Coolier - 新生・東方創想話

異聞吸血鬼異変 ⑦ ~ 人里編 2 ~

2009/02/27 07:04:38
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鬱蒼とした森の中を、一人の女性が歩いて行く。
幾重にも重なった木の葉の向こうに見える空は薄い赤紫という奇妙な色をしていて、それが木漏れ日として緩やかに森の中へとそそいでいるから、総じて森全体が淡く輝いているようにも見える。
彼女のまとった服とその長い髪は、どちらも色素の薄いアイリス色で、背には白い六枚の羽根が生えている。加えて楚々としたローブのような衣類の合間からのぞく肌もまた白いから、その姿と妖しい光に覆われた森の風景とは不思議な調和を見せていた。

彼女はさる会議に出席をする予定で神綺の治める魔界を訪れていたのだが、会議の出席メンバーの中にあまり顔を合わせたくない人物がいたので、神綺に頼み込んで出席は辞退していた。
それに、そもそもその会議に彼女が出席しなければならない理由はそれほどなかったのだ。単に友人であるところの神綺がせがんだから仕方なく訪れたというだけのことである。
その神綺はと言えば心細い心細いとさんざん不平を漏らしていたのだが、従者の夢子もいるから大丈夫だと説き伏せて来たので、今の彼女は単に会議が終わるまで暇を持て余すだけの身である。

彼女の名はサリエルという。死にまつわる堕天使であり、知る者によってはザラキエルと呼ぶこともあるかも知れない。かつては天の第一階級セラフィムに属していた存在であり、六枚の羽根はそのときの名残だ。
もともと彼女はかつての天界戦争の折に堕天した存在ではなく、月の運行にまつわる秘密を人間に漏らしたという理由で自ら進んで天を下ることを選んだ身である――と隣の世界における旧約聖書の偽典には記されている(そのような身の彼女がいたりするから紛らわしいが、神綺の創世した魔界というのは魔法世界の略称であって、魔物が跋扈する世界という意味ではない)。無論その記述内容などは彼女自身の預かり知るところではないのだが。

その彼女がこのような仄暗い森の中を進んでいる理由は、神綺の娘の一人であるアリスに会いたかったからなのだが――その彼女の部屋の扉を開けた途端、サリエルはこうして森の中に放り出されてしまったのだった。
常時細められていて、開いているのか閉じているのか傍目には判断しがたい目で、彼女は周囲を見回す。
この森の中にはおよそ生き物の気配がない。彼女にはそれが良く分かる。鳥も獣も人も、一切存在していない。
その静かな森の中で、ただ一つだけ感じられる生命の気配があった。おそらくはそれがアリスなのだろう。その気配のもとを目指して彼女は歩いていく。

そうして草だの折れた枝木だのを踏みしめしばらく行くと、森の合間に木々の生えていない空間が現れた。
そこには白いクロスの敷かれたテーブルと、数席の椅子、そして紅茶や茶菓子の類が用意されている。周囲は変わらず森である。
そしてその椅子に座っているのは愛らしく飾り付けられた人形たち――

「いかれ茶会へようこそ」

人形の内の一体が言葉を発した。机の中央に位置する形で置かれた椅子の上にいる人形だ。背が小さいせいか、椅子の高さが明らかに足りていない。
そしてそれは注視してみれば人形などではなく、生きた人間なのだった。その容姿がどこまでも作り物じみて端正なせいか、人形の内にあっても違和感がなかったのである。
しかし同時にその表情は人間めいて豊かでもあり、それが周囲の人形と彼女との間に明確な差異をもたらしている。

「こんにちは、アリス」
「こんにちは、サリエル様」

アリスは笑顔で、サリエルはほとんど目を閉じたままで、互いに挨拶をかわす。

「席、いいですか?」
「どうぞ。白ウサギも狂気のウサギも水銀中毒者もいない。寂しいと思っていたの」
「ヤマネを忘れてはいけませんよ」
「どうして?」
「かわいいから。この場所は――いえ、この世界は貴女が創ったの?」

そのサリエルの問いに対し、アリスは紅茶を淹れながら答える。

「世界って言うほどのものは創れませんでしたけど……狭いですし。お砂糖は二つでいいですか?」
「きっちり三つでお願いします」

はーい、とアリスは返事をすると紅茶とクッキーを差し出した。

「サリエル様は会議に出席しないの?」
「ありがとう。あまり顔を合わせたくない知り合いが来ていてね、避難してきたの。これは貴女がブレンドしたの?」

紅茶を指しながらサリエルはたずねた。
辺りが静かなせいか、話声や食器の立てる僅かな衝突音が良く響く。
実はアリスが創ったこの世界から見て隣の世界――つまり魔界では、やれ藤原妹紅をエインヘリャルに寄越せだの、兎神に八意のことを任せたはいいがちっとも仕事をしないだの、眠っている者を起こしてはならないだのと、重要と見せかけてその実たいして意味もない内容の会議が進行しており、それで通訳のリスと召集者である魔界神とがたいそう疲弊したりもしていたのだが――そんなことはつゆ知らず、二人は静穏な森の茶会を楽しんでいる。

「適当に着香しただけですけど――けっこう変わるでしょう?」

誇らしげにアリスは胸を張った。ただし机が高すぎるせいか、その身体はほとんどサリエルには見えていない。

「ええ、あとで分けてくださいな。そう言えば神綺は貴女に何か人形作りを依頼したとか」
「うん、雛人形を作れる限り作れって。作った人形はユキ姉さんとマイ姉さんが幻想郷に持って行きましたけど――何に使うんだろう?」

そう言うとアリスは可愛らしく小首を傾げた。ただ、そうであるかと思ったら今度は不満げな表情を見せる。本当に表情が豊かである。
その目線は周囲の森に注がれている。

「この世界の出来が不服なのですか?」
「……うん」
「良くできていると思いますけど。貴女の年を考えるのなら」
「でも……ぜんぜんでき損ないなの。こうやって実際に創ってみると神綺様の凄さが分かります。無機物だとか植物だとかは比較的簡単に創れるし、微生物だの細菌だのも土や水を創れば自ずと付いてくるんですけど……高等な意識を持った生き物となるとさっぱり。それにこの森だって外見は整えてあるけど、中身はけっこうスカスカなんです。はりぼてみたい」
「たしかに――人造物の域を出ていないという感じはしますね。木々に自然が宿っていない。気質が感じられない」
「うー、妖精くらいなら簡単に創れると思ったんだけどなあ……」
「妖精くらいですか……ねえ、アリス」

試すような口調でサリエルは話しかける。アリスの方も何かを察したようで、好奇心をその瞳にのぞかせる。

「貴女の言う妖精というのはいったい何のことなのでしょう? 自然現象そのものの具現ですか?」
「ええ。自然が動く時に生じるわずかな歪み――それに人格が宿ったもの。だからこうして場所を整えてあげれば容易に現出させられると思ったんですけど」
「あれはね、貴女が思うほど一筋縄で行く存在ではありませんよ。そうですね……まあ神綺の世界は比較的『若い』世界だからひとまず置いておくとして、お隣の――」

『幻想郷を包含する世界』のお話をしましょうか、とサリエルは静かに言った。






* * *






慧音が寝込んだ日の明くる晩のことである。
妹紅が竹林に行くと言って朝方に里を出奔し、ついでに何人かの筍採りたちが食料の調達のためにそれに同伴していった。
人里は幻想郷全体で見ればもっとも土地が低い箇所に位置していて、周囲は草のまばらに生えた野原となっている。一種のくぼ地なのだ。またどこかの森へと至るまでは木々はあまり見当たらず、ちょうど開拓地のようでもある。上から俯瞰すると、森や山々の合間にぽっかり拓けた場所がある形になっているのだそうだ。
その野原の向こうへと消えていく一行を見送った阿求と慧音は、踵を返して里の大路を引き返した。
おそらく妹紅は、今日はかなりの激務を強いられることになるのだろうと阿求は思う。彼女の向かう先は竹林だけではない。目的地はもう一か所あって――

「竹林とやらと――『上』の連中は動いてくれるだろうか……」

慧音が心配そうに呟く。

「どうでしょうか……妖怪の山も沈黙していますし、この騒動に関しては各勢力がどういう思惑を持って動いているのか、いまいちはっきりしない部分があります」

もしかすると自分たちの預かり知らない事情のようなものが存在しているのかもしれないと阿求は思う。一大勢力である妖怪の山が――この騒動の始まりの時にいち早く派兵を行ったあの組織が、なぜか今はほとんど動きを見せていないのである。

――もっとも

妖怪の行動原理などはいくら推し量ってみたところで仕方がないというような気もする。
朝の通りは相変わらず平素にくらべ人の往来は少ないのだが、それでも数日も経つとなるとみな状況への順応は進むようで――たくましいことだと思う――、特にこの状況下においても通常通り働くことが期待されるような人々はその業務へと戻っている。
食堂などはその最たるものだが、護符や玉を作る霊具職人や鍛冶屋といった武器の製造にかかわる者たち、猟師衆や釣り人らといった食糧班も動いている。他はとかく何かと材木が要り様となる場面も多いので樵衆なども里の外へと出ている。医療知識のある者たちは避難所の方に詰めている。

「中有の道に行った連中は大丈夫だろうか」

心配そうな面持ちで慧音が呟く。
ここ数日で心労が一気にかさんだからだろうか、少し痩せたようにも見える。やつれただけなのかもしれないが、それにしたって昨晩過労で倒れて妹紅が出発する直前までは死んだように寝ていた身ではある。そろそろ里内の人間たちも身の振りようが分かってきたようだから、慧音は少し休んでもいいのではないだろうかと阿求は思う。

「大丈夫でしょう。腕の立つ面々ですし――特にあの二人」

いつもであればたとえ里の外であっても、最低限の注意さえ払えばそれほど危険を冒すこともなく活動することは可能なのだが、いかんせん今は各所の危険度が平時の比ではなくなっている。いま阿求が幻想郷縁起における危険区域案内を記せと言われたら――全地域の危険度を極高としなければならないだろう。
特に今は妖怪よりも獣たちが厄介である。
あの鎖を受けて敵へと回った妖怪たちは、現状では不気味な沈黙を維持している。ほとんど黒に近い色をした霧の向こうで固まって待機しているのである。
対して獣たちは半端な進化をしたせいか、八雲藍や橙といった面々に見られるような精神性がまだ育っていない。おまけに鎖で自我が消えているわけでもない。単に人の形をした並外れて強い獣、といっただけの存在になってしまっている。そしてそれこそがもっとも厄介なのである。

そういった状況であるせいか、妖獣や妖怪に狙われやすい仙人衆はどこぞヘ雲隠れしてしまっていた。仕方のないことではあると思うし、そもそも仙人は味方につければ強力だが、もしもそれが妖獣や妖怪の餌食になってしまった場合、それを喰った存在は生半可な腕では手が付けられないほど強力になる。天人の肉は毒だが、仙人の肉ならば甘露だ。だったら端から動いてくれない方がこちらにとっても都合がいいというものである(仙人たちの用いる仙術はそれはそれで魅力的ではあるが)。

そういう中で中有の道へと里の面々が向かったのは、そこで販売されている物資の調達のためだ。
幽霊金魚すくいだの遺書掴み取りだのとわけのわからない店も多い反面(是非曲直庁の財政難ぶりはこのところ顕著である)、あの露店街には破邪退魔に関する道具を取り扱う店も多い。
ちなみに平時の中有の道は再思の道にくらべれば危険度は格段に低い。是非曲直庁の影響下にあるからである。

「先生、これからどうします? 私は小兎家の屋敷へ行きますが。今後のことも話し合いたいですし」

小兎家は稗田家同様に古くからこの地に居を構える家柄である。その屋敷の規模は大きく、今は避難所の一つとして機能している。
そもそもこの里は妖怪退治を生業とする者たちの前線基地として栄えてきた歴史を持つ。小兎家は古くからそうした者たちに対する物資や資金の提供、また里の設備強化等を担ってきた家柄である。歴代の幕府や明治政府との繋がりも密であったと言われている。

ただ、今となってはそれらは昔のことである。その後、変わり者で知られる現当主は外界にならって警察機構を立ち上げ(ただし個人営業であるから機構という表現はおかしいと阿求などは思う)、里内での諍い事を中心に収めて回る奉行所のような立ち位置に落ち着いているのだった。
里の外部にあって異変を解決するのが博麗の巫女、里と外部との関係を取り持ちときに防衛等の手段を講じるのが隣を行く慧音、そして里の内部担当が小兎家であると考えると分かりやすいだろう。意外と分業が上手くいっている感じである。

「私は少し行っておきたいところがあってね。私用なんだが」
「行っておきたいところ?」
「ちょっとね。それより私はうどんを食べる。貴女も食べる?」

通りかかった蕎麦屋の暖簾を指して慧音が言う。
そういえば朝ご飯を食べていなかったのだ。言われてみればお腹も減ったし、やはりお腹に何か入れないと頭も鈍る。

「わかめ」
「それはおかみさんに言ってくれ」

苦笑しながら慧音は暖簾をくぐる。するとすっとつゆの匂いが漂ってくる。

「ありゃあ、慧音先生に阿求さま。おはようございます」

店の奥の厨から、威勢のいい声を上げておかみが出てくる。手には盆、その上には丼が二つ乗っている。
阿求と慧音は近くの開いていた席に腰を下ろす。椅子は木の幹をそのまま適当な高さに切って、表面にやすりをかけただけの代物なのだが、い草の座布団が置いてあるから臀部には優しい――そんな微妙な感想を阿求は抱く。

「こうやっていつも通りのことをしてないと落ち着かなくてねえ。それで、何にされます?」

はきはきとした口調である。事態がどう転ぶか分からないこの状況にあって、こうした態度でいられるのだから肝が据わっている。
本来はこうして呑気にそばを食べるなどということは――というか蕎麦屋が営業していることが――あり得ないことではないのかと思う。
その辺りはやはり幻想郷に生きる人間たちといったところだろうか、こうした騒ぎへの順応は迅速である。外界であればパニックになっているところだろう。






「ううむ、わかめはないのですか。それもそうですよね」

幻想郷に海はない。海産物は幻想郷ではそこそこ希少品であり、その供給は完全に妖怪に頼る形となっている。
だから阿求の注文は素のかけ蕎麦に化けてしまっていた。
ちなみに幻想郷は海抜が高い地域に位置しているらしく、五月といえどもそれほど陽気を感じることはない。蕎麦は暖かい方がいい。

「そういえば、先日外来の方が流れついたでしょう?」
「ん? ああ、サッカー選手だったっていう」
「ええ。彼は蕎麦アレルギーなのだそうですよ」

この騒動が起きる直前、外来人の青年がひとり里に帰化していた。

「たどりついた矢先にこの有様か……彼はどうしている?」
「さすがに戦う手段はないみたいですけど、体力仕事はかなり行けるみたいです。色々頑張ってもらっていますよ。特に文句も言わないし、外の方にしては適応が速い」

しばらくしてどうにも食べるのが遅い慧音より阿求の方が一足先に食べ終わり、待つ形となる。もともと食べるのは遅い慧音だが、妹紅の話ではそもそも今は食欲もあまり湧かない状態らしい。だからこそのうどんなのだろう。米を食す気力がおそらくはないのだ。
里を護る者として気負う部分というのはあるのだろう。
ただ慧音はそれほど年を重ねた身ではないのだし、里の人間たちもむしろ慧音は少し休んだ方がいいと思うに違いない。もう少し里の人間たちを頼ってしまってもいいだろうとは思うし、それは慧音も分かっているのだろう。

――ただ

変化につき予断を許さない状況においては、普通に休むということが存外に難しくなる。そうしている間に何か動きがあったらどうするのか、あるいは休んでいる時間で何かできることがあるのではないか――そうついつい思ってしまうことはある。
そしてそうなってしまうとこれはなかなか休めない。睡眠もとれなくなる。
ただ、それでも今の段階であればまだ昨日のようにゆっくり休んでしまってもそれほど支障はないだろうとも思う。
何しろ敵方に動きがないのだ。いつ動き出すかは無論知れないが、それでも今の内に休息をとっておいた方がいいのではないだろうか。

普段は野にいる妖怪たちは、里とは距離を置きつつも、暴れる獣たちや一部のはぐれた妖怪たちへの牽制はきちんとこなしている。
もちろん目に見える形で里のために動いてくれているわけではない。そうすることは彼らにとっても、そしてこちらにとっても抵抗感がある。人と妖怪の境界というのは、癒着がすぎれば存外に軽く揺らいでしまうような危ういものであるように感じられるのだ。

実質ほぼ人の喰われることのなくなった幻想郷においては、注意して――わざとらしいくらいに――『襲撃と退治』という人と妖怪の基本的な関係を維持していかなければ、彼らを妖怪であると認識するのは困難なレベルにまで達しているといっても過言ではない。
人の形をした、人ではないモノ――しかしそれらをしっかりと人外の者として認識するには、いくつかの要件が必要となる。そうしたことをなしに素直に彼らを妖怪と認識できるほど人間というのはカテゴライズの能力に優れているわけではない。

いくつかの要件――そのうちの最たるものが食人、ということなのだろう。

特に若い世代の妖怪においては人の味を知らない者も多い。大結界構築後に生まれた妖怪などはその多くがこれに該当する。ミスティア・ローレライ辺りは好例だろう。ともかく滅多やたらに里にちょっかいを出してくるが、それで人間をさらって食べるのかというとそういうことはない。からかいに来ているだけである(そして概ね返り討ちにあう)。

――その彼女も敵になってしまったけれど

先日里付近の道で、彼女の屋台の残骸が発見された。ミスティアの鰻に関しての師匠筋にあたる八つ目堂の店主はそれを聞いて随分と落ち込んでいたものだった。
ただあの屋台の壊れ方は明らかに不自然であったようにも思う。
まるで流砂に呑まれたかのように、周囲の草木ごと地面に埋まっていたのだ。
阿求の記憶の内にはあのような現象は存在しない。家に帰ったら先代以前の幻想郷縁起にも目を通しておく必要があるだろう。

――でも

その幻想郷縁起だが、なぜか先代の阿弥の代のものだけが見当たらないのだった。
手伝いの者に探すよう頼んでおいたのだが、未だ発見できてはいない。

――どこにやったのやら……

ともあれ実際、妖怪の食性は人のそれとほとんど差異はない。普通の人間が食すものに加えて人間を食べることがあるというだけのことである。
むろん生でぼりぼりとはやらない。きちんと息の根を止めてから――つまり魂を魄より分離させてから、さばく。その辺りは外界における食肉処理と大差がないのだそうだ。

それでも、一定数は必ず外からさらってきて食す。
全員が全員人間を食べる必要性はないのだが、やはり妖怪というカテゴリ全体で見ていくらかの人食いが行われているという事実は確保する必要があるらしく、だからこそ食べる輩は今も変わらず食べる。そうなってくるともう食人担当とでも言うべきポジションが存在するようにも感じられるが、ともあれ人食いの慣習は妖怪の妖怪性とでも言うべきものを担保するために有効であるようだ(それについては阿求も思うところはあるのだが、今は考えても仕方がないから考えないようにしている)。

ちなみに分離した魂はよほどの大悪人でもない限りは、彼岸へ渡って裁定に服す。後はだらだらと冥界暮らしである。
もちろん悪行を積めば地獄行きだし――最近は財政難で設備不良が目立つが――、そうなると後々中有の道での販売業等にしばし従事することにもなるのだが、それも終わればまた新しい魄が宛がわれ、新しい生が始まる。その間のサイクルは人によりけりで、善人であれば帰ってくるのも早いのだが、冥界の居心地の良さにひかれてそのままそこの住人となってしまう者も存外に多い。何しろ管理人がのんびりしていて、輪廻を急きたてるような性分をしてはいないのだ。

「……阿求、食べるか?」

明らかに心労の混じった声で慧音が言った。

「先生、ほとんど食べてないじゃないですか」

彼女の丼の中にはまだ多くの麺が残っている。半分くらいしか口にしていないのではないかと思う。

「すまない、食べ物は粗末に出来ないということは分かっているんだが――」
「そういう問題じゃないです。食べないと力が出ないですよ」
「大丈夫だよ。私は普通の人間よりは体力がある」
「きのう倒れたのはどこの誰ですか……先生、あまり深く考えないでください。こういう騒ぎは大結界以前には結構あったのだそうですよ? その都度この里は、この地を捨てることもなく生き伸びてきた。先生ばかりが背負い込むことではないでしょう。里の皆だって――」
「そうではないんだ」

そうではないんだよ――慧音はうわ言のようにそう繰り返した。

「私が厭うているのは、私自身の思考なんだ。私は、私の考えていることが嫌で嫌で――だから疲れているんだ。勝手に自分で自分を疲弊させているだけなんだ」

何かに怯えるかのように慧音はうつむいている。その様はいつも背筋を伸ばし、まっすぐな姿勢でいる彼女からは少し想像しづらいものだった。

「どうしたんですか? 考えって――」
「阿求、この場所は好きか?」
「え?」

いきなり何を、と思うがそれを問う慧音のまなざしは真剣そのものである。だから阿求も思うところを答える。

「好きですよ。少なくとも、数日前まではこの場所は上手く回っていたと思います。それを取り戻したいからみな奮い立って頑張っている――そうではないですか?」
「上手く、か……そうね、実に上手く回っていた。それはまったくその通りだと思う。でも……そうやって上手く歯車が回っていたこと自体が間違っていたのではないかと、ふと思ってしまったんだ。いや、違うな。間違ったものを私たちは回し続けていたんじゃないのかと、そう思ってしまってね……」
「この場所のあり方に疑問を抱いてしまったということですか?」
「そう――なのかな。それが知りたいから、私はこれからあそこに行くよ。太公望の奴も行きたいって言っていたからね、一緒に行こうと思う」

あそこ――何となく慧音が行こうとしているその場所が阿求には理解できた。

たとえそれが事実存在しているのだとしても、表だって口にすることははばかられる場所――
人間のためにも、妖怪のためにもなくてはならない場所――
平和だった幻想郷において、しかしおそらくは最も血肉の匂いの漂っていたであろう場所――

「屠殺場――ですか?」
「そうだ。どうもあの場所をきちんと見ておかないと、私はこれ以上なにも出来ないような気がするんだ。忙しいなか私用で悪いんだが」
「それは気になさらないでください。ただ、道中はお気を付けて」
「それは大丈夫さ。私も太公望の奴も、身を守る手段はあるからね」






慧音と別れた後、阿求は小兎の屋敷を目指して歩いた。
やはり平時にくらべ里の人間の足取りも、そして里そのものの空気もざわついている。
喧騒があるということではない。むしろ普段よりも里内は静かであるとも言える。ただ、落ち着きがないのだ。
客観的に見て人里がかなり危機的な状況下にあることは誰もが把握していることだろう。
その事実と、そしてそこより醸成される暗澹たる感情から目を反らすことで、今の人里は静穏を保っている。それは現実逃避ということではない。いたずらに行動を阻害しうる負の感情をうまく受け流し、なすべきことをしっかりとなすための視点の転換であると言っていい。不安におののいているばかりでは何の結果も生まれないというものである。だから先ほどの蕎麦屋の女将のような態度はすこぶる正しいものであると阿求は考えている。

里の住人たちとすれ違いながら大路を行く。
おかもちを持った出前の青年。平素は八雲藍御用達でもある豆腐屋の店主。昨晩スターサファイアを止めた近所の主婦。
材木を運ぶ樵衆に、半被に身をくるみ騒動の始まりの折に破損した家屋等を修理する大工たち。
そして――普段から里に入り浸り、人間の生活圏にすっかりなじんでしまった人外たち。
それらとすれ違いつつ、あれやこれやと考えごとをしながら中央広場へと来たところで、阿求は秋穣子に呼び止められた。

「おはようさん、どこ行くの?」

ベンチに座った穣子は、人懐っこそうな笑みを浮かべてたずねてきた。そして来い来いといった仕草で阿求に手招きをする。その立ち振る舞いは、素朴な感じのする少女のそれである。高めの声と相まって可愛らしいと阿求は思う。背丈は阿求と大差がない。
この状況がいつまで続くのか知れない以上、豊穣を司る彼女が味方についているのは心強い。
また彼女以外にも里に力添えを行ってくれている神はそれなりの数がある。
ただ外界のおいても名の知れたような力ある神々は、やはりそうおいそれと動くことは望めないだろう。そうした存在が下手に動けばそれは外部との境界を曖昧にしてしまうことにも繋がりかねない。
もちろん外での信仰と幻想郷内での信仰は単純に同じものとして比較することはできないし、秋姉妹や鍵山雛などは幻想郷においても有数の信仰を集める神である。決してその神格が低いということではない。単に外部への影響力はないというだけのことであり、里の人間からは大いに尊ばれているのだ。神社はないが、祠ならばそれぞれのために仕立てられたものが里の内外に点在している。

「おはようございます。私はこれから小兎の屋敷に」
「あー、姫さんとこか。あの人いくつなんだろうね。大結界ができたときにはもういたと思ったけど」

捨食捨虫の法を行ったのか、それとも別の修法によるものなのか、小兎家の現当主は全くの年齢不詳である。先代の御阿礼の子――阿弥の代の英雄伝にも名が載っているのだから、ある意味里の長老といった立ち位置でもあるが、ともかく謎の多い人物だ。

「静葉様はどちらに?」
「お姉ちゃんならあっちで子どもと一緒に遊んでる」

無口ではあるが性格は決して暗くないのが秋静葉である。

「昔はそんなにアクティブじゃなかったんだけど……たぶんあのヒトの影響だろうなあ」
「あのヒト?」
「幽香様のことでしょうか」

阿求の背後から別の声がして会話に混ざる。ゆったりとした、少しだけ老成した感じもする女性の声である。

「ありゃ、エリーさん」

穣子がその女性の名を呼ぶ。阿求の見知らぬ人物である。
シンプルな茶色のドレスに、つばの広い帽子。カールした金髪。そして湾曲し、外側に刃の施された大鎌を携えている。里の住人たちも武装をしている者は多いが、このような奇妙な得物はその中においてもひと際目を引く。

「グリム・リーパー?」

仏蘭西辺りに彼女のような格好をした死神めいた存在がいた筈だが――

「違うよ、阿求。全然違う。そのヒトはそういうのじゃあない」

穣子が阿求の推測をきっぱりと否定する。それは心外だとでも言いたげな、不満をひと匙ばかり含む口調だった。
一方エリーと呼ばれた女性は、そういった認識でも私は全然困りませんけどね、とにこやかに言った。つばの影に穏やかな笑みが見える。

「ところでさ、幽香さんは今どこに?」
「んー、おねんねの最中です。すやすやですよ」
「こんな時に……相変わらずというかなんというか」
「ただねえ……どうもセレネの領域に迷い込んだ節があってね、起きないんですよ。困ったなあ」

口では困ったと言っているが、どう見てもそれほど困っているようには見えない。そして――

――セレネってなんだっけ?

どこかで聞いた名のような気もするのだが、阿求には思い出せなかった。

「まああんまり寝太郎さんなら夢月さんと幻月さんに頼めばいいか」
「エリーさんでしたっけ? 私は阿求といいます。念のためおたずねしますが、それはただの睡眠ですよね? 幽香さんが敵に回ったということは――」
「それはないですよう。そうなったら私は避難勧告に来てますって。こんなにのんびりしていられない。人も妖怪も逃げ出さないと」
「幽香さんが敵か……やだなあ、色々と消滅してしまうわよ」
「ふふ、そうですね。でも――あの方も一目置く存在はあるのですよ」

死神にしか見えない女性は、すっと帽子のつばを直した。

「ねえ穣子さん、貴女たち姉妹は――『滅び』と戦う気ですか? あれはことによっては結界を超え外部にまで影響を与えうる存在ですよ?」

エリーが問う。帽子の影になってその表情は見えない。

「まあねえ。私たちでやらないとどうにもならないでしょ? リリーに任せるには荷が重いし、言ったことを理解してくれるとも思えないしさ。そりゃ私たちだって戦うのは得意じゃないけれど、仕方がない」
「青春・朱夏・白秋・玄冬……四季の最後を司る存在に戦いを挑むのは、人が亡霊姫に戦いを挑むようなものです。それでもやります?」
「うーん、できれば幽香さんの助けがほしいかな」
「それはおそらく無理かと思います。あの方はあの方で起きたらやらなければならないことがあるようですし、第一あの方が一番苦手としているのは他ならぬ彼女ですから」

仲は悪くないですけどね、とエリーは付け加えた。

「エリーさんは?」
「私もちょっと忙しいですね~。手を貸したいのは山々なんだけど」
「ま、なんとかするよ。彼女が季節の不可逆性を犯そうとしている以上、三冬の時期にあるような力を振るえるとは思えない。たぶん一定の抑止力が働く。それが道理です。私とお姉ちゃんはほとんど彼女を止めるためだけにここにいるんだし。食糧支援はそのおまけ」

そのおまけが大いにありがたいのだが、と阿求は思う。

「そうですか……頑張ってくださいね。幽香様も貴女や静葉さんや彼女のことは案じていましたから」
「珍しいなあ」
「四季のフラワーマスター、ということです」

帽子のつばを直しつつエリーは穏やかにほほ笑んだ。そしてそうそうとのんびりした口調で言った。

「これを貸してやれと幽香様から。私はどうせ使わないし」

そう言うとエリーは屈みこんで地面に空いている方の手を付いた。
その場所が黄金色に輝く。そしてその光の中から彼女は何かを取り出したのだった。

――鎌?

細い銀色の柄をした大鎌が光の中から取り出される。それまでエリーが所持していたものとは違って飾り気がない。柄はまっすぐだし、刃もきちんと内側に施されている。おそらくは立ったまま稲穂を刈る目的で作られたものなのだろう。農具であって武器ではないようだ。
そして外刃と内刃の二対の鎌を携えて、エリーは微笑む。

「これはアダマスの――って材質なんかはどうでもいいか。幽香様の持つ土の力のうちの、実りにまつわる部分を分離させ結実させたものです。貴女なら有効活用できるはず。力は温存しないとね」
「土の力って……あのヒトほんとに何者なのさ……」

差し出された鎌を受け取った穣子は半ばあきれ顔である。阿求も幽香が何者であるのか、知れるものなら知りたいと思う。まったく妖怪らしい妖怪だというのに、他方でいったいどこの地域や文化の影響下にある存在なのかすら判然としないのである。

「地域、文化――そういうのとはあまり関係がないですよ、あのお方は」
「妖怪なのに?」
「妖怪……まあ妖怪なんでしょうね。そりゃあこれだけ人に忘れられてしまったんですから、それはまったく妖怪といって差し支えないのでしょうが……」

どことなく諦観の混ざった口調である。

「エリーさん?」
「彼女が――ああした存在が外の世界から流離しているという事実を現行人類はもっと深刻に受け止めるべきではあると思いますよ」
「よくわかんないってば。結局あのヒトなんなのさ?」
「なんなんでしょうね? きっと当人もご存知ないのではないでしょうか。あの方はいつでもどこでも、いかなる世界の影響だって関係なく『風見幽香』ですから」
「マイペースってことでしょ、それ?」
「そういうことです。では――」

この場が永劫雪に閉ざされることのないよう祈っております――そう言って会釈をすると、エリーはそのまま広場から去っていった。






◇◆◇






――――中有の道


この道は妖怪の山の裏手を流れる三途の川へとたどり着く際に、死者が必ず通過する道となっている。
だからたいそううらぶれた物寂しい道なのかと思いきや、存外に明るく活気だっている。むしろ賑やかですらある。あんまり賑々しいから場合によっては死者が気を持ち直して蘇生したりする場合もあるのだそうだ。

人魂ボンボンに卒塔婆くじ、来世占い――
道の両脇には縁日と見紛うような楽しげかつ怪しげな店屋が立ち並び、そこで地獄の卒業試験を兼ねた死者たちが客を呼び込んでいる。
彼らはいったん彼岸へと渡り裁定を受けた身であるから、その姿は一時の仮初のものということなのだろう。そして形が整っていて、かつものに触ることができるのだからそれは亡霊ということでもある。ただし本体に相当するところの遺体はすでに焼かれるなり埋められるなりしているだろうから、厳密に言えば違うものであるのかもしれない。
また自然発生した亡霊とは異なり是非曲直庁の裁定下で亡霊化しているのだから、前世に強い未練があるだとか自身が死んだことを把握できていないだとかといったことはない。むしろ振るわなかった前世から自由になるためにこの姿で店を切り盛りさせられているのかもしれない。いずれにせよ輪廻への指向性があるからこそ、この場所は活気があるのだろう。

ふだんは幽霊や亡霊だけでなく生きた人間も遊びにくるこの道だが、さすがに今は人間の姿は少ない。
店も軒並み閑古鳥が鳴いていて、ものによってはそもそも営業すらしていない。また歩いている人間たちも遊びに来ているというわけではなく、物資の調達という目的でもってこの場を訪れているのだった。

そして総じて露店のような店の目立つ中有の道ではあるが、中にはしっかりとした店構えの店もある。そのうちの一つが酒屋である。
その古めかしい蔵屋敷のような出で立ちの店の中、さっぱりとした大陸風の衣装をまとった青年が酒を物色していた。床にはその青年の愛用するまさかりが置いてある。

「ったく、とんでもねえことになっちまったなあ、六介よう。里の様子はどうだ?」

そこに店主が声をかける。地味な紺色の半纏をまとい、金物の煙管で紫煙を燻らせ、上り口に敷かれた座布団の上で胡坐をかいている。酒を見て回る青年と見かけの年齢は大差がない。脇に置かれた煙管用の煙草盆――灰受け――の中では火のついた炭が静かに燃えている。

「あ、鬼の酒じゃねえか。おい、辰次。これは売りものじゃねえのか?」

酒を物色する青年――樵の六介は店主の問いを無視し、店の棚の奥の方に置いてあった酒を指さした。店の四方の壁にはさまざまな銘柄の酒が陳列されていて、また床には鏡割り用の酒樽が置いてある。
山野に分け入っての作業を強いられる樵衆は、みな妖怪への対処能力は高く、そうしたこともあって六介は中有の道へと向かう一団に加えられたのだった。
加えて彼は大の酒飲みでもあるから酒の種類に詳しい。清めや祓い、気付け等に使えそうな酒をみつくろって来いと慧音から命じられていた。

「人の話を聞けよ、阿呆が。そりゃあ鬼神長様向けの品だ。売りもんじゃねえ。俺は里の様子はどうだって聞いてんだ」

辰次と呼ばれた店主――亡霊である――は、上り口の上から憎まれ口をたたいた。六介とこの店主とは生前は友人どうしだったのだ。

「里なあ……今は妖怪連中が守りについている。だからまあ敵さんが一斉攻勢でもかけてこなけりゃ、今すぐ里が滅ぶってことはねえわな」

六介も上がり口の框に腰を下ろした。

「妖怪連中がねえ……そりゃ落ち着かねえだろ?」
「ああ、まったくだ。むずむずしちまう。ミスティアの嬢ちゃんみたくよく里に入り込んでくる輩ならともかく、ふだんは野ッ原にいそうな連中まで集まってきてやがる。うっかり追い払いそうになるよ。これじゃあまるで俺たちが重要な何かみてえじゃねえか。この場の主役は妖怪様らだろ? 今の里はちょいとおかしい」

ここじゃ俺たちは脇役のはずだってのに――と六介は腰に巻いた水筒の水を飲みながらぼやく。
その視点の先、開け放たれた引き戸の外を幽霊が一体とおり過ぎて行った。ここはそういう場所である。

「そういやよ、おめえが鬼籍に入ったのはいつだったか――」
「三年前だ。手前と呑んだ帰りじゃねえか。ヤツメ堂でよ」
「ああそうだ。そんでおめえ酔って転んで頭をぱっくりやっちまったんだ。馬鹿だな、馬鹿」
「うるせえ、祟るぞ」
「手前は閻魔様の裁定済みだろうが。祟りなんぞ起こせるかい」

自然発生した亡霊というのは生者を自身と同じ領域に引きずり込もうとしたりする上、生きた人間の精神にも大きな影響を与えうる。生きた人間がそれらと向かい合うことは危険である。
しかしこの道の亡霊たちはすでに彼岸と地獄にてみっちり己が死んだという事実を教え込まれているから、普通の人間が会話をしてしまってもそれほどの影響はない。
ヤツメの旦那は元気かい、と辰次がたずねる。

「それがなあ、ミスティアの嬢ちゃんが一週間ばかり前に屋台を開いたんだがよ、その矢先にこの有様でな……屋台もばらばらになっちまった。せっかく大工衆も気合い入れたってのに。それで旦那はえらくへこんじまって、なんつうか一気に老けこんじまった」
「嬢ちゃんも――敵に回っちまったのか?」
「たぶんな。気の滅入る話だ……ああいう姿形のもんに斬りかかるのはけっこう覚悟がいるぜ? これで一発で妖怪って分かるくらいおどろおどろしい格好でもしててくれりゃまだ楽なんだがなあ」

そういう外の世界の妖怪図絵にでも載っていそうな妖怪も、ここには少しはいる。ただしほとんどは人の形をとっているし、子どものような身なりのモノも多いから、直接斬ったり叩いたりといった対処手段しか持たない人間からしてみるとやりにくいものがある。敵は妖怪なのだからまさかりで殴ったくらいで死にはしないのだが、それにしたってやりにくいものはやりにくい。六介はこれで結構子ども好きではあるから余計に辛い。
平時であれば小突くなり叩くなりする程度で相手は引き下がるのだろうが、あいにく今は向こうも加減なしである。こちらも手段は選んでいられない。場合によっては刃を立てる必要性もあるかもしれず、それを思うと六介は物凄く気が滅入ってしまうのだった。

「こんなことなら法術の類でも勉強しとくんだった。あれなら札一枚でちょちょいのちょいと」
「てめえみたいな阿呆にそんな術が使えるもんかい。大人しくまさかり振り回しとけ」
「うるせえなあ……」

ぼやく六介を尻目に辰次はとっくりから猪口に酒を注ぐ。二人分である。ほのかな酒気が立ち上る。

「まあ呑め。安酒だがな」
「勤務中じゃねえのか」
「ちょいとぐらいならかまわんだろう。黄泉へぐい、って奴だ。大体お前さんも慧音先生のおつかい中だろうに」
「酒の見繕いはもう終わったっての」

益体のないやり取りをかわしつつ、二人は軽く盃を合わせ、それを呷った。亡霊も酒は飲めるようである。
そうして盃をかわしていると、六介は目の前にいる男が死人であるのだということを失念しそうになる。是非曲直庁の下にいない亡霊たちならば、より一層そういった影響力は強まる。だから亡霊は危険なのだ。
そうして死人と樵は同時に猪口を置く。

「うまいな。うまい安酒だ。辰次、俺たちは――いや、てめえはもう違うか――人間てのは安酒みたいなもんなんだろうな。ここじゃ」
「何わけの分からんことを」
「こういう安い酒があるから、旨い酒の価値って奴は担保されるんだ。安酒なくして美酒はなし。俺らはここじゃ脇役だ。単なる襲撃対象だ。だがそういうもんでも、無ければ無いで困るんだろうな。美しいもの、価値のあるもの、強いもの――そういうものばっかりで物事は動くわけじゃあねえ。醜さ、卑しさ、浅ましさ、弱さに汚ならしさ……たぶんな、そういうもんが欠けたって場所って奴は成り立たないもんなんだと思う」
「あんだあ、哲学ごっこか? よせよせ、なに言ってるか分からんし下手の考え休むに似たりだ。もう一杯呑むか? それとも猪口一杯で酔っぱらったか?」
「うるせえなあ。まあせっかくだからもう一杯よこせ。あと肴はないのかよ?」
「贅沢言うな。ああ、旦那の話をしてたらあの鰻が食いたくなってきたな……俺は次に何に生まれるのか分からんが、また人間になれたら旦那の鰻は食いてえな」
「ミスティアの嬢ちゃんはレパートリーと接客はアレだが、腕はいいらしいぞ? てめえが何周かして人間道に帰ってくる頃にゃあヤツメの旦那もとっくに三途の向こうだろうが、嬢ちゃんは普通に生きてんだろう。閑古鳥だったらしいから行ってやれ。ていうか手前の奥さんの心配とかはねえのか、この甲斐性なし」

生前の頃から、ののしり合いがこの二人の基本的なやり取りである。

「女房かい……あれには迷惑かけちまったからなあ、早く新しい相手でも見付けて落ち着いてくれりゃいいと思うが」
「妙さんなら引く手数多だろうよ。心配すんな」

辰次の生前の妻の名である。

「なんでえ、手前から褒め言葉なんぞ聞くことになるとは思わなかったぜ」
「あくまで妙さんのな。お前には特に褒めるべき要素はねえよ。酔っ払って野垂れ死んだ阿呆だ。あんまり間抜けな死に方だったから誰も悲しまなかったぞ。そこだけは褒めてやってもいい」
「まあなあ、俺みたいな酔っ払いには出来た女房だったとは思うよ」

空の猪口をじっと見つめながら辰次は何かを懐かしむような表情をした。
はたから見てもどうしようもない酒飲みの男ではあったが、愛妻家ではあったのだ。そのことを悪友であるところの六介は承知していたから、しばし会話は途絶える。

「……なんか伝えとくか?」

しばらくして、辰次の猪口に酒を注ぎながら六介は問うた。

「ぬかせ。手前みたいな薄らトンカチをメッセンジャーにしたらあいつに悪いわ。それにな――俺はもう死んでる。もう少しで俺は俺ではなくなるのよ。虫になるか魚になるかはわからんが、ともかくじきに消える。跡は濁さないでおくべきだ」
「そんな見栄はるなら奥さん残して死ぬなっての」
「それを言ってくれるなよ……針地獄で生き返るほど反省したんだ。手前も酒には呑まれるなよ? それで、だ。今日は誰と誰が来たんだ? お前さんみたいな力馬鹿一人でやって来たってわけでもないだろ?」
「十人ばかりな。先頭が朝倉の先生、しんがりは北白河のお嬢だ。あの二人は滅法腕が立つからな。そうそう、お嬢は最近正式に魔法使いになったぞ」
「あれか、捨虫って奴か? そうかいそうかい。そりゃあいいことさ。稗田様が次に帰ってきたときに出迎えられるからな」
「稗田様か……なあ辰次」
「なんだ?」
「お前はもうちょっとで自分が自分じゃなくなるって言ったよな? それはよ、そのなんだ――怖くはねえのか?」

特に怖いことはねえが、と辰次が答えると六介は、だって自分が別のもんになっちまうんだろ、と返した。

「そうさなあ……どう言ったもんかわからんが、それは人間って立場で考えるからそう思うんだ。いいか六介、俺はもう人間じゃあねえんだ。そこを忘れんな。死んだときな、こう肉からすうっと魂が抜け出てよ――」

辰次は口からふうっと煙を吹いた。

「それでまあそんときゃ焦ったがね、そんでもこの賑々しい道を通って、それで小町の姐さんの船にゆらゆら揺られてな……おめえだって記憶がねえだけで、いま生まれる前には同じことをやってたはずなんだぜ? それで彼岸に着いた。あそこはよ、ただ優しい感じのする光と花畑があって、後は昼も夜も季節も無い。移ろうものが何も無えんだ。そこでな、ぽつねんと座って閻魔様に呼ばれるのを待つんだ。眠らず、飯も食わず、話だってしねえで延々といつまでも待つんだ。どんなに生前やかましかった奴でも、あそこじゃ静かになる。そういう場所だ。そうしてるとだな、ああ死んだんだなって分かる時が来る。そこに至るまでは心のどこかで認めたくないと思っている部分もあったりはしたが、そのうちふっと憑きものが落ちたみてえに理解できる瞬間が来るんだ。それでその後は裁判さ。俺は針地獄行き。俺の直前に裁判を受けていた奴は冥界行きだった。もう輪廻したか、あるいは西行寺のお姫さんとこで花身でもしてやがったか知れないが、不摂生は禁物だわなあ」
「生き返りたいとは思わないのか?」
「女房のことは気がかりだがな、それでも辰次って野郎はもう死んでる。そりゃあ揺るぎない事実だ。黄泉路の大石は決して動かしてはならねえ」

俺はもう人間じゃねえんだ、と辰次は繰り返した。

「だからな、怖くはねえよ。これは本当だ。というか俺はここでこうやって店やらされてる時点で生前の醜態を晒し続けているようなもんなんだからよ、むしろとっとと先に進みてえよ。うっかり女房にでも会っちまったら立つ瀬がねえ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだ。どうした、えらく弱気じゃねえか」

六介の猪口が満たされる。

「この異変は今までの異変とは意味が違う。里が――全滅する可能性も零じゃねえ。そりゃ今までだって馬鹿みてえにでかい異変を起こす奴はいたさ。でも俺らは結局は安全圏にいた。里で仕事休んで酒喰らって、天狗衆のばらまいてく新聞でも読んでよ、そんで龍神像の目が赤じゃなくなるまで待ってりゃよかったんだ。でもよ、今回は違う……」

やっこさん本気だ――そう六介は呟く。それは能天気な大酒のみである彼にしては重苦しい口調だったから、辰次も少し口調が神妙になる。

「なあ、六介。死ぬのは怖えか?」
「怖いさ。生きてんだから」
「だわなあ。しかしあれだ、幽霊には幽霊の、亡霊には亡霊の、怨霊には怨霊の気の持ちようってもんがある。どう転んだって――みんなけっこう呑気にやっているぜ? おめえも死んでみりゃわかる。死んでみるか?」
「馬鹿言え。この人手が要り様なときに呑気にくたばってられっか。まだ休むわけにはいかねえ」
「その意気だ。馬鹿が悩んでも馬鹿な結論しかでねえぞ。それならむしろ突っ走れ、邁進しろ。ああ、そうだ」

辰次は近くにあった欅の指物箱を開けると、そこからずた袋を取り出した。何か金属類の触れ合うじゃらじゃらという音がする。

「なんだ、そりゃ?」
「俺が稼いだ浄財だ。素人が使っても破邪の道具になる。持ってきな。戦えねえ奴もいるだろうからよ」
「待てや、こりゃ是非曲直庁に納める金じゃねえのか? いかんだろうよ」
「なに、ここじゃちょろまかするような奴はざらだ。どいつもこいつも地獄上がりだからな。いいから貰っとけ、俺がもっかい地獄に帰ればいいだけの話よ。それにな、昨日ここの商売人連中で話し合ってな、俺と同じことをしている奴は多いぜ? お前さんと一緒に来たやつらに預けているだろう」

灼熱地獄上がりの奴はほとんど拒んだがね、と辰次は煙管で煙草盆の縁をカンカンと叩いて、中の灰を落とした。そして火皿に新しい煙草の葉を詰め、煙草盆の中にある炭火に煙管の雁首を近付け、もう一度火をつける。
新鮮な紫煙がふわりと舞い上がった。

「ま、そういうことだから有り難く持って行きやがれ」

そう言って辰次がずた袋を六介に差し出した時だった。



「ピン撥ねとは感心しないねえ」



よく通る割にはいい具合に力も抜けた感じのする声が響き渡った。

「げ、小町の姐さ――」

動転して煙を吸い込んだか、辰次は思い切りむせた。
店の入り口に奇妙にねじれた鎌を携えた小野塚小町が立っていた。両側で束ねた髪は深緋色で、ゆったりとした紺藍の着物は貨幣のような飾りのあしらわれた腰帯により引き締められている。元より背が高いうえ、足もとの黒草履も高さがあるからかなり背丈があるように見える。
その彼女は、ちょいと邪魔するよと言って店の中へと踏み入り、六介同様に上り口の縁に腰を下ろした。

「ほれ、私にも一杯よこすんだ」

手にした鎌を床に置きながら小町は言った。それで三つ目の猪口が酒で潤う。

「ふむ、安い酒だ。安くていい酒だ。もう一杯」

一気に呷って、空の猪口を辰次に向けて差し出す。かしこまった様子で辰次はそこに再び酒を注いだ。
今度はその一杯を呷ることはせず、小町はそれを框の上に置いて話し始めた。

「辰次、だったっけ?」
「へえ、相違なく」
「ま、あれだ。地獄に戻る覚悟が出来ているってんなら、あたいは止めんよ。外界の法律家なら悪意善意がどうのこうのと言うところだが、あいにくあたいは彼岸のもんだ。たとえ盗んだ金でも間違った使い方はしていないようだからね、見逃しておいてやろう……ただし、そっちの樵はということだが。いいかい、辰次。盗んだ金ってのはね、悪銭というものだ。それはたとえまっとうの理由でもって人に渡ろうが変わりはしない。だからあんたには、単にその金を盗んだ罪だけじゃなくて、その罪をそこな樵に伝播させようとした罪も付帯するぞ。今なら未遂で済むが、どうする?」

答えを急き立てるような口調ではない。何かを圧するような声音でもない。
淡々として、さも当たり前のことを話すふうに死神は語るが、それは辰次自身に判断を委ねるからこそそうするのだろうと六介は思う。

「里の一大事でさあ、構いません。俺はもうあの里の者ではないですがね、それでもあの場所で過ごした記憶って奴は持っているんですよ。それはもしかすると未練だの執着だのってえものなのかもしれねえが、それならそれでもっかい地獄でしばかれるまでです。ただ――そこの馬鹿はどうなりますかね? これを受け取れば罪に問われますか?」
「使い方次第、だな。そいつがあんたから貰った金を里の奴に渡したとしよう。まあその時点で辰次がちょろまかした分の金は、誰かのために使われたことになる。そうなりゃそれはその誰かが死んだときに渡し料として最終的にはこっちに帰ってくるからねえ。だから見逃しておいてやると言ったんだ。そこの樵は同じ酒飲みでもあんたと違ってけっこう方正なようだからね。ただ――」

置いておいた猪口を手に取り、小町は六介の方へと視線をやった。
そして少しだけ、それまでの口ぶりがはらんでいた面倒くさそうな気配が消える。

「六介といったか? あたいが真面目に話をするのは珍しいことだから、ありがたく拝聴すること。そして人里の連中にも伝えなさい」

猪口を六介の方へと向ける。なみなみと張った酒がその中で揺らいでいる。

「仮にあんたたちが死んだとしてだ――その後、魂は冥界なり何なりに逝ってその内には輪廻する。よほどの大悪人でもない限りはその死後は保障されている。そこの飲兵衛の言った通りだ。でもね、だからと言って今の生を軽んじることはするなよ? あんたらの魂と、今の魄とが出会うのはこれが最初で最後なんだ。それは割と奇跡的なことであると思ってよい。だから簡単に命を投げ打とうとはするな。足掻いてもがいて、生き伸びるといい」

そう言うと小町は猪口を呷り、ぷはあと息を吐いた。

「あんたらは穢土の住人だからね、生きることを怠ってはいかんよ? 生きる罪から逃げ出さない、それが今のあなたたちに積める善行さ」

何だか閻魔様みたいなことを言っちまったよ、と小町は元通り面倒くさそうに呟き、その両手を頭の後ろで組んだ。
そこへ白衣をはためかせた女性が入ってくる。朝倉理香子である。
科学者で魔法使いという変わった生い立ちの彼女の白衣の裏側には、今は無数の魔具が仕込まれている。その様を六介は行き路で目撃していた。

「樵の人、酒の選別は――ん、死神か?」

物珍しそうな視線が小町に注がれる。小町は小町でその彼女を同じような好奇の目線をもって見据えた。

「科学者かな? 珍しい。この場でそれを求道するは難儀だろう?」
「そうでもない。少数者であるということが楽しい人間にとっては、たとえそれがどれだけ人の通らない道であろうが歩んで楽しくないということはないわ。私はひねくれ者だからね」
「そういうもんかい? まあそれはいいや。それよか、あんたは記憶力がよさそうだからあんたにも伝言を頼もう」
「誰にだ?」
「白澤のセンセイに。なあ、あんた。ええと――」
「朝倉だ。朝倉理香子」
「そうかい。朝倉サンとやら。見たところ頭も切れるようだから聞くがね――」

そう言うと小町はもう一度朝倉の方に視点を移す。
その目は恬淡な死神の目だった。



「上白沢慧音はどちらを選ぶ気だ?」



その意味するところは辰次と六介には分からなかったのだが、朝倉は何かを察したようだった。

「人里の意思がどのように決されているかはあたいは知らないが、とりあえず上白沢は絶対に関わっているだろう?」
「ああ、そうだ。そして……『貴女が予期しているような選択』がなされる過程において最も苦悩するのは、間違いなく先生だろう。たぶん彼女は――人間ではなく、幻想郷を取るよ」
「人間としての選択はしないってことかい。それは――半獣だからかね?」
「違う。歴史を記す者だからだ。記すべき歴史が断絶してしまうような事態を彼女は望まないだろう。たとえそれを守る過程において、彼女自身が人里の者たちから恨まれようともね」
「だがあいつは人間が好きで里にいるんだろう? そんな奴が外の人間のように――あの五十年前の大洋を跨いだ戦の時のように、命を天秤に乗せることができるのか?」
「ちょっと待ってくれ、御両人。俺たちにも分かるように話をしてくれ」

六介が横やりを入れるが、そのうち嫌でも分かるさと言って小町はそれを突っぱねた。

「やらざるを得ないだろうさ。先生が、そして里の人間たちがこの場所を捨てたのなら、多くの妖怪は危機に瀕するだろう? 妖怪は敵だがね、害悪にしかならないような輩も多いがね、それでも見放すわけにはいかないでしょう? いちおう同じ世界の貉だ」
「というより幻想郷の維持が困難になるね。そうなったらあたいも四季様も晴れてこんな僻地担当からはおさらばなわけだが、それをあの方は望まないだろうな」
「むしろ逆に問いたいわ。貴女はどうする気? もし本格的な戦いをこの場所が迎えたとして、貴女はどう動くんだ?」
「それは上の裁定次第だ。特に連絡がなければ平常業務だが、寿命管理関連の部署がどういう数値を算定するかにもよるな。死者の数は多すぎても少なすぎてもいかん。予定されていない人死は上も回避したがるだろう。ただまあ――」

小町は床に置いてあった鎌を手にする。
歪な曲折を見せる渡しの鎌が、店の外から入り込む日を浴びて鈍く煌めいた。

「渡すにせよ運休するにせよ、私は今回は全力でやる。億劫ではあるが、火車が獲物を掻っ攫っていくような事態はないと思っていい。だから安心して冷酷になれ。それが慧音への伝言さ」

邪魔したね、と言うと小町は酒代と思しき銭を一枚辰次の前に置き、店の外へと消えて行った。






◇◆◇






人里を出てしばらく東へと進んだところに一本の川が流れている。一週間ばかり前に藤原妹紅が釣りをしていた川である。
人里から迷いの竹林を目指す場合、この川は一つの目印となる。ここを下って行けば竹林の入口付近へと至るのだ。
その白砂の目立つ川原の上を、光学迷彩に身を包んだ河城にとりが飛んで行く。
はるか後方には妖怪の山が、そして平時であれば霧の湖が見えるはずだった。九天の滝と霧の湖、そしてこの川は長大な一本の水流として繋がっているのである。
だが今は湖は見えない。
代わりに見えるのは、ほとんど黒と言っても良い赤の霧である。それが密集してドームのようになり、霧の湖を覆ってしまっている。吸血鬼の仕業だ。
内部には囚われた仲間も多くいるはずであるが、濃度が高すぎて中の様相はほとんど知れないそうだ。千里眼持ちの友人――椛の談である。
現在妖怪の山は通常とは異なる体制でもって動いているのであり、本来にとりもそうそう山内の持ち場を離れてよい身ではないのだが、その場の責任者に抜擢された椛が便宜を図ってくれたのでこうして抜け出すことができたのだった。

――椛か……

協調性に優れる椛は文句を言わないでいたが、しかし間違いなく今回の件にまつわる人事は椛にとっては不利になるものであるのだと思う。
一定の約款と理を持って動く組織――妖怪の山の勢力は幻想郷では珍しいタイプの集団だ。そしてそうした組織においては、責任の所在というものが非常に重要な意味をもつようになる。
北壁の警備責任者というのが今の椛の立ち位置である。
一見すると聞こえが良い役職のようにも感じられるが、その実それは北壁付近において何か不始末があった場合はその責任をすべて椛が負うということに他ならない。というよりそれ意外の目的がこの人事には無いのだ。有り体に言うのなら、下に責任を負わせ上を保護するための配属なのである。

平時であれば渓谷一帯のトラップ――敵の色覚等に作用しその侵入経路を一元化する術式――によりことは足りるのだが、今のこの状況においては山への侵入者を完全に防ぎきることは半ば不可能ではないかとにとりは思う。だがたとえそうではあっても敵の侵入を許したことにつき一定の責任を負う受け皿というものは必要になるのだ。だから――

――『まあ私が下っ端まで逆戻りしても、将棋の相手はするように』

これは実質の降格人事だ。

――『これが降格ってのはまあ分かるけどね、でもそういう処分が下るってことは、組織はすでにこの騒動が収束した後の事まで考えて動いているってことだよ。私はそこまで考えて動くことは出来ない。なら――そういう采配を振るえる上のヒトらの権威を守る役どころも必要ってことじゃないの? それにホラ、別に下に行ったところで何かが変わるってことでもないしね。死にゃあしないよ、大丈夫』

そう言って椛はいつものように笑っていた。物分かりが良すぎる――とにとりなどは思う。
体制に対して感情論で文句を抱いてしまうことが多いにとりからすれば(臆病だから溜め込むだけである)、そうした傍から見て理不尽とも思えるような処分や裁定に対し、組織全体の先行きを見据えた上での意味を見出すことができる視点というのは見習わなければならない部分があると思う。
ただ、それは頭では分かっているのだが――納得は出来ない。組織という場所は、構成員の感情をややもすればどこかへ押しやってしまう側面があって、まだ比較的若い妖怪であるにとりからしてみると、時折組織のそうした部分がたまらなく嫌に思えてしまうときがある。もちろんその組織から自由になってしまえば、それはそれでにとりは別口の不安を抱えることになるのだろうから、ジレンマがある。

――やめだやめだ。

今の自分は一先ず組織の一員ではなく、一人の技術者として動いている身だ。椛がそうやって動けるよう気を利かせてくれたのだから、余計なことを考えるのは山に帰ってからでいいだろう。
そうして色々考えたり考えることをやめたりを繰り返しながら進んでいくうちに、にとりは探していた姿を見付けた。
フリルの目立つ赤のドレスに幻想郷では比較的珍しい長めのブーツ。皐月の穏やかな日の光を浴びて輝く青緑の髪。
鍵山雛である。せせらぎを囃し代わりにして、川の水面の上にいつものかしこまったポーズをして浮かんでいる。
傍から見れば厄にまみれてはいるけれど、注視してみればそのただ中にいる雛自身はむしろ清廉だ。

厄を集める彼女は当然のことながら、人里そのものへはあまり近寄らない。そうしてしまっては意味がないのである。だからこうして里から少し離れたところで厄を集め、それを川へと流している。
平時であればこれは逆で、流し雛たちによって集められた厄を雛が回収し、それをしかるべきところへと送り届ける形となるのだが、今は里の人間たちが人形作りに勤しんでいる暇がないのと、いちいちそうしたプロセスを経ていては状況に流動的に対処することが困難になるのとで、雛が直接に里の厄を回収してそれを川へと流しているのだった。
そして――

――あれは……

河原に立ち、雛の姿を見守るようにしている人影が一つあった。
ふくらはぎまで達する豊かな銀髪と、霊布らしきものが大量に刺繍されたもんぺ――

――あいつか

近くににとりが着地しようとすると、その人物は光学迷彩を解除したわけでもないのににとりの方を一瞥し、ああお前かと言った。

「妹紅じゃん、久しぶり」

河原に降り立つと、にとりは光学迷彩を解除した。周囲の風景が少しだけ揺らぎ、まるで曇り硝子が普通のガラスに少しずつ変じていくかのように、その姿が露わになっていく。
さる経緯からにとりは目の前の人物――藤原妹紅とは面識があった。その経緯に際しては雛や八雲藍といった面々も一枚噛んでいるのだが、この騒動とはなんの関係もないことなのでにとりはすぐに思考を切り替える。

「鍵山様のメンテナンスか?」

隣に並び立ったにとりに対し、相変わらずの愛想の感じられない――正確に言うと伝わりにくい――口調で妹紅は言った。
この少女は聞くところによるとまだ妖怪たちが外においても猛威をふるっていた古い時代において、なお数多の妖怪たちから恐れられ、またかの山の四天王たち――にとりは若い妖怪なのでそれらの存在は古参の妖怪たちの話や記録をつてに知っているというだけなのだが――と互角に張り合った存在でもあるのだそうだ。
あれと四天王が争ったら幻想郷が焦土と化す――というのは古参の河童の言い草である。
そうした身の彼女ではあるが、やはり里寄りの存在だからだろうか、雛には敬意を払っているようだ。それがにとりには少し誇らしい。ただ――

「メディカルチェックと言ってほしい」
「ん、そうね、それもそうだ。で、あんたはメディカルチェックに来たの?」
「そうよ。友だちが気を利かせてくれたのさ。妹紅は何やってんの? 里に行かないでいいのかい?」
「この先の竹林に用があってね。ほんとは筍採りの連中も一緒だったんだが、先に行ってもらったよ」
「大丈夫なの、それ?」
「なに、連中は平気で竹林に踏み行っておまけにどこぞの兎の案内もなしで普通に帰ってくるような奴らだ。特に問題はないだろうさ。飛ばない奴にとってはね、迷いの竹林は案外迷わないのだそうよ。飛ぶと途端に方向感覚が狂うけどね」

河原にはその筍採りたちが置いて行ったと思われる野菜だの果物だのが、かごに入って残されている。雛へのお供え物ということなのだろう。
そして二人が適当なやり取りを交わしていると、作業を終えた雛がふよふよと二人の方へと寄ってきて、白い歯を見せて笑った。

「おはよう、二人とも。妹紅は竹林へ行くの? ちょっとだけ厄が付いて回っている。地震、雷、火事――とても『貴女らしい』のが三つも付いているわ。引き受けなくとも貴女なら鎮められそうだけどどうする? 引き受けよっか?」

火事はともかく、残りの二つがどのように妹紅らしいのかにとりには分からなかった。

「いや、いいよ」
「別に遠慮しないでいいよ? 私の中では貴女はきちんと人間のカテゴリですから」
「慧音みたいなことを言うね。でもいたずらに負担を増やすこともないでしょう? 気持ちだけ受け取っておくよ。私なんぞのを背負ったら疲れてしまう。それに――ちっとは厄でも持って行った方が連中にはいい土産になるわ」
「厄がお土産?」
「こっちのことよ。じゃあ私は竹林に行くからここで」

不器用だ――そうにとりは思う。要するに妹紅は雛が厄を流し終えるまで見守っていたのだろうに。

「ねえ、にとり」
「あん?」
「鍵山様のこと、頼んだよ。あと鍵山様、里のこと――お願いね」

そう言うと妹紅はぱんぱんと柏手を鳴らした。渇いた音が五月の空気の中に拡散して消える。

「貴女も――息災を」

雛はそう妹紅に返すと、明るくほほ笑んだ。
そして妹紅はその手をもんぺのポケットに戻すと、竹林がある方角――下流の方へと歩き出す。拍子に河原の砂より白いその銀髪がきらりと輝いて、それが一瞬にとりの目をくらませる。

「妹紅もがんばれよ~。なんだか知らんが」

その背に向けて発されたにとりの言葉に対し、妹紅はこちらを振り返ることはせず、代わりに片手を挙げて答えた。
ぶっきらぼうだとにとりは思う。それでいて細かな所作や立ち振る舞いは妙に気品があったりもして、その辺りのアンバランスさは決してにとりは嫌いではない。

「はいよ。じゃあね、人形さん『たち』」

そう言い残すと、古き妖の時代を生き抜いた少女は悠然とその場を立ち去って行った。

「さてと……雛、大事はない?」

妹紅の後ろ姿を見送ると、にとりは雛に話しかけた。にとりがこうしてここに飛んできたのは、先ほど言ったとおり雛のメディカルチェックのためである。
行儀良くたたずむ雛を見ながら、数日前の左手のことをにとりは思いだす。
雛は――無理を無理と思わずに押し通してしまうところがある。
それは痛覚が鈍感であることに直接的な原因があるのだろうとは思う。余程のことがなければ雛は負った役割の性質上からか、痛みというものを感じないのだ。そしてその余程のことが起きる可能性が非常に高いのが今の幻想郷である。だからにとりとしては気が気ではない。山の防衛のとき、あるいは工場で仕事をしているとき――そんなときでも雛のことが心配になる。
組織に属するものとして、あまり感心出来たことではないとはにとり自身思う。椛のようには振る舞えないのである。

「大丈夫よ。厄もちゃんと集めて、きちんと流している」
「あんたの大丈夫はあてにならないんだ。ちょい見せてみ」

雛はあまり要領の良い方ではないのだ。それは日ごろの行動を見ていれば分かる。能がないということではない。ただ実直で――愚直だ。
ことによっては自身の身を危険にさらしうるかもしれない役割を負う者として、それはあまり良いことではないだろう。

――悪いということでもないんだが……

危険ではあるのだ。
危うい――そういう表現が雛には似合う。似合ってしまっている。当の本人がその危うさに鈍感であることがその気配にさらなる拍車をかけている。
そしてにとりは雛の体のチェックを始める。
叩いたりつついたりするからそれは傍から見ると何か悪戯をしているようにも見えるのだが、当人たちはそのことには気が付いていないし頓着もない。

「やっぱり――左腕の接続が甘いわ」

この間切れたところである。接続が回復しきっていないようだ。

「くすぐったいんですけど」
「我慢しなさい」

雛が困ったといった口調で言う。それもそのはずでにとりは左腕と右腕の硬度を比較するべく、露出した雛の両の二の腕をつかんだりさすったりしているのである。その結果左腕が少し強張っていたため異常ありと判じたのだ。
そして――今にとりの掌の中には雛の細い腕がある。
白く、柔らかな――

――女の子の腕だ。

そういう当たり前のことに改めて感じ入ってしまうのは、今が当たり前ではない時間の内にあるからなのだろう。

「ま、左腕はそのうち全快するだろうから大丈夫だね」
「だから大丈夫って言ったじゃない」
「そうそう、こんなものを持って来たんだ」

にとりは背負っていたリュックサックを下ろすと、中から赤い敷物を取り出した。そしてこっちこっちと言って手招きをしながら、河原から少し離れた草むらに敷物を引いた。草の緑の中にあって布の赤は良く映える。
そして草むらにリュックを置くと、小さな白い徳利をとりだした。

「お酒?」

しずしずとにとりの元まで歩いてきた雛がたずねる。

「そ、白酒」

白酒は雛祭り用の祝い酒のことである。

「季節はずれだってば。それに私は――飾り雛じゃないよ」
「気にしないの。ほらほら座ろう」

そう言ってにとりは向かって左の位置に腰を下ろした。あいにくにとりは正座は苦手なのでいわゆるあひる座りである。

「うーん……まあいいか」

そう言うと向かって右に雛も座った。






雛の髪を結う二本のリボンをほどき、ほんの少しだけにとりはその髪を撫ぜると、手にしたツゲの櫛でもってその髪を梳かしていった。
くせだらけのにとりの髪とは違い、その髪は素直だ。一櫛入れればそれだけで綺麗に流れていく。
そうしてまっすぐで艶やかな櫛目が雛の髪に現れる。そこに穏やかな風が吹き込み、体と髪との間に程よい隙間をつくって、ふわりとした質感が生まれる。

櫛という言葉は『奇し』に通ずる。
ヤマタノオロチ退治の際にスサノオノミコトは、生贄であったクシナダヒメを櫛へと変え、自身の髪へと挿したのだそうだが――神代の出来事については妖怪の山の者もあまり知識を有してはいない。大半は首領である天魔より語られたことであり、真偽の程をにとりは知らない――、このクシナダヒメは漢字で表記するのなら奇稲田姫となる。その『奇し』である。ものの不思議や神秘を表す語だ。また神前に備える榊の枝のことを玉串と呼ぶが、この串も同じ由来を持つ言葉となる。
そして髪は言わずもがな上、即ち『神』と同根の言葉である。

「うっし、完了」

櫛を持って髪をすく――だからこれはとても特別な、儀式めいた意味合いすら持つ行為となる。
いくら櫛を入れようが、風が吹けば一気に髪は乱れてしまう。儚く流れていってしまう。しかしたとえそうであっても、何度でも梳る。それ自体に特別な意味がある。少女は櫛を手放さない。

「リボン結ぼうか?」
「ん、いい。しばらくこのままでいい。それよりにとりの髪も梳いてあげましょう」
「へ? いや、私はいいよ。あんまりいい髪してないし、癖っ毛だし」
「そんなことはないと思うわよ? それにほら、貴女いつも帽子かぶってるもん。傷むよ?」
「でも――」

はっきり言ってにとりはそうしたことが苦手である。それは妖怪として年若いということも原因の一つなのだろうが、それ以上ににとり自身の性格による部分が大きい。

――視線は苦手……

飾るということは、見られるものとなるということだ。視線の客体であることを引き受けるということである。それが――苦手なのだ。
そんなことをにとりが考えて座り込んでいると、雛がその顔をのぞきこんだ。
瞳に小さな青空が宿っている。
その二つの瞳を直視することが何だか妙にはばかられて、にとりはごまかすようにして雛の口元の辺りを見てしまう。見るのも見られるのもにとりは苦手なのだ。だから口籠ってしまう。

「ほら、櫛を貸して」

そう言うと雛はにとりの手に収まっている櫛に触れ、その櫛に絡められたにとりの指をゆっくりとほどいていった。
下ろされた雛の髪が煌めく。
そしてにとりがおどおどと口籠っている間に、雛は櫛を取り上げて、にとりの帽子も取ってしまった。そのまま両側の髪を結う髪留めも取り外される。
癖のあるウェーブした髪――下ろしてしまえば、それは結構な長さを有していたりするのだ。

「やっぱり綺麗な髪。川だね。にとりの髪は川」
「川?」
「渓流はまっすぐ流れることなんてないけど綺麗じゃない。そういう感じ。なに言ってるか良くわかんないけど、ともかく私はこういう曲線は嫌いじゃない」

何気ない口調で雛は言うがにとりはものすごく落ち着かない気分である。
髪を下ろすと何だかやけに女の子っぽくなる――それが落ち着かなさの原因になっている。光学迷彩だの雨合羽だの工具類だのといった、あまり女の子らしくない小道具ばかり身に付けているから、下ろした髪のその部分だけがアンバランスになる。不調和だと思ってしまう。だから――恥ずかしい。
それでいてにとりは髪をバッサリと切ってしまうこともしないでいるのだから、それをほめられるのは嬉しくもあるのだ。女の子らしさといったようなものを表面に押し出すのは苦手だというのに、他方でそれを誰かに察知してほしいと心の内で思っていたりもする。内気なのである。

「髪質がやわらかいわね。きちんと手入れをすればもっと綺麗になるはず」

にとりの髪の間に指を這わせながら雛は言う。
その感触と雛からの褒め言葉がやけにくすぐったい。

「あ、にとりは櫛の使い回しとか大丈夫なヒト? やだ?」
「別にそんなのは気にしないけど……」

無機物に近い雛の身体は汚れというもからは無縁に近い。
じゃあこのまま――そういうと雛はにとりの髪をゆっくりと梳かしはじめる。ツゲの細やかな歯がにとりの髪の間を縫う。

「椛さんと文さんは?」

櫛を入れながら雛がたずねた。

「椛は――相変わらず警備中だよ」

妖怪の山の人事などは雛には関係のないことだから、ごくごく表面的な情報だけを伝える。

「文さまは機動力と対応力を買われて偵察任務中。そろそろ敵の館に探りを入れる頃だと思う」

もっともあの霧がたいそう厄介で対処法が見当たらないため、とりあえずは近寄れるまで近寄って状況をうかがうだけになりそうとのことである。接近可能となる限界地点を測量するといったところか。物凄く面倒くさそうな口調で文本人が椛に愚痴っていたのである。
彼女のことだからとっとと普段通りの出版体制へと戻りたいのだろうが、あいにく出版印刷に関わる山伏の面々も今は業務に制限がかかっていて、個人発行の新聞の印刷などは門前払いとなってしまうのだ。
それに新聞屋としての文の天狗間での評価は残念ながらあまり高くはない。どちらかというと文の組織における評価は、新聞担当とは思えない戦闘面での実力による部分が大きいのだ。

射命丸文のブン屋としての評価がいまいちな理由は簡単である。
『文々。新聞』は信念か何かがあるのかは知らないが、実際に起こったことしか記事にしないという特徴がある。妖精等を操って意図的に事件を誘発することはあるそうだが――それはそれでどうなのかとにとりは思うが――、少なくとも起こっていない出来事は決して綴らないのだ。必ず事実が下地となる。だから常にネタが枯渇している。
しかし他の天狗はその辺りは頓着がないので、あることないことべらべらと書き連ねる。結果として紙面は豊かになる。
そして天狗にとって新聞とは楽しく読むもの――娯楽なのだ。だから文の新聞の評価は低い。発行部数も発行ペースも烏天狗の平均には大きく及ばないでいる。姿勢からして溝があるのだからこれは当然のことである。
しかし人間にとっては新聞というのは事実を知るためのものであるらしく、逆に文のスタンスは人里での受けは(そこそこ)良好である。人里だけで読み手の数を調べれば文の新聞はそれなりに上位に食い込むはず――というのは椛の弁である。

――『火のないところに煙だけ立ってるのって気持ち悪いじゃないですか。私は自分で火を起こしてでも、火と煙はセットにしておきたいの』

そういう上等なのかそうでないのか良く分からない答えをにとりは聞いたことがある。

――『案外根は真面目なんだよ、あのヒトは。そう気取られるのは大嫌いらしいから、私がこう言ったってのは内緒ね』

そう言ったのは椛だ。本当にそうであるのかどうかは知らない。

「しかし――妙な按配だなあ」

供え物の中にあったきゅうりをぽりぽりと齧りつつにとりは呟く。
にとりは要らないと断ったのだが、雛がどうせ自分は食べる必要がないからと言って勧めたので――

――まあ一本くらいならいいよね。

河童にきゅうりは欠かせないのである。

「きゅうりが?」
「いや、きゅうりではなくこの状況が。きゅうりは美味しいよ」

今はそれなりに切羽詰まった事態であるはずだった。ところが雛とにとりはこうして川原で敷物を強いて白酒をちびちびやっているのである(雛はあまり量を飲まない方だが)。

「緊張感がないというか何というか――正直ね、あの時は怖かったんだ」
「あの時? 吸血鬼が現れたとき?」
「雛はさ――あのときだって私や椛の部隊の子たちを守ってくれたじゃない。私は全然ダメだった。縮こまっちゃってた。だからね、あの満月の次の日は怯えていたの。何かとんでもないことが起きるんじゃないのかって。でも――敵はだんまりを決め込んじゃった。動きがない。今だってさ、すごく静かじゃない。いつ動き出すかは分からないけれど、それでも今はなんとなく時間だけが過ぎてる」

そう言ってにとりは目線を空にやる。
抜けるような青空に、流れる風。こうしてこの情景とこの時間だけを切り取って見てみれば、それは平素の幻想郷と何ら変わりはないような気がする。

「そうでもないよ」

きっぱりと雛は言った。

「え?」
「私たちの知らない水面下で何かが動いてる。幻想郷全体が大きなうねりの中に呑み込まれている――そう感じるの」
「それはそうだよ。大結界からこっち、こんなに大きな騒動は無かったんだし」
「違うの。何かね、言葉ではうまく表せないんだけど転換点とか岐路とか――あるいは節目かしら? ともかくそういうところに幻想郷そのものが立たされているような気がしてならないの」
「良く分かんない」
「私も分かんない。でも――たぶんこの騒動が終わった時、何かが大きく変わるような気がする。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないのだけど」

終わったよ、と雛は言うとにとりに櫛を返した。






「おお、にとりか。おかえり。鍵山様はどうだった?」

滝に帰りついたにとりに対し、幻想郷を見渡すような仕草をしつつ犬走椛がたずねた。その背後を落ちていくのは言わずと知れた幻想郷最大の瀑布である。これだけの高さがありながら霧や雲に化けることもなく下までまっすぐと落ちていくのは、河童たちの手によりそうした細工が施されているからに他ならない。河童と水は切っても切れないし、また発電にも水は使える。

「今のところは大事はないよ。元気だった」

にとりとしては結構長居をしていた気になっていたのだが、実際にはさして時間は経っておらず、太陽も天頂に達してすらいないのだった。まだ午前中なのである。

「椛はどうだ?」
「こっちも同じ。獣どもはたまに入ってくるけど、明確な害意を持っている奴は今のところいない。事情は分からんが敵はまだ動く気はないということなんだろうな」
「充電期間ということかねえ? あんな一撃をそうばんばん繰りだされても困っちゃうけど」

あれは満月だからできたこと――そうにとりは思いたいのである。

「今のところ周囲に不審なものなし、と。髪をほどいているの?」

物珍しそうな視線が椛から発される。今のにとりは帽子もかぶっていないのだ。

「……おかしいだろうか?」
「いや? 似合ってると思うよ」

柔和な目をして椛は微笑んだ。千里眼を解除した時の椛の目はこうなのだ。優しい髪色と良く馴染む目である。
対し、彼方を見ている時の椛の目は鋭く、深い。澄んだ冷泉をのぞき込むような透明感がある。
その二つの眼のギャップがにとりは嫌いではない。
綺麗な子――つまるところはそうなのだと思う。ただあいにくにとりはそれを面と向かって相手に伝えられるほど器用ではない。褒めるのは貶すより難しいのである。

「ところでにとり」
「ん?」
「言いたくないなら言わなくてもいいが――どうして鍵山様にそう執心する? いや、悪いってことじゃないんだけどね」

――それは……

「大した理由ではないよ。ただちょっと放っておけないってだけ」
「そうか? ならいいんだけど……」
「本当に――大した理由はないの」

その言葉に偽りはない。にとりが雛についてああだこうだと気を回さねばならない理由は、本当に些細なことである。単に出自が少し似通っているというだけのことだ。後は昔世話になったことがあるといった程度の理由である。

「あ、そうだ。あんたこれから暇?」
「工場の当番ではないから、暇と言えば暇だが……」
「じゃあちょっと話に付き合いなさい」

便宜を図ってもらった身であるし、することがないのは事実なのでにとりは大人しく従うことにした。

「構わないけど、話って?」
「おかしいと思わない?」
「藪から棒だなあ。おかしいって何がさ? 敵さんの行動?」
「それもあるが――むしろ上の方針が私には分からないの。なんで上は人里に兵力を送らないんだろうか?」

それはにとりも薄々思っていたことである。
人里は替えが利かないのだ。人間の領域というべきものは、この幻想郷には人里をのぞいては存在しない。
では仮にその人里が壊滅し、人口が激減したとして――そこに外部から新しく人間を連れてきて入植させたらどうなるだろうか?

――今のようにはいかないだろう。

山の妖怪は野の妖怪にくらべて外の情報にはそれなりに強い。だから分かる。
外の人間と幻想郷の人間とは、違う。人間という点は一緒なのだが、何かが違う。
そこから伝わってくる気配だとか、抱いているであろう想いだとかが――明確に異なっている。彼らをここに招請したところで今のような絶妙な人と妖怪のバランスが再現できるとは思えないのだ。
幻想郷の人間は、当り前ではあるが幻想の人間なのである。

「私らには分からないお考えがあるんじゃないの? 椛だってそう言ってたじゃん」

相模国の方言がにとりの言葉に混じる。

「それはそうなんだが……何だろうね、何か不自然な感じがするんだ。このまるで猶予期間のように与えられた敵の沈黙に、動こうとしない上層部の方々……偶然なんだろうが、不思議とかみ合っていると思わない? なんだか、最初から台本が定められていたかのような違和感があるの。全てがあらかじめ仕組まれていて、私たちはその演目を演目と知らずに演じさせられている、この静穏は幕と幕の間の休憩時間にすぎないって――そう感じるの。ただの妄想だけどさ」
「筋書きを定めた脚本家がいるってことかい? この騒動に? それはないって。私だって椛だって自分の意思で行動しているでしょ? 台本なんて読んだ覚えはないし、私たちの四肢に糸は巻かれていない」
「仮にだよ――あ、私がこう言ったってのは口外法度ね――、上層部がその脚本を書いた輩と通じていたとしたらどうなる?」
「ち、ちょい待ち。椛らしくないってば。お上の方針を疑うなんて」
「疑っているわけじゃないよ。ただそうでも思わないと、上が人里に対し一切はたらきかけをしない理由が分かんないってだけ」
「その脚本とやらの内容は?」
「そんなの分かんないよ。ただの思い付きだもの。でもとりあえずいま考えられる中で最悪の事態ってのは人里が壊滅、もしくは完全に敵の手中に落ちるってことだと思うの。だからこそ山が人里へ派兵を行ったなら、当面最大の問題である人里の安全は保障されるはず。逆にそれをしない以上は――ん?」

そこで何かに気が付いたらしく、椛は目付きを変えると遠くの方を見つめた。
その方角には冷え固まった血のような赤黒い霧が結集している。そこにあったであろう湖は、ほとんどすべて霧の内に呑み込まれて見えなくなってしまっている。
蒼空の下にあって、しかしそこだけが暗い。

「なに見てんの?」
「文さんだけど……あの赤い髪は南蛮の者か?」
「南蛮?」
「どうやら敵を一体捕虜にしたみたい。赤い髪――」

下級の悪魔だね、あれは――と椛は言った。


(続く)
かぐや ~ SELenological and ENgineering Explorer ~
こう書くと東方のタイトルっぽく見え……ないか。アースライズは綺麗でしたね。おおおな。
というわけでお久しぶりです。きりの良いところが見つからず、やっぱり遅くなりました orz
本当はもっとまとまった量を投稿する予定だったのですが、まとまりすぎてスクロールバーがやばかったので、内容が半端ですが分割しました(毎回言っているような……)。

うっかりと言えばこの話の主役の一人は間違いなくゆうかりんなのですが、ここまでまったくそれと分かる描写がなかったことで、これは完全にミスりました。とりあえず次章では寝巻き姿で暴れまわる予定。9位だったし、多少強めに書いてもいいよね。ダメって言われても書くけど。
でもって以下は例によって読み飛ばし推奨の言い訳タイム。今回も長め。

① オリキャラたちについて
人里――と幻想郷を一般人の目線で見るとどうなるかしらというのは一度やりたかった話なので。しかしなんかこの話は強めのオリキャラが多いなあ……何人か死ぬ気もするけど。
② 妹紅とにとり、妹紅と西行妖
俺この話を書き終わったらもこたんの昔話を書くんだ……つまり身の程知らずに別の話の伏線ですよ、奥さん。生意気。ちょっとしたモチベ維持のために。ちなみに慧音先生の対もこたん口調は砕けモードに戻しました。やっぱりそっちの方がやりやすいのです。
③ 各方面の神様たちについて
風呂敷広げすぎてないかというような諫言を頂いたのですが、神様らはほんとに名前が出るだけです。紛らわしくてごめんなさい。出る理由は書いた奴の趣味と、それを出さないとチルノ等の強化理由がなくなってしまうので。あとは追々。
④ 魔理沙関連
ここに至るまでには香霖堂の単行本が出ている予定でしたが、何かと忙しい模様です。そのため魔理沙の実家関連の話はカット、店主と朱鷺子さんの出番もほとんどなく……
⑤ 旧作キャラについて
ちょっとした理由から旧作キャラを出さないわけにはいかない事情がありまして、頑張ってもらってます。東の国の十六夜ねっとさんに足を向けて眠れない夜。
⑥ 前章での吸血シーンについて
友だちから「ネチョい」と褒め……苦情が来ました。書いた奴としてはネチョにはならないように気を付けたつもりだったのですが、ダメだったようです。不快に感じられた方は申し訳ありませんでした。ただあの吸血シーンを削ると美鈴に銃を持たせた意味も神話に触れる理由も消えてしまうので、そのままにしておきます。母乳は血液から作られるとかそんな話。

次回はかなりの厨二展開――というかこれを厨二というのは中学二年生の方に失礼ですと言いたくなる展開――です。でもよく考えたら美鈴がマシンガンぶっ放したりしてる壊れ話なのでいまさら気にはしない。ただちょっと虐げられるキャラが出てきますので、今のうちにあやまっておきます。ごめんなさい。
ごんじり
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コメント



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小悪魔が捕まったあああ
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きた!!新作キタ!!封印が解けられた!これでかつる!!
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かっこいい
17.100名前が無い程度の能力削除
速攻で⑧に飛びます。
っと、誤字が一つ。
里の厄であろう部分が里の役になっていました。
18.100名前が無い程度の能力削除
あなたの書く幻想郷は実に良い。
24.無評価ごんじり削除
>>17の方
ご指摘ありがとうございます。修正しました。
27.100名前が無い程度の能力削除
第一話から楽しく読ませて頂いております。
早速8話に向かわねば。
31.100名前が無い程度の能力削除
「いいから貰っとけ、俺がもっかい地獄に帰ればいいだけの話よ。」
辰次の漢っぷりに惚れた。
33.100名前が無い程度の能力削除
わくわく
55.100名前が無い程度の能力削除
幽霊と人間が呑気に会話する。
幻想郷ならではですね。