とんでもないものを目にしてしまった。香霖が沸騰している。
あちこちに転がっている紙束を蹴飛ばし踏み分け近づいてみると、この馬鹿は顔を真っ赤にしてぶつぶつと訳の分からない事を言っている。
香霖堂が妙なのはいつものことだが、これはいつも以上に珍奇だ。私はとりあえず香霖の頭を両手で掴んでゆさゆさと揺すってみた。
「おーい、香霖。死んでるか?」
そう言うと、あー、だの、うー、だの訳の分からんうめき声をあげて眠そうな顔が私を見上げてきた。
「生きてるよ。だけどな、魔理沙。君には立ち入り禁止の文字が見えなかったのか」
「見えたぜ」
香霖はそれを聞くと、むう、と唸ってカウンターに伏した。元気がない。香霖が陰気なのはいつものことだが、何だか今日はとみに元気がない。
「……じゃあ出ていってくれ。僕は疲れてるんだよ」
「出て行けという看板は立っていなかったな」
そんな事を言いながら、こっそり額に手を当ててみたりする。熱はないみたいだ。こいつが風邪なんかひきっこない事は分かっていたが、顔は真っ赤なだけにちょっと気になる。
「君の手は冷たいな」
香霖はぼんやりとそんな事を言った。
「なんだ。嫌だったか?」
「いいや。冷たいのは良い。頭が冷えるからね」
香霖はよく分からないことを言って、頭を振った。ねじがちょっとゆるんでいるとしか思えない。
冷たいのが良いとか言っている割に、ストーブはぼーぼー火を噴いている。いつもご苦労なことだ。
とりあえず、香霖のこの様子にぴったりと当てはまる病名はないだろうか、と考えてみて、にんまりと笑う。あったあった。
「恋か?」
香霖は何も言わなかった。そのかわりに、物凄く呆れ果てた目でこっちを見てくる。私だって本気で言った訳じゃない。そんな目をされても困る。
「というか、本当にどうしたんだよ。香霖堂が三日も四日も閉まりっぱなしなんてのは変だぜ」
「三日も四日もひょこひょこ顔出しに来てたのか、君は。そして最後には扉を蹴破ってご登場、と」
「まあな」
頷く私に、そりゃ迷惑をかけたね、と香霖は珍しく殊勝に謝った。明日は幻想郷に海がやってきてもおかしくない。
こんな風に軽口を叩いてはいるけど、私だって一応心配はしている。香霖が妖しい研究とか道具とかにかまけて何日も店を閉じているのなら何も言わない。
そういうのは魔法使いにはよくあることだ。商人によくあることであっても別に変な話じゃない。
でも、こいつはぐったりしていた。ばたんきゅう、みたいな感じだった。香霖がここまでぐったりしてるのは見たことがなかったので、ちょっと不思議だったのだ。
ちなみに店を蹴破ったのは、そういう心配からじゃなくて、いきなり雨が降ってきたからだ。
生ぬるい風が吹き出したから、ああ、やばいなあ、とは思っていたが、案の定。暴風と一緒に大雨がやってきた。
それで香霖堂に飛び込んできたというのが大筋だ。ほとんど雨に濡れなかったのは本当に運が良かった。
「で、何やってるんだ?」
ぐい、とカウンターをのぞき込んでみると、香霖らしくない滅茶苦茶汚い字で何かを書き殴ってある紙切れが目に入った。
親指と人差し指でそれを摘んで読んでみる。なんだか、香霖堂改造計画、みたいな事が書いてあった。内容は、読むに足りない馬鹿げたものだ。
香霖もそれが分かっているのか、やれやれ、と肩を竦めてみせる。
「最近、店の運営に悩んでいてね……」
はぁ、と香霖の口から長い息が漏れた。憂鬱そうな表情だ。やや何かを迷惑がっているようにも見える。私は適当なトランクケースを引っ張り出してきて、それに腰掛けた。
「つまらなそうな話だな。面白可笑しく脚色してくれれば聞いてやってもいいぜ」
「やれやれ」
香霖の口から、小さく笑いが漏れた。緊張の糸がやや解れたとでもいうような、少しだけ安心したような、そんな表情だった。
「じゃあ、聞いて貰おうかな」
そう言って、香霖はどっかりと椅子の背に背中を預けて、眼鏡を外した。
目が疲れているのかもしれない。上を向いて右手の親指と中指で、ぎゅっ、と瞼を押さえつけながら、香霖は語り始める。
「最近、客が増えているじゃないか」
いきなり自慢だった。でもまあ私は気が長い。うんうんと黙って聞いてやる事にする。
香霖は返事が貰えなかったのが不満なのか、ちらと目を開けてこっちを見たが、ちゃんと聞いてるのが分かったのか、また目を閉じた。
「しかも訪れる客、訪れる客、何だか訳ありが多い」
「そうなのか?」
これは初耳だ。困りに困って最終手段に香霖堂にやって来るのなんて、私か霊夢くらいのもんだと思っていたがどうやら違うらしい。香霖も存外人気者になったものだ。
「で、そのお客様が抱えている問題というのが、誰でも解決できそうなものばかりなんだ。だから売名ついでにそういうのも僕がなんとかしてあげてたんだが……」
はあ、とこいつは息を吐く。大体言いたい事の見当は付いた。
「どうにも、そういう所を買って来店してくる人が増えた気がするんだ。だから、そういう新参のお客様にどう対応して良いものか思い悩んでいてね。
僕としては、客との交流はほんの一時で十分なんだが」
また、深く息を吐く。本当に憂鬱そうだ。客が増えたっていうのに全然嬉しそうじゃない。実際、嬉しくないのだろう。
「困ってたって放っておけばいいじゃないか。それでどっか行くような客ならそれだけの奴だったって事だろ。
ま、私にゃ最近の客にそういう奴は居ない気がするけどな。というか今までそんな事考えずに無茶苦茶やってたじゃないか。なんで今になって悩み出すんだよ」
「客の数が減るのはやっぱり嫌だからね」
香霖の欲張りに、思わず苦笑してしまう。たぶん、近頃どんどん新顔が増えてきたから戸惑ってるんだろう。
それで、客を逃すまい、今が稼ぎ時だとばかりに焦って慌てて暴走した結果がこれだ。床一面に散らばっている紙切れを見れば、香霖の錯乱ぶりがよく分かる。というか狂乱だな、これじゃあ。
今まで肩の力を抜いて好き放題商売をやってたんだから、いきなり凄い商人だ、いい人だ、と期待されても困るって訳だ。実際こいつは全然いい人なんかじゃないし。良い奴ではあるが。
「それで、解決策が見つかるまで店を閉じておこうって訳だったんだな」
ああ、と香霖は頷いた。
「別に魔理沙や霊夢なら来てくれても何ら問題は無かったんだけどね。でも他のお客様と区別するわけにはいかないしな」
「変な香霖だぜ」
やれやれだ。顔も真っ赤になっているが、頭も沸騰しているに違いない。なんというか、香霖らしくない。
なにが他のお客様と区別するわけには、だ。いつも差別しまくってるのはどこのどいつだ。
いらっしゃい……なんだ、魔理沙か。この台詞を何度聞いたか知れない。全く。でもまあそれも許してやることにしよう。
「私も魔法の研究で、んにゃー、って頭の中真っ白になる時があるけどさ。そう言うときは、うんと頭を冷やせば冷静になれるんだ」
「知ってるよ。だから魔理沙の手が気持ちよかったんだ」
そういえばそんな事も言っていたかも知れない。とりあえず、トランクケースを降りてストーブの火は消しておいた。こいつが活躍すると頭の働きが鈍くなるからな。
なんでも一酸化炭素だか三酸化炭素だかが私たちを眠りに誘うらしい。これがまた気持ちいいんだが、香霖がこれ以上壊れると色々困る。
「そうだろ、冷たいのは気持ちいいだろ。だから――」
「雪にでも突っ込め、と?」
香霖は濁った目でそんな事を言った。馬鹿だ。もやしだ。
「香霖。もう積もるほど雪が残ってる場所なんて、山くらいしかないぜ? 全然外に出てないだろ」
「そうなのか。なんだかまだまだ寒い日が続きそうなイメージがあったんだけどな。心の余裕が無かった、というのもあるけど」
わしゃわしゃと乱雑に髪をかき乱して、うぅむ、と香霖が唸る。それにしても、見事な爆発頭だ。服は乱れているし、顔色なんか林檎みたいだ。
あのブン屋が見たら嬉々としてファインダーをのぞき込むだろう。
「ま、雪はともかくとしてだ。折角だ。きーん、と一発頭を冷却しにいかないか?」
香霖の目が狐みたいに細くなる。こいつの考えてる事なんてお見通しだ。どうせ、また魔理沙が詰まらん事を言い出したな、なんて思ってるに違いない。案の定、めんどくさそうな顔でこいつは言った。
「見ての通り、僕は忙しいんだ」
両手を広げてそれをアピールするが、やっぱり覇気がない。自分でもこれ以上頑張ったって徒労なのは分かってるだろうに。負けず嫌いな奴だ。私も人の事は言えないが。
こいつが動かない古道具屋だって事くらいよく分かっているつもりだ。だからといって、ぐったりしてる香霖を放っておくことはできない。一応、こんなんでも恩人なのだ。
「忙しいっていったってなあ。香霖が頑張ってるのは分かるけど、いくら踏ん張っても無駄な事ってあると思うんだ。そういう時は視点を変えてみるのが一番の近道じゃないか」
それでも香霖はやはり、うーん、と気の乗らない様子だ。てこでも動かないような奴だから、予測はしてたけどな。
「うじうじ悩んでても仕方ないだろ。顔とかちょっと鏡で見てみろよ。酷いことになってるのが分かるぜ」
「顔なら見ている」
香霖はそう言って、左手に手鏡、右手に小冊子を取り出した。冊子の方には、「カリスマ店主、笑顔の秘訣」と書かれている。
私は香霖をじっと見やった。大まじめに大ぽかをやらかしているようだ。人間ってのは追いつめられると何をし出すか分からんな。私が来て良かった良かった。
「取り敢えず、そんな本は捨てとけって。香霖にはにっこり笑顔は似合わないぜ」
「じゃあ誰になら似合うんだ」
「私とか」
ふぅ、という溜息が聞こえた。本当に失礼な奴だ。こっちがこれだけ骨を折ってやってるっていうのにその態度は無いだろ。大体その呆れたような溜息はなんだ。私に色気が無いって言いたいのか。
だがまあとりあえず香霖は私が何が何でも退かない奴だと思い出したらしく、しょうがないな、とぶつくさ言いながら席を立った。
「それで、どこに行くんだ?」
やっぱり好奇心の強い奴だ。行くと決めたらもうのりのり。無縁塚まで道具探しにひょこひょこ小旅行する奴だから意外と行動的なのは誰でも知っている。
あとは頑固者のこいつをちょちょいと刺激してやればいいわけだ。香霖操作は得意技なのだ。私は腰に手を当て、胸を張って言った。
「綺麗な所だ」
久方ぶりに吸う外の空気はとても美味かった。敵対的なほどに鋭い冬特有の冷たさは確かに弱まっていたが、代わりにどこか柔らかなあたたかさを感じる。
魔理沙の言うとおり、頭の中がぐつぐつと煮えていたのが今になってようやく分かる。
雪はもうすっかり融けてしまっていて、後にはべちょべちょした土が残るばかりだ。
そしてその土を叩き潰すように、車軸を流すような大雨と、生あたたかい暴風が吹き荒れている。
屋根の下に居るというのに大粒の雨がべちゃべちゃと顔を叩いた。魔理沙にとってもこれは予想以上のようで、ううむ、と難しい顔で腕を組んでいる。
「なあ、香霖」
帽子の縁を右手で弄びながら、魔理沙は上目遣いにこちらをみやる。この数年間で成長したのだろうけれど、やっぱりその背は低かった。
「濡れちゃ駄目なものとか持ってきてないよな」
そう問われ、僕はいつも小道具を収納している箇所を確認してみる。特に、何も入れてはいないようだ。
「大丈夫だよ。魔理沙こそいつも色々と持ち歩いているそうじゃないか。それはいいのか?」
問題ないぜ、と魔理沙はからから笑った。相変わらず胸の空くような即断即決ぶりである。見習いたいものだが女の子としてどうかとも思う。
風はあたたかいのだがどうにも恩着せがましくべたべたと体に張り付いてくる感じだ。あんまり気持ちよくはない。いや、むしろ気持ちが悪い。
そんな僕の不快感が伝わったのだろうか、魔理沙は悪い悪い、と言って両手をぱたぱたさせて謝った。
「全く。本当に悪いと思うなら誠意を見せてくれ。例えば頭の上で両手をぶらぶらさせるとか」
「ほれほれ」
魔理沙はにやにやと笑いながら頭の上で両の手をぶらぶらと振り回した。やっぱりこの子は何を考えているのか分からない。
天の邪鬼のようでもあるのだが、妙に素直に言うことを聞くことがある。
それがまた腹立たしくもあり、おかしくもある。それが魔理沙と居ると楽しい由縁であり、また同時にこの子に友達が少ない理由でもある。
「それで、僕をどこに連れて行ってくれるんだ?」
魔理沙の交友範囲はとても広い。常人には先ず立ち入る事が出来ない場所にも平然と侵入したりする。だから見知らぬ場所に行けるのでは、と僕は期待するわけだ。
だが魔理沙はやっぱりへらへら笑うばかりだ。どこか韜晦するようでもある。
「香霖だって何回も見ているところだぜ」
何回も見ているのに、行けない場所。どこだろうか。外の世界、ということはあるまい。夢には見たが実際には一度も足を踏み入れていない、第一魔理沙にそこまでの技量があるとは思えない。
では、山だろうか。いやいやそれもあるまい。ストレス発散どころか天狗に襲われるのが関の山だ。椛や文に敗北するなど屈辱的すぎる。
そんな事を腕を組んで考え込んでいる僕を魔理沙はとても楽しそうに見ていた。全く、人をからかっておもしろがるとはとんでもないやつだ。
「で、結局どこに行くんだ?」
魔理沙は笑って言う。
「人に頼む時にはそれなりの態度があるだろ? 例えば頭の上で両手をぶらぶらさせるとか」
致し方あるまい。僕は両手を高く振り上げ、それをぶらぶらと振り回した。魔理沙は両手で腹を抱えて笑っている。本当にそんな風にして笑う子を僕は初めて見た。出来れば見たくなかった。
「及第点だ。香霖にしては上等だな」
何故か偉そうに魔理沙が言う。この子は他の少女達の前でもこんな態度なのだろうか。これは倦厭されても仕方がないな。
だがまあそれは言わないことにしておく。今回は僕のためを思っての行動だろうし、その点には感謝するべきだ。
あの魔理沙が僕のために何かをするとは、成長したものである。まあ、僕も色々してあげたし、貸し借りの帳消しになっているだけだが。
「さて、魔理沙さんと香霖がどこに行くかっていうとだな」
ふっふっふ、とどこからともなく(本当にどこからともなく)箒を取り出して魔理沙は天(残念ながらその先にあるのは屋根だ)を指さした。
「空だ!」
ついにこの子も焼きが回ったか、と僕は思った。空である。あり得ない。河童が言い出したのなら希望が持てるが、魔理沙がどうやって僕を空に連れて行くというのだ。
「まあ、気持ちだけ受け取っておくよ」
そう言って彼女に背を向けようとしたのだけれど、魔理沙は話は終わってないぜ、とばかりに僕の前に立ちふさがる。
「自分が空を飛べないからって強がるなよ。大人しく魔理沙さんの言うことを聞いておけって」
「僕は飛べないとは言っていない。君の前で飛んだ事がないだけだ」
「同じことだぜ」
魔理沙の強引さは今に始まったことではない。全く、商人の娘だというのに強情な子だ。誰に似たんだろうな。
この子にこういう悪影響を与えた奴が居るなら、霧雨の剣で真っ二つにしてやってもいい。僕にはその権利がある。
そんな事を考えていると、魔理沙は箒に跨って、こっちを振り返っていた。何をしたいのだろうか、非常に間の抜けたポーズである。
「ほら、座れって!」
乗れでも跨れでもなく、座れ。更に訳が分からない。だがいつまでも魔理沙のペースに乗せられていてはこの子の兄貴分として情けない。
からかってやろうと思い、僕は本当に箒に腰掛けた。つまり、跨るのではなく、横座りしたのである。魔理沙はにやりと笑う。
「香霖、両手で箒掴んで体を後ろに倒してみろ」
なんだかとても得意気な表情だ。よく分からないが、言われたとおり両手でしっかりと箒の柄を握り、体をゆっくりと後ろに倒す。
ちょうど遊具の鉄棒に腰掛け、後ろに体重をかけている感じだ。普通ならば、ぐるん、と体が一回転して然るべきだろう。
しかしこれは鉄棒ではないので、僕は後頭部をごちんと地面にぶつけることになる。だが。
「む?」
そうはならなかった。なんだか背中の方に柔らかいクッションのようなものを感じる。手をそこに回してみても、空を掴むばかりだ。
試しに体を前傾させてみる。ある程度までは何事もないのだが、それ以上傾けると、ふに、とやはり柔らかいものに顔が埋まり、そっと体が押し返された。
眼鏡をかけているのに、思い切り見えないクッションに顔を突っ込んでも痛くない。不思議である。どうだ、凄いだろうと魔理沙は笑う。
「眼鏡も吹っ飛ばない親切設計だぜ!」
ふうん、と僕は感心して溜息を吐いた。これは凄い。本当に凄い。まさかの箒二人乗りである。
ただ、気になるのはその長さ。これは恐らく魔理沙がいつも使っているものではない。あれを使うのであれば、せいぜい小柄な少女が二人で乗って、ぎゅうぎゅう詰めである。
だがしかし、この箒は僕と魔理沙がゆったり構えていてもなお余裕がある。最早箒というより物干し竿みたいな有様である。不格好なことこの上ない。
このためだけに作った箒であるとしか思えない。魔理沙は訳の分からない物を作るのが好きな子だ。これもその一環なのだろう。今度制作物の一覧を見せて貰っても楽しいかも知れない。
だが、と僕は空を見上げる。
「こんな大雨の下で飛び回ってもつまらないだろう? それに君が風邪をこじらせたら苦労するのは僕だ」
へへ、と魔理沙は意味深な笑みを漏らす。
「やっぱり地面を這って生きる奴の考え方をするよな、香霖は」
随分なお言葉である。確かに僕は空中をふわふわ漂って生活している訳じゃあない。むしろそういう生き物の方が珍しいだろう。僕の知る限りそんな生活を送っているのはあの宵闇の妖怪くらいだ。
魔理沙は、豪雨の中での航空などつまらないだろうという僕の意見には何の反論も示さず、にやにやと笑みを浮かべたまま思い切り地面を両の足で蹴った。
ふわり、と体が浮く感覚。それと同時に体のバランスが大きく崩れるが、クッションによって快適な位置に戻された。
急上昇に伴う圧迫感は全くなかった。その代わりに、猛烈な雨が顔といい肩といい打ち付けてくる。眼鏡は確かに吹き飛ばなかったが、水滴によって視界は一瞬にして遮られた。
世界が全てぼやける。混乱の為か、僕は何やら文句みたいなものをぎゃあぎゃあと叫んだ気がするが、自分でもそれを意識してはいなかった。言葉になっていたのかどうかも妖しい。
むしろ魔理沙にはそれが悲鳴のように聞こえたかも知れない。僕の服は割と厚手なのでぐっしょりと重くなってしまっていた。これは帰ってからが大変そうだ。
そんなこんなで飛び続け、喚き続け(魔理沙は終始笑い転げていたような気もする)、気が付くと何故だかあんなにも強く体を打っていた雨が、すっかり感じられなくなっていた。
僕は、はてな、と首を傾げ、袖で眼鏡のレンズを拭う。袖も濡れてはいるのだが、基本的に雨によって視界が遮られるのは、濡れるからではなく、水滴が付着するためである。
水滴を薄い水の膜にしてしまえば、多少の不快感は残るにしてもそこそこ明快な視界が得られる。さて、僕が首を上に向けてみると――。
「……なっ」
ぽつり、と。思わず驚きの息が零れた。さすがにこの時には魔理沙の笑い声も止んでいた。彼女も黙り込み、上に顔を遣っている。
僕たちの視界には、いっぱいの碧空が広がっていた。どこまでもどこまでも青いのだけれど、秋空と違いどこか白みの残る、そんな空だ。雲一つ無い、綺麗な空だ。
少し視線を動かせば、太陽が燦々と照っている。空高く行けば行くほど寒くなるし、空気も薄くなると外の世界の本には書いてあったけれど、そんな事はなかった。
空気はとても美味い。そして、太陽はぽかぽかとあたたかだ。僕が最後に外に出たときには、まだ白い息がふわふわと漂うような寒さが残っていたはずなのに。
それから、地上とは違った、遙かに強い風が頬を強かに打つのを感じた。冷たくはない。だが、強い力のようなものを感じた。それは意気込みと換言しても良いものだった。
風に意気込みというのもおかしな話かも知れないが、これから命を芽吹かせるのだという強い意志のようなものを感じずにはいられないのだ。
空にこんなにも強い風が吹いているだなんて、僕は知らなかった。空にこんなにも穏やかで幻想的な楽園が広がっているだなんて、想像したこともなかった。
なるほどどうして、僕は地上の住人である。空を駆る魔理沙に連れ出して貰えなかったならば、こんなにも素敵な光景を味わう事は出来なかっただろう。
下を見れば、雲が群をなして流れているのが目に入った。どこまでもどこまでも、幻想郷の果てまで、その先まで広がっていそうな、壮大な雲の流れだった。僕たちは雲を突き抜けて、天上に至っているのであった。
魔理沙は言った。
「これを見せたかったんだよ」
そう言って、彼女はへへっ、と笑う。何故だろう、少しだけ照れくさそうだ。僕が疑問に思っていると、魔理沙はこほんと咳払いして
「幻想郷には海がない」
いきなりそう断言した。訳の分からないことを唐突に言い出したので、僕は目を白黒させてしまう。思わず視線が雲の群れから魔理沙の方に戻る。
魔理沙はどっこいしょ、と体を移動させると、僕と同じ横座りの姿勢になった。そんな姿勢で、雲の流れを見下ろしながら、彼女は続ける。
「変だな、とか、おかしいだろ、とか色んな奴がそう言った。何で幻想郷には海が無いんだ、ってな。
確かにそうだ。海っていうのは幻想の宝庫みたいなものだからな。だから山と同じで、幻想郷にはあって当然のものなんだ」
慣れない様子で、言葉を選び、つっかえつっかえ魔理沙が語る。僕は隣に腰掛ける少女の横顔をじっと見つめていた。
「でも、幻想郷で海を見たっていう奴はいない。どいつに聞いてもみんな言う。幻想郷には海がない。香霖も言ったし、多分紫だって言うだろ」
この子の少しだけ下手な語りは、なんだか聞いていて耳に心地よかった。僕は何も言わずに魔理沙の言葉に耳を傾ける。
「私も色々探してみた。あっちにいったりこっちにいったり。この箒に跨って、行けるところまで飛んでいった。それでも海は見つけられなかった」
魔理沙はただふらふらと遊び回っているだけの少女だと思われがちだ。でもそれが誤りであることを僕は知っている。
魔理沙はとても賢い少女だ。いつも何かを考えているし、努力を惜しまない。全てに対して全力投球する実直な子なのだ。
そんな魔理沙が海を探したと言ったのだから、徹底的にやったのだろう。誰にも想像できないような苦労を、誰にも知られずにひっそりと。そして、魔理沙はまた口を開く。
「そうやって飛び回っているある日、私はやっと見つけたんだ。今日はその私が見つけた幻想郷最大の秘密ってやつを話してやろうと思ってさ」
見つけた、とは海のことだろうか。とんでもない話である。幻想郷には海はない。それが定説なのだから。
海があれば全てが変わる。潮風により作物の育ちが悪くなることもあるだろうし、逆に漁猟が発達し、魚市が開かれることになるだろう。
海がしけて死者が出るだろうし、ぞろぞろと妖怪が現れることも予期されうる。今のところ、幻想郷にその予兆はない。だから、皆確信している。幻想郷には海がない。そして多分、これからも現れないと。
しかし、魔理沙は自信たっぷりに言う。見つけたのだ、と。
「幻想郷ってのは、妖怪も人間も平気で空を飛び回る。こんな雨の日でも雲を突き破ってばんばん戦ってる。
地上の景色なんて見やしない。だから、幻想郷も思ったわけだ。普通に海を持ってきたって誰も興味を示さないかも、ってな」
なんと滅茶苦茶な切り口だろうか。幻想郷が何かを思う、などありえない。ありえるのかもしれないが、普通それを定論として持ってくることはあるまい。
しかし、聞いていると信じてしまいそうになる。何故だろう、本当かもしれないな、と思ってしまう。
「だったら本当に誰にも気づかれないような形で、それでもでっかい海を創ってやろうと幻想郷は思った。そして実際に、創った。だから、幻想郷に海はある」
僕はいつしか魔理沙の話に引き込まれてしまった。彼女は雨に濡れた右腕で、その人差し指で、下を指さした。
そこには、雲が流れている。どこまでもどこまでも、厚い雲が流れて流れて消えてゆく。そんな光景を視界におさめ、魔理沙は言った。
「空ばっかり見ている私たちのために、幻想郷が用意した風流な海」
もしかしたらさ、と。魔理沙は振り返り、照れくさそうに頬を掻いた後、言った。
「この雲の流れこそが、幻想郷の海なんじゃないかなって、私は思ってるわけだ」
あっ、と僕は息を呑んだ。かちり、かちりと思考のピースが気持ちよくはまっていくのを感じる。
雲が、幻想郷の海。空しか見ない幻想郷の住人達に用意された、だからこそどこまでも広く、深い海。
そうだ。魔理沙の推論を確かなものとする、素晴らしい言葉があるじゃないか。僕の口は勝手に開き、言葉を紡いだ。
「――雲海だ」
まるで波のように、その雲の連なりにおいては、ある部分はへこみ、ある部分は突出している。そしてそれはゆるりゆるりと流れてゆく。
遠く遠くの視界の先に、青と白との水平線が見える。その水平線へ向かって、雲は雄大に、そして緩慢に流れる。
全ての流れを孕み、全てのものに潤いを与える慈雨を降らせることのできる雲。それは命の源である海と何ら差異のないものだ。
幻想郷に海はない。確かにそれは、大いなる誤りなのかも知れなかった。海は、確かにあった。こんなにも壮大で、こんなにも穏やかに流れる海があった。
ある部分は、暗く、ある部分は白く、ある部分は太陽の光を受けて黄金色に。そんな単調だが決して単純ではない色の移り変わりが胸を突く。
茫々たる海に彩りを加えているのは僕らが今居る場所より遙か高みに広がる薄い薄い絹のような雲だ。
ともすれば青空に溶けて見えなくなってしまいそうなそれは、しかし陽光を通してほのかに色づいている。
ごおぉ、と風が吹く。それが僕と魔理沙の髪をさらった。薄い色の彼女の髪が、青色を背景に舞う様子はどこか幻想的でもある。魔理沙はふう、と息を吐いて締めくくった。
「雲海か。やっぱり香霖はいろんな言葉を知ってるな。うん、そっちの方がしっくりくる。私は幻想の海って言葉で締めくくろうと思ってたんだが」
幻想の海。僕はその言葉を口の中で転がしてみた。幻想の、海。流れゆく雲を見つめ、僕は小さく首を振った。
「至言だな」
「おいおい、自分で自分を褒めるなよ」
「今のはそういう意味で言ったんじゃない」
君を褒めたんだよ、とは言わなかった。それだけは言うわけにはいかなかった。
何故なら、この子のさっきの語り口は、とある商人を真似したものだからだ。
道具を見れば語り、書物を開けば語り、客が来たと見るや語り出す、蘊蓄好きな古道具屋の店主のそれを真似たものだったからだ。
例え最後の締めだけとはいえ、そのオリジナルを超越した、などと認めてしまうのはどうにも口惜しかったのだ。
まあ、と僕は手を伸ばし、魔理沙の帽子を軽く叩いた。少しだけ、それは湿っていた。
「蘊蓄語りとしては、及第点だな。そのつもりがあれば、一番弟子にしてあげてもいいよ」
あはは、と魔理沙は大笑いして言った。
「お断りだぜ。お前みたいにうるさいやつになったら本当に友達が居なくなってしまう」
「……そうかい」
少しだけ凹んだ。折角良い視点を持っているのだから、それを生かせばいいだろうに。
魔理沙の視点は本当に面白かった。僕のように知識を生かした考察は出来ないだろうが、その直観力には舌を巻く。
だからこそ、惜しいのだが……。そんなことを思っていると、魔理沙はやはり屈託の無い笑顔で告げた。
「でも、考えている事をべらべら喋るってのも、なんだか面白いな」
香霖が没頭するのも分かる気がしてきたぜ、と魔理沙はそう言ってくれた。何故だろう、憑き物が落ちた気がした。
増える客だとか、店の運営だとか、そういう事がどうでも良く感じられてきた。
僕は僕で良いじゃないか。蘊蓄というのは聞いていて楽しいものだ。僕はそれをお客様に提供する。これ以上のサービスがあるだろうか。
変に香霖堂を飾り立てる必要なんてないのだ。妙に媚びる必要だって、ないのだ。今まで通り運営すればいいし、気の向くままやっていればいい。あれやこれやという些末な悩みは、海に溶けて流れて消えた。
ああ、と僕は思う。
幻想郷の少女達がこんなにも明るいのは、悩み事を全てこの海が呑み込んでしまうからなのかもしれない、と。
それにしても、魔理沙は策士だ。僕が道を失っている時に、僕の真似をして道を示すだなんて、普通そんな事は考えない。
変わらなくて良い。そのままでも良い。そう言ってしまうのは簡単だ。だが、そんな言葉は胸に響かない。特に、僕のような人間には。
彼女は珍奇な行動によって僕の頭を冷やし、またそれと同時に目を覚まさせてくれた。
良心的で優しい、なんていう掃いて捨てるほど存在する店主に何の価値があろうか。
偏屈で賢く能弁な店主の方が、どれほど一緒にいて楽しいであろうか。
大体僕が混乱するというのがそもそも有り得てはならないことなのだ。
文に聞くところによれば、この僕はあの八意永琳をもってして、彼が悪夢に悩むものやら、と言わしめる程の男であったはずだ。
客が増えた程度どうあろうか。媚びる必要などありはしない。むしろ客の方が僕に対して少しは配慮すべきである。
真理に辿り着くと、随分気分が楽になった。
自業自得な雪だるま少女まで救わねばならぬのかと思うと気が滅入っていたのだが、いつも通り、そんなものは見物していても構わないのだ。安心である。
さて、魔理沙を見るとにやにや笑いを引っ込めて、なんだか安堵のようなものを顔に浮かべていた。ふん、と息を吐いて彼女は言う。
「やーっと少しばっかし目が覚めたみたいだな」
やはり魔理沙は僕に気を使っていたらしい。あれだけ小さかった子が、だ。やはり人間の成長というのは目を見張るものがある。
心も体もあっという間に成長して、そしてすぐに衰弱して死に至る。成長が早ければ、当然死に至るのもまた迅速だ。人間も、存外難儀な生き物なのである。そんな考察を巡らせながら、頷く。
「とりあえず、帰ったら部屋の掃除だな。ゴミが多すぎる」
「特に手鏡と笑顔教本だな」
「……言うなよ」
海の上、あはははは、と笑い声が響く。魔理沙の笑い声はやはり聞いていて痛快だった。馬鹿にされているのが分かっているだけに、何とも言えない気分だ。
雲はどこまでもどこまでも流れ続けるくせに、一向に消えて無くなる気配がなかった。振り返っても、どこまでもどこまでも続いている。
その光景はいつまでも変わらぬものであろうかと思われたがしかし、動くものが一つだけある。それは太陽である。
空の遙か高みで輝いていたように思えたそれは、遠く遠くへ沈んでゆきつつあった。雲の大海原は、斜陽を受けて朱や金に色づいていた。
ひとしきり笑った後、しん、と沈黙が降りた。その沈黙の中、風だけが吹き続けている。やがて魔理沙は太陽に目を遣り、自由気ままに舞う自らの髪をそっと片手でおさえて言った。
「帰るか」
ぽつりと、ともすれば聞き逃してしまいそうな声だった。彼女自身も、どこかこの空に未練があるのかも知れない。地上から見る空が一様でないように、俯瞰する雲もまた、日によって異なるのであろう。
体を締め付けられる程に美しく、強く、広大な海原を、これで見納めにするのはあまりにも惜しかった。だから僕は返事をしなかった。お互いに黙りこくったまま、またじっと雲の流れを見下ろす。
それは、子供達が夕日の照らす草原で名残惜しげに駆け回っているのと何ら変わらない感情による動きだった。これ以上遊んでいたいわけではない。しかし、ここから去りたくもない。
その二律背反に苛まれ、結局同じ行為を続けざるを得なくなる。しかし僕たちは子供ではない。何事にも終わりはあり、それを拒み続ければ全ては陳腐に至るという事が分からないほど幼くはない。
「帰ろうか」
魔理沙よりもやや大きな声で、僕はそう言った。風に掻き消されるほど小さな声では、なかった。魔理沙は少しだけ残念そうにしたけれど、次の瞬間には、ぶんぶんと首を振って、頷いた。
「そうだな。帰ろう」
どうにも、言葉少なになってしまう。言ってからも、僕たちはしばらくその場から動くことは出来なかった。もちろん、僕が動くことなどできはしないのだが。
やがて、箒がゆっくりと下降し始める。あれだけ上昇が急だったので多少覚悟をしていたのだが、その動きは遅々としていた。
ゆっくりと、ゆっくりと、雲の水面が近づいてくる。近くで見ても、それはやはり、ふわふわと掴み所が無く、そして色づいていた。
雲に、足が触れる。じっとりと湿ったものがまとわりつくのを感じた。僕は膝くらいまで(魔理沙はもっと浅いが)雲の海に足を浸し、それをぶらぶらと振っていた。
やはりそれは蹴っても蹴っても、何の感覚もなかった。本当にそこに何かあるのかと疑ってしまうほど、すかすかだった。
幻想の海。幻想は、幻想なのだ。しかし、幻想は無ではない。僕は雲の海に溺れながら、最後まで虚構では決してない幻に手を触れようとあがいていた。
雲の中に完全に埋没してから、地上に足が着くまでは、本当にあっという間だった。
水滴により視界が全て奪われてしまい、風景をたのしめなくなったのが主因だ。
しかし、興が完全に醒めてしまった訳ではない。僕は眼鏡を拭きながら、じっと今は天の上の存在となってしまった厚く黒い雲を見上げた。
そこには陰鬱さはあれど、あの息を呑むような美しさは見られない。地に這い続けるのも考え物だな、と思った。雨は、止んでいた。
当然太陽は目に入らないのだが、しかしあれが沈んでゆく過程にあるのは確かなので、景色はじわじわと色彩を欠き、濃い黒と淡い灰色のモノトーンに変わりつつあった。
べちゃりべちゃりと泥を蹴散らし、僕と魔理沙は歩く。風に少々流されたのか、香霖堂まではやや距離があった。
「魔理沙」
言うと、彼女は、ん、と短く返事をした。先程僕たちが乗っていた箒を肩に担いで歩いている。それはやはりいつもこの子が使っているものより遙かに長く、そして不格好だった。
僕と魔理沙はひょこひょこ歩く。履き物はすっかり汚れてしまっていた。
「店に寄っていくといい。そのままでは風邪をこじらせてしまう」
んー、と魔理沙は唸った。あまり乗り気ではないようだ。その事に僕は深く嘆息する。
風邪をこじらせた魔理沙ほど扱いにくいものはない。いい加減永遠亭を頼ってくれると嬉しいのだが、どうせ具合が悪くなれば来るのは僕の店なのだ。勘弁して欲しい。
また無言のまま僕らは歩き続ける。止んだようだと喜んでいたのに、また雨が降り始めた。しとしと、しとしと、音を立てて降り始めた。
僕の髪はすっかりと肌にはりついてしまっていた。端から見ればさぞ滑稽なことだろう。
しかし、それは魔理沙も同じ事で、肩といい、頬といい、べたりと髪がへばりついている。
そんな様子を逐一観察しながら、足を前へと遣る。ほんの少し前のことだというのに、僕が天から地を見下ろしたのが夢であったかのように思われて仕方がなかった。
見上げる雲は、水面は、どこまでも高かった。水面から水が降ってくるというのも、なんだか妙なものだった。
何となく、僕は気紛れに口を開いた。
「今日のお礼に、何かプレゼントでもしようか?」
それはちょっとしたからかいだった。魔理沙が僕の店にあるもので、かつ欲しがるものなどほとんど無い。
そして、数少ない彼女が欲しがるようなものを、僕が手放すことなどありえない。
だからこの提案は全くもって無意味である。そこがこの冗談のみそであり、また香霖堂店主復活の旗の掲揚でもあったのだが、
魔理沙の対応は想像を超えるものだった。彼女は、それじゃあ二つ、欲しい物があるぜ、と言ったのだ。
驚きはしたものの、僕は平静だった。あげても良いものであるのならば、あげればいい。あげられないものは、あげないだけだ。
そんな僕の考えを知ってか知らずか、魔理沙は、ふふん、と笑い、くるりと振り返った。雨で重くなったスカートが、少しだけ舞って、また足に張り付いた。
にっ、と笑ってやや体を前掲にして、僕を上目遣いに見やって彼女は言った。
「それじゃあ、また降り出した鬱陶しい雨と、全っ然止まないこの暴風に、ぴったり似合った名前をつけてくれよ」
気が付けば、香霖堂は目の前だった。ごちゃごちゃと狭苦しく外の品を積んだ店を背に、彼女はにやにやと笑っていた。どこか、その目には期待が浮かんでいた。
清狂店主、森近霖之助。それも確かに香霖堂店主の顔の一つ。僕が先程魔理沙に見せようとした店主の顔がそれだ。
しかし、僕には別の顔もある。聡い店主としての、顔がある。そっちも見せろと魔理沙が言うわけだ。ちゃんと復活しているかどうか見せてみろ、と。
もちろん、この僕が今なおへばっているわけがない。しかたがないな、と右手を腰に当て、左手を軽く広げて僕は答えた。
「そんなものの名は僕が与えるまでもなく、はじめから決まっているじゃないか」
そう前置きして、僕は答えを魔理沙に与えた。彼女はきょとんとした後で、くすくすと小さく笑った。とても子供じみた笑い方だった。
「まったく。香霖は仕方がない奴だな」
魔理沙はそう言って、店の中へと入っていった。先程まで渋っていたのが嘘のようである。だが、それが魔理沙という少女だ。
絶対に従わないかと思いきや、ほいほいと簡単に言うことを聞いたりする。それがまた、憎たらしいやら可愛らしいやら。
やれやれと溜息を吐いて、僕もまた店の方へと歩いていき、服の水滴を軽く落としてそっと右手で扉を開き、あたたかな店内へと逃げ込んだ。
ばたん、と音がして扉は閉まり、外には誰も残らない。海の底は、少しずつ、少しずつ、黒みを帯びてゆくのだった。
――帰ろうとする者を引き留めんとするかのように降りだす雨を、遣らずの雨といい、そして、立春後はじめて吹く強い南風のことを、春一番という。
誰にも気づいてもらえないまま、ゆっくりと。しかし着実に新たな季節は近づいてきていた。
冬来たりなば、春遠からじ。四季美しい幻想郷の、時の巡りはたいそう早く、芽吹きの時は、もう近い。
魔理沙と霖之助の雰囲気も、彼女が明るいおかげなのか
なんかスッキリと読めた感じがしました。
この二人の関係って良いですよね。
面白かったですよ。
魔理沙の可愛さは元より、
空を飛ぶ描写、雲海を眺める描写に魅了されました。
空を飛べる魔理沙が羨ましいなあ…
東方香霖堂の春一番はまだかなあ…
とてもらしい魔理沙でした
進行形で成長していることが伝わる魔理沙がすごくいい。
一方で堂々と仕切りなおす霖之助がまた微笑ましい。
よかったです。
この手の話は多いけど色褪せずに描かれていて、読めて良かったとしか。
しかし霖之助、知恵熱とは…
そして「カリスマ店主、笑顔の秘訣」をマスターした霖之助も見てみたかった気が…
ああ、霖之助さんが真っ二つに・・・
しかし、いい雰囲気だ。
ただ、ちょっと文字が混み合って読みにくい印象も少しあるかな?
小説のように、括弧系以外は文の初めに一文字空白を入れてみるなりすると良いかもしれませんね。
そらを じゆうに とびたいな
雨がふってるのに、なんだか気持ちのいい話でした。
幻想の郷も、現の郷も、春を迎えますね~。
よい作品だ
コメントついでに一点。
>試しに体を前掲させてみる。
→「前傾」の誤変換ではないでしょうか?
>この子にこういう悪影響を与えた奴が居るなら、霧雨の剣で真っ二つにしてやってもいい。
「香霖、介錯はつとめてやるぜ」
雨に霧雨、暴風に魔理沙。二つ合わせて目の前の素敵な少女に捧げたいものです。
空が見せる様々な表情の移り変わりに、女性的な何かを感じさせてくれた作品でした。
久しぶりに拝読させて頂きましたが、本当に描写が巧みでいらっしゃる。
今回も素晴らしいお話でございました。
この2人は小気味良くていいな
会話も、雰囲気も。
お互いにいいたい事は言わずとも分かる
そんな所まで感じさせる作品でした
魔理沙と対等の立場で喋ってくれるから。