※とても若干残酷成分を含みます。
『 闇の容れ物 ~ Forgotten darkness believers. 』
1
鬱蒼とした夜の森に一人の青年男性が居た。
小奇麗な格好をした青年は少しの焦りを滲ませながら、視界の悪い道を慎重に歩み続け
ている。時折、周りを見渡しては溜息をつき、ついには足を止め、頭上を仰いだ。
遥か頭上には月が浮かんでいるはず。だが、その姿は緑に色づいているであろう木々に
遮られ、青年には届かない。それでも、微かに降り注ぐ光が月の存在を感じさせる。
「迷った」
青年の独り言は月には届かない。
*
なぜ俺はこんな時間にこんな所へ来てしまったんだ。
どうでもいい事で親と喧嘩になった。頭を冷やしに外に飛び出して、行く宛もないから
ぶらついてたら町外れの森まで来ていた。
日が出てるうちは普通の森だが、夜は別だ。誰も中に入ろうとしなくなる。それぐらい
雰囲気が変わる。例えるなら、『魔界』という表現がぴったりだろう。
そんな『魔界』に今日に限って入り込んだのは、いらついてるせいもあったろうが森を
目の前にした時誰かに呼ばれた気がしたからだ。いつもの本能的に避けたくなる感じがし
なかったし、気が向いたから入ってみた。地元民からも恐れられる森に入ったという土産
話、自慢話ができるかもしれないという期待もあった。
それから勘で進んでたら、迷った。
もしかしたら同じ所を回っているのかもしれない。変な事が起きそうな感じはしないが、
星は見えないし手頃な木の枝も落ちていない。
「え?」
思わず言葉が漏れた。
ちょっと待て。いくらなんでも枝の一本も落ちてないなんて事はありえない。しかし地
面を見ても吸い込まれるような闇しか見えない。
こんなに足元が暗かっただろうか、と前かがみに目を凝らし――
ぱきっ、
と、足元で枝が折れる音がした。
なるほど。目に見えてなかったから気づかなかったのか。それに今まで歩いてきて何回
も枝や葉っぱを踏んだ感触があったじゃないか。
呆けてるなあ、と苦笑しつつ足を曲げ、地面に手を這わせる。
まるで闇が沈殿してるみたいに手元が見えない。おかげで手は土で汚れたが手頃な枝を
数本見つけた。これを木にでも引っ掛ければ目印になるだろう。
枝を両手に持つと元気が戻る気がしてくる。つい枝を振ったり地面を叩いたりしたくなる。
そういえば、子供の頃にも見知らぬ街で迷ったことがあった。その時は公園に辿りつい
てからじっとしてたのだが、ずっと枝で遊んでいた気がする。
童心に返るというやつだろうか。
あの頃に比べれば俺も成長したし、ここは見知った街で見知った森だ。不気味な森だが
ちょっとした探検気分と一緒に気合もわいてきた。
「後数時間で日も昇るし……、そうなれば帰れるしな」
「何でそう思うの?」
不意に、横から少女の声が聞こえてきた。
「へ?」
反射的に声をあげ少女へと顔を向けた俺に、どこか不機嫌な声が返ってくる。
「今まで夜の後に朝がきたからって、次も朝がくるなんて限らないじゃない」
ちょうど木々の影になっているのか、どんな背格好か暗くてよく判らない。少し離れた
位置に、かろうじて白いリボンが見えるぐらいだ。
自分以外にも人が居たのかという驚きと同時に、少し恥ずかしいところを見られたかも
しれない気持ちが沸きあがる。いい歳した男がいきなり地面を探って枝を両手に持って気
合いを入れてる様など不審者にしか見えないだろう。
それにしても、何が言いたいのか。
口調から想像するに朝が嫌いなのかもしれない。
「太陽が無くならない限り朝は来るぞ」
恥ずかしさもあり軽い調子で答える。
そんなノリを拒絶するかのように、闇の外れでリボンが揺れる。
「今貴方が死んだら、もう貴方に朝は来ないわよ?」
「おいおい、初対面の奴にそんな話するなよ」
「『そんな』なんて酷いわー。よくある、ごく身近な話じゃない。世間話よ」
物騒な世間話をしてくれる。
隣の家で強盗殺人が起きたってぐらい物騒だ。
「世間話ってのはそんなのじゃなくて……、もっと平和なんだよ。お隣にお子さんが産ま
れたそうですよってな具合にな」
「ごく身近な話ってのは否定しないんだね」
「それとこれとは話は別だ」
「そうなんだ」
「そーなんだ。身近に死があったら呑気に暮らしていけないだろう?」
それにしても……。少女は闇の中から全くこっちに近づいてこない。
あっちには俺の姿が見えているようだが、こっちからは微かな光に照らされ白く輝くリ
ボンしか見えない。
どこか監視されてるような気持ちになる。会話と相まってますます気分が悪い。
もしかしたらこいつは異常者なんじゃないか。そんな考えが頭を過ぎる。
もし異常者だとしたら、俺に危害を加えるかどうかが問題だな。
一方的な偏見というのは自覚している。だがそんな想像をしたせいか、寒気がして体が
震えた。気のせいだろうか、気温が下がっているように思う。
「うーん」
闇の中から、ゆっくりと、悩むような声が響く。
「選べる獲物は多い方が、狩りに良いと思うわ。でも人間は病気とかあるんだよね」
無意識のうちに両手が枝を握り締めていた。
何故か口が渇く。
冷えた肌に汗が滲む。
鼓動が異様に大きく響く。
少女が目の前に居るだろうというだけで、これはなんだ。
不意にここが、『魔界』だという事を思い出す。
孤独。不安。
さっきまで普通の森だったのに、空気が変わったかのように感じられた。
夜気そのものがささくれ立ち、肌を刺激する。
闇を凝視したまま、体が硬直する。
「そうだ、あなたはどんな焼き具合が好きかしら。レア? ミディアム? それともウェ
ルダン? 私はレアが食べたいんだけどね~」
この恐怖を振り払いたかった。そして、なぜか恐怖の根源は目の前の、『何か』に縁る
ものだと感じていた。
精一杯の抵抗を込める。
「ミディアムレア……、が好きだ」
「――ありがとう。その発想は無かったわ」
闇が礼を言い終わる瞬間。目の前に黄色いものが現れた。
それが髪の毛だと気づくのと同時に俺の右腕が宙を舞った。
「え?」
頭が急に熱を持った。
閃光のようなイメージだけが頭に残る。
目線の先では右腕が血しぶきを上げながら回転している。
肩からは血がだくだくと流れている。
余りの早さに何もかもが追いつかない。
数瞬の後、眼前のモノに視線を戻す。
白いリボンが揺れている。
目の前で、少女がひどく楽しそうに笑っていた。
――――くすくすくす。
笑顔を認識した途端、焼けるような痛みが、凍りつくような恐怖が襲い掛かってきた。
圧倒的な死の予感。
「う、ああああああ!」
左手に持った枝を振り上げる。
顔を覆う小さな手の平。
耳に響く鈍い音。
…………
……………………
2
町の外れにある、さほど広大ではない森。広大ではないが山と繋がっており、全体を見
ると広大といえなくもない。山のすそともいえるこの森は、散歩道や公園、グラウンドな
どが整備され、日が昇っている間は人が多く賑わっている。山になっている部分も少し高
い丘といった程度で散歩の延長として登る人は多い。
そんな森であるにも関わらず、夜には人っ子一人居なくなる森となる。一般的に、夜の
森や山に残り続ける人は居ないが、何者かが、立ち入ることを禁ずるかのように人っ子一
人いなくなる。なぜそのようになったのか。居続ける事になにか問題があるとか夜に居る
意味がないとか、そんな具体的な理由ではない。夜になると森から不気味な印象を感じ取
るというだけの、極めて抽象的な理由である。それだけの事だが、誰もが日が暮れだした
頃には帰り出し、近寄ろうともしない。
まるで幽霊屋敷のように、ひっそりと佇む森。
ひたすらに恐怖を圧縮したかのような、重厚な空気。
それに呼応するようかのように森には闇が沈殿し、夜による視界の悪さに拍車をかけ外
から中を窺い知る事はできない。時には肝試しとして森に入ろうとする者もいるが、大抵
は森を前に引き返す。勇敢に中に入る者も微少ながら存在するが、同程度の人間が行方不
明になっている。
行方が知れなくなった者は二度と戻ってこない。この現象は昔からあったことではなく、
ここ数年、あるいは数十年の内に発生しだした。夜になると近隣の人間は比喩でもなんで
もなく、『神隠しの森』と呼んでいる。森林を伐採し勝手に公園などを作った祟りだ、と
いわれているが、昼間は普通に入れることもあり信じられていない。
そんな森を特定のルートで入り山を少し登ると、人知れず存在する空間がある。
そこは外界からの進入を拒むように木々が並び、昼間の喧騒からも離れた場所。広さは
自然の圧迫感を感じない程に確保されており、中央には大きい池が、ほとりには物置にも
見える小屋が建っている。
*
「――これは、きっと珍しい落し物ね。愚か者か食材かどっちかしら? 色は食材に見え
るけど。ああ、興奮しないの、羽怪我してるんだから。しばらく……、ここでじっとして
いなさい。悪いようにはしないわ」
池のほとりには腰をかけるために置かれたような岩があった。その上には1羽の白いト
リが止まっており、体長60センチメートルぐらいの鳥は、しかし烏だった。羽毛だけでな
く嘴までも白いその烏は、小さな小屋を見つめたまま静かに何かを待っている。しかし何
かを待ち焦がれている雰囲気ではない。いたずらが見つかった子供のように緊張している
のが見て取れる。
ざわざわと自然の音に包まれた森に突然、がさっ、と人為的な音が響く。烏が音のする
方に目を向けると同時に一人の少女が現れる。
木々の合間からたよりない光がそそぎ、曖昧に照らされる少女。その肩には死体が担が
れている。烏には死体がたやすく見えてしまい、反射的に逃げようとするも羽を怪我して
いて逃げることはできない。
「ちゃんと、待ってたのね」
少女が嬉しそうに笑う。
「ごめんねー。大分待ったと思うけど、後2分ぐらい我慢して?」
少女は少し烏に歩み寄り死体を降ろすと、服を脱ぎ、木を加工して作ったと思われる物
干しに服をかける。そしてはじめから地面に置かれていた、汚れた大きい桶に入り死体を
持ち上げると、何気無い表情で死体をちぎりだした。
辺りには肉が裂ける音だけが響く。
「あなた、妖怪?」
烏へと声が投げかけられる。
「喋るのは無理? 人間食べられる?」
少女の確認が続く。
烏は動かない。反応できないのか、したくないのか。
「何も伝えたくないの? 身体がうまく動かない?」
依然として烏の顔は少女に向いたままである。反応はないが、じっと少女を見つめてい
ることから言葉を理解しているのは確かだ。何かを考えているのか、親に怒られている子
どものようになっているかのどちらかだろう。
少女は肉をさっさとちぎり終えると、手を洗い、烏の前に立った。烏は身体を震わせな
がら少女を見上げ、カー、と小さく鳴いた。少女は髪に結ばれている白いリボンを1つ解
くと、親指に深く歯を立て皮膚を裂き、血の滲んだ指をリボンに這わせる。白いリボンが
血の量に似合わず赤く染まっていった。
「少し我慢してよ、文句はあとで聞くから」
そう告げると、少女は烏の身体をひっくり返した。
ギャッ、と烏は叫び、暴れようとするも抵抗はできない。少女は素早い手つきで烏の
足にリボンを結び、余ったリボンをちぎると烏の身体を元に戻した。
少女は呆然としている烏を覗き込む。
「文句はある?」
「いきなりなにするの!」
烏が身体を揺らしながら叫んだ。
「意思の疎通ができるようにしたのよ。嫌ならリボンを解けばいいわ」
「は?」
しばしの沈黙。
「えーっと」
「私の名前はルーミア。あなたは?」
「――名前は、ない」
「私が名づけてもいい?」
烏はきょとんとした顔でルーミアを見つめ、頷いた。
「じゃあ、あなたは今から、『カラス』ね」
「なにそれ?」
「あなたの種族は東洋の島国で『カラス』と呼ばれているのよ」
「そーなのかー」
3
今日は1ヵ月に一度の集会の日だ。新月の日。太陽が地平線に沈むぐらいの時間に集会
の準備が始まる。カラスは集まってくる同族と様々な土産を目の端に留めながら、周囲を
見渡した。種族の特性故に皆が警戒をしながら集まってくるが、この森を寝床にしている
自分にしか感じられない違和感がないかを探していた。
烏の寝床となるに相応しい条件を揃えているにも関わらず、森に住んでいる烏はルーミ
アにカラスと名づけられた白翼の烏1羽だけだった。昼夜問わず人前に姿を現し、姿も麗
しく、言葉も理解しているような素振り、更に森を汚すような人間には嫌がらせをするな
どの行動から、近隣の住民に森の主と呼ばれている。
もちろん、カラスは人間にそのように見られているのを認識していたが、特に感慨はな
く、それらしく振舞っているだけだった。そしてその振舞いの一部がこの警戒だった。
この場を人間に見られたりすると、自分が一番偉いと思われてしまうだろう。比較的若
輩者である自分が例え人間の勘違いとはいえ長として見られると、参加者はいい思いをし
ないかもしれない。
「は、はじめましてっ」
警戒をしていたカラスに緊張した声がかけられた。振り向くと、声と同じように身体も
硬直している烏が居る。大々的に宣伝をしている集会ではないが、参加者が別の烏を連れ
てくることがある。最初は数羽の集まりだったこの集会も、今では十羽を超すようになっ
た。
集会に上下関係などは無いということにしてあるが、主催者に礼儀を払う意味で挨拶を
されることは多々あった。変なプライドを持っている者もいたりするので、ここらの行動
は個人の自由である。もちろん、警戒をしているのもカラスの自由である。
それにしても、そこまで緊張をしなくても良いのでは、と思うことは今回が始めてのこ
とだった。見たところ、カラスよりは年上の烏に見える。
「はじめまして。どうぞ、楽しんでいってください」
当たり障りのない挨拶と会釈を返し別れる。どうやら緊張の割りには警戒していること
を汲み、引いてくれたらしい。
そんなにあることではないが、若いというだけで好奇の目で見られたり、主催者だから
と媚を売られることもある。カラスは安堵の溜息をつき、警戒に戻った。
1ヵ月ぶりに再会した者も多いのだろう。賑やかな声が聞こえてくる。混ざりたい気持
ちが無いわけではないが、この警戒は主催者として最低限の仕事だろうとカラスは信じて
いる。故に夜が更けるまでは見張りが続く。集会が始まって以来、一度も問題が発生した
ことはなく、これからも何事も無いだろうが、そんな確率に期待はしていないしこれが今
の自分の在り方だとも思っていた。
やがて夜に烏の姿が溶け込むようになり、宴もたけなわとなる。参加者も集まり終わり
宴の真っ盛りを逃したあたりでカラスは参加することになる。
もちろん、そうすることに理由はある。他の烏は普段滅多に集まることのない同族を求
めて集まる。一方カラスは、外界の情報を得るために集会を開く。宴が衰えるぐらいのタ
イミングがとっておきの情報が出るのだと教えられていたし、経験からも判っていた。
「おい、そろそろいいんじゃないか? 何があったんだよ」
みんなの話のネタが尽きつつある中、ずっと何かを隠していたらしい烏が呼ばれた。ど
うやら、さっき緊張されながら挨拶を交わした烏らしい。
「え、ええ……。そうですね、酔いも回ってきたことですし……」
その烏を知っている者から聞いた話では、昔はもっとやんちゃな、豪快な烏だったらし
い。少し前から姿が見えなくなっていたが、いざ帰ってきてみると豪快さは鳴りをひそめ
ていた。その理由を今から語ろうとしているようだ。
よほどの出来事があったのか個人的な事情からか、なんにせよ面白そうな話である。
カラスを含む全員が静かに事の中心を見る。
「私はルーマニアの南の方に住んでいたんですけどね……。ワラキア地方と、呼ばれてい
るところです。今集まっている方たちには、あまり縁がない所ですね。えっと……、何か
ら話そうかな……」
4
がさがさ、とゴミを動かす音だけが辺りには響いていた。集会が終わると、いつもどお
りそれぞれがそれぞれの寝床に帰っていった。騒がしかった名残が感じられる場で、カラ
スは皆が持ち寄った土産の整理とゴミの処理をしていた。処理といっても、人間と違い自
分の後始末はしていくから、最初からそれなりに片づけられている。後で動かしやすいよ
うにまとめているだけだ。
このゴミたちはいわゆる「ゴミの日」に捨てる。大半が人間たちの作り出した品々な
のだから、自分が片づけるより人間の手によって片づけられる方が良い。
ぼと、ぼと。
青いトレイに食べ残しを載せる。
がさ、がさ。
黄色いビニール袋に小物をまとめる。
ごそ、ごそ。
白い手提げ鞄に嗜好品などの類を入れる。
体が覚えた仕事、考える必要がない仕事は瞑想のような効果があるものだ、とカラスは
常々思っていた。体が的確に動いているにも関わらず考えていることはさっきの話だった。
窓の少ない紅い館。そこで門番をやる妖怪、メイドの格好をした妖精、図書館に住む魔
法使い、紅い吸血鬼、そして銀色の襲撃者、色んな恐怖体験が語られたが、気になった点
は、ワラキア地方に住んでいた吸血鬼が突然居なくなったという話。この話をどうルーミ
アに伝えようか。
なぜかこの話をルーミアに伝えることがカラスは良しと思えなかった。件の吸血鬼のよ
うに、ルーミアも居なくなってしまうのではないか。そんな予感である。
もう何年と一緒に暮らしているか判らないが、ルーミアについては理解できないことば
かりだった。ふら、と数日単位で居なくなったり、饒舌に喋る時もあれば全く喋らなくな
る時もある。
片づけが終わり、カラスは我に返る。吸血鬼の話をどうしようか考えていたのに思考が
逸れてしまった。どっちにしろ話すことに変わりはないのだが。
今できることはもうない。カラスは翼をはためかせ寝床へと、ルーミアの元へと飛び
立った。
帰るまでの少しの距離に、いつも考えることがある。自分はなぜ、ルーミアの使い魔、
悪くいえば使いっ走りのようなことをさせられているのだろう。もちろんやっていること
事態は望んでいるものだ。問題は、ルーミアにメリットが無いように思えること。世情に
疎い、だからカラスが集会で色々な情報を仕入れる。他に解決策はいくらでもあるだろう
にこんな回りくどい事をする意味がわからない。
まあ、ルーミアのことだし理由は無いのだろう、と納得していた。無駄が好きなルーミ
アのことである。未だに足に付いているリボンだって、無駄だったとしか思えない。
巣に戻ると、ルーミアは目を瞑り草の上に突っ立っていた。木々に遮られながらも微量
に届く風を身に受け、服がひらひらとたゆたっている。
「ただいまー」
「ん……、おかえりー」
何か集中しているのだろうか、声をかけて大丈夫か、といった雰囲気だったが、笑顔で
ルーミアは出迎える。さきの佇まいよりは今日はどんな話が聞けるのだろうか、と楽しみ
なのだろう。その様子はまるで世間から隔離されたお嬢様のようだった。
カラスは早速話を切り出す。
「今日は少し遠くの、ワラキアから来た奴の話があった」
「ワラキア……?」
ルーミアが首を傾ける。その単語を知らないという様子はなく、もしかして、といった
心当たりがあるようだった。
「ルーマニアの南部をワラキア地方って呼ぶらしいね」
「やっぱりここらでワラキアといったらそこよねー。それで、何か事件でも起こったの?
村が全滅でもした?」
何が起きたか知っている、と言うような態度でルーミアが答える。どこからその自信が
でてくるのかカラスには判らず、つい首を傾げることになる。
「村? そこに住んでいた吸血鬼が館ごと消え去った。そんな話だけど」
「消えた? 退治……、封印されたの? レミリアが?」
「あ、知り合いなんだ」
ルーミアがカラスから焦点を外し、黙る。知人を心配して何かを考えているのだろう。
カラスとしてはそんなに重い話をしようとしているつもりはない。というのも、吸血鬼
が居なくなったのは退治や封印といった血なまぐさいものではなく、転居という表現が正
しいと思われているからだ。だから、“消え去った”などと表現したし、黙っているルー
ミアを前にしても平然としている。すぐに訂正しないのは勘違いをして考え込むルーミア
を見るのが面白いからだ。
ほどなくして、カラスに見つめられているのに気づいたのか苦笑気味にルーミアが答え
る。
「あー……、うん」
「ふーん。それでさ、そこで遣われてた奴が聞いた話だけど、なんでも東の島国にある郷
を攻める為に移動するとか」
「東の島国の郷?」
「それはどこのことか判ら……」
「あははは!」
判らない、と伝えようとしたカラスの返答は、ルーミアの笑いにかき消された。
「レミリアらしいわね~。でもそうかぁ、幻想郷のことは知らないか興味無いと思ってい
たのに、先に行かれちゃったのね」
「幻想郷? 先に行かれた?」
今度はカラスがオウム返しをすることになった。
「あなたの名前。『烏』を『カラス』と呼ぶ国、日本にある理想郷のこと」
「ふぅん」
「そこに私も行こうとしていたのよ」
「日本の理想郷に……、行こうと?」
ルーミアがやけに上機嫌だった。ただでさえ聞きなれない単語が続々でてきているのに、
自分の理解を超えるスピードで話が展開されていた。
そんな状況なのだ。なにかとんでもないことが実行されても、不思議ではないのかもし
れない。いや、カラスにとってはとんでもなくても、ルーミアにとっては瑣末な出来事に
すぎないのだろう。
カラスはどこか既視感とともに、嫌な予感を感じていた。
「良い機会ね。思い立ったが吉日! 私も幻想郷に行くわよー」
「え?」
「ほら、荷物を纏める~」
そうして、鼻歌交じりに夜は明けていく。
数日後、異変に気がついた住民たちが『神隠しの森』に入ったところ、そこは何の変哲
もない森になっていた。同時に白い烏が目撃されないようになり、様々な憶測や騒動を引
き起こすことになったのだが、不思議とそれらは長続きしなかった。誰もが、白い烏が居
なくなったのならしょうがない、と思ったのである。
だいたいにおいて人間は、直感的に理解できる、判りやすい理由で終着し、思考を止め
る。それが意図的であるのならば、なおさらである。騙すことで騙され、騙されることで
騙し、安心する。人間は騙されたがりが多い。
5
聞いた話では、一般の渡り鳥は途中の島々で身体を休めつつ目的地へ向かうらしい。
ルーミアもカラスも渡り鳥ではないが、そうして日本へ行くのだろう。人間とあまり接触
しないような素振りを見せていたルーミアなら、当然そうするとカラスは思っていた。
しかし現実は船旅だった。人間のように、空を飛べぬ者がするように、海の上を揺られ
る旅となった。
豪華な部屋、ルーミアが言うには、比較的質素な部屋を宛てられた。他人の目に晒され
る場所では布が被さった籠に入れられ、更に部屋から出る事はできないから、カラスには
部屋の良し悪しの判断ができなかった。
不思議なことに、ルーミアはよく部屋を空けた。漆黒のドレスに着替え部屋を出るのだ。
なんとなく寂しい気持ちがカラスにはあったが、どうしようもないことであるし、貴重な
今を楽しむことにした。揺れはそこまで感じられないが、波の音や景色など、何もかもが
新鮮であり、楽しむには事欠かない環境であった。
船を降りると、今度は歩き旅となった。少女の一人旅というだけで珍しいのに、白い鳥
をお供に旅する姿は、やはり奇異の目で見られるようだ。色々と尋ねられるたびに、ルー
ミアはうまく流していた。
会話のたびに、ルーミアは日本語の事を教えてくれた。日本で暮らすことになるのだか
ら、日本語を覚えろということだろう。言葉のニュアンスから何とか単語を拾い、ルーミ
アに意味を尋ね、関連の単語をいくつか教えてもらう。こういう主観が絡みにくい事柄に
関しては、ルーミアはよく教えてくれる。
*
「どう? 日本語はだいたい覚えられた?」
道中。何の変哲もない森を行っていると、突然ルーミアが訊いてきた。
晴れているのに雨が降ってきたかのような不自然さに、カラスはルーミアの肩に留まっ
たまま首を傾げる。
「おおよそ覚えた。とりあえず話を聞くことはできると思う」
うんうん、と嬉しそうにルーミアが頷く。
不意にカラスは地面に優しく降ろされた。
「ん?」
目の前にはしゃがんだルーミア。
少しだけ遠くなった顔を見つめる。
「そ。なら、別れの言葉も理解できるわね」
「え?」
「あなたと出会えて本当に良かった」
「――――何故?」
カラスは静かに、ルーミアに言った。
動揺していないわけではない。別れを考えたことはあった。覚悟していたつもりにも
なっていた。それでも、突如として訪れた現実には抵抗できなかった。
狼狽、そして困惑。数瞬の後、導き出した答えは、取り乱さないこと。
それなりに長い付き合いで、決定が覆らないことは判っている。それならば、引き際は
綺麗に、気持ち良く。そんなことを考えているカラスは自分を褒めてやりたかった。
「主語がないわ……。別れについて? それとも、良かったことについて?」
言いながら、ルーミアは立ち上がる。
出会えて良かった、とルーミアは言った。その理由を聞くことは、自分を意味もなく使
い魔にしたのだろう、と思っていた、長い、長い問いへの答え。
聞きたい。聞きたかった。別れだというのなら、なおさらのこと。
「良かったことについては、いいから、別れの理由を」
それでも、カラスは聞かないことを選んだ。ルーミアに思いや考えについてを聞いても、
答えてくれないだろう。最後だからと答えてくれたとしても、それは情けだ。さっき考え
た、綺麗に気持ち良く別れること。それだけを頼りに、今、カラスは冷静さを保っていた。
これを欠いては、取り乱すことになるだろう。そんな予感が確かにあった。
「こっちに何が見える?」
ルーミアが道の脇を指さす。
「木」
「じゃあ、あっちは?」
さっきとは逆の、道無き方向を指さした。さっき示した方向よりは、森が深いだろうか。
「――木々?」
「そうとしか見えないのが、理由よ」
木以外にも、草や虫は在る。しかし、それらが答えにならないことは判りきっていた。
何か在るのか、とカラスは種族故の視力で凝視するが、特に変わりのない森にしか見え
ない。
「バイバイ」
ルーミアの声が響く。
慌てて目線を森からルーミアに戻すと、そこにルーミアの姿はなかった。
「ルーミア!」
「最後に2つアドバイスよー。1つ、海岸に沿いながら南に行くと良いわ。ある程度進め
ば、意味が判るはずよ。2つ、できるだけ目立たないように行動すると良いわ」
声だけが『響く』。どこに居るのかさえ判らない。
そして、声が聞こえなくなると同時に、ルーミアが確かに在ったという気配も無くなっ
た。急に居なくなった同伴者。主を無くし、カラスはしばらく声も出せず、動くこともで
きなかった。
6
あれからひと月が過ぎた。
ルーミアが消えたことによる茫然自失から立ち直ったカラスは、明らかにただの森と思
われる森を徹底的に散策した。空からも見てみたが、思ったより小さい森だったんだ、と
いう感想を抱いただけで終わった。
そして、やることを、目的を無くしたカラスは、アドバイスに従うことにした。
つまり、目立たず、南へ行く。
何度も人間に注目された。写真を撮られたり取り囲まれたり、ときには石を投げられる
こともあったが、次第に隠れることに慣れ、カラスはひたすらに日本を南下していった。
ルーミアの言葉に何かがあると信じて。
今、カラスの目には、『山口県』と書かれた看板が映っている。
EX
「久しぶり」
「あら、久しぶり」
「よく来れたわね」
「なにそれ。来たら駄目みたいじゃない。追い出すつもり?」
「まさか。幻想郷は全てを受け入れるのよ」
「それなら私も連れていってくれたらよかったじゃない。」
「貴方はまだ、世界中で恐れられていた。幻想となるには早かった。……、でも、まだ早
いわよねぇ。どうやって来たの? いくら闇が薄れてきたとはいえ、忘れ去られるはずが
ないわ」
「あんたと同じような手を使ったのよ」
「あらあら。かわいそうに」
「そうでもないわ。あの子なら、また会うこともあるでしょう」
「熱々ねぇ……。あら、そのリボン、赤かったかしら?」
「熱くて焼けたの」
「うふふ。太陽にでも行ったのかしら」
「それで、ここは紫の理想どおりになっているの?」
「おおむね、ね。思った以上に面白くなっているわよ」
「それは、楽しみね」
「すぐに味わえるわ」
「?」
「最近になって、吸血鬼が引っ越してきてね。暴れてるのよ……」
「主」をカラスと思わせることで…
作者はレスすべきではないと思う人間なのですが、感想が疑問のようですので一言レスさせていただきます。
起こったことについては概ねそのとおりです。