博麗の巫女には不思議な言い伝えがある。言い伝えといっても、いいものじゃない。むしろ悪い。いやいや、最悪かもしれない。
――博麗の巫女は、三十歳になるとどこかに消える。
なんともまぁ、不気味な言い伝えだ。笑い飛ばしてやろうと先代、先々代、さらには歴代の巫女の記録を家中さがして調べた。
友達の妖怪がつけてくれたらしい記録書。それが見つかった。興味に背中おされてページをめくる。
どっと汗があふれ、手についていたそれが紙を少しふくらませ、いびつな形になった。
本当に三十歳になってからの記録がない。
このままやめては、本当だと信じることになる。それがいやでさらに探すと、日記を見つけた。几帳面な巫女が書いたものらしい。
毎日の記録がきれいに書いてあったけど、突然プツリと白い海が広がった。汚れてすらいない。まさしく、開いていない状態そのもの。
この巫女はさらに余計なことをしてくれた。白紙になる前のページに、「明日から三十路」と書かれていたのだ。
神隠し? 巫女が?
ありえなさそうなことを考え、そうでもないと思った。ここ幻想郷なら何でもおこりえる。
ところで、わたしは普段こんな難しいことは考えない。でも今日は考えている。それはなぜ?
だって、今日が二十九最後の夜なのだから。
そう。わたしは明日、三十歳になる。
博麗の巫女が神隠しにあう、その歳になるのだ。
【幻想郷がうまれた日】
今夜は寝巻きには着替えなかった。
博麗の巫女が――いや人間が、とつぜん跡形もなく消えるなんて考えられない。それに、少なくともわたしは自殺なんてしない。
つまり、だれかの仕業なのだ。着替えないのは、襲ってきただれかと戦えるように。
いつもよりにぶい直感がおしえてくれた。かならずわたしの身に何かがおこる、と。
普段は気を払わない押入れも含めて、周囲に視線を刺すように投げる。
今のわたしはとてもステキな巫女とはいえないような、おそろしい顔をしているでしょうね。でも、これがせめてもの抵抗。
ゆっくりと深呼吸。落ちつきなさい、霊夢。大丈夫、わたしは今までの巫女とはちがう。消されたりなんかしない。だいじょうぶ、だいじょうぶ……。
……そうだ、お茶をのもう。落ちつくにはちょうどいい。
しのび足で台所へと向かい、やかんに火をかける。まだ時間がかかりそうだ。
わずかに天井へと上る湯気が、気持ち悪いほど不気味な形をしていたので、目をそらして居間へと戻った。
あのままいると、湯気につつまれ、いっしょに消えていたかもしれない。
わたしは、だんだんと追い詰められている。
◆
家がきしむ音。それにいちいちビクビクしてしまう。誰かがみたら「馬鹿みたいだ」、と笑うだろう。そうに決まっている。
だって、わたしでもそう思うもん。いま自分のやっていることが馬鹿みたいでしょうがない。
この場所からでていきたい、と何度もおもった。
神社から逃げて誰かに家に逃げ込むことも考えた。でもそうしたら三十になる前に妖怪に襲われて消されるかもしれない。それに、正直はずかしい。
魔理沙の家なんて逃げたら、きっと一生からかわれる。
つまり、ここがいちばん体からしても、社会からしても安全。
逆にいえば、まわりに助けをよべないこの状況で、一人で戦わなくてはならない。
長い夜になりそうだ。
◆
とつぜん台所の方から大きな音がして、おもわず小さく叫んだ。自分の声が他人の声のように聞こえた。
でもよく考えたらさっき、やかんを火にかけていたのだった。何てことはない。ただ単に、お湯がわいたのだ。
ああまずい、わたしやっぱりすこし怖がっている。正体のつかめない何かが、ゆっくりと近づくのが怖い。
なんで今日に限って、こんなに直感がはたらかないんだろう。いつもは何となくはたらくのに……。
わたしはいつも直感のおかげで、輪郭はみえなくても知らない何かのことをなんとなく知っていた。でもそれがいまはわからない。それが怖い。
わたしを襲うなにかは、さっきの湯気のような形をしているのだろうか。それとも、はっきりとした形をしているのだろうか。
いまこの時も、しのび寄っているかもしれない。黒いナニカがゆっくり、と。
それはやがてわたしの体を包みこんで――
「ひゃあっ!?」
両方の肩になにかをおかれ、心が跳ねあがった。なんだ、なんだこれは、手のような形をしていた……! ちがう、まちがいなく手そのものだった。
体が一瞬でひえる。いや、凍る。
「いや、やめて!」そう叫ぼうとしたのに、のどが渇いて声がでない。必死に暴れると、ぱっとそれがはなれた。
「……ぷ、ごめんなさい。ちょっと怖がらせすぎたみたい」
これから何がおこるのか、まったくわからなかったわたしは、その高く、おちょくるような声に一瞬力がぬけた。
私よ、と言いながら前に回りこんできたのは、いちばんとは言えないかもしれないけど、かなり上位にランクインするほど会いたくない奴。
安心のあたたかさが体にまわると同時に、それがいきすぎてあたまにボーっと熱がこもる。
いっそ殺してほしくなるほどの屈辱だった。
いちばんこのようなはずかしい姿をみせたくなかった相手――紫は何かを言おうとして、笑ってそれができなかった。
けっきょく苦しまぎれに
「かわいかったわよ霊夢」
「それを言うなあ!」
といいだした。いますぐ夢想封印プラス殴りたい。
……でも、紫が来てくれて不思議と安心したのはどうしてかな?
不気味にわらう紫の姿に、姿の見えない黒い何かが消えたような気がする。いつもはうっとうしく思う紫の変な笑顔は、この上なく頼もしく見えた。
◆
スキマに片足を突っ込み、今すぐにでも帰ろうとする紫に十杯くらいお茶をさしだした。
「こんなに飲めないわ」
「飲むまで帰らせない、それ高いんだから」
洋服をつかんでひっぱると、紫は「服がのびちゃう」と言ってスキマをとじ、こちらにもどってきた。あきらめたらしい。
とおもったら、さっきと同じ不気味な笑いを浮かべた。すこし意地悪にみえる。
「いてほしいの?」
「……」
「いてほしいのね」
いつもはうっとうしく思う紫の変な笑顔は、この上なくうざったく見えた。
でもここで帰られてしまうのは正直いやだ。
だからしかたなく、小さくうなづいた。本当にしぶしぶと。
紫は「素直なのはいいことよ」と勝ち誇ったように笑った。こういうところは嫌いだ。
「嫌われものは帰るとするわ」
「すこしだけ好き、好きだから! 今だけ!」
心を読むところもきら……いや、好き。
「まあ、いいでしょう」
……むかつかない。
◆
紫とすごす時間は、いつも以上にみじかく感じた。
気づけば夜の暗い空にはさけ目ができて、だいだい色に光っている。
本当にどうでもいい話しかしなかった。
でもその時間は、十分すぎるほど大切な時間。だというのに、まるでぽっかりとそこが消えたように感じるほどはやい時間の足に、おもわずなごり惜しさを感じた。
「もう朝ね」「まだはやいわよ」というどうでもいい会話をする。でもこの時間もまた、大切な時間となるのだろう。なんとなく、そんな気がする。
「そうだ霊夢」
「ん?」
「夜も明けたわね……お誕生日、おめでとう!」
言いおえた紫が一瞬真っ白な煙につつまれた。
けれどもすぐにそれは晴れてしまう。
白い煙の向こうには、にっこり笑う紫と鮮やかな白色と紅色のバラがあった。
『お誕生日おめでとう、霊夢』と書かれたメッセージカードがついていて、まるで、これがわたしだけの色だと言うかのよう。
普通のバラにメッセージカードと、にっこり笑う紫をたしただけで、こんなにも特別になるなんて思わなかった。
「紫……ありがとう」
ほら、大切な時間になるという考え、ちゃんとあたった。
◆
わたしは今日一日紫と話をしていただけなのに、なぜか心がおどり、その疲れが体にきたらしい。心がつかれるよりかはいいか。
「ねー紫ー、わたしの境界いじったー? すごく体がだるいんだけど」
「歳よ歳」
「お前に言われたくない」と突っ込み返されても文句は言えないことを、堂々と言ってくれる。「お前は何倍生きてるんだ」という応用もきく。
はかるのも馬鹿らしいくらい長く生き、愛されてきた妖怪が言うようなせりふではない。それはまるで、幻想郷の母だと表現されるくらいに。
……はて、なんで突然こんなことを思ったんだろう。
『誕生日プレゼント』と言われた、紫の作った夕食を食べたとき、すこし心にじーんときたからかも知れない。
わたしはあまりにも長くの時間をひとりで過ごしてきた。いつからここにいたのか覚えていないくらい。
会った記憶すらもないけど、お袋の味っていうやつかな。男が言ってるのはきくけど、女のわたしにもじーんとくるものだなんて思ってもみなかった。
「霊夢、お風呂沸いたわ。入っている間にお布団敷いておくわね」
「ああ、ありがとう」
幻想の中の母を紫に重ねると、ちょっと切なくなってしまった。いや、うれしかったのかな。よくわからない。
でもたとえこれが切なさでも嬉しさでも――もっと深く言うとうっとうしさでも、けっして嫌なものじゃなかった。
◆
まっしろなお布団に入り、横になる。紫はまだいた。「そろそろ帰らないのか」と聞こうと思ったけど、寝る前の話し相手になってもらおうと思ったので、それはやめておいた。眠い。でも、今日一日も寝ずにすごす自信はある。大かんげいだ。
じゃあ即実行ね。
さて、何の話をしようか。と考えるふりをしたけど、実はもう決まっていた。
「ねえ紫」
「うん?」
「あなた、博麗の巫女の話……知ってるでしょ?」
「ええ、三十路になると消えるって奴ね。不思議よねえ、あなたたち霧か霞?」
紫がふざけた調子で言う。でもこれは無視する。はなしを運ぶ権利は、今はわたしのもの。
「……いつものことから考えるとそろそろ直感が働くんだけどね、不思議だわ」
朝から、心のなかのどこかではずっと考えていた。昨日も考えていたけど、いまは恐怖がない。
そのおかげで冷静になったあたまは、昨日は思いつかなかった、博麗の巫女が消える理由を知る方法をやっとこさ見つけだした。
その方法とは、もちろん、
「ねえ紫。あなた知らない?」
紫に聞くことだった。
長年生きている彼女なら、何かしっているんじゃないか。
紫は観念したように、舌をちいさく出し、そしてことばをわたしのほうへと伸ばした。
「直感、はたらいてるじゃない」
やはりそうだったか。でもこれは直感じゃないよ。なんとなく、そんな気がしただけ。他の人がきいたらどう思うかしらないけど、直感とはまたちがう。
真実は、ずっとわたしのそばにいてニコニコ笑っていたのだ。
「ねえ紫、わたしは永遠に博麗の巫女じゃなかったの?」
「ええ、もちろんよ」
矛盾。だというのに、なぜこうも説得力があるのだろう。
「ねえ。歴代の巫女たちをどうしたの、食べた?」
「うふふ」
扇子をひろげ、口元を押さえて笑う。扇子にはねかえった声が天井へとのぼり、部屋中をくるっと走り回った。年寄りだとは思えない聖母のような声だというのに、耳にべっとりとはりついて離れない。いやな音を聞いたときのような気分だった。
「はあ……もう、好きにしなさいよ」
呪いの元凶はここにあった。すぐにでもわたしはつい先ほどまで母だと思っていた彼女に殺され、歴代の巫女のように神隠しにあった、と思われるだろう。
これも博麗の血だからか、すこしも恐怖感がない。自分のことだというのに、ほんとうにどうでもよくなっている。お賽銭箱の中身のほうが気になるくらいだ。
「まったくもう、騙すなんてひどいわよ」
いちご飴だと言われてハッカの飴を渡されたときのような、軽い非難しか言葉にできない。紫を憎むことができなかった。
紫はすこしさみしそうに笑う。何か悪いことを言ったのかとおもったけど、今から自分を殺す相手に同情する必要もないか。
「ん?」
紫はさみしそうな顔のまま、額に手をおくという、意味不明なことをはじめた。
自分を食べる準備かと思ったけれど、母親が風邪をひいた子どもの熱をはかる時のように、優しい手つきだった。
紫の手は冷たくも暖かくもなく、ちょうどいいくらい。そのちょうどいい手がゆっくりとなでるように動かされる。この時間に永遠にしがみ付きたいくらい、たまらなく気持ちがいい。
「食べるために塩をぬっているの? 歳をとると塩分には敏感になるから、あまりぬらない方がいいよ」
でも出てくるのは、こういう皮肉だった。紫はまた小さく笑う。けれど、すぐに彼女は表情を慈しむようなのにもどし、真剣さが混ざった声をのどから滑り出した。
「ねえ霊夢」
「ん?」
「いま、歴代の博麗の巫女が消えた理由を教えてあげるわ」
「食べたんじゃないの?」
紫が手をどけた。「ああ……」という切ない声がでてしまう。もっとなでていてほしかった。
……あれ? なんだろう。紫から手を離された場所が、すこし熱い。そう思ったのもすこしだけ。
すぐにそれは、全身に波のように広がっていく。
すべてを焼き尽くすような、地獄の炎ではない。
冬の朝の布団のように離れるのがいやになるほどの、いとおしいぬくもりだ。
そのぬくもりはやがて光を放つ。体が光るように感じる。なにも見えない。まっしろだ。どうしたんだろう、何がおこったんだろう。
疑問が不安になるほんの直前。霧が晴れるように、ぱっと明るくなった。白い世界にいたのだから、明るくなるというのは正確には変かも知れない。でも、まちがいじゃない。
かわりに目の前にうつるのは、緑の世界、たくさんの家、そして神社があるはずの高地。
それは間違いなく、空の目が映す幻想郷だった。
◆
いまとはすこしちがう。でも、まちがいなく幻想郷。
眠っているかのように静かな世界は、まもなく終わろうとしている。
どこからともなくあらわれた水が、幻想郷の大地をふみつぶす。あっという間にあたりは真っ青になった。
ふっと目の前がもう一度白くなる。
次にあらわれた幻想郷は、さっきと同じように静かだった。時が戻ったかのように感じた。
しかしその平和も長くは続かない。大地が割れ、地震が幻想郷を襲う。幻想郷が死ぬ、その時をみているかのようだった。
これもまた、すぐにおさまる。白くなった世界の間に何があったのかは知らないが、白い世界が無くなればいつものように平和になっている。
異変、平和、異変、平和――何度もその光景を見せつけられた。わたしが知っている異変はひとつもない。だって、わたしが知っている異変はもっと平和。霧だとか、花が咲くとか――。
考えの途中だというのに、次の世界があらわれた。平和な幻想郷だ。でもひとつちがう。
何もなかった高地に、神社ができている。博麗神社だ、と確信した。
そしてそこに、小さい女の子をつれた金髪の女性が入っていく。二人とも背をむけている。
すぐに金髪の方の女性は出てきた。こちらから顔が見える。
その顔に気づいたとき、驚きの声が思わず飛び出した。
「紫!?」
まちがいなかった。
「紫、紫、紫!」何度も叫んだ。だというのに、彼女は耳をかそうとはしない。まるでわたしがいないかのように――。
そこで、失くしていた最後のピースが静かにはまった。
思い出したのだ。すべてを、いま。
その瞬間に幻想郷にひびが入り、黒い光がでてきたのであせった。でもその訳に気づいて安心した。そのひびは、わたしにしかみえていないから。
はがれるように崩れた幻想郷の向こうには、わたしが紫と話していた部屋が映っていた。
◆
「やっぱりあなた、直感がすごいわね。これだけのヒントで思い出せるなんて」
「十分すぎたわ」
ああ、まただ。これで何度目になるのだろう。
「じゃあテストね。
霊夢――博麗の巫女さん。あなたの、本当の名前は?」
ついにやってきた。もう何度目にもなる、あきあきするくらいの、このやりとり。
紫はどこか嬉しそう。期待に応えなくてはならない。
わたしの真の名前を、いまあなたに伝える。
「わたしの名前は――幻想郷」
「ええ、よくできました」
一気に情報量が流れこんできて、整理するのが大変だ。でも最初に来るのはやはりこの言葉。
「今回も思いだせなくて、ごめんねお母さん」
「いいのよ、それは博麗の巫女のさだめだもの。
もちろん、異変を解決することもね」
博麗の巫女は、異変にだれよりもはやく駆けつける。それは、わたし自身が幻想郷だから。
昔から、幻想郷には異変が絶えなかった。このままでは幻想郷が滅びてしまう。だから幻想郷は、博麗の巫女という、自分の力をわけあたえた存在を作り出した。
わたしが直感で異変の場所にたどりつけるのは、かんたんなこと。自分の体の痛いところが、わからないなんてことはないから。
「今回もあなたは立派に育ってくれたわ」
紫がもう一度、あのなで方で額をなでてくれる。ずっと昔から、彼女はこうしてくれていた。それがどうしようもなくて嬉しかった。母のぬくもりを確かめることができたから。
わたしを育て、守ってくれた母はいまこの瞬間、もっとも愛に満ちている。
人間だろうが妖怪だろうが等しく持つ、子に対する愛。
でも、それもそのはず。わたしはもうすぐ、消えなくてはならないんだから。
幻想郷が与えてくれる力は限られている。与えられた時間は三十年。それはわたしが持つ力を使い果たす時間と同じ。今日ほとんど直感が働かなかったのは、もうほとんど力が残っていなかったから。
「ねえお母さん、わたし……」
「わかっているわ。行かなくちゃならないんでしょう?」
どうして三十年という短い期間なのだろう。そう考えたことがある。
でも、最近は紫に対する配慮じゃないかと思うようになった。
わたしがすべての記憶を思い出すのは、三十歳の消える間際。その瞬間を少しでも長く、ということなんだろう。
「辛くないの?」
「もちろん辛いわ。どんなにがんばっても、あなたは私のことを覚えていないんだもの
それに、あなたはとても手のかかる子なのよ、初代のころから」
「そうなの」
「ええ、おしめを代えようとしたわたしに、おしっこをかけた時は見捨ててやろうかとおもった」
苦笑いする。そんなことがあったんだ。
「こんなこともあったわ。
あなたのためにわたしは冬眠を縮めた。で、久しぶりの再会のときあなた、こう言った。『お母さんじゃない!』ってね。
冬眠しているときは藍が育てていたから、わたしのことをすっかり忘れてたのよあなた」
うわ、それはひどい。母として深刻なくらい心に傷を負っただろう。
でも、おもしろい。お母さんだって、そんなに悲しそうな顔はしていない。「よよよ……」ともらした口元は笑っているし、ちいさく震えている。
おたがいに笑いがたえられなくなって、大きく笑った。これからくる理不尽で残酷な現実を吹っ飛ばそうと、ひたすら笑った。心の涙をふきとろうと、近所に迷惑なくらいにやかましく笑った。
笑いながらも、時間は流れる。
まず体が光りはじめた。もうすぐわたしはすべての力を使いはたし、ふたたび幻想郷とひとつになる。そしてまた、博麗の巫女として生まれかわるのだ。
もう、二人ともほとんど笑っていなかった。でも悪いことじゃない。
それよりも価値のある、微笑みを選んだんだから。
「面倒だと思うけど……幼い次のわたしをよろしくね」
「ええ、私以外に任せるなんて許さない」
そのことばはやさしい愛をたっぷりとつつんだ、しっとりと湿ったことばだった。
「ふふっ、ありがとう」
軽くだけど、最大級の感謝をつたえた。ちゃんと受け取ってよね。
背中にも、力をたっぷりこめた声をおくろう。お母さんが、次のわたしのためにもう一度走れるように、背中をおそう!
だから力強く、わたしは叫んだ。
「じゃあまたよろしく、お母さん!」
「ええ。またね、もうひとりの幻想郷、わたしのかわいい娘!」
体が光に包まれる。もうひとりのわたしが、わたしを迎えにきてくれたらしい。もう何度目にもなることだけど、かかさずやってくれる。わたしとちがって律儀だ。
その上気を利かせてくれる。光がやがて、何も見えなくしてくれる。
これでいいんだ。光の向こうにあるお母さんの顔を見たくないから。
あ、うれしい。お母さんがわたしの額をさっきみたいになでてくれている。わかれのしるしには、ちょうどいいかもしれない。
あれ、これはべつの贈り物かな。数えきれないの恵みの雨が、わたしの顔に落ちる。
まったく、贈り物ならもっといいものにしてよ。具体的にはお賽銭とか。
本当にしょうがない母ね。もう何度目になるのかしら。
……っと、いけないいけない。そんなことを考えていながら、わたしもだ。いったい何度目になるのよ。
何度目にもなっている、なっているのに、やっぱりこれだけは慣れることができない。
ああもう、今回も我慢できなかったか。
これはお母さんが悪いんだからね。
お母さんのせいで、わたしもついつい――。
◇
いまそこにあったすべすべのあたたかい額がすうっとなくなり、ぬくもりだけが手にのこる。
霊夢はついに、幻想郷とひとつになった。
彼女はきっとあがくけれど、次の霊夢はわたしを覚えていない。
三十年後のこの時だけ、あの子はわたしを思い出す。この時だけしか、思い出せない。
そう考えるとやはり悲しくなってしまう。
でもそれが博麗の巫女の宿命なのだ。
あー、ざんねん。今回も耐えられなかった。次こそは、絶対あの子に雨なんて降らせてあげないから。
そうしないと、あの子が安心してひとつになれないじゃないか。よし、次こそは、次こそは!
次からだから。次からは、眠る子を見守る母のようにやさしい笑顔をずっと向けていてあげるから。
だから、だからね。今だけ……許してね?
感情はまだおさまらず、目をおさえたままスキマを使って家に帰った。
藍と橙は気を利かせてくれたのか、わたしの部屋に入ろうとはしない。
二人に感謝しながら、自分の部屋ですべての悲しみを心から追いだした。
それから間もなく。そのときがきた。だれよりもはやく、わたしはそれに気づく。
今だ、と思いスキマを開くと小さな女の子が中からでてきた。
確かめるまでもない。あたらしい博麗の巫女だ。さっきの巫女とは違い、かがやく光をもった新しい命。
「覚悟しなさい。ちゃんと、わたしが育ててあげるからね」
でも冬だけは無理。藍に育てさせるけど、わたしのこと忘れちゃいやよ?
さて、この子にはなるべく早くに巫女としての力を身に付けさせよう。もちろん家事もできないといけない。いろいろやることがある。
でもその前に。
この子に名前を付けてあげよう。
いやいやその前に。
今日という一日を、もっとよく味わおう。口に入れてすぐに飲みこむなんてもったいない。
今日この日こそが、私と、博麗の巫女と、幻想郷。
三人があたらしい道を歩む日だ。
これほど辛くて、うれしい日は、きっと他にはない。いや、絶対ない。
赤ちゃんが生まれる日ほど、女にとって辛くてうれしい日はないでしょう?
だからわたしはこの日を、幻想郷がうまれた日、と呼んでいる。
自分で言うのもなんだけど、悪くない。ぴったりじゃない。
女の子を小さくゆすってあげると、うれしそうに笑う。女の子はまるで星をつかみとろうとするかのように、ゆっくり夜空へと手を伸ばす。
彼女の伸びた手の方をながめた。
そこには、ひときわ強く光る紅と白、そして紫色の星が、仲良く小さな三角形を作っていた。
氏の考えがちゃんと伝わってきましたし、文章も入りこみやすかったです。
こういう独自の設定を上手く表現するのは難しいであろう中、純粋に楽しめました。
たしかにこれには納得できますね
そしてその幻想郷から生まれる博麗の巫女は紫様の娘と…
あれ、じゃあ紫様は幻想郷の婿?www
ゆかれいむなカプもいいけど家族はもっといいなぁ
紫様を母さんと呼ぶ霊夢は大好きです
お母さんって呼ぶ霊夢と娘と呼ぶ紫様の想いとは如何程のものなのでしょうね……。
辛くて嬉しい日…ですか。
それほどまでに娘のことを想う紫様は素敵ですよね。
そして霊夢やそれ以前の彼女たちの想いも
母を想う心が溢れていたのでしょうね。
素敵なお話でした。
誤字なのか解りませんが一応報告
>普段は気をつわない押入れも含めて
これって「気を払っていない」でしょうか?
それとも「気をつかわない」ですか?
一応、報告でした。(礼)
娘に対する愛情が伝わってくる
親子の愛情に溢れた素晴らしい作品でした。
次の霊夢がより多くの賽銭に恵まれますように。
60年周期ではなく、30年周期である理由をお訪ねするのは蛇足でしょうか。
自分の未熟さ故に氏の意図が汲み取れていないだけかもしれないけれど。
さくっと読めて面白かったです
博麗の巫女は30年周期、そういや阿礼の娘も30年で転生でしたね。
霊夢が幻想郷に戻った頃に阿求も転生したんですかね?
紫が幻想郷の嫁と言うか母であるのは真理ですね、うん。
消えた霊夢を探す魔理沙の姿も想像できて非常に面白かったです。
面白かったです。でも30年周期の理由がまだ少しティンときておりません。
なるべく長く最後の一日を過ごすためには30年以上にした方が思い出すのに時間がかかるからより良いのでは…
とも思ったのですが蛇足ですね、はい。
もっと前半を深く掘り下げてほしかった。
30年毎にいなくなるって事が毎回あったら今回も、と予想されるだろうし、それなら最期の挨拶に来る人妖も多いのではと思った。
こういう紫お母さんと娘霊夢の話を見るとすぐに画面が見えなくなってしまう・・・
いいお母さんをもったな霊夢!
今までもこれからも紫は幻想郷のお嫁さんですね
素敵なお話をありがとうございます。
でも幻想郷嬢(ちょ、おま)はそこはかとなくゆかりんの嫁っぽい気がするのです。
これが百合の究極形の一つか……!(違)
紫母さんに甘えまくる霊夢。微笑ましい情景です。しかし霊夢は三十路…!
ちょっとだけ現実的な方向に想像力を働かせるとなにやら見たくない光景に…
いや、霊夢さんなら30になっても可愛らしい人だと思いますがw
この発想は斬新でした
自分は、それが理由だと思ってましたw
すごくいい作品でした!
お茶が似合う貴女たちをもっと見ていたかった。
壮大な話をありがとう。
そそわじゃあ拷問病には勝てんわw
別れの話なのに辛くないのはまた会えるのが分かるからなんだろう
紫様は幻想郷の母