「阿求様」
「うん?」
「このような日にそのような格好をされていては、お体にさわりますよ」
書斎の机に向って黙々と読書に勤しんでいた阿求に、ある侍女がそう話しかけてきたのは、晩夏を迎えたある日の昼下がりのことだった。
「それもそうね。ごめんなさい」
この日は、少し曇りの天気だった。鈍色の雲が昼下がりの眩しい、しかしどこか夏の終わりを惜しむかのような控えめな眩しさを放つ太陽を隠していた。
侍女が、用意周到に持ってきていた上着を阿求に手渡す。ありがとう、と礼を一つして受け取り、
「こういう気の利いたところが、うちの侍女の優秀さね」
「はぁ、それは、ありがとうございます」
侍女から、何だか心なしか、要領を得ていないような礼を返される。
自分で言ってしまってから何だが、自分にしては随分とふてぶてしい台詞だったなあ、と阿求は幾分後悔した。なんだか、紅魔の主がそのメイドに対して吐く台詞に似ている。
「毒されたかなあ……」
「毒でも盛られましたか?」
「何言ってんの」
これもやはり要領を得ていない侍女の茶々に突っ込みを加えつつ、薄手の上着を羽織った。
外の景色を写す障子を開け放した窓からは、晩夏の涼やかな風が入り込んでくる。窓に近寄って外の景色を眺めると、やはり鈍色の雲が空を覆っていた。この色の空から連想されるものと言えば、夏の風物詩。
「こりゃあ、一雨くるかもしれないなぁ……」
阿求は何らかの返答を期待してそう言ったものの、いっこうに返事が返ってこない。侍女はいつの間にか、阿求の部屋からいなくなっていた。
まあ、いいんですけどね独り言だし。
彼女はそう強がりを、今度は始めから誰の返答も期待せずに言ってみたものの、それが自身の虚しさを余計に感じさせる羽目になってしまったことに気づいて、少し長めの溜息をついた。
気を取り直して机に向かい、読書を再開する。
幻想郷縁起を執筆し終えた今、転生の準備に取り掛かるまで彼女は特に何もすることがない。と言っても、貴重な時間を無為に過ごすようでは芸がないし、何よりもったいない。
そんな阿求に侍女が教えてくれたのが、読書であった。
稗田の一族は幻想郷縁起を編むための存在、故に書物の執筆に費やす時間は自然と多かったが、縁起の編纂にかかりきりで自分の時間があまり持てなかった為に、「読む」ということはあまりなかった。
屋敷の庭にある蔵の中を探してみると、あるわあるわ、古今東西ありとあらゆるジャンルの書物がわんさかと発掘されたのには驚いたが、成る程、稗田家は流石は書物の家系、知識欲も半端なかったのだなと過去の人々に感謝しつつ、こうして日がな一日の読書ライフを満喫している。
この、頭の中にずんずんと、書物に記載されたことから得る知識が、脳を占領して、浸透してゆく感格が、阿求はたまらなく好きだった。
きっとあの図書館の魔法使いも、この麻薬にも似た感格を味わいたいが為に、永い時間を引篭もって読書を続けているのであろう。流石に、服にカビを生やしてまで引篭もることはないように感じるけれども。
*
読書に耽り始めてから数時間は経ったか、流石の阿求も疲れを感じていた。
阿求は、うーん、と背筋をのばす。長い間同じ体勢をしていたせいで、全身の筋肉が固まっていたのか、少しだけ背中辺りに微かに痛みを感じた。
しかし彼女にとってはその痛みは、読書による充足感を感じる為の一手段に過ぎない。
心地よい疲労とともにそれを感じる。
読書という長時間労働に耐えかねた目は僅かに充血していた。疲れて少し痒む目を擦りながら、
(今日はこの辺までにしとこう……)
ちょうどキリがよいところで終わりにしておく。家にある書物は膨大とは言っても有限の物であるから、こうやって明日の楽しみに取っておくのである。
さて、と掛け声一つ、阿求は立ち上がる。
(何だか寒くなってきたなあ……)
これは本格的に夕立がくるか。太陽を遮る雲が厚みを増して、より幾重にも太陽を覆ってしまったのかもしれない。日光を遮られた地上の生き物は、寒さをその肌に感じ、恵みの雨の到来を予感する。
窓から顔だけ出して空の機嫌を伺う、が。
「あれぇ……?」
空の色の濃さは、数時間前とそんなには大差は無いように思える。
おかしい。阿求はそんな疑問を胸に、より雲を仔細に観察する為に、身を乗り出す。そして首を捻って空を見上げた、その時―――
―――ゴチン
「あ痛ー!!」
阿求の前頭部に、清々しいまでの打撃音とともに何かが炸裂した。
「おでこがっがっがっ……」
あまりの痛さに阿求悶絶。なんかこれ結構語呂が良くないか。
意味不明な思考で痛みを逸らそうとする阿求。視界を下に向けると、綺麗に透き通った、一つの球体型の物体が転がっていた。
見たところ、それは氷だった。
阿求は反射的に上空を見上げる。氷を使ってこんな下らん悪戯をしでかす奴といえば……
「こんの餓鬼ぃー!」
阿求の視線のほぼ真上。青い衣をはためかせ、こちらを心配そうな―――というか哀れみの表情で此方を伺う妖精が一匹。
「大丈夫ー?」
「大丈夫じゃないー!ってか酷すぎるでしょう!人の急所めがけて氷を投げつけるなんて!悪戯にしても悪質すぎるわよ!」
阿求は自分を殺そうとした張本人を、精一杯の怒気やら憎悪やらその他ありとあらゆる感情を乗せて、大声で怒鳴りつける。
「違うよー。うっかり手が滑って落っことしただけだもん。悪いと言えば、氷の落ちる先にねぇちゃんの頭があったのが悪いんじゃないの?」
「あー、もう、うるさーい!」
なかばヤケクソになった阿求は鬼の形相、真っ赤になって叫ぶ。
「わかった、わかったよう」
流石に氷精チルノも、阿求のこの怒りようには流石に悪いと思ったのか、それとも妖精ならではの気まぐれか、自らに報復の鉄槌が振り下ろされる可能性など微塵も考えないかのように、徐々に高度を下げて阿求に近づいてきた。
阿求は滅多に出さない大声を出して疲れたのか、うっすら赤に染まった頬を膨らませ、だるそうに体を部屋の中へと戻して、畳の上に座り込む。
「ひゃう!?」
「あたいが頭を冷やしてあげよう!」
いつの間に部屋の中に入り込んできたのか、氷精は阿求の背後から、見た目相応の大きさの小さな手を、無遠慮に彼女の額に押し付けていた。
確かに、この額にある打痕を癒す為には、それを冷却するのが正しい処置であり、その点に関してはこの氷精を褒めてやってもいいであろう。
しかし、
「冷たい冷たい!冷たすぎて痛い!」
痛い。真夏にかき氷をかき込んで、こめかみがキーンとなる、あれより遥かに痛い。
「またまた~。人の気遣いは遠慮するもんじゃないよ?」
その気遣いが痛い。文字通りの意味で。
ああ、もう。これだから妖精ってやつは。
阿求は、この加減を知らない、無知なる氷精に一発くれてやらねば気が済まなくなってきた。
*
結局、阿求に拳骨を食らわされて頭に大きなたんこぶを築いたチルノは、それでも猶、再び机の前で読書に勤しみ始めた阿求の隣に、胡坐をかいて鎮座していた。
空は相変わらず鈍色であったが、その雲は先程とは特に色にも厚みにも変わりは無いのに、徐々に外は暗くなり始めていた。
「帰らないの?」
「帰らないよ」
「子供は夕焼け小焼けでカラスが鳴いたら帰るのに」
「あたいは子供じゃないもん」
チルノは帰ろうとはしない。
拗ねているのかしら。
阿求はチルノの目につかないように、ほんの少しだけ、クスリと微笑んだ。
(それにしても、この子は一体なんでここにいつまでも留まっているのだろう)
やはりチルノに見つからないように、彼女の様子を窺う。
チルノはただまっすぐに、ある一転を凝視していた。
一体何を見つめているのか。阿求はなんとなくを装う風にして、チルノの視線の先―――部屋の隅にあるものを捉えた。
それは、古ぼけた蓄音機だった。
この蓄音機は、香霖堂の店主から無理を言って売ってもらったものだ。自分のお気に入りの商品はすぐに私物化する、タチの悪い店主から買い取るために随分と苦労した覚えがある。
そして、自分の趣味の一つである、幺樂を聞くための物でもある。
紅茶と、読書と、幺樂。
どれも自分の生を鮮やかにしてくれているもの達だ。
そしてその一つに、彼女が興味を示してくれているのが、なんだか嬉しくて。
阿求は優しい笑みを顔に浮かべながら、何も言わずに立ち上がり、蓄音機を取り上げて机の上においた。
チルノは無垢な瞳を大いに輝かせて、蓄音機を凝視している。阿求は、年相応の反応を表しているチルノが微笑ましく、その笑みをいっそう深くした。
机の引き出しから取り出した、幺樂が録音されたレコードをセットし、蓄音機を起動させる。
どこか懐かしい、穏やかなメロディーが、流れ始めた。
音楽の歴史を刻み込まれたレコードは、蓄音機の助けを借りて、ただただ自己を吐き出してゆく。
チルノは意外にも、はしゃぐことも無く静かに音楽に聞き入っていた。
阿求はふと、幺樂が刻み込まれたこのレコードと、自分の存在とを重ね合わせていた。
ただただ失われてゆく幺樂を記憶し、それを人に聴かせることで幺樂を彼らの記憶に留まらせることを役割とするこのレコードと。
幻想郷の歴史を文字として、人々の記憶に伝えてゆくことを宿命とされた、稗田阿求と。
(そんなことを考えても……)
詮無きこと、と割り切れる、図太い心を持っていれば良いのだが。
「感傷だなぁ……」
後は転生を待つばかりの身となり、なまじ色々なことを考える時間が増えてしまったばかりに、どうしようもない事を考えるようになってしまった。
別に転生が怖いのではない。ましてや自分の運命を呪うなどと、そのような分不相応なことなど微塵も考えてはいない。
だったらどうなのだと問われると、それも分からない。
ただただ、分からない。
そんな、本当に、言い様も知れない感格が渦巻いている。
そんな阿求の心の靄を吹き飛ばすかのように、蓄音機からは、先程までとは比べて随分とアップテンポな曲が流れ始めた。
チルノも、先程までは静かに聞き入っていたのが、一気に転調した音楽に乗せられるように、体をリズムに合わせるようにして揺らし始めた。
阿求も、自らの惑う心を紛らわす為に、その音楽に耳を傾ける。
曲は中盤に差し掛かり、序盤よりも更にテンポを増す。さながら死者を送り出す騒霊の鎮魂曲。
死者を悼み悲しむ感情を騒がしさで消す鎮魂曲のように、この曲は、阿求の心の靄を消していくような気がした。
「ねぇちゃん!」
突然、窓の外からチルノの元気の良い声が聞こえた。
阿求が窓の外へと視線を向けると、チルノは、
踊っていた。
もしかしたらチルノは音楽に興奮してはしゃいで飛び回っているだけかもしれなかったけれども、阿求の目には、そう映った。
ただただ無邪気に、自らが思うままに。
生きている。
「ねぇちゃんも一緒に遊ぼうよ!」
チルノは阿求に、手を差し伸べる。
透き通った氷のように清々しく、そして在るがままに阿求の姿を映し出す氷精の瞳。
私も、在るがままに生きてゆけるかな?
阿求は、彼女の目にたゆたう自らの姿に引き込まれるようにして、その幼く小さい手を取った。
*
長らく空に停滞していた鈍色の雲から、とうとう雨が降ってきた。
それは晴れつつあった心の靄を完全に洗い流すために、竜神様が気を利かせてくださったのかもしれない。
もはや阿求にとってはこの鈍色の雲は、感傷を誘う、陰鬱なものではなかった。
雨は、ちっぽけな人の悩みなぞは気にもかけず、ただただ地上の遍く生きとし生けるものに明日を与える。
「ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らんらんらん♪」
辺りには、雨音と、それに合わせて踊る二人の陽気な歌声だけが、響いていた。
「うん?」
「このような日にそのような格好をされていては、お体にさわりますよ」
書斎の机に向って黙々と読書に勤しんでいた阿求に、ある侍女がそう話しかけてきたのは、晩夏を迎えたある日の昼下がりのことだった。
「それもそうね。ごめんなさい」
この日は、少し曇りの天気だった。鈍色の雲が昼下がりの眩しい、しかしどこか夏の終わりを惜しむかのような控えめな眩しさを放つ太陽を隠していた。
侍女が、用意周到に持ってきていた上着を阿求に手渡す。ありがとう、と礼を一つして受け取り、
「こういう気の利いたところが、うちの侍女の優秀さね」
「はぁ、それは、ありがとうございます」
侍女から、何だか心なしか、要領を得ていないような礼を返される。
自分で言ってしまってから何だが、自分にしては随分とふてぶてしい台詞だったなあ、と阿求は幾分後悔した。なんだか、紅魔の主がそのメイドに対して吐く台詞に似ている。
「毒されたかなあ……」
「毒でも盛られましたか?」
「何言ってんの」
これもやはり要領を得ていない侍女の茶々に突っ込みを加えつつ、薄手の上着を羽織った。
外の景色を写す障子を開け放した窓からは、晩夏の涼やかな風が入り込んでくる。窓に近寄って外の景色を眺めると、やはり鈍色の雲が空を覆っていた。この色の空から連想されるものと言えば、夏の風物詩。
「こりゃあ、一雨くるかもしれないなぁ……」
阿求は何らかの返答を期待してそう言ったものの、いっこうに返事が返ってこない。侍女はいつの間にか、阿求の部屋からいなくなっていた。
まあ、いいんですけどね独り言だし。
彼女はそう強がりを、今度は始めから誰の返答も期待せずに言ってみたものの、それが自身の虚しさを余計に感じさせる羽目になってしまったことに気づいて、少し長めの溜息をついた。
気を取り直して机に向かい、読書を再開する。
幻想郷縁起を執筆し終えた今、転生の準備に取り掛かるまで彼女は特に何もすることがない。と言っても、貴重な時間を無為に過ごすようでは芸がないし、何よりもったいない。
そんな阿求に侍女が教えてくれたのが、読書であった。
稗田の一族は幻想郷縁起を編むための存在、故に書物の執筆に費やす時間は自然と多かったが、縁起の編纂にかかりきりで自分の時間があまり持てなかった為に、「読む」ということはあまりなかった。
屋敷の庭にある蔵の中を探してみると、あるわあるわ、古今東西ありとあらゆるジャンルの書物がわんさかと発掘されたのには驚いたが、成る程、稗田家は流石は書物の家系、知識欲も半端なかったのだなと過去の人々に感謝しつつ、こうして日がな一日の読書ライフを満喫している。
この、頭の中にずんずんと、書物に記載されたことから得る知識が、脳を占領して、浸透してゆく感格が、阿求はたまらなく好きだった。
きっとあの図書館の魔法使いも、この麻薬にも似た感格を味わいたいが為に、永い時間を引篭もって読書を続けているのであろう。流石に、服にカビを生やしてまで引篭もることはないように感じるけれども。
*
読書に耽り始めてから数時間は経ったか、流石の阿求も疲れを感じていた。
阿求は、うーん、と背筋をのばす。長い間同じ体勢をしていたせいで、全身の筋肉が固まっていたのか、少しだけ背中辺りに微かに痛みを感じた。
しかし彼女にとってはその痛みは、読書による充足感を感じる為の一手段に過ぎない。
心地よい疲労とともにそれを感じる。
読書という長時間労働に耐えかねた目は僅かに充血していた。疲れて少し痒む目を擦りながら、
(今日はこの辺までにしとこう……)
ちょうどキリがよいところで終わりにしておく。家にある書物は膨大とは言っても有限の物であるから、こうやって明日の楽しみに取っておくのである。
さて、と掛け声一つ、阿求は立ち上がる。
(何だか寒くなってきたなあ……)
これは本格的に夕立がくるか。太陽を遮る雲が厚みを増して、より幾重にも太陽を覆ってしまったのかもしれない。日光を遮られた地上の生き物は、寒さをその肌に感じ、恵みの雨の到来を予感する。
窓から顔だけ出して空の機嫌を伺う、が。
「あれぇ……?」
空の色の濃さは、数時間前とそんなには大差は無いように思える。
おかしい。阿求はそんな疑問を胸に、より雲を仔細に観察する為に、身を乗り出す。そして首を捻って空を見上げた、その時―――
―――ゴチン
「あ痛ー!!」
阿求の前頭部に、清々しいまでの打撃音とともに何かが炸裂した。
「おでこがっがっがっ……」
あまりの痛さに阿求悶絶。なんかこれ結構語呂が良くないか。
意味不明な思考で痛みを逸らそうとする阿求。視界を下に向けると、綺麗に透き通った、一つの球体型の物体が転がっていた。
見たところ、それは氷だった。
阿求は反射的に上空を見上げる。氷を使ってこんな下らん悪戯をしでかす奴といえば……
「こんの餓鬼ぃー!」
阿求の視線のほぼ真上。青い衣をはためかせ、こちらを心配そうな―――というか哀れみの表情で此方を伺う妖精が一匹。
「大丈夫ー?」
「大丈夫じゃないー!ってか酷すぎるでしょう!人の急所めがけて氷を投げつけるなんて!悪戯にしても悪質すぎるわよ!」
阿求は自分を殺そうとした張本人を、精一杯の怒気やら憎悪やらその他ありとあらゆる感情を乗せて、大声で怒鳴りつける。
「違うよー。うっかり手が滑って落っことしただけだもん。悪いと言えば、氷の落ちる先にねぇちゃんの頭があったのが悪いんじゃないの?」
「あー、もう、うるさーい!」
なかばヤケクソになった阿求は鬼の形相、真っ赤になって叫ぶ。
「わかった、わかったよう」
流石に氷精チルノも、阿求のこの怒りようには流石に悪いと思ったのか、それとも妖精ならではの気まぐれか、自らに報復の鉄槌が振り下ろされる可能性など微塵も考えないかのように、徐々に高度を下げて阿求に近づいてきた。
阿求は滅多に出さない大声を出して疲れたのか、うっすら赤に染まった頬を膨らませ、だるそうに体を部屋の中へと戻して、畳の上に座り込む。
「ひゃう!?」
「あたいが頭を冷やしてあげよう!」
いつの間に部屋の中に入り込んできたのか、氷精は阿求の背後から、見た目相応の大きさの小さな手を、無遠慮に彼女の額に押し付けていた。
確かに、この額にある打痕を癒す為には、それを冷却するのが正しい処置であり、その点に関してはこの氷精を褒めてやってもいいであろう。
しかし、
「冷たい冷たい!冷たすぎて痛い!」
痛い。真夏にかき氷をかき込んで、こめかみがキーンとなる、あれより遥かに痛い。
「またまた~。人の気遣いは遠慮するもんじゃないよ?」
その気遣いが痛い。文字通りの意味で。
ああ、もう。これだから妖精ってやつは。
阿求は、この加減を知らない、無知なる氷精に一発くれてやらねば気が済まなくなってきた。
*
結局、阿求に拳骨を食らわされて頭に大きなたんこぶを築いたチルノは、それでも猶、再び机の前で読書に勤しみ始めた阿求の隣に、胡坐をかいて鎮座していた。
空は相変わらず鈍色であったが、その雲は先程とは特に色にも厚みにも変わりは無いのに、徐々に外は暗くなり始めていた。
「帰らないの?」
「帰らないよ」
「子供は夕焼け小焼けでカラスが鳴いたら帰るのに」
「あたいは子供じゃないもん」
チルノは帰ろうとはしない。
拗ねているのかしら。
阿求はチルノの目につかないように、ほんの少しだけ、クスリと微笑んだ。
(それにしても、この子は一体なんでここにいつまでも留まっているのだろう)
やはりチルノに見つからないように、彼女の様子を窺う。
チルノはただまっすぐに、ある一転を凝視していた。
一体何を見つめているのか。阿求はなんとなくを装う風にして、チルノの視線の先―――部屋の隅にあるものを捉えた。
それは、古ぼけた蓄音機だった。
この蓄音機は、香霖堂の店主から無理を言って売ってもらったものだ。自分のお気に入りの商品はすぐに私物化する、タチの悪い店主から買い取るために随分と苦労した覚えがある。
そして、自分の趣味の一つである、幺樂を聞くための物でもある。
紅茶と、読書と、幺樂。
どれも自分の生を鮮やかにしてくれているもの達だ。
そしてその一つに、彼女が興味を示してくれているのが、なんだか嬉しくて。
阿求は優しい笑みを顔に浮かべながら、何も言わずに立ち上がり、蓄音機を取り上げて机の上においた。
チルノは無垢な瞳を大いに輝かせて、蓄音機を凝視している。阿求は、年相応の反応を表しているチルノが微笑ましく、その笑みをいっそう深くした。
机の引き出しから取り出した、幺樂が録音されたレコードをセットし、蓄音機を起動させる。
どこか懐かしい、穏やかなメロディーが、流れ始めた。
音楽の歴史を刻み込まれたレコードは、蓄音機の助けを借りて、ただただ自己を吐き出してゆく。
チルノは意外にも、はしゃぐことも無く静かに音楽に聞き入っていた。
阿求はふと、幺樂が刻み込まれたこのレコードと、自分の存在とを重ね合わせていた。
ただただ失われてゆく幺樂を記憶し、それを人に聴かせることで幺樂を彼らの記憶に留まらせることを役割とするこのレコードと。
幻想郷の歴史を文字として、人々の記憶に伝えてゆくことを宿命とされた、稗田阿求と。
(そんなことを考えても……)
詮無きこと、と割り切れる、図太い心を持っていれば良いのだが。
「感傷だなぁ……」
後は転生を待つばかりの身となり、なまじ色々なことを考える時間が増えてしまったばかりに、どうしようもない事を考えるようになってしまった。
別に転生が怖いのではない。ましてや自分の運命を呪うなどと、そのような分不相応なことなど微塵も考えてはいない。
だったらどうなのだと問われると、それも分からない。
ただただ、分からない。
そんな、本当に、言い様も知れない感格が渦巻いている。
そんな阿求の心の靄を吹き飛ばすかのように、蓄音機からは、先程までとは比べて随分とアップテンポな曲が流れ始めた。
チルノも、先程までは静かに聞き入っていたのが、一気に転調した音楽に乗せられるように、体をリズムに合わせるようにして揺らし始めた。
阿求も、自らの惑う心を紛らわす為に、その音楽に耳を傾ける。
曲は中盤に差し掛かり、序盤よりも更にテンポを増す。さながら死者を送り出す騒霊の鎮魂曲。
死者を悼み悲しむ感情を騒がしさで消す鎮魂曲のように、この曲は、阿求の心の靄を消していくような気がした。
「ねぇちゃん!」
突然、窓の外からチルノの元気の良い声が聞こえた。
阿求が窓の外へと視線を向けると、チルノは、
踊っていた。
もしかしたらチルノは音楽に興奮してはしゃいで飛び回っているだけかもしれなかったけれども、阿求の目には、そう映った。
ただただ無邪気に、自らが思うままに。
生きている。
「ねぇちゃんも一緒に遊ぼうよ!」
チルノは阿求に、手を差し伸べる。
透き通った氷のように清々しく、そして在るがままに阿求の姿を映し出す氷精の瞳。
私も、在るがままに生きてゆけるかな?
阿求は、彼女の目にたゆたう自らの姿に引き込まれるようにして、その幼く小さい手を取った。
*
長らく空に停滞していた鈍色の雲から、とうとう雨が降ってきた。
それは晴れつつあった心の靄を完全に洗い流すために、竜神様が気を利かせてくださったのかもしれない。
もはや阿求にとってはこの鈍色の雲は、感傷を誘う、陰鬱なものではなかった。
雨は、ちっぽけな人の悩みなぞは気にもかけず、ただただ地上の遍く生きとし生けるものに明日を与える。
「ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らんらんらん♪」
辺りには、雨音と、それに合わせて踊る二人の陽気な歌声だけが、響いていた。
まったりとした空間がまた……良い物ですねぇ。
和みましたよ。
ゆったりとした時間が流れているようで面白かったですよ。