空の茶碗を置いたところで、妹紅は本題を切り出した。
敵が吸血鬼――というより本気になった人外である以上は、人里はいずれ必ず攻撃の対象となる。人里は今そのための迎撃態勢を整えている最中なのである。ただ――
「とてもじゃないがそれでしのぎ切れるとは思えないし、子どもや老人をはじめ、戦う術を持たない者も多い」
「預かれ、ということかしら?」
「ええ。ここならばそう易々と敵は入って来られない。安全の度合いは里の避難所の比ではない」
「里以外に行き場所は?」
「現状では無い」
外の世界に逃げてはどうか――という声もないわけではない。
ただそれをすれば幻想郷の維持そのものが困難となるらしく、現状でそれはただの一つの案に留まっている。
人間というのは妖怪にくらべて幻想度合――妙な言葉である――とでもいうべきものが低いのだ。だからひとたび結界を飛び越え外へと出てしまうと、あっという間に外界の常識に呑み込まれて帰ってこられなくなる危険性が高い――のだそうだ。妹紅にはぴんとこない話だったのだが、ともあれ外の世界へ逃げるのは現状では困難なのである。
「そういうようなことを慧音が言ってた。だがね、これはいわゆる異変ではないの。ただの妖怪どうしの抗争なの。人里がそれに巻き込まれるいわれはない」
「私たちが巻き込まれるいわれもないけれどね」
「それは……お前たちだって外部との交流を断っているとはいえ、ここの住人じゃないのよ」
「そりゃそうだけど、でもそういうことを頼めるほど貴女の日ごろの行いはよくないでしょう? いっつも走り込んで来ては私にちょっかいを出す。屋敷を焦がす。イナバを誑かす」
「……だめ?」
やっぱりか、と内心で妹紅は思う。はじめから竹林がそう易々動くとは思わないようにと、慧音にも言ってあったのだ。
それは妹紅の永遠亭に対する素行があまり良くないので求心力がないというのもあるが、それ以前にそもそもこの屋敷はてゐと鈴仙と、あとは妹紅をのぞけば一切の他者の闖入を拒んでいた場所なのである。
「ねだるような顔をしないの。そうねえ、子どもたちだけなら預かってあげてもいいかな。大人はちょっと事情があって難しい」
「本当か?」
「ただし――それはあなた次第ね。人にものを頼むのならば、相応の作法というものがあるでしょう?」
そう言って輝夜はにっこりとほほ笑む。それで妹紅は彼女が何を言わんとしているのか悟った。
――そういうことね……
誠意を見せろということなのだ。
輝夜に対しそれをするのは妹紅としては正直かなり悔しいのだけれど、背に腹は何とやらである。私怨はこの際横に置いておくべきだ。
そっと妹紅は数歩ぶん後ろに下がり、座布団を降りる。
そして輝夜から見てよく見える場所に移動し、床に両の掌をついて――深々と土下座をした。
「どうか子どもたちを――」
「ちょっと!」
「わあ!?」
突然輝夜が大きな声を出し、妹紅もたじろいだ。
呆れ顔で輝夜は言う。
「もう、誰がそんなことしろって言ったのよ……」
「え? ええ? だって作法がどうのこうのって――」
「私はただお願いしますってふつうに頭を下げるように言ったの。そんなことは望んでいないわよ」
「なんだ、らしくない。お前にしたって、八意の奴にしたって、私たちのことは見下しているんじゃなかったの? 卑しき地上の民だって。えんがちょ」
「そんなのどうでもいいでしょ。土下座なんてらしくない。こっちが困ってしまうわ」
輝夜はふくれた。庭の兎のようである。丸っこい。
「すさまじ、すさまじ」
おそらく輝夜は興ざめだという意味で言っているのだろうが、言葉の選択が古い。
「あーあ、もう。罰として一首読みなさい」
「一首って――歌か? それこそ嫌よ」
「どうして?」
「そりゃ……その……」
恥ずかしいじゃない、と小さな声で妹紅は言った。
「そう? 貴女乱暴で絡みっぽいけど、歌はいいものを詠むじゃない」
「ともかくやだ」
「むー、詠みやがれ~」
「ちょっと、あんたまた変なもの読んだでしょ! 八意の奴が泣くわよ」
「いいから詠め~、この野郎~」
「だー、お嬢様がそんな口調しないの! もっと淑やかに!」
「あんたには言われたくない」
「ぐっ……」
返す言葉もないとはこのことである。
「ま、ともかく子どもたちは預かってあげるわ。うさぎたちのいい遊び相手になるでしょう」
「……ひょっとして因幡の奴の入れ知恵か?」
「提案と言いなさい。判断したのは私。永琳も――ちょっと渋ってたけど――承知している」
「お見通しだったってことか……じきに私の友人あたりが子どもたちを連れて来るわ」
輝夜、と妹紅は宿敵の名前を呼ぶ。その宿敵は、なあにと柔らか口ぶりで返した。
「感謝――するわ。本当に」
「そう思うんなら一首詠んでたも」
「やだ」
「……ふんだ、もういいわ。とっとと帰りなさい」
ふてくされた輝夜を置いて庭先に出ると、妹紅は呼び止められた。
声の主は永琳である。妹紅はこの輝夜の従者がどことなく苦手である。
何というか――計り知れないものをその背後に感じるのだ。絶対に敵に回してはいけないと本能が警告するのである(その割にはその主人にちょっかいを出すが)。
「これを持って行きなさい」
その正体不明の女性は筒状の物体を寄こした。
「なにこれ?」
「不思議な不思議な発煙筒。緋色の煙が出るようになっている。それをしかるべき場所で使いなさい。目印は付けておくから」
そう言うと永琳の右手に矢が、そして左手に弓が現れる。
そして謎だらけの薬師はその矢を空に向かって射る。飛びだした矢は白い光の尾を引きながら、東の空へと飛んでいった。
今の矢が目印ということなのだろう。妹紅はその飛び去っていった方角をしっかりと記憶した。
「緋色の雲は地震の宏観前兆――そして空にはそれを観測しているものがいる。この発煙筒はそれを呼び出してくれるわ。そいつらに目的地までの道案内を頼むといいでしょう」
永琳はにこりとほほ笑んだ。
「本当に何でもお見通しかい」
「まあ私は正直この状況にもさして興味はなかったから、てゐに感謝することね」
人里の外壁だけではとてもではないが防御にならない。幻想郷は空を飛ぶ妖怪が多いが、飛べないものもまたいるのだ。それらに対しては何らかの形でバリケードを築くことが里の防衛の第一歩となる。
そこで白羽の矢がたったのが――
――動いてくれるかしら、比那名居一族とやらは……
永琳に軽く礼をすると、妹紅は永遠亭を後にした。
妹紅が去った後の永遠亭――
鈴仙・優曇華院・イナバは師である永琳におずおずと話しかけた。
「よろしかったのですか、お師匠様」
「何が?」
「私の催眠術で預かった子どもたちから永遠亭に関する記憶を消去する――それはいいのですが、でもいったん催眠をかけてしまうと耐性が生じます。特に子どもの時分にそれをされると――」
「狂うことに慣れる――狂気に対する強い免疫が生じる」
「そうです」
「それで、何か困るの?」
笑みを絶やさず永琳は言った。
そう言われてしまうと鈴仙には返す言葉がない。
「心配症ねえ貴女は。どんなに足掻いたところで地上の人間の一生は儚い。私たちの脅威になるような者の生まれる余地はないわよ。それより――てゐ」
永琳がその名を呼ぶと、鈴仙の背後からてゐがひょっこりと顔を出した。鞠のようにして丸い兎をついている。
「何かの命令ですか? 私はここでのんびりしていたいわ」
「命令ではないわ。そうではなくて、貴女たち地上の兎にはしばし暇を出します。好きにやっていいわよ、雑用はウドンゲがやるから」
事もなげに鈴仙の意思は無視しつつ、永琳は言った。鈴仙は鈴仙で、兎たちがいようといまいと作業効率は実は大して変化しないと知っているから、ため息をつくばかりである。
「ふーん、じゃあしばらくぐうたらしてますよ。それにしても……藤原家の娘が、要石の比那名居一族のもとへ行くなんて。おまけに道案内は雷使いだわ」
「偶然てのはあるものね」
「二人とも何の話をしてるんです?」
鈴仙にはこの年長者――というレベルではおそらく済まないであろう――二人の会話が理解できなかった。
「ウドンゲ、なんで――覆水が盆に帰るこの屋敷を、あの子は焦がすことができるんだと思う?」
「え?」
そうして言われて見ると確かにおかしいのだ。この屋敷はまともな傷を付けることすら困難なはずなのである。輝夜の永遠の力が屋敷を守っているのだ。
「てゐは分かるかしら?」
「わたしゃよく分かりませんよ。ただ――あいつの炎は随分と『複合的な』代物みたいですが……カグツチやタケミカヅチだけなら分かるんだけど、いや、鳳凰もなんとなく分かるけど……なんでサクヤビメが絡んでいるのかねえ」
「私があのとき帝に渡した薬は富士の山で焼かれるはずだったそうよ。でもそうはならなかった。薬は行き方知れずになった。たぶん――何かあったんでしょうね、あの不尽の山で」
そう言うと永琳は遠くにそびえる妖怪の山を見上げた。
◇◆◇
霧の湖にほど近い森の中、射命丸文は仲間の天狗の少女と共に二人で測量の作業を行っていた。測っているのは敵の手により発生した霧の効果範囲である。すなわちどこまで近寄れるのかということだ。用いているのは河童たちがつくった器材である。
「ここが限界ラインみたいだね」
相方の少女が漏らす。文と同じ烏天狗である。基本的に烏天狗は機動力に優れるため、こうして敵に近寄るリスクを伴うような作業を任されることも存外に多いのだ。
「風が効かないわね……何なんだろう、この霧」
霧なのだから吹き飛ばしてしまえと扇を振るってみるも、それは中途で拡散してわずかに霧でできた球体の表面を揺らめかせるだけに留まっているのだった。
そして相方の少女は文の後ろへと下がる。
そこにはもう同行していたもう一人の天狗の少女と、その少女に縄で繋がれ立たされている赤い髪の少女。縄はところどころに札が巻き込まれている。。
「この霧は何? 答えなさい」
赤い髪の少女の首筋に扇が当てられる。
「わ、私は何も知りません。私は下っ端なのです。名もない小悪魔なのです」
赤髪の少女は震えた声でそう語る。目じりには少し涙が浮かんでいる。
この小悪魔とやらは先ほど森の中をうろうろしているところを捕縛したのである。特に抵抗することもなく――というかあっという間に降服し、縄に服したのだった。
見たところ魔力も低ければ態度も弱々しい。
――外れかもねえ……
「いいから質問に答えな」
相方の少女はなおも詰問する。
「あわわ、下っ端だから知らないんですよう。適当に雑用で雇われただけ――」
パン、と乾いた音が響く。相方の少女が小悪魔の頬を張ったのだ。
「い、痛い……」
「次は拳を握る。その次は脚でやる。それでも答えないなら――」
首に突き付けられていた扇が横に振るわれ、そこから生じた暴風が森の木々を幾本もなぎ倒す。この少女は天狗の中でも割と気荒な方なのだ。
「ほ、本当に知らないんですよう。乱暴しないで……」
なぎ倒された木々を見て、怯えた様子で小悪魔は言った。その鼻先には天狗の扇が付きつけられている。
「ちょっと、怯えているじゃないの。そのくらいにしときましょうよ」
「甘いって、文。普段とは違うんだ。こっちだって本気でことを構えないと。あの霧の中にどれだけ仲間がいると思ってるのさ」
「でもほら、尋問は私らの専門外だし、とりあえずは山に連れて行けばいいじゃない」
はっきり言って文はこういうのは苦手なのである。こういうことがしたくないから大人しく新聞を書いて、それで満足していたのに――
――なんでこんなことになってんのよ……
忌々しい。こんな状況は早めにどこかへ過ぎ去っていってほしい。
文は特に品行が良いわけでもなければ、骨柄に優れるということでもない。真面目ということでもないし、真剣に何かを貫き生きているのでもない。思うにそんな輩は幻想郷では稀である。みなそこそこに力を抜いて上手くやっているのだ。
――ただ
天狗は――文は組織というものに属す存在である。
そこではときに文自身の意思ではなく組織全体の意向に従って行動することを余儀なくされることはある。そのこと自体は文は特に気にはしない。面倒だなと思うことはあれ、そうした集団に従うというあり様については文の内に疑問はないのだ。麓の妖怪たちがどう思っているかは知らないが、そうやって自分の意思とは異なる別途の意思をもう一つ己の中に囲い込んで生きるというあり方それ自体は、何らおかしなことではない。
しかし組織の意思に従うことを貫きすぎると――真面目になってしまう。真面目になり過ぎてしまう。
その意向に従いすぎてしまうといったところだろうか。
文は実のところそういった部分で上手く組織と己との間に折り合いを付けられないでいる。己の中にある別途の意思――そればかりが肥大化し、それに自分自身が最適化してしまって、『射命丸文』という個体の性質がいったい己の内のどこにあるのか分からなくなってしまう時がある。
それはあまり良いことではない。
多少は心のどこかに不真面目な部分も残しておかないと、徹頭徹尾論理的で無駄のない行動ばかりとろうとしてしまう。無駄なものが――余興や娯楽といったものが下らなく感じてしまうようになるのだ。
以前半年ほどに渡ってそうした葛藤から新聞を書くことができなくなった時期があった。スランプという奴である。
何を書いても下らなく感じられる――そんなときがあったのだ。そのとき以来文の発行する新聞は、妙に事実というものに重きを置くスタイルへと移行した。
当時の文が何を思ってそういうスタイルを選んだのかはよく覚えていない。ただ、今となってはそれこそが『文々。新聞』の売りになっている。総じて天狗の中では評価は低いが、他方でそういうやり方もありだろうと言ってくれる者もいるのだし、ついでになぜだか人間への受けもそこそこだ。
そして無論のこと、記事の下地が事実であるというだけであって、後の内容は大方の天狗の新聞と同じく下らないものである。その下らなさこそが天狗の新聞の売りなのだ。
――だから
その下らなさを楽しめる心を忘れてはいけない。いつだって文は余裕でなくてはならないのだ。そのためにも――
――早く……早く新聞を書かないと。
書いていないと駄目なのだ。いつだって取るに足らない文章を書き綴って、ネタを追いかけて幻想郷を飛び回って、妖精をいじったり人間をかまったり――そうやっていないと文は文でいることが少しだけ難しくなる。
そして今は新聞を書くことなどできない状況なのだ。普段なにげなく綴って山伏の元へと持って行っていた、そんな新聞がいざ書けないとなると、心に風穴を穿ったような喪失感が生まれる。
禁断症状じみていると思い、文は苦笑いを浮かべてしまった。
――伝統の幻想ブン屋ですか……
文をそう呼んだのは椛だ。椛らしい、どことなく真面目なような力の抜けたような妙な二つ名だが、文は結構気に入っている。
「アンタ、本当に下っ端なわけ?」
とげとげしい口調で天狗の少女は言う。
「本当なんです。信じて下さい。私だっていきなりこんなことさせられて戸惑っているんですよう」
「ちぇ、ハズレかあ……まあいい。それでも知っていることはあるだろうから、山に付いたら洗いざらい白状してもらうわよ」
天狗の少女は小悪魔の鼻先から扇を離した。小悪魔はほっと肩を下ろしたようだ。
「念のためもう一度測っておきましょう」
そう言って文は霧の塊の方に向かって計器を向けたときだった。
――つらら?
数本の氷柱が文の前方の森の奥から飛んでくる。文は扇でもってそれを弾く。
――重い
切っ先は鋭く、加速も込められた魔力も十分である。当たれば痛いでは済まないだろう。それは立派な刃物というべき代物だった。
「チルノ――さん?」
森の奥からゆっくりと現れたのは文のお気に入りの氷精だった。
水晶のような羽がまばらに注ぐ木漏れ日を受けて仄かに輝いている。
身を包む服はいつもの青いそれではなく、黒と白を主とした凶服のようなものだ。森の暗がりの中でも浮かび上がって見えるのだから漆黒に近い。
いつものチルノはネタの提供元としても優秀だし、からかっても楽しい。それに文は子どもは嫌いではないから、単純に可愛らしいとも思っている。しかし――
――操られてますね。
普段の妖精らしいまっすぐな目は、今は暗く、光を失っている。
痛ましい――めったなことでは他人のことなど歯牙にもかけない文だが、あの無邪気で奔放なチルノがこのような有様になっているのはさすがに見ていて嫌だ。
そしてそこでようやく気が付く。
背後で捕らえられた小悪魔のそれと今のチルノの服とは、丈こそ違えどまったく同じデザインをしているのだ。
「やっと来てくれましたか」
後ろで小悪魔の声がした。
先ほどまでのおずおずした声とは全く違う――冷覚を刺激するような声。
「っ!」
とっさに文は横に飛び退く。相方の少女も文とは反対の方に退いた。
危険だ。ここまで露骨な害意を向けられたのは久しぶりだった。
文は距離をとり、チルノと小悪魔の双方を視界に捉えられるような位置に立つ。そのとき――
「嫌あぁっ!?」
少女の叫びが森にこだまする。小悪魔を捕縛していた天狗の少女の声だ。
苦しそうに手を抑えている。
その縄を握り締めていた手から、だらだらと血が滴っていた。無数のささくれ立った、針のようなものが肘から掌にかけての皮膚組織を突き破っている。そしてそれは――
――中から……生えてる?
幾本もの赤い氷柱――それがナイフのように皮膚を引き裂き生えているのだ。
「血を凍らせた?」
そんなことが可能なのだろうか。
肉体というのはその個体の力が最も強く作用する、一種の支配領域であると言っていい。その場所に無理やり干渉するなど相当な魔力が要請されることのはずだ。
――何か施されたか……
一方、気性の荒い方の天狗は掛け声とともにチルノに向けて扇を振るう。地面ごとえぐるかのような暴力的な風が吹いて、それがチルノのいた場所を根こそぎ破壊する。土煙が舞う。
だがその土煙が晴れたとき、そこにチルノの姿はなかった。
いつの間にかチルノは小悪魔を束縛する天狗をじっと見つめるようにして立っていた。文と相方の天狗との間――三匹の天狗の描く三角形の、その中心にチルノが立つ形となる。
そしてその左の手に、明らかに妖精のものとは思えない膨大な量の魔力が集まる。
また右手は何かを断ち切るような動作を為し、それにより小悪魔を縛っていた荒縄は断ち切られ地面に落ちた。
「疾っ!」
文の扇と、相方の少女の返し手での扇が同時に唸る。
それがチルノを挟み込む形でぶつかり、半ば爆発のような暴戻な風の奔流が生まれた。
森の土はめくれ返り、地に根を張る草たちや木陰に繁茂した地衣類だのも諸共に吹き飛ぶ。土煙が再び立ち込め、土くれや砂利がぱらぱらと辺りに注ぐ。
――やったか?
まだだ。土煙の向こうに二つの気配が顕然としてある。
「ただの一属性でもって敵に戦いを挑むなんて……」
小悪魔の声――
「私にはとても真似は出来ません……無知ゆえに勇猛、愚昧なるが故に果敢。敬意を表しますわ」
その言葉とともに小悪魔とチルノの姿が現れる。
文の隣で相方の少女がもう一人の仲間の名を叫ぶ。
その仲間はチルノの背後に『ある』。
十字架のような形をした巨大な氷塊の中に、当人もまた磔刑に処されたかのように身体で十字を描いて、天狗の少女は封じ込められている。片方の手の辺りの氷は赤が混じっている。先ほど流れた血だ。磔刑のために釘を打たれたかのようである。
天狗の魔力を抑え込むだけの氷を――魔力の緻密に行き渡った氷を、あの一瞬でチルノは生成したのだ。それは明らかに妖精の所業ではない。やはり何かを施されている。
「貴様っ!」
相方の天狗が叫ぶ。
一方チルノに施術を行ったと思しき小悪魔の周囲には、それぞれ色の異なった紋様が刻印された七冊の本が浮遊している。グリモワールというものだろう。その内の一冊はページが開いている。
「ふふ、東の国の鴉さんたち。魔法使いという種はご存知ですか? 私はその使い魔に過ぎないのですけど」
歌うような、あるいは甘く囁くような声――怪しく、魅了するような――
――いけない。
これは悪魔の問い掛けだ。
この少女はヒトを喰う。瞳の中にのぞき込んではならない無間の穴がある。声音の内に、傾聴してはならない魔性が籠っている。
話に付き合ったら――呑まれてしまう。本能的にそう感じた。
だが同時に何らかの方法で風が打ち消されたのも確かである。文はそれを探る。
「魔法使いとは、飽くなき探究心と怜悧にして熱心なる知への欲求を内に秘めるもの――歴世の叡智を食らい、また未踏の白雪が如き新たなる知の領域をも切り拓く、魔道の們にございます」
演説をするかのような小悪魔に対し、相方の天狗が動く。
かまいたちが小悪魔を襲う。だがそれは開かれたグリモワールに吸収されてしまう。
「くっ……」
「これは私のマスターが記した七つの属性にまつわる魔導書。私は見ての通り物凄く弱いし名前もない。道具頼みなのです。ちなみにいま開かれているのは風の書――貴女方の術はこのたった一冊の本に抑え込まれてしまっているわけですが」
慇懃無礼だ。文もそう云う態度を取ることはままあるから分かる。
ただ目の前の悪魔のそれは文のそれより、ずっと姦悪だ。嘲りと悪意とが滲み出ていて、それをちっとも隠そうとしていない。こいつは本当は嗤いたくて嗤いたくて仕方がないのだ。
「自分から種明かしか? 気に入らないな」
相方の少女が消える。文もそれに合わせて動く。
風が通じないのなら体術を用いる。セオリー通りである。文は相手の動きを止めるため、牽制の風を放つ。それ自体は本により無効化されるが、目的は足止めだ。
一瞬の後、相方の少女は小悪魔の背後から飛びかかる。蹴るつもりなのだ。衒いも何もないが、天狗のスピードをのせて放つそれは大岩を砕くほどの威力がある。
「ひゃあ!?」
わざとらしい悲鳴を上げて小悪魔は飛び退く。チルノもそれとなく下がる。
ギリギリのところで外れた蹴りは、そのまま地面に直撃し、クレーターのような波状の穴をその場に生み出した。
文もぼうっとしているわけではなく、同様に一足飛びに突進し、扇を持って小悪魔を打ち据えようとした。
そこにチルノが割って入る。
手先に氷を結集させ、盾をつくり、それでもって文の扇を受け止める。ただの氷だというのに、まるで鋼鉄を殴り付けたかのように手ごたえが重い。
そして文はそこから別の攻撃へと切り替えようとしたのだが、危険を感じていったん退く。
チルノの魔力の奔流を感じたのだ。捕捉されれば先ほどの仲間の二の舞である。血を凍らされ、内部から破壊されてしまう。
そうして距離を取って文と相方の天狗が並び立った時だった。
チルノの暗い青の瞳から、数粒の涙が滴る。
それは地と宙との間を彷徨い落ちていくさ中に、宝石のような小さな氷の欠片となり、大地に堕ちてはすうっと溶けて、土に消えていった。
小悪魔が跪く。そして嘆くようにしてその小さな手を取り語る。
「ああ、どうぞお泣きにならないで下さいまし。古来より私めのような道化の者は姫君の涙には弱いのです。ゲヘナの谷底に住まいし卑しき身の上なれば、そのような清らかな光を前にしては、身を焦がされ、地に蹲ることしか出来ないのでございます」
悪魔は妖精の少女に心酔しているように見える。
そして、幾度もの暴風により辺りは埃まみれだというのに、その少女の周りだけは不思議と――異常だと感じるほどに――空気が清廉だ。
だから文も隣の天狗も手が出せない。ここで手を出すことは、美しく狂気的な舞台劇を無粋なる酔漢が踏み躙るかの如くであると感じてしまう。
見とれてしまったのだ。
そして悪魔はなおも嘆願し続ける。妖精はなおも表情を変えることなく泣いている。
たくさんの宝石が、サファイアのような青の瞳より、生まれては大地に消え、生まれては大地に消え――
「苦しい……苦しい……どうか涙をお収めくださいませ。そのような美しい光輝でもって私をお焦がしにならないで。貴女様の涙は女を惑わす麗しの月長石。『嫉妬』に『強欲』、私に二つもの大罪を犯させる聖なる劇薬にございます。そのようなものは私にも、そしてあそこにおります黒鳥どもにも、勿体のうございます。どうかお納めくださいませ――」
艶めいた小悪魔の唇から流れ出る、やけに仰々しく、そしてわざとらしい言葉の数々――でも、それをおかしいと思うことが文には出来なくなりつつある。
呑まれてしまっている。ただ――
――こいつは危険だ……
気の奮って文は隣の天狗の名を呼ぶ。はっとするかのような声で、どうしたと彼女が言う。きっと彼女も呑まれていたのだ。観客になってしまっていたのだ。
「逃げましょう」
「え?」
「こいつは危険よ。いったん退いた方がいい」
今は組織の意思を尊重すべき時だ。下らないプライドで無謀を冒すべきではない。予定外の事態が発生した以上、即座に遁走するべきだったのだ。
「な、なに言ってんのさ! あいつは氷漬けにされちまったんだ。このまま引き下がれるか!」
待って――そう文が言う前に、天狗の少女は扇を振るっていた。
今までの風を凌ぐ、全力全霊の一撃――だが――
「本当に――無粋だわ。もっと、もっと、私に力があれば――嬲り殺してやりたい」
煙の向こうから、柔らかく穏やかな声でそんな台詞が発される。実に平淡な口調だ。だから――かえってぞくりとさせられる。
そして舞台効果のような煙が晴れる。
――え?
予期しなかった異質なフォルムが顕現する。
「天――使?」
冴え冴えとした冷気の霧が地を這い、急激に辺りの空気が冷え渡る。
――何よこれ?
小馬鹿にし、からかいつつもそれなりに好いていた氷精の背に、六枚の白く輝く氷の翼が生えていた。
水晶のようなあの可愛らしい羽ではない。風を受け、天空を羽ばたき飛翔するための大きな翼だ。
細かな一本一本の羽根の形が合わさって、熾烈に猛る炎を形そのままに凍らせたかのような、精緻で繊細な模様を描いている。
木々がなぎ倒されたことで、日の光は森に注ぐ。陽光の標を文たち天狗は作らされていたのだ。その光はその氷細工のような翼を淡く照らし、そして内にいっては霊光となって、虹の光沢をいくつもいくつもその中に生み出す。
神々しい――そう思った。
息を呑んで、今度こそ完全に見惚れた。
下の二枚は脚を隠し――
中の二枚は身体を隠し――
上の二枚は天に羽ばたき出でんとするかのように広げられ――
「聖なるかな……」
チルノが――否、チルノの形をした何かが、ぽつりと小さな声で漏らす。視線は地を向いていない。天を一線に見ている。
「聖なるかな、聖なるかな……」
そのか細い三度のリフレインを引き継いで、小悪魔が歌う。
「dominus deus sabaoth. pleni sunt caeli et terra gloria tua.」
そして小悪魔は密告をする間者のようにチルノに囁く。
「あれなるは聖絶すべき敵。彼の古の街の、カナンの民と同じく――打ち滅ぼし、天へと捧げるべき者共ですわ」
言い終わると小悪魔は銀の鎖の括りつけられた十字架を掲げた。
一瞬煌めく、鈍色の陰光――
「極東の――八百万の神々おわせし大八州が住人よ……蒼穹を自在に翔ける黒鳥たちよ……」
金色の目をした悪魔は語りかける。劇の幕際に観衆に語りかけ、喝采を求める道化師のように。
そして文はそこから目も耳も背けることができなくなっている。
「知ることです。貴女方が、天の八衢に立ち天上天下を照明する彼の神に連なる者であるように、妖精もまた古の神々や、あるいは天に仕えし御使いたちに連なる者であるのだと……」
悪魔が演じる舞台の幕は、まだ下りていない。動いてはいけない。口を開くのも駄目だ。一切の雑音も、紡ぐことは許されない。
「刮目してご覧なさい。地に在ってなお天にあるが如く輝く麗容を。貴女方は――神如き者の御前にいるのです」
結わえられていた鎖が小悪魔の細い指に絡まり、支えを失った十字架は宙を舞う。
鎖のしなる音と、どくんという何かの音――文の心音だ。
そして聖なる十字架は、逆様に吊り下げられた。
「あ……」
文の隣にいた天狗の少女が小さな声を上げる。
その腹に――澄んだ氷で作られた矢が刺さっていた。矢じりが体を貫通し、背からはみ出している。文にはそれがいつ放たれたのか分からなかった。
「ぐ……あ……」
苦悶の声をあげて天狗の少女は膝をつく。名前を呼んで、文はその肩に手を当てる。
血は不思議なことに一滴と流れていない。澄んだ氷は不浄の赤を拒んでいる。
その矢を生み出したと思しきチルノは、しかし少しも動いてはいなかった。ただ涙している。
その隣では小悪魔が楚々とした笑みを浮かべている。その笑顔だけをこの状況から切り出せば、それはきっと天使のような笑みに見えたのだろうが、しかし目の前では一匹の天狗が苦しみ蹲っている。だから――その笑みはこの上なく邪悪なものだ。これほど邪な笑みを文は知らない。天狗だってここまで狡猾ではない。
――こいつ……
小悪魔の肩は小刻みに震えている。
「………あはっ」
笑顔。花が咲くように可憐で、残忍な――
「あはははははっ」
こいつは楽しんでいるのだ。
この状況が、天狗の少女が傷つきひれ伏す様が、楽しくて、楽しくて――硝子を摺り合わすような不協和音じみた笑い声をあげているのだ。
狂っている。
悪徳と悦楽とが内で同義となっている。形は美しい少女のそれだが、こいつはこの上なく醜怪な、忌むべき存在なのだと文はようやく気が付いた。
文、と天狗の少女が苦しそうに呼ぶ。
「あんたが……正しかっ……逃げ……ろ」
矢から清冽な冷気が溢れだす。天狗の少女は残った力を振り絞って文を突き飛ばした。
そして矢を中心として、少女の身体は凍っていく。
天狗の装束が音を立てて凍る。先ほど蹴りを放った白い足が凍る。身体の周りに厚い氷の層が生まれていく。
「はや……く……」
言葉はそこで途切れた。声帯が凍結したのだ。そして次に瞬間には、彼女は足の先から頭蓋の頂点に至るまで、完全に氷の内へと呑まれた。
そしてそのあまりの状況に、ほんの一瞬文は対応が遅れた。それが失策となる。
ここから離脱するべく飛び上がったところで、文の目の前で突如として爆発が起こった。
「がっ!?」
それで文は吹き飛ばされ、腐葉土の上に倒れ込む。
――バラ?
文が爆発だと思ったそれは、よくよく見れば魔力が波状に拡散したものなのだった。
ただその形が歪で、かつ拡散時のエネルギーが極めて強かったから、爆発のように感じられたのだ。
青とオレンジの、バラ状の残光。しかし一方でそれは、ただ単に何かのインクを適当に紙に垂らしただけであるようにも見えて――
その次に文の目に飛び込んできたのは眩いばかりの閃光だった。
目が眩む。身体へのダメージこそないが、まるで太陽光を一点にかき集めたかのような光を照射され、一時的に視界が奪われる。
ともかく離脱しなければと思い、上空へと飛び上がろうとするが、またしても背後で爆発が起こり、再び弾き飛ばされる。黒い羽根が森に舞う。
――どこだ?
どこから撃ってきている?
いつの間にか上空には文の飛翔を抑止するかのように、青とオレンジの光球がびっしりと漂っている。それらは一つ一つは小さいが、触れればあのバラ状の爆発が起きるのだ。さらにあれだけ敷き詰めてあれば、誘爆により深刻なダメージをうけることもあり得る。
また森の内部にも同様の光球が浮遊している。ただしこちらは密度はそれほどでもない。文の風が場に影響を及ぼしているからだろうか。
ただ――何にせよ離脱は困難だ。この場所は閉鎖されてしまっている。つまり、それらを生成している敵を何としてでも文は倒さなければならないのだ。先ほどから文に向かって放たれている弾丸の質を見るに、それと上空の光球は同一の敵による産物なのだろう。
そいつを止めるのが脱出への条件である。いったんこの状況を脱してしまえば、絶対に相手は自分の足には付いて来られないという自信が文にはあった。
だから奪われた視界の中、文は空気のわずかな揺らぎを頼りに、必死で攻撃を避ける。並の妖怪であればとっくに倒れるか諦めるかしている状況だが、文は諦めない。
弾が放たれた方角に向け風を撃ち込む。さらに竜巻を起こし空に漂う光球を排除しようとする。
だがそれらはいくら落としてもすぐさま復活する。要するに術者に文の攻撃が届いていないのだ。
そして文は奇妙な点に気が付く。
――気配が……無い……?
こちらに容赦なく攻撃を仕掛けてきているというのに、攻撃意思のようなものがまったく感じられないのだ。
少しずつ視界は回復していくが、目に映るのはチルノと小悪魔だけだ。その二人はほぼ動いていない。チルノは攻撃の余波から小悪魔を守っているようであり、また氷漬けになった二体の天狗もいつの間にかその後ろにやられている。持ち去るつもりなのだろう。
そして小悪魔の方は、冷笑を浮かべながら文を見ている。動くまでもないということか? 腹は立つが、しかしその余裕につけ込む方が賢明だ。ともかく今は逃げるのが先決である。
だが、文はさらなる異変に気が付く。
居どころの知れない敵からの攻撃は、文の予期しなかったような場所から放たれている。それを避けるにあたって重要な意味をもっていた要素――音。
それが消えた。
弾は相も変わらず容赦なく飛来しているというのに、その発射音も着弾音も一切聞こえなくなったのだ。耳に入ってくるのは文自身の呼吸と拍動の音のみである。
「――――」
声が音にならない。確かに喉を振るわせ空気を発したのに、何も聞こえない。
そして弾丸は止まない。爆発が森をさらに削る。
それでも炸裂音すら聞こえない。喧騒に伴っているべき音声が、しかしまったく聞こえないから、それは強烈な違和感となる。感覚が狂う。
音もなく、姿もなく、気配もない――
そのような状況下で文が辛うじて攻撃を避け続けることが出来ているのは、ひとえに文自身の戦闘の才によるものだった。
「貴女はなかなかいいですね」
しばらくして小悪魔がすっと手をかざした。
するとそれを合図にしたかのように、攻撃がぴたりと止み、辺りの音も戻ってきた。ただし浮遊する光球はそのままである。逃がす気はないということだろう。
「いい?」
慎重に、相手の出方を探りながら文は問う。まだ諦めてはいない。脱出の機をうかがっている。
「ええ。先ほどこちらの天狗さんが仰いましたね。遊びではない、と。それには同意です。まあ私はそこそこ楽しんでいますが、しかし貴女方はもっと冷酷かつ狡猾でいなければならなかった。それが出来ないから――こうやって私なんかに後れを取る。私の実力など貴女たちの足元にも及ばないというのに。その点貴女様はなかなか良かったと申し上げているのです。文さん、と言いましたか? こちらの二人を凌ぐ実力を有しながら――貴女は真っ先に逃げようとした。意地やプライドより、貴女方の背後にある組織の利を選んだ。冷静ですわ」
なぜ山の組織のことを知っている?
「ふふ、これこれ。私どもの図書館には書物を勝手にかき集めて来るという欲張りな機能が付いていましてね、それでこちらに来てからこんなものが流れついた」
一冊の和綴じの本を小悪魔が見せる。
『幻想郷縁起』――第八巻。先代の御阿礼の子、阿弥の代のものである。書き手の名前が一緒だったからか、文にとっては少し印象に残っている書物だ。
「それでね、一つ提案なのです。私たちに協力する気、ありません?」
人差し指を顎に当てて小悪魔はそう提案する。
「貴女のような方がこちらに付いてくれれば、これは実に心強いものがあります。例えば――このまま間諜として妖怪の山とやらに帰って頂くとか」
「スパイってこと?」
「そうです。約束して下さればこの場は引き下がります。私は貴女をうっかり取り逃がしてしまった、貴女は仲間を失いつつも辛くも逃げおおせた――そういうことにして、ね」
これはもしかすると好機かもしれないと文は思った。
「こちらとしては貴女が妙な行動を起こさないよう一定の契約を結ばせては頂きますが、それ意外は特に条件はございません。ただ時おりお仲間の目を盗んでこちらに情報を提供していただければそれで結構ですわ」
「悪くないけど、こちらからも条件を一つ提案したいわね」
「何でしょうか? 極力便宜は図りますよ。貴女は大変優秀ですので、是非こちらに欲しい」
「後ろのその子たちも含めた、山の妖怪たち――それらに危害を加えないこと。それがじょ――」
条件――というその言葉を継ぐことが、文には出来なかった。
胸元の、肺の辺りに歪な感触がある。
――紅?
赤い色をした何かが文の目に映って――
「あ……」
鎖――
あの満月の晩に放たれた赤の鎖――それと同じものが自分の胸に刺さっていた。
「嘘……なんで……?」
――そんな
何もなかったはずの空間から、鎖が伸びていた。そしてその根元にすうっと一冊の本の姿が浮かび上がる。鎖はその本の開かれたページから伸びているのだ。文はその本と繋がっている。
その本の両脇には小さな指が添えられている。持主の姿は見えないが、しかし誰かがその本を手にしているのだ。
三日月のように小悪魔の口が割ける。ひずんだ笑顔と、こちらを見下す冷たい目。
「ほんとに素直ですねえ。なに真面目に敵の話なんかに付き合っているのです? 元寇の頃から変わっていませんね。問答などせずただ排撃することだけを考えればいいのに……言ったでしょう、狡猾になれって。私などは足元にも及ばないだけの実力をもちながら――その素直さが命取りですわ。こちらを出し抜こうと画策していることだって、ちっとも隠せていない」
そして――何かが鎖を通じて文の中に流れ込んでくる。
「……やめ…………て」
体中の体液をそっくり入れ替えられてしまうような、そんな奇妙な感覚が文を襲う。
痛みはない。血も流れない。かわりに体内で幾千の虫が這いずり回るかのような不快感と忌避感とが文の心を蝕む。
膝が笑う。鎖で支えられ辛うじて立っているだけになる。
少しずつ――射命丸文は射命丸文ではない何かへと変じていく。それが分かるから、そして妖怪は精神への攻撃には脆いから――
――嫌だ!
久しく忘れていた恐怖という名の感情を、文は思い出す。
何か、文の内にある譲ることのできない思いのようなものが、容赦なく蹂躙され、冒涜されていくような――そんな喪失感にも似た感覚が全身に広がっていく。
――私は……私で……
文は文でいたいのだ。だから大して受けも良くない新聞をつらつら書いて、組織と自己との間の境界線をさぐり続けて暮らしていたのに――その自己というものがどんどん侵食されて消えかかっている。
「私のマスターも大概お嬢様のことが好きでしてね、わざわざこうやってその力の一部を本にしてしまったのです。妬けてしまいますわ」
小悪魔はそう言って文の方へと近寄り、その顔をのぞき込んだ。
「私が相手で良かったですねえ。これが、例えばアスモデウス公辺りであればどうなっていたことやら……ふふ、きっと『色欲』の荒海に堕とされていたことでしょう。あ、でもそれはそれで見てみたい気もしますねー……私がやってしまおうか?」
冗談ですけどね、と小悪魔は笑う。
だが文にはもうほとんど小悪魔の言葉は届いていない。侵蝕に抗うことで精一杯なのだ。
「意外ともちますねえ……やっぱり東洋の方は精神が強靭なのです。早く堕ちてしまえば楽になれるというのに」
本がもう一冊、現れる。
「あ……」
「ふふ、抗うのでしたらもう一本いっておきましょう」
小悪魔が離れると、ページがゆっくりと開いた。
そしてそこから現れた鎖が蛇のようにうねり、文の右の肩に繋がる。
浸食がさらに加速する。どくどくと、異質な情報が内に流れ込んでくる。
「『月が泣くと花も一輪残らず涙を流す』」
何かの舞台劇のものと思しき台詞を小悪魔は語る。
「『きっとどこかで乙女が穢された』」
目を閉じて、可憐に、朗らかに歌っている。
――もう……
限界だ――そう思った。
だから文は最後の力を振り絞って、いまだ手放してはいなかった扇を振るう。
鎖を受ける前に操っていたような威力は出なかったが、それでもそれは小さな鎌鼬を生み、小悪魔の頬に一筋の切り傷を刻んだ。
そこから少しだけ血が流れる。
ただ、それを確認する前に射命丸文の意識は闇に消えた。
気を失いぐったりとした文から鎖が抜かれると、そのまま彼女は森に倒れ込んだ。
頬の傷から流れ出た血を指でぬぐいつつ、小悪魔はそれを見下ろす。
チルノの羽はいつの間にか元の水晶のようなそれに戻っていた。そしてその向こうから、同じような目をした妖怪が現れる。朱鷺のような羽が特徴的な少女である。
「貴女は――読書家で頭もそこそこ切れるようですから、この三人の処理をお願いします」
朱鷺の羽の少女はこくりと頷いた。
「それと――もう現れてもいいですよ、三人とも」
小悪魔がそう言うと、誰もいなかったはずの森の中に三人の小さな人影が浮かび上がった。
最初霊体のように半透明だったそれは、徐々にその姿を明瞭にしていって、やがては完全に立ち現れる。
三人のうちの二体は妖精である。
「ご苦労さま、サニーさん。ルナさん」
光を屈折させる日の妖精と音を消し去る月の妖精、サニーミルクとルナチャイルド。
そして残りの一人――金色のリボンがあしらわれた黒の帽子に、淡い水色の髪。そして身体に巻きつく奇妙な管と、そこに付いている閉ざされた瞳。
「無意識で行動するなんて……非常識ですが、素晴らしい逸材なのです」
そう言うと小悪魔は少女――古明地こいしの頭を優しくなでた。
辺りを取り囲んでいた光球も、文を攻撃していた弾丸も、彼女が生み出したものだった。
「では、私とチルノさんは人里へ参りましょう。貴女がた三人は指示通り冥界へ」
そして小悪魔は不敵な笑みを浮かべると、冥界があるであろう方角の空を仰ぎ見た。
「姿もなく、音もなく、気配すらもない刺客――退けられるかしら? 西行寺幽々子お嬢様」
次なる小悪魔の獲物は、人間の天敵中の天敵である。
サニーとルナ、そしてこいしはふわりと空に浮かび上がると、再び姿と気配を消し、桜花結界の方角に向かって飛び去った。
「さて――」
そこまでして、ようやく小悪魔は肩の力を抜いた。
「あー、怖かった」
この戦いに関し、自身に振られた役回りは悪役である。そのことを小悪魔は承知していた。
「ここに美鈴さんはいないですからね……」
霧の方角――紅魔館の方を小悪魔は見つめ、そして片手を身体の前に出して給仕の様に丁寧に礼をした。
「お嬢様方は――正々堂々戦って下さいまし。汚い役回りはすべて私が引き受けますから」
静かに、そして凛然として、そう宣言する。
誰に言うということもなく、ただ己自身に言い聞かせるようにして――名無しの小悪魔は新たに決意を固めるのだった。
* * *
「これから話す内容は隣の世界の、それも『人間の文化』にまつわる事柄を多く含んだものとなりますが――」
そう前口上を述べると、サリエルはその開かれているのか閉じられているのか判然としない目でもって、アリスの方を見た。
そのアリスはと言えば、どこから取り出したか一体の人形を膝の上に置いて、行儀良く茶会の椅子に座っている。その二人をのぞいた茶会のメンバーはみな人形で、周囲は鬱蒼とした森である。
「そうしたものと、いわゆる幻想と呼ばれる存在たちは、切っても切れない密接な関係を持っている――貴女も承知のことかと思います」
これから始まるのは妖精の話である。アリスの知らない妖精の側面についてこの堕天使は語ろうとしている。それがアリスの好奇心を刺激している。
「そもそもfairyという言葉の語源はラテン語のfatum――運命だとか宿命、あるいは少しネガティブに悪運や死といった意味を持つ語です。つまり英語におけるfate、フランス語におけるfayですね。fairyという言葉を最初に用いたのはルネサンス期イギリスの詩人エドマンド・スペンサーですが――彼はライフワークとも言うべき未完の叙事詩『妖精の女王』においてこう主張しています。イギリス王室の祖は妖精王オーベロンであり、イギリスは妖精の王国であると。タイトルになった妖精の女王というのはときの英国の女王、エリザベス一世に対する賛辞ですね」
神綺は特に魔界以外の世界に関する情報の取り扱いについて規制をかけるようなことはしないので、魔界の住人からしてみると隣の世界というのはまったく字義どおりに隣の世界でしかなかったりするのだ。だからイギリスと言えばあの国かとアリスもすぐに思い浮かべることができる。
「王家の祖が妖精? でも……」
「どうかしましたか?」
「そういうお話って言ってみれば王室に『箔を付ける』ために語られる――のではないのですか?」
「妖精では大したステータスにはならないと?」
「そうです。でも――そうした認識こそが間違っているということ?」
「間違っているとは言いません。実際のところ妖精たちというのは陽気で呑気で悪戯好きな――そうですね、なんというか重さのない存在ではありますよ、それ自体はね。ただ先ほど言ったとおり、それは運命や宿命といったものと無縁ではなく、様々な習慣や儀式、祭礼等にも関わってくる存在でもありました。まあ端折って言うとね、キリスト教が広まる以前の古き欧州の神々こそが妖精の原点ということなの」
「北欧とか?」
「そう。北欧ではエルフですね。エルフとフェアリーの違いを話すとまた面倒なことになるので、とりあえず同じようなものであると思ってもらって結構です。ともあれ――そうした人々の古き神々への想いは、一神教であるキリスト教の隆盛以降も民間信仰という形でなお残存し、やがてそれは形を変え我々の知る妖精の姿となっていくのです。スペンサーがイギリスを妖精の国としたのは、そう語るに足るだけの神性を妖精が有していたからに他なりません。幼きアーサー王に力を与えたのも、彼に剣を授けたのもエルフですし、また彼が去っていったアヴァロンは海の向こうの妖精の国です。イギリスは妖精の国――それはスペンサー流の最高の賛辞だった」
この堕天使がアドナイをどう思っているのかについてアリスは少し興味を抱いたが、今の話とは関係なさそうなのでそれをたずねることはしない。
「例えばケルト神話では、アイルランドへと人間が流入してくる以前には、ダーナ神族と呼ばれる神々がそこに住んでいたのだとされます。彼らは昼と光と知恵にまつわる美しき神々でしたが、人間との戦いには敗れてしまう。その後彼らは海の彼方や地の底へと逃れ、そこに新たな理想郷とも言うべき国を築き上げ、やがて少しずつ忘れられ縮小し、妖精へと変化していった。ここで言う妖精はシーといいます。ほら、バンシーっていう死を予告する妖精がいるでしょう? あのシーです。シーには嵐という意味もありますけどね」
「海の彼方……」
「ティル・ナ・ノーグ――年を取らず傷付かず、苦しみも無ければ、堕落や醜さも知らない常若の国。あ、ついでにエールが飲み放題だったり」
「エールって?」
「上層発酵のビールのことですよ。最近の主流はラガーのようですが……先ほどちらりと名の出たオーベロンですが、彼はギリシャ神話における冥府の神ハーデースとも関わりがあります。『カンタベリ物語』ではそのものずばりプルートと呼ばれていますしね。またその妃ティターニアに至っては、よりギリシャの神々とのかかわり合いは密です。ティターニアというのはね、『ティターンの娘』という意味よ」
「ティターンって――オリンポスの神々以前に存在していた巨神たち? あの巨神戦争――ティタノマキアの」
「そうそう、最高神ゼウスより以前に存在していた神々です。ガイアの子どもたちですね。日本神話で言うところのイザナミ・イザナギ以前の、神世七代くらいのポジションの方々でしょうか? タイタンとも言う」
その名を冠した船は氷山にぶつかり沈没してしまったのだそうだ。
無理もないとアリスは思う。タイタンたちは神話に従うならば、ゼウスとの戦争の果てに奈落タルタロスへと突き落とされた身なのだ。船に与える名としてそれは到底相応しいものではないだろう。
「ところでアリス、どうして妖精には羽が生えているのだと思います?」
「え?」
――羽が生えている理由?
考えたこともなかった。言われて振り返ってみると、アリスの中において妖精に羽という組み合わせは分かちがたく結びついている。あって当然といった認識なのである。
だからそう問われることは人間にはなぜ腕が付いているのかと訊かれるようなものだ。機能の側面などから答えることはもちろん可能ではあるのだろうが、どうもサリエルの期待している回答がそういう味気のないものであるとも思えなかった。
「鳥や虫からの連想で――」
そう言いかけてアリスははたと疑問を抱く。
今までの話は一体どこまでが事実で、どこまでが作り事だったのか――それが分からなくなった。
神話、叙事詩、物語――サリエルはそういったものの話をしている。何気なくふんふんと聞いてはいたが、考えてみればそれらは全て『そう語り伝えられているだけ』という一言で済ませてしまうことも可能ではあるのだ。身も蓋もない言い方をするのなら、全てが嘘であると退けてしまうこともできるのである。
――いや……
それは隣の世界の常識だ。
現にここには魔法がある。この森を出れば絶対的な力を持つ創造神がいる。
――でも……
そもそも隣の世界の話をしているのである。
「どうかしましたか?」
「いえ……なんでもありません。それでどうして羽が付いているの?」
「ヒントをあげましょう。羽と言われて真っ先に貴女が連想するものは何かしら? 今まさに貴女の見える範囲にあるもので」
――今まさに?
この森に鳥や虫はいない。羽の生えている存在はいない。穏やかな顔をしてアリスの対面に座る女性をのぞいては。
その背には六枚の――
「ひょっとして――天使? 妖精は天使なの?」
「正確に言うと元、ですね。堕天使が変化したもの。妖精はまたそうしたものに連なる存在でもあるのです。堕天使のうち、最後の審判の日まで天と地の狭間にてさまようことを運命づけられた者たちのなれの果ての姿――これを妖精とする場合もあるのです。というより古き神々とキリスト教における御使いの概念が合わさったのですね。だからある意味では妖精は西洋における幻想の、一つの到達点であるともいえます。まあなれの果てという言い方も出来ますが、それはものは言いようということで」
――なんかおかしいわ……
それは厳格な一神教であるキリスト教の台頭により、もとから各土地に存在していたアニミズム的な世界観が退けられてしまったということなのだろう。
だが――それはいかにも『人間が話しそうな』内容の話である。そのような言葉を持って幻想の存在を語って良いものなのだろうか? どうにもそこに違和感を禁じえない。
そのアリスの感じている違和感を知ってか知らずか、サリエルはそのまま話を続ける。
「さて――そうした大仰な来歴に違わぬ強力な力を秘めた妖精も数多い。先ほどのオーベロンでしたらものの数秒で欧州を駆け抜けていく。その従者で悪戯好きのパックならわずか四十分で地球にリボンを巻く。それにシェイクスピアの『テンペスト』に見られる空気の精アリエル――彼女はナポリの王室の者たちが乗る船を嵐で沈めた揚句、乗っていた人間は全員無人島まで吹き飛ばしてしまいました。それもまったくの無傷でね」
「ち、ちょっと待って、サリエル様!」
たまらずアリスは叫んでしまう。
「なにか?」
「それは――たしかに凄いですけど、でも……作り話でしょう? 後世の人間たちの考えたフィクションなの。だいたい今サリエル様の語られた内容を考えるのなら、キリスト教以前の古い時代の神話が、一神教のキリスト教と習合し、そうして土俗の神々が矮小化することで今の妖精の姿が生まれたということでしょう? あの羽はある意味キリスト教とそれ以外の宗教とが妥協点を探った結果として現れた。つまり――ああ、なに言いたいかわかんない! ややこしい! ともかく――」
ついつい語気が荒くなってしまうが、これは怒っているということではなくて真理を求めるが故のもどかしさである。アリスの根底にあるのは怜悧な探究心なのだが、ただ表に出るときそれは結局は子どもが駄々をこねるような態度になってしまうのだ。
「民俗学、文化人類学、宗教学、歴史学、神学、文学――あと何があるかしら? ともかくサリエル様が語ったのはそういう領域のお話なの。お隣の――神を忘れた世界の人間たちだってそのぐらいのことは言うのではないですか? でもそうした学問……いいえ、学問も関係ない。要するに隣の世界の人たちの『妖精観の変遷』をサリエル様は語っているのであって――それは全然『真実の妖精の姿』とは関係がないんじゃないですか? 第一次的な情報と、後から新たに付加された二次的情報が同列で扱われている。フィクションとノンフィクションが同じレベルで語られてしまってる」
「卵が先か鶏が先か――」
興奮するアリスの言葉を制するようにサリエルは言った。その短い言葉だけでアリスはたじろいでしまう。言葉に力がある。
「貴女の疑問点はそこね?」
「そうです。今サリエル様が語られた内容を他のことにも当てはめていったら――究極的には神は人間の想像力が生み出したのだということになってしまうはずです。でも――それは違うんでしょう?」
「違いますね。主は燦然として、天におわします。昔も今も、後の世も。貴女の神様だって、隣でうんうん唸りながら会議をまとめているはずですしね」
「なら――」
「ふふ、そういう話は貴女のママの方がずっと――いいえ、遥かに強いですよ? 気になるのであればたずねてごらんなさい。創世にまつわる神秘を、夕飯の献立でも語るかのように事も無げに教えてくれることでしょう」
そう言うとサリエルは席を立った。
「お帰りですか?」
「ええ。次に来たときは紅茶を分けて下さいな。とってもいい香りで、気に行っちゃった」
穏やかな笑みを浮かべると、死と月とに関わる堕天使はアリスに背を向け、森の奥へと消えていった。
アリスは自ら創った簡素な世界に一人になる。
「物語と真実……主観と客観……アツィルトとアッシャー」
静寂に包まれた森にその呟く声だけが響く。
「現象世界と精神世界……想像と創造……あー、わかんないわ。私にはまだ荷が重い」
いくら考えても答えが見つけられそうにないから、アリスはため息を一つついてあきらめる。余っていた紅茶を呷る。長いこと放置していたからすっかり冷めてしまっていた。
神綺なら分かるとサリエルは言っていたが、その神綺の話をアリスが理解できるのかどうかまでは分からない。とりあえずたずねてみようとは思うが――言った通りまだ荷は重いのかもしれない。
「シャンハイ、そろそろ会議も終わるかな?」
知恵熱を患ったような顔でアリスは膝に乗せた女の子の人形に話しかけた。反応はない。人形なのだから当然だ。
そしてアリスはテーブルクロスの上にお気に入りのグリモワールを置くと、それに向かって『鍵』となる呪文を唱えた。
するとグリモワールを封印していた十字の帯が発光し、消える。
「この世界はひとまずここまで」
アリスは解放されたグリモワールをぱらぱらとめくる。
途端に――周囲の風景が陽炎のように揺らぐ。木も大地も空も、油彩画を油を這わせたかのごとく溶けていく。
「戻りなさい」
アリスが呟くと、嵐のような強風がどこからともなく吹いた。
アリスと上海人形の、似通った金色の髪が踊る。
溶け出し霧のようになった世界の構成物質を風がさらっていく。
やがてそれらは混然一体となり、七色の渦となってグリモワールの頭上へと集まっていった。
「サリエル様ももう少し待ってくださればちゃんと案内できたのに」
そう漏らすアリスの眼前では、小さな世界の全てが混じり合った渾沌がグリモワールの中へと吸い込まれていく。
森だったもの、空だったもの、水だったもの――それら何もかもが一冊の本の中に消えていく。
そうして全てが呑み込まれ風も止んだとき、そこにあるのは普通の可愛らしい女の子の部屋だった。
ぬいぐるみだの小物だのがそこかしこに飾ってあり、本棚には無数のグリモワールが納まっている。アリスの自室である。テーブルも消えて残っているのはアリスと上海の座った椅子だけだ。
そして支えのテーブルを失い宙に浮かんでいたグリモワールは静かに閉じ、元の十字の帯と鍵穴により封がなされた。
アリスは立ち上がると上海人形を椅子の上に丁寧に座らせる。
「おやすみ、シャンハイ」
そう言うとアリス・マーガトロイドは不思議の国が納まった魔法の本を携え、部屋を後にするのだった。
(続く)
次回がどうなるのかが楽しみですね。
ちょっと疑問ですが、こいしってこの時期に地上にいたんでしょうかね?
基本的にこいしが地霊殿以前にどんなことをしていたかが
解りませんからねぇ……。地下にいたのか地上を無意識に彷徨っていたのか。
誤字の報告
>とはいえ悪魔って種は悪知恵が回る。気の付けた方がいい。
気を付けた方がいい。ではないでしょうか?
どうしてこうも色々な設定を思いついて且つ破綻なく組み込めるのか。多分私が気付いていない複線やら設定やらもまだまだあるとは思いますが、キャラの設定についての繋がりや、元ネタについて気付くたび、よく考えられるものだと感心させられました。あんまり影響受けすぎてこれから東方の世界観をごんじりさんverでしか書けなくなってしまいそうなんですが、どうしたらいいんでしょうか。大好きです。
感想は書き込みきれないくらいにあるんですが、あんまりだらだら書いても迷惑なのでここらで止めときます。ごんじりさんに最高の感謝と賛辞を! 貴方の作品に出会えたことは自分の中でとても大きなことです。随所に散りばめられた複線や過去話についても別に書いて下さるようですし、今から震えが止まりません。これからも楽しみにしています!!
ここから結末までどうやって収束していくのか楽しみで仕方ありません。
・・・すみません。褒め言葉ですので気にしないで下さい。
魔力による支配をここまで無差別に行う
友や家族がこのような目に遭い、自分たちと敵対させられた
妖怪だろうと人間だろうと許せる奴はいない
死人がでないとしても、幻想郷の住人が紅魔館を受け入れるとはとても思えない
さてどう落とし前をつけるか楽しみに待ってみます
菊池秀行の長編モノみたいな雰囲気ですね。
いやぁ,でもハマる人は堪らん。
藍様の話とか,妹紅の話とか…。
今回の話以外にも気になるワードが
ありすぎてニヤニヤが止まらないんですがw
上で別の人も書いてらっしゃいますが,
神話を元に完全オリジナルで小説書けそうですね。
東方という枠を良い感じにはみ出てるような…(褒め言葉
ここまで来たらいっそごんじりさんの
脳内設定全開で突き進むのも一興かと。
下手に色々気にして弄くるよりも,書きたいように書かれたほうが
文が生きるんで,読み手も読んでて楽しいです。
次回もお待ちしています。
点数は完結してからということで。
>>煉獄様
ご指摘ありがとうございます。修正しました。
こいしちゃんは……まあこいしちゃんだし、という感じで。
それと他の方々も仰っていますがオリジナル設定は良いんですけど抗争どこらか異変のレベルを凌駕しています。知り合いの敵対させすぎですし伏線が何個かあってこれから先も同じように敵対させるなら正直問題が出るかと。
それと、公式シリーズのどこまでの登場人物を出すか線引きして欲しいです。
私もこんなレベルの作品を考えているのでなんとなく心情は分かるのですけどね…
次回楽しみにしています。
⑤チルノ じゃなく
⑨チルノ にしてほしかった
⑤~⑧?脳内補完ですよ
公式の情報に合わせてキッチリとプロット組み替えてませんか?私なら諦めて元のままで誤魔化しかねないです。
しかしここまで風呂敷を広げ続けることに疑問もあったんですが、よくよく考えれば当たり前のことでもあるんですよね……
吸血鬼異変がスペルカード導入の契機の事件となる以上、真剣に書ききろうとすれば幻想郷全てを巻き込んで再考させる規模になるでしょうし、
その後の異変とはレベルも質も全く異なるものになるでしょう。
……コレいつ終わるんだろう。
いやいいぞもっとやれ、なんですけどね。すげえ面白い。
でも未完成で終了だけは勘弁な!
誤字報告
>その全段階としての死もやはりあまり好きではなかった
「前段階」かな?
ただ、やっぱりちゃんと収束するのかどうかが……
もりのさんのカリスマティックカルテットですね、わかります
てゐは流石幻想古参妖怪。因みに彼女は月面戦争に参加したのかな?二次では多論ですけど。
あと輝夜はフォンブr・・・月の都が長いから大陸系の話には疎いと見ました。
けーね先生達。太公望wってことは若しや打神鞭・太極図も有り得る、のかな?
チルノの神聖論?はカオスすぎてパンクしそうです。大ちゃん乙。
ルーミアのExモードはゆかりんばりだと思います。
小悪魔系。エグい。こいしまで虜にするとは・・・地霊殿の動きが気になります。
文は呆けてるようで冷静、賢しいですね。中立者の鏡!
魔界人。サリエル様・・・アリス苛めすぎです。あとママン頑張れ!
次回も楽しみに待ってます。
人里編に入ってからは設定の後付や説明などが、非常にくどく感じてしまう。
盛り付けは綺麗なんだけど味付けを間違えた料理みたいな。
とりあえず次に期待です。
たいへんでしょうが執筆がんばってください。
>>38の方
ご指摘ありがとうございます。修正しました。
>>29の方
登場キャラは地霊殿、儚月抄までのキャラとなります。たぶん。
>>41の方
実は当初はここまでやる予定はなかったのですが、欧州話をやっている最中に書きたいテーマが変わったので、そこから詰め直し、お話の組み直しをやった結果がこれです。当初は早苗さんとフランちゃんが知り合いだったらいいよねぐらいの話だったのですが……
どんどん規模が大きくなっていくストーリー。どう収束するのか…
次回も楽しみにしています。
プレッシャーも込めた点数で。
いつも楽しく読ませていただいていますので、応援の意味を込めてこの点数を。
次回も期待しています。
平和すぎる幻想郷では滅多に見られない、本気すぎる戦争だからこそ面白い
あややは…個人的に敵になってほしくなかったが…
というかあの「鎖」はどうなってるんだ?
無意識のこいしにも効く(そもそもこいしなら無意識状態でもかわせる気がするが)・本からも出せる(パチュリーの仕込み?)
運命操作の応用的な魔法か何かかと思ってたが、そこから間違いなのか?(運命操作ならいくらパチュリーでも再現不能な気が…)
⑨なオレにはよく分からなくなってきたが「鎖」そのものの説明はあるのだろうか
そしてなにより、この風呂敷はまとめきれるのだろうか?
非常に面白いが故の心配(自分勝手でゴメンよ)
作者の力量と次回作に大きな期待を込めて待ってます。
しかし、ふむ…チルノがTir na …よく出来てるよなぁ何度読んでも
今作のバトルにしても久々にしては淡白だったし、うーん…何ていうかな?もう少し短い周期で刺激が欲しいところ。
それと、これまでの伏線全てを果たしてここまでの高すぎるクオリティで捌けるのか?という一抹の不安を拭えない。…と言ってもそれはこの作品に対する俺の過剰な期待であり、あまり気にしないで欲しい。
最後に一言。俺はこの作品を見て、俺も何か書いてみたい、と思った。この作品は素晴らしくて、凄く魅力的だ。だから、これからも頑張って欲しい。
更新を心からお待ちしております。
しかし大風呂敷広げ過ぎた感は拭えないなぁ
しかし更新期待
鎖はミゼラブルフェイトとかチェーンギャングとか何とか
⑥⑦⑧の書き直しまで考えても良い様な。
それにしては倒され方があっさりし過ぎているのでは?
それから、たまに出て来る天使や神様の説明話ももう少し纏めた方が良いのでは。
読みづらくは無いのですが、まだまだ読みやすくする余地はあります。
純粋に、落ちが楽しみです。
頑張って下さい。
特に、文VS小悪魔の部分は面白かったです。