雲一つ無い星空に、禍々しく光を放つ紅い月が気に障る夜だ。
冬の澄んだ空気も相俟って、こんな夜はどうも蝙蝠の羽ばたく音が騒がしくてしょうがない。溜め息をつくと、視界は吐息で白く濁った。
仕事の日の月は、少し欠けているくらいが一番美しい。月に中てられて見境を失った化け物の返り血にまみれて見る満月なんて、美しくも何とも無いではないか。童話に出てくるような綺麗な満月を、私は知らない。
そういえば、生まれてこの方ゆっくりと満月を見た事が無い。月見の為にいっそ今日の仕事を終えたら足を洗うのはどうだろうと一瞬考えて、すぐさまやめた。
私のような人間を雇ってくれる働き口が他にあるとは思えなかったし、似たような事を言って帰ってこなかった同僚が過去にいた気がしたからだ。
懐中時計に目をやると、ちょうど日付の変わった頃だった。気を引き締めるために髪を結びなおす。百鬼蠢く丑三つ時にはまだ時間があるけれども、標的の様子がわからない以上、少しの油断が死を招くと言える。
今回は単なる化け物退治とは訳が違う。田舎の山村に巣食う悪霊崩れだとか、夜な夜な街を徘徊するしか能の無いゾンビもどきとは根本的にレベルが違うのだ。
吸血鬼。
それも自分の根城を持ち、本能ではなく理性で自分をコントロールする格の高い吸血鬼。それが今回の標的。
「永遠に紅い幼き月」だなんて大層な二つ名が付けられるぐらいだ、少なくともそこいらの雑魚とは比べ物にならないだろう。
かの有名なツェペシュ一族の末裔だなんてまことしやかな噂も耳にしたが、果たして。
懐から報告書を取り出し、改めて読み返してみる。何度も見返してる内に羊皮紙の報告書は所々が擦り切れてしまったが、わかったのはこの仕事が厳しい物になるであろう事のみ。
「『レミリア・スカーレットの討伐』ね、随分と簡単に言ってくれる物だわ」
それにしても、この資料の少なさはどうにかならないのだろうか。判明しているのは名前と、精々備考欄の「予言、予知、未来視、あるいはそれに近い何らかの能力」のみ。
未来が視えるのは、正直言ってかなり厄介だ。時間に干渉する能力がどれ程危険で疎ましいかは自分が一番良くわかるから、用心を重ねるに越した事は無い。未来を知る力があるのなら、私が攻め込む事も既に知っているのかもしれないけれど。
ただ、姿を見た事すら無いのに「吸血鬼」と言うだけで討伐するのは何故なのだろう。教会の上層部の頭には、聖書は詰まっていても思考する脳味噌は無いのかもしれない。
考えてるうちに、それらしき館が見えてきた。想像していたよりは幾分小さな館だが、中には何が待ち受けているかわからない。
息を潜め、目を凝らす。ひい、ふう、みい。周辺の警備に当たっているのは何組かの低級妖精。吸血鬼の活動時間に合わせて襲撃してくる輩はいないと思っているのか、かなり警備は手薄だった。
数が集まると妖精とは言え厄介だが、百に満たない程度なら気付かれる前に片が付く。これなら下手に忍び込むよりも、正面から奇襲を仕掛けた方が楽かもしれない。第一、未来を読まれて先読みされたら奇襲も何も無い。
もう一度、装備を確認する。懐中時計は懐にしまった。ナイフの予備は充分にある。詠唱呪文も問題なく思い出せる。靴紐一つ解けていない。完璧。深呼吸を一つ。
あとは時間を止めれば、夜が始まる。
「時よ足を休め、選ばれし者にのみ恩恵を与えよ。『プライベートスクウェア』」
唱え慣れた呪文を詠唱すれば、あっという間に世界は色を失い凍りついた。
――――――――
雲一つ無い星空に、禍々しく光を放つ紅い月がとても綺麗な夜だ。
冬の寒さと澄んだ空気が、紅茶から立ち上る湯気を一層芳醇な物にしてくれる気がする。仕事終わりに紅茶を飲んでほぅと一息つくと、全身を巡る暖かさが気持ち良い。
門番の仕事を終えた美鈴、読書の休憩にやってくるパチュリー様に、眠たそうに欠伸をするレミリアお嬢様に妹様。
気がつけば広間のテーブルをみんなで囲んで、それでいて特に何を話すでもなくそれぞれが笑みを浮かべて紅茶を飲む。一日で一番静かな時間で、一番の至福の時間だ。
メイドの仕事をしていて良かったと思える一時でもある。この紅魔館に居て良かったと思えるのはちょくちょくあるが、メイドの仕事その物に喜びを見出せる時は意外と少ない。紅茶の淹れかたすら知らなかった頃は、きっとこんな幸せな一時がある事に気付きもしなかっただろう。
「……癒されますねぇ」
似た事を考えていたのか、しみじみと美鈴が呟く。一人で飲む紅茶じゃ、こうも優しい声では呟けないだろうから。
昼間に襲撃してきた白黒の魔法使いと随分激しく闘っていたせいか、顔にはいつもより深い疲労の色が見えた。何だかんだで門番はハードな仕事だ。
労いの意味を込めて、空になったカップにおかわりの紅茶を注いだ。私には私の仕事があり、美鈴には美鈴の仕事がある。だから今くつろいでもらうのが、私に出来る精一杯だ。
「助かったわよ。おかげで今日『は』本を奪われずに済んだから」
微笑みながら微妙な皮肉交じりの言葉を返すパチュリー様に美鈴は頭を掻き、それを見て妹様が小さく噴きだす。
私も思わずつられて噴きだしてしまい、美鈴も苦笑いを浮かべ、お嬢様もうっすら笑みを浮かべながら紅茶を口にする。
いつも通りの、何てことない夜の一幕。これからの永い月日も、こうやって変わらず過ぎていくなら悪くない。そう思っている。
ただ、一つだけ小さな疑問があった。ここのところ妙に深く考えてしまう疑問。今の事でも未来の事でもなく、それは過去の事。
こうして紅茶を淹れるようになる前、私は何処で何をしていたのか。
私の後ろで永劫に立ち尽くすだけの過去は、遡るとある日を境に真っ暗な闇に覆われている。
知ったところで未来には大して影響の無い事柄で、それは過去の名前も知らないメイド長に対する単なる嫉妬のような物か、或いは過去の記憶が殆ど無い事に対する不安なのだろう。
全くもって馬鹿馬鹿しいけれど、紅茶で温まった筈の体の一箇所だけが酷く冷たい気がするのだ。自分の構成要因に、自分の知らないパーツがある。
今じゃ呼吸のように体が覚えている紅茶の淹れ方だって、誰かに教わった記憶は無い。気が付いたら出来るようになっていたのだ。
だったら、今の私は何処から来て、――そして何処へ行くのか。
ここ最近、何度繰り返したかわからない考え事をしてるうちに、夜のお茶会も終わろうとしていた。それぞれがそれぞれの時間へと戻っていく。
漠然とした不安がストレスになるのか、最近では過去を考える度に頭が重くなる。それでも突発的に始まる思考を遮るのは困難だし、仕事に支障を来たす程では無いから半ば諦めているのだけれど。
思考中枢にかかりかけた靄を頭を振って払って、私は後片付けを始めた。紅茶の薄い残り香が鼻腔をくすぐり、私は袖を捲り上げる。
――――――――
用心に用心を重ねたつもりだった。けれど、その用心が全くもって甘い物である事を早くも思い知らされた気がする。
流石は吸血鬼の館、門番ですらそこらの妖怪なんて話にならない。時間を止めるのがあと数瞬遅れていたら、間違いなく私は惨めに敗走する事になっただろう。
突きが掠っただけの脇腹が妙に熱い。立て続けに詠唱したせいで、喉と脳髄が痺れるように感じる。激しい動悸が中々治まらない。
物陰に腰を下ろし、息を整える。法衣の下のそこかしこがじんわりと生温かい。そこまで酷い出血ではないが、後々尾を引きそうで気になる。法衣の裾を少し破り、手早く応急処置を済ませた。
懐中時計を取り出す。手早く済ませるつもりだったのに、長針は既に半分を過ぎている。夜が深くなればなるほど、吸血鬼と言う物は殺し辛くなる。遅くともあと三十分以内には仕留めなければ、真夜中の吸血鬼に今の状態で勝つこと等とてもじゃないが不可能だ。
けれど、だからと言って取り乱しても仕方が無い。焦る事と取り乱す事は違う。無理をした結果、「吸血鬼狩りが吸血鬼になる」では洒落にならない。
「………そろそろ行かないと」
五分程も壁に背中をつけて座り込めば、だいぶ体は楽になった。もっと深い休憩を求める体に鞭を打つ。懐にしまう前に、懐中時計を強く握り締めた。
大丈夫、まだやれる。自分に言い聞かせるように口の中で呟いて、両足に力を込めて立ち上がる。立ち上がってさえしまえば問題はない。後は自然と体が動いてくれる。
動悸も少しは治まった。ナイフの具合を確かめて、解けかかっていた靴紐を結び直せば、準備は完了。
物陰から物陰へと移動しながら、時を止めるかどうか考える。余り力の無駄遣いはしたくないが、この先にさっきの門番程の護衛が溢れているようなら、戦闘を避けるのも大事かもしれない。
ただ一つ言えるのは、必要最低限の戦闘で済むように、一つ一つ確実に潰していくべきだったと言う事だ。
「こそこそ何をしてる。いや、それはどうでもいい。館に足を踏み入れた以上、黙って追い返すだけでは済まさない」
時間を止めてる間に足止めしておけば充分だろう。そう考え、体力の配分をしくじった自分の甘さを恥じた。
背後から聞こえた声。振り返れば、そこには額から血を流しながらこっちを睨み付けるさっきの門番がいた。右手にさっき私が時を止めて放ったナイフが握られている。
彼女は床にナイフを放り投げ、代わりに右手を強く握りしめた。私の侵入を許してしまった事に、門番としてのプライドが傷つけられているのかもしれない。
「随分とタフなのね。それにしても、どうしてこうもすぐに見つかるのかしら。貴女も何か特別な能力を持っているの?」
気圧されないように睨み返しながらナイフを取り出す。僅かでも隙を見せたら今度こそ確実に息の根を止められるよう、いつでも投げられる準備をしておく。
また段々と動悸が激しくなっていくのがわかる。ここまで追い詰められる仕事は初めてだ。この仕事が終わったら、長めの休暇を取って紅茶でも飲もうかと考える。
「いいや、別に。ただここにいる『気』がしただけだ」
吐き捨てるように言うと、門番は拳を構える。先刻とは明らかに殺気が違う。意地でもここから先には行かせない、そんな無言の圧力が全身から発せられる。
隙など全く無い。あるのは殺気と怒りと強い意志。一体何が彼女をそこまで突き動かすのだろうか。
彼女が放った虹色のクナイと私の投げたナイフとが交差して火花を散らして、それを合図に第二ラウンドが始まった。
――――――――
目を覚ますと、見慣れた天井が歪んで見えた。
とうとう無意識に時を止めるようになったかしら、と自分自身に性質の悪い冗談を言いつつ起き上がる。が、上手く体に力が入らない。
何とか両手で体を支えるように起き上がるが、歪んだままの視界は一向に良くなる気配が無い。それでも仕事はこなさないわけにいかず、痺れる手を動かしてベッド脇に置いてあった懐中時計を手に取る。
「……え?」
時計の短針は三時を指していた。窓から差し込む陽光を見るに、寝つきが悪くて夜に起きたわけではないらしい。
慌ててベッドから降りようとするが、上手く動かない体と不意に襲った眩暈とで転がり落ちてしまう。
盛大な音と共に床に転がると、勢い良く部屋のドアが開いた。焦点の定まらない目を部屋の入り口に向けると、そこには慌てて駆け寄ってくる美鈴の姿が。
「ちょっと咲夜さん、何してるんですか!」
ひょい、と体を持ち上げられ、ベッドに戻される。布団に横たえられ毛布をかけられ、頭には濡れたタオルが載せられた。そういえば、体全体が熱い気もする。
いつの間にか寝巻きも変えられていた。昨日の夜は、痺れかけた頭で部屋に戻ってからの記憶が無いから、寝てる間に着替えさせられたのだろう。
情けない事に、私は体調を崩して寝込む羽目になったらしい。普段仕事をしてる時間に布団で寝ていると言うのは、仕事を休めて嬉しいと言うよりは、動き足りない感じがして妙な焦燥感がある。
「お嬢様も心配してましたよ。疲れが溜まってたなら無理はしないでください」
「ごめんなさいね、少し休んだらすぐに仕事に戻るから」
「何言ってるんですか。仕事をする気があるなら、それこそ二、三日そのまま寝てた方が良いです」
美鈴に即答で返された言葉に、私は言い返す事が出来なかった。確かに今の状態じゃ家事どころか、紅茶一杯淹れるのにすら苦労しそうだ。
私は諦めて布団を被り、体を休める事にした。美鈴は椅子に腰掛けて林檎の皮を剥いている。普段家事をしているところを見ないせいか危なっかしく見えるが、意外にもスルスルと器用に剥いていく。
小さく分けられた林檎の一つを手に取り齧ると、口の中に程よい酸味と甘みが広がる。美味しい。
「美鈴。看病はありがたいんだけど、門番の仕事は大丈夫なの?」
「あ、それなら大丈夫です。休憩時間ですし、今は私の代わりにパチュリー様の使い魔さんが門に立ってます」
「……それは本当に大丈夫なの?」
私としては美鈴が居てくれた方が何かと安心なのだけれど、それで仕事が疎かになるようじゃいけない。
それでも休憩時間の合間に誰かがこうやって来てくれるのなら、私はこの紅魔館で暮らしてて本当に良かったと思える。
何しろここに来る前は、病気で臥せっていても見舞い一人来る事も無く、板張りの部屋で一人震えていたのだから。
「え?」
「? どうしました? 何か飲み物持って来ましょうか?」
「あ、いや、違うの。一瞬だけ何か忘れてた事を思い出したような……」
「――――」
大した事では無かった気がするけれど、思い出せないと何かが喉に突っかえているようで気になってしょうがない。雲の隙間から一瞬だけ月が顔を出してまた隠れるのに似ていると思う。
美鈴も気難しい顔のまま押し黙ってしまう。美鈴にそれが思い出せる筈は無いのに、一緒になって思い出そうとしているような、思い出した記憶が苦々しい物だったような、そんな難しい顔。
気まずい沈黙。空気の重さに耐えかね、私は話題を逸らそうとした。かと言って適当な話題は思いつかない。中途半端に口を開けた後は、無意識にいつもの疑問を投げかけていた。
「そういえば、美鈴って私より前から此処にいるわよね?」
「……ええ、そうですね」
「私が来る前って、家事とかはどうしてたの? 先代のメイド長とかいたのかしら」
話しているうちに、頭が段々痺れてくる。熱が上がっているのか動悸も激しい。自分で話題を振っておきながら続く言葉が見つからず、私は視線を美鈴から天井へと移した。
美鈴は黙ったまま、言葉を発する気配が無い。普段ならもっと明るく自然なやり取りが出来る筈なのにそれが無いのは、もしかしてこの話題は此処でのタブーだったりするのだろうか。
「……もう休憩が終わっちゃいますね。ごめんなさい咲夜さん、そろそろ私は行きます」
「あ、うん。ありがとう、助かった」
結局最後まで美鈴が疑問に何らかの解答を示してくれる事は無かった。
そのまま美鈴は部屋を後にし、皿に盛られた林檎と釈然としない空気だけが部屋に残った。再び回転し始める視界。歪んでいく世界。
今まで自分を取り巻いていた世界が変わっていくような、自分が自分でなくなってしまうような、血が逆流し始めたんじゃないかと思うような不快感の中、知らず私は気を失っていた。
――――――――
「時よ足を休め、選ばれし者にのみ恩恵を与えよ!」
猛烈な速度で繰り出される突きと蹴りの嵐を捌きながら詠唱を続ける。攻勢に出ながら詠唱出来るほど、体力と集中力に余裕は無い。
どの一撃も、直撃すれば昏倒は免れない。妖怪特有の再生能力の強さを武器に、門番はいなしたナイフで手が裂けるのも構わずに更に攻撃の速度を速めていく。
一方の私は、距離を離さないと決定打が放てない。時間を止めないと急所に一撃を決める事が困難だからだ。
間髪いれず、兜すら砕きそうな手刀が振り下ろされる。身を捻って避けるついでに至近距離から顔面にナイフを投げつけるが、それを門番は上体を反らして避けた。
――それを私は好機と判断した。
スウェーの状態から次の連撃に移ろうとする門番を踏み台に、私は高く跳躍した。意外な行動に門番は一瞬だけ目を見開くが、次には身を屈め、空中に跳んで追撃をかけようとする。
その足が地面を強く蹴った一瞬、私は勝負に出た。
「『プライベートスクウェア』!」
強く術名を叫んだ瞬間に世界は色を失い、白と黒のモノクロに変わる。私以外の時間は動かない。それは瞬間で肉薄するほど接近していた門番も例外ではない。
宙で身を翻し、壁や柱の間を跳躍しながら、私は門番めがけありったけのナイフを投げつける。勢い良く飛ぶナイフはしかし時の因果を失い途中で止まり、結果として時が動きだすと共に標的に殺到する事となる。
周囲の360度全方位を退魔の銀ナイフに覆われた門番への最後のダメ押しに、柱を強く蹴りすれ違い様に深々と切り裂く。同時に時間を止める限界を感じ、私は地面に着地し、
そして世界に色が戻る。
ほんの一瞬前に追撃を加えようとしていた標的を見失い、代わりに目に入った無数のナイフを前に、門番も流石に驚きの顔を隠せなかった。
間髪いれず全身に降り注ぐナイフの嵐と、深く切り裂かれた腹部から流れ出す紅い液体。全力の攻撃を受け、門番は着地と同時に膝をつき、血を吐く。
それでも顔を上げこちらを睨み付ける門番に、私はナイフを突きつける。
「チェック」
ギリ……と歯を食い縛る音が今にも聞こえてきそうな程に、深い憎しみと屈辱の感情を露わにする門番。使命に燃える者は強い。
それでも、私はこの妖怪の守る物を奪って今を生き続けなければいけないのだ。此の世の残酷な定めだとは思うけれど、私には時を止める力はあっても運命を変える力は無い。
ナイフを振り上げる。門番は悔しそうに目を瞑る。私の手が頭蓋に向けて振り下ろされる瞬間、――しかし私のナイフは吹き飛ばされていた。
「チェックメイト」
凄まじい激突音のしたすぐ横の壁には、魔力を込めて補強した筈の銀ナイフの残骸が埋め込まれている。
声のした方を振り向くと、そこには青い髪をした年端もいかない少女が、――紅いオーラを纏った槍を手に立っていた。レミリア・スカーレットだと、直感で感じ取る。
同時に、全身に寒気が走る。この存在には叶わないと、全身の細胞がビリビリと震えて警鐘を鳴らす。この存在と関わってはいけない、万に一つも勝ち目なんて無い。一目見ただけなのに、そう本能が告げている。
自分がこの化け物を討伐する為にここに出向いた事など、迫力に気圧され頭から吹き飛んでいた。真夜中の吸血鬼は、その力を何倍にも増す。
「そう、貴女が失礼な教会からの回し者なのね」
その言葉に私は現実に引き戻される。そして同時に際限なく膨れ上がる魔力を感じ取り、咄嗟に横へと転がる。
直後、一瞬前まで私が立っていた所に真紅の槍が突き立てられ、衝撃と爆発と噴煙とが空間を震わせた。
――――――――
次に目を覚ました時は、もう視界は正常になっていた。不快感も治まっている。
これならいつも通り仕事が出来そうだけれど、窓の外は既に暗い。起き上がって窓を開けてみると、ゆったり流れる雲と見え隠れする満月の綺麗な夜空。
どこからかパタパタと蝙蝠の羽音が聞こえてくる。吸血鬼の棲む館に暮らしていると言うのに、蝙蝠の羽音を聞いたのが凄く久しぶりに感じる。
何故だか凄く――不自然でしょうがない。
不快感は確かに治まった。熱ももう無い。体調は万全に回復したと言って差し支えない。
でも、以前は感じる事の無かった強い違和感が感じられてどうしようもない。確かに自分の体なのにしっくり来ないような、昨日までと体が変わってしまったような。
何かがおかしい。そう考えつつもとりあえず服を着替えようと思い、先日着ていたメイド服を探す。
それはすぐに見つかった。ただ、美鈴が部屋を片付ける際に置き場所に困ったらしく、椅子の上に適当に放ってあるそれは皺だらけでとても着れた物ではない。どこか抜けているのだ、美鈴と言う人物は。
仕方が無いのでクローゼットを開く。そういえば二、三日は休んでたほうが良いと言われた事を思い出す。そこまで仕事を投げ出すのは怖いので、ここはお言葉に甘えて一日だけ休みを頂く事にする。
なのでメイド服ではなく、何か気楽な部屋着を探すのだけれど、良く考えたら私はここ数年部屋着を買った覚えも着た覚えも無い。
クローゼットの奥まで頭を突っ込み、メイド服とメイド服の間を掻き分けて探すけれど、中々適当な服は見当たらない。
その時、指先にメイド服とも寝巻きとも違った感触を感じ取った。
ようやく普段着か、と思って引きずり出したそれは、ところどころが破けた汚い法衣。何故法衣なんかが私のクローゼットに?
この館には法衣を着るような人物は存在しない。となると、部屋にあった事を考えてもこれは私の物と言う可能性が一番高い。しかし私はこれを着た覚えが無い。
もしかしたら思い出せない昔に関わる物かもしれない、後でお嬢様辺りに聞いてみよう。そう考えて法衣を椅子の上へ放り投げようとして、何か引っかかった。
法衣を着るのは聖職者だ。仮に私が聖職者だったとして、どうしてこの館に来たんだ? それに吸血鬼は教会と敵対している筈、だとしたら私の過去はもしかして――
「『レミリア・スカーレットの討伐』……」
良く考えたらとんでもない言葉が、知らずに口から発せられていた。それをきっかけに、朧気ながら少しずつ記憶が蘇っていく。
あの夜私は、羊皮紙に書かれた依頼を受けてこの館にやってきて……。
蘇る記憶の勢いは増していく。暗闇だった過去に物凄い勢いで光が当てられていく。居ても立ってもいられず、私は寝巻きのまま部屋を飛び出していた。
――――――――
迅雷が疾るような凄まじい速度で、紅の槍の柄が私の腹部に叩き込まれる。その場に踏みとどまる事すら叶わず、私の体は勢い良く吹き飛び、壁に叩きつけられる。
背中を強く打ったせいで、上手く呼吸が出来ない。先刻からろくに防御も出来ていないため、ナイフを一本投げる事すら難しい程に体のダメージは深刻だ。
それでも力を振り絞って立ち上がり、どうにか生き延びる術を模索する。レミリア・スカーレットはゆっくりと近づいてくる。距離の開いた今なら、詠唱が間に合うかもしれない。
「時よ……足を」
「時よ足を休め、選ばれし者にのみ恩恵を与えよ。『プライベートスクウェア』、…………良い詠唱呪文ね」
詠唱を始めた直後、遮るようにレミリア・スカーレットが全く同じ呪文を唱える。――私は戦慄した。どうして私の術式詠唱を、今まで顔も知らなかった吸血鬼が一言一句間違えずに唱える事が出来るのか。
勿論、時間を操れるのは私の能力であって、詠唱すれば誰しも時間が止められるわけではない。能力を自分で具現化する手助けに詠唱があるだけだから、今レミリア・スカーレットが呪文を唱えたとしても、時間が止まるわけではない。
それでも、自分しか知らない筈の物を相手が知っている。それも切り札の鍵を。それはとてつもなく恐ろしい事だ。
「貴女『も』、時間と空間の因果律を操るのね」
絶望して立ち上がれない私の目の前で立ち止まったレミリア・スカーレットは、敵意とも軽蔑とも違う目で私を見下ろす。
まず、さっきより格段に優しい目になっている。最初に槍を構えた時の目は怒りと憎しみの色だったが、今はそんな色は殆ど見えない。
表現するとすれば、仲間を見つけた一匹狼はきっとこんな目をするのかもしれない。
「矢のように過ぎ去って行く、そのほんの一刹那だけを繋ぎ留める能力。気に入ったわ」
じゃあ、どうして私は仲間に見られているのだろう。私は教会の代行者、吸血鬼狩り。全く敵対する立場なのに。
……いや、それは問題じゃない。むしろ自分の敵に自分との共通性を見出したからこそ、今なんとか私は生きているのかもしれない。
ならその共通性は何なのだろう? そういえば、今レミリア・スカーレットは何て言った……?
段々と意識を保つのが辛くなって来る。それでも今ここで気を失う事は死に直結するわけで、痺れかけた脳髄に強く喝を入れた。
「ねぇ貴女、私に仕える気は無い? 教会を抜けて私に仕えるなら、今回の狼藉は不問にして刺激ある日々を約束するわ」
首を横に振ろうとしても、上手く体が動かない。法衣の袖から報告書が滑り落ちる。手に取ろうとして、目に入ったワンフレーズ。
「予言、予知、未来視、あるいはそれに近い何らかの能力」
そうか、それか。私の中の疑問が繋がった。彼女は、確かに私の同類だ。
「……そう。未来を見れるんだったわね。どうりで」
私が唱えようとした呪文がわかったわけだ。数秒先の呪文を詠唱する私を見て、私が時を止める前に詠唱を遮った。
時の因果に干渉する仲間同士、と言いたかったのだ。この幼い吸血鬼は。
とてもじゃないが力の有る物に持たせる能力じゃない。私の仕えさせられている神とやらは、どうやらパワーバランスも考えていない大馬鹿者らしい。
「未来? そんな小さな物を視てもしょうがないじゃない」
それなのに、レミリア・スカーレットは私の言葉を否定した。何が間違っているとも思えないけれど、彼女は自分の能力に絶対の自信があるらしい。
なんとプライドの高く、自信家な事か。吸血鬼と言う物は揃って自尊心と我が侭の塊だと聞いていたけれど、あながち間違っていないようだ。
幼き吸血鬼は転がった私のナイフを手に取り、自らの指に刃を当てた。退魔の術式が傷の治りを遅らせ、指先からは鮮血が滴る。
「舐めなさい。血は吸わないであげる。その代わり、貴女は従者として私に明日から紅茶を淹れるの。中々面白い提案だと思うけれど?」
返事をするのも億劫で、私はただ頷いた。紅く染まった人差し指が私の唇に触れる。血が喉に流れ込む。
吸血鬼と契約を交わす代行者。お笑い種かもしれないけれど、例え吸血鬼でも私に居場所が出来た。屈辱感や被征服感よりも、安心感が先に立つ。
紅茶を淹れる従者か、悪くないかもしれない。そう思った。
「ねぇ、じゃあアナタは未来じゃなくて何が視えるの?」
今にも闇に沈みそうな意識で質問を投げかける。
私の言葉を聞いているのかいないのか、レミリア・スカーレットは血の滴る指を舐め、激しい戦闘で壊れた天井を見上げた。紅い満月が禍々しく輝いている。
背に生えた蝙蝠の翼が大きく広がる。永遠に紅い幼き月。その二つ名の意味が今、わかった気がした。
「決まってるじゃない」
――運命よ。
レミリア・スカーレットのその言葉を聞いたのを最後に、私の意識は途切れた。
――――――――
「……そろそろ魅了の解ける頃だと覚悟はしてたわ」
冷たい夜風の吹く冬の空の下、お嬢様は一人月を見上げながら言った。頭上の月は紅くも無ければ満月でも無いけれど、見上げるお嬢様の姿はいつか、壊れた天井から月を見上げていた姿と被る。
記憶は完全に戻った。能力を買われて異能狩りをしていた頃も、仕事としてこの紅魔館に潜入した日も、鮮明に思い出せる。
一際冷たい風が吹き抜ける。冬の冷たい風は寝巻きには結構厳しいけれど、今の私には防寒具よりも遥かに大事なものが目の前に在った。
「ありがとう咲夜。貴女が来てからの日々は、私の五百年の生涯の中で間違いなく一番充実してた」
そう言いながら振り返ったお嬢様の顔は優しかった。ただ、記憶の中で始めて会ったその日の優しい目と違って、はっきりと寂しさが見える。
その気になれば、今度は私の血を吸って自らの眷属として此処に留めておく選択もお嬢様には出来る。
それをしないのは、人間としての私を必要としてくれているのかもしれないし、私の意志を尊重してくれているのかもしれない。
「だけど、貴女が行くと言うのなら、私に引き止める事は出来ない。好きにしなさい」
言い終えて、再び向こうを向いてしまう。心なしか若干肩が震えている気もする。「傍に居て欲しい」と一言言えれば苦労はしないのに、プライドが邪魔してそれも言えない。
私と知り合うより昔のお嬢様は、それでどれだけの悲しい思いをして来たのだろう。同族にすら疎まれ幻想の向こうに行く事を決意した時、その心は何を思っていたのだろう。
私はゆっくりとお嬢様に歩み寄る。
「お嬢様。こっちを向いてください」
声にビクッと一際強く肩を震わせてから、お嬢様は振り向いた。
今にも不安に押し潰されそうな表情、今にも零れそうな涙。主人にこんな表情をさせるようじゃ、私は従者失格だと思う。
私は片膝を折り、お嬢様の左手を手に取り、甲に口付ける。夜の眷属特有の体の冷たさが唇に心地良い。
「咲夜……?」
「忠誠を誓うのに、血も魔力も必要ありませんよ」
お嬢様は私の行動に固まり、私の言葉に唖然とした後、――思い切り涙を流しながら抱きついてきた。
背中に手を回し、軽く抱きしめてやる。無理は無い。ようやく見つけた仲間すら自分から離れていってしまうなら、私だって耐えられる自信は無い。
つまるところ、私とお嬢様はお互いに離れられないのだ。守るべき者のいない『今』も、守るべき者がいないとわかってしまう『運命』も、退屈で寂しくてとても心が保てない。
「ああ、今夜は……」
泣き続けるお嬢様を抱きながら空を見上げる。風で雲が流された後、大きく綺麗な満月が顔を出した。
一人で生きてた時は、そういえば満足にゆっくりと満月を見る事も無かった。無意識に抱きしめる手に力が入る。
今夜のお茶会は、月見を兼ねて外でやろうと提案してみようか。そう思った。
冬の澄んだ空気も相俟って、こんな夜はどうも蝙蝠の羽ばたく音が騒がしくてしょうがない。溜め息をつくと、視界は吐息で白く濁った。
仕事の日の月は、少し欠けているくらいが一番美しい。月に中てられて見境を失った化け物の返り血にまみれて見る満月なんて、美しくも何とも無いではないか。童話に出てくるような綺麗な満月を、私は知らない。
そういえば、生まれてこの方ゆっくりと満月を見た事が無い。月見の為にいっそ今日の仕事を終えたら足を洗うのはどうだろうと一瞬考えて、すぐさまやめた。
私のような人間を雇ってくれる働き口が他にあるとは思えなかったし、似たような事を言って帰ってこなかった同僚が過去にいた気がしたからだ。
懐中時計に目をやると、ちょうど日付の変わった頃だった。気を引き締めるために髪を結びなおす。百鬼蠢く丑三つ時にはまだ時間があるけれども、標的の様子がわからない以上、少しの油断が死を招くと言える。
今回は単なる化け物退治とは訳が違う。田舎の山村に巣食う悪霊崩れだとか、夜な夜な街を徘徊するしか能の無いゾンビもどきとは根本的にレベルが違うのだ。
吸血鬼。
それも自分の根城を持ち、本能ではなく理性で自分をコントロールする格の高い吸血鬼。それが今回の標的。
「永遠に紅い幼き月」だなんて大層な二つ名が付けられるぐらいだ、少なくともそこいらの雑魚とは比べ物にならないだろう。
かの有名なツェペシュ一族の末裔だなんてまことしやかな噂も耳にしたが、果たして。
懐から報告書を取り出し、改めて読み返してみる。何度も見返してる内に羊皮紙の報告書は所々が擦り切れてしまったが、わかったのはこの仕事が厳しい物になるであろう事のみ。
「『レミリア・スカーレットの討伐』ね、随分と簡単に言ってくれる物だわ」
それにしても、この資料の少なさはどうにかならないのだろうか。判明しているのは名前と、精々備考欄の「予言、予知、未来視、あるいはそれに近い何らかの能力」のみ。
未来が視えるのは、正直言ってかなり厄介だ。時間に干渉する能力がどれ程危険で疎ましいかは自分が一番良くわかるから、用心を重ねるに越した事は無い。未来を知る力があるのなら、私が攻め込む事も既に知っているのかもしれないけれど。
ただ、姿を見た事すら無いのに「吸血鬼」と言うだけで討伐するのは何故なのだろう。教会の上層部の頭には、聖書は詰まっていても思考する脳味噌は無いのかもしれない。
考えてるうちに、それらしき館が見えてきた。想像していたよりは幾分小さな館だが、中には何が待ち受けているかわからない。
息を潜め、目を凝らす。ひい、ふう、みい。周辺の警備に当たっているのは何組かの低級妖精。吸血鬼の活動時間に合わせて襲撃してくる輩はいないと思っているのか、かなり警備は手薄だった。
数が集まると妖精とは言え厄介だが、百に満たない程度なら気付かれる前に片が付く。これなら下手に忍び込むよりも、正面から奇襲を仕掛けた方が楽かもしれない。第一、未来を読まれて先読みされたら奇襲も何も無い。
もう一度、装備を確認する。懐中時計は懐にしまった。ナイフの予備は充分にある。詠唱呪文も問題なく思い出せる。靴紐一つ解けていない。完璧。深呼吸を一つ。
あとは時間を止めれば、夜が始まる。
「時よ足を休め、選ばれし者にのみ恩恵を与えよ。『プライベートスクウェア』」
唱え慣れた呪文を詠唱すれば、あっという間に世界は色を失い凍りついた。
――――――――
雲一つ無い星空に、禍々しく光を放つ紅い月がとても綺麗な夜だ。
冬の寒さと澄んだ空気が、紅茶から立ち上る湯気を一層芳醇な物にしてくれる気がする。仕事終わりに紅茶を飲んでほぅと一息つくと、全身を巡る暖かさが気持ち良い。
門番の仕事を終えた美鈴、読書の休憩にやってくるパチュリー様に、眠たそうに欠伸をするレミリアお嬢様に妹様。
気がつけば広間のテーブルをみんなで囲んで、それでいて特に何を話すでもなくそれぞれが笑みを浮かべて紅茶を飲む。一日で一番静かな時間で、一番の至福の時間だ。
メイドの仕事をしていて良かったと思える一時でもある。この紅魔館に居て良かったと思えるのはちょくちょくあるが、メイドの仕事その物に喜びを見出せる時は意外と少ない。紅茶の淹れかたすら知らなかった頃は、きっとこんな幸せな一時がある事に気付きもしなかっただろう。
「……癒されますねぇ」
似た事を考えていたのか、しみじみと美鈴が呟く。一人で飲む紅茶じゃ、こうも優しい声では呟けないだろうから。
昼間に襲撃してきた白黒の魔法使いと随分激しく闘っていたせいか、顔にはいつもより深い疲労の色が見えた。何だかんだで門番はハードな仕事だ。
労いの意味を込めて、空になったカップにおかわりの紅茶を注いだ。私には私の仕事があり、美鈴には美鈴の仕事がある。だから今くつろいでもらうのが、私に出来る精一杯だ。
「助かったわよ。おかげで今日『は』本を奪われずに済んだから」
微笑みながら微妙な皮肉交じりの言葉を返すパチュリー様に美鈴は頭を掻き、それを見て妹様が小さく噴きだす。
私も思わずつられて噴きだしてしまい、美鈴も苦笑いを浮かべ、お嬢様もうっすら笑みを浮かべながら紅茶を口にする。
いつも通りの、何てことない夜の一幕。これからの永い月日も、こうやって変わらず過ぎていくなら悪くない。そう思っている。
ただ、一つだけ小さな疑問があった。ここのところ妙に深く考えてしまう疑問。今の事でも未来の事でもなく、それは過去の事。
こうして紅茶を淹れるようになる前、私は何処で何をしていたのか。
私の後ろで永劫に立ち尽くすだけの過去は、遡るとある日を境に真っ暗な闇に覆われている。
知ったところで未来には大して影響の無い事柄で、それは過去の名前も知らないメイド長に対する単なる嫉妬のような物か、或いは過去の記憶が殆ど無い事に対する不安なのだろう。
全くもって馬鹿馬鹿しいけれど、紅茶で温まった筈の体の一箇所だけが酷く冷たい気がするのだ。自分の構成要因に、自分の知らないパーツがある。
今じゃ呼吸のように体が覚えている紅茶の淹れ方だって、誰かに教わった記憶は無い。気が付いたら出来るようになっていたのだ。
だったら、今の私は何処から来て、――そして何処へ行くのか。
ここ最近、何度繰り返したかわからない考え事をしてるうちに、夜のお茶会も終わろうとしていた。それぞれがそれぞれの時間へと戻っていく。
漠然とした不安がストレスになるのか、最近では過去を考える度に頭が重くなる。それでも突発的に始まる思考を遮るのは困難だし、仕事に支障を来たす程では無いから半ば諦めているのだけれど。
思考中枢にかかりかけた靄を頭を振って払って、私は後片付けを始めた。紅茶の薄い残り香が鼻腔をくすぐり、私は袖を捲り上げる。
――――――――
用心に用心を重ねたつもりだった。けれど、その用心が全くもって甘い物である事を早くも思い知らされた気がする。
流石は吸血鬼の館、門番ですらそこらの妖怪なんて話にならない。時間を止めるのがあと数瞬遅れていたら、間違いなく私は惨めに敗走する事になっただろう。
突きが掠っただけの脇腹が妙に熱い。立て続けに詠唱したせいで、喉と脳髄が痺れるように感じる。激しい動悸が中々治まらない。
物陰に腰を下ろし、息を整える。法衣の下のそこかしこがじんわりと生温かい。そこまで酷い出血ではないが、後々尾を引きそうで気になる。法衣の裾を少し破り、手早く応急処置を済ませた。
懐中時計を取り出す。手早く済ませるつもりだったのに、長針は既に半分を過ぎている。夜が深くなればなるほど、吸血鬼と言う物は殺し辛くなる。遅くともあと三十分以内には仕留めなければ、真夜中の吸血鬼に今の状態で勝つこと等とてもじゃないが不可能だ。
けれど、だからと言って取り乱しても仕方が無い。焦る事と取り乱す事は違う。無理をした結果、「吸血鬼狩りが吸血鬼になる」では洒落にならない。
「………そろそろ行かないと」
五分程も壁に背中をつけて座り込めば、だいぶ体は楽になった。もっと深い休憩を求める体に鞭を打つ。懐にしまう前に、懐中時計を強く握り締めた。
大丈夫、まだやれる。自分に言い聞かせるように口の中で呟いて、両足に力を込めて立ち上がる。立ち上がってさえしまえば問題はない。後は自然と体が動いてくれる。
動悸も少しは治まった。ナイフの具合を確かめて、解けかかっていた靴紐を結び直せば、準備は完了。
物陰から物陰へと移動しながら、時を止めるかどうか考える。余り力の無駄遣いはしたくないが、この先にさっきの門番程の護衛が溢れているようなら、戦闘を避けるのも大事かもしれない。
ただ一つ言えるのは、必要最低限の戦闘で済むように、一つ一つ確実に潰していくべきだったと言う事だ。
「こそこそ何をしてる。いや、それはどうでもいい。館に足を踏み入れた以上、黙って追い返すだけでは済まさない」
時間を止めてる間に足止めしておけば充分だろう。そう考え、体力の配分をしくじった自分の甘さを恥じた。
背後から聞こえた声。振り返れば、そこには額から血を流しながらこっちを睨み付けるさっきの門番がいた。右手にさっき私が時を止めて放ったナイフが握られている。
彼女は床にナイフを放り投げ、代わりに右手を強く握りしめた。私の侵入を許してしまった事に、門番としてのプライドが傷つけられているのかもしれない。
「随分とタフなのね。それにしても、どうしてこうもすぐに見つかるのかしら。貴女も何か特別な能力を持っているの?」
気圧されないように睨み返しながらナイフを取り出す。僅かでも隙を見せたら今度こそ確実に息の根を止められるよう、いつでも投げられる準備をしておく。
また段々と動悸が激しくなっていくのがわかる。ここまで追い詰められる仕事は初めてだ。この仕事が終わったら、長めの休暇を取って紅茶でも飲もうかと考える。
「いいや、別に。ただここにいる『気』がしただけだ」
吐き捨てるように言うと、門番は拳を構える。先刻とは明らかに殺気が違う。意地でもここから先には行かせない、そんな無言の圧力が全身から発せられる。
隙など全く無い。あるのは殺気と怒りと強い意志。一体何が彼女をそこまで突き動かすのだろうか。
彼女が放った虹色のクナイと私の投げたナイフとが交差して火花を散らして、それを合図に第二ラウンドが始まった。
――――――――
目を覚ますと、見慣れた天井が歪んで見えた。
とうとう無意識に時を止めるようになったかしら、と自分自身に性質の悪い冗談を言いつつ起き上がる。が、上手く体に力が入らない。
何とか両手で体を支えるように起き上がるが、歪んだままの視界は一向に良くなる気配が無い。それでも仕事はこなさないわけにいかず、痺れる手を動かしてベッド脇に置いてあった懐中時計を手に取る。
「……え?」
時計の短針は三時を指していた。窓から差し込む陽光を見るに、寝つきが悪くて夜に起きたわけではないらしい。
慌ててベッドから降りようとするが、上手く動かない体と不意に襲った眩暈とで転がり落ちてしまう。
盛大な音と共に床に転がると、勢い良く部屋のドアが開いた。焦点の定まらない目を部屋の入り口に向けると、そこには慌てて駆け寄ってくる美鈴の姿が。
「ちょっと咲夜さん、何してるんですか!」
ひょい、と体を持ち上げられ、ベッドに戻される。布団に横たえられ毛布をかけられ、頭には濡れたタオルが載せられた。そういえば、体全体が熱い気もする。
いつの間にか寝巻きも変えられていた。昨日の夜は、痺れかけた頭で部屋に戻ってからの記憶が無いから、寝てる間に着替えさせられたのだろう。
情けない事に、私は体調を崩して寝込む羽目になったらしい。普段仕事をしてる時間に布団で寝ていると言うのは、仕事を休めて嬉しいと言うよりは、動き足りない感じがして妙な焦燥感がある。
「お嬢様も心配してましたよ。疲れが溜まってたなら無理はしないでください」
「ごめんなさいね、少し休んだらすぐに仕事に戻るから」
「何言ってるんですか。仕事をする気があるなら、それこそ二、三日そのまま寝てた方が良いです」
美鈴に即答で返された言葉に、私は言い返す事が出来なかった。確かに今の状態じゃ家事どころか、紅茶一杯淹れるのにすら苦労しそうだ。
私は諦めて布団を被り、体を休める事にした。美鈴は椅子に腰掛けて林檎の皮を剥いている。普段家事をしているところを見ないせいか危なっかしく見えるが、意外にもスルスルと器用に剥いていく。
小さく分けられた林檎の一つを手に取り齧ると、口の中に程よい酸味と甘みが広がる。美味しい。
「美鈴。看病はありがたいんだけど、門番の仕事は大丈夫なの?」
「あ、それなら大丈夫です。休憩時間ですし、今は私の代わりにパチュリー様の使い魔さんが門に立ってます」
「……それは本当に大丈夫なの?」
私としては美鈴が居てくれた方が何かと安心なのだけれど、それで仕事が疎かになるようじゃいけない。
それでも休憩時間の合間に誰かがこうやって来てくれるのなら、私はこの紅魔館で暮らしてて本当に良かったと思える。
何しろここに来る前は、病気で臥せっていても見舞い一人来る事も無く、板張りの部屋で一人震えていたのだから。
「え?」
「? どうしました? 何か飲み物持って来ましょうか?」
「あ、いや、違うの。一瞬だけ何か忘れてた事を思い出したような……」
「――――」
大した事では無かった気がするけれど、思い出せないと何かが喉に突っかえているようで気になってしょうがない。雲の隙間から一瞬だけ月が顔を出してまた隠れるのに似ていると思う。
美鈴も気難しい顔のまま押し黙ってしまう。美鈴にそれが思い出せる筈は無いのに、一緒になって思い出そうとしているような、思い出した記憶が苦々しい物だったような、そんな難しい顔。
気まずい沈黙。空気の重さに耐えかね、私は話題を逸らそうとした。かと言って適当な話題は思いつかない。中途半端に口を開けた後は、無意識にいつもの疑問を投げかけていた。
「そういえば、美鈴って私より前から此処にいるわよね?」
「……ええ、そうですね」
「私が来る前って、家事とかはどうしてたの? 先代のメイド長とかいたのかしら」
話しているうちに、頭が段々痺れてくる。熱が上がっているのか動悸も激しい。自分で話題を振っておきながら続く言葉が見つからず、私は視線を美鈴から天井へと移した。
美鈴は黙ったまま、言葉を発する気配が無い。普段ならもっと明るく自然なやり取りが出来る筈なのにそれが無いのは、もしかしてこの話題は此処でのタブーだったりするのだろうか。
「……もう休憩が終わっちゃいますね。ごめんなさい咲夜さん、そろそろ私は行きます」
「あ、うん。ありがとう、助かった」
結局最後まで美鈴が疑問に何らかの解答を示してくれる事は無かった。
そのまま美鈴は部屋を後にし、皿に盛られた林檎と釈然としない空気だけが部屋に残った。再び回転し始める視界。歪んでいく世界。
今まで自分を取り巻いていた世界が変わっていくような、自分が自分でなくなってしまうような、血が逆流し始めたんじゃないかと思うような不快感の中、知らず私は気を失っていた。
――――――――
「時よ足を休め、選ばれし者にのみ恩恵を与えよ!」
猛烈な速度で繰り出される突きと蹴りの嵐を捌きながら詠唱を続ける。攻勢に出ながら詠唱出来るほど、体力と集中力に余裕は無い。
どの一撃も、直撃すれば昏倒は免れない。妖怪特有の再生能力の強さを武器に、門番はいなしたナイフで手が裂けるのも構わずに更に攻撃の速度を速めていく。
一方の私は、距離を離さないと決定打が放てない。時間を止めないと急所に一撃を決める事が困難だからだ。
間髪いれず、兜すら砕きそうな手刀が振り下ろされる。身を捻って避けるついでに至近距離から顔面にナイフを投げつけるが、それを門番は上体を反らして避けた。
――それを私は好機と判断した。
スウェーの状態から次の連撃に移ろうとする門番を踏み台に、私は高く跳躍した。意外な行動に門番は一瞬だけ目を見開くが、次には身を屈め、空中に跳んで追撃をかけようとする。
その足が地面を強く蹴った一瞬、私は勝負に出た。
「『プライベートスクウェア』!」
強く術名を叫んだ瞬間に世界は色を失い、白と黒のモノクロに変わる。私以外の時間は動かない。それは瞬間で肉薄するほど接近していた門番も例外ではない。
宙で身を翻し、壁や柱の間を跳躍しながら、私は門番めがけありったけのナイフを投げつける。勢い良く飛ぶナイフはしかし時の因果を失い途中で止まり、結果として時が動きだすと共に標的に殺到する事となる。
周囲の360度全方位を退魔の銀ナイフに覆われた門番への最後のダメ押しに、柱を強く蹴りすれ違い様に深々と切り裂く。同時に時間を止める限界を感じ、私は地面に着地し、
そして世界に色が戻る。
ほんの一瞬前に追撃を加えようとしていた標的を見失い、代わりに目に入った無数のナイフを前に、門番も流石に驚きの顔を隠せなかった。
間髪いれず全身に降り注ぐナイフの嵐と、深く切り裂かれた腹部から流れ出す紅い液体。全力の攻撃を受け、門番は着地と同時に膝をつき、血を吐く。
それでも顔を上げこちらを睨み付ける門番に、私はナイフを突きつける。
「チェック」
ギリ……と歯を食い縛る音が今にも聞こえてきそうな程に、深い憎しみと屈辱の感情を露わにする門番。使命に燃える者は強い。
それでも、私はこの妖怪の守る物を奪って今を生き続けなければいけないのだ。此の世の残酷な定めだとは思うけれど、私には時を止める力はあっても運命を変える力は無い。
ナイフを振り上げる。門番は悔しそうに目を瞑る。私の手が頭蓋に向けて振り下ろされる瞬間、――しかし私のナイフは吹き飛ばされていた。
「チェックメイト」
凄まじい激突音のしたすぐ横の壁には、魔力を込めて補強した筈の銀ナイフの残骸が埋め込まれている。
声のした方を振り向くと、そこには青い髪をした年端もいかない少女が、――紅いオーラを纏った槍を手に立っていた。レミリア・スカーレットだと、直感で感じ取る。
同時に、全身に寒気が走る。この存在には叶わないと、全身の細胞がビリビリと震えて警鐘を鳴らす。この存在と関わってはいけない、万に一つも勝ち目なんて無い。一目見ただけなのに、そう本能が告げている。
自分がこの化け物を討伐する為にここに出向いた事など、迫力に気圧され頭から吹き飛んでいた。真夜中の吸血鬼は、その力を何倍にも増す。
「そう、貴女が失礼な教会からの回し者なのね」
その言葉に私は現実に引き戻される。そして同時に際限なく膨れ上がる魔力を感じ取り、咄嗟に横へと転がる。
直後、一瞬前まで私が立っていた所に真紅の槍が突き立てられ、衝撃と爆発と噴煙とが空間を震わせた。
――――――――
次に目を覚ました時は、もう視界は正常になっていた。不快感も治まっている。
これならいつも通り仕事が出来そうだけれど、窓の外は既に暗い。起き上がって窓を開けてみると、ゆったり流れる雲と見え隠れする満月の綺麗な夜空。
どこからかパタパタと蝙蝠の羽音が聞こえてくる。吸血鬼の棲む館に暮らしていると言うのに、蝙蝠の羽音を聞いたのが凄く久しぶりに感じる。
何故だか凄く――不自然でしょうがない。
不快感は確かに治まった。熱ももう無い。体調は万全に回復したと言って差し支えない。
でも、以前は感じる事の無かった強い違和感が感じられてどうしようもない。確かに自分の体なのにしっくり来ないような、昨日までと体が変わってしまったような。
何かがおかしい。そう考えつつもとりあえず服を着替えようと思い、先日着ていたメイド服を探す。
それはすぐに見つかった。ただ、美鈴が部屋を片付ける際に置き場所に困ったらしく、椅子の上に適当に放ってあるそれは皺だらけでとても着れた物ではない。どこか抜けているのだ、美鈴と言う人物は。
仕方が無いのでクローゼットを開く。そういえば二、三日は休んでたほうが良いと言われた事を思い出す。そこまで仕事を投げ出すのは怖いので、ここはお言葉に甘えて一日だけ休みを頂く事にする。
なのでメイド服ではなく、何か気楽な部屋着を探すのだけれど、良く考えたら私はここ数年部屋着を買った覚えも着た覚えも無い。
クローゼットの奥まで頭を突っ込み、メイド服とメイド服の間を掻き分けて探すけれど、中々適当な服は見当たらない。
その時、指先にメイド服とも寝巻きとも違った感触を感じ取った。
ようやく普段着か、と思って引きずり出したそれは、ところどころが破けた汚い法衣。何故法衣なんかが私のクローゼットに?
この館には法衣を着るような人物は存在しない。となると、部屋にあった事を考えてもこれは私の物と言う可能性が一番高い。しかし私はこれを着た覚えが無い。
もしかしたら思い出せない昔に関わる物かもしれない、後でお嬢様辺りに聞いてみよう。そう考えて法衣を椅子の上へ放り投げようとして、何か引っかかった。
法衣を着るのは聖職者だ。仮に私が聖職者だったとして、どうしてこの館に来たんだ? それに吸血鬼は教会と敵対している筈、だとしたら私の過去はもしかして――
「『レミリア・スカーレットの討伐』……」
良く考えたらとんでもない言葉が、知らずに口から発せられていた。それをきっかけに、朧気ながら少しずつ記憶が蘇っていく。
あの夜私は、羊皮紙に書かれた依頼を受けてこの館にやってきて……。
蘇る記憶の勢いは増していく。暗闇だった過去に物凄い勢いで光が当てられていく。居ても立ってもいられず、私は寝巻きのまま部屋を飛び出していた。
――――――――
迅雷が疾るような凄まじい速度で、紅の槍の柄が私の腹部に叩き込まれる。その場に踏みとどまる事すら叶わず、私の体は勢い良く吹き飛び、壁に叩きつけられる。
背中を強く打ったせいで、上手く呼吸が出来ない。先刻からろくに防御も出来ていないため、ナイフを一本投げる事すら難しい程に体のダメージは深刻だ。
それでも力を振り絞って立ち上がり、どうにか生き延びる術を模索する。レミリア・スカーレットはゆっくりと近づいてくる。距離の開いた今なら、詠唱が間に合うかもしれない。
「時よ……足を」
「時よ足を休め、選ばれし者にのみ恩恵を与えよ。『プライベートスクウェア』、…………良い詠唱呪文ね」
詠唱を始めた直後、遮るようにレミリア・スカーレットが全く同じ呪文を唱える。――私は戦慄した。どうして私の術式詠唱を、今まで顔も知らなかった吸血鬼が一言一句間違えずに唱える事が出来るのか。
勿論、時間を操れるのは私の能力であって、詠唱すれば誰しも時間が止められるわけではない。能力を自分で具現化する手助けに詠唱があるだけだから、今レミリア・スカーレットが呪文を唱えたとしても、時間が止まるわけではない。
それでも、自分しか知らない筈の物を相手が知っている。それも切り札の鍵を。それはとてつもなく恐ろしい事だ。
「貴女『も』、時間と空間の因果律を操るのね」
絶望して立ち上がれない私の目の前で立ち止まったレミリア・スカーレットは、敵意とも軽蔑とも違う目で私を見下ろす。
まず、さっきより格段に優しい目になっている。最初に槍を構えた時の目は怒りと憎しみの色だったが、今はそんな色は殆ど見えない。
表現するとすれば、仲間を見つけた一匹狼はきっとこんな目をするのかもしれない。
「矢のように過ぎ去って行く、そのほんの一刹那だけを繋ぎ留める能力。気に入ったわ」
じゃあ、どうして私は仲間に見られているのだろう。私は教会の代行者、吸血鬼狩り。全く敵対する立場なのに。
……いや、それは問題じゃない。むしろ自分の敵に自分との共通性を見出したからこそ、今なんとか私は生きているのかもしれない。
ならその共通性は何なのだろう? そういえば、今レミリア・スカーレットは何て言った……?
段々と意識を保つのが辛くなって来る。それでも今ここで気を失う事は死に直結するわけで、痺れかけた脳髄に強く喝を入れた。
「ねぇ貴女、私に仕える気は無い? 教会を抜けて私に仕えるなら、今回の狼藉は不問にして刺激ある日々を約束するわ」
首を横に振ろうとしても、上手く体が動かない。法衣の袖から報告書が滑り落ちる。手に取ろうとして、目に入ったワンフレーズ。
「予言、予知、未来視、あるいはそれに近い何らかの能力」
そうか、それか。私の中の疑問が繋がった。彼女は、確かに私の同類だ。
「……そう。未来を見れるんだったわね。どうりで」
私が唱えようとした呪文がわかったわけだ。数秒先の呪文を詠唱する私を見て、私が時を止める前に詠唱を遮った。
時の因果に干渉する仲間同士、と言いたかったのだ。この幼い吸血鬼は。
とてもじゃないが力の有る物に持たせる能力じゃない。私の仕えさせられている神とやらは、どうやらパワーバランスも考えていない大馬鹿者らしい。
「未来? そんな小さな物を視てもしょうがないじゃない」
それなのに、レミリア・スカーレットは私の言葉を否定した。何が間違っているとも思えないけれど、彼女は自分の能力に絶対の自信があるらしい。
なんとプライドの高く、自信家な事か。吸血鬼と言う物は揃って自尊心と我が侭の塊だと聞いていたけれど、あながち間違っていないようだ。
幼き吸血鬼は転がった私のナイフを手に取り、自らの指に刃を当てた。退魔の術式が傷の治りを遅らせ、指先からは鮮血が滴る。
「舐めなさい。血は吸わないであげる。その代わり、貴女は従者として私に明日から紅茶を淹れるの。中々面白い提案だと思うけれど?」
返事をするのも億劫で、私はただ頷いた。紅く染まった人差し指が私の唇に触れる。血が喉に流れ込む。
吸血鬼と契約を交わす代行者。お笑い種かもしれないけれど、例え吸血鬼でも私に居場所が出来た。屈辱感や被征服感よりも、安心感が先に立つ。
紅茶を淹れる従者か、悪くないかもしれない。そう思った。
「ねぇ、じゃあアナタは未来じゃなくて何が視えるの?」
今にも闇に沈みそうな意識で質問を投げかける。
私の言葉を聞いているのかいないのか、レミリア・スカーレットは血の滴る指を舐め、激しい戦闘で壊れた天井を見上げた。紅い満月が禍々しく輝いている。
背に生えた蝙蝠の翼が大きく広がる。永遠に紅い幼き月。その二つ名の意味が今、わかった気がした。
「決まってるじゃない」
――運命よ。
レミリア・スカーレットのその言葉を聞いたのを最後に、私の意識は途切れた。
――――――――
「……そろそろ魅了の解ける頃だと覚悟はしてたわ」
冷たい夜風の吹く冬の空の下、お嬢様は一人月を見上げながら言った。頭上の月は紅くも無ければ満月でも無いけれど、見上げるお嬢様の姿はいつか、壊れた天井から月を見上げていた姿と被る。
記憶は完全に戻った。能力を買われて異能狩りをしていた頃も、仕事としてこの紅魔館に潜入した日も、鮮明に思い出せる。
一際冷たい風が吹き抜ける。冬の冷たい風は寝巻きには結構厳しいけれど、今の私には防寒具よりも遥かに大事なものが目の前に在った。
「ありがとう咲夜。貴女が来てからの日々は、私の五百年の生涯の中で間違いなく一番充実してた」
そう言いながら振り返ったお嬢様の顔は優しかった。ただ、記憶の中で始めて会ったその日の優しい目と違って、はっきりと寂しさが見える。
その気になれば、今度は私の血を吸って自らの眷属として此処に留めておく選択もお嬢様には出来る。
それをしないのは、人間としての私を必要としてくれているのかもしれないし、私の意志を尊重してくれているのかもしれない。
「だけど、貴女が行くと言うのなら、私に引き止める事は出来ない。好きにしなさい」
言い終えて、再び向こうを向いてしまう。心なしか若干肩が震えている気もする。「傍に居て欲しい」と一言言えれば苦労はしないのに、プライドが邪魔してそれも言えない。
私と知り合うより昔のお嬢様は、それでどれだけの悲しい思いをして来たのだろう。同族にすら疎まれ幻想の向こうに行く事を決意した時、その心は何を思っていたのだろう。
私はゆっくりとお嬢様に歩み寄る。
「お嬢様。こっちを向いてください」
声にビクッと一際強く肩を震わせてから、お嬢様は振り向いた。
今にも不安に押し潰されそうな表情、今にも零れそうな涙。主人にこんな表情をさせるようじゃ、私は従者失格だと思う。
私は片膝を折り、お嬢様の左手を手に取り、甲に口付ける。夜の眷属特有の体の冷たさが唇に心地良い。
「咲夜……?」
「忠誠を誓うのに、血も魔力も必要ありませんよ」
お嬢様は私の行動に固まり、私の言葉に唖然とした後、――思い切り涙を流しながら抱きついてきた。
背中に手を回し、軽く抱きしめてやる。無理は無い。ようやく見つけた仲間すら自分から離れていってしまうなら、私だって耐えられる自信は無い。
つまるところ、私とお嬢様はお互いに離れられないのだ。守るべき者のいない『今』も、守るべき者がいないとわかってしまう『運命』も、退屈で寂しくてとても心が保てない。
「ああ、今夜は……」
泣き続けるお嬢様を抱きながら空を見上げる。風で雲が流された後、大きく綺麗な満月が顔を出した。
一人で生きてた時は、そういえば満足にゆっくりと満月を見る事も無かった。無意識に抱きしめる手に力が入る。
今夜のお茶会は、月見を兼ねて外でやろうと提案してみようか。そう思った。
コレと言うほど目新しい要素があるわけでもなかったですが、
ふと気がつけば引き込まれてる俺がいました。
文章力の高さが為せる技ですな。
今後にも期待、の意味を込めてこの点数で。
って事はナイフも柄だけ持ち歩いてるんですかねぇ…
まあそれはそれとして今と過去が行ったり来たりする仕掛けは面白かったですわ
あとあっさり従者になるのを認めてるのはやっぱり魅了なんですかね
その辺気になったのでちょい低めで
今後も精進します。ネタ分は少し薄めますが。
コメントで気になった部分が一箇所だけあったので。
>あとあっさり従者になるのを認めてるのはやっぱり魅了なんですかね
レミリアが魅了を使ったのと、咲夜自身がレミリアに惹かれていた事の相乗効果ですね
そこらへんの描写や説明が不足してましたね……申し訳ない
次回作はそこら辺も気にかけて頑張ります。閲覧ありがとうございました